今週の読書は経済学の学術書をはじめとして計5冊!!!
今週の読書感想文は以下の通りです。
なお、今年の新刊書読書は、1~3月期に50冊、4~6月期に56冊、従って、今年前半の1~6月に106冊、そして、7月に入ってから先週までに19冊、今週の4冊と合わせて7月は23冊ですから、今年に入ってから129冊となりました。年間200冊のペースを少し超えています。また、新刊書ならざる読書もしているのですが、Facebookのアカウントが不明な理由で停止されていてシェアできません。
まず、ロバート・スキデルスキー『経済学のどこが問題なのか』(名古屋大学出版会)です。著者は、ケインズ研究、特に全3巻の『ケインズ伝』で有名なエコノミストであり、もう80歳を超えているハズですが、ウォリック大学の研究者です。英語の原題は What's Wrong with Economics? であり、2020年の出版です。なお、出版社から考えても明らかに学術書であり、一般ビジネス・パーソンを読者に想定しているわけではないような気がします。ということで、序文にもある通り、1980年前後における新自由主義=ネオリベの経済政策の導入、すなわち、英国のサッチャー内閣や米国のレーガン政権のあたりからの不平等の拡大を経て、日本ではリーマン・ショックと呼ばれている金融危機までの約30年間をあとづけています。そして、その間の主流派経済学はネオリベの「共犯者」とされています。私もそう思います。そして、主流派経済学、主として、新古典派経済学がケインズ的なマクロ経済学のミクロ的基礎づけを試みようとする動きを完全に否定しています。このミクロ的基礎づけというのは、合理的な経済人=ホモ・エコノミカスによる合理的な選択という観点からあらゆる経済的帰結、すなわち、マクロ経済学的な景気循環まで含めた経済的帰結を説明しようと試みるものです。ですから、本書の例でいえば、景気の悪化による失業の発生というマクロ経済現象について、賃金低下に応じて各個人がミクロ的に労働時間を短縮しようとする合理的判断の集計量である、というようなものであって、まったく馬鹿げた試みであることは、私も強く同意します。その上で、昨今のビッグデータ、もっと昔には経済計算論争のようなものを持ち出して、十分なデータと計算能力があれば経済学は自然科学、あるいは、ハードサイエンスになることができる、という考えにも本書は疑問を呈します。ひとつはケインズ的なアニマル・スピリットや期待などのマインドが経済に果たす役割を強調しつつ、もうひとつはツベルスキー=カーネマンのような経済心理学などの知見から、人間の合理性が限定的であることも指摘しています。ただ、私はいくつか付け加えるべき点があるように感じています。第1に、先々週に取り上げた清水和巳『経済学と合理性』でも同様にマクロ経済学のミクロ的基礎づけを目指していて、私が疑問視した重要なポイントのひとつとして、社会的な推移率が成り立たない点を忘れるべきではありません。完備性と推移律と独立性と決定性が合理性の条件であるとされる場合が多いのですが、個人の選好であればまだしも、社会的には推移率は成り立ちません。大学の授業なんかでは、教育的見地から推移率を前提する場合がありますが、それは例外です。もうひとつは合成の誤謬です。みんなで貯蓄を増やそうとして貯蓄率を上げれば、貯蓄総額は減少してしまうわけです。そして、これは私だけのやや特殊な主張かもしれませんが、ハードサイエンスでも経済学でもモデルを分析対象とすることは同じである一方で、物理学などの自然科学の場合、モデルで説明できない観察結果が得られるとモデルの方を修正しようとするのに対して、経済学では厚生経済学に従って現実の経済社会の方を政策的にモデルに近づけようとする試みが可能であり、ネオリベ的な政策はまさにそれをやろうとしています。この3点が本書に付け加えられるべき点だと私は考えます。
