今週の読書はマクロ経済学の教科書のほか計8冊
今週の読書感想文は以下の通り、マクロ経済学の教科書のほか新書が多くて計8冊です。
まず、脇田成『マクロ経済学のナビゲーター[第4版]』(日本評論社)は、標準的でとても広い分野をカバーした教科書となっていますが、私は経済学部ではない他学部の新入生に教える授業が多く、ややレベルが高すぎるかという気がします。円城塔『コード・ブッダ』(文藝春秋)は、2021年に名もなきコードがブッダを名乗り、自らを生命体であると位置づけ、この世の苦しみとその原因を説き、苦しみを脱する方法を語りはじめたところから機械仏教の展開を後付けるSF小説です。河野龍太郎『日本経済の視角』(ちくま新書)を著者からご寄贈いただきました。大企業が生産性に見合った賃金を支払っていないために、消費や投資の拡大がもたらされず、日本経済は合成の誤謬に陥っていると分析しています。中野剛志『入門 シュンペーター』(PHP新書)は、シュンペーターのイノベーション理論を基にして、シュンペーター理論の反対をやり続けた日本が陥った30年の経済停滞を解明するとともに、教育のIT化については本末転倒の結果を招きかねない懸念があるなど、今後の方向性についても議論しています。佐久間亜紀『教員不足』(岩波新書)は、新自由主義的な経済政策や行政改革により、民間企業と歩調を合わせる形で教員の抑制が図られるとともに非正規化が進んだ現状を分析し、今後の教育や学校について考えています。田中優子『蔦屋重三郎 江戸を編集した男』(文春新書)は、NHK大河ドラマ主人公の蔦屋重三郎がいかに江戸文化を発展させていったかを歴史的に後付けています。M.W. クレイヴン『ボタニストの殺人』上下(ハヤカワ・ミステリ文庫)は、刑事ワシントン・ポーを主人公とし、その相棒のブラッドショー分析官らの活躍を綴るシリーズ第5弾で、病理医のドイル教授が父親殺しの犯人として逮捕されてしまうところからストーリーが始まります。
今年の新刊書読書は先週までに45冊を読んでレビューし、本日の8冊も合わせて53冊となります。なお、Facebookやmixi、mixi2、あるいは、経済書についてはAmazonのブックレビューなどでシェアするかもしれません。
まず、脇田成『マクロ経済学のナビゲーター[第4版]』(日本評論社)を読みました。著者は、首都大学東京だか、東京都立大学だかの教授です。マクロ経済学を専門とするエコノミストだと思います。本書は3部構成となっていて、第1部でケインズ経済学と新古典派経済学のマクロ経済学を概観し、第2部で家計、企業、政府や中央銀行といった個別の需要項目を取り上げ、最後の第3部で新たなマクロ経済学の発展的分野について議論しています。とても標準的で広範な分野をカバーする教科書といえます。教科書ですので、ややトピックが飛び飛びになっているのは致し方ないと私は受け止めています。個人や家計、あるいは、企業といった経済主体が市場における選択をどのようにするか、一定の制約下における選択の問題を考えるマイクロな経済学と違って、マクロ経済学では一定の範囲における集計量や平均値を分析対象とし、それらの相互の関係を明らかにしようと試み、加えて、マイクロな選択の際の制約条件を緩和したり、分配の改善や経済変動の抑制をテーマとします。本書では、例えば、ケインズ経済学としていわゆる45度線分析からIS-LM分析に進むなどのていねいなマクロ経済学の解説を試みています。ただ、ややレベルが高い気がします。私個人のケースを考えると、すでに定年を過ぎて特任教授となり、経済学部ではない他学部の新入生向けの講義が多くなっていて、本書はちと難しい内容が多いと受け止めています。加えて、教授と学生のダイアローグという特異な形式で議論を進めていて、ちょっと私の講義の教科書にするのは難しいと考えます。でも、講義のバックグラウンドの参考書としてはとても利用価値が高いと思います。
