今週の読書は高圧経済に関する経済書をはじめとして計6冊
今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、原田泰・飯田泰之[編編]『高圧経済とは何か』(金融財政事情研究会)は、需要が供給を超過する高圧経済の特徴について、エコノミストだけではなく一般ビジネスパーソンにも判りやすく解説しています。宮島未奈『成瀬は信じた道をいく』(新潮社)は、本屋大賞にもノミネートされた前作『成瀬は信じた道をいく』の続編であり、成瀬あかりの大学入試や大学生になった後のびわ湖観光大使としての活動などのパーソナル・ヒストリーを追っています。長岡弘樹『緋色の残響』(双葉社)は、『傍聞き』の表題作で主人公を務めた杵坂署のシングルマザー刑事の羽角啓子と1人娘の菜月が母娘で事件の解決に当たります。もう、文庫本が出ているのですが、私は単行本で読んで、新刊書読書とはいえ4年ほども前の出版なのですが、次の作品との関係で取り上げてあります。その次の作品、長岡弘樹『球形の囁き』(双葉社)は、『傍聞き』の表題作で主人公を務めた杵坂署のシングルマザー刑事の羽角啓子と1人娘の菜月が母娘で事件の解決に当たります。一気に時間が流れて、啓子は定年退職してからも再雇用で犯罪捜査に当たり、菜月は大学生、さらに卒業して地元紙の記者になり、シングルマザーになっています。鳥集徹『コロナワクチン 私達は騙された』(宝島社新書)は、ジャーナリストがワクチン接種後の体調不良、あるは、死亡、マクロの統計に現れた日本人の死者数の増加などを解明しようと試みています。最後に、アンソニー・ホロヴィッツ『ナイフをひねれば』(創元推理文庫)は、ホーソーンとの3作の契約が終わったホロヴィッツが殺人事件の容疑者となって逮捕され、ホーソーンに解決を委ねます。
ということで、今年の新刊書読書は先週まで、というか、1月には21冊で、今週ポストする6冊を合わせて27冊となります。順次、Facebookでもシェアしたいと思います。
まず、原田泰・飯田泰之[編編]『高圧経済とは何か』(金融財政事情研究会)を読みました。編著者は、内閣府の官庁エコノミストを経て日銀制作委員を経験した私の先輩と明治大学の研究者です。本書は9章からなり、それほど耳慣れない高圧経済についていろんな側面から解説を加えています。学術書っぽい体裁ではありますが、中身は一般ビジネスパーソンにも十分判りやすく考えられています。ということで、高圧経済とは、基本的に、インフレギャップが生じている経済といえます。すなわち、供給能力を上回る需要があり、経済が需要超過の状態にあることが基本となります。需要超過ですから、少し前までの日本経済が陥っていたデフレではなく、マイルドないしそれ以上のインフレ圧力があります。労働者の失業が減少して完全雇用に近くなり、そのため、労働者の流動性が高まって、より生産性が高くて、従って、賃金の高い職に就くことができます。もちろん、男女格差などの経済的合理性なく雇用者を差別的に扱う労働慣行は大きく減少します。加えて、需要が増加しますので労働生産性が需要の増加に応じて上昇します。雇用の流動性についても、現時点では、使用者サイドから低賃金労働者を求めて解雇規制の緩和などの方策が模索されていますが、高圧経済では雇用者のサイドから高賃金を求めて自発的に転職する、などの大きな違いが生じます。現在は、何とか黒田前日銀総裁の異次元緩和と呼ばれた金融政策によってデフレではない状態にまで経済を回復させましたが、高圧経済で需要超過となればインフレ圧力が大きくなります。日銀物価目標にマッチするマイルドなインフレで収まるか、あるいは、もっと高いインフレとなるかは需要超過の度合い次第ということになりますが、ここまでデフレ圧力が浸透している日本経済ですから、現在の物価上昇を見ても理解できるように、そうそうは高インフレが続くとも思えません。ですから、私なんかから見ればいいとこずくめの高圧経済なのですが、問題は実現する方策です。異次元緩和の金融政策だけでは、何とかデフレではない状態までしか均衡点をずらすことができませんでしたから、ここは財政政策の出番ということになるのが自然の流れだろうと思います。そして、現在の円安は高圧経済に必要です。小泉内閣からアベノミクスの少し前まで継続していた構造改革とは、需要を増加させるのではなく供給サイドを効率的にするという思想でしたから、高圧経済の観点からは真逆の政策でした。その意味で、日本経済に必要な経済政策を考える上でとても重要な1冊です。
