今週の読書も経済書を2冊読んで計7冊
今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、宇南山卓『現代日本の消費分析』(慶應義塾大学出版会)は、ライフサイクル仮説を中心に日本の消費を分析する学術書です。イングランド銀行『経済がよくわかる10章』(すばる舎)は、初学者にも読みやすい経済の解説書で、当然ながら、物価や金融について詳しいです。小川哲『地図と拳』(集英社)は、第168回直木賞を受賞した大作であり、20世紀前半の満州についての壮大な叙事詩を紡いでいます。山本博文『江戸の組織人』(朝日新書)は、現代の官庁や企業までつながる江戸期の幕府組織などを解説しています。染谷一『ギャンブル依存』(平凡社新書)では、読売新聞のジャーナリストがパチスロや競艇などのギャンブル依存に苦しむ人へ取材しています。波木銅『万事快調 オール・グリーンズ』(文春文庫)は、北関東の田舎の工業高校の女子高生を主人公にした痛快かつ疾走感のある青春物語です。坂上泉『へぼ侍』(文春文庫)では、明治維新で没落した武家の若い当主が志願して西南の役に出陣します。
ということで、今年の新刊書読書は交通事故前の1~3月に44冊、6~7月に48冊、8月に27冊、そして、9月に入って先週7冊の後、今週ポストする7冊を合わせて133冊となります。年間150冊は軽く超えそうですが、交通事故による入院のために例年の200冊には届かないかもしれません。
まず、宇南山卓『現代日本の消費分析』(慶應義塾大学出版会)です。著者は、京都大学の研究者であり、消費分析が専門です。私は総務省統計局で消費統計を担当していた経験がありますので、一応、それなりの面識があったりします。出版社からも容易に想像できるように、本書は完全な学術書であり、経済学部の上級生ないし大学院生、また、政策担当者やエコノミストを対象にしており、一般的なビジネスパーソンには少しハードルが高いかもしれません。副題が「ライフサイクル理論の現在地」となっているように、ライフサイクル仮説とその双子の兄弟のような恒常所得仮説について分析を加えつつ、それらに付随する消費のトピックも幅広く含んでいます。本書は5部構成であり、タイトルを羅列すると、第Ⅰ部 消費の決定理論、第Ⅱ部 ライフサイクル理論の検証と拡張、第Ⅲ部 現金給付の経済学、第Ⅳ部 家計収支の把握、第Ⅴ部 貯蓄の決定要因、となります。繰り返しになりますが、本書の中心を占めるのは消費の決定要因としてのライフサイクル仮説であり、これに強く関連する恒常所得仮説も取り上げられています。本書では、ケインズ的な限界消費性向と平均消費性向の異なる消費関数は、流動性制約下におけるライフサイクル仮説と変わるところないと結論していますが、Hall的なランダムウォーク仮説やFlavin的な過剰反応と行った実証研究からして、私はライフサイクル仮説がモデルとして適当かどうかはやや疑わしいと考えています。特に、Flavin的な過剰反応については、彼女の論文が出た際には私もほぼほぼ同時代人でしたので記憶にありますが、本書でも指摘しているように、ライフサイクル仮説が正しいという前提でFlavin教授の実証のアラ探しをしていたように思います。通常、理論モデルが現実にミートしなければ、理論モデルの方に現実に合わせて修正を加える、というのが科学的な学術議論なのですが、経済学が遅れた学問であるひとつの証拠として、理論モデルを擁護するあまり、理論モデルに合致しない実証結果を否定する、ないし、例えば、市場経済の効率性を実現するために実際の経済活動を理論モデルに近づける、といった本末転倒の学術活動が見られます。本書がそういった反科学的な方向に寄与しないことを私は願っています。ライフサイクル仮説のモデルを修正するとすれば、経済政策の変更に関するルーカス批判と同じで、消費と所得の一般均衡的なモデルが志向されるべきだと私は考えています。すなわち、消費と所得の相互作用、所得から消費への一方的なライフサイクル仮説ではなく、ケインズ的な所得が増加すれば消費が増加し、消費の増加に伴いさらに所得が増加するという乗数過程を的確に描写できるモデルが必要です。