次に、円城塔『コード・ブッダ』(文藝春秋)を読みました。著者は、SF作家であり、本書は第76回読売文学賞を受賞しています。本書のスタートは東京オリンピックの2021年であり、名もなきコードがブッダを名乗ります。自らを生命体であると位置づけ、この世の苦しみとその原因を説き、苦しみを脱する方法を語り始めます。そして、その後の機械仏教の展開を後付けます。本書で取り上げているのは、この機械式仏教の縁起なわけですが、広く知られたように、人間界の仏教は南進した上座部仏教が小乗仏教となり、北進してチベットから中国に入った仏教が大乗仏教として日本まで東進するわけです。そういった歴史的経緯の中で、禅宗が生まれたり、日本に来て他力本願の日蓮宗や浄土真宗ができたりするわけですが、本書における機械式仏教の縁起=歴史は人間界の仏教とどこまで同じで、どこまで違うか、というのが読ませどころとなります。そのあたりは読んでみてのお楽しみです。実は、ブッダを名乗ったコードはわずかに数週間で寂滅してしまうのですが、その教え、というか、人間界の仏教はブッダが寂滅した後もさまざまな歴史を経るわけで、機械式仏教もある意味で同様の進化を遂げます。そして、本書では人間界の仏教と機械式仏教のそれぞれの歴史が実に巧みに対比されています。私自身の宗教的基盤は浄土真宗なのですが、その基礎は法然の浄土宗であることはいうまでもなく、その人間界における法然の浄土宗がいかに偉大な仏教界のイノベーションであったかが、機械式仏教の縁起と対比させられる形で、本書を読み進むとよく理解できます。350ページほどのボリュームで、読者によっては冗長と受け止める向きがありそうな気がしますが、私は一気に読めました。
次に、河野龍太郎『日本経済の視角』(ちくま新書)を読みました。著者は、BNPパリバ証券のチーフエコノミストです。3年ほど前の『成長の臨界』では、金融緩和の継続に対してゾンビ企業理論から反対していたのですが、本書では貯蓄過剰主体である家計への所得移転から、やっぱり、金利引上げを主張しています。ただ、前著になかった視点として生産性が向上しているにもかかわらず、企業から家計に賃上げとして結実していない、という実にまっとうな議論を展開しています。これは正しいと私は考えています。ただ、どうして生産性向上が賃上げに結実していないかというと、非正規雇用の拡大が原因、と私は考えているのですが、ひょっとしたら同じ帰結である可能性は否定しないものの、賃金を変動コストにした企業行動を本書では槍玉に上げています。なお、日経連の『新時代の「日本的経営」』については言及がありません。そして、家計も企業も貯蓄過剰主体になっているのですが、利上げによって投資過剰主体から家計への所得移転を主張しています。企業も貯蓄過剰主体なのですから、投資過剰主体として所得のロスを受けるのは政府と海外、ということになりますが、本書でそこまで議論は及んでいません。そうではなく、アセモルグ教授らのノーベル経済学賞受賞に乗っかる形で、「収奪」がいけなくて、「包摂的」がいいのだ、とホントに理解しているのかどうか疑わしいカテゴライズで結論を下そうとしています。大きな疑問点です。もうひとつは、金利引上げに関しては貯蓄過剰主体である家計への所得移転という新たな理論武装を試みているのはいいとして、私がこの著者に感じているもう1点の財政再建路線に関しては、本書ではほとんど言及がありません。新書という限定的なメディアですので仕方がないと考えますが、この財政に関する点についても今後ご意見が変わることを期待します。新たなご意見が組み入れられたご著書のご寄贈についても期待しています。
