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2023年12月23日 (土)

今週の読書はいろいろ読んで計7冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、夫馬信一『百貨店の戦後史』(国書刊行会)は、すでに閉店・廃業した百貨店を対象に、華やかだった戦後の百貨店の歴史をひも解いています。田村秀男・石橋文登『安倍晋三vs財務省』(扶桑社)では、安倍晋三元総理大臣の政策決定過程における財務省との関係を、ややバイアスありながらも、解説しようと試みています。ジェフリー・ディーヴァー『真夜中の密室』(文藝春秋)は、ニューヨークを舞台に深夜に1人暮らし女性の部屋を解錠して忍び込むロックスミスにリンカーン・ライムが立ち向かうシリーズ第15作です。福家俊幸『紫式部女房たちの宮廷生活』(平凡社新書)は、『紫式部日記』から来年のNHK大河ドラマ主人公の紫式部の実像に迫ります。山口博『悩める平安貴族たち』(PHP新書)では、短歌から平安貴族の恋と職業、さらに、老いと死までの悩みを明らかにしようと試みています。鈴木宣弘『世界で最初に飢えるのは日本』(講談社+α新書)は、大きく低下した日本の食料自給率を向上させ、地政学的リスクや食料安全保障の観点から農業の振興と食糧生産の増加を目指す政策について考察しています。最後に、青木美希『なぜ日本は原発を止められないのか?』(文春新書)は、福島第一原発のメルトダウンなどの経験から地震多発国日本における原発のリスクを考え、どうして日本は原発の停止・廃止に踏み切れないのかについて議論しています。年末ですので、ベスト経済書の関係では、私の勤務校の大橋陽教授と中本悟教授が共編者として2023年7月に刊行した『現代アメリカ経済論』(日本評論社)が、『ダイヤモンド』のベスト経済書ランキングで第16位に入り、大学のサイトでも取り上げられています。私はこの共編者2人とも親しいのですが、つい昨日、共編者のうちのお1人と顔を合わせて、「ベスト経済書に入れておいてくれた?」と聞かれたので、「はい、3番目でしたが入れておきました」とお答えしておきました。同じ『ダイヤモンド』12月23-30日合併号のベスト経済書特集で、ランキング2番めに入ったブランシャール『21世紀の財政政策』を取り上げたページp.227に私の書評が数行ながら、末端に氏名入りで紹介されているらしいです。ご参考まで。人に教えてもらっただけで、いまだ、見本誌が届かないので、また、日を改めてベスト経済書を取り上げるかもしれません。
ということで、今年の新刊書読書は交通事故前の1~3月に44冊でしたが、交通事故で3か月近く入院した後、6~11月に153冊を読みました。ですので、11月までに197冊、そして、12月第1週に6冊、第2週に6冊、先週第3週に5冊、そして、今週7冊で計221冊となりました。

