夏休みの今週の読書は小説と新書ばかりで計7冊!!!
今週の読書感想文は以下の通りです。経済書はナシで、小説と新書ばかりの計6冊です。
なお、今年の新刊書読書は、1~3月期に50冊、4~6月期に56冊、従って、今年前半の1~6月に106冊、そして、7月23冊、8月に入って先々週5冊、先週6冊、今週は7冊ですから、今年に入ってから147冊となりました。年間200冊のペースを超えているかもしれません。なお、新刊書読書ではなく、古典を読む方はカール・ポパーの『開かれた社会とその敵』第1部プラトンの呪文を読み始めました。
まず、伊坂幸太郎『ペッパーズ・ゴースト』(朝日新聞出版)です。著者は、私なんぞが紹介する必要のないくらいの売れっ子のミステリ作家です。出版社でも力が入っていて、特集サイトがあったりします。ということで、飛沫感染により他人の明日のことを少しだけ「事前上映」によって見ることが出来るという不思議な能力を持った中学校の国語教師を主人公にしてストーリーが進みます。この特殊能力は父親からの遺伝らしいです。そして、中学校の担任をしているクラスの女子生徒から自作の小説を渡されるのですが、そこではネコを虐待する人達に対する復讐、というか、懲罰を実行する2人組が登場します。実に、劇中劇のようないわゆるメタ構造になっているわけですが、sこはいかにも伊坂幸太郎作品らしく、その女子生徒の小説に登場する2人組が現実化して、というか、何というか、中学校教師の前に実際に現れ、別の男子生徒の父親である内閣情報調査室のエージェントを巻き込んで、大きな事件、自爆テロの被害者のサークルが企てる陰謀を未然に防ぐべく中学教師が奮闘する、というミステリです。さらに、そこに、野球の話が絡んだり、ニーチェの哲学、特に、永遠回帰が大きな役割を果たしたり、テレビのワイドショーの不埒なコメンテータが登場したりと、私ごときの読書感想文の範囲では扱い切れないくらい、とても複雑怪奇ながら、いかにもこの著者らしく、ジェットコースターに乗ったようなスリリングな展開が楽しめます。なお、タイトルとなっている「ペッパーズ・ゴースト」という用語はp.210に解説があり、劇場や映画の手法のひとつで、照明やガラスを使って別の場所の存在をあたかもそこにあるように登場させるものだそうです。女子生徒の小説に登場する2人組のことを指す意味で使われています。ついでながら、ニーチェの『ツァラトゥストラ』に見られる哲学が随所に登場するのですが、超人とか、永遠回帰とか、いろいろとニーチェ哲学についても、私のような教養の水準が低い読者向けなのか、何なのか、p.256あたりから、登場人物の会話という形で解説がなされています。出版社からして、新聞連載小説だったのかと思わせつつ、我が家で購読していながら記憶になかったのですが、書き下ろしのようです。繰り返しになりますが、ジェットコースターに載っているようなスピーディでスリリングな展開とともに、いろんな伏線がばらまかれて、それが終盤にかけて見事に回収される、という意味で、いかにも伊坂幸太郎らしいエンタメ小説に仕上がっています。私のように、この作者のファンであれば、控えめにいっても、読んでおいて損はないと思います。
次に、今野敏『探花』(新潮社)です。著者は、これまた、警察ミステリの第一人者であり、日本でももっともポピュラーなミステリ作家の1人です。この作品は「隠蔽捜査」シリーズの第9巻ですが、途中に3.5巻とかがあって、10冊目ではないかと思います。ということで、警察庁のキャリア官僚であり、大森警察署長から前作の最後に神奈川県警の刑事部長に人事異動した竜崎を主人公に、同期入庁で警視庁の刑事部長であり、幼なじみでもある伊丹を配した警察ミステリです。この作品では、横須賀で起きた殺人事件が発端となります。この事件の目撃者が、現場からナイフを持った白人が逃走した、という目撃証言があったことから、米海軍の犯罪捜査局から特別捜査官が派遣されることになります。日経米国人で日本語にも流暢なこの特別捜査官が捜査本部に加わって、県警上層部からは敬遠されながらも着実に捜査が進みます。そこに、まったく別件で竜崎の長男が留学先のポーランドで逮捕連行されたとみられる動画がSNSにアップされ、竜崎は知り合いの外務省の官僚から情報を収集したりします。加えて、竜崎と伊丹の同期入庁のキャリア警察官僚で、同期入庁の中でトップの成績を収めた八島が福岡県警から神奈川県警警備部長に異動してきます。なお、入庁者の間の成績順位をこの作品中ではハンモックナンバーと称されていますが、キャリア公務員を定年退職した私なのですが、初めて聞き及びました。このハンモックナンバーの順で、昔の中国の官吏登用試験である科挙になぞらえて、1番が状元、2番が榜眼、そして、3番が探花であり、竜崎の合格順位を象徴させているようです。そして、ハンモックナンバー1番の八島は、昇進のために同期入庁者を遠慮なく追い落としたり、陥れたりする、という情報を竜崎は伊丹から仕入れるのですが、結局、殺人事件はその八島が一定の役割を果たして解決し、竜崎の倅の動画の件も解明されます。まあ、ハッピーエンドで終わる小説が多いんですから当然です。作品冒頭で波乱を予感させた米海軍との関係は、特段の悶着を生じることなく、平穏無事に捜査は進みます。竜崎と共同戦線を張って八島に仇なそうと考えていたらしい伊丹だけがややフラストレーションを残していたようで、「八島をやっつけようぜ」といって終わります。続巻が楽しみです。
