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2023年11月 4日 (土)

今週の読書は経済学の学術書をはじめとして計5冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、小川英治[編]『ポストコロナの世界経済』(東京大学出版会)は、コロナ対策として取られた政策対応や他の要因によるグローバルな経済リスクを計測・分析しています。トマ・ピケティほか『差別と資本主義』(明石書店)は、フランスのスイユ社から大統領選挙直前の2022年に刊行された小冊子のシリーズから差別や不平等に関する4編を訳出しています。三浦しをん『好きになってしまいました。』(大和書房)では、日常生活や旅に出たエッセイが三浦しをんらしく炸裂しています。周防柳『うきよの恋花』(集英社)は、井原西鶴『好色五人女』を題材にした時代小説です。麻布競馬場『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』(集英社)は、Twitterで大きな反響を呼んだ虚無と諦念のショートストーリー集です。
ということで、今年の新刊書読書は交通事故前の1~3月に44冊、退院した後、6~10月に130冊を読みました。11月に入って今週ポストする5冊を合わせて179冊となります。今年残り2月足らずですが、どうやら、例年と同じ年間200冊の新刊書読書ができるような気がしてきました。
また、新刊書読書ではないので本日の読書感想文には含めませんでしたが、町田そのこ『52ヘルツのクジラたち』を読みました。また、マンガということで含めなかった山岸凉子『鬼子母神』と『海の魚鱗宮』、いずれも文春文庫の自薦傑作集の第4集と第5集を読みました。そのうちに、Facebookでシェアしたいと予定しています。

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まず、小川英治[編]『ポストコロナの世界経済』(東京大学出版会)を読みました。編者は、一橋大学の名誉教授であり、現在は東京経済大学の研究者です。出版社から考えても、ほぼほぼ純粋な学術書と考えるべきで、野村資本研究所の研究者による第4章などの例外を除いて、時系列分析を主とした先進的な数量分析手法を用いた実証分析が並んでいます。一般のビジネスパーソンにはやや敷居が高いかもしれません。本書はコロナ後の世界経済について、コロナ対策として取られた政策対応や他の要因によるグローバルな経済リスクを計測・分析しています。2部構成であり、第Ⅰ部がグローバルリスクを、第Ⅱ部がグローバル市場の構造変化を、それぞれ分析しています。すべてのチャプターを取り上げるのもムリがありますので、いくつか私の着目したものに限定すると、まず、第2章ではサプライチェーンのデカップリング、すなわち、まるで敵対国のように相手国にダメージを与えることを意図した攻撃的なデカップリング政策と、逆に、供給途絶に備えるための防衛的なデカップリング政策を区別しつつ、日本のようなミドルパワーでは、同盟関係の中で同調的なあつ略がかかる前者の攻撃的な政策、例えば、ロシアに対する経済制裁、とかでは経済コストがかかることから、後者の防衛的なケースでは闇雲に過度の供給依存を回避するというよりも、供給途絶リスク実現の蓋然性と代替措置が可能となる期間とを分析することが重要であり、こういったデカップリングについては政府の政策というよりは、「民間企業による効率性とリスク対応のバランスに関する意思決定の中で、かなりの程度は解決済み」と指摘しています。昨年2022年の「通商白書」なんかでは、特に中国を念頭に置いて、過度の供給回避を論じていたように私は記憶しています。もちろん、サプライチェーンの地理的なホロ刈りが大きければ、それだけレジリエンスが高いのはいうまでもありません。それでも、さすがに、学術書らしくバランスの取れた経済学的に正しい議論を展開しています。また、第4章の中国の不動産業界の金融リスクについては、ほとんどフォーマルな数量分析はありませんでしたが、現下の世界経済のリスクの中心でありながら、私の専門外で情報を持ち合わせていない分野でしたので、それなりに勉強になりました。また、第Ⅰ部の第7章における国際商品価格の決定要因については、私は従来から、1970年代になって世界的に資産市場や商品市場が整備されるに従って、金融緩和によってマネーがモノやサービスに流れてインフレを生じるだけではなく、資産市場にも流れて資産価格の上昇をもたらし、その行き着いたはてが1980年代後半の日本におけるバブル経済であると考えています。マネーがモノやサービスにい向かわないのでインフレにはならず、中央銀行による資産市場対応が遅れるとバブルを生じます。しかし、日本は土地資産によるバブルでしたが、2022年のロシアによるウクライナ侵攻からは、エネルギーや穀物については資産としてマネーが流入すると同時に、モノやサービスの原材料となるわけで、インフレを生じています。こういったポストコロナの大規模金融緩和が国際商品の価格上昇に拍車をかけた点がリカーシブ型の構造VARモデルで実証されています。このあたりの計量経済学的な分析方法に関しては、私はコンパクトに説明する能力を持ち合わせません。理解がはかどらない向きには、学術書であるということでスルーして下さい。

