2017年9月16日 (土)

今週の読書もついつい読み過ぎて計7冊!

今週の読書はぶ厚な経済書をはじめとして、以下の7冊です。先週も『戦争がつくった現代の食卓』と『世界からバナナがなくなるまえに』の食べ物関係2冊を読んだんですが、なぜか、今週も歴メシと和菓子の2冊が入っています。食欲の秋なのかもしれません。

photo

まず、 エドワード P. ラジアー/マイケル・ギブス『人事と組織の経済学 実践編』(日本経済新聞出版社) です。著者は米国の労働経済学者であり、ラジアー教授なんぞはノーベル経済学賞に擬せられたりもしているような気がします。英語の原題は Personal Economics in Practice, 3rd Edition であり、2015年の出版です。そして、学術的な水準は大学院博士前期課程くらいに使えるテキストです。学部生ではやや難しいでしょう。ただし、1998年にラジアー教授は邦訳で同じ出版社から『人事と組織の経済学』を出版しており、やや英文タイトルに変更あったものの、中身は半分以上同じだという気がします。というのも、私は労働経済学とかのマイクロな分野はほとんど専門外なんですが、数年前に勤務上の都合で国際共同研究を担当し、まったく専門外ながら労働や雇用に関する研究のグループの研究取りまとめをせねばならなかったことがあり、その際に1998年出版の旧版を読みました。旧版の方がややページ数が多かった気はしますが、冒頭の採用に関するチャプターなんか、安定した生産性を示す労働者よりも、リスクある労働者を雇うべし、といった結論も旧版から同じだと思いだしてしまいました。すなわち、野球でいえばアベレージ・ヒッターではなく、ホームランか三振か、といったバッターを雇用すべきであるという結論で、安定性を重視する日本人としては不思議に思ったんですが、本書の結論のひとつとしては、リスクある労働者が結果を出せない場合、すなわち、野球でいえば三振ばかりしている場合、解雇すればいいじゃないか、という、いかにも米国流の考え方だったのを思い出してしまいました。米国的なCEOの超高給と一般労働者との給与格差については、職階による給与の差が大きいほどスキルアップのインセンティブが大きくなる、と旧版と同じ論理を展開している部分が多いんですが、IT化の進展により意思決定の中央集権化が進む可能性を指摘していたりと、当然のように版を重ねている部分もあります。第2版を見ていないので何ともいえませんが、適切にアップデートしている気もします。ただ、人事管理に関しては、合理的なホモ・エコノミカスを対象とするインセンティブの体系ですので、合理的といえば合理的なんですが、資本と異なるモビリティの問題とか、個々人による異質性の問題とか、まだまだ解明されていない点は多いと考えさせられます。加えて、現時点では実験経済学は消費の場などにおける選択の問題が中心に据えられていますが、労働経済学が分析対象とする雇用や業務遂行の際の選択を実験で明らかにできれば、さらに経済学は進歩しそうな気もします。もっとも、専門外の私が知らないだけで、すでにそういった研究は進められていそうな気もします。

photo

次に、淵田康之『キャッシュフリー経済』(日本経済新聞出版社) です。著者は野村総研のベテラン研究員であり、著者が野村総研から出している主要なリポートの一覧が野村総研のサイトに示されています。本書のテーマは、今年5月27日付けの読書感想文で取り上げたロゴフ教授の『現金の呪い』の理論的な面を背景に、日本の現状に合致するように取りまとめてあります。というのも、買い物の決済でキャッシュが占める比率は日本ではとても高く5割ほどに達します。銀行預金が大好きな点と併せて、日本人のひとつの嗜好を示しているような気がします。米国では買物のキャッシュ支払比率は2割に届かず、カード払いが半分ほどに上ります。また、1000ドル札のような超高額紙幣はないものの、日本で1万円札が市中で何の問題もなく流通するのもやや不思議です。名目値でほぼ等価の米国の100ドル札は、少なくとも私の経験では、首都ワシントンのスーパーマーケットでとても使い勝手が悪いです。もちろん、米国の100ドル札はいわゆる法貨ですから、受け取ってもらえないことはあり得ないんですが、ホンモノの100ドル札であることをチェックするのに、やたらと手間取り時間もかかります。ロゴフ教授の主張するキャッシュレス化の利点はマネー・ロンダリングなどの不正対策や金融政策の効率化だったんですが、本書では4点指摘しており、第1にそもそも紙幣やコインを製造するコストの削減、あるいは、偽札や盗難などのリスクの減少、第2に銀行ATMでの現金引き出しやスーパーの支払いの場での小銭の勘定などに費やす時間の短縮、第3にストレスない快適な買い物の実現、第4にマネー・ロンダリングや不正送金の防止などを上げています。さらに、日本の現状にかんがみて、例えば、インバウンド消費の支払いにおけるキャッシュフリー化などの利点も論じていますし、2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けた課題ともいえます。キャッシュ大国である、当然に、その逆から見て、キャッシュフリー後進国である日本の実情に即して、どのようにキャッシュフリー化を進めるかにつき、政府や日銀の政策面も批判的に紹介しつつ、現実的な対応を議論しています。

photo

次に、大島隆『アメリカは尖閣を守るか』(朝日新聞出版) です。著者は朝日新聞をホームグラウンドとするジャーナリストです。国際報道のキャリアが長く、米国駐在経験もあるようです。ということで、本書のタイトル通りの内容について、米国のサイドから公開されている公文書などを渉猟して明らかにしようと試みています。というのも、オバマ前政権も現在のトランプ政権も、尖閣諸島における我が国の施政権を認めていて、我が国の施政権の及ぶ範囲は米国の防衛義務が及ぶと明らかにしていますので、本書のタイトルに対する回答は yes でしかあり得ません。そして、その yes である根拠を時代をさかのぼって明らかにしようと試みているわけです。もちろん、その背景には米国ファーストで、同盟国に対して応分の負担を求める発言を繰り返すトランプ大統領の存在があります。さかのぼるのはサンフランシスコ平和条約と同時に署名された日米安保条約です。でも、沖縄返還時の交渉経緯も重要です。ただし、この沖縄返還までは日米のほかのもう1国の当事者である中国とは、台湾の中華民国政府を意味していたのに対し、現在では北京の中華人民共和国の共産党政権となっています。そして、忘れてはいけない点は、本書でも何度も繰り返されている通り、尖閣諸島の領有権については米国は態度を明らかにせず、関係国で話し合いをすべき、という原則であり、尖閣諸島についても領有権に対する態度があいまいです。ただ、尖閣諸島の施政権については日本が有していることを認めており、従って、日本の施政権の及ぶ範囲で日米安保条約に基づく防衛義務が発生する、という立場です。ですから、本書では明記していないものの、竹島については韓国が実効支配していることから、日本の施政権を米国が認めない可能性が大いにある点は留意しておかねばなりません。おそらく、バックグラウンドで大量のドキュメントを消化している割には、出て来た結論はありきたりな気もしますが、バックグラウンドの確認努力を評価すべきなのかもしれません。

photo

次に、遠藤雅司『歴メシ!』(柏書房) です。著者は歴史料理研究家だそうで、本書では、最古のパン、中世のシチュー、ルネサンスの健康食、ヴェルサイユ宮殿の晩餐会などなど、オリエントから欧州にあった8つの時代の歴史料理を検証し、現代人向けのレシピにまとめています。第1章 ギルガメシュの計らい では古代メソポタミアを、第2章 ソクラテスの腹ごしらえ ではいわゆる古典古代のギリシアを、第3章 カエサルの祝勝会 ではローマ帝政期を、第4章 リチャード3世の愉しみでは中世イングランドを、第5章 レオナルド・ダ・ヴィンチの厨房 では中世イタリアを、第6章 マリー・アントワネットの日常 と 第7章 ユーゴーのごちそう会 ではでは革命期のフランスを、第8章 ビスマルクの遺言 では統一期のドイツを、それぞれ取り上げています。フランス革命までは料理人といえば、我が国の「天然平価の料理人」ではないですが、王宮や貴族のお抱えで料理を作っていたものの、革命により貴族が没落し、その料理人がパリ市内でレストランを開いた、ということのようです。私は料理はまったくせず、しかも、つくるほうだけでなく食べる方でも、グルメでも何でもなく、食事とは栄養の補給くらいにしか考えていません。ですから、長崎大学経済学部の教員として単身赴任していた折にも、鍋釜はもちろん、コップや皿などの食器すら宿舎に持っておらず、朝食の際にパンをミルクで流し込むほかは、大学生協などでの外食か、そうでなければ、弁当を買い求めていました。不健康な食生活でしたので、よく体を壊していましたし、2009年にメキシコ発の豚インフルエンザが我が国でも流行した際には、しっかりとり患して長崎でも流行の最先端ではなかろうかといわれたくらいです。ですから、いろんな料理のレシピを見ても実感が湧かないこと甚だしいんですが、お料理の好きな人は実際に作ってみようかと考える向きも少なくないような気がします。次の『和菓子を愛した人たち』と同様に、フルカラーの写真が満載です。

photo

次に、虎屋文庫『和菓子を愛した人たち』(山川出版) です。虎屋のサイトで2000年から連載されてきた歴史上の人物と和菓子の内容を書籍化したものです。どうでもいいことながら、オールカラー300ページほどで税込み2000円弱というのは安いと思います。もっと、どうでもいいことながら、我が家の倅たちが幼稚園くらいのころに、絵本を買う場合、イラストだと安かったんですが、写真だととたんに高価になった記憶があります。上に見える表紙画像は川崎巨泉の饅頭食い人形なんですが、こういった写真がフルカラーで収録されています。ということで、もともとのサイトからの転載が中心ですから、タイトル通りに、原則2ページくらいの細切れながら、歴史上の著名人と和菓子の関係を明らかにしています。冒頭は紫式部から始まっています。フルカラーですから、和菓子の色彩上の利点なども手に取るように明らかで、谷崎潤一郎が引用している夏目漱石の言葉で、羊羹の色に対比して洋菓子のクリームの色は「あさはか」と表現されています。ただ、やや勘違いもあるような気もしますし、虎屋文庫がおおもとになっているので、虎屋で扱っていないタイプの和菓子が含まれていないという恨みもあります。上の表紙画像にしても、私は和菓子というよりは中国風の印象なんですが、どうでしょうか。また、本書冒頭の紫式部にしても、当時の文化を背景に考えれば、洋菓子のシュークリームがあるわけではなく、国風文化の下で中国の影響すら薄いわけですから、和菓子が好きだったというよりは、甘いもの、現在の言葉でいえばスイーツが好きだった、ということなんでしょう。鎖国下の江戸時代もチャプターひとつを占めていますが、同様だという気がします。また、唐菓子がよく取り上げられている気がして、和菓子との境界につきやや疑問が残ります。

photo

次に、本格ミステリ作家クラブ[選・編]『ベスト本格ミステリ 2017』(講談社ノベルス) です。本格ミステリ作家クラブの創設が2000年で、その翌年の2001年から編まれている短編集の2017年版です。収録作品は、天野暁月「何かが足りない方程式」、青崎有吾「早朝始発の殺風景」、西澤保彦「もう誰も使わない」、似鳥鶏「鼠でも天才でもなく」、井上真偽「言の葉の子ら」、葉真中顕「交換日記」、佐藤究「シヴィル・ライツ」、青柳碧人「琥珀の心臓を盗ったのは」、伊吹亜門「佐賀から来た男」、倉狩聡「もしかあんにゃのカブトエビ」の短編と評論が1編となっています。極めて論理的に謎が解き明かされる「早朝始発の殺風景」、また、なかなか上手に騙してくれる「交換日記」などが私の感性に合致した気がします。2段組みの小さな活字で、資料編も合わせれば500ページ近いボリュームなんですが、さすがの作家陣の短編作品ですので、私はとてもスラスラ読み進むことができました。

photo

最後に、米澤穂信ほか『短編学校』(集英社文庫) です。このブログでも読書感想文に取り上げた記憶がありますが、同じ集英社文庫から出版されている『短編少女』や『短編少年』といったシリーズの最新刊ではないかと思います。収録作品は、米澤穂信「913」、本多孝好「エースナンバー」、中村航「さよなら、ミネオ」、関口尚「カウンター・テコンダー」、井上荒野「骨」、西加奈子「ちょうどいい木切れ」、吉田修一「少年前夜」、辻村深月「サイリウム」、山本幸久「マニアの受難」、今野緒雪「ねむり姫の星」の10作品となっています。 短編集にもかかわらず、なかなか深い作品が多かったような気がします。でも、こういったアンソロジーの常として、10本もの収録作品があれば、2-3は既読である可能性があります。まあ、既読の作品数が多いということは、それだけ残念という意味ではなく、読書家の証なのかもしれません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年9月 9日 (土)

今週の読書は直木賞受賞の佐藤正午『月の満ち欠け』ほか計7冊!

今週もまたまたオーバーペースで、やや読み過ぎた気がします。話題の経済書もありますが、今週の読書の目玉は何といっても直木賞の佐藤正午『月の満ち欠け』です。私は村上春樹の好きなハルキストですが、最近の小説ではダントツだった気がします。以下の7冊です。

photo

まず、ルトガー・ブレグマン『隷属なき道』(文藝春秋) です。著者はオランダ人のジャーナリストであり、広告収入にまったく頼らない「デ・コレスポンデント」の創立メンバーの1人だそうです。2014年に出されたオランダ語の原書は自費出版に近かったらしいんですが、アマゾンの自費出版サービスで英語に訳されると、今年2017年には世界20か国での出版が決まったといいます。英語のタイトルは Utopia for Realist となっています。ということで、本書の邦訳の副題は『AIとの競争に勝つベーシックインカムと1日3時間労働』となっていますが、決してAIやロボットとの競争だけを視野にしているわけではなく、特に格差についてその解消を目指していると考えるべきです。英国の有名なスピーナムランド制をはじめとして、カナダやインドなどで実施され、社会実験レベルのものまで含めたベーシック・インカムの効果に関する文献をひも解き、ベーシック・インカムが決して勤労を阻害したり、怠惰を招いたり、といった事実は観察されず、むしろ、貧困や格差の是正に役立っている点を強調しつつ、その上で、産業革命期から1980年代まで一貫して減少を示した労働時間が上昇に転じ、しかし、そういった中でも労働生産性は上昇を続けている、という事実を説得力ある方法で示しています。また、ありきたりな国民総幸福量、ブータンの例を引きつつ、こういった幸福度指標については明確に否定しています。ケインズの週15時間労働の予言にも触れつつ、正統派の経済学に基づいた方法でベーシック・インカムの利点を展開し、同時に、本書の終盤では国境を開放して自由な個人の行き来を推奨しています。決して、グローバル化を格差の原因として排除する議論には与していません。これも、正統派の経済学に立脚した議論といえます。ラッダイト運動の歴史に言及しつつ、AIとの競争には勝てないことを明言し、その意味では「敗北主義」っぽく見えなくもないんですが、私から見ればリアリストなんだろうと思えます。マルクス・エンゲルスのような左派経済学者に加えて、ケインズなどの正統派エコノミスト、さらに、ハイエクやフリードマンなどの右派まで幅広く引用して、左右両派のどちらからも支持されているベーシック・インカムの利点を浮き彫りにしています。AIによる職の代替可能性からベーシック・インカムが議論されることが多いんですが、あくまで私の信頼厚い左派からする議論かもしれませんが、格差是正まで含めて幅広い議論に資する良書だと思います。

photo

次に、大湾秀雄『日本の人事を科学する』(日本経済新聞出版社) です。著者は東大社研教授であり、専門分野は労働経済学や人事制度などであると私は認識しています。私は景気循環や開発経済などの中でも、マクロ経済を専門分野とするエコノミストであり、労働経済学とか、人的資源管理論とかのマイクロな分野は専門外なんですが、本書でも紹介される初歩的なミンサー型の賃金関数は推計して研究成果として取りまとめたことがあります。ということで、タイトルから勝手に想像して、マイクロな人事制度、すなわち、人事評価やそれに基づく人事異動による個々の労働者・雇用者の配置、さらに、評価に基づく職階とそれに連動する賃金水準の決定に関する議論を期待していたんですが、私の期待は裏切られました。わずかに関連するテーマは第4章の人事採用、それに、中間管理職の貢献の計測に関する議論だけでした。まあ、そうなんでしょうね。今話題の女性活躍推進、働き方改革、高齢化対応などのほか、定着率の向上などの人的資源管理に関するトピックが中心で、その前提として統計的・計量的な分析手法に関する簡単な解説などがあります。本書冒頭では、人事についてはいわゆるPDCAが回っていないと断言されており、人事に集まるデータを統計的・計量的に分析することにより、人事の過大に対応しようと試みています。ただ、先月8月26日付けの読書感想文で取り上げた山口一男『働き方の男女不平等』についても同じことを書きましたが、個々人の能力や生産性、あるいは、家庭環境などもひっくるめて人事で評価し最適な人事配置を行うことは、現在のシステムでは不可能と私は考えています。だからこそ、役所ほど典型的ではないとしても、大手企業などでは入社年次で管理されて来たわけであり、別の言葉でいえば、横並びで人事管理され、特に、大卒総合職の場合はゼネラリストとして、会社や役所などの組織にメンバーシップ参加し、無限定に指定された役割をこなす、という人事制度がまかり通って来たわけです。しかし、他方で、本書の p.237 で指摘されている通り、ゾクセイ、ニーズキャリアなどが大きく多様化し、単純な相対比較が難しくなった現時点で、どのような人事評価制度の下で評価を下し、各個人の適性や能力や生産性やその他の属性に従って、職階を上らせたり、あるいは、下らせたり、また、どういった役割でどの職場に配置するか、の労働力の最適配置論を考え直すべき時期に来ている気がします。もちろん、マイクロな人的資源管理論から派生して、マクロの経済社会全体の生産性やその生産性に基づくマクロ経済の成長や、さらにさらに、で、人口問題の緩和・解消などまで視野に収めた議論は華々しくていいんですが、人的資源管理論の本来の役割である個々人の処遇のあり方をすっ飛ばして、いきなりマクロの議論をしても合成の誤謬を生じるだけのような気がします。従って、もう20年近くも前の邦訳出版ですが、ラジアー教授の『人事と組織の経済学』などと比べるとかなり見劣りします。もっとも、比較対象の相手のレベルが違い過ぎるかもしれません。ただ、人事部局に集まるデータをもっと活用した方がいい、という点については一般論としては大賛成なのですが、実際のデータ管理の運用は困難がつきまとうような気もします。すなわち、役所の人事部門などは「身内に甘い」との指摘を受けることがあったりするんですが、人事に関するデータや各種情報が人事部局には集まるわけで、それをどう使うかは考えどころです。「身内に甘い」といわれても従業員を守る姿勢を貫くのか、それとも、次は誰をリストラ対象としようか、という視点で活用するのか、人事としての情報活用の方向性も考えどころかもしれません。