次に、エリオット・ヒギンズ『ベリングキャット』(筑摩書房)です。著者は英国出身であり、オープンソース調査集団「ベリングキャット」の創設者です。「ベリングキャット」とはその名のごとく、ネコに鈴をつけるという意味であり、この場合のネコとは国家ないし政府と考えて差し支えないのですが、ただ、自国というよりはほぼほぼロシアに限定されているような気がします。英語の原題は we are bellingcat であり、2021年の出版です。ということで、お話はロシア軍情報局の大佐であり、英国の二重スパイであった人物が家族とともに毒殺されかけた時点から始まり、より人口に膾炙したナワリヌイ氏、ロシアのプーチン大統領の政敵であったナワリヌイ氏の放射性毒物による暗殺未遂に進みます。そして、そのロシアの公然たる支援を受けたシリア国軍の内戦などにも事実関係の調査の手が伸びます。ということで、冒頭に書いたようにオープンソース、すなわち、ネット上にある何らかのソースを基にした調査活動により、ロシア政府のフェイクを暴く、という活動を詳しく紹介しています。内線やテロに関して兵器の特定などを多く取り上げていて、私の専門外ですので理解ははかどりませんでしたが、ロシア政府が虚偽情報を流している事実をオープンソースにより明らかにする活動のようです。ということで、広く認識されているように、いわゆる旧来型のジャーナリズム、新聞とか放送メディアの取材についてはオープンソースではありません。逆に、ニュースソースの秘匿が許されますし、場合によっては、秘匿されるべきケースも少なくないのではないか、と私なんかは想像しています。ですから、ニュースソースについての扱いは真逆なわけです。ですから、ニュースソースがオープンであることに関して私なんかが懸念するのは、第1に、ニュース提供者の安全です。ただし、この点については、提供者が自主的な判断によってネットに情報をポストしているわけですので、自己責任と考えるべきかもしれません。そして、第2に、もっと懸念が強いのは、ニュース提供者がこういった団体などのニュースソースになることを承知の上でフェイクを流すことです。当然ながら、ネット上にソースがあるという事実は、その情報が真実であることを保証しません。ソースを秘匿しようと、オープンであろうと、その情報が真実であるかどうかはジャーナリストの側の責任で保証せねばならない、と私は考えています。国民一般がメディアの情報を正確であると考えるのは、特に、ニュースソースを秘匿された情報を正確であると受け止めるのは、特定の新聞社や特定の放送局を信頼しているからであって、ニュースソースを信頼しているからではありません。ですから、べリングキャットのようなグループの情報については、情報を提供するべリングキャットに対する信頼に加えて、ソースの信頼性についても情報の受け手の側で一定のリテラシーを磨いておく必要があるのではないかと私は思います。個別具体的にべリングキャットが掘り起こした情報に関する興味は、私自身はそれほど持ち合わせませんでしたが、現在の情報あふれるネット社会での信頼性の置き方を深く考えさせられました。その意味で、とても面白い読書でした。
次に、ジェフリー・ディーヴァー『魔の山』(文藝春秋)です。著者は、世界で最も人気あるミステリ作家の1人だと思います。私はこの著者の作品の中では、ニューヨークを舞台にしたリンカーン・ライムのシリーズがもっとも好きなのですが、カリフォルニアの事件に取り組むキャサリン・ダンスのシリーズも見逃せません。本書はコルター・ショウを主人公とするシリーズであり、『ネヴァー・ゲーム』に続く第2弾で、すでに、第3弾の『ファイナル・ツイスト』の邦訳が出版されています。そして、この第3話で完結らしいと聞き及んでいます。この作者の作品は結構なハードボイルドなんですが、このコルター・ショウを主人公とするシリーズは特にハードボイルドの色彩月容器がします。タフガイです。なお、『ネヴァー・ゲーム』は昨年2021年1月末に読書感想文をこのブログにポストしています。英語の原題は The Goodby Man であり、2020年の出版です。邦訳は昨年2022年9月に出ていますので、まあ、1年以内ですので新刊書読書と考えています。ということで、本書ではコルター・ショウがカルト教団オシリスに潜入します。実に、安倍元総理の暗殺事件の後に、旧統一協会として知られる世界平和統一家庭連合のカルト振りが広く報じられるようになりましたが、本書でもカルト教団を取り上げています。本書の主人公のコルター・ショウは、同じ作者の作り出したリンカーン・ライムやキャサリン・ダンスと同じでスーパーマンなのですが、同時にサバイバル術に長けたタフガイでもあります。というか、そのタフガイ振りがスーパーマンであるわけです。ただ、本書についてはカルト教団潜入の動機がかなり弱いと言わざるを得ません。