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次に、トマ・ピケティほか『差別と資本主義』(明石書店)を読みました。著者は、フランスと米国の大学の研究者であり、巻末の訳者解説によれば、フランスのスイユ社から大統領選挙直前の2022年に刊行された小冊子のシリーズから訳出されています。4章構成であり、タイトルと著者を上げておくと、第1章 人種差別の測定と差別の解消 (トマ・ピケティ)、第2章 キャンセルカルチャ - 誰が何をキャンセルするのか (ロール・ミュラ)、第3章 ゼムールの言語 (セシル・アルデュイ)、第4章 資本の野蛮化 (リュディヴィーヌ・バンティニ)、となります。私は不勉強にして、ピケティ教授の著作しか読んだことがないと思います。本書のタイトルにある差別については、その原因は人種や国籍、性別、学歴などさまざまですし、差別が現れるのも就職差別や結婚差別などさまざまなのですが、私はエコノミストなので顰蹙を買いまくった某大臣の「最後は金目でしょ」に近い考えをしています。すなわち、差別が所得の不平等につながる、という視点です。ただ、最近の読書では現在の日本における民主主義の危機、すなわち、国民の幅広い声や意見が無視されて、権力を握ってしまえば虚偽を発信しても、無策のままに放置しても自由自在、という点を深く憂慮していることは確かです。経済的な所得の不平等とともに、この点も、特に現在の日本においては重要です。別の表現をすれば、「最後は金目」なのかもしれませんが、それを主張することすら封じ込まれる可能性を懸念しているわけです。しかも、本書に即していえば、国家とまでいわないとしても、何らかのコミュニティが和気あいあいと仲良くやっているのではなく、何らかの要因で分断されているという状態にあリ、この分断が差別を大いに助長している点も十分考慮しなければなりません。ということで、第1章ではアイデンティティに関する考察から始めて、植民地主義に基づく人種差別を考え、それが、反人種差別の運動として具体化されたブラック・ライブズ・マター(BLM)などを第2章ではキャンセルカルチャーと呼ばれる抗議運動として理解しようと試みています。植民地主義とは別の起源ながら、BLMとともに#MeTooも同じキャンセルカルチャーの運動のひとつなのだろうと私は考えています。さらに、第3章では、このシリーズが刊行されたのがフランス大統領選挙ですから、大統領選の決選投票に進んだ極右の国民連合(旧: 国民戦線)のマリーヌ・ル・ペンとともに右派の中で注目を集めた極右ポピュリストのエリック・ゼムールを取り上げています。私は、ゼムールについては移民排斥の中で、イスラム人がフランス人を支配するというグレート・リプレースメント論を提唱したトンデモ政治評論家であるとしか知りませんでしたが、言葉の暴力は凄まじいものだったようです。そして、最後の第4章では生産や経済の場としての資本の野蛮化が論じられます。特に、使用者サイドからの労働への野蛮な攻撃が激化していることは事実であり、フランスはともかく、日本ではものすごい勢いで雇用の非正規化が進み、特に女性の雇用者の非正規率は過半に達しています。繰り返しになりますが、差別や民主主義の破壊は経済的な不平等とともに手を携えて、車の両輪として進み国民生活をいろいろな面から破壊します。最悪の場合、国家社会を戦争に導くこともあります。私はエコノミストですので、こういった危機への対応は不得手なのですが、少なくとも市民としてしっかりと自覚した行動を取る必要があります。