photo

次に、ロバート H. フランク『成功する人は偶然を味方にする』(日本経済新聞出版社) です。著者は米国コーネル大学ジョンソンスクール経済学教授であり、長らくニューヨーク・タイムズ紙で経済コラムを執筆しています。本書の英語の原題は Success and Luck であり、2016年の出版です。私もそうですが、うまく行けば自分の努力や能力を要因として上げ、逆に失敗すれば運が悪かったとか、他人の責任にする、というとても立派な人格的な傾向がある人は少なくありません。現在および少し前の阪神の監督について私の評価が芳しくないのはそういったところで、試合後の感想で、打たれた投手について「あそこは抑えて欲しかった」とか、打てなかった打者に対して「あそこは打って欲しかった」とかいう監督は私は決して評価しません。逆に、選手起用に関する監督自身の責任をアッサリと認めると潔さなんぞを感じます。同様に、本書では成功したケースでもご本人の能力や努力だけではなく、運の要素がかなりあることを認めつつ、失敗したケースでも成功のケースとの差は紙一重であり、運の要素で失敗に終わるケースが少なくない、という点を明らかにしています。同時に、政府などの公的部門が個人の効用や企業の生産活動に対して補完的なインフラを提供している点も強調しており、例えば、スピードの出る高級車を買っても道路が凸凹ではスピードを出してのドライブができないわけで、これらの点を総合して、成功した高所得者から累進的にガッポリと税金を取るべきである、と主張しています。そして、エコノミストの目から見てとても特徴的なのは、累進消費税を提唱している点です。私は不勉強にして知りませんでしたが、第2次大戦中にフリードマン教授も戦費調達の観点からその導入を提唱していたらしく、現在の我が国の消費税のように財サービスの購入時に税抜き価格に上乗せして消費者が業者に支払って、そのために、益税が出来たりする制度ではなく、収入と支出と貯蓄のバランスから支出額を算定して、それに対して累進的に課税するというシステムのようです。いずれにせよ、成功と不成功の間の差は大きくなく、しかも、現在のような勝者総取り方式で、小さな努力の差に対して大きな格差が生じかねない経済社会では、何らかの格差是正策が求められるのは当然です。最後に、成功と不成功を分ける要因として能力や努力ではなく、本書のように運を強調し過ぎると、努力しようとする意欲を阻害する可能性がありますが、現在の日本のように努力し過ぎて過労死したりするような社会では、もっとゆったり構えるというか、私は少しくらい努力を推奨しない意見があってもいいような気もします。ダメですかね?

photo

次に、アナスタシア・マークス・デ・サルセド『戦争がつくった現代の食卓』(白揚社) です。作者は編集者であり、本書のために2年半を調査に費やしたフードライターでもあります。ご亭主がキューバ人、ということはラテン人であり、お姑さんも本書に登場し、私の大使館勤務時の南米生活に照らしても食生活は豊かではないか、という気がします。本書では、特に、ネイティック研究所なる米軍ご用達の軍人向けの糧食などの開発研究所をはじめ、米軍と通常の我々一般人の食卓の関係をひも解くんだろうと期待して借りてみたんですが、もっと食品学、化学や生物学などの食品に関する学問、日本でいえば女子大にあるような食物学科のような学術的な内容が中心となっています。少し脱線すると、我が国の明治期に軍と食料ということでいえば、彼の文豪森鴎外も軍医として横槍片手に参加した脚気論争があります。白米だけで十分なカロリーが摂取できる一方で、脚気は何らかの病原菌に起因すると主張する森鴎外などの陸軍一派に対して、海軍は麦飯や白米まで精製しない玄米などにより、実証的に脚気を回避した論争です。もちろん、米軍でもその昔には同じような事件があったのかもしれませんが、少なくとも本書では関係ありません。軍人に供する食品に関しては、シュンペーター的なイノベーションの観点からして、食材、調理、包装を含めた輸送、などなどのイノベーションが考えられ、一般人食卓に供される食品と共通する部分も少なくありません。例えば、食材については米国人大好きなステーキについては、Tボーン・ステーキのような骨付き肉ではなく、成形肉の利用が始まったり、調理は保存食として従来からの塩漬け、燻製、干物などに加えて、宇宙食にも応用されたフリーズ・ドライの製法が発達したり、包装についてはナポレオン戦争期に開発された缶詰に加えて、レトルト・パウチのような空気を通しにくい包装が開発されたり、輸送については、もちろん、冷蔵・冷凍での輸送が可能になったり、と軍民共通のイノベーションがさまざまに紹介されています。ただ、第12章のスーパーマーケットのツアーで紹介されているように、軍民で共通している食品は30~70%にも上る一方で、具体的にそれほど一般読者向けの楽しく理解できる例が多くありません。私は女子大に設置されている食物学科が理系だということを大学に入ってから知って、少なからぬショックを受けたんですが、そういった理系の人向けの本だという気もします。私は国際派の公務員ですから、売国出張はついつい首都のワシントンDCが多くなるんですが、倅たちへの土産にはスミソニアン博物館の宇宙食のアイスクリームを買う場合が多いです。軍ではありませんが、こういった新しい食品のイノベーションが一般家庭の食卓に並んだりするんでしょうから、そういった楽しい実例がもっと欲しかった気がして残念です。

photo

次に、ロブ・ダン『世界からバナナがなくなるまえに』(青土社) です。訳者あとがきのよれば、著者は米国ノースカロライナ州立大学の研究者であり、専門分野は進化生物学だそうです。英語の原題は Never out of Season であり、2017年今年の出版です。邦訳タイトル通り、プランテーション栽培されるバナナの話から始まって、ジャガイモ、キャッサバ、カカオ、というか、チョコレート、コムギ、天然ゴムなどなど、企業収益性の観点から植物や生物としての多様性を損なう形でのモノカルチャー化が進み、結果として、緑の革命などのように多くの人口のための食料生産には資することとなった一方で、病原菌やネズミなども含めた病害虫の侵食には弱くなり、極めて短期間のうちに緑の農場が茶褐色になってしまう被害をもたらす可能性が高まったリスクを指摘しています。繰り返しになりますが、緑の革命により、スーパーマーケットで消費者の食料の入手は容易になった一方で、殺虫剤や除草剤などの化合物に対する依存が強まったり、灌漑の必要が高まったりしたため、農村は収穫が増加して収益が増大した一方で、種子や農業機械や肥料などの化学品を購入する必要が高まり、同時に、支出も増加するという経済モデルに組み込まれる結果となった、と著者は指摘します。まあ、私のようなエコノミストからすれば、経済学が農学を支配するようになってめでたい、と考えられなくもありませんが、他方で、完全に人為的な世界である経済と自然との共存の思想が不可欠な農学との乖離に目をつぶらねばならない必要も生じたわけです。どちらが好ましいかは基本的な世界観、人生観、哲学によります。先の『戦争がつくった現代の食卓』にもありましたが、食品工業が生み出した加工食品にもそれなりの合理性はありますし、すべての食料生産を近代資本主義的に短期的な効率性だけを優先させて行うことは問題があるとしても、農業を自然のままにして餓死する貧困層を放置するのには忍びません。ということで、人類のそのコンポーネントのひとつであるところの多様な生態系の維持と、人類そのものの生存や種の維持と、両者が矛盾なき場合は問題ないものの、両者が両立しない場合には悩ましい問題が生じる可能性があります。そういった意味で、世界観や人生観などの哲学的な見方も含めて、考えさせられる本でした。

photo

次に、佐藤正午『月の満ち欠け』(岩波書店) です。ご存じ、第157回直木賞受賞の話題作です。タイトル通り、生まれ変わり、あるいは、輪廻転生の物語ですが、そのバックボーンは明らかに熱烈なる恋愛小説です。ということで、私はこの60歳超のキャリアの長い人気作家の作品については、『鳩の撃退法』くらいしか読んでいないんですが、おそらく、この『月の満ち欠け』クラスの小説は日本文壇ではそうそう出ないような気もします。それほどの大傑作といえます。私の場合、読書の中でも小説の比重はそれほど大きくなく、経済書をはじめとする教養書や専門書の方が大きな比率を占め、さらに、小説の中でも好みで時代小説やミステリが多いものですから、純文学やこういった現代ものの大衆小説はそれほど読みませんが、完全にノックアウトされました。論評の前に、まず、私は自然の摂理のひとつとして、輪廻転生や生まれ変わりはあり得る可能性を否定しません。すべての生き物が生まれ変わって輪廻転生する、なんてことを主張するつもりは毛頭ありませんが、この小説にあるような動機も含めて、何らかの強烈な思いがあれば、生まれ変わりになって生命をつなぐこともあり得ますし、生命をつなげなければ幽霊になることもあり得る、とその可能性を全否定することはしません。まあ、レアケースなんだろうとは思います。他方で、私自身はそれほど強烈な思いを持っているわけではないので、生まれ変わりや輪廻転生をしないとは思いますが、さらに積極的にこれらを否定するために、浄土真宗の信者となって念仏を唱えるわけです。なお、一般的な用語ながら、輪廻転生から抜け出すことを解脱と定義しているのは広く知られた通りです。宗教から小説に戻ると、この作品と似た小説に東野圭吾の出世作である『秘密』があります。広末涼子主演で映画化もされました。これも、特定の人物の記憶をはじめとする人格が親しい他の人物に転移する、というストーリーです。しかし、『秘密』の場合は転移された方がその思いを振り払って自立して行くのに対して、この『月の満ち欠け』は何と4代に渡って思いを遂げるために生まれ変わりを繰り返します。というか、初代を別にすれば、生まれ変わりとしてこの世に現れるのは3代と数えることも出来ます。そして、原則として、同じ名前を引き継ぎ、とうとう東京ステーションホテルに現れなかった三角くんを思い続け、ラストにはその思いを成就するわけです。加えて、生まれ変わりはこの流れだけではなく、もう1人いることが強く示唆されます。ハッキリいって、これが衝撃のラストです。また、人間でない生まれ変わりの可能性も示唆されています。映画化されたら、私はぜひとも見たいと思います。

photo

最後に、NHKスペシャル取材班『縮小ニッポンの衝撃』(講談社現代新書) です。昨年2016年9月25日に放送された同名のNHKスペシャルの取材結果です。タイトルからして、いかにも人口減少の問題点に着目しているように思ったんですが、どうも、原因が人口減少とは言い切れず、ハッキリしない現状の問題点もひっくるめて、地方の衰退全般を取り上げているように感じられ、やや焦点がボケているように受け止めました。日本創成会議が取りまとめて中公新書で出版された消滅可能性都市の中に東京23区で唯一登場した豊島区への取材から始まって、財政再生団体に指定された北海道の夕張市、夕張市がやや極端な例であるとして、一部の地方公共団体にて行政サービスの提供が放棄された例として、島根県雲南市、浜田市、京都府京丹後市などの取材の結果が明らかにされ、こういった行政サービスの提供停止は、決して一部の例外的な地方だけの問題ではなく、タイムスパンの長さは別にして、日本全体の問題に拡大しかねない、とのトーンで取りまとめています。注目の本であり、図書館の予約からかなり待たされましたが、どうも私には気になる点があります。繰り返しになりますが、人口減少だけでなく、あらゆる社会的な日本の問題点を、かなり恣意的な取材により極端な例を持ち出して誇張しているような気がしてなりません。京都出身で、長らく東京で公務員をしてきた私ですので、かなりバイアスのかかった見方しかできませんが、それでも、人口問題も含めて社会的に、あるいは、経済的には市場にて、政策の必要なく解決できる問題も少なくありません。おそらく、人口減少問題も政策の手当なしで反転する可能性が十分あると私は考えますが、問題は時間的な余裕です。人口減少が反転するにはとてつもなく長期を要し、その期間をもっと短縮するために有効な政策がある、という点については私も合意します。本書のタイトルの問題意識では人口を増加させれば解決できるような、誤った印象を持たされかねませんが、人口だけでなく、もっと根源的な問題があることを明らかにすべきではなかろうかという気がします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年9月 3日 (日)

先週の読書はかなりオーバーペースで経済書など計8冊!

先週の読書は、米国雇用統計が土曜日に割って入って、読書日で1日多かった一方で、ケインズものが冒頭に2冊並んでいますが、やっぱりマクロ経済学や開発経済学などの専門かつ好きな分野の読書が多かったものですから、かなりオーバーペースで8冊に達しました。以下の通りです。今週はもう少しペースダウンしたいと思っています。でも、直木賞の佐藤正午『月の満ち欠け』とか、昨日付けの日経新聞の書評欄で取り上げられていた東大社研の大湾教授の『日本の人事を科学する』なんぞが借りられたりしたもんですから、やっぱり、かなりのボリュームを読んでしまうかもしれません。

photo

次に、大瀧雅之・加藤晋[編]『ケインズとその時代を読む』(東京学出版会) です。著者はチャプターごとに大量にいたりするんですが、大雑把に、東大社研と日本政策投資銀行設備投資研究所とのコラボとなっているように受け止めています。例えば、政策投資銀行のサイトでは本書が研究成果として取り上げられていたりします。4部構成を取っており、第Ⅰ部 第一次世界大戦の帰結と全体主義勃興の危機 では、J.M.ケインズ『平和の経済的帰結』、J.M.ケインズ『条約の改正』とケインズ自身の2冊の後、E.H.カー『危機の二十年』とF.A.ハイエク『隷従への道』が取り上げられています。ハイエクの著作については、ケインズと比較対照される形で注目される場合もあるんですが、本書では西欧リベラルの同じグループの中に属し、やや左派と右派の違いだけ、といったトーンで並べられています。ただ、ケインズに着目した本ですので、ハイエクが後景に退いている印象はあります。当然です。第Ⅱ部 理論の展開 では、T.B.ヴェブレン『企業の理論』、A.C.ピグー『厚生経済学』、L.ロビンズ『経済学の本質と意義』がケインズ『一般理論』前史として、そして、J.M.ケインズ『雇用・利子および貨幣の一般理論』から始まって、R.F.カーン『ケインズ「一般理論」の形成過程』、A.P.ラーナー『調整の経済学』、J.E.ミード『理性的急進主義者の経済政策』が『一般理論』と並んで紹介されています。『一般理論』前史のピグーについては、古典派経済学から脱して、何らかの経済的厚生を高めるための政府の介入に道を開いた、と評価されています。続く第Ⅲ部 1930年代の世界と日本 では世界的なファシズムの台頭と日本に着目し、J.M.ケインズ『世界恐慌と英米における諸政策1931~39年の諸活動』、高橋亀吉・森垣淑『昭和金融恐慌史』、石橋湛山『石橋湛山評論集』が取り上げられており、どうでもいいことながら、現在のリフレ派エコノミストの先達となった昭和初期の我が国エコノミストを取り上げながら、現在のリフレ派経済学を否定して、財政赤字削減をサラッと主張しているチャプターの著者もいて、少し笑ってしまいました。最後の第Ⅳ部 ケインズの同時代人 では、J.M.ケインズ『人物評伝』、フランク・ラムジーのいくつかの論文と著書、E.H.カーのソ連史研究が取り上げられています。ご本人のケインズを別にすれば、複数のチャプターで取り上げられているのはカーだけなんですが、リアリストの立場から国際政治における権力=パワーを軍事力、経済力、合意形成力の3要素から論じており、私のようなシロートにもなかなか参考になります。また、ソ連型の経済が崩壊した現時点からでは理解が進まないものの、中央集権的な指令型の計画経済という面ではなく、男女間を含めて平等の実現、自由と民主主義の新しい形、などなど、本来のマルクス主義的な社会主義の明るい未来に憧れていた20世紀前半期の西欧の雰囲気がよく伝わります。各チャプターの最後に参考文献が数冊明示されています。唯一疑問なのは、シュンペーターがまったく取り上げられていない点です。ハイエクも含めて、いわゆるブルームズベリー・グループやケンブリッジ・サーカス以外のエコノミスト・文化人も取り上げているんですが、なぜか、シュンペーターだけは無視されている印象です。ケインズと立派な同時代人だと思うんですが、理由はよく判りません。

