今週の読書は興味深い経済書をはじめとして『枝野ビジョン』まで計5冊!!!
今週の読書は、格差問題を専門とするエコノミストが資本主義について論じた学術書や慶應義塾大学の研究者のエネルギーに関する学術書をはじめとして、立憲民主党の枝の代表の著書まで、幅広く経済に関する読書にいそしみました。以下の通りの計5冊です。
毎週お示ししております読書量なのですが、このブログで取り上げた新刊書だけで、1~3月期に56冊、4~6月も同じく56冊、今日取り上げたものを含めて7~8月で31冊、これらを合計して143冊になりました。すでに8月の夏休みに入っており、先週の段階ではのんびりと軽い読書を考えないでもなかったのですが、実は、大学の同僚教員などから、何と、まったくの専門外ながらマルクス主義経済学の経済書を2冊ほどちょうだいしています。専門外なので軽く読み飛ばすか、あるいは、じっくりと取り組むか、いかなる結果になるかは予測不能ながら、少し京都大学のころにやらなかったわけでもないマルクス主義経済学について勉強を試みようかと考えています。でも、ムリかもしれません。
まず、ブランコ・ミラノヴィッチ『資本主義だけ残った』(みすず書房) です。著者は、世銀のエコノミストを経て不平等の研究で有名なルクセンブルク所得研究センター(LIS)の研究者をしています。私は世銀エコノミストのころの『不平等について』や『不平等』を読んでいて、このブログの読書感想文にもポストしています。後者の『大不平等』でエレファント・カーブが表紙にあしらわれていたと記憶しています。英語の原題は Capitalism, Alone であり、2019年の出版です。ということで、本書は不平等や格差の問題も念頭に置きつつ、歴史的な発展段階説を考察しています。冷戦が集結して、ソ連東欧的な共産主義が消え去った後ながら、アジア的、というか、中国やベトナムのような市場経済を導入しながらも、社会主義や共産主義と自称する経済システムは残っていることを背景に、マルクス主義的な歴史発展説に修正を加えて、資本主義から社会主義、そして、共産主義に至る歴史発展、すなわち、西洋的な発展過程において共産主義が最終的な経済システムとなる考えではなく、むしろ、資本主義が最終的な経済システムであり、中国やベトナムのような社会主義・共産主義においては、その発展段階において市場の欠落というマイナスよりもインフラ整備などのプラス面の方が大きく、一定の経済発展を経た上で市場を導入して資本主義に至る、という経路が想定されて然るべき、という議論を展開しています。すなわち、本書で「第3世界」と呼ばれている発展途上段階にある諸国では、マルクス主義的な見方でいうところのブルジョワジーが果たすべき資本蓄積やインフラ整備を社会主義政府が代替する、という歴史観です。なかなか示唆に富んでいる気がします。ただ、本書の議論の中心的な論点は、米国を代表とするリベラル能力資本主義と中国を代表とする政治的資本主義を対置して、後者が所得の増加とともに前者に収斂する、という歴史観です。所得水準の収斂についてはバロー教授の研究成果などから、一定のコンセンサスがあると私は考えています。他方で、本書の著者はトマス・フリードマンの『レクサスとオリーブの木』に示されたようなマクドナルドの世界展開による戦争の抑止力、すなわち、グローバル化による相互依存関係の深化が平和を必要とする、あるいは、平和を促すという効果は明確に否定しています。逆から見れば、資本主義が帝国主義に転化し、先進国が途上国を植民地にするという形でグローバル化が進む中で、第1次世界大戦が生じたことから、こういった資本主義や帝国主義が戦争をもたらすというマルクス主義的な見方を、少なくとも否定するわけではない、ことが示唆されていると私は受け止めていますし、付録Aにも明記されています。ただ、マルクス主義は北欧に代表されるような社会民主主義的な資本主義の可能性を軽視、ないし、無視しているという指摘も、そうかもしれないと思います。しかし、私の共産主義に対する考えは、後の方の大澤真幸の『新世紀のコミュニズムへ』で明らかにするつもりです。ともかく、情けないながら、よく判らない部分がいっぱいです。私の勤務する大学では、我が母校の京都大学をはじめとする旧制の帝国大学の経済学部のようにマルクス主義経済学が無視し得ないウェイトを占めていて、いくつかそういった経済学の本をもらったりしているので、少し夏休みに勉強しておこうかと思わないでもありません。
