2024年5月25日 (土)

今週の読書は経済書と歴史書に新書を合わせて計6冊

今週の読書感想文は以下の通り計6冊です。
まず、エドワード・チャンセラー『金利』(日本経済新聞出版)は、どこかで見たような低金利批判のオンパレードです。クィン・スロボディアン『グローバリスト』(白水社)は、シカゴ学派ではなくジュネーブ学派のハイエクなどに新自由主義=ネオリベの源流を求めた歴史書です。堤未果『国民の違和感は9割正しい』(PHP新書)では、能登半島地震の復興策や自民党のパーティー券収入の裏金などに関して、国民の違和感を正しく評価しています。雨宮処凛『死なないノウハウ』(光文社新書)は、格差が広がり貧困が蔓延する日本社会で、生死を分けかねない社会保障などの重要な情報を収録しています。柯隆『中国不動産バブル』(文春新書)は、中国のバブルはすでに崩壊したと指摘し、中国バブルの発生と進行を後づけています。寺西貞弘『道鏡』(ちくま新書)は、日本史上の悪僧として名高い道鏡について、巷間のウワサの域を出ない物語を否定し、その実像に迫ろうと試みています。
ということで、今年の新刊書読書は1~4月に103冊の後、5月に入って先週までに19冊をレビューし、今週ポストする6冊を合わせて128冊となります。順次、Facebookやmixiなどでシェアする予定です。なお、経済書ということで冒頭に取り上げた『金利』はすでにAmazonでレビューしており、現時点では私しかレビューを掲載していないようです。誠に申し訳ないながら、2ツ星の評価としておきました。

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まず、エドワード・チャンセラー『金利』(日本経済新聞出版)を読みました。著者は、金融史研究者、金融ジャーナリスト、ストラテジストと紹介されています。英語の原題は The Price of Time であり、2022年の出版です。本書は三部構成であり、金利の歴史、低金利の分析、ビー玉ゲームとなっています。日本経済新聞らしく、本書の一貫したテーマは低金利に対する批判です。第Ⅰ部は金利の歴史をなぞっていて、第Ⅱ部が本書の中心的な部分と考えるべきです。そして、この第Ⅱ部で極めて執拗な低金利及び低金利政策に対する批判が加えられています。おそらく、本書のタイトルからして、金利とは時間の価格であり、一般的に正の時間割引率を前提とするのであれば金利はそれ相応の水準になければならない、ということのようです。歴史的に、自然利子率の考えは、名称ではなく、考えは、17世紀のロックの時代までさかのぼることが出来ると指摘しつつ、しかしながら、20世紀のケインズ卿は自然利子率が完全雇用を保証するとは限らない、しかも、利子率の水準よりも雇用のほうが重要、という価値判断から金利を低く抑えて完全雇用を達成するための政策手段のひとつとして利用しようとします。私はこのケインズ卿の理論は完全に正しいと考えていますが、本書ではこういった考えに基づく低金利が攻撃の槍玉に上げられています。繰り返しになりますが、それが第Ⅱ部の主たる内容です。まず、グッドハートの法則を持ち出して、金融政策の操作目標が金利になると不都合を生じる可能性を示唆します。後はどこかで見たような主張の羅列となります。ゾンビ企業が淘汰されずに生き残ってしまって非効率が生じ、当然のようにバブルが発生してしまうと主張します。バブルは生産活動に従事しなくても所得を得る可能性を生じさせて経済の生産性を低下させるわけです。もちろん、低金利では社会保障基金の収入が低下しますので、第13章のタイトルは「あなたのお母さんは亡くならなくてはいけません」になるわけです。でも、マリー・アントワネットではないのですから信用を食べて生きていけるわけではない、という結論です。最後の第Ⅲ部では金融抑圧や中国の例が持ち出されて、低金利批判が繰り返されます。要するに、低金利が原因となって非効率や低成長といった結果をもたらすという主張なのですが、整合性を欠くことに、時間の価格としての金利を想定していますので、時間が経過しても生産が増加せずに結果として低金利に帰着する、という因果関係は無視されています。私は、金利と生産性のは双方向の因果関係、というか、もはや因果関係とは呼べないような相互のインタラクションがあるのではないかと考えていますが、本書ではそうではなく、低金利がすべて悪い、という主張のようです。しかも、しばしば言及されているのは国際決済銀行(BIS)のチーフエコノミストだったホワイト局長とか、ボリオ局長です。ややバイアスあるエコノミストという気がしないでもありません。ただ、出版されてほぼ1か月を経過し、アマゾンのレビューの第1号が私のもののようですが、日経新聞が利上げを強硬に強力に主張し、日銀が3月に利上げを開始したところですから、ある意味で、タイムリーな出版ともいえます。それなりの注目を集める可能性があります。でも、それほど大した内容ではありませんし、間違っている部分も少なくないと私は考えています。

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次に、クィン・スロボディアン『グローバリスト』(白水社)を読みました。著者は、カナダ生れの歴史学者であり、現在は米国ボストン大学の研究者です。ご専門はドイツ史や国際関係史だそうです。ですので、p.20では「本書の物語は、中欧からみたネオリベラルなグローバリズムのビジョンを提示する。」と宣言しています。そうです、ネオリベといえば英米が中心、しかも、フリードマン教授やスティグラー教授などの米国のシカゴ学派が拠点と考えられがちですが、本書ではシカゴ学派ではなく中欧のジュネーブ学派、ミーゼスやハイエクなどのエコノミストを念頭に置きつつ、1920年代から現在までのほぼ100年に及ぶネオリベラルな政治経済史を明らかにしようと試みています。そして、私はエコノミストですので、1980年前後から英国のサッチャー内閣、米国のレーガン政権、あるいは、モノによっては我が国の中曽根内閣などのネオリベな経済政策が頭に浮かびますが、そういったネオリベな経済政策、国営や公営企業の民営化や規制緩和などはほとんど言及されていません。そうではなく、もっと政治経済学的な帝国、特に、ハプスブルグ帝国やその末裔、また、帝国の後を引くような国民国家(インぺリウム)と世界経済(ドミニウム)を融合させる連邦を理想とした政治家たちを取り上げて、制度設計を中心に据えるネオリベラルの歴史をひもといています。特に、英米や日本といった先進国もさることながら、途上国にも自由貿易を理想として示したり、あるいは、21世紀になって「ワシントン・コンセンサス」とやや揶揄されかねない呼称を与えられた経済政策を旗印にした国際機関にも注目しています。ここでも、ジュネーブ学派が国民国家における民主的な議会制度などではなく、超然とした存在の国際機関をテコにしたネオリベラリズムを志向していた可能性が示唆されます。他方で、一国主義的な自由や民主主義はグローバリズムによる制約を受ける可能性、というか、グローンバリズムが一国内の民主的な制度を超越しかねないリスクもありえます。私は、今世紀初頭にインドネシアの首都ジャカルタで国際協力の活動に参加して、1990年代終わりの国際通貨危機の後始末もあって、ワシントン・コンセンサスに基づくネオリベなIMF路線が蛇蝎のように嫌われていながらも、受け入れて救済を受けるしかない国民の不満を目の当たりに見ましたし、韓国でも同じような状況であったと聞き及びました。ただ、それでは国内に重点を置けばいいのかというと、ポピュリスト政権、例えば、米国のトランプ政権のような方向性が望ましいのかといえば、もちろん、そうでもありません。ネオリベな格差の是認や貧困の放置は、少なくとも日本では極限に達していますが、それだけではなく、ネオリベラリズムの国際的な側面、歴史的な成立ちを解き明かそうとする真摯なヒストリアンの試みの書といえます。

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次に、堤未果『国民の違和感は9割正しい』(PHP新書)を読みました。著者は、国際ジャーナリストであり、私はこの著者の新書は『デジタル・ファシズム』、『堤未果のショック・ドクトリン』ほかを読んでレビューしています。5章構成となっていて、第1章では、災害の違和感として、災害時、特に今回の能登半島地震などに見られる棄民の実態、あるいは、地方政府などの提供するインフラの切売りを取り上げています。第2章では戦争と平和を取り上げて、ガザやウクライナにおける戦争や防衛費増額の疑問に焦点を当てています。第3章では農業と食料を取り上げ、第4章ではパーティー券収入の裏金問題をはじめとする情報操作に注目し、第5章ではこれらの違和感に対する対応につき議論を展開しています。ということで、特に、官庁エコノミストとして長らく官庁に勤務した私の目から見て、やっぱり、パソナや電通をはじめとする民間企業に政府のなすべき公務を丸投げして大儲けさせている実態には唖然とするしかありません。水道インフラを外国企業に売り渡す地方自治体があったり、農家を立ち行かなくする制度を作った上で農地を海外投資家に売るように仕向けたりといった形で、なんとも日本の国益に沿った政治がなされているのかと疑問に感じるような政策が次々と実行されています。加えて、貿易費調達のためにNTTの通信インフラを売りに出したり、無理ゲーのマイナカードの普及を図ったりと、国民生活を中心に据えた政策ではなく、政治家や一部の政治家に癒着した企業が儲かるだけの違和感タップリの政策をここまで堂々と推し進められてはかないません。しかし、他方で、メディアの劣化もはなはだしく、災害報道や芸能ニュース、はたまた、実にタイミングよく飛び出す北朝鮮のミサイル発射など、国民の耳をふさぎ真実を伝えない報道も本書では明らかにされています。本書では取り上げられていませんが、私は最近の民法改正の目玉であった「共同親権」については大きな疑問を持っていますが、メディアでは法案が成立した後になって報道し始め、一部に批判的な専門家を取材したりして、それでもってお茶を濁すような姿勢が明らかです。メディアがここまで政府の提灯持ちとなって劣化していますので、本書の最終章でも「選挙で政権交代」といった解決策は提示されていません。そうです。私も現在の日本でホントに選挙で政権交代が出来るとは思っていませんし、その意味で、日本は中国やロシアの独裁政権に似通った部分がある可能性を憂慮しています。かといって、武力革命なんて選挙による政権交代よりも10ケタ以上可能性が低いことは衆目の一致するところです。このままでは、米国ハーバード大学のエリカ・チェノウェス教授の『市民的抵抗』で取り上げられている3.5%ルールに望みをかけるしかないのか、という悲観論者になってしまいそうです。

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次に、雨宮処凛『死なないノウハウ』(光文社新書)を読みました。著者は、反貧困や格差への抵抗を旗印にした作家・活動家です。本書は、タイトルこそおどろおどろしい印象なのですが、実は、困ったときのマニュアルといえます。もちろん、何に困るかにもよりますが、表紙画像にあるように金欠問題を取り上げた第1章のお金始まって、第2章では仕事、第3章で親の介護、第4章で健康、第5章で相続などの近親間でのトラブル、最後の第6章で、これも表紙にある散骨を含む死を取り上げています。私はカミサンとともに両親ともすでに死んでいて、現時点で親の介護の必要はないものと想定していますが、その他のお金にまつわる問題点についても、何とか大問題と考えずに済むような状態にあります。仕事も60歳で公務員の定年を、65歳で大学教員の定年を、もう2度の定年を超えて退職後再雇用の状態にありますから、それほど心配はしていません。ただ、もう60代半ばですから健康についてはこれから悪化していくことが明らかであり、何かで見たように「死と税金ほど確かなものはない」というブラックジョークにあるように、いつかは不明であるとしても、そのうちに死ぬことは確かです。その意味で、自分自身の身に引きつけての読書ではありませんでしたが、日本の経済社会一般の格差や貧困を考慮しての必要とされる一般教養として、とても勉強になります、本書の序章では必要な情報を持っているかどうかで生死を分けかねないと指摘していますし、それを持ってタイトルとしているわけですが、まったくその通りです。本書の位置づけは、決して、より豊かに、あるいは、楽をして暮らすためのマニュアルではなく、生死を分ける境目で役に立つ情報を収録していると考えるべきです。本書の評価としてはとても素晴らしいのですが、本書で取り上げている生命を維持し、健康を保つなどのために必要な実効上の日本の福祉制度などの評価は何ともいえません。ただ、「ないよりまし」な制度もあり、本書では、それでも死を避けるためには有益、という評価なのだろうと思いますが、もう少し有益なものにする努力も中央・地方政府に求めるべきではなかろうか、というものも散見されます。最後に、こういった本が出版されるのは、本書でも指摘しているように、特に地方政府に総合的なワンストップの窓口がないことによります。そこまで含めた見直しが必要かもしれませんし、そもそも、こういった情報が本に取りまとめられて売り物になる日本の現状を憂える人も少なくないものと想像します。私もこういった情報本がなくても死なない日本を構築する必要を痛感します。それにしても、入居金6000万円の高級老人ホームのコラムは嫌味でした。

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次に、柯隆『中国不動産バブル』(文春新書)を読みました。著者は、長銀総研や富士通総研の勤務の後、現在は東京財団の主席研究員だそうです。アカデミックな大学などではなく民間シンクタンクのご経験が豊富なようです。本書では、タイトルのとおりに中国のバブルについて論じています。ただ、本書冒頭で指摘しているように、すでに中国のバブルは崩壊したと著者は考えているようです。2021年の恒大集団(エバーグランデ)のデフォルトがバブル崩壊の幕を開け、昨年2023年10月には碧桂園(カントリーガーデン)がオフショア債の利払いを延滞しています。この2社は不動産開発会社=デベロッパーですが、今年2024年1月には不動産関連案件に投資するシャドーバンキング大手の中植企業集団が破産を申請しており、これらをもって中国のバブル崩壊と見なすべきであるという見解です。また、バブル崩壊の要因は2点あり、第1は、習近平主席が「家は住むためのものであり、投機の対象ではない」と発言したことから人民銀行が住宅ローンへの規制を強化したことであり、第2に、ゼロコロナ政策によるコロナ禍の中での需要の減退、と指摘しています。もう中国バブルはすでに崩壊したのか、といぶかる向きがあるかもしれませんが、我が国でも、現在から見れば1991年2月には景気の山を迎えていた一方で、その後もしばらく認知ラグが発生してバブル崩壊が認識されなかったことは歴史的事実です。私は1991年3月から南米チリの日本大使館での勤務を始めましたが、バブルの象徴という人もいる「ジュリアナ東京」は私の離日直後の1991年5月にオープンし、私が帰国した1995年4月の直後の1994年8月に閉店しています。ほぼ私の海外生活の時期と重なっていて、私が帰国した時にはバブルがすでに崩壊していたのは明らかでしたから、私はジュリアナ東京に足を運ぶ機会はありませんでした。それはともかく、本書では中国のバブルの発生と進行について詳細に報告しています。基本的に、日本の1980年代後半のバブル経済や米国の2000年代半ばのサブプライムバブルと同じで土地や不動産を起点にするバブルであると結論しています。ただし、中国は土地国有制ですので、土地使用権に基礎を置くバブルであり、したがって、地方政府が収入を得るタイプのバブルであったと見なしています。すなわち、不動産開発に基礎を置くバブルにより、地方政府が正規と非正規の収入を得るとともに、住宅開発の面からは地域住民の利益になる部分もあった、ということです。日本では地方政府はそれほどバブルの「恩恵」は受けていないように思います。また、地方政府が非正規の収入を得たというのは、政府、というよりも政府で働く公務員がワイロを、しか、お、莫大な学のワイロを受け取った、という意味です。不動産開発会社=デベロッパーが大儲けし、そこに融資したシャドーバンクも同様です。日本のバブルと少し違う点が3点ほど私の印象に残りました。第1に、中国人の家に対する執着です。まず家を用意した上で結婚を考える、ということのようです。日本ほど賃貸住宅の発達が見られないのかもしれません。第2に、地方政府の公務員に対するワイロです。とても巨額のワイロが平気でまかり通っているのが不思議でした。第3に、本書では第7章の最後に、バブルは崩壊したものの、情報統制で金融危機が防げる可能性が指摘されていると同時に、第9章ではコロナ禍によりすでに「恐慌」に入っている可能性も示唆されています。ここの理解ははかどりませんでした。何といっても、バブル崩壊はその後の金融危機、特に、大規模な不良債権の発生で金融システムのダメージが大きいことが経済への大きな影響につながりますから、金融危機を防止できればひょっとしたら大きな影響は避けられるのかもしれません。同時に、強烈なゼロコロナ政策により経済が不況に陥っている可能性も無視できません。バブル崩壊は大きなインパクトないが、ゼロコロナ政策のために不況に陥っている可能性がある、ということでしょうか。でも、やっぱり、少し不思議な気がします。