主人公であるコルター・ショウは懸賞金ハンターであり、もちろん、私立探偵のような働きもするのですが、何の懸賞金もかかっていない、もっといえば、何の稼ぎにもならないカルト教団への潜入を実行するいわれがないような気がします。でも、それはいっても仕方ないので、まあ、タフガイの主人公がカルト教団に潜入するわけです。そして、サスペンス的にハラハラドキドキはするものの、さして面白みはありません。ただ、タフガイの主人公がワンマンアーミーよろしく1人で活躍するだけではなく、同じような目的を持ってカルト教団に潜入しているタフな人々と協力してカルト教団と対決するわけです。ただし、カルト教団の創設者が少し物足りないキャラです。この創設者を取り巻く側近の造形にも物足りなさが残ります。新興カルト教団の活動については、まあ、想像される通りであって、多額の金銭的な献金、これは旧統一教会と同じ、というか、かなり多くの新興宗教にも当てはまりそうな気がします。そして、セックスです。こちらはどこまで当てはまるか、私は情報を持ち合わせません。そして、ジェフリー・ディーヴァーらしからぬ結末、というか、特に何のツイストもなくカルト教団が壊滅させられます。大味なストーリーであるものの、映画化されればアクションシーンはそれなりに話題になりそうな気もします。しかし、重要なのはカルト教団潜入ではなく、父親の死、あるいは、行方不明となっている兄にまつわる真相究明というポイントが残ります。それがすでに邦訳が出版されている『ファイナル・ツイスト』で解明されるのだろうと楽しみにしつつ図書館に予約を入れました。
次に、神山典士『トカイナカに生きる』(文春新書)です。著者は、ノンフィクション作家であり、埼玉県のご出身ですので、「トカイナカ」の中でもやや埼玉県にスポットが当たっているような気がしました。ということで、広く知られたように「トカイナカ」という表現は経済評論家の森永卓郎氏の造語であり、森永氏が居住している埼玉県所沢市のようなロケーションを念頭に置いているのではないか、と私は想像しています。私も2年前に関西に引越してくる前は、東京23区内ながら5分も歩けば埼玉県、という土地に住んでいましたので、かなり雰囲気は理解できるつもりです。トカイナカが注目されているひとつの理由は、2020年からの新型コロナウィルス感染症(COVID-19)の感染拡大防止のためのテレワークとか、リモートワークといわれる在宅勤務の普及にあります。ですから、トカイナカに住みつつ、リモートワークで主要な仕事を遂行するとしても、週に1日や2日は東京都心のオフィスに出向く、という仕事スタイルが念頭に置かれているのだろうと想像します。その割には、まったく都心に出ない地方、すなわち、トカイナカではないイナカ一色の生活も大いに取り上げられている気がしなくもありません。すなわち、地方新興的な色彩の強い部分も大いに含まれています。ただ、トカイナカについては今後の方向性としてはいいと私も考えますが、現時点で花まだ未成熟な部分が少なくないと思います。ですから、19世紀後半の米国におけるゴールドラッシュのような状態で、何がいいたいかというと、ホントに金を掘り当てて大金持ちになったのは、いわゆる49ersの中の極めて少数の例外的な存在で、幅広く儲けたのは49ersに対して金を掘るツルハシなどの道具や衣食をはじめとする生活に必要な日用品を売りさばいた人々であった、という事実は忘れられるべきではありません。すなわち、本書でも東大卒の財務省経験者や総務省から出向の副市長などがクローズアップされていますが、こういったトカイナカ推進のコンサルタント的な人物がトカイナカで利益を上げている段階だと私は考えています。もちろん、この先、トカイナカがもっと成熟してホントのトカイナカ生活で大きなゆとりを手に入れる人々が出現することを私自身は願っていますが、他方で、米国のゴールドラッシュの歴史的経験が教えているのは、多くの49ersは夢に見たように金を掘り当てることによってではなく、カリフォルニアに移住してその地で別の産業に従事してより豊かな生活ができるようになったわけです。ですから、トカイナカ生活についても、あくまで東京を標準にしてトカイナカでテレワークに従事し、時折東京のオフィスに出向く、という以外の方法でより豊かな生活に移行する可能性があるように思われてなりません。その別の方法が現時点で私には不明なのは事実なのですが...