次に、宮島未奈『成瀬は信じた道をいく』(新潮社)を読みました。著者は、本屋大賞にもノミネートされた『成瀬は天下を取りにいく』の作者であり、本書はタイトルから用意に想像される通り、その続編であり主人公の成瀬あかりは大学生に進学しています。学部は明記されていないものの、著者や私と同じ京都大学です。そうです。成瀬あかりが京都大学の後輩になって、私もうれしい限りです。出版社が特設ページを設けています。ということで、前作と同じ5話の短編からなる連作短編集です。各話のあらすじは、「ときめきっ子タイム」では、成瀬あかりの後輩に当たるときめき小学校4年3組の北川みらいが自由学習の時間の課題で成瀬と島崎みゆきのコンビデアルゼゼカラを取材することになり、調べを進めます。「成瀬慶彦の憂鬱」のタイトルは軽く想像される通り、成瀬あかりの父親で、京都大学の受験日に娘に試験場まで同行することになりますが、試験場で野宿しようとしている受験生を成瀬あかりが自宅に連れて帰ります。「やめたいクレーマー」では、大学生になった成瀬あかりが平和堂グループの一角であるフレンドマートでアルバイトしていて、その店の顧客であるクレーマーの女性とともに万引き防止に取り組みます。「コンビーフはうまい」では、成瀬あかりがびわ湖観光大使の選考に臨み、市会議員の娘で祖母と母もびわ湖観光大使を経験した女性とともに選考の結果任命され、観光大使-1グランプリなるゼゼカラの2人がチャレンジしたM-1グランプリのようなコンテストに臨みます。最終話の「探さないでください」では、いかにもタイトル通りに成瀬あかりが家出をします。それも大晦日です。その大晦日には東京から島崎みゆきが成瀬家にやって来て、ときめき小学校の北川みらいやフレンドマートのクレーマーも巻き込んで大捜索が行われます。以上のように、やや、成瀬あかりの奇行に焦点を当て過ぎているのではないか、という気がして、私の評価はハッキリと前作から落ちます。私は成瀬あかりの奇行に見える行動については、今野敏「隠蔽捜査」シリーズの竜崎伸也と同じで、世間一般から比べて異常なまでに合理的であるから「奇行」に見えるだけ、と考えていました。しかし、特に第2話で、見知らぬ受験生を自宅に連れ帰るというのは、まったく合理的ではありませんし、最終話もやや同じ傾向です。ただ、前作の流れがありますので、とても楽しく読めました。最後に、この作品にご興味ある向きは、本屋大賞にもノミネートされていることですし、前作の『成瀬は信じた道をいく』から先に読むことをオススメします。
次に、長岡弘樹『緋色の残響』(双葉社)を読みました。著者は、『教場』などの警察ミステリで有名な作家です。本作品のシリーズでは『傍聞き』の表題作で、主人公を務めた杵坂署のシングルマザー刑事の羽角啓子と1人娘の菜月が母娘で事件の解決に当たります。この作品では菜月は中学生になり、新聞記者になる夢を持って新聞部で活動しています。5話から成る連作短編集です。あらすじは順に、「黒い遺品」では、半グレの構成員が殺害され、現場には花が残されていたのですが、実は、菜月が犯人を目撃していたので似顔絵を書くことになります。啓子の相棒の黒木から、得意な道具で描くとうまく描けると示唆され、亡父の趣味のひとつだった囲碁の碁石を使って菜月が似顔絵を描いて犯人逮捕につながります。「翳った水槽」では、菜月の中学校の担任先生はアラサー独身なのですが、羽角家に家庭訪問に来て忘れ物をして菜月が届けるとベッドで横たわっていて、殺されたと後で知ることになります。表題作の「緋色の残響」では、菜月が4-5歳のころに習っていたピアノ教室で、菜月のクラスメートで勉強もピアノもよくできる子が死亡します。ピーナツのアレルギーで不慮の事故かと見られたのですが、何らかの殺意が感じられることから捜査が進められます。「暗い聖域」では、菜月がクラスメートの男子から料理を教わりたいといわれて男子生徒の自宅に行きます。アロエの苦みを取る方法を知りたいということです。直後に、その男子生徒が崖から突き落とされて大けがを負うのですが、啓子は謎の言葉「安全な場所に逃してあげる」と菜月に約束することになります。最後の「無色のサファイア」では、菜月がイジメにあっているのではないか、という上方が母親の啓子に伝えられます。他方、質屋での強盗殺人事件の被告に最高裁で無期懲役の判決が下されたが、菜月の所属する中学校の新聞部は長期に渡る徹底した調査を継続していた。