今週の読書は経済書やドキュメンタリーなど計6冊
今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、クララ E. マッテイ『緊縮資本主義』(東洋経済)では、第1次世界大戦終了後の戦間期における欧州の経済史をひも解いて、勤勉や倹約を唱えて全体としてデフレを目指す政策運営である緊縮政策により、いかにしてイタリアがファシズムに至ったかを解明しようと試みています。チョン・キョンスク『玩月洞の女たち』(現代人文社)では、姉妹愛や親しみを込めてオンニと呼ばれる性売買に従事する女性の人権を守り、自立の道を考え、社会一般からの偏見や烙印に立ち向かい、サルリムという女性人権支援センターの活動をさまざまな角度から紹介しています。万城目学『あの子とO』(新潮社)は、前作『あの子とQ』に続いて、現代的なバンバイアの一家が繰り広げる学校や日常の生活とともに、江戸時代初期の寛永年間に生粋の吸血鬼となった男の動向を中編3話に取りまとめています。板バイアではない新たなキャラも登場し、続編が楽しみです。李舜志『テクノ専制とコモンへの道』(集英社新書)では、オードリー・タンとE.グレン・ワイルによる『PLURALITY 対立を創造に変える、協働テクノロジーと民主主義の未来』の紹介となっており、AIの急速な進歩に伴う否定的な見方=「テクノ専制」などに対して、デジタル民主主義を考えています。川端道喜『和菓子の京都 増補版』(岩波新書)は、1990年出版の前版の増補版であり、「川端道喜」の当主であり第15代御所粽司の著者が、タイトル通りに、京都の和菓子、棹菓子、数菓子、餅菓子などの歴史とともに、御所や公家百官など京都の歴史を紹介しています。二宮和也『独断と偏見』(集英社新書)は、いくつかのメディアで少し話題になった本で、大学の図書館の新刊書として無造作に置かれていたので、ついつい手にとって読んでしまいましたが、良くも悪くも「芸能人の本」という印象で、それほどタメになった気はしませんでした。
今年2025年の新刊書読書は1~7月に189冊を読んでレビューし、8月に入って今週の6冊を加えると25冊、1月からの累計では合計で214冊となります。今年も年間で300冊に達する可能性があると受け止めています。これらの読書感想文については、FacebookやX(昔のツイッタ)、あるいは、mixi、mixi2などでシェアしたいと予定しています。
まず、クララ E. マッテイ『緊縮資本主義』(東洋経済)を読みました。著者は、米国タルサ大学経済学部教授、異端派経済学研究センター長なのですが、本書の執筆時は米国のニュースクール・フォー・ソーシャルリサーチ経済学部准教授だったそうです。経済史がご専門ではないかと想像しています。英語の原題は The Capital Order であり、2022年の出版です。本書では、戦間期欧州、特に、イタリアと英国の経済史をひも解いて、いかにしてイタリアがファシズムに至ったかを解明しようと試みています。その中で、特に、イタリアをファシズムに導いた大きな要因、経済政策上の要因のひとつとして緊縮政策を考えています。通常、緊縮政策といえば財政政策が思い浮かべられるわけで、歳出面では政府支出の削減、歳入面では増税、などの財政政策により財政赤字の削減ないし黒字化を目指すものと考えられていると思います。しかし、本書では緊縮政策をもっと広い次元で捉え、財政政策とともに金融政策と産業政策における緊縮も分析対象としています。勤勉や倹約を唱えて、全体としてデフレを目指す政策運営といえそうです。もちろん、現在でも緊縮を求める意見は世界中で根強く、日本でも「金融正常化」と称して金利引上げを求める意見が決して無視できないのは広く報じられている通りです。本書は2部構成であり、第Ⅰ部では、第1次世界大戦後の欧州において財政健全化を前面に押し出して労働運動を抑え込むとともに、階級支配を強化しつつ実質賃金を抑制し従順な労働力の確保を目指した点が強調されています。第Ⅱ部では、民主主義というよりはテクノクラートによる政策形成が強化され、公共財の私物化や格差の拡大が広がり、イタリアではファシズムに道を開いたと議論しています。