photo

次に、根井雅弘『ケインズを読み直す』(白水社) です。著者は私の母校である京都大学経済学部の研究者であり、入門書をはじめとして何冊かの著作があると記憶しています。私の在学中は木崎先生が教えていた経済学史の担当ではないかと思います。ご出身大学が早大ですので、若田部先生と同じコースかもしれません。ということで、タイトル通りに、ケインズの足跡をたどったケインズ経済学の入門書です。通常の理解の通りに、ケインズ卿については卓越した経済理論家であるとともに、同時に政治的なアジテータでもあり、また、国内外を問わずに国際金融などの制度論に立脚した実務にも精通していた、ということになります。ケインズ卿については最初に取り上げられるべき『平和の経済的帰結』が第1次世界大戦後のドイツ賠償問題ですから、ケンブリッジ大学卒業後のキャリアはインド省で始めたとしても、エコノミストとしての活動は割合と地味なドイツ経済の分析から賠償能力を積み上げ、それを英国内外にパンフレットとして明らかにする、という活動でした。同時に、金本位制への復帰に際しての平価の設定、さらに、その後、第2次世界大戦では英国の戦費調達のために米国を説き伏せたり、戦後は現在IMFと世銀で結実した国際金融体制の整備に努力しましたが、実際には英国のケインズ案は、ことごとく米国のホワイト案に凌駕されつつも、重要な骨格はいくつか残した、という結論ではないでしょうか。その後、実際にケインズ経済学が実践され花開いたのはケインズの死後であり、国としても1960年代のケネディ政権以降の米国なんですが、この実務的なケインズ革命について本書では終章で「『未完』に終わった」と結論しています。すなわち、1970年代に入ってのインフレ高進からケインズ経済学への不審が高まり、特に、決定的だったのは、ノーベル経済学賞も受賞したシカゴ大学のルーカス教授によるケインズ反革命であり、貨幣数量説の装いを新たにしたマネタリズムなどとともに、先進国の経済政策のシーンからケインズ経済学をかなりの程度に駆逐した、との印象かもしれません。しかし、私の印象ながら、今はもう死語となった「混合経済」、すなわち、古典派的な自由放任経済を終えて、経済政策が積極的に雇用の拡大、完全雇用を目指す体制を整え、戦後の社会福祉を重視して国民の経済厚生を政府が積極的に支援するような経済政策運営に舵を切ったのは、何といってもケインズ経済学の功績です。ケインズ卿の意図したような政策運営にはならず、右派的・古典派的な経済学の巻き返しに何度も遭遇したという意味では、確かに、ケインズ革命は未完かもしれませんが、私のような官庁エコノミストの目から見て、政府が何とか経済成長を加速し雇用を増大させるという方向で国民の経済的厚生の向上に努めるようになったのはケインズ経済学を基礎とする政策論の功績であると考えます。

photo

次に、森田朗[監修]/国立社会保障・人口問題研究所[編]『日本の人口動向とこれからの社会』(東京大学出版会) です。著者人はまさに国立社会保障・人口問題研究所の研究者で固めていて、専門家がズラリと並んでいます。出版社から判断しても、学術書と考えるべきですが、最後の方の第12章のシミュレーションなどの方法論のごく一部を除いて、人口問題ですから少子高齢化以外の何物でもなく、それなりに理解ははかどりやすいんではないかと思います。ただし、研究所の攻勢からして、社会保障や財政との関係をホンの少しだけチラリと論じているほかは、ほぼほぼ人口問題をそれ単独でユニラテラルに論じていますので、逆に判りにくい気もします。フランスのアナール派やジャレド・ダイアモンド教授のように病原菌と論じてみたり、あるいは、地理学と関連付けたりといった工夫は見られません。ひたすら過去のトレンドから投影された未来を垣間見ようと努力している様子がうかがえます。経済はかなりの程度に循環するんですが、人口動態はかなりの程度にトレンドに沿って動きます。もっとも、第Ⅱ部のライフコースの議論では、ヒトの個体たる人口だけでなく、社会的な構成要素のもっとも小さい単位である家族のあり方、さらに、人口高齢化に従って高齢者に有利な政策選択が行われがちなバイアス、などなどについても取り上げていますし、第Ⅲ部では日本に限らずシンガポールや韓国、台湾などのアジア諸国における猛烈な高齢化の進展についても解き明かそうと試みています。まあ、私の個人的な感想では、マルサス的な人口問題は人口と農地や耕地の比率が人口を養う上でやや厳しいアジアにこそ当てはまる可能性が高いんではないか、という気がしますし、従って、中国の一人っ子政策をはじめとして、シンガポールなどでも厳しい人口抑制作を採用していた歴史があるのも理解できるところです。日本もそうかもしれません。そういったアジアからの移民が欧米で黄禍論を引き起こしたりしたわけなのかもしれません。ただ、日本の場合はマクロとしての人口の総数ではなく、子供や若年者に厳しく、高齢者に甘い政策を意図的に取り続けてきましたので、中国やシンガポールなどとともに、明らかに政策的に人口の高齢化、さらに、人口減少がもたらされている点は見逃すべきではありません。せも、そういった議論を国立の研究所が展開するのも難しい、という点についても、公務員として理解していたりします。最後に、私も大学教員として出向中に書いた紀要論文「子ども手当に関するノート: 世代間格差是正の視点から」でも引用した Lutz et. al. (2006) による Low-Fertility Trap Hypothesis に関する論文が複数のチャプターで引用されていました。私は紀要論文で p.175 の Chart 1 を引用した記憶があります。

photo

次に、マイケル・ルイス『かくて行動経済学は生まれり』(文藝春秋) です。昨日付けの日経新聞の書評欄で取り上げられていました。著者はノンフィクション・ライターであり、特に売れたのは『マネー・ボール』ではないでしょうか。映画化もされましたし、私も読んでいたりします。本書の英語の原題は The Undoing Project であり、邦訳書の p.348 で「事実取り消しプロジェクト」と訳されています。2017年の出版です。ということで、その『マネー・ボール』に関する書評から行動経済学に関する関心が芽生えたようで、本書では主としてトヴェルスキー&カーネマンを中心に据えて行動経済学の歴史を、特に黎明期の歴史をひも解いています。記憶の不確かさ、あるいは、記憶の操作可能性から始まって、判断や意思決定の際の心理的アルゴリズムの解明、そして最後は有名なプロスペクト理論の発見のきっかけや平易な解説を展開しています。その前段として、トヴェルスキー教授も、カーネマン教授も、どちらもユダヤ人ですから、ナチスによるホロコーストにも触れていますし、中東戦争の記述もかなり生々しく感じられます。また、特にセンセーショナルな書き方ではなく、エコノミストであれば誰もが知っている一般的な事実ではありますが、トヴェルスキー教授の攻撃的だが水際立った知性とカーネマン教授の重厚だが慎重かつ少し進みの遅い知性を比較していて、さらに、愛煙家であり1日2箱の煙草を灰にしたカーネマン教授が生き残ってノーベル賞を授賞された一方で、嫌煙家であったトヴェルスキー教授が悪性腫瘍で早くに亡くなった事実も、それほど対比を鮮明にさせることなく淡々と跡付けています。そして、2人の心理学的な発見が、まず、医学に応用され、その次に経済学で注目され、結果的に、カーネマン教授がノーベル経済学賞を受賞したわけです。終章のタイトルが「そして行動経済学は生まれた」とされていて、ある米国ハーバード大学教授の言葉として、「心理学者は経済学者のことを不道徳だと思い、経済学者は心理学者のことをばかだと思っている」というフレーズを引用しています。最後は、カーネマン教授にノーベル委員会からと思しき電話がかかる場面で終っていますので、セイラー教授らによるその後の行動経済学の発展は、それほど重視されていません。まあ、経済学史の本ではないんですから、そうなのかもしれません。私自身は何らかの理論や実証で功績あった経済学者の生まれや育ちや性格などについては、それほど大きな興味あるわけではありませんが、映画にもなった『ビューティフル・マインド』のナッシュ教授の生涯などとともに、経済学に多くの人々の関心を引きつける効果がある、という意味で、こういった本の効用も十分評価しているつもりです。

photo

次に、ショーン B. キャロル『セレンゲティ・ルール』(紀伊國屋書店) です。著者はウィスコンシン大学マディソン校の進化生物学の研究者ですが、本書は進化生物学の本ではなく、むしろ、生物多様性に関する食物連鎖・栄養カスケードに関する理論と実践に関して、ポピュラー・サイエンスとして取りまとめられています。舞台はアフリカはタンザニアにあるセレンゲティ国立公園です。タンザニアの北部、ケニアとの国境に近い地域で、従って、ビクトリア湖のすぐそばに位置する哺乳類の多様性に富む地域です。世界遺産に指定されています。そして、本書の第Ⅲ部第6-7章において、本書のタイトルであるセレンゲティ・ルールを6点に渡って取りまとめて提示しています。専門外のシロートである私なりの解釈なんですが、一般的に食物連鎖と呼ばれている流れを本書では栄養カスケードと称していて、要するに、ネコ科の肉食獣がシカなどの草食獣を捕食し、そして、草食獣は草木を食べる、という構造です。そして、本書では二重否定の構造を持ち込みます。すなわち、イエローストーンでヘラジカが増えすぎた場合、日本でもよくありますが、シカやイノシシが増えて農作物が被害にあうケースでは、日本ではヒトが猟銃をもってイノシシなどを直接に駆除する一方で、イエローストーンではシカを捕食するオオカミを放った、という例が紹介されていて、そうすると、当然に、オオカミはヘラジカの一種であるエルクを捕食しますから、エルクそのものが個体数を減少させる一方で、エルクが食べつくしていたポプラの成長が促進される、という2段階目の効果が発現します。これを本書では二重否定と呼んでいます。そして、本書のもうひとつの特徴は、こういったオオカミエルクとポプラといったマクロの連鎖、もちろん、地球規模のマクロではないにしても、日本でいえば都道府県くらいの大きさの地域のマクロの栄養カスケードや生態系に見られる現象を、何と、マイクロのレベルのガンになぞらえている点です。物理学などでマクロの宇宙論とマイクロの原子や分子に関する理論に類似点を見出す方法論も見かけたりしますし、生物学でも生物の集団であるマクロとマイクロな個体にそういった類似点を例示しることもあり得るんでしょうし、何よりも、それなりにポピュラー・サイエンスとして私のようなシロートの一般大衆の理解を促進もするんでしょうが、私の目から見て、少なくともマクロの生態系の攪乱をマイクロな生物個体や遺伝子レベルのガンに例えるのは、ややムリがあるような気もします。少なくとも、エコノミストの世界では合成の誤謬があり、マイクロな世界を足し上げて行ってもマクロな世界にはなりません、というか、ならない場合があります。たっだ、エコノミストの目から見て興味深かったのは、マルサス的な『人口論』の世界が密度依存調整により否定されていることです。p.204 あたりです。マルサス的なくらい将来像は技術革新により克服される、というのが私のような平凡なエコノミストの一般的理解ですが、そもそも、個体密度が増加すれば個体数の増加率はマイナスに転化する、というのは、それはそれとしてあり得ることですし、生物学的に明らかにされていることは、とても参考になりました。

photo

次に、又吉直樹『劇場』(新潮社) です。話題の作者の芥川賞受賞後第2作目の小説です。東京を舞台に演劇人である主人公の永田と、永田の恋人の沙希、さらに、中学のころから永田とともに演劇を続けてきた野原、さらに、永田・野原の劇団からスピンアウトしてライターとしても一定の成功を収めた青山という女性、さらにさらにで、別の注目劇団を主宰する小峰などなど、かなり限られた登場人物なんですが、永田と沙希の愛の行方がストーリーの中心となります。なお、永田・野原のコンビは関西人で、この作者の前作「火花」と同じで関西弁でしゃべります。そして、主人公である永田の行動のターニング・ポイントとなる感情は嫉妬です。嫉妬が怒りに転じて、そして人間関係が壊れて行くような気がします。「本音と建前」という言葉がありますが、決して本音を隠してうわべだけの建前で人間関係を築いて、大人の付き合いを進めるのが上品だとは決して思いませんが、本音をさらけ出して人間性の底の底まで理解し合えないというのも、少し問題ではなかろうかという気もします。その意味で、本書の主人公の男女関係、劇団や演劇関係者との人間関係については、私も理解できる部分と理解を超えている部分があります。ただ、前作と違って嫉妬というテーマがかなり露骨に現れていて、その分、決して上品ではない可能性もあるものの、作者の魂の叫び、とまではいわないまでも、誠に正直に書き綴っている気もします。何かのメディアで報じられていましたが、「火花」よりもこの作品の方を先に書き始めていた、という情報もあり、ある意味で、作者の第1作のようでもあり、言葉は悪いかもしれませんが、第1作目のつたなさのようなものが感じられるかもしれません。また、純文学ですから、文体や表現力はかなり上質といえますが、ストーリーを追うものではありません。主人公である20代の男女間の恋愛の進行はかなりつまらない、と感じる読者も多そうな気がします。

photo

次に、タンクレード・ヴォワチュリエ『貧困の発明』(早川書房) です。私はよく知らないんですが、作者はフランスのエコノミストであり、小説家だそうです。私はフランス語には決して詳しくないんですが、スペルは Voituriez であり、もしも、最後が z で Voiturier であれば、英語でいえば Valet Parking の意味であり、私はフランスはパリしか知りませんが、パリ市内でも何度か見たことがあります。ということは別にして、本書はあくまでフィクションの長編小説であり、ピケティ教授が「今までに読んだいちばん可笑しな小説」と評価したと出版社のサイトでは紹介されています。フランス語の原題は L'Invention de la Pauvreté であり、邦訳タイトルはそのまま直訳されています。タイトル通りに貧困をテーマにしていますが、先進国内の貧困ではなく、途上国の貧困、あるいは、経済開発を主題にしています。主人公は世銀チーフエコノミストにして、国連事務総長の特別顧問でもあるプリンストン大学教授のロドニーです。誠に僭越ながら、私と専門を同じくする開発経済学者です。ここまでの肩書からは、ノーベル経済学賞も受賞したスティグリッツ教授が強く連想されるんですが、そうでもないようです。フィクションのフィクションたるところです。でも、国連事務総長ドン・リーは韓国人の設定で、そのモデルは、明らかに、前国連事務総長の潘基文ではないでしょうか。そのほか、国連、世銀、国際通貨基金(IMF)、また、組織ではなく会議名ですが、ABCDE会議など、ほぼほぼ実在の名称をそのまま流用している印象です。エロ・グロ・ナンセンスの部分は別にして、開発経済学を専門分野のひとつとする私から見ても、確かに開発経済学にはいくつかの考え方があり、『エコノミスト 南の貧困と闘う』の著者であるイースタリー教授のように市場メカニズムを活用して、途上国の国民のインセンティブに基づく行動に期待するエコノミストもいれば、サックス教授に代表されるように、先進国からの開発援助などを活用しつつ、公的部門も関与した形でのビッグ・プッシュを重視する開発経済学者もいっぱいいます。実は、私は後者の考え方に近かったりします。冒頭のバレー・パーキングは別にしても、開発経済学のいくつかの考え方を背景知識として持って読めば、さらにこの小説が楽しめるかもしれません。あるいは、私のように、少しだけ不愉快さが増すかもしれません。

photo

最後に、水野和夫『閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済』(集英社新書) です。著者は証券会社のエコノミストから学会に入り、埼玉大学から法政大学教授に転じているようです。ということで、相変わらず、独特の長期的な歴史観を披露しているんですが、ヒストリアンとしてその歴史の底流に流れる法則性が感じられずに、私はいつも戸惑っています。従来と同じように、1970年代のルイス的な二重経済の消滅と石油ショックなどにより、我が国を含めて戦後先進諸国の高度成長が終了し、1970年代からゆっくりと時間をかけて低成長と低金利に象徴されるように資本主義が終焉する、そして、中世的な停滞の定常状態の時代が来る、というのが著者の見立てです。ただ、資本主義の勃興については大航海時代のイノベーションにより、世界が広がり英蘭が覇権を掌握した、ということに本書でもなっているんですが、それがなぜなのか、そして、成長率や金利が低下して資本主義が終焉するのはなぜなのか、加えて、産業革命の位置づけについてもほとんど無視されており、私には疑問だらけです。資本主義が終焉して中世的な定常状態に戻る、という史観ですから、基本的には循環史観だと思うんですが、おそらく、著者の歴史学に関する素養からして、そういった歴史観の確立があるのかどうか疑問であり、歴史的な事実を跡付けて、室町幕府の後は戦国時代になって、全国統一を果たした織豊政権から徳川が江戸幕府を確立する、それはなぜなのか、よく判らないながら、そうなのだ、といっているに等しい気もします。蒐集=コレクションについては、その基礎となっている生産活動について何も見識がないので、どこかで湧き出た蒐集対象品を持ち出す、という以外の感触はありません。基本的に私の歴史観はマルクス主義に近いんですが、ほぼほぼ一直線に生産力が増加するという単純な歴史観で、その生産力の桎梏となる生産システムが革新される、場合によっては土地や生産手段=資本の所有制度の変更も歴史を動かす原動力になる、という意味で、ノース教授らの制度学派にも近いかもしれない、受け止めていますが、この著者の歴史観はまったく理解できません。その上、閉じたvs開いた、資本主義、帝国などの用語がかなり感覚的に、そして、キチンと定義されずに並べられていて、もう少し読者の理解を助ける工夫も欲しい気がします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年8月26日 (土)

今週の読書はいろいろ読んで計7冊!