最後に、和田秀樹『老いの品格』(PHP新書)です。著者は、灘高-東大医学部という超高偏差値コースをたどったことで著名な精神科医です。本書では、上の表紙画像に見られるように、老いてゆく私のような人に対して、上品、賢明、洒脱の3点をオススメしてくれています。誠に、私も同意できる点がいっぱいです。過去に、何かで書いたような記憶があるのですが、高齢になるに従って頑固で不機嫌になるのは、私が考える限り2点理由があります。第1に所得が減少するからです。第2に従来出来ていたことができなくなるからです。ですから、自分で勝手に頑固で不機嫌にしているだけならまだしも、大昔の「いじわるばあさん」、長谷川町子さんの4コマ漫画でも、それを原作にしたテレビドラマでも、どちらも同じことですが、周囲の人に意地悪で仇なしてストレス解消を図ったりする場合もあったりするんだろうと思います。ですから、本書では第4章でお金や肩書に対する執着を捨てることをオススメしています。私は60歳で公務員を定年した後、再就職したので65歳でもう一度大学教員を定年退職しますが、その後は、特任教授でサラリーマンでいうところの定年後嘱託みたいに働くとしてもお給料はガクンと落ちるのではないかと想像していますし、さらに、最終的には年金生活に入ればもっと収入は減ります。ただし、経済学的にいえば、フローとしての年々の収入は減る一方で、ストックとしてはかなり蓄積されるだろう、というか、蓄積せねばならない、と考えています。ここで、ストックというのは衣類のようなハードなモノもあれば、知識やノウハウといったソフトなものも両方です。この蓄積が本書の副題の「品よく、賢く、おもしろく」をカバーしているような気がします。そして、第2章で加齢を怖がる必要はないと主張して、以前は出来ていたことができなくなる、という点にも言及しています。特に、加齢のひとつの結果としての認知症までOKという幅広い寛容度を示しています。私も実は大いに賛同するところがあります。やや差別的な表現を含んでいるかもしれませんが、その昔は、というか、今でも「ボケたもん勝ち」くらいに考えています。すなわち、現時点で認知症を怖がるのはムリないのですが、認知症になったら、それはそれで決して不幸でもないような気がします。こういった議論を知り合いとしてたところ、その知り合いから「認知症になったら食生活が大きく乱れて、残り寿命が短くなる」との反論を受けたのですが、まあ、それはそれでいいのではないか、という気もします。最後に、ケインズ卿が言及した血気=アニマル・スピリットというのは、じっとしていられなくて何かに取り組むという意味で、ハッキリいって、「落ち着きのなさ」の一種だと私は理解しているんですが、老いるに従って、というか、私の場合はこういったアニマル・スピリットをいうものを若いころから持ち合わせません。起業しても失敗するだけだということは大学生になる前から認識していました。ですから、私自身はムリをしない、がんばらない、そして、子供達や学生諸君にもがんばるとしてもムリはしない、というのを教えてきたつもりです。年齢を経るに従ってますますこの傾向が強まるような気がします。そして、私の場合だけかもしれませんが、最後は認知症、のような気がします。強くします。
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