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まず、夫馬信一『百貨店の戦後史』(国書刊行会)を読みました。著者は、ジャーナリストないしエディターだと思います。我が国現代史の書籍を何冊か取りまとめているようです。本書では、タイトルの通りに百貨店=デパートの戦後史に注目しています。戦後を6期に分割し、高度成長の1960年代、石油危機が日本経済の曲がり角を示唆していた1970年代、バブル前夜とバブル経済期の1980年代、バブル崩壊後の世紀末の時代に当たる1990年代、そして、2000年代と2010年代です。もちろん、百貨店の開店は大正ないし戦前期の昭和というお店も少なくありませんが、本書の特徴のひとつは、すでに閉店した百貨店だけを収録している点だと思います。すなわち、収録順に東急百貨店東横店(東京都渋谷区)、前三百貨店(群馬県前橋市)、伊万里玉屋(佐賀県伊万里市)、丸正(和歌山県和歌山市)、中合福島店(福島県福島市)、岡政/長崎大丸(長崎県長崎市)、棒二森屋(北海道函館市)、松菱本店(静岡県浜松市)、土電会館/とでん西武(高知県高知市)、五番舘/札幌西武(北海道札幌市)、小林百貨店/新潟三越(新潟県新潟市)、大沼山形本店(山形県山形市)となります。冒頭の序章で、2020年3月末日を持って閉店する東急百貨店東横店から始まるのですが、ハッキリいって、この東急百貨店東横店を除いて、私は知らない百貨店ばっかりです。首都圏の一都三県、関西の京阪神、名古屋圏の百貨店はほとんど入っていません。私が見知っている唯一の例外は、長崎大学に2年間単身赴任していましたので、長崎大丸だけです。お給料の振込みを長崎地場の地銀ではなく、東京勤務時のメガバンクにしていましたので、長崎市内唯一のそのメガバンクの支店の近くに長崎大丸があったことを記憶しています。なお、百貨店の名称から理解できる通り、大丸と西武が見られるくらいで、高島屋やそごう、ほかの都市部を走る電鉄系の百貨店はみられず、鉄道系も含めて地場の百貨店が中心となっています。そして、本書のもうひとつの特徴としては、物販の面から売上げや消費だけに着目するのではなく、地域の雇用の場としての働いていた人々にも目を配り、あるいは、イベントや催し物、また、食堂や屋上のミニ遊園地としての文化的な要素にも大いに着目しています。地味なオフィス勤務と違って、百貨店はそれなりに華やかな職場でしょうし、客としてお出かけするにしても、当時は、それなりに着飾って行くべき場所だったような気がします。もっとも、私個人としてはそれほど裕福な家庭の出身ではありませんでしたから、たぶん、私の父親はデスクワークなんてしたこともないくらいでしたから、実体験として百貨店に着飾って出かけた記憶はほとんどありません。昭和初期に地域の期待を背負って県知事や市長、あるいは経済界の重鎮を招いて開店セレモニーを挙行し、その後、敗戦を経て高度成長期に復興したとしても、1970年代の2度に渡る石油危機でダメージを受け、1980年代後半のバブル経済期に一息ついたものの、バブル崩壊後から長期に渡って百貨店の売上げは低迷を続けます。1990年代後期からのデフレ経済、2008年のリーマン証券の破綻、そして、2020年の新型コロナウィスル感染症(COVID-19)パンデミック、などなど、たんねんな資料の分析とインタビューに基づいて百貨店の戦後の歴史をひも解いています。歴史資料としての価値も十分あり、本書冒頭の20ページ近くはカラー図版ですし、本文中も、いくつかの例外を除けば、見開き右ページに本文、左ページにモノクロの図版、という構成になっています。最後の最後に、どうでもいいことながら、太田愛子『天井の葦』でひとつのカギとなる山手線の上を走るケーブルカーの図版が収録されています。これはこれで感激しました。

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次に、田村秀男・石橋文登『安倍晋三vs財務省』(扶桑社)を読みました。著者は、日本経済新聞と産経新聞のジャーナリストです。タイトルなどから軽く想像できることと思いますが、ひたすら、安倍晋三元総理大臣を持ち上げて、財務省をディスっています。ネットスラングで「アベガー」というのがあり、安倍元総理やその支持者などに対して脊髄反射的な嫌悪や反対を示す人々だと私は認識していますが、本書ではその真逆な認識が示されています。私がネットで見かけた範囲では「アベガー」に対して、「アベノセイダーズ」というのがありますが、これは「アベガー」の意見を皮肉交じりに批判する人々であって、本書のように手放しで褒め称える人々とは少し異なる印象があります。私自身は、極めて大雑把に、アベノミクスと呼ばれた経済政策は概ね評価しています。世界的にもリベラルな経済政策でしたが、キチンとした再分配政策が欠けていました。したがって、格差が広がりました。他方で、私の専門外ながら、政治外交的には右傾化が進んで、改憲を目指していたようですし、国内も世界も分断が広がって、その傾向を見ながら火に油を注ぐような政策であったとも批判も少なくありません。ですので、本書を読むとすれば、それなりの大きなバイアスが本書には含まれている点を注意すべきです。「vs財務」というタイトルですから、経済を中心に見ると、よくいわれるように、経済学には人間がほとんど出てきません。需要と供給で価格と数量が決まるという、お決まりのミクロ経済学から始まって、ケインズ的なマクロ経済学でも財政政策や金融政策は、特に、前者の財政政策は何らのバイアスない賢人の決定というハーベイロード仮説に基づいて、最適な政策決定がなされる、ということになっています。まあ、霞を食って生きているというにかなり近い経済学なのですから、本書では現れませんが、例えば、モジリアーニ=ミラーの定理によれば、税や規制などの歪みがなければ、株式発行も、社債発行も、銀行借入れもすべて資本コストは同じ、ということになりますし、効率的市場仮説が成り立って、強い効率性が実現できていれば、資産運用においてインサーダー情報を持ってしても平均以上のリターンを上げることは不可能、ということになります。しかし、実際には政策運営や投資運用は人間がやっているのであり、その上に、組織を通じた行動により歪みが生じます。本書では、ひたすら安倍元総理が正しい判断を下して、それを阻害するのが財務省、という結論が先になっているような気がしてなりません。カリスマ的な指導者でしたから、宗教的なまでの指導性があるのは不思議でもなんでもありませんが、例えば、p.250からの世間の世襲批判に対する反論などは、疑問を持つ読者も決して少なくないような気がしました。その意味で、あくまで常識的な判断力を持って読み進むべき本である、と私は結論しておきたいと思います。

