2023年11月25日 (土)

今週の読書はグローバル化の変質を論じた経済書をはじめ計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、馬場啓一・浦田秀次郎・木村福成[編著]『変質するグローバル化と世界経済秩序の行方』(文眞堂)では、かつてのグローバル化の方向が、最近では米中の対立に始まって、ロシアのウクライナ侵攻などに起因して、分断=デカップリングの方向に進んでいることから、地政学や経済安全保障の観点も含めたグローバル化の進展を論じています。東野圭吾『あなたが誰かを殺した』(講談社)では、人気のミステリ作家による作品で、警視庁刑事の加賀恭一郎が避暑地の夏のパーティーの夜に起こった連続殺人事件の謎を解き明かします。吉原珠央『絶対に後悔しない会話のルール』(集英社新書)では、会話を台無しにする思い込みや決めつけを排して、観察に基づくコミュニケーションを論じています。新堂冬樹『ホームズ四世』(中公文庫)では、ホームズの曾孫に当たる歌舞伎町のホストがワトソンの曽孫と2人で行方不明の質屋の経営者を捜索します。伊坂幸太郎ほか『短編宝箱』(集英社文庫)は短編集であり、特に、米澤穂信「ロックオンロッカー」で、図書委員の高校生2人がケメルマンの「9マイルは遠すぎる」ばりの推理を披露します。最後に、青山美智子ほか『ほろよい読書 おかわり』(双葉文庫)も短編集で、冒頭に収録されている青山美智子「きのこルクテル」では、作家を目指す青年がライターとして雑誌のアルバイトで、下戸にもかかわらず、取材のためにバーを訪れます。
ということで、今年の新刊書読書は交通事故前の1~3月に44冊でしたが、6~10月に130冊を読みました。11月に入って、先週までに17冊、今週ポストする6冊を合わせて197冊となります。どうやら、例年と同じ年間200冊の新刊書を読めそうな気がしてきました。

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まず、馬場啓一・浦田秀次郎・木村福成[編著]『変質するグローバル化と世界経済秩序の行方』(文眞堂)を読みました。編著者は、順に、杏林大学・早稲田大学・慶応大学の研究者であり、専門分野は国際経済学や貿易論などです。本書では、従来のグローバル化、すなわち、世界経済に網を広げたサプライチェーンやグローバル・バリューチェーンが、米中対立や、さらに、ロシアによるウクライナ侵攻などにより分断ないしデカップリングを生じ、地政学や経済安全保障の観点もグローバル化の分析に必要となった段階の国際経済分析を展開しています。時系列的にガザ地区での軍事衝突は本書のスコープ外ですし、現時点では明白なな石油供給などにおける制約は出ていませんが、パレスチナとイスラエルの対立も深刻さを増しています。本書は5部構成であり、第Ⅰ部ではサプライチェーンやグローバル・バリューチェーン、第Ⅱ部ではロシアによるウクライナ侵攻に対する経済制裁、第Ⅲ部では自由貿易協定などの地域連携の進展、第Ⅳ部では経済安全保障について、それぞれ議論を展開しています。渡しの場合は、特に、サプライチェーンやグローバル・バリューチェーン、さらに、経済安全保障との関連で、私自身が弱くて等閑視していた分野ですので、授業準備も含めて勉強のために読みました。まず、冒頭から明らかなのですが、私の大きな疑問は、WTOドーハ・ラウンドでのシアトル会合が失敗した原因は反グローバル化の直接的な行動だったのですが、それと同様に、米国的なフレンド・ショアリング、すなわち、自由と民主主義といった価値観を同じくする友好国の間で経済関係を進化させ、場合によっては、自由と民主主義ではない専制的ないし権威主義的な国と分断してもしょうがない、あるいは、積極的に分断でカップリングする、という経済政策は、ブロック化のリスクが大いにある、ということです。第2次世界大戦の前における世界経済のブロック化から戦争に至った経緯を反省して、すべての国が平等に加盟する国際連合=国連が発足し、経済分野でも貿易に関してはGATT、その後のWTOがマルチの場を提供し、ラウンド交渉により最恵国待遇をテコにして世界全体での貿易や投資の拡大、ブロック化しないマルチの世界経済全体での繁栄を目指していたハズなのですが、ドーハ・ラウンドの失敗とその後のマルチの場での貿易交渉の停滞により、ブロック経済化が進んでいるように、私には見えます。ブロック経済化の背景には価値観を同じくする友好国でグループを結成し、分断ないしデカップリングが経済的にも政治外交的にも進んでいる、という事実があります。そして、世界経済だけでなく、先進国の国内経済や政治的な面でも分断が進んでいるおそれが散見されます。米国では前のトランプ政権の誕生がそうですし、英国のEUからの脱退、BREXITもそうです。大陸欧州諸国ではポピュリスト政党の躍進が見られましたし、アルゼンチンではとうとう極右の大統領が誕生しました。国内レベルでの分断は本書の分析とは少し離れますが、本書で着目する世界経済レベルでの分断を背景に、サプライチェーンの安全保障が、例えば、私が知る限りでも昨年の「通商白書2022」あたりから明示的に議論され始めています。日本の場合、米中対立においては、同盟関係から米国サイドに立つわけですし、自由と民主主義という価値観と専制的ないし権威主義的な価値観でも前者に属すると考えられるのですが、政治・外交的な見地からサプライチェーンやグローバル・バリューチェーンを構築するのか、あるいは、逆に、サプライチェーンやグローバル・バリューチェーン構築の必要から政治・外交の立場を決めるのか、難しい選択なのかもしれません。少なくとも、第1次及び第2次石油危機の際には、日本は後者の選択を取ろうとしたと見られる動きもあったと記憶しています。世界における日本のプレゼンスが大きく低下し、外交における発言力も小さくなっていますが、日本が世界に対して何らかの発信をする必要があるのかもしれません。

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次に、東野圭吾『あなたが誰かを殺した』(講談社)を読みました。著者は、我が国を代表するミステリ作家の1人であり、私がクドクドと述べるまでもありません。本書も最近よく売れているミステリですから、簡単に紹介しておきたいと思います。謎解きは、警視庁刑事である加賀恭一郎で、リフレッシュ休暇っぽい長期休暇中の行動です。事件は8月上旬に、いかにも軽井沢を思わせる別荘地のパーティーの夜に起こった連続殺人事件です。犯人はすぐに捕まりますが、自供が得られずに真相が不明のまま2か月ほど経過します。この殺人事件を加賀恭一郎が、現場での遺族による事件後に開かれた検証会に出席して、少し現場を見て回りはするものの、安楽椅子探偵のように解決します。ただ、純粋に安楽椅子探偵ではなく、殺害現場で実に重要な発見をしたりします。地元県警所轄署の担当課長もこの検証会に出席しているのですが、ここまで重要な発見を警視庁刑事にされてしまうのも、大きな困りものだという気が私はしました。関係者、というか、殺された被害者や負傷者をはじめとするパーティー出席者は軽井沢を思わせる別荘地に別荘を持っているわけですから、いわゆる「別荘族」であり、お金持ちです。ある意味では、その昔にはやった言葉で「勝ち組」ともいえます。小説の登場人物は主要にはパーティーの出席者であり、その中で被害者はナイフで殺されたり怪我を負ったりしますが、順不同で私が記憶している登場人物は以下の通りです。第1に、公認会計士の夫と美容院経営の妻とその中学生の娘の一家は、夫婦2人が殺されます。第2に、病院経営の院長とその妻と夫婦の娘とその娘の婚約者の一家は、病院院長が殺され、娘の婚約者が軽傷を負います。第3に、企業のオーナー経営者夫妻が殺人事件が起こった夜のパーティーを主催しているのですが、夫人の方が実は夫よりも陰の実力者で「女帝」とされています。第3のオマケとして、従業員夫妻と小学生の子供もパーティーに出席しています。「女帝」の経営者夫人が殺害されます。第4に、夫を早くに亡くして東京から別荘に移り住んだ40代の女性とその姪と姪の夫の一家は、姪の夫が殺されます。加えて、登場人物ではあるもののパーティー出席者ではない登場人物が2人います。すなわち、まず加賀です。最後の家族の姪は看護師をしていて職場の同僚から加賀を紹介されて、検証会に加賀の同行を求めます。最後に、繰り返しになりますが、地元所轄署の刑事課長も検証会に同席します。検証会は2日に及び、初日は検証会出席者が宿泊するホテルの会議室、2日めは現場を歩いて回ります。謎解きは東野作品らしく鮮やかですが、まあ、特別なところはありません。でも、最後の最後にどんでん返しが待っています。これは鮮やかなものです。もっとも、『方舟』のような反転してひっくり返るような turnover のどんでん返しではなく、チョコっと付加されるヒネリという意味での twist のどんでん返しです。ミステリですので、謎解きは読んでいただくしかありませんが、最後に私個人の感想として、別荘を持つくらいのお金持ちであれば、やっぱり、こういった裏の顔があることは、人生60年余り生きて来てそうだろうと実感しています。その昔の公務員をしていて統計局に勤務していたころ、統計局には非常にナイーブな人が多く、役所で出世して局長だとか課長になっている人は人格も高潔なのだろうと考えている人ばっかりで大いにびっくりしたことがあります。国家公務員として役所で出世している人の中には、全員とはいいませんが、たぶん、腹黒さでは世の中の平均よりも腹黒い、というのが私の実感です。ひょっとしたら、大企業でもそういった例が決して少なくない可能性は感じます。平均的なキャリア公務員よりも出世できなかった私自身が自分で人格高潔と主張するつもりはありませんが、人並み以上に出世している公務員なんて、ロクなものではないと思うのが通常のケースではないかという気もします。このミステリでは、主目的ではないのは当然としても、そういった世間の「勝ち組」の裏の顔を見ることができます。

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次に、吉原珠央『絶対に後悔しない会話のルール』(集英社新書)を読みました。著者は、ANA(全日本)、証券会社、人材コンサルティング会社などを経てコミュニケーションを専門とするコンサルタントとして独立した活動をしている、ということです。いろんな職業の中で、噺家と教員ではしゃべるスキルが重要です。本書はよりインタラクティブな会話に焦点を当てていて、噺家や教員に必要とされる一方的なおしゃべりとは違うのですが、まあ、何と申しましょうかで、授業の改善に役立つかと考えて読んでみました。本書で主張されているのは、先入観に基づく何らかの思い込みや決めつけが会話を台無しにし、コミュニケーションを阻害する、ということで、これを防止して心地よい会話にするためには会話の相手をしっかり観察する必要がある、ということにつきます。ただ、それができないから苦労しているのではないか、という気もします。ゴルフで、ティーグラウンドでドライバーを振って、フェアウェイ真ん中に250ヤード飛ばせ、というアドバイスと同じで、それをするために何が必要かという点が必要になる、という意味です。加えて、会話ではないでしょうが、大学の講義の場合、数百人の学生を相手にするわけで、出席学生全員を正確に観察することも不可能に近いものがあります。ということで、私が公務員のころに政治家のいわゆる「失言」をいくつか見てきましたが、その大きな原因のひとつはウケ狙いでジョークを飛ばそうとして滑るケースです。ですから、それを避けるためには、ウケ狙いをせずに面白くなくていいので正確な表現を旨とすることです。そうです。そうすれば、役人言葉に満ちていて正確だが何の面白味もない会話が出来上がるわけです。基本的に、大学の授業とはそれでOKだと私は考えています。少し前に強調された「ポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)」というのがありますが、大学の授業、少人数で顔と名前が一致してそれなりの親しい間柄といえるゼミなどでは、あるいはOKかもしれないと思うものの、数百人が出席する大規模な講義などでは差別的な発言などのポリコレに反した発言を含む授業はすべきではありません。これはいうまでもありません。でも、そうすると、繰り返しになりますが、正確かもしれない反面、面白味がなくて印象に残らず、したがって、専門知識や教養として身につかない授業になる恐れすらあるわけで、そこは公務員とは違って教員として面白くかつ印象に残る授業を模索する毎日です。長い旅かもしれません。

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次に、新堂冬樹『ホームズ四世』(中公文庫)を読みました。著者は、小説家です。タイトル通りに、シャーロック・ホームズの子孫が活躍するミステリ・サスペンス小説です。歌舞伎町ホストクラブ「ポアゾン」ナンバーワン・ホストである木塚響はホームズの曾孫、ひ孫に当たります。ホームズの孫に当たる父親は探偵事務所を経営しています。ホームズの子供、すなわち、主人公である木塚響の祖父が、ホームズ物語でも言及されているバリツ=柔術を極める目的で来日し、そのまま日本に居着いた、ということになっています。そして、この主人公のホストクラブの太客である加奈という質屋の経営者が行方不明になり、質屋の店長から捜索の依頼が入ります。そして、なぜか、その質屋の店長は別の探偵事務所の女性探偵である桐島檸檬にも同じ依頼をしていて、2人が共同で捜査に当たります。そして、この桐島檸檬はワトソン医師のひ孫であり、彼女の父親も探偵事務所を経営しています。桐島檸檬はとてもタカビーなキャラに設定されています。他方で、木塚響は割合と謙虚なキャラに設定されています。そして、ジェームズ・モリアティ教授の孫と称するする女性ラブリーが敵役キャラとして登場し、ついでに、モラン大佐の孫も登場したりします。ということで、とても突飛であり得なくも、ぶっ飛んだ設定のミステリ、サスペンス小説です。一応、失踪人捜索で謎解きの要素はそれなりにありますのでミステリといえます。ただ、登場人物がすべてホームズ物語の子孫というあり得なさの上に、モリアティ教授の孫と称するラブリーは世界政府のように、世界を裏で牛耳る組織の日本支部長で、政治家からヤクザの裏社会まで、すべてを動かせる権力を持っている、という、これまた、不可解かつ荒唐無稽な設定になっています。ただ、殺人や暴力の要素はほとんどなく、男女が入り乱れますが、エロの要素もほとんどありません。荒唐無稽な設定とはいえ、それは「ドラえもん」の道具と同じで、それなりに夢を感じる読者もいるかも知れませんし、そもそも、ホームズその人がフィクションの世界にいるわけですので、そういった設定を難じるのは野暮というものです。もちろん、ミステリですので、謎解きや事件の真相などは読んでいただくしかなく、あらすじなどもここまでとしますが、まあ、面白かったですし、それなりに記憶にも残る内容です。個人的な事情を明らかにすると、私は基本的に学術書を中心に据えた読書なのですが、町田その子の『52ヘルツのクジラたち』と『魚卵』を読んだ上に、辺見庸『月』でとどめを刺された形になって、先週までの重い読書のために、メンタルに変調を来す恐れすらあると自覚していたので、この小説を手に取りました。そういった軽い読書を求める目的、あるいは、それなりにページ数もありますので、時間つぶしにはもってこいです。その意味で、いい本でしたし、オススメです。

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次に、伊坂幸太郎ほか『短編宝箱』(集英社文庫)を読みました。著者と短編タイトル、さらに、簡単な紹介は以下の通りです。伊坂幸太郎「小さな兵隊」では、小学校4年生の岡田くんが教室にある他児童のランドセルに印をつけたり、学校の門にペンキをかけたりする問題行動を取るのは深いわけがありました。でも、その背景までは岡田くんには理解できていませんでした。奥田英朗「正雄の秋」では、ライバルとの局長への出世競争に破れた50歳過ぎのサラリーマンは総務局勤務あるいは関連会社の役員としての出向の選択肢を示されますが、妻とともに人生の進路についていろいろと考えを巡らせます。米澤穂信「ロックオンロッカー」では、図書委員の高校生2人がケメルマンの「9マイルは遠すぎる」ばりに、美容店店長の「貴重品は、必ず、お手元におもちくださいね」の「必ず」から推理を働かせます。東野圭吾「それぞれの仮面」では、ホテル・コルテシア東京の山岸尚美が元カレのトラブルを解決します。桜木紫乃「星を見ていた」でが、ホテル・ローヤルの従業員の女性に次男坊から優しい手紙が現金といっしょに送られて来ましたが、その稼ぎ方は本人が主張するように左官として働いたからではなく、犯罪行為に関与している疑いがあると報道されます。道尾秀介「きえない花の声」では、主人公の母親は夫、すなわち、主人公の父親が職場の若い女性と浮気しているのではないかと長らく疑っていましたが、後年、昔の勤務先近くに主人公といっしょに旅行した際に、職場での夫の秘密の行動の真相が明かされます。島本理生「足跡」では、人妻の不倫について、「治療院」と称する場で働く男性と主人公の関係から、この作者らしく、うまくいきそうでうまくいかない男女のビミョーな関係を描き出しています。西條奈加「閨仏」は江戸時代が舞台の時代小説で、青物卸商が妾4人を同じ家に住まわせるている中の1人、おりくが木製の仏像作成を始めますが、それが寝室=閨で使うものだったりします。荻原浩「遠くから来た手紙」では、30代で子供ができたばかりの女性が夫婦喧嘩で乳飲み子を連れて実家の静岡に帰って来ると、旧漢字で文字化けするメールが来るようになりますが、何と、差出人は戦争で亡くなった祖父からでした。浅田次郎「無言歌」では、戦争中に大学生から学徒動員された即席士官が海軍に入隊し、仲間や部下の下士官とともに短かった人生を語り合います。朝井リョウ「エンドロールが始まる」では、卒業式の日の女子高校生が図書室で高校生活を思い返すのですが、卒業する母校は他校と合併してなくなってゆくため、エンドロールのように思いが湧き上がります。ということで、長くなりましたが、かなり水準の高い著者による出来のいい短編集です。ただし、それだけに、私の場合は既読の作品が多かったです。直感的員、⅔くらいは既読だったような気がします。でも、再読であったとしても、水準高い短編ですので、特に、私のような記憶力のキャパが小さい人間には、とてもいい時間つぶしだと思います。


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次に、青山美智子ほか『ほろよい読書 おかわり』(双葉文庫)を読みました。なお、おかわり前の『ほろよい読書』も私は読んでいます。短編集で、作者はすべて女性小説家です。タイトルから理解できるように、お酒にまつわるエピソードを集めたアンソロジーです。収録順に、著者と短編タイトルとあらすじは以下の通りです。青山美智子「きのこルクテル」では、大好きな女性小説家の作品を目標に作家を目指す青年が、ライターとして雑誌のアルバイトで、下戸にもかかわらず、取材のためにバーを訪れると、美人バーテンダーがいて酒も飲まずにキノコの話題で盛り上がります。でも、その美人バーテンダーの正体が、何と…、というストーリーです。朱野帰子「オイスター・ウォーズ」では、高偏差値大学出身の女性とベンチャー企業の男性オーナーが、SNSを通じて知り合って、というか女性の方から男性を狙って、かつての復讐のために牡蠣を食べにオイスター・バーで2人で腹のさぐりあいを展開します。一穂ミチ「ホンサイホンベー」では、主人公の父親が死んで、再婚相手のベトナム人とベトナムのジンを飲んで、かつてのわだかまりを解消させる女性の心情を描き出しています。タイトルはベトナム語であり、Không Say Không V'ê と綴ります。「酔わずに帰れるか!」という意味だそうです。ただ、正確にベトナム語を写していないので、似たような記号を使っています。悪しからず。奥田亜希子「きみはアガベ」では、中学生の女子のあるべき姿への童貞と恋の物語をテキーラの原料となるリュウゼツランにからませて展開します。西條奈加「タイムスリップ」はちょっと不思議な体験で、主人公の女性がふらりと入った居酒屋で若い店員から薦められた日本酒をいくつか味わうのですが、別の日に同じ場所にある居酒屋に行くと、店の名が変わっている上に、働いているのもかなり年配のオジサンばかり、という経験をします。繰り返しになりますが、タイトル通りに、すべてお酒にまつわる短編で、作者のラインナップを見ても理解できるように、出来のいい上質な短編が収録されています。これはこれで、オススメです。

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2023年11月19日 (日)

今年2023年のベスト経済書やいかに?

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師走が近づき、例年通りに「今年のベスト経済書」のアンケートが届く季節になりました。今年は財政政策に関して、私の見方に極めてよく合致する本がいくつか出版されましたので、次の2冊を上げようと考えています。

私はこれら2冊を主たる参考文献として、今年の夏休みに紀要論文 "An Essay on Public Debt Sustainability: Why Japanese Government Does Not Go Bankrupt?" を書いています。例えば、論文の冒頭で、"In general, public debt is widely regarded as bad, as mortgaging the future, or government borrowing would cost our children/grandchildren. Public debt and fiscal deficit must be, however, analyzed from the viewpoint of economic welfare, i.e., from both sides of cost and benefit. Blanchard (2022), e.g., suggests that debt might indeed be good under the assumption of certainty." すなわち、「一般に、公的債務は悪であり、将来からの借入れであるため、子孫に損害を与えると広く考えられています。 しかし、公的債務や財政赤字は、経済厚生の観点、つまり費用と便益の両面から分析されなければなりません。 たとえば、Blanchard (2022) は、確実性を仮定すれば借金は実際に良いものであるかもしれないと示唆しています。」などなどです。参考文献の Blanchard (2022) は、上に示した今年のベスト経済書候補の1番手です。私は現代貨幣理論(MMT)のように政府債務は無条件のサステイナブルであるとまでは考えませんが、政府の財政赤字や公的債務についてヒステリックに否定するだけでなく、コストとベネフィットの両面からバランスよく分析する必要があると考えています。紀要論文に書いた通りです。
昨年は、マリアナ・マッツカート『ミッション・エコノミー』(NewsPicksパブリッシング)をイチ推ししたのですが、大きくハズレてしまいました。今年も外すかもしれませんが、引き続き、ネオリベな経済政策に反対する立場を鮮明に打ち出したいと思います。ということで、果たして、今年のベスト経済書やいかに?

