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2024年10月26日 (土)

今週の読書は経済書や新書も読んで計8冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
今年の新刊書読書は1~9月に238冊を読んでレビューし、10月に入って先週までに計19冊をポストし、合わせて257冊、本日の8冊も入れて265冊となります。ひょっとしたら、年間300冊に達するペースかもしれません。新書の積読が多くなったので、今週はがんばって4冊読んだものの、さらに借りたり、買ったり、果てはご寄贈もあって、なかなか新書の積読が減ってくれません。なお、Facebookやmixi、あるいは、経済書についてはAmazonのブックレビューなどでシェアする予定です。
それから、今週は佐滝剛弘『それでも、自転車に乗りますか』(祥伝社新書)と志駕晃『スマホを落としただけなのに』(宝島社文庫)も読んでいて、すでにFacebookやmixiにレビューをポストしているのですが、新刊ではないと考えられますので本日の読書感想文には含めていません。

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まず、山森亮『忘れられたアダム・スミス』(勁草書房)を読みました。著者は、同志社大学の研究者です。ご卒業の学部は京都大学経済学部のOBですので、私の後輩ということになります。それはともかく、本書では、通常の主流派経済学では欲求に基づく需要しか考えないところ、その欲求とは少し区別される必要について議論しています。すなわち、経済学、特に、マイクロな経済学は選好に基づく選択と市場における交換などについて考えるのですが、実は、選択しても交換できないケースがあります。すなわち、貨幣による購買力の裏付けがないケースです。欲求があっても市場における需要につながらないわけです。しかし、市場における需要には結実しないとしても、実際に必要な場合が少なくありません。どうしても必要な財、例えば生存に必要不可欠な財であるにもかかわらず、購買力がないため交換・入手出来ないケースについては、現在の福祉国家では政府が手当することになります。ただ、そういった社会福祉ではなく、本書では必要についていくつかの分類をしつつ、タイトル通りに、アダム・スミスに立ち返って議論を展開しています。ただし、決して衒学的ではないとしても経済学というよりは、かなり哲学的な議論となっています。まあ、よく解釈すれば経済学の基礎をなすべき哲学、ないし、政治経済学、ということになるのかもしれません。ただ、平等や不平等、さらに、貧困を考える際にはとても重要な論点であることは間違いありません。ということで、まず、必要について本書では3種類にカテゴライズしています。主観的必要と客観的必要、さらに、間主観的必要です。主観的必要に基づいて購買力があれば、市場における需要となる可能性が高くなります。当然です。そして、客観的必要性が高いにもかかわらず購買力の裏付けなければ社会福祉で調達される必要あることはすでに論じました。そして、主観的でもなく客観的でもない間主観的必要とは、ざっくりいえば、社会的な必要性ということになります。例えば、衣類について考えると、生存に不可欠な衣類については、当然に、それなりに社会的な合意あります。少なくとも防寒のために必要な衣類というものは想像されますが、逆に、夏の暑い季節の京都で衣類なしで外出するのは社会的に考えて適当ではないと、本書では指摘しています。はい、その通りです。そういった社会的に必要な間主観的な必要について、本書では大きなテーマのひとつとして論じています。単に、アダム・スミス的な古典派経済学の見地からだけではなく、メンガーの「真の需求」や「想像財」に基づく真の必要を、市場が把握する必要と主体が認識する必要に加えた3カテゴリーの議論、ポランニーらによる世代を超えて持続可能な開発の議論、さらに、貧困や不平等の視点ではケイパビリティ理論を主張したセン、あるいは、センをミニマリストとして批判したタウンゼントの議論、などなどに加えて、フェミニスト経済学の視点も提供しています。私はすべてを理解したとはいえないかもしれませんし、詳細は読んでいただくしかありません。ただ、衒学的であると感じたり、ためにする議論であると感じる人もいるかもしれませんし、私のように十分な理解に達しない可能性も否定できません。すべての人にオススメ出来るわけではないかもしれませんが、こういった本をたまに読むのもいいかもしれません。