現時点で、ライフサイクル仮説がこういった消費と所得のリパーカッションを的確に表現するモデルであるとは、私は考えていません。最後に、本書はマクロ経済学的な消費を中心とする分析を展開しているわけですが、マイクロな消費についてももう少し分析が欲しかった気がします。マイクロな消費分析というと、少し用語が不適当かもしれませんが、支出対象別の消費に関する分析です。例えば、その昔は「エンゲル係数」なんて指標があって、食費への支出割合が低下するのが経済発展のひとつの指標、といった考えが経験的にありました。現在に当てはめると、教育費支出の多寡が生産性や賃金とどのような関係にあるのか、スマホなどの通信費への支出は幸福度と相関するのか、医療や衛生への支出と平均寿命・健康寿命との関係、などなどです。リアル・ビジネス・サイクル理論などにおけるマクロ経済学のミクロ経済学的な基礎については、私自身はまったく同意できませんが、消費のマイクロな支出先による国民生活や経済活動への影響については、今少し研究が進むことを願っています。
次に、イングランド銀行『経済がよくわかる10章』(すばる舎)です。著者は、英国の中央銀行です。本書のクレジットでは「イングランド銀行」が著者となっているのですが、まさか全員で書いたわけもなく、ルパル・パテル & ジャック・ミーニングが著者として名前を上げられています。基礎的な経済学の入門書であり、第1章と第2章はマイクロな経済学、第3章で労働や賃金を取り上げてマクロ経済学への橋渡しとし、第4章からはマクロ経済学となります。イングランド銀行の出版物らしく、第6章からは物価や金融を詳しく取り上げています。ということで、本書からインスピレーションを得て、私の授業では、ミクロ経済学については制約条件の下での希少性ある財・サービスの選択の問題を対象とし、マクロ経済学では希少性ある資源の供給増加や分配の改善、あるいは、可能な範囲での制約条件の緩和を目指す、と教えています。まあ、経済学の定義なんて、教員が100人いれば100通りありそうな気はします。それはともかく、後半、というか、マクロ経済学の解説は秀逸です。第5章では経済成長を取り上げて、歴史的に経済、というか、国民生活は豊かになってきた姿を示し、第6章では貿易などの国際取引に焦点を当てています。そして、第6章からは中央銀行における経済学の中心的な役割の解説が始まります。すなわち、第6章では物価やインフレを考え、第7章ではお金、マネーとは何なのか、第8章では民間銀行や中央銀行の役割、そして、第9章ではリーマン・ショックから生じた金融危機の予測に失敗した際の女王からの質問やエコノミストの回答まで含めて、幅広く金融危機について言及し、最後の第10章ではマクロ経済政策、とくにサブプライム・バブル崩壊後の経済政策について解説を加えています。後半の各章では日本もしきりと取り上げられています。特に、第10章ではノッケのp.364から量的緩和などの非伝統的な金融政策の先頭を走った日本について詳しく言及されています。全体として、いかにも中央銀行らしく、検図理論を中心に据えたマクロ経済学の解説となっています。マネタリズムや古典派的な貨幣ヴェール論などについては貨幣の流通速度が変化することから否定的に言及されています。もちろん、金融政策が政府から独立した専門家によって中央銀行で運営され、財政政策は政府が管轄する、といった基礎的な事項についてもちゃんと把握できるように工夫されています。大学に入学したばかりの初学者はもちろん、高校生でも上級生で経済学や経営学の先行を視野に入れている生徒、さらに、就職して間もないビジネスパーソンなど、幅広い読者に有益な内容ではなかろうかと考えます。ただ、数式がほぼほぼ用いされていないのがいいのかどうか、私には不明です。
