今週の読書は統計学の入門書のほか計6冊
今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、堀雅博『読んでわかる推測統計学の考え方』(日本評論社)は、初学者向けの統計学の入門書であり、3部構成、第Ⅰ部記述統計編、第Ⅱ部確率編、第Ⅲ部推測統計編となっており、ていねいに数式を展開して直感的に理解できるように工夫されています。志位和夫『Q&A いま『資本論』がおもしろい』(新日本出版社)では、マルクス『資本論』第1部についての解説であり、マルクス主義経済学について専門外の私からは、剰余価値の生産や企業利潤との関係で、賃上げだけではなく労働時間の短縮もひとつの課題、との指摘が新鮮でした。北山猛邦『神の光』(東京創元社)は、すべて消失トリックを扱った5話の短編を収録しています。特に、表題作の短編「神の光」は、米国の砂漠にあったカジノが街ごと翌朝に消失する物理トリック、それも壮大な物理トリックであり、本書でもっともレベルの高い謎解きでした。犬丸幸平『最後の皇帝と謎解きを』(宝島社)では、1920年の北京紫禁城を舞台に、最後の清朝の皇帝であった愛新覚羅溥儀とともに、日本人絵師として雇われた一条剛が紫禁城の事件の謎解き、宦官=太監の1人が不審死をした謎、欠けていた龍の目が何者かによって描き入れられた謎、などの謎解きをします。遠藤正敬『戸籍の日本史』(インターナショナル新書)では、庚午年籍から始まる我が国戸籍の歴史を考え、戸籍の本質を「日本人であることの証明」とし、明治政府による壬申戸籍は、血統からひいては職業などを中世封建期に規定していた姓から、より実利的な家制度への転換と指摘しています。宮内悠介ほか『旅する小説』(講談社文庫)は、旅というよりもっと単純に、移動とか、あるいは、一定の文化圏を離れるという意味での越境による非日常まで含めた幅広い短編が収録されていて、単純な紀行小説ではなく、SFというか、ファンタジーな作品もいくつか収録されています。
今年2026年の新刊書読書は、1~3月に合わせて73冊、4月に入ってから先週の6冊と今週の6冊を加えて合計85冊となります。また、2023年の第27回日本ミステリー文学大賞新人賞に選ばれた斎堂琴湖『燃える氷華』(光文社)も読みましたが、新刊ではないので本日のレビューには含めていません。これらの読書感想文については、できる限り、FacebookやX(昔のtwitter)、あるいは、mixi、mixi2などのSNSでシェアしたいと予定しています。
まず、堀雅博『読んでわかる推測統計学の考え方』(日本評論社)を読みました。著者は、東京経済大学経済学部の教授なのですが、ぶっちゃけ、私の役所の後輩です。ご著者が新入庁した当時の経済研究所の世界経済モデルグループの係長ポストに私がいました。ご寄贈いただきましたのでお礼のメールを送ると、「お時間を取って読んでいただけるような代物ではありません」との返信があり、要するに、初学者向けの統計学の入門書という位置づけです。3部構成であり、第Ⅰ部記述統計編、第Ⅱ部確率編、第Ⅲ部推測統計編となっており、ていねいに数式を展開して直感的に理解できるように工夫されています。大学に入学したばかりなどの初学者向けの入門書ですので、このレビューでも、本書を読んで勉強する初学者の読み方、というよりは、そういった初学者におすすめするポイントを中心に取り上げたいと思います。まず第1に、繰返しになりますが、統計学の入門書です。というのは、詳しくいえば、経済統計学の入門書ではない、ということであり、経済学部に限らず、幅広い大学1年生向けであるといえます。経済統計の大きな特徴のひとつは時系列データである、という点で、本書でも、横断面データ、時系列データ、パネルデータが第1章冒頭で取り上げられていて親切な作りになっています。ただ、第2に、かなり詳細に数式を展開しており、私自身はこういった形で議論を進めることが教育的、学習的に正しいと思っているのですが、少なくとも、我が立命館大学経済学部の新入生を見ていると不安を感じることも事実です。私は役所勤務のころは、東大数学科ご出身の同僚が何人かいましたので、そういった数学能力に秀でた人に数式の展開なんかを添削してもらった記憶があります。そういったサポートがなくなった長崎大学への出向時に書いた政府財政のサステイナビリティに関する論文の数式で、立命館大学の大学院生に誤りを指摘されたこともあります。それはともかく、私はこういった統計や計量経済学では数式を展開しつつ、直感的に理解させるのが重要だと考えています。