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次に、山本龍彦『アテンション・エコノミーのジレンマ』(角川書店)を読みました。著者は、慶應義塾大学の研究者です。ただし、というか、何というか、経済学部や商学部といったエコノミストではなく、法学部教授であり、ご専門は憲法だそうです。ですので、本書は経済学ではなく、アテンション・エコノミーにおける表現の自由や自己決定、さらには、民主主義のあり方、それも、AIが本格的に運用されAIの能力が格段に高まった際に民主主義がどうなるか、などについて議論を展開しています。さらに、さらに、で、著者が執筆しているわけではなく、というか、ほぼほぼすべての章が対談の結果を収録しています。ということで、本書では、SNSなどで人々の興味や関心=アテンションを引きつけ、広告収入につなげるビジネスが注目されています。典型的には、Facebookを運営するMETAやGoogleや、といったところが思い浮かびます。このアテンション・エコノミーに対して、本書では第1章から第6章において以下の6つの視点からややネガな、とまではいわないとしても、注意喚起的な議論を展開しています。すなわち、(1) 表現の自由やコミュニケーション、(2) 個人情報保護、(3) 認知のあり方と自己決定、(4) AIによる影響、(5) 民主主義への影響、(6) SNSと依存症、ということになります。表現の自由については、本書では言及ないものの2010年からポスト・トゥルースが注目されていますし、今年2024年の米国大統領選挙でもフェイクニュースが飛び交っているのは広く知られた通りです。ファクト・チェックや対応のあり方も議論されています。ただ、日本で野放し状態であることは大きね懸念のひとつです。個人情報保護については、欧州で「EU一般データ保護規則」(GDPR:General Data Protection Regulation)が決定された一方で、すべてに立遅れている我が国はほぼほぼ何の規制もありません。認知のあり方については、行動経済学や経済心理学などの領域で研究が進んでいますが、今回の総選挙でも、日本国民が何に基づいて投票しているのか、私にはサッパリ理解できていません。残りのAIや民主主義、さらに、依存症についても本書では広範な領域で議論されています。本書の結論は、ほぼほぼ多くの良識ある読者と重なる部分があり、それは、「バランスが重要」という点に尽きます。表現の自由について、ホントに日本のように野放しでファクト・チェックもなされず、フェイクニュースがまかり通るような現状が好ましいとは思いませんが、他方で、かつて猛威をふるったポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)に過剰なくらいに従った表現しか世に出てはならない、とするまで規制を強化、自主規制も含めて規制を強化するのも、それはそれでカギカッコつきながら「危険」な気もします。冒頭の第1章のp.108では、判りやすく、アメリカ=自由放任(レッセフェール)モデルとヨーロッパ=適切関与モデルを対比させています。これは第2章以降にも同じような対比が可能ですし、バランスを考える上で重要な視点であろうと私は受け止めています。ですので、第2章の個人情報保護、あるいは、それ以降の章についても同様です。しかし、そのバランスというのが厄介で、時代により、地域により、社会により、かなり揺れ動くであろうことは軽く想像されます。ただ、米欧を比較した2つのモデルについても、アテンション・エコノミーに対してまったくの自由放任ということはありえません。どちらにせよ、適切関与モデルにならざるを得ないのですが、その関与の大きさを決めるのは、政府エリートではなく、最後は個々人のリテラシー、一般常識に基づいた政府関与、ということにならざるを得ません。リテラシーを高めておかねば、我々一般ピープルはエリートから搾取され放題になりかねません。その意味で、大学教員として大学教育の重要性をひしひしと感じています。最後の最後に、かなり難しい内容です。私もすべてを理解できた自信がありません。間違って読んでいるところがあるかもしれません。でも、オススメです。

