今週の読書感想文は以下の通り計5冊です。
まず、平井俊顕『ヴェルサイユ体制 対 ケインズ』(上智大学出版)は、欧州諸国を相手に回して、戦間期においてケインズ卿がワンマンIMFの働きを見せる姿が活写されています。道尾秀介『いけない II』(文藝春秋)では、第1作の蝦蟇暮倉市から箕氷市に舞台を替えて、不気味な出来事が連作短編の形で4話収録されています。重田園江『ホモ・エコノミクス』(ちくま新書)では、経済学で前提される合理的な個人について政治社会思想史の観点から跡づけています。渡辺努『世界インフレの謎』(講談社現代新書)では、物価に関する我が国第1人者のエコノミストが、日本の慢性デフレと急性インフレについて分析を試みています。最後に、ピーター・スワンソン『アリスが語らないことは』(創元推理文庫)では米国東海岸を舞台に殺人事件の謎解きがなされます。最後に、読み通したわけではなく、辞書的に座右においてあるだけで、読書感想文の5冊の外数ですが、ジョン・モーリー『アカデミック・フレーズバンク』(講談社)を買い求めて活用に励んでいます。
ということで、今年の新刊書読書は、1~3月期に50冊、4~6月期に56冊、従って、今年前半の1~6月に106冊、そして、夏休みを含む7~9月に66冊と少しペースアップし、10月には25冊、11月に入って先週までで13冊で今週は5冊ですので、今年に入ってから215冊となりました。
まず、平井俊顕『ヴェルサイユ体制 対 ケインズ』(上智大学出版)です。著者は、上智大学名誉教授であり、ケインズ学会会長ですから、我が国のケインズ研究の大御所といえます。そして、特筆すべきはタイトルであり、まさに、ヴェルサイユ体制にたった1人で孤軍奮闘して立ち向かったケインズ卿の姿が分析対象となっています。もちろん、若き日のケインズから始まって、ケンブリッジでの生まれ育ちやブルームズベリー・グループにも言及されていますが、「平和の経済的帰結」からのあまりにも有名なケインズ卿の慧眼に焦点が当てられています。本書の図コープとしては、対ヴェルサイユ体制であって、第2次世界対戦の後処理である世銀・IMFの創設までは含まれていませんが、ヴェルサイユ体制を相手に回してのケインズ卿の1人国際機関としての活躍が余すところなく活写されています。そうです。まさに、ケインズ卿1人で国際機関の役割を果たしていたといえます。私は劇画の「ゴルゴ13」が好きで、まさに、ゴルゴ13がワンマンアーミーとして20-30人の軍を相手に立ち回るシーンを何回か見てきましたが、本書でのケインズ卿は、現時点での国際機関になぞらえれば「ワンマンIMF」であり、国際金融制度を1人で背負って立っています。対独報復的なフランスの過剰な賠償要求に対して、キチンとした経済計算に基づいて反論し、債務返済の現代流にいえばヘアカットの必要性につき分析しているのがケインズ卿です。歴史がその正しさを立証していて、ヴェルサイユ体制がナチスにつながったのは明らかといえます。しかも、私も経済学者=エコノミストの端くれとして驚愕するのは、戦間期にこういった国際金融制度の中で大きな役割を果たすと同時に、『雇用、利子及び貨幣の一般理論』によりマクロ経済学を確立し、米国のニューディール政策の理論的基礎を打ち立てている点です。私なんぞは、キャリアの国家公務員として経済政策策定の最前線に60歳の定年までいながら、政策策定の実務上も、もちろん、理論展開上も、何らの目立った貢献も出来ませでしたが、まるでモノが違います。国際金融交渉の場におけるワンマンIMFとしての活躍、さらに、マクロ経済学樹立のアカデミックな活躍に加えて、おそらく、ケインズ卿は母国である英国に何らかの有利な方向性も模索していたのだろうと私は想像しています。ただ、そういった英国の国益追求という面は、本書では強調されていません。最後に、出来うべくんば、平井先生に本書の続編を書いていただき、第2次世界対戦の戦後処理のうち、世銀・IMFの創設、特に有名な英国のケインズ案と米国のホワイト案の議論なども取り上げていただきたい、と切に願っております。