次に、窪美澄『夜に星を放つ』(文藝春秋)です。著者は、いうまでもなく小説家なんですが、この作品は先日の第167回直木賞受賞作品です。短編5話から編まれています。全体として、何らかの喪失感のようなものを持った登場人物が希望をつかむという意味で、とても前向きで肯定的な小説に仕上がっています。本のタイトルから理解できるように、星や星座がモチーフとして各短編に含まれています。ということで、「真夜中のアボカド」では、コロナ禍で世の中が一変した中で、30歳を過ぎた独身女性を主人公に、婚活アプリで出会った恋人との関係、30歳を前に早世した双子の妹の婚約者との交流を通して、人の別離の悲しみを描きつつ、その先にある希望を強く示唆しています。「銀紙色のアンタレス」では、男子高校生の主人公が夏休みに海から近い祖母の家に泊まりに来て、小さな赤ちゃんを抱いていた女の人が気になり強い関心を持ちます。他方で、高校は違うものの幼なじみの女子高校生が泊まりに来る、という、何だか三角関係のような高校生のほのかな恋心を暖かく描いています。「真珠星スピカ」では、交通事故で他界した母親が幽霊となって主人公の女子中学生の家に戻ってきて、無言のまま同居します。主人公は目がつり上がっていて狐女と呼ばれていじめにあいますが、霊感鋭い同級生から霊が憑いていることを見抜かれたり、学校で流行しているこっくりさんのお告げなどにより、クラスの同級生の態度が変わっていきます。「湿りの海」では、中年男性が主人公で、妻が別の男に恋して娘を連れて米国アリゾナに行ってしまったのですが、隣室に娘と同じくらいの年齢の女の子を連れたシングルマザーが引越してきて、日曜日はその母子といっしょに公園で遊んだりするようになります。このあたりの距離感の設定、というか、描写はとても感じがいいものでした。最後の「星の随に」では、小学生男子の主人公に継母、というか、新しいお母さんが来て、しかも、年の離れた弟まで出来ます。そして、学習塾からの帰りに部屋から閉め出されてしまいますが、同じマンションで絵を描くおばあさんが夕方から面倒を見てくれることになります。5編の短編のうち、3編が小学生、中学生、高校生で、それぞれの年代を代表するような意識や行動を見せます。それがかなり自然なものに私は受け取りました。まあ、私の子供のころ程は無邪気ではなく、意識が高く、情報も豊富なのだろうという気はします。それほど、単純なハッピーエンドではありませんが、たとえ誤解に基づく結論であっても、前向きな姿勢を感じ取れる作品でした。
次に、佐野広実『誰かがこの町で』(講談社)です。著者は、江戸川乱歩賞受賞のミステリ作家であり、本書は江戸川乱歩賞受賞後の第1作です。ギリギリ東京通勤圏にあり、それなりの高級住宅街を舞台に、強力な忖度と同調圧力の下で、あからさまな違和感ある住民行動が見られるようになり、明白な犯罪行為がまかり通るようになった街における殺人事件を明らかにするミステリです。首都圏にある弁護士事務所に若い女性がやって来て、孤児で自分の出自を知りたく、事務所の主である女性弁護士の大学時代の友人の娘ではないか、と依頼します。小説の主人公となるのは、この弁護士事務所の調査員で、この事件と人生がシンクロしたりします。そして、依頼者の若い女性と主人公の調査員が事件の舞台となった町に乗り込んで現地調査を始めます。住宅地化される前からの、まあ、いわば土着の住民の協力を得つつ、弁護士の大学時代の友人であり、依頼者の両親かもしれない一家が、この新興住宅地でどのような事件に巻き込まれたかが徐々に明らかになります。その背景として、その町の異常性が浮き彫りにされます。町の住民はすべて品行方正で正しく、何らかの不都合はすべて町の外の侵入者の仕業であるとか、逆に、町の運営に非協力的な家族は追い出しかねないとか、現在の首都圏では潜在的には可能性は否定しないまでも、とても考えられないような町と住民の姿勢が恐ろしく感じられます。ミステリとしては、初めから真相がほのかに明らかにされている上に、タマネギの皮を剥くように徐々に真実が明らかにされるタイプのミステリであり、私が好きな展開なのですが、町と住民のありようがとても異常過ぎて、リアリティに欠ける印象を持ちました。ただ、ここまでではなくても、一部とはいえ、こういった雰囲気を持つ町はあるのではないか、という気もします。
