今週の読書は経済書と歴史書など計5冊!!!
今週の読書は、左派リベラルの反独占の観点からの経済書や、やはり、左派のタックス・ヘイヴンの経済実態を広範に情報収集した結果を取りまとめた経済書、さらに、グローバル・ヒストリーに関する歴史書とともに、私の好きなミステリ作家のドキュメンタリーを基にした小説など、以下の通りの計5冊の読書でした。なお、来週は小説を読みたいと考えています。というのは、大学の生協にお願いして、平野啓一郎『本心』と東野圭吾『白鳥とコウモリ』を購入しました。こういったベストセラー本は1割引の生協には卸してくれない場合もあり、昨年の綾辻行人『Another 2001』は結局生協には入らずに涙をのんだのですが、今回はがんばってくれたようです。どちらもかなり分厚い本ではありますが、せっせと読みたいと思います。
それから、毎週アップデートしていますところ、今年に入ってからの読書は、このブログで取り上げた新刊書だけで、1~3月期に56冊、4~5月で36冊、6月に入ってから今日取り上げる5冊をはじめとして14冊、これを合計して106冊になります。今年上半期で100冊に達するんではないかと想像していたのですが、とっくに先週の段階で100冊に達しています。ですから、Facebookなどでシェアしている旧刊書を除いた新刊書だけで年200冊ペースと予想、目標ではなく、あくまで予想していますが、そのラインをやや上回るペースで読み進んでいる気がします。強くします。
まず、ティム・ウー『巨大企業の呪い』(朝日新聞出版) です。著者は、民主党系のエコノミストと思われ、オバマ政権末期に国家経済会議(NEC)のメンバーとして競争政策を担当していましたが、短期間で政権交代があり、その後、現在のバイデン政権でテクノロジー・競争政策担当の特別補佐官に起用されています。英語の原題は The Curse of Bigness であり、2018年の出版です。なお、英語の原題は、米国の最高裁判事を務め独占資本と戦ったブランダイス判事の1934年の著書と同じです。ブランダイス判事については第3章で詳しく取り上げられています。ということで、戦前のファシズムの台頭から説き起こし、ドイツや日本で独占資本が形成され、とくに、1930年代のドイツの古典的なオルド自由主義が、共産主義革命や労働運動の激化とともに、社会的に「まだまし」という評価でナチスの政権奪取を許す結果になった反省を振り返り、戦後はIBMの分割訴訟、さらに、AT&Tの地域分割などの裁判を取り上げ、こういったテクノロジー企業の独占的支配を緩めることにより技術革新が進んだと指摘します。ただし、他方で、マイクロソフトに対する訴訟は共和党のブッシュ政権下で取り下げられ、現在もGAFAMなどのテクノロジー企業の独占的な経済支配下で、かなり歪んだ経済社会が形成されつつある現状を半独占の観点から批判しています。日本の失われた30年は独占資本による消費者利益の無視から生じた面があるとも指摘しています。私は基本的に日本経済の停滞は需要サイドから生じており、著者の指摘するような供給サイドの要因は、それほど大きな要因ではないと考えていますが、ひとまず同意できる点はたくさんあります。特に、我が国では、中国も同じですが、グローバル化の進展とともに歪んだ国際競争力の観点から、企業のサイズを追求する政策や経営が取られて来たことは事実です。典型的には、メガバンクをはじめとする銀行業界での合併であり、流通業界の合併と大規模化、製造業ですら製鉄、化学、エネルギーなどで大規模な企業合併が進んでおり、その逆の企業分割は皆無といえます。そして、その企業合併促進のグローバル化への対応とともに、本書でも指摘してるシカゴ学派的、というか、ネオリベな市場価格だけをクライテリアとした見方があります。すなわち、独占が進んでも、その結果として価格が引き上げられなければ消費者への不利益は生じておらず、企業合併を不許可とする理由にはならない、というものです。私の従来からの主張の通り、右派的な経済学では市場価格を絶対的な指針とし、価格のみで判断を下す傾向がある点は社会全体の利益やコストを無視している可能性があることから好ましくなく、一例としては、宇沢教授のようなシャドー・プライスも含めた外部経済や規模の経済も含めて、社会的なコストやベネフィットを市場価格よりも重視すべき、と繰り返し私は主張しています。