その点で、本書ではサイコロのランダムな出目を取り上げているんですが、そのランダムな出目のサイコロでも数多くのサイコロを振れば正規分布に近づく、という直感的な中心極限定理の理解にも時折言及します。ただ、本書では数多くのサイコロの出目と中心極限定理はリンクさせていません。加えて、本書を離れますが、市場均衡の一意性に利用される不動点定理については、同じ地域を収録している縮尺の違う地図を重ねると、ただ1地点だけ重なる地点が存在する、というのは、とても直感的によく理解できた記憶があります。後者の不動点定理は統計学のスコープ外でしょうが、教える側からは重宝しています。最後に、統計学については社会人になってからの実務とも関連が深くなります。ですので、実務上で統計学、あるいは統計を用いる際に、こういった理論上の基礎があればとても助かると思います。本書では、統計作成上のランダムサンプリングについては「その方法自体でこの本よりも分厚い本が書けるくらいの大問題」(p.168)と流していますが、統計局で理論的基礎をどこまで教えているのかは知りませんが、実務的な研修では2-3時間でサラッと教えていたような気がします。
次に、志位和夫『Q&A いま『資本論』がおもしろい』(新日本出版社)を読みました。著者は、奥付では日本共産党の中央委員会議長となっています。最近、委員長が交代したり、不破哲三さんが亡くなったりしていて、私はこの政党の人事はよく把握していません。本書は民生同盟のメンバーを対象にしたセミナーを収録しています。テーマはもちろんマルクスの『資本論』なのですが、その第1部だけを対象としています。広く知られている通り、『資本論』は第3部までありますが、マルクス自身が編集したのは第1部だけであり、第2部と第3部はエンゲルスの編集です。ですので、「エンゲルスの編集にして正しければ」といった限定、例えば、『資本論』第3部は3大階級で終わる、といった言及がなされたりすることもあると思います。それはともかく、私は学生のころに『資本論』を第3部まで読んだことは読んだのですが、マルクス主義経済学はまったくのシロートです。ですので、2点だけ着目したいと思います。まず、剰余価値の生産です。企業利潤の源泉、というか、企業利潤そのものです。その企業利潤との関係で、賃上げだけではなく労働時間の短縮もひとつの課題、との指摘は新鮮に感じました。ケインズの「わが孫たちの経済的可能性」で言及されている1日3時間労働や週15時間労働=Three-hour shifts or a fifteen-hour week に近い考え方だと感じるのは私だけではないと思います。第2に、社会変革のための客観的条件と主体的努力です。私は長らく政府で公務員として働いていて、もしも、その昔のソ連や中国であった社会主義革命なんてものが日本で起これば、ギロチンにかけられる確率も平均的日本人よりも高い可能性がある、と覚悟していますが、逆に、それだけに、労働者が武力蜂起して革命が起こって、プロレタリアート独裁なんてことにはならない、武力革命なんて微塵の可能性もない、ときわめて楽観的に考えています。しかし、『資本論』でいうところの生産力が拡大し、希少性がほぼすべての商品で低下し、あるいはゼロになれば、価格に応じて資源を配分する市場は無用の長物となり、「必要に応じて」という共産主義的な配分に移行する、あるいは別の表現で、革命がなくても、資源配分の場が市場でなくなる経済に移行する可能性はゼロではない、と考えています。革命が起こらないと、元公務員の私がギロチンにかけられることもないわけです。その場合、生産手段が国有・公有に移行しているかどうかは、資源配分の観点からはそれほど重要ではない可能性もあります。その意味で、私にはムリでしょうが、物理学のような経済学の大統一理論がそのうちに出来る可能性も否定できない、と私は考えています。まあ、とっても先の話かもしれません。最後に、同じ著者により同じ出版社から今年2026年1月に『自由な時間と『資本論』』と題する本が出版されています。私はこれも読みたいと希望しています。
