2020年9月26日 (土)

今週の読書は話題の経済書をはじめとして新書も含めて計5冊!!!

今週の読書は、サンスティーン教授らの行動経済学のナッジに関する経済書をはじめとして、やっぱり、新書も含め計5冊です。久しぶりに読んだ宮部みゆきの時代小説だけは生協で買いました。ほかは京都市図書館と大学の図書館で借りています。

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まず、キャス・サンスティーン + ルチア・ライシュ『データで見る行動経済学』(日経BP) です。著者のうち、サンスティーン教授は米国ハーバード大学教授であり、専門分野は法制度から行動経済学までいろいろとやっています。米国オバマ政権では行政管理予算局情報・規制問題室(OIRA)室長を務めたリベラル派の研究者です。また、ライシュ教授はコペンハーゲン・ビジネススクールの教授であり、専門は消費者政策と健康政策に関わる行動経済学的研究です。パッと見の名前だけで、クリントン政権で労働朝刊だったライシュ教授かも、と考えなくもなかったんですが、専門分野が違うようです。英語の原題はで Trusting Nudges あり、2019年の出版です。なお、阪大の大竹教授が冒頭の解説を書いています。ということで、前置きが長くなったんですが、本書の評価は分かれると思います。高い評価としては、行動経済学について独自データを取っての分析を実施している点が主になろうかという気がします。ただ、オンライン調査ですし、ほかに行動経済学のデータがないわけではありません。主として国別のデータであるというのが重要なのだろうと思います。すなわち、国別に本書第4章p.89にある15のナッジに関するデータです。もちろん、日本も含まれています。とても予算のかかった力作であることは確かです。ナッジの原則を抽出し、多くの人が合意できる内容の操作性低いナッジへの酸性が幅広く観察されています。こういった原則を定量的に確認するのは大いに意味のあることだと私は考えます・ただし、逆に低い評価となるのは、まあ、いってしまえば、単なるメタレベルの研究成果であるに過ぎない、という点です。さらに、私自身もそうですし、本書第7章で「誤解」として紹介されているように、ナッジに対する批判が大きい点です。特に、第7章で最後に挙げられているように、私はナッジというのは周辺の小さな問題しか解決できない、と常々考えています。喫煙量を減らすとか、肥満を防止するのも選択の科学としての経済学の大事な役割であることは決して否定しませんが、貧困や不平等、あわせて、途上国の開発、さらに、雇用の最大化、物価の安定、景気循環の平準化、などなど、経済学が取り組むべき課題はいっぱいあります。そういったさまざまな課題に取り組むのが経済学に必要とされた役割であると考えるエコノミストは私だけではなさそうな気がします。ついでながら、日本は国別調査結果の中で、特にナッジに対する疑問が大きい例外として「慎重型ナッジ支持国」に無理やり分類されています(p.145)。政府に対する信頼感が特に低いことが要因のひとつと指摘されています。ただし、最後に、本書のスコープには明らかに含まれませんが、新型コロナウィルス感染症(COVID-19)のもとでのロックダウン、あるいは、日本的な自粛のスムーズな運営のためには、ナッジの応用が求められる可能性が高まっています。本書では、何らCOVID-19に関する諸問題が含まれていませんが、今後の課題かもしれません。

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次に、朴勝俊・シェイブテイル『バランスシートでゼロから分かる 財政破綻論の誤り』(青灯社) です。著者は、関西学院大学の研究者とブログやツイッターで情報発信をしている貨幣論研究者だそうです。本書では、基本的に、現代貨幣論(MMT)に近いラインで反緊縮財政の議論を展開しています。もちろん、その主眼はタイトルから理解できるように、貨幣発行権があって変動相場制を取っている主権国家が財政破綻する可能性はとても低い、ということを論証しようと試みています。それを、バランスシートの観点から議論を展開しているんですが、私は前々から指摘しているように、MMTのような議論は特に必要でもなく、従来からの主流派経済学の立場から、例えば、ノーベル経済学賞を受賞したクルーグマン教授も認めているように、国債利子率が成長率を下回って、動学的効率性が喪失されている、ないし、動学的非効率に陥っている場合は、財政のサステイナビリティは何ら問題ない、と考えています。もちろん、動学的に非効率なんですから問題がないわけではなく、資本が過剰に蓄積されているわけで、資本生産性が動学的に効率的な場合よりも低くなっていて、従って、資本ストックを取り崩すことによりパレート効率が取り戻せるわけですが、まあ、財政が破綻しない方が重要という価値判断も大いにあり得ます。というか、私はその方が重要ではないかと考えます。本書を私のような主流派エコノミストが読んだ際の問題点は2つあり、ひとつは財政破綻の定義が9項目上げられていますが、通常、主流派エコノミストはポンジー・ゲーム禁止条件(NPG)を定義にしそうな気がします。ただ、NPGは政府債務返済とほぼほぼ同義ですから、本書の立場からは詰まんないのかもしれません。もうひとつは、開放経済への拡張が無視されている気がします。というのは、日本はまだまだ大国ですが、小国を仮定した場合、マンデル・フレミング的なモデルでは、小国は変動相場制下では独立した金融政策を失う可能性があります。すなわち、国内金利が国際的な金融市場における金利に一致するからです。もちろん、そもそも国際的な金利なんてあるのか、という疑問は大きいです。小国の場合、どうして国内金利が国際金利水準まで上昇してしまうのかといえば、国内金利を低位に保つ、特に、成長率よりも低位に保つなら、資本逃避が生じて資本の希少性が増して、そのレンタル・プライスたる利子率が上昇するからです。国際金融のトリレンマのうちの2つまで放棄するハメになると、かなり政策運営が厳しそうな気がしますが、モデル的にはそうなります。ということで、モデルが非現実的なんではないか、という見方も成り立ちますが、理論経済学はいくつかのほかの科学と同じでモデルを基に研究する学問であることは忘れるべきではありません。もちろん、私なんぞは頭の回転が鈍くて理論は難しいので、実証経済学に重きを置く場合、適当にいろいろやってみた上で、試行錯誤が中心になったりする場合もあります。まあ、それも科学のひとつの方法論といえます。

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次に、ラッデル・マックフォーター & ゲイル・ステンスタット[編]『ハイデガーと地球』(東信堂) です。著者は、本書pp.327-29に10人余り紹介されています。当然ながら、哲学や環境学の研究学が多くなっています。本書の原題は Heideggar and the Earth であり、2008年にトロント大学出版局から刊行されています。基本は、原書は英語で出版されているんですが、チャプターによってはドイツ語を英訳して収録した論文もあるようです。2008年はハイデガー生誕120年であり、その記念出版かという気もします。ということで、いくつか論点があるんですが、住まうということ(dwelling)などの視点から地球について、さらにやや牽強付会ながら地球環境についてのハイデガーの論考を考察しています。ただし、拙宅化してくれた京都市図書館には申し訳ないながら、久々に失敗読書だった気がします。ひとつは、読み終えた後、この読書感想文を書くために出版社のサイトで検索したところ、まったく同じ出版社から、まったく同じ書名で、10年前にも邦訳書が出版されています。『ハイデガーと地球』です。まあ、10年前に同じ書名の哲学書が出ていて、どうも、2008年のハイデガー生誕120年に近いわけですから、二番煎じなのか、それとも、新訳というべきなのか、いずれにせよ、10年前の本ではなかろうか、との疑問が生じます。次に、かなり難しい内容であることは確かなのですが、私にはサッパリ理解できなかったことです。私もキャリアの公務員を定年退職して、今の大学で教授職にあるわけですから、それほど知的レベルが低いとは思わないのですが、それでも、サッパリ理解できませんでした。「存-在 be-ing」と「存在 being」の違いは、判る人には判るんでしょうが、私には理解することの意味すら理解できませんでした。私の知性の限界、というか、私の知性の向かう方向とかなり角度が違うんだろう、という気がします。一般的に多くの人にオススメできる本ではありませんが、本当にしっかりと熟読して理解するようにがんばれれば、とても知的水準がアップしそうな気がしないでもありません。ほとんど理解できなかった私が何ら保証することはできませんが、ハイデガーや地球環境に強い興味があり、粘り強い読書ができる人にはオススメかもしれません。でも、一般的に多くの人は敬遠しておいた方がいいかもしれません。

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次に、宮部みゆき『きたきた捕物帖』(PHP研究所) です。時代小説のミステリ仕立てで、短編4話というか、連作長編4章という見方もできます。私が聞き及んだウワサでは、これから先もシリーズ化されるようです。ということで、主人公は北一という岡っ引き千吉親分の手下で、千吉親分の本業である文庫の振り売りをしています。しかし、いきなり冒頭で千吉親分がふぐに当たって亡くなってしまいます。その後、千吉親分おおかみさん松葉や貸家や長屋の差配人の富勘こと勘右衛門らとともに、広い意味での事件を解決していきます。そして、第3話では湯屋の長命湯の釜焚きの喜多次とペアを組んで事件解決に当たるようになります。北一と喜多次でタイトルの「きたきた」の2人となるわけです。インドネシア語のジャラン=道とジャランジャラン=旅行を思い出してしまいました。なお、主要登場人物としては、北一、喜多次、松葉、富勘に加えて、旗本椿山家別邸である欅屋敷の用人を務める青海新兵衛という侍も、なかなか見事な脇役です。人物投函図を出版社のサイトから引用すると以下の通りです。

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4章それぞれのあらすじを簡単に記しておくと、第1章ふぐと福笑いでは、福笑いの祟りを盲目の松葉が見事に解決します。第2章双六神隠しでは、子供3人が拾ったすごろくで遊んだことから神隠しにあったように行方不明になった謎を北一が解き明かします。第3章だんまり用心棒では、喜多次が長命湯の釜焚きとして登場し、男女の色恋の仲裁役になった富勘が道楽息子にお灸をすえたものの、意趣返しでさらわれた富勘をきたきた2人で助け出します。第4章冥土の花嫁では、なんと、盲目の松葉が謎を解決して大活躍します。この4章だけ人死にが出ます。なお、宮部作品の過去の本からのお楽しみがあるようで、主人公の北一が千吉親分の死後に住むようになる富勘長屋は、『桜ほうさら』の主人公である笙之介が住んでいたのと同じ長屋ですし、『<完本> 初ものがたり』で登場した「謎の稲荷寿司屋」の正体が明らかになります。もっとも、後者の『<完本> 初ものがたり』は私はまだ読んでいません。ということで、この新シリーズの先行きも楽しみなんですが、ぼんくらシリーズはどうなったんでしょうか。私はコチラも楽しみに待っています。