基本的に、こういった左派リベラルの経済学に沿った考えが、特に独占資本に対する経済学的な考えが、本書では展開されています。もちろん、極めて詳細な先進各国の実例を引いており、理論倒れの実践的観点の無視といった点はまったくなく、制作決定の実践的な指針としても有効な主張が展開されています。日本では、1960年代の「大きいことはいいことだ」以来のサイズに対する信仰が根強く、現在も展開中の大学生諸君の「寄らば大樹の陰」といった思考も含めて、経済活性化を妨げている可能性も否定できません。その意味から、独占資本の形成に対して極めて批判的な視点を提供する本書は、米国のみならず日本や欧州や先進各国、あるいは、社会主義を標榜する中国でも参考とすべき点を多く含んでいそうな気がします。200ページ足らずの小振りな小論ながら、大いにオススメです。
次に、中村雅秀『タックス・ヘイヴンの経済学』(京都大学学術出版会) です。著者は、経済学の研究者ですが、すでに一線を退いて名誉教授となっているようです。G20や経済開発協力機構(OECD)などでも法人税の税逃れの防止のために、最低税率の設定などの議論が進んでいますが、その流れの中で、極めて詳細かつ網羅的にタックス・ヘイヴンについて取りまとめています。出版社からしても学術書であることは当然ですが、小難しい理論を展開しているわけではなく、実務的に様々な法人税逃れ、さらに超富裕層の所得税逃れの手法を系統立てて取りまとめています。ですから、基本は学術書なのですが、部分的には実務的な政策当局と企業のイタチごっこをスリル満点に追いかけているような記述も散見されて、経済小説を読んでいるような錯覚に陥ったりもします。逆にいって、どうしてグローバル企業や超富裕層は税金を払うことを回避するのか、あるいは、回避しようとするのか、といった視点は希薄です。もちろん、単純にいえば、コスト-ベネフィットであって、税金を回避するコストが節税額を下回るために租税回避が生じるわけですから、税当局は節税額が回避コストを上回らないように税率を下げる、といった、バカげた悪循環も生じかねないわけです。特に、カリブ海の小さな島国がタックス・ヘイヴンとして注目されがちですが、欧州のEU加盟国の中にもオランダやアイルランドといったタックス・ヘイヴンがありますし、米国の中の州でもデラウェア州などのタックス・ヘイヴンがあります。スキームとしては、第4章でアップルのいわゆるダブル・オランダ・アイリッシュ・サンドイッチが詳細な分析の対象とされています。まあ、何といいましょうかで、こういった合法的な節税スキームを考え出して、それ相応ながら節税額に届かない報酬を受け取ることをビジネスにしている弁護士や会計士がいっぱいいるんだと思います。ただし、私が経済学的なゲーム論で理解しているところ、節税スキームを指揮する弁護士や会計士は、節税可能額ギリギリまで報酬を釣り上げることが可能なハズであり、そうなると、節税スキームを利用する企業にはそれほど大きなネットのベネフィットは残らないハズなんですが、必ずしもそうなっていないようにも見受けられます。そのあたりの経済学的、あるいは、ゲーム論的な分析も今後の課題かもしれません。もちろん、課税当局の今後の課題としては、最近広く報じられたところで、先進国間で法人税課税の最低税率を共通に定めることも含まれます。OECDで議論されているBEPS(Base Erosion and Profit Shifting)については、このブログでも昨年2020年10月15日付けで取り上げましたし、もちろん、本書でも期待を込めて議論されています。ただし、米国のGILTI=Global Intangible Low-Taxed Income 合算課税については、私が読み落としたのでなければ、本書には抜けているような気がします。逆に、本書では法人企業課税についてだけ論じているわけではなく、通常は取り上げられない超富裕層の個人(HNWI=High Net Worth Individual)も含めて包括的な議論を展開しています。制度的には私は詳しくありませんが、タックス・ヘイヴンについて批判的に概観した専門的学術書として本書は価値が高い気がします。
