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2024年7月13日 (土)

今週の読書は経済書などのほか新書も合わせて計7冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、中村保ほか[編著]『マクロ経済学の課題と可能性』(勁草書房)は、格差や少子化といった課題についてマクロ経済学の観点から数式の展開による理論モデルの分析を試みています。小野圭司『戦争と経済』(日本経済新聞出版)は、財政や経済の観点から戦争を考え、エピソードを盛りだくさんに取り入れた歴史書に仕上がっています。河西朝雄『Pythonによる「プログラミング的思考」入門』(技術評論社)は、問題解決のためのアルゴリズムを考え、同時に、Pythonによるプログラミングの実例を豊富に取り上げています。佐藤主光『日本の財政』(中公新書)は、財政タカ派の観点から公的債務の安定化を目指して財政再建の方法についての提言を取りまとめています。小塩隆士『経済学の思考軸』(ちくま新書)は、経済学を用いた分析を進める上で重要な思考軸、例えば効率と公平などについて取り上げています。玉野和志『町内会』(ちくま新書)は、行政を補完し地域共同管理に当たる住民組織としての町内会について、歴史的な観点から成立ちや今後の方向などにつき考えています。成田奈緒子『中学受験の落とし穴』(ちくま新書)は、小学生の脳の発達の観点から中学受験について考えています。どうでもいいことながら、今週はちくま新書を3冊も、よく読んだものだという気がます。
ということで、今年の新刊書読書は1~6月に160冊を読んでレビューし、7月に入って先週・今週とも7冊をポストし、合わせて174冊となります。目標にしているわけでも何でもありませんが、年間300冊に達する勢いかもしれません。なお、Facebookやmixi、あるいは、経済書についてはAmazonのブックレビューなどでシェアする予定です。
それからご参考で、7月9日付けの週刊『エコノミスト』で私が酷評した『金利 「時間の価格」の物語』の書評が掲載されています。過度な低金利批判に疑問を呈するとともに、ホワイト/ボリオといったBISビューを代表するエコノミストの重視など、私がAmazonのレビューで2ツ星に評価したのと同じラインの書評だという気がしました。ただ、その後、Amazonでは4ツ星や5ツ星のレビューもあるようです。繰り返しになりますが、ご参考まで。

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まず、中村保ほか[編著]『マクロ経済学の課題と可能性』(勁草書房)を読みました。編著者は、神戸大学の研究者であり、本書は中京大学経済研究所研究叢書として中村教授の還暦記念として編まれています。序章の後、本書は4部から構成されており、第1部が現実とマクロ経済理論の対話、第2部が個人の選好とマクロ経済減少、第3部が分配・格差とマクロ経済学、第4部が少子化とマクロ経済政策、をそれぞれのテーマにしています。本書は完全に学術書であり、しかも、一部にシミュレーションを用いた数値計算を実施しているものの、ほぼほぼ数式の展開による理論モデルの分析で計量経済学的な実証研究はなく、一般的なビジネスパーソンには難しい内容であるように思いますし、私ごときでは4部13章のすべてを十分理解したとは思えません。ですので、第2部のマイクロな個人の選好に基づいたマクロ経済分析などから少しトピックを選んで取り上げておきたいと思います。すなわち、第6章では新型コロナウィルス感染症(COVID-19)パンデミックにおける消費行動を分析しています。この分析では、家計調査などのデータから「巣ごもり消費」とも呼ばれた自宅待機要請の際の消費が、家計内の労働時間を要する時間集約財にシフトしている点を発見しています。ただ、中所得層での所得弾力性の低下という意味で時間集約財の特徴を消滅させた可能性も指摘されています。これは、家計のタイムユースの観点からパンデミック期の巣ごもり消費の特徴とも合致すると私は受け止めています。また、第3部の第8章や第9章では労働分配率の低下についてモデル分析を行っています。規模の経済を有する情報財部門と収穫一定の最終財部門からなる2財モデルで労働分配率が低下することが示されます。しかし、同時にこういった情報化社会の進展がマクロ経済を不安定化せるリスクにも言及しています。また、オートメーションによって資本が労働を置き換えるタスクモデルによれば、未熟練労働から資本へのタスク転換により賃金格差の縮小と資本分配率の低下がもたらされる一方で、金融自由化などに起因する技術的に最先端のタスクが増加すれば賃金格差の縮小と労働分配率の低下が同時に起こることになります。少子化対策では、第11章で、家計が利己的か、あるいは、利他的かで政策のインプリケーションが異なるモデルが提示され、人的資本希釈効果もあって、利己的な経済では子育て支援は逆に子供の数を減少させてしまうという結果が導かれています。第12章では、世代重複モデルの分析から、内生的出生率と最低賃金による失業をモデルに導入すれば、資本所得税の引上げにより1人当たりの資本蓄積を促進し、雇用も出生率も改善する可能性が示唆されています。ということで、必ずしも統一性あるテーマに基づく論文集ではありませんが、マクロ経済モデルの理論分析という形で、従来から示されているマクロ経済現象を確認するうことに成功しています。

