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2025年6月28日 (土)

今週の読書は経済書をはじめとして計7冊

今週の読書感想文は以下の通り計7冊です。
まず、ダニエル・ヴァルデンストロム『資産格差の経済史』(みすず書房)は、ピケティ教授が『21世紀の資本』で主張した格差の拡大のうちの富の格差拡大については否定し、富の水準は向上して豊かになり、住宅取得と年金貯蓄により富の格差は縮小している、と主張しています。坂井豊貴『[新版] 社会的選択理論への正体』(日本評論社)では、社会的な選択、特に投票による決定理論を扱っており、18世紀フランスのボルダとコンドルセから説き起こして、アローの不可能性定理まで、社会的な選択論を歴史的かつ理論的にコンパクトに解説し、この新版ではマジョリティ・ジャッジメントとレーティングが加えられています。荻原浩『我らが緑の大地』(角川書店)では、植物に関するスタートアップ企業であるグリーンプラネットの研究所に研究職として勤務する主人公が、知性と意図を持つ植物による反乱に対して研究所の仲間とともに世界の破滅を防ぐべく奮闘します。鈴木光司『ユビキタス』と読み比べたい作品です。秋山訓子『女性政治家が増えたら何が変わるのか』(集英社新書)では、タイトル通りに、女性政治家が増えるとどうなるかについて論じています。国政での女性政治家の進出が遅れていることから、主として地方公共団体に焦点が当てられており、特に、東京都杉並区が大きく取り上げられています。武田知弘『戦前の日本人』(宝島社新書)では、タイトル通りに、戦前、昭和初期くらいまでの日本の政治文化や風俗などを紹介しています。8章構成となっていて、順に、社会現象、政治、教育、性風俗、スポーツ、娯楽、家庭、都市生活が取り上げられています。札埜和雄『大阪弁の深み』(PHP新書)では、冒頭の大阪府警の採用募集ポスターから始まって、基本はユーモラスでありながら、優美ないし優雅とか上品な大阪弁ないし関西弁の特徴や魅力をさまざまな角度から考えようとしています。C.S. ルイス『ナルニア国物語5 馬と少年』(新潮文庫)は、ナルニア国シリーズ第5巻であり、ナルニア南方のカロールメンから奴隷に売られそうになった少年が馬に乗って北方のナルニアを目指し、途中でカロールメンの貴族の娘も同行するようになります。
今年の新刊書読書は1~5月に137冊を読んでレビューし、6月に入って先週と先々週で21冊、そして、今週の7冊を加えて、今年2025年前半1~6月合計で164冊となります。今年も年間で300冊に達する可能性があると受け止めています。なお、三方行成『トランスヒューマンガンマ線バースト童話集』(早川書房)も読んでいて、すでに、FacebookなどのSNSでシェアしていますが、2018年11月と数年前の出版であり、新刊書ではないと思いますので、本日のレビューには含めていません。