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次に、三浦しをん『好きになってしまいました。』(大和書房)を読みました。著者は、ファンも多い直木賞作家ですが、この作品は小説ではなくエッセイです。しかも、この作者にしては真面目な方の、そうくだけてはいないエッセイです。というのも、この作者のくだけたエッセイであれば、1人称は「おれ」ですし、普段からプリプリト少し不機嫌気味の方らしいので、いたるところで「こるぁ」という恫喝の言葉が出てきますが、この作品ではそういったところは見受けられません。逆に、もっと真面目な方面で人形浄瑠璃や博物館巡りのエッセイであれば、まあ、同年代のエッセイストの酒井順子のようによく下調べの行き届いたエッセイもかけるようにお見受けするのですが、そこまで真面目一徹な作品でもありません。まあ、その中間のエッセイといったところなのかもしれません。それぞれのエッセイが、三浦しをんらしく愛と笑いと妄想に満ち溢れており、特に笑いすぎて抱腹絶倒となることが多いのではないかと思います。なお、本書は5章構成であり、章ごとのタイトルは以下の通りです。1章 美と愛はあちこちに宿る、2章 あなたと旅をするならば、3章 活字沼でひとやすみ、4章 悩めるときも旅するときも、5章 ささやかすぎる幸福と不幸、となります。1章では自宅で植物を育成したかってくる虫や鳥と格闘し、2章ではタイトル通りに紀行文中心となり、3章は読書感想文、4章も旅を中心としたエッセイで、5章はどちらかといえば雑多で分類しにくいエッセイを集めている印象です。繰り返しになりますが、くだけたエッセイではなく、版元から明確に上品なエッセイを求められているものもあるようですが、そこは三浦しをんらしくも上品ぶらない、というか、お茶目な、あるいは、モノによっては自虐的なエッセイに仕上がっているものも少なくありません。お父上は『古事記』研究で有名な学者さんだと思うのですが、家族のトピックも微笑ましく取り上げられています。お父上は三重県ご出身で、その地域性からか阪神タイガースのファンであり、コラボ缶を花瓶として活用しているのは、同じ阪神ファンとして深く理解します。ただ少し残念なのは、収録元のソースがバラバラで、それぞれのエッセイにも統一的なテーマがない点ですが、いかにも三浦しをんらしい筆の進みを堪能できますので、そういった短所はそれほど気になりません。まあ、私はエアロバイクを漕ぎながら音楽を聞いて読書も同時に進めるのですが、そういった時間つぶしにはもってこいです。

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次に、周防柳『うきよの恋花』(集英社)を読みました。著者は、小説家、しかも、主戦場は時代小説ではないか、と私は考えています。さらにいえば、時代小説の中でも江戸時代のチャンバラの侍が主人公となる小説ではなく、我が国の古典古代に当たる奈良時代や平安時代の文人を主人公に据えた時代小説の作品が私は大好きです。しかし、この作品は表紙画像に見られるように、江戸時代の井原西鶴の『好色五人女』を題材にした時代小説の短編集です。収録作品は、順に、「八百屋お七」、「おさん茂兵衛」、「樽屋おせん」、「お夏清十郎」、そして、最後は残る短編ならば「おまん源五兵衛」のハズなのですが、「おまん源五兵衛、または、お小夜西鶴」となっていて、「おまん源五兵衛」ではなく、実のところ、作者の井原西鶴と妻のお小夜についての短編に仕上げています。今さら、あらすじを書くのも芸がないのですが、それでも簡単に記しておくと、「八百屋お七」は、豪商八百八の娘お七が火事で避難した吉祥寺の寺男の吉三郎にもう一度逢いたいがために放火する、というものです。お七からの一方的な吉三郎への歪んだ愛情が元になっています。「おさん茂兵衛」では、大経師の後妻であるおさんが奉公人である茂兵衛と駆け落ちした事件で、亭主の大経師の性格や振舞いが大きな原因を作っています。「樽屋おせん」では、樽職人と祝言をあげたおせんなのですが、その樽職人の忠兵衛が樽屋の跡目を譲られて奉公人から樽屋の主人に出世するのですが、その忠兵衛の出入りの麹屋の入婿とおせんが不義をはたらきます。「お夏清十郎」では旅籠の主人である久左衛門の妹のお夏が懐いた清十郎だったのですが、清十郎とお夏が駆落ちしようとして捕縛され、清十郎が刑死した一方でお夏が狂乱してしまいます。そして、本来の「おまん源五兵衛」では、私の知る限り、衆道好きだった薩摩の武士源五兵衛に恋慕した琉球屋の娘であるおまんが、家出して、さらに、出家してしまったした源五兵衛のもと男装してまでしてに押しかけ結ばれ、しばし困窮生活を送るものの、おまんは両親から巨万の富を譲られる、というハッピーエンドです。しかし、これを作者は西鶴の衆道に置き換えて、妻のお小夜の振舞いをおまんになぞらえて、翻案し、というか、創作的に描き出しています。誠に残念ながら、これが成功しているようには私には見えません。ちょっと、ひねり過ぎた感がなきにしもあらずです。そして、井原西鶴の『好色五人女』の原点を私は読んでいないので詳細は不明ですが、5話を井原西鶴に持ち込むのは相州小田原の薬売りの山善です。最後に、繰り返しになりますが、この作家の作品で私が高く評価しているのは古典古代の文人を主人公にした時代小説です。事実上のデビューさうともいえる『逢坂の六人』、『蘇我の娘の古事記』、あるいは、『身もこがれつつ 小倉山の百人一首』、といったあたりの作品です。この『うきよの恋花』は時代背景を天下泰平の江戸時代に移しつつも、侍を主人公にするのではなく、あくまで文人である昨夏の井原西鶴を中心にお話を進めています。その意味で、この作者のひとつのバリエーションなす作品かもしれません。でも、古典古代に戻って欲しいというのが私の偽らざる本音です。

