今週の読書はノーベル賞エコノミストの経済書をはじめとして計6冊
今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、ウィリアム・ノードハウス『グリーン経済学』(みすず書房)は、気候変動の経済学でノーベル経済学賞を受賞したエコノミストによる「グリーン」な経済に関する考察ですが、ハッキリいって、ものすごく物足りない内容です。ウィリアム・クイン & ジョン D. ターナー『バブルの世界史』(日本経済新聞出版)は、英国の歴史家がバブルの歴史を「良いバブル」もある、との観点から取りまとめています。早見和真『笑うマトリョーシカ』(文藝春秋)は、高校の同級生2人の友情を裏切り、また、虚々実々の政治の舞台裏を描き出そうと試みています。藤井薫『人事ガチャの秘密』(中公新書ラクレ)は、企業における人事の要諦について解説しています。鈴木大介『ネット右翼になった父』(講談社現代新書)は、死の直前にネット右翼的な傾向を示した父親について、一般的な観点と家族独特の観点から解釈を試みています。最後に、文藝春秋[編]『水木しげるロード全妖怪図鑑』(文春新書)は、鳥取県境港の水木しげるロードに配置された177体の妖怪のブロンズ像などを写真とともに紹介しています。
ということで、今年の新刊書読書は交通事故前の1~3月に44冊、6月に19冊、7月に入って先週までに11冊の後、今週ポストする6冊を合わせて80冊となります。交通事故で3か月近く入院した影響で、今年の読書は200冊には届きません。
まず、ウィリアム・ノードハウス『グリーン経済学』(みすず書房)です。著者は、米国イェール大学の研究者であり、2018年に気候変動をマクロ経済学に組み込んだ功績によりノーベル経済学賞を受賞しています。英語の原題は The Spirit of Green であり、2021年の出版です。ということで、とっても期待して読み始めたのですが、やや期待外れでした。本書では、「グリーン」の本質について冒頭序文p.3で持続可能性に置いていますが、読み進むとそうでもないように思います。何か極端ではない中庸の政策を志向しているとしか私には思えませんでした。他方で、何度も繰り返して気候変動については2050年のカーボンニュートラルは達成不可能、という著者の見通しを明らかにしています。カーボンニュートラルの達成が難しく見えるのであれば、もっとドラスティックな政策を志向すべきではないのか、というのが私の見方です。ただ、その萌芽的な観点は提示されており、例えば、炭素価格については米国の現行の炭素税による価格設定が低すぎて、さらに大幅に引き上げる必要について議論しています。温暖化ガスの排出規制については、どうしても経済学的なインセンティブに頼って、直接的な輝空性を避ける方向性が先進各国で示されていますが、2つの方策があります。すなわち、排出権市場と炭素税です。排出権市場では炭素排出の量的な確実性はありますが、炭素価格の見通しが不確実で、ビジネス活動には不透明ですし、政府の歳入に裨益することもありません。ですから、私は圧倒的に炭素税に好意的なのですが、その観点は本書でも共有されています。もうひとつ、私は訳書にいた折にGDP統計の不十分な面について研究していて、主たる眼目はシェアリング・エコノミーの補足だったのですが、本書では当然ながら環境への影響を加味したGDP統計について議論しています。そして、私も同意する結論が導かれています。すなわち、確かに環境への影響を考慮すればGDPの水準としては現在の統計で補足されている水準をかなり下回る付加価値額しか計上されないであろうが、時系列的に考えると、つまりGDPの額ではなく成長率で見ると、1970年代くらいを底にして地球環境は改善されてきている可能性が高く、成長率は現在のGDP統計で計測したものよりも高くなる可能性が高い、と結論しています。私は少しだけ目から鱗が落ちる思いでした。環境を考慮すると現在のGDP統計は過大評価されている、というのは頭に入っていましたが、成長率に引き直すと別のお話になり、ここ数十年で地球環境は改善されており、おそらく、日本国内でも各種の環境数値はよくなっているでしょうから、成長率については現行GDP統計で過小評価されている可能性がある、というのは納得できました。最後に、もう一度同じ結論の繰り返しですが、環境経済学でノーベル賞を受賞したエコノミストの本ながら、余りに過大な期待を持って読むのはオススメできません。
次に、ウィリアム・クイン & ジョン D. ターナー『バブルの世界史』(日本経済新聞出版)です。著者2人は、英国北アイルランドにあるクイーンズ・ユニバーシティ・ベルファストの金融史の研究者です。英語の原題は Boom and Bust であり、2020年の出版です。まず、私はブームとバブルは違うものだと考えているのですが、本書ではほぼほぼ同じと考えられているようで、でも、私の考えるブームとは異なるバブルについての歴史を収録しています。本書はあくまで歴史書であり、その意味で、エピソードを選び出して並べているだけに見えます。決してバブル経済に関する分析が豊富に入っているわけではありません。ということで、冒頭第1章でいくつかの基礎的な著者たちの考えが取りまとめられています。