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2025年3月29日 (土)

今週の読書は経済書と経済エッセイのほか計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、浅沼信爾・小浜裕久『経済発展の曼荼羅』(勁草書房)は、経済発展論や開発経済論について日本やアジアの経験を基に歴史的観点も含めた分析をしています。根井雅弘『経済学の余白』(白水社)は、日経新聞夕刊などに掲載されたコラムを基に、専門の経済学史の学識を活かした幅広い経済に関するエッセイです。鈴木光司『ユビキタス』(角川書店)は、南極から持ち帰った氷に含まれていた何かにより大量の不審死が発生するところから始まるホラー小説です。志賀信夫『貧困とはなにか』(ちくま新書)では、貧困をあってはならない生活状態とし、ピケティ教授のいう人間の尊厳に近い観点から議論を展開しています。山田鋭夫『ゆたかさをどう測るか』(ちくま新書)では、市場と国家に次いで市民社会を第3のセクターと位置づけ、ウェルビーイングを議論しています。円城塔[訳]『雨月物語』(河出文庫)は、江戸期に上田秋成が取りまとめた書物の現代訳であり、怨霊とか妖怪のたぐいのホラーが多い印象です。
今年の新刊書読書は先週までに69冊を読んでレビューし、本日の6冊も合わせて75冊となります。これらの読書感想文については、Facebookやmixi、mixi2でシェアしたいと考えています。また、最近は大いにサボっていますが、経済書はAmazonのブックレビューにポストするかもしれません。なお、スペンサー・ジョンソン『チーズはどこへ消えた?』も読みましたが、新刊書読書ではないと思いますので、今日の読書感想文ブログには含めず、すでに、いくつかのSNSにポストしてあります。

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まず、浅沼信爾・小浜裕久『経済発展の曼荼羅』(勁草書房)を読みました。著者は、いずれも開発経済学の専門家であり、一橋大学教授と静岡県立大学教授を務めていました。本書は、経済発展論や開発経済論について、日本やアジアの経験を基に歴史的事実を参照しながら分析しようと試みています。タイトルにある「曼荼羅」について、まえがきには「本質を図解したもの」と表現しています。もちろん、仏教用語です。その曼荼羅、経済発展の曼荼羅は p.32 の図序-9 に示されています。私は、そもそも、開発経済学を体系的に勉強したことはありませんが、というか、少なくとも私が京都大学経済学部の学生であったころには開発経済学という授業や講座はなかったように記憶していて、ただ、戦後日本の経済成長やアジア各国の経済発展の歴史などから、帰納的に抽出できるものを体感として感じているだけです。ただ、研究成果としてはいくつか開発経済学に基礎を置く論文はあったりもします。主として、日本経済の戦後の経験を振り返ったもので、役所に勤めていたころに同僚と取りまとめた "Japan's High-Growth Postwar Period: The Role of Economic Plans" があり、世銀のリポートやいくつかの学術論文で引用されていたりします。戦後日本の経済発展の転機として、終戦直後から高度成長期前の期間で本書が着目しているのは、傾斜生産方式の採用、ドッジ・ラインによるインフレ収束と360円レートの設定などを上げています。そして、1950-60年代には高度成長期に入るわけですが、やや強権的ともいえる通産省による産業政策よりも、経済企画庁による経済計画のガイドライン的な役割が私は大きかったと考えています。本書第3章でも同様の見方が示されています。しかし、経済計画と聞くと旧ソ連型の社会主義を連想するビジネスパーソンが多いのですが、決してそうではありません。すなわち、ちょっと考えれば理解できると思うのですが、現在でも少なくとも上場企業であれば事業年度ごとに、多くの大企業では中期の計画を持っているのではないでしょうか。上場企業でなくても、気の利いた企業であれば会計年度ごと、また5年間くらいの中期の計画は策定していると思います。そういった事業計画をまったく持たずに、すべてを市場の動向に任せて事業展開している企業は少ないと私は認識しています。政府が民間部門に何らかの指令を発するわけではないとしても、ガイドライン的な指針を明らかにするのは経済発展の初期の段階では大いに有益だと考えます。アジアの経済発展について考える上で、また、日本経済の戦後の歴史を振り返るためにも、なかなか本書はオススメです。