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次に、寺西貞弘『道鏡』(ちくま新書)を読みました。著者は、和歌山市立博物館の元館長さんです。本書では、日本史上稀代の悪僧と見なされている道鏡について確実と考えられる史料から、その実像の解明を試みています。まず、道鏡が太政大臣禅師の地位に就いたのが、重祚前は孝謙天皇と呼ばれていた称徳女帝と同衾しその性的な能力や魅力に基づく、とする淫猥伝説は一刀両断の下に否定されています。すなわいち、8世紀後半のこういった太政大臣禅師就任などの政治動向について、性的な能力によるとする淫猥伝説が現れたのが数百年も時代を下った『水鏡』、『日本紀略』、『古事談』などであることから、何ら信頼性がない俗説であると結論しています。加えて、称徳女帝は未婚のまま践祚し次の男帝までのつなぎの位置づけであったことが明らかであり、その点は周囲もご本人も十分に認識していたハズ、と示唆しています。まあ、そうなのだろうと私も思います。そして、道鏡の出自を明らかにし、出家と受戒についても考察した後、道鏡がいかにして称徳女帝の信頼を勝ち得たのかについては、当時の仏教界の状態や影響力に基づいた議論を展開しています。繰り返しになりますが、道鏡が活動していたのは8世紀後半であり、高く評価していた称徳女帝の父は東大寺建立で有名な聖武天皇、そして、次代はやや無名の光仁天皇ですが、さらにその次代が桓武天皇ですから平安遷都の直前といえます。その時代の仏教はいわゆる「鎮護国家」であって、僧侶は今でいえば国家公務員です。国家の安泰を目指すとともに、本書では医者の役目など一般国民に対する呪術的な役割も果たしていた、と指摘しています。しかも、平安期に入って空海や最澄などが世界の大先進国であった当時の中国から最新の密教を持ち帰る前の時代ですので、日本の伝統的な呪術信仰と仏教が入り混じった宗教であった可能性を本書では示唆しています。現在、というよりも、数百年後の日本ですら記憶が薄れた呪術的な仏教、国家を鎮護するとともに、病気の平癒を祈念するとかの幅広い効用を仏教に求めていたため、その方面で道鏡は称徳女帝から過大評価を受けていた可能性があるとの意見です。ですから、道鏡からの求めや働きかけ、というよりも、称徳女帝からの一方的な過大評価かもしれない、というわけです。このあたりの本書の見方は、私には何とも評価できませんが、まあ、あり得るのだろうと受け止めています。奈良時代末期の歴史をひもとくいい読書でした。

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2024年5月18日 (土)

今週の読書は経済書2冊をはじめ小説はなく計5冊

今週の読書感想文は以下の通り計5冊です。
まず、二宮健史郎・得田雅章『金融構造の変化と不安定性の経済学』(日本評論社)は、ミンスキー教授の理論によるポストケインジアンのモデルに基づいて経済の不安定性を論じた学術書です。日本地方財政学会[編]『マクロ経済政策と地方財政』(五絃舎)は、編者の学会総会のシンポジウムや研究論文などを収録した学術書です。鈴木貴宇『「サラリーマン」の文化史』(青弓社)は、明治・大正期からの職業としての「サラリーマン」の成立ちやその文化を論じた教養書です。前野ウルド浩太郎『バッタを倒すぜアフリカで』(光文社新書)は一連のアフリカにおけるバッタ研究を取りまとめつつ、現地生活も振り返っています。橋本健二『女性の階級』(PHP新書)は、女性自身と配偶者の組合せによる30パターンのケースについて女性階級の格差を検証しています。
ということで、今年の新刊書読書は1~4月に103冊の後、5月に入って先週までに14冊をレビューし、今週ポストする5冊を合わせて122冊となります。順次、Facebookやmixiなどでシェアする予定です。

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まず、二宮健史郎・得田雅章『金融構造の変化と不安定性の経済学』(日本評論社)を読みました。著者2人は、立教大学と日本大学の研究者ですが、それぞれの前任校の滋賀大学で研究者をしていたようです。本書は、出版社からも軽く想像される通り、完全な学術書です。税抜きで6000円を超えますし、一般ビジネスパーソンはもちろん、学部学生では少しハードルが高いかもしれません。専門分野を学んでいる修士課程の大学院生くらいの経済学の基礎知識を必要とします。私は大学院教育を受けたことがありませんし、専門外ですので、かなり難しかったです。十分に理解したかどうかは自信がありません。なお、著者ご自身が明示しているように、非主流派に属するポストケインジアン派の経済学の中のミンスキー教授が示した経済の不安定性を、実践的には2008年のリーマン証券の破綻以降の金融危機に適用しようと試みています。ミンスキー教授の理論は、ヘッジ金融から投機的金融、そして、最終的には、ポンジー金融に至る金融構造の脆弱化が進めば、実物要因が安定的であっても経済は不安定化する、というものです。そして、この理論は現代貨幣理論(MMT)へとつながりますので、本書で直接にMMTへの言及はありませんが、MMT研究者にも有益な学術書かもしれません。ということで、本書を一言でいえば、Taylor and O'Connell (1985) "A Minsky Crisis" の議論をS字型の貯蓄関数と結びつけ、Hopfの分岐定理を適用して金融的な循環を論じている、ということになります。これで理解できる人はとっても頭がいいわけで、ひょっとしたら、本書を読む必要すらないのかもしれません。本書では、非線形の構造VAR(SVAR)を適用して、金融構造の変化と経済の不安定性の関係を実証的に分析しようと試みています。バックグラウンドのモデルや方法論については、以上の通り、かなり難しいので、得られた結論だけに着目すると、Taylor and O'Connell (1985) の結論通りということですので、特に新規性はないのですが、利子率が長期正常水準を下回る期間が長くなれば、それだけ確信の状態が上昇し、そして、確信の状態が高まれば所得が上昇しているにもかかわらず、利子率がさらに低下する可能性がある、ということにつきます。本書ではそれを実証的に示しています。確信の状態が高まって、いわゆるユーフォリアが生じてバブルが発生する可能性が高まるのは、我が国の1980年代後半のバブル経済期に観察されている通りです。経済学的には、緩和的な金融政策の継続が資産価格を上昇させてバブル経済をもたらした、と政策オリエンテッドな理解が一般的ですが、経済に内在的な要因から不安定化がもたらされる可能性が示唆されているわけです。最後の最後に、どうしてもこの学術書のエッセンスに接したいという向学心旺盛な向きには、この両著者による学術論文「構造変化と金融の不安定性」が2011年に経済理論学会から『季刊 経済理論』第48巻第2号に掲載されています。web検索すれば発見できると思います。何ら、ご参考まで。

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次に、日本地方財政学会[編]『マクロ経済政策と地方財政』(五絃舎)を読みました。著者は、名称通りの学会組織です。本書は昨年2023年6月に名古屋市立大学で開催された学会第31回総会のシンポジウムや発表論文などを取りまとめています。第1部がシンポジウム、第2部で研究論文を収録し、第3部は書評、第4部は学会の活動報告となっています。第1部と第2部を簡単にレビューしておきたいと思います。第1部のシンポジウムは本書と同じテーマ、というか、シンポジウムのテーマがそのまま本書のタイトルに採用されているわけです。シンポジウムのメンバーは、なぜか、総務省の財政課長とか愛知県の副知事とかの行政官が登壇し、アカデミアの貢献は少ない印象です。でも、マスグレーブ的な財政の3機能、すなわち、資源配分機能=公共財の供給、所得再分配、マクロ経済安定、については、米国のような連邦制に基づく分離型の地方財政を前提とすれば成り立つ一方で、日本をはじめとする融合型の地方財政においては判然としない、といった見方が示されています。そうかもしれません。論文は3編掲載されています。まず、地方税に法人税が含まれていて、しかも、後年度に損金算入ができる制度を持つ国は少ない中で、この制度に基づく超過課税について分析した研究が示されています。当然ながら、超過課税は増税であり、同時に、利子率の上昇も招くことから企業の投資を阻害する要因となりかねない点が示されています。したがって、設備投資の資金調達の中立性を確保するために、法人税率の引下げの必要性を示唆しています。続いて、中国の政府間財政関係の論文が示されています。中国は政治的にはかなり高度に中央集権的である一方で、財政制度については地方分権が進んでいるという不整合が、ある意味で、地方間の格差是正につながっている可能性を示唆しています。最後の論文は、財政構造の変化が、いわゆるティボー的な「足による民主主義」を促すとすれば、公共財の供給などによる地域住民が享受する便益が地価や住宅価格などの不動産価格に反映する可能性があると指摘し、この資本化仮説に基づく実証的な分析を行っています。実際には、公共財の供給を地方財政費目で代理し、注目すべき結果としては、土木費は政令指定市ではすでに過大供給となっていてマイナスの便益を示している一方で、中核市では過小供給であり増加させることが望ましいと結論しています。書評は2冊を取り上げています。最後に、シンポジウムの収録はテーマからして、私にも興味引かれるものだったのですが、登壇者が盛んに言及しているスライドがどこにも見当たりません。学会の総会ホームページにもありません。会員サイトにあるのかもしれませんが、一般向けに書籍を販売している以上、やや疑問がある対応であると私は考えました。大いに改善の余地ありだと思います。

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次に、鈴木貴宇『「サラリーマン」の文化史』(青弓社)を読みました。著者は、東邦大学の研究者であり、ご専門は日本近代文学、日本モダニズム研究、戦後日本社会論といったところだそうです。本書の内容はタイトル通りであり、明治期の近代化から先進国に近い産業化が進み、それに伴って「サラリーマン」が我が国にも誕生しています。その歴史を後づけています。ただ、歴史的なスコープは明治期から戦後昭和の高度成長期までです。ということで、産業構成の発展方向としてペッティ-クラークの法則というのがあります。付加価値生産、だけでなく、本書が焦点を当てている労働者の構成が、第1次産業から第2次産業、そして第3次産業へとシフトする、というものです。徳川期には圧倒的多数を占めていた農民から、明治期に入って第2次産業や第3次産業のシェアが高くなり、サラリーマンという人々が雇用者の中で生まれます。当初は都市住民であって、比較的学歴が高く、したがって、所得も高いアッパーミドル層でした。ただ、本書では第1次産業従事者と対比させるのではなく、「丁稚上がりと学校出」という勤め人の間での対比を取っています。さらに、経済的な側面ではなく、タイトル通りに文化史に焦点を当てています。基本的には、都市住民が想定され、現在のような会社勤めをはじめとして、官吏や教員、銀行員などが代表的な存在です。官吏の中でも下級職員の昔ながらの「腰弁」と洋館に住んで洋服を着て自動車で通勤する高級官僚を区別しています。そして、特に後者では旧来の地縁や門閥による登用ではなく、出身階級の桎梏から逃れて学歴、勉強により立身出世を目指す向きが主流となります。知識階級とか、インテリゲンチャというわけです。そのサラリーマンが時代を下るにつれて、明治期のインテリやアッパーミドル層から、高度成長期後半にはごく普通の国民である「ありふれた一般人」となり、「一億総中流」を形成するわけです。もちろん、男性だけではなく、大正デモクラシー期には高等教育が女性にも開かれるようになり、女性の社会進出も始まります。ただし、本書で詳細に触れられていませんが、20世紀半ばの敗戦まで国民の半分近くは農民だったわけであり、農作業は夫婦共同作業が一般的であった点は本書のスコープ外とはいえ忘れるべきではありません。そして、高度成長期になって労働力不足から雇用者の囲い込みをひとつの目的として長期雇用、あるいは終身雇用が成立し、それを補完する制度として年功賃金も支給されるようになります。そして、サラリーマン家庭では専業主婦の形で女性が家庭を守る役割を与えられるようになります。ただ、こういった経済史は本書では詳しく取り上げられていません。そして、家庭内での専業主婦の役割や多くの家庭では子供が2人といった文化的な同質性が形成されることになります。こういった文化史を文学作品や戦後は「君の名は」といっらラジオドラマや映画などに基づきつつ、詳細に論じています。経済的な基礎の上に文化を考える私にはとても参考になりました。

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次に、前野ウルド浩太郎『バッタを倒すぜアフリカで』(光文社新書)(光文社新書)を読みました。著者は、バッタ博士と自称する研究者であり、アフリカのサバクトビバッタの研究がご専門です。本書の前編となるのが同じ光文社新書の『バッタを倒しにアフリカへ』であり、2017年の出版です。なお、同じ著者からほかにも同じようなバッタ本が出版されています。私は『バッタを倒しにアフリカへ』は読んでいて、レビューもしていたりします。新書ですし、著者ご本人も本書は「学術書」であると位置づけています。ですので、それなりに難解な部分もあります。したがって、ここでは現地生活や現地での人的交流を中心にレビューしたいと思います。ということで、私も2度ほど海外生活を送りました。30過ぎの独身のころに南米チリの大使館勤務、そして、その10年後にインドネシアへの国際協力のため家族4人でジャカルタに住んでいました。それぞれ約3年間です。ですので、私はエコノミストでもあり、基本的に首都住まいでしたので、本書の著者のようにバッタのいる砂漠に野営する生活ではありませんでした。本書の著者がアフリカで活動した中心はモーリタニアだそうで、本書冒頭ではスーパーで売っているモーリタニア産のタコが取り上げられていたりもします。私の場合は南米とアジアですので、アフリカほど文化的な違いは大きくないのでしょうが、やっぱり、日本とは違います。当然です。私が滞在していたのはいずれも先進国ではありませんでしたから、やっぱり、時間の流れが緩やかであったように感じました。要するに時間がかかるのです。ただ、この点は役所を定年退職した後に関西に来た際にも、東京よりも時間がかかる、というのは感じました。現地での人的交流という点に悲しては、本書では「学術書」といいつつも、著者の運転手だったティジャニなる人物にスポットが当てられています。そうなんですよね。私もチリでは運転手ではなく自分で自動車を運転していました。外交官ナンバーの治外法権の自動車でしたが、ジャカルタではもっとも人的交流が多かったのはやっぱり運転手さんでした。ラムリーさんといいます。ラムリーさんのご自慢は「プリンセス紀子」をお乗せした、ということでした。すなわち、私が担当していた国際協力プロジェクトの前任者として川嶋教授が働いていたのか、あるいは、講演会などで短期的にジャカルタにいらしたのか、そのあたりはハッキリしませんが、いずれにせよ、私の担当のインドネシア開発企画庁(BAPPENAS)の国際協力プロジェクトに川嶋教授がいらして、そのご縁で紀子さまが、当然秋篠宮に嫁ぐ前に、ジャカルタにお出ましになって、その際、私の送迎を担当してくれたラムリーさんが運転した、ということのようです。ブックレビューもさることながら、私の海外生活のレビューの要素が多くなってしまいました。悪しからず。

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次に、橋本健二『女性の階級』(PHP新書)を読みました。著者は、早稲田大学の研究者です。ご専門は経済学ではなく、社会学なんだろうと思います。本書では「社会階層と社会移動に関する全国調査」、すなわち、SSM調査のデータを用いて、女性の階級につき、資本家階級、新中間階級、労働者階級、旧中間階級を考え、さらに、労働者階級を正規と非正規で分割し、さらにさらにで、女性ご自身だけではなく配偶者の階級も考慮し、無配偶も入れて、本書冒頭のpp.10-11で示されたように30のグループに分割して分析を進めています。第2章では女性の賃金の低さを考え、おそらく、私も推計したことのあるミンサー型の賃金関数により、学歴、勤続年数、年齢などの属性を取り除いても、なお男女間に賃金格差が残るとの分析結果を引用しています。資本主義的生産様式が男女間の賃金ほかの格差を生み出している根本原因とするマルクス主義的なフェメニズム観も示しつつ、家事労働などの無報酬の女性労働の存在も指摘していたりします。特に、女性の場合、いわゆる専業主婦という無職も少なくない上に、ご本人の所得のほかに配偶者の所得を考慮する必要があり、かなり細かな分類をしています。男性の所得が、資本家階級>新中間階級>旧中間階級≥労働者階級、とシンプルであるのに比べて、とても複雑になっています。例えば、男性が非正規雇用の労働者階級であれば、ほぼほぼアンダークラスなのですが、女性の場合は配偶者が新中間階級で、ご本人がパート勤務であれば、アンダークラスでないケースがほとんどであろうというのは容易に想像できます。その分析結果の読ませどころが第4章であり、30グループの女性たちに適切にネーミングを施した上で、詳細な分析結果が示されています。例えば、ご本人が資本家階級であり、かつ、配偶者も資本社会級であるケースは「中小企業のおかみさん」と名付けられ、消費行動や余暇活動などの特徴を明らかにしています。そのあたりは、30グループすべてを取り上げるわけにも行きませんから、読んでいただくしかありません。私が興味深いと感じたのは、独身女性が両親と実家暮らしをしていたりすると、かつては、親に養ってもらって自分のお給料はお小遣い、という「パラサイトシングル」を想像していたのですが、今では、年齢が進行して逆に独身女性が親を養っている、というケースも少なくないと報告しています。本書では、特に、相対的な格差だけではなく、絶対的な貧困についても、アンダークラスを中心に詳細な分析が行われています。第4章に続く第5章において、アンダークラスに陥りやすい女性についての分析がなされています。最後の第7章では格差に関する意識についても論じられていて、その第7章のタイトルは「格差と闘う女性たちが世界を救う」となっています。私も強く同意します。ただ、最後に、本書で分析されているのは相関関係であって因果関係ではない、という批判はあるかもしれません。しかし、私はこれだけのデータをそろえれば、相関関係で十分と考えます。

