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2025年10月18日 (土)

今週の読書は経済書のほかは文庫で計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、山田和郎『日本企業はお金持ちになったのか?』(中央経済社)は3部構成であり、最初に現金に関する基礎知識や理論的背景を解説した後、日本企業の現金保有をデータ分析し、最後に、現金保有に関する発展的なトピックとして株主が企業の保有する現金を額面からディスカウントして評価する現象などを取り上げています。田中秀明[編著]『地域の新戦略』(日本経済新聞出版)では、人口減を食い止める、ないし、人口を増加させる取組みはことごとく失敗してきたとし、そういった基本認識の上に、今後30年から数十年の間に、「人口が半減する」可能性が十分あることから、中央政府及び地方政府の政策や制度設計を議論しています。アンソニー・ホロヴィッツ『マーブル館殺人事件』上下(創元推理文庫)では、名探偵アティカス・ピュントのシリーズを30歳過ぎの若手作家エリオット・クレイスが書き継ぐので、主人公のスーザン・ライランドが編集することになりますが、そのエリオットが自動車のひき逃げで亡くなり、スーザンが疑いを受けます。ピーター・トレメイン『修道女フィデルマの慧眼』(創元推理文庫)は、キリスト教が伝わってから約200年後の7世紀半ばのアイルランドを舞台として、5王国の内最大のモアン国の王妹であり、法廷弁護士ドーリィの資格を持つ修道女フィデルマが謎解きに当たるミステリ短編5話を収録しています。寺地はるな『タイムマシンに乗れないぼくたち』(文春文庫)は、純文学ですのでオチはなく、若い世代が抱えがちな居心地の悪さ、孤独感、自分の個性といった揺れる心の機微をていねいに描写しています。私は、いつも第3者の役回りで深く関わることを避け、周囲の人の対立やすれ違いを調整する灯台のような主人公の「灯台」が印象的でした。
今年2025年の新刊書読書は1~9月に242冊を読んでレビューし、10月に入って先週と先々週の分を加えて249冊、さらに今週の6冊を加えると合計で255冊となります。今年も年間で300冊に達する可能性があると受け止めています。これらの読書感想文については、できる限り、FacebookやX(昔のツイッタ)、あるいは、mixi、mixi2などでシェアしたいと予定しています。

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まず、山田和郎『日本企業はお金持ちになったのか?』(中央経済社)を読みました。著者は、京都大学経営管理大学院准教授であり、たぶん、私がいたころよりずっと後の時期でしょうが、長崎大学経済学部のご経験もあるようです。本書は、タイトル通り、日本企業の現金保有に関して財務省「法人企業統計」を主として用いたデータ分析を行っています。かなり学術書の色彩が強いのですが、Binned Scatter 図を多用してビジュアルにも理解しやすい内容に仕上がっています。ですので、金融機関などにお勤めのビジネスパーソンにも十分に読みこなせるのではないか、と私は考えています。なお、Binned Scatter=ビン分割散布図は、私もMatLabで書いたことはあるのですが、多分、きわめて大規模なサンプルに対して用いるものであり、私のような時系列分析を主戦場にして、せいぜいが100やそこらの時系列データのサンプル数しか使わないエコノミストには馴染みがありません。ということで、本書は3部構成であり、最初に現金に関する基礎知識や理論的背景を解説した後、日本企業の現金保有をデータ分析し、最後に、現金保有に関する発展的なトピックとして株主が企業の保有する現金を額面からディスカウントして評価する現象などを取り上げています。実際のデータ分析は読んでいただくしかありませんが、いくつか、私からの反論、というか、意見として3点上げておくと、まず、メインバンク制の動揺と企業の現金保有の関係について、本書では、おそらくデータで確認できないので否定的な見方を示しています。p.34のわずか1ページだけで「メインバンク制だけで日本企業の現金保有全般についてすべてを説明できるわけではない」という、当たり前の結論を示しています。繰り返しになるものの、データ分析で確認できないので否定的な見方を示しているのではないかと推測していますが、やや的はずれな結論です。少なくとも、メインバンク制を含め、バブル経済崩壊後に明らかになった日本の銀行システムの脆弱性が企業の現金保有の傾向を強めていることは否定しようがないと思います。いざとなったら銀行は助けてくれないかもしれない、だから現金保有を手厚くする、ということです。規模の小さな企業で現金保有が高まっているのも傍証のひとつです。ついでに、何かを主語に「xxだけで...すべてを説明できるわけではない」なんて表現を学生が卒論で書いたりしたら、私は修正するよう指導するかもしれません。次に、同様のデータ化しにくい株主構成の影響をどう考えるかです。第8章で着目している株主還元問題では、外国人株主比率が高まったのが要因のひとつとしてあるのではないか、と私は考えてます。これも、定量的な分析がしにくいので、何ともいえませんが、本書で着目すらしていないのはやや疑問です。最後に、第9章で議論している内部留保に関する議論では、もはや経験的にアベノミクスで破綻したトリックルダウン説としか思えない議論が展開されていて、企業の内部留保に肯定的な評価を下しています。ただ、最後の最後に、第8章に戻ると、長らくデータから日本企業の過小投資説が支持を集めてきて、本書でもそういった見方を示していますが、アベノミクスの下で超低金利が長らく継続され、動学的非効率の状態が続いてきたことを考えれば、ひょっとしたら、日本は過剰投資に陥っている可能性はないのか、今後、資本ストックを取り崩した方が厚生が高まる可能性はないのか、という疑問は私の中にくすぶっています。繰り返しになりますが、データからは日本は投資不足であり、したがって、労働生産性も上がらず、賃金引上げもままならない、という状態にあります。これはこれで確かです。現時点では、過剰投資説はやや否定的に考えていますが、決定的に違うとは考えていません。自分でも、まだ十分こなし切れていません。