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次に、根井雅弘『経済学の余白』(白水社)を読みました。著者は、京都大学経済学部の教授であり、ご専門は経済学史です。本書は、webメディアである「日経フィナンシャル」と日経新聞夕刊に掲載されていたコラムの「あすへの話題」を単行本として取りまとめています。さすがに経済学史の専門家ですので、幅広い経済学の知識を活かしたエッセイとなっています。著者は大学まで東京で、大学を卒業して大学院から京都に住んでいる一方で、並べるのはおこがましいながら、私は逆に、大学まで京都で、大学を卒業して就職してから60歳の定年まで東京でしたので、地理的にはかなり対象的な暮らしといえなくもありません。ですので、本書の冒頭の方で、大学生の通学事情について言及している点は、私も逆の意味で不思議に思った記憶があります。すなわち、本書では京都の大学生が自転車で通学している点を本書の著者はめずらしく受け止めていますが、逆に、私は東京の大学生が大学近くに住まずに地下鉄で通学しているのを不思議に感じた記憶があります。もうひとつ、本書の底流にあると私が読み取ったものには、エコノミストの、あるいは、大学教育の専門性と一般性、とでもいうか、幅広い学識というよりも高度に専門的で、その意味で、狭いながらも深い専門性を身につけることが望ましいと考えるのか、それとも、専門的な学識は一定必要としても、浅いながらも広く一般常識を身につけるリベラツアーツのような教育を目指すかという点です。識者の中には両立するという人がいそうな気もしますが、私は両立しないと考えています。その昔の大学教授といえば、典型的には専門性高いが世間からは遊離しているような前者の人物像、すなわち、牛乳瓶の底のようなメガネをかけて、服装やヘアスタイルなんぞは気にもかけず、霞を食って生きているような人物像を思い浮かべる人もいましたが、今ではまったくそうなっていません。しかも、私が考えるように、両立できないとすれば、大学教員は狭いながらも深い専門性を持ったスペシャリストな学者と浅いながらも幅広い見識を身につけたジェネラリストの学者の2種類がいるように私は考えています。繰り返しになるものの、大昔は前者のスペシャリストの学者だけだったのですが、現在では後者のジェネラリストの学者も高等教育の業界に進出してきているわけです。私なんぞは後者であって典型的にオールラウンダーでジェネラリストですから、前の長崎大学のころは「役所出身の教員は1-2年生に基礎を教えてくれればよくって、大学院の修士論文指導なんかは専門の先生方に任せておけばいい」と学部長なんかからいわれていました。今の立命館大学では少し違います。というか、大いに違います。大学院の修士論文指導の授業を私はいっぱい受け持たされています。逆に、経済学部1回生の授業なんて私には回ってきたためしがありません。でも、明けて来週4月から始まる2025年度には、とても久しぶりに経済学部1年生の授業を秋学期に担当しますので、ひそかに楽しみだったりします。

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次に、鈴木光司『ユビキタス』(角川書店)を読みました。著者は、『リング』、『らせん』、『ループ』の三部作やそれに続く貞子のシリーズなどで有名なホラー作家です。日本を代表するホラー作家の1人といってもいいような気がします。出版社のうたい文句によれば「16年ぶりの完全新作!」ということでしたので、早速に大学生協で予約して買い求めました。適当なタイミングを見計らって、ホラー好きの倅に下げ渡す予定です。ごく簡単なストーリーは、一方で、ジャーナリストから探偵に転じた主人公の女性がカルト教団に所属していた女性を探し、他方で、南極から持ち帰られた氷に含まれる何かで不審死が出て、地域限定ながら大量死も発生します。3月26日に発売された出版ホヤホヤのホラーですので、出版されてから、指折り数えてまだ数日だということもあって、あらすじすらコト細かに明らかにすることは現時点では避けたいと思います。いくつか、SNSでも読後の感想文が出ていますが、何と、ホラーではなくてミステリだと読む読者もいたりします。今さら『リング』が死因を解き明かすミステリだと思う人はいないわけで、とても不思議に感じました。死因を解き明かすという意味で謎解きの要素がまったくないとはいいません。『リング』にせよ、本書にせよ、人が死ぬところからストーリーが始まっていますから、その死亡の原因を探るのは謎解きかもしれません。でも、その謎を解き明かすことがテーマとなるミステリではなく、本書はその人が死ぬ、しかも、原因が必ずしも明らかではない不審死であり、その連鎖をいかに防ぐか、をテーマにしていますので、完全なホラーと考えるべきです。詳しくは読んでみてのお楽しみなのですが、一応、2点だけ私の印象的を上げると、植物のパワーに着目し、特に、「ヴォイニッチ・マニュスクリプト」を持ち出しているのは秀逸といえます。もうひとつ、ラストのシーンをはじめとして、色彩的に鮮やかな作品ではないかと思います。この作者の『リング』の映像化は、なぜか、ハリウッドのリメイク版の方が有名になったように記憶していますが、この作品は何とか国内でしっかりと映像化して欲しいと願っています。まあ、映画ではなくドラマでもいいといえばいいのですが、いずれにせよ、映像化すればミステリではなくホラーだということが明らかになると思います。ぜひ、色彩感覚に鋭敏な監督の手で映画化して欲しいと私は希望しています。

