今週の読書はゲーム論の入門的な解説書をはじめ計5冊
今週の読書感想文は以下の通りです。ゲーム理論に関する入門的な解説書である岡田章『ゲーム理論の見方・考え方』(勁草書房)、経済や教養に関する新書を2冊、すなわち、夫馬賢治『ネイチャー資本主義』(PHP新書)とレジー『ファスト教養』(集英社新書)、そして、海外ミステリの長編であるホリー・ジャクソン『自由研究には向かない殺人』(創元推理文庫)と短編集のピーター・トレメイン『修道女フィデルマの采配』(創元推理文庫)、となって計5冊です。
今年の新刊書読書は、1~3月期に50冊、4~6月期に56冊、従って、今年前半の1~6月に106冊、そして、夏休みを含む7~10月に66冊と少し跳ねて、10月には25冊、11月に入って第1週の今週は5冊ですので、今年に入ってから202冊となりました。200冊に達したから、というわけでもないのですが、少し経済書をお休みしようかなと考えないでもありません。ミステリを中心とした小説が図書館の予約で届き始めています。今週も2冊が海外ミステリなのですが、こういった読書も進めたいと思っています。
まず、岡田章『ゲーム理論の見方・考え方』(勁草書房)です。著者は、一橋大学の名誉教授です。本書は、『経済セミナー』2022年10・11月号の新刊書紹介で書評が掲載されていましたので、大学の図書館で借りて読んでみました。冒頭に著者が「ゲーム理論の入門的な解説書」と書いているように、ゲーム理論について私のようなシロートでも判りやすく解説してくれています。一般の経済社会で見られるような実例も豊富に取り入れられています。9章構成なのですが、前半のいくつかの章では、フォン・ノイマン=モルゲンシュテルンの『ゲーム理論と経済行動』から始まるゲーム理論の歴史について、実際のエピソードなどとともに簡単に取り上げています。さらに、そもそも、ゲーム理論とはどういった学問分野であるか、とか、意思決定や効用あるいは利得の考え方なども解説されています。私の解釈では、マイクロな経済学ではすでに基数的な効用という考え方は捨てられているのですが、マクロ経済学では国民所得やGDPといった基数的な計算が用いられていますし、マイクロな経済学の中でもゲーム理論だけは利得=ゲインという考え方で基数的な効用を考えているのではないかと、専門外ながら、受け止めています。もちろん、「社会とは、ルールを守りながら自分の価値や利益を求める人びとがプレイするゲームである。」わけですから、経済に限定せずにさまざまな分野での応用が可能ですし、特に、経済学では成長よりも分配との親和性が高いと私は考えています。また、最近、私は開発経済学のセミナーに参加したのですが、第6章p.151から3人非対称ゲームを取り上げて、コアが存在するゲームは限界生産性が逓増する経済に対応し、存在しないゲームでは逓減する経済に対応する、とされていて、開発初期の段階、日本では高度成長期の時期、また、開発を終えた成熟経済の現在に分析可能だとされていて、それなりに勉強になりました。最後に、基本的に入門的な解説書ですので、それほど複雑な理論は取り上げておらず、例えば、限定合理性などについてももう少し詳細な解説が欲しかった気がしますが、これくらいのボリュームの本で、入門的な解説といえども、ゲーム理論を網羅的に取り上げるのはムリなのか、と考えざるを得ません。出版社こそ、学術書が多い印象ですが、決してそう難しくはありません。その一方で、ここ10年くらいのある程度最新の専門論文にも言及があり、たぶん、それなりの専門知識あるエコノミストでも十分満足できる読書が楽しめるのではないか、という気がします。
次に、夫馬賢治『ネイチャー資本主義』(PHP新書)です。著者は、いろんな肩書があるのですが、基本的に経営・金融コンサルタントではないか、と思います。本書では、基本的なメッセージとして、機関投資家がESG投資をはじめとしてサステイナブル経済に目覚め始めている現状では、マルクス主義的な社会変革や、あるいは、脱成長による環境負荷軽減に頼らずとも、機関投資家から経営者層に投資の結果としての気候変動=地球温暖化の抑制、あるいは、サステイナビリティへの配慮というシグナルを送れば、その方向でのイノベーションが促進され、成長を維持したままで環境負荷軽減というデカップリングが成立する可能性が大いにある、ということです。長くなりましたが、そういうことです。