今週は夏休みからお仕事に復帰して、それでも8月ですので、やや時間的な余裕もあり、7冊とついついオーバーペースになってしまいました。新書や文庫を含みますので、それほどのボリュームでもないんですが、来週はもう少しセーブしたいと思います。

photo

まず、山口一男『働き方の男女不平等』(日本経済新聞出版社) です。著者は米国シカゴ大学社会学教授ですが、研究内容はほとんど経済学といって差し支えありません。本書では、タイトル通り、男女間の労働市場における差別についてモデルを用いた理論分析と実証分析を行っています。基本的には、労働供給サイドではなく、企業側の女性労働の需要サイドの研究なんですが、途中で少し私も混乱を来してしまい、時間当たり賃金率なのか、時間当たり賃金率に労働時間を乗じた所得なのか、もしも後者であれば、単に女性を長時間働かせればOKということかもしれません。ただ、最終第8章で著者の考えが最後の最後に明らかにされるんですが、生産性と比較した賃金の機会の平等を考えるのであれば、統計的な差別を含めて、企業サイドの女性労働値の差別的取扱いに従って、機会の平等を確保しつつ結果の平等を達成できない事態が考えられるとした上で、結果としての平等を追求すべき著者の考えが明らかにされます。ホントの適材適所を実現し、性的な差別のない雇用環境を整え、各人が生産性や適正に従った労働を実行し、その労働に応じた賃金を受け取る、というのは確かに理想かもしれませんが、現在の制度学派的な思考の下では、ハッキリいって、労働や雇用の課題ではありません。所得はもちろん、ワークシェアリングを含めた分配の課題と考えるべきです。そして、理想の所得の分配が、理想的な労働や仕事の配分に基づいて実行されるかは、マルクス主義的に考えなくても、現行の制度下では実行可能かどうかは疑問です。ケインズの1日3時間労働とともに、のっとも理想的な雇用や労働の配分と所得の分配を実現するためには、現在の市場による資源配分ではない、別のシステム、ひょっとしたら、社会主義や共産主義かもしれませんが、たぶん、違うだろうと私は想像しています。そういった、別の次元を考える必要があるような気がしてなりません。

photo

次に、香取照幸『教養としての社会保障』(東洋経済) です。著者は厚生労働省、というか、厚生省出身の公務員で、現在はどこかの大使に転出していますが、小泉内閣のころに長らく官邸に詰めていたことを記憶しています。私もそのころ官邸勤務でした。ということで、タイトルからも理解できる通り、社会保障という場合、著者のように実務として関係する場合、そして、アカデミックな世界などで学問として関係する場合が多く、制度的に複雑なこともあって、身近な割には教養として接することはないような気もします。平易な表現とともに、国民各層が身近に接するマイクロな社会保障の面だけでなく、政府財政への影響なども含めたマクロの社会保障の両面を取り上げています。なかなかの良書だという気がしますが、難点もいくつかあります。まず、冒頭に社会保障に対する批判については教育の責任として文部科学省に責任を転嫁しています。私は冒頭のこの部分だけでかなり評価を落としているんではないか、と受け止めてしまいました。それから、ここまで社会保障を展開しているんですから、最近の話題としては人工知能(AI)やロボットの活用に伴うベーシック・インカムについてほとんど触れないのは、やはり、現時点での社会保障論としては物足りない気がします。

photo

次に、塚崎公義『経済暴論』(河出書房新社) です。著者は興銀の調査部から学界に転じたエコノミストのようです。実務家ご出身で大学院などのアカデミックな経歴ではありませんから、経済学部卒業ではなく法学部卒業だったりします。ということで、少し常識登攀するようないくつかの事実を平易に解説しています。ただし、私の目から見て、経済合理性に基づいて世間一般の常識と反する結果を導き出しているケース、例えば、埋没原価サンクコストの問題とか、組織への忠誠心と仕事のプロ意識のトレードオフとか、が取り上げられている一方で、行動経済学的な検知などから人間の非合理的な決定が世間一般の常識と反するケースを、特に区別せずに同一の「世間一般の常識と違う」というカテゴリーでくくっていますので、経済学的な素養があれば、逆に疑問に感じる場合もありそうな気がします。でも、本書の結論たる最終第6章の、特に、最後の数点の論点、すなわち、日銀が債務超過に陥っても問題ない、また、日本政府は破綻しない、あるいは、日本経済は労働力不足で黄金時代を迎える、などの論点は私もまったく同意します。ただ、黒田日銀の金融政策を「偽薬効果」と称しているのは、何らの根拠が示されておらずレッテル貼りに終わっているのが残念です。期待に働きかける金融政策に対する無理解が背景にあったりするんでしょうか?

photo

次に、有栖川有栖『濱地健三郎の霊なる事件簿』(角川書店) です。作者はご存じ関西系の新本格派ミステリの代表的な作者の1人です。法月綸太郎や綾辻行人など私の出身の京都大学ではなく、同志社大学のご出身だと記憶しています。この作品は作者あとがきによれば怪談という位置づけのようですが、依然、『幻坂』に2話ほど収録されてうぃた主人公を心霊探偵として前面に押し出して、事件解明に当たるミステリ風な短編を収録しています。オカルトものとして怪奇現象の解明や除霊などをするものとしては、櫛木理宇「ホーンテッド・キャンパス」がありますが、それほど心霊現象を全面に押し出したものではなく、心霊現象をヒントに実際の人間の犯罪行為を解明するというパターンが多かったような気がします。また、オカルト探偵といえば、エドワード D. ホックの作になるサイモン・アークがいますが、サイモン・アークは超常現象に見える事件ながらm実は物理法則に即した、というか、決して超常現象ではない事件を解明しますので、かなり違います。ということで、本書は、決して、殺された被害者の例から犯人を聞き出すという安直なミステリではなく、新本格の旗手の手になるミステリです。それから、次の真梨幸子のイヤミスとついつい読み比べて比較してしまうんですが、やっぱり、法月綸太郎とかこの作者の作品は文体がとても上品です。それだけ読みやすいともいえます。

photo

次に、真梨幸子『祝言島』(小学館) です。作者はイヤミスの女王のひとりであり、主として女のいやらしさを盛り込んで読後感の悪いミステリを書く作家です。とはいいつつ、私はかなりこの作家は評価しており、出来る限り新刊書を読もうと努力しています。本書は、作中では小笠原諸島の南端付近にあって、すでに地図からは抹消されているタイトルの島にまつわる物語ですが、主たる舞台は東京です。1964年の東京オリンピックの直前に祝言島の火山が噴火し、島民は青山の都営住宅に避難した、という設定になっています。そこから、40年余の後の2006年12月1日に東京で3人の人物が連続して殺され、未解決となっている「12月1日連続殺人事件」をからめて、独特の異様なストーリを紡ぎ出しています。ミステリである限り、殺人などの違法行為は当然に物語に含まれますが、この作品ではかつてのロボトミー手術などの集団による不法行為が盛り込まれており、その点にやや違和感を覚えました。また、トランスセクシュアルの存在も盛り込んでいますが、真梨作品としてはそれほどの出来とは思えませんでした。たしかに、グロテスクでエロの要素もあるんですが、私自身の読書の傾向として、ややロボトミーで読む気をなくした気がします。

photo

次に、吉川洋・八田達夫{編著}『「エイジノミクス」で日本は蘇る』(NHK出版新書) です。著者・編者は高名なマクロ経済学者ですが、野村総研や三菱総研のスタッフも執筆陣に加わっています。高齢化が進展して経済の将来に悲観的な見方が広がる中で、敢然とこの見方に挑戦し、高齢化をイノベーションの好機と捉え、日本経済の明るい先行きを示しています。具体的には、本書のp.30の図用に従って、財・サービスのイノベーション+制度のイノベーション×病弱な人+健康な人、2×2の4つのマトリクスに従って、以下第2章から5章まで4章に渡って各論が展開されます。基本的には、ベンチャー資本などによる新たな革新の方向性をかなり拡大解釈しているだけなんですが、やっぱり、こういったイノベーションに関するケーススタディでは、当然ながら、成功例ばかりがクローズアップされ、成功例の裏側にその数倍数十倍数百倍の失敗例が隠されていることが忘れられていることは覚悟しておくべきです。まあ、統計の分析とケーススタディの違いです。本書で取り上げられているイノベーションのシーズがどこまで現実に開花するかは私にも不明ですが、高齢化が決して経済成長にマイナスばかりではない、という点は特に強調されるべきであろうと思います。

photo

最後に、泡坂妻夫・折原一ほか『THE 密室』(実業之日本社文庫) です。推理小説の中でも、密室をテーマとしたアンソロジーです。収録作品は、飛鳥高「犯罪の場」、鮎川哲也「白い密室」、泡坂妻夫「球形の楽園」、折原一「不透明な密室」、陳舜臣「梨の花」、山村正夫「降霊術」、山村美紗「ストリーカーが死んだ」の7つの短編であり、作者の氏名の50音順で収録されています。それほどレベルは高くありませんが、それぞれに特徴的な密室事件の解明が図られています。江戸川乱歩などのその昔から、縁の下や屋根裏などのある日本家屋の特徴として、密室が成立しにくいといわれ続けていますが、それなりにバリエーションに富んだ短編ミステリを収録しています。ただし、繰り返しになりますが、それほどレベルは高くない上に、それほど新しくもないので、もっと本格的に密室を読みたい向きには、ナルスジャックと組む前のボアローの編集になる『殺人者なき6つの殺人』の方がいいかもしれません。もっとも、コチラもそれほどレベルは高くありません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年8月21日 (月)

集英社文庫の『明智小五郎事件簿』全12巻を読む!

photo

このお盆の夏休みまでに、集英社文庫から出版されていた江戸川乱歩の『明智小五郎事件簿』全12巻を読みました。作者の没後50年を記念して、昨年2016年5月から刊行が開始され、今年2017年4月に完結しています。ひとつの特徴として、発表順ではなく、シャーロッキアンよろしく、事件発生の年月を特定し、その順番で並べてあります。ただし、戦後の少年探偵団モノは含まれておらず、戦前までの事件しか収録されていません。やっぱり、怪人二十面相や黒蜥蜴などとの対決作品が読ませどころです。ほとんど現実味のない荒唐無稽な犯罪行為などもありますので、小説向きというよりはテレビや映画向きのストーリーかもしれません。なお、最初の画像は12巻セットですが、私は近くの区立図書館で借りて、週末ごとに2-3冊ずつ読み進みました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年8月19日 (土)

今週の読書はややセーブして計5冊!

今週の読書は新刊書で以下の通り5冊です。ギリギリいえば、経済書はゼロのような気がします。なお、それほど新刊ではないところでは、集英社文庫から5月に全12巻が完結した江戸川乱歩の『明智小五郎事件簿』も読み切りました。これについては日を改めて取り上げたいと思います。

photo

まず、リー・ギャラガー Airbnb Story (日経BP社) です。著者は「フォーチュン」をホームグラウンドとするジャーナリストです。英語の原題そのまま邦訳のタイトルとしており、2017年の出版です。ということで、タイトル通りに、エアビー創業者3人、すなわち、美大出身者2人とエンジニア、というか、プログラマの3人です。推進派と抵抗派の葛藤にも十分な紙幅を割き、決して、新ビジネスを礼賛するにとどまらない内容で、バランスもよくなっていますが、まあ、基本は肯定派の立場だという気はします。シェアリング・エコノミーを考える場合、いわゆるシリコンバレーの4強、すなわち、グーグルとファイスブックとアップルが従来にないまったく新しいビジネスを立ち上げているのに対して、従来からあるビジネスをリファインしたアマゾンとも違って、その中間的なビジネスと私は考えています。ただし、従来からあるホテルに代替するエアビー、タクシーに代替するウーバーですから、アマゾンに近い形態かもしれません。まったく新しいビジネスを始めたグーグルやファイスブックは既存の抵抗勢力は殆ど無い一方で、アマゾンは従来の街の本屋さんをなぎ倒して成長しているわけですし、エアビーはホテルから競争相手と目されています。すなわち、かつてのスーパーマーケットのようなもので、パパママ・ストアからの反発はものすごいものがあった一方で、消費者からのサポートがどこまでられるかも成長の大きなファクターです。そして、グーグルやフェイスブックのようにブルーシーに悠々と漕ぎ出すのではなく、ロビイストを雇ったり、抵抗勢力に対抗する新興勢力を組織したりと、政治的な取り組みも必要とされかねません。そして、最後はマーケットを独占できるわけではなく、本書ではホッケー・スティックのような成長曲線と表現されていますが、実は、ロジスティック曲線で近似される成長曲線であろうと私は考えており、成長が鈍化するポイントはいつかは訪れます。現時点では1次微分も2次微分もプラスでしょうが、2次微分がゼロからマイナスになり、そして1次微分もゼロになる時期が訪れるかもしれません。当然です。その時にこれらのシェアリング・ビジネスがどう成熟しているかを知りたい気がしますが、私の寿命は尽きている可能性もあります。

photo

次に、豊田正和・小原凡司『曲がり角に立つ中国』(NTT出版) です。著者は経済産業省OBと海上自衛隊OBで、それぞれ経済や通商、さらに、安全保障の観点から現在の中国について現状分析と先行きの見通しを議論しています。安全保障の観点は私の専門外ですので、主として経済や通商の観点を見てみると、本書と同じように、私も中国はルイス的な転換点を越えて、従って、日本の1950-60年代のようないわゆる高度成長の時期を終えた可能性があると考えています。それを Gill and Kharas のように中所得の罠と呼ぶかどうかはともかく、少なくとも、海外から技術単独かもしくは資本に体化された技術を導入し、資本の生産性を向上させるとともに、ルイス的な用語を用いれば、生存部門から資本家部門への労働の移動がほぼ終了し、従って、少し前までの低賃金の未熟練労働力が内陸部から無尽蔵に湧き出てくるわけではなく、労働の限界生産性と等しい賃金を支払う必要が出てきたため、チープレーバーに基礎を置く製造業が採算を悪化させている時期に達しています。ただし、ここは私は議論あるところではないかと思いますが、中国の現時点での政権の最大の眼目が共産党政権の存続であることから、すなわち、国民の最大福祉ではないことから、大きな矛盾を抱えることとなります。そして、実際にその矛盾が激化し始めたのは天然モン事件の後の江沢民政権であり、広範な支持基盤のなかった江沢民政権が党や軍などに汚職を許容したり、あるいは、国内問題から国民の不満の目をそらせるために日本などに無理筋の要求をしたりという筋悪の政治が始まります。そして、江沢民-朱鎔基コンビ、胡錦濤-温家宝コンビに比較して、現在の習近平-李克強コンビは習主席に大きな比重がかかりすぎている気もします。もちろん、いわゆる核心については、温家宝主席以外はみんな核心だったわけですから、大騒ぎする必要はないかもしれませんが、少なくとも経済と外交まで総理の李克強から取り上げるのは行き過ぎだという気がします。毛沢東と周恩来んのコンビよりもバランスが悪そうに見えます。そして、ひょっこりひょうたん島のように動けないわけですから、我が国は地理的にどうしようもなく中国の隣国であり、無理筋にも対応させられているのもどうかという気がします。米国のトランプ政権がほぼほぼ中国に無力なのも情けない気がします。

photo

次に、酒井順子『男尊女子』(集英社) です。定評あるエッセイストによる男女同権、もしくは、男尊女卑的な目線からのエッセイです。相変わらず、よく調べが行き届いた大学生のリポートのようにスラスラ読め、決して、それほど為になるわけではないものの、あるある感がとても強い気がします。もっとも、著者や私のようなベビーブーマーの後の世代くらいまでで、私の倅どものようなミレニアル世代には理解がはかどらない可能性もあるような気がします。ということで、男性に比べて女性が戦略的に、先より後、前より後ろ、上より下のポジショニングを取って、男尊女卑的な因習に従うふりをしつつ、実は、モテを追求しているんではないか、という視点を本書は提供しています。そうかもしれません。私は男尊女卑も男女同権もいずれも興味なく、というか、どちらにも与せずに、ケース・バイ・ケースで経済学的な比較優位の基礎に立って役割分担をすればよい、という能天気な考え方ですので、世の中の男性の平均ほどは男尊女卑的な考えに凝り固まっているわけではないと認識しています。ただ、同しようもないのが妊娠能力であり、これは生物学的な性別に依存します。それ以外は、絶対優位ではなく、比較優位に基づいて役割分担すればいいと考えています。もっとも、実は、最大の制約要因は時間の有限性、というか、平等性であって、等しく各人に1日24時間が与えられています。生産性や性別に何の関係もなく24時間なわけで、これが最大の役割分担の制約条件となります。ですから、ホントに比較優位に基づいて役割分担をすると、場合によっては1日24時間では不足する可能性もあります。最後に、どうでもいいことながら、私はマッチョでレディ・ファーストを女性に対して極めて慇懃無礼に実行しているラテンの国に3年余り赴任していた経験があり、逆に、フツーにアジアな国にも3年間の経験があります。どちらもどちら、という気がします。日本に生まれ育った私には日本の男女間がもっとも自然に接することができるのは当然かもしれません。でも、歴史の流れとして男尊女卑の程度が弱まって、男女同権の方向に変化する歴史的な流れは止められないと覚悟すべきです。