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次に、小野圭司『戦争と経済』(日本経済新聞出版)を読みました。著者は、防衛研究所の研究者ですが、私と同じ京都大学経済学部のご卒業ですので、軍事や地政学ではなく経済学がご専門なのだと思います。本書は決して学術書ではなく一般向けの読み物であり、エピソードを盛りだくさんに取り入れた歴史書といえます。歴史的には西洋の古典古代であるギリシア・ローマ時代から、我が国の戦国時代や江戸時代も含めた前近代の戦争も対象とし、もちろん、近代戦争であるいわゆる総力戦の第1次世界大戦や第2次世界大戦、その前の我が国でいえば日清戦争や日露戦争の特徴的なエピソード、経済的な見方からのエピソードを豊富に含んでいます。ただし、最新の武力紛争、というか、何というか、ロシアによるウクライナ侵攻や中東ガザにおけるイスラエルのジェノサイドなどについては特に強く着目されているわけではありません。特に、中東については言及すらされていません。圧倒的に主張されているのは、一言でいえば「戦争には金がかかる」という点です。合理的な経済学の考えを身につけているエコノミストであれば、決して戦争なんかは見向きもしないということが明らかです。経済合理性ない人が戦争を始めるのだということがよく理解できます。特に、産業革命以降の近代的な産業の確立を受けて、刀やサーベルなどから銃器、それも重火器の武器を調達することは、個人レベルではほとんど不可能となり、国家が戦費を負担することになります。ですので、戦争が終結した後、近代的な戦争で必要とされた経費はすべて敗戦国が負担する、という原則が確立されます。それが、第1次世界大戦後のドイツに対するベルサイユ条約の賠償につながったことは明らかで、ケインズ卿が「平和の経済的帰結」で強く批判した点でもあります。p.86の表3-4で主要戦争の賠償金比較がなされていますが、GDP比で見て第1次世界大戦後の賠償額が突出して大きいことが読み取れます。また、同じ戦費の別の観点で、前近代の戦争については、戦費をまかなうための国債発行といういうイノベーションを編み出したイングランド銀行の設立をはじめとして、戦争や武力衝突のリスク回避のための為替送金の一般化など、金融面において戦争という非常時においても、金融や生産などの平時の経済活動を円滑に行うためのイノベーションがなされたこともよく理解できます。今では、ウクライナは暗号資産で一部の継戦資金を受け取っている、と本書では指摘しています。これも送金リスクの低減のためなのでしょう。また、本書では経済学の視点ですから指摘はありませんが、武器の開発などで技術力についても戦争が一定の役割を果たした可能性も否定できません。医学なんかもそうです。でも、やっぱり、経済学的な見地からはまったく合理性ないと考えるべきです。最後に繰り返しになりますが、経済書というよりは歴史書に近い読み物の印象です。「戦争というものは、軍人たちに任せておくには重要すぎる」と喝破したのは第1次世界大戦をフランスの勝利に導いた時のクレマンソー首相の言葉と伝えられていますが、まさに、そういった面がよく感じられる読書でした。

