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2025年8月23日 (土)

今週の読書は新書中心に計6冊

今週の読書感想文は以下の通り計6冊です。
まず、阿部太郎ほか『資本主義がわかる経済学』(大月書店)は、初学者向けのマルクス主義経済学の入門書であり、特に、マクロ経済学については基本的にケインズ経済学と同様の分析が紹介されていて、主流派経済学と大きな違いはないようですが、搾取の概念を取り入れた企業利潤の発生については特徴を感じます。高橋洋一『お金のニュースは嘘ばかり』(PHP新書)では、総じて、経済理論に基づいて学術的な解説をするというわけではなく、現在の日本における経済報道や政策議論に関して、その裏側にあって必ずしも明らかにするのが適当ではない事実を暴いてみせるという意図が込められている気がします。三橋貴明『財務省と国に騙されない! テレビ・新聞が報じない経済常識』(宝島社新書)では、輸出補助金の形を避けつつ、実質的に輸出の補助になる輸出戻し税の還付が可能になる消費税のシステムを指摘しつつ、株主資本主義による賃金が上がらない実態を明らかにしています。友松夕香『グローバル格差を生きる人びと』(岩波新書)では、西アフリカにおけるフィールドワークなどを通じて、先進国を主体とし途上国を客体とした「善意の国際協力」は終了しつつあり、アフリカの人びとは国際協力に欺瞞を感じ、抵抗を試みている、という実感を表明しています。竹村牧男『はじめての大乗仏教』(講談社現代新書)では、釈迦の悟りに基づく原始仏教から部派仏教を経て大乗仏教へと展開する流れを示して仏教の歴史をたどりつつ、大乗仏教の思想上の特質と歴史的な展開について一般向け、初学者向けに示された入門書なのですが、私にはかなり難しかったです。C.S. ルイス『ナルニア国物語7 さいごの戦い』(新潮文庫)は、ナルニア国物語のシリーズ最終巻であり、キリスト教的な「最後の審判」あるいはハルマゲドン的な要素を含み、偽アスランが現れて混乱と絶望、さらに、滅亡の危機に陥るナルニアにおけるさいごの戦いを経て、驚愕のラストを迎えます。
今年の新刊書読書は1~7月に189冊を読んでレビューし、8月に入って先週までに19冊を読み、今週の6冊を加えて、合計で214冊となります。今年も年間で300冊に達する可能性があると受け止めています。これらの読書感想文については、Facebookやmixi、mixi2などでシェアしたいと考えています。また、本日の読書感想文とは別に、泡坂妻夫『煙の殺意』(創元推理文庫)と須賀しのぶ『夏空白花』(ポプラ文庫)も読んでいて、いくつかのSNSでシェアする予定ですが、新刊書ではありませんので、本日の読書感想文には含めていません。逆に、阿部太郎ほか『資本主義がわかる経済学』(大月書店)は、2019年の出版で新刊書ではありませんが、諸事情により、例外的に本日の新刊書のブックレビューに取り入れています。

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まず、阿部太郎ほか『資本主義がわかる経済学』(大月書店)を読みました。著者は、さまざまな大学の経済学研究者です。我が勤務校の経済学部長もいくつかのチャプターを執筆しています。ですので、いわゆるマルクス主義経済学の初学者向けのテキストと考えてよさそうです。初学者向けとはいいつつも、多くのチャプターで詳細な数式を用いたモデルの展開がなされていて、いくつかのチャプターに数学注がついています。基本的にそう難しい数学は用いられておらず、中学校レベルの連立方程式を解ければ十分という気がしますが、例外的に、第6章の数学注2では偏微分が登場しています。私は本学経済学部の1-2年生には難しそうな気がします。ということで、私は官庁エコノミストの出身ですので、いわゆる「御用学者」以上に政府の公式の経済学を用いた経済分析をしていたわけですので、マルクス主義経済学にはほとんど素養を持ち合わせません。ただ、直感的に、もっとも違いが大きい点のひとつは市場における価格をシグナルとする資源配分を分析するミクロ経済学、というか、市場や価格決定の不完全性を強調する見方なのではないか、と理解しています。本書でも長期的な市場の価格決定をていねいに解説しています。マルクス主義経済学は、基本的に、スミスやリカードに基づく古典派経済学と同じで労働価値説を取っていて、それでも、需要と供給の関係で価格が決定されるというのは同じです。また、マクロ経済学については基本的にケインズ経済学と同様の国民所得ないしGDPの分析が紹介されていて、乗数理論なんてケインズ経済学そのものでした。ただ、マルクス主義経済学ではマクロ経済のうちでは景気循環理論が主流派経済学とやや異なっています。でも、私が想像したほどには異なっていません。ハロッド的な不安定性はそう大きな違いはありません。もっとも違っているのは、短期的な経済学では利潤に対する考え方であり、主流派経済学でも搾取や収奪、あるいはレントの追求は否定しませんが、企業の利潤が搾取の存在そのものであるという置塩の定理はさすがに使いません。本書では置塩の定理ではなく、マルクスの基本定理と呼んでいますが、剰余労働が存在するがゆえに、企業利潤が発生するということですから、同じことだと思います。最後に、私は党派的な違いを無視すれば、政府が経済分析に用いている主流派の経済学とマルクス主義経済学には大きな違いはないと考えています。その昔は、資本主義経済では資本家=ブルジョワジーと労働者=プロレタリアートの間で格差が拡大し、それが革命を引き起こして生産手段が公有ないし共有される社会主義にたどり着く、という理解でしたが、暴力革命が先進国で近い将来に起こるという可能性はほぼほぼゼロと考えるエコノミストがほとんどでしょうし、選挙による政権交代すらそう近い将来のことではない、と考える国民が多いという実感が私にはあります。しかし、現在の資本主義経済の限界についても、さまざまな角度から分析する経済学は常に必要です。

