今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、ダニエル・ハウスマン『経済学の哲学入門』(勁草書房)は、マイクロ経済学の理論の中心のひとつを形成する選好や選択の基礎となる効用=utikityに関して議論し、さらに、そもそも、エコノミストが何を考察しているのか、何を分析しているのか、について哲学的な考えを取りまとめています。かなり専門性の高い学術書です。続いて、ジャン=ダヴィド・ゼトゥン『延びすぎた寿命』(河出書房新社)では、歴史的に人間の寿命が延びてきた医学や衛生学の進歩を跡付けるとともに、ケース-ディートンの研究成果に着目して、長らく延び続けてきた寿命が反転して、逆に短縮化している可能性について議論しています。稲田豊史『映画を早送りで観る人たち』(光文社新書)は、サブスクで限界費用が無料になった映画やドラマの視聴について、タイトル通りに、早送りで観る人たちについて考察しています。私は特に財の消費方法についてエコノミストとしてわだかまりはありません。続いて、山崎雅弘『未完の敗戦』(集英社新書)は、戦前・戦中的な個人よりも全体を尊ぶ、まさにその意味で全体主義的な部分が決して敗戦で一掃されず、今でも戦争を美化し占領軍に「押し付けられた』という意味で憲法「改正」を目標とする勢力が残存した理由について議論しています。最後に、辻村深月ほか『神様の罠』(文春文庫)は昨年年央に出版されて、ミステリを中心にアンソロジーを編んでいます。それほど大した作品が集められているとは思えませんが、私の好きな作家の作品が収録されています。
なお、今週の5冊を含めて、今年に入ってから新刊書読書は計116冊となりました。半年で軽く100冊を越え、昨年の112冊のペースを超えました。ですので、少し余裕を持って、新刊書ならざる読書にも励みたいと思い、近藤史恵『ホテル・ピーベリー』と方丈貴恵の『孤島の来訪者』を読みました。特に後者については、これで方丈貴恵の主たる作品、すなわち、長編ミステリ3冊は全部読んだと思います。本日の読書感想文と併せて、これら2冊もFacebookの然るべきグループでそのうちに個別にシェアしたいと思います。
まず、ダニエル・ハウスマン『経済学の哲学入門』(勁草書房)です。著者は、米国ウィスコンシン大学の名誉教授です。英語の原題は Preference, Value, Choice, and Welfare であり、2011年の出版です。本書はミクロ経済の選択に関する学術書であり、ハッキリいって難しいです。200ページほどのボリュームであるにもかかわらず、一応、大学の経済学部の教授職を務めている私が3日かけて読んでいます。学部生や一般のビジネスパーソンにはオススメしません。専門分野が近い大学院生レベルの理解力が必要そうな気がします。まず、何を本書で議論しているかといえば、マイクロな経済学者が何をやっているのか、そして、その方法論は正しいのか、という議論から始めています。そして、私の理解では、マイクロな経済学における選択の基準となっている効用=utiliyuとは、いったい何なのか、という問いに本書では答えようと試みています。そして、著者の結論として早々に示されるのは、効用とは総主観比較評価をもとにしていて、これに基づいて経済的な選択が行われているにもかかわらず、経済学者による選択理論、例えば、顕示選好などは総主観比較評価に基づいた効用概念となっていない、と批判します。私のようなマクロエコノミストからすれば、選択が総主観比較評価に基づいているという点は当然なのですが、逆にいって、マイクロな経済学者が総比較評価以外の評価で選択を決定しているとは、とても思えません。しかし、セン教授の選択理論なんかは、確かに、本書で指摘しているように総主観比較評価ではないかもしれない、という程度には理解します。でも、経済学者がそれほど大きな問題と考えていない「効用とは何か」という点について、ここまで取り上げて議論する意味は私には理解できません。こういった議論を、さらに、ゲーム理論に拡張し、さらに、厚生経済学にも適用されます。ここまでは書評をパスします。私が何とかキャッチアップしたのは、最後の経済心理学に入ってからです。選択には合理性という観点から、すべての選択肢の間で効用の順序付けが出来るという意味での完備性と順番が逆転することがない推移性を満たすと合理的な選択、ということになり、著者は加えて文脈からの独立性と選択の決定性を4条件としているのですが、経済心理学に入れば、ツベルスキー=カーネマンのプロスペクト理論が登場し、文脈からの独立性を犠牲にし、さらに、完備性と推移性を修正した上で、決定性を保持する、といわれれば、よく理解できます。