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2024年5月11日 (土)

今週の読書はマルクス主義経済学の学術書2冊をはじめとして計8冊

今週の読書感想文は以下の通り計8冊です。
まず、デヴィッド・ハーヴェイ『反資本主義』(作品社)は、2007-08年の金融危機は新自由主義の危機にとどまらず、資本主義そのものの危機であり、社会主義的な代替案へ平和的に移行する可能性を示唆しています。村上研一『衰退日本の経済構造分析』(唯学書房)は、1980年代にかけて外需に依存した形で「経済大国」化が進んだ後、いわゆる「減量経営」によって高賃金雇用が減少し所得と消費の縮小を招いたと論じています。阪井裕一郎『結婚の社会学』(ちくま新書)は、結婚の歴史を近代史から現代史とたどった後、離婚と再婚、事実婚と夫婦別姓、セクシュアル・マイノリティと結婚、最後に、結婚の未来について論じています。米井嘉一『若返りホルモン』(集英社新書)では、DHEA(デヒドロエピアンドロステロン)を摂取すれば老化を防いで若返ることができると主張しています。スティーヴン・キング『アウトサイダー』上下(文春文庫)は、同一人物、すなわち、指紋やDNAが一致する同一人物が同時に100キロあまり離れた2か所に存在し、アリバイが成り立たない殺人事件の謎を解き明かそうとするミステリです。西村京太郎『土佐くろしお鉄道殺人事件』(新潮文庫)は、JR土讃線・土佐くろしお鉄道を走る特急「あしずり9号」の車内で経済復興担当の黒田大臣が青酸化合物により毒殺された事件の謎を十津川警部が解き明かそうと奮闘します。井上荒野ほか『Seven Stories 星が流れた夜の車窓から』(文春文庫)は、九州を走る豪華寝台列車の「ななつ星」にまつわる短編小説と随筆を収録したアンソロジーです。
ということで、今年の新刊書読書は1~4月に103冊の後、5月に入って先週は6冊、そして、今週は8冊、合わせて117冊となります。順次、Facebookやmixiなどでシェアする予定です。

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まず、デヴィッド・ハーヴェイ『反資本主義』(作品社)を読みました。著者は、英国生まれで現在はニューヨーク市立大学の研究者であり、専門分野は地経学です。本書の英語の原題は The Anti-Capitalist Chronicles であり、2020年の出版です。コロナ禍の中でPodCastとして人気を博した David Harvey's anti-capitalist chronicles の書籍版となっています。まず、冒頭で資本主義の中の新自由主義とは資本主義の危機を権威主義的政策と自由市場型解決策を促進させる反革命であり、過去30年間で深刻な社会的不平等をもたらした元凶である、ということになります。資本主義は、1980年代に新自由主義を導入した後、当時のソ連・東欧への地理的な拡張を成し遂げ、さらに、人々にクレジットカードを保有させて債務超過状態に陥らせることにより、市場経済の矛盾を解決しようとしていと主張します。後者の債務超過状態が経済の金融化を進めることにつながります。金融経済では食べることも着ることも住むことも出来ないことから、寄生的にならざるを得ない、と結論しています。そして、著者がもっとも強調しているのは、2007-08年の金融危機は新自由主義の危機にとどまらず、資本主義そのものの危機である、という点です。したがって、英国のサッチャー首相の言葉として伝えられている "There is no alternative (TINA)." は誤りであり、社会主義という代替案(alternative)を示します。しかも、社会主義的な代替案へ平和的に移行する可能性が強く示唆されています。すなわち、資本蓄積と資本構造から離れて、国有化も含めた社会的で共同的な存在へと移行することです。コモンの拡大といってもいいかもしれません。本源的蓄積、疎外などのマルクス主義特有の用語を駆使した分析は私の手に余りますが、それなりに説得力あります。ただ、私自身は資本主義の枠内で新自由主義の弊害を取り除くことが出来る可能性をもう少し追求すべきではないか、という気もしました。いきなり社会主義的な解決策を模索する前に、そういった思考も必要ではないかと考えます。ただ、最後の方のパンデミックに着目した議論も、いかにも社会主義を想像させるような計画的な集団活動により、パンデミックに対応することが出来た、という主張も事実です。資本主義、中でも、新自由主義の悪影響を除去し、新たな段階の経済を模索する上でとても参考になる経済書でした。

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次に、村上研一『衰退日本の経済構造分析』(唯学書房)を読みました。著者は、中央大学の研究者です。本書で、著者は、日本経済の現状を「衰退」と捉え、経済行動について貿易から解き明かそうと試みています。すなわち、2011年3月の大震災以降の時期、そして、最近2-3年における貿易赤字を国際競争力の低下と考え、資本輸出による現地生産の進行も踏まえつつ、広範なデータを駆使して実証しようと試みています。まず、衰退前の前段では、高度成長期から1980年代にかけて、外需に依存した形で「経済大国」化が進みました。大企業を中心にして、労働者や下請け企業を支配し、大企業に資本蓄積が進み、国際競争力が強化されます。同時に、短期的収益に左右されずに中長期的視点に立った研究開発や生産能力の構築などが、政府の政策的指導と相まって「経済大国」化に寄与します。しかし、1990年代以降に新自由主義が世界経済を席巻する中で、いわゆる「減量経営」、すなわち、非正規雇用の拡大による高賃金雇用の減少を招き、国内での所得と消費の縮小を生じたと結論しています。このあたりは、私をはじめとして主流派エコノミストの中でも異論は少ないだろうと感じます。日本では特に年功賃金を前提に育児や教育や住宅などへの公的支出が少なく、格差の拡大や貧困の蔓延につながりやすい素地があったと指摘しています。さらに、新自由主義的な経済政策運営や経営方sんなどにより、短期的な利益を重視する方向に舵が切られ、日本経済は投資不足に陥ります。さらに、大震災直後の2010年代に貿易収支が赤字化した事実から、第5章では貿易と産業構造のデータを駆使し、国際競争力の低下を実証しようと試みています。本書の読ませどころはこの第5章と第7章なのですが、後者の第7章では新自由主義的な経済思想が、短期的利益の追求に終止し、投資の不足を招くとともに、政府の経済への介入、すなわち、オリンピック快哉、カジノ、リニア建設などに支えられるような資本主義に変質した点を分析しています。本書はマルクス主義経済学の視点からの日本経済分析であり、おそらく、私のような主流派エコノミストの目から見れば、国際競争力というよりは国際分業の中での比較優位構造の変化と考えるべき点なのですが、膨大なデータに基づいてこういった点を実証しようと試みています。私のような主流派エコノミストの目から見ても同意できる点はいくつもあります。

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次に、阪井裕一郎『結婚の社会学』(ちくま新書)を読みました。著者は、慶應義塾大学文学部の研究者であり、ご専門は家族社会学だそうです。本書では、結婚の歴史を近代史から現代史とたどった後、離婚と再婚、事実婚と夫婦別姓、セクシュアル・マイノリティと結婚、最後に、結婚の未来について論じています。近代史の前から見て、結婚とは部族内での夜這いなどの形態、というか、乱婚に近いものから家族どうしの結びつき、これは今でも見受けますが、xx家とxx家の結婚式、というもので、見合いとか親の決定に従った結婚が当たり前だったものを経て、個人間の結婚へと歴史的に変化しているのは大筋で日本もそうなっていると思います。そして、明治期からキリスト教国の影響を受けつつ、いわゆる複婚から単婚が成立します。複婚といっても、実態は裕福な男性だけに許された一夫多妻、あるいは、妾制度です。ただ、日本の場合、離婚はその昔からあり得ました。すなわち、本書では明記していないのですが、キリスト教国はモルモン教などの例外を別にすれば基本的に単婚なのですが、プロテスタントは、まさに、英国国教会がヘンリー8世の離婚問題を一因として発足したように、離婚が出来なくはない一方で、カトリックは離婚を認めない場合も一部に見受けられます。私が大使館勤務をしていたころのチリでは、離婚ではなく、そもそもの結婚にさかのぼって取消しを行うという形での離婚でした。そして、現在の憲法では両性の一致に基づいた結婚が、すなわち、家ではなく個人の意志による結婚が成立しています。戦後は地縁結婚から職域結婚、あるいは、職場結婚も多く見られるのは広く知られているところです。ただし、それでも、本書ではそれなりにスペックの似た個人間での結婚が主流であって、現在のマッチング・アプリにもそれが引き継がれていると指摘しています。それはそうなのかもしれません。選択的夫婦別姓とか、同性婚とか、私は基本的に個人のレベルで責任を取れる範囲で好きにすべきと考えています。責任とは主として経済的な面であって、生活が成り立たない結婚がどこまで好ましいかは、少し私も保守的な見方をしているかもしれません。また、「本書のスコープ外」といわれればそれまでですが、結婚には妊娠・出産が控えていると考える読者も多くいそうながら、少子化についてはほとんど何も言及ありません。物足りないと受け止める読者もいそうな気がします。いずれにせよ、「結婚の常識を疑うというのが本書に通底する問題意識」との謳い文句にひかれて読んだのですが、結婚を個人から社会の問題に捉え直すとの観点はやや希薄だった気がしました。

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次に、米井嘉一『若返りホルモン』(集英社新書)を読みました。著者は、同志社大学の研究者であり、本書はいわゆるアンチエイジングをホルモンの観点から科学的に解明しようと試みています。というか、本書の内容を一言でいえば、DHEA(デヒドロエピアンドロステロン)、ネットで調べた化学式はC19H28O2、を摂取すれば老化を防いで若返ることができる、ということです。この2-3行で終わる結論を医学的なバックグラウンドも含めて延々と説明しているのが本書、ということになります。もちろん、一般的なアンチエイジング、というか、適度な運動をして、塩分や脂質の多い食事を避け、睡眠をはじめとする生活リズムを正しくして、なんぞというものはいうまでもありません。ただ、常識に反すると思ったのは、素食は推奨していません。すなわち、噛む力も含めて消化能力を弱体化させるリスクを指摘しています。そして、体脂肪を減らしてボディビルダーのように筋肉を鍛えすぎるのもNGで、機能面の老化を早めたり、動脈硬化を起こす可能性も指摘しています。そして、老化防止はDHEAの摂取一点張りです。もちろん、ホルモンですから、過剰摂取はNGです。でも、DHEAは老化防止だけでなく、がん罹患率、更年期障害、生殖医療などなど第2章では幅広い効果を取り上げています。私のようなシロートからすれば、そんなすごいホルモンが今までさほど注目されなかった理由を知りたいくらいです。少なくとも、私は不勉強にしてDHEAについては初めて聞きました。本書後半はDHEAとの関連がそれほどない一般的なアンチエイジング、あるいは、アンチエイジングとすら関係薄い健康一般のお話になっていて、少し物足りない気もしましたが、もっとも物足りないのは、では、どうすればアンチアイジングの本丸であるDHEAを摂取することが出来るか、という点の紹介がほとんどない点です。私が本書を読んだ理解からすれば、どうも、DHEAを多く含む食物はないようです。ですから、薬ないしサプリメントとして摂取するしかないような気がするのですが、著者のクリニックに行って入手する以外には、どうも、私のような一般ピープルには入手のしようがないのではないか、とすら思えてしまいます。でも、ネットで探せばDHEAを売っているところはいっぱいありそうな気がします。本書を読んでレビューしておきながら、何なんですが、私はこういった薬物や薬物まがいのサプリメントはほとんど興味や関心がありません。もっと、ナチュラルに生活したいと考えています。

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次に、スティーヴン・キング『アウトサイダー』上下(文春文庫)を読みました。著者は、モダンホラーの帝王とすら称される小説家です。本書は、いわゆるミステリ三部作の『ミスター・メルセデス』、『ファインダーズ・キーパーズ』、『任務の終わり』の続編ともみなせるミステリ小説です。ホッジズなどとファインダーズ・キーパーズ探偵事務所を立ち上げたホリー・ギブニーが下巻から登場して謎解きの主導権を取ります。ただ、単なるミステリの謎解きなのではなく、三部作もそうだったのですが、近代物理学の常識に抵触しかねない要素が、本書でも時間の経過とともに段々と強くなります。ということで、簡単なストーリーですが、刑事のラルフ・アンダースンが主人公です。高校教師でスポーツチームのコーチとしても地域で慕われている男性が、11歳の少年を性的に凌辱して殺害するという事件が起こります。目撃者が何人かいて、指紋やDNAといった完璧な物的証拠もありますので、アンダースン刑事が指揮を取って、衆人環視の現場で逮捕します。しかし、この男性にはこれまた完璧なアリバイがありました。高校の同僚教員とともに数名で100キロあまり離れた場所におもむいて、セミナーに参加していました。要するに、同一人物、すなわち、指紋やDNAが一致する同一人物が同時に100キロあまり離れた2か所に存在したわけです。通常のミステリで成立するアリバイが成り立たないわけです。しかも、被疑者の男性を裁判所に搬送する際に、被害者の少年の兄が狙撃して死亡させ、狙撃した被害者の兄も警察によって射殺される、という事件が起こります。警察にとっては大きな黒星となるわけです。そして、事件を指揮したアンダースン刑事が再調査を行い、そこにホリーも探偵事務所から加わるわけです。ラストは圧巻の終わり方です。近代物理学からの乖離を気にしなければ、というか、私が読んだ際には気にならなかったのですが、さすがにキングの小説です。グイグイとストーリーに引き込まれ、何ともいえない気味悪さがあるにもかかわらず、物語に没頭できてしまいます。ハッキリいって、謎解きは大したものではありません。近代物理学に反しているのですから当然です。でも、それにもかからわず、ストーリーとしてはさすがに出色の出来です。小説としてはものすごく楽しめると思います。この作者の本筋であるホラーではありませんし、近代物理学に反するわけですので、本格ミステリからもほど遠いのですが、それでも、素晴らしい小説といえます。年少の少年が凄惨な殺され方をするわけですし、論理的な謎解きがなされるミステリでもありません。それでも、読後感はそれほど悪くありません。

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次に、西村京太郎『土佐くろしお鉄道殺人事件』(新潮文庫)を読みました。著者は、小説家、ミステリ作家であり、2022年3月に亡くなっています。本書は著者による最後の地方鉄道ミステリです。ということで、JR土讃線・土佐くろしお鉄道を走る特急「あしずり9号」、高知から宿毛まで走るこの特急の車内で経済復興担当の黒田大臣が青酸化合物により毒殺されます。さらに、総理の経済ブレーンの28階マンションにドローンから爆弾が投げ入れられたりもします。怪しい人物は、父から兄が引き継いだ大田区蒲田の町工場を売却した土佐出身の加納という人物で、「昭和維新の歌」や2.26事件で死亡した加納の祖父の名刺を送りつけると、送りつけられた人物が殺されたり、あるいは、何らかの暴行を受けたりといった事件が起こります。しかし、容疑をかけられた加納自身には確実なアリバイがあります。この謎を十津川警部が解き明かすわけです。コロナ禍の中で、辛酸を嘗める蒲田の工場経営者、それに反して、反省もなく責任も取らないA級国民の世襲政治家、あるいは、政府の役人、この対立を軸に、世間からは政治家や役人が被害者となる事件に快哉を叫ぶ声も聞かれ始めます。こういった歪んでいて、心を病んだような犯罪に対して十津川警部が真相を解明して犯罪の連鎖を断ち切るわけです。でも、私の読解力が不足しているのかもしれませんが、ホントに事件が解決されたのかどうかは読みきれませんでした。少しあいまいな結末だったと受け止めています。暗い戦前の「世直し」的な世相が令和のコロナ禍の中で広まったとは、私は決して思いませんが、高度成長期などの戦後昭和を懐かしむ見方がある一方で、本書のような昭和、特に戦前昭和を鋭く批判する見方もあっていいと感じました。結末はともかく、昭和を批判的に見るという意味では、オススメです。明治維新期の恵まれなかった武士階級や土佐の急進的なグループの記述など、歴史小説的な要素もあり、逆に、まとまりを欠いた小説であるという印象もあります。ミステリとしても、また、旅情小説としても、いずれもやや中途半端な気がします。でも、それはそれとして、作者最晩年の作品のひとつですから、ファンならば読んでおいて損はありません。