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次に、高橋洋一『お金のニュースは嘘ばかり』(PHP新書)を読みました。著者は、大蔵省・財務省の公務員から学界に転じて、嘉悦大学の教授です。経済政策を巡る政治的な駆引き、というか、昨年の総選挙後の政党間の合従連衡から説き起こして、裏で仕切っていたのは財務省であると指摘しています。すなわち、財政負担のより少ない主張をしている維新を、国民民主党に代わる形で、自公政権に取り込むような動きを指しています。さらに、消費税減税に関しては、自公政権と立憲民主党が「プロレスごっこ」をしているという見立てを示しています。その上で、経済学的な解説に移って、政府が国民に奨励すべき投資先は株式ではなく国債であるとか、NISAについても結局もうかるのは国民ではなく金融機関であるとか、まあ、判りやすい議論を展開しています。加えて、経済政策以外にも、教育政策は米国タイプを志向しているとか、テレビ局と新聞社が一体化している日本の現状を批判したり、といった主張も見られます。政策議論から少し距離を置きますが、日産とホンダの経営統合についても独自の見方を示したりもしています。もちろん、トランプ関税に関する独特の見方も含まれています。例えば、国債に関する議論などが典型的ですが、総じて、経済理論に基づいて学術的な解説をするというわけではなく、現在の日本における経済報道や政策議論に関して、その裏側にあって必ずしも明らかにするのが適当ではない事実を暴いてみせるという意図が込められている気がします。消費税が社会保障の財源になっているというのは事実と異なるわけで、本書の指摘を待つまでもありませんが、その事実とは異なる見方を財務省や政府がどうして主張しているのか、その裏側の真意には何があるのか、といった点を一般読者に判りやすく解説しようとしている姿勢について、私はいいと思いますが、ややトリッキー、というか、強調すべき部分が違っているのではないか、という気も同時にしています。ただ、内容をきちんと読めば正しい方向を向いていることは確かでが、本書で経済学的にどこまで意味のある議論を展開しているかは疑問なしとしません。経済政策や経済以外の政策決定の裏事情について、経済学の範囲から考えて、どこまでの議論が必要かは、私にはイマイチよく理解できていませんが、政府、というか、「お上」のいうことを素直に信じるだけではいけない、ということは知っておいて損はないかもしれません。

