今週の読書は経済書2冊と新書4冊の計6冊
今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、カール・ウィンホールド『スペシャルティコーヒーの経済学』(亜紀書房)は国際資本の大企業に対抗する零細コーヒー農家の今後の方向を議論しています。森永卓郎『書いてはいけない』(フォレスト出版)は、ジャニーズの性的加害、財務省のカルト的財政均衡主義、日本航空123便の墜落事故の3つについて、日本のメディアの姿勢を問うています。室橋祐貴『子ども若者抑圧社会・日本』(光文社新書)は、支援や保護の対象としての子どもではなく、権利や人権を認められた子どもの存在を認める日本の民主主義について議論をしています。橘玲『テクノ・リバタリアン』(文春新書)は、自由のあり方について、イーロン・マスクやピーター・ティールを例にして議論しています。速水由紀子『マッチング・アプリ症候群』(朝日新書)は、婚活のひとつのツールでありながらアプリ世界に彷徨い続ける男女を取材した結果を取りまとめています。矢口祐人『なぜ東大は男だらけなのか』(集英社新書)は、欧米先進国の大学に比較して極端に女子学生比率が低い東大の現状と歴史を考え、米国プリンストン大学の例から東大の学生の多様性について考えています。
ということで、今年の新刊書読書は1~3月に77冊の後、4月に26冊をレビューしています。5月に入って今週ポストする6冊を合わせて109冊となります。順次、Facebookなどでシェアする予定です。なお先々週にレビューした石持浅海『男と女、そして殺し屋』のシリーズ前作の2冊『殺し屋、やってます。』と『殺し屋、続けてます。』も読みました。この2冊は新刊書ではないので、このブログでは取り上げませんが、Facebookやmixiでシェアしたいと思います。
まず、カール・ウィンホールド『スペシャルティコーヒーの経済学』(亜紀書房)を読みました。著者は、米国の大学を卒業しているので米国人だと思うのですが、長年経営コンサルティングとコーヒーの国際交易に携わり、現在はリスボン大学にて開発学の博士号を目指して研究中途のことです。よく判りません。英語の原題は Cheap Coffee であり、2021年の出版です。英語の原題からも理解できる通り、「スペシャルティコーヒー」はほとんど関係ありません。どうして、こういった邦訳タイトルをつけたのかは理解に苦しみます。なお、私はかつてピエトラ・リボリ『あなたのTシャツはどこから来たのか?』を読んだ記憶があるのですが、本書はフェアトレードに関係しつつも、フェアトレード一般の貿易ではなく、むしろ、コーヒー生産に関連する経済書・学術書といえます。国際的なバリューチェーンの中で、地域としては南米に焦点を当てて、零細なコーヒー農家がいかにして経営を成り立たせているか、しかし、その裏側で国際的な巨大企業に騙されて搾取されているかを赤裸々に追っています。年米でいえば、「バナナ・リパブリック」という表現がありますが、あるいは、漁業なども含めて、1次産業の零細な生産者が市場原理に名の下で巨大な先進国の企業から生産物を安く買い叩かれ、高額な種子などを買わされ、十分な利益があげられずに、ほとんど開発に寄与しない農業を営んでいる、という実態があります。巨大国際企業とは資本力も交渉力もケタ違いで、いいなりになるしかない場合もあれば、零細農家の方で十分な理解がなく、正しく効率的な経営行動を取れていない場合も少なくありません。技術的に、日なた栽培と日陰栽培の違い、あるいは、ウェットパーチメントを1週間かけて乾かしてドライパーチメントにしたほうが付加価値が高くなるのは理解するとしても、それだけの期間をかけてリスクを取れる農家がどれだけあるのかも理解が進んでいません。でも、零細農化が組合を結成して生産量のロットを上げ、交渉力を向上させるというのは、あるいは、独占の形成を促すとみなされるとしても、国際企業との対抗上許容されるような気もします。大昔のようなプランテーション農場での奴隷労働はもうなくなったとはいえ、大規模土地所有制での零細な小作農や自作農であるとしても零細規模の農家の問題はまだまだ解決されているとは思えません。本書の視点は南米に中心がありますが、コーヒーということになれば、本書でも指摘しているように、インドネシアはもちろん、ベトナムでの栽培も無視できませんから、アジアの問題でもあります。コーヒーというのはもはやエキゾチックな飲み物ではなく、日本でも一般的に広く受け入れられているわけですから、自分自身の身近な問題として考える機会が与えられたように感じます。
