今週の読書は、経済書のほかに話題の小説、エンタメのミステリと純文学を2冊と、加えて軽めの新書も3冊の計6冊を読みました。小説は2冊とも大学の生協で買い求めました。実は、大学生協の書店は広く知られているように、1割引きでの販売ですから、書籍流通の中ではやや軽く扱われていて、ベストセラー小説は時として入荷できない場合もあります。昨年の綾辻行人『Another 2001』はとうとう生協の書店には卸してくれず、私は図書館で借りた記憶があります。今回は生協ががんばってくれて入手することが出来ました。感謝です。たぶん、我が大学はそれなりに規模も大きくて、書籍流通業界からも一目置かれている可能性があると感じました。
それから、毎週アップデートしていますところ、今年に入ってからの読書は、このブログで取り上げた新刊書だけで、1~3月期に56冊、4~5月で36冊、6月に入ってから今日取り上げる6冊を含めて20冊、すなわち、4~6月期で56冊、これらを合計して112冊になりました。Facebookなどでシェアしている旧刊書を除いた新刊書だけで、半期で100冊、年200冊ペースの読書と予想、目標ではなく、あくまで予想していましたが、そのラインをやや上回るペース、新刊書読書だけで年220~230冊近いペースで読み進んでいる気がします。強くします。
まず、瓜生原葉子『行動科学でよりよい社会を作る』(文眞堂) です。著者は、同志社大学商学部の研究者であり、専門はソーシャルマーケティング、組織行動論、行動変容マネジメントだそうです。ということで、医療や制約の方から、おそらく、多額の研究費の寄付を得て、かなり大規模な調査を行っています。基本は、脳死後の臓器移植への国民の理解を深める、という国民世論操作型の研究のような気がします。もちろん、現在の新型コロナウィルス感染症(COVID-19)にも引っかけて、「新しい生活様式への行動変容」も販売の際の謳い文句になっていたりします。3部構成に成っていて、第Ⅰ部が、ソーシャルマーケティングの基礎理論的なパートを受け持っていて、高校の社会科を思い出させるような、いかにも暗記モノの学問という印象を与えかねない気がします。場合によってはすっ飛ばすのも一案かと思います。第Ⅱ部が実際の行動変容を促す実例です。臓器提供のための意思表示、から始まって、実際の行動変容までが取り上げられています。そして、最後の第Ⅲ部で行動変容のマネジメントと結論が提示されています。繰り返しになりますが、本書では然るべき方面からの研究費補助を受けて、その方面の理解を進めるための行動変容についての科学的、そうです、科学的な分析の学術書です。ですから、本書では臓器移植がテーマなのですが、数年前の米国大統領選挙ではケンブリッジ・アナリティカが投票行動を「変容」させるお仕事を請け負っていた可能性が指摘されていますし、ほかにも、社会的に疑問を生じかねない目的のために「行動変容」をもたらすべく努力している研究者がいるかも知れません。場合によっては、資金力さえあれば、それに見合った社会的な「行動変容」の利益を享受できる可能性すらあります。ですから、こういった「科学的」な研究の場合、何らかの倫理綱領かチェックのようなシステム的な配慮、そうです、科学者個人の倫理観ではなく、それをシステム的に担保できる制度が必要ではないか、というのが私の懸念です。例えば、生殖医療の倫理的なチェックすることは今では当然と考えられていますし、移植についてもそうです。ただ、おそらく、本書のような社会科学の分野では研究者に任されているような気もします。政府の政策決定については、選挙で民主的に構成された議会や大統領のバックアップをもってその点は担保されていますが、大学などの研究機関での「行動変容」の実行、あるいは、実効の前田イン会も含めたチェックは必要かもしれません。もちろん、現時点ではそれほど影響が大きくないと考えられますし、私の懸念は非常に極端なmad scientistの可能性を考慮に入れているわけですが、少なくとも、本書で取り上げられているような「科学的な行動変容」を何のチェックのマシに進めるのがいいのかどうかは、ある程度は判断できる読者が読むべき本だという気はします。つよくします。
次に、東野圭吾『白鳥とコウモリ』(幻冬舎) です。著者は、ご存じ、我が国でも有数の売れっ子のミステリ作家です。ミステリ小説ですのでネタバレはなしで感想文を書くのは難しいのですが、とてもいい出来のミステリです。それだけは明らかです。ひょっとしたら、作者の最高傑作のひとつに入れるファンがいるかも知れません。ということで、東京の殺人事件が1984年の愛知県岡崎市の殺人事件とリンクします。ほぼほぼすべての人が、それぞれ人の観点からして誠実で真面目に生活をしています。例外はただ1人で、1984年の愛知県岡崎市の殺人事件の被害者です。いかにも実在の豊田商事を思い起こさせるような金のペーパー商法の詐欺をしていた人物が最初に殺されますが、まあ、何と申しましょうかで、「殺されても仕方ないくらいの悪い奴」という印象を与えかねないような記述になっています。