今週の読書は新書をよく読んで計5冊
今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、松尾匡『「上」vs.「下」の経済学』(地平社)では、世の中を横に切って上下に分けて、下に味方するのが左翼、縦に切ってウチとソトに分けて、ウチに味方するのが右翼、との見方を示し、政権=権力者の好みで資源動員先を決め、農業や中小企業を切捨てる政策を批判しています。山口未桜『白魔の檻』(東京創元社)では、兵庫市民病院の城崎響介医師が謎解きをするミステリであり、研修医の春田芽衣とともにへき地医療協力で訪れた北海道の更冠病院が、地震による土砂崩れや硫化水素ガスにより孤立してクローズド・サークルと化した中で、殺人が起こります。岡田晃『経済で読み解く昭和史』(PHP新書)は、ジャーナリストである著者が昭和の歴史を経済で振り返っています。昭和2年1927年の金融恐慌から始まった戦前期から始まり、戦争中の歴史、終戦直後の戦後復興期、昭和の高度成長期、高度成長の終焉からバブル経済で締めくくっています。稲田豊史『本を読めなくなった人たち』(中公新書ラクレ)では、コスパやタイパの重視にしたがって長い文章を読まない人の割合が増加している現状が、統計ではなく直感的に確認されています。テキスト媒体が時間がかかるメディアとして敬遠されているのも事実かと私は受け止めました。坂爪真吾『モテない中年』(PHP新書)では、「モテない」とは恋愛が苦手というより、「恋愛や性に関する欲求をうまくマネジメントすることができず、(略)不全感と孤独感を抱えながら生きている状態」と定義し、後半では離婚した中年男性のインタビューから構成しています。
今年2026年の新刊書読書は、1~3月に合わせて73冊、4月に入ってから先週までの12冊と今週の5冊を加えて合計90冊となります。これらの読書感想文については、できる限り、FacebookやX(昔のtwitter)、あるいは、mixi、mixi2などのSNSでシェアしたいと予定しています。さらに、世界銀行のリポートや学術論文も少し読んでいますので、適宜取り上げてSNSにポストしたいと予定しています。
まず、松尾匡『「上」vs.「下」の経済学』(地平社)を読みました。著者は、立命館大学経済学部教授であり、すなわち、私の同僚教員です。したがって、というわけでもないのでしょうが、本書をご寄贈いただいています。ただ、ご著者と違って、私は政治向きのお話は理解がはかどりませんし、第1章の総選挙結果の解説についても、何ともいえません。世の中が中道と左右のポピュリズムの3極に分かれるかどうかについても、そこまで単純化できるのだろうか、と疑問に思わないでもありません。したがって、経済や経済学に限定はしませんが、私が理解できる範囲のレビューになります。まず、タイトルについて、明快に第2章で、世の中を横に切って上下に分けて認識し、下に味方するのが左翼、世の中を縦に切ってウチとソトに分けて認識し、ウチに味方するのが右翼、という見方を示しています。p.57 図2-1で図解しています。はい、これは私もまったくその通りだと思います。私が理解できる範囲で、第4章の現在の高市政権の経済政策についても、その通りで、政権=権力者のお好みにしたがって資源動員先を決めて、農業や中小企業は切捨ての憂き目を見ていることも事実です。ただ、口実としている経済安全保障が、例えば、「通商白書」で見る限り、数年前の「通商白書」2022年版では、第Ⅱ-1-2-25表の重要品目等の依存度、国内代替可能度、あるいは、それに続く第Ⅱ-1-2-26図の輸入相手国・地域などで、国内生産比率がパソコンや携帯電話で低く、中国からの輸入依存度が高い、として、いかにも「中国への輸入依存がリスク」といわんばかりの見方だったのが、本書で指摘する地域帝国主義の観点から明らかにしているように、米国トランプ政権こそが我が国の経済安全保障を脅かす元凶、という現実を見るべきと私は考えています。私の記憶にあるのは、Financial Timesに掲載されたコラム "Trump, Putin, Xi and the new age of empire" にあった世界を3人で分割する風刺画です。ただし、いくつか指摘しておきたい点もあります。まず第1に、ウチとソトに分ける右翼の財政拡張路線と上と下に分ける左翼の反緊縮財政の違いが、たぶん、よく読めば頭のいい人には判るのかもしれませんが、私には判然としませんでした。要するに、歳出については、大企業や軍備につぎ込むのが右翼の財政拡張政策で、社会保障や教育などの国民生活に資源配分を手厚くするのが左翼の反緊縮財政、という結論なのだと思いますが、それだけなのでしょうか。