今週の読書は経済に関する専門書と新書と小説を合わせて計5冊!!!
今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、大澤真幸『経済の起源』(岩波書店)は、社会学の観点から経済の起源についての議論を展開しています。ただ、生産と交換からなると私が考えている経済を交換の方に重点を置き過ぎているきらいはあります。続いて、小沼宗一『経済思想史入門』(創成社)は、タイトル通りに経済思想をアダム・スミスから始めて、ケインズとシュンペーターまで、代表的な6人のエコノミストの思想を取り上げています。続いて、桑木野幸司『ルネサンス情報革命の時代』(ちくま新書)は、活版印刷によって大量の情報が溢れ出てきたルネサンス期の文化を紹介するとともに、DXによるコモンプレイス化についても視野に入れています。最後の2冊は小説であり、あさのあつこ『飛雲のごとく』(文春文庫)は小舞藩シリーズの第2作であり、主人公の元服式からストーリが始まります。そして、最後の最後の山口恵以子『トコとミコ』(文春文庫)は、大正生まれの2人の女性、伯爵家のご令嬢と伯爵に使える家臣の娘が、戦中戦後を経て没落する特権階級とのし上がる実業家を代表しつつも、強い絆で結ばれあう90年に渡る長い長いストーリーです。
なお、今週の5冊を含めて、今年に入ってから新刊書読書は計121冊となりました。年間200冊のペースを少し超えていますので、少し余裕を持って新刊書ならざる読書にも励みたいと思い、小説とマンガを読みました。すなわち、小舞藩シリーズ第1作であるあさのあつこ『火群のごとく』は『飛雲のごとく』の前日譚であり、『日出処の天子』の作者として著名な山岸凉子の短編マンガ集『天人唐草』(ともに、文春文庫)を読みました。いずれもFacebookの然るべきグループでシェアしてあります。もちろん、本日の新刊書の読書感想文も、適当なタイミングで個別にシェアしたいと予定しております。
まず、大澤真幸『経済の起源』(岩波書店)です。著者は、社会学の研究者であり、本書も経済学の学術書ではなく、岩波書店の「クリティーク社会学」のシリーズとして出版されています。ですから、経済を交換の側面から捉えています。一応、交換と生産を考えているのですが、生産はまったく注目されていません。もっぱら交換に焦点を当てていると考えるべきです。そして、広く認められているように、最初に「物々交換」ありきではなく、贈与を置いています。もちろん、貨幣、ないし、貨幣的な目的で使われる貴金属などの商品貨幣も含めて、貨幣が導入されて現在に至っているわけですが、贈与を交換の前に置いているのは注目すべきかもしれません。そして、贈与については、贈る義務と受け取る義務とお返しをする義務の3つの側面を考えます。重要なのは、贈与の場合には購入や交換による所有ではなく、保有として処分に何らかの制約が加わる点です。すなわち、交換により入手した財については所有が適用されて、処分は意のままです。少し前の読書感想文で稲田豊史『映画を早送りで観る人たち』を取り上げ、私はサブスクであろうと何であろうと映画やドラマを早送りで観るのは消費の方法としてOKであり、芸術の鑑賞だけではなく、そういった早送りの消費も受容される旨を書きましたが、まさにそのような意味です。他方で、贈与されたものは勝手に処分することは憚られる、と本書では指摘します。本書では言及ありませんが、白い象がこれに当たりそうな気がして、私は読み込みました。よく知られた伝説で、その昔、タイの王が自分の嫌いな家臣に白い象を贈与し、維持費のかかる無用の長物として持て余す、という昔話があります。まさに、こういったことだろうと私は受け止めています。そして、貨幣が普及する中でヒエラルキーが形成され、逆に、分配の重視といった考えも生まれ、最終的には現在のような資本主義経済で商品として交換されるに至る、という歴史観が展開されています。私はエコノミストとして、本書で対象になっているような経済の歴史について、おおむね一致した歴史観をもっているつもりなのですが、唯一、生産をここまで軽視するのはどうか、という気がしています。すなわち、交換、あるいは、贈与については本書では一方的な経済行為であるとはみなしておらず、一種の交換、あるいは、少なくとも交換に先立つ経済行為と考えているようですから、贈与も含めた経済的な交換を考える場合、生産力が一定段階以上に発達して生産物に余裕があるとともに、社会的に分業が成立しているという条件が必要です。日本の昔話ではありませんが、海彦と山彦の間で、分業が成立していて、さらに、生産物を交換に回す余裕が生産力あって、その上で初めて贈与を含む交換が成り立ちます。その意味で、贈与を始めとする好感のバックグラウンドにある生産力の増大、そして、その生産力の拡大に伴う分業の進展も、出来ることであれば、経済の歴史でしっかりと見据えて欲しかった気がします。