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最後に、隈研吾・清野由美『変われ!東京』(集英社新書) です。著者は、建築家であり、東大教授をついこの3月いっぱいで退任された研究者です。東京オリンピックのメイン競技場の設計者としても人口に膾炙しています。その隈教授とジャーナリストの対談集です。本書の前に、同じ集英社新書で同じ著者2人の対談集で『新・都市論TOKYO』と『新・ムラ論TOKYO』という本が公刊されているようですが、私は不勉強にして読んでいません。ということで、著者、というか、主として隈教授は、都心の超高層オフィスビル群を「オオバコ」と称し、郊外の住宅を「ハコ」と読んでいます。ここから、東京の建築というのはは人々が通勤という形で「オオバコ」と「ハコの間を往き来することとなり、それが東京に関する都市建築論の基礎となるっています。ただ、新型コロナウィルス感染症(COVID-19)の感染拡大防止のためテレワークが普及し始め、「オオバコ」は不要な建築になりつつあります。隈教授がかかわりを持った建築として、シェアハウス、トレイラー、吉祥寺の焼鳥屋、バラック、木賃アパートなどの「ハコ」を、どうも、著者2人で見て歩いての対談が繰り広げられています。サライーマンと昔の武士との対比、というか、何らかの連続性については、私はよく理解できませんでした。まあ、しょうがないんですが、すべてが東京中心で、COVID-19の感染拡大の前に東京を逃げ出して、故郷の関西に移り住んだ私なんぞは、それなりに理解できなくもないものの、根っから東京をよく知らない、という人には少し不親切な東京論のような気もします。もちろん、東京も少子高齢化とともに小規模化するんでしょうが、地方はさらに東京を上回って小規模化、あるいは、ひどい場合には消滅する可能性もあるんですから、何事も、東京中心となるようです。東京ならざる地方に住むカギカッコ付きの「田舎者の僻み」かもしれません。

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2020年9月19日 (土)

今週の読書は左派リベラルの経済書や新書も含めて計4冊!!!

今週の読書は、テミン教授の米国の二重構造をルイス・モデルというややトリッキーな方法論で解明を試みた経済書、社会学でオリンピックと戦後の東京を論じた教養書、いろいろ読んで以下の4冊です。どうも、この週4冊というのがボリューム的に定着したような気がするのですが、以前の東京のころから冊数としては減っています。この季節は、野球観戦と教科書で時間が取られているのかもしれません。でも、できるだけ新書は読むようにしています。

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まず、ピーター・テミン『なぜ中間層は没落したのか』(慶應義塾大学出版会) です。著者は、御存知の通り、米国マサチューセッツ工科大学(MIT)で長らく経済史の教授を務めたエコノミストであり、極めてリベラルないし左派の立場をとっていることでも知られています。本書の英語の原題は The Vanishing Middle Class であり、2017年の出版です。ただし、現行が入稿されたのは2016年9月だそうで、米国大統領選挙の直前のようです。邦訳タイトルはほぼほぼ直訳のように見えます。慶應義塾大学出版会からの刊行ですから、学術論文に近い印象ですが、中身はそれほどの高い難易度ではないように私には見受けられました。著者は、私も参照したことのある二重経済をモデル化したルイス・モデルを米国の階層分化に応用しています。私はびっくりしました。経済学的にはルイス・モデルの二重経済を基礎にし、政治学的にはファーガソン教授の「政治への投資理論」investment theory of party competition、すなわち、政治資金と得票数には正の相関関係があるとする理論、を用いて、米国における不平等の拡大やフタコブラクダのような所得分配などを解明しようと試みています。政治学的な方面はともかく、経済学的なルイス・モデルの応用については、私は疑問を感じないわけではありませんが、まあ、考えられないわけでもないんだろうと受け止めています。ルイス・モデルについては本書にも簡単な説明がありますが、高所得の資本家部門と低所得の生存部門があり、生存部門から資本家部門に労働が移動することにより生産性が上昇し、成長が促されるとするものです。詳しくは、英語論文ながら、私がジャカルタで書いたディスカッションペーパーがあります。それはともかく、現代米国において、金融・技術・電子部門=FTE部門を高所得部門と設定し、ただし、低所得部門から高所得部門に移行するのはかなり難しい、と分析しています。米国では世代間の移動可能性も欧州よりも低くなっているくらいですから、そうかもしれません。また、所得階層を上げるための大学進学も学費の観点から低所得家庭の子弟が大学に進学する困難さも分析されています。ただ、やや物足りなかったのは、FTE部門がどうして小さな政府を要求するか、についてもう少し詳細な分析が欲しかった気がします。単に、FTE部門税金を払いたくないから、だけでは、特に日本ではみんな税金を払いたくないでしょうから、説明になっていないような気がします。この政府の大きさも含めて、低所得部門の分析は豊富なのですが、高所得のFTEbumonnnobunsekigaもう少し欲しかったと私は受け止めています。コーク兄弟だけでは少し物足りません。

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次に、吉見俊哉『五輪と戦後』(河出書房新社) です。著者は、東大教授であり、社会学・文化研究・メディア研究を専門としています。おそらく、著書は多数あるんだろうと思いますが、私は初めて読んだかもしれません。タイトルから想像されるように、本来、今年2020年に開催される予定だった東京オリンピックを念頭に置きつつ、実は、1964年の東京オリンピックを論じています。第Ⅰ章でオリンピックの舞台となる東京という都市を舞台として取り上げ、第Ⅱ章でオリンピックを盛り上げる演出について、主として聖火リレーに着目して、それほど大きな注目を集めていなかったオリンピックの注目度が以下にして上がったか、を考察し、第Ⅲ章ではそういった舞台や演出に基づいて、いかに演技が演じられたか、マラソンの円谷と女子バレーを題材に議論され、最後の第Ⅳ章では東京に続くソウルや北京と行ったアジア都市でのオリンピックの開催を再演として捉えています。私は専門外なのでよく理解していないながら、ドラマトゥルギーという概念から上演論的なアプローチが取られています。戦前の東京というのは、帝都というよりも、軍隊が広く展開された軍都であったと指摘し、戦後はそこに米軍が進駐し、そういった軍事施設をスポーツをはじめとする文化に対して転用ないし開放するという発想からオリンピックが考えられ、当然ながら、戦後1950年代あたりからの高度成長を背景に、戦後日本の平和国家としてのアピールの場となったわけです。著者は、オリンピックだけでなく、1970年の大阪万博まで視野に入れてこういった点を論じています。聖火リレーについては沖縄を走ったという点は私も記憶に残っているほどですから、国民にはとても印象的であったのだろうと軽く想像されます。ただ、記録映画の出来について、国会議員からは高速道路や新幹線、さらに、競技会場などのインフラやハコモノに重点を置くべしという意見があったのは知りませんでした。興味深い点でした。円谷と自衛隊の関係に焦点を当てていますが、私の記憶が正しければ、重量挙げの三宅も自衛隊ではなかったかという気がします。円谷と三宅の違いはどこから生まれたかについても論じて欲しかった気がします。でも、夏季も冬季も開発一点張りだった五輪開催が、少なくとも冬季については環境や自然保護の観点が入り始めるのは、とても時代の流れなんだろうという気がします。もっとも、それをいうなら、著者の指摘するアマチュアリズムからコマーシャリズム、というのも時代の流れのような気がします。

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次に、日本推理作家協会[編]『沈黙の狂詩曲』(光文社) です。推理作家協会の選によるアンソロジーです。昨年の出版です。収録作品は、青崎有吾「三月四日、午後二時半の密室」、秋吉理香子「奇術師の鏡」、有栖川有栖「竹迷宮」、石持浅海「銀の指輪」、乾ルカ「妻の忘れ物」、大山誠一郎「事件をめぐる三つの対話」、織守きょうや「上代礼司は鈴の音を胸に抱く」、川崎草志「署長・田中健一の執念」、今野敏「不屈」、澤村伊智「などらきの首」、柴田よしき「迷蝶」、真藤順丈「蟻塚」、似鳥鶏「美しき余命」、葉真中顕「三角文書」、宮内悠介「ホテル・アースポート」の15作品で、作家の50音順に並べてあります。さすがに、私はすべて未読というわけでもなく、「事件をめぐる三つの対話」と「美しき余命」は別のアンソロジーで読んだ記憶があります。でも、複数のこういったアンソロジーに収録されているということは、それだけレベルの高い作品ということもできようかという気がします。加えて、私の場合はかなり乱読ですので、ミステリながら結末は忘れているケースも少なくなく、興味を持ち続けて読み進むことができました。ともかく、アンソロジーですから、必ずしも本格推理小説ばかりではなく、ユーモア作品や、本格ファンからすればミステリではないようなホラー超の作品まで、いっぱい収録されており、繰り返しになりますが、とても水準高い作品ばかりです。2段組で400ページを超えるボリュームですから、私でも読了には丸々2日かかりました。通常であれば、1週間かけて読んでもおかしくない分量です。あえて、私なりにベストは柴田よしき「迷蝶」を上げておきます。還暦前後の年齢の近い登場人物というのもありますが、小説らしく日常生活ではありえない偶然です。「事実は小説より奇なり」という言葉がありますが、「そんなことあり得ない」というくらいのフィクションを展開するのが小説だと私は考えています。

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最後に、十川陽一『人事の古代史』(ちくま新書) です。著者は慶應義塾大学准教授で、我が国の古代史を専門分野とする歴史の研究者です。タイトル通りの内容で、我が国古代の人事をテーマにしています。もちろん、古典古代には今のような会社組織はあり得ませんから、律令制下の官人、すなわち、今風にいえば公務員の人事史ということになります。日本の場合、特に中国と比較しての特徴は、政権の交代はあっても王朝の交代はなく、まあ、私は決して好きな表現ではありませんが、いわゆる万世一系の天皇家が続いているという点と、もうひとつは、科挙のような一般公募の選抜試験ではなく世襲による官位・官職の継続がなされてきた点です。本書の著者も指摘しているように、世襲という言葉には北朝鮮的な好ましくない雰囲気があるんですが、学校教育も十分ではなく、ましてや、インターネットで手軽に情報を検索できるわけでもなかった古典古代の当時としては、家に蓄積された情報というのはとても重宝されたんだろうと想像できます。その上で、一位、二位といった官位と太政大臣や大納言といった官職との二重の官位官職制度のもとでの散位など知らないこともいっぱいでした。でも、人事のお話ですので、人事で職位職階が異動した際に、何が起こるのか、もちろん、摂政関白太政大臣なんて、位人臣を極めた大貴族のお話もさることながら、もっと一般庶民に近い下級貴族の精励恪勤振りも焦点を当てて欲しかった気がします。まったく出世しなかった公務員定年退職者のひがみかもしれません。最後に、私は大学で経済よりもむしろ歴史を勉強したかったんですが、就職のことを考えて妥協して経済史という分野を先行して、結局、今では経済史とは何の関係もなく教職にあるわけですが、日本の古代史は古文書の解読に明け暮れていると聞きましたが、もしそうだとすれば、私には適性がなかったかもしれません。

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2020年9月12日 (土)

今週の読書は経済と中国について考えさせられる本をはじめとして計4冊!!!