確かに、歳入面での累進課税の強化は重要ですが、先進国で累進課税を取っていない国なんてないわけで、どの程度の累進度が必要なのでしょうか。労働配分の精緻な計算結果に比較すると、やや物足りない気もします。第2に、その労働配分=労働の割当てだけではなく、資本ストックも合わせてみた産出=アウトプットで考えるべきではないか、と私は考えています。例えば、将来的に需要が拡大することが明らかな介護サービスの供給を増やすには、確かに短期には労働配分を増やす必要が高いという点は理解しますが、より長期には資本ストックに体化される技術革新も含めて、労働だけに必要なアウトプットの増加を依存するのではなく、生産要素である労働と資本ストックの両方から手当てすべきではないか、と私は考えます。第3に最後に、私はこういった左派の経済政策を実現するには、それなりの自覚した勢力の行動が必要と考えています。もはや、かつてのソ連や中国のような暴力革命でプロレタリアート独裁、なんてのは絶対に出来っこありませんから、今では選挙による政権交代がもっとも現実的と考える国民が多いかもしれません。しかし、私は選挙に基づく政権交代ですら、日本においては、実現性が怪しいと思っています。ですので、3.5%ルールを提唱したチェノウェス教授の『市民的抵抗』で示されている市民運動が現時点では、ひょっとしたら、選挙よりも可能性が高い政権交代手段であるように私は見ています。ただし、それほど、自信はありません。批判者によっては、自覚した非暴力の3.5%の市民的抵抗が政権交代につながるなんて、1997-98年のインドネシアとか、2010-12年のアラブの春、といった途上国や新興国レベルのお話で、民主主義の進んだ先進国である日本ではありえない、という見方もありますが、日本の民主主義はホントに欧米先進国並みか、という疑問はないのでしょうか?
次に、山口未桜『白魔の檻』(東京創元社)を読みました。著者は、医師なのですが、前作『禁忌の子』が第34回鮎川哲也賞を受賞してミステリ作家としてデビューしています。本作品は、前作と同じ兵庫市民病院の城崎響介医師が謎解きをするミステリです。とはいうもの、主人公は春田芽衣です。前作の『禁忌の子』でも城崎と同じ病院に勤務する救急医の武田航が主人公でしたから、同じような構成といえます。その救急医の武田は第1章冒頭でチラリと登場します。春田は27歳の研修医なのですが、城崎といっしょにへき地医療協力で1か月北海道の更冠病院に派遣される、という舞台設定です。そこで、3人ほど死ぬわけです。第1に、春田が埼玉に住んで中学生のころまでやっていたバスケットボールのコーチだった病院事務職員の九条環が病院地下の浴室で倒れて、硫化水素中毒で亡くなっているのが発見されます。更冠病院に居合わせた更冠町長の村山幸蔵や病院長の八代大吾は事故であると主張しますが、城崎は殺人と見抜きます。第2に、病院長の八代が殺されます。首を切断されていますので、明らかに殺人です。第3に、更冠病院での分娩の際に娘と孫を亡くした老女の源佳代が拳銃でこめかみを撃ち抜かれて亡くなります。この3つの事故だか、事件だかを城崎が最終第6章冒頭で春田を相手に謎解きを繰り広げる、ということになります。しかも、更冠病院周辺で大きな地震があって外部と連絡が取れなくなった上に、土砂崩れや硫化水素ガスが溜まるなどにより病院が孤立してクローズド・サークルと化してしまいます。もちろん、ミステリですので詳細は読んでみてのお楽しみです。なのですが、謎解きそのものはかなり論理的で、少なくとも頭の回転の鈍い私には瑕疵はないように見受けられた一方で、ミステリとして、また、トリックとしては私の評価は決して高いものではありません。批判したくなるのは少なくとも3点あります。第1に、地震や硫化水素ガスなどの天然自然の外的かつ偶発的な要因が多すぎます。プロバビリティの犯罪というのもありますし、硫化水素ガスはそれなりに必要そうな気もしますが、ムリにクローズド・サークルにしているように感じてしまいました。第2に、医療行為があるのはいいのですが、医療用語が過剰に用いられています。医療関係だけではなく、説明が明らかに過剰です。ですので、読みにくく、かつ、原稿料目当ての文字数稼ぎか、との疑いまで引き起こしかねません。第3に、論理的な謎解きよりも、医療や過疎の問題などが前面に出過ぎで、それが殺人やほかの犯罪行為を免責しかねない読み方を許容するおそれすらあります。悪いやつなら殺してもいいのか、というのもありますし、私がもっとも不適切に感じたのは、主人公の春山の独白部分だと思うのですが、p.84で「人間はどうして、死に方を選べないんだろう。意思さえあやふやなまま横たわっている人たちが幸せだとは、どうしても思えない。」というくだりです。ちょうど10年前の2016年7月に起きた相模原市の津久井やまゆり園事件を思い出してしまいました。そして、作者の本職である医師をひたすら美化している部分も少なくありません。かつて、松本清張が社会派ミステリ作家として活躍していたのとは、この作者は大きく違うと感じるのは私だけなのでしょうか。最後の最後に、あくまでついでながら、病院が陥った客観的状況を患者に隠すというエリート・パニックな行動というのも、今どき現実的かどうか、という疑問もあります。