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まず、ダニエル・ヴァルデンストロム『資産格差の経済史』(みすず書房)を読みました。著者は、スウェーデンの産業経済学研究所の経済学教授を務めており、ご専門は経済的不平等、財政政策、経済史だそうです。本書の英語の原題は Richer and More Equal であり、2024年の出版です。本書の中身を一言で要約すると、要するに、ピケティ教授が『21世紀の資本』で主張した格差の拡大については、富の格差については否定し、英語の原題に示されている通り、富の水準は向上して豊かになり、富の格差は縮小している、ということになります。そして、その要因は、これまた、『21世紀の資本』の主張のように、戦争による破壊と累進課税制度というよりも、ふつうの市民の間での資産所有の拡大、とくに、自宅所有と年金貯蓄が大きな原動力になっている、という結論です。その結論をフランス、ドイツ、スペイン、スウェーデン、英国、米国の6か国のデータベースを作成して実証しようと試みています。加えて、20世紀には富の平等化が大いに進み、超富裕層の固定化はまったくなされていなくて流動的である、という結論も引き出しています。住宅所有の進展については、いわゆる広い意味での住宅ローンを提供する市場の成熟化により資金制約が緩和して、ふつうの市民が住宅を持てるようになった点を上げています。年金資産については、米国以外の欧州各国で社会保障の拡充がなされたわけですから、理解しやすいところかと考えます。ただ、そういった要因以上に富や資産の格差拡大が生じているのではないか、という実感があるのも事実です。本書でも確認しているように、ジニ係数で見て、フローである年間所得の格差の2倍くらいのストックの資産や富の格差があることは経済学における経験則ですし、ピケティ教授は、r>gという形で、成長率見合いの報酬の伸びしか得られない一般国民よりも、より高い成長がもたらされる資産保有者の方の所得が伸びて、富も蓄積される、と説得力を持って論じたわけです。1980年以降はオーター教授のいうところのスキル偏重型技術進歩、すなわち、高スキルの労働者に有利な技術進歩が進んだ結果として、所得格差が拡大していることも事実です。要するに、欧米では高所得者がさらに高所得になるという形で格差が進んでいるわけです。逆に、日本では雇用の非正規化などによって低所得者がさらに低所得に陥るという形で格差が拡大していることは多くのエコノミストのコンセンサスだろうと考えます。したがって、このフローの所得の格差拡大に関する議論をスキップする形で、あるいは、フローの所得の格差拡大を無視して、ストックの富や資産の格差が縮小している、という議論には大きな疑問があります。データベースについては詳細に見ていませんが、少なくとも、私が本書に収録されている限りの図表を見ていると、明らかに、1980年前後からの英米での新自由主義的な経済政策の採用により、富の格差が拡大しているのは事実だろうと思います。ただ、経済史としては、クズネッツ的な逆U字曲線に乗っかった形での平等化はまだ進んでいる、という主張もあり得るところだろうということは理解します。しかし、そうだとしても、前半の富の増加はともかく、所得格差の拡大に関する議論をすっ飛ばして、富の格差の平等化が進んでいるという本書の結論が多くのエコノミストのコンセンサスを得るのは難しそうな気がします。

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次に、坂井豊貴『[新版] 社会的選択理論への正体』(日本評論社)を読みました。著者は、慶應義塾大学経済学部の教授です。本書は書名に[新版]とあるように、新版ではないバージョンが2013年11月に出版されていて、私はそれも読んでいて、2014年にレビューしています。ほぼほぼ純粋なマイクロな経済学の選択理論のうち、経済的な選択、すなわち、消費対象の財とか生産の時期や量やといった経済的な選択ではなく、社会的な選択、特に投票による決定理論を扱っています。以前のバージョンと同じように、18世紀フランスのボルダとコンドルセから説き起こして、第5章と第6章のアローの不可能性定理まで、社会的な選択論を歴史的かつ理論的にコンパクトに解説しています。それらに加えて、この新版ではマジョリティ・ジャッジメントとレーティングについて新たに取り上げられています。詳細については、私自身が専門外なこともあって、読んでいただくしかありませんが、現在の単純多数決での決定だけではなく、何らかのウェイト付けをした上での投票とか、新たな決定方式を模索する上で参考になると考えます。ただ、政治的な投票において、例えば、女性の政治参加を促すためにクオータ制を取るとか、フランスの一部の地方自治体で実施されているペア投票制とかについては、まだ、学問的な解明が進んでいないのか、あるいは、著者や業界人の興味が薄いのか、本書ではまだ取り上げられてません。最後に、私が選択理論を軽視しがちであるひとつの理由は、無作為抽出により市民参加を基礎とするくじ引き民主主義=Lottocracyもかなりの程度に機能するんではないか、という思い込みがあるのですが、もちろん、そんなことをいっていては選択理論の学問的発展に何ら寄与しませんから、本書では取り上げていません。当然です。

