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2024年12月14日 (土)

今週の読書は経済書や専門書をはじめ計7冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、ティモシー・べズリー『良い政府の政治経済学』(慶應義塾大学出版会)では、プリンシパル-エージェント関係モデルに基づき、どのようにして国民が政治家を通じて望ましい政策を決定し、実行させるを考えています。『米国経済白書2024』(蒼天社出版)では、バイデン-ハリス政権下での2023年の米国経済を回顧するとともに、2024年の見通しを分析しています。日本体育・スポーツ経営学会[編]『スポーツ観戦を科学する』(大修館書店)では、見るスポーツを科学的に分析しています。リチャード J. ジョンソン『肥満の科学』(NHK出版)では、人間がなぜ太るのかについて、文化的な要因ではなく、生物学的な要因を考えています。柚木麻子『あいにくあんたのためじゃない』(新潮社)は、直木賞候補作にも上げられた短編集です。藤崎翔『お梅は呪いたい』(祥伝社文庫)は、現代によみがえった500年前の呪いの人形をコミカルに描いています。J. D. サリンジャー『このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる/ハプワース16、1924年』(新潮文庫)は『ライ麦畑でつかまえて』の主人公などに関係する短編やグラース家の長兄であるシーモアの7歳のころの手紙を基にした短編を収録しています。
今年の新刊書読書は1~11月に299冊を読んでレビューし、12月に入って先週は6冊をポストし、今週も7冊で合わせて312冊となります。Facebookやmixi、あるいは、経済書についてはAmazonのブックレビューなどでシェアする予定です。

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まず、ティモシー・べズリー『良い政府の政治経済学』(慶應義塾大学出版会)を読みました。著者は、英国ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの教授、及び、W. アーサー・ルイス開発経済学教授を務めていて、2018年にSir の称号を授与されています。本書はスウェーデンのウプサラ大学におけるリンダール・レクチャーに基づいており、英語の原題は Principled Agents? となっています。2006年の出版です。英語のタイトルから容易に想像されるように、国民と政府の関係をプリンシパル-エージェント関係としてマイクロな政治的エージェンシー・モデルに基づいて考えようと試みています。なお、基準モデルには逆選択とモラルハザードが組み込まれています。本書によれば、主権者たる国民が選挙を通じて望ましい政策を実現する政治家を選び、その上で、どう政策を実行させるのか、という民主主義の基本問題の理論モデルは政治学においては存在しなかった、ということらしく、経済学ないし経営学のエージェンシー・モデルを用いた政治経済学を展開しています。ただ、私の理解では、このエージェンシー・モデルは本書で用いるとすれば、二重の入れ子構造(?)あるいは連続的な構造になる可能性があります。すなわち、主権者たる国民と政治家の間の関係、そして、政治家と実務を担う官僚との関係です。ただ、日本に限らず現実にはもっと複雑な部分があり、国民が政治家を選び、政治家が官僚に命令する、までは本書と同じなのですが、日本的な三すくみの構造では、官僚が国民に対して規制や命令で何らかの支配を行ったり、あるいは、補助金などで誘導したりといった関係があります。三すくみとなってしまうわけです。まあ、それは別としても、本書では、米国大統領制のように多選が禁止された場合にレームダックになって、次回選挙には出馬できないケースの考察なんかは、日本ではそういった制度はないものの、私自身はかなり強い興味を持って考えられたという気がします。また、第2章の政府の失敗についても、もちろん、経済学的な市場の失敗になぞらえて分析を進めており、私が政府の中から官邸スタッフとして見ていた範囲でも、第1次安倍政権から1年おきに自公連立政権の内閣が辞職した上に、民主党に政権交代した際の出来事なんかは、この第2章の政府の失敗に当たる気がします。本書巻末の解説では、2022年の保守党トラス内閣が大減税政策を打ち出して、わずか2か月足らずで退陣した例を政策の連鎖=policy linkage による政府の失敗の一例と指摘しています。第3章のアカウンタビリティ、第4章の財政などもマイクロな分析として的確になされていると私は受け止めています。そのあたりは読んでみてのお楽しみです。

