今週の読書は不確実性に関する経済書のほか小説ばかりで計6冊
今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、森川正之『不確実性と日本経済』(日本経済新聞出版)は、企業や家計、あるいは、労働の不確実性の影響を論じ、いかにして不確実性の負の影響を回避できるかを分析しています。東野圭吾『クスノキの女神』(実業之日本社)は、クスノキのある月郷神社に詩集を置いてくれと頼みに来た女子高生と脳腫瘍で記憶障害がある男子中学生の交流を軸に、神社近くの強盗傷害事件の真相解明を盛り込んでいます。恩田陸『spring』(筑摩書房)では、天才バレエダンサーであり、振付家である萬春を主人公に、彼が15歳で世界に飛び出して活躍を繰り広げるバレエ小説です。安堂ホセ『DTOPIA』(河出書房新社)は、ボラボラ島の恋愛リアリティショーから始まって、そのショーにモブとして参加したモモの視点から10年ほどさかのぼった東京での出来事を追います。鈴木結生『ゲーテはすべてを言った』(朝日新聞出版)は、日本でもトップクラスのゲーテ研究者である主人公がレストランでゲーテの名言と出会い、その原典を探求する軌跡を後付けます。なお、この『DTOPIA』と『ゲーテはすべてを言った』は第172回芥川賞受賞作品であり、単行本で読んだわけではなく、2月発売の『文藝春秋』3月号で読んでいます。原田ひ香『財布は踊る』(新潮文庫)は、ルイ・ヴィトンの財布がたどる持ち主の遍歴をたどり、お金にまつわるややブラックで怖い連作短編集です。
今年の新刊書読書は2月中に39冊を読んでレビューし、本日の6冊も合わせて45冊となります。なお、Facebookやmixi、あるいは、経済書についてはAmazonのブックレビューなどでシェアするかもしれません。
まず、森川正之『不確実性と日本経済』(日本経済新聞出版)を読みました。著者は、経済産業省ご出身の官庁エコノミストですが、私とほぼ同世代の60代半ばであり、一橋大学経済研究所、経済産業研究所、機械振興協会経済研究所などで研究活動をしています。タイトルにあるように、不確実性の影響について分析していますが、冒頭に、100年以上も前の米国シカゴ大学のナイト教授のリスクと不確実性の峻別について、最近時点では幅広く不確実性でいいんではないか、として議論を始めています。すなわち、ナイト教授の議論では事前に確率分布が判っているものをリスクと呼び、そうでないものが不確実性、としていますが、大数の法則によってある程度の計算ができる交通事故や火災などの損害保険的なものは例外であり、ハッキリと確率分布が判るリスクなんてものは少ないでしょうから、私も幅広く不確実性という用語でいいと思います。もう5年近くも前ながら、宮川公男『不確かさの時代の資本主義』(東京大学出版会)を2021年に読んだ記憶がありますが、統計などのデータで不確実性を明らかにするわけではなく、時代を画するような名著をサーベイした上で1970年から2020年までの50年間の歴史の流れを明らかにしようと試みていたものであり、本書はもっと統計的・計量的な分析を紹介しています。冒頭でコロナや地政学的な不透明性、あるいは、経済安全保障などにおける不確実性への関心が高まっている現状を示した後、マクロ経済予想の不確実性、政策の不確実性、さらに、経済主体の企業や家計の直面する不確実性、労働市場の不確実性、世界経済の不確実性などを分析した後、不確実性への対応を論じています。本書でもさまざま紹介されているように米国のVIX指数をはじめとして、ボラティリティに関する統計など、多くの不確実性指標が明らかにされていて、それらが蓄積された現時点では定量的な分析の可能性が広がっています。あまりにも当たり前ですが、不確実性の高まりは成長率の抑制要因となり、経済活動を不活発化させます。では、どこまで不確実性を除去することが必要か、というか、政府として不確実性を低下させることが出来るかといえば、不確実性をゼロにすることは不可能であり、さらに、不確実性やリスクの許容度はマイクロな経済主体によって異なりますから、マクロの最適性の確保が難しいのはいうまでもありません。