今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、斎藤幸平『マルクス解体』(講談社)では、晩期マルクスの研究から得られた地球環境に対するマルクス主義のインプリケーションが示されています。ジェフリー・ディーヴァー『ハンティング・タイム』(文藝春秋)では、家庭内暴力で収監されていた元夫が刑務所から釈放されたことにより逃げる母娘を保護するためにコルター・ショウが活躍します。川島隆太『本を読むだけで脳は若返る』(PHP新書)では、紙の本の読書、特に音読が脳機能の活性化に役立つ研究成果が紹介されています。物江潤『デジタル教育という幻想』(平凡社新書)は、川下である教育現場の実情を考慮せずに、タブレットを活用したGIGAスクール構想を進めようとする川上の教育政策企画・立案の危うさを指摘しています。青山文平『泳ぐ者』(新潮文庫)では、徒目付の片岡直人が離縁した元夫を刺殺した元妻、また、大川を泳いで渡る商人の、それぞれの「なぜ」を追求します。話題の達人倶楽部[編]『すごい言い換え700語』(青春文庫)では、社交的に良好な関係の維持あるいは円滑な対人関係のために、適切な言い換えを多数収録しています。
ということで、先週まで計15冊の後、今週ポストする6冊を合わせて21冊となります。また、これらの新刊書読書の他に、昨年暮れに封切られた映画の原作となった倉井眉介『怪物の木こり』(宝島社)を読みました。新刊書読書ではないので、このブログには含めずに、別途、Facebookでシェアしておきました。
まず、斎藤幸平『マルクス解体』(講談社)を読みました。著者は、著者は『人新世の「資本論」』で注目されたマルキスト哲学者、思想家であり、東京大学社会科学研究所の研究者です。本書では、晩期マルクスの思想を中心に、環境マルクス主義について議論を展開しています。なお、本書はケンブリッジ大学出版会から2023年2月の出版された Marx in the Anthropocene: Towards the Idea of Degrowth Communism をもとに邦訳された日本語版です。日本での出版は講談社ですが、もともとの出版社を見れば理解できるように完全な学術書であると考えるべきです。中心はマルクス主義経済学や思想としてのマルクス主義に基づく脱成長論といえます。ということで、このままでは資本主義の終わりよりも世界の、あるいは、地球の終わりの方が近い、というフレーズが本書にも収録されていますが、晩期マルクスの物質代謝やその物質代謝の亀裂から脱成長を本書では議論しています。というのは、マルクス主義というのは、私も実は歴史観についてはマルクス主義に近いと自覚しているのですが、唯物史観に基づいて生産力が永遠に成長していき、この生産力が伸びるために生産関係が桎梏となって革命が起こる、という考えに基づいています。しかし、晩期マルクスはこういった永遠の成長ではなく、地球環境のサステイナビリティのために脱成長を志向していた、というのが極めて単純に短くした本書の結論です。その中心は第3部の第6章にあります。このあたりまでは私にもある程度は理解できます。ただ、その後の第7章からは私の理解を大きく超えます。どうして、今までこういったマルクスの見方に誰も気づかなかったのかというと、エンゲルスが『資本論』だ異2巻とだ異3巻の編集ですっ飛ばしたからだ、ということのようです。この点は私には何ともいえません。ただ、私の疑問は主として以下の3点あります。第1に、マルクス主義経済学では、どうしてもマルクスに依拠しないと脱成長が正当化されないのか、という疑問です。例えば、私のような主流はエコノミストからすれば、単純に考えて、マルクスの『資本論』はスミス的な完全競争の世界に適用され、その後の市場集中が進み、独占や寡占が進んだ経済はレーニンの『帝国主義論』が分析を進める、といった経済学説史的な展開がなく、すべてがマルクスの考えでないと正当化されないというのは、とても不便に感じます。