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次に、志賀信夫『貧困とはなにか』(ちくま新書)を読みました。著者は、大分大学健康福祉科学部の准教授であり、ご専門は貧困理論、社会政策だそうです。まず、いきなりタイトルの問いに回答すると、本書ではp.28で「貧困=あってはならない生活状態」と定義しています。そして、序章ではジョニー・デップ主演の映画『MINAMATA』を題材として、貧困に関して何らかの数値基準からアプローチするか、実際の生活状態からアプローチするか、の違いを上げています。はい、軽く想像される通り、本書は後者の生活状態からのアプローチに重きを置いていると考えるべきです。ちなみに、私はそれほど貧困問題に詳しくないエコノミストながら、それなりに関心もありますので、長崎大学のころに紀要論文で "A Survey on Poverty Indicators: Features and Axioms" と題するペーパを取りまとめた経験があります。はい、本書でいうところの典型的な数値基準からのアプローチといえます。私自身も貧困については、基本的に、不平等と同じような問題点を考えています。ですから、トマ・ピケティ & マイケル・サンデル『平等について、いま話したいこと』でピケティ教授が不平等の問題点を3点指摘していて、経済的には財へのアクセス、政治的な権利行使、そして、人間としての尊厳を上げています。本書ではこの最後の人間としての尊厳に近い考え方で貧困問題を論じていて、私も大いに賛同します。ノーベル経済学賞を受賞したセン教授のケイパビリティ理論をさらに拡張したような貧困に関する社会的排除理論などの議論を本書では展開していて、英国のベバリッジ報告に始まって、戦後の先進国における福祉概念の拡張や貧困対策の充実なども実にに適切に取り上げられています。本書でも注目している教育に加えて、医療や衛生や健康といったヘルスケア、さらに拡張して住宅などについても、資本主義的な投資アプローチを脱して、商品としてではなく脱商品化された社会福祉として、すなわち、市場を通じた貨幣でのやり取りではない供給の方法がないものか、と考えるべき段階に日本や欧米先進国は達しています。そういったコンテキストでも貧困を考えるべきではないでしょうか。

