今週の読書はまたまた経済書なしで計5冊
今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、伸井太一・鎌田タベア『笑え! ドイツ民主共和国』(教育評論社)は、社会主義時代の旧東ドイツのジョークを収録しています。あさのあつこ『乱鴉の空』(光文社)は、小暮進次郎と遠野屋清之介が主人公となる弥勒シリーズの時代小説で、シリーズ第11巻目となります。絲山秋子『まっとうな人生』(河出書房新社)は、十数年前の『逃亡くそたわけ』の続編であり、富山県を舞台にしています。保阪正康『昭和史の核心』(PHP新書)は、太平洋戦争を中心に昭和史をひも解いています。最後に、中村淳彦『歌舞伎町と貧困女子』(宝島社新書)は、新宿歌舞伎町を舞台に中年男性から風俗産業で資金を得た女性がホストに貢ぐというエコシステムを貧困女性に対するインタビューをてこに明らかにしています。
ということで、今年の新刊書読書は、先月1月中に20冊、そして、2月に入って今週の5冊の計25冊となっています。後期の授業を終えて、何となくだらけて経済書を読んでいないのは別としても、『乱鴉の空』は私はミステリと考えていますが、最近の読書では極めてミステリが少なくなっています。来週こそはしっかりとミステリも読みたいと思います。
まず、伸井太一・鎌田タベア『笑え! ドイツ民主共和国』(教育評論社)です。著者は、ドイツ製品文化・サブカルライターと東ベルリン生まれでドイツ語ネイティブのフリーライターです。実は、1月21日付けの朝日新聞の読書欄で紹介されていて大学の生協で買い求めました。日本人的な観点からすると、欧州のジョークは英国が一番であって、ドイツ人はそれほどジョークを得意としているわkではない、特に、社会主義体制下の旧東ドイツは尚さら、という見方がありそうな気がしますが、私はそれなりに外国生活を経験して、旧ソ連や社会主義だったころの東欧圏でもジョークはいっぱいあるのは知っていました。例えば、先日のブログでも取り上げましたが、東ドイツ製の自動車トラバント(あるいは、ソ連製のラダでも何でもOK)とロバが道で出会った際の会話で、ロバがトラバントに対して「自動車くん」っと挨拶を呼びかけるのに対して、トラナbトが挨拶を返して「ロバくん」と呼びかけると、ロバが不機嫌になり、ロバの方はトラバントに対して「自動車」とサバを読んで格上げしているのだから、トラバントもロバのことを「ウマ」くらいにお世辞をいえないのか、と文句を垂れる、といったものです。トラバントは「自動車」ではない、それは、ロバがウマではないのと同じ、という趣旨です。もっとも、私の知っているこのトラバントに関するジョークは本書には収録されていませんでした。ただし、本書でも、そういった種類の旧東ドイツに関するジョークが、ドイツ、ないし、東ドイツの概要の解説から始まって、政治ジョーク、お役人ジョーク、生活ジョーク、インターナショナルなジョーク、ブラックなジョーク、などと分類されて収録されています。ドイツ語の表現とともに収録されていて、当然に、邦訳するよりもドイツ語そのままの方がヒネリが利いている、というジョークが少なくありません。実は、私は大学生の頃は第2外国語はドイツ語を取った記憶が鮮明にあるのですが、まったくドイツ語は理解しません。むしろ、在チリ大使館に3年間勤務しましたので、スペイン語の方が理解がはかどります。でも、東欧のスラブ語ではなく、西欧のラテン語から派生した言語はそれなりに共通性があります。英語で clear は日本でも理解されやすい外来語ですが、ドイツ語では klar、スペイン語では claro になります。英語では限られた意味しか持ちませんが、ドイツ語やスペイン語では単独で使うと「もちろん」という肯定の回答になったりします。おそらく、イタリア語とスペイン語は大元のラテン語にもっとも近いんではないか、と私は想像しています。でも、他の言語をそれほど理解しませんし、パリに行った際にはフランス語ではなくスペイン語ですべて済ませていた程度の語学力ですので、詳細は不明です。