photo

次に、青山七恵『ハッチとマーロウ』(小学館) です。著者はご存知芥川賞作家であり、私は彼女の大ファンです。基本的に、清純派の純文学作品が多いんですが、『快楽』などで少し背伸びをしようとした跡も見られる一方で、この作品では児童文学に近い仕上がりとなっています。タイトル通りの通称で呼ばれる2人の小学5年生の双子姉妹を主人公に、小学5年生から6年生にかけての12か月をほぼほぼ毎月1章で語り切っていて、ハッチとマーロウが交互に1人称で語っています。大晦日にシングルマザーのママが、大人を卒業してダメ人間になると宣言し、お正月からウダウダしてパジャマを着替えることもなく過ごします。ミステリ作家のママは仕事はもちろんしませんし、家事はすべて双子がこなさねばならなくなります。なお、舞台はほぼ長野県穂高のようです。そういった中で、お正月を過ごし、バレンタインデーを過ごし、4月には風変わりな転入生を軸に物語が進み、7月にはママと双子は東京でバカンスを過ごしたりします。小学5年生や6年生が1人称で語っているんですが、さすがの芥川賞作家ですので表現力はバッチリです。私くらいのスピードで読んでも隔月で1人称の語り口を交代する双子姉妹の個性、というか、俗にいうところのキャラがとても明瞭に読み分けられます。タイトルの順番ですから、おそらむハッチが姉でマーロウが妹なんだろうという気がしますが、勝ち気でシーダーシップに富み、自分のポニーテールも切り落とすくらい行動的なハッチに対して、ややハッチからは後方に退き妹らしくハッチについて行くマーロウ、ただ、ママがダラダラしたダメ人間ですので、ややキャラが立ってない気すらしてしまいます。双子姉妹の父親探しが迎える結末もとても興味深く仕上がっていますが、エンタメ小説ではなく純文学ですので、オチは明瞭ではありません。それでも、作者の表現力の豊かさには驚かされます。

photo

最後に、伊坂幸太郎ほか『短編少年』(集英社文庫) です。7月9日付けの読書感想文で取り上げた三浦しをんほか『短編少女』の姉妹短篇集です。収録作品は以下の通りです。すなわち、伊坂幸太郎「逆ソクラテス」、あさのあつこ「下野原光一くんについて」、佐川光晴「四本のラケット」、朝井リョウ「ひからない蛍」、柳広司「すーぱー・すたじあむ」、奥田英朗「夏のアルバム」、山崎ナオコーラ「正直な子ども」、小川糸「僕の太陽」、石田衣良「跳ぶ少年」です。これは私が男性だから、そう感じるだけかもしれませんが、『短編少女』と比べて、少年の方はまっすぐで、少なくともホラー的な作品はなかったような気がします。ただ、『短編少女』と比べて、読んだことのある作品は少なかったように思います。新鮮な気持ちで読んだ差なのかもしれません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年8月12日 (土)

今週の読書は話題の書を含めていろいろあって計7冊!

今週の読書は、経済書のほか、話題のビル・エモット『「西洋」の終わり』などの教養書、専門書も併せて、計7冊です。山の日の休日が私の読書を促進したとも思いませんが、ついつい読み過ぎてオーバーペースです。来週こそ強い決意を持ってペースダウンする予定です。それから、お盆休みには集英社から文庫本で出されていた江戸川乱歩の『明智小五郎事件簿』全12巻が完結しましたので読んでおきたいと予定しています。

photo

まず、池尾和人・幸田博人[編著]『日本経済再生 25年の計』(日本経済新聞出版社) です。慶応大学経済学部の看板教授陣とみずほ証券のエコノミストのコラボによる日本経済活性化への提言書です。冒頭の3章、金融政策、財政政策、債務問題を慶大グループが担当し、後の4章の意識改革、情報開示、エンゲージメント、イノベーションをみずほ証券のエコノミスト人が担当しています。タイムスパンの25年というのは、例のカーツワイルのシンギュラリティの2045年を意識したものではなく、高齢者が絶対数でピークに達する2040-45年くらいを念頭に、現時点から25年くらい、といった算定のようです。金融政策では、従来からの池尾教授の主張と同じで、日銀の金融緩和は潜在成長率を高めなかったので評価できない、という点に尽きます。そして、金融政策ながら章の後半は人口動態論を主体とする中期見通しに切り替わってしまいます。私くらいの頭の回転ではついて行けませんでした。財政政策についても土居教授の従来からの主張から大きく出ることないんですが、キャッシュフロー課税というテーマは斬新だった一方で、社会保障について高齢者への過度の優遇についてもう少し明らかにして欲しい気もします。債務問題については過剰債務が成長を阻害するという理論モデルの解説が中心となっていて、それはそれでとても私には興味深かったと受け止めています。ただ、直観的には過剰債務が長期停滞をもたらすというのは、そういったモデルを構築することは可能だろうとは理解しつつも、やや強引な立論かもしれないと感じてしまいました。後半4章については、よく判りません。ただ、日本居企業価値向上を阻害する何らかの構造的な要因があるとすれば、市場経済化で自立的にそれを取り除けないのはどうしてか、政府に勤務する官庁エコノミストとして、もう少していねいな方法論が欲しかった気がします。基本的に、資金調達に関するモディリアーニ=ミラー理論からの逸脱が生じているわけですし、証券会社や銀行はまさにそれをビジネス・チャンスにしているわけですから、基本となるモディリアーニ=ミラー理論に立ち返って、その基本モデルからの逸脱を論じて欲しい気がします。特に、モデル分析をていねいに展開している小林教授の章に続いての4章の後半部分ですから、やや気にかかってしまいました。

photo

次に、ビル・エモット『「西洋」の終わり』(日本経済新聞出版社) です。経済書っぽくないので2番手に配置しましたが、話題の書です。著者はながらく英国エコノミスト誌の編集長も務め、日本駐在もした知日派のジャーナリストであり、『日はまた沈む』で我が国のバブル経済崩壊を予言して当て、『日はまた昇る』我が国の復活を予言して大いに外したのは記憶の読者も少なくないことと思います。英語の原題は The Fate of the West であり、2016年の出版です。ということで、昨今のポピュリズムの台頭、特に、フランス人民戦線のルペン党首の人気だけでなく、エコくもUE離脱、いわゆるBREXITや米国大統領選でのトランプ大統領の当選などを背景に、移民排斥をはじめとする閉鎖的な政治経済の風潮を考慮し、リベラルな西洋の立場から世界の進むべき方向性を論じています。もちろん、西欧のほか米国や日本も本書でいうところの「西洋」のカテゴリーに入っています。自由と民主主義、さらに開放的な政策などを基調とする社会という意味なんでしょうから当然です。なお、ポピュリズム的な政治傾向と併せて、新自由主義的な経済政策の下での不平等の拡大や金融経済化の進展なども論じているんですが、特に、雇用についてはさらに規制緩和、わが国で称されているところの「岩盤規制」をさらに緩和する方向を示していたりして、やや疑問に感じないでもありません。さらに、私が疑問を強く感じているのは、特に大陸欧州で移民排斥をはじめとするポピュリズムの傾向が経済に先行き不透明感や、いわゆる長期停滞に起因している点を見逃しているような気がします。ただ、さまざまな経済の問題点を解決するのに成長を持って充てているのは当然としても、経済でないポピュリズムや移民排斥についても、国民の特に中間層といわれる中核をなす階層が、経済的に恵まれないことから、財政の社会保障を中心に大陸欧州で、いわゆる「国民」の枠を広げる移民受け入れに反対している点は明らかだと私は考えており、成長はかなり多くの現時点での政治経済社会の問題解決に資するんではないかと思います。もちろん、経済成長以外で西洋的な価値観を取り戻すのに有益・有効な手段についても本書では論じていますが、エコノミストの私にはやや専門外と受け止めています。私が従来から何度も繰り返している通り、現時点で、本書が言うところの「西洋」が世界的に覇権を握り、自由で平等な民主主義に基づく経済社会を実現しているのは、イングランドを起点とする産業革命に成功したからであり、ありていにいえば、その過去の遺産で現在まで食いつないでいると考えています。ですから、別の見方をすれば、その過去の遺産を食いつぶしつつあるともいえます。いずれにせよ、開かれた自由な民主主義、さらに、より平等な経済社会を基礎とする「西洋」の再構築のために、とても重厚な思考実験を展開している教養書といえます。

photo

次に、J.H.エリオット『歴史ができるまで』(岩波現代全書) です。著者は英国人のスペイン近世史の専門家です。私は数年前に、ひょっとしたら、本書の出版時かもしれませんが、BBCに著者が出演していたのを見かけたことがあります。当時でも80歳を超えていただろうと想像しますが、悪くいえば「痩せ衰えた老人」といった印象を受けました。英語の原題は History in the Making であり、2012年の出版です。ということで、著者が専門とするスペイン近世の歴史を題材に歴史学の方法論まで含めて議論を展開しています。なお、「近世」という用語は、決して日本に独特のモノで、単に江戸時代を指すだけでなく、封建制後期から産業革命までの期間を指す場合が多い気がします。英語では、"early modern"を当てます。著者自身は、いわゆるオーソドックスな歴史家であり、その対極、とまではいいませんが、マルクス主義的な歴史観を基本とした歴史家もいます。そして、マルクス主義の影響を強く感じさせるものの、少し距離を置いたフランスのアナール学派もあります。アナール学派の中心が『地中海』で有名なブローデルです。エリオット卿はブローデルとの交流も含めて、歴史に対する把握の方法を論じています。歴史の重ね合わせという言葉を著者は使っていますが、ある国あるいは地域のある時点だけを取り出しても、比較対象がなければ研究のしようがありません。そのため、世界横断的に同じ辞典の世界各国・各地域の比較対象を行うのが、少し違いますが、地理学に近く、時系列的に同じ国や地域を時間の流れの中の変化を見るのが歴史学ともいえます。ブローデルが為政者や権力者中心の歴史観ではなく、細菌や病気も含めて人口動態などを重視したのに対し、エリオット卿の歴史学は我々が通常目にする歴史書に見られる政治や外交や経済の出来事を並べる歴史観に基づいています。私は高校を卒業した直後に岩波文庫から出版されていたランケ『世界史概観』を読んで感激して経済史を志した記憶がありますが、著者のエリオット卿は本書にも見られる通り、美術史と連携した宮殿の復元、大西洋史といった比較史へと研究を広げる歴史学の大御所です。それから、先日取り上げた本では翻訳がひどいと明記しましたが、本書はとりわけ翻訳がていねいで素晴らしい出来に仕上がっている気がします。

photo

次に、ジョセフ・メイザー『フロックの確率』(日経BP社) です。著者は米国の数学教授であり、英語の原題は Fluke、2016年の出版です。 基本的に、世の中で起こる、あるいは、実際に起こったフロック、まぐれ当たりや巡り合せについて、数学的に解明を試みています。本書でも取り上げられていますが、人数が一定数集まると、本書の計算によれば、23人以上が集まると、同じ誕生日、生年月日ではなく、年なしの月日だけですが、同じ日付の誕生日の人がいる確率が50%を超えます。これらのほかに、マイアミで呼んだタクシーが3年前にシカゴで呼んだタクシーと同じ運転手だった女性、ロト宝くじに次々に4回当たった女性、被疑者2名にまったく同じDNA鑑定結果が出てしまった事件、などなど、現実に起こった事象について、認知バイアスなどによる確率の過大評価や過小評価も含めて、エピソードごとに著者がていねいに解説を加えています。ただ、良し悪しなんでしょうが、現実に起こったケースを基に議論を進めていることから、決定論的な確率に関する議論ですので、いわば、確率が決まってしまっているケースの議論に終始しています。ですから、発生するエピソードが、起これば事後的な確率が1で、起こらなければゼロという世界です。現実の世界では何らかの事象が確率分布に基づいて発生するケースも少なくなく、例えば、金融市場における資産価格決定などは議論から抜け落ちています。もちろん、シュレディンガーのネコのようなお話はカバーできていません。この点は、現実のケースを取り上げる判りやすさとトレードオフだと思いますので、何とも判断の難しいところですが、エコノミストや量子力学関係者からはやや物足りないという意見が出る可能性はあります。カジノにおけるギャンブルなどに通じる確率論であり、どうでもいいことながら、そういった方面からは歓迎されそうな気もします。

photo

次に、ヨハン・ガルトゥング『日本人のための平和論』(ダイヤモンド社) です。著者はオスロ出身で「平和学の父」と呼ばれているそうです。英語の原題は People's Peace であり、2017年の出版です。英語タイトルはともかく、中身はかなり邦訳タイトルに近く、確かに、日本人向けに書かれている気はします。例えば、本書冒頭のはじめにで、ニホンを苦しめている問題の根本原因は米国への従属と明記しています。しかし、他方で、米国への従属を断ち切る方策について、本書は何も触れていません。というか、対米従属の基本となっている安保条約については、改正とか破棄・廃棄ではなく、手を触れずに店晒しで無意味化させる、というまったく私には理解できない議論を主張しています。やや無責任な気もします。しかし、この能天気な無責任さは本書の貴重をなすトーンでもあります。決して理想主義ではないんですが、単に出来もしないことを羅列しているとみなす読者もいるかもしれません。私もそれに近い読み方をしてしまいました。でも、キリスト教的に極めて許容度の広い本であり、まったく反対のいくつかの観点をすべて許容しそうな勢いで議論が進みます。無責任の極みかもしれません。北方領土や尖閣諸島については、領有権を主張する両国の共同管理を主張していて、まさに、両国はそれを排除しようと試みている点を無視しています。私は大江健三郎のノーベル賞講演ではありませんが、日本人の特性のひとつは曖昧さであると感じていたんですが、本書の著者は白黒をハッキリつけすぎると受け止めているようです。国際常識も通用しません。まあ、私の専門外ですので、私の方で誤解しているのかもしれませんが、ほとんど参考にも何にもならない本です。最後に、日本における沖縄後について考える際に、呼んでおく基礎的な文献は、実は、『ゲド戦記』で有名なアーシュラ K. ル=グインの『風の十二方位』に収録されている短編「オメラスから歩み去る人々」です。10年ほど前に話題になったサンデル教授の『これからの「正義」の話をしよう』でも取り上げられています。

photo

次に、堂場瞬一『1934年の地図』(実業之日本社) です。著者は、警察小説とスポーツ小説を得意としたエンタメ小説家です。まずまずの売れ行きではないでしょうか。本書は、地理学の大学教授を主人公に、戦後1960年の日本を舞台にしています。そして、大戦前夜の1934年暮れにベーブ・ルースらとともにオールスター野球チームの一員として来日した大リーガーであり、その後、主人公と同じ地理学の専門家として研究者となった友人が来日します。主人公は1934年の米国野球オールスター来日の際に通訳を兼ねて接待に当たっており、26年振りの再会でした。しかし、主人公が学界に出席するため渡米した折に、思いもかけない事実が判明します。米国人の友人が1934年に来日した目的は必ずしも野球だけではなく、戦争開戦前の日本の実情を探ることも目的とされていたようであり、その情報収集から結果として大きな悲劇がもたらされることとなります。戦争当時の悲劇ですので、およそ、原爆被爆はもちろん、空襲を始めとする悲惨な戦争被害の中で埋もれがちな事実が明らかになるわけです。以下、私の個人的な感想ですが、ハッキリいって、イマイチです。主人公と米国人元大リーガーにとっては、それなりに重要な結果をもたらしたのかもしれませんが、そうであれば、もっとキチンと書くべきです。さらに、フィクションのエンタメ小説とはいえ、背景となる日本国内及び世界の政治経済情勢、特に、それが戦争につながるわけですから、そういったバックグラウンドも視野に入れるべきです。1934年の直前の1933年にはドイツのヒトラーが首相となり、米国のローズベルトが大統領に就任しているわけですし、日本と中国の関係では、1931年9月に柳条湖事件が起こり、翌年1932年には満州国が建国されています。そういった時代背景にも目を配って欲しかった気がします。そうでなければ、単なるスポーツをからめたメロドラマになってしまいかねません。

photo

最後に、首都圏鉄道路線研究会『駅格差』(SB新書) です。先月7月15日付けの読書感想文で同じシリーズの前書『沿線格差』を取り上げたばかりなんですが、その続きで沿線ではなく駅に着目した格差論です。『沿線格差』のように、勝ち組と負け組を明記したりしていないので、それなりにインパクトは低下しているような気もしますが、一般に理解されている点も、あまり理解されていない点も、それぞれにコンパクトによく取りまとめられています。住宅を中心に駅や沿線を考える場合が多い気もしますし、本書でもそうなっていますが、あとは観光地というのは大げさにしても、買い物などの訪問先的な観点は含まれているものの、本書で欠けている勤務先という観点も欲しかったと私は考えています。なお、総合ランキングや勝ち組と負け組はないんですが、いろんな観点からのランキングは各種豊富に取りそろえています。特に、男女別に見たトイレ事情のランキングは、それなりに実用的な気もしました。数年前に公務員住宅を出て住まいを探した折に、マンション名が駅名になっていて、必ずしも行政的な住所表記と一致しない例があったのを思い出してしまいました。まあ、一戸建てなら関係ないんですが、本書で指摘している通り、多少のごまかしやハッタリを含めて、必ずしも行政上の住所表記ではないイメージのいい街を自分の住まいに当てはめる例は少なくないと思います。そして、大いに理解できるところかという気がします。最後に、五島家が東急経営で鉄道や商業そして、住宅開発などで総合的な手腕を示したのに対して、西武の堤家は鉄道と商業を兄弟で分担して失敗した、かのように示唆する部分がありますが、西武の鉄道と商業、それも、西武百貨店とスーパーの西友、さらに住宅開発の国土計画などを分割してしまったのは米国投資ファンドのサーベラスです。海外ファンドに株式を買い占められて短期的視野で経営に圧力をかけられるとこうなる、という悪い見本のような気がします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年8月 6日 (日)

先週の読書は話題の経済書など計7冊!