次に、小川哲『地図と拳』(集英社)です。著者は、小説家であり、SFの作品も手がけています。というか、むしろ、SF作家とみなされているようです。広く報じられているように、この作品で第168回直木賞を受賞しています。この作品は、20世紀初頭から半ばまでのほぼ半世紀に渡り、中国東北部、当時「満州」と呼ばれた地域を舞台にした壮大な叙事詩といえます。私は、最近の直木賞受賞作では、あくまで私が読んだ中では、という意味ですが、北海道のアイヌを取り上げた川越宗一『熱源』が同様の壮大な叙事詩だと感じています。この作品も、ボリュームとしては『熱源』を上回っており、ただ、作品の出来としては私は『熱源』に軍配を上げますが、とても大きなスケールを感じます。どうでもいいことながら、『熱源』が直木賞に選出された第162回の選考会でもこの作者の『嘘と正典』がノミネートされています。ということで、とても長いストーリーなので、舞台は満州としても、主人公が誰なのか、というのは議論あるところかもしれません。朝日新聞のインタビューでは、作者自らが「あえていえば物語の主人公は李家鎮という都市ですね。」と回答していたりします。ただ、ストーリーの冒頭からほぼ最終盤まで、細川という男性がずっと出ずっぱりとなっています。細川は中国語の他にロシア語も堪能で、密偵の役目を帯びた陸軍士官の通訳として中国の満州に渡ります。そして、架空の満州の街である李家鎮を舞台にさまざまな人間模様が繰り広げられます。細川のほかに、ロシアの鉄道網拡大に伴って派遣された神父クラスニコフ、叔父にだまされて不毛の土地である李家鎮へと移住した孫悟空、地図に描かれた存在しない島を探して海を渡った須野、李家鎮の都市計画に携わった建築学科の学生である須野の倅、李家鎮の陸軍憲兵である安井、などなどです。そして、とっても詳細に書き込んでいます。歴史的な事実関係は私は詳しくありませんし、この作品でも歴史的な事実を下敷きにした小説ではないと理解していますが、SF作家の作品だけに、どこまでが歴史的事実で、どのあたりから架空のフィクションになるのか、を見極めるのも読書の楽しみのひとつかもしれません。なお、出版社の特設サイトに登場人物一覧や関連年表などがpdfファイルでアップされています。ボリュームある長編で視点の切り替りもいっぱいあるので、なかなか読み切るのは骨ですので、こういった関連資料は読書の助けになります。最後に、『熱源』に及ばないと私が判断した点は3点あり、第1に、満州の気象に関して、須野の倅が気温や湿度をピタリといい当てるにもかかわらず、『熱源』のようなリアリティを持って伝わってきませんでした。第2に、『熱源』における日本人とアイヌ人との関係が、この作品では日本人と現地の中国人、そして、満州人との関係が十分に捉えきれていない恨みがあります。また、第3に、ストーリーが最後に失速する感じがあります。したがって、ボリュームあるにもかかわらず、読後感が軽くてイマイチな読書だった雰囲気を持ってしまいます。その分、星1つ『熱源』の後塵を拝する気がします。
次に、山本博文『江戸の組織人』(朝日新書)です。著者は、東京大学の史料編纂所などで歴史研究者をしていましたが、2020年に亡くなっています。副題が「現代企業も官僚機構も、すべて徳川幕府から始まった」となっているのですが、明治期以降の組織人についてはまったく言及がありません。ただ、この副題の通りなんだろうという気はします。ということで、基本的に、江戸幕府の組織とそこで働く主として高官について歴史的にひも解いています。現在にも通ずるような表現にて、キャリアの公務員とノンキャリアの公務員、といった具合です。おそらく、組織と組織人については、江戸期と現在で大きな変化はないものと思いますが、家柄と能力で比重の置き方が違っているのだろうと思います。江戸期には家柄と能力のうち、家柄の方に相対的に重きが置かれ、現在では本人の能力の方が重要、ということなのでしょう。もちろん、江戸期にも能力の要素が十分考慮されていた点は本書でも何度か強調しています。本書では言及ないのですが、現在でも家柄や出自がまったく無視されているわけではありません。それは公務員の勤務するお役所だけでなく、フツーの民間企業でも同じことだろうと思います。ただ、江戸期の方が現在よりも圧倒的に不平等の度合いが高く、したがって、出世した方が格段に収入などの面で有利になるので、出世競争は激しかったのだろうという気はします。