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2023年11月18日 (土)

今週の読書は一風変わった価格形成に関する学術書をはじめとして計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、オラーフ・ヴェルトハイス『アートの値段』(中央公論新社)は、オランダの社会学者が絵画を例に取って一般的な規格品などとはまったく異なる芸術品の価格決定メカニズムの解明を試みています。ダグラス・クタッチ『現代哲学のキーコンセプト 因果性』(岩波書店)は、経済学ではなく哲学の観点から因果性・因果関係について論じています。髙石鉄雄『自転車に乗る前に読む本』(ブルーバックス)は、「疲れない」をキーワードに自転車を活用した健康増進を推奨しています。町田その子『ぎょらん』(新潮文庫)は、死に際して死に行く人の思いが残されるぎょらんをめぐる人生の転変を描き出しています。次に、篠田節子『田舎のポルシェ』(文春文庫)は、長距離を自動車で移動する人々を主人公にした新しいタイプのロード・ノベルです。最後に、辺見庸『月』(角川文庫)は、相模原にあった障害者施設の津久井やまゆり園での殺人事件を題材にしたと思われるフィクションであり、入所者のきーちゃんから見てさとちゃんがどのように犯行に及んだかを描写しようと試みています。
また、新刊書読書ではないので、ここには含めませんでしたが、詠坂雄二『人ノ町』(新潮文庫nex)を読みました。Facebookですでにシェアしてあります。
ということで、今年の新刊書読書は交通事故前の1~3月に44冊でしたが、6~10月に130冊を読みました。11月に入って、先週までに11冊、今週ポストする6冊を合わせて191冊となります。どうやら、例年と同じ年間200冊の新刊書を読めそうな気がしてきました。

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まず、オラーフ・ヴェルトハイス『アートの値段』(中央公論新社)を読みました。著者は、オランダにあるアムステルダム大学の研究者であり、専門は経済社会学、芸術社会学、文化社会学であり、エコノミストではありません。英語の原題は Talking Prices であり、2005年に米国プリンストン大学出版局から出版されています。本書は、極めて希少性の高い美術品の価格設定についての研究成果です。ほぼほぼ学術書と考えて差し支えありませんが、経済学、というか、計量分析を多用しているわけではありませんので、それほど学術っしょぽくはありません。まず、私なりに経済学的に価格設定を考えると、多くの場合はコストにマークアップをかけている場合が多いのではないか、と感じています。需要が強かったり、独占度が高かったりすれば、マークアップの割合が高くなるのは当然想像できる通りです。しかし、美術品、本書では主要には絵画や彫刻を想定していて、おそらく、文学作品の出版物とか、音楽で言えばコンサート鑑賞のための価格、あるいは、録音メディアの価格ではなく、単品、すなわち、唯一それしかないという絵画や彫刻などの美術品を念頭に、価格設定について分析しようと試みています。主たる分析方法はインタビューと簡単な数量分析ですが、圧倒的に前者の方法論が取られています。インタビューの場所は米国ニューヨークと著者の地元であるアムステルダムです。まず、本書で考える美術品は、芸術家、アーティストが生産します。そして、まず第1次(プライマリー)市場であるギャラリーにおいて固定価格、あるいは、リストプライスでコレクターに対して売却されます。固定価格というのは、第2次(セカンダリー)市場のオークションにおける競り値と対比しているわけです。あるいは、第3次以降の市場があるのかもしれませんが、第1次市場から後の流通市場は第2次市場と一括して呼んでおきます。第2次市場では、コレクターが直接オークションに出品する場合もありますが、ディーラーないしアート・ディーラーが仲介する場合も少なくありません。美術品市場で特徴的なのは、第1次市場のギャラリーで、例えば、個展を開催してディーラーが仲介しつつモン、ここではディーラーとアーティストの協議に基づいて価格が設定される点です。ですから、個展に行くと「売却済み」の作品がいくつかあるのを見ることがあります。「売却済み」の札が貼ってあれば、より高い値段を申し入れても買えるとは限りません。すなわち、第2次市場のようなオークションで競売されるわけではありません。しかし、作品が、あるいは、作者である芸術家が評価を高めると、第2次市場に出回ることもあり、その場合は多くの場合で第1次市場の価格よりも高い価格で落札されることになります。ゴッホやセザンヌの場合、第1次市場ではほとんど値がつかずにタダで引き取られた作品も少なくない、というのは広く知られているところです。そして、美術品を仲介するディーラーが何よりも重視するのは、作品の芸術性を反映した価格が設定されることだと本書では指摘しています。しかし、芸術性だけでなく、芸術家、ディーラー、オークションハウス、コレクターなどの多くのプレーヤーによる「意味交換システム」の中で決定される、という結論です。この「意味交換システム」がどういうものかは、本書を読んでいただくしかありませんが、商業的な俗な方向に流されるのではなく、芸術本来の方向を守理、同時に、芸術家を守るという守護神の役割をディーラーは果たそうとして、資産としての商業的な価格ではなく、あくまで芸術品としての評価を反映した価格をディーラーは追求するわけです。実際に、芸術家やディーラーが、どのような考えに基づいて、どのような価格設定行動を取っているのか、私は専門外にして知りませんが、本書の著者が実施したインタビューでは、そのような回答が多くなっているようです。こういったあたりは、多くの読者が想像できる範囲ではありますが、それが学術的に詳細に既存研究を引用しつつ検証されているのが本書の特徴です。エコノミストの私でも、一読の価値があったと思います。

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次に、ダグラス・クタッチ『現代哲学のキーコンセプト 因果性』(岩波書店)を読みました。著者は、CUBRC科学研究員ということのようですが、これだけでは私は何のことやらサッパリ判りません。まあ、ご専門は哲学のようです。英語の原題は Causation であり、2014年の出版です。なお、本書の邦訳書は2019年の出版であり、この読書感想文は新刊書読書を対象に最近2年くらいまでの出版物を取り上げているのですが、本書だけは別途の必要あって読みました。まったくの専門がいながら、ついでに読書感想文として含めておきます。ということで、まず英語の原題 Causation なのですが、因果関係がcusalityで、因果性はcausationなのか、と語学力に自信のない私なんぞは考えてしまったのですが、p.18のQ&Aで両者に違いはなくまったく同じ、と著者自身が記していて安心しました。哲学の学術書ですので、経済学の因果性や因果関係とは別の切り口になっています。すなわち、単称因果と一般因果、線形因果と非線形因果、産出的因果と差異形成的因果、影響ベース因果と累計ベース因果、の4つの観点から因果性を考えています。単称因果とは現実因果とも呼ばれ、実際の事象について当てはめられます。彼は自転車で転倒したので怪我をした、といった具合です。それに対して、一般因果は、一般的に当てはまる因果性で、ガラスのコップを落とすと割れる、といったカンジです。線形因果とはコイルのバネ秤に100グラムの重りを5コつけると500グラムになりますが、5コの重りはそれぞれ同じようにバネ秤に作用するのが線形因果で、何らかの限界値があって、例えば、50キログラムまでしか測れない秤に10キログラムの重り10コをつけて秤が壊れると、その因果関係は10コの重りに平等にあるわけではない、という非線形性です。産出的因果は、特定の原因が特定の結果をもたらすことで、自転車で転倒したのが怪我の原因、という因果関係で、差異形成的因果とは、誰かに自転車を貸してあげて、その借りた人が自転車で転倒して怪我をした、といった場合の自転車を貸すという行為と怪我という結果の間の因果性です。最後の影響ベース因果と累計ベース因果は、お酒を飲むと酔っ払う、というのが影響ベースであり、繰り返して何日もお酒を飲み続けるとアルコール依存症になる、というのが累積ベース因果です。ただ、やっぱり、経済学と哲学の因果性は大きく異なります。経済学では相関関係と因果関係を強く意識します。しかし、時には経済の循環の中でこの相関関係が逆の因果関係に転ずる場合が少なくありません。例えば、景気がよくなると失業が減り、失業が減れば経済全体として所得が増える人が多くなって、さらに売上げが伸びて景気がよくなる、というスパイラル的に正のフィードバックをもって経済が循環するケースが少なくないです。さらにやっかいなことに、景気と失業だけではなく、3つ以上の要因が複雑に絡まり合っているケースも経済学の分析対象ではいっぱいあります。日本だけではなく、世界的に、低所得と肥満と喫煙はお互いに強く相関し合っている場合が少なくないのですが、どれがどれの原因で結果なのかは判然としません。しかも、多くのデータサイエンティストが認めるところでは、サンプル数が多くなり、いわゆるビッグデータが利用可能になると因果関係がそれほど重要ではなくなり、相関関係の方が重視されます。さらにもっといえば、無相関なのに確実な因果関係が存在あする場合もあったりします。ある研究成果によれば、性交と妊娠は無相関なのですが、性交が妊娠の原因であることは、高校教育を受けたことがある常識的な日本人なら理解していると思います。ということで、とても難しい因果性・因果関係に関する哲学分野の学術書でした。

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次に、髙石鉄雄『自転車に乗る前に読む本』(ブルーバックス)を読みました。著者は、名古屋市立大学の研究者であり、自転車による健康づくりが主たる研究分野のひとつのようです。冒頭に本書の目的が明記されていて、食生活の西洋化などによって日本人の体型が変化してきており、例えば、ボディマス指数(BMI)で計測すると、特に男性の肥満化が進んでいることから、自転車による健康増進、それも、疲れないことをキーワードとして、つらくなく長続きする運動を科学的に解説しようと試みています。ほぼ第1章だけで著者のいいたいことは尽きている気もしますが、すべからく自転車による長続きする運動がいいことが強調されています。歩行、すなわち、ウォーキングよりも運動強度が高く、したがって、カロリー消費も多くなり、中年期以降では筋力アップにもつながります。さらに、屋外でのサイクリングは疲労感よりも爽快感の方が上回る、といった具合です。私自身は、退院した後にはさすがに屋外の自転車は自粛して室内のエアロバイク、本書でいうところの自転車エルゴメーター中心でしたが、たしかに、屋外の自転車は爽快感がタップリです。ただ、今年のような酷暑の際には考えものかもしれません。また、疲れにくいという点を強調して、ペダルを漕ぐ際に膝が伸びるようにサドルを高く設定する必要も主張しています。私の勤務している大学の自転車置き場にも、スポーツ自転車にもかかわらず、やたらとサドルを低くしてるケースを見かけたりしますが、単に私の目から見てカッコ悪いだけでなく、運動生理学の観点からもサドルを高くする必要が明らかにされています。そして、ロードバイクに乗っている上級者なんかを見て明らかなように、番号の小さい軽めのギアで回転数を上げて漕ぐことが推奨されています。どのタイプの自転車がいいかというと、クロスバイクを推奨しているように私には感じられました。まあ、常識的なラインではないかという気がしますが、私はカッコをつけるにはマウンテンバイクもいいと思っています。また、運動強度という観点から電動アシスト自転車には、私自身は手を出しかねているのですが、電動アシストでも立派に運動できると、使い方、というか、電動アシスト自転車の乗り方の解説もあります。自転車は有酸素運動ですから脂肪燃焼に役立ちますが、その際の運動強度の目安は心拍数であると指摘しています。もちろん、運動生理学の観点から、心拍数だけでなく、血糖値や何やといったデータも豊富に示されています。もっとも、統計局に勤務経験あるエコノミストの目からすれば、ややデータの取り方に気がかりな点がないわけではありませんが、学術論文に採択されているような結果もあり、私のような自転車シロートが気にすることではないかもしれません。最後に、自転車に関連して、最近、Moritz Seebacher "Pathways to progress: The complementarity of bicycles and road infrastructure for girls' education" という Economics of Education Review 誌に掲載された教育経済学の論文が面白かったです。道路インフラを整備し自転車を普及させれば、低所得国の女子教育の改善につながることを検証しています。まあ、エコノミストの中でもこんな論文を読んでいる人は少ないと思いますが…

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次に、町田その子『ぎょらん』(新潮文庫)を読みました。著者は、小説家です。この作品は連作短編集であり、収録されている短編は、「ぎょらん」、「夜明けの果て」、「冬越しのさくら」、「糸を渡す」、「あおい落葉」、「珠の向こう側」、「赤はこれからも」の7編です。最後の「赤はこれからも」は文庫化に当たって、単行本の短編に書下ろしで付け加えられています。ぎょらんとは、人が死に際しての願いや思いがいくらに似た形状の赤い珠になり、それを口に含むと思いが伝わるとされています。連作短編のすべてに登場するのは御船朱鷺という青年です。彼は、大学に入学したばかりのころに長い付き合いの友人が自殺し、そのぎょらんを口にして自殺した友人が自分に対して大きな恨みを持っていたことを知り、大学を退学して自宅に引きこもり30歳になります。ただ、いろいろとあって、葬儀社に就職して人を送る仕事を始めます。そもそも、ぎょらんというのは、マンガ雑誌に連載されていたマンガ、そのタイトルが「ぎょらん」というマンガに由来するのですが、作者はもう亡くなっており、ネット上にはぎょらんを解明、検証する掲示板(BBS)が設置されたりしています。そして、御船朱鷺は「珠の向こう側」でそのマンガ「ぎょらん」の作者の家族に会います。その女性からぎょらんとは何かを聞き出します。これはまったく私の想像通りでした。ヒント、というか、実際に、同様の例はハリー・ポッターのシリーズの第7巻最終巻『死の秘宝』におけるハリーとダンブルドア先生の会話に出てきます。ダンブルドア校長先生はすでに死んでいるのですが、ハリーと会話を交わします。ハリーはダンブルドアが死んでいるはずなのに、こうして会話できている点をいぶかしみ、このダンブルドアとの会話についてダンブルドアに質問し回答を得ます。ぎょらんは、その回答と基本的に同じといえます。ネタバレになるので、ぎょらんの正体についてはここまでとし、あとは小説を読んでいただくしかありませんが、それなりの常識ある読者であれば理解できると思います。最後に、この作者の作品は『52ヘルツのクジラたち』を呼んだところだったのですが、この作品も重いです。人が死ぬ際に残すぎょらんですから、常に死とともにあります。当然です。そして、ぎょらんを口に含んで死者の思いを得ることが、実際には、どのような結果をもたらすかについては、もう論ずるまでもありません。少なくとも、私は親しい人の死に際の思いを知ろうとは思いません。というか、絶対にカミさんの死に際の思いは知りたくありません。通常の夫婦は亭主の方が先に死ぬケースが多いと思うのですが、もしも我が家でカミさんが私よりも先に死んでぎょらんを残しても、私は絶対に口に入れないでしょう。

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次に、篠田節子『田舎のポルシェ』(文春文庫)を読みました。著者は、小説家なのですが、昭和の損保OLの小説『女たちのジハード』で第117回直木賞を受賞しています。この本は、短編というよりは少し眺めの中編くらいの3話を収録しています。順に、「田舎のポルシェ」、「ボルボ」、「ロケバスアリア」となります。すべて自動車にまつわるお話ですので、ロード・ノベルと紹介されているのも見かけました。「田舎のポルシェ」では東京出身で岐阜在住の女性が主人公です。主人公が、東京の実家まで自作米を引き取るため大型台風が迫る中、強面ヤンキーの運転する軽トラで東京を目指す道中のストーリーです。いろんなハプニングがいっぱい起こります。「ボルボ」は企業戦士だった男性2人が志を達することなく退職し、北海道までボルボで旅行します。このボルボが20年ほど乗り尽くされて廃車寸前ながら、北海道で熊を相手に大活躍します。最後の「ロケバスアリア」では、コロナでいろんなイベントが中止される中、カラオケ自慢の年配女性が、憧れの歌手と同じステージに立ちたいと浜松までロケバスで移動し、その歌唱をCDに収録しようとします。最後の「ロケバスアリア」はややコミカルなタッチで進行しますが、それ以外の2編はそれなりに重いというか、考えさせられる部分が少なからずあります。私自身は今世紀に入ってジャカルタから帰国して、東京ではもちろん、開催に帰ってきてからもまったく車を運転することはなく、ましてや、岐阜から東京とか、北海道まで自動車で旅行したりなんぞという遠距離を自動車で移動することがなく、近場で自転車、というばかりなのですが、自動車に愛着を感じる向きには実感するところがあるかもしれません。特に、「ボルボ」については、死にゆく廃車寸前のボルボの活躍に拍手したり、涙したりする人がいそうな気がします。作者のストーリー構成の上手さに感心しました。

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最後に、辺見庸『月』(角川文庫)を読みました。著者は、共同通信のジャーナリストであり、作家やエッセイストとしてもご活躍です。この作品はあくまで小説であり、巻末に「本作品はフィクションであり、実在の人物、団体、組織とは一切関係ありません。」というお決まりの文句が並べてありますが、相模原にあった障害者施設である津久井やまゆり園における入所者19人の殺害事件を描き出そうと試みていることは明らかです。この事件の殺害犯は植松聖(うえまつさとし)であり、すでに横浜地方裁判所における裁判員裁判で死刑判決を受け、控訴を取り下げたことで死刑が確定しています。本書では「さとくん」として登場しています。そして、主たる語り手は入所者の「きーちゃん」であり、「寝たきりのごろっとしたかたまりにすぎないあたし」(p.93)と自ら称しています。さとくんの心境の変化が極めて写実的に描き出されています。教授の自慰行為あたりからさとくんの「人間」に関する定義に大きな変化が見られ始めるのが手に取るように判ります。実は、私自身の肩書が「教授」ですし、やや、ドキッとしたところがあります。それはともかく、これだけの重いテーマの作品ですから難解です。きーちゃんの視点と天からの視点が入り乱れています。というか、作者が意図的に入り乱れさせています。極めて抽象度が高くて、それなりの知的レベルにある読者にしか読解できないような気がします。それはそれで当然です。これだけの手練れの作者ですから、平易かつ具体的な描写で、誰にも判りやすい作品にするハズがありません。ある意味では、作者の妄想が大部分かもしれません。小説の形を擬したこの事件に関する作者の心象風景を冗長に記述しているだけかもしれません。私はそれほどレベルの高い読者ではないと思いますので、私の判る部分はこのあたりまでです。でも、すごい作品を読んでしまいました。とてつもなくオススメなのですが、これを読んで廃人になるおそれすらあります。覚悟して、そして、私の嫌いな言葉ではありますが、自己責任でお読み下さい。

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2023年11月11日 (土)

今週の読書は中間層や階級に関する経済書2冊に話題のミステリ、さらに新書4冊で計7冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、高端正幸・近藤康史・佐藤滋・西岡晋[編]『揺らぐ中間層と福祉国家』(ナカニシヤ出版)では、世界的に格差が拡大し中間層=ミドル・クラスが縮小する中で、福祉国家が向かう方向について財政学や公共経済学あるいは政治学の視点から分析を試みています。ジョエル・コトキン『新しい封建制がやってくる』(東洋経済)は、新自由主義的な経済政策によって格差が拡大し、中世的な身分制社会が再来する可能性を危惧し、そうならないような方向性について論じています。夕木春央『方舟』(講談社)は、大いに話題を集めたミステリであり、クローズド・サークルの犯人探しの後に、とてつもないどんでん返しが待っています。泉房穂『日本が滅びる前に』(集英社新書)は、3期12年の明石市長の経験を元に日本の経済社会の活性化について論じています。倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)は、歴史学の観点から紫式部の『源氏物語』とそのバックアップをした藤原道長の関係を解明しようとしています。繁田信一『『源氏物語』のリアル』(PHP新書)は、『源氏物語』の小説の世界の登場人物や出来事のモデルと考えられる実際の平安時代のリアルについて紹介しています。最後に、佐藤洋一郎『和食の文化史』(平凡社新書)では、さまざまな歴史と地域における和食の文化について、おせち料理などの「ハレの日」の食文化だけでなく、日々の庶民の暮らしで受け継がれてきた文化についてスポットを当てています。
ということで、今年の新刊書読書は交通事故前の1~3月に44冊でしたが、6~10月に130冊を読みました。11月に入って、先週5冊、今週ポストする6冊を合わせて185冊となります。今年残り2月足らずですが、どうやら、例年と同じ年間200冊の新刊書を読めそうです。
最後に、今年も「ベスト経済書」のアンケートが経済週刊誌から届きました。たぶん、ノーベル経済学賞を受賞したゴールディン教授の『なぜ男女の賃金に格差があるのか』で今年は決まりだと思うのですが、私は別の本を推したいと思います。

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まず、高端正幸・近藤康史・佐藤滋・西岡晋[編]『揺らぐ中間層と福祉国家』(ナカニシヤ出版)を読みました。編者及び各章の執筆者は、すべて大学の研究者であり、専門分野は財政学や公共経済学ないし政治学が多い印象です。本書では、日本のほか、米国と英国というアングロサクソンの公共政策レジームの両国、ドイツとフランスという大陸保守派の公共政策レジームの国、そして、スウェーデンという北欧ないし社会民主主義レジームの公共政策レジームの国を取り上げて、世界的に格差が拡大し中間層=ミドル・クラスが縮小する中で、福祉国家が向かう方向について財政学や公共経済学あるいは政治学の視点から分析を試みています。国別には、日本に4章が割り当てられていて、ほかの5か国については2章ずつが割り振られています。したがって、計14章からなっています。バックグラウンドとなっているモデルは、ホテリング-ダウンズらの中位投票者定理、そして、Meltzer and Richardによる不平等と再分配に関するMRMモデルとなります。このあたりは、私の専門ないし関心分野に近いのでコンパクトに説明しておくと、要するに、前者は左派と右派の真ん中あたりの中間派がキャスティングボードを握る、というもので、後者は所得が平均を下回れば再分配を支持するという、当たり前のモデルなのですが、これが含意するところは、所得分布が高所得者に偏っている不平等な経済社会ほど再分配を支持する国民が多くなる、というか、支持する国民の比率が高くなる、という点が重要です。その上で、日本において小泉内閣の構造改革以来のステージで福祉縮減改革が人気を集め、特に生活保護に対するバッシングが高まった2012年の分析が秀逸でした。これは、芸能人の親が生活保護を受給している事実を、国会でも報道でも集中豪雨的に取り上げ、一気に生活保護の給付水準の1割削減を実現してしまいました。最近では、「生活保護は国民の権利」という当然の見方が浸透しつつありますが、いまだに生活保護に対する何らかの嫌悪感のような認識が広く残っているのは、多くの国民が感じているところではないでしょうか。そして、財政赤字や国債の累増を背景に、福祉縮減がさらに進められようとしている政策動向が現時点まで継続している点は忘れるべきではありません。また、福祉国家における選別主義と普遍主義については、エスピン・アンデルセンの福祉レジームの自由主義と社会民主主義レジームにかなり近いのですが、その中間に保守主義レジームがあり、大陸欧州、ドイツやフランスが該当します。選別主義的な米国の福祉政策では、給付が低所得層に偏っているため、幅広い国民の支持を得られないとの分析し、あるいは、英国ではニューレイバーでさえ選別的に「救済に値しない」貧困層を想定した政策を打ち出した背景などの分析が勉強になりました。また、大陸欧州のうちのフランスについては、福祉財源が日本のような保険料から1990年代初頭に創設された一般社会税という税財源に移行しつつあり、それが少なくとも当初は累進度が極めて低い比例税であったものが、徐々に税率が引き上げられたことから、公平な負担を求める「黄色いベスト運動」につながったと分析されています。高福祉で知られていた北欧のスウェーデンでも、福祉政策の重点が給付から就労支援の重点を移しつつある点が紹介されています。いずれにせよ、先進各国政府はコロナ禍を経て財政赤字が大きくなっています。いわゆる「野獣を飢えさせろ」starve-the-beastに基づいて福祉政策が縮減されていく可能性に対して、国民はどのような判断を下すのでしょうか?