政策的な不確実性は政府の責任でミニマイズする必要があります。ですから、できるだけ裁量的な政策対応を少なくして、ルールに基づいた政策を私は志向していて、例えば、失業保険や社会保障をもっと手厚くして裁量的な公共事業の比率を低下させ、ビルト・イン・スタビライザーの役割を高める、などの財政政策が重要だと考えています。これは、そのまま、企業への財政リソースの配分を減じて、家計への配分を増やすことにもつながります。ですから、本書のような、というか、最近の経済産業省の講じようとしている政策のように、経済安全保障を企業に手厚くしたり、特定産業への補助金を増やす政策には大きな疑問をもっています。
次に、東野圭吾『クスノキの女神』(実業之日本社)を読みました。著者は、ミステリ作家であり、日本国内でも有数の知名度ではないかと思います。本書は、念を預けたり取り出したりできるクスノキのある月郷神社を管理する直井玲斗を主人公にしています。その月郷神社に、詩集を置かせてくれと女子高校生の早川佑紀奈が弟と妹ともに3人で訪れます。そして、直井玲斗の叔母である柳澤千舟が通う認知症カフェで知り合った中学生の針生元哉と早川佑紀奈の交流が始まります。針生元哉は脳腫瘍により、夜寝ついて翌朝起きると前日の記憶をなくしているという記憶障害を持っています。同時に、月郷神社近くの資産家宅で起こった強盗傷害事件の犯人が月郷神社に立ち寄ったことが明らかとなり、この事件の解明とともにストーリーが進みます。ラストは何ともいえない終わり方です。ただ、ストーリー展開を読めてしまう読者がいっぱいいそうな気がします。私もややそういう傾向がありました。伊坂幸太郎なんかと違って、この作者は違法性について厳しいですから、強盗傷害事件の犯人をウヤムヤにして終わらせることはしないし、明確に犯人や事実を明らかにした方が読者が喜ぶと思っているフシがあります。何だかんだで、私はそれほど本書は評価しません。ミステリ的には中途半端ですし、いかにもシリーズを終わらせたがっている雰囲気が読み取れます。ラストもやや暗くて、完結編のような色彩を感じ取る読者も少なくないと思います。
次に、恩田陸『spring』(筑摩書房)を読みました。著者は、作家であり、本書は本屋大賞にもノミネートされています。どうでもいいことながら、本屋大賞ノミネート作10冊のうち、私はわずかに『アルプス席の母』と『死んだ山田と教室』と『成瀬は信じた道を行く』と本書の4冊しか読んでいません。かつては過半のノミネート作を読んでいた気がしますが、小説の読書量がやや落ちているかもしれません。それはそうと、本書に関しては出版社も力を入れていて、特設サイトが開設されています。ということで、まず、本書は何よりもバレエ小説です。主人公は天才的なバレエのダンサーであり、振付家でもある萬春です。春の方は「2001年宇宙の旅」よろしく、Halと綴っていたりします。4章構成であり、第1章は萬春のライバルでもあり同僚でもある深津純の視点から、第2章は萬春の教養担当といわれた叔父の稔、この方の姓は不明、の視点から、第3章は振付家である萬春の舞踏に曲を提供する作曲家の滝澤七瀬の視点から、そして、最終第4章は萬春自身の視点から語られています。特に第3章については、少しばかりバレエや音楽の素養がないと読みこなすのに苦労する読者がいそうな気もします。萬春は長野出身で15歳まで地元のバレエ教室に通った後、世界へ飛び立ち欧州のバレエ学校で学んで、欧州を拠点に活躍します。その後も、振付家としても世界的なレベルでバレエを極めます。ギフテッドチャイルドってこんなカンジなのだろうか、と思って読んでいました。本書に関する感想の最後に、春の振付家としての師であるジャン・ジャメは、当然、本書の作り出した架空の人物なのですが、フランス人っぽい名前であるとはいえ、バレエにそれほど素養のない私の知る限り、ジョン・ノイマイヤー以外には思い浮かびませんでした。