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次に、河西朝雄『Pythonによる「プログラミング的思考」入門』(技術評論社)を読みました。著者は、長野県の工業高校の教諭などを経て、現在はカサイ.ソフトウェアラボの代表だそうです。タイトルにある「プログラミング的思考」とは、本書冒頭で、「問題を解決するための方法や手順をプログラミングの概念に基づいて考えること」としています。まあ、表現を換えただけで同じことだという気はしますが、そこまで突き詰めて考えなくても直感的に理解しておくべきなのかもしれません。私の理解では、プログラミング言語を理解するとともに、そのプログラミングを基にアルゴリズムを考えることだという気がします。プログラミングはまさにアルゴリズムに乗っかって動くわけです。本書ではプログラミング的思考の5本柱として、① 流れ制御構造(組み合わせ)、② データ化、③ 抽象化と一般化、④ 分解とモジュール化、⑤ データ構造とアルゴリズム、を示しています。経済学であれば、一言で「モデル」と表現してしまうような気もします。ということで、これまたタイトルにあるように、本書ではプログラミング言語はPythonということになります。このところ、因果推論とともにPythonについても探求を試みていたのですが、ややムリそうな気配が濃厚となっています。それはともかく、前半の冒頭3章でPythonの文法、書法・技法、グラフィックスを取り上げた後、先ほどのプログラミング的思考の5本柱を第4章で解説し、後半の第5章から第8章が実践編となっています。各章ではプログラミングの実例を豊富に取り上げていて、まあ、私のようなシロートから見てもレベルがまちまちなのですが、第5章でプログラミングの簡単な例示、第6章で再帰的思考、第7章でアルゴリズム、最後の第8章でデータサイエンスに焦点を当てています。簡単なプログラム例としてはフィボナッチ数列があります。まあ、フィボナッチでなくても数列であれば簡単なアルゴリズムに乗せてプログラムできるとは思います。ベルヌーイ数なんて巨大な桁数になりますが、プログラムで作り出すのは難しくもありません。再帰的な解法、というか、応用ではグラフィックスが持ち出されています。まあ、判りやすいような気がします。第7章のアルゴリズムがもっとも重要で、テイラー展開やハノイの塔、戦略性あるゲームの必勝法などが出てきます。いずれもすごく判りやすいのでオススメです。最後に、少し前まで、再帰的(recursive)な解法と反復法(iterative)による解法は、ほぼほぼ同じながら、ビミョーな違いがあることを理解し始めました。自分に返って来る部分があるのが再帰的(recursive)な解法で、少しずつ条件を変えるとはいえ単純に繰り返すのが反復法(iterative)なのだということのようです。まあ、差は大きくない気がします。どうでもいいことながら、PythonではDo While文がないらしいのですが、私はループさせる際はfor文を多用するクセがあったりします。

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次に、佐藤主光『日本の財政』(中公新書)を読みました。著者は、一橋大学の研究者です。私は財政学や公共経済学の分野にそれなりに専門性があり、したがって、この著者の従来からの主張も見知っています。すなわち、現在の日本の財政赤字や公的債務の累増を大きなリスクと考え、財政再建により公的債務の安定化を目指そうとする財政タカ派の財務省路線の代表的な論客の1人です。かたや、私は真逆の政策スタンスで財政赤字や公的債務にはかなり無頓着で財政ハト派だったりします。ですから、昨年の紀要論文 "An Essay on Public Debt Sustainability: Why Japanese Government Does Not Go Bankrupt?" でも、基礎的財政収支の改善と低金利により日本の財政は十分サステイナブルである、と結論したりしていました。でも、黒字と低金利の2つのサステイナビリティ条件のうち、3月に日銀が金融引締めを始めたことにより、崩れる可能性が出てきています。すなわち、金利が成長率よりも高くなる可能性が十分にあるわけです。その意味で、本書で改めて財政タカ派の主張を確認しておきたいと考えました。ただ、従来、というか、ここ30年ほど大きな主張の変化は見られません。要するに、財政収支の悪化を食い止めるのが主目的であって、その目的は一向にハッキリしません。つまり、財政収支を均衡させるのは唯一の目標であって、ほぼほぼ自己目的化しているといえます。少なくとも金融タカ派は不況になった際の金利引下げののりしろ論なんてのを考え出しただけマシな気がします。ただ、財政タカ派の場合は「痛みを伴う改革」について日本人のそれなりの思い入れがあるものですから、支持を得やすい可能性があります。ということで、本書では冒頭でいきなり財政再建の方策として5つの対策を上げています。すなわち、① ワイズスペンディング、② 企業・産業の新陳代謝の促進と雇用の流動化、③ 消費税の大幅増税という税制改革、④ セーフティネットの構築、⑤ Pay-As-You-Go などの財政ルールの設定、となります。②がとても異質に見えるのですが、税収を上げるために成長促進する必要があり、その成長促進のためにこういった政策が必要、という理由です。私は財政再建できるのであればした方がいいと考える一方で、そのコストは現時点では高すぎる可能性があるように見えます。この経済学的なコスト-ベネフィット分析をすることなく、財政再建を自明の目的として、ひたすら財政再建を目指しているように見えるので財政タカ派の議論は少し違和感を覚えます。