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次に、荻原浩『我らが緑の大地』(角川書店)を読みました。著者は、小説家、それも、直木賞作家であり、長編小説として私は『ワンダーランド急行』と『笑う森』を読んだ記憶があります。本作品の主人公は植物に関するスタートアップ企業であるグリーンプラネットの研究所に研究職として勤める村岡野乃です。夫は単身米国で研究中であり、1才児の一樹とともに暮らしています。植物の会話=コミュニケーション能力について研究しています。すなわち、植物たちは分泌液を出すことで虫を呼び寄せたり、森の中できのこのような粘菌を張り巡らせることで意志の疎通を図り、同時に、意識を持って思考している、ということが判ってきています。その意思疎通について、AIを応用して翻訳して対話が出来ることを目指しています。グリーンプラネットの農場の視察に訪れた企業の社員が、生産された大豆を食べて救急搬送される事件が発生し、さらには、原因不明の山火事や、飢えて狂暴化した猿による襲撃、森を走る「謎の野人」の目撃情報など、奇怪な出来事が相次いで発生します。主人公の村岡野乃は、これらを知性と意図を持つ植物による反乱と考え、研究所の仲間とともに世界の破滅を防ぐべく奮闘します。ということで、詳細は読んでみてのお楽しみなのですが、1点だけ指摘しておきたいと思います。すなわち、同じ植物ホラーである鈴木光司『ユビキタス』(角川書店)と読み比べることを強くオススメします。たぶん、登場人物の多さや被害のスケールという点からは『ユビキタス』の方が壮大かつ精緻なホラーで、ハッキリいって、1枚上手なのだと私は思うのですが、本作品『我らが緑の大地』にも何とも捨てがたい魅力があります。その魅力は、登場人物のキャラクターに起因しているような気もします。ただ、どちらも、ラストがやや尻すぼみで淡々と終わる、というか、あっけなく解決してしまう点は少し残念に感じないでもありません。どうせフィクションなのですから、『リング』、『らせん』、『ループ』の三部作みたいに、地球が滅ぶ瀬戸際までストーリーを突き進めてもいいのに、と思わなくもありません。

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次に、秋山訓子『女性政治家が増えたら何が変わるのか』(集英社新書)を読みました。著者は、朝日新聞のジャーナリストであり、編集委員を務めています。まず、本書でも指摘されている通り、日本では女性の社会的、経済的、そして、政治的な参加が先進国とは思えないくらいに遅れており、特に、今月2025年6月12日に公表された世界経済フォーラム(WEF)の「ジェンダーギャップ報告書」では、調査対象148か国のうちの118位にランクされています。経済、教育、健康、政治の4分野の中で政治は1.000の満点に対してわずかに0.085と、見る影もありません。本書はタイトル通りに、その政治分野での女性政治家が増えるとどうなるかについて論じています。国政での女性政治家の進出が遅れていることから、主として地方公共団体に焦点が当てられており、特に、東京都杉並区が大きく取り上げられています。岸本区長が選出された折には私も大いに驚きましたが、さすがにそういった面での先進的な地域だと改めて実感した記憶があります。私自身は結婚した際に、杉並区にある公務員宿舎で新婚生活を始めて、子どもも生まれましたし、ジャカルタ赴任までの5年ほどを過ごした馴染みある地です。それはともかく、本書での情報源、というか取材対象は決して野党やリベラル勢力だけではなく、与党自民党の代議士にも及んでおり、偏りのない幅広い取材からの見方が示されています。「自民党は勝つためなら何でもする」わけですから、世間一般の流れに沿って、政権与党自身が変わる可能性を本書では否定していません。しかし、私自身はここ何年かの選択的夫婦別姓問題に関する自民党の態度を見て、本書のこの見方には疑問を持っています。加えて、私はエコノミストとして、政治分野を含めて、日本経済活性化の最後の砦が女性の政治経済分野での活躍だと感じています。フランスの一部地方自治体で実施されているペア選挙制度なんて、本書を読むまで知りませんでしたが、本書でも指摘しているように、クオータ制は世界100カ国超で採用されているわけですから、日本でも実現可能だと思います。私も経済学を教える際に、教育や気持ちの持ちようだけではなく、必要な場合には法令による規制や制度の整備などが政策的に必要と教えています。自由と平等の範囲内で女性の権利を広く認める制度が必要と感じます。とくに、本書では議論していないクリティカルマスの実現のために、政治の議員や企業の管理職などでクオータ制は導入すべき、と考えています。クオータ制は本書でも指摘されているように、家父長制的な社会構造のもとでの女性への不公正・不公平な扱いを修正する機能を持っている考えるべきです。選択的夫婦別姓に続く女性の参加拡大の次の手はクオータ制ではなかろうか、と私は考えています。