次に、北山猛邦『神の光』(東京創元社)を読みました。著者は、2002年『「クロック城」殺人事件』がメフィスト賞を受賞してデビューしたミステリ作家です。物理トリックと幻想的な世界観に定評があるということのようです。私はアンソロジーに収録された短編しか読んだことがなく、事実上、初読の作家さんでした。本書はすべて消失トリックを扱った5話の短編を収録しています。順に、「1941年のモーゼル」では独ソ戦のさなかにナチスに狙われた宝石部屋を擁する屋敷が丸ごと消失した昔話を主人公が聞きます。「神の光」では、ジイサンから聞いた話を孫がするのですが、米国の砂漠にあったカジノが街ごと翌朝に消失します。まさに作者が得意とする物理トリック、それも壮大な物理トリックであり、この本でもっともレベルの高い謎解きです。「未完成月光 Unfinished moonshine」では、ポオの未完の未発表原稿を手にした友人から相談された主人公が謎解きに挑戦します。その小説では、小屋から出てきた少女が突然死し、やがて小屋が消失します。「藤色の鶴」は、時代を将来までカバーするSFめいた雰囲気ある作品で、1055年の平安時代、1999年のほぼほぼ現代、2055年の将来の3時点で同じ家系の人物と見なせそうな人が消失します。合理的な謎解きではないと見なす読者もいるかもしれません。「シンクロニシティ・セレナーデ」は夢の中で館が消失するというもので、途中まではファンタジーかと思わせますが、何とか近代物理学に反しない謎解きがなされます。ということで、著者は物理トリックとともに幻想的な世界観に定評があると最初に紹介しましたが、その2点がグラデーションになって5話の作品に現れている気がします。物理学と幻想的文学とは、ちょっと見で相反するような気がしますし、読者によっては作品の好き嫌いが分かれる可能性もあります。ただ、私の感想としては、2番目に収録されている表題作の「神の光」のトリックがもっとも壮大で、謎解きとしても最後のオチとしても出来がいいように感じました。ただ、多くの収録短編が、いわゆる安楽椅子探偵が謎解きを行っており、ホントに正しい謎解きなのかどうかを確認するすべがありません。その意味で、読者によっては、納得感が得られない場合もありそうな気がします。
次に、犬丸幸平『最後の皇帝と謎解きを』(宝島社)を読みました。著者は、第24回『このミステリーがすごい!』大賞を受賞した本作品でデビューしています。ただ、現在はパキスタンで絨毯の買付けなどをしている、と紹介されています。タイトルから容易に想像できる通り、舞台は中国の首都である北京、時代は1911年の辛亥革命からそれほど時を経過していない中華民国初期の1920年です。まだ、最後の清朝の皇帝であった愛新覚羅溥儀が廃帝としてながら紫禁城に住んでいます。当時、15歳です。本作品でも名前だけ登場するジョンストンが家庭教師として溥儀を教育しています。私は一応ジョンストンの『紫禁城の黄昏』も読んでいたりします。この作品では、日本人絵師の一条剛が主人公で、溥儀の水墨画の師として雇われるところから始まります。しかし、実際は、溥儀に水墨画を教えるわけではなく、紫禁城内に眠る水墨画を贋作にすり替えて真作を秘密裏に売り払ってしまい、清朝復興や溥儀の皇帝への復辟の資金調達とする目的がありました。このあたりまでは、出版社のサイトにもありますから、ネタバレではないと思います。そして、本書は4章構成であり、章の間に溥儀の日記が挟まれています。登場人物は、主人公の一条剛と皇帝の溥儀のほか、大部分が宮殿に仕える宦官=太監であり、同時期に宮殿入りした太監は排行といって、同じ字を持つ習慣があり、私のような頭の回転が鈍い読者は名前と地名が大混乱を来たしました。まあ、それはともかく、ストーリーの進行に従って、殺人を含む事件が起こり、謎解きがなされるわけです。第1章では宦官=太監の1人が不審死をし、第2章では「画龍点晴を欠く」龍の目が何者かによって描き入れられ、第3章ではひとりの宦官=太監がある時期を境に感情をなくした原因を究明し、第4章では新たに贋作作成に加わった若い宦官=太監の1人が殺害され、一条剛の正体が明らかになります。まあ、どうでもいいことかもしれませんが、巻末に作者の参考文献と選考委員の選評が収録されています。日本では、中国や朝鮮のような制度化された宦官はいなかった、というのが通説だと私は聞き及んでいますし、馴染みのない制度であることはその通りだろうと思います。そして、おそらく、清朝末期の印象から宦官の専横ぶりが私の印象にあるのですが、この作品では極貧家庭から宦官になるというルートが明示されていて、その部分などはエモいところがあります。また、時折、溥儀が「ジョンストンにきいてみよう」と発言する時があり、本書の主人公との位置づけの差もうかがい知ることが出来ます。最後に第4章で主人公の正体が明らかになった時、私は大いに驚かされたのですが、ストーリーとしては大きな変化を迎えるわけでもなく淡々と結末を迎えます。驚かされた割には、何だったんだ、という気がしました。まあ、私だけかもしれません。