今週の読書は、ノーベル経済学賞受賞者による経済学に関するエッセイと中国経済についての評価に関する経済書、ほか新書2冊の計4冊です。このブログで取り上げる経済書は難しいという意見もあって、また、大学生諸君にもっと手軽に読めるようにという配慮もしつつ、最近では新書を多く取り上げるように心がけています。

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まず、アビジット V. バナジー/エステル・デュフロ『絶望を希望に変える経済学』(日本経済新聞出版) です。著者は、ともにマサチューセッツ工科大学の研究者であり、いうまでもなく、昨年2019年ノーベル経済学賞受賞者です。英語の原題は Good Economics for Hard Times であり、Good Economics の方はともかく、Hard Times の方はディケンズを踏まえているのは明らかでしょう。それはともかく、2019年の出版です。私の感覚では、スティグリッツ教授やサックス教授の一連のリベラルな経済書、あるいは、おそらく、直接には2018年10月7日の読書感想文で取り上げたティロル教授の『良き社会のための経済学』、あるいは、2019年7月13日に取り上げたバルファキス教授の『父が娘に語る美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』などのラインと同じにあるような気がします。ただ、途上国を専門領域とする開発経済学者ですので、ついつい、移民のお話からはじめてしまい、結論が出ないという経済学特有のわかりにくさを露呈してしまっていて、もう少しスパッと割り切れるお話から始めるという戦略を取った方がいいんではなかったか、という気がします。いずれにせよ、ティロル教授やバルファキス教授の本からは、やや落ちるのは確かです。開発経済学にもそれなりに関心ある私の直感からすれば、この著者の両教授は開発経済学に大きな貢献をして、ノーベル機材楽章を受賞したのは当然なんですが、やっぱり、RTCやそれを適用するマイクロな開発経済学の方に注目を集め過ぎたきらいがあるような気も同時にします。経済学の研究では、経済社会や国民生活にとって意味あるテーマよりも、手法で研究テーマを志向するエコノミストは少なくないわけですが、開発経済学ではジャーナルの査読を通るために、ものすごくRTCを採用するエコノミストが多くなった印象を私は持っています。当然ながら、マクロの経済状態はRCTには乗らず、実験的な手法は取れない可能性が高いことから、マイクロな開発経済学で、表現は申し訳ないながらチマチマした開発が主流になってしまいそうで、私はやや心もとない感覚を持っています。ということで、こういったラインの経済書は、年末のベスト経済書に入りそうなんですが、本書はそれほど高いランクではなさそうな気がします。

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次に、芦田文夫・井出啓二・大西広・聽濤弘・山本恒人『中国は社会主義か』(かもがわ出版) です。著者は、日本共産党の幹部経験者のほかは、ほぼほぼ経済学者のようで、しかも、過半は我が母校の京都大学経済学部のOBのように見受けられます。本書は、著者たちが見解書を出した上で、シンポジウムで意見を交換し合った上で、その見解書や議事録を基に作成されているようです。私は同じように京都大学経済学部のOBで、経済学を専門としているにしても、まったく専門外で理解ははかどりません。ただ、社会主義化資本主義化はあくまで生産関係により識別することが必要であり、中国のように核保有したり、拡張主義的で、まるで資本主義の帝国主義段階にあるような軍事行動を取るのかは、生産関係の下部構造から、時々の、あるいは、周辺事情により、同じ下部構造でも上部構造は異なることがあるわけで、上部構造まで含めて社会主義か資本主義かを問うのは、少し趣旨が違うような気もします。その上で、社会主義と資本主義を識別する大きな判断基準は、私は資源配分のあり方だと考えています。すなわち、中央司令に基づく計画経済か、それとも、分散型の市場による資源配分か、です。それに付随する上部構造で、所得再配分とか軍備への考え方などは、市場経済の資本主義社会でも社会主義よりも、国民本位の所得再配分とは核廃絶により熱心だったりする可能性があります。一例を考えると、我が日本の所得配分のジニ係数が中国よりも小さくて、格差が小さいのはよく知られている通りです。その上で、専門がいながら私の目から見て、中国では資源配分は中央司令に沿って実施されているわけではなく、おそらく、市場で配分がなされているように見えます。その意味で、中国は少なくとも社会主義ではないような気がします。自信はありません。

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次に、エマニュエル・トッド『大分断』(PHP新書) です。著者は、ベストセラーを何冊か生み出している知識人で、人類学者という触れ込みです。ここ2-3年のインタビューを基にした本書では、地域的な分断ではなく、もっとマルクス主義的な階級分断が教育に応じて引き起こされる、と主張しています。ただし、私が読んだ範囲では、それほどの論理的な立論がなされているわけではありません。教育を受けたエリートが経済格差が拡大する中で有利になることはいうまでもありませんが、そのエリートが社会の分断を進めているという主張には、私は同意しません。本書の見方からすれば、それなりの名門大学を卒業して上級職の公務員や大学教授をしている私なんぞは、まさに、エリートに入りそうな気がしますが、決して経済的に格差の上に位置しているわけではないように実感しています。まあ、個人的な見方はさて置き、繰り返しになりますが、本書では、教育の有無がマルクス主義的な生産手段所有の有無と同じように階級分断をもたらすと指摘しています。可能性は否定しないものの、土地や生産手段とは違って、教育の場合は、特に日本では、それなりに万人に門戸が開かれているような気がするだけに、少し違うとも感じます。英国などでは、貴族に男の子が生まれるとイートン港に手紙を書いて入学の「予約」をする、という都市伝説を聞いたことがありますが、日本ではむしろ貧困から脱出する手段としての大学進学を、私なんぞは推奨しています。ただ、日本の出版社に対するインタビューから構成されていて、それだけに、教育による分断はともかく、家族構造に起因して日本では女性の地位が低くなりがちで、それが人口減少に直結する、との指摘は考えさせられるものがあります。日本と同じような家族構造のドイツではせっせと移民を受け入れており、日本も移民受け入れを推奨していて、天皇陛下が移民についてスピーチを行い、東南アジア諸国からの移民を積極的に受け入れる、なんてのは実現性が極端に低いだけに、無責任な発言とも取られかねないリスクがあります。でも、欧州人の著者は日本が世界最大の人口大国にとても近くて、日本が移民を受け入れた途端、かの人口大国から大量の移民が押し寄せかねないリスクを無視しているような気がします。

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最後に、吉田敦『アフリカ経済の真実』(ちくま新書) です。著者は、基本的に開発経済学の研究者なんではないかと見ていますが、むしろ、経済に限定されずに、アフリカ地域の専門家なのかもしれません。というのは、タイトルにひかれて読んでみたんですが、それほど経済の話題を取り上げているわけでもなく、アフリカの政治や社会も含めて幅広く解説しています。実は、私も南米チリの日本大使館で経済アタッシェをしていた際に感じたことで、平均的な日本人はチリの経済事情には関心ないのもさることながら、ほとんど情報がなく、現地の一般情報、テレビや新聞で当たり前に報じられている情報を日本に伝えるだけで、それなりの仕事になったりします。チリよりもアフリカはもっとかもしれません。恥ずかしながら、本書で展開されているアフリカ事情は、私なんぞはほとんど知らないことばっかりでした。伝統的に、地域的な距離感からして、日本はアジア、米国は中南米、そして、アフリカは欧州が開発に協力する場面が多そうな気がします。私自身はアフリカに足を踏み入れたことはありませんが、アジアの中のジャカルタではそれなりの経済開発への貢献をしてきたつもりです。ただ、本書を読んでいると、アジアは中国をはじめとしてそれなりの経済開発に成功し、所得の増加を見せていますが、資源大国でありながら経済開発からは取り残されたアフリカに対する強力に、我が国もさらにリソースを投入する必要があるのかもしれません。でも、よく判りません。

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2020年9月 5日 (土)

今週の読書は後期授業のテキストの通読など計4冊!!!