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次に、三橋貴明『財務省と国に騙されない! テレビ・新聞が報じない経済常識』(宝島社新書)を読みました。著者は、中小企業診断士として独立しネットを通じた情報発信を行っています。やや煽動的な表現が気にかからないわけではありませんが、私は本書の経済学的な主張は大筋で正しいと感じています。本書は編集者との対談で進行していて、私には必ずしも好みの形式ではありませんが、書くよりも話す方が得意な人も少なくないものと想像します。ということで、まず、バブル経済崩壊後の30年に及ぶ失われた時代が、インフレに突入したことにより終焉を迎え、日本経済は新たなフェーズに入ったと主張し、冒頭では消費税の由来、というか、フランスにおける発祥の歴史を明らかにしています。すなわち、国際ルールで許されていない輸出補助金の形を避けつつ、実質的に輸出の補助になる輸出戻し税の還付が可能になる消費税のシステムです。その上で、もっとも多額の輸出戻し税を受け取っているのはトヨタであり、年6000億円くらいではないか推測を示しています。年間33兆円の消費税収入のうち、9兆円が輸出戻し税として、輸出している大企業などに還付される実態を明らかにし、消費財が社会保障の原資となっているという怪しげな説を論破しているわけです。その上で、株主資本主義が増加の一途をたどる社会保障保険料負担や一向に上がらない実質賃金の原因であるとの議論を展開しています。私も賃金が上昇しない大きな要因、すべてではないとしても、大きな要因は外国人投資家が株主シェアの一定部分を保有している背景があり、株主資本主義であると考えますから、大いに同意しています。米価高騰やトランプ関税などについて論じた後、最後の方の2章では、財政破綻論や財務省の政策志向などを批判して結論としています。繰り返しになりますが、私から見て、本書の主張は経済学的にほぼ正しいと受け止めています。株主資本主義が安価な労働力を求め、したがって、ではないとしても、外国人労働者の安易な導入には反対、また、グローバル化の野放図な進行には批判的、というのは、政策志向としても私と方向性を同じくしている、という気がします。ただ、願わくは、「日本人ファースト」といった誤った外国人に対する差別や偏見につながらないことを望みます。

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次に、友松夕香『グローバル格差を生きる人びと』(岩波新書)を読みました。著者は、国際協力機構(JICA)の協力隊員の経験もある法政大学経済学部准教授です。学位は農学博士のようです。ご経験からして、ガーナとその北方に位置するブルキナファソを中心とする西アフリカを中心に、国際開発援助の実態について議論しています。私も数少ないながら開発経済学に関する論文は書いたことがあり、経済学一般や開発経済学、さらに、心理学などにおいては、マクロの領域とマイクロの領域の両方があり得ますが、本書はマイクロな領域でフィールドワークに基づくケーススタディを中心に議論を進めています。ですので、どこまで幅広い一般性があるかどうかは検証のしようがありませんが、私が読んだ範囲では決して大きく的を外れているわけではないと思います。ということで、本書冒頭では、まず、国際援助というものについて、明記はしていませんが、おそらくは経済開発協力機構(OECD)の開発援助委員会(DAC)に集まる先進国を主体とし、途上国を客体とした「善意の国際協力」は終了しつつあり、アフリカの人びとは国際協力に欺瞞を感じ、抵抗を試みている、という実感を表明しています。途上国の実態として、大学での高等教育を受けても適切な職はなく、識字教育を受けてそれなりの教養ある英語を話せる階層は欧米の白人相手の国際ロマンス詐欺に走るケースもあると指摘しています。欧米からの開発援助は資源や利権目当ての先進国の国益を眼目とするもので、逆に、OECD/DACに属さない中国やロシアからの国際協力にはそれなりの親近感を感じている、との見方を示しています。日本で報じられている限り、ロシアはともかく、中国の対外援助はOECD/DACの先進国よりもひどい利権目当てであり、中国への債務返済に窮したスリランカ政府がハンバントタ港の99年間の運営権を中国に差し出した、なんてニュースも見かけますが、アジアならぬアフリカでは逆の味方がなされているようです。西アフリカの植民地時代の旧宗主国であるフランスをはじめとする先進国の世論やメディア報道、国際援助に疑問の目が向けられている実態も詳細にリポートされています。農業においては、アフリカの伝統農法から「緑の革命」に基礎を置く化学肥料に依存する農業への転換により、むしろ土地生産性が低下したとも指摘しています。最後に、繰り返しになりますが、フィールドワークによるケーススタディですので、著者ご本人以外からの反論のしようがありませんが、それほど大きく的を外しているわけではないと私も受け止めています。私自身はチリの首都サンティアゴの大使館で外交官として、また、ジャカルタのインドネシア官庁でのJICA専門家として、南米と東南アジアにはそれぞれ3年間に及ぶ直接の経験ありますが、東欧はワルシャワにJICA短期専門家として2週間の滞在しか経験なく、アフリカについては出張などの短期滞在すら経験ありません。アフリカの、特に西アフリカの旧宗主国たる英国やフランスといった「白人の国」に対する一種のあこがれと反発、そのあたりは複雑なものがあるのだろうと想像します。

