今週の読書は金融に関する学術書をはじめ計6冊
今週の読書感想文は金融に関する学術書2冊のほか、以下の通り計6冊です。
まず、祝迫得夫[編]『日本の金融システム』(東京大学出版会)は、日本の金融について決済やバンキング・システムなどを分析した学術書です。金井雄一『中央銀行はお金を創造できるか』(名古屋大学出版会)は、貨幣供給の内生性についての学術書ですが、貨幣供給は外生的であって、本書の試みは失敗しているように私には見えます。夕木春央『十戒』(講談社)は観光リゾート開発を目指して島を視察する所有者や開発業者らの一行が殺人事件に巻き込まれるミステリです。中野剛志『どうする財源』(祥伝社新書)は、現代貨幣理論(MMT)の理論から貨幣や財政について論じています。NHKスペシャル取材班『中流危機』(講談社現代新書)は、かつては中流層が多数を占めた日本の経済社会における中間層の窮状を分析し、リスキリングの重要性などを論じています。加藤梨里『世帯年収1000万円』(新潮新書)は、ファイナンシャル・プランナーの観点から年収1000万円でも十分豊かな暮らしが送れるとは限らないと指摘し、年収1000万円世帯の生活上の工夫の必要性について示唆しています。
ということで、今年の新刊書読書は交通事故前の1~3月に44冊で、3か月近い入院期間はほぼゼロでしたが、退院してから、6▲11月に153冊を読みました。12月第1週に6冊、そして、今週に6冊で計209冊となりました。
まず、祝迫得夫[編]『日本の金融システム』(東京大学出版会)を読みました。編者は、一橋大学の研究者であり、各チャプターの著者も大学の研究者ばかりで、日銀をはじめとする金融機関の実務者やシンクタンクのエコノミストは含まれていません。出版社から見ても、完全な学術書と考えるべきです。ですので、金融機関にお勤めのビジネスパーソンには少しハードルが高いかもしれません。というどころか、私のような専門外の大学教授にすら難しい内容となっています。本書の構成は5部構成であり、順に主要なテーマな、決済、銀行業ないしバンキング・システム、資産市場、コーポレート・ガバナンス、資本のミスアロケーション、となっています。終章でも自ら指摘していますが、中央銀行デジタル通貨(CBDC)のトピックは、なぜか、取り上げられていません。決済については、クレジット・カードをはじめとして、「今買って、後で払う」Buy Now Pay Later (BNPL)の普及により、消費と支払いのタイミングのずれが経済活動にどのような影響を及ぼしているかの分析が参考になりました。ただ、その昔からいわゆる「月賦』という支払い方法があり、マイホームはもちろん、自動車についてもローンを使っての購入があるわけですので、消費と支払いの時期的なずれとともに、ローンを負った家計の消費行動分析も欲しかったところです。バンキング・システムについては、日本には銀行業の比較優位が乏しいという議論を見かけますが、既存研究で指摘されている過剰供給、規制荷重、独自衰退の3つの理由すべてが当てはまるような気もします。ただ、日本では他の先進諸国と比較して、総合商社という業態がとても発達していて、例えば、CPを発行してのプロジェクト・ファイナンスなんてのは銀行よりも総合商社が担っている部分が大きいのではないか、と私は考えています。その意味で、銀行業だけを取り出して分析対象とするのではなく、その昔の住専やノンバンク、あるいは、消費者金融といったややよくないイメージの金融機能を持つ会社組織があることは確かですが、日本では銀行業以外の金融仲介機能を担う業態まで含める必要がありそうな気がします。資産市場のうち、株式市場については、10年前ほどにノーベル経済学賞を受賞したものの、Famaらの効率的市場仮説がもはや成り立たないことは、実証的に明らかになっていて、例えば、米国株式についてはモメンタム効果により順張りのリターンが大きく、日本株式ではリターン・リバーサルにより逆張りのリターンが大きい、というのはほぼほぼ実証的には確認されています。