これらの緊縮政策は、例えば、金本位制下での旧平価による金解禁を目指すという形での誤った政策ではなく、意図的ではないとしても、むしろ、資本主義体制を維持し階級支配を強化する戦略的意図で持って緊縮政策が進められた、という分析結果を明らかにしています。私も、現在の先進各国におけるポピュリズムやファシズムに近い右派や極右の伸長を見るにつけ、緊縮政策の果たした役割を改めて考えさせられるものがありました。ただ、疑問点が2点あります。第1に、国際金融システムとして金本位制や固定為替相場制であれば、緊縮政策による為替レートの維持がひとつの目標になり得ますが、現在のような変動相場制では大きな圧力にはならないような気もします。第2に、本書では英国もイタリアもともに緊縮政策を推し進めたという歴史的事実が取り上げられていますが、他方で、イタリアがファシズム体制に屈したものの、英国はファシズムには陥らなかった、というのも歴史的事実です。この違いはどこから来ているのか、私の読み方が悪いのかもしれませんが、イマイチ理解が進みませんでした。
次に、チョン・キョンスク『玩月洞の女たち』(現代人文社)を読みました。著者は、韓国釜山にある女性人権支援センター「サルリム」の創設者・初代所長として、2016年まで所長を務めており、性売買に従事する女性=オンニたちと深く関わりながら支援活動を続けてきています。そういったフィールドワーク、というか、実際の経験を土台にして、オンニたちの声を直接伝えるルポルタージュです。ハングルによる原書は2020年に出版されています。最初に、タイトルにある「玩月洞」は「ワノルドン」と日本語のルビが振ってあり地名なのですが、行政上の住所というわけではありません。というのも、最初の漢字である「玩」は日本語でも玩具という言葉があるように、弄ぶという意味であり、次の「月」は女性を隠喩的に表していて、決していい意味の言葉ではないから、と私は理解しています。この地区は韓国釜山の一角にあり、専業及び兼業の性売買業者が集結しています。歴史的には、植民地時代に日本人男性が日本人女性を連れて来て、日本の遊郭と同じような公娼館を設置し、最近まで東洋一の性売買の地となっていました。その意味で、日本とも関わりの深いところです。多くの女性は前払金という借金を背負わされて、前近代的な債務奴隷のような形で性売買に従事させられている実態が明らかにされています。しかし、韓国では、旧法の淪落行為防止法に代わって、2004年に性売買防止法が制定・施行され、姉妹愛や親しみを込めてオンニと呼ばれる性売買に従事する女性の人権を守り、自立の道を考え、社会一般からの偏見や烙印に立ち向かい、様々な活動を繰り広げているのが、著者が初代所長を務めたサルリムという女性人権支援センターであり、その貴重な記録の一部が本書であるといえます。そういった活動の詳細については、ここでレビューするよりも、ぜひとも本書を読んでいただきたいので、詳しくはお伝えしません。ただ、私が読む前に想像していたよりもひどい実態が描き出されています。こういった性売買については、右派的な見方からすれば、あくまで営業の自由や職業選択の範囲内、とする意見がある一方で、前払金による借金を背負った債務奴隷に近い形で経済的に人権が奪われているとともに、暴力的にも人権をないがしろにされている、とする議論もあります。もちろん、私は圧倒的に後者に近いと考えています。最後に、本書の冒頭で、著者が大学の講義の中で、「売春も観光資源の一つになりうる」という教授の発言にびっくりした、というエピソードが言及されています。実は、日本でも万博からシームレスにカジノを営業して観光資源としようという考えがあります。決してインバウンドの外国人観光客向けだけではなく、一般的な観光資源と私は理解しています。売春はもちろん、カジノを観光資源とすることには、私は強く反対します。では、何が観光資源として適当であるか、という考え方について、私も観光経済学に関する論文「訪日外国人客数およびインバウンド消費の決定要因の分析」を書いたこともあるエコノミストですので一家言あります。それは、10才前後の小学生だったころの我が子あるいは我が孫に対して推奨できる観光活動であるか、という点につきます。やや狭い考えで、いわゆる「大人の付き合い」的なナイトライフが入る余地がない、あるいは、危険性の高いアドベンチャーはどうか、といった短所は理解しているつもりですが、観光資源を考える場合の私のひとつの見方です。