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次に、武田知弘『戦前の日本人』(宝島社新書)を読みました。著者は、ライターなんだろうと思います。本書では、タイトル通りに、戦前、昭和初期くらいまでの日本の政治文化や風俗などを紹介しています。8章構成となっていて、順に、社会現象、政治、教育、性風俗、スポーツ、娯楽、家庭、都市生活が取り上げられています。少なくとも、第2章の副題の「実は最先端の民主主義国家だった」というのは、きわめてミスリーディングといわざるを得ません。まあ、それ以外は、大雑把に、知っていることが多い気もしますが、それなりに楽しめる内容になっています。ただ、忘れるべきでないのは、戦前期日本は明らかに階級社会であり、今とは比べものにならないくらい格差が大きかったという点です。ですから、第5章のスポーツの副題「オリンピックでメダルを獲りまくっていた」というのは事実であるとしても、ごく一握りのトップクラスのアスリートに着目すれば、オリンピックのメダリストがいっぱい、ということですが、第4章の副題「いたるところに売春があった」のように、貧困に起因した身売りがいっぱいあったのも事実です。松本清張「天城越え」に登場する女性もそうですし、身売りに近い形での「奉公」も少なくありませんでした。本書で欠落しているのは、そういった貧困も含めて、農村部の国民生活です。戦後直後の1950年の時点ですら、就業者のうち第1次産業に重視している割合は50%近かったわけですから、現在の国民生活の実態に印象を近づけるべく最終章で都市生活を取り上げても、そういった都市住民が戦前期日本でマジョリティだったと考えるのは間違っています。私自身の関心分野に引きつけて、第3章の教育について考えると、副題が「お金がなくても優秀な子は大学まで行けた」となっていて、教員養成のための師範学校なんかが学費無料どころか、お給料をもらえた、というのは事実です。ですから、NHK朝ドラ「あんぱん」で主人公が師範学校に行っていたころのストーリーには少し私は違和感を持っていました。ただ、陸軍士官学校を持ち出すのはやや時代錯誤といえなくもありません。また、アジア近隣国から多数の留学生を受けいれていたのは、我が国における教育の質の高さよりは交通の便の関係ではないか、と考えなくもありません。飛行機でもって10-20時間で行ける時代と船で何か月もかかる時代では、留学先も違ってきます。繰り返しになりますが、それなりに楽しめる部分もありますが、本書の内容を鵜呑みにせずに批判的に受け止めるだけの読書や歴史の素養を持ちたいものです。

