今週の読書はいろいろ読んで計6冊
今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、ブレット・キング & リチャード・ペテイ『テクノソーシャリズムの世紀』(東洋経済)では、やや私には確信の持てない未来社会について著者たちの強い信念が展開されています。米澤穂信『黒牢城』(角川書店)は、今さら感強いとはいえ、直木賞も受賞した時代ミステリ小説です。浜田敬子『男性中心企業の終焉』(文春新書)は、女性ジャーナリストが企業における女性登用の重要性を解明しています。佐々木実『宇沢弘文』(講談社現代新書)は、これもジャーナリストが宇沢教授の人となりを解明しようと試みています。橋場弦『古代ギリシアの民主政』(岩波新書)では、広く市民生活に影響を及ぼしていたギリシアの民主政について歴史家が議論を展開しています。最後に、村上春樹『猫を棄てる』(文春文庫)は、我が国最高峰の小説家が父親について語るエッセイです。
ということで、今年の新刊書読書は、1~3月期に50冊、4~6月期に56冊、従って、今年前半の1~6月に106冊、そして、夏休みを含む7~9月に66冊と少しペースアップし、10月には25冊、11月に入って先週までで18冊で今週は6冊ですので、今年に入ってから221冊となりました。
まず、ブレット・キング & リチャード・ペテイ『テクノソーシャリズムの世紀』(東洋経済)です。著者は、世界的な起業家・未来学者・テクノロジスト、そして、政府政策アドバイザー・起業家と紹介されています。私にはよく判りません。英語の原題は The Rise of Technosocialism であり、2021年の出版です。著者から本書の前に『拡張の世紀』と『BANK 4.0』が出版されているそうですが、不勉強にして私は前者の『拡張の世紀』だけしか読んでいないと思います。『拡張の世紀』については、本書とともに壮大な未来予想を展開していますが、どこまで現実化されるのかはまったく判らない、と感じたことを記憶しています。というのも、著者たちの強い信念に基づく情報だけが取捨選択されて、その上で未来予想がなされていますので、それほど客観性があるとは思えません。すなわち、本書ではp.53とp.235に同じ4つの未来シナリオを示しており、本書のタイトル「テクノソーシャリズム」では、テクノロジーが普及して自動化が進み、公平性や幅広い繁栄を謳歌できるそうです。別に3つのシナリオがあります。新封建主義」では、格差拡大が極限にまで達し、富裕層はゲーテッド・コミュニティで生活することが予想されています。「ラッダイト世界」では、科学やテクノロジーは拒絶され、法により制限されるらしいです。最後に、「失敗世界」では、気候変動が極限まで達して気候が崩壊し、経済的には不況となり、全面的な独裁政治が世界を支配するとされています。私には、賛同できる論点は少なかったとしかいいようがありません。著者2人の見方はこうですと、かなり強引に示されていて、その方向性に賛同できる読者には、まあ、「内輪褒め」のような形で、それなりに受け入れられやすいのかもしれませんが、議論の進め方はかなり強引かつ独断的で、しかも、翻訳も決してよくないし、さらに、原著の段階で構成なんかも私の理解を超えていて、第7章で革命リスクの緩和について論じられているのは、何の話なのだろう、と思ってしまいました。何よりも私が節s技に感じたのは、AIによる自動化が進み、公平性が担保されるテクノソーシャリズムが未来のひとつの姿である点は、決して拒否しないとしても、その実現可能性、というか、未来への分岐点が何なのかについては、まったく理解できませんでした。何がどうなれば、どのシナリオの実現性が高まるのか、現時点でまったく公平性が担保されていないのはなぜなのか、必要な問いに対する回答はまったくなく、「ボクたちはこう考える」に関して、「将来こうなればいいね」というのが示されているだけな気がする。しかも、その未来社会の中身はアチコチで広く論じられていて、ほとんど著者たちの新たな視点というものは含まれていません。まあ、分厚い本でしたが、それほどタメにならない読書だった気がします。
次に、米澤穂信『黒牢城』(角川書店)です。著者は、日本でもっとも注目されているミステリ作家の1人であり、本書により直木賞を受賞しています。したがって、というか、何というか、出版社もご褒美的に特設サイトを開設していたりします。舞台は有岡城で、主人公は荒木村重です。これだけでは不親切ですので、もう少し詳しく書くと、時代は戦国時代末期、あるいは、織豊政権の成立前夜というくらいで、荒木村重とは毛利と通じて織田信長に反旗を翻した北摂の戦国武将です。その荒木村重が立てこもるのが有岡城というわけです。そして、その有岡城に織田方の使者として黒田官兵衛が来て、殺されもせず、帰されもせずに、有岡城の土牢に閉じ込められてしまいます。なお、細かいことながら、この当時、黒田官兵衛は黒田姓ではなく小寺姓を名乗っています。そして、本書は4偏の連作短編から構成されています。いずれも、有岡城内、あるいは、城下で不可思議な出来事が起こり、それを官兵衛の知恵を引き出しながら解決する、というものです。第1章では牢の人質が殺され、第2章では戦陣で討ち取った敵将の首の特定が困難を極め、第3章では使者と頼んだ旅の僧が殺された犯人を考え、そして、第4章では第3章の僧殺しの犯人に鉄砲を発射した者を特定します。それぞれの謎解きは興味深くて、それなりに感心しますが、私には少し物足りません。というのは、やはり、馴染みのない時代背景では謎解きに対して感情移入するのが、渡しの場合ということですが、難しいのだろうと思います。不器用なミステリ読者なのかもしれません。その意味で、早く『栞と嘘の季節』図書館の予約が回ってくるのを待っています。古典部シリーズも再開しないものでしょうかね。