次に、万城目学『あの子とO』(新潮社)を読みました。著者は、エンタメ作家であり、昨年、『八月の御所グラウンド』で直木賞を受賞しています。本書は前作『あの子とQ』の続編となっていて、短編というよりは少し長めの中編くらいのボリュームを3話収録しています。緩やかに関係性を持たせている連作中編集です。まず、「あの子と休日」では、主人公は高校生バンパイアの嵐野弓子の通う高校の新聞部員、「翌檜」の記者の須佐見です。嵐野弓子とヨっちゃんこと吉岡優と他にバレー部の部員2人と合わせて、同じ学校の高校生4人が乗ったバスが崖から転落したにもかかわらず、嵐野弓子以外はほぼほぼ無傷だった謎、これは前作で起きた事故であり、その謎を新聞のスクープとして探るため、同じ女子で接近しやすい嵐野・吉岡の2人が所属するバスケ部の新人戦に取材に行くと、ショッピングモールのイベントである高校生クイズ&ゲーム大会に嵐野・吉岡・須佐見の3人チームで出場することになります。地元ラジオ番組で人気のオカヤマオカの司会進行でクイズとゲームが繰り広げられますが、嵐野・吉岡・須佐見のチームが不自然な形で勝ち進みます。「カウンセリング・ウィズ・ヴァンパイア」では、前作『あの子とQ』後半に登場した江戸時代初期の寛永時代に吸血鬼に噛まれて吸血鬼化した生粋の吸血鬼である佐久が主人公です。佐久は病院の検査技師をしていて同じ病院でカウンセリングを受けます。佐久が吸血鬼になった江戸時代初期の寛永年間の夢見について相談します。この中編だけは、前作とつながるものの、本書の中でのつながりが不明ではないかと思って読み進んでいたのですが、実は、次の中編とキッチリとつながります。で、最後の表題作「あの子とO」は、小学生の双子吸血鬼・ルキアとラキアが主人公です。双子の両親も、もちろん、吸血鬼であり、山の上でピッツェリアを経営していて、カナダ人のオーエンさんも働いています。このオーエンさんが「O」なわけです。でも、よく日焼けしていて日光の苦手なバンパイアではありえず、双子はオーエンさんの見ているところではバンパイアの正体がバレないように気をつかっています。春休みにアルバイトで嵐野弓子がピッツェリアで働きに来ますし、双子の父親の兄は、同じくピッツェリアを経営していましたが、今では地元ラジオ番組にでていて、オカヤマオカとして活躍していますので、第1話の「あの子と休日」と強く関連付けられています。双子がマンガ創作に行き詰まって、オーエンとキャンプに行った際に熊に襲われて、オーエンの正体が明らかになります。そして、オーエンを通して第2話の「カウンセリング・ウィズ・ヴァンパイア」と関係します。繰り返しになりますが、本書は前作『あの子とQ』の続編となります。ですので、出来うることであれば前作を読んでおいた方がより楽しめます。しかも、明らかに、さらに続編がある終わり方です。この作者は今までシリーズものを書いたという記憶が私にはないのですが、前作も本書も、この作者らしい軽快かつ奇想天外、そして、コミカルな展開が楽しめます。吸血鬼という恐ろしげな存在を身近なJKやピッツェリアにいる存在として描きつつ、佐久のようなおどろおどろしい旧来型の吸血鬼も登場させたりして、単に軽妙で明るいだけの小説ではありません。同じ京都大学の卒業生というだけでなく、私はこの作家のファンですし、続編も読みたいと思います。
次に、李舜志『テクノ専制とコモンへの道』(集英社新書)を読みました。著者は、法政大学社会学部准教授です。博士号は教育学で取得しているようですし、たぶん、エコノミストではありません。本書は、現在進行形でものすごいスピードで進んでいるAIテクノロジーについて、著者独自の理解や考えを示しているわけではなく、というのもヘンなのですが、オードリー・タンとE.グレン・ワイルによる『PLURALITY 対立を創造に変える、協働テクノロジーと民主主義の未来(サイボウズ式ブックス)』(ライツ社)を取りまとめて紹介しています。私も注目していた本ですが、本書を読むだけではなく『PLURALITY 対立を創造に変える、協働テクノロジーと民主主義の未来(サイボウズ式ブックス)』の方も早速に入手して読んでみたいと思います。