ハンブルク・バレエ団で芸術監督をしている、あるいは、していた、と思います。本書で登場するバレエのダンサーの名前のうち、私が実際に見たことがあるのは、DVDの画像であって生ではありませんが、ニジンスキーだけでした。さらに、感想を終えて、その昔、たぶん、高校卒業のころか大学の初めに読んだ岩波新書のランガー女史による『芸術とは何か』では、芸術のとっかかりとして舞踏を取り上げた後、絵画や彫刻を含む美術、オペラを含む音楽、詩をはじめとする文学の4ジャンルをもって「芸術」と定義していた記憶があります。たった4冊ながら、私が読んだ本屋大賞ノミネート作のうちではピカイチといえます。その意味で、バレエにほとんど素養ない私でも十分楽しめたことは特筆すべきかもしれません。ただし、1点だけ残念に思ったのは、初版限定本では巻末に2次元QRコードがあり、スピンオフのパートを読むことが期間限定で出来たようなのですが、なにぶん、図書館で時期遅れに借りているもので、スピンオフを読める有効期間を過ぎていました。ちょっとケチくさい気がしないでもなかったです。
次に、安堂ホセ『DTOPIA』(河出書房新社)を読みました。著者は、小説家ですが、芥川賞を受賞したことに示されているように、キャリアが浅くて私はまだよく知りません。もちろん、初読の作家さんでした。一応、念のため、私は表紙画像にある単行本で読んだのではなく、2月発売の『文藝春秋』3月号で読んでいます。本書のタイトルである「DTOPIA」とは、ミスユニバースの女性に対して、主として先進国から集められた多様な10人の男性がこの女性を奪い合うという恋愛リアリティショーです。2024年にボラボラ島で開催されているという設定です。ここで男性は出身地で呼ばれ、日本人男性はMr.Tokyoなわけです。この冒頭シーンのショーの性描写はかなり強烈です。そして、Mr.Tokyoを「おまえ」と呼ぶモモが主人公になってから、舞台はショーの以前の東京に戻ります。モモは現地のモブ=その他大勢の群衆(?)の役目であって、日本人の父とポリネシア系フランス人の母を持つミックスルーツという設定です。そして、モモが「おまえ」と呼ぶ男性は本名が井矢汽水であり、通称キースと呼ばれ、そのキースの東京での、おそらく、ボラボラ島の冒頭シーンから10年ほど前の諸活動が語られます。はい、諸活動です。諸活動の詳細は読んでみてのお楽しみながら、ここでも、性描写は強烈であり、それ以上に事実描写も強烈です。ただし、ボラボラ島の冒頭シーンから文体、というか、ストーリー進行は極めて軽快であり、物語はテンポよく進みます。しかも、時折、というか、冒頭シーンでは特に視点を提供する人物がコロコロと交代し、私のような粗雑な読者には少し理解が進まなかった面があります。うまく表現するのが難しいのですが、テンポよくスラスラと読み進める割には、何が語られてストーリーがどう進んでいるのかの理解が進まない、という困った状況なわけです。初期の川上未映子の作品、『乳と卵』以前くらいがこんな感じではなかったかと記憶しています。しっかりとストーリーやプロットを把握するのではなく、軽快な文章を楽しむという目的での読書には適した小説です。ただし、その昔に芥川賞候補になった川上未映子の作品「わたくし率イン歯ー、または世界」について、当時まだご存命だった石原慎太郎がタイトルについて「いいかげんにしてもらいたい」と選評に記していたのを思い出します。タイチルだけでなく、そういう感想を持つ読者も決して少なくないように私は想像します。
