今週の読書はいろいろ読んで計6冊
今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、ヨハン・ノルベリ『資本主義が人類最高の発明である』(NewsPicksパブリッシング)は、ほぼ無条件に現時点の資本主義がベストであるというパングロシアンな見方を提供しています。今井むつみ『「何回説明しても伝わらない」はなぜ起こるのか?』(日経BP)では、主としてビジネスの場でのコミュニケーションを対象として、いかに相手に伝えるか、さらに進んで、いかに相手から自分に伝えさせるか、について考えています。万城目学『六月のぶりぶりぎっちょう』(文藝春秋)は、直木賞を受賞した『八月の御所グラウンド』と同じテイスト、シリーズの直木賞受賞後第1作であり、本能寺の変を現代に引き直した解釈を試みています。結城真一郎『難問の多い料理店』(集英社)では、六本木にあるビルの3階のゴースト・レストランが舞台で、そのオーナーが風変わりな注文を受けて配達員を使って調査して謎解きを試みます。小谷賢『教養としてのインテリジェンス』(日経ビジネス文庫)は、そもそもインテリジェンスとは何なのか、そして、世界各国のインテリジェンス活動を概観し、最後の章でインテリジェンスの歴史を後付けています。山本文緒『無人島のふたり』(新潮文庫)は、直木賞作家がステージ4bの膵臓がんによる余命告知を受けてから亡くなる直前までの日記です。
今年の新刊書読書は年が明けて先週までに10冊を読んでレビューし、本日の6冊も合わせて16冊となります。なお、Facebookやmixi、あるいは、経済書についてはAmazonのブックレビューなどでシェアする予定です。加えて、有栖川有栖『こうして誰もいなくなった』(角川書店)も読んでいて、Facebookなどでレビューしていますが、新刊書ではないので本日の読書感想文には含めていません。
まず、ヨハン・ノルベリ『資本主義が人類最高の発明である』(NewsPicksパブリッシング)を読みました。著者は、スウェーデン生まれの歴史学者であり、米国のやや保守的なケイトー研究所のシニアフェローを務めています。本書は、まあ、単純化していえば資本主義礼賛の書なのですが、ほぼ無条件に現時点の資本主義がベストであるというパングロシアンな見方を提供しています。通常、左派リベラルは資本主義の欠陥を指摘し、資本主義に対して別の改良的な方向、例えば、社会主義や社会民主主義の色濃い福祉制度とか、を持ち込もうとするのに対して、本書は現時点での問題は逆に資本主義が徹底されていない点、特に、自由がまだ十分「足りていない」点に求めます。ですので、各章において、脱成長、トップ1%の富裕層への富と所得の集中、それに基づく格差の弊害、などなどを全面否定し、著者本人はそういった左派リベラルな議論を論破しているように感じているのだろうと思います。エコノミストとしての私の観点から、特に目を引いたのはマッツカート教授らの政府のプロジェクトベースの産業政策や経済成長に対する批判が強烈であるのの対して、縁故資本主義=クローニー・キャピタリズムに対する態度がイマイチ不明でした。日本でも安倍政権時のいわゆる「一強」時代に、お友達に有利に取り計らう縁故主義が広がりました。私なんぞから見たら、こういった縁故主義は自由をタップリ必要とする資本主義に大いに反しているように見えており、したがって、本書で称賛しているタイプの資本主義とは違うと考えるべきです。いずれにせよ、マイクロな経済では、市場における自由な価格形成に基づく資源配分がもっとも効率的であって、厚生経済学の定理を満たすわけですが、ケインズ卿が指摘したように、所得と富の配分には不十分な可能性があり、さらに、非自発的な失業を防ぐことが出来ません。ですので、所有権の確立とかの単なるルールの設定だけではなく、経済社会の厚生向上のための役割を政府が担う、そして、その政府の役割は時とともに拡大している、というのは歴史的に現実として観察される流れであろうかという気はします。