脱線しましたので本書に戻ると、私も知っている範囲で、モノ不足をモチーフにしたジョークと情報制限や情報操作をモチーフにしたジョークが印象的でした。前者では、資本主義地獄に対して社会主義地獄では生産が不足して針山ができない、とかですし、後者ではナポレオンが東ドイツの製品でもっとも欲しがるのはご当地の新聞で、ワーテルローで破れたことを知られずに済む、というものです。ナポレオンについては、本書では言及していませんが、ロスチャイルドがワーテルローで英国勝利の情報をいち早く得て巨利を得た、という史実を踏まえています。本書で欠けている最後のポイントなど、もう少しドイツから視野を広げた方がジョークをより楽しめる、という些細な難点はありますが、まあ、面白い本でした。
次に、あさのあつこ『乱鴉の空』(光文社)です。著者は、『バッテリー』などの青春小説でも有名な小説家です。本書は「弥勒」シリーズの最新刊であり、シリーズ第11作めに当たります。私は、たぶん、全部読んでいると思います。主人公は、極めてニヒルですべてを見通したかのような八丁堀同心の小暮進次郎、そして、国元では刺客・暗殺者として育てられながら江戸に出て商人として成功した遠野屋清之介ですが、小暮進次郎の手下の岡っ引きである伊佐治も重要や役回りを演じます。ということで、本書では、小暮進次郎の屋敷が奉行所の探索にあって小暮進次郎が姿をくらますとともに、手下の伊佐治が大番屋にしょっぴかれて取調べを受けるところからストーリーが始まります。まずは、遠野屋清之介が伊佐治の店である梅屋に現れて、商いのツテから伊佐治の釈放に努めます。そして、小暮進次郎の行方は遠野屋清之介がつきとめ、別の案件に見えた鍛冶職人やその関係者が襲われるという事件から、謎が解かれていきます。実に大きな天下国家にかかわる事案であることが明らかにされます。本書では、最後の方に遠野屋清之介に発見されるまで、ほぼほぼ小暮進次郎が不在なので、いつもとは違う雰囲気のストーリー展開です。その分、というわけでもないのでしょうが、伊佐治の家族、というか、梅屋の一家の様々な面を垣間見ることができます。また、このシリーズは時代小説ながら、基本的にはミステリだと私は理解しており、これまた、小暮進次郎の頭の中だけで謎解きがなされる、というのもこのシリーズの特徴です。ある意味で、このシリーズの終りが近いことを感じさせた作品でした。というのは、このシリーズは町方の小さな事件から始まって、少し前には抜け荷=密輸のお話が出てきましたし、この作品では、繰り返しになりますが、公儀を揺るがせかねないほどの天下国家の大事件が背景に控えている可能性が示唆されます。同心と岡っ引きの事件探索に実は凄腕の剣術家の商人が関わってストーリーが展開される、という基本ラインはほぼほぼ終了した気がします。でも、少なくとも遠野屋に手妻遣いの新たな人物が送り込まれてきましたし、少なくとも次回作には続くんだろうと思います。まあ、何と申しましょうかで、シリーズ終了まで私は読み続けそうな予感があります。最後の最後に、有栖川有栖の本格ミステリに『乱鴉の島』というのがあります。大丈夫と思いますが、お間違えにならないようご注意です。
次に、絲山秋子『まっとうな人生』(河出書房新社)です。著者は、小説家であり、「沖で待つ」により芥川賞を受賞しています。たぶん、私はこの「沖で待つ」と、本書の前作に当たる『逃亡くそたわけ』とか、やや限られた作品しか読んでいません。ということで、前作に当たる『逃亡くそたわけ』は福岡の精神病院から20歳過ぎの女子大生の花ちゃんが、名古屋出身で慶応ボーイの20代後半サラリーマンのなごやんが脱走して、阿蘇や鹿児島までクルマで逃走する、というストーリーでした。本書は、何と、その花ちゃんとなごやんが十数年を経て富山県で再会し、ともに家族持ち、というか、結婚して配偶者を得、さらに、子供もともに1人ずつもうけるという舞台設定での続編です。