次に、野村浩二『日本の経済成長とエネルギー』(慶應義塾大学出版会) です。著者は、慶應義塾大学のエコノミストです。昨年菅内閣が打ち出した「2050年カーボンニュートラル」も見据えながら、本書はエネルギー政策や環境政策に関するほぼ教科書的な分析を提供しています。ただし、出版元から考えても、かなり純粋な学術書といえます。まず、いくつかの期間に渡る我が国のエネルギー生産性向上(EPI)を見ても理解できるように、需要に基づく生産の拡大ほどにはエネルギー消費は増加しているわけではありません。すなわち、本書でいうところのエネルギに対する労働の浅化と資本ストックの深化により、最終生産物や付加価値に対してエネルギー消費が大きくならない、というか、エネルギー効率生が高まっているといえます。産業構造の変化とともに、本書で指摘するように、エネルギーを別の財に姿を変えて輸入するという場合もあります。例えば、本書では触れられていませんが、日本ではアルミ生産がかなり前に放棄されているのは、ボーキサイトからアルミを精錬するコストは電力コストが極めて大きな部分を占め、その競争力がなくなったからです。ですから、私がジャカルタにいたころに、インドネシア国内のアルミ精錬工場の見学に行きましたが、ダムを建設して水力発電で電力を確保した上での工場建設でした。このアルミを輸入するということは、電力エネルギーを輸入する部分も決して無視できないわけです。エコノミストとして、ついつい、何らかの比率を固定的に考える場合があり、典型的には貨幣数量説を念頭に、リフレ派の金融政策を取っている現在の黒田総裁下の日銀が、サッパリ、インフレ目標を達成できなかったりするわけですが、特に、専門外の私なんぞが考えるエネルギーについてはその傾向が強いと私は考えています。産業構造の変化を別にするとしても、生産が拡大するにつれてエネルギー消費が増加し、それが化石燃料が大元にあるエネルギーであれば二酸化炭素排出も増加する、と考えるわけです。ですから、齋藤幸平『人新世の「資本論」』のように、脱成長を目指すことでしか地球環境問題への対応はできない、と考えてしまうのですが、それはエネルギー消費の生産性やその基本となる技術の問題を無視ないし軽視しているように見えます。私は逆U字型の環境クズネッツ曲線を推計した結果を前の長崎大学の紀要論文に取りまとめたことがありますが、この環境クズネッツ曲線はほぼほぼまやかしに近くて、産業構造の変化とか、形を変えたエネルギーの輸入によると考えるべきですが、ホントの技術革新による省エネルギーや二酸化炭素排出の減少も今後はできる可能性が十分あります。ただし、何度かこのブログで示したことがあるように、現在の資本主義的な市場ではエネルギーの価格付けが正しく行われていないのではないか、と私は危惧しています。ですから、本書で指摘するように、日本の戦後の歴史の中で政府規制ではなく市場価格によりエネルギー消費が抑えられてきた点を強調しすぎると、やや逆効果な気がします。過去の実績あるエネルギー消費の抑制と同じ手法で二酸化炭素排出の抑制を実施できると考えるのは、現状の地球環境の変化に対しては楽観的すぎるような気が私はしており、より強力な直接的規制もしやに入れリ必要あるのではないか、と考えています。
次に、白井聡『主権者のいない国』(講談社) です。著者は、京都精華大学の研究者であり、政治学が専門のようです。私はこの著者の本は『永続敗戦論』や内田樹との対談集『属国民主主義論』を読んでいます。ですから、基本的なこの著者の立ち位置は、マルクス主義、あるいは、左翼と私は受け止めています。そして、本書では、タイトルの意味するところは終章(p.314)にあり、「標準的日本人は、『政府も政権もダメだ』と思っているにもかかわらず、どういうわけか選挙になると正反対の投票行動を示す。」という謎の解明にあるようです。