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次に、>札埜和雄『大阪弁の深み』(PHP新書)を読みました。著者は、龍谷大学文学部哲学科教授、日本笑い学会理事です。本書では、タイトル通りに、大阪弁≅関西弁の魅力を探ろうと試みています。その地方言葉の魅力を一言で表したのが表紙見開きに、「くすっと笑えるポスター、優美な大阪言葉」に凝縮されていると私も大いに同意します。基本はユーモラスでありながら、優美ないし優雅とか上品なのが、大阪弁≅関西弁の特徴や魅力なんだと思います。その魅力を冒頭の大阪府警の採用募集ポスターから始まって、ひらかたパーク=ひらパーで、また、街角でさまざま例を出しつつ、ややお固いところで、経済、行政、司法、あるいは、教育とスポーツでも確認しています。私は本書の大阪弁≅関西弁の特徴や魅力に加えて、理解しやすいというのも加えたいと思います。というのは、京都出身で関西弁を使いながら育ちつつ、大学卒業後は60歳の定年まで東京で公務員として勤務した身として、理解しがたい地方言葉は確実にあると感じているからです。発音で理解できない場合もあれば、たとえ文字にしてもまったく判らない、という場合も少なくありません。その昔に公務員住宅の年末大掃除に狩り出されて、「エンゾの掃除を頼む」と担当を決められてキョトンとしていると、「エンゾ掃除が嫌なのか」と文句をいわれたことがあります。そうではなく、「エンゾ」が何かを理解できなかったわけで、エンゾとはどぶや溝を指す方言であると説明されましたが、そんなのは知らなければ判るはずもありません。それなのに、どぶ掃除を嫌がっているというふうに受け止められるのは困るわけです。ところが、大阪弁≅関西弁はほぼほぼ全国で理解されるのではないか、と私は受け止めています。たぶん、人数が多かったり、メディアでの発信力が大きかったりするからだろうと思います。ただ、こういった大阪弁≅関西弁の魅力は、言葉の魅力だけではないと私は考えていますので、本書の指摘にもうひとつ、大阪人≅関西人のユーモラスで上品な性格や文化的な背景を加えた方がいいと感じています。もちろん、京都人のように、腹の中では決して上品なことを考えているわけではないにもかかわらず、口から出る言葉だけは上品で優美だったりする場合も少なくないのですが、言葉の表面だけではなく、その言葉が発せられる背景も言葉の魅力に大いに関係するのだろうと私は考えています。

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次に、C.S. ルイス『ナルニア国物語5 馬と少年』(新潮文庫)を読みました。著者は、著者は、アイルランド系の英国の小説家であるとともに、長らく英国ケンブリッジ大学の英文学教授を務めています。英語の原題は The Horse and His Boy であり、あくまで馬の方が主たる扱いを受けています。1954年の出版です。本書も、小澤身和子さんの訳し下ろしにより新潮文庫で復刊されているナルニア国物語のシリーズ第5巻です。繰り返しになりますが、あくまで馬のブリーの方が主であり、少年のシャスタが従という扱いです。本書の時期設定は、まだペペンシー家の4きょうだい、すなわち、ピーター、スーザン、エドマンド、ルーシーがナルニアに滞在しているころです。すでに、ナルニアは白い魔女から開放されています。そして、本書の冒頭に置かれた地図によれば、一番北に位置するナルニアに対して、一番南はカロールメンで、そのカロールメンから奴隷に売られそうになったシャスタがブリーに乗って逃げるところから始まります。ブリーはオスで、もともとがナルニアの馬でしたので、ナルニアへの道はよく知っていますし、何よりもしゃべることができます。そして、ブリーとシャスタがナルニアに向かう途中で同じカロールメンの貴族の娘であるアラヴィスと同行することになります。アラヴィスは父親の意向で老齢の宰相アホシュタと結婚させられそうになって、やっぱり、ナルニアのしゃべる牝馬のフインに乗ってナルニアを目指します。その途中で、彼らはカロールメンの王ティズロックの息子であるラバダシュがナルニアに侵攻する情報を聞きつけて、それをナルニアに伝えようとします。そして、最後は、シャスタの本当の姿が明らかになります。巻末の解説にもありますが、カロールメンはイスラム教の国を、北方のナルニアは欧州の国を、それぞれイメージさせるものがあり、そういった差別感情を読み取る読者もいるかもしれません。時代背景からして止むを得ないのかもしれませんが、違和感を覚える向きもあるかもしれません。でも、過剰に反応するのも読書の楽しみを損なう可能性がありますので、何とも悩ましいところです。

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