先週の読書は、イングランド銀行の総裁を務め、サブプライム・バブルの崩壊を乗り切った中央銀行総裁のの1人であるマービン・キング卿の話題の書ほか、人工知能に関する日仏の学術書など、以下の通り計7冊です。キングの『錬金術の終わり』は、昨日の日経新聞の書評で取り上げられていました。米国雇用統計で1日営業日がズレて、やや多くなってしまいましたが、週5冊くらいにペースダウンしたいと希望しています。

photo

まず、マーヴィン・キング『錬金術の終わり』(日本経済新聞出版社) です。著者はご存じの通り、2003年から2013年まで10年間イングランド銀行の総裁を務めたエコノミストです。学界からチーフエコノミストとしてイングランド銀行に入り、総裁まで勤め上げた人物です。リーマン・ショック後の混乱を収拾した中央銀行総裁の1人であり、著者のことを錬金術師と称した向きもありました。英語の原題は The Endo of Alchemy であり、邦訳はこのタイトルそのまま直訳のようです。昨年2016年の出版です。ということで、何度か繰り返して、著者は本書のことを回顧録ではないと言明しています。そして、タイトルの錬金術とは、預金者から調達した資金が長期投資のために使われ、新たな経済的価値を生み出すという、歴史的に続いてきた現代金融の仕組みについて名づけられており、ところが、この金融の錬金術は、ハイパーインフレから金融破綻や銀行危機まで、経済に大きな厄災も同時にもたらしてきたわけで、悪い意味での錬金術を終わらせて、健全な金融と経済を築くにはどうすればよいのか、について考察を進めています。そして、金融危機や銀行破綻のひとつの原因が、高レバレッジと将来の不確実性にあると指摘していますが、ナイト流のリスクではない不確実性については、私はどうしようもないんではないか、と諦めの心境です。高レバレッジ、というか、それを逆から見た薄い自己資本については、単にバーゼル規制をもって対処するのか、それとも、強烈に100パーセント準備を必要とする単なる決済機能の提供者たるナロー・バンキングに移行するのか、後者は現実的ではないような気もします。そして、中央銀行の役割として、「どんなときも頼りになる質店」を提唱しています。また、究極の問いとして、著者は、銀行は政府の延長なのか、それとも市場の延長なのか、と問うています。いろいろと知的好奇心を満足させる本ではありますが、ひとつだけ、銀行に対比させるに個人や家計の預金者を想定しているような書き振りがいくつか見受けられます。およそ規模が違うんですから、せめて企業一般、そして、可能な部分については金融機関を対比させてほしい気もしました。

photo

次に、三橋貴明『生産性向上だけを考えれば日本経済は大復活する』(彩図社) です。作者はマーケット・エコノミスト系の活動をしてきた人だと思うんですが、私は余りよく知りません。あまりご著書を拝読したこともないような気がします。本書は、基本的に、著者なりに経済を解説しようと試みている気がするんですが、さすがに、『錬金術の終わり』に続けて読むと、ややキワモノっぽさが目立ってしまいました。通説を批判するという形で議論を始めながら、最終的には通説に収斂しているような気もしますし、中身でかなり矛盾も散見されます。例えば、期待についてはエラいエコノミストでも適応的期待、すなわち、合理的期待に近いフォワード・ルッキングな期待形成を否定して近い過去から現状の状態がこの先も続くという現状維持バイアスに近い見方を示したかと思えば、メディアの誤った見方をそのまま受け入れているかのごとき見方が示されていたりもします。何より、タイトルの生産性という言葉について、本書の冒頭では労働生産性、すなわち、労働者1人当たりのGDPで定義して、通説の供給サイドよりもむしろ需要により変動する部分が大きく、我が国の低生産性の原因がデフレにある点を指摘したりしている一方で、結局、供給サイドの議論に回帰したりしています。私は生産性については需要サイドの影響も決して無視できないと考えていて、デフレが低生産性の原因との見方も含めて、本書冒頭の見方に大いに賛成なんですが、著者の腰が定まらず、本書の議論では、結局、通説の供給サイドに立ち返ってしまいます。ただ、低生産性の原因がデフレである点を含めて、私と意見が合う部分もかなり多く、潜在成長率とは現実の成長率を大いに繁栄しているという点、完全雇用失業率は現在の3%前後ではなく、さらに低下して2%台前半であるとする点、などなどです。もっとも、タイトルに関する議論だけでページが埋まらなかったものと見え、第4章以下はタイトルとの関係に疑問が残ります。まあ、高齢の方のお話が長くなる原理を垣間見た気がします。要するに、お話しのトピックとは関係なく、自分の持論を延々と展開するということなのだと思います。

photo

次に、松田雄馬『人工知能の哲学』(東海大学出版部) です。著者はNECのキャリアが長いエンジニアで、決して哲学者ではありません。東北大学とのブレインウェア(脳型コンピュータ)の共同研究プロジェクトを経験し、その経験が本書にも活かされている気がします。そして、出版社からも理解される通り、本書は純粋に学術書であり、一般向けの判りやすい解説書ではありません。例えば、第4章なんぞは難解な数式が頻出します。ただ、現時点での話題の的である人工知能に関する哲学ですので、私のような専門外のエコノミストでもそれなりの一般的な基礎知識が蓄積されつつありますので、それなりに判りやすく読めました。そして、論点は、人工知能の前半の人工は問題ないとしても、人口でない神の作り賜いし生命とは何か、そして、その生命の持つ知能とは何か、に関する哲学的な議論を進めています。そして、本書の結論として、神の作り賜いし生命が発揮する知能とは、そういった用語は用いていませんが、私なりの理解として、合目的的な行動を支えるものであり、その目的の設定は人工知能には出来ない可能性が高い、ということなんだろうと受け止めました。さらに、2045年のシンギュラリティを主張しているカーツワイルが基礎としているムーアの法則が今後も継続される可能性も低い、と予想しています。まず、後者について、私は指数関数的な成長については、今後も継続する可能性の方が強いと思っていますが、伸び率が低下する可能性は否定しません。前者に戻ると、目的設定については、これが明らかな将棋や囲碁については、何の問題もなく人工知能が人間を上回ったのは、広く知られている通りです。そして、本書の著者は羽生三冠の言葉を引用して、人間が勝てなくなれば桂馬が横に跳ぶとか、ルールを変更すればいい、として、まさに人間の知能が人工知能を上回る点を明らかにしています。もちろん、目的が設定され、情報を処理しつつ評価関数がアップグレードされる段階になれば、人工知能の方に分があります。そういう意味では、目標を設定する人間の知能とそれを最適に遂行する方法を見出す人工知能という組み合わせで歴史は進むのかもしれません。錯覚を並べた第2章の観念論的な見方、脳が世界を主観的に作り出している、という見方に少し違和感を覚えますが、全体としてとても参考になるいい本だという気がします。

photo

次に、ジャン=ガブリエル・ガナシア『そろそろ、人工知能の真実を話そう』(早川書房) です。著者はパリ第6大学の哲学者であり、コンピュータ・サイエンスを専門と知る教授を務めています。フランス語の原題は Le Mythe de la Singulatité ですから、シンギュラリティを神話として、疑いの目で見ているカンジでしょうか。2017年今年の出版です。ただ、この直前で取り上げた『人工知能の哲学』と並べて読むと、かなり見劣りがします。訳者あとがきで、シンギュラリティについては楽観派と悲観派と中立派の3者があるとしていますが、本書は4番目の否定派です。私も基本的にはシンギュラリティは、少なくとも2045年までにはやって来ない確率が高いと考えていますが、何分、専門外のエコノミストですので。シンギュラリティが来ないと思いつつも、来たら何が困るかを考え、やっぱり、人工知能やロボットの導入に伴う失業問題だろうということで、それならベーシック・インカムを導入する、という論理構成になるんですが、本書ではホーキングやビル・ゲイツなどの悲観派の論調を否定派で押し通している印象です。ただ、コンピュータの演算能力と知性については直接の関係はない、というか、別物であるとの主張は私も同意します。ただ、情けないと私が感じたのは、コンピュータの能力の量的な向上が質的な変化をもたらす可能性、まさに、ヘーゲルの弁証法的な量的変化が質的変化に転化する、を理解していない点です。先の『人工知能の哲学』でも取り上げられていた中国語の部屋のエピソードについては、チューリング・テストとの関係で正しく論じて欲しかった気がします。本書と先の『人工知能の哲学』の評価の違いはアマゾンのレビューでもうかがえます。『人工知能の哲学』の評価が星5ツがとっても多いのに対して、本書の評価は星5ツ星1ツの両極端に分けれています。最後に、コンピュータや人工知能の進歩の末にある恐怖は、本書が否定するような人工知能の自律的な人類への反逆ではなく、どこかのマッド・サイエンティストが発達して人類の能力を超えかねない人工知能やロボットの能力を悪用することだと私は考えています。その点については、まだマジメに考えている科学者は少ないのだろうと思います。

photo

次に、ジョシュア・ハマー『アルカイダから古文書を守った図書館員』(紀伊國屋書店) です。著者は「ニューズウィーク」などで活躍してきたジャーナリストです。そして、邦訳タイトルだけからでは判りにくいんですが、英語の原題は The Bad-Ass Librarian of Timbuktu であり、アフリカ西部のマリを舞台にしたノンフィクションです。原書は2016年の出版です。内容は邦訳タイトルそのままで、トンブクトゥの古文書をマリの内戦で蜂起したアルカイダからいかに守ったかをリポートしています。上の表紙画像で古文書を手にしているのは、本書の主人公とでもいうべき図書館員ハイダラ氏です。時期としては、2012-13年にかけてであり、まさに、訳者あとがきにある通り、2013年1月にアルジェリア東部の天然ガス精製プラントをイスラム過激派が襲撃し、日揮から派遣されていたエンジニアなど日本人10人を含む外国人37人が犠牲になった事件と大雑把に流れを同じくするアフリカにおけるイスラム過激派のテロの動向を背景にしています。トンブクトゥは12世紀から16世紀くらいまで、交通の要衝としてアフリカにおけるイスラム宗教文化の中心として栄えた文化都市、学問の都であり、盛んに写本が作成され、写本の記述された中身も宗教以外にも天文学や医学や幾何学など広範な分野に渡るだけでなく、金箔の装丁など一級の美術品としても価値もある古文書が数多く残されているらしいです。そして、本書の主人公は、一族・一家に伝わる古文書を基に私設図書館を設立したり、その前は、古文書の研究機関・図書館に勤務して古文書を収集したりしていたことがあり、先ほどの2012-13年のアルカイダ系のイスラム過激派の武装蜂起でトンブクトゥの古文書が焼失の危険にさらされることを見抜き、3万冊余りの古文書をより安全なマリの首都バマコに運び込んだ物語です。前半は、主人公が父親から一家や一族に伝わる古文書を受け取り、決して売ったり譲渡したりしてはならないと今わの際に言い置かれ、古文書の研究機関兼図書館に勤務して多数の古文書の蒐集に当たったり、あるいは、この研究機関兼図書館から独立して、父親から引き継いだ古文書を基に私設図書館を開設する、といった、それはそれで興味深いストーリーなんですが、何といっても本書のハイライトは終盤にあり、アルカイダから逃れ、政府軍からも追われ、そして、当時のオランド大統領の決断により介入したフランス軍にも足止めを食らいながら、大量の古文書を運送するところです。もちろん、私のような開発経済学を専門とするエコノミストから見れば、トンブクトゥの人々にとっては、古文書は先進国からの援助を引き出すための、いわば「メシのタネ」なわけで、あだやおろそかにはできないんですが、文化の香りも手伝って、とてもいい物語に仕上がっています。映画化されれば、私はたぶん見に行くと思います。

photo

次に、マルタ・ザラスカ『人類はなぜ肉食をやめられないのか』(インターシフト) です。著者はサイエンス・ライターということのようです。ポーランド人でフランス在住らしいです。ほとんど肉食をしないベジタリアンのようです。英語の原題は Meathood ですから、接尾時の -hood については、いろんな意味があるんでしょうが、brotherhood と同じと考えて、直訳すれば「肉への愛情」くらいのカンジかもしれません。ということで、1か月ほど前の7月9日付けで取り上げたウィルソン『人はこうして「食べる」を学ぶ』によれば、食べるということは、本能ではなく、ましてや文化でもなく、学習の結果だということだったんですが、結論を先取りしていえば、本書では食事は文化だということになります。そして、肉食は権力、成功富、男らしさ、などなどを象徴していると著者は考えています。ただし、最近時点では、肉食に反対する一定の勢力が台頭し、大雑把に、健康の観点から肉食に反対するベジタリアン、そして、動物を殺すという倫理的観点からのベジタリアンです。後者は前者をやや軽蔑しているかのような記述も本書にはあります。また、当然ながら、宗教的観点から何らかの肉食を禁じる場合もあります。イスラム教やユダヤ教の豚は忌み嫌われて食べませんし、逆に、ヒンドゥー教の牛は神聖な生き物であり、やっぱり食べません。また、明治の近代世界に入る前の日本などでは、仏教的な観点から殺生を禁じて肉食は極めて稀だったといわれています。本書でも、日本では動物の肉をさくら、もみじ、ぼたんなどと呼んで、肉食っぽくなく感じさせる技を紹介しています。英語でも牛肉をビーフ、豚肉をポークと読んだりして、肉は生きている動物から切り離された名詞で呼ばれています。誠についでながら、私は関西人ですから、東京に出て来て宗教由来の言葉が少ないと感じた記憶があります。関西では「そら殺生でっせ」とか、「往生しましたわ」といった表現は日常的に使いますが、東京では聞いたことがありません。でも、肉食は関西の方が盛んな気もします。気ままに書き連ねましたが、私の年齢とともに肉食が減った気がします。

photo

最後に、阿川大樹『終電の神様』(実業之日本社文庫) です。著者は私よりさらに年長くらいな小説家なんですが、誠に不勉強にして、私はこの作者の作品を読んだことはありません。この作品は、かなり独立性の高い短編から編まれた連作短編集です。必ずしもタイトル通りの終電に限らないんですが、ある駅の近くで電車が人身事故や何らかのトラブルでしばらく止まることから生じる関係者の人生の変化を追っています。収録された7編の短編すべてが心温まるハッピーエンドではありませんが、何らかの人生に対するヒントは得られそうですし、読後感は悪くありません。女装の男性がキーワードになっている気がします。ただ、いくつか弱点もあります。作者の年齢から派生するような気もしますが、現在ではその昔ほど電車が止まる機会も少なくなりましたし、実感がどこまで読者と共有できるかは不安があります。それから、最後の短編などはとても話を作り過ぎてあざとい気もします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年7月29日 (土)

今週の読書は不平等に関する経済書など計7冊!