次に、小沼宗一『経済思想史入門』(創成社)です。著者は、東北学院大学の研究者であり、専門は経済思想史です。本書は6章構成となっており、アダム・スミス、リカードウ、J.S. ミル、マーシャル、ケインズ、シュンペーターを、それぞれ取り上げています。タイトルに「入門」がついているだけに、比較的入門編の経済思想史といえます。逆に、本書の各章は大学の紀要論文が基になっているようなのですが、紀要論文のレベルがやや心配になったりします。それはともかく、スミスについては経済学の主著である『国富論』だけでなく、『道徳感情論』における共感の働きも含めて、平易にその経済思想を解説しています。ただ、いかにも古典派的な、というか、その後にケインズに批判された「節約の美徳」については、これも交易の重視から生じている点を見逃している気がします。リカードウやJ.S.ミルも同じ古典派と考えるべきなのですが、リカードウの比較生産費説も基本は同じで、分業に基づく交換、あるいは、交易の利益を強調しています。現在の用語で言い換えれば、ダイバーシティといっていいかもしれません。みんながバラバラであってもいろんなものを生産していて、それを交換すれば豊かな生活が送れる、という基本認識です。たとえ、バラバラに個人が勝手に生産をしていても、ある程度の期間があれば、市場の「見えざる手」が調整してくれる、という考えです。そして、その交換に出すためには、すべての生産物を自家消費していては交換が成り立ちませんから、生産力を伸ばすか、自家消費を節約するか、どちらかで交換、あるいは、言葉を変えれば、市場に出る生産物が増えるわけです。本書では、この意味を正しく把握していないのではないか、と私は危惧しています。いずれにせよ、ケインズが正しく批判したように、生活が苦しかったり、景気がっ悪かったり、あるいは、今のように物価が高かったりする時は、古典派的に家計レベルでコストを切り詰めるのではなく、ケイジアン的に政府のレベルで収入を増やすような政策を取るべき、というのがマクロエコノミストの結論ではないか、と私は受け止めています。本書では、マルクスは取り上げられていませんが、古典派が活躍した英国の時代背景として、土地持ちの地主と産業資本家の階級対立があった点は、本書でもしっかりと把握されています。エンゲルスの編集にして正しければ、マルクスの『資本論』第3巻は三大階級の章で締めくくられています。そして、これも有名なことながら、マルサスが地主の利益を代表して人口抑制を説いた一方で、ケインズが新興の産業資本家、マルクス的にいえばブルジョワジー、の立場に立って、マクロ経済学を展開していたのは広く知られているところです。最後に、ミルのような古典派では、いわゆる定常状態、本書では「停止状態」とされている定常状態に、いつかは、達するかどうか、について、イノベーションにより定常状態にはならない、というか、かなり先まで定常状態は来ない、と主張したシュンペーターの章で締めくくられています。
次に、桑木野幸司『ルネサンス情報革命の時代』(ちくま新書)です。著者は、大阪大学の研究者であり、専門は西洋美術・建築・都市史・ルネサンス思想史となっています。タイトル通りであれば、ルネサンスとは活版印刷に代表されるように情報革命が生じた時期、という議論が展開されていることを期待するのですが、ルネサンス期のさまざまな文化の紹介がほとんどを占めます。私はそれはそれでOKです。ルネサンスの文化といえば、そのものズバリで、ブルクハルトの『イタリア・ルネサンスの文化』があまりにも有名で、私も読んだことがあります。本書はさすがに並べて称するには引けを取ります。まあ、当然です。