巻末の初出一覧にあるように、各種媒体で既出の論考を集めたものですので、かなり重複もあるわけですし、逆に、矛盾しかねない難解な記述も散見されます。ただ、決定的に不足しているのは、経済政策の解明です。つまり、本書では前の安倍政権と現在の菅政権の政策について、コロナ対策についてはPCR検査の抑制やワクチン接種の遅れなど、どうしようもない劣悪な実態を明らかにするとともに、国体という観点からも指示し難い政策を列挙しています。特に、対米従属の正当化の観点から、アジアにおける北朝鮮の存在をもって、アジアでは冷戦が終わっておらず、朝鮮戦争が終結を迎えるくらいなら、もう一度戦闘行為がある方を選びかねない保守派の見方を紹介していて、それはそれなりに解釈のあり方なんでしょうが、経済政策で国民を引きつけているという視点がまったくありません。もちろん、福島第一原発の処理を巡っても、民主党政権の政策対応のまずさは際立っていますが、同時に、経済政策では「事業仕分け」という名の緊縮財政に走り、日銀の独立性を余りに重視した緊縮金融政策の容認とともに、国民生活を経済面から苦しめた点が忘れられています。私が、特に前の安倍政権下におけるアベノミクスで評価するのは雇用の拡大です。もちろん、非正規雇用による格差の拡大とか、賃金上昇の不足とか、いろんな論点はありますが、雇用がここまで拡大し、不本意非正規雇用がそれほどでないという事実は忘れるべきではありません。政策的なアベノミクスだけでなく、政策とは関係なく人口減少下での人手不足という要因も大きいことながら、雇用の拡大に対する支持が決して無視できない点が本書では大きく抜け落ちています。ですから、5年ほど前の2016年5月に取り上げた松尾匡『この経済政策が民主主義を救う』の世界をもう一度思い起こすべきです。政治的には改憲を目指すウルトラ右派な安倍政権が、かなりリベラルで左派的な政策を推進したと私は考えており、こういった国民生活を見据えた経済政策を左派リベラルが提案しないと、ホントに自由と民主主義が奪われかねない、と危惧しています。立憲民主党と共産党が左派連合を組んで、最初に取り組む経済政策が緊縮財政による予算均衡の達成だったりすると、2009年の「政権交代」の失敗の二の舞になることは明らかです。経済政策で国民の支持を取り付けるという発想が欠けると、そうなりかねない危険があることを強く指摘しておきたいと思います。
次に、大澤真幸『新世紀のコミュニズムへ』(NHK出版新書) です。著者は、社会学者であり、専門は理論社会学ですから、エコノミストではありません。ですから、キュブラー・ロスによる死の受容5段階なんてのが出て来たりします。ただ、現在のコロナ禍が人新世の環境変動の一環として理解されるというパースペクティブは私も、ハッキリいって、初めてで、それなりに新規な見方であると感じました。エコノミストの発想ではないような気がします。ということで、コロナ禍の経済的帰結として、もっとも重要なもののひとつが格差の拡大であるという点は、私も十分認識しており、このブログでも何度か主張してきましたし、大学の授業においても取り上げています。この格差拡大を階級間の格差拡大と捉え、その上で、国際的か普遍的な連帯を放棄して、水際対策などと称して、むき出しの国家エゴに走る姿を重ね合わせて、資本主義から新たな経済システムを遠望する、という形の論考となっています。さらに、進んで、ユニバーサルなベーシックインカムについても論じ、その財源として、ポズナー&ワイル『ラディカル・マーケット』において導入が主張されている共同所有自己申告税(common ownership self-assessed tax=COST)を候補として上げています。そして、ハーディン的な「コモンズの悲劇」の逆を行って、コモンズを拡大する方向を志向します。そして、齋藤幸平の『人新世の「資本論」』と同じように、脱成長に基づくコミュニズムにより地球環境問題の解決も同時に視野に収めています。エコノミストの私としても、第4章の途中まではかなりの程度に理解できる、というか、合意できるんですが、第4章の最終節から先については、コモンズの形成に関する部分も含めて、私の理解を超えてしまいました。