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次に、ジョエル・コトキン『新しい封建制がやってくる』(東洋経済)を読みました。著者は、米国チャップマン大学都市未来学プレジデンシャル・フェローと本書では紹介されています。私はこれだけでは理解できませんが、本書冒頭の訳者解説によれば、都市研究の専門家とされています。英語の原題は The Coming of Neo-Feudalism であり、2020年の出版です。邦訳書タイトルはほぼ直訳のようなのですが、昨年暮れにタモリの発言になる「新しい戦後」にもインスパイアされているような気がします。私自身もご同様で、本書を手に取るきっかけになりました。本書は7部構成であり、タイトルだけ列挙すると以下の通りで、第Ⅰ部 封建制が帰ってきた、第Ⅱ部 寡頭支配層、第Ⅲ部 有識者、第Ⅳ部 苦境に立つヨーマン、第Ⅴ部 新しい農奴、第Ⅵ部 新しい封建制の地理学、第Ⅶ部 第三身分に告ぐ、となります。各部に3章あり、計21章構成です。s新自由主義的な経済政策によって格差が拡大し、中世的な身分制社会が再来する可能性を危惧し、そうならないような方向性について論じています。その昔の、例えば、フランスなどにおける中世封建制の身分構成は、祈る人、戦う人、働く人の3分割であり、第1身分が聖職者、まあ、カトリックの神父さんで、第2身分が貴族、第3身分がそのたの平民のサン・キュロット、ということになります。スタンダールの小説になぞらえれば、第1身分が黒で、第2身分が赤、そして、第3身分から第1身分や第2身分に移行するのは極めて困難、ということになります。本書でも同じ3つの身分を以下のように分析しています。第1身分は現代の聖職者であり、コンサルタント、弁護士、官僚、医師、大学教員、ジャーナリスト、アーティストなど、物的生産以外の仕事に従事し、高度な知識を有し支配体制に正当性を与える有識者の役割を担います。さらに重要なのは、市場のリスクにはさらされていません。そして、第2身分は新しい貴族階級であり、GAFAなどの巨大テック企業などの超富裕層であり、本書ではテック・オリガルヒと呼んでいたりします。第3身分はそのたです。中小企業の経営者、熟練労働者、民間の専門技術者などなのですが、本書ではヨーマンと呼ばれています。この身分は2つの集団から成っていて、土地持ちの中産階級で、その昔のイングランドのヨーマンと同じような独立精神を持ていますが、現在のヨーマンはテック・オリガルヒの下で苦しめられています。もうひとつの集団は労働者階級です。21世紀のデジタル農奴とか、新しい奴隷階級をなしていて、例えば、AIの命ずるままに低スキル労働を受け持ったりします。そして、中世封建制と同じように第3身分から第2身分や第2身分に上昇することは極めて困難です。第1身分は新しい宗教を生み出していて、ソーシャル・ジャスティス教は、まあ、ポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)を思い出させますし、グリーン教に基づいて、第2身分の富豪は温室効果ガスをまき散らしながらプライベートジェットでダボス会議に参加し、環境保護を訴えたりします。私が経済的に興味を引かれたのは、第2身分が第3身分を監視している、という下りです。昨年の日本でも経済書のベストセラーにズボフ教授の『監視資本主義』が入りましたし、そういった監視がジョージ・オーウェルの『1984』との連想で語られていると理解する人が多いのではないか、と私は危惧していますが、ハッキリと違います。ここでテック・オリガルヒが監視しているのは独裁政権が反対勢力を監視しているのではなく、データ駆動経済としてデータを収集しているのです。私の知る限りで、監視資本主義と収益のためのデータ収集を明確に結びつけたエコノミストは少ないと感じています。

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次に、夕木春央『方舟』(講談社)を読みました。著者は、ミステリ作家です。話題のミステリです。出版社が開設したサイトで、ミステリ作家の大御所である有栖川有栖などによるネタバレ解説があります。私ごときの読書感想文を読むよりは、ソチラの方が参考になるかもしれません。ただし、読了者を対象にしているようで、真犯人の名前と真犯人のセリフの最後の4文字をユーザメイトパスワードに設定する必要があります。ということで、作品は一言でいえばクローズド・サークルにおける殺人事件の犯人探し、のように見えるように書かれています。「のように見えるように書かれています」というのは、最後の最後にとんでもないどんでん返しがあるのですが、ミステリですので、これ以上はカンベン下さい。登場人物とあらすじは、主人公の越野柊一はシステムエンジニアでワトソン役です。周辺地理に詳しい従兄弟の篠田翔太郎とともに、大学時代のサークル仲間と遊びに来て、地下建築に閉じ込められます。この篠田翔太郎がホームズ役で謎解きに当たります。大学のサークル仲間は5人で、名前だけ羅列すると、西村裕哉、絲山隆平と絲山麻衣の夫婦、野内さやか、高津花、となります。なお、篠田翔太郎と大学のサークル仲間のほかに、途中から両親に高校生の倅という矢崎家3人が加わり、計10人です。この10人が地震があって地下建築に閉じ込められます。さらに困ったことに、地下水の浸水があって、脱出できなければ1週間ほどで水没、すなわち全員溺死するおそれがあります。そのクローズド・サークルの中で、連続殺人事件が起こるわけです。そして、ホームズ役の篠田翔太郎が実に論理的に犯人を割り出します。ただし、論理的であるがゆえに犯人の動機については確定しません。そして、最後に大きなどんでん返しが待っているわけです。評価については、高く評価する向きと物足りないと考える向きに二分されているような印象を私はもっています。私自身は基本的に高く評価します。私自身はミステリの謎解きというよりはサスペンスフルな展開を評価します。そして、何といっても、最後の最後に大きなサプライズが待っているのが一番です。本書が評価されるの最大の要因のひとつといえます。ただし、物足りないという見方にも一理ある可能性は指摘しておきたいと思います。というのは、本書の図書館の予約待ちの間に、この作者の第1作『絞首商會』と第2作『サーカスからの執達吏』を借りて読んで判った欠点が含まれているからです。すなわち、第1作の欠点のひとつはキャラがはっきりしない点です。第2作の欠点は謎解きや謎解きに至るプロセスが余りにシンプルな点です。ただ、こういった部分的な欠点を考慮しても、よくできたミステリ・サスペンス小説だと思います。

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次に、泉房穂『日本が滅びる前に』(集英社新書)を読みました。著者は、3期12年に渡って兵庫県明石市の市長を務め、大きな注目を集めて、最近引退したばかりです。その前は民主党の国会議員に選ばれていたと記憶しています。冒頭の第1章がシルバー民主主義から子育て民主主義へ、と題されていて、それだけで好感を持ち読み始めました。ただ、安心して子育てができる環境を最初から目指しているのはいいとしても、子育ての前に子作りがあり、さらにその前に、婚外子が極端に少ない日本では結婚がある点が見逃されているような気もしました。もちろん、地方公共団体の首長の場合、住民とともに妙に企業誘致に力を入れるケースが少なくないことから、特に建設会社などに向けた企業目線をより少なくして住民目線を重視するのは好感が持てます。現在の岸田内閣が国民の支持をまったく失ってしまって、メディアで調べている内閣支持率は最低ラインにあることは広く報じられている通りであり、その大きな原因は国民目線を無視して企業目線で政治や行政を進めている点であると私は考えています。典型的には物価対策であり、エネルギー価格を抑制するために大企業である石油元売り各社や電力会社に補助金を出しまくっていますが、消費税率を変更すればより効率的に解決できると私は考えています。ただ、本書で主張している明石市の子育て支援については、私は少し疑問を持ちます。繰り返しになりますが、子育ての前の子作り、そして結婚を軽視するわけにはいきません。そして、もうひとつ、明石市でできることは他の自治体でもできる、まではいいのですが、「国でもできる」かどうかは判りません。エコノミストの目から見ると、現在の少子化は婚外子の極端に少ない日本の現状から考えて、結婚しない/できない男女が多いからで、結婚しない/できない最大の要因は低所得にあります。詳細は、10月29日付けの President Online の記事「『年収300万円の男性の63%が子どもを持たずに生涯を終える』交際への興味、性経験がない人の衝撃データ」にある通りで、巷間いわれている「恋愛離れ」は低所得が原因です。記事によれば、「交際相手がなく異性との交際に興味がないと答えた男性の内訳を見ると、年収300万未満で75%を占めており、年収800万円以上は0.1%しかいない。」ということです。まず、所得を上げて結婚を促す、という政策が必要で、地方公共団体でも進めつつ、政府レベルの取組みが必要なハズなのですが、今の内閣は企業に補助金を配ることに集中しているように見えます。パソナや電通がいい例です。加えて、明石市の子育て支援政策は他の自治体の結婚促進政策にフリーライドしている可能性があります。すなわち、結婚⇒子作り⇒子育て、との3段階を進むに当たって、近隣の市町村が結婚に向けたマッチングを進めても、通常、結婚する際には引越をするものですから、『他市町村で結婚マッチングをしたあげくに明石市に新婚さんが住み始める、ということになれば、成果が上がりません。本書で特筆大書している明石市の「所得制限なしの5つの無料化」はすべて子供を作ってからの政策的支援です。その前の結婚、そして結婚をする/できるようになる所得の拡大が必要です。その意味で、少しがっかりしました。

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次に、倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)を読みました。ご案内の通り、来年のNHK大河ドラマは「光る君へ」であり、紫式部が主人公、藤原道長はそのソウルメイト、とされていますので、読書意欲が湧いて読んでみました。著者は、国際日本文化研究センターの研究者であり、専門は日本古代史です。「光る君へ」では時代考証を担当したようです。著者が文学者ではなく歴史学者ですので、本書はノッケから1次史料で確認できる確実な歴史、歴史学で通用する歴史から成っている、と宣言されています。その意味で、『枕草子』を書いたといわれる清少納言はまったく1次史料に出てこないので、その実在は確認できない、などという書出しから始まっていたりします。私なんかの感触では、花山天皇の出家入道、というか、騙されて出家した事件なんかは重要そうに漏れ聞いていたのですが、本書では扱いが小さく、まあ、歴史学からすればそうなのだろう、などと感じていたりしました。また、歴史学の観点からは、一条天皇の生母である藤原詮子、すなわち、藤原道長の姉が、ここまで藤原道長の権力獲得に重要な役回りをしたのは不勉強にして知りませんでした。そういった歴史学の方面はともかく、当時の朝廷政治と貴族の家族制度、もちろん、紫式部の父である藤原為時の家族などをかいつまんで開設した後、藤原道長による権力の掌握、そして、その藤原道長の繰り出す作に必要不可欠な要素だった『源氏物語』などについて、極めて詳細に解説が加えられています。よく知られたように、清少納言が仕える中宮定子は藤原道隆の子、藤原伊周の妹であり、彼女に対抗して、藤原道長は彰子を一条天皇に嫁がせます。そして、一条天皇の彰子へのお渡りの一助として紫式部が『源氏物語』を書くわけです。まあ、一条天皇は『源氏物語』読みた差に彰子の元に通う、という要素もあったわけなのでしょう。ですから、紫式部は彰子のお世話もしたのかもしれませんが、小説執筆のために宮中に入るわけです。料紙や墨、筆、硯といったは小説執筆に不可欠な文具は最高品質のものが与えられ、おそらく、静かな個室で小説執筆に適した環境も整えられていたことと想像します。そして、表紙画像に特筆大書されているように、藤原道長と紫式部は持ちつ持たれつの関係であり、紫式部の『源氏物語』がなければ藤原道長の栄耀栄華はなかったでしょうし、藤原道長の政権によるバックアップがなければ世界最高峰の小説としての『源氏物語』もなかったであろうと結論しています。最後の最後に、やっぱり、『権記』や『小右記』は歴史資料として重要なのだということを実感しました。

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次に、繁田信一『『源氏物語』のリアル』(PHP新書)を読みました。ご案内の通り、来年のNHK大河ドラマは「光る君へ」であり、紫式部が主人公、『源氏物語』も当然にクローズアップされますので、読書意欲が湧いて読んでみました。著者は、神奈川大学の研究者であり、明記してありませんが、専門は文学ではなく歴史学ではなかろうかと思います。しかし、本書では、歴史学の立場からの『源氏物語』の解説とはいえ、たぶんに俗っぽい、といっては失礼かもしれませんが、光源氏、頭中将、六条御息所、弘徽殿女御など、『源氏物語』における主役、準主役から脇役、敵役まで、小説のモデルに措定される可能性のある人物、あるいは、物語にある事件を紹介しつつ、宮廷や貴族たちのリアルな政治や日常を解説してくれています。まず、本書で確認している点は、『源氏物語』が日本国内、というか、都でものすごい人気を博した流行小説であったと同時に、おそらく、世界でも一級の文学作品だという歴史的事実です。誰から利いたのか、何を見たのかは、私も忘れましたが、11世紀初頭にノーベル文学賞がもしあれば、『源氏物語』が文句なく受賞したであろう、ということは従来から聞き及んでいます。逆に、本書冒頭でも指摘されているように、本朝では流行小説であったがゆえに、『源氏物語』に没頭していたりすれば、決して評判はよくなかったであろう、ともいわれています。でも、紫式部が仕えた彰子のとついた一条天皇は『源氏物語』を高く評価する読者であったのも事実です。本書では、なかなか現代日本では理解しがたい存在の貴族について開設していて、よく男性の中でいわれる「どうして女性たちは、ああまで光源氏を受け入れたのか」という素朴な疑問に答えています。すなわち、天皇の皇子を拒むことなど当時の女性にはできなかった、というのが正解のようです。光源氏が見目麗しく立ち居振る舞いも立派だったのであろうことは容易に想像できますが、それだけではなく、身分をかさにきて女性を口説いていたわけです。まあ、 光源氏に限らず高貴な男性はみなそうだったのだろうと思います。時代は違って、徳川期に盗賊が岡っ引きや同心に囲まれて「御用だ、御用だ」と現行犯逮捕されるシーンなんかも、当時であれば、盗賊が抵抗するなんて考えも及ばず、お上に素直に逮捕されていたハズ、というのも聞いたことがあります、でも情報は不確かです。念のため。話を戻して、六条の御息所や弘徽殿女御などといった強烈なキャラも理解が及ばないところながら、まあ、現在日本でも強烈なキャラの女性は決していないわけではありません。私が本書で面白く読んだのは、そういったリアルなキャラや実際の事件だけでなく、『源氏物語』が言及しない不都合な出来事です。そういったエピソードは巻末にまとめて置いてあり、火災に遭わない、強盗に襲われない、疫病に脅かされない、陰陽師を喚ばない、などが上げられています。

ついでながら、やや見にくいですが、NHKのサイトにある「光る君へ」のキャストの相関図は以下の通りです。

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最後に、佐藤洋一郎『和食の文化史』(平凡社新書)を読みました。著者は、農学博士ということで、食について農学の面から研究しているのではないかと想像します。1年ほど前に同じ著者の『京都の食文化』(中公新書)を私は読んでいます。本書はタイトル通りに、和食について、特におせち料理や何やの「ハレの日」の和食ばかりではなく、「ケの日」の日々の暮らしの中で供される和食にもスポットを当てて、いろんな時代やさまざまな地域に成立した和食について、その文化としての歴史をひも解こうと試みています。まず、第2章では和の食材に注目し、伝統的な植物性の食材を紹介しつつ、明治以前にも動物性の食材が十分豊かであったと主張しています。また、和食独特の発酵食品や出汁についても紹介を忘れていません。第3章では和食文化の東西比較も試みていて、食材の中の動物性食材、すなわち、肉はといえば伝統的に関西では牛肉、関東では豚肉、といった常識的な見方に加えて、おせち料理では京風の丸餅+白味噌に対して、東京では角餅+すまし、などを比較しています。器の配置についても、汁物を左右どちらに置くかで東西の違いを論じたりしています。第4章では都会と田舎の食文化を対比し、都会の排せつ物を肥料として田舎の農村に売り、農村で収穫された野菜や果物を都会が買う、という究極の循環経済の成立について言及しています。いつの時代も都会と田舎は持ちつ持たれつであり、共存共栄の関係にあったといえます。第5章では江戸と髪型を対比し、徳川期の江戸は侍の街で、参勤交代に随行して江戸に来た単身赴任の侍などのため、男性比率が極めて高く、江戸の外食は今のファストフードと同じ役割を果たしていた、と主張しています。そうなのかもしれません。それに対する当時の大坂で始まった粉モンも、やはり、ファストフードの要素があったということを紹介しています。残りは軽く流して、第6章では太平洋と日本海を対比し、第7章では海と里と山を対比し、第8章では武家・貴族・町人の和食を論じ、第9章でははしっこの和食として、今ではもうそれほど残っていないクジラやイルカの食についても取り上げています。決して食に限るわけではなく、衣類は住まいやといった他の面も含めて、日本位は日本独特のそれぞれの衣類の文化、住まいの文化があります。自然条件や国民性に従って、あるいは、時代の流れとともに独特の分化が興っては変化していくわけです。それらをすべて残すわけにはいきませんが、逆に、グローバルスタンダードに合わせるだけではなく、それぞれのいい面を取り入れて生活を豊かにし、文化を育む強さやしたたかさを日本人は持ち合わせているのではないでしょうか。

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2023年11月 4日 (土)

今週の読書は経済学の学術書をはじめとして計5冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、小川英治[編]『ポストコロナの世界経済』(東京大学出版会)は、コロナ対策として取られた政策対応や他の要因によるグローバルな経済リスクを計測・分析しています。トマ・ピケティほか『差別と資本主義』(明石書店)は、フランスのスイユ社から大統領選挙直前の2022年に刊行された小冊子のシリーズから差別や不平等に関する4編を訳出しています。三浦しをん『好きになってしまいました。』(大和書房)では、日常生活や旅に出たエッセイが三浦しをんらしく炸裂しています。周防柳『うきよの恋花』(集英社)は、井原西鶴『好色五人女』を題材にした時代小説です。麻布競馬場『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』(集英社)は、Twitterで大きな反響を呼んだ虚無と諦念のショートストーリー集です。
ということで、今年の新刊書読書は交通事故前の1~3月に44冊、退院した後、6~10月に130冊を読みました。11月に入って今週ポストする5冊を合わせて179冊となります。今年残り2月足らずですが、どうやら、例年と同じ年間200冊の新刊書読書ができるような気がしてきました。
また、新刊書読書ではないので本日の読書感想文には含めませんでしたが、町田そのこ『52ヘルツのクジラたち』を読みました。また、マンガということで含めなかった山岸凉子『鬼子母神』と『海の魚鱗宮』、いずれも文春文庫の自薦傑作集の第4集と第5集を読みました。そのうちに、Facebookでシェアしたいと予定しています。