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次に、貴志祐介『さかさ星』(角川書店)を読みました。著者は、ホラー小説やSF小説を中心に幅広く活躍する小説家です。いつか書いた記憶があるのですが、京都大学経済学部の私の2年後輩になるのは卒業生名簿で確認しておりますが、たいへんな有名人ですので、私はまったく面識ありません。ということで、この作品は本格的なホラー小説です。しかも、呪物にまつわるホラーです。小説の舞台は、どうも東京近郊のようですが明らかではありません。本書の物語が始まる数日前に一家惨殺があり、その残りの一族を呪い殺さんとする勢力がいる、というストーリーです。完全にオカルトであり、呪物に込められた呪いで一族惨殺を狙う悪者がいるわけです。まったく近代物理学に反しているといえますが、それはそれで怖いお話です。というのも、いろんな呪物についてやたらと詳しい解説がなされます。これを並べるだけでも、怖がる読者がいそうな気がします。ストーリーは、戦国時代から続く名家・福森家の屋敷で数日前に起きた一家惨殺事件が起点となります。その事件では、死体はいずれも人間離れした凄惨な手口で破壊されており、屋敷には何かの儀式を行ったかのような痕跡すら残されていました。福森家と親戚関係にあり、祖母が福森家の出身である中村亮太が主人公で、オカルト系の「底辺ユーチューバー」と称しているのですが、動画を撮影する下心もあって、霊能者の賀茂禮子とともに福森家の屋敷を訪れ、事件の調査を行うことになります。その霊能者によれば、福森家が戦国時代末期から収集していた国宝級の名宝・名品の数々が実は恐るべき呪物であり、一家惨殺事件を引き起こした可能性があるということです。そして、警察の刑事もこの霊能者について認識があるようで、一応、お説を拝聴していたりして、信頼感を高めます。霊能者の説によれば、事件は終結しておらず、一家の生き残りの子供たちにも呪いの魔の手が伸びており、一族皆殺しを企んでいるらしいということになります。その次なる呪いのために、5点の呪物が本書のタイトルである「さかさ星」の形を形成して、非常に強い呪いを形成することになりかねない、ということです。主人公の中村亮太は、自分自身も福森家の末裔の1人であることから標的にされる可能性もあり、もちろん、親戚のいとこたち守るべく奮闘することになります。しかし、霊能者の賀茂禮子に対して、彼女が恨みを持って福森家の一族皆殺しを企む側であると主張する外国人の尼僧が現れ、中村亮太の祖母の姉である大叔母、福森家の大奥さまの信頼を勝ち得て、霊能者の賀茂禮子を追放してしまいます。まあ、本書の中でも「白魔女」と「黒魔女」という言葉が使われていたように記憶していますが、福森家と主人公の中村亮太から見てどちらが味方で、どちらが敵なのか、こんがらがったストーリーになるわけです。そして、数日前の一家惨殺事件の犠牲者の遺体が警察から福森家に戻されて、通夜を営む日の夜がクライマックスとなります。もちろん、結末は読んでいただくしかありませんが、角川書店による著者インタビューにしたがえば、本作品は2部作の第1作であり、今回未解決のまま残されている部分は次巻で回収される予定だそうです。最後に、2部作の次巻を別にすれば、少なくない読者は、この作品こそが『黒い家』や『悪の教典』といったホラー、また、『新世界より』で展開されたSF小説と並んで、あるいは頭ひとつ抜きん出て、作者の最高傑作のひとつであると見なすことになるかと思います。でも、私はやっぱりホントに怖いのは人間だと思います。その意味で、この作品よりも『悪の教典』が怖かったです。

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次に、川越敏司『行動経済学の真実』(集英社新書)を読みました。著者は、公立はこだて未来大学の研究者であり、行動経済学会の会長だそうです。こういう学会があるだろうというのはほのかに想像できますが、はい、申し訳ないながら公立はこだて未来大学という大学名は初めて聞きました。それはともかく、本書冒頭でも指摘しているように、行動経済学についてはさまざまな議論がなされています。すなわち、保険や金融などのビジネスに実際に活用されていますし、カーネマン教授やセイラー教授がノーベル経済学賞を授賞されたりしています。他方で、「行動経済学の死」The death of behavioral economics というサイトでいくつかの否定的な事実が指摘されて、行動経済学に対する否定的な見方、あるいは、少なくとも強い疑問が噴き出しているのも事実です。本書でも認めているように、行動経済学に対する批判は、大きく2点があり、(1) 再現性に欠ける、(2) ナッジの影響力はかなり小さい、ということになります。私は、特に前者の再現性に欠けることに関しては、ポパー的な反証可能性の観点から、科学としては致命的だと考えています。本書では、ツベルスキー-カーネマンのプロスペクト理論に対して、参照点をシフトさせることによりいかなる結論も導出可能、という批判に関しては反論を試みていますが、それ以外については、ちょっとどうかな、という印象です。私から行動経済学に関する批判を2点付け加えておくと、ひとつは、再現性の確保に重大な欠陥があるという点で、これはすでに指摘しました。