今週の読書は、やや反則気味ながら、後期の授業で取り上げる予定の教科書、ほか、新書が3冊と計4冊です。亜紀書房からご寄贈いただいて、水曜日に取り上げた『教養のための経済学 超ブックガイド88』は別勘定です。今週から本格的に大学に通い始めて、後期の授業の資料作成、あるいは、大学院生の指導のためにプログラミングを始めたりと、やや忙しくなり始めましたので、読書量は少なめな気がします。悪しからず。

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まず、浅子和美・飯塚信夫・篠原総一[編]『入門・日本経済[第6版]』(有斐閣) です。後期の授業で使う予定なので通読してみました。10年ほど前に長崎大学で同じような授業をしていたころは本書の第3版を教科書として指定して使っていて、今年に入って1月か2月にシラバスを入力する際に、第5版を教科書として指定したところ、3月に第6版が出てシラバスを書き換えたところです。大学の授業ですから、大雑把に、15回の授業で全体を終えるように編集されています。オンライン授業になりますし、私自身は新任教員ですから、どれだけの受講者が集まるかは未知数ですし、さらに、その中で教科書を買う学生がどれだけいるかはさらに未知数です。でも、私は、文科大臣の「身の丈」発言とは違う意味で、大学生はそれなりに本を買って読むべきだと考えています。もちろん、教科書もそうです。大学の授業では、教員がレジュメを配布する場合も少なくなく、それはそれで、授業をする教員自身がオーダーメードで作成するわけですから、私のようにレディメードの一般出版物を教科書に指定するよりも、授業にもっともよく合致する内容や順序ですので、学生にも有益だと考えなくもありません。でも、逆に、レジュメをもらってそれをファイルして授業を聞いたつもりになってしまう欠点もあります。もちろん、教科書を買って本棚にしまって授業を聞いたつもりになるリスクもあります。それではどちらがいいかというのは、一概には判断できませんが、少なくとも私のように、大学生はもっと本を読むべきと考える教員は一定数いるものと私は考えています。私自身は、学生諸君の、というか、親御さんの金銭的な負担に応えるだけの教科書を指定しているつもりです。

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次に、Voice編集部[編]『変質する世界』(PHP新書) です。月刊誌『Voice』の編集部がインタビューしたり、寄稿を求めたりした、悪くいえば、細切れの原稿をつなぎ合わせています。ですから、論者によっては相矛盾する内容が含まれていたりしますし、編集が雑だと感じさせる部分も少なくありません。でも、新型コロナウィルス感染症(COVID-19)が、政治経済、国際関係、人々の価値観にどのように変質をもたらしたのか、について、可能な限り早い時期に様々な見方を1冊の本にして提供するという観点からは、容認できる欠点だという気がします。すなわち、インターネット上の情報が断片的にしか提供されないのに対して、書籍で提供される情報は体系的・網羅的・包括的である点に大きな特徴があると私は考えており、異なっていたり、相反する意見であっても、それを1冊の本に取りまとめるのは意義ある作業だと私は考えます。ということで、掲載順に、安宅和人、長谷川眞理子、養老孟司、デービッド・アトキンソン、エドワード・ルトワック、ダロン・アセモグル、劉慈欣、御立尚資、細谷雄一、戸堂康之、大屋雄裕、苅谷剛彦、岡本隆司、宮沢孝幸、瀬名秀明の各氏が、専門分野の観点から、あるいは、別の観点も含めて、さまざまな見方を提供しています。これからの世界、私は「ウィズ・コロナ」ではなく、ポストコロナ、ないし、アフター・コロナだと考えているわけですが、この先の世界をどう取り戻すか、あるいは、今までの世界からどう変質しているのか、変質しているとすれば、どのような対応が考えられるのか、などなど、あるいは、COVID-19に関連薄い点まで含めて、幅広い議論が展開されています。私自身はアセモグル教授のパートが参考になりましたが、多くの読者にも何らかの得るところがありそうな気がします。でも、それほど多くのものを期待するのは酷かもしれません。

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次に、藤原正彦『本屋を守れ』(PHP新書) です。著者は数学の研究者であり、お茶の水大学の名誉教授で、2005年の『国家の品格』がベストセラーになっていたりします。私自身は、この著者の論点の多くに反する意見を持っているんですが、本を読む重要性という論点はかなりの程度に賛同していますし、その観点から、ロードサイト店ではなく街中の、特に駅前通り商店街の本屋を守るという本書の論点は大賛成です。繰り返しになりますが、私のこのブログもご同様ながら、提唱者ご自身の裁量でアップしているインターネット上の情報が断片的で、時には不正確なものも少なくない中で、本というもは編集者のスクリーニングを経ているわけで、それなりの正確性が保証されている上に、断片的ではなく体系的・網羅的・包括的である点に大きな特徴があります。正確性という観点からは、編集者のスクリーニングだけでなく、専門家のピアチェック、すなわち、査読がある方がさらに正確性の向上に資するわけで、学術雑誌であっても査読がなければ「ソーカル事件」のようなお店もある可能性が残されます。ただ、本書に戻ると、随所に「自ら本に手を伸ばす子供」という言葉が出てきますが、それを実現させるための手段がスマホの禁止である点はお寒い限りですし、その他の著者の国家観や民族観などについては、私はまったく同意できません。ただ、本を読むという読書の重要性については著者の論点に賛成します。特に、私は日々接する学生諸君は、もっと読書すべきであると考えています。その点から、今週の読書で多く取り上げた新書をサラリと読むのも一案かもしれません。

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最後に、津堅信之『京アニ事件』(平凡社新書) です。著者は、アニメ史の研究者であり、この本のテーマである京アニ事件からいくつかのメディアへの露出が目立っていたことは私も記憶しています。ですから、第1章はいきなり著者のメディアへの露出についての言い訳から始まったりします。実は、私は関西に引っ越してから京都市営地下鉄の沿線に暮らしており、京アニ事件の現場からほど遠くないわけです。これも実は、で、結婚した25年前は杉並に住まいして、その後に建設されるジブリの森美術館の井の頭公園からそれほど遠くないところで新婚生活を始めたことも記憶しています。というわけで、私はそれほど京アニ作品に詳しいわけではなく、せいぜい、米澤穂信の古典部シリーズを原作とする『氷菓』しか見ていないんですが、私は原作を十分に読みこなしているので、ミステリとしか考えられなかったんですが、本書ではサスペンス作品として取り上げられています。それは無視するとして、本書では、アミニメファンらしく、映画のエンドロールに登場するアニメ作家の名前の重要性と京アニ事件での被害者の実名公表を考えたり、紙媒体にせよ、デジタル化されているデータにせよ、事件の火炎から逃れた作品や関連資料の重要性よりも、むしろ、それらを作成した被害者の命が戻らない点を何度も繰り返して指摘するなど、私には欠けている視点であろうと感じました。それなりに読み応えありますが、エコノミストとして、企業経営の観点から、京アニとパナソニックの類似性を感じるのは私だけかもしれません。

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2020年9月 2日 (水)

飯田泰之・井上智洋・松尾匡[編]『教養のための経済学 超ブックガイド88』(亜紀書房)をご寄贈いただく!

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先日、亜紀書房の編集者の方から飯田泰之・井上智洋・松尾匡[編]『教養のための経済学 超ブックガイド88』(亜紀書房)をご寄贈いただきました。かんたんに読書感想文を取りまとめておきたいと思います。
ちゃんと数えていないんですが、10人余りの著者がジャンル別に、「景気」、「格差・貧困」、「雇用・教育」、「国際経済」、「社会保障」、「地域経済」、「人口減少・高齢化」、「環境問題」、「先進技術」、「統計」、「経済学史」、「経済理論」のテーマに関するブックガイドを書いています。それに、冒頭に編者3人による対談、さらに、あとがきもあります。本書の場合、あくまでブックガイドですから、収録された新書、というか、私の直感的な印象ながら新書が多く、半分近くを占めそうな気がしますが、収録された本を読者自身が読むためのブックガイドです。別のタイプの紹介本で、古今の名著をダイジェストして、それを読まなくても読んだ気分にさせる、というタイプのブックガイドもありますが、本書はそうではなく、あくまで読者が今後の読書の参考にするためのブックガイドです。でも、本書の読者の中の一定割合は、本書で紹介されている本を読んだつもりになる人がいそうな気がします。
ということで、繰り返しになりますが、紹介され収録されているのは手軽に読める新書の割合が高くなっています。実は、最近、私の読書も出来る限り新書を取り入れようと考えているところでしたので、とてもタイムリーな印象です。もちろん、例外はありまして、アトキンソン教授の『21世紀の不平等』とかの数冊くらいです。上のいくつかのジャンルのうち、私が読了している割合が高かったのが「統計」です。他にも親しんだ本が収録されています。でも、経済学のブックガイドながら、なぜか、金融と財政については着目されていません。やや不思議な気がします。

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2020年8月29日 (土)

今週の読書は経済書を中心に計3冊!!!

今週の読書は、経済書を中心に以下の3冊です。MMTについて勉強をし始めているわけですが、やや残念な入門書でした。でも、網羅的に取りまとめ、体系的な情報を提供しようとしている姿勢はいいんではないでしょうか?

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まず、野口旭『経済政策形成の論理と現実』(専修大学出版局) です。著者は、専修大学経済学部の研究者であり、リフレ派のエコノミストです。私がジャカルタにいるころですから、世紀の替わり目付近で日銀を速水総裁が率いていたころ、本書の著者の野口教授が、いわば、リフレ派のスポークスマンのような立ち位置で、私が記憶する範囲では、それほど上品でもない論争を日銀とリフレ派の間で繰り広げ、リスレ政策の選択に至らなかった、というのが歴史的な経緯ではなかろうかという気がします。ただ、私はジャカルタにいましたので、詳細な部分は把握していません。ですから、私のゲスの勘ぐりでは、著者の意図はそこにお話を持っていこうとしているんではないか、という気がしなくもないんですが、自由貿易が実際の政策としてはなぜ採用されないのか、といったカギカッコ付きの「周辺議論」もふんだんに取り入れています。ケインズ的な経済政策が、現在のネオリベラルなエコノミストの元祖的なフリードマンやルーカスなどからの批判を取り入れて柔軟に発展し、現在でも十分に生き残っている、というのは、その通りだと私も考えています。ただ、私の極めて素直な感想として、本書については私の目から見ていくつか問題点があります。私の独特の表現ながら、第1に、評価関数が明確ではありません。政策目標としては、マクロ経済の安定に加えて、適切な雇用、所得、物価の達成、といったホワッとした言及があるだけです。マクロ経済政策ながら、どうしてもリフレ政策が底流に流れていて、格差是正とかはまったく視野に入っていないようですし、別の意味で、オピニオンリーダーたる政治家やメディアが経済政策の専門家と異なる評価関数を持っている可能性はかなり大きいと考えるべきです。例えば、著者自身も、「黒田以前の日銀は、その政策上の優先順位を、明らかにデフレの克服よりは伝統的金融政策の枠組みをできるだけ守ることの方に置いていた。」(p.299)と指摘しているわけですし、昨今のGoToトラベルなんて、ホントに新型コロナウィルス感染症(COVID-19)の影響を受けた観光業界への救済を目指しているのか、それとも政治家の利権確保が主たる眼目なのか、やや怪しいところもあります。要するに、著者ご自身の評価関数も、自分の考えが実行される点が、高い優先順位となっている可能性が疑われます。加えて、第2に、第1の点とも関連して、前の日銀との論争でもこの著者の悪いところであったと私は考えているんですが、専門知と称して上から目線を示して、世間知を極めて低く見ている点です。私は長らくの公務員としての経験から、いろいろあっても、主権者が投票で示した評価関数に従って経済政策を企画立案するのが公務員に課せられたマンデートであり、長期的に見れば、主権者は正しい選択を示すものである、という信念を持って仕事をしていました。本書の著者とはかなり見方が異なると自覚しています。というか、そう考えないと、お仕事を進める意欲をなくしそうな場合もありました。かつて、IMFのエコノミストが博士号を持った専門家の意見が正しいような発言をして批判されたと記憶していますが、少なくとも国内の経済政策を考える場合、主権者たる国民の支持なくして、専門知を振りかざすだけでは、政策的な成果を上げられるとは、私にはとても思えません。

