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2024年9月 7日 (土)

今週の読書は経済書をはじめとして小説なしで計5冊

今週の読書感想文は以下の通り経済書をはじめとして5冊です。小説はありません。
今年の新刊書読書は1~8月に215冊を読んでレビューし、9月に入って本日5冊をポストし、合わせて220冊となります。Facebookやmixi、あるいは、経済書についてはAmazonのブックレビューなどでシェアする予定です。また、池井戸潤『不祥事』(講談社文庫)と『花咲舞が黙ってない』(中公文庫)を読みました。すでに、mixiとFacebookでシェアしています。

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まず、ギャレット・ジョーンズ『移民は世界をどう変えてきたか』(慶應義塾大学出版会)を読みました。著者は、米国ジョージ・メイソン大学の研究者です。英語の原題は The Culture Transplant であり、2023年の出版です。サブタイトルは「文化移植の経済学」となっています。将来に向かっての労働力不足を解消するための移民の導入に対して、私は大いに懐疑的であり、少なくとも日本の地理的な条件として世界でも有数の人口大国を隣国に持っていることから、ハードルの低い移民受け入れは国家としてのアイデンティティの崩壊につながりかねない、と感じています。本書は、この私の問題意識と共通する部分があり、少なくtも、多くの左派リベラルのエコノミストように移民をア・プリオリに認めて、多様性や包摂性=インクルージョンを求める論調ではありません。いくつか論点がありますが、まず、本書では移民が受入国に同化するかどうかについては懐疑的です。むしろ、経済面では移民受入れ国の地理よりも移民そのものの民族性の方がより大きな影響力を持つと指摘しています。世界経済を考える場合、よく「グローバルサウス」ということをいい、その昔は南北問題を話題にしていましたが、そういった地理的な条件ではなく民族性のほうが経済発展に対して大きな影響力を持つ、という議論です。経済的繁栄の要因として、設備投資率、貿易開放の年数、儒教的背景を持つ人口比率の3点を本書では冒頭に上げています(p.5)。そして、投資に対しては貯蓄の裏付けが必要なのですが、移民の民族性として「倹約」の傾向は明らかに移民により輸入される、との分析結果を示しています。その上で、国家史=S、農業史=A、技術史=Tの頭文字を取ったSATスコアにより経済的繁栄=1人当たり所得が決まる、との結論です。少なくとも、このうちの技術を考える場合、場所を基準とした尺度よりも人を基準とする方が説得力あるのは当然です。また、移民については多様性が持ち出されますが、本書ではこれもやや懐疑的です。すなわち、経済学、というか、生産に関してはスキルの多様性が分業の深化において有利に働くとしても、経営的あるいは文化的には多様性は決してプラスにならない、と指摘しています。また、エリート集団に所属していれば多様性は受け入れやすいが、そうでなければ多様性の必要性はそれほど感じない、との分析結果も示しています。東アジアの経済的成功例である日本や韓国を観察すれば、多様性に関する認識は変わる、とも述べています。米国や欧州における右派ナショナリスト・ポピュリストの主張などを考え合わせると、よく理解できそうですし、決してポピュリストではない私もかなりの程度に合意します。最後に、東南アジア、タイ、マレーシア、インドネシア、それにシンガポールの例を見て、「家人ディアスポラを拡大すること」(p.197)が経済的繁栄につながる、と結論しています。はい、数百年の世界の経済史を考えれば、結論としては間違っていない可能性のほうが高い、と私は受け止めています。ただ、最後の最後に、経済的な凋落の崖っぷちに立っている日本のエコノミストとして、やや自嘲的ながら経済的な繁栄がすべてなのか、という疑問は残ります。