最後に、マクロエコノミストである私にとって難しかったのはもう2点あり、第1は英語と日本語の対応関係です。本書ではadvantageという英語に「便益」という日本語を当てています。確かに、何らかの「お得感」というくらいの表現かもしれませんが、実に何度も何度も登場します。第2に、マイクロな経済学における選択の問題を哲学していますので、序数的なカウントを前提にしています。私のようなマクロエコノミストには、これが馴染みありません。マクロ経済学ではGDPにせよ、インフレ率にせよ、失業率にせよ、すべてが基数的なカウントとなります。すなわち、順番だけが問題なのではなく、絶対量の数値が把握できるわけです。マイクロな経済学では選択を考える際に、その昔のベンサム的な功利主義をとうに卒業していますので、効用=utilityを定量的に把握することをしません。それでも、効用が何になのかについては重要、というのが経済哲学の考え方なのかもしれません。繰り返しになりますが、それなりの専門性高く、しかも、必要性も高い、という読者にのみオススメします。
次に、ジャン=ダヴィド・ゼトゥン『延びすぎた寿命』(河出書房新社)です。著者は、パリ在住の肝臓・消化器疾患の専門医、医学博士であり、欧州最大の病院グループである公的扶助パリ病院機構で特別研究員を務めています。フランス語の原題は La Grande Extension であり、2021年の出版です。本書は4部構成となっていて、先史時代から20世紀初頭の第1次世界大戦のグレート・インフルエンザ、いわゆるスペイン風邪までを「微生物の時代」とし、大雑把にそれ以降、特に第2次世界大戦後の1945年以降を「医学の時代」として、時代順に医療や衛生の歴史を振り返った後、21世紀の健康を巡る問題を取り上げ、最後に、寿命が後退し始めた直近足元の状況を取り上げています。第1部と第2部は、それほど私自身も興味ないのですが、後半の2部、21世紀に入ってからは医療や衛生だけではなく、健康格差や慢性疾患、特に、大きな問題として、タバコ、アルコール、運動不足、肥満を4つのリスクとして上げています。そして、本書の最大のテーマであろう寿命の後退については、経済社会的な問題としてケース-ディートン夫妻の研究成果、すなわち、非ヒスパニックの白人中年男性の米国人の死亡率上昇について、さまざまな考察を展開しています。もちろん、健康や寿命については、医療と衛生だけではなく、経済社会的な食事、というか、栄養状態とかが関係し、本書で指摘しているタバコ、アルコール、運動不足、肥満の4つのリスクも重要です。ですから、ごく単純にオピオイドの過剰摂取だけでもってケース-ディートンの研究成果を説明するのはムリがあります。しかも、それに自殺が加わります。それにしては、本書では精神疾患についてはかなり手を抜いています。平均寿命の延びが止まって、一部のクラスでは反転を見せているのは事実でしょうし、おそらく、永遠に寿命の延伸が続くとは誰も考えていません。ただ、ケース-ディートンによる『絶望死のアメリカ』(みすず書房)を私も読んで、昨年2021年9月の読書感想文をポストしていますが、この寿命の後退の原因は、自殺、薬物、アルコール、クオリティの低い医療制度、そして、何よりも貧困や格差の拡大であると分析されており、その上で、医療制度の改革、労働組合とコーポレートガバナンス、累進税制とユニバーサルなベーシックインカムの導入、反トラスト政策の推進、レントシーキングの防止策、教育制度の改善、などを対応策として上げています。本書でも、基本的な対応策のラインはケース-ディートンと変わりありませんが、特に、本書独自の分析、というか、表現として行動と環境に着目しています。環境とは、気候を指しており、気候変動が人類の寿命に影響する可能性は鋭く指摘されています。繰り返しになりますが、人類の平均寿命がどこまでも果てしなく延びてゆくとは考えられないわけで、その上で、ケース-ディートン的な個別米国における限定されたクラスの分析ではなく、地球上の人類の寿命を考えるのであれば、確かに、寿命の後退は気候変動=地球温暖化によってもたらされるのかもしれない、と専門外の私なんかは考えてしまいました。