そして、殺人事件以外に、最初の岡崎の殺人事件で被疑者となって自殺した人物もいて、3人の死者がいます。ただし、2つの殺人事件のうち、1984年の岡崎の事件については、すでに時効が成立しています。そして、時効が成立していない東京の殺人事件について犯人が自供し、加えて、岡崎の殺人事件についても自分が犯人であるとの自供を行います。それで前半が終わるのですが、後半で、この自供がまったくのデタラメ、というか、意図的に構成された虚偽のものであることが、徐々に明らかにされ、昔の岡崎の事件の真犯人が明らかにされるとともに、東京の事件の犯人が逮捕されます。被害者、あるいは、この場合は殺人事件ですから遺族、それに対応する加害者、あるいは、加害者の家族、それが、当初の虚偽の自白に基づく犯罪の構成から、真実が明らかにされた後には大きく逆転します。ですから、タイトルの「白鳥とコウモリ」とは、被害者、あるいは遺族としての「白鳥」と加害者、あるいは、加害者の家族としての「コウモリ」が対比されています。そして、地道に真実を明らかにするのは、当初自白した加害者と考えられていた人物の倅、それに、東京の殺人事件の被害者の娘、この両者が協力して事実を掘り起こして、真実に迫ります。そして、これまた、とても有能で誠実な警視庁の刑事がそれを裏付け捜査します。ジェフリー・ディヴァーも真っ青な強烈などんでん返しです。しかも、それが最後の場面で起こるのではなく、タマネギの皮を剥く用にジワジワと真実がひとつひとつ明らかにされてゆきます。2つの殺人事件の加害者に対しても、作者の温かい目が注がれています。500ページあまりの長編ですが、少なくとも、東野圭吾の小説のファンであるか、ミステリ小説好きであれば、もちろん、私のようにその両方であれば、ぜひとも読んでおくべきです。私は強くオススメします。
次に、平野啓一郎『本心』(文藝春秋) です。著者は、我が母校京都大学の在籍中に芥川賞を受賞した純文学作家です。東京新聞などの地方紙に連載されていたものを単行本として出版しており、舞台は2040年という近未来の東京であり、そこでは自然死に対して「自由死」と呼ばれる安楽死ないし尊厳死が認められています。しかも、どうしてこんな制度が認められたかというと、社会保障費の縮減のためであり、経済的な格差が今以上に拡大しているという悲しい事情があります。主人公はアラサーの未婚男性であり、シングルマザーの母親と同居していましたが、その母親が自由死を目指す中で事故死してしまいます。そして、VF(バーチャル・フィギュア)と呼ばれるバーチャル空間での母親を復活させます。主人公は高校を中退して今ではリアル・アバターと呼ばれ、代理人として依頼を受けたことを実行する職業、私の知る範囲で、いかにもウーバーやウーバー・イーツになぞらえた低スキルかつ低収入の職業についています。しかし、ひょんなことからフィリピン人のコンビニ店員をかばう動画がネットで拡散し、アバター作成者である20歳前のセレブ少年に雇われますが、最後は学び直しの道を進む、というものです。ネタバレありかもしれませんが、ミステリと違ってプロットよりも表現力や言葉遣いや文体が重要な純文学ですから、ご勘弁願います。私自身は、最近のこの作者の作品でいえば『マチネの終わりに』がおそらく最高傑作といえると考えていますし、その考えは本書を読んだ後の現時点でも変化はなく、これはセレブの世界の恋愛を描き出しています。それから、『ある男』は一般ピープルを主人公に据えています。そして、この作品は格差の中では下の方、この作品では「こっちの世界」と表現されていて、アバター作者のセレブ少年は「あっちの世界」、すなわち、格差の上層にいると表現されています。「こっちの世界」の売春、ドローンを使ったテロが主として描き出されていますが、アバター作者や主人公が生前交流のあった小説家など「あっちの世界」の住人の視点も十分盛り込まれています。そして、何よりも、純文学らしく表現力、言葉遣い、文体、そして、ひらがなやカタカナと漢字の使い分けまで十分に吟味された後が伺われます。それらを読みこなすため、というか、何というか、東野圭吾『白鳥とコウモリ』のほうが本書よりもページ数が少し多いものの、私は本書を読む方に時間をかけた気がします。繰り返しになりますが、私は本書を読んだ今でも『マチネの終わりに』がこの作者の最高傑作だと思っていますが、本作こそ最高傑作と考える読者やファンがいても不思議とは思いません。本作品も大変な傑作と受け止めています。