p.13ではバブル・トライアングルとして、燃焼になぞらえて、燃焼の酸素に当たるのが金融の市場性、つまり、市場で売買できる流動性の付与、そして、燃料に当たるのが通貨と信用、これは当然でしょう。そして、燃焼の熱に相当するのが投機、さらに、火花となって火をつけるのは技術革新と政府の政策、と定式化しています。そのうえで、本書で取り上げるバブルの一覧がp.23に上げられています。当然、1929年の暗黒の木曜日におけるニューヨーク株式市場の崩壊に始まる世界恐慌も、1980年代後半の我が国のバブルも、そして、21世紀初頭の米国のサブプライム・バブルも含まれています。私自身はエコノミストとして少し異論がないわけではないのですが、最近の研究を踏まえると、本書が指摘する少し異質な2点は認めざるを得ません。すなわち、バブルは予測できる、とバブルには良いバブルと悪いバブルがある、という点です。まず、予測可能性については、いかにも予防原則を取る欧州らしい見方ではありますが、最初に引用したバブル・トライアングルの要素がそろうとバブルになる可能性がある、という軽い理解で私はスルーしました。本書の何処かにバブル発生の必要十分条件という言葉があったやに記憶していますが、まあ、そこまでのエビデンスはないと軽く考えておきます。そして、悪いバブルと良いバブルについては、各章で歴史上のバブルを取り上げる結論として考察されています。例えば、今世紀初頭の米国を震源とするITのドットコムバブルについては、技術革新を促進した可能性と不良債権が発生せずに経済への打撃が小さかった点を評価して、良いバブルに分類されています。なお、日本の1980年代後半のバブル経済については、第8章のタイトル「政治の意図的バブル興し」に典型的に現れているように、政府の政策、この場合は中央銀行たる日銀の政策によって生じたと結論されています。もっとも、日本人エコノミストである私の目から見て、政策的なバブル発生というのはいっぱいあります。米国のサブプライム・バブルにしても、「グリーンスパン・プット」により生じたわけですし、本書でも火花としては技術革新とともに政府の政策が上げられています。加えて、ITドットコムバブルの時期に設立されたり、企業活動が飛躍的に活発になったりした例として、GAFAなどを上げている一方で、日本のバブル経済の時期にはそういった例はあまりないと、本書では結論していますが、私はユニクロを持ち出して反論したいと思います。
次に、早見和真『笑うマトリョーシカ』(文藝春秋)です。著者は、もちろん、小説家なのですが、たぶん、作品の中で私が読んだ記憶があるのは『店長がバカすぎて』だけのような気がします。ということで、この作品は、40代の若き官房長官誕生をプロローグに置き、その前の段階を高校の入学のころにさかのぼって、愛媛県にある西日本でも有数の男子単学の私立の進学校における友人関係から始めます。清家一郎と鈴木俊哉に、さらに、佐々木光一の3人の高校同級生の友人関係、特に東京から愛媛に来た前2者の関係に焦点が当てられます。高校の生徒会長選挙から始まって、表に立って候補者となる清家一郎とそれを支える秘書役の鈴木俊哉、そして、それに協力する佐々木光一、という図式です。大学生の学生生活を経て、27歳で清家が国政選挙に立候補して当選し、衆議院議員となります。その後はトントン拍子に出世して47歳で官房長官となります。そのころ、全国紙の文化部に所属する30歳そこそこの女性記者がインタビューに来て、「この男はニセモノだ。誰かの操り人形にすぎない」と感じ、彼の過去を暴くために動き始め、次々と不審な事実を暴き出す、というストーリーです。国会議員となる清家が大学の卒論で取り上げたハヌッセンに着目し、ハニッセンがヒトラーをスピーチライターとして操っていたように、秘書の鈴木が清家を操っているのではないか、と見立てるのですが、清家を取り巻く女性にも着目し、さらに、事故で不審死を遂げた故人にも着目し、でいろいろと政治家の裏側の事情が明らかになっていきます。そして、ラストはとても驚かされますが、ものすごく秀逸な終わり方です。もちろん、途中までは、人を操るという点で少し物足りない部分もあり、特に、小説としてはとてもおもしろそうなプロットなのですが、果たしてそこまで実態がなくて他人に操られる人物が政治家になれるのか、それも、官房長官といった重責をこなせるのか、という基本となる点とともに、実務的な面でも、操っている人物と操られている政治家がどのような連絡を取っているのか、といった疑問が残ります。ミステリ作家の中山七里の「作家刑事毒島」シリーズでも、人を操って殺人をさせたり、あるいは、もっと入り組んでいて、二重に人を操って、すなわち、操った人がさらに人を操って殺人をさせる、といったプロットがありましたが、私は、まあ、犯罪レベルであればともかく、政治のレベルでは小説の中だけにあるんだろうという気がしました。ただ、繰り返しになりますが、ラストは秀逸です。