加えて、資本主義における取引はすべての参加主体が平等であって、情報その他の格差ないことを前提にしていますが、世の中はそれほどモデル通りではありません。その意味で、やや現実離れした議論が展開されている、と感じた読者も決して少なくないと思います。最後に、私がとても強烈に疑問に感じたのは、歴史家が書いた本にしては、資本主義の先についてのビジョンが本書では欠けている点です。歴史的にいろんな発展段階を経て現在の資本主義が存在することは明らかなのですが、その資本主義の先に何があるかを考えようとしないのは知的な怠慢であろうという気がします。
次に、今井むつみ『「何回説明しても伝わらない」はなぜ起こるのか?』(日経BP)を読みました。著者は、慶應義塾大学環境情報学部教授であり、ご専門は認知科学、言語心理学、発達心理学だそうです。本書では、主としてビジネスの場でのコミュニケーションを対象として、いかに相手に伝えるか、さらに進んで、いかに相手から自分に伝えさせるか、について考えています。冒頭にある「話せばわかる」というのは、5.15事件の際の犬養総理大臣の言葉として有名ですが、残念ながら本書ではそういった言及はありません。それはともかく、本書では、うまく伝わらない場合、伝え方を工夫したり、説明を換えたり、何度も繰り返したりしてもうまく伝わらない、と指摘します。どうしてかというと、それぞれの人が独自の「知識や思考の枠組み(スキーマ)」を持っているためであり、話した内容がそのまま脳にインプットされるわけではなく、このスキーマに沿った個々人の解釈がなされている可能性があるから、ということだそうです。加えて、インプットされた後でも人間の記憶とはあやふやなもので、忘れることはもちろんとしても、記憶が書き換えられることも少なくないといいます。人間の記憶容量はわずかに1GBというエピソードも本書に入っています。もちろん、インプットの際の認知バイアスはいっぱいあって、情報を受け取る際にすでにバイアスがかかっている上に、さらに記憶している間にますます情報が本来のものから離れていく可能性すらあるわけです。ですので、本書の後半の章、特に4章では、「コミュニケーションの達人」の特徴をいくつか上げて、伝える、あるいは知識を共有する方法について論じています。そのあたりは読んでみてのお楽しみですが、心の論理やメタ認知がキーワードとなります。また、コチラからアチラへ伝えるだけでなく、聞く耳を持つ、というのは重要な指摘だった気がします。ということで、最後に私の感想です。私は教師ですから学生諸君に知識や何やを伝えるのが職業です。役所に勤める公務員であった当時でも、エコノミストのひとつの重要な役割は伝えることです。総務省統計局の課長職にあったころには毎月の統計公表時に記者発表をしていたりしました。記者発表とか、大学の授業とかは、そもそも、聞く側で十分意識を高めて知識や情報を吸収する意欲に満ち溢れています。当然です。私は記者発表や授業で伝えるのが仕事ですが、他方で、聴衆の方も私の話を聞いて、記事にしたり、試験やリポートに備えるのが仕事なわけです。ですので、それほど伝えるのに苦労した覚えはありません。今の教師の職業では、ちゃんと授業を聞いて理解しないと学生が単位を落とすというシステムです。ただ、そう遠くもない将来に引退するわけで、いろいろと押さえておくべきポイントはあった気がします。
次に、万城目学『六月のぶりぶりぎっちょう』(文藝春秋)を読みました。著者は、直木賞も受賞した小説家です。私の後輩筋に当たる京都大学の卒業生です。本書は直木賞を受賞した『八月の御所グラウンド』と同じテイスト、シリーズの直木賞受賞後第1作であり、本能寺の変を現代に引き直した解釈を試みています。収録されているのは、短編より少し長めの中編2話であり、第1話は「三月の局騒ぎ」、第2話がタイトル作の「六月のぶりぶりぎっちょう」となります。第1話の方にはこの作者らしいファンタジーの要素はありません。主人公は大学に進学して京都で下宿するようになり、北白川にある女子学生寮に入って、そこが舞台となります。