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まず、小川英治[編]『ポストコロナの世界経済』(東京大学出版会)を読みました。編者は、一橋大学の名誉教授であり、現在は東京経済大学の研究者です。出版社から考えても、ほぼほぼ純粋な学術書と考えるべきで、野村資本研究所の研究者による第4章などの例外を除いて、時系列分析を主とした先進的な数量分析手法を用いた実証分析が並んでいます。一般のビジネスパーソンにはやや敷居が高いかもしれません。本書はコロナ後の世界経済について、コロナ対策として取られた政策対応や他の要因によるグローバルな経済リスクを計測・分析しています。2部構成であり、第Ⅰ部がグローバルリスクを、第Ⅱ部がグローバル市場の構造変化を、それぞれ分析しています。すべてのチャプターを取り上げるのもムリがありますので、いくつか私の着目したものに限定すると、まず、第2章ではサプライチェーンのデカップリング、すなわち、まるで敵対国のように相手国にダメージを与えることを意図した攻撃的なデカップリング政策と、逆に、供給途絶に備えるための防衛的なデカップリング政策を区別しつつ、日本のようなミドルパワーでは、同盟関係の中で同調的なあつ略がかかる前者の攻撃的な政策、例えば、ロシアに対する経済制裁、とかでは経済コストがかかることから、後者の防衛的なケースでは闇雲に過度の供給依存を回避するというよりも、供給途絶リスク実現の蓋然性と代替措置が可能となる期間とを分析することが重要であり、こういったデカップリングについては政府の政策というよりは、「民間企業による効率性とリスク対応のバランスに関する意思決定の中で、かなりの程度は解決済み」と指摘しています。昨年2022年の「通商白書」なんかでは、特に中国を念頭に置いて、過度の供給回避を論じていたように私は記憶しています。もちろん、サプライチェーンの地理的なホロ刈りが大きければ、それだけレジリエンスが高いのはいうまでもありません。それでも、さすがに、学術書らしくバランスの取れた経済学的に正しい議論を展開しています。また、第4章の中国の不動産業界の金融リスクについては、ほとんどフォーマルな数量分析はありませんでしたが、現下の世界経済のリスクの中心でありながら、私の専門外で情報を持ち合わせていない分野でしたので、それなりに勉強になりました。また、第Ⅰ部の第7章における国際商品価格の決定要因については、私は従来から、1970年代になって世界的に資産市場や商品市場が整備されるに従って、金融緩和によってマネーがモノやサービスに流れてインフレを生じるだけではなく、資産市場にも流れて資産価格の上昇をもたらし、その行き着いたはてが1980年代後半の日本におけるバブル経済であると考えています。マネーがモノやサービスにい向かわないのでインフレにはならず、中央銀行による資産市場対応が遅れるとバブルを生じます。しかし、日本は土地資産によるバブルでしたが、2022年のロシアによるウクライナ侵攻からは、エネルギーや穀物については資産としてマネーが流入すると同時に、モノやサービスの原材料となるわけで、インフレを生じています。こういったポストコロナの大規模金融緩和が国際商品の価格上昇に拍車をかけた点がリカーシブ型の構造VARモデルで実証されています。このあたりの計量経済学的な分析方法に関しては、私はコンパクトに説明する能力を持ち合わせません。理解がはかどらない向きには、学術書であるということでスルーして下さい。

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次に、トマ・ピケティほか『差別と資本主義』(明石書店)を読みました。著者は、フランスと米国の大学の研究者であり、巻末の訳者解説によれば、フランスのスイユ社から大統領選挙直前の2022年に刊行された小冊子のシリーズから訳出されています。4章構成であり、タイトルと著者を上げておくと、第1章 人種差別の測定と差別の解消 (トマ・ピケティ)、第2章 キャンセルカルチャ - 誰が何をキャンセルするのか (ロール・ミュラ)、第3章 ゼムールの言語 (セシル・アルデュイ)、第4章 資本の野蛮化 (リュディヴィーヌ・バンティニ)、となります。私は不勉強にして、ピケティ教授の著作しか読んだことがないと思います。本書のタイトルにある差別については、その原因は人種や国籍、性別、学歴などさまざまですし、差別が現れるのも就職差別や結婚差別などさまざまなのですが、私はエコノミストなので顰蹙を買いまくった某大臣の「最後は金目でしょ」に近い考えをしています。すなわち、差別が所得の不平等につながる、という視点です。ただ、最近の読書では現在の日本における民主主義の危機、すなわち、国民の幅広い声や意見が無視されて、権力を握ってしまえば虚偽を発信しても、無策のままに放置しても自由自在、という点を深く憂慮していることは確かです。経済的な所得の不平等とともに、この点も、特に現在の日本においては重要です。別の表現をすれば、「最後は金目」なのかもしれませんが、それを主張することすら封じ込まれる可能性を懸念しているわけです。しかも、本書に即していえば、国家とまでいわないとしても、何らかのコミュニティが和気あいあいと仲良くやっているのではなく、何らかの要因で分断されているという状態にあリ、この分断が差別を大いに助長している点も十分考慮しなければなりません。ということで、第1章ではアイデンティティに関する考察から始めて、植民地主義に基づく人種差別を考え、それが、反人種差別の運動として具体化されたブラック・ライブズ・マター(BLM)などを第2章ではキャンセルカルチャーと呼ばれる抗議運動として理解しようと試みています。植民地主義とは別の起源ながら、BLMとともに#MeTooも同じキャンセルカルチャーの運動のひとつなのだろうと私は考えています。さらに、第3章では、このシリーズが刊行されたのがフランス大統領選挙ですから、大統領選の決選投票に進んだ極右の国民連合(旧: 国民戦線)のマリーヌ・ル・ペンとともに右派の中で注目を集めた極右ポピュリストのエリック・ゼムールを取り上げています。私は、ゼムールについては移民排斥の中で、イスラム人がフランス人を支配するというグレート・リプレースメント論を提唱したトンデモ政治評論家であるとしか知りませんでしたが、言葉の暴力は凄まじいものだったようです。そして、最後の第4章では生産や経済の場としての資本の野蛮化が論じられます。特に、使用者サイドからの労働への野蛮な攻撃が激化していることは事実であり、フランスはともかく、日本ではものすごい勢いで雇用の非正規化が進み、特に女性の雇用者の非正規率は過半に達しています。繰り返しになりますが、差別や民主主義の破壊は経済的な不平等とともに手を携えて、車の両輪として進み国民生活をいろいろな面から破壊します。最悪の場合、国家社会を戦争に導くこともあります。私はエコノミストですので、こういった危機への対応は不得手なのですが、少なくとも市民としてしっかりと自覚した行動を取る必要があります。

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次に、三浦しをん『好きになってしまいました。』(大和書房)を読みました。著者は、ファンも多い直木賞作家ですが、この作品は小説ではなくエッセイです。しかも、この作者にしては真面目な方の、そうくだけてはいないエッセイです。というのも、この作者のくだけたエッセイであれば、1人称は「おれ」ですし、普段からプリプリト少し不機嫌気味の方らしいので、いたるところで「こるぁ」という恫喝の言葉が出てきますが、この作品ではそういったところは見受けられません。逆に、もっと真面目な方面で人形浄瑠璃や博物館巡りのエッセイであれば、まあ、同年代のエッセイストの酒井順子のようによく下調べの行き届いたエッセイもかけるようにお見受けするのですが、そこまで真面目一徹な作品でもありません。まあ、その中間のエッセイといったところなのかもしれません。それぞれのエッセイが、三浦しをんらしく愛と笑いと妄想に満ち溢れており、特に笑いすぎて抱腹絶倒となることが多いのではないかと思います。なお、本書は5章構成であり、章ごとのタイトルは以下の通りです。1章 美と愛はあちこちに宿る、2章 あなたと旅をするならば、3章 活字沼でひとやすみ、4章 悩めるときも旅するときも、5章 ささやかすぎる幸福と不幸、となります。1章では自宅で植物を育成したかってくる虫や鳥と格闘し、2章ではタイトル通りに紀行文中心となり、3章は読書感想文、4章も旅を中心としたエッセイで、5章はどちらかといえば雑多で分類しにくいエッセイを集めている印象です。繰り返しになりますが、くだけたエッセイではなく、版元から明確に上品なエッセイを求められているものもあるようですが、そこは三浦しをんらしくも上品ぶらない、というか、お茶目な、あるいは、モノによっては自虐的なエッセイに仕上がっているものも少なくありません。お父上は『古事記』研究で有名な学者さんだと思うのですが、家族のトピックも微笑ましく取り上げられています。お父上は三重県ご出身で、その地域性からか阪神タイガースのファンであり、コラボ缶を花瓶として活用しているのは、同じ阪神ファンとして深く理解します。ただ少し残念なのは、収録元のソースがバラバラで、それぞれのエッセイにも統一的なテーマがない点ですが、いかにも三浦しをんらしい筆の進みを堪能できますので、そういった短所はそれほど気になりません。まあ、私はエアロバイクを漕ぎながら音楽を聞いて読書も同時に進めるのですが、そういった時間つぶしにはもってこいです。

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次に、周防柳『うきよの恋花』(集英社)を読みました。著者は、小説家、しかも、主戦場は時代小説ではないか、と私は考えています。さらにいえば、時代小説の中でも江戸時代のチャンバラの侍が主人公となる小説ではなく、我が国の古典古代に当たる奈良時代や平安時代の文人を主人公に据えた時代小説の作品が私は大好きです。しかし、この作品は表紙画像に見られるように、江戸時代の井原西鶴の『好色五人女』を題材にした時代小説の短編集です。収録作品は、順に、「八百屋お七」、「おさん茂兵衛」、「樽屋おせん」、「お夏清十郎」、そして、最後は残る短編ならば「おまん源五兵衛」のハズなのですが、「おまん源五兵衛、または、お小夜西鶴」となっていて、「おまん源五兵衛」ではなく、実のところ、作者の井原西鶴と妻のお小夜についての短編に仕上げています。今さら、あらすじを書くのも芸がないのですが、それでも簡単に記しておくと、「八百屋お七」は、豪商八百八の娘お七が火事で避難した吉祥寺の寺男の吉三郎にもう一度逢いたいがために放火する、というものです。お七からの一方的な吉三郎への歪んだ愛情が元になっています。「おさん茂兵衛」では、大経師の後妻であるおさんが奉公人である茂兵衛と駆け落ちした事件で、亭主の大経師の性格や振舞いが大きな原因を作っています。「樽屋おせん」では、樽職人と祝言をあげたおせんなのですが、その樽職人の忠兵衛が樽屋の跡目を譲られて奉公人から樽屋の主人に出世するのですが、その忠兵衛の出入りの麹屋の入婿とおせんが不義をはたらきます。「お夏清十郎」では旅籠の主人である久左衛門の妹のお夏が懐いた清十郎だったのですが、清十郎とお夏が駆落ちしようとして捕縛され、清十郎が刑死した一方でお夏が狂乱してしまいます。そして、本来の「おまん源五兵衛」では、私の知る限り、衆道好きだった薩摩の武士源五兵衛に恋慕した琉球屋の娘であるおまんが、家出して、さらに、出家してしまったした源五兵衛のもと男装してまでしてに押しかけ結ばれ、しばし困窮生活を送るものの、おまんは両親から巨万の富を譲られる、というハッピーエンドです。しかし、これを作者は西鶴の衆道に置き換えて、妻のお小夜の振舞いをおまんになぞらえて、翻案し、というか、創作的に描き出しています。誠に残念ながら、これが成功しているようには私には見えません。ちょっと、ひねり過ぎた感がなきにしもあらずです。そして、井原西鶴の『好色五人女』の原点を私は読んでいないので詳細は不明ですが、5話を井原西鶴に持ち込むのは相州小田原の薬売りの山善です。最後に、繰り返しになりますが、この作家の作品で私が高く評価しているのは古典古代の文人を主人公にした時代小説です。事実上のデビューさうともいえる『逢坂の六人』、『蘇我の娘の古事記』、あるいは、『身もこがれつつ 小倉山の百人一首』、といったあたりの作品です。この『うきよの恋花』は時代背景を天下泰平の江戸時代に移しつつも、侍を主人公にするのではなく、あくまで文人である昨夏の井原西鶴を中心にお話を進めています。その意味で、この作者のひとつのバリエーションなす作品かもしれません。でも、古典古代に戻って欲しいというのが私の偽らざる本音です。

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次に、麻布競馬場『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』(集英社)を読みました。著者は、1991年生まれ、慶應義塾大学卒業というプロフィール以外は明かされていない覆面作家です。なお、本書は漫画化されて「週刊ヤングジャンプ」で連載されているようですが、私は詳細は知りません。悪しからず。本書は、短編集というよりは、ショートショートの長さくらいで、Twitterで大きな反響を呼んだ虚無と諦念のストーリー集です。キャッチフレーズを受売りすれば、「タワマン」、「港区女子」、「東カレデートアプリ」、「オンラインサロン」などの新しいキーワードを駆使して、デジタルプラットフォームで生まれた文学の歴史の中に「港区文学」と呼ばれるジャンルを打ち立てた作品、ということになります。各ストーリーの主人公となる語り手は、大学生からアラサーのころまでの年齢層の男女が中心で、中には大学受験前の年代から始まるストーリーもあります。主人公=語りてに共通しているのは、東京生活の経験に基づいて語っている点です。もとから生まれ育ちが東京なのか、あるいは、大学生として上京したのか、という点は違うとしても、人生の中で東京生活を経験している主人公ばかりで、地方生まれの地方育ちという主人公はいません。ただ、主人公にも明暗があり、いかにもヘッセの『車輪の下』のハンスのように、死んでしまわないまでも、東京に出て挫折して故郷に帰る、というケースもあれば、逆に、というか、何というか、リッチでバブリーな生活を送っていて、ハンスみたいな地方からの上京学生を見下しているような態度を取る主人公のストーリーも含まれています。何と申しましょうかで、読書感想文から少し脱線すると、私個人はこの両極端の中間くらいに位置する人生を送ってきていて、京都で生まれ育って京都大学を卒業した後、キャリアの国家公務員として東京で働き、バブル期に遊んで結婚が遅れ、海外勤務などの華やかな生活も堪能して60歳で型通りに定年退職し、今では郷里に近い関西で、それなりに名の知れた大学の教員として経済学を教えています。東京で公務員をしていたころには、数年だけですが南青山という港区住まいをした経験もあります。ただ、私の場合は、東京を離れてソンしたと感じています。もっとも、これは私の専門分野が経済ないし経済学だから、その経済の中心である東京を離れると、いくらインターネットが普及しようとも、経済情報の面では東京と地方圏で差がある、という事実に基づいているのだろうと認識しています。ですから、古典文学の専門家、例えば、来年のNHK大河ドラマのテーマである『源氏物語』を大学で教える、とかであれば、東京と京都の差は大きくないかもしれない、と想像しています。読書感想文に戻ると、本書では東京と地方の差は経済ではなく、文化の面であると強く示唆されています。もちろん、文学や美術などのハイカルチャーも差があるでしょうし、本書でもそういったストーリーが含まれていますが、もっと大きな差はサブカルチャーの面ではなかろうか、と私は感じています。例えば、いくつかのストーリーで言及されているマッチングアプリとかがそうです。経済学的にいえば、典型的に規模の経済が働く分野であり、集積の利益が大きく、東京と地方の差は人口規模や所得水準以上に大きくなります。長くなりましたが、いずれにせよ、自分の住んでいる地域が文化的にも経済的にも豊かな場所であることは、各個人にとって望ましいことであり、ではどうすればそれが実現されるのかというと、本書などでは、そう望む個人が東京に移住する、というのが結論っぽくって、その逆を行って自分の住んでいる場所を豊かにしようとするのが地域振興なのだろう、と私は受け止めています。

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2023年10月28日 (土)

今週の読書は経済書2冊をはじめ計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、水野勝之・土居拓務[編]『負効率の経済学』(昭和堂)は、コスパやタイパに代表される効率性の絶対視に対して負の効率である負効率の用途や重要性を説きます。ジョナサン・ハスケル & スティアン・ウェストレイク『無形資産経済 見えてきた5つの壁』(東洋経済)は、現在の停滞を脱して無形資産経済に進む上での重要な方策について何点か指摘しています。エリカ・チェノウェス『市民的抵抗』(白水社)は、非暴力で政治や社会を変革することを目的とする市民的抵抗について膨大なケーススタディの成果を取りまとめています。リチャード・オスマン『木曜殺人クラブ 逸れた銃弾』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)は、シリーズ第3作であり、10年ほど前にテレビの報道番組のサブキャスターが亡くなった事件の解決を木曜殺人クラブの高齢者集団が目指します。山口香『スポーツの価値』(集英社新書)は、筑波大学の研究者であり柔道のオリンピック・メダリストでもある著者が、混迷する日本スポーツ、スポーツ界について辛辣な批評を加えています。最後に、桜井美奈『私が先生を殺した』(小学館文庫)では、全校集会のさなかに校舎屋上から飛び降りた人気ナンバーワン教師の謎を解明します。
ということで、今年の新刊書読書は交通事故前の1~3月に44冊、退院した後、6~9月に104冊を読み、10月に入って先週までに20冊、そして、今週ポストする6冊を合わせて174冊となります。今年残り2月で、どうやら、例年と同じ年間200冊の新刊書読書ができるような気がしてきました。
また、新刊書読書ではあるのでしょうが、マンガということで本日の読書感想文には含めなかった山岸凉子『鬼子母神』と『海の魚鱗宮』、いずれも文春文庫の自薦傑作集の第4集と第5集を読みました。そのうちに、Facebookでシェアしたいと予定しています。

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まず、水野勝之・土居拓務[編]『負効率の経済学』(昭和堂)を読みました。著者は、明治大学と農林水産研究所の研究者です。先日レビューしたジェレミー・リフキン『レジリエンスの時代』の主張にもありましたが、従来の効率を重視する経済社会は、本書でも、どうやら終わりつつあるようで、『レジリエンスの時代』ではレジリエンスの重要性が増していると強調されていますし、本書では「負効率」も考え合わせることが必要という意見です。本書でいう「負効率」は非効率よりもゼロに近い、あるいは、ゼロの効率から、一歩進んで、というか、なんというか、効率がマイナス、すなっわち、効率としては逆であっても、結果として望ましい結末を迎える例がある、という点を強調しています。世間一般では、「コスパ」を重視し、最近ではコストの中でも、万人に等しく配分されている時間を節約する「タイパ」の重視も広がってきていますが、そういった世間一般の傾向に真っ向から対立しているわけです。それを経済学の視点から、マイナスの効率であってもプラスの効用が得られるケースを考えています。章別で論じられているのは、企業経営、経済効果、英語学習、大相撲、プロ野球、歩行、タクシー業界、地方/都会、PTAのそれぞれの負効率を論じています。ただ、「負効率」という目新しい用語を使っているだけで、途中からは伝統的な「急がば廻れ」といいだして、要するに、コスパやタイパを追認しているようにも見えます。すなわち、直線で行くよりも迂遠に見えても別の「効率的」な処理方法がある、というわけですから、結局は、本書の主張も形を変えているだけで、効率至上主義の別の現れであろうと私は考えています。もしも、マイナスをマイナスのままで価値あるものと考える、というのであれば、それは一定の方向性ある主張だと私も思いますが、結局、小手先で別の方法を取れば、マイナスをプラスに転じて、同じ目標をさらに「効率的」に達成できる、という点を強調しているだけに見えます。私の読み方が浅いのかもしれませんが、私の考える「負効率」、すなわち、マイナスをマイナスのままに受け入れる、とは大きく違って、さらに、リフキンのレジリエンスのような効率に対する代替案も提示されていなくて、とってもガッカリしました。読書の候補に上げている向きには、ヤメておいた方がいいとオススメします。

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次に、ジョナサン・ハスケル & スティアン・ウェストレイク『無形資産経済 見えてきた5つの壁』(東洋経済)を読みました。著者は、いずれも英国の研究者であり、インペリアル・カレッジ・ビジネススクールと王立統計協会に所属しています。英語の原題は Restartng the Future であり、2022年の出版です。私は、3年半前の2020年3月に同じ著者2人による『無形資産が経済を支配する』をレビューしています。前著では、無形資産が重要性を増す無形経済になれば、格差の拡大などを招いたり、長期停滞につながったり、経営や政策運営の変更が必要となる可能性を議論しています。本書では、そういった格差拡大などのネガな影響ではなく、そもそも、現状の経済社会について、経済停滞、格差拡大、機能不全の競争、脆弱性、正統性欠如という5つの問題点を指摘し、それが邦訳タイトルになっているわけです。そして、重要なポイントは、現在のこういった問題点は過渡期の問題であると指摘していることです。すなわち、アンドリュー・マカフィー & エリック・ブリニョルフソンによる『セカンド・マシン・エイジ』と同じで、新しい「宝の山」、すなわち、『セカンド・マシン・エイジ』では人工知能(AI)など、本書では無形資産を十分に活かしきれていないことが現在の停滞の原因のひとつである、という認識です。ですので、本書に即していえば、無形資産をさらに積極的に活用するための方策、特に制度面に焦点を当てた方策が取り上げられています。主要には4点あります。第1に、無形資産のスピルオーバーに対する政策的な知的財産権保護の強化あるいは補助金が必要としています。第2に、無形資産は担保として使えないことから負債ファイナンスに向かず、金融的な措置が必要と主張しています。第3に、無形資産のシナジー効果を発揮するには都市が最適であり、ゾーニング規制などの撤廃を求めています。そして、第4に、GAFAのようなテック企業をはじめとして競争政策の緩和から生まれた巨大企業の例を考えれば、無形資産経済では過度の競争政策は無用と強調しています。はい。私も理解できなくもないのですが、特に第4の競争政策なんて、無形資産経済とは何の関係もなく、単に、企業を巨大化させるためだけに主著されているような気がします。大企業の独占力の弊害も決して無視できません。まあ、前著についても、私はそれほど高い評価はしていませんが、本書についてもm,右傾資産経済とは何の関係もない点をシラッと入れ込んでいたりして、疑問に思わない点がないでもありません。ただ、山形浩生さんの邦訳はスムーズで読みやすいのは評価できます。