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次に、ジェフリー・ディーヴァー『真夜中の密室』(文藝春秋)を読みました。著者は、ミステリ作家です。いくつかのシリーズがあり、本書はニューヨークを舞台に四肢麻痺の名探偵であるリンカーン・ライムを主人公とする最新刊です。ほかに、キャサリン・ダンスのシリーズとか、新しいところではコルター・ショウのシリーズもあるのですが、このライムのシリーズの作品が一番多いと思います。出版社ではなく、どこかのサイトで長編としては本書が15作目、とありました。ソースは明らかではありませんし、私が数えたわけでもありませんが、まあ、それくらいか、という気がします。ミステリ作家としては、ツイストというひねりを加えて、ラスト近くでどんでん返しを持ってくるストーリー展開を得意にしているといわれています。ということで、本書では、ニューヨークの1人暮らしの女性、当然ながら、厳重に鍵のかかった部屋で寝ている女性の部屋に侵入し、住人に何らの危害を加えることもなく、貴重品ではなくちょっとした物品を盗むだけで、すなわち、クッキーを食べたり、ワインを飲んだり、包丁を盗んだり、その上で、破った新聞紙に書いたメッセージを残して去って行くロックスミスと名乗る解錠師を相手にします。同時に、ニューヨークのギャングの大物の裁判で失態を演じたライムは市警のコンサルタントを解任された上に、警官との連絡を禁止されたりもします。このロックスミスと名乗る解錠師は、いわゆる粗暴犯でないのはいうまでもありませんが、何かにつけてウォッチメイカーと対比されます。ライムのライバル、というか、闇の芸術家、頭が良くて戦術に長けている、などと2人並べて称されます。ライム・シリーズの前作『カッティグ・エッジ』は2019年でしたから、新型コロナウィスル感染症(COVID-19)パンデミック前、ということになり、その後一定の期間が経過していることから、いろんな発展形が本作品では示されています。ZOOMでオンライン会議をしたり、といったのは当たり前ですし、ライムについては身体的にはかなり動く部位が増えているような気がします。私としては、前作の『カッティング・エッジ』よりは出来がよくって面白かった気がします。でも、このリンカーン・ライムのシリーズやキャサリン・ダンスのシリーズは、いわゆる頭脳戦で展開していくのですが、やや方向性の違ったコルター・ショウのシリーズがこの先も続くようであれば、そちらも気にかかるところです。