いろいろあって、今週の読書は、不平等に関する経済書をはじめ、話題の小説なども含めて計7冊です。今年上半期の芥川賞と直木賞が決まりましたが、私は芥川賞は今日取り上げる今村夏子『星の子』で、直木賞は柚木麻子の『BUTTER』と予想していました。候補作をまったく読まない予想でしたので、当然ながら、みごとに外しました。

photo

まず、ブランコ・ミラノヴィッチ『大不平等』(みすず書房) です。著者は、アトキンソン教授らとともに不平等研究の先頭に立つの1人であり、長らくの世銀勤務の後、現在はルクセンブルク・インカム・スタディ(LIS)の研究者を務めています。なお、私は同じ著者が邦訳については同じ出版社から出した『不平等について』も読んでおり、2013年3月23日付けの記事で取り上げています。どうでもいいことながら、前著の邦訳書の表紙にもゾウが出ていたような記憶があります。英語の原題は Global Inequality であり、ビミョーに邦訳タイトルと違っていて、グローバル化による不平等の進行についてもテーマのひとつとしています。2016年の出版です。ということで、本書の著者は、1980年代以降くらいに進行した現在の不平等化について、原因として、右派的なスキル偏重型の技術進歩についても、左派的な政策的な平等化努力の放棄についても、いずれも否定せず、さらに、勝者総取りについても、その昔の1980年代初頭のローゼン論文によるスーパースター経済、すなわち、拡張性の議論も否定せず、ひたすら淡々と現状分析を進めています。どうしてかという原因のひとつは、理論的な根拠が薄弱な経験則であるクズネッツ曲線を基に議論しているからではないか、と私は受け止めています。そして、対象としているのは、intra-nation な国内の不平等と inter-national な各国間の不平等であり、前者を階級に基づく不平等、後者を場所に基づく不平等と名付け、19世紀では前者の方が大きく、階級闘争というマルクスの主張にも一定の根拠があったが、20世紀以降、特にグローバル化が進展した20世紀後半では後者の方が圧倒的に影響力が大きくなっていると結論しています。つまり、良家に生まれるよりも先進国に生まれる方が格差の観点からは有利である、ということです。繰り返しになりますが、本書が基礎としているのはクズネッツ波形であり、大雑把に、緩やかなエコノミスト間の合意として、クズネッツ波形とは逆U字曲線として理解されており、横軸に時間または経済的豊かさを取り、縦軸に不平等の度合いを取ったカーテシアン座標において逆U字となり、資本主義の発展の前期には不平等の度合いが高まり、資本主義の後期には不平等は緩和される、というもので、1時点における多くの国のクロスセクションで実証されたり、いくつかの国のタイムシリーズで実証されたりしています。しかし、本書の著者はクズネッツ曲線を単に逆U字で終るものではなく、サイクルとして繰り返されるものと認識しており、資本主義経済に即していえば、クズネッツ波形の第1の波は平等化の進展であり、第2の波は現在のようなグローバル化による不平等化の進展、ということになります。そして、本書の最後の最後に、著者はグローバル化による利益は均等に分配されることはなく、ブローバリゼーションにより不平等化が消滅することはない、と結論しています。理論的・解析的であるより実証的であるのが本書の特徴といえます。したがって、有力な政策インプリケーションは出て来ません。それでも、現在の不平等化を理解する上で、とても参考にあるいい分析書だという気がします。ただし、右派的な機会の平等や不平等を論じた経済書ではありません。徹頭徹尾、結果の不平等を論じています。長々と書き連ねましたが、、最後のひとつ前に、英語の原題になく邦訳のサブタイトルだけに現れるエレファントカーブとは、邦訳書のp.13やp.34でお目にかかれますが、横軸に世界の所得の20分位や100分位を取り、縦軸に10年とか20年とかの間の実質所得の累積増加率を取ったグラフで、それに基づくと世界の所得分布の100分位でいうと80-90パーセンタイルのあたり、すなわち、先進国の中間層の実質所得がここ10年とか20年で伸び悩んでいて、そのあたりが米国のトランプ大統領の当選とかの現在のポピュリズムの原因のひとつである可能性が示唆されていますが、本書の主張の重点ではない気がします。なお、このエレファントカーブの実物を見たい向きは、今週木曜日7月27日付けの日経新聞の経済教室で、米国カリフォルニア大学バークレイ校のデロング教授が引用しています。ご参考まで。最後の最後に、私なんぞの読書感想文ではなく、全国紙などの書評に興味ある向きは、私が読んだ範囲で以下の通りです。7月23日付けの読売新聞でも見かけたんですがサイトが見つかりませんでした。悪しからず。

photo

次に、新田信行『よみがえる金融』(ダイヤモンド社) です。著者は、みずほ銀行常務から第一勧業信組理事長に転任した銀行マンです。第一勧業信組は、例の無担保・無保証の芸者さんローンで有名になったんですが、もともと、東京都下でもかなり規模の大きな信組ではないかと思います。著者はすでに叙勲も受けて、本書の内容はほとんど自慢話なんですが、信組であれば数百人の規模の組織ですし、本書の第一勧業信組も200人とか300人とあったような気がしますから、それくらいの規模であれば、トップがほとんどすべてのメンバーと面識があり、その意味でもトップがすべての組織となってもおかしくはありません。役所関係で想像すれば、警察署、独立行政法人などです。私は警察官ではありませんから警察署勤務の経験はありませんが、独立行政法人、その昔の特殊法人も含めて勤務経験があり、例えば、所管官庁の事務次官なんぞを経験した天下り理事長がワンマン体制を敷いていることもめずらしくないような気がします。それは別として、本書では東京ながら小規模な信組で、芸者さんローンをはじめとして事業性のローンを開拓したり、あるいは、地域の創業支援をしたりと、地域経済に密着した金融機関のいい面が取り上げられているんですが、その際、無担保無保証のローンも少なくなく、従って、「目利き」ということばがキーワードとして頻出します。この言葉に、デフレとともに「失われた20年」の原因があります。すなわち、日本経済は特別の能力を持った人材を育てることなく、また、評価することなく、ひたすら作業をマニュアル化して非正規社員に代表されるような未熟練労働を雇用してコストカットすることに企業経営の努力を傾けて来たわけです。外資系企業では日本企業の10倍、文字通りの桁違いの報酬を得ている高スキル人材も少なくない中、我が国企業では、ひたすた未熟練の低賃金雇用を進め、そして今やデスキリングを生じてしまっているわけです。本書でもインプリシットにその点を認めており、p.267では、農業がもうからないのは農業事業者に価格決定権がないからであると喝破しています。まさに、我が国の労働市場では農業生産者と同じことが起きており、高スキルの労働力にキチンと報いて高賃金を提供することなく、ひたすら低スキルの非正規労働者に高スキル労働力を切り替えやすくすることをもって「岩盤規制」と称しているわけです。さらに未熟練でさらに低賃金の労働者を雇いやすくするという意味で、現在の労働市場改革がまったく逆方向を向いていることを本書を読んで実感しました。

photo

次に、冨島佑允『「大数の法則」がわかれば、世の中のすべてがわかる!』(ウェッジ) です。著者は、金融機関やヘッジファンドで運用を担当するなどの経歴の後、現在は生命保険会社でリスク管理などのお仕事をしているようです。生保の機関投資家としての運用については、関係ないことながら、伝統的に、セルサイドが強い日本ですから、バイサイドはややツラいかもしれません。ということで、本書のタイトルとなっている大数の法則とは、個別には、あるいは、試行が少ない場合は結果がランダムとなり予想が難しい物事も、それらが多く寄せ集まると、全体としての振る舞いは安定する、というものであり、ランダムな変動を持つ系列を集めて正規分布を当てはめる中心極限定理につながる法則です。そして、本書ではこの大数の法則から出発して、それが成り立つための独立の仮定と同一性の仮定を明らかにし、単なる確率論から始まって、投票などに左右される裁判の陪審制や民主主義までお話を拡張しています。要するに、コイントスやさいころなどのランダムで独立性が確保されており、ウェイトが微小で各試行の同一性が確保されるのであれば、大量の嗜好により理論的な確率が実践の場で観察されるということですから、本書でも後半で強調されている通り、一発勝負で大きなゲインを狙うよりも、日々の努力を積み重ねて行くという地道な努力が重要であることに気づかされます。また、本書では本格的に展開せずに軽く示唆しているだけなんですが、非常に小さな確率の差が試行を重ねることにより結果として大きな開き、とまでいわないとしても、結果に十分な影響を及ぼすことが明らかにされます。例えば、テニスのラリーを取るか取らないかについて、わずかに見える1%の確率の差というのは結果に対してとても大きな差を生じさせます。ただ、本書で触れられていない大数の法則の弱点は分布にあります。大数の法則はあくまで平均値に収束するという事実を確認できるだけであり、分布でテールがファットな場合のダメージ、というか、大きな影響力を十分に評価できていない気がします。すなわち、生命保険や自動車事故に対する損害保険などであればともかく、原発に対する津波の影響については大数の法則は十分な力を発揮できません。まあ、これは大数とよべるほどの試行回数の積み重ねが出来ませんから、大数の法則とは別物、というか、本書でも取り上げられている少数の法則のカテゴリーかもしれませんが、平均値に収束するものの、分布からテールファットな事象に対する大数の法則の適用には慎重であるべき、との結論も重要かという気はします。

photo

次に、ルチアーノ・フロリディ『第四の革命』(新曜社) です。著者はローマ生まれで、英国オックスフォード大学の研究者だそうです。専門分野は哲学や情報倫理学であり、従って、作者のはしがきで、「本書は哲学の本である」と記されています。英語の原題は The Fourth Revolution であり、邦訳タイトルはこれをそのまま直訳しているようです。本書では独特の勘弁な歴史区分を用いており、一般に先史時代と呼ばれるプレヒストリー、歴史が記録されるようになって以降のヒストリー、そして、現在のようにICTで歴史が記録されるようになったハイパーヒストリーの3区分です。ついでながら、第4の革命に先立つのは、コペルニクス革命、ダーウィン革命、フロイト革命ないし精神科学革命だそうです。そして、第4の革命は情報通信革命であることはいうまでもありません。この含意は、人類は、コペルニクス革命によって宇宙の中心ではなくなり、ダーウィン革命によって特別な種ではなくなり、フロイト革命によって自らの主人でもなくなったわけですが、現在の第4の情報革命が人類をどこに導くのか、ということです。このため、本書では第1章から第3章で時間、スペース、アイデンティティの基礎について等々と記し、その先の第4章の自己理解以降で、プライバシー、知性、エージェンシー、政治、環境、倫理をひも解いていきます。まず、細かい点ではプライバシーについて、著者はいくつかの区分を示していますが、何度かこのブログで示した通り、私はベッドルームのプライバシーと買物のプライバシーは扱いを違えるべきだと考えています。すなわち、ベッドルームのプライバシーは個人の秘密として公開を避けて守られるべきであるのに対して、買い物や雇用なアドの片側が市場である場合はプライバシーは保護されないと覚悟すべきです。そして、著者のもうひとつの独特の考えが第9章の環境に示されていて、「善の前の悪」という見方です。すなわち、先々の善を獲得するためには、いったん悪い状態に落ち込む必要がある、というものです。エコノミストとして、先行きの好調な経済のためには、現時点では大いにがまんして、痛みを伴う構造改革を実施せねばならない、という考えがいまだに一部に見受けられるのを、とても不思議に感じているんですが、まさに、こういった思考から出ているんだろうという気がします。経済学的に、いわゆる迂回生産というのがあり、現在の消費を我慢して貯蓄して資本蓄積に励み、その後の生産増につなげる、という考えはとてもプピュラーなものですが、それとのアナロジーで、痛みを伴う構造改革が持ち出されるのが、私にはとても不思議だったんですが、こういった考えが日本人以外にもあるんだと知ることができて、それはそれで参考になりました。なお、訳者あとがきで、本書をトフラー『第三の波』になぞらえているのは、余りに厚顔無恥な気がします。本書は300ページ余りから成りますが、最初の3章120ページほどが特に難解です。そこを超えられなければ途中で挫折するしかありませんが、そこをクリアできれば残りの200ページほどはすんなりと読めるんではないか、と思います。ただし、翻訳上の誤訳とタイプミスが気にかかります。私くらいのスピードで読んでいても目につくくらいですから、ていねいに読んでいる人にはかなり目障りかもしれません。

photo

次に、今村夏子『星の子』(朝日新聞出版) です。作者は売出し中の純文学の小説家です。私も『こちらあみ子』『あひる』の2冊を読んでいて、『あひる』の読書感想文は今月7月1日付けでこのブログに収録しています。なお、前作の『あひる』とこの作品はともに芥川賞候補作でしたが受賞は逃しています。ということで、この作品では出生直後から病弱だった主人公を救いたい一心でうさん臭い宗教団体が出している「金星のめぐみ」という特殊な水を使い、たまたま、なんでしょうが、主人公がすっかり健康になったことから、両親がこの宗教にのめり込んで行きます。主人公の姉はこれに反発して高校1年生の時に家出して行方不明となり、主人公の叔父も姉の協力により「金星のめぐみ」を公園の水道水に入れ替えたり、あるいは、本作の最終段階で中学3年生の主人公が高校に上がったら叔父の家に引き取る心づもりを明かしたりと、宗教にのめり込む両親とそうではない家族や親族との葛藤もあります。父親が定職を離れたり、引っ越すたびに小さい家になったり、両親の服装などがみすぼらしくなったりと、いかにも新興宗教らしく信者がお金を巻き上げられている様子も示唆されています。そして、主人公の学校生活とともに、どう見ても異質な宗教の力を軽々と描き出す作者の筆力、表現力に脱帽します。そして、最後は宗教団体の研修所のようなところで親子3人で流れ星を見続けて物語は終わります。純文学ですから、エンタメ小説と違って落ちはありません。落ちはないんですが、この作者に共通するポイントとして、子どもが純粋であるがゆえに、実は社会性ある大人とのズレを感じさせ、悪意とまでは呼ばないとしても、一種の居心地の悪さ、不安定さを感じさせる小説でした。この作者の持ち味かもしれません。私のようなパッパッと読み飛ばす読み方ではなく、行間を読み込める読者には、短い物語ながら、より実り多い作品ではないかと感じさせるものがありました。なお、どうでもいいことながら、その昔に私が京都大学に進学する前に、父親が学生生活の注意として上げた3点を思い出してしまいました。実は、上の倅が大学生になる前に同じことを私から倅に伝えた記憶があります。すなわち、第1に、宗教の勧誘は相手にせず、我が家は有り難い一向宗(浄土真宗)の門徒であること、第2に、マルチ商法には手を出さないこと、第3に、学生運動には加わらないこと、です。だたし、京都の家らしく、第3の点については、自分自身の良心に問うて確信があるのであれば、何らかの政治運動に身を投じるのは妨げない、ということでした。最後の最後に本題に戻って、この作品の著者は、そのうちに芥川賞を受賞する、と私は本気で信じています。とても楽しみです。

photo

次に、瀧羽麻子『左京区桃栗坂上ル』(小学館) です。少し前に同じ作者の『松ノ内家の居候』を取り上げましたが、我が母校の京都大学の後輩であり、しかも経済学部の卒業生です。不勉強な私の知る限りでは、京都大学経済学部出身の小説家は、この作品の作者とホラーやミステリの売れっ子作家の貴志祐介しか読んだ記憶がないことについてはすでに書いた通りです。ということで、左京区シリーズ、というか、左京区3部作の完結編です。本書の最終第6章を読めば、明らかに、作者は本書をもって左京区シリーズを終了する意図であることが理解できると思います。例の学生寮トリオの龍彦、山根、と来て、本書では安藤を主人公としており、このトリオをはじめとして、最終第6章で周辺登場人物も含めてその後の彼らの行く末を取りまとめています。後は、スピンオフ作品が出るかもしれませんが、明らかに、作者の意図としては左京区シリーズ、あるいは、左京区3部作は終了しました。前作の、というか、第1作の『左京区七夕通東入ル』では龍彦と花の出会いを、第2作の『左京区恋月橋渡ル』では山根の悲恋を、そして、この作品では学生寮トリオで残った安藤の幼なじみ、というか、正しくは、安藤の妹の幼なじみとの再会と大学生活と恋愛、さらに結婚・出産までを跡付けています。龍彦が大阪出身、山根が神戸出身、そして、本書の主人公である安藤が奈良出身でしたが、私は中学高校と奈良まで通っていて、大学が京都大学ですから奈良と京都にはなじみ深く、安藤を主人公とするこの3作目の左京区シリーズ、左京区3部作の3作目を特に楽しみにしていました。加えて、関西弁の中でも京都弁と奈良弁と大阪弁と神戸ことばと、微妙に使い分ける作者の筆力も大したものです。ただ、惜しむらくは、小説としてはさほどの水準ではありません。人物キャラもそれほどクッキリというわけでもありませんし、プロットもとてもありきたりです。ハッキリいって、京都大学出身の作者による京都大学と思しき大学を舞台にした青春小説、というジャンルでなければ、私も読まなかったんではないか、という気がしますし、恋愛小説というジャンルには独特のモノがあり、かなりの人気ジャンルだと思いますが、私は恋愛小説である、というだけでは必ずしも評価しません。いろんな条件が重なり合って読んだんだという気がします。文学作品としては、芥川賞候補に上げられた『星子の』とは比べるべきではありません。最後に、その純文学の『星の子』と違って、この作品はエンタメ小説ですから落ちがあります。どうでもいいことながら、割と最近、私が読んだフィリップ K. ディックのSF小説、たぶん、『死の迷路』か何かで、翻訳した山形浩生さんがあとがきか解説で、その昔はSF小説は落ちで分類されていた、なんて書いていたような気がしますが、SF小説に限らず、エンタメ小説は落ちがある場合が少なくありません。そして、もちろん、読書感想文で落ちを明らかにするのはルール違反です。最後の最後に、webきららのサイトにpdfファイルがアップロードされており、本書の第1章の連載時の試し読みが出来ます。ご参考まで。