構成としては、ルネサンス期の地図から始まって、ルネサンスのひとつの大きな特徴であるエンサイクロペディックな百学連環、私の日本語変換では「百學連環」が出てきてしまいますが、まさに、さまざまな学問分野での知の進歩を概観し、本題の活版印刷に焦点を当てます。従って、その流れで、「書物は知の貯蔵庫から、情報伝達のメディアへと変容を遂げた」(p.106)といった主張も盛り込まれています。さらに、活版印刷で文字情報の洪水が現れた中で、コモンプレイス化=情報の固定化や典型化が進み、さらに、文字情報だけでなくイメージ情報も普及し、イメージとして記憶術も注目されるようになります。そして、文字情報とイメージを総合したものとして博物学が進歩し、世界の目録が作成される、ということになります。本書では、明るく肯定的なイメージのルネサンス文化の光に対して、逆に影を対地するでもなく、極めてニュートラルにルネサンス文化を考えています。21世紀のゲン菜も、ある意味では、ルネサンス期と同じような「情報の洪水」を我々は体験しているわけであり、ルネサンス期に開発された活版印刷の成果物としての書物に対応して、通信技術の進歩に伴ってサーバに蓄積される文字のテキスト情報とイメージの画像情報のどちらもが激増している、という点ではルネサンス期と同じです。本書のタイトルで「情報革命の時代」に我々は生きているのかもしれません。従って、溢れ出る情報をどのように整理するかを考える重要性が明らかで、まあ、流行りのキーワードでいえばデジタル・トランスフォーメーション(DX)なわけです。そして、そのDXの後に、というか、同時に考えるべき方向は、ひとつは、本書では何の言及もありませんが、GAFAのようにビジネスにDXされた情報を活かす、という方向性は考えられます。もうひとつは、私の属する業界である教育にいかに活かす、という方向性も考慮されるべきであると私は考えています。もちろん、特定の業界や方向性に従うだけではなく、それぞれの部署での作業効率の向上に活かす、というのも一般的かもしれません。ルネサンス期とは技術特性がまったく異なりますから、大量の情報処理に関しては、直接の応用は難しいと考えるべきですが、情報をいかに整理してコモンプレイス化するか、という観点では、ひょっとしたら、ルネサンス期から何か参考になる視点が得られるかもしれません。
次に、あさのあつこ『飛雲のごとく』(文春文庫)です。著者は、とても売れている小説家であり、「バッテリー」のシリーズのような現代小説とともに、本書の「小舞藩」シリーズや私も新作を熱心に追いかけている「弥勒」シリーズのような時代小説の作品もあります。どうでもいいことながら、「弥勒」シリーズは光文社ですが、この「小舞藩」シリーズは文藝春秋だったりします。ということで、本書は「小舞藩」シリーズの第2作であり、第1作の『火群のごとく』から4年を経過しています。主人公の新里林弥の元服の儀からストーリーが始まります。元服の儀における烏帽子親を務めるのは先の大目付である小和田正近です。この烏帽子親について詳述すると、第1作の『火群のごとく』のネタバレになってしまいます。なお、以下、本書では特段の謎解きなんかがないと思いますので、ストーリーを少していねいに追いますが、あるいは、解釈によってはネタバレを含むかもしれません。未読の方はご注意ください。元服して新里家の当主となりましたので、林弥は兄の名であった「結之丞」を名乗ることを小和田正近から示唆されますが、林弥は今しばらく「結之丞」の名乗りを控えます。さらに、元服して一家の当主となってもお役には就けません。ですから、まあ、ヒマにして引き続き道場に通ったりしているわけです。樫井透馬は傷の手当のために江戸に去り、そして、同じ道場に通う友人であった上村源吾は前作で亡くなっていますし、山坂和次郎はすでに普請方の勤めに出ていたりします。しかし、当然のように、樫井透馬が小舞藩に戻って来て、まずは、前作と同じように新里家に居候します。そして、この『飛雲のごとく』では、前作の『火群のごとく』と違って、かなり淡々とストーリーが進みます。しかし、樫井透馬が居候している新里の家が刺客によって襲われます。山坂和次郎の助太刀もあって、樫井透馬と新里林弥はこの襲撃を退けます。そして、樫井透馬と新里林弥は樫井の家老宅に乗り込みます。