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次に、福家俊幸『紫式部女房たちの宮廷生活』(平凡社新書)を読みました。著者は、早稲田大学の研究者であり、ご専門は平安時代の文学・日記文学だそうです。来年のNHK大河ドラマの主役は紫式部であり、当然ながら、書店や出版社では紫式部やその文学作品である『源氏物語』を特集して、いろいろと出版してくれています。私なんぞは、まんまとそれに引っかかって、11月11日には倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)と繁田信一『『源氏物語』のリアル』(PHP新書)をレビューし、今日は今日で本書なんぞを取り上げているわけです。紫式部や『源氏物語』に着目する場合、文学から解き明かすのと、歴史からひも解くのと2通りあると思いますが、本書は前者の文学から考察を進めています。ということで、本書では、冒頭章で紫式部の生立ちなどの個人に着目し、続いて女房というお役目について考え、そして、『紫式部日記』から本題の紫式部とその女房生活を追っています。女房というのは、天皇または高位の貴族に仕える女性で、語義からは部屋を与えられていたのだろうと思います。紫式部なんぞは中宮彰子に仕えていたのですから、今でいえば宮内庁勤務の侍従、国家公務員になぞらえることも出来そうです。主たる役目は中宮彰子の文化的な素養を高め、天皇のお渡りを増やして懐妊の確率を高める、というのが正直なところでしょう。おそらく、中宮の周囲の文化的なサロンの格調を高めていたことと思います。ですから、中世欧州で、貴族や金持ちの女性に仕えるコンパニオンという職業がありましたが、そういった女性の職業の日本的、あるいは、より高位貴族的なものではなかったか、という気がします。本書では、紫式部による『源氏物語』の執筆が先に始まっていて、それに目をつけた藤原道長が中宮彰子の女房としてスカウトした、というふうに解釈しています。年代的にもそうなのだろうと思います。当然のことながら、執筆に最適な環境が与えられ、墨・硯・筆に加えて、料紙なども最上のものが用意されていたものと思います。そういった恵まれた仕事の環境ながら、本書などによれば、中級貴族出身の紫式部は気詰まりで仕方なく、なるべく目立たぬように腐心していた、というように解釈されているようです。果たして、NHKの大河ドラマやいかに?

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次に、山口博『悩める平安貴族たち』(PHP新書)を読みました。著者は、いくつかの大学を歴任され退職された後、現在はカルチャースクールなどで人気を博している研究者のようです。本書でも冒頭に来年のNHK大河ドラマを意識して、『源氏物語』からお話が始まっています。ただ、タイトル通りに、『源氏物語』に限定することなく、幅広く平安貴族の「悩み」について取り上げています。しかも、その悩みについて単価を示すことにより実例を持ち出して、とても判りやすい解説がなされています。もちろん、悩みは平安貴族でなくても現代人でも尽きぬわけで、まず、やや『源氏物語』や紫式部を意識して、第1章は女房生活のお仕事や恋の悩みから始まって、第2章で女流文学に癒やされる女性たち、第3章では男性に目を転じて出世競争に着目し、第4章では男性の恋の悩み、第5章では男女を問わずロイの悩みについて、第6章で人生最後のステージの病と死について、それぞれ議論を展開しています。繰り返しになりますが、冒頭章では紫式部や『源氏物語』を意識して、清少納言に対する紫式部の批判を取り上げつつも、それでも、「香炉峰の雪」ではありませんが、文学には漢文の素養が必要であったと指摘しています。私も、『源氏物語』を読んだ時に、すこし「オヤ」と思ったのは、夕霧の教育については、漢文を中心に据えるとの光源氏の考えを展開していた点です。まあ、当時のことですから、真名の漢文は男性、仮名の和文は女性、ということだったのでしょうし、国際関係で必要とされるのは現在の英語と同様の国際語の地位を占めていたのが中国語で漢文だったのでしょう。ですので、『和漢朗詠集』のような書物もありますし、仮名で物語を書く女性でも真名の漢文の素養が必要だったのは、ある意味で、当然なのかもしれません。ただ、それを清少納言がひけらかすのを紫式部は批判したのだろうと思います。まあ、男性、特に中級以下の貴族の男性が官位を求め、官職を求め、結果的に、金銭を求めるのは現在と変わりないように私は受け止めました。男女を問わず、老いや死についてもご同様かと思います