photo

最後に、マイク・モラスキー『戦後日本のジャズ文化』(岩波現代文庫) です。2005年の出版ですが、最近時点で文庫化されました。朝日新聞の書評読売新聞の書評で見かけて思い出し読んでみた次第です。作者は米国のセント・ルイス生まれで、現在は日本に定住し早大教授を務めています。ということで、そのものズバリのタイトルについていくつかの観点から論じていますが、映画に関しては石原裕次郎主演の「嵐を呼ぶ男」を取り上げています。「おいらはドラマー…」で始まる例の歌については、私はどこをどう聞いてもジャズには聞こえないんですが、当時の観衆はジャズに聞こえていたかもしれないと思わせるものがありました。文学については五木寛之のデビュー作「モスクワ愚連隊」を取り上げ、当時のソ連文化部の高官が、いかにもありきたりではありますが、高級な音楽であるクラシックと低俗な娯楽であるジャズを対比している様子が明らかにされます。本書では1980年代以降はジャズも「過去の音楽」になった、として、エスタブリッシュされたかのような結論を引き出していますが、実は、今でもこういった対比は消滅したわけではなく、21世紀の時点でも生き残っています。例えば、私の好きなクラシック音楽のピアニストの1人でベートーベンの名手であるフリードリヒ・グルダには、ジャズっぽい即興演奏を収録したレコードがあり、実際に1970年代にジャズに転向しようとして周囲に止められたらしい、という噂すらありますが、私の知り合いには人類の宝ともいうべきベートーベンのピアノ曲とジャズの俗っぽい娯楽作品を対比させてしゃべる男がいたりします。音楽だけでなく、ひょっとしたら、純文学を有り難がって、エンタメ小説を小馬鹿にするような人もいたりするのかもしれません。それはさて置き、本書の白眉のひとつは第5章のジャズ喫茶に関する論考です。上の表紙画像の真ん中右はしは京都のジャズ喫茶であるしあんくれーるではないかと思います。私の学生時代にはまだありましたが、もうないのかもしれません。フランス語で Champ Clair と綴り、明るい場所、あるいは、明るい田舎、という意味だったと記憶しています。河原町荒神口の府立病院の南側にあり、名前とは裏腹に暗い店内で大きなJBLのスピーカーでもって大音量のジャズを流していた記憶があります。私は東京に出て来てからも、渋谷の道玄坂を上ったあたりにあって、名をすっかり忘れたジャズ喫茶にも通った記憶がありますが、同じようなものだった気がします。本書のジャズ喫茶の掟の中に、おしゃべりはするべからず、というのがありますが、これらのクラスの大音量ではとても有益な会話は出来なかろうという気がします。私は注文はメニューを指さしていたと記憶しています。それから、最後に、ジャズメンとドラッグに関して、チャーリー・パーカーなどのコカイン中毒ほかについて記述がありますが、やや偏った印象です。確かに、ジャズメンでコカインにおぼれた人は少なくないでしょうし、バド・パウエルのようにアル中もいます。でも、ジャズに限らず、音楽家の中には感覚を研ぎ澄ますためにドラッグに手を出す人は少なくないだろうという気も同時にします。ローリング・ストーンズが長らく来日できなかった原因もドラッグです。まあ、他のミュージシャンがドラッグに手を出しているから、ジャズメンもやっていいとは思いませんが、少し配慮して欲しかった気もします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年7月22日 (土)

今週の読書はかなり経済書があって計6冊!

今週の読書は経済書もタップリと計6冊。以下の通りです。

photo

まず、藤井聡『プライマリー・バランス亡国論』(育鵬社) です。著者は都市社会工学専攻の京都大学教授ですが、現在は内閣官房参与として、ご専門の防災・減災ニューディール担当だけでなく、幅広く公共政策に関して現在の安倍内閣をサポートしているようです。本書ではタイトル通り、財政政策から幅広く経済ア制作一般について取り上げ、特に、基礎的財政収支=プライマリー・バランス(PB)を2020年度に黒字化との財政政策目標について、この目標は2010年の民主党政権の菅内閣のころのものであり、過度に財政を黒字化することから日本経済にはマイナスであり、もちろん、デフレ脱却にも逆行し、財政再建の目標と相反して、財政赤字を増加させかねないと主張しています。リフレ派のエコノミストである私の考えともかなりの程度に一致しており、実際に、民主党政権下で与野党合意した10%への消費税率引き上げについては、第2段階目の10%への引き上げが何度か先送りされたものの、第1段階での2014年4月時点での8%への引き上げで大きなダメージがあり、まだ消費が消費税引き上げ前の状態に戻っていないのも事実です。もちろん、放漫財政に堕することは避けねばならないとしても、現時点で、日銀の異次元緩和の下で量的緩和のために国債が大量に日銀に市場で買い上げられている状況では、我が国政府債務のサステイナビリティには特に問題もなく、過剰に消費税率を引き上げてまで財政再建に取り組むのは行き過ぎであり、従って、フローとしてのプライマリー・バランスの黒字化ではなく、ストックとしての政府債務残高のGDP比を安定させることをもって政府目標とすべき、というのは本書の主張です。ついでに、企業や政府の債務によって経済が成長する、とも主張されています。まったく私のその通りだと考えます。私の基本的な経済政策スタンスとして、ほぼほぼ100%本書の趣旨に賛同する、という前提の下で、いくつか指摘しておきたい点があります。というのは、第1に、1947年の第1回経済白書で「家計も企業も政府も赤字」という有名な表現がありますが、マクロ経済学的に家計部門、企業部門、政府部門、海外部門の4セクターの貯蓄投資バランスを純計するとゼロになります。データの制約がなければ、世界各国の貿易収支の純計がゼロになるのと同じ理屈です。ですから、政府や企業が債務を発生させて投資を行い、経済を成長させるためには何らかの貯蓄の原資が必要になります。第2に、私もその昔に大学の教員で出向していた際に、財政の持続可能性に関する紀要論文を取りまとめ、政府の目標とすべきはフローの財政バランス化、あるいは、ストックの政府債務残高か、と考えを巡らせましたが、やはり、ストックの政府債務残高の方が内生性が高く、すなわち、政府が政策変数として操作できるのはフローの財政バランスであって、その結果としてストックの政府債務残高が内生的に決まる、としか考えようがありませんでした。まあ、金融政策では、通常の場合、オペレーションを操作して金利を目標にするわけですから、本書のように内生性が高くても政府債務残高を目標にすべきという議論は十分に成り立ちますが、まずは、毎年の予算における財政バランスに目が行くのもあり得ることだという気はします。

photo

次に、田代毅『日本経済 最後の戦略』(日本経済新聞出版) です。著者はよく判らないんですが、経産研の研究者ということのようです。博士号の学位は取得していないのでポスドクでもなさそうですし、大学の教員でもないようです。よく判りません。とはいうものの、本書の主張もかなり幅広いものの、現在の政府の経済政策を多くの点でサポートしている分析を展開しています。特に、浜田教授がシムズ論文に触発されて、デフレ脱却における財政政策の役割を主張し始めていますが、本書の著者は明確に物価水準の財政理論 (Fiscal Theory of Price Level, FTPL)を支持しています。ただ、私も本書のタイトルにひかれて読み始めましたが、実は、日本経済の現在のパフォーマンスの低さは政府債務の累積から生じていると、私の目からは論証希薄でアプリオリに前提した上で、いかに債務の負担を軽減するか、というお話に終始しているようです。債務以外の成長論や金融財政政策以外の幅広い経済政策を取り上げているわけではありません。逆に、債務の重責からの脱却についてはとても幅広く考察を巡らせています。例えば、金融抑圧、資産課税、民営化などの政府資産売却、デフォルトや債務再編、インフレなど、普段あまりメディアや学界などでは議論されない選択肢があることを提示しています。官庁エコノミストとしては、実際の政策としては、手を付けにくい選択肢であるといわざるを得ません。また、ほぼ政府債務だけを成長の阻害要因としていますので、それ以外の人口動態とか通商政策などには目が向けられていません。ですから、第6章の財政余地の使い道などについても明確ではなく、子育てや少子化対策、あるいは、家族の支援などの高齢者への社会保障ではない社会保障、あるいは、インフラ整備などへの使途が考えられるんですが、そのあたりの分析は物足りないものがあります。また、債務危機に関してギリシアが何度か取り上げられていますが、私は内国通貨で発行されている国債については、日本の場合はサステイナビリティにはほとんど問題ない、と認識していますので、やや的外れな印象もありました。ただ、経済成長と財政再建はトレードオフではないと主張し、タブーを恐れず、あらゆる政策手段・目標を総動員して長期停滞から脱出すべく、クルーグマン教授の用語でいえば「脱出速度」を上げ、同時に、債務問題を解決するための手立てを探るという知的な取り組みはなかなかのものがあります。債務整理以外の問題が何も取り上げられていないのはやや物足りませんし、結論がややありきたりかもしれませんが、それなりにあらゆる選択をを考慮する頭の体操にはよさそうな気がします。繰り返しになりますが、官庁エコノミストには議論すらムリそうな主張も数多く含まれています。

photo

次に、 谷口明丈・須藤功[編]『現代アメリカ経済史』(有斐閣) です。アメリカ経済史学会のメンバー17人が序章と終章を除く17章のチャプターごとに執筆した本です。タイトルそのまんまなんですが、副題は『「問題大国」の出現』とされています。17章をズラズラと並べるわけにもいきませんから、4部構成となっていて、第1部 経済と経済政策、第2部 金融市場と金融政策、第3部 企業と経営、第4部 社会保障・労働と経済思想、となっているんですが、最後の第17章のように、苦しい配置になっているチャプターもあります。年代の範囲は1929年の大恐慌やニュー・ディールあたりから、2008年のリーマン・ショックまでをカバーしています。ハッキリいって、チャプターごとに精粗まちまちで、マルクス『資本論』やレーニン『帝国主義論』が参考文献に出るようなチャプターもあれば、歴史かどうか疑わしい、例えば、第17章などもあります。チャプターごとに読者の方でも参考になったり、興味を持てたりするかしないか、いろいろとありなんだろうと思いますので、私のようにそれなりの時間をかけて通して読むというよりも、ひょっとしたら、興味あるチャプターを拾い読みするべきなのかもしれません。なお、私の場合、第1部では反トラスト政策の変遷が興味ありましたが、スタンダード・オイルの成立などを考えると、1929年からではなく1880年ころから追って欲しかった気もします。第2部の金融は概ね出来がよかったです。第3部はともかく、第4部は経済史のカテゴリーに収まり切らない気もしましたが、現在の米国の経済的な格差を考えると、もっと注目していい分野かもしれません。伝統的なマルクス主義的経済史の考えによれば、原始共産制から始まって、古典古代の奴隷制、中世の農奴制、そして、近代以降のブルジョワ資本主義から、革命があるとすれば、社会主義や共産主義に歴史は進むんでしょうが、米国の場合は、おそらく、近代資本主義からいきなり始まるんではないかという気がします。最後に、経済史の範疇ではありませんが、教育についてはもっと掘り下げた歴史的な分析が欲しい気がします。500ページを超えるボリュームで、さすがの私も読み切るのにかなり時間がかかってしまいました。ただ、悲しいながら、ノートを取りながらていねいに読むタイプの学術書ではありません。これも、ハッキリいって、学術書としての出来はそれほどオススメ出来ません。

photo

次に、小林由美『超一極集中社会アメリカの暴走』(新潮社) です。著者はよく判らないながら、金融機関でエコノミストをしていたようです。もう定年近い私よりもさらに年長の方のようです。10年ほど前に『超・格差社会アメリカの真実』というタイトルの本も出版されているようですから、米国における格差について長らく着目されているようです。ただ、経済学的な鋭い分析はありませんので、一般読者には判りやすい可能性がある一方で、例えば、エコノミストの目から見たりすれば、ややデータに基づく検証が少なくて情緒的な印象が残るかもしれません。出だしが、「0.1%」対「99.9%」ですから、ウォール街を占拠せよのオキュパイ運動の1%をさらに情緒的に細かくした印象を私は持ちました。こういった経済学的ではなく、単なる表現上の強調には私は感心しません。現在の米国で所得や富が一極集中しているのは、エコノミストでなくてもかなり多くの人々がすでに知っている、というか、少なくとも日本人でも知識としてはあるわけですから、本書のようにその実態を伝えないのであれば、著者のようにメディアから知ることのできる一般論を羅列するのではなく、ジャーナリスト的にもっと取材に基づく確固たる事実を、たとえバイアスがあったとしても、もっと個別の事実を集めるべきだったような気がします。昨年お米国大統領選挙で、あるいは、民主党の予備選挙でサンダース候補があそこまで食い下がった要因、そして、何よりもトランプ米国大統領が当選した背景など、格差とどのような関係にあり、本書のチャプターのタイトルを用いれば、ウォールストリートの強欲資本主義、あるいは、シリコンバレーの技術革新、などなどとどのような関係を見極めるべきか、知りたいところです。私自身は本書の著者の主張と相通ずるところがあり、現在の米国の混乱や不安定、典型的にはトランプ大統領誕生を支えた移民に対する排斥感情など、こういった考えは現在までの政治の怠慢、ないし、不作為から生じており、政治がキチンと向き合えば、そして、政府が適切な政策を採用すれば、完全なる解決とまではいわないにしても、それなりの緩和措置は可能なハズだと、本書の後半の底流をなしていますし、私もそう考えています。しかし、現時点では、英国がEU脱退を国民投票で決めたり、米国にトランプ大統領が誕生した一方で、フランスのマカロン大統領の当選のように、ポピュリズム一色で反民主主義的な傾向が一直線に進むわけではありません。米国だけを見ていれば、本書のように「メガトレンド」と感じてしまうのかもしれませんが、まだまだ先進国の中にも捨てたものじゃない国は残っています。

photo

次に、野中郁次郎『知的機動力の本質』(中央公論新社) です。著者は、旧日本軍の敗因を分析したベストセラーである『失敗の本質』の著者の1人であり、一橋大学の名誉教授です。本書は中公新書で出版された『アメリカ海兵隊』の続編だそうですが、私は余りにも専門外なので読んでいません。ということで、タイトルがとても魅力的だったので借りて読みましたが、要するに、米国海兵隊の提灯持ちをしているだけのような気がします。米国海兵隊のどこが知的であり、どこが機動的なのかはまったく理解できませんでしたし、当然、知的であったり、機動的であったりする要因も見当たりませんでした。まあ、米国海兵隊が世界水準からみても最強の軍隊のひとつである点は、専門外の私でもほのかに理解できる気がしますし、その強さについて歴史的な観点も含めた分析も有益かもしれませんが、これが我が国の企業経営に役立つ、米国海兵隊が我が国企業のロールモデルになる、とは私のようなシロートからは考えられません。せいぜいが、精神論的な役割くらいではないでしょうか。まずもって、私が奇異に感じるのは米国海兵隊というのは戦闘や武力行使を行う集団であって、政治や外交の一部としての戦争を行う集団ではない、と私は考えています。シビリアン・コントロールを持ち出すまでもなく、クレマンソーではないですが、「戦争は将軍に委ねるにはあまりに重大な問題だ」ということであり、戦争を遂行するのはあくまで政治家であり、戦争の中の戦闘行為を行うのが軍隊である、と私は考えています。そういった観点は本書にはまったく見られません。逆に、とぼけたことに、消防士がいるから火事があるのではないとうそぶいていますが、戦争は軍隊があるから誘発される場合があり、なぜなら、戦争は単なる戦闘行為ではなく、武力をもって行う政治や外交の延長だからです。繰り返しですが、米国海兵隊が最強の軍隊のひとつである認めるにやぶさかではないものの、知的であるのは戦闘行為の基になる戦争を遂行する政治や外交レベルが知的なのだからであり、機動的なのは先進工業国である米国の製造業が軍隊を機動的に運送する手段を提供するからです。いずれも米国海兵隊に付属する特徴かもしれませんが、本書のように米国海兵隊を政治や外交、あるいは、国内産業から切り離して論ずるのは意味がないと私は考えています。昨日金曜日夜の時点でアマゾンの書評も意見が分かれており、星5ツが2人、途中がなくて、星1ツが1人です。私は星1ツの書評に同意する部分が多いような気がします。

photo

最後に、荒居蘭ほか『ショートショートの宝箱』(光文社文庫) です。30のショートショートが収録されています。作者もほぼほぼシロートに近い駆け出し作家から、それなりに名の知れた小説家まで、とても幅広く、もちろん、作品の傾向も星新一もどきのSF、あるいは、ホラー、ちゃんと完結していないもののミステリ、さらに、青春や家族や恋愛やといったフツーの小説のテーマまで、極めてバラエティ豊かに収録しています。たぶん、涙が止まらないといった泣けるお話はなかったように思いますが、心温まるストーリー、思わず吹き出すような滑稽さ、ほっこりしたり、ジーンと来たり、やや意外な結末に驚いたり、1話5分ほどで読み切れるボリュームですから、深く感情移入することはできない可能性もありますが、ごく日常の時間潰しにはもってこいです。電車で読んだり、待合わせや病院の待ち時間に楽しんだり、夜寝る前のひとときなど、私のような活字中毒の人間が細切れの時間を有効に活用するためにあるような本だという気がします。スマホではなく、読書で時間潰しする人向けです。また、私はごく平板に読み切ってしまいましたが、お気に入りの作品を探すのもひとつの手かもしれません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