次に、セバスティアン・コンラート『グローバル・ヒストリー』(岩波書店) です。著者は、ドイツ人でありベルリン自由大学の研究者です。もちろん、専門はグローバル・ヒストリーなんですが、日本近現代史も視野に収めているようです。英語の原題は What Is Global History? であり、2016年の出版です。ということで、本書はグローバル・ヒストリーに関して、その特徴や方法論などを展開している学術書であり、どのように歴史を語るべきかを論じており、グローバル・ヒストリーに基づいて歴史を語っているわけではありません。ですから、そもそものグローバル・ヒストリーの始まりから解き明かしています。すなわち、グローバル化が進んだことが大きなグローバル・ヒストリー研究の必要性を高めた要因であり、特に、研究が始まった契機のひとつとして冷戦の終了を上げています。そして、グローバル化の進展とともにITC機器の広範な普及に伴う通信革命などにより、従来の欧州中心史観の限界が露呈されたことに注目しています。その上で、グローバル・ヒストリーは世界中で起きるイベントをリンケージを持って理解するとともに、交換と接続に焦点を当てつつ、個別の事例を世界的な文脈の中でその世界的な統合にも留意しつつ理解しようという方向性を持っている、と結論しています。この冒頭のテーゼに基づいて、さまざまな実例が分析対象として取り上げられていたりします。具体的には、まず第3章から第4章で、グローバル・ヒストリーに競合する歴史に対するアプローチとして、比較史、トランスナショナル・ヒストリー、ウォーラステイン教授などの世界システム論、サバルタン・スタディーを含むポストコロニアル・スタディーズ、「複数の近代」論、などを取り上げ、その特徴やグローバル・ヒストリーとの対比をアプローチの観点から明らかにしようと試みています。その上で第6章から第8章で、グローバル・ヒストリーにおける空間、時間、そしてヨーロッパ中心主義を克服するポジショナリティについて、考察を加え、最後の第9章と第10章では、グローバル・ヒストリーの将来の方向性について議論しています。難解な学術書です。私は大学時代は歴史を専攻しようかと考えないでもなく、文学部を志したこともありましたが、諸般の事情で経済学部に進んで経済史を勉強していたりしました。歴史研究はランケの『世界史概観』を高校生の時に岩波文庫で読んだのが直接のきっかけですが、その後は長く歴史学から離れていましたので、なかなかに理解がはかどりませんでした。いずれにせよ、経済学でも歴史学でも、因果関係について考える場合が多く、本書では第5章で取り上げられています。実は、私は特にビッグデータに関しては因果関係よりも相関関係の方が重要と考えています。例えば、「紙おむつとビールの6パックはいっしょに買われる」というのはもう20年来有名なお話ですが、オムツとビールの間にそれなりの相関関係はあっても因果関係を認めるエコノミストやヒストリアンは決して多くないと私は想像しています。また、我が国における貧困のあり方として、喫煙・肥満・貧困の3要素がありますが、これらは分かちがたく結びついているように見え、何が何の原因であり、結果であるというのは解明する必要性に乏しいと私は考えています。ですから、私の研究では、もちろん、経済学の研究ですが、観測不能な何かの状態変数を設定した上で、状態空間モデルを用いて数量分析することが少なくありません。ですから、というか、何というか、これから先も、グローバル・ヒストリーの研究の進展・進化に当たって、因果関係に偏重しない方向性を模索して欲しいと私は考えています。
次に、柳広司『アンブレイカブル』(角川書店) です。著者は、現代モノならざる歴史的な舞台に展開される作品が有名なミステリ作家であり、私も戦前・戦中のスパイ小説である『ジョーカー・ゲーム』のシリーズは愛読しています。本書も、1925年に「普通選挙法」とともに施行された古今東西稀代の悪法である「治安維持法」、さらにその「治安維持法」の執行を担った特高警察の餌食となった4人の文化人に光を当てて、4篇の短編から成っています。その4人を取り上げた4篇とは、少し前に『蟹工船』が新語・流行語にも入った小説家の小林多喜二の「雲雀」、型破りな反戦川柳作家の鶴彬の「叛徒」、横浜事件の犠牲者となった中央公論社の編集者である和田喜太郎の「虐殺」、そして、我が母校の京都大学を追われた天才哲学者の三木清の「矜恃」、となります。