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次に、小塩隆士『経済学の思考軸』(ちくま新書)を読みました。著者は、官庁エコノミストから早い段階で学界に転じていて、現在は一橋大学の研究者です。本書のサブタイトルは「効率か公平かのジレンマ」となっていて、トレード・オフの関係にある効率性と公平性のバランスを考えながら、ひいては、市場と社会保障の関係、あるいは経済と幸福、将来世代の経済的厚生まで幅広く論じています。あまりに幅広く論じていて、まさに経済学の論点をいっぱい取り込んでいるので、ここではサブタイトルにしがたって、効率と公平のジレンマないしトレードオフについて考えたいと思います。というのは、経済学における「効率と公平」の問題は、本書ではまったく意識されていないようですが、ある程度の部分まで政治学とか社会学における「自由と民主主義」の問題に通ずるものがあるからです。すなわち、効率と自由に親和性がある一方で、公平と民主主義には相通ずるものがあると考えるべきです。ですから、効率のためには自由を重視し、公平の確保には民主主義で対応すべきと私は考えています。自由と民主主義は一括されて「自由民主主義」という表現もあり、そういった政党も日本のみならず存在するわけですが、経済学における効率と公平のように、ジレンマがある可能性を指摘しておきたいと思います。あくまで効率や自由を重視するのであれば、たとえ大きくとも個人差というものを肯定して、経済学であれば生産性の差に従った処遇、というか、出来る人はできるようにご活躍願う必要があるのに対して、公平や民主主義ではそういった差をならしたり、あるいは、1人1票で参加を促したりする必要があります。少なくとも、効率を重視しすぎると公平が阻害される可能性は本書でも十分認識されているようですし、一般にもご同様だと思います。当然です。経済学的な見方から、効率的で生産性の高い特定の人物ないしグループが、例えば、所得という意味での購買力を平均よりも過大に持つようになれば、たとえそれが経済学的に根拠ある理由に基づくものであっても、公平の観点からは好ましくない可能性があります。ある程度の公平が確保されないと効率が阻害される可能性がある点も忘れるべきではありません。ですから、自由と民主主義において、「殺す自由」とか、「盗む自由」がないのと同じで、経済においても過剰な効率の重視は好ましくないと私は考えています。その昔にサプライ・チェーンと呼んだ複雑な分業体制が、現在では、グローバル・バリュー・チェーンと称されていますが、この複雑極まりない分業体制の中で民主的な公平性が確保されないと、チャイルド・レイバーやスウェットショップのようなものが分業体制に中に紛れ込む可能性が排除できません。特に経済学的には低コストでもって高効率と考えられる場合が少なくなく、効率がサステイナビリティに欠ける生産や消費につながりかねません。それが、市場の弱点のひとつだと思いますし、市場を分析する経済学の弱点でもあります。