ですから、前作で何度も登場したマルクス『資本論』からの一節はまったく出てきません。そして、前作では、まだ精神病が治り切っていない段階でも逃亡劇でしたが、本作では薬の服用はあるものの、ライオンめいた精神科医に飛び込んで診察して薬の処方箋を出してもらう、といったシーンはありません。ストーリーは、2人が富山県で再会して家族ぐるみのお付き合いが始まる、というところから始まり、共通の趣味であるキャンプに行ってなごやんの家の犬が行方不明になって探したり、さまざまな人生、もちろん、タイトル通りのまっとうな人生に起こり得るイベントへの対応で進みます。最後の方で、なごやんが音楽フェスに行くかどうかで、絶対に行くというなごやんと反対する花ちゃんやなごやんの奥さんが仲違いしそうになったり、といったクライマックスに向かって進みます。このあたりは、コロナ文学の一部が現れています。実に、作者の筆力がよく出ている優れた作品です。ストーリー、というか、大衆文学に求められがちなプロットの面白さ、あるいは、結末の意外性などをまったく持たなくても、これだけ書ければ読者は満足する、という意味での純文学のパワーが感じ取れます。まあ、シロートが書いているわけでもないですし、芥川賞作家なのですから当然といえます。ただ、プロットではないかもしれませんが、「沖で待つ」にせよ、前作『逃亡くそたわけ』にせよ、この作品でも、恋愛関係にない男女の仲、というか、関係や心の動きなどを実にうまく表現しています。他の作品をそれほど読んでいるわけではありませんが、この作者の真骨頂を増す部分かもしれない、と思ったりしています。男女の機微も含めて、本書では風景や情景というよりも、登場人物の心の動きが実に繊細かつ美的に描写されています。それらを表現する言葉を選ぶセンスが抜群です。まあ、これも当然です。最後に、2011年3月の東日本大震災やそれに起因した原発事故の後には、震災文学と呼ばれる作品がいくつか発表されました。本書は、その意味でいえば、コロナ文学といえるかもしれません。私は不勉強にして、ほぼほぼ初めてコロナ文学を読んだ気がします。なごやんの音楽フェス待望論ではないですが、コロナとの付き合い方を登場人物が正面から考え、小説としてコロナのある日常を描こうという試みの小説は、他にもあるとは思うものの、その中心をなす作品かもしれない、と思ったりも足ます。
次に、保阪正康『昭和史の核心』(PHP新書)です。著者は、作家、評論家とされていますが、私は基本的にジャーナリストに近いラインと考えています。ですから、文藝春秋の半藤一利と同じような属性、と考えていたりします。なお、本書の最終第5章のそれも最後の方で半藤一利が言及されていて、本書の著者はそれに対して「作家の」という形容詞を付けていて、やや笑ってしまいました。他方で、著者は太平洋戦争当時の軍部に対してき分けて批判的な見解を本書でも明らかにしており、ある意味で、リベラルなのかもしれない、と思ったりします。まあ、違うかもしれません。ということですので、本書のタイトルに即していえば、昭和史の最大重視されるべき史実は太平洋戦争、ということになります。ただ、それは本書の著者でなくても大部分の日本国民は同意することと思います。ですから、ハッキリいって、本書はそれほど歴史の勉強になるものではありません。著者独自の見解がいくつか見られますが、たぶん、平均的な日本人と大きくは違わないものと私は受け止めています。加えて、本書巻末で示されているように、本書に初出の論考はありません。すべて、毎日新聞、信濃毎日新聞、共同通信から配信されたコラムなどを編集し直したものですので、新たに発見された歴史的事実が示されているわけでもありません。ただ、いくつか考えるべき論点は示されています。すなわち、著者の最も関心深い戦争についてで、本書では軍部が日清戦争の教訓から戦争を「儲かるもの」として捉え、太平洋戦争でも勝つまで遂行する、という姿勢を崩さなかった、と指摘していますが、私は違うと思います。