第2に、私の理解がまったく及ばなくなった第7章にあるのですが、成長と環境負荷が資本主義の下で見事にデカップリングされ、成長が続いても環境負荷が高まらない、という技術的なブレイクスルーがなされたとしても、「そのような社会が善き生を実現できる望ましい世界にはならないだろう」というのも、私の理解は及びません。別問題として切り分けることが出来ないものでしょうか。第3に、本書から私はそれほど強いメッセージとして読み取れなかったのですが、おそらく、本書では社会主義は無条件二脱成長を実現し、環境負荷を低減できる、ということにはならないものと私は想像しています。現在の資本主義的な生産様式のままでは脱成長が不可能であるというのは、ほのかに理解するものの、社会主義体制で脱成長を成し遂げるために何が必要なのか、やや理解がはかどりませんでした。同時に、私はまず社会主義革命があって、その後に、社会主義体制下で脱成長が成し遂げられるという二段階論と受け止めましたが、この私の受け止めが正しいのか、それとも間違っているのか、そのあたりを読み取るのに失敗した気がします。
次に、ジェフリー・ディーヴァー『ハンティング・タイム』(文藝春秋)を読みました。著者は、ツイストとも呼ばれるどんでん返しがお得意な米国のミステリ作家です。本書は、コルター・ショウのシリーズ4冊目であり、前の3冊で三部作完成ともいわれていましたので、新しいシーズンに入ったのかもしれません。主人公のコルター・ショウは、開拓期の米国の賞金稼ぎを引き継ぐかのように、懸賞金を求めて難事件に挑み、人を探し出すというプロです。出版社のサイトによれば、「ドンデン返し20回超え」だそうで、この作者の作品の特徴がよく現れています。ということで、あらすじはごく単純に、優秀な原子力エンジニアであるアリソン・パーパーがひとり娘とともに姿を消します。理由は、家庭内暴力(DV)で逮捕投獄されていた元夫のジョン・メリットがなぜか刑期を満了せずに早期に釈放されたからです。元夫のジョンは優秀な刑事でしたので、そのスキルやコネやをフルに駆使して元妻と娘の行方を追います。別途、なぜか、2人組の殺し屋もこの母娘の後を追います。主人公のコルター・ショウはアリソン・パーカーの勤務する原子力関係の会社社長から、「ポケット・サン」と命名された超小型原子炉の部品だかなんだか、このあたりは技術的に私の理解が及びませんが、を取り戻すべく、母娘の失踪とは別件で雇われていたのですが、この母娘の発見と保護も追加的に依頼されます。ということで、母娘を追う3組のプロ、すなわち、主人公のコルター・ショウ、元夫で優秀な刑事だったのジョン・メリット、そして、謎の殺し屋、スーツとジャケットと呼ばれる2人組の追跡劇が始まります。母娘を匿ってくれる友人がいたり、あるいは、3組の追跡者が母娘の足跡を追うために情報を収集したりと、いろんな読ませどころがありますが、なんといってもこの作者ですので、ストーリー展開の構図が二転三転しコロコロと変わって行きます。どんでん返しですので、味方だと思っていた人物が実は敵であったり、あるいは、その逆だったりするわけです。そして、通常は、味方だと思っていた人物がいわゆる黒幕的に敵側であったり、あるいは、敵側と通じていたりして読者は驚かされるわけですが、本書の作者の場合は、逆も大いにあります。この作者のシリーズは、本作品のコルター・ショウを主人公とするシリーズ、ニューヨーク市警を退職した物的証拠に依拠するリンカーン・ライムを主人公とするシリーズ、取調べの際の言葉や態度から真相に迫るカリフォルニア州警察のキャサリン・ダンスを主人公とするシリーズ、の3つが代表作なのですが、いずれもどんでん返しを特徴としていますので、私の方でも、敵か味方か、あるいは、犯人かそうではない善意の関係者なのか、については疑ってかかるような読み方をしてしまいます。もっと素直に、読み進める読者の方が楽しめるのかもしれません。