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次に、『米国経済白書2024』(蒼天社出版)を読みました。著者は、米国大統領経済指紋委員会であり、英語の原題は The 2024 Economic Report of the President となっていて、pdfの英文リポートが米国大統領府のサイトからダウンロードできます。今年2024年の「白書」は7章構成となっていて、完全雇用、2023年の経済回顧と2024年の見通し、人口の高齢化、住宅、国際貿易・投資、クリーンエネルギー、AIの経済学、となっています。実は、私の勤務大学である立命館大学の大橋先生が邦訳のスタッフであり、学生向けの解説セミナーに私も出席して、邦訳者からのご報告を受けて、私からもいくつか質問をした中で、「ホントにそんなことが書かれているのか」といった質問をしたところ、大橋先生から「自分で読め」という趣旨なんだろうと思いますが、1冊ちょうだいいたしましたので、読んでみた次第です。いちおう、言い訳しておくと、大昔の1989年に当時勤務していた経済企画庁で「平成元年版 世界経済白書」の米国経済を私は執筆していますので、35年前の霞が関という狭い範囲では、それなりに米国経済に関する専門性があったのだろうと推測されて然るべき、と思います。ということで、簡単に本書について見ておくと、第1章の雇用、特に完全雇用の利益については、現在の日本的、というか、リフレ派でいうところの「高圧経済」についての利益と同じと考えられます。何度も繰り返しますが、雇用の流動性という意味が、完全雇用≅高圧経済においてはデフレ経済における意味とはまったく違ってきます。現在の日本における雇用の流動性とは、使用者サイドで自由に、とまではいわないにしても、低コストで労働者の解雇が出来る、ということを意味します。他方で、完全雇用≅高圧経済においては、労働者のサイドで自分のスキルに見合った職に、あるいは、条件のよい職に移動できることを意味します。この点が理解されていないのは、私にはとっても不思議です。第3章の高齢化に関して、米国の出生率が2007年の2.12から2022年のは1.67に大きく低下していることは初めて知りました。本章では、移民の役割が強調されています。日本とは少し違うところかという気がします。今まで一般的に、移民は米国における低熟練労働を担う存在と考えられてきましたが、むしろ、起業したりして雇用を創出する存在としても重要性を増している点が強調されています。また、セミナーにおける本章の解説で、「米国人のモビリティは低いが、移民のモビリティは高い」とリポートされたので、私は違和感を覚えて質問しました。ティボー的な「足による投票」、すなわち、住民が自分にとって好ましい行政サービスを提供してくれる地方公共団体の地域に移住するという形で擬似的な投票行為とみなす理論では、米国人は他国に比べて抜群にモビリティが高い、とされているので、大きな違和感を覚えたわけで、「ホントにそんなことが書かれているのか」といった質問をしたわけです。決して、違和感以上の批判をしたつもりはありません。はい、言い訳しておきます。第4章以降の分析は読んでみてのお楽しみです。