次に、森永卓郎『書いてはいけない』(フォレスト出版)を読みました。著者は、エコノミストとしてメディアへの露出も多いのですが、昨年2023年12月にステージ4のがん告知を受けています。ということで、前著の『ザイム真理教』のラスト、最後のあとがきに私は衝撃を受けました。すなわち、『ザイム真理教』のpp.189-90のパラ4行をそのまま引用すると、「本書は2022年末から2023年の年初にかけて一気に骨格を作り上げた。その後、できあがった現行を大手出版社数社に持ち込んだ。ところが、軒並み出版を断られたのだ。『ここの表現がまずい』といった話ではなく、そもそもこのテーマの本を出すこと自体ができないというのだ。」ということで、本書はその意味で続編となります。本書で取り上げているのは、ジャニーズの性的加害、財務省のカルト的財政均衡主義、日本航空123便の墜落事故の3つが、メディアでは決して触れてはいけないタブーになっている点であり、著者はこれに危機感を抱いています。加えて、日本経済墜落の真相も4章で軽く言及されています。まず、ジャニーズの性的加害については、一応、メディアに現れるようになりましたが、民主主義国家として考えられないようなメディアコントロールの下における茶番ともいえる記者会見の実態が報じられた後、ハッキリいって、真相解明や再発防止などが進んでいるとはとても思えません。財務省の財政均衡主義については前著でかなり詳細に取り上げていましたので、省略するとしても、役所全体の無謬主義や国民生活からかけ離れた政策遂行などとも考え合わせる必要を強く感じました。しかし、本書で何よりも私が衝撃を受けたのは1985年の日本航空123便の墜落事故の真相です。この日航機事故は、その前のいわゆる尻もち事故の後に、ボーイング社の不適切・不十分な修理のために後部の隔壁の強度が不足していたことが原因、と私のようなシロートは認識していました。でも、本書で著者は、おそらく、自衛隊機が非炸薬ミサイルを誤射して日航機の後部を損壊させて墜落させた上で、その証拠隠滅のために特殊部隊が現場を火炎放射で焼き払った、との見方を示しています。ここまで来ると、私には判断のしようがありません。そうかもしれませんし、そうでないかもしれません。でも、こういった主張をメディアで封じ込めるのは民主主義国家としては許容できないと考えます。最後に、やや3大テーマから見ればオマケ的な扱いなのですが、バブル経済の発生とバブル崩壊後の日本経済の大失速については、まず、バブル経済発生の原因は日銀の窓口指導と指摘しています。なぜなら、低金利と財政拡大が原因であるなら、最近まで続いた財政金融政策でもバブルになっていた可能性が高いのに、そうなていないからである、という点を強調しています。そして、金融緩和による金融機関の体力に応じた後処理ではなく、不良債権の処理というハードランディングを選択した結果としてバブル崩壊後の不況が長引いた、と主張しています。私はこの点は不明ながら、直感的には少し違っていると感じています。バブルの発生とバブル後の不況は、緩和的な金融政策がバブル経済を発生させ、バブル崩壊後の金融緩和が不足していたから、と考えています。
次に、室橋祐貴『子ども若者抑圧社会・日本』(光文社新書)を読みました。著者は、若者の意見を政治に反映させる「日本若者協議会」を設立して代表理事として活動しているそうです。本書では、日本の民主主義の一つの弱点となっている若者の意見、特に年少の子供に対する抑圧的な見方に異議を唱えています。すなわち、被選挙権が25歳とか、30歳とかとほかの先進各国に比べて非常識なくらいに高く、若者の政治意識や参加意識がとても低いことの原因になっている可能性があると、私も考えています。例えば、ここ数日で広く報道されているように、中東ガザにおけるイスラエルの残虐行為についても、欧米先進国の大学などでは広範な反対意見を表明するデモなどが行われていますが、我が国ではそういった意見表明は、少なくとも、報じられていません。米国UCLAの抗議デモをNHKニュースで見かけましたが、私の母校である京都大学なんて、こういったケースでは先頭に立って意見表明する方だったのですが、鳴りを潜めているのか、それともメディアに無視されているのか、一向に国民には伝わってきません。本書のタイトルである子どもに付いて着目しても、日本ではホンのつい最近まで、子どもは従順な性格がよいとされ、親のいうことをよく聞く子が称賛の対象になっているくらいでした。パターナリズムの考えの下で支援や保護の対象とみなされていました。