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次に、望月慎『最新MMT[現代貨幣理論]がよくわかる本』(秀和システム) です。著者は、「経済学101」というサイトに所属する翻訳者です。私はこの「経済学101」というサイトでは、VoxEUの邦訳を探したりすることもあります。著者は、昨年『立命館経済学』第68巻第2号に「Modern Monetary Theoryの概説」という講演会議事録が寄稿されたのが冒頭に掲載されており、我が所属大学だけに私もこの起用論文は拝読しています。ただ、本書については、かなり当たり前で正統的な経済学でも当然視されているような内容を、クドクドといかにもMMTを主流派経済学から差別化しようとするような印象で取り上げており、やや疑問に感じます。例えば、第6章のストック・フロー一貫モデルなんぞは、MMTの独自の視点でもなんでもなくて、現在の主流派経済学はもとより、おそらく、マルクス主義経済学でも当然のように受け入れられていると思いますし、その他のいくつかの論点についても、MMTとほかの、主として主流派の経済学の差を大きく見せたいのは、本書の立場からして理解できなくもないのですが、やや本末転倒です。MMTの解説については、私が見た範囲では、上に取り上げた野口教授が、これも昨年の『News Week 日本語版』で6回に渡って繰り広げた「MMT (現代貨幣理論) の批判的検討」のコラムが圧倒的に判りやすく、主流派経済学との異同に関して学術的にも正確であったと考えています。確かに、MMTが批判するいわゆる「主流派経済学」は、本書で特に強い批判の矛先を向けられているマネタリズムや貨幣を半ば無視する新古典派経済学だけでなく、それらの成果を批判的に取り入れて構築された広義のニュー・ケインジアン経済学も含むわけでしょうし、新しい経済学として注目されたいのであれば、既存の主流派経済学を強く批判して存在感を示すことも重要ですが、ハッキリいって、ややヤリ過ぎの感を持つ読者もいそうな気がします。単なるいい換えとか、言葉遊びに見えかねない部分も少なくありません。私はMMTに対してそれほど大きな偏見を持っているわけではありませんが、官庁エコノミストとしての役割もあった公務員を定年まで勤め上げた経験から、Job Guarantee Program (JGP) の運用が難しそうな気がします。やや言葉遊びに近い一例として、裁量的財政政策を否定し、機能的財政政策により維持されるJGPなんですが、どこまでdecentなjobを準備できるか、政府のJGPと民間雇用の間でどのような流動性が確保されるのか、おそらく、我が国の財務官僚は私なんぞの不出来だった公務員からかけ離れて優秀ですから、何とかしそうな気がしなくもないんですが、実際の実務面の運用が私には気がかりです。ただ、本書で評価すべきは、断片的な情報にとどまるネット上のMMTに関する情報を、体系的な記述に格段に優れて網羅性も高い書籍として出版された点は大いに有益だと私は考えます。特に、邦文による出版は決して多くないだけに、私のように参考文献として読むエコノミストも少なくないものと期待します。最後に、本書ではなく、寄稿いただいた『立命館経済学』第68巻第2号「Modern Monetary Theoryの概説」の p.200 において、我が国の財政が破綻しない理由について、「なぜ現代日本において横断性条件の"破れ"があるのか?」との問いを提起しています。私は「横断性条件」というのは聞いたことがなかったので、「日本の財政が破綻しない」という意味だろうと解釈して僭越ながらご回答申し上げると、日本経済が動学的非効率に陥っているから、あるいは同じことで、動学的効率性を喪失しているから、と回答しておきます。例えば、とうことで、次の書評と長崎大学のころの私の紀要論文をご覧ください。

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最後に、ジャレド・ダイアモンドほか『コロナ後の世界』(文春新書) です。著者は、ダイアモンド教授のほか、順に、マックス・テグマーク、リンダ・グラットン 、スティーブン・ピンカー、スコット・ギャロウェイ、ポール・クルーグマンの計6人です。インタビュー結果を文章に取りまとめています。まあ、ハッキリいって、各著者のそれまでの論調を繰り返しているに過ぎないとも見えますし、特に、新型コロナウィルス感染症(COVID-19)に関係しないトピックの方がボリュームとしてはずっと多くなっているのも事実です。これが、2008年のリーマン・ショック後の金融危機とそれに続く大不況(Great Recession)の時期であれば、それまでの自分自身の論調をお菊変更するエコノミスト、典型的には中谷教授などがいたんですが、今回のCOVID-19関係では自己の主張を補強する論点が多く主張されているような気がします。もっとも、それはウィルス感染症という、必ずしも、エコノミストや心理学者などの社会科学を専門分野とする論者からかけ離れた原因だからというのもありますが、まだ、時間がそれほど経過していない、というのもありそうな気がします。数年を経過した後では、また、論調が変化している可能性もあります。いろんな議論があって、すべてを紹介することも出来ないんですが、ひとつだけクルーグマン教授飲み方を示すと、基本的に、私と同じですが、経済のためにはビッグプッシュが必要、という結論を示しています。そのためには金融政策だけでなく、いかにもケインズ政策的な財政政策による景気押上げ策が必要としているんですが、財政収支については、なんと、私と同じ見方を示しています。すなわち、p.173で「国の借金は問題ではありません。金利が成長率よりも低ければ、最終的にはGDPに対する借金の割合は徐々に減っていきます。」と答えています。従来から私が主張している動学的非効率、もしくは、動学的効率性の喪失と同義です。今まで、財政赤字に関して動学的非効率を根拠にしていたエコノミストは私しかいなかったように受け止めていたんですが、とてつもない強敵が現れたと認識しています。

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2020年8月22日 (土)

今週の読書は経済書に村上春樹『一人称単数』など計5冊!!!

今週の読書は、経済書が2冊に話題の村上春樹の新刊まで、以下の通りの計5冊です。村上春樹『一人称単数』だけは買い求めました。それにしても、書店で本を買うことがすっかりなくなってしまい、今では生協の一割引きでしか本を買っていません。

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まず、小黒一正『日本経済の再構築』(日本経済新聞出版) です。著者は、財務省ご出身で今は法政大学の研究者です、現時点での日本経済の問題点について、人口減少、低成長、貧困化の3点に絞って、とはいいつつ、極めて広範な「再構築策」を展開しています。章立てで見ても、ご出身母体の財務省という観点からしても、財政、金融、年金、医療、地方、成長、社会保障などなど、極めて広範囲に渡っています。ただし、かなり視野は狭くて、例えば、ほぼほぼ閉鎖経済で議論が展開されており、世界経済とのリンケージ、例えば、中国を含むアジア経済の中で日本がどのようなニッチを占めるべきか、といった議論は無視されています。加えて、「抜本的改革」かもしれないんですが、現状からすればできそうもない方策が並んでいるような気がします。例えば、エコノミストの中でも何人かの主張があるものの、現状の賦課方式の年金をその昔にも出来ていなかった積立方式の年金にするのは、いうのは簡単かもしれませんが、実際の移行過程などとともに論じないと無責任とも見えます。その昔の野党の中には「何でも反対党」、のような存在があり、圧倒的な与党の圧力の前ではそれなりに存在意義もあったように感じなくもありませんし、「青臭い」といわれつつも、現実から離れた理想論w展開する意義も私は認めるものの、エコノミストとしてはもっと地に足ついた議論が必要と考えなくもありません。特に、本書では貧困対策や格差是正にはそれほど重点が置かれておらず、私は物足りない気もするんですが、逆に、財務省ご出身だからといって、緊縮財政や均衡財政一点張りというわけでもなく、テーマ別にはそれなりにバランスは取れていると理解しますが、中には精粗区々な議論が展開されており、まあ、どちらかといえば「粗」な議論が多いような印象です。ただし、繰り返しになりますが、日本経済が到達すべきひとつの姿を大づかみに把握しようという向きには、それなりに参考になりそうな気もします。その際は、細かな部分を無視して読み進む方がいいんではないかと思います。そうでなければ、すなわち、細かな点まで読みこなしたいのであれば、かなりの専門的なバックグラウンドを必要とします。この点は無視できません。

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次に、伊藤誠『マルクスの思想と理論』(青土社) です。著者は、東大名誉教授であり、かの宇野先生の後継としてマルクス主義経済学を東大で教授した大先生です。本書は、一昨年2018年がマルクス生誕200年であった記念に、月刊誌『科学的社会主義』に連載されていたものを取りまとめています。第2章の唯物史観から始まって、第3章の『共産党宣言』、第4章の『資本論』などなど、マルクスの主要な論点を極めて効率的、というか、手短に取りまとめています。宇野先生の後継ですから、おそらく、いわゆる労農派であって、私のような講座派の歴史観ではないものと考えますが、唯物史観としては大きな違いはないかもしれません。私も経済学部に所属する教員として、マルクスといわれればついつい『資本論』になりがちなんですが、その根底にある唯物史観については、ある意味で、マルクス主義のもっとも重要な根底をなす理論かもしれないと考えています。その意味で、本書では唯物史観を仮説的な存在として、この先も修正あり得べき理論として取り扱っているのはやや疑問が残ります。もちろん、20世紀のソ連的な社会主義が破綻した後で、こういった留保が必要そうな気はしないでもありませんが、それとこれとはまた別のお話であるように私は考えています。私は本書の立場と少し違うのかもしれませんが、国家が、というか、国家を主導するエリートが生産手段を国有化した上で生産をコントロールするのが社会主義なのではなく、階級としての現場で働く労働者が、生産手段を所有する資本家に代わって生産を指揮監督=コントロールするのが社会主義ないし共産主義であリ、加えて、そういった生産物の配分がなされる体制である、と理解しており、ソ連型のカギカッコ付きの「社会主義」は、その階級としての労働者をエリートのグループたる共産党が指導する体制であり、かなり本質的に違っていると感じています。その違いは歴史的な発展経路にも依存します。中国的な「社会主義」は単なる一党独裁制による資本主義に近く、その独裁政党がたまたま共産党を名乗っているだけであり、ほとんど社会主義の体をなしていないような気がします。いずれにせよ、私のような専門外のエコノミストでも理解しやすく工夫されており、一般的なマルクス主義経済学の入門書としても役立ちそうな気がします。大学低学年生や若いビジネスパーソンにもオススメです。