次に、道尾秀介『いけない II』(文藝春秋)です。著者は、中堅どころのミステリ作家であり、やや暗い作風ながら、私の好きな作家の1人です。本書の前編の位置づけであろう『いけない』は海岸沿いの蝦蟇倉市から、本作品では箕氷市に舞台を移します。海は出てこずに山が舞台となる作品がいくつか収録されています。牡丹農家も多いようです。4編の短編を収録しています。第1話「明神の滝に祈ってはいけない」では、1年前に忽然と姿を消した姉のSNS裏アカを発見した妹が、姉が最後に訪れたとみられる明神の滝に向かい、同じように失踪してしまいます。その明神の滝には願い事をかなえてくれる代わりに、大事なものを失うという言い伝えがあったりします。第2話「首なし男を助けてはいけない」では、小学5年生の少年が主人公となり、引きこもりで首吊り人形を作り続けている伯父さんに、ちょっとエバッた同級生に肝試しでいたずらを仕かける人形の工作の相談に行くところから始まります。収録された4編の小説の中では、ストーリーとしては一番怖い気がします。第3話「その映像を調べてはいけない」では、家庭内暴力を振るう子供を殺したと老夫婦が警察に自首するところから始まります。しかし、この第3話の中心は、いかにも怪しい老夫婦の自主内容ながら、その怪しさは次の第4話で謎解きされます。第4話「祈りの声を繋いではいけない」では、第3話の謎解きを中心に、それまでのすべての謎が明らかにされます。ストーリー、というか、小説で語られる事実としては、第2話が一番怖い気がしますが、第1話とこの最終第4話は、ともに、子供を失った、あるいは、亡くした両親の心理描写がとても狂気にあふれるとまではいいませんが、かなり不気味で、このあたりに道尾秀介のミステリ作家としての本来的な能力を感じます。そして、各短編が終了した最後のページに写真が示されています。第3話の写真なんか、ネットでの謎解きを見るまで、感性も頭の回転も鈍い私には理解が進まなかったのですが、第2話の最後の写真は、すぐに理解できました。とても不気味な事実を示唆しています。合わせて、感じるものがある、あるいは、怖がることができたりすれば、さらに本書の、あるいは、道尾作品の読書の楽しみが増えそうな気がします。
次に、重田園江『ホモ・エコノミクス』(ちくま新書)です。著者は、明治大学の研究者であり、専門は現代思想・政治思想史のようで、フーコー研究者です。ですから、本書の副題は『「利己的人間」の思想史』とされており、経済学的な合理性や限定合理性とか経済哲学的な観点は希薄になっていて、歴史的に経済学がホモ・エコノミクスを前提にする前から、政治社会的な部分も含めての思想史をひも解いています。ですから、逆に、一般ビジネスパーソンには読みやすくなっている気もします。3部構成であり、第1部は富と徳に焦点を当てて、この両者が必ずしも両立せず、古代・中世などの前近代においては、決して「金儲け」が徳ある行為とみなされずに、やや蔑まれていた事実を指摘しています。第2部ではホモ・エコノミクスの経済学を取り上げて、スミスらの古典派経済学から現在までの主流派経済学の中核をなしている新古典派的な限界革命を経て、経済活動だけではなくホモ・エコノミクスが広範な領域に進出し、自己利益の追求が「背徳」的な行為ではなくなって、普遍的な価値観として受け入れられる時代を概観します。そして、最終の第3部ではホモ・エコノミクスの席捲として、シカゴ学派のベッカー教授の経済学帝国主義的な視点などを取り上げています。私の方から、2点だけ指摘しておきたいと思います。すなわち、第1に、本書冒頭で取り上げている公正世界仮説が心理学の学問領域でどこまで認識されているかについて、私は不勉強にしてよく知りませんが、ほかの学問領域は別としても、少なくとも、経済学においてはホモ・エコノミクスを経済モデルの前提にするのは第1次アプローチ=接近としては、十分に合理的であろう、と私は考えています。このホモ・エコノミクスのモデルから、現実に合わせる形でモデルの修正がなされればいいわけです。ただ、従来から指摘している通り、経済学の未熟な点として、モデルを現実に合わせるのではなく、現実の方をモデルに合わせてしまうという欠点は忘れるべきではありません。ですから、ホモ・エコノミクスの合理性のうち、何らかの前提を緩めるという作業が必要なわけです。合理性で前提される完備性、推移性、独立性のうち、ツベルスキー-カーネマンのプロスペクト理論では独立性の前提を緩めているわけですし、そもそも、個人レベルではなく社会レベルではアローの不可能性定理により推移律が成り立たない点は証明されています。限定合理性を含めたモデル化も進んでいます。第2に、ホモ・エコノミクスとは、本書でも指摘しているように、私利私欲を基にした強欲な個人的利益追求主体であるというわけではなく、何らかの効用関数に則って合理的に行動する経済主体と考えるべきです。ですから、「強欲」とかのネガなイメージは効用関数に含まれる説明変数とその偏微係数の大きさによります。かなり説明を端折りますが、結論として、現在、「行動経済学」としてもてはやされているインセンティブによる個人の選択行動へのパターナリスティックな「介入」には、私は大きな疑問を持っています。場合によっては、そういったインセンティブによるナッジなんてものに影響をまったく受けないホモ・エコノミクスの方が、まあ、強くいえば、私には好ましい存在にすら見える場合があります。ひょっとしたら、暗黙裡にそういうホモ・エコノミクスを私自身は目指しているのかもしれません。