ただ、本書では冒頭で士農工商を無視して、侍の士分と町民だけの二分法で始めていますが、現在でも江戸期のような士農工商は一部に残っている事実は忘れるべきではありません。すなわち、士農工商のうちの工商です。知っているビジネスマンは決して少ないとは思いませんが、工=製造業が上で、商=サービス業が下、という構図は残されています。典型的には、日本でトップの経営者団体である経団連ですが、会長は必ず製造業から出ます。銀行や商社から出ることは決してありません。これは基本的に江戸期の名残りといえます。というのは、工商だけで士農を別にすれば、お江戸は職人=製造業従事者の町であり、他方で、大坂は商人=サービス業の町です。ですので、江戸を大坂の上に位置させようとして、この序列が決められているのではないか、と私は訝っています。今でもものづくりや製造業を重視し、商業を卑しめる考えが広く残っているのは忘れるべきではありません。実は、経済学でもアミスやマルクスのころまでは製造業が圧倒的な中心を占めていて、サービス業が無視されていたのも事実です。組織人とは関係ありませんが、身分や序列に関しても江戸期の名残りが随所に見られるのは忘れない方がいいような気がします。
次に、染谷一『ギャンブル依存』(平凡社新書)です。著者は、読売新聞のジャーナリストであり、医療・健康を中心に活動しているようです。本書では、タイトル通りにギャンブルに対する依存を取材により、その破滅的な典型例を紹介しています。6章構成となっており、5章まではパチスロ、競艇、宝くじ、パチンコ、闇カジノの実例を取材に基づいて明らかにしています。最後の第6章で本書を総括しています。ということで、平たくいえば、ギャンブルで身を持ち崩した実例、それもとびっきり悲惨な例を5人分取材しているわけです。依存症の対象はいっぱいあって、依存症というよりは「中毒」と呼ばれるものもあり、人口に膾炙しているのはアルコール依存症、あるいは、「アル中」と呼ばれるもので、タバコのニコチン中毒なども広く知られているのではないでしょうか。ただ、そういった物質への依存と違って、ギャンブルの場合はモロにお金の世界ですので、ギャンブルをする資金をショートすれば誰かから借りることになります。最後は、いわゆる消費者金融から借りて雪だるま式に借金が膨らむ、ということになります。本書では言及がありませんが、大王製紙の御曹司がラスベガスで散財したのは例外としても、サラリーマンが数百万円を超える借金をすれば返済はかなり困難となります。日本の消費者金融は独特のビジネスモデルで、厳しい取立てが、少なくとも以前はあったということは広く知られているのではないでしょうか。ある一定の限界を超えれば、仕事も家庭も破綻するわけです。しかも、ギャンブルについては、確率的に必ず胴元が儲かるシステムになっていることは、ほぼほぼ万人が認識していて、それでもギャンブルにのめり込むということは、なんらかのビョーキである可能性が示唆されています。経済学は合理的な経済人を前提にしていますので、基本的に、ギャンブルは排除されます。しかし、ギャンブルで金儲けをするのではなく、何らかの効用を見出す場合もあります。ストレス発散だったり、社交の一部として知り合いと親交を深める、とかの効用です。ただ、私を含めて、ギャンブル依存で人生が破綻するまでのめり込むというのは、なかなか理解できないことであり、203年秋には大阪に統合型リゾート(IR)という名のギャンブルをする場としてのカジノができるわけですし、こういった本で不足する情報を補っておくべきかもしれません。
次に、波木銅『万事快調 オール・グリーンズ』(文春文庫)です。著者は、たぶん、小説家といっていいのだろうと思いますが、この作品は「弱冠21歳の現役大学生による松本清張賞受賞作」としてもてはやされました。今年になって文庫化されましたので、私もFacebookなどで話題になったこともあり読んでみました。主人公は北関東の「クソ田舎」にある工業高校に通う朴秀美というJK高校2年生です。朴はヒップホップとSF小説を心の逃げ場としています。というのも、工業高校のクラスは機械工業学科の生徒ばかりで、女子は3人しかいません。