このイジメに見える菜月の行動が、実は、長期戦の調査と深く関係しています。ということで、各話が50ページ足らずの短編で、それほど登場人物も多くないことから、whodunnit の犯人はそれほどムリなく見当がつきます。でも、どうしてなのか、という whydunnit がとても絶妙に組み込まれています。ただ、各短編ごとに、物理的、あるいは、心理学なヒントの素のようなものが配されており、少し東野圭吾のガリレオ・シリーズに近い部分があります。私自身は「ノックスの十戒」に反している、とまでは思いませんし、各短編に詳しい説明がありますので、特に気にはなりませんが、本格ミステリと呼ぶのはためらわれる読者もいるかも知れません。
次に、長岡弘樹『球形の囁き』(双葉社)を読みました。著者は、『教場』などの警察ミステリで有名な作家です。本作品のシリーズでは『傍聞き』の表題作で、主人公を務めた杵坂署のシングルマザー刑事の羽角啓子と1人娘の菜月が母娘で事件の解決に当たります。『緋色の残響』の続編となるこの作品では菜月は高校生から大学生、さらに、一気に地元紙の新聞記者になって、さらにさらにで、シングルマザーとなる20代後半までの長期をカバーしています。その時点では母親の羽角啓子は60歳定年後の再雇用で引き継式犯罪捜査に当たっています。前作と同じ5話から成る連作短編集です。あらすじは順に、「緑色の暗室」では、菜月は高校に進学しても新聞部に所属し、アナログ写真の現像のために、マンション一室を使ったレンタル暗室に行った際にネガを1枚階下に落とし、その部屋を訪ねると菜月が小学生のころに教育実習に来ていた女性が住んでいて、その菜月が卒業した小学校の教師をしていると聞きます。他方、同年代の20代後半の女性が殺されるという殺人事件が発生する。表題作の「球形の囁き」では、菜月はすでに大学生となって2年生で、夏休みにデパートの職員売り場でアルバイトした際に、とても懇意になり「もう1人のおかあさんみたいな人」といっていた女性が殺されます。その女性は保育士の資格を持っていて、同じデパートの託児ルームで手伝いをしていたことから捜査が進みます。「路地裏の菜園」では、菜月は大学生でベビーシッターのアルバイトをしている母親の啓子と同じ警察に勤務する事務職員の女性が大怪我を負う事件が発生します。家庭内暴力(DV)で離婚寸前の元夫が疑われることになります。「落ちた焦点」では、すでに菜月は地元紙の記者をしていて、杵坂署の刑事と恋仲にあります。一角の山の展望台から転落事故があり女性が殺されますが、証拠が不十分で容疑者は無罪判決を受け確定します。しかし、その後、この容疑者は遺書を残して自殺します。「黄昏の筋読み」では、菜月は引き続き地元紙の記者ですが、すでにシングルマザーになっており、母親の啓子は杵坂署を60歳で定年退職した後、引き続き再雇用で犯罪捜査に当たっています。菜月の娘の彩弓はお向かいの70歳くらいの元県庁職員によく懐いていて、彩弓の好きな昆虫を持って来てくれたりします。啓子は、早朝のジョギング途中に不審な死に方をした事件の操作を進めます。ということで、この作品も、前作『休憩の囁き』と同じで、各話が50ページ足らずの短編で、それほど登場人物も多くないことから、whodunnit の犯人はそれほどムリなく見当がつきます。でも、どうしてなのか、という whydunnit がとても絶妙に組み込まれています。ただ、各短編ごとに、物理的、あるいは、心理学なヒントの素のようなものが配されており、少し東野圭吾のガリレオ・シリーズに近い部分があります。
次に、鳥集徹『コロナワクチン 私達は騙された』(宝島社新書)を読みました。著者は、医療問題を中心に活動しているジャーナリストです。ですから、医療関係者、というか、医師や医学研究者あるいは薬学の研究者ではありません。ですので、どこまで医学的な見識を想定するかは読者に委ねられている部分も少なくありません。本書では、タイトル通り、コロナワクチンに対する不信感を強調する情報収集活動の結果が集められています。ただ、コロナワクチンって、何種類かあったんではなかろうか、という疑問には答えてくれていません。そのワクチンの種類にはこだわらずに、ワクチン接種後の体調不良、あるは、死亡、マクロの統計に現れた日本人の死者数の増加などを解明しようと試みています。本書でも冒頭に示されていますが、メリットとリスクの見合いで、単純にメリットがリスクを上回ればいい、という経済効果的な考えは廃されるべきという点は私も合意します。