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次に、井上荒野ほか『Seven Stories 星が流れた夜の車窓から』(文春文庫)を読みました。著者は、小説が女性4人、随筆が男性2人というアンソロジーです。共通したテーマは九州を走る豪華寝台列車の「ななつ星」です。作者とともに、簡単にストーリーを振り返ると、まず、井上荒野「さよなら、波瑠」は、夫婦で「ななつ星」に乗っているはずなのですが、実は、夫の方は直前に死んでいて、幽霊が妻を見ている、という設定となっています。もちろん、妻の方で幽霊となった夫がそばにいるとは感じられていません。桜木紫乃「ほら、みて」は、20代半ばから30年を経た夫婦が「ななつ星」に乗ります。卒婚がテーマになっていて、タイトルはサット・ハミルトンの絵本のタイトルです。三浦しをん「夢の旅路」は、高齢の夫婦が乗るはずだった「ななつ星」なのですが、直前に夫の方がぎっくり腰になって、妻の高校時代の同級生、2年前に夫を亡くした友人といっしょに女性2人で乗って、2人で人生の来し方を振り返ります。糸井重里「帰るところがあるから、旅人になれる。」と小山薫堂「旅する日本語」はいずれも随筆であり、フルカラーのイラストともに「ななつ星」を直接に語るものではないものの、旅や電車・列車についての短い随筆となっています。恩田陸「ムーン・リヴァー」は、両親を亡くした幼い兄弟を育ててくれた叔母にプレゼントした「ななつ星」のチケットなのですが、その叔母が直前に亡くなり、兄弟で乗っています。その叔母のハーモニカ、あるいはハーモニカで奏でた曲を懐かしんでいます。川上弘美「アクティビティー太極拳」は、東京の両親の元を離れて名古屋で大学生活を送り、そのまま名古屋で生活している女性が、夫を亡くした母と2人で「ななつ星」に乗ります。でも、コロナのパンデミックによりオンラインで旅を楽しむことになります。最後に、なかなかに豪華な執筆陣なのですが、「実は、乗るハズだったのに」というお話が多くて、また、もっとこってりした実話に近いリポートの挿入があっても良かったのですが、いずれにせよ、大部分であろうと推察される「ななつ星」に乗っていない読者に配慮したのか、淡くてスムーズなお話が多かったような気がします。逆にいえば、やや薄っぺらい印象でした。でも、アンソロジーですから、時間つぶしにはピッタリです。

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2024年5月 4日 (土)

今週の読書は経済書2冊と新書4冊の計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、カール・ウィンホールド『スペシャルティコーヒーの経済学』(亜紀書房)は国際資本の大企業に対抗する零細コーヒー農家の今後の方向を議論しています。森永卓郎『書いてはいけない』(フォレスト出版)は、ジャニーズの性的加害、財務省のカルト的財政均衡主義、日本航空123便の墜落事故の3つについて、日本のメディアの姿勢を問うています。室橋祐貴『子ども若者抑圧社会・日本』(光文社新書)は、支援や保護の対象としての子どもではなく、権利や人権を認められた子どもの存在を認める日本の民主主義について議論をしています。橘玲『テクノ・リバタリアン』(文春新書)は、自由のあり方について、イーロン・マスクやピーター・ティールを例にして議論しています。速水由紀子『マッチング・アプリ症候群』(朝日新書)は、婚活のひとつのツールでありながらアプリ世界に彷徨い続ける男女を取材した結果を取りまとめています。矢口祐人『なぜ東大は男だらけなのか』(集英社新書)は、欧米先進国の大学に比較して極端に女子学生比率が低い東大の現状と歴史を考え、米国プリンストン大学の例から東大の学生の多様性について考えています。
ということで、今年の新刊書読書は1~3月に77冊の後、4月に26冊をレビューしています。5月に入って今週ポストする6冊を合わせて109冊となります。順次、Facebookなどでシェアする予定です。なお先々週にレビューした石持浅海『男と女、そして殺し屋』のシリーズ前作の2冊『殺し屋、やってます。』と『殺し屋、続けてます。』も読みました。この2冊は新刊書ではないので、このブログでは取り上げませんが、Facebookやmixiでシェアしたいと思います。

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まず、カール・ウィンホールド『スペシャルティコーヒーの経済学』(亜紀書房)を読みました。著者は、米国の大学を卒業しているので米国人だと思うのですが、長年経営コンサルティングとコーヒーの国際交易に携わり、現在はリスボン大学にて開発学の博士号を目指して研究中途のことです。よく判りません。英語の原題は Cheap Coffee であり、2021年の出版です。英語の原題からも理解できる通り、「スペシャルティコーヒー」はほとんど関係ありません。どうして、こういった邦訳タイトルをつけたのかは理解に苦しみます。なお、私はかつてピエトラ・リボリ『あなたのTシャツはどこから来たのか?』を読んだ記憶があるのですが、本書はフェアトレードに関係しつつも、フェアトレード一般の貿易ではなく、むしろ、コーヒー生産に関連する経済書・学術書といえます。国際的なバリューチェーンの中で、地域としては南米に焦点を当てて、零細なコーヒー農家がいかにして経営を成り立たせているか、しかし、その裏側で国際的な巨大企業に騙されて搾取されているかを赤裸々に追っています。年米でいえば、「バナナ・リパブリック」という表現がありますが、あるいは、漁業なども含めて、1次産業の零細な生産者が市場原理に名の下で巨大な先進国の企業から生産物を安く買い叩かれ、高額な種子などを買わされ、十分な利益があげられずに、ほとんど開発に寄与しない農業を営んでいる、という実態があります。巨大国際企業とは資本力も交渉力もケタ違いで、いいなりになるしかない場合もあれば、零細農家の方で十分な理解がなく、正しく効率的な経営行動を取れていない場合も少なくありません。技術的に、日なた栽培と日陰栽培の違い、あるいは、ウェットパーチメントを1週間かけて乾かしてドライパーチメントにしたほうが付加価値が高くなるのは理解するとしても、それだけの期間をかけてリスクを取れる農家がどれだけあるのかも理解が進んでいません。でも、零細農化が組合を結成して生産量のロットを上げ、交渉力を向上させるというのは、あるいは、独占の形成を促すとみなされるとしても、国際企業との対抗上許容されるような気もします。大昔のようなプランテーション農場での奴隷労働はもうなくなったとはいえ、大規模土地所有制での零細な小作農や自作農であるとしても零細規模の農家の問題はまだまだ解決されているとは思えません。本書の視点は南米に中心がありますが、コーヒーということになれば、本書でも指摘しているように、インドネシアはもちろん、ベトナムでの栽培も無視できませんから、アジアの問題でもあります。コーヒーというのはもはやエキゾチックな飲み物ではなく、日本でも一般的に広く受け入れられているわけですから、自分自身の身近な問題として考える機会が与えられたように感じます。

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次に、森永卓郎『書いてはいけない』(フォレスト出版)を読みました。著者は、エコノミストとしてメディアへの露出も多いのですが、昨年2023年12月にステージ4のがん告知を受けています。ということで、前著の『ザイム真理教』のラスト、最後のあとがきに私は衝撃を受けました。すなわち、『ザイム真理教』のpp.189-90のパラ4行をそのまま引用すると、「本書は2022年末から2023年の年初にかけて一気に骨格を作り上げた。その後、できあがった現行を大手出版社数社に持ち込んだ。ところが、軒並み出版を断られたのだ。『ここの表現がまずい』といった話ではなく、そもそもこのテーマの本を出すこと自体ができないというのだ。」ということで、本書はその意味で続編となります。本書で取り上げているのは、ジャニーズの性的加害、財務省のカルト的財政均衡主義、日本航空123便の墜落事故の3つが、メディアでは決して触れてはいけないタブーになっている点であり、著者はこれに危機感を抱いています。加えて、日本経済墜落の真相も4章で軽く言及されています。まず、ジャニーズの性的加害については、一応、メディアに現れるようになりましたが、民主主義国家として考えられないようなメディアコントロールの下における茶番ともいえる記者会見の実態が報じられた後、ハッキリいって、真相解明や再発防止などが進んでいるとはとても思えません。財務省の財政均衡主義については前著でかなり詳細に取り上げていましたので、省略するとしても、役所全体の無謬主義や国民生活からかけ離れた政策遂行などとも考え合わせる必要を強く感じました。しかし、本書で何よりも私が衝撃を受けたのは1985年の日本航空123便の墜落事故の真相です。この日航機事故は、その前のいわゆる尻もち事故の後に、ボーイング社の不適切・不十分な修理のために後部の隔壁の強度が不足していたことが原因、と私のようなシロートは認識していました。でも、本書で著者は、おそらく、自衛隊機が非炸薬ミサイルを誤射して日航機の後部を損壊させて墜落させた上で、その証拠隠滅のために特殊部隊が現場を火炎放射で焼き払った、との見方を示しています。ここまで来ると、私には判断のしようがありません。そうかもしれませんし、そうでないかもしれません。でも、こういった主張をメディアで封じ込めるのは民主主義国家としては許容できないと考えます。最後に、やや3大テーマから見ればオマケ的な扱いなのですが、バブル経済の発生とバブル崩壊後の日本経済の大失速については、まず、バブル経済発生の原因は日銀の窓口指導と指摘しています。なぜなら、低金利と財政拡大が原因であるなら、最近まで続いた財政金融政策でもバブルになっていた可能性が高いのに、そうなていないからである、という点を強調しています。そして、金融緩和による金融機関の体力に応じた後処理ではなく、不良債権の処理というハードランディングを選択した結果としてバブル崩壊後の不況が長引いた、と主張しています。私はこの点は不明ながら、直感的には少し違っていると感じています。バブルの発生とバブル後の不況は、緩和的な金融政策がバブル経済を発生させ、バブル崩壊後の金融緩和が不足していたから、と考えています。

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次に、室橋祐貴『子ども若者抑圧社会・日本』(光文社新書)を読みました。著者は、若者の意見を政治に反映させる「日本若者協議会」を設立して代表理事として活動しているそうです。本書では、日本の民主主義の一つの弱点となっている若者の意見、特に年少の子供に対する抑圧的な見方に異議を唱えています。すなわち、被選挙権が25歳とか、30歳とかとほかの先進各国に比べて非常識なくらいに高く、若者の政治意識や参加意識がとても低いことの原因になっている可能性があると、私も考えています。例えば、ここ数日で広く報道されているように、中東ガザにおけるイスラエルの残虐行為についても、欧米先進国の大学などでは広範な反対意見を表明するデモなどが行われていますが、我が国ではそういった意見表明は、少なくとも、報じられていません。米国UCLAの抗議デモをNHKニュースで見かけましたが、私の母校である京都大学なんて、こういったケースでは先頭に立って意見表明する方だったのですが、鳴りを潜めているのか、それともメディアに無視されているのか、一向に国民には伝わってきません。本書のタイトルである子どもに付いて着目しても、日本ではホンのつい最近まで、子どもは従順な性格がよいとされ、親のいうことをよく聞く子が称賛の対象になっているくらいでした。パターナリズムの考えの下で支援や保護の対象とみなされていました。子どもの人権や権利なんてまったく無視され、ブラック校則で縛られていて、運動部は丸刈りの坊主頭が少なくなかったわけです。最近になって、甲子園大会に出場する高校野球の部活でも長髪が一部に見られるようになったりし始めていますが、子どもの学校活動などへの参画は遅れたままです。本書はそういった日本の学校教育における子どもの権利や人権の軽視ないし無視は、1969年の文部省の通達に起因すると説き、欧米先進国における民主主義教育、子どもの権利を尊重する取組み、などなどを紹介しています。大学教育に携わる身として、子どもや若者の成長のために、ひいては、日本の民主主義のために重要なポイントであると受け止めています。加えて、子供だけでなくジェンダー的に考えて女性など、支援や保護の対象の色彩強く見なされているグループにも適用され得る部分が少なくないと感じます。

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次に、橘玲『テクノ・リバタリアン』(文春新書)を読みました。著者は、文筆家なんだろうと思います。著作業ともいえるかもしれません。私も何冊か著書を読んだ記憶があります。小学館新書の『上級国民/下級国民』とかです。本書では、PART0から4までと、最後にPARTXの構成となっていて、正義に関する見方として、リベラリズム、リバタリアン、功利主義(たぶん、ユーティリタリアニズム)、共同体主義(たぶん、コミュニタリアニズム)の4類型を示しています。p.34で図示されている通りです。そして、日本的なリベラルというのは、世界的なグローバススタンダードのリベラルではなくサンデル教授のようなコミュニタリアン左派であると論じています。日本的リベラルではなく、世界的なリベラルはくまで自己責任で自由に生きる個人、ということになります。そして、その4類型の思想の道徳的な基礎がp.44に図示されています。これらの両方の概念図で、本書のテーマであるテクノ・リバタリアンはリバタリアニズムと功利主義の重なった部分を占める、との理解を示しています。逆にいえば、テクノ・リバタリアンはリベラリズムやコミュニタリアニズムとの接点はないといえます。そして、そのテクノ・リバタリアンにとても近いのがネオリベということになります。加えて、本書ではこのテクノ・リバタリアンを体現しているのがイーロン・マスクとピーター・ティールと指摘しています。PART1でその2人について生い立ちから含めて人物像を明らかにしていまう。PART2ではクリプト・アナキズムを、まさに、ビットコインなどに代表されるように国家に依存しない貨幣発行とも関連づけ、原理主義的なリバタリアニズムとして浮き彫りにしています。PART3では逆に総督府功利主義に着目しています。まさに、中国的な監視社会を典型的な総督府功利主義と私は考えていたのですが、本書の理解は少し違っていた気がします。いずれにせよ、本書んテーマは原理的な自由に関する考え方です。そこには、私が従来から指摘しているように、民主主義的な平等の下での自由と資本主義的な何らかの不平等を許容する自由の2種類があると私は考えています。私は完全は平等を主張するつもリはありませんが、不平等が社会的に許容できる範囲で、すべての国民が個人として尊重される経済社会における自由が追求されるべきと考えます。逆からいえば、テクノ・リバタリアンの見方とはかなり異なります。はい。それは自覚しています。

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次に、速水由紀子『マッチング・アプリ症候群』(朝日新書)を読みました。著者は、新聞記者の経験もあるジャーナリストです。本書の取材のために、実際にいくつかのマッチング・アプリに登録して、「婚活」のような活動をしているようです。ということで、マッチング・アプリとは、私のような高齢既婚者はお呼びでないのでしょうが、SNSのような感覚で相手のプロフにlikeを押して、アプリ内のメッセージ機能を使ってコミュニケーションを取り、さらに進めば実際にお茶や食事をごいっしょする、という形で進む婚活目的のアプリです。しかし、実際には、一昔前にはやった「出会い系」と同じでヤリモクの人も混じっていることは否定のしようがありません。そして、本書のタイトルに即していえば、婚活の最終目的である結婚にたどり着くことなく、延々とマッチング・アプリを使って婚活を続けている症状を指しています。出版社のサイトでは「アプリ世界に彷徨い続け、婚活より自己肯定感の補完にハマり抜け出せなくなってしまった男女を扱う」ということらしいです。ただ、私自身としてはマッチング・アプリにはそれ相応の肯定的な面もあることは事実だと受け止めています。例えば、米国の世論調査機関であるPew Research Centerの調査によれば、婚活目的のマッチング・アプリというよりも、恋人探しやカジュアルな出会いを求めてのオンラインデートも含めて、また、アプリだけでなくサイトの利用も含めて、米国人成人の30%、男性の34%、女性の27%に使用経験があり、とくに、18-29歳の若年層では53%と過半に達しています。ただ、日本では評価が違うのは当然です。特に、男性ではマズロー的な承認欲求が強いのではないか、と私は本書を読んでいて感じました。女性についても、ほとんど用語としては現れませんが、お見合いもマッチング・アプリも同じで「高望み」というのが透けて見えるような気がします。お見合いの場合は、然るべき年長者のアドバイスが有益な場合もあるのでしょうし、もちろん、まったく無益なアドバイスもいっぱいあるのでしょうが、マッチング・アプリではすべてを自分で判断するツラさのようなものがありそうに感じました。また、婚活は就活と似た面があります。私は役所を60歳で定年退職した後の再就職で強く感じましたし、学生諸君の就活でも同じことですが、プロ野球の優勝争いではないのですから、まあ、勝ち負けではないとしても、勝率を競う必要はまったくありません。就活も婚活も1勝すればいいというのは忘れるべきではありません。その1勝が遠いのが本書でいうマッチング・アプリ症候群であるのは理解しますし、期限がある学生の就活と違って、無期限ではないとしても期限が緩い婚活は時間をかける場合があるのも理解しますが、就職も結婚もとても長期に及ぶ関係性についての決断ですから、言葉は悪いかもしれませんが、ギャンブルの要素はなくならないのではないか、という気がします。最後に、どうでもいいことながら、マッチング・アプリからはかなり豊富なデータが取れます。私のようなマクロ経済学が専門のエコノミストはダメなのですが、選択を考えるミクロ経済学の観点から、ビッグデータの一種として、とても重宝するデータと見なしている人もいます。ウッダーソンの法則なんてのも有名になりました。