次に、岡田晃『経済で読み解く昭和史』(PHP新書)を読みました。著者は、現在、大阪経済大学特別招聘教授なのですが、元来は日経新聞やテレビ東京のジャーナリストです。私は数年前に同じ出版社のPHP新書『徳川幕府の経済政策』を読んだことがあります。賄賂政治で評判の悪い田沼意次が老中をしていた時期の経済政策について、リフレ的な観点からの評価をしていたと記憶しています。本書はタイトル通りに、昭和の歴史を経済で振り返っています。ですから、昭和2年1927年の金融恐慌から始まった戦前期を第1章で、第2章は戦争中の歴史、第3章で終戦直後の戦後復興期、第4章が昭和の高度成長期、第4章でドルショックと石油ショックによる高度成長の終焉から安定成長への移行期、第5章でバブル経済を取り上げています。はい、バブル崩壊は平成に入ってからの出来事になります。私も大学の授業では戦後日本経済の歴史を軽く振り返ることをしています。ただ、本書のスコープとは少しズレがあり、さすがに授業では戦前戦中の経済は省いていますし、逆に、昭和末期のバブルで終わるのではなく、最近時点までの日本経済を追っています。本書では、戦前期に高橋蔵相によるリフレ政策で世界に先駆けて世界恐慌の影響から脱した点を高く評価しています。また、第2次大戦直前のブロック経済化による対立の深刻化なども、昨年以来の米国トランプ関税などと対比する形で、適切に取りまとめられている印象です。ただし、戦後経済の出発点となったGHQによる農地解放、財閥解体、労働民主化などはもう少していねいかつ詳細な歴史的な後付けが欲しかった気がします。これらは、戦後経済発展の基礎となった諸条件を生み出しています。その後の1970年代のドルショックや2度に渡る石油ショックについてはエピソード的によく取りまとめられています。私は、高度成長が1970年代に終わったのはこのドルショックや石油ショックが必ずしも原因ではない、とする学術論文「日本の実質経済成長率は、なぜ1970年代に屈折したのか」をもう20年余りも前に共著論文として書いているのですが、本書でも経済学的な因果関係というよりは、エピソードを幅広く取り上げている印象です。最後に、大昔、大学で日本経済論を講義するには、高度成長期の経験が必要といわれていたと聞き及んだことがあります。それほど大昔でなくても、バブル期の経験が必要、といわれた時期もありましたが、現在では、グッと時代を下がって、リーマン・ショックの時期の経験くらいはあった方がいい、というレベルまでトーンダウンしています。バブル経済期の実体験ある私なんぞもそろそろ退職時期に差しかかっており、昭和の時代の経済を振り返るのは実体験ではなくこういった教養書に頼ることになるのかもしれません。
次に、稲田豊史『本を読めなくなった人たち』(中公新書ラクレ)を読みました。著者は、ライター・編集者だそうです。出版社は違いますが、私は前著の『映画を早送りで観る人たち』(光文社新書)を読んでいます。本書のレビューに入る前に、一応、読書に関する調査結果としては、最新データとして文部科学省文化庁国語課による「令和5年度 国語に関する世論調査」があり、「1か月に読む本の冊数」という問いに対して、「読まない」という回答が62.6%を占めています。調査対象は16歳以上の個人です。他方、学校図書館協議会による「第70回学校読書調査 (2025年)」でも似たような「5月1か月間の読書数」の問いがあり、ゼロという回答が高校生で55.7%に上ります。ですので、過半数の日本人は読書しないという事実は押さえておきべきと思います。また、単純に考えると、おそらく18歳以上の個人は18歳以下の高校生よりも読書をしない人の割合が高い、ということがうかがえようかと思います。ここまでは私が調べた範囲の読書に関する情報です。本書に入ると、まず、コスパやタイパの重視にしたがって長い文章を読まない人の割合が増加している現状が、統計ではなくいくつかのケーススタディめいた基準で直感的に確認されています。ただ、実利的な観点から、就活への利用のため日経電子版が意識の高い学生から支持されているという事実はある、との指摘もしています。