次に、嶋田博子『職業としての官僚』(岩波新書)です。著者は、人事院出身で、現在は京都大学の研究者です。私の知る限り、経済学や心理学にはミクロとマクロの2つのアプローチがあるのですが、大雑把に、本書でも統計から公務員制度を把握するマクロの観点と個別のインタビューによるミクロの公務員像を提供しようと試みています。ただ、私から見れば、少なくともミクロの公務員像の提供には失敗しています。すなわち、かなりの高位高官しかインタビューの対象にしていないからです。ですから、上司から部下を見た公務員像しかなくて、「私の若いころに比べて」といったお話に終止している気がします。私が公務員に就職した1980年代前半は、まだ週休2日制ではなく、私が記憶する限り、土曜日がお休みになったのは1991年からですし、中曽根内閣の時には人事院勧告が凍結されたりもしました。本書でも、p.65で労働三権の制限は公務労働者として一定の合理性を認めていますし、私もそう思うのですが、その労働権制限の代償措置としての人事院勧告が無視されるのは由々しきことだろうと思います。ただ、キャリアの公務員の場合、お給料を考える場合は大学時代の同窓生と比較になりますので、まあ、東大や京大の卒業生と比べるわけですので、もう少し欲しい気もしました。よく、教員給与が国民平均よりも高いのは大卒だから、という理由が上げられますし、キャリア公務員も同じかもしれません。最後に、本書を読む限り、公務員の実像はかなりアッサリとしか取り上げられておらず、少し物足りない気もします。
次に、杉田弘毅『国際報道を問いなおす』(ちくま新書)です。著者は、共同通信のジャーナリストです。タイトルは国際報道ということで、海外情報一般へのアクセスを対象にしているように見えますが、エコノミストから見て経済情報は本書ではまったく無視されている気がします。でも、戦争や政治・外交などに着目した本書も十分迫力あります。私の知り合いはジャーナリストはエッセンシャルワーカーであり、リモート勤務では正しい報道は出来ない、という意見を持つ人もいて、本書でも同じ姿勢が示されている気がします。参考になったのは、第3章の米国のジャーナリスト対応です。親米的なジャーナリスト、というか、ジャーナリストに限らず文化人などで影響力ある人物に対する米国のアプローチは秀逸だという気がします。加えて、現在の日本でも問題になっているように、広告代理店と行政、あるいは、報道との関係についても考えさせられるものがありました。最後に、いつものテーマで権力との距離感についても、回答のない問かもしれませんが、ウォーターゲート事件に対する考え方などから、ジャーナリストとしての著者の矜持を見ることが出来た気がします。情報を持っている権力に近づいて情報を得るジャーナリストは、他方で、権力への忖度だけでなく、権力との同化まで起こす可能性があります。権力との一定の距離を保ち、緊張感ある報道が望まれます。
次に、塚崎公義『大学の常識は、世間の非常識』(祥伝社新書)です。著者は、興銀勤務から大学の研究者に転じたエコノミストです。私も似たような職歴なのですが、経済系の場合、こういった実務経験教員が他の学問分野よりも多そうな気もします。私もそうです。私の場合はいかにも日本的な地方大学で、まったく国際化が進んでいないにもかかわらず、何故か外国人留学生をいっぱい受け入れてしまったため、留学大学院生ばっかり対応させられています。2年半で3人の外国人留学生の修士論文指導をしましたので、そろそろ解放されたいと思っています。そういった特殊技能がなければ、例えば、本書の著者の場合、地方大学で楽しく過ごすのは難しいかもしれません。すなわち、東大卒で興銀に入って、絵に書いたようなエリートコースに乗っていたと自負していたのでしょうが、九州の地方圏の大学に赴任して論文執筆で評価される中、その論文を書けず、博士号も持っていないとなれば、大学教員カーストでは下位に甘んじなければならず、大きなルサンチマンを感じていたのであろうと想像します。それが行間ににじみ出ています。私は年1本なりとも、査読なしの紀要論文なりとも、学術論文を書くようにしていますが、くだけた一般向け書籍は書けても、作法に則った論文は書けない人は多かろうと思います。それはそれで、訓練なのですが、本書の著者におかれましては、あまりにプライドが高くて、そういった作法を身につけるという観点がなく、独自の価値観のままに日々を過ごしたのではなかろうかという気がします。論文の作法という点では茶道と同じです。別にノドの乾きをいやすのであれば、七面倒な作法は必要ないのですが、それでもお作法を重視しなければならないケースはあります。それに対する理解がなく、ヘンにプライドばかりが高いと、本書の著者のような目に遭うハメに陥るんだと思います。私のような出世からほど遠かった公務員が、定年退職後に生まれ故郷に戻るのであればともかく、わざわざ地方大学に転職してヤな思いをするくらいなら、東京でエリート銀行員をしていた方がいいのに、と思ってしまいました。
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