もう少し詳しく敷衍すれば、環境破壊や環境負荷の増大は、基本的に、資本主義的な経済成長や人口増加からもたらされ、さらに、その大本は強欲で利潤最大化を目的とする19世紀的な資本家の経済活動が根本原因である、という認識が基本にあります。ですから、マルクス主義的な社会変革、あるいは、そこまでいかなくても、何らかの資本主義的な経済活動を規制する脱成長が必要、という認識が広がっていたわけです。しかし、本書では、Glasgow Financial Alliance for Net Zero=GFANZ という機関投資家の活動を紹介しつつ、機関投資家が投資対象企業の経営者にサステイナビリティへの配慮を促すシグナルを送り、経営者がそのためのイノベーションに励むことにより、成長や人口増加と環境負荷増大は絶対的にデカップリングされる、という仮説を提唱しています。繰り返しになりますが、確認された事実を提示しているわけではなく、私はあくまで、本書では仮説を提唱していると受け止めています。ですから、実証の一例として、高収益なESG投資を上げています。専門外の私でも、ESG投資などのサステイナビリティを重視する投資がハイリターンを上げている実証研究が出始めていることは知っています。もちろん、疑問が残らないでもありません。この仮説が成立するには5点の実証的な確認とリンケージが必要です。第1に、ホントにサステイナビリティ重視の投資がハイリターンであるかどうか、第2に機関投資家がそれに気づくかどうか、第3に企業が機関投資家の意向に沿った経営をするかどうか、第4に経営者がサステイナビリティを重視する経営の方向性を決めたとしても実際に環境負荷軽減のイノベーションが可能かどうか、第5にこれらのイノベーションによって経済成長や人口増加と環境負荷軽減が絶対的にでカップリングされるかどうか、の5点となります。もちろん、可能性としては、大いにあると思いますが、第1の点については先進国では実証的に確認されている一方で、途上国や新興国ではどうなのでしょうか。特に、中国の動向が気がかりなのは、私だけではないと思います。この5点がすべて満たされないと、本書のデカップリング仮説は成り立ちません。発明のO-ring理論みたいで、関数はかけ算で示されて、ひとつでも失敗でゼロなら結果もゼロなわけです。ですから、単なるグリーンウォッシュにならないように願っています。
次に、レジー『ファスト教養』(集英社新書)です。著者は、一般企業に勤務しつつのライター・ブロガーというようです。本書について論じる前に、軽く前口上を述べておくと、今年6月25日の読書感想文ブログで稲田豊史『映画を早送りで観る人たち』を取り上げましたが、本書でも同じ視点を提供しています。すなわち、本書では、教養がビジネスに直結し、金銭的な利益をもたらす現状の教養欲求について、やや否定的な見方を提供しています。例えば、第5章のタイトルは「文化を侵食するファスト教養」となっていたりします。他方で、本書でも、何も教養的な活動をしないよりはマシ、という視点も示されています。私は、以前の麻生副総理的な表現ですが「民度」について同時に考えるべきではないか、と受け止めています。というのは、岸田総理が今国会冒頭の所信表明演説で用いた「リスキリング」≅学び直し、の反対の言葉として熟練崩壊を使う場合があります。現在の日本では非正規雇用という雇用形態の拡大や賃金上昇の抑制などから、マクロでスキルの低下や、さらに、熟練の崩壊が生じている可能性があります。進んで、こういった経済の下部構造をなす雇用の劣化から、教養や文化活動の劣化につながる「民度の低下」が生じている可能性を憂慮しています。日本人は、その昔から、手先が器用だとか、まじめな性格の人が多いとか、時間に正確であるとか、いろいろと労働者として高い生産性を持つ可能性を示唆する特徴を指摘されてきています。今でも、「日本人スゴイ」論とか、「日本スゴイ」論を取り上げる書籍やテレビ番組が少なくないのは広く知られているところです。他方で、賃金が上がらない理由として、私の目から見て完全な需要不足であるにもかかわらず、生産性が低い点を根拠にする議論も見かけます。スキルと生産性が需要不足によって乖離しているわけです。しかし、この賃金が抑制されていたり、あるいは、かなりの部分が重なりますが、非正規雇用が広がっていたりするために、日本人の「民度」が大きく低下し、この雇用という下部構造が文化や教養といった上部構造の歪みをもたらしている可能性がある、と私は考えているわけです。私の憂慮が杞憂に終わることを願っていますが、私の年齢では見届けられない可能性があるのが心残りです。