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次に、玉野和志『町内会』(ちくま新書)を読みました。著者は、放送大学の研究者であり、ご専門は都市社会学・地域社会学だそうです。本書では、町内会という強制加入に近い地域団体が、本来は行政がやるべき業務を住民の好意に依存してやってもらい、その結果として生じかねないトラブルも行政として責任を取るわけでもなく、住民間の解決に委ねるという、行政から見て何とも都合のいい仕組みがなぜできあがったのか、を解明しようと試みています。私は、徳川期の五人組とか、戦中の隣組ではないかと思っていたのですが、そんな軽い単純な考えを吹き飛ばすような歴史的かつ学術的な分析がなされています。ただ、本書でも指摘しているように、戦後にGHQが戦争翼賛の観点から町内会を解散させた上で、サンフランシスコ平和条約によって独立を回復した後に復活したのも事実です。なお、町内会の学術的な定義はp.27に既存研究から引用されていて、本書では「地域共同管理に当たる住民組織」が肝と考えています。そして、この歴史的な解明とともに、本書では、日本の町内会は西洋における労働組合が果たしてきた自立や自治や参加促進などの役割を担ってきたのではないか、との仮説も提示しています。これはかなり斬新というか、GHQの見方からすれば真逆に近い見方ではないかという気がします。ただ、同時に、本書では行政の役割に分担という観点もあって、労働組合が果たしてきた役割と町内会では、かなり違うんではないかと、私は考えています。もっとも、終戦直後においてすら労働者の半分近くが農林水産業の第1次産業に従事していたわけであり、漁業権の設定とか、典型的には農村における入会地の管理といったような、最近の流行の言葉を使えば、コモンに関する業務は、行政から委託されるのではなく、自律的にこなしていた可能性が高いと私は感じています。自律的に担っていたとはいえ、結果的には行政の役割の分担をこなしていたのは事実かもしれません。そういった行政を補完するような役割は、本書でも指摘しているように、いまだに清掃やごみ収集の補助、あるいは、街灯の設置などでなくなってはいないものの、都市化の進展とともに大きく変化してきていることは確かです。その上、原則全員加入といえば、マンションの管理組合がマンション内ではその昔の町内会に代替する組織になっていて、これは明らかに全戸加入であり、マンション内の自治を有料で、というか、企業活動に住民が助力しつつ一端を担っていることは明らかです。そういった町内会も、あまりに過重な負担から担い手が少なくなり、活動水準を大きく低下させています。本書の最後では、町内会・自治会と市民団体を対比させて「水と油」と表現していますが、この先も、町内会の衰退は免れないのかもしれません。

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次に、成田奈緒子『中学受験の落とし穴』(ちくま新書)を読みました。著者は、子育て支援事業「子育て科学アクシス」代表であり、文教大学教育学部の研究者です。本書では、タイトル通りに、中学受験について考えていて、中学受験ですから小学生が受験するわけで、高校生の大学受験と違って親の影響力の強さがひとつの考慮するポイントとなります。実は、私自身も中学受験をして6年間一貫制の中学・高校に通いましたし、したがって、というか、何というか、倅2人もご同様です。いうまでもなく日本では中学校は義務教育であり、小学校から進学する先の中学校は住んでいる地区に従ってほぼほぼ自動的に決まります。ですから、その自動的に決まる中学校に通うか、あるいは、中学受験して異なる中学校に通うかの選択肢になるわけです。繰り返しになりますが、受験するのは小学生であり、自律的な判断ができる子どもがいる一方で、親の影響力も決して無視はできません。我が家の子どもたちの場合、父親の私が中学受験をして私立中学・高校に通っていた経験がある、という点とともに、当時住んでいたのが南青山という全国でも、というか、おそらく、都内でも有数の中学受験に熱心な地区だったこともあります。私の聞き及ぶ範囲では1/4から1/3くらいの児童が中学受験をするそうです。本書では著者の専門領域である脳の働きから中学受験を考えていて、からだの脳とこころの脳からなる1階部分の上の2階部分におりこうさんの脳が育まれると指摘しています。そして、このこころの脳とからだの脳とおりこうさんの脳の発達の観点から中学受験、さらには、中学受験を超えた範囲での子どもの発達が考えられています。詳細は本書を読んでいただくしかないのですが、もっとも私が肝の部分だと感じたのは、学校や塾では出来ず家庭でしか出来ない脳育てがあるという点です。これも読んでいただくしかないのですが、巷間いわれている点で常識的な範囲で、早寝早起きで朝食を取る、ということがあります。私なんかの時代の大学受験は睡眠時間を削ってでも勉強時間を確保するという考えがなくはなかったのですが、本書でも中学受験と大学受験は違うと指摘していますし、そういった生活リズムの確立は脳の発達が十分ではない小学生には重要なポイントであるのは理解できるところです。本書全体を通じて、やや中学受験のいわゆるハウツー本的な要素はありますし、そういった需要にも対応しているのかもしれませんが、脳の発達という観点から重要な点が指摘されてもいます。その点は評価できると思います。

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