というのは、基本的に儲かるかどうかを経済学的に考えると、設備投資と同じで投資とリターンの収益性を考えることになりますので、「勝つまで止めない」ではなく、そもそも「始めるかどうか」についてキチンと原価計算する、ということが要諦です。ですから、原価計算が出来ていなかった、というのが真相ではなかろうか、あるいは、原価計算を判断する主体がいなかった、ということだろうと思います。後者から考えるに、本書でも指摘しているシビリアン・コントロールが欠如していた、ということになります。日清戦争や日露戦争では、明らかに、政府首脳が戦争をやるかやらないか、あるいは、どこで止めるか、についてしっかりと判断を下しています。まあ、第1次世界対戦が欧州の勝手で始まって、勝手で終わってしまったために、やや感覚がおかしくなった面はあると思います。でも、経済計算や原価計算で戦争を考えるのは限界、というか、軍部の態度がそうだったとするのにはムリがあります。加えて、ほぼほぼ日本国内で議論が尽きていて、海外の反応という要素がまったく欠落しています。このあたりを批判的に考えながら読み進み必要があります。
最後に、中村淳彦『歌舞伎町と貧困女子』(宝島社新書)です。著者は、ノンフィクション・ライターで、少し前までは風俗ライターだったと本書では自ら記しています。本書は、タイトル通りに、新宿歌舞伎町、特に、ゴジラヘッドが特徴的な新宿東宝ビルができた2018年以降に、そのあたりに集まり出したトー横キッズなどを中心に、風俗産業や街娼などで中年男性から得た資金をホストに貢ぐといった使い方をする貧困女性などを取材して取りまとめた結果です。なお、おそらく、本書では言及されていませんが、プレジデントオンラインにて本書と同じタイトル、同じ著者による『歌舞伎町と貧困女子』という連載がありますので、おそらく、かなりの程度には連動しているのだろうと想像されます。取材対象はあくまで歌舞伎町貧困女子であり、繰り返しになりますが、表裏を問わず風俗産業で男性から得た資金を持って、多くの場合はホストに貢いだり、何らかの暴力的な要因も含みつつ男性に奪取されたり、といったために貧困に陥っている女性です。そして、中には月収100万円超の女性もいますが、それをホストに貢ぐために稼いでいるのであって、自分の消費に回す部分は極めて小さい、ということが想像されます。加えて、こういったインタビュー対象の女性の中には、何らかの精神的な疾患や障害を抱えている人もいます。個別のインタビィーは本書を読むか、プレジデントオンラインを見るのがベストですので、個々では詳細には言及しませんが、とても悲惨な現状が明らかにされています。まあ、合いの手に、警察の規制が厳しくなって活動範囲が大きく制限されるようになったヤクザの現状なども、まあ、歌舞伎町のエコシステムの一部でしょうから、簡単にルポされていたりします。私は性産業で搾取される女性に極めてシンパシーを感じていて、一般社団法人Colaboの活動などは強く支持していますが、ただ、本書でも例外があって、パパ活の定期19人で月に150万円以上稼いで、ホストに入れあげることもなくガッチリ貯金している女子大生がいましたので、こういうのをクローズアップしてColaboの活動などに反論したりするする連中もいるのだろうと思います。何と申しましょうかで、60歳の定年まで公務員だった私のような凡庸な人間には、なかなか目につかない世界なのだという気はしますが、こういった現実がまだまだある点は忘れるべきではないと思います。最後に、歌舞伎町における資金の流れ、というか、中年男性から風俗産業の女性が資金を得て、それがホストに貢がれる、という歌舞伎町のエコシステムに何度か言及されていますが、その食物連鎖の底辺の男性にはインタビューがなされている一方で、頂点のホストへのインタビューはありません。少し物足りないと感じる読者もいそうな気がします。
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