次に、稲田豊史『映画を早送りで観る人たち』(光文社新書)です。著者は、ライター、コラムニスト、 編集者と紹介されています。本書では、タイトル通りに、映画やドラマを早送りで観る人たちについて考えています。一言でいえば、映画やドラマを芸術として鑑賞するのではなく、コンテンツとして消費する、という表現が取られていて、判ったような判らないような言葉遊びと感じる読者もいるかも知れません。サブスクで限界的に無料になったこういった「見放題サービス」二無限とは言わないまでも、大きな需要が生じるのは当然で、その需要を満たそうとすれば時間を圧縮してタイパのいい早送り、というのはある意味で当然、という気もします。ただ、小学生と同じようなレベルで、映画やドラマを「観た」ことにしておかないと、仲間内での会話についていけない、という意味で「幼稚化」との考えも成り立つかもしれません。さらに、見ていないと仲間内で話題についていけずに、本書では「マウントを取られる」、と表現してます。加えて、映画やドラマのこういった早送りで観るコンテンツ消費から、生産者サイドにリパーカッションがあって、映画やドラマでやたらとセリフで説明してしまう例が現れ始めた可能性についても言及しています。ということで、私から独自に2点指摘しておきたいと思います。第1に、映画やドラマを早送りで観るというのは、製作者や提供者の意図に反している、あるいは、通常のやり方から異なっている、という趣旨なのかもしれませんが、そんな財・サービスの使用や消費なんていくらでもあります。まず、何を持って問題とする、という表現は違うかもしれませんが、観察対象に置いて解明しようとしているのか、私には十分には理解できませんでした。まあ、ほのかには判るわけですが、十分には理解できなかったわけです。包丁を調理に使うのではなく人殺しに使う、といった極端な例は別としても、例えば、自動車やオートバイを本来の移動や運輸で使うのではなく、ドライブ、あるいはもっと言えば、スピードを出してストレス解消、スカッとする、という用途に使うのはどうなのか。それがさらに進んで、暴走族ならどうなのか。いろんな論点があると思います。あるいは、映画やドラマに近いところでいえば、書画・骨董や稀覯本を鑑賞目的ではなく、資産として値上がり待ちで所有するのはどうなのか。エコノミストとしては、すべてがOKに見えます。その意味で、理解が及びませんでした。第2に、映画やドラマを早送りしてまでして観て、知り合いから観ていないことを指摘されてマウンティングされるのを防止するという意味が、これは、著者の言いたい意味ではなく、早送りして見る人の言う意味が、私には判りません。私はもともとマウンティングを取る意欲に欠けていて、生物的なオスとして欠陥がある可能性は自覚しています。ついでにいうなら、1980年代後半のバブル期にいわゆる「適齢期」を迎えたために、両方相まって結婚が遅れたのだろうと自己分析していたりします。それはともかく、映画やドラマに関してマウントされるというまでのポピュラリティある映画やドラマがもしあるのであれば、それは著者のいう芸術を飛び越えて教養と表現すべきではなかろうか、とすら思います。この点も浅はかにも理解が及びませんでした。いずれにせよ、消費財、あるいは芸術であっても、非常に変わっら使い方をし、そして、それが一定理にかなっている、というのはままあることです。テレビなんかでも面白おかしく紹介されています。違いますかね?
次に、山崎雅弘『未完の敗戦』(集英社新書)です。著者は、戦史・紛争史の研究家だそうです。私はそれほど馴染みがありません。本書はタイトルから直感的に受ける印象は戦史とかの関係なのかもしれませんが、内容は敗戦によって決して昔の「大日本帝国」的な非民主的だった日本が民主的な国家に生まれ変わったわけではない、ということで、私も大いに賛同します。誰も責任を取らずに国民や部下を使い捨てにするような非民主的な昔の日本は敗戦では一掃されなかった、ということですから、歴史観としては私と同じで民主主義的な革命、ないし、大改革が必要と考えるべきです。そして、その先に社会主義革命を考えるのであれば、まさに、戦前からの講座派的な歴史観と一致します。まず、現状分析として、かつての戦前・戦中的に個人の価値観が国家や集団に従属するという部分が日本には大きく残っていることは事実として認められるのだろうと私は考えます。そして、その最悪の例として本書では靖国神社や太平洋戦争の「美化」、例えば、植民地アジアを欧米列強から「解放」する戦いであったとみなしたり、逆に、南京事件などの日本軍の蛮行を否定したりする歴史修正主義を上げています。そして、戦後の憲法を占領軍に「押し付けられた」と考えて改憲を企てる勢力も広く残っている、というか、それを党の綱領に掲げる政党が国会の第1党として政権を担って総理大臣を輩出しているわけです。