ということで、本書では、AIテクノロジーが急速に進歩し、シンギュラリティが近づいていて、人間労働が不要になって大量の失業が発生したり、あるいは、私も賛成している見方で、人間がAIのペットとなったりするのではないか、はたまた、AIが能力的に凌駕した人間に反旗を翻して社会不安が増大するのではないか、といった否定的な見方=「テクノ専制」などに対して、ひとつの見方を示すものです。すなわち、否定的な見方の一方には、テクノ封建主義やデジタル・レーニン主義といった統合テクノクラシーがありますが、その真逆な思想として企業リバタリアニズムを対置します。統合テクノクラシーでは社会や経済を統治するエージェントが人間ではなく、おそらくは、AIが代替し、生産性が飛躍的に向上して財サービスの希少性が大きく低下する一方で、大量の人間労働を必要としなくなり、失業への対策としてベーシックインカムを取り入れる可能性が高まる、と要約されています。他方で、企業リバタリアニズムでは、暗号技術やブロックチェーンの発達により、国家=政府による規制が意味をなさなくなり、個人や企業は弱肉強食の野放図な世界で利益を追求するようになる可能性を示唆します。とても極端に考えれば、前者の統合テクノクラシーが左派リベラルから極左の、そして、企業リバタリアニズムが極右の方向を示唆しているというのが、私が読んだ範囲での理解です。それに対して、タン&ワイルは第3の道としてデジタル民主主義、リーダーを置かずに参加者が自発的に協働する組織(DAO=Decentralized Autonomous Organization)を考えます。グラノヴェッター的な就職先の紹介をしてくれるような弱い紐帯に基づく多元主義、すなわち、全体主義でも極端な個人主義でもない緩やかな家族的あるいは共同体的な組織を基に、見知らぬ不特定多数を相手に見返りを期待しない関係を結ぶ、ということを目指します。第2章まではこういった議論の流れで、第3章あたりから、そういった第3のデジタル民主主義を支え基本となるソフトとハードの技術のお話が中心になります。それらのうち、私はポズナー&ワイルによる共同所有を明らかにした『ラディカル・マーケット』を5年ほど前に読んでいますので理解しているつもりですが、それ以外の技術的な基礎は十分に理解しているとは考えておらず、読んでみてのお楽しみ、ということにしておきます。最後に、私は今まではどちらかといえば、統治の面というよりは経済や生産力の面から、統合テクノクラシーに近い考え方をしていたのですが、本書の議論には心動かされるものがありました。ただ、繰り返しになりますが、本書はタン&ワイルによる『PLURALITY 対立を創造に変える、協働テクノロジーと民主主義の未来』の解説ないし紹介ですので、原典を当たってみたいと思います。
次に、川端道喜『和菓子の京都 増補版』(岩波新書)を読みました。著者は、御所粽司である川端道喜第15代です。増補版になる前の版は1990年に出版され、その年に15代目は亡くなっています。15代目は中退ながら、我が勤務校の立命館大学に学んだ経験を持っていたりします。ただ、私も含めて、京都の和菓子を知っているなら、「川端道喜」とは粽をはじめとする京都の和菓子を売っているお店、というか、ひとつのブランドとしての方が知られているような気がします。ということで、本書の冒頭第1章ではその粽について取り上げられています。粽に限らず、京菓子は御所の周辺に居住していた公家百官を相手にするビジネスだったのですが、明治維新とともに大部分が東京に移ってしまって、販売対象を茶道の方に傾倒していった、と指摘しています。第2章では花びら餅に焦点を当てています。はい、裏千家の初釜で供される花びら餅です。私は裏千家の初釜で花びら餅が供されるというのは知っていましたが、不勉強にして「葩餅」という漢字は知りませんでした。第3章では、御所宮中の歳時記や四季について紹介されています。その昔は、粽などの餅菓子の川端道喜のほかに、羊羹などの切って出す棹菓子は二口屋、饅頭などのひとつひとつ個別に出す数菓子は虎屋と決まっていたと書かれていますが、これまた、私は不勉強にして「虎屋の羊羹」と覚えていて、虎屋が棹菓子ではなく数菓子だったとは知りませんでした。