次に、鈴木結生『ゲーテはすべてを言った』(朝日新聞出版)を読みました。著者は、小説家ですが、芥川賞を受賞したことに示されているように、キャリアが浅くて私はまだよく知りません。もちろん、初読の作家さんでした。一応、念のため、私は表紙画像にある単行本で読んだのではなく、2月発売の『文藝春秋』3月号で読んでいます。この作品は、冒頭で、日本でもトップクラスのゲーテ研究者である博把統一がゲーテの言葉を巡り探求してきた軌跡を、娘婿である「私」が小説の形態としてまとめていく、と明らかにしています。しかしながら、冒頭から視点を提供するのは、この博把統一の娘婿ではありません。はい、博把統一の娘である徳歌が結婚する前からストーリーが始まるからです。この冒頭にいう博把統一が探求してきたゲーテの言葉は、夫婦の銀婚式の記念にイタリア料理店での一家団欒の最後に提供された紅茶のティーバッグのタグに記されていました。娘の徳歌には英文学専攻の彼女にふさわしくミルトン、妻の義子にはプラトンで、博把統一ご本人には、これまた、ゲーテ研究者にふさわしくゲーテの言葉でした。しかし、ゲーテに関しては博覧強記なはずの博把統一ご本人がこのティーバッグのタグにあるゲーテの名言、英訳された "Love does not confuse everything, but mixes." について心当たりがなく、その原典を探求するわけです。なお、サイドインフォメーションながら、博把統一がドイツのイェーナ大学に留学していた際、同じ下宿の画学生ヨハンから、ドイツ人は何かを名言っぽく引用する際には「ゲーテ曰く」と称して誤魔化しておく、と教わっていたりします。そして、本書はなかなかにペダンティックな内容でもあります。ゲーテだけではなく、聖書はもちろん、カミュやドストエフスキーといった欧州の文豪の言葉、さらには、日本の漫画である手塚治虫作品、果ては、『マカロニほうれん荘』まで引用元になっていたりします。『マカロニほうれん荘』なんて、私の高校生のころの50年前にはやった漫画ですので、少なくとも作者は週刊漫画雑誌に掲載されていたころにリアルタイムで読んでいたわけではないと思います。それほど、多くの日本人が読んでいるような漫画でもないと思います。やや脱線しましたが、『マカロニほうれん荘』は別としても、アカデミックでペダンティックな視点を強く打ち出したキャンパスノベルの面も本書にはあります。
次に、原田ひ香『財布は踊る』(新潮文庫)を読みました。著者は、小説家であり、私はアンソロジーに収録された短編はかなり読んでいますが、一番最近に読んだ長編は『一橋桐子(76)の犯罪日記』ではないかと思います。なかなかの人気作家だと聞き及んでいますが、いちばん有名な作品ではなかろうかと思っている『三千円の使いかた』すら私は読んでおらず、それほど手が伸ばせていません。なお、出版社により本書の特設サイトが開設されており、主要な登場人物のキャラが紹介されています。ということで、本書は、有吉佐和子『青い壺』と同じ趣向で、ルイ・ヴィトンの財布の遍歴、というか、その財布を入手した人にまつわる連作短編集です。各短編すべてに登場するわけではありませんが、マネー系のライターであり、そういったアドバイスもしている善財夏美です。そして、冒頭短編に登場する葉月みずほは生活を切り詰めてやりくりしている専業主婦であり、新品のルイ・ヴィトンの財布にイニシャルを入れて買います。でも、夫の借金のためにフリマアプリでこの財布を売らざるを得ないことになり、ここから財布の遍歴が始まります。繰り返しになりますが、フリマアプリで売られたり、盗まれたり、拾われたり、鉄道忘れ物市で買われたりします。そして、その財布の持ち主に関して、クレジットカードのリボ払い、FX商材を売りつけるマルチ商法、株投資に関する情報を元にしたセミナー商法、また、いつまでも終わらないように見える奨学金返済地獄、などなど、お金にまつわる暗いトピックが明らかにされます。ただし、たぶん、ごく一部ながら借家のオーナーとなって成功する女性も最後には取り上げられています。財布にまつわって悲惨でブラックなトピックとともに、成功者も描き出されており、ある意味で、格差社会ニッポンの現実も反映しているところがあります。ただし、こういった小説はともかく、決して、自己責任で終わらせる経済社会であってはいけない、と考える人も少なくないことを願っています。
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