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次に、坂靖『ヤマト王権の古代学』(新泉社) です。著者は、博士号を持ち、奈良県立博物館勤務などを経験した市井の研究者といえます。本書では、いわゆる「記紀」などの歴史書の史料に基づく歴史学というよりも、考古学的な歴史へのアプローチを試みています。もちろん、その対象はヤマト王権であり、「万世一系」と称して現在の天皇家に連なる系譜であることはいうまでもありません。もっとも、8世紀という遅い時期にに編纂された「記紀」はほとんど史料としては用いられていない一方で、中国の歴史書についてはそれなりに典拠しています。考古学的な考察の対象となるのは、いわゆる古墳であり、その埋葬品も含めています。特に、三角縁神獣鏡については章を立てて考察を加えており、刻まれた年号が実際に作成された年とは異なる可能性なんて、私は考えもしませんでした。本書では、当時のニュースの伝わるタイムラグを考慮して、皇帝の死んだ年が鏡に刻まれていて、その年が1年くらい遅れて伝わっても不思議はない、と指摘しています。そんなシロートの私でも興味あるのは、ヤマト王権成立前の邪馬台国や卑弥呼なんですが、著者は奈良県ローカルの人にもかかわらず、奈良説ではなく北部九州説を取っています。その理由は、邪馬台国の時代の近畿地方に中国との直接の交渉を示す根拠がない、ということになります。ただ、これは奈良説を否定できても、北部九州説を肯定できる積極的な根拠ではないように私には思われます。でも、決定的な証拠なんてないんだろうという点は理解します。いずれにせよ、ヤマト政権成立から遣隋使や遣唐使を送っていた我が国の古典古代の時代には、中国や朝鮮などの大陸文化はとても先進的なものであり、その名の通りの極東に位置する我が国は文化的には大きな後進性を有していたものと考えられます。なお、先ほどの伊藤先生の本にあるマルクス主義の基本となる唯物史観ではないんですが、本書の著者も中国や我が国、さらに、我が国の中の各地方の生産力というものをとても重視して、生産力と先進文化の受容性という関係を無視できないリンケージと考えている様子が細かないくつかの記述からうかがえます。

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次に、村上春樹『一人称単数』(文藝春秋) です。作者は、私ごときが紹介するまでもない著名作家であり、我が国の作家の中でもっともノーベル文学賞に近いと見なされています。久し振りの単行本であり、8篇の短編が収録されています。「石のまくらに」、「クリーム」、「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」、「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」、「『ヤクルト・スワローズ詩集』」、「謝肉祭(Carnaval)」、「品川猿の告白」、「一人称単数」です。最後の表題作以外は『文學界』で発表されています。大雑把に著者のご経験に基づく自伝的要素を含む小説ないし随筆なんだと思います。その時々の著者の年齢に従って、すなわち、高校生くらいから大学生、大学卒業直後、さらに、結婚後から年令を重ねる順に配置されています。最初の方の青春小説めいたものは別にして、ヤクルト・スワローズに関する短編について注目します。というのは、ここにも書かれている通り、村上春樹は京都に生まれて芦屋などの阪神間で育っていますので、当然に阪神ファンとして成長するのではないか、と考えられるんですが、広く知られている通り、また、本短編でも明らかにされているようにスワローズのファンです。村上春樹の父親は熱心な阪神ファンだったとこの短編でも紹介されており、ご本人も高校生くらいまでは阪神ファンであって、ファンクラブにも入っていた旨が述べられています。それが東京、というか、壮大に入学してスワローズ・ファンになったのは、書かれている通りに解釈すれば、野球とは中継を見て楽しむものではなくスタジアムに応援に行くものであり、その意味で、もっとも生活圏から近い球場をホームグラウンドにしているチームのファンになる、というのは、さすがに自然な気もします。実は、京都本をよく書いている井上先生の説によれば、サンテレビが阪神の試合のフル中継を始めるまでは、関西でも阪神は決してメジャーな球団ではなく、むしろテレビ中継の多い巨人ファンの方が多かった、らしく、団塊の世代で私よりも10歳くらい年長な村上春樹は、この井上説に該当する非タイガース・ファンなのではないか、と勝手に想像していたのですが、やっぱり、年少時は阪神ファンだったと改めて知って、何となく安心したところもあります。その意味で、私は役所の定年後に関西に戻って来て、再び阪神ファンとして残りの人生を楽しみたいと思います。強く思います。

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最後に、上田篤盛『未来予測入門』(講談社現代新書) です。著者は、防衛大学校卒業、防衛省情報分析官を経験したインテリジェンスの専門家です。エコノミストがやるような定量的な経済予測ではなく、インテリジェンスの世界における方向性の分析に役立つ予想ないし予測です。ですから、予測の手法の解説が中心になっており、質問の再設定、アウトサイドイン思考、フレームワーク分席、クロノロジー&マトリックス、シナリオ・プランニングなどの詳細や実際の応用が取り上げられており、最後の方の章では親子の対話というカンジで、実際の応用編が展開されています。マインドマップを描くためのソフトウェア MindManager なども引き合いに出されています。割と近未来的な近い将来の予測が中心ですが、かなり遠大に遠い未来の方向性についても触れられています。私は、エコノミストとして、というか、官庁エコノミストとして政府経済見通しに携わったこともあるんですが、政府見通しなんぞは、本書でいうところのバックワードキャスティングであり、将来時点の目標に近い見通しに向かって、どのような政策を積み上げていくべきか、といった観点から予測しますので、民間シンクタンクのやっているようなフォワードキャスティングな予測とは大きく違っています。ただ、予測について私が従来から考えている点をもう一度確認した気がします。すなわち、例えが判り難いかもしれませんが、米国のカリフォルニアのゴールドラッシュでもっとももうかったのは誰か、という質問に対する回答です。トップはもちろん豊富な金脈を掘り当てた49ersの1人かもしれませんが、実は、平均的にもっとももうけたのは、金脈を掘り当てたかどうかにかかわらず、49ersに対してツルハシなどの採掘用品やそのた生活に必要な日用品なんぞを売りつけた商人である、という別の正解もあります。すなわち、予想に関しては、正確な予想を出来る専門家よりも、正確な予想が出来そうに見える予想手法を解説する専門家が重用される、ということが出来ます。おそらく、本書の著者は正確な予測が出来て、かつ、正確な予想が出来そうに見える予測手法を解説する専門家の両方の資質を兼ね備えているような気がします。

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2020年8月15日 (土)

今週の読書もいろいろ読んで計5冊!!!

今週の読書は、開発経済学の入門書のほか、冷戦史、また、社会心理学・教育研究の教養書に加えて、やや期待外れだったテクノロジーに関する新書まで、以下の通りの計5冊です。

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まず、大塚啓二郎『なぜ貧しい国はなくならないのか (第2版)』(日本経済新聞出版) です。数年前に出版された本の第2版です。著者は、かの速水祐二郎先生に連なる研究者で、いくつかの大学に所属した経験豊かなエコノミストですが、当然ながら、農業経済学ルーツのマイクロな開発が専門分野のようです。私も開発経済学を専門分野のひとつと考えているんですが、私の場合はマクロ経済学の応用分野のひとつと考えていますので、ランダム化比較試験(RCT)などについてはほとんど見識ありません。逆に、本書では開発の重点は開発戦略の策定と実行にあり、ほぼほぼそれがすべてとお考えのようです。本書でも議論されていますが、開発経済学のルーツを考える際、本書の著者のように典型的には農業経済学から入って、途上国の農業や他の途上国らしい産業の生産性向上ないし育成を考えるマイクロな見方と、私の場合のように、経済史から入って歴史の流れの中で大局的な経済発展を把握し、普遍的な経済発展から始まって個別国の開発に進もうとするケースがあります。どちらがいいとか悪いとかの観点ではなく、個別ケースの必要に従って考えるべきです。私はそう考えているんですが、本書の著者は自分の見方がすべて正しいとお考えのようで、アーサー・ルイス卿の二重経済における生存部門から資本家部門への労働の移動による経済発展まで否定されるのはいかがなものか、という気もします。経済学の基礎的な知識を不要とするという意味では、本書のようなアプローチも十分理解できるところですが、この方向を極めてしまうと、「開発とは途上国に行って井戸を掘ることである」という見方も成立しかねないので、やや心配ではあります。当然ながら、マイクロな経済学の最大の懸念である合成の誤謬も生じる可能性が排除できません。ただし、繰り返しになりますが、どちらがいいとか悪いとかの観点ではありません。ですから、誰か知り合いから聞いた記憶があるんですが、農業経済学的なマイクロな開発経済学はアフリカに適用可能な一方で、経済の普遍的な歴史の中で開発を考えるのはアジアに適用可能、という説があります。どこまで当たっているかは現時点で何ともいえませんが、本書を読んでいてついつい思い出してしまいました。