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次に、矢口祐人『なぜ東大は男だらけなのか』(集英社新書)を読みました。著者は、東大の研究者、副学長だそうです。名前からして男性ではないか、と私は受け止めています。本書でも指摘しているように、まず、事実関係として、東大は、私の母校である京大もそうですが、女子学生の比率がわずかに20%ほどと、学生の性別比率に極端に差があります。教員についても性別で差があります。しかも、現在でもサークルの中には、他大学女子学生は受け入れるのに、東大生女子は受け入れないものもあるらしいです。これには、私もびっくりしました。本書では、東大のそういった現状について分析するとともに、歴史的に戦前史をひも解き、戦後史も明らかにしています。東大は、よく知られているように、終戦までは東京帝国大学で女子の入学を認めていませんでした。配線とともに占領軍の指示で女子学生を受け入れるようになったわけです。当然、トイレなどのインフラはまったく未整備で、そういった事情も本書で明らかにしています。そして、米国アイビーリーグの名門校のプリンストン大学をケーススタディしています。すなわち、プリンストン大学が女子学生を受け入れ始めたのは1969年と東大よりも遅く、ご同様に、1991年まで女性の入会を認めないイーティング・クラブが存在しましたが、約40年かけて2010年には女子学生比率は50%に達しています。その2倍の80年近くかけて、いまだに20%ほどの東大とは差があるわけです。また、学生レベルだけでなく、2001年には女性が学長に就任したりもしています。そして、本書ではプリンストン大学が経営方針として共学化を開始し、女子学生受入れを積極的に進めた点を強調しています。要するに、東大でも、もちろん、我が母校の京大でもやれば出来るんではないか、というわけです。ただ、これも明らかな通り、東大だけで女子学生比率を上昇させることは限界があるような気がします。日本の国として、教育界全体として考えるべき要素も無視できません。そして、本書の第5章では東大のあるべき姿、として、女子学生雨の比率上昇のためのクオータ制の導入などについても検討されています。私の従来からの主張として、日本経済の大きな弱点は女性の管理職などへの登用が決定的に欠けていることであり、このポイントを理解せねばなりません。そして、経済面で女性の活躍が不足しているひとつの原因は大学における、特に、東大や京大といったトップ校における女性比率の低さも考えねばなりません。

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2024年4月27日 (土)

今週の読書は経済書2冊をはじめ計7冊

今週の読書感想文は以下の通りの7冊です。
まず、ダイアン・コイル『経済学オンチのための現代経済学講義』(筑摩書房)では、さまざまな経済学やエコノミストへの批判を取り上げ、先行きの展望などを示そうと試みています。辻正次・松崎太亮[編著]『ポストコロナ時代のイノベーション創出』(中央経済社)は、日本企業でイノベーションをもたらす条件を考察しています。荒木あかね『ちぎれた鎖と光の切れ端』(講談社)は、九州の孤島での殺人事件を大阪の連続殺人をリンクさせた謎解きです。貴志祐介『秋雨物語』と『梅雨物語』(角川書店)は、雨にまつわるホラー短編を収録しています。鮎川潤『腐敗する「法の番人」』(平凡社新書)は、警察、検察、法務省、裁判所などの社会統制機関における腐敗を広く明らかにしています。魚住和晃『日本書道史新論』(ちくま新書)は、特に平安期の三跡、中でも小野道風に至る書道史に新説を吹き込んでいます。
ということで、今年の新刊書読書は1~3月に77冊の後、4月に入って先週までに19冊をレビューし、今週ポストする7冊を合わせて103冊となります。順次、Facebookなどでシェアする予定です。なお、大学の図書館で目についたので、別途、島谷宗宏『一度は作ってみたい極みの京料理50』(光文社)も読みました。というか、写真を眺めました。これは2014年出版で新刊書ではないので、このブログでは取り上げませんが、Facebookやmixiでシェアしたいと思います。来週はゴールデンウィークに入りますので、ひょっとしたら読書から少し離れた活動に精を出すかもしれません。

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まず、ダイアン・コイル『経済学オンチのための現代経済学講義』(筑摩書房)を読みました。著者は、『インディペンデント』紙の経済記者などを務めた経験もあるエコノミストであり、現在は英国ケンブリッジ大学の研究者です。英語の原題は Cogs and Monsters であり、Cogs とは歯車の歯の部分を意味しています。2021年の出版です。本書は10年余り前にはやった2008年のリーマン・ショックからの金融危機と Great Recession とも呼ばれる景気後退への反省、ないし、言い訳である第1章 経済学者の公的責任 から始まって、以下各章タイトルは、第2章 部外者としての経済学者、第3章 ホモ・エコノミクス、AI、ネズミ、人間、第4章 歯車とモンスターは本書のタイトル章であり、第5章 変化するテクノロジー、変化する経済、第6章 21世紀の経済政策、となっていて、さまざまな経済学やエコノミストへの批判を取り上げ、先行きの展望などを示そうと試みています。とはいいつつ、第1章の前のはじめにでは、エコノミストが形成する経済学界を批判しています。すなわち、女性比率がとても小さく、議論する際に極度に攻撃的な態度を取るエコノミストが少なくない、などです。なお、ついでながら、私のように博士号を持たない実務家エコノミストへの差別については言及ありません。まず、エコノミストの態度に関しては、私の従来からの主張とほぼ同じで、経済学が社会との相互作用がある学問領域であるだけに、経済社会を理解するだけでなく、経済社会に何らかの変化や修正をもたらそうとする要素について考えています。私はもうひとつ価値判断についても言及が欲しかった気がします。例えば、宇宙物理学では、宇宙の真理を解明したとしても天体の運行に影響を及ぼそうとすることはありませんし、満月が新月よりも好ましいと考える根拠を提供するものではありません。しかし、経済学は完全競争市場が厚生経済学定理からもっとも効率的な資源配分をもたらすので、市場原理主義的に規制を緩和して市場競争を活性化しようとしたりして、アサッテの方向でこれを適用してネオリベな政策を実行したりしようとしますし、所得が高い方が好ましいと考えたりもします。ただ、本書では、的確に経済学やエコノミストへの批判に反論もしています。すなわち、合理的な個人を前提にしている、貨幣価値で計測できないものを無視している、現実ではなくモデルを優先する、といったやや古臭いタイプの経済学に対する批判です。そういったアサッテの批判に反論しつつ、エコノミストの公的責任をpp.104-05で5点に要約しています。これらの中で、私は4点目と5点目が特に重要であり、研究資金を提供してくれる特定の企業や利益団体に肩入れした研究は、その旨を明確にするとか、エコノミストと一般市民とのコミュニケーションの改善とかです。そのうえで、経済学の将来の方向性を指し示そうと試みています。そのあたりは読んでいただくのがベストですが、章タイトルから軽く想像される通り、AIやデジタル技術の活用といった新たな経済学の発展方向を示したり、GDPに代わる指標に必要とされるアプローチを考えたりしています。第5章のタイトルそのままですが、テクノロジーが変化すれば、経済学も変化するわけです。最後の第6章では、本書執筆時点の2020年のコロナ禍で、政府の経済への介入がかなりパワフルである印象が取り上げられています。最後に、本書の主張の中で私が強く同意する点は、経済学の研究において、特に、マクロ経済学の研究においては因果性の解明は決して重きを置くべきではない、という点です。逆に、やや同意しかねる点は、GDPという経済指標は確かに時間を経てやや old-fashon になったかもしれませんが、本書の著者を含めて多くのエコノミストが見逃しているのは、雇用との相関が極めて強い点であり、国民生活上の雇用あるいは失業について厚生の観点からどう考えるかをもっと活発に議論した方がいいと私は考えています。社会保障が充実した福祉国家においては、失業の負の厚生や不効用はケインズ卿が考えた1930年当時ほど大きくないので、雇用との連動性高いGDPは見直すべき、というのは私は一貫した考えだと思いますが、そういった議論は見かけません。どうなっているのでしょうか?

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次に、辻正次・松崎太亮[編著]『ポストコロナ時代のイノベーション創出』(中央経済社)を読みました。編著者は、2人とも神戸国際大学の研究者です。各チャプターの執筆者も神戸国際大学の研究者が多くを占めています。ということで、本書ではさまざまなイノベーション創出に関して、必要な条件にどういったものがあり、また、当然、日本の研究者なわけですので、日本型のイノベーションにはどういったものがあるのか、といった観点から、いろいろな分野におけるイノベーション、特に、イノベーションのプロセスに着目した研究成果を収録しています。最終章ではタイトル通りにコロナとイノベーションの関係を探っています。まず、イノベーションにもいくつかのタイプがあり、まず、日本型企業の特徴として高度成長期から終身ないし長期雇用、年功賃金、企業内組合などが上げられています。そして、本書で強調しているのは、最初の技術的なブレイクスルーはともかく、最終的には最終需要者、特に消費者に商品として購入されて使用されねばならない、という点です。工学技術的にどれほどものすごい発見・発明であっても、経済的に商品やサービスとして市場に投入され、購入されることによって評価されなければならない、という考え方です。NHKで再開された「新プロジェクトX」に通ずるものがある気がします。もちろん、イノベーションに先立つ研究開発R&Dの段階も視野に収めて、日本型イノベーションではメインバンクが出資・貸付を行い、政府も重要な役割を果たす、といった特徴を指摘しています。同時に、市場への投入という観点からは、いかに工学的・技術的に新規性あったとしても市場で評価されなければ経済学的・経済的に意味がないわけで、その意味で、日本型イノベーションとは消費者の使い勝手も含めた改善であって、単なる「モノマネ」ではない、と主張しています。また、イノベーションの分類に即していえば、新しい商品を創出するプロダクト・イノベーションに加えて、生産過程などの改良としてプロセス・イノベーションも評価されるべき、ということになります。こういった観点から、イノベーションのさまざまな面を考えていて、特に、私に印象的だったのはICTやデジタルを活用することにより、イノベーションになにか変化がもたらされるのか、あるいは、スピードが加速されるのか、という点でした。イノベーションを客観的に計測するハードデータを得るのは難しいので、企業に対するアンケート調査に基づくマインドのソフトデータを利用した数量分析もいくつか実施されており、ICTの活用によりR&Dの自律性が高まり、スピードアップが図られている、という結果が示されています。それはそうなんだろうという気がします。同時に、ソーシャル・メディアSNSを活用して、ユーザーと協働するイノベーションが促進される点も分析されています。その昔、イノベーションにはユーザーは大きな役割を果たすことはなく、例えば、フォードの表現を借りれば、「顧客のニーズはもっと早い馬をくれ、ということだ」というのがあって、新規の技術的なブレークスルーは消費者からもたらされるわけではない、という点が強調されていましたが、まったく新規商品を開発する場合も含めて、特に日本的な使い勝手の改良であればソーシャル・メディアにおけるユーザーの意見を取り込んだイノベーションも可能性として十分ありえると考えられます。最終章では人的接触の機会が大きく減少したコロナ・パンデミックにおいても、従来からのオープン・イノベーションは引き続き有効であった、と結論しています。ただ、最後の最後に、こういった経営学的なイノベーションに関する研究に対して私が従来から疑問を持っているのは再現性です。ホントに、本書で分析されたようなイノベーション促進手法を企業が活用すれば、今後もイノベーションは進むのでしょうか。それとも、こういった研究は後づけで過去の事例を分析しただけで、将来に対するインプリケーションはそれほどないと考えるべきなのでしょうか。もしも、後者であれば、イノベーション研究が歴史学と同じなのでしょうか。

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次に、荒木あかね『ちぎれた鎖と光の切れ端』(講談社)を読みました。作者はミステリ作家であり、前作『此の世の果ての殺人』で史上最年少で江戸川乱歩賞を受賞しています。本作品は受賞後第1作です。第1部と第2部の2部から成り、第1部では、島原湾の孤島である徒島での殺人事件の、第2部は大阪市内の殺人事件の、それぞれの謎を対象にしています。まず、第1部の徒島編では、同じ20代半ばの年齢の男女7人が徒島に渡って休暇を過ごします。コテージの管理人である久城も30歳と近い年齢です。集まった7人の中の1人である樋藤清嗣は残りの6人を殺したいほど憎んでおり、この島で全員を殺害したうえで、自分も自殺しようと計画していました。しかし、樋藤が殺害計画を始める前に殺人事件が起こります。そして、それぞれ殺人事件の第1発見者がその次の殺害対象となり、それが連鎖します。第2部では、大阪市の清掃職員である横島真莉愛が、仕事であるゴミ回収中にバラバラ死体を発見します。この真莉愛は、実は、第1部でコテージの管理人だった久城の元カノであり、第1部の樋藤が残りの6人を憎むきっかけになった樋藤の先輩と同居していたりします。しかも、真莉愛が発見した死体は、第1発見者が次々に殺害されるという連続殺人事件3番目の犠牲者でしたので、男女警察官2人新田と瀬名が警護に付きます。それでも、真莉愛は日本刀を持った男に襲われて、あわや4番目の殺人事件になりかけたりします。ということで、殺害された被害者の舌を切り取るというのは、やや猟奇的な印象ながら、謎解きはそれなりに合理性を持ってなされて事件は解決します。第1部については、携帯電話の電波が届かず、唯一の通信手段である公衆電話も切断されていて、いわゆるクローズド・サークルの本格ミステリ独特の状況での殺人事件です。しかも、第2部にも連続して第1発見者が次の犠牲者となるという意味で、この作品独特の緊張感をもたらしています。しかも、私の好きなタイプのミステリ、すなわち、名探偵が最後の最後に一気に真相を明らかにするのではなく、少しずつ少しずつ徐々に真相が明らかになるタイプのミステリです。この作品の作者のデビュー作は、小惑星が地球に衝突して地球が滅亡しかねないという無法地帯での殺人の謎解き、という特殊設定ミステリに近い作品でしたが、この作品はクローズド・サークルの1部と警察が強力な警護体制を敷く2部の構成で、それらは密接に関連しつつ謎を深めていて、前作を超える受賞後第1作と私は高く評価しています。伏線がいっぱいばらまかれていて、決してミスリードを誘うような作りにはなっていませんが、かなり複雑な構造になっていますので、その意味で、ミステリとして読み応えがあります。加えて、殺人事件の謎解きにとどまらない人間ドラマの要素も含まれており、その意味でも評価を高めている気がします。この作家さんのこれから先が楽しみです。今後の作品も追っかけたいと思います。