次に、渡辺努『世界インフレの謎』(講談社現代新書)です。著者は、日銀ご出身の東京大学の研究者であり、物価の研究に関しては我が国の第1人者と見なされています。本書では、現在の世界的なインフレは、従来型の需要の超過によるディマンドプルのインフレではなく、供給サイドに起因するインフレであると結論つけています。そんなことは判りきっていえるというエコノミストも多いかと思いますが、単純にコストプッシュだと分析しているのではなく、供給が不足もしくはミスマッチしており、その背景には新型コロナウィルス感染症(COVID-19)パンデミックに起因する消費者や労働者や企業の行動変容があると指摘しています。すなわち、サービス経済化の逆回転が生じて、旅行や外食やといったサービス需要から、巣ごもり需要のモノに消費者の支出がシフトし、労働者は密な職場に帰りたがらず、在宅勤務できる職種に転職したり、あるいは、縁辺労働者は非労働力化したりし、最後に、企業活動ではグローバル化の逆回転が生じ始めている、といったところです。その上で、世界インフレから日本国内の経済とインフレに目を転じて、日本では慢性デフレと急性インフレが共存していると指摘しています。そして、かつての物価上昇期における賃金-物価のスパイラル、すなわち、企業が製品価格引上げ⇒生計費上昇分の賃上げ要求⇒賃金引上げ⇒コストアップ分の価格転嫁⇒製品価格引上げ、のサイクルが、現在の日本ではまったく同じメカニズムにより製品価格と賃金がともに上昇率ゼロで「凍結」されている、と指摘しています。そして、この「凍結」を賃金を起点に「賃金解凍」する条件として3点上げています。第1にインフレ期待の醸成、第2に賃上げ部分が価格転嫁できるという期待の醸成、そして、第3に労働需給の逼迫、となります。細かい論旨は本書を読むしかありませんが、とても注目すべき分析です。もっとも、私が感銘したのは、世界のインフレと日本国内の「慢性デフレに「急性インフレ」を切り分けて分析を進めている点です。世界が利上げしているのだから円安が進み、円安抑制のために日本も利上げすべき、といった乱暴は議論とは大きく異なります。ただ、金融政策の役割に関して疑問点があり、2点だけ上げておきたいと思います。第1に、現在の世界的なインフレをほぼほぼ実物の需給だけで理解しようと試みていますので、金融政策のインフレに果たした役割がスッポリと抜け落ちています。現在のインフレは大きく緩和されていた2022年初頭までの金融政策が、フリードマン教授のようにすべての原因、とまで私は考えませんが、ひとつの無視できない要因だと考えています。すなわち、あくまで一般論ながら、金融緩和の下で大きく増加した通貨供給は中央銀行の準備預金として「ブタ積み」される部分もありますが、一定の購買力となってフローの財・サービスとストックの資産に向かいます。前者の財・サービスに向かえばインフレとなりますし、後者の資産に向かえば、すぐではないとしても、行き過ぎればバブルになります。そして、今回の世界インフレの元凶であるエネルギー価格の高騰は、おそらく、ドル通貨の過剰供給が資産としての石油に向かったのが一因です。金とか、その昔のゴルフ会員権とか、有名画家の絵画、などであれば実物経済への影響はそれほど大きくありませんが、石油価格は実物経済への影響はかなり大きいと考えるべきです。ですから、商品市況で金などの貴金属、あるいは、非鉄金属や穀物といった商品=コモディティという資産として石油が価格高騰し、その資産価格の高騰がフローの財・サービスに影響を及ぼしている可能性を忘れるべきではありません。ですから、米国の金融引締めによってドル供給が縮小すれば石油価格は落ち着きを取り戻すと考えられます。おそらく数四半期、すなわち、1年から、早ければ来年半ばにも事実として観察されるものと私は考えています。第2に、金融政策は需要のみの管理にとどまる政策ではありません。このあたりは、中央銀行と政府の政策のタイムスパンの考え方の違いで、すなわち、私の理解によれば、中央銀行では景気循環の1循環、すなわち、数年をタイムスパンとして金融政策を考えているのに対して、政府では、極端な例としては「教育は国家100年の計」なんてのがありますが、もっと長いスパンで政策を考えます。景気循環1循環では、確かに、金融政策は供給サイドに大きな影響を及ぼすことは難しそうですが、もっと長いタイムスパンで考えれば、利子率が設備投資に影響し生産や供給に何らかのインパクトを持つことは明らかです。まあ、第2の点は大したことではないかもしれませんが、第1の点の緩和的な金融政策が現在の世界インフレをもたらしたひとつの要因であるという事実を本書ではほぼほぼ無視しており、私の目にはこの点がとても奇異に感じます。ですから、現在の米国における金融引締めは、単に米国の国内需要を下押しするだけでなく、資産価格としての石油の価格を引き下げる効果も十分持っていますし、この米国の金融引締めに日本はフリーライドして、棚ぼたの利益を受ける可能性がある、と私は期待していたりします。