コーポレート・ガバナンスについては、本書でも指摘しているように、ESG投資、特にEの環境への投資を私は注目しています。例えば、Glasgow Financial Alliance for Net Zero=GFANZ という機関投資家グループなどです。気候変動や格差是正と正面から向き合う機関投資家、特にCALPERS (California Public Employees' Retirement System)のような公務員や教員の退職者年金運用機関からの企業への圧力に期待する人は少なくないと思います。最後の資本のミスアロケーションの問題については、「ゾンビ企業」という表現があるように、世間一般の意見は精算主義に傾いていて、赤字企業は「放漫経営」なのだから市場から退出すべきであるとか、銀行や事業会社の救済に関する世論の批判は強いものの、雇用社のスキル維持のためには企業救済の一定のプラス面にも目を向けるべきである、と私は考えています。最後に繰り返しになりますが、完全な学術書と考えるべきであり、ハードルは決して低くありません。
次に、金井雄一『中央銀行はお金を創造できるか』(名古屋大学出版会)を読みました。著者は、名古屋大学の研究者であり、名誉教授です。本書では、私を含む多くのエコノミストが「常識」としている貨幣供給外生説に対して、貨幣供給は内生的に決定されるとする説を。英国の金融師などをひも解いて解明しようと試みています。しかし、私の読後の結論からして、その試みは失敗しているとしかいいようがありません。まず、本書では貨幣の創造について、初めに預金ありきという説ではなく、信用供与が預金を創造するのであって、貸出に先立って銀行券による預金を集めておく必要はない、と論じています。まったくその通りです。100パーセント私も同意しますし、多くのエコノミストがそうだろうと思います。しかしながら、19世紀英国における通貨原理と銀行原理の論争のあたりから議論が怪しくなります。私は、本書の議論は貨幣需要が内生的に決まる、という論拠を並べているように見えます。それであれば、私は正しい議論であろうと感じますが、どうも、貨幣需要と貨幣供給がどこかで混戦しているのではないか、という直感的な思いがあります。とくに、ピール銀行法の下でのカレンシー・ノートについては兌換されずに流通のかなに残っている部分は、完全に貨幣需要に基づくものであり、その貨幣需要に基づいて、というか、おそらく英語であればaccommodate するという意味で貨幣供給がなされている、という解釈なのだろうと思います。かつての日銀論法そのものであり、中央銀行は貨幣流通量はコントロールできない、という意味です。しかし、現在の不換紙幣制度の下での中央銀行の準備預金について同じことなのかどうか、例えば、日銀当座預金は自由に日銀がコントロールしているように見えます。そして、その根本的な違いのひとつが本書pp.36-37にあり、英国ノカレンシー・ノートが債務であるがために自由に発行できるわけではない、という記述です。すなわち、貨幣というのはすべからく債務である点については、本書の著者の当然ながら十分に理解しているようですが、勢い余って、というか、何というか、負債であるがゆえに恣意的に発行できるわけではない、と結論しているように、私には見えてなりません。私は多くの主流はエコノミストから見れば、負債であるがゆえに中央銀行は自由に貨幣を供給できる、ということになるのですが、どうも本書では逆立ちした議論が展開されています。負債であるために通貨の供給を限定する、というのは、その昔の日銀理論にもありましたが、国民経済の観点よりも中央銀行の財務的な健全性を重視し、国民が非自発的失業に苦しんでも中央銀行の財務の健全性の方が重要、という見方につながりかねないリスクがあるような気がしてなりません。同様の視点は財政にもあって、経済が大きく停滞していてケインズ政策的な総需要管理が必要であるにもかかわらず、財政的な健全性をより重視して均衡財政主義を貫く、そして国民に「痛み」を押し付けるという政策運営がかつては見られましたし、現在でもそういった政策を志向するエコノミストはいます。どちらが正しいかは国民の民主主義に基づく判断です。その意味でも、やや脱線した結論で終わりますが、中央銀行の完全なる独立というのはありえません。何らかの民意は反映されるべきです。