私自身は、個人として戦死者を偲んで靖国神社に参拝するのは、百歩譲ってOKとしても、公人として戦争賛美につながりかねない靖国神社参拝はお止めになった方がよろしい、という考えです。そして、本書では保守と革新という言葉でそういったグループ、ないし、アンチ・グループを呼んでいますが、私は保守というよりは反動なのではなかろうかという気がします。私の考えでは、歴史は前進するものであり、その前進を止めようとするのは保守、前進どころか歴史を前に戻そうとするのが反動、そして、歴史をさらに前に進めようとするのが進歩派なのだろうと考えています。そして、こういった日本の民主化が不徹底に終わったのは、本書で指摘する通り、東西冷戦であることは明らかなのですが、では、なぜ、ドイツではナチスが徹底的に否定されている一方で、日本の民主化、というか、戦前の戦争推進派の否定が進んでいないのか、という疑問は残ります。私も専門外ですので大きな謎です。まあ、西欧と極東という位置だけではなく、民度の差がある、といわれればそれまでなのかもしれませんが、謎は謎です。もうひとつの要因として、本書の著者は教育を重視しています。批判的な観点を育成する教育になっていない、というわけです。ただ、これは双方向であって、教育に批判的な人格形成の要素が盛り込まれていないから、個人として民主主義的に未成熟であるともいえますが、民主主義が不徹底だから教育のこういった個人としての批判的見方の涵養が含まれない、とも考えられます。ただ、教育の一端を担う身としては考えさせられる見方であることは自覚しています。いずれにせよ、日本の経済社会、あるいは、日本人の国民性などを考える上で重要な視点を提供してくれた読書でした。
最後に、辻村深月ほか『神様の罠』(文春文庫)です。なかなか豪華にも、人気のミステリ作家6人によるアンソロジーです。収録順に、乾くるみ「夫の余命」、米澤穂信「崖の下」、芦沢央「投了図」、大山誠一郎「孤独な容疑者」、有栖川有栖「推理研VSパズル研」、辻村深月「2020年のロマンス詐欺」の6作品で構成されています。すべて、文藝春秋社の『オール読物』に収録された作品です。最初の「夫の余命」は、余命1年と宣告されながらも結婚した若いカップルについて、日付を明記しつつ時系列を逆にたどります。『イニシエーション・ラブ』の作者らしく、みごとに読者をミスリードします。「崖の下」は、男女4人のスキーヤーが雪山で遭難し、うち1人が明らかな他殺体で見つかった殺人事件の謎解きです。凶器は何か、がポイントになります。「投了図」は、新型コロナウィルス感染症(COVID-19)の感染拡大防止のための緊急事態宣言か何かの行動制限下で、古本屋の主人について、将棋のタイトル戦の中止を訴える張り紙をした自粛警察ではないかと、妻が疑います。ミステリとみなさない読者もいそうです。「孤独な容疑者」は、迷宮入りした過去の殺人事件を再捜査する中で、アリバイトリックを解き明かす、という作品ですが、こんなことが現在の日本で可能なのだろうか、という意味で、やや納得いかない点が残りました。「推理研VSパズル研」は、学生アリスの作品です。パズル研から推理研に出題された謎解きについて、江上部長が見事に解決するという論理パズルをテーマにしています。最後の「2020年のロマンス詐欺」も、コロナ禍で行動制限が続く東京で、山形から出て来たばかりの大学生がロマンス詐欺の片棒を担ごうとしつつも、思い込み激しく見事に脱線する、というストーリです。私の読み込み不足なのかもしれませんが、少し物足りない作品、疑問ありの作品が多く、これだけの作者を集めたにしては、それほどいい出来のアンソロジーではありません。その中で、冒頭の乾くるみ「夫の余命」と米澤穂信「崖の下」の2作が光っていると私は思います。逆に、辻村深月「2020年のロマンス詐欺」はあまりにナイーブ、というか、いかにも田舎から東京に出てきたばかりの大学生を主人公に据えるのがよさそうな作品、という気がします。ちなみに、どうでもいいことながら、「ナイーブ」という用語の私の用法について、簡単に記しておきます。その昔、絵画に「ナイーブ派」ないし「ナーブ・アート」一派がありました。19世紀末から20世紀初頭ですから、印象派なんかとよく似た時期に活躍していて、今でこそ「素朴派」と邦訳されていますが、私の知る限り、その昔は「稚拙派」と呼ぶ評論家がいたりしました。「ナイーブ」とは決してニュートラルな表現ではないし、ひょっとしたらよくない意味で使われている可能性がありますのでご注意ください。
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