そして、こっら4篇に共通して、内務省のクロサキが登場します。小林多喜二が『蟹工船』のための取材に行く函館の水産関係者への工作、また、最後の三木清に対しては直接尋問したりもします。もちろん、小説なんですからフィクションであり、決して、事実そのものではないと考えるべきですが、江戸時代の出版や演劇と同じで事実を基に脚色しているわけで、現在の自由と民主主義の社会を生きている我々も、こういった暗黒の日本社会がかつて存在したことは忘れるべきではありません。また、日本だけではなく世界に目を向ければ、現在のミャンマーでは訓練され火器で武装した軍隊が市民に対して暴力で応じていると広く報じられていますし、あるいは、私が大使館の書記官として3年間働いたチリも1973年のアジェンデ大統領に対するクー・デタ後は市民の虐殺が行われていた確実な証拠があります。こういった自由と民主主義に真っ向から敵対する暴力は決して他人ごとと考えるべきではありません。その意味からも、こういったセミ・ドキュメンタリーな小説を読んだり、あるいは、映画を見たりして、私は自由と民主主義の大切さ、そして、自由と民主主義が失われる恐怖を強く確認したいと思います。ついでながら、ドキュメンタリー映画「チリの闘い」 La Batalla de Chile のDVDを大学の同僚教員とともに購入しました。でも、手元に回ってきたものの、まだ見ていなかったりしますので、やや努力が不足しているところ、がんばりたいと思います。
最後に、玉木俊明『16世紀「世界史」のはじまり』(文春新書) です。著者は、京都産業大学の経済史の研究者ですが、私のように大学の経済学部で経済史を専攻していたのとは違って、文学部の史学科の出身です。まあ、学際的な分野ですので大きな違いはないのかもしれません。ということで、先ほどのコンラート教授の『グローバル・ヒストリー』では、その研究の開始をかなり厳格、というか、正確を期して戦後のグローバリゼーションが進展した最近数十年くらいと見なしていて、特に冷戦終了後に研究が活発になった、と考えているようですが、本書では著者の玉木教授は16世紀の大航海時代と考えています。ただ、本書の視点はあくまで「世界史」のはじまりであって、グローバル・ヒストリー研究とはビミョーに異なっている点は注意すべきかもしれません。第4章までは、大航海、宗教改革とカトリックの反転攻勢、などを扱っているのに対して、第5章からは王朝史になり、かなり大きく方向転換します。最終章は日本を扱っています。すべて、16世紀の枠内と考えて間違いありません。というのも、著者は、16世紀をもって欧州優位の始まり、そして、それが大航海を通じてグローバルに拡大し、世界史が成立した、というか、近代が始まった、と考えているからです。私の史観と決定的に異なっているのは、私は生産を重視して産業革命をもって欧州優位の基礎と考えるのに対して、本書の著者は販路拡大をもって欧州優位の基礎と考え、販路があればこそ生産拡大の源たる産業革命を準備した、と考えている点だろうと思います。もっといえば、私は需要があったればこそ生産面での産業革命があったと考えるのが合理的であり、ここまではおそらく私と著者の考えはそう大きく違っていません。その需要が販路の先の海外から来るか、欧州域内か、という違いです。典型的には、アジアでは胡椒などのスパイスに見られるように、あるいは、南米の金銀のように、大航海は海外の産品を求めての調達路の拡大であり、販路拡大ではなかった点は、本書の著者には見落とされているような気がします。ですから、私の場合は、「近代」という意味方からすれば、16世紀に世界史が始まった点は合意するのですが、欧州優位の成立はもう少し後の産業革命を待つ必要があると考えています。後半の王朝氏は、16世紀の歴史という枠内で書かれているのですが、さすがに、高校で習うような世界史であり、とても判り易く解説されています。ただ、最後に注意すべきは、繰り返しになりますが、グローバル・ヒストリーが明確に否定した欧州中心史観に立っていますので、本書は決してグローバル・ヒストリーではありません。
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