樫井透馬はすでに父親で家老である信右衛門から跡継ぎに指名され藩からも認められています。その代償として新里林弥と山坂和次郎を樫井透馬の近習とすることが決まります。最後に、新里林弥の兄嫁の七緒が落飾します。というストーリーなのですが、私が気にかかっているのはただ1点です。すなわち、新里林弥と山坂和次郎は下士とはいえ、藩主の直接の家臣である一方で、この作品では家老の家柄とはいえ樫井透馬の近習、すなわち、藩主の家臣の家臣、陪臣となるのですが、それはどのように考えるべきなのでしょうか。封建時代の昔にあっては、やや不名誉な雇われ方、と受け止められないのか、やや心配です。むしろ、現代的に実質を取って、藩政への影響力という点では下士でいるよりも、陪臣とはいえ家老の家臣になる方がいいのでしょうか。まあ、私はこの「小舞藩」シリーズの第1作と第2作の本書はともに新刊された文庫本で読んでいて、単行本ではすでに第3作の『舞風のごとく』も出ていますので、私の疑問への回答は明らかになっているのかもしれません。第3作は昨年2021年10月の出版ですから、新刊書読書の範囲でしょうし、読み進みたいと思います。
最後に、山口恵以子『トコとミコ』(文春文庫)です。著者は、当然に小説家なのですが、この作品よりも「食堂のおばちゃん」シリーズで有名なのではないか、と私は受け止めています。これまたどうでもいいことながら、本書は文藝春秋から出版されていて、私の勤務大学は文春文庫をシッカリと所蔵してくれているのですが、「食堂のおばちゃん」シリーズはハルキ文庫ではなかったかと記憶しています。なぜか、大学の図書館では所蔵されていません。ということで、本書は大正から昭和、平成に渡る2人の女性の6歳から96歳までの90年間の人生を描き出しています。トコこと六苑塔子は大名華族の伯爵家のご令嬢であり、ミコこと寺井美桜子はその伯爵家の家扶として資産運用にあたっている旧家臣の家の娘です。伯爵のお屋敷の敷地内にある御小屋で両親とともに暮らしています。六苑伯爵は外交官としてロンドン勤務で、トコも英国生まれなんですが、トコとミコが小学校に上る直前の昭和2年に帰国します。そして、ミコがトコの御学友に指名されて、お屋敷でトコと遊ぶことになるわけです。小学校は学習院と地元の区立小学校に分かれますが、学校から帰ってからはミコがお屋敷に向かう、ということになります。そして、英国帰りのトコからミコは英語や英国刺繍(イングリッシュ・ニードルポイント)を習います。戦後に華族制度は廃止されるわけですが、まだ、終戦まで間のある時期に1人娘のトコは婿養子をもらうのですが、その際の伯爵家のお国入りが、ちゃんと取材されているとはいえ、やたらと豪華でびっくりさせられます。講座派の歴史家が戦前の日本では封建制の残滓がいっぱい残っていて、社会主義革命の前に民主主義を徹底するために前段階の革命が必要である、と二段階革命論を論じた理由がよく理解できます。それはともかく、戦後、当然にして、六苑伯爵家はお屋敷を占領軍に接収されたりして大いに没落するわけです。それを実業家として支えるのが、日本女子大を卒業したミコなわけです。占領軍将校と渡り合って、六苑伯爵家のお屋敷に併設されていた離れでナイト・クラブを営むことから始めて、旧伯爵家が経済的に困窮しないように働きまわるわけです。独立を回復してからは、旧伯爵のお屋敷を買い取って結婚式場として、団塊の世代がその昔の「適齢期」に達する時期を見計らって事業展開したりして、ミコは女性実業家としても頭角を現します。他方で、トコは旧華族の肩書もあって、マナーの専門家としてテレビで活躍したりします。しかし、バブルの波に襲われて旧伯爵家のお屋敷は地上げにあってしまい、ミコの事業も結婚式から葬式に転換を失敗し、ミコは行方不明となります。しかし最後に、英国刺繍(イングリッシュ・ニードルポイント)の縁で2人は20年ぶりに96歳で再会する、というストーリーです。かなりスッ飛ばしましたが、トコとミコの関係は決してベッタリではありませんし、もちろん、旧藩主と家臣ではありえません。実に、ビミョーな関係です。そのうちに、大河ドラマには苦しいでしょうが、NHKの朝ドラになることを願っています。
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