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次に、西野倫世『現代アメリカにみる「教師の効果」測定』(学文社)を読みました。著者は、神戸大学の研究者です。本書の観点は、教師の効果=teacher effectiveness、すなわち、教師が教育においてどのくらいの重要性を持っているか、というテーマであり、本書でも取り上げている米国スタンフォード大学のハヌシェク教授やハーバード大学のヘックマン教授などのように、米国ではエコノミストが分析しているテーマだと私は考えています。ですから、私が勤務校の大学院の経済政策の授業を担当していた時には、『フィナンシャル・レビュー』2019年第6号で特集されていた教育政策の実証研究の論文を読ませたりしていました。ほかにも、例えば、小塩隆士ほか「教育の生産関数の推計」といった経済学的な研究成果もあり、ここでは首都圏や関西圏の中高一貫の進学校、まあ、開成高校や灘高校などが思い浮かびますが、そういった進学校では、身も蓋もなく、トップ大学の入学試験合格という成果は学校の成果ではなく、その学校に入学する生徒たちの平均的な学力によって決定される、という結論を示しています。有り体にいえば、賢い子が入学して、特に学校で強烈な学力の伸びを見せるわけでもなく、そのまま、東大や京大に進学する、というわけです。同じ考えがその昔は米国にもあって、1970年代初頭くらいまで、学業成績を決定するのは、家庭環境=family backgroundと学友の影響=peer effectsが大きく、学校資源=schoolinputsの影響はほぼないか、あってもごくわずか、という研究成果が主流でした。しかし、こういった見方は学力の計測について進歩が見られ、データがそろうにつれて否定されます。すなわち、学力の測定は4つの方法があり、素点型=status models、群間変化型=cohort-to-cohort models、成長度型=growth models、伸長度型=value-added modelsがあり、まさに、開成高校や灘高校ではありませんが、賢い子が入学して賢いまま難関校に合格する、という素点型に基づく評価ではなく、伸長度型の評価に移行しています。要するに、学校において教師がどれだけ生徒の学力を伸ばせたか、を評価するわけです。その上で、米国ではそれを教師自身の人事評価に直結させるシステムに発展しています。どうでもいいことながら、"value-added"は経済学では「付加価値」という訳語を当てていますが、教育学では「伸長度」なのかもしれません。こういった考えが普及する前には、教師の効果の計測は生徒の学力伸長度ではなく、経験年数や学位、すなわち、修士学位を持っているかどうか、などで計測されていました。ただ、私は少し疑問を持っていて、単純に教育といってもいくつかの段階があり、初等教育、特に義務教育レベルでは到達度、素点型が重要なのではないか、という気がしています。読み書き計算という生活上や就業する際の基礎を十分に身につけることが充填とすべきです。その上で、中等教育については高等教育への進学を目指すのであれば、それ相応の学力伸長が必要ですので、本書で指摘しているような伸長度モデルに基づく教師の評価が効果的である可能性が高まります。そして、最終的な高等教育においては、また別の評価の尺度があり得るような気がします。ただ、私の方でも指摘しておきたいのは、本書でも指摘しているように、何が、あるいは、どういった要因が高い伸長度をもたらしたのか、という点の分析はまったく出来ていません。当たり前です。どういった教育方法が高い伸長度をもたらすのか、という点が解明されていれば、行政の方でマニュアルめいたものを作成・配布して、多くの教師がベスト・プラクティスを実践できますが、まったくそうはなっていません。ですから、「教師の効果」は測定という前半部分は実践され始めている一方で、その分析結果を教育現場にフィードバックする後半部分はまったく手つかずで放置されています。この部分を解明する努力がこれから必要となりますが、前半部分は経済学の知見が大いに活用できますが、後半部分はまさに教育学の正念場と考えるべきです。最後の最後に、日本における「全国学力・学習状況調査」、いわゆる学力テストは現状では計測対象が極めて不明確であり、何を計測しようとしているのかが不明と私は考えています。加えて、繰り返しになりますが、教育現場における実践も進んでいないのですから、本書で展開されているような教師の評価に用いるのであれば、かなり慎重な扱いが必要と考えますので、付け加えておきたいと思います。