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次に、O.A. ウェスタッド『冷戦』上下(岩波書店) です。著者は、ノルウェー出身で現在は米国の大学の研究者をしている歴史学者です。本書の英語の原題は The Cold War であり、2017年の出版です。ということで、1990年前後に終焉を迎えた冷戦に関する世界史です。ただ、副題の「ワールド・ヒストリー」というのが、私にはイマイチ理解できていません。すなわち、通常、日本史とか、世界史という場合の世界史はワールド・ヒストリーなんですが、それに対置する形で、グローバル・ヒストリーとは、従来の王朝史ではなく、地球規模でのリンケージを視野に入れた相互連関を重視するという立場なんですが、本書では、ややそういったグローバル・ヒストリーの要素あるとはいえ、何せ冷戦なんですから、米国とソ連がそれぞれ東西の陣営の先頭に立って世界各国に覇権的な影響力を講師する、わけですので、当然といえば当然の地球規模でのリンケージは分析する必要があります。とはいえ、本書の歴史は極めて広範囲であることが特徴のひとつであり、地域も時代も従来の冷戦観からはかなり広がって理解できる気がします。もっとも、冷戦の終わり方の分析にやや不満が残ります。歴史であるからには何らかの時系列的な方向性ばかりではない因果関係の分析を期待するわけですが、ソ連崩壊とそれに続く東欧衛星諸国の共産党政権崩壊がややバラバラに記述されている印象があります。冷戦という二項対立が終わるとすれば、和解によす対立解消でなければ、とちらの陣営の崩壊しかないわけですが、私のようなエコノミストの理解からすれば、やっぱり、社会主義的なソ連経済の非効率の限界から、米国的な資本主義経済の生産性に敗北した、との理解となります。逆から見れば、生産性が低くてそれなりに非効率であっても、分配が優れていれば経済としてはOKではないのか、という見方がそれほど強力には成り立たなかったわけです。もちろん、北欧諸国の社会民主主義的な経済を見る限り、全体主義的あるいは強権的なやり方ではなく、国民的なコンセンサスに基づく分配重視という経済運営は、十分にサステイナブルとする見方も成り立ちますが、そこまで至るプロセスが各国で異なっていることも確かです。ロシアや東欧のように未発達な資本主義国だった地域においては、一度、強く左に振れてから社会民主主義的な分配重視の経済に戻る、というのが不可能だったのか、それななぜか、というのが私のひとつの疑問です。それからついでながら、日本語版への著者の序文にあるように、冷戦と、というか冷戦終了と我が国の経済的な停滞の間になにか関係があるのか、あるいは、ないのか、という疑問もなかなか興味あります。もちろん、著者のリップサービスですから、本書には何の記述も含まれていません。

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次に、クロード・スティール『ステレオタイプの科学』(英治出版) です。著者は、米国でも有数の社会心理学者・教育研究者であり、アフリカ系米国人です。英語の原題は Whistling Vivaldi であり、2010年の出版です。英語の原題は「ヴィヴァルディを口笛で吹く」くらいの意味であり、本書を読めばわかりますが、著者の出身地でもあるシカゴ近郊のエピソードで、暴力的と見なされて敬遠されがちな黒人男性が口笛でクラシック音楽をとても上手に奏でたところ、行き交う人々の警戒心が大きく減じたとの著者の友人の実話から取っているのではないかと私は想像しています。ということで、周囲からの差別や偏見がなくても、「女性は理数系に弱い」とか、「黒人男性は暴力的」とかの社会的な刷り込みがあると、無意識のバイアスが生じて、行為者本人のストレスとなって、ネガなステレオタイプの脅威によりいい結果が残せない、というケースを特に教育・学習で実証的に研究した成果を取りまとめています。繰り返しになりますが、「女性は理数系に弱い」といわれた上で、成績を出すということになれば、そのステレオタイプに近い結果が示されるのは、学校で示されるスティグマによる下層化圧力に起因するとの研究成果です。ですから、学力測定の目的と明示されると、そういうスティグマを持つグループの成績は低くなり、そうでなく、学力測定ではなく研究目的とされると、そういったスティグマはないわけですので、成績低下の効果はない、という例が多数示されます。ほかにも、マイノリティを克服するためにはクリティカルマスを満たすことが重要であり、そのためのアファーマティブ・アクションの重要性などにも言及しています。とても説得的な研究成果が多数示されています。その上、第9章ではそういったバイアスを減少させる方策がいくつか示されており、決して事実のファクト・ファインディングだけでなく、実践的な解決方法まで幅広く研究された成果が本書には含まれています。私もエコノミストとして現状判断は出来るものの、それに対する処方箋が書けない場合が少なくなく、現在の新型コロナウィルス感染症(COVID-19)による経済のダメージからの回復もそうです。そういった意味で、処方箋の重要性も確認させられた気がします。

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最後に、山本康正『次のテクノロジーで世界はどう変わるのか』(講談社現代新書) です。著者は、よく判らないんですが、いくつかの先端技術会社での勤務経験があるようです。第1章がまるまるパーソナル・ヒストリーに当てられています。気軽な新書とはいえ、こんな構成はほとんど見たこともありません。「次のテクノロジー」として想定されているのは、上の表紙画像にあるように、5GとAIとクラウド・ビッグデータの三角形なんですが、「次」ではなく「今」ではなかろうかという気もします。本書で本格的に展開されているのはAI+ロボットくらいで、5Gとクラウド・ビッグデータはそのためのインフラといった位置づけのようです。ということで、気軽な新書とはいえ、かなり物足りない内容だったので、本書冒頭のはじめにと序章の50ページくらいをパラパラと立ち読みすれば十分、という気がしないでもありません。もちろん、私のように図書館で借りるのも一案です。

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2020年8月12日 (水)

お盆休みの読書やいかに?

私はまとまったお休みがあると、古典的な名著を読みたくなる傾向があり、これまでも海外勤務の際の一時帰国や長崎大学の時の夏休みの機会などを捉えて、何冊か読んでいました。ブルクハルト『イタリア・ルネサンスの文化』、バジョット『ロンバード街』、ハルバースタム『ベスト・アンド・ブライテスト』、リースマン『孤独な群衆』、ガルブレイス『新しい産業国家』、フリードマン『選択の自由』、などなどです。ただ、知り合いからバジョットは『ロンバード街』ではなく、むしろ、『イギリス憲政論』の方が世界的に知名度が高い、と指摘されたことがあります。ほかに、チリ勤務の際にはガルシア-マルケスの『百年の孤独』Cien años de Soledad のスペイン語原書に挑んだこともあります。我が家の本棚にはそれなりに立派な本が並んでいます。
今週のお盆休みの読書計画に選んだのは以下の5冊で、すでに半分くらい読んでしまいました。2冊めのエスピン-アンデルセンの『福祉資本主義の三つの世界』以外は読んだ記憶があります。

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まず、ロバート D. パットナム『孤独なボウリング』(柏書房) です。米国の社会関連資本=Social Capitalが20世紀の終わりの⅓、すなわち、1960年代半ばくらいから失われていく社会的な現象について分析を加えています。非常に有名な事実なんですが、同じタイトルの "Bowlin Alone" という学術ジャーナルの論文が1995年に出版されていて、書籍は2000年の出版です。論文出版のころは社会関係資本の喪失の原因はテレビ、としていましたが、書籍を上梓するころには世代論に重点を置くように変化しています。

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次に、G. エスピン-アンデルセン『福祉資本主義の三つの世界』(ミネルヴァ書房) です。これも有名な本です。福祉レジームについて、アングロ-サクソン諸国の自由主義レジーム、北欧諸国の社会民主主義レジーム、そして、大陸欧州諸国の保守主義レジームにカテゴライズして論じています。私が知る限り、2012年版の「厚生白書」第4章の冒頭で私のようなシロート向けの解説があります。また、1980年代の失業の高まりへの対応として、同じ3分割の政策論を展開した『転換期の福祉国家』も有名です。1980年ころからの失業の増加に対して、アングロ-サクソン諸国では最低賃金や公的扶助を切り下げて労働市場を柔軟化させるアプローチを取り、大陸欧州諸国では早期退職のパスを整備して労働供給を減少させるアプローチを取り、スカンジナビア諸国では福祉などの公的部門の雇用を拡大して労働需要を増加させるアプローチを取った、とされています。

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最後に、葉室麟『いのちなりけり』、『花や散るらん』、『影ぞ恋しき』(文春文庫・文藝春秋) です。いわゆる「いのち」3部作です。第1巻『いのちなりけり』と第2巻『花や散るらん』はすでに文庫本が出ており、第3巻『影ぞ恋しき』はまだ単行本だけです。藩主に対して「天地に仕える」と広言する柔道と剣の達人雨宮蔵人と名門出身で教養豊かな才色兼備の咲弥の夫婦、そして、第2巻の『花や散るらん』から新たに家族に加わる娘の香也、その脇を固める「葉隠」の著者である山本常朝や後に出家する深町右京などなど、藩内政治だけでなく、幕府と朝廷を巻き込む陰謀めいた出来事に加え、これも第2巻の『花や散るらん』では、赤穂浪士の討ち入りに立ち会います。私はこの第2巻が一番好きです。第1巻はもちろん、第3巻もいいんですが、最後の第3巻では忍びの連中が余りに出過ぎる気がします。

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2020年8月 9日 (日)

先週の読書は統計の学術書をはじめ計6冊!!!

先週の読書は、スティグリッツ-セン委員会リポートの後継となる統計の専門書をはじめとして計6冊です。そろそろ、本格的な夏休みが始まりますので、読書計画も考えていたりします。

 

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まず、ジョセフ E. スティグリッツ & ジャン=ポール・フィトゥシ & マルティーヌ・デュラン[編著]『GDPを超える幸福の経済学』(明石書店) です。編著者の3人はスティグリッツ教授はノーベル経済学賞受賞者であり、米国を代表するエコノミストの1人ですし、フィトゥシ教授もフランスを代表するエコノミストの1人です。デュラン氏はOECDの統計局長です。本書は、当時のフランスのサルコジ大統領が主導したスティグリッツ-セン委員会の後継グループの研究成果を取りまとめています。英語の原題は For Good Measures: Advancing Research on Well-being Metrics beyond GDP であり、2018年の出版です。英語の全文リポートも Initiative for Policy Dialogue のサイトにアップされています。日本語タイトルは「幸福の経済学』と要約されていますが、その計測についての議論を収録しています。ですから、かなり議論は専門的かつ技術的なものとなっています。その道の専門家でないと読み解くのは難しいかもしれません。いずれにせよ、私のようなマクロ経済ないしマクロ経済の応用分野を専門とするエコノミストにとって、もっとも重要な指標のひとつはGDPであることは確かです。しかしながら、そのGDPは開発が始まってから100年近くが経過しており、そもそも、戦後直後からそれなりの批判あったことも確かです。私の直観からいえば、GDPは製造業を付加価値を生み出す中心的なセクターとする経済指標であり、ペティ-クラークの法則が示す通り、第1次産業から第2次産業、そして、第2次産業から第3次産業へと付加価値生産や雇用が重心を移す中で、どこまで経済の進歩を計測するに耐えられるか、という点からは疑問が出されています。本書でも、第1に、教育や医療などの市場を経由しない社会的取引、第2に、付加価値生産というフローにとどまらないストックの考慮、特に、げんざいのSNA統計でも把握されている生産資本だけでなく人的資本や自然資本の計測、第3に、平均や中央値で捉えるだけではなく分布の重視、といった観点から統計を研究した成果となっています。加えて、GDPなどの経済統計はあくまでひとつの数値として結果が示されますが、そういった従来的な統計値ではなく、幸福度などにおけるダッシュボードの採用の可能性なども議論しています。その上で、邦訳タイトルにあるように、幸福指標を考慮し、経済的安定性や不安定性、さらに、SDGsに整合的な経済的持続可能性の考慮などなど、新たな経済統計の進むべき方向が示されています。実は、私のシェアリング・エコノミーに関する研究成果も幅広い意味では、こういった研究の一環なんですが、はなはだ研究水準に不満が残り、分野も限定されている、というのは今後の課題としておきます。