次に、橘木俊詔『渋沢栄一』(平凡社新書) です。著者は、京都大学でのキャリアの長かったエコノミストです。一線を退いていろいろと著書をお出しになっているようです。本書では、2024年から1万円札にその肖像画が印刷される渋沢栄一の生涯を取り上げています。NHK大河ドラマの主人公でもあります。大蔵省での経験から「官の強権」を実感した下りとか、経済活動における倫理的な要素、特に、投機的な経済活動に関する評価などは、特に目新しさこそありませんが、『論語と算盤』を口述筆記させた渋沢栄一のことですから、直接は知らなくても理解は難しくないと思います。劣悪な労働受験の改善を目指す社会政策的な高情報に対する渋沢栄一の見方や態度、あるいは、教育、特に女子教育に対する考え方などは、もちろん、その当時の時代背景に強く制約される点はあるものの、渋沢栄一の人格をよく表している気もします。加えて、これまた、時代背景も考慮する必要あるものの、朝鮮半島の植民地支配に関する見方も、納得できるものがあります。なぜか、渋沢栄一ご本人の私生活における女性関係が乱れていた点については、まったく言及せずに、経済関係の活動に関する渋沢栄一の貢献や考え方に絞って取り上げていて、まさに人間が出てこない経済書の通例を踏襲している雰囲気がありますが、大河ドラマでは当然に人間としての渋沢栄一が主人公となっていますので、やや印象が異なります。繰り返しになりますが、日本版の「金ぴか時代」を代表する経営者の実像に迫ろうとしていますので、時代背景も含めて、それなりに多角的な理解を進める方がいいような気もします。
次に、虎尾達哉『古代日本の官僚』(中公新書) です。著者は、鹿児島大学の研究者で、専門は日本古代史です。本書の副題は「天皇に仕えた怠惰な面々」となっているように、古典古代の律令制国家=天皇制生国家であった日本において、調停で勤務する官僚は貴族も平民も決して勤勉ではなく、怠業や無断欠勤などが横行していたことを史料を駆使して明らかにしようと試みています。もちろん、副題にあるような怠惰な面はお仕事だけであって、受領などの地方官は、むしろ、せっせと不正蓄財に余念がなかったことも同時に明らかにしています。私も長らく定年まで官吏として政府に勤務していましたが、さすがに、笑ってしまうほど明瞭な怠業や欠席を繰り返す古典古代の官僚のようなわけはありませんでした。しかも、こういった官僚の怠業や欠勤に当たって、取り締まる側の政府あるいは天皇も決して強い態度で臨んでいるわけではなく、そういった官僚の怠慢や不正を容認するような部分も見受けられます。特に、官僚の人事をあずかる式部省の横暴ぶりは印象的でした。中国の律令制を真似て、専制君主による支配を志向したのですが、中国との違いを比較するような部分が本書にもあり、愕然としたりしました。どうしてそうなのかについては、本書では特段の分析がなかったように思いますが、5位以上の貴族も、6位以下の平民官僚も、およそ同じようにサボっているようですので、決して独自収入のある貴族だけに見られる怠業のようではないと考えられます。それでも政府が回っていたというのが大きは理由のひとつなのかもしれません。私の知る範囲でも、先進国に比べて途上国背は政府が効率的ではない、というのは常識ですし、要するに、日本が現在の途上国の段階にも達しないような古典古代の時代では、官僚はこうだった、ということなのかもしれません。本書では、表現もコミカルな部分もあって、とても読みやすく仕上がっています。私は通勤電車の中で読んで声を出して笑ってしまったこともありました。
最後に、宮沢孝幸『京都大学おどろきのウイルス学講義』(PHP新書) です。著者は、京都大学の研究者で、ウイルス学が専門なんだろうと思います。基本的に、タイトル通りに、京都大学での講義の内容を中心に取りまとめてありますが、もちろん、かなりの程度に一般性を持っているんだろうと私は受け止めています。当然ながら、新型コロナウィルス感染症(COVID-19)パンデミックを受けての出版であって、ウイルス学全般、あるいは、ウイルス研究全般についても卓見が含まれています。というのは、まず、第1章冒頭で、新たなウイルス対応のための研究は「選択と集中をしてはいけない」と明言しています。おそらく、一部の限定的な応用研究を別にすれば、ウイルス学だけでなく数多くの基礎研究については同じことがいえるのだろうと私は考えています。そもそも、生物学的な「自然選択」、その昔の「自然淘汰」についても、生存のために有利な方向で進化したわけでは決してなく、いろんな方向にランダムに変異したうちの生存に有利な種が生き残ったわけですから、基礎的な研究についてもランダムに多様な研究を進めるべきであり、少なくとも、次に驚異となりそうなウイルスを特定した研究は、大きな意味があるとは考えられません。ほかに、ウイルスについては私はまったくの専門外なので、それ相応に読み飛ばしてしまったのですが、第3章ではそもそもウイルスとは何か、について、「遺伝情報を包んだ粒子」との定義を示し、遺伝情報としてその設計図や手順書を持っているものの、それを作り出す工場=リボゾームを持たず、ホスト=宿主の細胞内でのみ増殖する、といわれれば、判ったような気にもなります。レトロウイルスによって宿主の遺伝情報が書き換えられ、一定の方向への進化のようなものが生じ、そのひとつの現われが哺乳類の胎盤、など、生物の進化に貢献してきたウイルスの存在についても議論を展開していて、とても興味深く読むことが出来ました。COVID-19の話題をかなり少なく抑えているのも、むしろ、好感が持ています。
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