今週の読書はやや残念な経済書と新書3冊の計4冊!!!
今週の読書感想文は以下の通りです。
経済書が1冊と新書が3冊です。経済書は岩田規久男『資本主義経済の未来』(夕日書房)であり、日銀副総裁まで務めたエコノミストによるもので、資本主義の未来について書き始めて、半ばに達するまでに違う方向、著者の従来からの主張に大きくスライスしてしまっています。OBゾーンに落ちたかどうかは際どいところかもしれませんが、やや残念な仕上がりになっています。新書3冊は、まず、岡本裕一朗『アメリカ現代思想の教室』(PHP新書)は、ロールズのリベラルに始まる米国の現代思想に関する教養書であり、若松英輔・山本芳久『危機の神学』(文春新書)では、コロナ危機にある世界におけるキリスト教、特に、カトリックのあり方について、フランシスコ法王の登場を絡めて、2人のカトリック信者が対談しています。そして、最後に、林恭子『ひきこもりの真実』(ちくま新書)は、ひきこもりに関する真実の姿、何が必要か、を明らかにしよう試みています。
まず、岩田規久男『資本主義経済の未来』(夕日書房) です。著者は、日銀副総裁も務めたリフレ派のエコノミストです。本書は、私のこのブログの読書感想文で昨年2021年9月4日に取り上げた『「日本型格差社会」からの脱出』(光文社新書)の姉妹編と位置づけられているようですが、本書は索引や参考文献を含めると500ページになんなんとする大作です。ただし、タイトル通りなのは3章までであり、4章以降は金融政策とバブル、あるいは、従来からのいわゆる白かった時代の日銀批判などですから、この読書感想文では、タイトルに即して第3章までの資本主義の未来について私は論じたいと思います。というのは、本書の冒頭では成長と分配のトレードオフを論じようとしているのですが、明らかに失敗しています。多くのエコノミストと同じで、著者も厚生経済学の第1定理を基に、競争的な市場均衡の最適性を疑うことなく前提して議論を進めています。私はこの市場における価格付けに大きな疑問を持っています。もちろん、独占や外部経済などのいわゆる市場の昔から失敗は広く論じられてきたところであり、情報の非対称性もまた同じです。ただ、気候変動問題=地球環境問題がクローズアップされてきたことから、超長期の資源配分に市場価格は適さないことが明らかになりましたし、宇沢教授のシャドウ・プライスのように、市場価格が大きく歪んでいる可能性は忘れるべきではありません。ですから、第1に、競争的な市場価格が最適な資源配分を保証するというのは、かなり幻想に近いと考えるべきです。第2に、経済学が科学として極めて未熟であるひとつの要因として、私は通常の科学とは逆の思考に走っている点を指摘したいと思います。すなわち、通常は観察された現実に即してモデルを修正するのですが、経済学ではモデルに即して経済政策により現実の方をカッコ付きの「改革」しようとします。例えば宇宙物理学であれば、宇宙の現実に即してモデルを変更するわけで、その他の自然科学もガンとして存在する自然にモデルの方を合わせようとします。当然です。しかし、経済学は競争的な市場価格が最適な資源配分をもたらすことから、現実の経済を競争的で政府の介入ない市場にしようと試みます。本書でも著者は盛んに「規制緩和」の必要性を強調するのですが、まさにこれです。そして、GAFAなどのプラットフォーム企業を規制して、いかに市場価格を是正するかは「難しい」で終わっていて、このところ広く報じられているEUの「デジタルサービス法案」のような発想はありません。第3に、格差に対する考えがここまで反動右派的だと、私の考えとは相容れません。左派リベラルの私のようなエコノミストから考えて、自由を行使できるためにはそれ相応の所得や教育が必要なのですから、平等とはあくまで結果の平等であるべきなのですが、本書の著者はあくまで機会の平等しか考えません。私は国民が自由を行使できるためには、十分な所得の下で時間的な余裕があり、可能な範囲で、大学教育をまで受けるべきであると考えます。かなり昔の昭和のころに義務教育ではないにもかかわらず、実質的に高校までの中等教育がデファクト・スタンダードになったのとまったく同じで、大学教育という高等教育を可能な範囲で受けることが自由のためには好ましいと私は考えますし、衣食住が十分保証されるだけではなく、パソコンではないとしてもスマートフォンかタブレットによってインターネットから必要な情報を引き出せないと自由の行使、あるいは、社会的な最低限の生活に支障をきたす可能性すらあります。こういった点を十分考えることなく、右派的な経済学を振り回して資本主義が最終的な経済システムである、と論証するのはもうヤメにすべきではないでしょうか?