次に、中野剛志『入門 シュンペーター』(PHP新書)を読みました。著者は、経済産業省の現役官僚だと思うのですが、現代貨幣理論(MMT)に立脚した経済書を何冊か出版しています。本書では、シュンペーター教授のイノベーション理論を基に、マッツカート教授のミッション・エコノミーやシュンペーター理論の継承者であるラゾニック教授『略奪される企業価値』を援用しつつ、シュンペーター理論を正しく日本経済に適用する議論を展開しています。まず、いくつかの前置き、というか、シュンペーター教授の『経済発展の理論』、『景気循環論』、『資本主義・社会主義・民主主義』、『経済分析の歴史』などを紹介し、イノベーションについての基礎を解説した後、1980年ころからの新自由主義的な経済政策を徹底的に批判しています。新自由主義経済理論に基づいて経営者資本主義から株主資本主義へと変化し、内部留保に基づく再投資や長期雇用による経済成長から「削減と分配」に基づく株主価値最大化へと企業行動の原理が転換し、米国でも開業率が大きく低下した、と指摘しています。でも、本書でも認識されているように、新自由主義経済政策は日本もさることながら、本場の米国で広く採用されているのではないか、という疑問は残ります。それに対して、マッツカート教授のミッション・エコノミーなど、インターネットに結実した米国政府のインフラ整備や知識・ノウハウの蓄積に資する政策を評価しています。これらを総合して、米国の産業政策と位置づけています。さらに、イノベーションはスタートアップの中小企業ではなく、先行き不確実性を減じることのできる大企業、あるいは、独占度の高い企業でこそ実行される、というシュンペーター理論を展開しています。そして、MMT理論も援用しつつ、緊縮財政を強く批判しています。私も大いに勉強となりました。ラゾニック教授ほかによる『略奪される企業価値』が昨年2024年暮れに出版されています。県立図書館で所蔵しています。本書の続きとして、なるべく早く読みたいと考えています。
次に、佐久間亜紀『教員不足』(岩波新書)を読みました。著者は、慶應義塾大学教職過程センター教授です。タイトル通りに、教員不足について分析しています。この問題はすでに、昨夏、藤森毅『教師増員論』(新日本出版社)も読みましたが、大学でも教職課程は荷が重くて敬遠する学生が少なくない上に、教員という職業がブラックなものに成り果てて魅力がなくなっている、という現実があります。その上、民間企業と同じ土台に立って、教員の非正規雇用化が進んでいます。しかも、本書でも暗示的に指摘されていますが、正規雇用教員が忌避する仕事を非正規教員に押し付けようとする校長がいたりするものですから、人手不足が進んで大学生の就職が売り手市場になっている現状では、教員希望者が大きく減少するのは当然です。ということで、教員定員については、『教師増員論』でも指摘されていたように、1958年の義務標準法で法定された上で、新自由主義的な経済政策の採用とともに、民間企業に歩調を合わせる形で定員削減や非正規化が進められています。典型的な starve the beast 政策であって、ご予算不足につき教員は増やせません、という政策展開です。学校での業務量の増大と教員不足は、ほぼほぼ教員による自己犠牲でカバーされているというのが本書の見立てです。はい、私もそう思います。その上に、本書で初めて目にした観点として、授業において価値観の対立も見られる、という点を上げることが出来ます。米国の例が多いのですが、性教育、道徳教育、歴史教育などです。日本でも、『はだしのゲン』が図書館の所蔵から外された、という報道を見かけた方は少なくないものと思います。私は新入生の授業の冒頭で、経済学は科学であって価値観からは独立である、すなわち、一例として、高所得が常に望ましいわけではない、と教えていますが、実は、どのような教育であっても、一定の価値観を内包していることは事実です。それが、性教育や道徳教育などでは、特に強く意識されるのも事実です。ただ、本書の解決策には私は物足りない点を感じます。まず、教員の労働条件を考えて、教員の業務負担の適正化を議論していますが、私は違うと思います。すなわち、教員の業務とは、教員サイドから考えるべきかどうかについて私は疑問を持っており、子ども本位で考えるべきではないか、と思います。そのために、子どもサイドの必要に応じて教員を増員すべきと考えます。加えて、本書の最後でも指摘しているように、学校という組織は単なる教育の場だけではなく、地域の中核的な存在でもあり、例えば、災害時の避難場所になったりするわけですから、まずは、子ども本位の教育のため、また、地域の中核となる学校を維持するためにも、教員を増員することが必要です。教員不足だから教員の業務を削減するのが解決策の中心ではあり得ません。