次に、ホリー・ジャクソン『自由研究には向かない殺人』(創元推理文庫)です。著者は、英国のミステリ作家です。英語の原題は A Good Girl's Guide to Murder であり、2019年の出版です。主人公は、高校最終学年のJKであるピッパ(ピップ)で、英国のグラマー・スクールに通っていますから、日本では進学校の高校といったところです。事実、本書の最後の方で、主人公はケンブリッジ大学への入学を許可されたりしています。ということで、主人公が大学入学のひとつの参考資料となる自由研究で、自分の住む街で5年前に起きたJK失踪事件をリサーチするところから始まります。5年前に失踪したJKはあ同じグラマー・スクールに通っていましたので、まあ、数年先輩に当たるわけです。この失踪事件は、被害者の死体が発見されないながらも殺人事件ということで処理され、被害者の同級生、アルイハ、ボーイフレンドが犯人と目されますが、その同級生は事件直後に自殺します。主人公のJK箱の戸津急性は犯人ではない可能性がある、と考えて調査を始めるわけですが、途中からこの犯人と目された同級生の弟が調査に加わります。関係者へのインタビューから始まって、調査を続けるうちに、動機があったり、アリバイがなかったり、次々と新たな容疑者が浮かび上がります。通常のインタビューだけでなく、なりすましの電話で情報を引き出したり、いくつか倫理的に許容されなさそうな手法で調査を続け、最後に、結論にたどり着きます。もちろん、英国のことですから、高校生であっても、ドラッグや、ポルノまがいの写真や、もちろん、人種差別なんかも出て来ます。日本の読者には名前から人種を想像するのが難しい嫌いはありますが、何となく差別される側であることは理解できるような気もします。そして、あくまで主人公のJKは強気に調査を進めるわけです。最後は、衝撃の結末では決してなく、それなりに論理的なエンディングなので安心できます。ただ、耳慣れな名前が続々と登場しますので、その点だけは混乱する読者もいるかも知れません。他方で、文庫本で600ページ近いボリュームですが、途中で放棄する読者は少ないと思います。なお、続編で同じ主人公の『優等生は探偵に向かない』も図書館に予約を入れてあります。
最後に、ピーター・トレメイン『修道女フィデルマの采配』(創元推理文庫)です。著者は、英国生まれのけると学者であり、ミステリ小説も数多く執筆しています。英語の原題は Whispers of the Dead であり、2004年の出版です。ただし、原書の15話から5話だけを収録した短編集です。7世紀のアイルランドを舞台にして、タイトル通りに、修道女フィデルマが主人公となるミステリです。英語の原書はいっぱい出ていますし、邦訳も原書の半分までは行きませんが、相当数出ています。私も何冊か読んでいます。というか、大部分読んでいる気がします。私の場合、このシリーズは、エリス・ピーターズ作品の「修道士カドフェル」のシリーズとともに愛読しています。ノルマン・コンクェストの直後の12世紀前半のイングランドを舞台にした「修道士カドフェル」のシリーズは20巻ほどあって、私は全部読んでいると思います。ということで、フィデルマの活躍する7世紀アイルランドは、当時としてはかなりの先進国の仲間であり、法秩序のしっかりと安定した時代と考えてよさそうです。その次代と地理的な背景で、フィデルマはアイルランドにいくつか並立している王国の王の妹という高い身分で、しかも、法廷弁護士にして裁判官の資格を持つ修道女です。本書でも、アイルランドの各地を巡って難事件を解決するとともに、別の本では、キリスト教の総本山であるローマに出向いたこともあると記憶しています。まあ、ラテン語を理解すれば、現在の英語以上に、当時のキリスト教国では広く理解された国際語だったのでしょうから、特段の不便はなかった、ということなのだろうと私は理解しています。繰り返しになりますが、収録されている短編は5話であり、占星術で自ら占った通りに殺された修道士をめぐる事件で訴追された修道院長の無実を明らかにする「みずからの殺害を予言した占星術師」のほか、「魚泥棒は誰だ」、「養い親」、「「狼だ!」」、「法定推定相続人」の計5話となります。ブレホンとか、ドーリィーとか、耳慣れない用語がありますが、ミステリとしては一級品だと思います。このシリーズがさらに出版されれば、私は読みたいと考えています。
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