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次に、エリカ・チェノウェス『市民的抵抗』(白水社)を読みました。著者は、米国ハーバード大学の研究者であり、政治的暴力やテロリズムを研究しており、非暴力で政治・社会を変えることを目指す市民的抵抗に注目していたりします。英語の原題は Civil Resistance であり、2021年の出版です。邦題はほぼほぼ直訳です。本書は、いわゆる「3.5%ルール」を提唱した研究者による学術書であり、膨大なケーススタディから的確な結論を抽出しています。特に重要なポイントは非暴力であり、他の人を傷つける、あるいは、傷つけると威嚇することなく目的を達成する市民的抵抗を論じています。すなわち、非暴力運動は弱々しく見える、あるいは、効果も乏しいように感じられがちですが、実はそうではなく、1900年から2019年の間に非暴力革命は50%以上が成功した一方で、暴力革命はわずか26%の成功にとどまる、といった実証的な根拠を示しています。斎藤幸平+松本卓也[編]『コモンの「自治」論』のレビューでも指摘しましたが、少なくとも、教条的マルクス主義に基づく暴力革命なんてシロモノは、非暴力の市民運動よりも成功の確率低いことは明らかですし、かといって、その昔の統一教会よろしく選挙にすべてを賭けるのも、少し違う気がして、私はコモンの拡大と自治、あるいは、本書で取り上げているような市民的抵抗が、暴力的な運動と選挙一辺倒の間に位置して、それなりに重要性を増している気がしています。市民レベルの暴力的な抵抗は、少なくとも近代的な軍隊の前にはまったく無力でしょうし、同時に、他の市民の批判や反対を招くことになるとしか私には考えられません。ただ、私に不案内だったのは、何をもって市民運動の成功とみなすのか、という点です。本書で指摘しているようにマキシマリスト的に政権交代とか分離独立とかであれば、成功の基準は明らかです。さらに、定性的、質的な制度要求に基づく市民運動、例えば、私が熱烈に支持する市民運動のカテゴリーで、マイナ保険証反対、インボイス制度撤回、などについても、それなりに制度変更が勝ち取れれば成功といえますが、池袋西武百貨店のストライキをどう評価するのか、あるいは、労働組合の賃上げ要求が満額でなかった場合はどうなのか、といった点は私には不案内です。それぞれの市民運動を担ったご本人たちに自己評価を任せると、やや過大評価の方向に流れそうな気もします。その昔に、私の大好きなデモ参加者の数が主催者発表と警察発表でケタ違いだったのを思いまします。それはともかく、現在の日本では民主主義が崩壊の危機に瀕していて、第2次安倍内閣あたりから、権力を握ってしまえば、ウソをついても、不正をしても、やりたい放題という面が垣間見えます。ですので、暴力的な市民運動はNGで、選挙だけに集中するのもいかがなものかと考える私のような市民は、それでも民主主義の根幹をなす選挙を重視しつつ、同時に、車の両輪として、本書に見られるような的確な分析に基づく市民運動にも積極的に参加して、民主主義の危機に対応する必要があると思います。大いに思います。

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次に、リチャード・オスマン『木曜殺人クラブ 逸れた銃弾』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)を読みました。著者は、テレビ司会者、コメディアン、ミステリ作家であり、本書はシリーズ第3作に当たります。私は第1作の『木曜殺人クラブ』、第2作の『木曜殺人クラブ 2度死んだ男』はともに読んでいます。英語の原作は The Bullet That Missed であり、ハードカバー版は2022年、ペーパーバック版は2023年の出版です。以前のシリーズと同じで、舞台は高齢者施設クーパーズ・チェイスであり、そこに住む4人の年金生活者が結成した「木曜殺人クラブ」の活躍を描いています。この作品では、地元の報道番組の女性サブキャスターであったペサニー・ウェイツの殺人事件です。この女性が殺された、というか、死体は見つかっていませんが、失踪した10年ほど前の事件です。死体が見つかっていなのに殺人事件と見なされるのは、彼女の自動車が海岸から転落したからで、死体は発見されていません。その時、この女性サブキャスターはVAT(付加価値税)にまつわる詐欺事件を調査しており、木曜殺人クラブのメンバーはこの報道番組や詐欺事件の関係者などにツテを頼って事情を聞いたりして事件を追求します。しかし、元諜報部員のエリザベスはやや認知症気味の夫スティーヴンとともに拉致され、スパイ時代の因縁浅からぬ旧友である元KGBのヴィクトル大佐を殺すことを強要されたりし、それができないなら、エリザベスの親友ジョイスを殺す、と脅されます。もちろん、最後は謎が解決されて、事件は無事にハッピーエンドの結末を迎えますが、段々とこのシリーズはミステリというよりはエンタメの傾向が強くなっています。相変わらず、物語の展開も登場人物の話し方や作者の描写など、すべてにおいてコミカルです。すでに、第4作が英国では出版されているやに聞き及びますが、シリーズ第3作にして、段々と面白くなっています。ただ、繰り返しになりますが、その逆から見てミステリとしての完成度はやや低下している気もします。最後に、このシリーズは第1作から順を追って読むことを強くオススメします。私自信は順を追って読んでいるのでOKなのだろうと思いますが、たぶん、あくまでたぶんながら、少なくともこの第3作から読み始めると理解が追いつかないと思います。その点は注意が必要です。

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次に、山口香『スポーツの価値』(集英社新書)を読みました。著者は、筑波大学の研究者ですが、おそらく、柔道のオリンピック・メダリストとしての方が名が通っているような気がします。表紙画像の帯に、エッセイストの酒井順子が「ここまで書いてしまっていいの?」という評価を寄せていますが、全般的に、かなり鋭くも辛辣な内容です。ただ、一部には及び腰の部分もあることは確かです。ということで、本書では最近のスポーツ界の諸問題、すなわち、部活動での体罰や、勝利至上主義、もちろん、東京オリンピック組織委員会の森会長の女性蔑視発言とその後の辞任、などなど、なぜか、本書で取り上げられていない日大アメリカンフットボール部の一連の不祥事を除いて、さまざまな日本のスポーツ界に潜む病根を忖度なく指摘していて、スポーツの真の価値を提言しようと試みています。まず、スポーツによって磨かれるのは、論理的かつ戦略的な思考、コミュニケーション能力、そして何より忖度なくフェアにプレーする精神であるとし、その一義的な価値を示しています。まったく、その通りです。私なんぞは自分の健康目的、すなわち、体力面とともにストレス解消などのメンタル面も含めて、自分に利益ある範囲でスポーツを楽しんでいますが、トップレベルのアスリートの行うスポーツは、観客を引き寄せて経済効果あるだけではなく、見る人に感動を与えるわけです。そして、こういったスポーツの価値により社会の分断を乗り越え、スポーツはコミュニティを支える基盤ともなリ得ますし、また、スポーツによって鍛えられる分析力や行動力、戦略性は、学業やビジネスにも役立つと、本書では主張しています。さらに大きく出ると、スポーツには社会を変革する力がある可能性を秘めているという指摘です。まあ、そこまでいかないとしても、スポーツや文化の価値を認めない日本人は少ないと思います。しかし、現在の日本におけるスポーツは勝利至上主義、ジェンダー不平等、そして、何よりも汚職事件に代表されるような東京オリンピックの失敗などにより、こういった価値を、真価を発揮できないでいます。札幌の冬季オリンピック招致断念が象徴的と考える人も少なくないことと思います。ただ、勝利至上主義を批判しつつも、著者個人の経験からオリンピックのメダルの大切さ、というか、ご本人の誇らしさみたいな指摘もあり、しょうがない面もあるものの、その昔の総論賛成各論版たんになぞらえれば、本書は日本のスポーツ、スポーツ界に対して、総論批判各論擁護に議論を展開しているような部分もあります。しかし、私の感想からすれば、発言すべき有識者による思いきった発言であり、すべてのスポーツ愛好家からすれば、読んでおく価値はあると思います。

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次に、桜井美奈『私が先生を殺した』(小学館文庫)を読みました。著者は、ミステリ作家であり、私はこの作者の『殺した夫が帰ってきました』を読んだ記憶があります。ということで、このミステリは、トップ校ではないまでも、そこそこの進学校である才華高校を舞台に、全校生徒が集合する避難訓練中、学校でナンバーワンの好感度を誇る人気教師の奥澤潤が校舎屋上のフェンスを乗り越え飛び降り自殺します。しかし、奥澤が担任を務めるクラスの黒板に「私が先生を殺した」というメッセージがあったことで、自殺ではなく殺人事件の可能性が浮かび上がるわけです。実は、この前段階で、奥澤が校内で女生徒と「淫らな行為」に及んでいる動画がSNSにアップされていて、自殺であれば、その一因とも目されます。そして、この自殺/他殺の謎が解かれるわけです。各章は、何らかの動機があって、奥澤を殺した殺人犯の可能性ある4人の生徒の1人称で語られます。当然ながら、すべて、奥澤の担任クラスの生徒です。まず、授業態度が悪くて、勉強が進まず大学進学を諦めかけている砥部律です。クラスでも孤立気味で、親身になって接してくれる奥澤のことを逆に嫌っています。勉強もせずにSNSにのめり込み、動画を拡散して奥澤を追求します。続いて、勤勉で成績もよい生徒で、特待生として才華高校に通う黒田花音です。しかし、彼女は大学進学に当たって特待生として推薦入学の学校枠が確実といわれながらも、奥澤から推薦候補から外された旨を知らされます。もちろん、奥澤はその理由を明かすことはしません。続いて、素直で明るい性格で、奥澤のことを恋愛感情で見ている百瀬奈緒です。特定されませんでしたが、動画に奥澤と写っているのはこの女生徒です。最後に、進路について病院経営する父親や研究者の母親と意見があわず、奥澤に相談を持ちかける小湊悠斗です。しかし、黒田花音に代わって大学特待生の推薦枠を与えられたのがこの小湊悠斗で、しかも、その事実を黒田花音に知られてしまいます。ストーリーが進むに連れて、徐々に真相が明らかになる私の好きなタイプのミステリだと思って読み進むと、何と、最後の最後に大きなどんでん返しが待っていました。軽く、宮部みゆきの『ソロモンの偽証』の影響を読み取ったのは私だけでしょうか?

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2023年10月21日 (土)

今週の読書は今年のノーベル経済学賞を受賞したゴールディン教授の学術書をはじめとして計7冊

今週の読書感想文は以下の通り計7冊です。
まず、クラウディア・ゴールディン『なぜ男女の賃金に格差があるのか』(慶應義塾大学出版会)は、今年2023年のノーベル経済学賞を受賞したエコノミストによる学術書であり、米国における大卒女性の100年間のキャリアと家族の歴史を分析しています。斎藤幸平+松本卓也[編]『コモンの「自治」論』(集英社)は、コモンの再生や拡大とともに、単なる受益者ではなく当事者としての自治を拡大する必要性などを論じています。三浦しをん『墨のゆらめき』(新潮社)は、ともに30代半ばで独身の実直なホテルマンと奔放な書道家の交流を綴っています。牧野百恵『ジェンダー格差』(中公新書)は、マイクロな労働経済学におけるジェンダー格差の分析結果の学術論文をサーベイしています。竹信三恵子『女性不況サバイバル』(岩波新書)は、コロナ禍における女性の経済的な苦境に焦点を当てつつ解決策を模索しています。夕木春央『絞首商會』(講談社文庫)は大正期を舞台にした無政府主義者によると見られた殺人事件の謎を解き明かします。夕木春央『サーカスから来た執達吏』(講談社文庫)は、借金返済のために華族の財宝を探すミステリです。
ということで、今年の新刊書読書は交通事故前の1~3月に44冊、退院した後、6~9月に104冊を読み、10月に入って先週までに13冊、そして、今週ポストする7冊を合わせて168冊となります。今年残り2月余りで、どうやら、例年と同じ年間200冊の新刊書読書ができるような気がしてきました。

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まず、クラウディア・ゴールディン『なぜ男女の賃金に格差があるのか』(慶應義塾大学出版会)を読みました。著者は、米国ハーバード大学の経済学の研究者であり、今年のノーベル経済学賞を受賞しています。英語の原書のタイトルは Career and Family であり、2021年の出版です。本書では、コミュニティ・カレッジのような短大ではなく4年制の大学卒の学士、あるいは、それ以上の上級学位を持つ女性を対象にして p.30 の示してあるように、女性の大学卒業年として1900-2000年の100年間を取り、この期間における女性の職業キャリアと家庭の歴史を振り返りつつ、男女間の賃金格差を論じています。学術的な正確性ではなく、ふたたび大雑把にいって、キャリアは職=ジョブと職=ジョブをつなぐものくらいのイメージです。そして、タイトルにある "Family" は「家族」というよりは「家庭」です。その際、この100年間を大雑把に20年ごとの5期に分割しています。第1期、すなわち、1900年から1920年ころに大学を卒業した女性たちであり、家庭かキャリアか、どちらか一方を選ぶ選択に迫られていました。キャリアを選ぶ大卒女性は結婚して家族を持つことを諦めざるを得ないケースが少なくなかったわけです。そして、第2期の1920年から1945年の大学を卒業したグループは、卒業後にキャリアを始めるものの、日本の寿退社に相当するマリッジ・バーによりキャリアを諦めざるを得ないことになります。第3期の1946年から1965年に大学を卒業した女性たちは、米国人の早婚化に伴って早くに結婚し出産を経て、子供の手がかからなくなった段階でキャリアを積む世界に入りました。第4期の1960年代半ばから1970年代後半に大学を卒業した女性たちは、女性運動が成熟したころに成人し、避妊薬であるピルが利用可能になり、キャリアを積んでから家庭を持ちました。そして、第5期の1980年ころ以降に大学を卒業した女性たちは、キャリアも家庭も持つ一方で、結婚と出産は遅らせています。ここで分析対象になっているのが、大卒ないし上級学位を保持する女性ですので、日本的なサラリーマンとは少し違うキャリアが垣間見えます。職業としては、医師、獣医師、会計士、コンサルタント、薬剤師、弁護士などが取り上げられています。でも、こういった職業キャリアにはだいたい可能性という観点で大きな違いがあり、弁護士業務では弁護士間での代替可能性が低く、例えば、極端な例ながら、裁判の途中で担当弁護士が交代するケースは考えにくいわけです。したがって、長時間労働は時間当たりの賃金単価を引き上げることになります。他方で、薬剤師などは代替可能性が高く、誰が処方しても同じ薬が販売されるわけで、賃金単価は労働時間に影響を受けません。そして、現在までの経済社会におけるジェンダー規範により、男性が長時間労働を引き受け、女性が短時間労働で家庭内の役割を受け持つとすれば、弁護士では男性の賃金単価が女性よりも高くなるわけですし、薬剤師では賃金単価は男女間で変わらないものの、労働時間の長さにより一定期間で受け取る週給とか月給は男性の方が高くなりがちになります。といったような分析が明らかにされています。ただ、私が大きな疑問を感じているのは、「男性は外で長時間働き、女性は家庭内の役割を引き受ける」というジェンダー規範を前提にしている点です。このジェンダー規範を前提にすれば、多少のズレはあっても、ほぼほぼ男女間に賃金格差が生まれそうな気がします。ですので、この根本となるジェンダー規範がいかに形成され、いかに克服されるべきか、を分析し議論しなければならないのではないか、と思うのですが、いかがなものでしょうか。例えば、人種差別が存在するのを前提として白人と黒人の賃金格差を論じるのは適当かどうか、私には疑問です。歴史的な観点で女性のキャリアと家庭を分析する視点は大いに啓発されましたが、ノーベル経済学賞という看板を外すと、マイクロな労働経済学という私の専門外である点を考慮しても、やや物足りない読書でした。

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次に、斎藤幸平+松本卓也[編]『コモンの「自治」論』(集英社)を読みました。編者は、『人新世の「資本論」』で一躍有名になった経済思想家、東大の研究者と精神科医です。本書は7章構成であり、編者を含めて7人が執筆しています。収録順に、第1章 白井聡: 大学における「自治」の危機、第2章 松村圭一郎: 資本主義で「自治」は可能か?、第3章 岸本聡子: <コモン>と<ケア>のミュニシパリズムへ、第4章 木村あや: 武器としての市民科学を、第5章 松本卓也: 精神医療とその周辺から「自治」を考える、第6章 藤原辰史: 食と農から始まる「自治」、第7章 斎藤幸平: 「自治」の力を耕す、となります。バラエティに富んでいて私の専門外の分野も多く、それだけに勉強にもなりますが、レビューに耐える見識に不足する分野もあります。まず、本書のタイトルでカギカッコつきになっている「自治」とは何か、については、第6章で指摘されている定義めいたものを参考に、「受益者」から「当事者」のの側面を持つようになり、それを不断に維持していくプロセス、というふうに私は解釈しています。でも、現在の日本に民主主義下でも投票というプロセスを通じて、統治のシステムに何らかのコミットをしている、という意見もあるかもしれませんから、そのコミットをさらに拡大するプロセス、ということなのだろうと思います。ですから、もっと言葉を代えれば、「統治」を政治的なものだけでなく、より幅広いコンテクストで考えることを前提に、受動な受け身一方の統治される側から何らかの能動的な要素を加え、それを進め拡大するプロセス、ということなのだと思います。その典型が、言葉としても人口に膾炙している地方自治であり、東京都の杉並区長に当選したばかりの岸本区長が担当している第3章によく現れています。ただ、私は大きく専門外なので、例えば、第2章で論じられているようなテーマで、資本主義のもとで自治が可能か、不可能かについては見識を持ちません。判りません。今までは、コモンの拡大がひとつの目標のように見なされてきていた議論が、1ノッチ段階を上げてコモンをいかに自治するか、という議論が始まった点は私は大いに歓迎します。私の専門分野に引き寄せると、18-19世紀のイングランドにおける(第2次)エンクロージャーが私的所有権を確立して、希少性ある資源の効率的活用を通じて産業革命を準備した、という制度学派的な経済史に対して、生産手段の国有化やプロレタリアート独裁といった大昔の教条的マルクス主義から脱して、コモンを量的に拡大するとともに、さらに、その質的な向上のための自治を模索するという点は大いに見込みがある気がします。その理由のひとつは、現在の政治的な運動が余りに選挙に重点を置きすぎていると私が感じているからです。もちろん、これまた大昔の教条的マルクス主義のように暴力革命を目指すのは、明確にバカげていますし、選挙を通じた政権交代よりもさらに実現の確率が低く、結果の期待値が悪いのは判り切っています。それでも、選挙を通じた政権交代だけに望みを託して、その昔の統一教会みたいにせっせと選挙活動に邁進する、というのも、一方のあり方としてそれなりに重要性は理解はするものの、それだけではなく、車の両輪のようにコモンを量的に拡大し、そして同時に質的な向上を目指して自治への参加を促す大衆的な運動、を車の両輪として推進するのが必要と考えます。そして、この政治レベルの車の両輪の基礎にあるのが経済であり、第7章の p.271 にあるように、「<コモン>による経済の民主化が政治の民主化を生む」という点を忘れてはなりません。