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次に、貴志祐介『秋雨物語』『梅雨物語』(角川書店)を読みました。著者は、ホラー作家、ミステリ作家です。また、私と学部まで同じ京都大学経済学部のご卒業で、年齢的には私の2年後輩に当たります。この作品は2冊ともホラーであり、収録順にあらすじを簡単に紹介すると以下の通りです。まず、『秋雨物語』の「餓鬼の田」で、タイトルの意味は作品内でも説明されていて、餓鬼道に転生した亡者が田植えをするところですが、植えているのが稲ではないために、飢えや渇きに苦しむ餓鬼には役立ちません。ギリシア神話のタンタロスの伝説と同じです。前世の報いで恋愛が成就しない男性に対して、心引かれる女性の心理を切なく描き出しています。「フーグ」は、タイトル通り、解離性遁走という米国精神学会が定義する精神疾患です。この作品では、テレポーテーションとほぼ同一とみなしていますが、作家が創作に行き詰まると瞬間移動してしまい、そのテレポーテーション先から作家と同一質量の物質が逆送されて来ます。そして、最後の転送先がとても恐怖でした。「白鳥の歌(スワン・ソング)」は、音楽とオーディオの愛好家である京都の創業者社長が、作家に幻の日系アメリカ人女性歌手の伝記の執筆を依頼します。米国の探偵に、この超絶的な歌唱能力を持つ幻の歌手の調査を依頼しますが、それが大きな悲劇をもたらします。超絶歌手が歌っていた録音が「マノン・レスコー」だったのが印象的でした。最後の「こっくりさん」は、事件を起こして自殺を望んだり、難病で余命宣告されていたりする小学生4人が、オカルト研究家の男性の指導で廃病院でこっくりさんをするのですが、これが、ロシアン・ルーレット式こっくりさんで、1人あるいはそれ以上の命の犠牲で、残された者はむしろ人生の成功を得る、というものでした。その12歳の小学生のこっくりさんの後、アラサーになった残された成功者が再びこっくりさんをする羽目になります。『梅雨物語』は、まず、「皐月闇」では、20代半ばの女性が、彼女の双子の兄が自殺する前に自費出版した句集を持って、俳句部の顧問だった恩師の中学校教師を退職した男の自宅を訪ねてきます。句集に収録されたうちの13句の解釈から、自殺の真相が導かれます。「ぼくとう奇譚」は、タイトルからして永井荷風の最高傑作といわれる小説を下敷きにしています。舞台は戦前期昭和の東京、主として銀座です。名家の跡取りで遊び人が夜ごとに黒い蝶に誘われて夢の中に現れた楼閣へ入り込むのですが、高名な修験者によれば、呪詛を受けている結果であるとのことで、段々と深みにはまっていきます。最後の「くさびら」は、「菌」という漢字1字で「くさびら」と読みます。作中に説明がありますが、滋賀県内に菌神社というのがあるそうです。しかし、小説の舞台は軽井沢で、男性の妻と子供が姿を消したころから、家の周りにキノコが群生し始めますが、キノコが見える人がいたり、見えない人がいたりと不思議な感じです。果たして、妻と子供はどこにいるのか。ということで、この作者はデビューからほぼ一貫してホラー小説を書き続けているのですが、本書もとってもできのいいホラー小説、短編集です。プロットとしては途中から最終的なオチが透けて見えるような作品も少なくないのですが、アッと驚くような結末、どんでん返しをラストに用意しているタイプのエンタメ的なホラーではなく、純文学的に表現力や用語の選び方、ストーリーのテンポなどによって読ませるタイプの小説です。なお、タイトル的に続編があるような気がしますし、すでに雑誌に連載が始まっているのかもしれません。

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次に、鮎川潤『腐敗する「法の番人」』(平凡社新書)を読みました。著者は、関西学院大学名誉教授であり、ご専門は犯罪学、刑事政策、社会問題研究となっています。本書では、米国では「法執行機関」と呼ばれる警察や検察など、本書で「社会統制機関」と総称される法の番人の腐敗を広範に取り上げています。順番に、警察に関しては、いわゆる行政機関的に人員や予算の確保のために治安が悪化しているような印象操作を行うとともに、キャリア警察官僚をはじめとした天下り先確保のための悪辣なやり方などを取り上げています。私も、今回の自民党安倍派のパーティー券収入のキックバックが明るみに出る前には、「裏金」といえば警察のことであると認識していたくらいです。パチンコやパチスロをはじめとする風俗営業については、やっぱり、表には出にくい仕組みがあるんだろうと、公務員を退職する前の官庁エコノミストをしていたころに想像していたりしました。ただ、私は、警察と暴力団との関係についても疑っていて、本書でほとんど言及されていないのは少し物足りませんでした。検察についても基本的に行政組織としての裏側は警察と同じです。警察にせよ、検察にせよ、業績評価されるとすればグッドハートの法則が成り立ってしまい、計測に不適切な要素が混じることは避けられません。法務省は、どちらかといえば、刑務所の運営から着目されています。司法試験合格の検事と他省庁ではキャリアとしの扱いを受ける国家公務員試験合格者との軋轢は、当然にあるんだろうと想像はします。私は経済職でしたので法務省ではお呼びでなかったのだろうと思いますし、私の方でも就職対象にはしていませんでしたが、少し異質な役所であるという認識はあります。裁判所については、青年法律家協会(青法協)から入っていますが、章の初めの節のタイトルが「裁判所は独立しているか」でしたので、安保条約との関係をはじめとして、裁判所が判断をしない裁判事例がいっぱいあるので、それを想像していしまいましたが、やっぱり、行政機関としての側面で予算や人員を確保するという点から入っているのは、やや失望感ありました。また、以上の警察、検察、法務省、裁判所を取り上げた4章の後の終章で司法の再生を考えるという第5章が置かれていますが、結論が物足りません。こういった社会統制機関が腐敗していることが国民生活や企業も含めた経済社会にどういった歪みをもたらしているのか、イニシャル表記しかされなかった大川原化工機事件のような個別事案だけではなく、経済社会全体に及ぼす腐敗の影響を分析して欲しかった気がします。でも、本書は本書なりに、的確に個別の事案を取り上げている点は評価します。

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次に、魚住和晃『日本書道史新論』(ちくま新書)を読みました。著者は、神戸大学をすでに退職された研究者で、ご専門は日中の書道史であり、筆跡鑑定でも有名だそうです。本書はタイトル通りに、中国ではなく日本の書道史を対象としているのですが、本書でも指摘されているように、日本の書道史は人気がない、というか、ほぼ無視されているに近く、私自身としてもも中国書道史しか知らない、興味がないところです。そして、中国の書道史に関して多くの方が誤解している点は、漢字の楷書と行書と草書の歴史的関係です。すなわち、楷書が最初に成立して、その後、楷書を崩した行書が出来て、最後に草書が出来上がった、というのは歴史的には逆になります。現実には、本書でも指摘しているように、役所の公文書に用いられる隷書が成立し、その後に、実務的な要求から、早書きするために隷書が崩されて草書が成立します。現代的に表現すると、草書というのは速記体なわけで、行書や楷書よりも先に成立しています。そして、その草書をキチンとした形に整えていく中で行書が成立し、最後に楷書が出来上がりました。隋の前の北魏から隋や唐にかけての時期により精緻化され、王羲之や欧陽詢、あるいは、褚遂良などにより楷書が完成します。そして、本書でも指摘されているように、楷書の中でも、仏教界では中国の南北朝期の南朝に由来する行狎書とか、あるいは、役所の公文書に用い、したがって、中国の行政官吏登用試験として名高い科挙で使われる院体などが出来上がります。そして、こういった書体を日本は中国から丸ごと受け入れて、草書から仮名や片仮名を生み出していったわけです。本書に戻ると、まあ、聖徳太子による三経義疏の新説も見逃せないのですが、やっぱり、読ませどころは第4章のかなの成立、第5章の平安期の三筆から三跡を取り上げているあたりだと思います。これは、文字や書道が中国の影響から少しずつ離れて、日本独自の発展を遂げ始めた時期だからです。第4章では発掘された木簡に基づいて、万葉仮名から仮名文字の成立を考察し、第5章では特に三跡の中でも小野道風の書法の斬新性を王羲之と比較して論じた部分は圧巻です。小野道風の書法は、線が太めで丸みを帯び、決して角ばらず、筆脈が一貫して通じていて運筆が滑らかであるとし、さらに、字の作りとしても上部を詰め気味にして下部をゆったりと鏡餅のように末広がりに作り安定させている、といった記述は、読む人が読めば涙が出るくらいに的確に小野道風の書法を評価しています。立膝で筆を進める奇矯な小野道風の印象をお持ちの向きが少なくないと思いますが、全編300ページを越える本書の中でも、この部分を読むだけでも値打ちがあります。また、私が杉並区の大宮八幡近くの師匠のお宅で毎週練習に励んでいた時にお手本とした欧陽詢の「九成宮醴泉銘」も、当然のように、取り上げられています。ただ、本書の日本書道史は徳川期で終わっています。もしも、続編があって、明治期以降が取り上げられるのであれば、前衛書道の評価を知りたい気がします。先駆けとなった比田井天来からの書道については、私は師匠に倣ってまったく評価していません。まさに、比田井天来の言としてよく引用される「文字をよらずして、書的な線」を目指すのが前衛書道であれば、現在の石川九楊先生にもつながると考えるべきですが、それらに対して、私の師匠は「書道は文字として識別されるべきである」と考えていました。すなわち、「大」と「犬」と「太」は点のあるなし、また、どこに点を打つかによって字義が異なります。それを無視して文字ではない線を書く前衛書道は、ひょっとしたら美術であるかもしれないが、書道としては決して高く評価できない、というのが、師匠から引き継いだ私の前衛書道観です。本書の著者は、どのように評価するのでしょうか?

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2024年4月20日 (土)

今週の読書は重厚な経済書や専門書をはじめとして計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、マーティン・ウルフ『民主主義と資本主義の危機』(日本経済新聞出版)は、経済的な不平等の拡大がポピュリズムにつながって民主主義の危機をもたらすと主張しています。ジョン・メイナード・ケインズ『平和の経済的帰結』(東洋経済)は、第1次世界大戦後のベルサイユ条約の交渉過程や結論において、ドイツに対するカルタゴ的な平和がもたらされる危険を指摘しています。志駕晃『そしてあなたも騙される』(幻冬舎)は、SNS上で客を集める個人間融資の「ソフト闇金」で騙す人と騙される人を取り上げた小説です。小塩隆志『高校生のための経済学入門[新版]』(ちくま新書)は、高校生に経済学の初歩を学んでもらうための入門書です。ホリー・ジャクソン『受験生は謎解きに向かない』(創元推理文庫)は、ピップを主人公とする三部作の前日譚であり、ピップと同級生たちが犯人当てゲームに挑みます。石持浅海『男と女、そして殺し屋』(文春文庫)は、経営コンサルタントの男の殺し屋と通販業者の女の殺し屋が、場所や日付を特定した殺人依頼の謎を明かそうと試みます。
ということで、今年の新刊書読書は1~3月に77冊の後、4月に入って先週までに13冊をレビューし、今週ポストする6冊を合わせて96冊となります。順次、Facebookなどでシェアする予定です。なお、葵祭の斎王代が決まったというニュースに刺激されて、別途、本多健一『京都の神社と祭り』(中公新書)も読みました。これは2015年出版であって新刊書ではないので、このブログでは取り上げませんが、Facebookやmixiでシェアしたいと思います。

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まず、マーティン・ウルフ『民主主義と資本主義の危機』(日本経済新聞出版)を読みました。著者は、英国の Financial Times 紙のジャーナリストです。英語の原題は The Crisis of Democratic Capitalism であり、2023年の出版です。ということで、別の機会に書いたような気がしますが、経済史的に考えて民主主義と資本主義には親和性があったとみなされていました。ただし、人々が平等な参加権を持つ民主主義と人々が持てる所得や富などに基礎を置く購買力に基づいた不平等が存在する資本主義とは、必ずしも親和性はありません。すなわち、本書で著者がノッケから主張しているように、資本主義は一定の平等性があるという前提のもとで民主主義と親和的であっただけであり、中産階級が崩壊の危機に瀕して格差が拡大する中では、民主主義と資本主義の間の親和性は薄れます。そして、私もそうですが、著者の主張は資本主義というよりも民主主義を重視すべきであって、民主主義にもっとも重要なプライオリティを置くべきである、というものです。この点については大きな反対は、少なくとも表立ってはないものと私は考えています。他方で、民主主義ではなく資本主義的な不平等に基礎を置く政治体制を志向する人々も無視し得ないボリュームで存在することも事実です。ただ、英語の原題にある通り、本書では民主主義と資本主義を邦訳タイトルのごとく別物として扱っているわけではありません。民主的な資本主義が危機に瀕している、というのが根本的な問題意識であり、邦訳タイトルに見られるように民主主義が危機に瀕して権威主義に取って代わられようとしているとか、資本主義から社会主義に移行する動きがあるとかといった2つのフェーズを論じようとしているわけではありません。あくまで、民主的な資本主義が権威主義的な資本主義に変質しないように警告を発しているのだと私は認識しています。資本主義はそれ自体としてはミラノビッチ博士のいう通り盤石で生き残っています。そして、資本主義的な所得や富の分配の不公平を残したままでは民主主義が機能しにくくなる点は、1980年代の新自由主義政策がもたらした現在の格差社会のもとで実感されている通りです。本来、古典派経済学の「完全競争」の用語に示されているように、資本主義においては大きな不平等ないとの前提で、個人の自由や権利を守り、契約の遵守などの一定のルールを守り、相互の信頼関係を尊重する市場が運営されていれば、民主主義と親和性高く存続します。しかし、所得や富の大きな不平等があれば、ルールがねじ曲げられたり信頼関係が損なわれたりするのは日本の例を見ても明らかです。裏金を受け取った国会議員は税務申告の必要がない一方で、昨年10月からはインボイス制が幅広く敷かれて、最後の1円まで所得をあからさまに把握される中小業者が続出しています。社会的地位の高い人々と一般市民の間が分断されて、「上級国民」は一般国民とは異なる権利を持って、異なるルールに従っているかのような印象すらあり、そこにつけ込んでポピュリズムが支持を獲得し始めています。そして、こういったポピュリズムが移民や外国人を敵視し、保護主義を正当化し、民主主義を侵食していると私は考えています。本書では、ポピュリズム台頭の理由として経済的な失望を重視しています。今まで、ややもすれば、宗教的な要因も含めて社会的地位を失うおそれや民族差別などの文化的な側面が重視されてきましたが、本書は違います。そして、具体的な処方箋には乏しいものの、新自由主義的、ネオリベな政策ではなく、経済的な格差を縮小し、中間層を分厚くするような方向性が模索されています。たぶん、我が国の官僚に実際の政策具体化を指示すれば、立派な政策ができるような気がします。

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次に、ジョン・メイナード・ケインズ『平和の経済的帰結』(東洋経済)を読みました。著者は、20世紀の偉大な経済学者です。英語の原題は The Consequences of the Peace であり、1919年の出版です。邦訳者は山形浩生さんです。巻末の邦訳者による解説もなかなかのものです。もう100年を経過した大昔のパンフレットですので、すでにパブリックドメインになっていて、Project Gutenberg のサイトで英文全文を読むことが出来ます。邦訳は山形浩生氏による新約です。本書はケインズ卿の著作物のうちで、もちろん、『貨幣論』や『貨幣改革論』や『確率論』などもあるとはいえ、おそらく、『雇用、利子及び貨幣の一般理論』に次いで人口に膾炙したものではないか、と考えます。一言でいえば、第1次世界大戦後の平和条約であるベルサイユ条約の交渉過程を振り返り、ドイツに対するカルタゴ的な平和を強く批判しています。構成は7章から成っており、第1章で序論、第2章で戦争前のヨーロッパを概観し、第3章で会議、第4章で条約、第5章で賠償をそれぞれ論じ、第6章で条約後のヨーロッパ、最後の第7章で修正案を提示しています。よく知られたように、ケインズ卿は単にアカデミックな世界で活躍しただけではなく、そもそも、ケンブリッジ大学卒業後は高級公務員としてインド相で勤務したりしていますし、本書で明らかなように、当時の英国大蔵省の代表団の一員として、第1次世界大戦後にはパリでのヴェルサイユ条約交渉に参加し、第2次世界大戦後にもブレトン-ウッズ会議に出席して議論をリードしています。これまた、よく知られたように、ヴェルサイユ条約の交渉においては、議論の方向性や条約の素案について大きく失望し、辞表を出して本書を取りまとめています。ですので、本書はエコノミストとして精緻な分析を示しす、というよりも、政府代表団や広く一般国民を対象に訴えかけることを目的としたパンフレットであり、ボリュームはそれなりにあるものの、それほど難解な議論を展開しているわけではありません。そうです。マクロ経済学を一瞬にして確立した『雇用、利子及び貨幣の一般理論』などと比べると、格段に判りやすい内容といえます。欧州における戦後の生産能力の低下を粗っぽく試算し、ドイツが英仏をはじめとする連合国相手に賠償できる範囲を示した上で、その支払い能力も粗っぽく試算しています。その上で、最終的にヴェルサイユ条約ではドイツの賠償額は1320億金マルクと決定したわけですが、ケインズ卿はドイツの支払い能力を400億金マルク=20億ポンド=100億ドル、と試算しています。歴史的な事実として、ドイツの賠償額は削減され続け、ドーズ案を経てヤング案では358億金マルクにまで低下しているわけですので、ケインズ卿の試算結果の正確性が証明されたといえます。本書では、余りに多額の賠償がドイツの政情不安を惹起する、とまでは指摘していませんが、これまた歴史的事実として、世界でもっとも民主的と称されたワイマール憲法下であっても、民主的な投票に基づいてナチスが政権を奪取し、最終的には独裁体制が成立し、第2次世界大戦の原因のひとつとなったのは、広く知られている通りです。ケインズ卿が提示した、あるいは、本書で展開された的確な経済分析が第2次世界大戦を防ぐことが出来なかったのは、エコノミストならずとも痛恨の極みといえましょう。