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次に、竹村牧男『はじめての大乗仏教』(講談社現代新書)を読みました。著者は、東洋大学の学長を務めていた筑波大学名誉教授、東洋大学名誉教授です。ご専門は、仏教学、大乗仏教思想だそうです。本書は、新書で出版されていることからも理解できる通り、大乗仏教の思想上の特質と歴史的な展開について一般向け、初学者向けに示された入門書と考えるべきなのですが、はい、私にはかなり難しかったです。まず、仏教の歴史をたどり、釈迦の悟りに基づく原始仏教から部派仏教を経て大乗仏教へと展開する流れを示し、中国における浄土宗や禅宗の発生、さらに、それらが日本にもたらされてきた経緯を明らかにします。冒頭2章くらい、このあたりまでは、私もそれなりに理解できなくもありません。第3章あたりから難しくなり、生病老死の人生一切皆苦を超えて、唯識論から世界を分析したりすることになると、悲しいことに、私ではもうついて行けませんでした。涅槃が3つあるといわれると、「何それ」となるのは私だけではないと思います。仏になるための発菩提心から修行を始めたりすると、他力本願の浄土真宗の門徒である私には理解を超えます。このような私のためか、最終第10章では自力と他力について説き起こされていますが、一向門徒の私にはいっさい自力という観念はなく、「南無阿弥陀仏」と唱える念仏でさえも、自力でやっているわけではなく、阿弥陀さまからの回向によると考えています。私は大学の授業の合間の雑談で、学生諸君に「徳を積む」という表現を教えていたりするのですが、それですら、自力という意識はありません。世間虚仮であり、私は阿弥陀さまによって動かされていると考えており、ある意味で、運命論者のアカシックレコードも暗黙のうちに認めている気がします。そして、その基本的なラインは本書も同じであり、大乗仏教とは単なる宗教の教義にとどまらず、人間の苦しみを救済しようとする実践的あるいは運動論としての受け止めがなされている、と強く感じました。本書のどこかで言及していた記憶がありますが、「衆生救済の宗教運動」という考えです。人間に関する苦である限り、どんな問題でも解決できる、という正しくかつ強い信念です。最後の最後に、私は浄土宗や浄土真宗により、念仏で阿弥陀仏を信じるのは末法の世だからであり、弥勒が現れても現れなくても、念仏する重要性が末法の世にはあると考えているのですが、本書では、末法についてまったく言及がありません。大乗仏教とは関係ないのでしょうか。少し不思議に感じました。

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次に、C.S. ルイス『ナルニア国物語7 さいごの戦い』(新潮文庫)を読みました。著者は、アイルランド系の英国の小説家であるとともに、長らく英国ケンブリッジ大学の英文学教授を務めています。英語の原題は The Last Battle となっています。1956年の出版です。本書も、小澤身和子さんの訳し下ろしにより新潮文庫で復刊されているナルニア国物語のシリーズであり、第7巻となります。出版順でいっても、ナルニア国物語の歴史的あるいは時系列的にも、どちらの意味でも最終巻です。時系列的に考えて本書の直前のナルニア国物語は第6巻の『魔術師のおい』ではなく、第4巻の『銀の椅子と地底の国』となります。本書は、タイトルから容易に想像されるように、キリスト教的な「最後の審判」あるいはハルマゲドン的な要素をたっぷりと含んでいます。ということで、あらすじは、ナルニアに偽の預言者猿シフトが現れ、お人好しのロバのパズルに、滝から流れ落ちてきたライオンの毛皮を着せて偽アスランを仕立て、ナルニアの民を欺き支配するようになります。木々は無惨に切り倒され、しゃべることが出来るナルニアの動物たちが奴隷のようにカロールメン人の下で働かされたりします。しかも、隣国カロールメンの兵士が侵攻し、邪神タシュまでも現れ、ナルニアは混乱と絶望、さらに、滅亡の危機に陥ります。ティリアン王の下にユースティス、ジル、ルーシーをはじめとする仲間が駆けつけて、最後のたたかいが展開されます。ナルニアは終焉を迎えるのですが、そのラストは何ともいえません。人により評価が分かれることと思いますし、英語の原書出版当時ですら大いに議論を巻き起こしたとの記録もあるやに聞き及びます。そのあたりは読んでみてのお楽しみです。私個人の評価では、キリスト教的、あるいは仏教的な意味でも、よく考えられた結末だと評価しています。

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