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次に、日本体育・スポーツ経営学会[編]『スポーツ観戦を科学する』(大修館書店)を読みました。著者は、要するに、日本に数多くある学会のひとつなんだろうと思いますが、本書巻末のあとがきによれば、1952年に設立された体育管理学会から発展しているそうです。おそらく、私の想像ながら、管理と経営は同じく英語の management なんだろうと思います。ということで、スポーツはする方と見る方の両方の楽しみがあります。基本的に、スポーツも絵画や音楽といった芸術やほかの文化と同じなのでしょうが、スポーツの楽しさは同時体験にあると本書では指摘しています。もちろん、音楽の録音やスポーツの録画などの科学技術の進歩とともに、時間的な同時性は失われていくのでしょうが、絵画や彫刻のように制作過程に重点が置かれない芸術とスポーツの差は歴然としています。もうひとつ、本書ではそれほど強く指摘しているわけではありませんが、スポーツにはデータ分析できる応用範囲が広い点も、ひとによっては魅力に感じるのではないか、と私は考えています。音楽の周波数帯がどうとか、絵画のRGB比を論じる向きがないわけではありませんが、スポーツの各種データの楽しみ、例えば、プロ野球の打者の打率や投手の防御率などとはまったく次元が異なるといわざるをえません。でも、本書のいくつかの章に見られるように、スポーツを見ることを楽しむ領域を超えて、鑑賞能力とか「みる力」、といわれてしまうと、そこまでハードルを高くする意味があるのだろうかという疑問はあります。その昔に『ビッグコミック』に連載されていたマンガの「寄席芸人伝」では、文人墨客だけを重視して地方から来ていた観光客を小馬鹿にする落語家をその師匠が叱り飛ばすのがありましたが、それと同じで、スポーツ一般を庶民的な娯楽の領域を超えて一部のエリートの楽しみにしてしまいかねない危うさを感じるのは私だけではないと思います。もちろん、庶民的なスポーツと一部エリートによる高級スポーツが併存することはあるとしても、スポーツに大きな制約をかけかねない「鑑賞」とか、「みる力調査」なんてものがどこまで必要かは、少し立ち止まって考えるべきだと私は思います。ただ、本書で指摘されているように、オリンピックなどのメガイベントにおけるナショナリスティックなバイアスについては、もっと大きな危うさを私自身は感じていますし、そういったメガイベントに電通などがが商機を見出しているのも疑問を感じます。本書第6章の最後でも、ダイナミック・プライシングによるスポーツ・イベント収益の最大化はいいとしても、経済的な所得階層によるスポーツを見る楽しみ方に大きな差が生じることを疑問視する見方が示されています。スポーツ観戦にまで国民の分断を持ち込むリスクは避けなければなりません。

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次に、リチャード J. ジョンソン『肥満の科学』(NHK出版)を読みました。著者は、米国コロラド大学医学部の教授であり、ご専門はないか、感染症、腎臓病などだそうです。英語の原題は Nature Wants Us to Be Fat であり、2022年の出版です。肥満に関しては食事の西洋化、すなわち、高カロリーの接種という個々人の食欲の問題に帰着させる議論が主だったように私は受け止めていますが、本書では、そういった個々人の欲望や食生活といった社会的あるいは文化的な要因ではなく、生物としての生き延びるための要因、すなわち、本書で名付けられているところのサバイバル・スイッチがオンになっているという生物学的な要因を強調しています。要するに、一言でいえば、人間が生物として太るのは、生き延びるために効率的に果糖=フルクトースから脂肪を生成し、その脂肪を使う際には、これまた、効率的に脂肪燃焼量をケチるように出来ていることが原因と指摘しています。しかし、厄介なことに、食事として果糖=フルクトースを摂取するだけでなく、体内で果糖=フルクトースを生成できる機能も人間にはあったりします。ただ、巷間よくいわれるように、肥満まで行けばともかく、小幅な過体重は脂肪がカロリーのもととなるだけではなく、水分のもととなることなどからかえって健康を維持する可能性も十分あります。もちろん、肥満や大幅な過体重はさまざまな病気になったり、健康を壊したりする原因になることはいうまでもありません。ここまでが第Ⅰ部です。続く第Ⅱ部では、この果糖=フルクトースによってサバイバル・スイッチがオンになると、肥満だけではなく、心身の病気になるリスクが高まることを明らかにしています。すなわち、通風、糖尿病、高血圧などの身体的な病気、依存症や行動障害、さらには、注意欠如・多動症(ADHD)などです。そして、最後の第Ⅲでは、こういった人間を太らせたがる自然を出し抜いて体重を維持したり、さらには体重減少につなげるダイエット法について議論しています。読者によってはこのあたりにメインの関心がある向きも少なくなさそうな気もしますが、このあたりは読んでみてのお楽しみとしておきます。