次に、田中優子『蔦屋重三郎 江戸を編集した男』(文春新書)を読みました。著者は、法政大学の前の総長であり法政大学社会学部名誉教授です。ご専門は日本近世文学、江戸文化などとなっています。3月に入ってもNHK大河ドラマのお勉強が続いているという情けない状態ですが、新書ベースで3冊目ともなれば、おおむね議論が出尽くした感があります。本書でも、江戸の文化の進歩や経済の発展とともに、蔦屋重三郎のホームグラウンドともいうべき吉原が単なる岡場所、売春宿の集積地だけではなく、琴、三味線、和歌、俳諧、香道、茶の湯、生け花、漢詩文、書、囲碁、双六などなどの文化の中心となり、遊女の頂点に立つ花魁が江戸のインフルエンサーとなった点が強調されています。ただ、本書で新たな視点としては、吉原や花魁やといった存在だけではなく、庶民の生活や文化がクローズアップされています。ただ、庶民は文化の消費者としてではなく、文化の中で取り上げられる題材として本書では着目されています。すなわち、浮世絵とはまさに読んで字のごとく、浮世を画材にしているわけで、花鳥風月や神仏を対象に描かれていた絵画が、庶民とまではいえないにしても、役者や相撲取りや美人を題材に描かれるようになったわけですし、文学、というか、小説でもそうです。狂歌も世の中の下世話な面、あるいは、下世話な解釈を歌にしていることは明らかです。ただ、本書では、こういった歴史的背景に熱心で、NHK大河ドラマの登場人物的な蔦屋重三郎のご活躍はそれほど注目されているわけではありません。その点は、まあまあ学術的な色彩といえますし、逆に、物足りないと感じる読者もいるかもしれません。
次に、M.W. クレイヴン『ボタニストの殺人』上下(ハヤカワ・ミステリ文庫)を読みました。著者は、英国のミステリ作家です。本書は、この作者の刑事ワシントン・ポーのシリーズ第5作であり、前4作の『ストーンサークルの殺人』、『ブラックサマーの殺人』、『キュレーターの殺人』、『グレイラットの殺人』は、私はすべて読んでいます。繰り返しになりそうですが、主人公はワシントン・ポー刑事であり、相棒は分析官のマティルダ・"ティリー"・ブラッドショー、上司は出産を終えたばかりのステファニー・フリン警部です。そして、警察から検死を依頼している病理医のエステル・ドイル教授が頼もしい役割を果たしているのですが、この作品ではドイル教授が父親であるエルシッド・ドイルを殺した殺人犯として逮捕されてしまいます。そして、英国国内では、偽善者ぶったヤな奴が殺人予告代わりの押し花のレターを受け取って殺されるという事件が連続で発生します。しかも、というか、何というか、ドイル(父)殺しは日本でいうところの雪密室で犯人の足跡がなく、また、押し花を受け取って殺されたヤな奴も完全な密室での殺人、それも毒殺です。このドイル(父)殺しと押し花を受け取ったヤな奴の予告殺人とは何の関係があるのでしょうか、そして、犯人は英国メディアで「ボタニスト」と呼ばれ、自分でもそう自称するようになります。ポー刑事の謎解きやいかに、いうまでもなく、このミステリの読ませどころとなります。また、日本の読者にとって意外なことに、本書は冒頭で西表島のシーンから始まります。毒殺に用いられる毒がフグ毒だったりするのも、やや日本的な趣きを感じるのは私だけではないと思います。ラストのポー刑事とドイル教授の関係の発展には目を見張るものがあります。最後の最後に、このシリーズはボリューム的にページ数がどんどん長くなっていて、シリーズ中で本書がもっとも分厚いと思うのですが、少なくとも、本書はとても完成度が高くて読みやすく、長さを感じさせません。シリーズが段々と進化していっていることを感じさせます。
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