子どもの人権や権利なんてまったく無視され、ブラック校則で縛られていて、運動部は丸刈りの坊主頭が少なくなかったわけです。最近になって、甲子園大会に出場する高校野球の部活でも長髪が一部に見られるようになったりし始めていますが、子どもの学校活動などへの参画は遅れたままです。本書はそういった日本の学校教育における子どもの権利や人権の軽視ないし無視は、1969年の文部省の通達に起因すると説き、欧米先進国における民主主義教育、子どもの権利を尊重する取組み、などなどを紹介しています。大学教育に携わる身として、子どもや若者の成長のために、ひいては、日本の民主主義のために重要なポイントであると受け止めています。加えて、子供だけでなくジェンダー的に考えて女性など、支援や保護の対象の色彩強く見なされているグループにも適用され得る部分が少なくないと感じます。
次に、橘玲『テクノ・リバタリアン』(文春新書)を読みました。著者は、文筆家なんだろうと思います。著作業ともいえるかもしれません。私も何冊か著書を読んだ記憶があります。小学館新書の『上級国民/下級国民』とかです。本書では、PART0から4までと、最後にPARTXの構成となっていて、正義に関する見方として、リベラリズム、リバタリアン、功利主義(たぶん、ユーティリタリアニズム)、共同体主義(たぶん、コミュニタリアニズム)の4類型を示しています。p.34で図示されている通りです。そして、日本的なリベラルというのは、世界的なグローバススタンダードのリベラルではなくサンデル教授のようなコミュニタリアン左派であると論じています。日本的リベラルではなく、世界的なリベラルはくまで自己責任で自由に生きる個人、ということになります。そして、その4類型の思想の道徳的な基礎がp.44に図示されています。これらの両方の概念図で、本書のテーマであるテクノ・リバタリアンはリバタリアニズムと功利主義の重なった部分を占める、との理解を示しています。逆にいえば、テクノ・リバタリアンはリベラリズムやコミュニタリアニズムとの接点はないといえます。そして、そのテクノ・リバタリアンにとても近いのがネオリベということになります。加えて、本書ではこのテクノ・リバタリアンを体現しているのがイーロン・マスクとピーター・ティールと指摘しています。PART1でその2人について生い立ちから含めて人物像を明らかにしていまう。PART2ではクリプト・アナキズムを、まさに、ビットコインなどに代表されるように国家に依存しない貨幣発行とも関連づけ、原理主義的なリバタリアニズムとして浮き彫りにしています。PART3では逆に総督府功利主義に着目しています。まさに、中国的な監視社会を典型的な総督府功利主義と私は考えていたのですが、本書の理解は少し違っていた気がします。いずれにせよ、本書んテーマは原理的な自由に関する考え方です。そこには、私が従来から指摘しているように、民主主義的な平等の下での自由と資本主義的な何らかの不平等を許容する自由の2種類があると私は考えています。私は完全は平等を主張するつもリはありませんが、不平等が社会的に許容できる範囲で、すべての国民が個人として尊重される経済社会における自由が追求されるべきと考えます。逆からいえば、テクノ・リバタリアンの見方とはかなり異なります。はい。それは自覚しています。
次に、速水由紀子『マッチング・アプリ症候群』(朝日新書)を読みました。著者は、新聞記者の経験もあるジャーナリストです。本書の取材のために、実際にいくつかのマッチング・アプリに登録して、「婚活」のような活動をしているようです。ということで、マッチング・アプリとは、私のような高齢既婚者はお呼びでないのでしょうが、SNSのような感覚で相手のプロフにlikeを押して、アプリ内のメッセージ機能を使ってコミュニケーションを取り、さらに進めば実際にお茶や食事をごいっしょする、という形で進む婚活目的のアプリです。しかし、実際には、一昔前にはやった「出会い系」と同じでヤリモクの人も混じっていることは否定のしようがありません。そして、本書のタイトルに即していえば、婚活の最終目的である結婚にたどり着くことなく、延々とマッチング・アプリを使って婚活を続けている症状を指しています。出版社のサイトでは「アプリ世界に彷徨い続け、婚活より自己肯定感の補完にハマり抜け出せなくなってしまった男女を扱う」ということらしいです。ただ、私自身としてはマッチング・アプリにはそれ相応の肯定的な面もあることは事実だと受け止めています。