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次に、田中秀明[編著]『人口半減ショック 地域の新戦略』(日本経済新聞出版)を読みました。著者は、明治大学公共政策大学院教授です。本書は2部構成であり、前半で地方の自立と財政責任を、そして、後半で役割分担とサービスの供給システムを、それぞれテーマとして議論しています。まず、本書冒頭では、これまでの地方再生政策が期待された成果を上げていないと結論し、その大きな原因は東京集中の分析ができていないからであると主張しています。したがって、序章第3節で東京一極集中の是正に成功していない問題を分析しようと試みていますが、本書ではそもそも東京一極集中の是正が妥当な政策であったかどうかを疑問視しています。はい、大学を卒業した後に生まれ故郷の京都を離れて東京に働きに出て、60歳の当時の定年まで国家公務員をしていた身としては、本書で指摘している「特に若い人たちに首都圏に移動しないように奨励するべきなおだろうか」(p.028)という問いには、経験的に否定的な回答であるといわざるを得ません。その上で、深刻な問題と考えるべきは、人口減少ではなく、15-64歳の現役世代の人口減であると指摘しています。はい、これもその通りです。その上で、人口減を食い止める、ないし、人口を増加させる取組みはことごとく失敗してきたわけであり、本書のサブタイトルにもある「賢く縮む」が随所に主張されます。そういった基本認識の上に、今後30年から数十年の間に、これまた、タイトルにあるような「人口が半減する」可能性が十分あることを踏まえて、中央政府及び地方政府が考えるべき政策や制度設計を議論しようと試みています。前半の第Ⅰ部では、分権か集権かの択一ではなく自立した地方行政を目指すべきという結論です。デジタル・インフラは中央政府が整備する必要があるとしても、中央政府と地方政府の責任分担や政治制度のあり方を考え、特に、地方財政については中央と地方の間の財源や補助金の見直しについて議論しています。例えば、我が国の地方行政システムは、ナショナル・ミニマムではなく、東京都同一水準のナショナル・マキシマムを保障しようとしている、と批判しています。また、第4章では米国の連邦制度についても取り上げていますが、私は不勉強にしてこの部分は理解が進みませんでした。第Ⅱ部では、第5章で東京一極集中の是正よりも、むしろ、集積の促進が必要な場面もある点を強調し、サンライズルールによる試算も提供しています。第7章では、医療や介護について全国一律の価格設定に対して疑問を呈していますし、第7章や第8章では、「国土の均衡ある発展」も批判されており、全国一律のインフラや行政サービスではなく、将来の縮小を見据えたうえで、どこの何を配置し、何を縮小させていくのかの視点も必要との議論が展開されています。最後に、都道府県を越えた道州制についての考えは、チャプターごとに著者が異なるので、本書を通じた全体の印象はそれほど統一感ないのですが、私自身がやや疑問、というか、否定的に捉えていますので、確証バイアスも含めて、批判的ないし否定的な印象を持ちました。最後の最後に、私自身はまったく無関心なのですが、ふるさと納税に関しての見方も欲しかった気がするのはやや俗っぽい見方かもしれません。