次に、夕木春央『十戒』(講談社)を読みました。著者は、ミステリ作家です。前作の『方舟』が話題になったところかと思います。この『十戒』もクローズド・サークルの殺人事件を扱っていて、最後の最後に前作『十戒』からの連続性が示唆されている部分があったりします。主人公は芸大を目指して二浪中の大室里英です。父親の兄に当たる叔父が死んで、父親が無人島を相続することになります。そこをリゾート開発しないかという話が持ち上がって、大室親子に加えて、開発会社から沢村という30代後半の男性と研修社員の若い女性である綾川の2人、工務店社長の草加と設計士のアラフォー女性の野村の2人、不動産会社の30代前半くらいの藤原とその一回り上の年格好の小山内の2人、さらに、叔父の友人だった矢野口の合計9人が島に渡ります。島は枝内島という名で、直径300メートル、周囲1キロほどのほぼ真円に近い円形ながら、北側の船着き場のほかは絶壁になっていて海水浴などは出来そうもありません。このあたりは、ツイッタにある講談社文芸第三出版部の「あらすじ紹介マンガ」を見たほうが早いかもしれません。あらすじは、島に着いて視察を終えた翌朝、不動産会社の小山内が殺され、そして、十の戒律が書かれた紙片が発見されます。これが十戒なわけで、スマホで問題なく電波が拾えて通信が可能であるにも関わらず、島外との通信を禁止したり、もちろん、警察への通報もNGで、3日間島外に出ることは許されず、犯人探しもダメ、などと書かれているわけです。そして、どうしてこういった制約条件を生き残った人々が遵守するかといえば、島内の作業小屋に相当な爆弾が保管してあって、スマホ操作で島をふっとばして全員、犯人も含めた全員が死ぬ可能性が高いからです。ストーリーが進むと、もう2人が殺されて合わせて3人が殺される殺人事件となります。ミステリですのであらすじもこのあたりまでとします。最後に、一度探偵役の人物から犯人を明らかにする whodunnit のひとつが生き残った人々に対して明らかにされますが、実は、前作の『方舟』と同じで最後の最後にどんでん返しがあります。前作『方舟』のどんでん返しは、フツーの twist ではなく、上下ひっくり返るくらいの turnover だと私は前の読書感想文に書きましたが、この『十戒』はまあ twist のひと捻りくらいの感じではないでしょうか。前作『方舟』を読んだ後は随分と感激した記憶がりますが、今になって本作『十戒』とともに思い起こせば、まあ、あそこまで感激したのが不思議に感じます。この作品についての批判は、爆弾がどうして都合よく島内にあるのか、生き残った人々が従順に「十戒」に従ってばかりなのは不自然、といったあたりかと思いますが、私の感想は違います。すなわち、この作品の明らかな欠陥は、フェアではないことです。すなわち、本格推理小説で要求されるフェアということは、犯人以外は真実を述べることです。しかし、このストーリーの極めて重要な役割を担う人物が、嘘をついているわけではないものの、極めて重要な事実を隠しています。それは、犯人が指示した「十戒」に抵触するから、という理由で許容されるものではありません。その意味で、疑問が大きいミステリでした。この作者の次の作品である『時計泥棒と悪人たち』までは図書館から借りましたので読むことは読みますが、その先の作品も読むかどうかは現時点では何ともいえません。