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次に、麻布競馬場『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』(集英社)を読みました。著者は、1991年生まれ、慶應義塾大学卒業というプロフィール以外は明かされていない覆面作家です。なお、本書は漫画化されて「週刊ヤングジャンプ」で連載されているようですが、私は詳細は知りません。悪しからず。本書は、短編集というよりは、ショートショートの長さくらいで、Twitterで大きな反響を呼んだ虚無と諦念のストーリー集です。キャッチフレーズを受売りすれば、「タワマン」、「港区女子」、「東カレデートアプリ」、「オンラインサロン」などの新しいキーワードを駆使して、デジタルプラットフォームで生まれた文学の歴史の中に「港区文学」と呼ばれるジャンルを打ち立てた作品、ということになります。各ストーリーの主人公となる語り手は、大学生からアラサーのころまでの年齢層の男女が中心で、中には大学受験前の年代から始まるストーリーもあります。主人公=語りてに共通しているのは、東京生活の経験に基づいて語っている点です。もとから生まれ育ちが東京なのか、あるいは、大学生として上京したのか、という点は違うとしても、人生の中で東京生活を経験している主人公ばかりで、地方生まれの地方育ちという主人公はいません。ただ、主人公にも明暗があり、いかにもヘッセの『車輪の下』のハンスのように、死んでしまわないまでも、東京に出て挫折して故郷に帰る、というケースもあれば、逆に、というか、何というか、リッチでバブリーな生活を送っていて、ハンスみたいな地方からの上京学生を見下しているような態度を取る主人公のストーリーも含まれています。何と申しましょうかで、読書感想文から少し脱線すると、私個人はこの両極端の中間くらいに位置する人生を送ってきていて、京都で生まれ育って京都大学を卒業した後、キャリアの国家公務員として東京で働き、バブル期に遊んで結婚が遅れ、海外勤務などの華やかな生活も堪能して60歳で型通りに定年退職し、今では郷里に近い関西で、それなりに名の知れた大学の教員として経済学を教えています。東京で公務員をしていたころには、数年だけですが南青山という港区住まいをした経験もあります。ただ、私の場合は、東京を離れてソンしたと感じています。もっとも、これは私の専門分野が経済ないし経済学だから、その経済の中心である東京を離れると、いくらインターネットが普及しようとも、経済情報の面では東京と地方圏で差がある、という事実に基づいているのだろうと認識しています。ですから、古典文学の専門家、例えば、来年のNHK大河ドラマのテーマである『源氏物語』を大学で教える、とかであれば、東京と京都の差は大きくないかもしれない、と想像しています。読書感想文に戻ると、本書では東京と地方の差は経済ではなく、文化の面であると強く示唆されています。もちろん、文学や美術などのハイカルチャーも差があるでしょうし、本書でもそういったストーリーが含まれていますが、もっと大きな差はサブカルチャーの面ではなかろうか、と私は感じています。例えば、いくつかのストーリーで言及されているマッチングアプリとかがそうです。経済学的にいえば、典型的に規模の経済が働く分野であり、集積の利益が大きく、東京と地方の差は人口規模や所得水準以上に大きくなります。長くなりましたが、いずれにせよ、自分の住んでいる地域が文化的にも経済的にも豊かな場所であることは、各個人にとって望ましいことであり、ではどうすればそれが実現されるのかというと、本書などでは、そう望む個人が東京に移住する、というのが結論っぽくって、その逆を行って自分の住んでいる場所を豊かにしようとするのが地域振興なのだろう、と私は受け止めています。

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