なお、女子寮は特定の大学の寮ではなく、いくつかの大学の女学生が住んでいるという設定です。この寮のいくつかの名称が京都らしい雰囲気を出しています。すなわち、東西2棟の建物は中庭に植えられているの植物から「薔薇壺」と「棕櫚壺」と呼ばれ、部屋は「局」と名付けられ、最後に、寮生は「女御(にょご)」です。1年生で入学し、寮でも最初は3人部屋から始まって、2年生で2人部屋となり、そして上級生となって1人部屋となりますが、最後の4年生の時、留年していて主人公よりもさらに上級生のキヨと相部屋になります。このキヨが謎の存在で正体不明なのですが、相部屋になった期間はわずかで、3月末にはキヨは退寮してしまいます。大学を卒業して就職し、結婚して出産した主人公が、全国高校駅伝に出場する娘に付き添って京都に来ます。ここで、かすかながら『八月の御所グラウンド』に収録されていた「十二月の都大路上下ル」とリンクします。本書の後半の作品がタイトル作となります。テーマは壮大にも本能寺の変の謎を解き明かす、というか、本能寺の変は明智光長が織田信長に対して起こした謀反ですから、まあ、実行犯については明らかなのですが、誰が明智光秀を本能寺の変に走らせたか、あるいは、明智光秀の行動の動機の謎がテーマとなる小説です。といっても、謎解きのミステリではありません。主人公は女子校の歴史の女性教師である滝川先生です。実に、『鹿男あをによし』と同じ設定で、大阪女学館、京都女学館、奈良女学館の姉妹校3校による研究発表会の大和会に出席するために、同僚の外国人女性教師と大阪から京都にやってきます。『鹿男あをによし』では同じ姉妹校3校による剣道の試合の大和杯ではなかったかと記憶していますが、本書では研究発表の研修会の大和会となります。大和会の前日に京都観光を楽しむために、滝川先生たちが京都に着くと京都女学館のトーキチロー先生が迎えてくれます。大和会前日の観光を楽しんだ後、実に現代版にアレンジされた「本能寺の変」に滝川先生は巻き込まれてしまうわけです。そこからは、読んでみてのお楽しみです。独特の万城目ワールドによるファンタジーが展開します。なお、タイトルにある「ぶりぶりぎっちょう」とは平安時代の貴族の遊びで、蹴鞠をサッカーに例えることが許されるのであれば、ぶりぶりぎっちょうは馬に乗らないポロみたいなものです。ただ、私は「ぶりぶり」の付かない「ぎっちょう」と記憶していましたし、「毬杖」という漢字もあります。関西の方言かもしれませんが、左利きのことを「ぎっちょ」といいますが、その語源であると私は認識しています。最後に、直木賞受賞の前作と本作に収録された4話のタイトルを並べると、「十二月の都大路上下ル」、「八月の御所グラウンド」、「三月の局騒ぎ」、「六月のぶりぶりぎっちょう」となります。1~12月のうち、3月、6月、8月、12月はタイトルに入りました。残りの月もタイトルに入るような小説が継続して公刊されるんでしょうか。
次に、結城真一郎『難問の多い料理店』(集英社)を読みました。著者は、小説家なのですが、私も読んだ前作の『#真相をお話しします』がよくはやったのが記憶に新しいところです。タイトルは宮沢賢治『注文の多い料理店』へのオマージュであることは明らかでしょう。一風変わった料理名のタイトルを持つ6話の短編からなる短編集です。各話は一見独立しているようで、実は密接にリンクしていたりします。東京の繁華街のひとつである六本木にあるビルの3階のゴースト・レストランが舞台で、そのオーナーが風変わりな注文を受けて配達員を使って調査して謎解きを試みます。ゴースト・レストランとは、客席を持たずデリバリーのみで料理を提供するレストランであり、オーナーは見惚れるほどの絶世の美女ならぬイケメンです。ここにデリバリーのためにウーバーイーツならぬビーバーイーツの配達員が出入りし、大学生だったり、会社が倒産した中年サラリーマンだったり、シングルマザーだったりしますが、このビーバーイーツの配達員が視点を提供して物語を語ります。各話の冒頭で、決まって、オーナーはビーバーイーツの配達員に高額のアルバイトをオファーします。