次に、中野剛志『どうする財源』(祥伝社新書)を読みました。著者は、経済産業省の公務員ではないかと思いますが、現代貨幣理論(MMT)に基づく経済観を主とした経済関係の書物を何冊か出版していて、私もいくつか呼んだ記憶があります。本書では、タイトルと違ってまず貨幣論から入ります。物々交換が不便だから貨幣が生まれたという商品化併設を否定したりしています。でも、そのあたりは読み飛ばしてタイトル通りのテーマに入ると、本書の主張はとてもクリアであって、日本経済はデフレを長らく放置したために資本主義的な経済システムが機能しなくなり、このままでは経済が崩壊するので、実物資源の成約に近づくまで財政支出を増加させるべきであって、その裏付けとしての財源は取りあえず放置して差し支えない、ということなのだろうと私は考えています。差位後の「財源は放置して差し支えない」というのは私の表現であって、本来、私自身は財政政策については政府支出と税制は独立に政策運営する方が望ましい、と考えています。当然ながら、ティンバーゲンの定理により政策目標と政策手段が同数必要であるとすれば、政策手段は多い方がいいわけです。こういった私の財政政策に関する姿勢は、その基礎である財政赤字や公的債務に対する見方について、最近の紀要論文 "An Essay on Public Debt Sustainability" でも示しているところです。そして、本書ではこの実物的な資源の限界についてはインフレで考えるという、これまた、MMT学派の主流の見方が示されています。その昔の非自発的失業に着目する献ず経済学では「完全雇用」が実物資源、中でも雇用者のリソースの限界とされていましたが、労働者だけではなく、ほかのリソースも含めた実物資源の限界がインフレによって現れる、というのはそれなりに自然な考え方です。ただ、インフレといえば現在のインフレは供給サイドから生じていて、需要サイドではないと議論されていますが、こういったインフレについてはどう考えるべきか、という点も本書ではていねいに解説されています。私は本書に示されている貨幣や財政に対する見方はほぼほぼすべてに賛成です。
次に、NHKスペシャル取材班『中流危機』(講談社現代新書)を読みました。著者は、NHK番組の取材に当たった10人ほどのジャーナリストです。かつては、1960年代後半から1970年代にかけて「1億総中流」といわれた時期が日本にはありました。世論調査などで自分の属する階層について「中流」を選択する人々が圧倒的に多かった時代です。しかし、1980年代後半のバブル経済を経て、1990年代初頭にはバブルが崩壊し、その後、長らく日本経済が停滞を続ける中で、そういった中間層はかなり大きなダメージを受け、もはや中流とか、中間層とは呼べなくなっている可能性が指摘されています。1994年に日本の所得中間層の505万円だった中央値が2019年には374万円と、25年間で実に約130万円も減少しています。もはや、日本は先進国であったとしても、平均以下の先進国になってしまったといえます。なぜ日本の中流階層は急激に貧しくなってしまったのか、また、本書のタイトル通りに、「中流危機」ともいえる閉塞環境を打ち破るために、国、企業、労働者は何ができるのか、といった観点から、NHKが労働政策研究・研修機構(JILPT)と協力して実施した共同アンケート調査結果などから浮き彫りとなる日本経済に対する処方箋の提示を試みています。ということで、JILPTというのは私も勤務経験のある国立の研究機関なのですが、NHKとJILPTとの共同調査の結果では、イメージする中流の暮らしにはいくつかの要素があって、第1に正社員、第2に持ち家、第3に自家用車、第4に趣味にお金をかけている、第5に年1回の旅行、といったところです。最後の旅行については、新型コロナウィルス感染症(COVID-19)のパンデミックから、大きく見方が変わりましたので、第4までで考えると、私個人は第1と第2しか当てはまりません。自家用車は海外勤務のころはありましたが、帰国してから20年余り持っていませんし、それほど高価でもない自転車に乗ってアチコチ走るのが趣味ですので、お金をかけているわけではありません。それはともかく、私は圧倒的に日本が貧しくなったのは、1995年に日経連が打ち出した「新時代の『日本的経営』」に乗っかって、政府が派遣労働を許容する派遣労働法を制定し、それをポジリストからネがガリストへ、さらに、製造業派遣も解禁して、果てしなく範囲拡大して非正規雇用が恐るべき勢いで増加した点に原因があると考えています。