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次に、モーガン・フィリップス『大適応の始めかた』(みすず書房)を読みました。著者は、気候危機対策のために活動する英国の環境慈善団体の役員です。本書執筆時にはグレイシャー・トラストに所属していて、この団体は本書でも何度か登場します。英語の原題は The Great Adaptations であり、2021年の出版です。ということで、本書の適応の対象は、当然ながら、気候変動です。本書では「気候崩壊」という用語も使われています。さまざま機会に言及される産業革命から+1.5℃目標とか、あるいは少し緩めに+2.0℃目標とかの目標はかなり怪しくなってきた、と考える人は少なくないと思います。また、今年の『エネルギー白書2024』第1部第3章では、2050年のカーボン・ニュートラルに関して「温室効果ガスの削減が着実に進んでいる状況(オントラック)」(p.60)との分析結果を示していますが、たとえ2050年カーボン・ニュートラルが達成可能だとしても、それは+1.5℃目標が達成可能だという意味であって、実は、現状で昨年だと思うのですが、すでに+1.3℃の上昇を記録しています。現時点での+1.3℃の上昇でも、これだけの異常な猛暑や台風被害などが発生しているわけです。ですから、ここからさらに+0.2℃上昇して+1.5℃目標が達成されたとしても、現時点での異常気象よりさらに気象が異常度を増すことは明らかです。加えて、炭素回収・貯留(CCS)については、実用化されるとしても、メチャメチャ大きなキャパを必要とすると試算しています。ですから、本書では2012年10月のハリケーン・サンディの後のニューヨークスタテン島では、再建を諦めて州政府に土地を買い上げてもらって撤退=retreatの選択肢を選ぶ住民が少なくなかった事実から始めています。どうでもいいことながら、原因は気候変動ではありませんが、我が国のお正月の能登半島地震でも、政府は撤退を促して放置しているのか、という見方もあるかもしれません。まあ、違うと思います。世界における気候変動に対する適応例、あるいは、適応アイデアを本書ではいくつか上げています。モロッコの霧収集、ネパールのアグロ・フォレストリーなどで、詳しくは読んでいただくしかありませんが、アイデアとしては、海面上昇への対応として英国東岸からバルト海を守るため、英国スコットランド北東端とノルウェイ西岸の間、さらに、英国イングランド南西端のコーンウォールからフランス北西端ノブルターニュの2基にダムを建設する、というNEED計画があるそうです。途方もないプランのような気もしますが、技術的にも予算的にも可能で、海面上昇による沿岸部からの撤退よりも安いと主張しています。真偽の程は私にはまったく想像もつきません。ただ、他方で誤適応の可能性も排除できません。本書では、海面上昇に対してコンクリート堤防よりも砂丘の方が効果的である可能性を指摘していますが、行政にも一般国民にもなかなか理解が進まないのではないか、と私は恐れています。本書でも指摘していますが、経済的な誤適応を防止する方策のひとつとして、経済社会の不平等の軽減を促す必要は特筆すべきと考えるべきです。加えて、自然界ですでに適応が始まっている可能性についても本書では指摘しています。自然界の適応には3種類あって、種の移動、種の小型化、生物気候学の変化を上げています。最初の2つは理解しやすい一方で、最後の生物気候学の変化とは、開花や巣作りの時期の変更などの生物学的事象のタイミングの変化を指します。人類はホモ・サピエンスとしてアフリカに発生してから移動を繰り返しているわけで、大移動もひとつの選択肢ということになります。そういった対応をするとしても、現在の文明が生き残れるかどうか、私には何とも予測できません。気候変動対策に失敗し、さらに本書でいう適応にも失敗すると、現在の文明社会が崩壊する可能性が決して無視できません。