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次に、アンソニー・ホロヴィッツ『マーブル館殺人事件』上下(創元推理文庫)を読みました。著者は、イギリスを代表する作家だそうで、女王陛下の少年スパイ!アレックスのシリーズやダイヤモンド・ブラザーズのシリーズといったジュブナイル小説でも有名ですし、ホームズや007ジェームズ・ボンドのパスティーシュも書いていて、私もジュブナイル小説を別にすればいろいろと楽しんでいたりします。加えて、創元推理文庫から出版されている『カササギ殺人事件』から始まるスーザン・ライランドを主人公とするシリーズや『メインテーマは殺人』から始まるホーソーンを主人公とするシリーズも、私は欠かさず読んでいると思います。本書はスーザン・ライランドを主人公とするシリーズであり、『カササギ殺人事件』と『ヨルガオ殺人事件』に続く第3巻です。したがって、というか、何というか、主人公のスーザンが編集者でもあるので、小説の中に小説が入っているメタ構造になっています。頭の回転が鈍い私にはやや難しい構造です。ということで、あらすじは、主人公のスーザン・ライランドがギリシアから英国に帰国します。そして、「コーストン・ブックス」の発行人で、事実上の上司であるマイケル・フリンから連絡を受け、亡くなったアラン・コンウェイが書き続けてきた名探偵アティカス・ピュントのシリーズを30歳過ぎの若手作家エリオット・クレイスが『カササギ殺人事件』の直後という時代設定で書き継ぐので、編集者としてサポートするよう依頼されます。メタ構造で『ピュント最後の事件』が作中作として挿入されます。実は、エリオット・クレイスは英国でとても有名だった絵本作家のミリアム・クレイスの孫であり、幼少期を本書のタイトルとなっているマーブル館で過ごしています。しかし、マーブル館にも、祖母のミリアムにも決していい思い出はなかったようで、BBCラジオのインタビューで暴露したりします。エリオット・クレイスによる『ピュント最後の事件』は、作者の幼少期のクレイス家をモデルにしている可能性が示唆されます。そして、ミリアム・クレイスの没後20年記念パーティーでちょっとしたトラブをがあった直後に、パーティー会場から出たところでエリオット・クレイスが自動車のひき逃げでなくなってしまいます。何と、その犯人として主人公のスーザン・ライランドが疑われます。イアン・ブレイクニ警部と嫌味たらしいエマ・ワードロウ巡査が捜査に当たります。ということで、ミステリですので、あらすじはこのあたりまでとします。何だか、終わり方を見ると、完結編という気もするのですが、作者はこの後の第4巻も企画していると聞き及びます。私が読んだシリーズ3巻まででは、本書がもっとも面白かったですが、相変わらず、それほど読後感はよくありません。また、本書では前の『カササギ殺人事件』の結末に何度も言及していて、その旨は扉にも明記されています。最後の最後に、私も読んだオスマン『木曜殺人クラブ』が「ハリー・ポッター以来の大ヒット」と紹介されていて、ホントなんだろうか、英国ではそうなんだろうか、と思ってしまいました。