客から頼まれた料理を届けるついでに、ある住所にUSBメモリを届けてほしいというもので、実に怪しいことに、それだけで即金1万円というオファーです。まあ、それを引き受けないとストーリーが始まらないので、お約束でビーバーイーツの配達員が引き受けると、追加ミッションが出るわけです。すなわち、極めて特徴的な組合せの注文が入ると、それは謎解き、あるいは、そのための調査の依頼であり、その特徴的な組合せの料理を届ける際に、ビーバーイーツの配達員が注文主から依頼の詳細を聞き取ってオーナーに報告し調査が始まります。6話の短編の調査は、第1話は、大学生の下宿アパートから出火し、その部屋から大学生の元カノの焼死体が発見され、大学生の父親から調査依頼を受けます。第2話では、交通事故で死んだ夫の指が2本欠損していた点に関して、妻から調査を依頼されます。第3話では、ひきこもり状態の妹のアパートの部屋に空き巣が入り、その真相につき空き巣被害者の兄から調査依頼を受けます。その兄は高給のエリート職にあります。第4話は、別のデリバリーで注文した配達の際に10回連続で別のものが入っていた謎、しかも、同じ配達員が10回連続で配達した謎解きの依頼です。第5話では、かつて孤独死があって今は空室になっている部屋に連続して置き配が届いたという謎の調査を同じ階の住人から受けます。最後の第6話では、マンションの一室から忽然と姿を消した住人の行方について、別のビーバーイーツ配達員から依頼を受けます。繰り返しになりますが、各短編はビミョーにリンクしています。そのリンクは謎解きの結果とともに読んでみてのお楽しみです。そして、謎解きとしてはタイトルのような「難問」ではなく、気の利いた読者であれば簡単に真相にたどり着けます。オーナーやビーバーイーツ配達員以外の別の情報源からオーナーが詳細な情報の提供を受けるのも、ミステリの観点からはやや反則気味だったりもします。ですので、ビーバーイーツの配達員の来歴とか、オーナーの調査結果の伝え方なんかが読ませどころではないか、という気がします。
次に、小谷賢『教養としてのインテリジェンス』(日経ビジネス文庫)を読みました。著者は、日本大学危機管理学部教授です。本書は3章構成となっており、第1章でそもそもインテリジェンスとは何なのかを考え、第2章で世界各国のインテリジェンス活動を概観し、最後の第3章でインテリジェンスの歴史を後付けています。インテリジェンスというと、007のようなスパイ活動、情報収集と破壊工作などの活動を思い浮かべる場合が少なくありません。しかし、007のように警察や軍隊やといった広い意味での政府、あるいは、少なくとも公的部門だけがインテリジェンス活動を行っているわけではなく、当然、企業においてもライバル企業の動向や政府の政策方針などに関する情報収集を行っています。その昔に、銀行などでいわゆるMOF担が大蔵省・財務省の情報収集に当たっていたことは広く知られている通りです。でも、本書では政府の政策決定に必要な情報収集活動のみを取り上げています。冒頭に、本書ではインテリジェンスの4類型を示しています。すなわち、公開情報による Open Source Intelligence=オシント、人的接触による Human Intelligence=ヒューミントについては、従来からの手法とした上で、衛星画像や航空写真による Image Intelligence=イミント、そして、イミントと地理空間情報から作成される Geographical Intelligence=ジオイントです。私は外交官として在外公館で勤務していましたので、多少なりともインテリジェンス活動の経験ありといえるかもしれませんが、最後のジオイントは知りませんでした。そして、私が知る限りでは、イミントと似たインテリジェンスで Signal Intellijence=シギントというのもあったように思います。それはともかく、私はもともとがエコノミストであり、経済情報はほぼほぼすべて公開情報として入手できます。