次に、藤井薫『人事ガチャの秘密』(中公新書ラクレ)です。著者は、パーソル総研シンクタンク本部の研究者です。本書では、人事ガチャ、配属ガチャ、上司ガチャ、などと称して人事に関する不満がある中で、どういった観点から人事担当部局が人事の配属や昇進などを決めているのか、という解説を試みています。主たる読者層としては就活を迎えた大学生から入社10年目の30代前半くらいまでの総合職を想定しているようです。まあ、私のような定年退職者は想定外なのですが、就活に臨む大学生を相手にする教員ですし、加えて、私は公務員のころに人並み以下の出世しかしませんでしたので、興味を持って読んでみました。本書では、入社後10年で平均的に3つのポジションを人事異動するパターンが多いとしつつも、場合によってはまったく10年間人事異動ないケースもあると指摘しています。公務員は、おそらく、平均的な民間企業よりは人事異動のサイクルが短いといえます。ひとつには、いわゆる癒着を防止するためです。ですから、私自身の10年目くらいまでを振り返ると、5つのポジションを回りました。平均で2年なわけです。しかも、その5つのポジションには海外勤務、大使館勤務も含まれています。ですから、人事担当部署を経験したこともありませんし、私自身の経験は度外視した方がよさそうな気がします。そして、本書の指摘で目が開かれたのは、ミドルパフォーマーには目が行き届いていない可能性です。人事担当部署としても、役員候補のようなトップエリートは、もちろん、それなりの配慮を持って育成に努めるのでしょうし、私のような不出来な職員に対しては尻を叩くなどの必要があるのかもしれませんが、その中間的なミドルパフォーマーは放っておかれるのかもしれません。いろんな人事のからくりを知ることができましたが、定年退職前に知っていたところで、少なくとも私の場合は何の役にも立たなかった可能性が高い、と感じていしまいました。
次に、鈴木大介『ネット右翼になった父』(講談社現代新書)です。著者は、ルポライターであり、貧困に題材を取った著書が多いと紹介されています。本書では、いろいろとあるルポのうちで、私にはどうしても馴染めない「私小説」的な自分の家族をルポしています。タイトルの通りです。すなわち、ヘイトスピーチによく出るようなスラングを口にしたり、いかにもネトウヨなYouTubeチャンネルを視聴したり、あるいは、とっても右翼的で反韓反中なのになぜか旧統一協会だけは許容するような雑誌を広げたり、といった死の直前の父親について事実を確認するとともに、その心情の変化などを考察しています。まあ、読み始める前から想像豊かな読者には理解できると思いますが、決して父親はネトウヨになったわけではない、という結論を探し求めているような気がします。著者のネトウヨの見方がそれはそれで参考になります。すなわち、p.72にあるように、① 盲目的な安倍晋三応援団、② 思想の柔軟性を失った人たち、③ ファクトチェックを失った人たち、① 言論のアウトプッが壊れた人たち、という4点なのですが、今はもうほとんど見かけなくなりましたが、①を別の方向にすれば、トロツキスト的な左翼もこれらの条件に一部なりとも合致しそうな気がします。こういった観点も含めて、一般論は第3章までで、第4章からは自分の家族に対する楽屋落ち、というか、手前味噌的なパートに入ります。まあ、第3章までは一定の参考になるかと思います。最後に、私の考える保守派とは、歴史の流れを止めようとする人たちで、歴史の流れに沿って人類を前進めようとするのが保守の反対の進歩派、そして、保守からさらに強硬に歴史の流れを反対にしようと試みているのが反動派、だと思っています。歴史はそれほど単純に進むわけではありませんし、循環的な動きだけで進歩するわけではないことも少なくありません。しかも、極めて東洋的、というか、中国的な歴史観でははありますが、円環的に進む、というか、円環的なので進まない、という見方もあります。大雑把に進歩派を左翼、反動派と保守派をいっしょにして右翼と呼んでいる気がしますが、私自身は進歩派でいたいと考えています。
最後に、文藝春秋[編]『水木しげるロード全妖怪図鑑』(文春新書)です。編者のほかに、境港観光協会が協力し、水木プロダクションが監修しています。見開きで一方のページに妖怪のブロンズ増のカラー写真が、そして、もう一方のページにその解説が配置されています。フルカラー写真集といえますから、350ページを超えるボリュームでこのお値段は安いと感じました。取り上げている妖怪は境港の水木しげるロードに配置されている177体のブロンズ製の妖怪像となっています。177体の妖怪像はもとはといえば、かなり無秩序に存在していたらしいのですが、水木しげるロードに移築され、1~51が水木マンガの世界、52~58が森にすむ妖怪たち、59~78が神仏・吉凶を司る妖怪たち、79~148が身近なところにひそむ妖怪たち、そして最後の149~177が家にすむ妖怪たち、とみごとに分類されています。これらに加えて、隠岐島のブロンズ像もも何点か収録されています。ただし、すべてが妖怪というわけではなく、隠岐島の最初のブロンズ像は踊る水木しげる先生だったりします。私はこの分野に詳しくないので、ほぼほぼ知らない妖怪ばっかりなのですが、水木しげる先生の作品に登場するような愛嬌のある妖怪も少なくありません。私は決して水木しげる先生の作品、例えば、「ゲゲゲの鬼太郎」などの熱烈なファン、というわけではありませんし、境港のこういった場所を訪ねたこともありませんが、それでも本書は十分楽しめましたし、ファンであればぜひとも抑えておきたいところです。
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