例えば、米国の世論調査機関であるPew Research Centerの調査によれば、婚活目的のマッチング・アプリというよりも、恋人探しやカジュアルな出会いを求めてのオンラインデートも含めて、また、アプリだけでなくサイトの利用も含めて、米国人成人の30%、男性の34%、女性の27%に使用経験があり、とくに、18-29歳の若年層では53%と過半に達しています。ただ、日本では評価が違うのは当然です。特に、男性ではマズロー的な承認欲求が強いのではないか、と私は本書を読んでいて感じました。女性についても、ほとんど用語としては現れませんが、お見合いもマッチング・アプリも同じで「高望み」というのが透けて見えるような気がします。お見合いの場合は、然るべき年長者のアドバイスが有益な場合もあるのでしょうし、もちろん、まったく無益なアドバイスもいっぱいあるのでしょうが、マッチング・アプリではすべてを自分で判断するツラさのようなものがありそうに感じました。また、婚活は就活と似た面があります。私は役所を60歳で定年退職した後の再就職で強く感じましたし、学生諸君の就活でも同じことですが、プロ野球の優勝争いではないのですから、まあ、勝ち負けではないとしても、勝率を競う必要はまったくありません。就活も婚活も1勝すればいいというのは忘れるべきではありません。その1勝が遠いのが本書でいうマッチング・アプリ症候群であるのは理解しますし、期限がある学生の就活と違って、無期限ではないとしても期限が緩い婚活は時間をかける場合があるのも理解しますが、就職も結婚もとても長期に及ぶ関係性についての決断ですから、言葉は悪いかもしれませんが、ギャンブルの要素はなくならないのではないか、という気がします。最後に、どうでもいいことながら、マッチング・アプリからはかなり豊富なデータが取れます。私のようなマクロ経済学が専門のエコノミストはダメなのですが、選択を考えるミクロ経済学の観点から、ビッグデータの一種として、とても重宝するデータと見なしている人もいます。ウッダーソンの法則なんてのも有名になりました。
次に、矢口祐人『なぜ東大は男だらけなのか』(集英社新書)を読みました。著者は、東大の研究者、副学長だそうです。名前からして男性ではないか、と私は受け止めています。本書でも指摘しているように、まず、事実関係として、東大は、私の母校である京大もそうですが、女子学生の比率がわずかに20%ほどと、学生の性別比率に極端に差があります。教員についても性別で差があります。しかも、現在でもサークルの中には、他大学女子学生は受け入れるのに、東大生女子は受け入れないものもあるらしいです。これには、私もびっくりしました。本書では、東大のそういった現状について分析するとともに、歴史的に戦前史をひも解き、戦後史も明らかにしています。東大は、よく知られているように、終戦までは東京帝国大学で女子の入学を認めていませんでした。配線とともに占領軍の指示で女子学生を受け入れるようになったわけです。当然、トイレなどのインフラはまったく未整備で、そういった事情も本書で明らかにしています。そして、米国アイビーリーグの名門校のプリンストン大学をケーススタディしています。すなわち、プリンストン大学が女子学生を受け入れ始めたのは1969年と東大よりも遅く、ご同様に、1991年まで女性の入会を認めないイーティング・クラブが存在しましたが、約40年かけて2010年には女子学生比率は50%に達しています。その2倍の80年近くかけて、いまだに20%ほどの東大とは差があるわけです。また、学生レベルだけでなく、2001年には女性が学長に就任したりもしています。そして、本書ではプリンストン大学が経営方針として共学化を開始し、女子学生受入れを積極的に進めた点を強調しています。要するに、東大でも、もちろん、我が母校の京大でもやれば出来るんではないか、というわけです。ただ、これも明らかな通り、東大だけで女子学生比率を上昇させることは限界があるような気がします。日本の国として、教育界全体として考えるべき要素も無視できません。そして、本書の第5章では東大のあるべき姿、として、女子学生雨の比率上昇のためのクオータ制の導入などについても検討されています。私の従来からの主張として、日本経済の大きな弱点は女性の管理職などへの登用が決定的に欠けていることであり、このポイントを理解せねばなりません。そして、経済面で女性の活躍が不足しているひとつの原因は大学における、特に、東大や京大といったトップ校における女性比率の低さも考えねばなりません。
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