次に、遠藤正敬『戸籍の日本史』(インターナショナル新書)を読みました。著者は、政治学者で法律のプロではないようです。本書冒頭ではご自分のことを「さすらいの非常勤講師」と称しています。本書は、法制度も含めて、戸籍の歴史について概観しています。ですから、7世紀の庚午年籍や庚寅年籍から始まりますが、もちろん、中心は明治政府が編製を開始した壬申戸籍以降の近代的な戸籍制度になります。まず、本書では戸籍の本質について「日本人であることの証明」としています(p.20)。ですから、琉球や北海道のアイヌなどの戸籍作成に始まって、台湾や南樺太、さらには朝鮮半島などの植民地における戸籍についても広範に取り上げています。私はそのあたりはそれほど興味なかったので、自分の興味範囲で、まず、明治政府の壬申戸籍は、血統からひいては職業などを中世封建期に規定していた姓から、実利的な家制度への転換であると指摘しています。ですので、儒教的な倫理よりは、家制度という実利を守るのが主眼とも指摘しています。続いて、壬申戸籍までの日本の戸籍は夫婦別姓が伝統的であった、とも明らかにしています。ただ、明治期までは武士階級しか姓がなかったので、実例としては、源頼朝と北条政子、足利義政と日野富子を上げています。そして、明治政府の壬申戸籍では、まず、日本人の証明としては、血統主義ではなく、当初は居住地主義に基づき、日本に居住する華族、士族、神官、僧侶、平民などを「臣民一般」として登録した、ということのようです。ですから、皇族は戸籍には登録されておらず、戸籍を持たない、というのは現在まで続いています。血統主義ではありませんから、例えば、ロシアがウクライナ侵略の口実として用いた「ウクライナに居住するロシア系住民の保護」というのは、成り立たないわけです。この点は重要かと思います。さらに後半では、第9章では戸籍が差別の温床となった事実、第12章では第3国人説の誤り、などの差別や偏見についても、戸籍との関係で取り上げていますが、マンガ「サザエさん」に登場する磯野家の戸籍などの小ネタとともに、そのあたりは読んでみてのお楽しみとしておきます。
次に、宮内悠介ほか『旅する小説』(講談社文庫)を読みました。著者は、6人の小説家であり、旅をテーマとする6話の短編が収録されています。ごく簡単にあらすじを追うと、まず、宮内悠介「国境の子」では、韓国人を父に、日本人を母に持ちながら、父なし子として、生まれた対馬で育てられた主人公が、韓国に帰国した父を訪ねます。藤井太洋「月の高さ」では、劇団の舞台美術スタッフが自動車に乗って、東京から講演先の弘前まで舞台装置を運びます。オリオン座などの星座について、ちょっとだけSFっぽい味付けがされています。小川哲「ちょっとした奇跡」は、完全なSFであり、宇宙から飛んできた偽月=ファイクムーンが地球の重力圏でとどまって地球の自転が止まり、昼と夜を行き来する2隻の宇宙船で、男女比を調整するために一部のクルーが宇宙船間で移動します。深緑野分「水星号は移動する」では、アテナイ市の高額な宿泊税を逃れる目的で、小説の舞台である宿・水星は移動式の宿泊施設となっています。そこでの人の交流、特に、スペースシャトルを目的としてやって来た旅人の交流を描いています。森晶麿「グレーテルの帰還」では、武漢で発見された新型ウィルスのニュースから始まり、家族旅行と称して小学生と中学生の兄妹が祖母の家に置き去りにされます。石川宗生「シャカシャカ」では、タイムスリップならぬスペーススリップが生じ、一定面積の地表が突然シャッフルを始め、アチコチの場所にランダムに飛ばされます。飛ばされた先では食料調達すら苦労する場合もあります。ということで、それぞれの短編が旅をテーマにしつつも、旅というよりももっと単純に、移動とか、あるいは、一定の文化圏を離れるという意味での越境による非日常まで含めた幅広い短編が収録されています。単純に、旅行に行くという紀行小説ではありません。SFというか、ファンタジーな作品もいくつか収録されています。収録作品の中では、小川哲「ちょっとした奇跡」を私は推します。何ともいえない世界観です。膨らませて長編SF小説にすることができそうな気がします。そうなれば、私はもう一度読みたいと思います。
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