次に、岡本裕一朗『アメリカ現代思想の教室』(PHP新書) です。著者は、玉川大学の名誉教授であり、専門は西洋近現代哲学です。冒頭で、トランプ米国大統領の当選あたりから米国思想史の流れが変化したと指摘しています。もちろん、伝統的でマスなメディアからSNSなどへ情報がシフトしたことも相まって、いわゆるポリティカル・コレクトネス(PC)を無視して本音をあからさまにする情報が流れ始めたため、PCの基礎となった建前的なリベラルないし、左派的なリベラルの思想が後退した感があるわけです。こういった事情を背景にして、本書の第1部では米国の現代思想史をおさらいします。すなわち、ヒッピーやベトナム戦争反対などの基盤をなした1970年代くらいからのロールズ的なリベラル、すなわち、再分配を是とするリベラルを明らかにするとともに、そのリベラルに対するノージックらのリバタリアンからの批判、さらに、サンデルやテイラーらのコミュニタリアンからの批判を対置させ、さらに、1980年代以降のローティらのネオプラグマティズムも含んで解説をしています。そして、第2部ではデモクラシーを考えます。すなわち、ソ連の崩壊とともにフクヤマが提唱した歴史の終わりなのか、あるいは、ハンチントンの考える文明の衝突なのか、また、リバタリアニズムから生まれ、ロールズ的なリベラリズムとは真逆のネオリベラリズムといった右派思想が展開するとともに、逆に、左派では加速主義のような社会主義が若い層に広まり受容される、といった動きにも着目します。私は従来からトランプ旋風とはPCに対するカウンターであって、行き過ぎたPCへの否定から生じているという主張でしたし、誠に本書の立論がよく理解できます。例えば、本書でも指摘されている通り、宗教色があるからといって、「メリー・クリスマス」という表現を否定するのは行き過ぎと私も考えます。いずれにせよ、私はエコノミストとして成長と分配のあり方に興味を持っていて、リベラル、特にロールズ的な左派リベラルは、デモクラシーの基礎として分配を重視します。儒教的な表現でも「恒産なくして恒心なし」というのがありますが、生活に余裕がないと民主主義的な活動への参加もできません。しかし、長らく経済学では成長と分配はトレード・オフの関係にあるとされていました。ですから、今の岸田総理も就任時にはアベノミクスの成長重視から分配重視に舵を切ると明言していました。それが実践されているかどうかはいささか疑問ですが、分配を重視するためには成長を犠牲にする必要もあると考えられていたわけです。しかし、現在では、消費性向の低い富裕層から消費性向の高い貧困層に所得を移転すれば、短期的なりとも成長を加速することができると考えられています。その意味でも、分配を志向する現代思想を私はエコノミストとして、同時に、1人の人間として支持します。なお、誠についでながら、昨年2021年最後の読書感想文、12月30日付けのブログで同じ出版社のPHP新書の倉山満『ウルトラマンの伝言』を取り上げて、まったく本書とジャンルは異なるのですが、ウルトラマン本として絶賛しています。そして、本書も米国現代思想、特にリベラルからの思想史的な解説書として、とてもいい出来だと思います。この2冊のPHP新書はオススメです。
次に、若松英輔・山本芳久『危機の神学』(文春新書) です。著者は、慶応大学と東京大学の研究者であり、2人ともカトリックのクリスチャンです。まず、「危機の神学」とは、私のような門外漢でもバルトの提起した概念であると知っていますが、本書ではホンのチョッピリと触れられているに過ぎません。また、本書でいうところの、というか、タイトルになっている「危機」は基本的にはコロナ禍と考えるべきで、サブタイトルの「無関心というパンデミック」は本書を読んでなお私には不明です。ということで、コロナ前の2013年ですが、カトリック界、あるいは、プロテスタントやギリシア聖教も含めてクリスチャンの間で大きな転換点とされるのが、現在のフランシスコ法王の就任です。かばんを持って公共交通機関で移動し、貧困層や恵まれない人々に大いなる愛を届けようとしています。そしてそのフランシスコ法王とともに、キリスト者がいかにあるべきかを本書では2人の対談により明らかにしようと試みています。