ですから、本書では、第2部で中流再生のためにデジタルイノベーション、リスキリング、同一労働同一賃金の3点を主張していますが、私は圧倒的に雇用の再構築が必要だと考えています。そもそも、雇用者のリスキリングの前提として、非正規雇用などのデスリングが生じた点を見逃すべきではありません。「デスキリング」とは、本来、中核的な工程に機械が導入されることにより、それまで当該工程を担ってきた熟練が崩壊する過程やその現象を指しますが、私は、低賃金で雇用されたがゆえにスキルが低下する現象として解釈しています。本来は潜在的な生産性が十分高いにもかかわらず、低賃金の職種で雇用されてしまって、その業務に必要とされるスキルを大きく上回るスキルを潜在的に有していたにもかかわらず、そういったスキルを活用する機会がなくて時間とともに徐々にスキルが低下する、といった現象が広く日本で見られます。それをリスキリングする必要があるのは、私から見れば悲しいことだという気がします。OECDののPISAの結果などを見る際にも、日本人の潜在的な優秀性は明らかなのに、それを活かしきれていない政府の政策や経営層のマネジメント能力に、私は大きな疑問を持っています。
次に、加藤梨里『世帯年収1000万円』(新潮新書)を読みました。著者は、ファイナンシャル・プランナーです。本書では、ひとつの区切りのいい数字として世帯年収1000万円を考え、現在の我が国の平均年収400万円と比較して、十分中流以上の暮らしができる数字であるにもかかわらず、実際は生活が苦しい、という実情を分析し改善方策を提示しようと試みています。まず、世帯年収1000万円でも生活が苦しい実感がある原因として、住居費、教育費、生活費を上げています。私の暮らしているような地方圏ではともかく、私も2020年に引越す前は東京に住んでいましたから、東京の住居費の高さはそれなりに実感しています。教育費もご同樣で、我が家は2人の倅を中学校から6年間一貫教育の私立に通わせましたので、これまた実感しています。ただ、生活費については、本書では共働きの保育費やベビーシッターの費用を考えているようですが、我が家は専業主婦でカミサンがこういった分担に当たってくれていましたので、対外的は出費はありませんでした。そして、本書では最後に、国民的なキャラクターとして、クレヨンしんちゃん、サザエさん、ちびまる子ちゃんを例に、どういった出費が必要で、老後資金は大丈夫か、などの観点からシミュレーションを試みています。我と我が身を振り返って、我が家が何とかカミサンの専業主婦という贅沢を許容しつつ、その上で、倅2人を中学校から私立に通わせるという、これまた贅沢ができた事実を考えると、当然ながら、ここから漏れている私が大きなガマンを強いられていたような気がします。しかしその前に、本書で高コストのひとつとして取り上げられている「お受験」、すなわち、小学校から私立に子供を通わせるよいう選択肢は、幸か不幸か、我が家にはありませんでした。というのは、我が家は上の子が小学校に上がるタイミングは海外生活を送っていたからです。我が家の上の子が入学した小学校は海外の日本人学校で、日本に帰国してそこら辺の公立小学校に通い始めています。下の子は上の子にならって、当然のように、同じ公立小学校です。そして、本題の亭主たる私のガマンですが、自家用車という贅沢はさせてもらえませんでした。まあ、東京都心ど真ん中の南青山で、地下鉄の表参道駅までも近くて自家用車の必要性が低かったことも事実です。最後は、私が長々と働いているという点も強調しておきます。ひとつのガマンです。65歳になった現在でも正社員の教員として、大学にこき使われていますから、年金生活に入っている同級生をうらやましく感じつつも、正社員らしいお給料をもらっていることも事実ですし、来年からも何とか定年後再雇用でもう少し働き続けることも、働いている私自身はキツいのですが、そのお給料で暮らしている分には生活は苦しくはない、といえます。
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