最後に、ピーター・スワンソン『アリスが語らないことは』(創元推理文庫)です。著者は、米国のミステリ作家であり、私はこの作者の『そしてミランダを殺す』も読んでいます。実は、この作者の作品としては、本書と『そしてミランダを殺す』の間に『ケイトが恐れるすべて』という作品があるのですが、これは未読です。英語の原題は All the Beautiful Lies であり、ハードカバーもペーパーバックもともに2018年の出版です。まあ、この英語の原題と邦訳のタイトルを考え合わせると、いかにも、アリス=主人公の継母が嘘をつきまくっている、あるいは、重要な事実を隠しているのだろうという想像ができてしまいますが、ここまでは読まなくてもタイトルだけから感じ取れる範囲ですので、何らネタバレではなくOKと考えます。2部構成となっていて、第2部に入るとガラッと景色が変わり、謎の解明が大きく進展します。ということで、主人公は稀覯本書店を経営する父親を持ち、大学を卒業する直前の大学生です。舞台はメイン州、典型的なニューイングランド、米国の東海岸です。そして、卒業式を数日後に控えた主人公に父親が海岸から転落死したという知らせが入り、卒業式を欠席して大学から実家に戻ります。稀覯本書店を経営していた父の後妻がアリスなわけです。後に警察の調べが進んで、転落による事故死ではなく殺人の線が浮かび上がります。邦訳本で10ページ前後からなる各章が交互に、厳密ではありませんが交互に、現在の主人公の実家周辺と過去、主として、アリスの過去にスポットを当ててストーリーが進行します。まあ、有り体にいえば、現在の捜査の進展とともに、アリスの暗い過去が明らかにされるわけです。その暗い過去の中には、首を絞めたり銃で射殺したりといった明確な殺人ではありませんが、ミステリでいうところの「プロバビリティーの犯罪」あるいは「可能性の殺人」にアリスが関わっていた事実が含まれます。これ以上はネタバレになりかねませんので、最後に2点指摘しておきたいと思います。第1に、途中で名前を変える登場人物がいます。ノックスの十戒の10番目に "Twin brothers, and doubles generally, must not appear unless we have been duly prepared for them." というのがあり、双子はこの作品に登場しますし、途中で名前を変えるというのは「1人2役」のような気もします。でも、作者が "duly prepared" だと認識している可能性がゼロではありません。第2に、この作品はイヤミスです。欧米ミステリ界でカテゴリとして確立しているのかどうかは、不勉強にして私は知りませんが、明らかに日本でいうところのイヤミスです。したがって、読者によっては読後感が悪いかもしれません。
ホントの最後の最後に、ジョン・モーリー『アカデミック・フレーズバンク』(講談社)です。著者は、英国マンチェスター大学の研究者です。本書は、最初の1ページから始めて最後まで読み通す、といった通常の読書には馴染まないタイプの本で、それこそ、座右において「辞書的に」必要に応じて参照するという使い方だろうと思います。でも、アマゾンのレビューがやたらと高かったので研究費で買ってみました。私は、今の大学に再就職して毎年1本の論文を書くことを自分に課しているのですが、最初の2020年は日本語で仕上げて、その後、昨年2021年と今年2022年はともに英語で執筆しています。しかも、大学院生の修士論文指導を別にしても、通常の授業で年間2コマは英語の授業を受け持っていたりします。従って、本書のようにアカデミックなフレーズを多数収録した参考文献はとても助かります。論文を書く際には、リサーチなんて英語そのままの用語もある一方で、私は explore とか examine なんて、外来語にすら認定されていない用語もいっぱい使うわけですから、用例や用法について豊富に収録されているようで参考になりそうです。ただ、パンクチュエーションはさすがに通り一遍です。私自身の感触としては、mダッシュとnダッシュの使い分けなんて、ネイティブでも相当に教養なければ難しいと感じていますが、本書では、「一般論としては、フォーマルな学術文書の場合には使用を避け、代わりに、コロン、セミコロン、括弧などを適宜使用すること。」とされています。私でも、コロンとセミコロンの使い分けはなんとか初歩的なレベルながら理解しています。
最近のコメント