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次に、三浦しをん『墨のゆらめき』(新潮社)を読みました。本書はAmazon Audibleでも提供されています。著者は、直木賞作家であり、私の大好きな作家の1人です。本書の登場人物は主要に2人であり、2人とも30代半ばの独身男性で、主人公の続は真面目で実直なホテルマン、規模は小さいながらアットホームな三日月ホテルに勤務しています。もうひとりは役者のようなイケメンで、自由奔放な芸術家の書道家の遠田です。書道教室を開いています。舞台は東京です。主人公の続がホテルのバンケットの招待状などの筆耕を依頼するために、下高井戸にある遠田の家を夏の暑い盛りに訪れるところから物語が始まります。遠田の家は、2階が生活空間で、1階は書道教室にもなっていて、小5男子の三木から手紙の代筆を頼まれ、続が文案を練って遠田が書き起こします。そうこうしてい、続の方はビジネスライクに筆耕のお仕事などを進めようとするのですが、遠田の方は手紙の代筆などで筆耕のお仕事を超えた個人的な付き合いを深める意図があるのか、続が遠田の書道教室を去るたびに「また来いや」と声をかけます。続も遠田のこういった姿勢に引かれてお付合いの度合いが深まるわけです。しかし、ラストには遠田の筆耕のお仕事について三日月ホテルから登録を解除せねばならない、という事態に立ち至ります。遠田が暴力団の解散式の招待状や席札などの筆耕を引き受けたため、反社との交際者はホテルの仕事ができないわけです。どうして、遠田が反社の仕事を引き受けたかは、読んでいただくしかありませんが、この作者は直木賞受賞作品の『まほろ駅前多田便利軒』でも星という若い反社、ないし、半グレを登場させています。この作者らしい明るくコミカルなテンポで物語が進みながら、ある意味で、ラストはとても悲しいストーリーです。しかし、いいお話です。多くの方にオススメできます。ちなみに、私は東京にいたころは書道を習っていました。段位には届きませんでしたが、ジャカルタに海外赴任するまで、それなりに熱心に杉並の大宮八幡近くのお教室に通っていました。私の師匠は、もうとっくに亡くなっていますが、警察官ご出身で「xx捜査本部」とかの木製の看板に揮毫していたりしたそうです。警察官を退官してから、パートタイムで都立高校の書道の教員をしていて、筆耕の典型である卒業証書の宛名を書いていた経験をお聞きしたことがあります。400-500人ほどの卒業生の名前を筆耕するわけですが、60歳を過ぎてなお初めて書く漢字が必ず年に1文字や2文字はあった、ということです。いうまでもなく、筆耕は誰にでも読めなければなりませんから楷書で書く必要があり、その上に、字の美しさが問われます。本書で出てくる範囲では、私は欧陽詢の「九成宮醴泉銘」をお手本に、毎週土曜日の午後にお稽古に励んでいました。なお、私の姉弟子、という言葉があるのかどうかは知りませんが、師匠に先に弟子入りしていた女性が amebloで「筆耕房」というブログを開設しています。筆耕にご興味ある向きはご参考まで。

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次に、牧野百恵『ジェンダー格差』(中公新書)を読みました。著者は、アジア経済研究所の研究者です。本書では、マイクロな労働経済学分野におけるジェンダー格差の学術論文をサーベイしています。当然のように、今年2023年のノーベル経済学賞を受賞したゴールディン教授の研究成果も含まれています。私はマイクロな労働経済学、しかも、ジェンダー格差についてはまったく専門外ですが、一応、マクロの賃金決定について定番のミンサー型の賃金関数で分析した研究成果「ミンサー型賃金関数の推計とBlinder-Oaxaca分解による賃金格差の分析」というタイトルの学術論文は書いていますし、その中で男女間の格差を含めて、いくつかの賃金格差を分析しています。ただ、本書でサーベイしているような精緻なミクロ経済学の実証分析は専門外です。ということで、本書では、例えば、これもノーベル経済学賞を受賞したバーナジー教授とデュフロー教授で有名になったランダム化比較試験(RCT)、自然実験、あるいは、差の差分析(DID)などの手法により分析されたジェンダー格差の研究結果を取りまとめています。本書で指摘しているように、マイクロな実証分析においては、一般的な世間の常識とは大きく異なる結果が出たりすることがあります。マクロ経済学では、そういった突飛な結果は少ない、というかほとんどないのですが、マイクロな実証研究ではいくつか見られます。でも、本書ではそういった意外性ある研究成果はほとんどなく、安定感ある実証結果を取りそろえています。ひとつ注目していいのは、専門外ながら、私でも知っていたことですが、ゴールディン教授の『なぜ男女の賃金に格差があるのか』が経済社会のジェンダー規範を前提に議論を進めていた点を物足りなく感じていたところ、本書では、アレシーナ教授らの鋤仮説をジェンダー規範の起源として提示しています。すなわち、定住しての農耕生活に人類が入った段階で、土地が硬くて鍬では耕せない地域では鋤(plow)を使うわけですが、鋤で深く耕すためには力がいるために男性優位社会になった、という仮説です。ただし、この仮説については、私は疑わしいと考えています。どうしてかというと、この仮説が正しいのであれば、土地の硬い地域ほど男性優位な経済社会の規範が生まれているハズなのですが、おそらく欧州の中でももっとも土地の硬い北欧でジェンダー格差が小さいからです。また、私はマイクロな実証分析は、経済学でいうところの一般均衡的、というか、長期的な結果については不得手である、と感じていたのですが、不勉強にして、そうでもないという点は勉強になりました。例えば、ごく単純に、賃金上昇に伴う女性の労働参加の増加は、むしろ、家庭における家事労働を主婦から女児に移行させ、長期的には女性に対するジェンダー格差是正にはつながらない、などという例です。こういった長期的な効果のほか、もちろん、女性の労働参加が進むとどうなるのか、ステレオタイプな思い込みがジェンダー格差に及ぼす影響、学歴と結婚や出産の関係、避妊薬の普及や妊娠中絶の合法化による女性の性や結婚などに対する決定権の強化が何をもたらすのか、などの分析結果がサーベイされています。最後の方で、日本は産休や育休などの制度は立派に整備されているが、利用が低調でジェンダー格差が大きい、といった議論がなされています。

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次に、竹信三恵子『女性不況サバイバル』(岩波新書)を読みました。著者は、和光大学の名誉教授ですが、朝日新聞記者を経験したジャーナリストと考えた方がいいかもしれません。本書では、女性不況、すなわち、世界的にもshe-cessionと呼ばれた2020年からのコロナ禍の不況を鋭い取材により浮き彫りにしています。そして、コロナ禍の女性の苦境をもたらした要因について、「6つの仕掛け」として、夫セーフティネット、ケアの軽視、自由な働き方、労働移動、世帯主義、強制帰国を第1章から第6章まで、綿密な取材に基づいて詳細な議論を展開しています。この6つの仕掛けはともかく、世界的にもコロナ禍がもたらした経済不況が女性に重くのしかかったということは疑いなく、政府も「男女共同参画白書」令和3年版の冒頭の特集などで認めています。そして、特に日本の場合、世界経済フォーラムで明らかにしているジェンダーギャップ指数で低位に沈んでいることに典型的に現れているように、男女格差が依然として大きいことから、おそらく、先進各国の中でも日本の女性が特に大きなダメージを被ったことに関しては疑いありません。本書でも指摘しているように、日本のジェンダー格差については、高度成長期から女性労働を補助的なものとしてしか見ず、学生アルバイトや高齢者の定年後雇用とともに低賃金で酷使してきました。ですから、主婦パート、学生アルバイト、高齢者の定年後雇用、の3つの雇用形態は景気循環における雇用の調整弁と見なされ、低賃金かつ不安定な雇用を形成し、さらに、1990年代からはこれに派遣労働が加わって、これらの非正規雇用が日本経済停滞の最大の要因のひとつと私は考えています。ただ、本書の優れている点として、単に女性の悲惨な現況という取材結果を並べるだけではなく、第7章などで新しい女性労働運動の可能性が上げられます。加えて、女性労働だけではなく、性搾取に反対するcolaboなどの運動との連帯の可能性も示唆されているのも重要な視点です。コロナ禍の中で家庭に閉じ込められかねず、また、著者の主張する「仕掛け」によって声を上げることがなかなかできずにいる女性たちへの連帯が明らかにされ、実際に行動に立ち上がる必要性も強調されています。ともすれば、選挙では過半数を制する必要があるように見えますが、3.5%ルールで有名なチェノウェス教授の『市民的抵抗』にあるように、決してそれほど多数の動員ができなくても、自覚的な3.5%の人々がいれば非暴力で達成できることは少なくありません。大いに期待し、応援すべき方向だと私は考えています。さいごに、本書のサワリの部分はプレジデント・オンラインの『女性不況サバイバル』でも読むことができます。何ら、ご参考まで。

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次に、夕木春央『絞首商會』(講談社文庫)を読みました。著者は、ミステリ作家なのですが、この作品でメフィスト賞を受賞して作家デビューを果たしています。舞台は大正期の東京です。血液学の研究者であり、東京帝国大学の教授であった村山鼓堂博士が自宅の庭先で刺殺されます。ただ、その前に、同居していた、というか、そもそも、この住宅を建てた文化人類学の学者である村山梶太郎博士が死んでいます。コチラは自然死であり、殺人ではありません。この両博士は遠縁に当たります。亡き村山梶太郎博士は、どうやら、無政府主義者の秘密結社である絞首商会のメンバーであったらしいのですが、逆に、被害者の村山鼓堂博士はこの秘密結社を警察に告発する準備をしていたということが判明します。そして、村山鼓堂博士の殺人に関して、容疑者は4人います。被害者の村山鼓堂博士の遠縁にあたり村山邸に同居していた水上淑子、近所に住んでいて亡き村山梶太郎博士と懇意にしていた白城宗矩と生島泰治、そして、これも近所に住んでいて被害者の村山鼓堂博士と懇意にしていた、というか、村山鼓堂博士の妹と結婚している宇津木英夫、となります。しかし、これら容疑者の態度が殺人事件に巻き込まれているにしては、とっても不自然なものでした。すなわち、殺人事件の容疑者としては信じられないくらい、事件の解決に熱心な態度で、その上、自らが犯人であると匂わせるような怪しい振る舞いを示す者までいたりします。そのため、というか、何というか、容疑者の1人ながら被害者の親戚に連なる水上淑子が、探偵として事件を解決するべく、蓮野に依頼をします。蓮野が探偵役で、画家の井口が主人公として主としてワトスン役を務める、ということになりますが、実は、蓮野は秘密結社メンバーと想定されている村山梶太郎博士がご存命のころに、この村山邸に泥棒をするために侵入したりしています。蓮野が事件解明に向けて活動を開始しますが、村山鼓堂博士の死体を発見した村山邸の書生が殺されたりします。あらすじの紹介は、ミステリですのでネタバレなしで概要だけで終わります。2点だけ指摘しておきたいのは、『リボルバー・リリー』と同じでタイトルと本文中の表記が異なります。本文中は「商会」なのですが、タイトルだけが「商會」としています。まあ、表紙に明らかに見えるタイトルはキャッチーなものの方がいい、という判断なのだろうと思います。もうひとつは、私の読み方が浅いのかもしれませんが、探偵役の蓮野のキャラが、単なる厭世家というだけで、イマイチ明確ではありません。ワトソンの井口に対するホームズの役回りなのですから、もう少し気の利いたキャラに仕上げて欲しかった気がします。でも、デビュー作ですから、ということで終わっておきます。

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次に、夕木春央『サーカスから来た執達吏』(講談社文庫)を読みました。著者は、ミステリ作家であり、前作の『絞首商會』でメフィスト賞を受賞して作家デビューを果たしています。最近では、『方舟』なんかの話題作もモノにしています。この作品では、前作でキャラがイマイチ不明確と私が評価した蓮野ではなく、タイトル通りにサーカスにいたユリ子が謎解きの探偵役を務めます。やっぱ、作者の方でキャラを作りかねているかの影響があったりするんでしょうか。それはともかく、本書は明治末期の出来事を冒頭に配した後、基本的に、大正末期、関東大震災から2年後の東京を舞台にしています。物語は冒頭明治末年の出来事を別にして、震災によって多額の借金をこさえて破産寸前の華族の樺谷子爵家に、サーカスから逃げ出したユリ子が、これまた、タイトル通りに借金の取立てに訪れるところから始まります。かつよという名の馬に乗ってユリ子は現れます。ユリ子を送り出したのは晴海商事の晴海社長です。もちろん、華族ながら樺谷子爵に借金を返済できる当てもなく、ユリ子は別の華族の絹川子爵家の財宝を探して借金返済に当てることを提案します。絹川子爵家が関東大震災で一家が死に絶えていえるのです。しかし、この宝探しに協力し、さらに、担保にするために、樺谷子爵家の令嬢である三女の鞠子を担保としてあずかるといって連れ去ります。実は、ユリ子は読み書きができないので、鞠子の助けが宝探しに必要だったりするわけです。そして、鞠子とユリ子による絹川子爵家の財宝を探すことになります。絹川子爵が残したといわれる謎解きの暗号を入手して、暗号解読に挑戦したりします。別に、絹川子爵家の財宝を探している華族の長谷部子爵家や簑島伯爵家との確執・対立があり、鞠子が簑島伯爵家の別荘に監禁されたり、ユリ子と鞠子が人気女優の家にかくまってもらったり、といった事件がサスペンスフルに起こります。最後は、大時代的に名探偵役のユリ子が関係者を一同に集めて謎解きを披露して終わります。ミステリですので、あらすじはこのあたりまでで、私の感想は、『絞首商會』の探偵役である蓮野より、この作品のユリ子の方が大いにキャラが明確に立っているのはいいと思います。ただ、ミステリの醍醐味としては、謎解きそのものに加えて、その謎解きに至った経緯があり、私の読み方が浅かったのかもしれませんが、ユリ子が謎解きに至った経緯が私には十分に理解できませんでした。ホームズの有名な消去法があり、「すべての不可能を消去して、最後に残ったものが如何に奇妙な事実であっても、それが真実となる」といった趣旨だったと思いますが、こういった真実に至る道筋が不明確です。ひょっとしたら、作者もその点を理解している可能性があり、樺谷子爵家にユリ子を送り出した晴海社長が無条件でユリ子を信頼していたり、あるいは、人気女優と昵懇の仲だったりして、ユリ子の「有能さ」を無理やりに演出しているような気がします。

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2023年10月14日 (土)

今週の読書は経済史の学術書2冊をはじめとして計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、マーク・コヤマ & ジャレド・ルービン『「経済成長」の起源』(草思社)では、先進国だけとしても、世界の多くの国が豊かになった歴史をひも解き、まだ豊かになっていない国の分析を展開しています。玉木俊明『戦争と財政の世界史』(東洋経済)は、戦費を調達しては平和を取り戻して公的債務を返済するという財政と戦争の繰り返しの歴史を議論しています。笹尾俊明『循環経済入門』(岩波新書)は、単なる廃棄物処理ではなく、循環型経済への転換について経済学的な分析を加えています。村上靖彦『客観性の落とし穴』(ちくまプリマー新書)では、客観的あるいは数値的なエビデンスを求める姿勢が困窮者への支援の抑止につながりかねないリスクを考察しています。小川和也『人類滅亡2つのシナリオ』(朝日新書)は、AIと遺伝子編集というホモサピエンス滅亡につながるリスクを論じています。潮谷験『スイッチ』(講談社文庫)では、「純粋の悪」が存在するかどうかを検証しようとするマリスマ心理コンサルタントの実証実験を取り上げたミステリあるいはホラー小説です。
ということで、今年の新刊書読書は交通事故前の1~3月に44冊、その後、6~9月に104冊を読み、10月に入って先週の7冊と今週ポストする6冊を合わせて161冊となります。今年残り10週間で、ひょっとしたら、例年と同じ年間200冊の新刊書読書ができるかもしれません。

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まず、マーク・コヤマ & ジャレド・ルービン『「経済成長」の起源』(草思社)を読みました。著者たちは、いずれも米国にあるジョージ・メイソン大学とチャップマン大学の研究者です。専門は経済史や経済発展史です。本書は世界経済がテイクオフを経て、どのように豊かになったのか、また、現在でも豊かな国や地域とそうでない国や地域があるのはどうしてか、さらに、持続的な経済成長を達成した諸条件について、かなり制度学派的な発想から解き明かそうと試みています。もちろん、制度学派に偏っているわけではなく、かなり幅広い経済史を概観しています。その意味では、産業革命前後の経済史をサーベイしているわけです。私は専門外なもので、現時点まで西洋、というか、欧米が経済的な覇権を握っていたのは、イングランドで産業革命が始まり、それが欧米諸国で広まったからであって、どうしてイングランドで産業革命が始まったのかについての決定的な議論はまだ確定していない、と考えていましたが、本書を読んで新たな視点を得られた気がします。すなわち、従来は、欧米と中国やインド、という視点だったのですが、14世紀くらいから欧州の中での覇権の動きに本書は注目しています。まあ、何と申しましょうかで、経済史のご専門の研究者では当然のことだったのかもしれませんが、私は中国やインドで産業革命が始まらず、どうして欧州で始まったのか、について考えるあまり、イングランドの前に欧州で覇権を握っていたポルトガル、スペイン、オランダ、特にオランダで製造業の産業革命が起こらず、イングランドで始まった、という点はそれほど重視していませんでした。でも、本書でそういった視座も手に入れた気がします。ただ、相変わらず、産業革命については極めて複雑な要因が絡み合ってイングランドで始まった、というだけで、制度学派的に所有権が明確であるがためにエンクロージャーがイングランドで実行された、という以上の根拠は見い出せませんでした。少なくとも、ウェーバー的な「プロテスタンティズムの倫理」が資本主義における欧州の興隆を支えたわけではなく、識字率に代表される教育とかの成果である、という点は確立された議論のようです。そして、本書の特徴のひとつは、単に経済史をさかのぼって眺めるだけではなく、現在まで欧米の経済水準にキャッチアップしていない国や地域について、かつての制度や文化だけではなく、人口増加の抑制が効かなかったのか、植民地時代の収奪に起因するのか、といった視点で現代経済を捉え直そうとしている点であり、これは評価できます。少なくとも、現在の先進国から途上国への国際協力や援助が、それほど経済発展を有効にサポートしていないように見えるだけに、いろんな複雑な要素要因を考える必要があるのだと実感します。とてもボリューム豊かな本で、400ページを大きく超えますが、とても読みやすくて読了するのにそれほど時間はかかりません。邦訳もいいのだろうと思います。

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次に、玉木俊明『戦争と財政の世界史』(東洋経済)を読みました。著者は、京都産業大学の研究者であり、ご専門は経済史です。本書では、序章のタイトルを「国の借金はなぜ減らないのか」として、アイケングリーンほかの『国家の債務を擁護する』を意識しているのか、と思わせつつも、中身はあくまで歴史であって財政プロパーについては重視されていない印象です。ということで、先ほどの本書の序章のタイトルの問いに対する回答は早々に示されており、その昔の欧州などでは戦争のために国が借金をして、イングランド銀行などの画期的な財政金融イノベーションによって、戦時に公債を発行して資金調達する一方で、戦争が終われば償還する、という古典派経済学が対象にした夜警国家の財政運営であったのが、現在の福祉国家では戦費ではなく社会福祉に財源をつぎ込んでいますから、on-going で続く福祉が終わってから国債を償還するという段取りにはならないわけです。そして、コヤマほかの『「経済成長」の起源』から続いて本書を読むと、現在のオランダに当たるネーデルランドが州ごとに公債を発行して戦費を調達していたのに対して、イングランドではイングランド銀行を設立して国債でもって資金調達していた点が、両国でビミョーに異なるという主張があります。ひょっとしたら、オランダで産業革命が始まらず、イングランドで始まったのと何か関係があるかもしれません。ないかもしれません。本書は終章で、ウォーラーステインのいうような近代的な世界システムがフロンティアの消滅により終焉する可能性を示唆しています。ただ、私自身の直感、そうです、あくまで直感としては、フロンティアが消滅すれば、主権の及ぶ範囲としての国境内で税を取り立てる余地が狭まるだけであって、中世的な低成長の時代にあってはフロンティアの獲得は死活問題であったでしょうが、技術革新で成長が期待できる近代社会では領土的な拡大は成長には不要だと考えています。むしろ、近代社会を支える持続的な成長に成約となるのは、その技術革新の停滞、あるいは、経済外要因、すなわち、気候変動や地球温暖化の進行、はたまた、武力衝突といった要因ではなかろうかと私は考えています。

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次に、笹尾俊明『循環経済入門』(岩波新書)を読みました。著者は、立命館大学経済学部の研究者、すなわち、私の同僚です。研究室も同じフロアで近かったりします。本書では、従来の廃棄物処理対応の延長線上で循環型経済社会を考える日本式の政策ではなく、欧州的なサーキュラー・エコノミーを展望し、持続可能な経済社会のための方向を明らかにしようと試みています。ただ、意図的なものかもしれませんが、SDGsという用語はほとんど出てきませんでした。ということで、SDGsについてはついつい2050年カーボンニュートラルに目が行くのですが、私はこの目標は、控えめにいっても、極めて達成が難しいと考えています。ハッキリいえば、ムリです。ムリとまでいわないまでも、少なくとも現時点で2050年カーボンニュートラル達成のトラックには乗っていません。まあ、2050年といえば、私がもしも生きているとしても90歳を超えていますので、たぶん、カーボンニュートラルの目標達成を見届けることができません。ですので、ついつい、SDGsやサステイナビリティに関しては別の目標を見てしまいます。毎年1本しか書かない今夏の論文のテーマは財政のサステイナビリティでした。そして、この本はサステイナビリティの中でも廃棄物ないし循環型経済社会をテーマにしています。第4章では、経済的インセンティブに焦点が当てられていて、私も常々の主張とも整合的に、意識や気持ちでは限界がある点を強調した後、ごみ処理有料化やビン・カンなどのデポジット制度が経済学的な理論を使って、実に見事に説明されています。私の不得意な分野ですので、このあたりのグラフは授業にも使わせていただこうと考えていたりします。そして、本書後半では、循環経済の重点分野として、第7章でフードロス、第8章でプラスチックの2点がクローズアップされています。どちらも注目されている論点であり、後者のプラスチックについては、2020年7月からスーパーやコンビニのレジ袋が有料化されて、大学生でも何らかの体験を持っています。今さら、「入門」とタイトルにあるの岩波新書を研究費で買うのもためらわれたのですが、専門外の私にも判りやすい良書です。とってもオススメです。