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次に、柚木麻子『あいにくあんたのためじゃない』(新潮社)を読みました。著者は、もちろん、小説家であり、私は『本屋さんのダイアナ』と『BUTTER』については明確に読んだ記憶がありますが、ひょっとしたら、ほかにも読んでいるかもしれません。本書はかなりよく売れた本ですので、出版社では特設サイトを開設したりしています。以下の6話の短編を収録しています。まず、「めんや 評論家おことわり」では、ラーメン評論のSNSの炎上です。何とミシュランで2ツ星を取ったラーメン店で、ラーメン評論家からその昔に被害にあった関係者が驚くべき行動に出ます。「BAKERY SHOP MIREY'S」では、カフェを開くのが夢といいつつ、まったく、お菓子を焼いたことがない女性に対して、英国留学の経験もある別の女性の顧客が、夢を叶えるべく業務用のオーブンをプレゼントするのですが、果たしてどうなりますことやら。「トリアージ2020」は、「トリアージ」という20年も続く医療テーマの長寿番組の愛好家という関係でSNSによりネットで知り合った女性同士の関係です。片方の女性が40歳になって未婚の母として出産する間際になって、いろんなことが起こります。「パティオ8」では、中庭を共有する集合住宅に暮らす人々に起こるトラブルです。「パティオで子どもを遊ばせてうるさくしても大丈夫」という条件付きのマンションにもかかわらず、難癖をつける101号室の男性にママたちが結託して挑みます。「商店街マダムショップは何故潰れないのか?」では、商店街にある雑貨店で、店長マダムが暇を持て余したりしているお店で、まったく売れていなさそうにもかかわらず、どうして潰れないかの謎です。街を出ていこうとしている女性がそういった店で買物をしてみると、何ともびっくりする展開が待っています。「スター誕生」では、Youtuberとして動画配信を生きがいとしている老人と、落ち目の目立たない元アイドルの中年男性が、ナチュラルでバズったワンオペ育児主婦ことMCワンオペを利用しようとして、驚くべき結末を迎えます。それぞれに理不尽だったり、不自然だったりするさまざまななシチュエーションでの短編を集めています。直木賞候補作なのでしたが、少し統一感に欠ける気がしました。

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次に、藤崎翔『お梅は呪いたい』(祥伝社文庫)を読みました。著者は、今現在でもっとも勢いのあるエンタメ小説家の1人ではないかと思います。私は、たぶん、『神様の裏の顔』から始まって、直近の『逆転美人』や『みんなのヒーロー』などまで、数冊は読んでいると思います。なお、タイトルからして本書の続編であろう『お梅は次こそ呪いたい』もすでに出版されている、あるいは、出版が近いと聞き及んでいます。ということで、タイトルのお梅とは約500年前の戦国時代に作られた日本人形であり、かつて戦国大名を滅亡させた呪いの人形であったりします。見た目としては、まあ、表紙画像に見られるように、少女をモデルにした人形です。木と紙でできています。そのお梅が古民家の解体中に発見され、500年の封印を解かれて現代に出現したわけです。とはいえ、ホラー小説では決してなく、基本コメディと考えるべきです。すなわち、お梅は呪いの人形らしく、現代人を呪い、できれば、呪い殺そうとするのですが、呪は現代人には効かず、瘴気を発してもイヌネコにわずかに「嫌な匂い」と認識されるくらいで、500年前の戦国時代には有効だった手段がことごとく跳ね返されます。お梅が使えるのは、瘴気のほか、憎しみとか妬みなどの人間のネガな感情を増幅させて、激しい対立関係を形成して、例えば、殺し合いに持ち込むことくらいなのですが、逆に作用して人形の持ち主にハッピーな結果をもたらしてしまったりします。例えば、最初の持ち主の底辺ユーチューバーは、お梅が動き回っている画像を収録するのに成功してバズったりします。この冒頭の底辺ユーチューバー以外には、失恋した女性、引きこもり男性、老婆と小学生、老人ホーム入居者となります。持ち主をハッピーにするというストーリーもあれば、社会全体に対するよき効果をもたらしたりする結末もあります。各章は独立した短編としても楽しめますし、連作長編と見ることも出来ます。この作者のコメディ小説はハズレがありません。本書もオススメです。また、私自身も次作の『お梅は次こそ呪いたい』も読みたいと思います。