次に、川島隆太『本を読むだけで脳は若返る』(PHP新書)を読みました。著者は、医学者であり、東北大学の研究者です。どこかで見た名前だと思っていたのですが、ニンテンドーDSのソフトで有名な「脳トレ」の監修者だそうです。ということで、本書ではそれなりの統計的なエビデンスでもって、タイトル通りに、(紙の)本を読むことによる脳の若返りを含めた活性化について論じています。ただ、単に省略されているだけなのか、それとも、別の理由によるのか、私には明確ではありませんが、統計的な有意性に関する検定結果は明示されていません。ですので、グラフを示してのイメージだけ、ということになります。一般向けの新書ですので、単に省略されているだけだろうと、私の方では善意で解釈しています。結論については、それなりに首肯できる内容です。すなわち、紙の本を読むこと、特にマンガやイラストの多い絵本などではなく活字の本を読むことにより、ビジネスパーソンの創造性が向上したり、読書習慣により子供の脳の発達を促したり、認知症の症状が改善したりといった脳機能の改善や回復が見られる、という結果が得られる、ということです。最後の認知症の症状の改善については、一般的な「常識」として、認知症は進行を遅らせることができるだけで、回復は望めない、といわれていますが、音読によりアルツハイマー型認知症患者の脳の認知機能を向上させることができ、そのことはすでに研究論文も公表されている、と指摘しています(p.70)。私はまったくの専門外ですので、本書の主張が正しいのか、世間一般の常識が正しいのか、確たる見識を持ちませんが、本書の著者の主張は先述の通りです。そして、本書の前半がこういった読書、特に音読による脳機能活性化について取り上げられており、後半は、スマホ・タブレットによる脳機能へのダメージについて議論されています。本書の著者の主張によれば、スマホ・タブレットは依存性が強くて、長時間の使用は脳機能の発達に悪影響を及ぼすことがデータから明らかであって、酒と同じように法的に規制してもいいのではないか、ということになります。スマホやタブレットを長時間使うのは、結論からすれば、疲れないからであって、MRIで計測するとダメージが蓄積されていくことが確認できるとしています。他方で、GIGAスクール構想などでスマホやタブレットを勉強道具として活用することも進められているわけですが、著者は大きな疑問を呈しています。とくに、スマホやタブレットはマルチファンクションであり、勉強以外のことに集中力が削がれる可能性も指摘しています。本書では、コンテンツではなくデバイスに着目した議論が展開されていて、私のようにデバイスではなくコンテンツの方が問題ではないか、と単純に考える一般ピープルも多いことと思いますが、その点も本書では否定されています。デバイス主義ではなく、コンテンツ重視の観点からは、例えば、ポルノ小説を紙の本で読むよりは、ゲーム感覚でタブレットで勉強する方が脳機能の活性化にはいいような気がするのですが、本書は真逆の結論を然るべき研究成果に基づいて主張しています。やや意外な結論なのですが、そうなのかもしれません。
次に、物江潤『デジタル教育という幻想』(平凡社新書)を読みました。著者は、塾を経営する傍ら社会批評などの執筆活動をしている、と紹介されています。本書では、GIGAスクール構想に基づき、小中学校における教育のデジタル化、有り体にいえば、タブレットを使った教育について強く批判しています。私が読んで理解した範囲で、以下の理由によります。すなわち、まず第1に、タブレットの目的外使用をやめさせることがほぼほぼ不可能だからです。これは容易に想像できます。第2に、本書で「川上」と読んでいる文部科学省や国会議員などの教育政策の企画立案をするグループが、「川下」の教育現場にいる教師や教育実態をまったく把握せず、政策の企画立案をしていて、教育現場からかけ離れた方針を打ち出しているためです。本書でも指摘しているように、「川下に流し込む」ことにより、実施責任を教育現場に負わせることができるので、かなり無責任な政策決定になっている可能性はあります。よく言及されるように、を考案したアップル社のスティーブ・ジョブズは自分の子供にはスマホ、というか、iPhoneやタブレットのiPadは与えなかった、というのは、私自身は確認のしようもありませんでしたが、よく聞いた話です。