しかし、本書で繰り返されているように、統計的に確認されていないとはいえ、大雑把な傾向として、テキスト媒体が時間がかかるメディアとして敬遠されているのも事実かと私は受け止めています。加えて、「楽だから」という理由で本ではなく映像メディアが支持されているという現実もあるのだろう、とも思います。また、本書で強調しているのは、本を読まないということは、本を読むことができるにもかかわらず読まない、というわけではなく、本を読むことができなくなっている、という意味でタイトル通りに、「本を読めなくなった」のだろうという点です。純文学のオープンエンドが許されず、大衆文学的なオチを必要とするとか、そういった背景もあるのは事実だろうと思います。ですから、その昔の「やればできる子」論は読書に関しては成り立たない、ということなのだろうと私は考えています。そして、本書のもうひとつ注目すべき指摘は、決して、スマホの影響で本を読まなくなったわけではない、ということです。すなわち、スマホの影響などなく、読書する子と、もともと読む能力のない子が決まっていて、その決定要因として親の本棚という文化資本を第2章では上げています。長い文章を読んで理解できるのはすべての人に備わっている能力ではなく特殊能力である、という主張です。ですので、表紙画像から受ける印象はミスリーディングであるといえます。ただ、本書のようなタイトルの本を買って読もうという年配の人を引きつけるにはいいのかもしれません。第3章以下では、ネット上の無料テキストの氾濫、本は富裕層向けの商品となりつつある現実、読者と消費者の違い、などの議論が展開されています。そのあたりは読んでみてのお楽しみです。いずれにせよ、義務教育と高校までの学校教育には大きな教育上の格差がないと仮定すれば、文章を読んで理解できる能力は、いくぶんなりとも、家庭における文化的環境に起因する可能性は否定できません。
次に、坂爪真吾『モテない中年』(PHP新書)を読みました。著者は、社会起業家/合同会社ヨルミナ代表だそうです。これだけでは何のことだか判りませんが、これだけしか情報がありません。モテる/モテないについての本なのですが、第1章では、なぜ、モテる/モテないを重要と考えて踊らされるのか、を分析し、第2章では、日本の恋愛をめぐる150年史をひも解こうと試みています。ただ、第3章からは、突然、ケーススタディに移って、未婚ではなく結婚して離婚した男性に対するインタビューから、モテる/モテないだけではなく、性生活やインタビュー対象の男性の人生を考えることになってしまっています。はい、ハッキリいって、第3章以降ではモテる/モテないは余り関係ありません。結論として、年齢のせいでモテないという結果が示されていて、年齢はどうしようもなく、カネで解決するしかない、もっといえば、性欲を満たすのはカネを払う風俗である、という私の理解を超えた結論を導いているような気がします。その原因は、本書冒頭で「モテない」とは単に恋愛が苦手という意味ではなく、「恋愛や性に関する欲求をうまくマネジメントすることができず、日々モヤモヤとした不全感と孤独感を抱えながら生きている状態」と定義しているからだという気がします。いや、この定義は違うだろうと思いますが、せめて、離婚した中年代性ばかりではなく、未婚中年男性を対象にしたインタビューでもあれば、それなりの参考になった気もします。年齢が唯一のモテない原因という結論で、しかも、そのモテないことに対する解決方法はカネというのですから、いくぶんなりとも、経済学的な要素は含まれているような気がしますが、社会学や心理学といった学術的要素は微塵もありません。本書を離れて、年齢的な要因を考えると、本書ではまったく無視していますが、ウッダーソンの法則が中年男性がモテないひとつの原因となっている可能性を私は指摘しておきたいと思います。本書のインタビューでは明確ではありませんが、男女で恋愛対象となる年齢層が異なる可能性を指摘しているのがウッダーソンの法則です。すなわち、男性は年齢を経ても恋愛対象となる女性の年齢層がそれほど変化せず、20歳代前半を対象と考える傾向があるのに対して、女性はやや年上の男性を恋愛対象とするものの、自分の年齢とともに対象となる男性の年齢が上昇する傾向がある、さらに、30歳を越えるとやや年下の男性も対象となりやすい、という法則です。経験的に受け入れられているだけでなく、また、実証的にも米国のマッチングアプリの分析などから支持されています。ですので、この男女の恋愛対象と考える年齢がマッチする20代半ばの男性と20代前半の女性が、その昔は、結婚適齢期と考えられていたわけです。ただし、現在の日本ではほぼほぼ結婚適齢期という概念は崩壊しています。
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