すなわち、社会的、あるいは、時代的なコンテキストにより結果が異なることです。それは一部には人々の持つ合理性が限定的であることに起因します。例えば、厳密な科学では塩酸と水酸化ナトリウムを適量混ぜ合わせれば食塩水になります。Cl+Na=NaCl なわけです。中学レベルの化学だろうと思います。100年前にやっても、今やっても同じ結果が得られますし、日本でやっても、アフリカやその他の地域でやっても結果は同じです。当然です。しかし、どうしても、地理的な限界や時代背景により、行動経済学で観測される選択の結果が大きく異なるケースがありえます。でもまあ、社会科学のひとつの分野として地理や時代により社会が異なる、といえば許容されそうな気もします。しかし、もうひとつの難点は決定的だと私は考えます。すなわち、研究費をタップリと得られれば、決して、データを捏造せずとも、目的に応じたどのようなデータも得られる可能性があることです。もっといえば、行動経済学の分析目的で独自データを得ようとすれば、研究費を確保する必要がありますが、制度設計を研究費の提供者に有利なように取り計らうことができる可能性が極めて高い、ということです。特に、議論がまとまっていないトピックについては制度設計でかなり自由な結論を誘導できるといっても過言ではないような気がします。まあ、行動経済学ではありませんが、例えば、死刑制度の賛否について考えてみると、アムネスティ・インターナショナルがアンケートを設計すれば死刑反対が多数を占める結果を得るのはそう難しくないだろうと思いますし、逆に、犯罪被害者の会なんかが制度設計をすれば死刑賛成の結果を得られるような制度設計が可能だという気がします。最後に、これは私の下衆の勘繰りながら、現時点で、それなりの、いわば「流行りの分野」ですので、質に問題ある論文も多そうな気がします。ですので、私は行動経済学の論文については眉に唾して読むようにしています。

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次に、佐滝剛弘『観光消滅』(中公新書ラクレ)を読みました。著者は、城西国際大学観光学部の研究者です。誠に申し訳ないながら、初めてお聞きする大学名でした。その昔のバブル経済全盛のころに、明海大学に不動産学部というのが設置されましたが、インバウンドが再び盛り上がりを見せて、こういう学部で学ぶ学生も少なくないんだろうと考えています。ただ、タイトルから明らかな通り、本書は観光、観光立国、インバウンド消費など関して少なからず懐疑的な見方を提供しています。本書は3部構成であり、第1部 崩壊、第2部 消滅、第3部 未来、と題されています。まず、冒頭はお決まり、というかお約束のオーバーツーリズムから始まります。まあ、そうなんでしょうね。私は京都を当然ながら定期的に訪れますが、東山通の特に五条坂辺りから四条通りの祇園まで、歩道から歩行者があふれて車道を自転車で走る私すら身の危険を感じる時があります。市バスは外国人観光客でいっぱいです。錦通りは高額の立食い串刺しが大量に売られています。日本で人口が減少していくという意味は、鉄道やバスといった交通機関で働く人、あるいは、お祭りなどの伝統行事などの担い手が減少していくということなのですが、他方で、外国人観光客が現在の勢いで増加しても、国内で提供できるサービスが維持できるかどうか、不安に考える日本人は私だけではないと思います。加えて、国内価格の上昇がインバウンドによってもたらされている可能性もあります。京都の河原町あたりには、私の大学時代化に比べてやたらとドラッグストアが出来ていて、現時点でそこで売られている日用品などの価格が大きく上がっている印象はありませんが、本書で指摘しているように、1泊5万を超える高級ホテルに出張者が気軽に泊まれるハズもありません。京都の出身であり、国際観光都市の代表である京都を身近に感じているだけに、私自身の不安も大きいものがあります。第2部では、気候変動の影響も取り上げられています。例えば、桜の開花予想のズレがビジネス・チャンスを逃す原因になったり、線状降水帯やJPCZ(日本海寒帯気団収束帯)などの影響が観光に及ばないハズもありません。第3部では、政策動向にも目が配られています。すなわち、新型コロナウィスル感染症(COVID-19)パンデミックによるダメージがとりわけ大きかった観光業界を支援するとはいえ、「Go to Travel」や「全国旅行支援」などの政策がどこまで経済効果があったのか疑問視し、また、こういった観光業支援策は別のサービスからの代替を促しただけで終わった可能性にも言及しています。