本書では、冒頭で「2023年7月にオランダ政府が学校教室におけるタビレット、携帯電話、スマートウォッチの持込みを禁止した、とも指摘しています。オランダ政府のデバイス原因説よりは、私自身は、ややコンテンツ要因説に近い気がするのですが、本書でもコンテンツ要因説をとっているように感じました。確かに、タブレットを教室で使うようになれば目的外使用、というか、タブレットを勉強に使わずにゲーム、SNSなどに使う誘惑が大きくなるのは当然ですし、それを教員が効果的に防止するのは難しそうな気がします。ただ、デバイスについては工夫の余地があるのも事実です。20年くらい間に発売が開始された初期のニンテンドーDSのように通信機能なしで、半導体チップを差し込んで勉強のみに使用するデバイスを汎用的なタブレットの代わりに開発することは十分可能ではないか、という気がするからです。ただ、私は大学教員なわけですが、ある程度は学力でグループ分けされた結果の学生を受け入れている大学と違って、義務教育である小中学校ではあまりにも学力の分散が大きくて、一律なデジタル教育が難しい、というか、不可能に近いのは理解します。私の授業でも、学内サイトにアップロードした授業資料を教室内のモニターに映写したり、学生のPCやタブレットなどのデバイスで見ながら授業を進めることが多いのですが、私自身は少し強引にでも教科書を指定していて、教科書を教室に持って来て授業を受けるように指導しています。でも、決して少なくない先生方は教科書の指定はしていないような気がします。特に、経済学部ではそのように私は受け止めています。本筋から離れてしまいましたが、本書を読んでいて、タブレットを使った教育は、少なくともいっそう格差を拡大させる可能性があると感じました。すなわち、私自身の信念に近いのですが、教育というのはある意味で格差を拡大する可能性を秘めています。学力の高い高校生が大学入試で勝ち残ってトップ校に進学し、さらに学力を高めて卒業するわけです。教育のデジタル化についても同じで、教育や学習というのは自分に跳ね返ってくるのですが、そこまで深い理解ない小中学生であれば、遊ぶ子は遊んでしまうし、勉強する子はしっかりと勉強ができる、という環境を与える結果になるような気がします。タブレットに限らず、ICT教育デバイスを活用して学力をさらに伸ばす子、逆に、汎用的なデバイスでゲームやSNSなどで遊んで学力を十分に伸ばせない子、がいそうです。私の直感では、前者はもともと学力の高い子でしょうし、後者はもともと学力の低い子である可能性が高いような気がします。それがいいのか悪いのか、現時点では、私は望ましくない、と考えますが、容認するという考えもあり得るかもしれません。
次に、青山文平『泳ぐ者』(新潮文庫)を読みました。著者は、時代小説の作家であり、本書は『半席』の続編となっています。前作は6編の明らかに短編といえる長さの6話から成る連作短編集でしたが、本作品は中編くらいの長さの2話からなっています。もちろん、「なぜ」を探る徒目付の片岡直人が主人公であり、その昔の徳川期には、今にも部分的に引き継がれている自白中心の取調べであり、しかも、今とは違って拷問をしてまでも捜査側の見立てに従った自白を引き出して、はい、それで終わり、という犯罪捜査でしたが、主人公の片岡直人は、「なぜ」を探る、ミステリの用語でいえば whydunnit を追求するわけです。しかも、前作のタイトルに見られるように、一代御目見得の御家人で世襲出来ない半席の立場からフルスペックの世襲できる旗本に上昇すべく努力を繰り返しているわけです。ということで、あらすじですが、その上役の内藤雅之が遠国ご用から戻って、馴染みの居酒屋で出会うところから物語が始まります。いろいろと、幕府の鎖国政策に対する批判めいた会話や周辺各国からの脅威や海防について語りつつ、片岡直人の活動が再開されます。「再開」というのは、前作『半席』の最後でいろいろとあって、主人公の片岡直人は心身ともに不調であった、という事情からです。