ただ、御所や公家百官も内証が苦しくて、注文しても払えない分は献上品にされてしまったりして、結局、公家百官からお茶菓子、さらに、観光客のお土産と手を広げていった歴史があるのも事実、という指摘です。京都の歳時記と粽といえば、祇園祭で粽が使われるようになった経緯や歴史については、「さっぱりわからん」と正直に記されています。第4章と第5章では京菓子の歴史がひも解かれていて、戦争中は不要不急の贅沢品と見なされた上に、原材料の入手ができず、ほとんど開店休業状態だったということです。まあ、そうなんでしょう。最後に、茶道について、繰り返しになりますが、私は裏千家の初釜に花びら餅が供されることは知っているものの、裏千家の作法は知っているとしても初釜には行ったことがなく、実際に行ったことがあるのは表千家の初釜だけで、裏千家との真逆なお作法に戸惑ったことがあります。デコから茶室に入ったりすれば、スパッと首を切り落とされそうな気がして、ホントに武士の間で始まった茶道なのか、という気がしました。本書でも、武士の間で始まった茶の湯が、庶民にも愛好されるようになり、今では女性の間で広まっていると指摘していますが、歴史的に考えれば、茶道とは男のものであって、例えば、私が知る限りでも裏千家の業躰さんは男性ばかりではないかと思います。最後の最後に、京都の初釜におけるA級市民のお客さんの序列について、私が小学生のころに聞き及んだ範囲で書いておくと、まず、第1階級は神社仏閣の僧侶や神官です。次の第2階級は学者です。私の小学生時代というのは50-60年前ですが、京都では何を差し置いても湯川秀樹先生が京都を代表する文化人であると見なされていました。そして、A級市民最後の第3階級が政治家となります。当時の京都府知事は蜷川虎三先生でした。今では序列は変化しているのかもしれません。また、当時は裏千家家元の初釜に招待されれば10万円包む、と聞き及んでいましたので、今の相場はかなり上がっていることと思います。
次に、二宮和也『独断と偏見』(集英社新書)を読みました。著者は、嵐のメンバーです。本書では何かの雑誌に連載されていた四文字熟語に関するエッセイを、かなり編集を加えているのか、よく判りませんが、基に編集されているようです。基本は、編集者と著者の対談で進行しています。まあ、何と申しましょうかで、いくつかのメディアで話題になった本であり、大学の図書館の新刊書として無造作に置かれていたので、ついつい手に取って読んでしまいましたが、良くも悪くも「芸能人の本」という印象しか持ちえませんでした。例えば、第9章は花鳥風月と題されていて、コロナ禍の緊急事態宣言の時期で、芸能は不要不急の分類されていたとか、緊急事態においてエンタメは特効薬にはならない、といった趣旨の主張がなされていますが、ある意味で、そういうことです。NHK朝ドラの「虎に翼」で、私の印象に残っているのは、新しい憲法が施行されて自由と平等とか、基本的人権とかがクローズアップされるようになっても、そんなのは安定した生活が送れている人だけの問題である、といったセリフが何回か繰り返されていたことです。ひょっとしたら、芸能とかスポーツなどもそうなのかもしれないという気がします。ただ、必要とする人は強烈に必要とするような気もします。かなり前に、テレビのワイドショーなんかで、働き方改革について、サラリーマン生活をしたことがないと考えられる芸能人やスポーツ選手がコメントしているのを見かけたことがあります。もちろん、そういった場に出ているので勉強はしていることと思いますし、私が聞いた範囲ではキチンとした回答であって、それなりに評価できると思うのですが、ワイドショーではなくニュースや報道番組であればコトと次第によっては専門家への取材が必要ではなかろうか、という気がしたことも確かです。芸能人本をすべて否定する気もありませんし、ファンであれば人柄なんかの理解を進めるために読んでおく値打ちはあると思います。でも、今回の場合、私の本書の読書は、たぶん、時間のムダだったような気がします。わずか1時間半か2時間くらいで済んでよかったです。
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