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次に、志駕晃『そしてあなたも騙される』(幻冬舎)を読みました。著者は、映画化もされた『スマホを落としただけなのに』でデビューしたミステリ作家です。この小説は、「騙される人」と「騙す人」の2章建てになっています。主人公は、夫のDVから逃れて7歳の娘を育てるシングルマザーの沼尻貴代です。そして、テーマはソフト闇金、個人間融資です。主人公は、適応障害でコールセンターのクレーム処理の仕事を辞めざるを得なくなり、いろんな料金を延滞し始め、アパート家賃を払えなくなって住居を失うリスクに直面しながらも、親戚をはじめとしてどういった貸金業者からも融資を受けられなくなります。追い詰められた主人公が最後の頼みの綱として期待したのがSNS上で客を集める個人間融資の「ソフト闇金」でした。「未奈美」と名乗る見知らぬ貸主が、子育て中のシンママということで、やたらと親切に借金返済を猶予してくれる上に、新たな就職先や子育てなどプライベートな相談にも乗ってくれるます。そういった背景で、主人公はギリギリで風俗への就職を思いとどまったりするわけです。親切な貸主ということもあって、主人公の借金は雪だるま式に膨れ上がり、とうとう返済のメドが立たなくなったところで、「騙される人」の章が終わって、主人公は貸主の未奈美から資金調達して貸す方に回り、「騙す人」の章が始まります。そして、当然ながら、個人間金融を始めた主人公が返済を滞りがちな顧客に苦労する、というストーリーです。ミステリですので、出版社の紹介文や章立てなどから容易に理解できるので、あらすじなどはここまでとします。まず、エコノミストとして指摘しておきたいのは、日本は貧困の3要因として従来から上げられているのは、母子家庭、高齢家庭、疾病です。最近ではこれに非正規雇用という要因も加わっているのかもしれませんが、本書の読書の範囲ではシングルマザーというのが貧困の大きな原因となっていることは明らかです。そして、新自由主義的な棄民政策、「自助、共助、公助」の順を強調しつつ、実は、ほとんど公助が欠けている中で、生活に苦しむ母子家庭が舞台となっています。もちろん、DVも大きな要素です。その意味で、いかにも経済的側面からはありそうなストーリーだというふうに私は受け止めました。加えて、2章建てとなっていて、闇金から借りる方で返済ができなくなったら、闇金サイドで働いて、いわば、貸す方に転換する、というのは、すっかり忘れましたが、ほかの小説でも見た気がしますので、これまた、あり得るストーリーなのかもしれません。最後の最後に、出版社の宣伝文句で「2度読み必至」と書かれています。もともと、ミステリは読者を何らかの意味で騙そうとするものですし、そういった宣伝文句を与えられたミステリは少なくありません。でも、確かに、騙される読者もいるのかもしれませんが、それほど深い騙し方ではありませんし、私自身も、ひょっとしたら騙されたのかもしれませんが、2度読みは必要なかったです。

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次に、小塩隆志『高校生のための経済学入門[新版]』(ちくま新書)(ちくま新書)を読みました。著者は、私と同僚でもあった官庁エコノミストから早々に学界に転じて、現在は一橋大学の研究者です。[新版]と銘打っている通り、2002年版があるのですが、今年2024年になって新しい新版が出版されています。4月で私の勤務校でも大量に新入生を迎え、現時点で、失礼ながら、大学1年生なんて高校生と大きな違いはないわけで、特に、私は理工学部生や文学部生なんぞに日本経済を教えているわけですから、高校生に教えるのと大きな違いない部分も少なくなく、本書を手に取ってみました。タイトル通りに、本書冒頭で「高校生に経済学の初歩を学んでもらうための入門書」と明記されています。対象は基本的に高校生であって、たぶん、私は読者に想定されている対象外ということになります。ということで、経済学ですので、需要曲線と供給曲線の交点で価格と需要量=供給量が決まる、という広く知られた関係から始まります。すなわち、本書で取り上げられている順に、需要と供給、市場メカニズム、金利、格差、効率と公平、景気、物価、GDP、人口減少と経済成長、インフレ、金融政策、税金と財政、社会保障、円高と円安、比較優位、貿易と世界経済、ということになります。私は、カプラン教授の『選挙の経済学』などから経済学では想定しないような間違い、例えば、ロックフェラー一族とアラブの王様が結託して石油価格を釣り上げて庶民を苦しめている、といった反市場バイアスに対して、価格は市場で分散的に決まり、競争的市場で決まった価格シグナルによる資源配分は厚生経済学的に最適である、といった世間一般の誤解を解くとともに、経済学部生も含めて、もちろん、他学部生にも、経済や経済学であるので世間一般の常識をそのまま当てはめて理解することも十分可能である、と強調しています。例えば、学生でもスーパーで安売りをするのは量をたくさん売りたいという意図に基づいている、ということくらいは理解できますから、価格低下と販売量の増加が相関していて、逆は逆である、とかです。ですから、本書をテキストにして経済学を教えることも可能かもしれませんが、私は日本の経済事情というものを教える必要があるので、まあ、大学の授業に「高校生のための」という明記があるのを取り上げるのは少しはばかられます。最後に、1点だけ指摘しておくと、第5章の金融に関してミクロ経済学の視点がなく、マクロ経済学の観点だけからの説明しかないように感じました。すなわち、金融や金融機関、例えば、銀行のもっとも重要な役割は決済であり、支払いを滞りなく済ませるという観点が抜けていて、マクロの金融仲介機能とか、日銀の役割だけが取り上げられている気がします。したがって、「システミック・リスク」を防止する、といった観点もありません。その点だけは、もしも、3版が出るなら付け加えてほしい気がします。でも、トータルとしていい入門書だと思います。

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次に、ホリー・ジャクソン『受験生は謎解きに向かない』(創元推理文庫)を読みました。著者は、英国のミステリ作家であり、本作の前に同じピップを主人公とするの『自由研究には向かない殺人』、『優等生は探偵に向かない』、『卒業生には向かない真実』の三部作があり、本作はこの三部作の前日譚となっています。ですから、主人公のピップはまだ高校生です。ただし、三部作の最初の方で明らかにされている通り、ピップの通っているのは英国のグラマー・スクールですから、日本式にいえば「進学校」と位置づけて差支えありません。事実、ピップはオックスブリッジに進学しています。ということで、本作品では、架空の殺人事件の犯人探しゲームにピップが招待されます。そのゲームの舞台はスコットランド西方海上に浮かぶ小島のマナハウスで、時代設定は1924年、黄金の20年代、となっています。なお、招待された人たち、というか、ゲームの参加者はピップの高校の同級生たちとその兄の計7人です。ゲームの開始早々にマナハウス=富豪の豪邸の主人が殺害されて、その犯人探しが始まります。もちろん、ゲームですし、実際にスコットランド西方の島に行くわけでもなく、いろんな手がかりがブックレットに挟まれているメモによって明らかにされます。殺害された大富豪はカジノとホテルの会社を経営していて、息子が2人います。兄は会社経営に加わらないものの、父親から生計費を得ていて自由気ままに暮らしている一方で、弟の方は会社の後継者とみなされています。マナハウスの主人とソリの合わなかった執事も容疑者リストに入ります。最初のころは、適当にみんなと合わせているだけだった主人公のピップも段々とゲームに熱中し始め、最後は、ゲーム提供者の正解に対して、心の中で異議を唱えたりもします。私は読者として、先の三部作をすべて読んでレビューしたつもりで、最後の作品の終わり方からしてシリーズの続きはないと確信しています。ただ、こういった前日譚はあり得るわけで、いかにも「無邪気」とすら表現し得るような高校生たちの爽やかな青春ストーリーです。読者によっては、『自由研究には向かない殺人』の次に上げ、『優等生は探偵に向かない』や『卒業生には向かない真実』よりも高く評価する人がいても私は不思議に思いません。もっとも、三部作を最後まで読んだからそう感じるだけで、単体として独立して読めば評価は変る可能性があります。

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次に、石持浅海『男と女、そして殺し屋』(文春文庫)を読みました。著者は、ミステリ作家です。本書は、『殺し屋、やってます。』と『殺し屋、続けてます。』に続く、シリーズ第3弾です。最初の『殺し屋、やってます。』では殺し屋は経営コンサルタントとして表の顔で働く富澤允だけが登場して、第2作の『殺し屋、続けてます。』では新たな殺し屋としてインターネット通信販売業を偽装する鴻池知栄が登場します。そして、本作は、当然ながら、というか、何というか、豪華にもこの2人とも登場する短編集です。私は、たぶん、前2作を読んでいると思うのですが、いずれも本作と同じように短編集だったという以外には、ほぼほぼ中身の記憶がありませんから、ひょっとしたら、再読するかもしれません。それはさておき、前2作と同じで、殺し屋が殺人を請け負うわけですが、その殺人は謎解きもヘッタクレもありませんから、情報が分断されている依頼者と殺害対象者の関係、あるいは、オプションで指定される殺害地域や日程などを謎解きの対象にしています。収録されている短編のあらすじは、順に、「遠くで殺して」は富澤允が請け負います。依頼者と殺害対象者のそれぞれの自宅の間では殺害しない、という地域のオプションの謎を解きます。「ペアルック」は鴻池知栄が請け負います。殺害対象者がジャグリングなどの大道芸を趣味にしていて、そのペアとなっているもう1人の男性の2人が、ほぼほぼ同じような服装をしている謎を解きます。「父の形見」は富澤允が登場します。無農薬有機野菜の販売を父親から引き継いだ男性が雇っていた営業担当者が殺された過去の事件の謎を解きます。「二人の標的」は鴻池知栄が請け負います。2人の友人YouTuber農地のどちらかを殺害するという風変わりな依頼の謎を解き、依頼人の意思に沿った殺人であるかどうかを確認します。最後に表題作の「女と男、そして殺し屋」は鴻池知栄と富澤允が2人とも登場し、別途の殺人依頼を受けます。文庫本で100ページを越える中編くらいの長さです。殺害日程を指定され、先の日程だった鴻池知栄の殺人が終わった後、富澤允の依頼は取り消されます。背景となった高齢者の運転ミスによる交通事故死、そして、その交通事故死から残された遺児の大学受験などの要素を突き合わせて謎が解かれます。いずれも殺し屋が殺人を請け負うわけですから、警察などの法執行機関が介入しての全面的な謎の解明にはならないのはいうまでもなく、情報収集に動き回るとはいえ、決定的な証拠物件を発見するわけでもなく、安楽椅子探偵の要素が強いミステリです。ですから、警察がやるような明示的な事実関係などの解明は提示されませんが、おそらくそうなんだろうという論理的な謎解きが披露されます。

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2024年4月13日 (土)

今週の読書は経済学の学術書2冊をはじめとして計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、衣笠智子『少子高齢化と農業および経済発展』(勁草書房)は、世代重複モデルと一般均衡的成長会計モデルを用いたシミュレーションなどによる経済分析結果を集めた学術書です。島浩二『外食における消費者行動の研究』(創成社)は、消費者が外食サービスを選択する際の情報について分析しています。佐藤ゆき乃『ビボう六』(ちいさいミシマ社)は、京都文学賞最優秀賞受賞作であり、長命な怪獣ゴンスはひなた/小日向さんとともに京都の街で活躍します。神野直彦『財政と民主主義』(岩波新書)は、「根源的危機の時代」において新自由主義に代わって経済社会を立て直す公共部門や財政のあり方を論じています。筒井淳也『未婚と少子化』(PHP新書)は、やや的はずれな子育て対策に終止している政府の少子化対策を批判しつつ、さまざまな少子化問題に関する誤解を解消しようと試みています。宮部みゆきほか『江戸に花咲く』(文春文庫)は、江戸の祭りにちなんだ短編5話を収録したアンソロジーです。各短編の出来はいいのですが、アンソロジーとしてはややまとまりがありません。
ということで、今年の新刊書読書は1~3月に77冊の後、4月に入って先週は7冊をレビューし、今週ポストする6冊を合わせて90冊となります。順次、Facebookなどでシェアする予定です。

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まず、衣笠智子『少子高齢化と農業および経済発展』(勁草書房)を読みました。著者は、神戸大学の研究者です。本書の副題は表紙画像にも見られるように「世代重複モデルを用いた理論的計量的研究」となっていて、出版社からも理解できるように、明らかに学術書です。ですので、経済学部で経済学を勉強している、もしくは、勉強していたとはいえ、学部生や一般のビジネスパーソンにはやや難しい内容を含んでいます。大学院修士課程レベルの学術書と考えるべきです。本書は3部構成で各部に3章ずつ配置されています。最初の第Ⅰ部は人口と農業、第Ⅱ部は人口と経済成長、第Ⅲ部は少子高齢化時代の農業と経済、をそれぞれテーマとしています。第Ⅰ部では、私も2021年の紀要論文 "Mathematical Analytics of Lewisian Dual-Economy Model: How Capital Accumulation and Labor Migration Promote Development" で取りまとめたルイス的な開発経済学における二重経済モデル、すなわち、広範に限界生産力がゼロ、もしくは、ゼロに近い余剰労働力を有する農業・農村に対比して、限界生産力に応じて賃金が支払われる近代的な産業部門が発達した都市部の産業を対比し、農業の産業としての特徴を明らかにしようと試みています。特に、二重経済に関しては、私が分析対象とした初歩的なルイス・モデルではなく、非常に精緻な一般均衡的成長会計モデルを用いた分析結果が明らかにされています。また、第Ⅰ部と第Ⅱ部を通じて、経済成長や経済発展と人口の関係についても簡単に取り上げられています。すなわち、学説史的には18世紀的な古典派の世界ではマルサスの『人口論』に基づいて、食料生産は算術級数的にしか増加しないが、人口は幾何級数的に増加するという有名な命題があります。したがって、人口≅経済の伸びが食料生産に制約される、という考え方がある一方で、現在の日本が典型なのですが、人口縮小に伴って経済成長が制約される、という考え方もあります。第Ⅱ部の第5章では、人口や労働の伸び、人口規模、人口密度、平均寿命、年齢構成などに関する都道府県データを用いたシミュレーション分析がなされており、少なくとも、1960年代から90年代にかけての出生率の低下に伴う年少人口の低下や人口の伸び率の低下は経済成長にプラスのインパクトを持ち、いわゆる人口ボーナスが存在したことを確認しています。同じ第Ⅱ部の第6章では世界各国のデータに基づく人口ボーナスの貯蓄率と成長への影響も分析していますが、コチラの方は地域ごとに影響が異なる、という結果が示されています。第Ⅲ部は農業が主たるテーマとなっているようで、私の理解が及ばない部分もありました。特に、第8章の大阪府能勢町における都市と農村の交流に関しては、よく判りません。逆に、第9章では世代重複モデルと一般均衡的成長会計モデルのシミュレーション結果では、寿命が伸びる一方で人口が減少する現在の日本経済では、いずれにせよ資本蓄積の低下がもたらされるものの、農業よりも非農業部門の方にその影響が大きい、すなわち、相対的に農業部門の重要性が高まる、というのは、それなりの説得力を持っていると感じました。いずれにせよ、人口減少はともかく、農業というのは、経済学で正面から取り上げられることの少ない分野であり、こういった本格的な学術書はとても有益だと思います。