最初の中編では、かなり年配の侍の家を舞台にした事件です。離縁されて3年半もけ経過してから、元妻が元夫を刺殺します。しかも、元夫は高齢で病床にあり、それほど先が長いわけではなさそうに見えました。そもそも、なぜ離縁したのかから謎解きを始め、元夫の郷里の越後の風習までさかのぼって刺殺事件の裏にある「なぜ」を解明しようと試みます。2番めの中編は、そこそこ繁盛している商家の主が10月の冷たい水をものともせずに、また、決して達者な泳ぎではないにもかかわらず、毎日決まった時刻に大川を泳いで渡っていると噂になり、片岡直人が見に行って少し話し込んだりします。そして、どのような理由で泳いでいたのかを突き止めようと、ご用のついでにこの泳ぐ者の出身地である三河まで立ち寄って、片岡直人が調べを進めます。前作の『半席』も同じで、この作品も明らかに時代小説とはいえミステリであると考えるべきです。繰り返しになりますが、whydunnit のミステリです。さすがに直木賞作家の作品ですし、特に、私のように、時代小説もミステリもどちらも大好きという読者には大いにオススメです。
次に、話題の達人倶楽部[編]『すごい言い換え700語』(青春文庫)を読みました。編者は、出版社のサイトで「カジュアルな話題から高尚なジャンルまで、あらゆる分野の情報を網羅し、常に話題の中心を追いかける柔軟思考型プロ集団」と紹介されています。本書の1年後の昨年年央くらいに同じシリーズで『気の利いた言い換え680語』というのも出版されています。私は図書館の予約待ちです。ということで、本書では、「ダメだなあ」より「もったいない!」、「新鮮野菜」より「朝採れ野菜」、「迅速に対応」より「30分以内に対応」といった言換えを集めています。ナルホドと納得するものばかりで、なかなかにタメになります。その上で、いくつか考えるところがあります。まず、第1に、私は関西出身ながら大学卒業後に東京に行って、定年の60歳まで長らく公務員をしていました。独身のころは東京の下町に住んでいて、今でも相手次第ながら日常会話には東京下町言葉でしゃべっています。そして、私の実感からすると、関西弁はソフトで、東京下町言葉はややハードな印象を持っています。ですから、失礼をわびたり、学生を褒める際には関西弁で、何らかの強調を示したり、学生を叱る場合は東京下町言葉がいいんではないか、と勝手に思っています。例えば、後者の叱る場合は「アホンダラ」というよりも、「バッキャロー」と言い放つ方が効きそうな気がします。私の勝手な憶測です。第2に、あくまでタイトルのように「言い換え」ですから、書き言葉、文章に本書の指摘が適するかどうか不安があります。特に、学術論文を書く際には、当てはまらない場合がありそうな気がします。まあ、それは本書の目的から外れるので仕方ないと思います。第3に、これは苦情なのですが、「言い換え」ではなく明らかに意味の違う例が本書にはいくつか散見されます。典型的には、p.225の「万障お繰り合わせの上、お越しください」を「ご都合がつきましたら、お越しください」では来て欲しい度合いが明らかに異なります。最後に、私は「官尊民卑」という言葉もある日本で長らく国家公務員をした後、現在は大学で教員として学生に教える立場ですので、話し相手に対してはついつい目下に接するようになりがちです。ですので、なるべくていねいに表現するように努めているとしても、ついつい、上から目線の言葉になりがちなことは自覚しています。本書の最初の方にあるように、否定や不同意を表す際には、学生には明確に「違う」といってやるのもひとつの手ですが、相手が同僚教員などであれば、しかも、経済学というのはそれほど明快に割り切った回答を得られる学問領域ではありませんから、本書にはない表現で私は「疑問が残る」とか、「見方が分かれる」と表現する場合があります。私なんぞのサラリーマンをした後に大学に来た実務家教員よりも、自分の方がエラいと思っている大学院教育を長らく受けた学術コースの教員がいっぱいいるので、それはそれなりに表現を選ぶのもタイヘンです。
最近のコメント