次に、浜田敬子『男性中心企業の終焉』(文春新書)です。著者は、朝日新聞や『AERA』の記者を務めたジャーナリストで、特に、『AERA』に関しては編集長の経験もあるようです。そして、タイトル通りの内容です。ジャーナリストらしく、大きの企業関係者に取材して、あるいは、ご自身の体験も踏まえながら、男性中心企業の終焉を見越しています。まったく、私もその通りと感じています。エコノミストとしてキチンと論理的に説明できないながら、私も、日本企業が女性をクリティカル・マスを超えて、例えば、30%の管理職を女性にすれば、かなり大きく生産性が上がるのではないか、と考えています。そして、何よりも強調すべきであるのは、この女性管理職大幅増の起点となるのは企業サイドである、という点です。何かと、企業での女性活躍が進まない口実として、家庭における男女の役割分担が上げられます。しかし、おそらく因果関係は反対なのだろうと私は考えています。まあ、因果関係などと小難しい議論をせずとも、女性が企業の管理職の半分くらいを占めて、それにともなってお給料が大いに稼げるようになれば、時間がかかる可能性はあるにしても、家庭内の役割分担も必ず地滑り的な変化が生じることは明らかです。マルキストでなくても、経済が社会の下部構造をなしていることは実感しており、その経済の中でも雇用関係が最重要な規定的要因であることは明らかです。家庭内で伝統的な男女の役割分担がなされているから、男性が企業で無限定に働いているわけではなく、男性が企業で無限定に働かされているために、家庭内の家事育児や介護まで女性が担わざるを得なかったのではないでしょうか。ですから、雇用関係で女性の管理職登用が進めば、家庭内でも性別に基づく役割分担が変化すると考えるべきです。日本経済にはそういった女性管理職の大幅増を、逆差別を押してでも進める必要があります。経済政策の切り札だろうと私は考えています。
次に、佐々木実『宇沢弘文』(講談社現代新書)です。著者は、ジャーナリストであり、前著『資本主義と闘った男 宇沢弘文と経済学の世界』は私も読みました。前著の感想文でも書きましたが、私の極めて大雑把な宇沢教授に対する印象としては、米国時代はアカデミアの1人として経済学研究に励み、東大、というか、日本に帰国してからは、アカデミックな分野ではなく、むしろ、アクティビストとしてご自身の信念に基づいた活動家としての方にも、もちろん、東大教授としての学術面での活動に加えて、という意味ですが、アクティビストの面も強かったのではないか、と考えています。私とは時代が違いますし、親しいわけでもありませんから、単なる印象ながら、帰国して学術面での貢献がストップしたわけではありませんが、宇沢教授による本当の経済社会への貢献としては、アクティビストとしての活動ではなかったか、と思う次第です。ですから、本書では、生い立ちから始まって、米国における研究での宇沢の2部門モデルの理論的貢献、もちろん、帰国してからの社会的共通資本の研究も重要な論点ですが、米国のベトナム戦争、日本の水俣病などの外部不経済など、宇沢教授の経済学に基づく実践行動にもスポットが当てられています。ただし、止むを得ない面は理解するとしても、やや宇沢教授を美化している面は否定できません。すなっわち、バイアスあるものの、それはそういうもの、と割り切って読むことも必要かもしれません。
次に、橋場弦『古代ギリシアの民主政』(岩波新書)です。著者は、東大の研究者であり、専門は古代ギリシア史です。本書のあとがきにある著者の思いを引用すると、「古代ギリシアの民主政を、政治のしくみとしてだけではなく、そこに生きた人びとの生業・社会・文化・宗教が織りなす一つの全体として描きたい。そのような願いに衝き動かされて書いたのが本書である。」ということであり、新書というややボリューム不足な出版物という点を考慮すれば、十分に目的が達せられていると私は評価しています。というのも、民主政は単なる多数決による決定方式ではなく、平等の原則に基づく幅広い思考様式や行動様式の中心となるシステムだからです。その意味で、本書では議会活動や行政活動だけではなく、裁判までも民主政の中に含めて考え、市民裁判という解説を加えているのは、ある意味で、自然なことだと私は受け止めました。その他にも、ギリシアでも中心となるアテナイでは、国家としての最盛期を過ぎてから、民主政が成熟して最盛期を迎えた、とか、区単位で民主政が実践され、もちろん、奴隷という身分制であって、近代的な国民すべてが市民というわけではないとしても、市民が生涯の間に何らかの民主制における役割を担うとか、いろいろと私自身も不勉強で知らなかった事実がいっぱいありました。決して大上段に振りかぶって、現代の民主主義に対する何らかの示唆を得るというわけではなく、民主主義発祥のギリシアにおけるシステムや暮らしのあり方を教養として身につけておくのも必要なことではないでしょうか?
最後に、村上春樹『猫を棄てる』(文春文庫)です。著者は、日本を代表する作家であり、日本人としてもっともノーベル文学賞に近い存在であることは、多くの読者が認めるところだろうと思います。本書は、猫を棄てるという行為を起点として、著者が父親について、そのパーソナル・ヒストリーを簡単に取りまとめるとともに、親子関係を語っています。明示してはいませんが、フィクションではなく、ノンフィクションなんだろうと思います。著者は、何だったかは忘れましたが、エディプス・コンプレックスについて語っていますが、本書ではご自分から父に対するエディプス・コンプレックスは、少なくともその言葉と関連付けては出てきません。父親のパーソナル・ヒストリーを語る際、どうしても時代背景から軍役の関係が多くなります。そして、著者は大学入学とともに親元を離れていますので、大きな段差を感じたりもしますが、父親と倅との間には何らかの確執があるのは当然ですし、確執がありながら淡々と父親について調べて、それを出版物にするというのは、かなり大きな作業なのだろうと感じます。
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