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次に、鈴木宣弘『世界で最初に飢えるのは日本』(講談社+α新書)を読みました。著者は、官界の勤務を経て、現在は東京大学の研究者です。本書のタイトルから理解できるように、現在の我が国の食料安全保障について極めて強い危機感を持って、我が国の食料自給率の向上の必要性などを議論しています。昨年2022年2月に始まったロシアのウクライナ侵攻以来、エネルギーや食料品の値上がりが激しいのは誰しも実感しているところですが、もちろん、値上がりは需要と供給のバランスに依存するとはいえ、量的に食料が不足する事態がどこまで現実的なのか、あわせて、来年になれば授業で農業を取り上げますので、その勉強も兼ねて読んでみました。ただ、私は、世間の能天気なエコノミストとは違って、食料は比較優位に基づいて安いところから輸入すればいい、とだけ思っているわけではなく、農業が一定の公共財的な役割を果たしていることからも、何らかの補助を出してでも農業生産・食糧生産の増産は必要と従来から考えています。農業経済学は経済学部と農学部の両方に講座が置かれている場合が多いと思いますが、生産上の農業の特徴を工業を基準にして考えると、(1) 生産に要する期間が長く、季節性が高い、(2) 気候をはじめとする自然条件の影響が大きい、(3) 収穫逓減が概ね成り立ち、規模の経済はほぼほぼない、に対して、生産物である農産物の特徴として、(1) 統一的な規格の適用が困難、(2) 腐ったり傷んだりしやすく、保管や輸送が高コスト、(3) 国民生活上の必要性が極めて高いが、価格弾力性や所得弾力性が低い、といった特徴があります。ですので、標準的な経済学とは少し違った経済学の適用が必要である、と私は考えています。前置きがとっても長くなりましたが、本書のレビューに戻りますと、まず、本書の第1章では食の10大リスク、というタイトルなのですが、何をもって10大リスクと数えているのかは別にして、ロシアのウクライナ侵攻などの地政学的リスク、昨今の気候変動による異常気象のリスク、供給と価格の両面からのエネルギーのリスク、食料としての安全性のリスク、輸入途絶ないし輸入価格高騰のリスク、などが上げられています。単純に農作物だけではなく、国内生産に必要な種子の供給についても不安があると指摘しています。そして、日本の食料自給率低下の大きな原因は、輸入自由化と食生活改変政策であると分析し、最後に、農業再興政策として、農業保護の強化をはじめとして、ローカルフード法により、より地域に密着した農業と食の安全の徹底が必要、と結論しています。私の専門外でまだまだ勉強せねばならない分野で、100%の理解にはほど遠いのですが、私自身としては決して現在の日本の農業が過保護にされているわけではなく、いっそうの農業保護強化が必要であると考えていますし、もう少し自分自身でよく考えて来年の授業に臨みたいと思います。

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最後に、青木美希『なぜ日本は原発を止められないのか?』(文春新書)を読みました。著者は、ジャーナリストです。2011年3月の大地震、そして、津波、福島第一原発のメルトダウンにより地震多発国日本における原発の危険性が改めて認識されながら、その後も、原発稼働年数の延長、また、福島汚染水の海洋放出などなど、原発廃止に舵を切ったドイツなどと比較して、日本では原発容認の姿勢が強すぎると私は考えているのですが、そういった疑問に適切に回答してくれる出版物です。本書は7章構成であり、第1章で、福島現地の復興の現状について、放射能の影響でさっぱり進んでいない現状を報告し、第2章から第3章で日本に原発が導入された歴史的経緯をあとづけて、第4章から本格的なリポートが始まります。まず、第4章では原子力ムラの権力とカネの構造について、原子力ムラの村長は内閣総理大臣であると喝破し、第5章で核兵器開発と原発の関係、第6章では原子力の安全神話について、そして、最後の第7章では原発ゼロで生きる方法について、ドイツやイタリアの例を引きながら考察を進めています。私はこういった物理学的な安全性についてはシロートですし、そういった場合は専門家の意見に従う方なのですが、原発についてだけは余りに専門家の見方の標準偏差が大きくて差がありすぎるため、自分自身でNoと考えることにしています。単純にいうと、原発を容認すべき根拠が見当たらないからです。経済学には、私の嫌いなシカゴ学派ながら、「規制の虜」という理論があります。規制する政府よりも、規制される業界・企業の方に情報が豊富で情報の非対称性があるため、規制する政府の意思決定がいくぶんなりとも、規制される業界や企業に取り込まれてしまう、あるいは、無能力化する、という趣旨です。これを以下の論文に取りまとめたのはシカゴ大学のスティグラー教授ですが、元来は、規制緩和や規制撤廃の理論的根拠を与えよう、という乱暴な議論でした。でも、規制をなしにして原発を自由に建設するのはとんでもないことで、とても国民のコンセンサスは得られません。ですから、原発を止める、という選択肢が有力だと私は考えています。原発なしでもカーボン・ニュートラルには無関係、というか、原発あってもカーボン・ニュートラルは無理筋ですし、原発がなくても電力需要は再生可能エネルギーで供給可能にするのが政府の役割であろうと考えます。そういった役割を放棄して電力会社のいうがままにさせてしまうのが「規制の虜」であると考えるべきです。
Stigler, George (1971) "The Theory of Economic Regulation," Bell Journal of Economic and Management Science 2(1), Spring 1971, pp.3-21

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