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次に、村上靖彦『客観性の落とし穴』(ちくまプリマー新書)を読みました。著者は、大阪大学の研究者であり、専門は現象学的な質的研究となっています。これだけでは私には理解不能です。本書の視点はかなり明確で、客観性とか数値的なエビデンスを求める姿勢は、かなりの程度に、困窮者に対する差別的な姿勢と共通するのではないか、という疑問を出発点にしています。私はこの視点はかなり的を得ていて客観的で明確なエビデンスを、まあ、ハッキリいえば、ムリやりに求めて、困窮者への支援の妥当性に疑問を投げかける、という方向に進む可能性があるからです。ただ、もしもそうであるならば、タイトルはミスリーディングです。客観性に対応する概念が主観性であるというのは、たぶん、気の利いた小学生なら理解しています。でも、本書の議論はそうではありません。その上に、やや若年者向けの本であることを承知しているつもりながら、かなり上から目線で「君たちは間違っている。私が教えてやる。」という雰囲気が濃厚です。もちろん、第3章のタイトル「数字が支配する世界」とか、第4章の「社会の役に立つことを強制される」とかは、経済社会的な何らかの病理のようなものであるという主張は十分理解しますが、客観性とは違うのではないかという疑問は生じます。本書の著者が主張したい社会的な病理のようなものは、客観性や明確なエビデンスを求める姿勢ではなく、何らかの原因に基づいて困窮する人たちへの共感を欠く態度、そして、その一環として、困窮する人たちへの支援の根拠を過剰に求める態度ではなかろうか、と私は想像します。タイトルや表紙の帯などで、売上を伸ばすためのやや軽度のフェイクがあるような気がしてなりません。

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次に、小川和也『人類滅亡2つのシナリオ』(朝日新書)を読みました。著者は、グランドデザイン株式会社という会社のCEOであり、人工知能を用いた社会システムデザインを業務としているようです。本書では、表紙画像に見えるように、AIと遺伝子操作を人類滅亡のリスクと考えています。まったくもって同感です。ただ、本書の著者がよく考えている点は、人類=ホモサピエンスであって、滅亡とは人類が死に絶えることだけではなく、新たな段階に生物学的に進化することも「滅亡」とされています。直感的には、ホモサピエンスによってネアンデルタール人が滅亡したとかいった場合、もちろん、ネアンデルタール人は死に絶えたのでしょうが、遺伝子的にはホモサピエンスにかなりの程度残っていますし、まあ、それをいいだせば、チンパンジーだってホモサピエンスの遺伝子と大部分は共通するわけですから、少し「滅亡」を違う意味で捉える向きもありそうな危惧は持ちます。私は新たな段階に進化するのも滅亡でいいと考えていますので、申し添えます。繰り返しになりますが、表紙には「悪用」という文字がありますが、これは正確ではありません。特に、AIについてはホモサピエンスの誰か、マッドサイエンティストのような人物が悪用する、というよりは、AI自らが、ホモサピエンスから見て「暴走」する、ということなのだろうと思います。でも、ホモサピエンスから見た「暴走」はAIから見ればまったくもって当然の合理的行動なのだろうという点は忘れるべきではありません。私は基本的に本書の議論に同意します。すなわち、ホモサピエンスはそれほど遠くない将来、たぶん、数世代のうちに滅亡する可能性が十分あります。ただ、今夏の気候などを考慮すると、本書で取り上げるリスクが現実化する前に、気候変動というか、地球温暖化で滅亡するほうが早いかもしれません。また、ロシアのウクライナ侵略を見ていると、何らかの武力衝突もありえます。ということで、覚えている人は覚えていると思いますが、その昔に英国オックスフォード大学のグループだったか、誰かだったかが、12 Risks That Threaten Human Civilization という小冊子を出しています。ネット上でどこかにpdfファイルがアップロードされていると思います。これを、最後の最後にリストアップしておくと、以下の通りです。世に出たのは2015年だったと記憶していますが、コロナのずっと前にパンデミックとかが上げられています。もちろん、AIも含まれています。何ら、ご参考まで。

  1. Extreme Climate Change
  2. Nuclear War
  3. Global Pandemic
  4. Ecological Catastrophe
  5. Global System Collapse
  6. Major Asteroid Impact
  7. Super-volcano
  8. Synthetic Biology
  9. Nanotechnology
  10. Artificial Intelligence
  11. Future Bad Global Governance

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最後に、潮谷験『スイッチ』(講談社文庫)を読みました。著者は、京都ご出身のミステリ作家であり、この作品でメフィスト賞を受賞してデビューしています。表紙画像に見えるように、副題が「悪意の実験」とされています。ということで、どう考えても、龍谷大学としか思えない大学が舞台となっていて、大学出身のカリスマ心理コンサルタントの実験にアルバイトとして加わる女子大生が主人公です。このカリスマ心理コンサルタントは、「カリスマ」だけあって資金が豊富なもので、中書島にあるパン屋に援助していますが、6人のアルバイト大学生を集めて、意味なくスイッチを押すと、そのパン屋への援助を打ち切って、パン屋の経営が成り立たなくなる、という仕組みで、スイッチを押す人がいるのか、いないのか、また、押すとすればいつ押すのか、といった観点から心理実験をするわけです。心理コンサルタントはこれを「純粋な悪」と呼んでいたように思います。アルバイトは大学生6人で、期間1か月で、アルバイトには毎日1万円が支払われ、実験終了後に毎日の1万円に加えて100万円が支払われます。誰かがスイッチを押したとしても、実験は中断されることなく継続され、報酬は全員に全期間分、すなわち満額130万円ほどが支払われます。そして、重要なポイントは、誰がスイッチを押したかは雇い主の心理コンサルタントにしかわからない、ということになります。少し趣向は違いますが、タイトルといい、山田悠介の『スイッチを押すとき』を思い出させます。結果は、アルバイト期間最終日にスイッチが押されます。しかし、そのスイッチは主人公が目を話したスキに誰かに押されてしまったので、実際に誰が押したのかは不明です。スイッチを以下に押すかというハウダニットを軽く済ませた上で、誰がスイッチを押したのかのフーダニット、もちろん、もっとも重要なポイントで、どうしてスイッチを押したのかのホワイダニットの2点が主要に解明されるべきポイントとなります。そして、見事に論理的にこれらの謎が解明されます。しかし、バックグラウンドに新興宗教、カルトではなさそうなのですが、とにかく、新興宗教があって、やや不気味さを漂わせます。新興宗教は私の苦手な展開です。ややホラーがかっているものの、謎解きミステリとしては一級品だと思います。でも、大学生なのに僧侶、とか、飲んだくれて留年を繰り返している女性とか、作者としてはキャラを極端なまでに書き分けているつもりなのでしょうが、どうもすんなりと頭に入りません。まあ、私の頭が悪いだけかもしれません。その上、カリスマ心理コンサルタントの会話がかなり軽いです。ですから、アルバイトの大学生と変わりない「水平的」な会話が交わされてしまいます。もう少しメリハリをつけるのも一案か、という気がします。でも、繰り返しになりますが、謎解きミステリとしては一級品だと思います。世間で話題になっていることもありますから、読んでおいてソンはないと思います。

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2023年10月 7日 (土)

今週の読書は幅広く経済をとらえる本から時代小説やエッセイまで計7冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、ヘイミシュ・マクレイ『2050年の世界』(日本経済新聞出版)は、経済などの指標を用いて2050年の世界像を明らかにしようと試みています。ジェレミー・リフキン『レジリエンスの時代』(集英社)では、効率を尊ぶ進歩の時代から、自然界と共存するレジリエンスの時代への変化を説きます。石井暁『自衛隊の闇組織』(講談社現代新書)では、謎の自衛隊のスパイ組織に迫るジャーナリストの取材結果が明らかにされています。大村大次郎『日本の絶望 ランキング集』(中公新書ラクレ)は、日本の世界におけるランキングを統計的に明らかにしてグローバルな地位低下を示しています。酒井順子『処女の道程』(新潮文庫)は、性体験のない処女が時代とともにどのように異なった扱いを受けてきたのかに何するエッセイです。青山文平『江戸染まぬ』(文春文庫)は、江戸期の侍を中心にした義理人情の時代小説の短編7話を収録しています。最後に、津村記久子『サキの忘れ物』(新潮文庫)はアルバイト先に忘れられていたサキの小説を読んで人生が変わっていく高校中退の女性を主人公にする短編ほか計9話を収録しています。また、新刊書読書ではないので、この読書感想文のブログには含めていませんが、瀬尾まいこ『戸村飯店 青春100連発』(文春文庫)も読んで、軽くFacebookでシェアしていたりします。
ということで、今年の新刊書読書は交通事故前の1~3月に44冊、その後、6~9月に104冊を読み、今週ポストする7冊を合わせて155冊となります。

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まず、ヘイミシュ・マクレイ『2050年の世界』(日本経済新聞出版)を読みました。著者は、英国『インディペンデント』紙経済コメンテーターなどを務めていますので、ジャーナリストなのだろうと思います。30年ほど前には本書でも何度か言及されている『2020年 地球規模経済の時代』を出版しています。英語の原題は The World in 2050 であり、2022年の出版です。ネタバレはしたくないのですが、アマゾンのサイトに「2050年の世界の10の展望」として明記されていますので、それを引用しておくと以下の通りです。すなわち、(1) 世界人口の約⅔が中間層と富裕層になる、(2) アメリカの先行きは明るい、(3) アングロ圏が台頭する、(4) 中国が攻撃から協調に転じる、(5) EUは中核国と周辺国に分かれる、(6) インド亜大陸の勢力が強まり、世界の未来を形成する、(7) アフリカの重要性が高まり、若い人材の宝庫となる、(8) グローバル化は<モノ>から<アイデアと資金>にシフトする、(9) テクノロジーが社会課題を解決する、(10) 人類と地球の調和が増す、ということになります。(8)なんてのは、論じるまでもなく当然ではないか、という気もします。本書でも引用していたかと思いますが、GDPで計測した経済規模だけで考えれば、ゴールドマン・サックス証券のリポート The Path to 2075にもあるように、我が日本は2022年には米中に次ぐ3番めの大きさでしたが、2050年には6位、2075年には12位までランクを落とします。それでも十分な経済大国だと私は考えていますが、本書のスコープである2050年には、私は命長らえていても90歳を超えますし、2075年ということになれば軽く100歳を超えます。ですので、私よりも15歳も年長である本書の著者のスコープに感激しつつ、なかなか責任ある見通しを語る残り寿命も、見識も私にはなかったりします。ただ、本書については、やや人口動態に重点を置き過ぎているのではないか、という気がしてなりません。中国が一度経済規模で世界のトップに躍り出ながら、そのトップは短命でインドに追い抜かれる、というのは、ほぼほぼ人口動態だけを根拠にしているように見えます。高等教育という観点で、世界トップクラスの大学がそろっている米国が量的な人口動態以外の質的な人材面で、まだまだトップクラスの影響力を持ち続ける、という点に関しては私も同意見です。本書の特徴のひとつはボリュームとなっていて、決して枚数をいとわないようで、通常であれば、欧米を中心にアジアでは中国とインドと日本くらいに焦点を当てる気がするのですが、アフリカにも目が行き届いており、私が3年間外交官として暮らして愛着あるラテン・アメリカも忘れてはいません。そういった広い視野で、まさに、世界を対象にしてボリューム豊かに議論を展開しています。ただ、人口動態に重きを置き、しかも、ほぼほぼ現状からの静学的な予想に徹している気がします。すなわち、「このまま歴史が進めばこうなる」というに尽きます。その意味で、意外性はありません。まったくありません。最後に、別の読書の影響もあって、2045年にシンギュラリティを迎えるというカーツワイル説もありますところ、ひょっとしたら、2050年には現在の人類は滅亡している可能性もゼロではありません。まあ、ゼロに近いとは思いますが…

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次に、ジェレミー・リフキン『レジリエンスの時代』(集英社)を読みました。著者は、経済社会理論家と本書で紹介されていますが、まあ、私から追加すべき情報はないと思います。英語の原題は The Age of Resilience であり、2022年の出版です。なお、本書は集英社から「シリーズ・コモン」の一環として出版されており、シリーズ2冊めとなります。1冊目は『人新世の「資本論」』で有名な斉藤幸平・松本拓也[編]『コモンの「自治」』だったりします。ということで、本書で示される著者のモットーは、地球を人類に適応させる「進歩の時代」から、人類が地球に適応し自然界と共存する「レジリエンスの時代」へ、という方向転換です。しかし、本書では「レジリエンス」という言葉を、通常の「ショックからの回復」という意味ではなく、変化への適応という意味で使っています。ですから、今までの進歩の時代は効率を重視し、ムダを省くことに重点が置かれていたのに対し、レジリエンスの時代には適応力が重視されます。20世紀的に効率を重視した経済活動は、本書でも指摘されているようにテイラー主義による工程管理などです。しかし、ムダを省き過ぎれば適応力が低下することは容易に想像されるところであり、トヨタのジャストインタイムの在庫システムなどは本書の用語でいえばレジリエンスが十分ではい、という可能性があります。そして、経済学でいえば制度学派的に所有権を重視し、エンクロージャーによる囲い込みでエネルギーをはじめとする資源を収奪すれば、当然に資本以外の労働者や自然界は疲弊し貧困化します。あるいは、マルクス主義が正しいのかもしれませんし、はたまた、マルクス主義的なイデオロギーとは無関係に事実としてそうなっているのかもしれません。本書では、こういった方向転換の4つの要素を第4部で上げています。すなわち、インフラ、バイオリージョンに基づく統治、代議制民主主義から分散型ピア政治への転換、そして、生命愛=バイオフィリア意識の高まり、となります。それぞれの詳細については本書を読んでいただくのがベストと考えますが、エコノミストとしては経済面の将来像にやや物足りなさを感じます。統治論や政治学的なパースペクティブはとても重要であり、先ほどの第4部の4要素でかなりイイセン行っている気がしますが、マクロの経済政策として何が重要なのかが浮かび上がってきません。生命愛=バイオフィリア意識の高まりという要素については、いつも私が繰り返し主張しているように、「意識」でもって経済を動かすにはムリがあります。もっとも、私の認識や読み方が浅いだけなのかもしれませんが…

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次に、石井暁『自衛隊の闇組織』(講談社現代新書)を読みました。著者は、共同通信のジャーナリストです。ついつい、興味本位で「VIVANT」に影響されて読み始めてしまいました。本書は、陸上自衛隊の非公然秘密情報部隊「別班」の実体に迫ろうと試みています。このスパイ組織は、文民統制=シビリアン・コントロールのまったく埒外にあって、総理大臣や防衛大臣ですら存在を秘匿していて、例えば、p.73では共産党が政権を取ったら、「躊躇なくクーデターを起こします」と関係者が言い放っていたりします。身分を偽装した自衛官に海外でスパイ活動をさせ、ロシア、中国、韓国、東欧などにダミーの民間会社を作り、民間人として送り込ん自衛隊員がヒューミントを実行している、と本書では指摘しています。おそらく、どんな組織でも何らかの情報収集活動はしていて、エコノミストも新聞やテレビやインターネットから経済情報を得ています。ヒューミントをしているエコノミストも少なくないものと想像します。そして、エコノミストの中には、それらの情報を基に何らかのアクションを取る人もいると思います。シンクタンクでリポートを取りまとめたり、所属する企業の金融市場での行動にアドバイスして、例えば、国債や株式の売買に影響を及ぼすことはありえます。でも、本書で指摘しているスパイ組織については、情報収集だけではなく、いわゆる謀略活動をしているわけです。その昔、旧関東軍では張作霖爆殺事件や柳条湖事件を独断で実行したわけですが、そこまで大規模な軍事活動ではないとしても、文民統制の利かない場面で謀略活動をしているわけです。本書では、まず、文民統制が利いていない点を問題に上げています。すなわち、外国の中でも米国の国防情報局(DIA)のように、ヒューミントの情報収集や、あるいは、実働部隊の軍事的行動を含む謀略活動を行う場合があっても、シビリアン・コントロール下にあるわけで、自衛隊のこのスパイ組織は独断専行している点に怖さがあります。ただ、私はホントの実態を知らないので何ともいえませんが、共産党政権を倒すべくクーデターを起こすまでの実効性ある行動を取れるかどうか、というのは疑問に思わないでもありません。このスパイ組織は、どこまで影響力があるのでしょうか。首相や防衛大臣にも知らされていないわけですし、おそらく、自衛隊の大部分も知らないこういった部隊が自衛隊の大きな部分を動かせるとはとても思えない、ましてや、政権に対するクーデターを起こすだけの実力があるかどうかは疑わしい、と私は考えています。もしも、私の見方が正しいとすれば、自衛隊内での単なる自己満足である可能性すらあります。実態に謎が多いだけに、私も詳細には判りかねます。悪しからず。


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次に、大村大次郎『日本の絶望 ランキング集』(中公新書ラクレ)を読みました。著者は、国税局に10年間、主に法人税担当調査官として勤務し退職後、ビジネス関連を中心にフリーライターをしています。本書では、6章に渡って日本が世界で占めるランキング、というか、ポジションを明らかにしています。6章は、インフラ、病院と医療、経済、格差、対外債権、少子化対策や教育、となっています。従来から指摘されていて、それなりに人口に膾炙している事実も少なくないですし、国民が誤解しているためにびっくりするような新事実があるかといわれると、決してそうではありませんが、いろんなところから実際のデータを集めて実証的に統計で明らかにしている点は好感が持てますし、ある意味で、実用的でもあります。従来から広く知られている事実としては、無電柱化率が低いとか、人口あたり医師数や集中治療室の数が少ないとか、格差が大きいとか、非正規雇用比率が高い、なんてのはひょっとしたら、意識の高い高校生なら知っている可能性もあると思います。ただ、生産性が低いというのはエコノミストとしては誤解があるという気もします。最終章の少子化の進行やそのバックグラウンドとなった諸要因については、よく取りまとめられています。日本の合計特殊出生率が低い、したがって、少子高齢化や人口減少が進行している、という点については広く認識がされている一方で、教育政策が極めて低レベルにある点はそれほど意識されていないような気がします。特に、大学などの高等教育の学費がものすごく高い点は見逃されている気がします。本書ではお気づきでないようですが、高い教育費のバックグラウンドは年功賃金にあります。よく知られているように、日本の長期雇用における生産性と賃金の関係を見ると、働き始めたばかりの比較的若い時期には生産性に比べて賃金が低く抑えられている一方で、中年くらいから後の時期になると賃金が大きく引き上げられて生産性を超える水準となります。これは生活給として必要、すなっわち、教育費などのライフステージに合わせてお給料が支払われているためであり、逆に、政府が手厚い政策で教育費を抑制しなくても、企業の方がお給料を弾んでくれる、ということです。ですから、これだけ国民負担率が高い先進国であるにもかかわらず、教育費がここまで高いのはめずらしいといえます。しかし、非正規雇用で昇進カーブがフラットな労働者が増えると、こういった教育費負担が大きく感じられます。今後の大きな課題と考えるべきです。

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次に、酒井順子『処女の道程』(新潮文庫)を読みました。著者は、エッセイストです。なかなかお行儀のいいエッセイをいくつか出版していますし、性に関するエッセイも少なくありません。ということで、本書は、性に開放的だった古典古代のころから説き起こして、儒教の貞操観念が浸透した封建社会、明治維新から純潔が尊ばれた始める大正期、そして、子供を産む機械みたいに出産を国に推奨された戦時下、さらにさらにで、「やらはた」のような性的な経験不足ないし未経験が恥ずかしかったくらいの1980年代を経て、芥川賞作家の村田沙耶香の生殖と恋愛を切り離す『消滅世界』を引きつつ、性交渉しない自由を得た令和へと、古今の文献から日本の性意識をあぶり出す画期的な性に関するエッセイです。私自身は、10歳も違いませんが著者より少し年長で、1970年代に中学生・高校生から大学生でした。でしたので、著者のいう「やらはた」に近い感想を持っていたりしました。特に、高校の雰囲気に大きく影響されますが、男子単学ながら制服のない高校に私は通っていて、質実剛健・バンカラというよりはチャラついた派手めの高校でしたので、そういった性体験は周囲も含めて早かった気がしないでもありません。ですので、性体験ナシという意味での「処女」を重視するような文化とは無縁です。さらに、20代半ば後半からバブルの時代に入りましたので、チャラついた派手めの性行動が増進された気すらします。しかし、他方で、「処女」とか、男性の「童貞」も含めた「純血」を重視していた時代背景も理解できなくもありません。おそらく、本書でも指摘されているように、処女や純血の推奨は男性のサイドの勝手な要求だろうと思います。すなわち、よほどのことがない限り、生まれてきた子供の母親は同定できるのに対して、父親の方は推定されるだけであり、妻女に貞操や純潔を求めないと遺伝子の伝達が確実ではない、と男性の側が考えて権力や暴力に任せて女性に押し付けたモラルなのではないか、という気もします。もちろん、男女間のパワーバランスも大いに反映されています。ただ、完全否定するには難しい考えであることも確かで、少なくとも排除すべき思考とも思えません。まあ、要するに、時代による流行り廃りはあるとしても個人の自由の範疇であろうと思いますので、逆に、こういった行き届いたエッセイで歴史を振り返るのも有益ではなかろうか、と考える読後感です。