宗教的に、というか、狭義キリスト教的に重要なポイントは、本書だけではなく、祈りと愛なのですが、私のような仏教徒にはいささか理解が異なる面もあります。すなわち、祈りとは信徒から神へのメッセージであり、願いという意味で私は考えています。信徒が全知全能の超越者である神に対して「xxでありますように」ということを願うわけです。ひょっとしたら、キリスト教では違うのかもしれません。それに対して、愛とはその神から信徒に対して示されるものです。「アガペー」ということであり、神から信徒に向けられた愛と信徒の間の愛とは別物であろうと私は考えています。そして、本書でも明確に否定されていますが、現状のコロナ禍という危機は「天罰」ではありません。神が信徒に対して与えた裁きではあり得ません。この危機を乗り越えるのは信徒と神の共同作業なのかもしれない、と私なんぞは考えてしまいます。ただ、私はキリスト者ではない一般ピープルの日本人ですので、神を超越的な存在とは必ずしも考えていません。少なくとも、一行門徒である私から見て、神に近い阿弥陀仏は死後の極楽浄土を約束して下さるだけであって、それ以外の幸福や学業成就・病気平癒、ましてや、金儲けなどを願うべき相手ではありません。特に阿弥陀仏に関しては一芸に秀でているだけであって、そこまでの普遍的一般的な利益を与えてくれる存在ではないわけです。ですから、仏だけでなく、古典古代からの日本の神々は分業が成立していて、学業成就の神さま、商売繁盛の神さま、縁結びの神さま、などなどが並立しているわけです。しかし、キリスト教においては、特にカトリックでは神は全知全能な超越者ですから、神学というものがクローズアップされます。日本や中国では仏教は、というか、仏教という教えが真理の体系であって、仏が全知全能であるというわけではありません。キリスト教の教会と仏教の寺院はまったく別の宗教的な存在です。そのあたりを考えつつ読み進んだつもりですが、やっぱり、私には難しすぎたかもしれません。
最後に、林恭子『ひきこもりの真実』(ちくま新書) です。著者は、ひきこもり経験者で、現在は当事者活動に従事しています。本書を読んでいて、私がやや不明だったのは、世間、ないし、本書の著者がひきこもりについてどう考えているのか、ということです。もしも、個性のひとつ、ということであれば、特段のトリートメントは必要ありません。しかし、何らかの異常ないし矯正あるいは変更すべき要素を含んでいる、ということなのでしょうか。極めて極端な例ながら、異常ということであれば病気や怪我を含みますし、矯正ないし変更すべきということになれば、実に極端ながら犯罪行為も一例です。実は、私は人間とは社会をなして生産するものではないか、と考えており、出来れば生産に参加して欲しい、あるいは、そのための準備活動をして欲しい、そして、それは孤立した生産活動ではなく、社会的な分業の中のひとつであって欲しい、と考えています。余りにすべてに「欲しい」がついているには、私の願望だからです。従って、ひきこもりは個性のひとつであって、異常ではないし、特に矯正や変更すべき要素を含んでいるわけではない、と受け止めています。ただ、私も社会的な分業の一角を担う生産に参加して欲しいですし、それは変更を必要とはしないものの、出来れば変更した方がいいかもしれない、というパターナリスティックな思いを含んでいることも事実です。もうひとつ、実は、社会的な分業の一角を担う生産に従事すると収入が得られるわけで、多くのエコノミストが考えるように経済的な満足のもととなる消費の原資なのですが、ひきこもりは所得を得る活動ではありません。ただ、ユニバーサルなベーシックインカムがあれば、あるいは、私ももうすぐですが、年金を受給できるようになれば生産に従事しなくても所得は得られます。ですから、私は出来れば生産に従事して欲しいと思いつつ、ひきこもりを社会の一員として、言葉は乱暴かもしれませんが、「許容」できる、あるいは、受け入れることができる寛容な社会を目指すべきではないか、と思っています。
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