朴秀美のほかの女子は、朴と同じ陰キャの岩隈、そして、男子とフツーに接している陽キャの陸上部の矢口です。そして、何とこの3人がチームを結成して犯罪に手を染めます。すなわち、朴がひょんなことで入手した大麻の種子を栽培し、それを売りさばいて大金を手に入れるわけです。しかも、栽培するのは高校の屋上だったりします。このあたりまでは、普通に紹介されていますが、私が不思議だったのは高校生がどこまで大麻を楽しめる、というか、大麻を吸えるか、という点です。というのは、私や我が家の倅どもには大麻は無理な気がするからです。どうしてかといえば、大麻を吸うとすれば、少なくとも通常のやや重めのタバコは無理なく吸えなければ、とってもじゃないですが大麻なんて吸引できません。我が家では誰も喫煙しません。しかし、読み進んでみて、主人公の朴はヒップホップの仲間といっしょに缶チューハイは飲むし、タバコも吸うしで、大麻の栽培もそういった素地の上に構築されているんだと、作者の構成の鋭さに感心してしまいました。小説としては、Facebookなどで「痛快」という表現が使われていた気がするのですが、私はそれよりも若者らしい疾走感を感じました。何か、コトを成して痛快とか、爽快、というのではなく、やや方向はムチャだとしても精一杯突き進んでいる疾走感です。ただ、私も60代半ばですので、映画や音楽曲のタイトルがいっぱい出てくるのは閉口しました。半分も知りません。また、特に朴は読書家でかなり本を読みこなしています。おそらく、これは作者自身からくる人物造形だと思います。でも、現実の北関東の底辺高校生に当てはめてみると、むしろ、もっとゲームとアイドル/芸能人なんじゃないの、という気がします。もちろん、ゲームもある程度は登場しますが、やや違和感あるのは私だけでしょうか。あと、関西人の観点かもしれませんが、会話のテンポがよくない気がします。田舎の高校生だから仕方ないのかもしれませんが、会話がモッチャリしています。最後のオチもややビミョーです。ただ、今後の作品に期待したいと思います。大いに期待します。
次に、坂上泉『へぼ侍』(文春文庫)です。著者は、小説家なんですが、2019年にこの作品で第26回松本清張賞を受賞してデビューしています。私は一昨年2021年に文庫化された作品を読んでいます。この作者の作品としては、ほかに、終戦直後の大阪を舞台にした『インビジブル』と返還直前の沖縄を舞台にした『渚の螢火』を私は読んでいますが、本作を含めてこの作者の長編小説はその3作品が出版されているだけだと思います。ということで、この作品も大阪を最初の舞台にしていますが、神戸から出向して西南の役の戦乱の舞台となった熊本なども主人公は出向いています。主人公は大坂詰めの武士の家のでなのですが、当然ながら明治維新で大きく没落し、大阪道修町の薬問屋で丁稚奉公を始め、17歳になった現在は手代になっています。そこの西南の役が起こり、武功を上げる最後のチャンスを逃すまいとして、政府軍の兵役に応募します。しかし、応募して主人公と同じ分隊に編成された兵は、一癖も二癖もある、というか、個性が強くて、そう大して兵隊として役立ちそうもない連中ばかりです。でも、分隊長に任命された主人公は仲間とともに神戸から出向し、熊本で戦い、まあ、歴史的事実ですから、政府軍の勝利に終わるわけです。この作者の作品のひとつの特徴で、本書には乃木希典、犬養毅、嘉納治五郎など同時代人が登場します。また、西郷札などの経済情勢をはじめ、軍事的な情報も含めて、西南の役当時の経済社会情勢がよく調べられており、大阪人の行動や意識などとともに楽しむことが出来ます。そういった細部の組立てとともに、ストーリーの大きな流れもキチンと筋立てられており、読んでいて強く引き込まれます。繰り返しになりますが、この作者が今までに出版した長編小説を、私は『渚の螢火』、『インビジブル』とこの『へぼ侍』と、出版とはまったく逆順に読んでしまいましたが、いずれも平均的な水準を十分にクリアしている立派な作品でした。これからもこの作者の作品に注目した位と思います。
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