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次に、ピーター・トレメイン『修道女フィデルマの慧眼』(創元推理文庫)を読みました。著者は、英国生れの著名なケルト学者であるとともに、修道女フィデルマのシリーズの小説家でもあります。私は、本シリーズのうち、邦訳されて創元推理文庫から出版されているものはすべて読んでいると思います。このシリーズの主人公はタイトル通りに修道女のフィデルマであり、舞台となる7世紀半ば、キリスト教が伝わってから約200年後のアイルランドで5つある王国のうちの最大であるモアン王国の王妹であり、アイルランド全国で有効な法律であるブレホン法の司法制度における最高位を占めるオラヴに次ぐ上位弁護士のアンルーであり、時には、裁判官も務める法廷弁護士であるドーリィの資格も持っている才女です。しかも、まだ20代であるとの設定です。本書は邦訳としてはシリーズ第6巻だそうで、5話を収録する短編集となっています。基本、ミステリであり、ほぼほぼすべての短編で人が死にます。その謎をフィデルマが解き明かすわけです。収録順にあらすじは、まず、「祝祭日の死体」では、やや不本意な様子が見えますが、フィデルマは200年前の聖人の亡骸が安置されている地への巡礼に加わり、その聖人の棺の亡骸の上で修道女の死体を発見します。「狗のかへり来りて……」では、20年前の殺人事件、すなわち、フィデルマが訪れた修道院に伝わる聖遺物箱を盗もうとした庭師とはち合わせして殺されたとされる修道女と、その庭師を裁判もせずに私刑で殺してしまった事件について、フィデルマが真相を解明します。「夜の黄金」では、フィデルマの兄が王として統治しているモアン国と緊張関係にある第2の大国のラーハンの大祭にフィデルマが賓客として招かれた際、酒の飲み比べ競争で突然死した鍛冶屋の捜査にフィデルマが当たります。「撒かれた棘」では、フィデルマが小さな村を訪れた際に殺人と窃盗の事件が発生し、16歳の少年が容疑者として拘束されています。アイルランドの最下級の身分であるボーハーに属するため、その少年は弁明や釈明を諦めていますが、フィデルマが真相解明に当たります。最後の「尊者の死 」では、かつては勇猛果敢な修道士としてアイルランド全土の尊敬を集めていた尊者ゲラシウスが、90歳も間近で小修道院で殺害されます。近くに集まってきている放浪者の強盗ではないかと小修道院長は推理しますが、フィデルマが真相を明らかにします。

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次に、寺地はるな『タイムマシンに乗れないぼくたち』(文春文庫)を読みました。著者は、純文学の作家です。本書も純文学の短編7話から構成されています。『別冊文藝春秋』に収録されていた短編が2022年に単行本として出版され、さらに、今年になって文庫でも出版されています。純文学ですので、オチはありません。若い世代が抱えがちな居心地の悪さ、孤独感、自分の個性といった揺れる心の機微をていねいに描写しています。収録順にあらすじは、以下の通りとなります。まず、「コードネームは保留」では、楽器店で働く南優香が主人公です。経理の仕事をしながら、自分を殺し屋という設定で日々を送っていますが、「あなたの考えはわたしと違うけど、でもあなたの考えは理解した」という優香のスタンスは、相手を不安にさせてしまうと感じています。表題作の「タイムマシン乗れないぼくたち」では、小学6年生の宮本草司が主人公です。両親が離婚して引越をし、いろいろあって学校に馴染めず博物館を居場所とし、ある日、30代のスーツ姿のサラリーマン男性と出会います。「灯台」では、鳥谷芽久美が主人公です。いつも第3者の役回りで深く関わることを避け、カップルや周囲の人の人間関係の間に立ち、対立やすれ違いを調整する灯台のような存在です。「夢の女」では、短命な家系の久保田草介と結婚し、短命だった草介を亡くした明日美が主人公です。亡くなった亭主のパソコンから出来の悪い小説のテキストを発見し読み進むと、アスミなる女性が登場して気にかかりますが、夫の叔母が誘ってくれた万博公園で思い出がよみがえって、現実を受け入れ始めます。「深く息を吸って、」では、「きみ」が主人公で第3人称で語られます。主人公は、容姿に恵まれなず、成績もパッとしない中学生で、学校でも家庭でも孤独感を抱えていますが、映画俳優へのあこがれが心の支えとなり、少しずつ自分の存在を肯定する感覚を持つようになります。「口笛」では、小宮初音が主人公です。生家に住んで化粧品メーカーながら地味な仕事をしていますが、事情があって、兄の娘を夕刻に保育園に迎えに行く役割を担っています。周囲の期待や「こうあるべき」という見方に影響されつつも、そういった束縛を逃れて、口笛を吹くように自由な瞬間を求める心の動きが静かに描かれています。最後の「対岸の叔父」では、大学生のころのアルバイトから、そのままホームセンターの店長として働いている史が主人公で、妻の法の大林家に連なる叔父の稀男がタイトルになっています。高校を卒業してから定職につかずに、芸術的なオブジェを作っている変わり者です。その叔父の息子ですから、たぶん、従兄弟に当たる伸樹との交流を通じて、普通や正常と異端の境界を考え、矯正の対象となる異常ではないことに気づきます。

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