私は、どちらかというと、というか、絶対的に加速主義の左翼なのであろうと自覚しています。ですから、生産性がさらにさらに向上し、すべての商品が希少性を失い、そのために価格がなくなり市場メカニズムが崩壊するの段階、がコミュニズムだと考えています。その前段階で、基礎的な衣食住などの商品の希少性が失われるのが社会主義なのかもしれない、と考えています。コチラは違うかもしれません。それらの段階では、誠にご都合主義的なのですが、技術進歩により、決して環境クズネッツ曲線的でなく、環境負荷が劇的に減少する段階に至る、と考えています。まあ、私のマルクス主義経済学に関する知識はそんなもんです。
最後に、枝野幸男『枝野ビジョン』(文春新書) です。著者は、ご存じ、立憲民主党の代表です。ということで、2009年に政権交代を成し遂げた民主党が希望の党に合流する際に、合流から排除された国会議員で始まった立憲民主党ですから、さぞ左派、リベラルを任じているのではないかと思いましたが、ご本人は保守であり、むしろ、戦後自民党の保守本流であった吉田内閣、あるいは、池田内閣、佐藤内閣、などの流れに立憲民主党を位置づけています。確かに、今世紀に入ってからの小泉内閣以来、特に前の安倍内閣や現在の菅内閣は、エコノミストの私から見てもネオリベそのものですから、ひょっとしたらそうではないかという気すらします。ということで、本書で著者は、日本の歴史をひもといて、水田耕作を効率的に勧めるために、自由競争ではなく地縁血縁による共同作業を重視するとの観点から、「支え合い」と「助け合い」をキーワードにしたビジョンを力強く示しています。特に、主流派経済学でも情報の非対称性などから市場が成り立たないと考えられている医療や教育については、財政赤字のためにネオリベな観点から効率化を求められ、コロナ禍もあって、システムとしては崩壊していると断言し、もしも崩壊していないとすれば、これらの仕事に携わる個々人の使命感に支えられたことを理由に上げています。私も大いに合意するところです。過度の自己責任を否定し、「支え合い、分かち合う」精神で、経済政策においても効率性よりも所得再配分政策をより重視する姿勢を打ち出しています。そして、高齢者の過剰貯蓄、というか、過小消費については、将来不安を理由に上げるのは当然としても、結論として年金の増額ではなく、医療をはじめとする社会保障の現物給付に重点を置く姿勢を際立たせています。確かに、所得を積み増しても将来不安のために貯蓄される割合が高まる可能性も十分あり、傾聴に値する意見かもしれません。もちろん、こういった財源論をはじめとして、国際収支の黒字を保つとか、ツッコミどころはいっぱいあって、現時点で完成した次期政権交代へのビジョンとして受け止めるのはまだ雑な部分が多く残されていますが、今年は必ず政権選択選挙である総選挙がある年ですから、ひとつの提案として真面目に議論するに値する気がします。いずれにせよ、現在のネオリベな格差社会というのは、おそらく、その昔の表現でいえば「勝ち組」、すなわち、格差の上の方にいる人には居心地がいいんでしょうね。私なんぞは、学卒で働き始めて役所を定年で退職して大学教員になったわけですので、大学院教育は受けていませんし、博士号などの学位もありません。そういった私のような資格や能力ない教員が大したサポートもなく、自己責任だけ強調されてアップアップで苦しんでいるのに対して、スイスイと授業や研究をこなしている教員も多いわけで、うまく格差社会の波に乗っている人は気分いいのは判る気がします。その上、ひょっとしたら、私のようなアップアップの姿を上から目線で見下すのは、見下される方からはたまったものではありませんが、見下す方は気分よかったりする可能性も否定できません。コチラは、私には判りません。判らないながら、授業や研究などの仕事の話はヤメにしようといっているのに、どうしても私相手に仕事の話をしたがる同僚教員もいますから、気分いいのかもしれないと思ったりします。しかしながら、本書の立場ではありませんが、見下されて虐げられる者は革命を志向するような気もします。
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