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次に、J. D. サリンジャー『このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる/ハプワース16、1924年』(新潮文庫)を読みました。作者は米国の小説家であり、『キャッチャー・イン・ザ・ライ (ライ麦畑でつかまえて)』がもっとも有名な作品のひとつであり、もうひとつのグラース家サーガの短編についてもファンが少なくないと思います。邦訳は金原瑞人先生です。ということで、本書は『キャッチャー・イン・ザ・ライ (ライ麦畑でつかまえて)』の前にホールデンを主人公にした、あるいは、関連深い短編6話ほかの短編2話、そして、グラース家の長兄シーモアが7歳の時に家族に宛てて書いた手紙である中編1話「ハプワース16、1924年」を収録しています。まず、前半の短編6話は、繰り返しになりますが、『キャッチャー・イン・ザ・ライ (ライ麦畑でつかまえて)』の前にホールデンを主人公にした、あるいは、関連深い短編です。タイトルだけ羅列すると、収録順に、「マディソン・アヴェニューのはずれでのささいな抵抗」、「ぼくはちょっとおかしい」、「最後の休暇の最後の日」、「フランスにて」、「このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる」、「他人」となります。ホールデンなどと関係ない短編2話は、「若者たち」、「ロイス・タゲットのロングデビュー」、そして、グラース家サーガの分類されるべき中編「ハプワース16、1924年」、計9話で構成されています。そのうち、いくつかかいつまんで取り上げます。冒頭の2話はクリスマス休暇でニューヨークに戻ったホールデンを主人公にしています。それ以降の6話はジョン F. グラッドウォラー2等軍曹、愛称ベイブまたはホールデンの兄のヴィンセントが主人公となります。「最後の休暇の最後の日」では、休暇で帰宅しているベイブをホールデンの兄のヴィンセント・コールフィールドが訪ねてきます。「フランスにて」では、ベイブはフランスでドイツ軍と戦っています。「このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる」の主人公はヴィンセントであり、ジョージアで慰問イベントのダンスパーティーに連れて行く兵隊を選ぶお話です。「他人」は除隊したベイブが妹を連れて外出し、ヴィンセントの恋人の家を訪ねます。ヴィンセントはヒュルトゲンの森で戦死しています。ホールデンや兄のヴィンセントなどとは関係ない短編2話「若者たち」と「ロイス・タゲットのロングデビュー」の後、最後の中編「ハプワース16、1924年」は、これも繰り返しになりますが、グラース家の長兄シーモアが7歳の時に家族に宛てて書いた手紙です。ただ、その手紙を紹介しているのは次兄のバディです。そして、小説の時点でバディは40代半ばとなっていて、昔を振り返る形を取っています。タイトルに入っているハプワースというのはキャンプ場のことで、シーモアとバディがキャンプに参加しています。そのキャンプ場からシーモアが手紙を書いているわけです。恐ろしく難解で、とても7歳の子どもが書いているとは思えない手紙です。その意味も含めて、公刊当時の評価はかなり低かったといわれています。なお、サリンジャーはこの作品を1965年に公表した後、一切の作品公表を止めてしまいます。すなわち、これが最後に発表されたサリンジャーの作品となります。最後に、さすがに、金原先生の手になることもあって、邦訳文章が素晴らしく読みやすく仕上がっています。私のようなサリンジャーの小説のファンであれば読んでおくべきだという気がします。

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