ちょうど、外交官として大使館に勤務していた時期はGATTウルグアイ・ラウンド交渉の最終盤に当たり、ドンケル事務局長が包括関税化を柱とする提案、いわゆるドンケル案を示した時期ですので、当然ながら、現地の新聞やテレビなどから公開情報をせっせと収集していた記憶があります。米国や西欧などのもっと国際的に影響力の大きい国であれば、公開情報に加えて非公開情報も日本の政策決定にとって必要であったのだろうと思いますが、私が赴任していたような南米の小国はそれほど重視されていなかったような気がしました。経済情報に関しては現地で収集したり、あるいは、日本から発信することが重要であり、007ジェームス・ボンドが映画で繰り広げているような派手派手しい破壊活動めいたことは関係ありません。少なくとも、私はやっていません。また、収集された情報は適切に分析される必要があり、収集と分析を含めてインテリジェンス活動と考えるべきです。収集された情報が不足していたり、間違っていたりすれば正しい政策判断ができないのはもちろんですが、情報を正しく分析しないとやっぱり判断を間違えます。その意味で、情報収集+分析というトータルのインテリジェンスが、国家の戦術や政策を策定する上で必要ですし、本書のスコープ外ながら、企業活動にも同じことがいえると思います。
次に、山本文緒『無人島のふたり』(新潮文庫)を読みました。著者は、『プラナリア』により直木賞を受賞した小説家ですが、2021年に膵臓がんで亡くなっています。私はこの作者の作品では『自転しながら公転する』が一番好きだったりします。本書は、作者がステージ4bの膵臓がんによる余命告知を受けてから亡くなる直前までの日記です。もちろん、「ふたり」とはご夫婦を意味します。加えて、まるで大波にご夫婦がさらわれて無人島に流されたような心境をタイトルに込めています。第1章最初の5月24日の日記に先立つ扉で「2021年4月、私は突然膵臓がんと診断され、そのとき既にステージは4bだった。」と記されています。そして、抗がん剤によってがんの進行を遅らせる治療を早々に諦めて、緩和ケアに進んで作者が死を迎えたことは知られている通りです。読み始めから、私はかなり大きなショックを感じました。私自身はもう60歳代半ばですから、作者が死を迎えた年齢を上回っています。本書では、がんの進行に伴う痛みや発熱や倦怠感などの闘病記ならぬ、「逃病記」と作者は記していますが、そういった病気関係だけではなく、これまでの人生の道のりを振り返り、素直な心の動き、苦しい胸の内が、さすがの直木賞作家による文章表現で、実に切々と迫ってきます。特に、最初の方の「うまく死ねますように。」の言葉が私の心に響きました。おそらく、赤裸々に事実を丸ごと表現していたり、心情をそのままストレートに綴っているわけではないと思います。たぶん、時間がない、残された時間があまりにも少ない、というのがもっとも切実な実感なんだろうと思いますが、決して、誰かを、あるいは、何かを恨んだりする強い表現があるわけではなく、他方で、決して淡々と時間の経過を記しているだけではなく、時間がないながらも、よく考えられた表現が展開されています。あるいは、この作家さんクラスになると自然とそういった表現ができるのかもしれません。まったく別の観点で、実は、私の父親はいわゆる「ピンピン、コロリ」の死に方でした。今の今まで元気いっぱいだったにもかかわらず、突然死んだ、という感じだったそうです。ですので、私は父親の死に目には遭えませんでした。そういった死に方に比べて、ピンポイントではあり得ないにしても、本書のような一定の確率分布に従った余命宣告を受けて、徐々に病魔に侵されて衰弱してゆく死に方と、ついつい並べて考えてしまいました。どのような死に方であれ、死は悲しいことですが、「死と税金は避けられない」という表現もあります。本書を読んで、さすがの文章表現を味わいつつも、死について深く考えさせられる読書でした。
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