世界遺産についても疑問が残り、どこまで観光への影響を考えるべきか、あるいは、国内の文化活動との関係をもっと重視すべきではないか、という疑問ももっともだと私は受け止めています。いずれにせよ、私が今世紀に入ってからの経済政策、もちろん、一部の経済政策に関する疑問は、特に郵政民営化以降で日本を切り売りするような政策が取られているのではないか、というおそれです。観光に立脚したホテル建設などに限らず、水道事業の民営化と対外開放などが典型です。そして、日本経済が先進国のステータスを失って途上国化するにつれて、観光に関しては、かつて日本がアジアのいくつかの国に対して「買春ツアー」をやっていた、あるいは、今もやっている(?)点については、本書ではまったく言及ありませんが、決して、忘れるべきではないと思います。

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次に、松本創[編著]『大阪・関西万博「失敗」の本質』(ちくま新書)を読みました。編著者は、ジャーナリストです。神戸新聞の記者を経て、現在はフリーランスのライターだそうです。本書は編著者も含めて5人の著者が執筆する5章から構成されて、5つの視点を提供しています。政治、建築、メディア、経済、そして、都市となります。もちろん、タイトルから明快な通り、来年2025年開催予定の大阪・関西万博に対して大いに批判的な視点を提供しています。第1に、大阪維新の会による府政と市政のマネジメントの不適切性です。開催地の夢洲が、そもそも、大阪維新の会の主張のように、維新以前の府政・市政の「負の遺産」であるかどうかから検証し、地震などの自然災害時の避難や液状化のおそれなどに対するリスク管理にも批判の目が向けられています。第2に、建設の視点から、万博の華であるパビリオン建設の遅れ、あるいは、いくつかの外国のパビリオン建設からの撤退、工事期間だけではなく万博開催中におけるメタンガス爆発の危険、木造リング建設がパーツ・パーツで進められる非効率などの批判的視点が提供されています。第3に、東京オリンピックにおける不正事件により電通が運営に参加できないリスクが指摘されています。吉本興業の運営に対する不安感も同じことかもしれません。さらに、決定的に万博のイメージを低下させている万博後のカジノ=IRへの移行に対して、特に、読売新聞などの批判にも言及しています。第4に、経済効果への疑問です。短期的な工事などの事業規模だけでは測れない長期的なレガシー効果については公益性の観点で決まると主張し、カジノに公益性あるかどうかを疑問視しています。ただ、大阪都構想を2度に渡って否定した大阪の有権者の合理性も同時に評価しています。第5に、最後に、大昔の第5回内国博覧会からの歴史を説き起こし、万博の先にあるカジノ=IRまでを見通した総括がなされています。私はほぼほぼ本書の視点に賛成です。現時点でも、パビリオン建設が進まず、前売り券販売が伸びず、それでも建設費の膨張を抑えられず、といった万博運営のネガな情報ばかりが報道され、国民、あるいは、地域住民の関心がサッパリ盛り上がっていないことを私自身は実感しています。私自身も、COVID-19パンデミック下の東京オリンピック・パラリンピックにも批判的でしたが、この万博にはさらに強い嫌悪感に近い気持ちを持っていて、ほぼほぼ万博には関心なく、たぶん、行かないと思いますし、万博後のカジノ=IRは、たとえ、命長らえていたとしても、絶対に行くつもりはありません。何度か似たような主張をしてきたつもりですが、権力者が決めれば下々が従わなければならない、という不平等を正して、ホントの民主主義を実現し、国民や地域住民の声が反映されるような行政を実現せねばなりません。そうでないと、こういった万博のような権力者の好む無理難題がまかり通ることになってしまいます。

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次に、小川寛大『池田大作と創価学会』(文春新書)を読みました。著者は、何と申しましょうかで、宗教ジャーナリストといえるんではないかと思います。いくつかの宗教メディアの記者などを経て、現在、宗教専門誌「宗教問題」編集長を務めています。ということで、私も大学の同僚などとウワサ話をしていた経験があるのですが、創価学会に長らく君臨した池田大作名誉会長はまだご存命なのだろうか、という疑問がありました。そして、その疑問が解明されたのが、昨年2023年11月15日に95歳で亡くなったというニュースでした。逆にいえば、そこまでご存命だったわけです。本書では、この点に関して、とても肯定的に考えています。