でも、私は現時点ではワクチンのデメリットやリスクがメリットを上回っているとは見なしていません。その点で著者の結論には同意しませんが、こういった議論が必要である点は大いに認めたいと思います。まず、コロナの症状の重篤化や死亡率に関しては、年齢との何らかの相関が強く疑われていた点は指摘しておくべきかと思います。典型的な比較対象のペアは戦争です。ばかげた見方かもしれませんが、戦争では、おそらく、20代や30代の男性が主たるリスクの対象と考えられる一方で、コロナのリスクは高齢者、特に、80歳以上の高齢者に大きなリスクあったと考えるべきです。その意味で、シルバー民主主義的な決定メカニズムが働いた可能性が否定しきれないと私は考えています。すなわち、コロナ対策、ワクチンも含めたコロナ対策に決定に関しては、国民の平均ではなく高齢者の方に有利なバイアスが働いた可能性が否定できません。その意味で、平均的な国民の意識とはズレを生じている可能性もあります。ただし、この点に関しては医学的な検証が必要と私は考えます。統計的な結果論だけではなく、疫学的な因果関係が立証されねばなりません。さらに広く、潜在的な利益・不利益も考え合わせる必要があります。ですので、総合的に考えれば、コロナパンデミックの2-3年後くらいに集中的にワクチン接種により社会的な同様を防止したという点は、私は評価されるべきかと思います。ただ、医学的にどう見るかは何とも自信ありません。おそらく、あくまで私の直感に基づいた感触だけの根拠ない見方ながら、コロナワクチンについては医学的・経済的・社会的な効用を考えれば、それなりの差引きプラスの効果があった、と私は考えています。ただし、個人としては、私はコロナワクチンはそれほど信用していません。ですので、教育者として学生に接する立場ですから、3度目まではワクチン接種しましたが、これで打止めとしています。
次に、アンソニー・ホロヴィッツ『ナイフをひねれば』(創元推理文庫)を読みました。著者は、英国の人気ミステリ作家です。この作品はホロヴィッツ&ホーソーンのシリーズ第4作です。第3作までは、契約に基づいてホロヴィッツがホーソーンの事件解決を小説に取りまとめる、ということでしたが、その契約が終了した後の第4作になるわけです。ですから、冒頭で、ホーソーンの方から小説執筆を継続するようなお話がホロヴィッツにあるのですが、ホロヴィッツの方では印象悪くてすげなく断ってしまいます。でも、その翌週、ホロヴィッツの戯曲を酷評した劇評家のハリエット・スロスビーが死体で発見されます。凶器は、やっぱりホロヴィッツが脚本を手がけた戯曲の上演の記念品だった短剣で、ややネジが緩んでいるところがあって、ホロヴィッツの受け取ったものと断定され指紋まで発見されます。ホロヴィッツは警察に逮捕されて1時釈放されますが、困り果ててソーホーンに泣きついて事件解明を依頼するわけです。ホロヴィッツ本人にはまったく身に覚えがない一方で、多くの状況証拠がホロヴィッツが犯人であることを指し示しているわけです。そして、ハリエット・スロスビーが劇評家になる前の個人的なパーソナル・ヒストリーを追って、まあ、古典的ともいえるミステリの謎解きが始まります。典型的な whodunnit とともに、同時に whydunnit も解決されます。当然です。面白かったのは、タイムリミットが設定されていて、ホーソーンに協力する同じアパートの住人がコンピュータをハッキングして警察を混乱させたりしながら時間を稼ぎ、ロンドンを離れての調査をしたりしています。また、前3作で謎のまま放置されていたホーソーンのパーソナル・ヒストリーも一部だけながら明らかになります。世間のウワサではこのシリーズは10作あるようなので、これから小出しにしていくのかもしれません。繰り返しになりますが、古き善き時代のミステリであって、犯人探しや動機の解明など、ミステリの醍醐味をたっぷり味わえる佳作と私は思います。ただ、おそらく、シリーズの中盤に差しかかった作品ですので、前3作を把握しておかないと本作品の魅力はそれほど味わえません。加えて、後に数作続くわけですので、例えば、ホーソーンの生い立ちなんかが不明の部分多く残されるなど、やや物足りないと感じる読者もいるかもしれません。10作をすべてコンプリートしてから一気に読む、という読み方もありかも、と思わないでもありません。
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