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次に、山田鋭夫『ゆたかさをどう測るか』(ちくま新書)を読みました。著者は、名古屋大学経済学部の名誉教授です。研究成果を見ている限り、フランス的なレギュラシオン理論に基づく理論経済学、現代資本主義論、市民社会論がご専門のように見受けます。本書では、英語のwell-being=ウェルビーイング=豊かさ、と定義しつつ、実際に独自の計測の理論的な展開をしているわけではなく、経済的な規模としてのGDPやその昔のGNPに代わって、生活の豊かさを政策目標、とまではいいませんが、経済だけではない社会活動の主要な目標と位置づけて、いくつか、すでに推計されて試算結果が公表されている豊かさの指標について本書後半で解説しています。まず、本書では、第1セクターとしての市場、第2セクターとして国家、そして、第3セクターとして社会ないし市民社会を考えています。その第3セクターの市民社会が小さければコミュニティになるわけです。そして、政府の現在の政策目標がウェルビーイングであるかどうかは疑わしいと結論しています。もちろん、第1セクターである市場の活動の結果を計測する一つの指標がGDPであり、所得と表現しても同じことです。ところが、私でも知っていますが、イースタリンのパラドックスというのがあって、所得が低い水準であれば幸福度=ウェルビーイングと所得は一定の正の相関を示すのですが、1人当たりGDPで大雑把に1万ドルくらいの閾値で所得が増加してもウェルビーイングが高まらない状態になってしまいます。要するに、俗にいう「幸福はお金では買えない」段階に達してしまうわけです。そのあたりから互酬と相互扶助、あるいは、協力の市民社会におけるウェルビーイングを議論する必要が出てきます。第3セクターの市民社会において、本書では、ポランニーの互酬、オストロムのコモンズ、宇沢の社会的共通資本、ハーバーマスの市民社会、ボウルズのホモ・レシプロカンス、の5類型を上げて解説を加えています。そのあたりは読んでみてのお楽しみです。そして、最終章に近い第7章で経済的なGDPに代替するウェルビーイングの指標をいくつか解説しています。国連開発計画(UNDP)の人間開発指数(HDI)や国際協力開発機構(OECD)のベターライフ・インデックス(BLI)などです。本書p.148 図表7-1のテーブルに一覧が示されています。そして、最終第8章でウェルビーイングな社会をどう作るかを議論しています。最後の最後に、私から1点だけ付け加えると、経済活動といってもいいですし、社会活動といってもいいですが、雇用あるいは労働をどのように考えるかが重要です。単に、新自由主義的に所得を得るための労働サービスの提供と考えるか、経済社会に必要な財やサービスを提供するための活動と考えるかです。前者が伝統的なミクロ経済学の見方であり、労働をしないという意味での「余暇=レジャー」が正の効用をもたらす一方で、労働は負の効用すなわち苦痛であって、その苦痛を耐え忍んで賃金を得るために働く、という考えがミクロ経済学では基本となります。しかし、ホントにこの伝統的な経済学の前提が正しいかどうかは私自身は疑問を持っています。本書ではこの労働についてほぼほぼ無視されています。この点だけは物足りなさが残ります。

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次に、円城塔[訳]『雨月物語』(河出文庫)を読みました。『雨月物語』の著者は、広く知られているように上田秋成なのですが、本書は河出文庫の古典新訳コレクションの一環としてSF作家により現代訳されています。このコレクションは30冊ほど出版されていますが、私は不勉強にしてエッセイストの酒井順子の訳になる『枕草子』上下しか読んでいなかったりします。ということで、そもそも上田秋成による『雨月物語』そのものが作者のオリジナルというわけではなく、中国や本邦の小説や古典を翻案して取りまとめたものであることは広く知られている通りです。それを現代訳しているわけです。収録されているのは全9話、「白峯」、「菊花の約」、「浅茅が宿」、「夢応の鯉魚」、「仏法僧」、「吉備津の釜」、「蛇性の婬」、「青頭巾」、「貧富論」となります。当然ながら、オリジナルの上田秋成による『雨月物語』と同じです。1話ごとの詳細なあらすじは省略しますが、基本的に、怨霊とか妖怪のたぐいのホラーが多いと感じます。例えば、冒頭の「白峯」は配流された崇徳院の怨霊と弔いの目的で立ち寄った西行との会話から成っています。「菊花の約」は、義兄弟の約束を果たすために千里を行ける幽霊になった武士のお話です。舞台は戦国時代の日本に設定されていますが、元はといえば中国の小説です。「浅茅が宿」は夫婦の悲恋もので、夫が行商に出るのですが、戦乱の世のためになかなか妻の元へ帰れず、やっと家に戻って妻と一夜をすごし、翌朝目覚めてみると我が家は見る影もない廃屋だった、というものです。このお話が私には一番でした。「夢応の鯉魚」では、絵から飛び出して鯉になって泳ぎ回る高僧の過去に琵琶湖が登場します。「仏法僧」は、高野山の燈籠堂で一夜を明かすことになった俳人の夢然の前に武士団の幽霊が現れます。「吉備津の釜」からは、よく、女の嫉妬心は怖い、特に、源氏物語の六条御息所を彷彿とさせる、という感想を聞きます。私もそうでした。少し飛ばして、最後の「貧富論」では、戦国時代の実在の武将である岡左内のところに、「黄金の精霊」が現れて左内の問いに答え、貧富、というか、金持ちについて論じます。そして、富貴の観点から徳川が天下を取ることを予言します。いかにも、江戸時代の幕府に忖度した短編といえます。

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