すなわち、素晴らしく集団指導体制が機能している結果、カリスマと称されつつも、池田大作名誉会長が実質的に不在でも創価学会の盤石の体制には揺るぎがなかった、という評価です。多分、そうなんだろうと私も合意します。そして、池田大作名誉会長の創価学会におけるカリスマ性は、何かの宗教的な奇跡を行ったとか、神秘性高いパワーがあるとかではなく、AKB48的な身近で行けば会ってくれる親しさだと分析しています。私は創価学会の会員ではありませんので、この点は何ともいえません。会ってくれる身近な指導者がいいのか、雲の上の尊い存在がいいのか、何とも判断しかねますが、本書の評価はそうなっています。そして、本書のハイライトは公明党という政党を結成して政治を志向した、という点にありますが、現在は総選挙中でもあり、軽々に言及することは控えて、この点は読んでいただくしかありません。私から2点だけ実体験を基に付け加えると、まず第1に、私の子供のころの記憶として、本書でも指摘していますが、いわゆる「折伏」の攻撃性や激しさを嫌悪したことを覚えています。我が家は代々浄土真宗の門徒であり、場合によっては、創価学会サイドから見れば折伏の対象になりかねないのですが、父親が意志堅固で決して浄土真宗から離れることはありませんでした。攻撃的な折伏とともに、大きな声で朝夕に太鼓のようなものを叩きながら「南無妙法蓮華経」の唱題を実践しているのも、決して好きにはなれませんでした。でも、第2に、海外の大使館に赴任していた際に、当時の創価学会インターナショナル会長として池田大作名誉会長のご来訪を仰いだことがあります。どういう経緯かすっかり忘れましたが、経済アタッシェであったにもかかわらず、たぶん、文化担当官が不在であったか何かの理由で、私が少しだけ準備会場の手伝いに行くことがあり、「ああ、この人も創価学会の会員だったのか」と意外な人がご来訪準備に携わっていることを知って、創価学会の裾野の広がりを実感した記憶があります。おそらく、現在でも国連に登録されたNGOの最大の団体のひとつだと思います。国内だけではなく、国際的にも影響力ある団体ですし、何といっても、明日投票の総選挙でどう転ぶかは不明なものの現時点で与党の一角を成しています。団体としての創価学会と、長らくカリスマとして君臨した池田大作名誉会長に注目する人も、ともにオススメの本です。

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次に、志駕晃『令和 人間椅子』(文春文庫)を読みました。著者は、ニッポン放送のディレクター、プロデューサーであり、北川景子主演で映画化もされた「スマホを落としただけなのに」シリーズで大ヒットを飛ばした小説家でもあります。タイトルから軽く想像されるように、江戸川乱歩の短編ミステリを令和の現代に移植し、というか、新たに、AIやマッチングアプリなどの現代的な要素を付け加えているとともに、結末もビミョーに変更を加えていたりする6話の短編が収録されています。順に、まず、タイトル作の「令和 人間椅子」では、大学在学中に作家デビューした美子が主人公であり、突然送られてきた原稿はAIが搭載されたマッサージチェアが書いたということなのですが、本人とと担当編集者しか知らない重大な秘密が暴露されていたりしました。「令和 屋根裏の散歩者」では、違法すれすれのハッキングで大金を得た二郎が主人公で、その大金で大家になったマンションの下の部屋に越してきた女子大生に恋をしてしまいます。「令和 人でなしの恋」では、主人公の女性がマッチングアプリで知り合って結婚した昌彦は理想的な夫と見えましたが、時折、妻の目を盗んで出かけていることが気にかかります。「令和 赤い部屋」では、参加者は服も背景も赤一色という、ある意味で、異様なオンラインサロンの参加者は全員がサイバー犯罪の首謀者たちでした。「令和 一人二役」では、劇団に所属する女優の卵・小夜子が主人公で、マッチングアプリでいろいろな女性に成りすますアルバイトで食いつないでいます。「令和 陰獣」はメタな構成で、「令和 人間椅子」のファンという女性から、作者である主人公のもとに熱烈なファンレターが送られてきます。実は、私はこの短編集に収録されている江戸川乱歩の原作、というか、元の作品をすべて読んでいるわけではありませんし、中には記憶が不確かなものもあったりするのですが、もちろん、江戸川乱歩の元の作品をじっくりと読み込んでいる読者の方が楽しめるのは当然ながら、たとえ十分読みこなしていなくても、かなりいい線いっていて楽しめるのではないかと思います。いかにも、元の江戸川乱歩作品の雰囲気を受け継いで、何ともいえない不気味な雰囲気を醸し出している作品ばかりです。

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