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次に、赤川学[編]『猫社会学、はじめます』(筑摩書房)を読みました。編者は、東京大学の社会学研究者です。本書で指摘されているように、2017年のペットフード協会による「全国犬猫飼育実態調査」において飼育頭数ベースで猫が犬を上回りました。2023年調査では、犬が6,844千頭、猫が9,069千頭と差が広がっています。そして、編者や各章の著者は、いうまでもなく、大の猫好きだったりします。ペットロスの体験談も含まれていたりします。まず、猫が犬よりもペットとして飼われる頭数が多くなったのは、当然ながら、お手軽だからです。大きさとしては、犬種は色々あるものの、大雑把に犬よりも猫の方が小さく、それだけに餌代なども負担が小さそうな気がします。猫は犬と違って散歩に連れ出す必要はありませんし、狂犬病の予防接種も不要です。日本ではもう狂犬病というのはほとんど身近なイメージがなくなりましたが、アジアではまだまだ撲滅されたわけではありません。我が家は20年以上も前に子供たちが幼稚園に入るかどうかというタイミングでインドネシアの首都ジャカルタに3年間住んでいましたが、ご当地ではまだ狂犬病は残っており、狂犬病というのは噛まれたら直ちにワクチン接種しないと、病気を発症してからでは致死率100%ですから、とてもリスクの高い病気です。我が家はノホホンとしていましたが、一戸建ての社宅住まいのご家族なんかでは狂犬病のワクチンがどの病院で接種できるか、なんてリストを冷蔵庫に貼っている知り合いがいたりしました。それはともかく、そのうえ、本書で示されているように、犬と猫では出会い方も大きく異なります。犬の場合はペットショップでの購入が50%を超えるのに対して、猫は20%には達せず、野良猫を拾った32%や友人/知人からもらった26%の方が多かったりします。何といっても、猫の魅力は決して人に媚びることなく、一定の距離をおいて人に接する孤高の存在せある点だと私は考えています。加えて、本書でも指摘しているように、姿形が美しい、というか、可愛いのも大きな魅力です。本書ではこういった猫の魅力に加えて、さらに、社会学的な分析も提供しています。すなわち、猫カフェ、猫島、また、マンガの「サザエさん」における猫の役割、などなどです。最後に、私も京都の親元に住んでいたころ、およそものごころついたころから、大学を卒業して東京に働きに出るまで、ほぼほぼ常に猫が我が家にいました。ですから、私は猫のノミ取りが出来たりするのですが、今は外には出さない家飼いでノミなんかいないし、また、特に雌猫の場合は去勢されているケースも少なくありません。私は猫については野生というわけではないものの、自由に振る舞うことが大きな魅力のひとつになっているので、こういった家飼いで外に出さない、あるいは、生殖能力を処理するのが、ホントに猫のためになっているのかどうかについては、やや疑問に感じています。我が国の住宅事情をはじめとする猫の飼育事情を考えると、こういった飼い方も十分考えられるのですが、私には何が猫のためなのかよく判りません。ミルは『自由論』でトピアリーとして刈り込まれた庭木についてとても否定的な見方を示していますが、猫を外に出さずに家飼いする現在の飼い方については、それと同じような見方をする人もいそうな気がします。

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次に、石川九楊『ひらがなの世界』(岩波新書)を読みました。著者は、私よりも一回りくらい年長なのですが、京都大学OBという意味で先輩であり、もちろん、書家としても有名です。ただ、私はこの著者の書道作品、本書各章の扉にいくつか示されているような著者の書道作品については、それほど好きではありません。というのも、私が学んだ先生によれば書道作品は字として読めなければならない、というのが持論でした。例えば、「大」と「犬」と「太」は天のあるなし、あるいは、どこに点を打つかで字としては異なる字を表します。その違いが読み取れなければ書道作品ではない、という主張でした。でも、私は悲しくもそれほど上達せず、基本、楷書ばかりを練習して、行書を少しやっただけでした。草書やかなに手が届くまでの力量はまったくありません。ということで、本書ではひらがな=女手の世界を解説しています。万葉文字から始まって、ひらがなが成立・普及し、1字1字独立して書く楷書と違って、ひらがなは続けて書く連綿という手法が主になります。そして、本書で指摘されているように、一般にはそれほど知られていませんが、掛詞の前に掛筆や掛字があり、字が抜けていたりします。ですので、ひらがなについては書く前にまず読む訓練をする場合も少なくありません。私は、200ページあまりのこれくらいのボリュームの新書であれば、それほど時間をかけずに読み飛ばすことも少なくないのですが、本書の第2章からはとても時間をかけました。悲しくも、書くことはおろか、ひらがなを読む訓練すら受けておらず、著者のご指摘通りにひらがなを読むことから始めましたので、そのために普段と違ってとても時間をかけた読書になりました。逆に、ひらがなをはじめとする図版をとてもたくさん収録しており、それを著者の解説とともに鑑賞するだけでも、私のような人間は幸福を感じたりします。ボリューム、というか、ページ数から考えても、本書の場合は第2章がメインと考えるべきです。そして、その第2章以降の第3章と第4章の歴史的なひらがな作品を鑑賞できるのは、本書の大きなオススメのポイントといえます。書道、特に、ひらがなに興味ある多くの方にオススメします。

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