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次に、青山文平『江戸染まぬ』(文春文庫)を読みました。著者は、時代小説作家であり、『つまをめとらば』で直木賞を受賞しています。謎解きを含んで、少しミステリのような味付けをした時代小説作品も少なくありません。私は直木賞受賞の『つまをめとらば』とともに、ミステリっぽい『半席』を読んでいたりします。ということで、本書は江戸期を舞台とする時代小説短編を7話収録しています。収録順に、「つぎつぎ小袖」、「町になかったもの」、「剣士」、「いたずら書き」、表題作の「江戸染まぬ」、「日和山」、「台」の各短編となります。「つぎつぎ小袖」では、娘の肌を守るため疱瘡除けのつぎつぎ小袖を親類7家に依頼する母親を主人公に、いつも快く引き受けてくれる「仏様」の家からの借金の無心を断ったことなど、江戸期の下級武家の慎ましい暮らしぶり、母親の娘を思う気持ちなどが垣間見えます。「町になかったもの」では、月に6回も市が立つ六斎市を源にしている大きな町の上問屋の晋平が町年寄の願いで御番所への訴えで江戸に出他経験を基に、故郷の町になかった書肆を帰郷して開きます。「剣士」では、部屋住みの厄介叔父として年齢を重ねた主人公が、同じ境遇の幼馴染と川釣りで出会って、お家の口減らしのために立会いに及びます。「いたずら書き」では、藩主側近の1人である御小姓頭取の主人公に、藩主が内容を知る必要はないといわれた書状を評定所前箱に投函するよう命じられたものの、藩主のためにどうすればいいかを考え続けます。「江戸染まぬ」では、主人公は1年限りの武家奉公の主人公が、隠居した前藩主のお手がついて子をなした女中の宿下がりに付き添い、下女のために資金調達を志してスキャンダルを売ろうとします。「日和山」では、婿入り先が見つかったばかりの旗本家の次男が、戯作の書写で重追放となった父親や嫡男と別れて、太刀を打って中間奉公しながら、伊豆の賭場の用心棒に収まり、新しい時代の到来を見ます。「台」では、これも武家の次男が主人公となり、嫡男が惚れているのではないかと疑った下女をモノにすべく家に戻って学問に励みますが、その下女が祖父の子をなしてしまい、学問に励んだ挙げ句、優秀な成績で取立てられてしまいます。表題作の「江戸染まぬ」を基に長編『底惚れ』ができたらしく、中央公論文芸賞と柴田錬三郎賞をダブル受賞しています。ただ、私は不勉強にして『底惚れ』は未読です。本書に収録された短編は謎解きやミステリめいたところはそれほどなく、むしろ、時代小説の純文学、というところがあって、それほど明確な落ちのある短編は少なかった気がします。でも、時代小説の黄金期である江戸の徳川期を舞台に、侍を主人公に据えた短編も多く、私好みといえます。

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次に、津村記久子『サキの忘れ物』(新潮文庫)を読みました。著者は、『ポストスライムの船』で芥川賞を受賞した純文学の小説家です。不勉強な私でも『ポストスライムの船』は読んでいたりします。本書は9話の短編が収録された短編集です。収録作品は順に、表題作の「サキの忘れ物」、「王国」、「ペチュニアフォールを知る20の名所」、「喫茶店の周波数」、「Sさんの再訪」、「行列」、「河川敷のガゼル」、「真夜中をさまようゲームブック」、「隣のビル」となります。短編小説のご紹介が続いて、少し疲れてきたのですべての短編ではなく、印象的だったのをいくつか取り上げます。まず、表題作の「サキの忘れ物」では、高校を中退して病院内の喫茶店でアルバイトをする主人公が、喫茶店の常連客の女性が忘れていった「サキ」の作品を読むことにより人生が変化してゆきます。「王国」を飛ばして、「ペチュニアフォールを知る20の名所」では、旅行先を探す主人公に対して、旅行代理店のガイドが観光名所案内の形式をとりつつ、穏当を欠くペチュニアフォールの歴史を展開して、最後の落ちがお見事です。「Sさんの再訪」では、大学時代には「S」のイニシャルの友人がおおく、しかも、日記をイニシャルでつけていたために混乱する主人公のコミカルな思い出と現実が交錯します。「行列」では、美術館らしいが、実のところ何を目的にしている行列なのかが明確でない中で、主人公と同じ行列に並ぶ人びとのあいだに起こる不協和音のような出来事を綴っています。とってもシュールです。「河川敷のガゼル」では、小さな町の河川敷に迷い込んだガゼルを見守る警備員のアルバイトをしている休学中の大学生を主人公が、ガゼルや自然保護のために何が必要かを考えます。「隣のビル」では、トイレ休憩の長さにまで文句をいいだす常務のパワハラに悩まされている主人公が、ある日、隣のビルは実は手を伸ばせば届きそうに近いという事実に気づいて、パアハラ常務のいる職場の日常から一歩踏み出すことを考えます。たぶん、真っ当な読者であれば、冒頭に収録されている表題作の「サキの忘れ物」とか、最後の「隣のビル」が一番印象的なのでしょうが、私のようなひねくれた読者は、「ペチュニアフォールを知る20の名所」や「行列」といった不自然極まりない不穏当な作品も大好きだったりします。

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2023年9月30日 (土)

今週の読書は経済学の学術書をはじめ計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、山本勲・石井加代子・樋口美雄[編]『コロナ禍と家計のレジリエンス格差』(慶應義塾大学出版会)は、コロナ禍における家計のダメージの大きさとそのダメージからの回復が家計の属性と同関係しているかを分析しています。証券税制研究会『日本の家計の資産形成』(中央経済社)は、家計における公的年金以外の収入を得るための資産形成を分析しています。アンソニー・ホロヴィッツ『ホロヴィッツ ホラー』(講談社)は、ジュブナイルの向けに10代の少年少女が主人公となって怖い体験をするというホラー短編9話を収録しています。養老孟司『老い方、死に方』(PHP新書)は、450万部に達した『バカの壁』の作者の解剖学者が4人の識者と対談し、アンチアイジングや認知症介護など、老いと死を考えます。ナンシー・フレイザー『資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか』(ちくま新書)は、マルクス主義の観点から資本主義を搾取だけでなく収奪の過程として分析します。北上次郎・日下三蔵・杉江松恋[編]『日本ハードボイルド全集 2』(創元推理文庫)は、「野獣死すべし」をはじめとする大藪春彦の比較的初期の作品を収録しています。
ということで、今年の新刊書読書は交通事故前の1~3月に44冊、その後、6~8月に76冊の後、今週ポストする6冊を入れて9月には34冊を読み、6~9月の新刊書読書は110冊、今年の新刊書の読書は合わせて154冊となります。交通事故による入院がありましたが、ひょっとしたら、今年も年間200冊に達するかもしれません。

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まず、山本勲・石井加代子・樋口美雄[編]『コロナ禍と家計のレジリエンス格差』(慶應義塾大学出版会)です。編者たちは、慶應義塾大学の研究者です。出版社からしてもほぼほぼ学術書と考えるべきですが、それほど小難しい計量経済分析を展開しているわけではありませんので、一般のビジネス・パーソンでもそれほど読みこなすのに苦労するとは思えません。ということで、コロナ禍を経験した後、その後の回復過程においてレジリエンスが注目されています。本書ではレジリエンスについて「何らかのショックや困難・脅威が生じた際に、素早く元の状態に回復できる力」と定義し、日本家系のコロナ禍からのレジリエンスを検証しています。本書は3部構成であり、第Ⅰ部 パンデミックで露呈したレジリエンスの重要性、第Ⅱ部 パンデミックに強い働き方・暮らし方、第Ⅲ部』家計のレジリエンス強化に向けて、となっています。データは、日本家計パネル調査(JHPS)とコロナのパンデミックに応じて実施された特別調査(JHPS-COVID)を用いています。いくつか特徴的なファクト・ファインディングがあります。まず、前提として、レジリエンスを考える前に、コロナのパンデミックに際して家計のダメージがあります。当然ながら、ダメージも、そのダメージからの回復過程におけるレジリエンスも、家計ごとに異なっていて一様であるはずもありません。加えて、容易に想像されるように、ダメージが大きかった家計のレジリエンスがはかばかしくないのは実感にも合致しています。これまた、容易に想像されるように、家計の属性的には、母子家庭をはじめとする女性が主たる稼得者となっているケース、低所得家計、非正規雇用や自営業、そして、産業別に考えると飲食や宿泊といった対面サービス、エッセンシャル業務の業種、などがダメージ大きくレジリエンスも弱かった可能性があります。例えば、在宅勤務はパンデミック下でも就業を継続できるという意味でレジリエンスの高い働き方といえますが、男性、正規雇用、対面を要しない産業、で採用され、レジリエンス格差が露呈したといえます。また、所得階層や正規雇用といった経済社会的な条件以外にも、勤勉性や粘り強さ、ポジティブ思考などがレジリエンスの高い要因として上げられています。加えて、低所得階層や自営業などではコロナのパンデミックに伴って、将来的な不確実性が大きくなり、所得減少以上に大きなショックとなっている分析結果が示されています。そして、政策インプリケーションとしては、医療制度をはじめとする社会保障の拡充や効率化、特定給付金をはじめとする各種の支援制度の迅速化・適正化、などなどがコロナ禍における家計のリスクや心理的な不安を縮小する上で重要な役割を果たした点が明らかにされています。また、こういった格差については、特に、ウェルビーイングに関してはパンデミック前のいわば平時のウェルビーイングはパンデミック後とかなりの相関があり、パンデミックの有無にかかわらず平常時からのウェルビーイングが重要であるという観点も示されています。1点だけ、私から指摘しておくと、ドイツとの比較分析はありましたが、データの制約が強いのは理解するものの、諸外国との比較は絶対に必要です。我が国のコロナ禍のひとつの特徴は、そもそも感染者数も感染による死者数も、諸外国と比較して決して多くなかったにもかかわらず、ショックはそれほど小さくなかった、という事実です。今後の研究に期待します。

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次に、証券税制研究会『日本の家計の資産形成』(中央経済社)です。著者は、証券経済研究所におかれた研究会組織ですし、それなりに、証券業界の提灯持ちのような分析ではありますが、例の金融庁のリポート「高齢社会における資産形成・管理」、そうです、老後資金に2000万円必要と指摘したリポートとともに、老後資産運営の観点も含んでいますので、簡単に見ておきました。まあ、提灯論文満載でNISAやiDeCoの推奨、さらに、貯蓄から投資への動きを進めようとする分析が主となっているのは当然です。その昔に、消費者金融の分析で、東京にある有名私大の先生方がライフサイクル仮説の一つの条件である流動性制約の解消に消費者金融が大きな役割を果たす、といった論文集を出版していましたが、そういった業界のポジションを反映する分析と考えつつ、眉に唾つけて読んだ方がいいと思います。なお、本書は4部構成であり、第1部 私的年金の役割、第2部 家計の資産形成と税、第3部 老後の資産形成のモデル分析、第4部 証券市場・個人投資家のデータ分析、となっています。本書のポジションを明確に表しているのは、基本的な認識であって、「公的年金だけでは老後資金が不足する」というものです。「老後資金2000万円」のリポートと同じ論旨なわけです。そういう基本認識なのであれば、私のような左派リベラルなエコノミストは「もっと年金をくれ」ということになるのですが、ネオリベな見方をすれば、あくまで自己責任で稼ぐ必要あるということになり、もっと働くか、資産運用する、という方向が示され、本書はそのうちの後者の資産運用を分析しているわけです。大きな特徴は、繰り返しになりますが、公的年金では不足するといいつつ、バックグラウンドでは成長が考えられているようで、労働市場参加を促して自ら生産に参加するか、あるいは、貯蓄を進めて成長資金を供給するか、という選択を迫っているように私には見えます。岸田内閣のひとつの看板政策である「資産所得倍増」の観点が盛り込まれていて、資産の少ない所得階層は資産運用が出来ないので、労働市場にとどまって働くべし、ということのようです。ですので、資産運用のひとつの形態で、最初は私的年金の分析から始まります。米国やカナダの退職者勘定(IRA)、特に確定拠出年金などが分析対象となります。そして、第2部以降ではさまざまな老後の資産運用が論じられています。基本的に、研究会を構成するメンバーが論文執筆を担当していますので、精粗区々の論文で成り立っています。第7章なんかは参考文献リストもなく、学術論文の体裁を外れているような気もします。これも繰り返しになりますが、消費者金融会社からそれなりの額の研究助成金をせしめて、ゼミの学生までも海外研修旅行に連れ回していた先生方の卒業生は、今はどうしているのでしょうか?

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次に、アンソニー・ホロヴィッツ『ホロヴィッツ ホラー』(講談社)です。著者は、英国のミステリ作家です。私もいくつか作品を読んでいます。本書は9話の短編から編まれており、この作者が得意とするジュブナイル作品となっています。すなわち、主人公はほぼほぼティーンエイジャーです。私の直感では、日本人でも小学生高学年生から中学生くらいが対象のような気がします。でも、年長者でも、B級ホラーや都市伝説的なホラーが好きな読者には気楽に楽しめると思います。収録作品タイトルは収録順に、「恐怖のバスタブ」、「殺人カメラ」、「スイスイスピーディ」、「深夜バス」、「ハリエットの恐ろしい夢」、「田舎のゲイリー」、「コンピューターゲームの仕事」、「黄色い顔の男」、「猿の耳」となります。「恐怖のバスタブ」では、アンティーク家具の趣味ある親が買ってきたバスタブが、実は、かつての殺人鬼のもので、主人公の少女がバスタブに尋常ならざるものを見ます。「殺人カメラ」では、主人公の少年が蚤の市で父親の誕生日プレゼントにアンティークなカメラを買いますが、このカメラで写真を撮るとその被写体に何かが起こります。「スイスイスピーディ」では、競馬の勝ち馬を予言するパソコンを主人公の少年が入手しますが、不良の年長者にカツアゲされて奪われてしまいます。「深夜バス」では、ハロウィンのパーティーから帰りが遅くなった主人公の少年が弟ともに乗り込んだ深夜バスの物語です。「ハリエットの恐ろしい夢」では、わがままな主人公の少女が父親の事業の失敗により従来の生活を送れないことから、ヨソにもらわれていって恐怖の体験をします。「田舎のゲイリー」では、母方のおばあさんの住む田舎に来た主人公の少年が帰れなくなってしまいます。本作だけは、私の理解がはかどりませんでした。「コンピューターゲームの仕事」では、日本でいうニートの少年が主人公で、コンピューター・ゲームの会社に雇われて仕事を始めるのですが、日常生活に異変が起こります。「黄色い顔の男」では、主人公がティーンのころを振り返って、駅に設置してあるセルフサービスの写真撮影をしたところ、4枚出来上がったうち見覚えのない写真が混じっていたのですが、その後、鉄道事故に遭遇して見覚えのない写真の正体を理解します。最後の「猿の耳」では、3つの願いを叶える猿の手ならぬ猿の耳は4つの願いを叶えるのですが、ビミョーに聞き間違えをして大変な事態を招きます。繰り返しになりますが、これは児童書です。でも、私はそれなりに楽しめました。

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次に、養老孟司『老い方、死に方』(PHP新書)です。著者は、『バカの壁』などでも有名な解剖学者です。本書は4章構成となっており、すべてが対談の結果を取りまとめた内容です。第1章は「自己を広げる練習」、と題して曹洞宗僧侶の南直哉師と、第2章は「ヒトはなぜ老いるのか」、と題して遺伝子学者の小林武彦教授と、第3章は「高齢化社会の生き方は地方に学べ」、と題して日本総研エコノミストの藻谷浩介氏と、そして、第4章は「介護社会を明るく生きる」、と題してエッセイストの阿川佐和子氏と、それぞれ対談しています。私自身はエコノミストですので、ついつい第3章に注目してしまいましたが、もうそろそろ都会と地方の二分法には限界が来ている気にさせられました。対談相手の主張に従って、地方は「里山資本主義」で、ネオリベでお金中心な都会と違う価値観がある、というのは、思い込みにしか過ぎないように私は考えています。例えば、「渡世の義理」の世界のヤクザや宗教、特に、新興宗教の世界はお金そのものです。統一教会が先祖の霊を持ち出して壺を高額で買わせるのが、もっともいい例ですし、ヤクザの世界も義理や何やといいながら、結局はカネの世界であって、それ以外の価値観は大きな影響はないように私は感じます。高齢化という意味では、確かに地方の方が都会の先を走っているように見えますが、それでは、地方の現在が都会に適用できるかといえば、私は疑問なしとしません。ただ、第3章で正鵠を得ていると考えるのがp.133であり、「経済学は旧式の学問で、常に生産のほうがボトルネックだった20世紀までに発展したものですから、生産ではなく消費のほうが足りないといういまの日本の状況を説明できません。」というのはまさにその通りです。ただ、逆から見て、その生産を下回る消費というのは都会のお話であって、地方では生産が、輸送や流通も含めた供給サイドが、いまだにボトルネックになっているように見えるのは私だけでしょうか。私はもう60代なかばの高齢者に入って、老い方や死に方を考えるために本書を読みましたが、それほど参考にはなりませんでした。

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次に、ナンシー・フレイザー『資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか』(ちくま新書)です。著者は、米国 New School for Social Research の研究者であり、私よりも10歳くらい年長であったと記憶しています。専門は政治学です。経済学ではありません。英語の原題は Cannibal Capitalism であり、2022年の出版です。原書のタイトルを直訳すれば、「共喰いの資本主義」ということになります。ということで、著者が明記していますが、資本主義についてマルクス主義の観点から批判的な議論を展開しています。すなわち、マルクス主義的にいえば、労働者を搾取して資本蓄積を進めるということになっているわけですが、本書では搾取とともに収奪にも重点を置いています。古典的な植民地からの収奪や人種や性などの差別的扱いから生じる収奪だけではなく、現代ではケア労働者の収奪、さらには自然に対する収奪が環境問題を生じている、といった点が明らかにされ、そういった収奪により民主主義が危機に瀕している、という議論が展開されています。そうした中で、基本的な議論として、私のような左派ではありながらも改良主義というか、何というか、資本主義が悪いというよりは現在の新自由主義的な政策、ネオリベが悪いんじゃあないの、という議論ではなく、根本的に資本主義がダメなのである、という結論という気がします。その点は私にはマルクス主義の根本が理解できていないので、十分にレビューすることができません。悪しからず。特に、環境問題については、私は現時点では未確認ながら、成長と環境負荷がデカップリングできれば、あくまで、デカップリングできれば、という前提ですが、成長を続けて希少性が減じる社会を達成できる可能性があると考えています。私自身は、本書でいう外部経済のような市場の不完全性だけでなく、長期の資源配分などにも適していないし、伝統的な主流派経済学が想定するほど市場の機能が優れているとは考えていません。しかしながら、同時に、本書のようにネオリベな新自由主義ではなく、そもそも資本主義がダメなのである、とまでは考えていません。そういった中途半端な私のスタンスからして、マルクス主義の色濃い本書の理解はなかなかはかどりませんでしたが、ひとつの参考意見としては傾聴に値すると考えてよさそうです。

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最後に、北上次郎・日下三蔵・杉江松恋[編]『日本ハードボイルド全集 2』(創元推理文庫)です。編者3人は、文芸評論家、編集者などです。このシリーズは現時点で7巻まで発行されており、第7巻だけが1作家1編の16話からなるアンソロジーなのですが、それ以外は各巻すべて同一著者の作品を収録しています。この第2巻は大藪春彦であり、順に、第1巻は生島治郎、第3巻は河野典生、第4巻は仁木悦子、第5巻は結城昌治、第6巻は都筑道夫、となっています。各巻では、各作家の割合と初期の作品を収録している印象です。この第2巻は、繰り返しになりますが、大藪春彦の初期の作品、すなわち、デビュー作である「野獣死すべし」から始まって、長編の『無法街の死』、さらに、「狙われた女」、「国道一号線」、「廃銃」、「黒革の手帖」、「乳房に拳銃」、「白い夏」、「殺してやる」、「暗い星の下に」が収録されています。冒頭収録のデビュー作である「野獣死すべし」があるいはもっとも有名かもしれません。かなりの程度に自伝的な内容であり、ソウルで生まれた後、徴兵された父と生き別れになりながらも日本に帰国し、東京の大学に入学し英文学教授の下請けで小説の翻訳をしつつ、暴力的かつ非合法な手段で資金を得て、米国の大学院に留学する、というのがストーリーなのですが、銃器がいっぱい出てきますし、それ以外にも暴力満載で、さらに、それらがグロテスクな表現で描写されています。ほかの収録作品も、ストーリーとか、プロットとかの展開ではなく、各シーンのグロで暴力的な描写が大きな特徴となっています。21世紀の現時点から考えれば、ほとんど理由のない暴力とすら感じられるかもしれません。当時の日本の現状をよく反映していて、銃器は欧米製、自動車も米国車中心に欧米製が頻出します。また、編者の1人である杉江松恋による巻末解説はとても充実しており、加えて、馳星周によるエッセイも収録されていて、私のようにハードボイルド作家としての大藪春彦についてそれほど情報がなくても、いっぱしのファンを気取ることができそうです。

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