 

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次に、日本経済新聞社[編]『NEO ECONOMY』(日本経済新聞出版) です。上の表紙画像にも見られるように、PHISICAL→INTANGIBLE とあり、有形資産から無形資産へ、あるいは、もっと俗な表現をすれば、ハードからソフトへ、という経済社会の変化をいろいろとデータを織り交ぜながら解き明かしています。書籍として面白い試みと感じたのは、本書冒頭でINTRODUCTIONとしてSECTION 4まで主としてグラフを並べて導入部としています。ほとんど出典がないので、私の学生なら辛めの点をつけますが、まあ、学術書ではないので、それほど気にする必要はないのかもしれません。その昔から、ペティ・クラークの法則というのを高校で教えていて、経済社会の歴史が進むにつれて、1次産業から2次産業へ、そして、2次産業から3次産業へと生産も雇用もシフトする、という経験則があります。本書ではこれを進化と捉えているようで、私も異論ありません。そして、富や付加価値に近い概念だろうと思いますが、いわゆる経済的な効用がモノというか、財ではなく、ソフトなサービスからより多く得られる経済社会に変化しているという認識です。そして、そういった経済的な効用を生み出す資本についても、機械や建物のような物的な資本から、ソフトな資本にシフトしている、というわけです。本書の副題は『世界の知性が挑む経済の謎』となっていて、問題は、そういった経済活動を計測する不法がまだ確立しておらず、従って、先週の読書感想文で取り上げた『EBPMの経済学』のように、エビデンスがまだ得られていませんので、政策対応も出来かねている、という現状に対して世界の知性が挑んでいる、ということなのだろうと思います。我が国の統計では、ほぼほぼGDP統計中心に公的統計が整備される方向で進められていますが、本書で議論されているように、現在、いっそう大きな経済的な効用を生み出すようになったソフトな生産物とその生産手段たるソフトな資本をどう計測するか、については、まだ手を付けられてすらいません。というか、私も官庁エコノミストだったころに、あくまで部分的ながら、シェアリング・エコノミーの計測を試みましたが、おそらく、本書で議論しているようなソフトな経済的効用については、GDPとは異なる概念で計測するべきと考えています。それを幸福度と呼ぶかどうかはまた別のお話ですが、少なくとも、こういった経済社会の歴史的な方向に、例えば、労働条件や物価などの面から少なからぬ異論や異議が出るであろうことも確かです。私も疑問は大いに持っていますし、おそらく、現在の先進国に蔓延しているネオリベラルな経済理論や政策では対応、というか、制御できかねる部分が多々あろうという気はします。おそらく、キチンと限界生産性に従った価格付けがなされ、財貨やサービスの希少性が減じて行くに従って、今のように企業の利益が増加するだけでなく、賃金上昇はいうまでもなく国民生活全般の豊かさにつなげることの出来る経済理論と政策が求められているのであろうと私は受け止めています。私の同僚の中には、それを本来の社会主義、あるいは、共産主義と呼ぶ人もいそうな気がします。

 

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次に、斎藤恭一『大学教授が、「研究だけ」していると思ったら、大間違いだ!』(イースト・プレス) です。著者は、千葉大学工学部の化学系の教授を定年退職した研究者です。本書のタイトルから明らかな通り、通常、大学教授とは研究と教育に携わるんですが、それに加えて、主として、受験者集めを目的とする広報活動と大学運営、というか、経営も含めた4つの活動について、ほぼほぼ著者の経験から解き明かそうと試みています。私も基本的に著者の同業者ですから、内情はそれなりに理解します。ただ、現在の私学では新型コロナウィルス感染症(COVID-19)の影響もあって、対面授業がほとんどなく、リモート授業が圧倒的ですし、10年ほど前にも私は大学教授をやっていた際には出向教員ということで、学部や大学の広報や運営にはほぼほぼ携わらなかったものですから、かなり新鮮な部分が多かった気がします。私は広報活動というのはカギカッコ付きの「営業」だと考えているんですが、確かに、10年ほど前は私が出向していた長崎大学経済学部の前期入試の受験倍率が2倍に近づいて、もっと倍率をあげないと優秀な学生を取れない、という危機的な状況を見た記憶もあります。ただ、本書の著者も国立大学教員ですし、決して国立大学だけではなく、現在は私学も政府からの助成金がかなりの割合を占めていますから、公務員と同じように「親方日の丸」というのは国立大学も私学もほぼほぼ共通しています。でも、少なくとも、著者が受験生集めの「営業」に精を出して、いわゆる拡大均衡の方向に持って行こうとしている姿はとても好感が持てました。学生の質を確保するために入試倍率を上げようとすれば、入学定員を削減するという方向もあるからです。その昔の文部科学大臣で、大学、あるいは、大学生の希少性を維持しようと、新規の大学や学部の設立に待ったをかけようと試みた政治家がいましたが、それはそれで希少性を維持できるとしても、本書の著者とは逆の縮小均衡の方向です。なお、どうでもいいことながら、私は経済学部の大学教員ですので、それほどの不人気学科ではないような気もしますが、少人数教育の演習=ゼミの学生募集では大いに苦戦しており、不人気ゼミの教員ですから、それなりに共感するところはありました。

 

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次に、酒井敏ほか『京大変人講座』『もっと!京大変人講座』(三笠書房) です。よく私には判らないんですが、京都大学が一般市民向けの公開講座のような形で「変人講座」という講演会を開催しているようで、その講演録のようなものではないかと思います。その講座を主宰している酒井先生は一昨年だと記憶していますが、集英社新書で『京大的アホがなぜ必要か』という本も書いています。京大は我が母校であり、当然のように東大と比較される唯一の存在と考えていいと思いますが、もちろん、本書にもあるように、そもそもの成り立ちが東大と京大で異なっていて、東大はまさに政府機関の職員=公務員の養成学校であり、京大はその東大的なものは極めて少なくなっています。反骨自由の精神といったもので、私のようにキャリア国家公務員になる卒業生は決して多くありません。でも、私の知る限りでも、京大だけでなく東大にも変人はいっぱいいます。もちろん、「変人」の定義にもよるわけですが、京大の変人講座に登場する研究者だけで見れば、むしろ、東大の方が変人は多そうな気すらします。繰り返しになりますが、「変人」の定義によります。普通、自分の所属する極めて狭い世界ではOKかもしれないものの、いわゆる世間一般とはズレのある人物ではないか、と私は考えており、霞が関の官庁街にはいっぱいいましたし、東大や京大に限らず大学をはじめとする研究機関にもいっぱいいます。どうしてかというと、それ以外の世界を知らないからです。例えば、もう亡くなった私の京大の恩師は、オギャーと生まれて18歳で高校を卒業して京大に入学し、その後、大学院、京大の教員、もちろん最後は教授になり、その間、持ち回りのように経済学部長まで務めましたが、逆に、卒業生の多くが就職するようなサラリーマンの世界はまったく知らなかったんではないか、という気がします。ですから、テレビのワイドショーで、芸能人やスポーツ界から引退したコメンテータがサラリーマンの、例えば、非正規雇用なんてどこまで理解しているかは疑問だと私は考えていましたが、実は、私のように社会人採用から大学教員になった例外は別にして、多くの大学教授もサラリーマンはやったことがなく、最低賃金やホワイトカラー・エグゼンプションなんて、議論できるだけの素地があるのか、という疑問すらあります。とまでいうと極端ですが、別の観点からは、世間一般と同じ見方・考え方をしている人たちだけで世間が構成されているというのも、私は恐ろしいいお話だと考えます。一応、多様性という観点から、無害な変人は許容されるべきである、というのが私の考えです。

 

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最後に、小林雅一『仕事の未来』(講談社現代新書) です。著者は、技術系の研究所の研究者であり、ITやライフ・サイエンスなどの専門家だそうです。サブタイトルを見ても理解できるように、「仕事」という切り口からまったく異質な2つの観点を提示しようと試みていて、私は成功しているかどうかは疑問です。ひとつは仕事をやる上で、AIやロボットの果たす役割、ないし、人間労働との代替の可能性です。GAFAのうちのGoogleとAmazonを特に取材して、必ずしもテレワークが順調に行っていない点や創業者の個性とも照らし合わせながら、従業員ないし経営層が協調的か、あるいは、論争的か、といった視点からの経営の質的な見方を打ち出しています。もうひとつは、日本でもUberEatsの自転車を見かけるようになりましたが、ギグワーカーのお仕事が雇用者ではなく独立した自営業者として行われているために何の雇用の保護も受けられない、などの働き方の問題です。昨年2019年10月にローゼンブラット『ウーバーランド』の読書感想文を取り上げましたが、まさにその観点からの批判的な検討がなされています。どちらの観点も重要ですが、私自身はAIやロボットによる人間労働の置換については、著者ほど楽観的には見ていません。典型的には、マルクス主義的な疎外が重大化し、まさに、物神化=フェティシズムの果てまで行ってしまう可能性が十分あると恐れています。まったく同様に、現在のようなネオリベ的な経済政策の下で、企業向けには各種の優遇策を打ち出しながら、そこで働く雇用者には生産性向上などに向けた「自己責任」を強調するわけですので、企業に雇用されないギグワーカーがいっそうの「自己責任」を課されることは間違いなく、かつて、派遣社員やその他の形態の非正規雇用を「新しい働き方」であるかのごとくに推し進めようとした反省を、このギグワーカーには応用すべきと考えています。

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