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次に、島浩二『外食における消費者行動の研究』(創成社)を読みました。著者は、大阪公立大学の研究者です。本書は、基本的に、マイクロ経済学の視点から取りまとめられています。すなわち、タイトル通りに、外食における消費者の選択をテーマにしています。ですので、経済学とともに、経営学的な要素も大いに含まれています。古典的な経済学では、情報が完全な市場において、生産物の品質(product)と価格(price)により消費者が選択を決定することになります。2pなわけです。しかし、マクロエコノミストの私ですら、今では2pではなく少なくとも4pにまで消費者選択の要素が拡大されていることを知っていたりします。すなわち、生産物と価格に加えて、場所や流通(place)とマーケティング(promote)です。特に、最後の要素のマーケティングが経済学というよりは経営学に近いことは広く認識されていることと思います。携帯デバイスの発達した現在では、こういった消費者が選択に際して必要とする要素がいっぱい増えていて、いったい、いくつのpが上げられるのか、私には理解が及びませんが、本書では消費の最後にあり得る要素として「投稿」(post)まで含めて論じられています。すべての消費に当てはまるわけではないのでしょうが、本書のテーマである外食を考える場合、SNS映えを意識した消費は分析の対象となり得ます。当然です。そこまでいかなくても、マイクロな経済学における選択では情報の果たす役割が大きく、供給サイドと需要サイドで情報が非対称であれば、アカロフ教授らの主張するように古典派的な市場が成立しない可能性もあります。本書では、そういった情報活用に着目した選択理論い基づいて外食について研究した成果を取りまとめています。ですので、まず、古典派経済学的な情報よりも、現代社会では情報過多になっている可能性が指摘されています。もちろん、ネット上にあふれる情報です。他方で、そういった過剰な情報を取捨選択するサイトもいっぱいあります。そして、そういったサイトはブラックボックスになっていて、ひょっとしたら、何らかの不正行為が行われている可能性も消費者サイドからはうかがい知れません。消費者の受け取る情報、本書では「刺激」(stimulus)と呼んでいる情報に、消費者がいかに反応(response)するか、という経済心理学的な分析です。それをいろんなケースに応じて分類しているのがp.35の図2-6で展開されている購買意思決定プロセスモデルです。消費者行動と注意(attention)を引きるけるマーケティングに分けて論じられています。加えて、消費者側には食欲を満たすという生存本能的な欲求だけではなく、マズロー的な意味での承認欲求もあるわけです。本書ではこういったさまざまな消費行動の基を形成する要因についてアンケート調査を実施した結果の分析を行っています。分析は、基本的に、仮想的市場評価法(CVM)により、支払ってもいい額や、放棄して我慢するに際しての補償額などについて調査し、とても有益な分析結果が得られています。プロスペクト理論やフレーミング効果などツベルスキー-カーネマンによる経済心理学の研究成果ともとてもよくマッチしています。また、第8章では、最近時点でのトピックとして、コロナ禍における外食への消費者需要を取り上げており、感染対策の充実を求めつつも、それらのコストを価格にに転嫁することを許容するのはわずかに1/4に過ぎず、デフレ経済ニッポンを象徴しているような気すらしました。

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次に、佐藤ゆき乃『ビボう六』(ちいさいミシマ社)を読みました。著者は、私の勤務校である立命館大学文学部のOGであり、本作品で2021年度の京都文学賞最優秀賞を受賞して作家デビューを果たしています。主人公はひなた/小日向さんという女性とエイザノンチュゴンス(ゴンス)という怪獣です。小日向さんはゴンスといっしょに過ごす時間を持つ一方で、ひなたとしてアルコールを提供するラウンジでアルバイトしながら恋人である達也にやや蔑まれながら同棲する世界とを行ったり来たりします。トイウカ、メタバースなんだろうと思います。小日向さんは、ゴンスといっしょに白いカエルを探して二条城の周辺を夜のお散歩をしたり、木屋町の純喫茶「ソワレ」でゼリーポンチを楽しんだりしますが、ひなたさんとしては、ラウンジのアルバイトでは酔客から嫌な思いをさせられたりします。すなわち、「男の人が、飲み屋の女の子をからかっているときの顔。自分が圧倒的に優位だとわかっているときのみ男性が発揮する、この世で一番しょうもないサディズム。」と表現したりしています。ひなたさんは、同棲している達也から「おまえが天使とか、似合わなさすぎ」とけなされながらも、小日向さんとして背中の羽で空を飛んで事情上近くで白いカエルを探しに出かけます。ということで、ひなた/小日向が入り混じって、小日向さんの方には怪獣のゴンスが登場してと、とても不思議な小説です。私程度の読者のレビューでは、この小説の魅力を伝えきることは出来ないような気すらします。ひなたさんとしては、アルバイト先の酔客はもちろんのこと、同棲している恋人や育ててくれた祖母からさえも、やや見下されて生きてきた主人公なのですが、小日向さんとしては、長命のゴンスはそんな彼女に優しく接して、いっしょに白いカエルを探します。このゴンスという怪獣が不思議な存在です。手足が6本あるといいます。本書では「たいへん長生きの怪獣」とだけ紹介されていて、年数は明記していないように記憶していますが、出版社の宣伝文句などでは「千年を生きる怪獣ゴンス」と言及されていたりします。表紙画像の左側はそうなんだろうと思いますが、出来れば、ビジュアルにもより詳しくどういった怪獣なのかを知りたいと考えるのは私だけではないと思います。京都文学賞に応募しただけあって、京都のいろんな名所が登場します。小日向さんがゴンスと出会ったのは二条城でしたし、木屋町や祇園、そして、北野天満宮の縁日にもゴンスと出かけたりします。私は京都の南の方の出身ですが、本書では衣笠キャンパスに通学していた経験ある作者らしく、京都の北の方の紹介が中心になります。縁日、ということになれば、本書で言及されている北野天満宮の天神さんとともに、京都の南方では当時の弘法さんも有名です。毎月21日が弘法さん、25日が天神さんです。いずれにせよ、京都やファンタジー小説が好きな向きには大いにおすすめします。

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次に、神野直彦『財政と民主主義』(岩波新書)を読みました。著者は、東大名誉教授の研究者であり、ご専門は財政学です。実は、未読ながら Financial Times 紙のジャーナリストが書いたマーティン・ウルフ『民主主義と資本主義の危機』をつい最近勝ったのですが、まさに、本書の問題意識も同じところにあります。すなわち、マルクスの『資本論』ですら資本主義と民主主義は親和性あるものと示唆しているのですが、1980年代からの新自由主義=ネオリベ的な政策の採用により、政治的な民主主義と経済的な資本主義の乖離が目立つようになっています。経済的な格差や貧困が拡大し、環境破壊が進んで気候変動が深刻化しているわけです。すなわち、政治的な民主主義はすべての人の平等な権利や義務に基礎をおいている一方で、格差の大きい経済面ではすべての人は決して平等ではなく、保有する購買力、富または所得によって裏打ちされている経済力によってウェイト付けされているわけです。株式会社の株主総会の決定方式を想像すればいいかと思います。ですから、問題は経済力による支配を政治の面まで拡大しようとする方向性がある一方で、それに対抗して、政治的な平等を経済政策の分野まで拡大して格差の縮小や貧困、さらには、別の観点ながら、気候変動の抑制まで視野を広げようとする方向です。別の見方が提供されていて、前者の方向はコモンを縮小して私的領域を拡大することであり、後者の方向性はコモンの拡大とする見方もあります。たぶん、厳密にはビミョーに異なるのでしょうが、お起きは方向性としてはほぼ同じであり、少なくとも協力共同する可能性は大きいと私は想像しています。その民主主義的な政治的決定を経済、特に、市場に持ち込もうというひとつの手段が財政です。広く知られたように、財政は歳出にせよ、歳入=税収にせよ、議会の多数決により決定される財政法定主義を取っています。国民多数の意見が反映されるシステムといえます。その意味で、本書のテーマとなっているわけです。しかし、実際には、国民の意見が反映されていると感じる人の割合はどれくらいあるのでしょうか。実際には、「誰かエラい人」、あるいは、政治家が国民の意見とはかけ離れたことを決めている、と感じている人は少なくないと思います。パーティー券の売上を裏金にしたりして、どんなにあくどいことをしても政権交代という形で国民の声が反映されう余地は限られています。こういった私の問題意識を本書では、「根源的危機の時代」と呼んでいます。ですので、私も本書の方向性には大いに同意する部分があります。ただ、北欧のシステム礼賛はいいのですが、我が国のロールモデルになるかどうかは、やや怪しいとは思います。

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次に、筒井淳也『未婚と少子化』(PHP新書)を読みました。著者は、立命館大学の研究者ですが、私とは学部もキャンパスも違います。ご専門は家族社会学だそうです。本書でノッケから批判しているのは、政府の少子化対策が子育て対策に終止している点です。私も基本的には同じ考えであり、我が国では婚外子の割合が諸外国と比較してやたらと低いので、子育て対応を考えるず~と前に結婚促進、別の見方をすれば未婚・晩婚対策を重点的な目的のひとつにすべきだと主張しています。諸外国、特にフランスで婚外子の割合が高いのは、我が国でいうシングルマザーの割合が高いというのではなく、法律婚ではないカップルの割合が高いからです。その点も本書では適確に主張しています。その上で、本書では結婚に対する意識についても的確に主張していて、いい条件の結婚相手がいれば、結婚希望は高まるのは当然です。実際に、本書では3000万円の年収などを例示していますが、年収などの経済的な条件が重要な比率を占めるのは当然です。ですので、結婚適齢期という表現はもはやよろしくないのかもしれませんが、結婚を考える年齢において十分な経済的余裕があるかどうかが重要であろうと考えるべきです。もちろん、いわゆる「出会い」がないのが未婚率の上昇につながっている面があるのも確かなので、地方自治体が後援しているような婚活パーティーのようなイベントも決して不要というわけではありませんが、まずは、基礎的な条件として所得の増加を重視すべきです。所得の低下と出生率の低下は連動しているのではないか、と私は考えているのですが、それを計量的に確認した研究成果は今までのところそれほど蓄積されているわけではないように思えます。本書の目的のひとつは、少子化に関する誤解を解くことであろうかとも思いますので、本書にそこまでは望まないのですが、少なくとも結婚生活が送れる所得を政策目標のひとつに組み入れることは意味ないわけではないと思います。ただ、私が知る限りでも、十分安定的で結婚生活を送るにふさわしい所得を得ている人々でも結婚していない人がいっぱいいるわけで、その点については本書でも十分な分析がなされているとは思えません。おそらく、マクロの思考ではそういった個人の選択の問題を解明するのには限界があると思います。本書の冒頭で主張されているように、国家としてのグランドデザインの問題かもしれません。経済的な生産や消費の問題だけではなく、国防や安全保障の観点も動員しつつ、国家としての適正な人口規模を考える必要があるのかもしれません。

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次に、宮部みゆきほか『江戸に花咲く』(文春文庫)を読みました。5人の著者による江戸時代を舞台とする時代小説のアンソロジーです。ただ、私の感触では、タイトルと内容なチグハグです。「江戸の花」といえば、火事と喧嘩であると相場が決まっているのですが、本書ではなぜか祭りを主体においています。その祭りも大きな天下祭2つを中心にしていて、やや重複感があります。天下祭2つとは、すなわち、浅草の三社祭と神田明神の神田祭です。私は60歳の定年まで東京住まいで独身のころは浅草にほど近い三ノ輪橋の下町に住んでいましたので、三社祭の影響圏内でした。少し懐かしく感じます。ただ、どちらも天下祭であって、なぜそう呼ばれるかといえば、江戸城内まで入り込んで将軍のお目もじにかかるからです。ということで、収録作品とあらすじは以下の通りです。まず、西條奈加「祭りぎらい」は狸穴屋お始末日記シリーズの作品で、浅草三社祭を舞台にします。笛職人で祭囃子に使う笛も作っている親方の家から入り婿が離縁されようとしている問題を、離縁を専門とする公事宿「狸穴屋」が解決して復縁を図ります。諸田玲子「天下祭」では、2つの天下祭と並ぶ日枝神社の山王祭を舞台にして、武道の達人だった伊賀者の初老の男の屋敷に、何とお庭番の忍びの娘が押しかけてきて、沸き起こる騒動を描き出しています。三本雅彦「関羽の頭頂」は運び屋円十郎シリーズの作品で、モノや理由を詮索することなく淡々と運ぶハズの円十郎がいろいろと考えを巡らせます。祭の山車の描写がとても巧みで、そういった祭の中の動きや展開がとてもスピーディで楽しめます。高瀬乃一「往来絵巻」は貸本屋おせんのシリーズで、神田祭の豪華な絵巻を名主が注文したのですが、出来上がった絵には10人いるはずの人々の中から1人欠けている人がいて、その時間差からある出来事が推理されます。最後に、宮部みゆき「氏子冥利」は三島屋変調百物語シリーズの作品で、神田祭で小旦那の富次郎が助けた老人から不思議な話を聞き出します。怪談であって、在所での非道な行為が含まれているのですが、「人殺し」として自分自身を責める老人に関しては心温まる結果を引き出しています。収録された短編の中では質量ともに頭ひとつ抜けている気がします。ハッキリいって、繰り返しになりますが、火事でも喧嘩でもないのに「江戸の花」を称するのには疑問が残りますし、祭りを舞台にしているほかは特段のテーマもなく、いろんな有名作家のシリーズからつまみ食いして寄せ集めた印象があるのは確かです。でも、一話一話は完成度が高くて読み応えあります。個別の作品で評価すれば高い評価になりますが、アンソロジーとしてはそれほどではないかもしれません。各作家の作品はいい出来で、編集者は凡庸といえるかもしれません。

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2024年4月10日 (水)

『成瀬は天下を取りにいく』本屋大賞おめでとうございます

本日4月10日、明治記念館にて「全国書店員が選んだ いちばん!売りたい本 2024年本屋大賞」の発表会があり、宮島未奈『成瀬は天下を取りにいく』が対象に選ばれています。
まことにおめでとうございます。
滋賀文学として滋賀県民の私は大いに喜んでいます。

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2024年4月 6日 (土)

今週の読書は日本の企業や経済に関する経済書2冊のほか計7冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、伊丹敬之『漂流する日本企業』(東洋経済)は、従業員重視から株主重視に経営姿勢を転換し、設備投資に対して非常に消極的になった日本企業を論じています。櫻井宏二郎『日本経済論 [第2版]』(日本評論社)は、江戸時代末期からの日本経済の特徴を歴史的に後付けています。森見登美彦『シャーロック・ホームズの凱旋』(中央公論新社)では、ホームズはヴィクトリア朝京都で大変なスランプに陥っています。天祢涼『少女が最後に見た蛍』(文藝春秋)は、社会派ミステリの仲田蛍シリーズ第4弾、初めての短編集であり、主人公の仲田蛍が高校生や中学生の心を想像します。結城真一郎『#真相をお話しします』(新潮社)も5話の短編から編まれていますが、コミカライズされていてマンガ版も出版されています。ラストのどんでん返しが各短編の特徴を引き立てています。田渕句美子『百人一首』(岩波新書)は、「百人一首」を編纂したのは藤原定家であり、小倉山荘の時雨亭で編まれた、とする通説に挑戦しています。東川篤哉『もう誘拐なんてしない』(文春文庫)は大学生が暴力団組長の娘を狂言誘拐する際の殺人事件の謎解きが鮮やかです。
ということで、今年の新刊書読書は1~3月に77冊の後、4月に入って今週ポストする7冊を合わせて84冊となります。順次、Facebookなどでシェアする予定です。
なお、新刊書読書ではないので、本日のレビューには含めませんでしたが、有栖川有栖の国名シリーズ第7弾『スイス時計の謎』と第10弾『カナダ金貨の謎』(講談社文庫)も読みました。そのうちに、Facebookなどでシェアする予定です。

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まず、伊丹敬之『漂流する日本企業』(東洋経済)を読みました。著者は、長らく一橋大学の研究者をしていました。専門は経営学です。私の専門の経済学とは隣接分野であろうと思います。本書では、財務省の「法人企業統計」などからのデータを基に、バブル崩壊意向くらいの日本企業の経営姿勢が大きく変化したことを後付けています。ズバリ一言でいうと、冒頭第1章のp.51にあるように、「リスク回避姿勢の強い経営」ということになります。一言ではなく二言でいえば、従業員重視から株主重視に経営姿勢を転換し、設備投資に対して非常に消極的である、ということです。後者については、バブル崩壊後、特にリーマン・ショック後に利益を上げつつも、株主への配当を増やす一方で設備投資がへの積極性が失われています。反論もいくつか取り上げていて、人口減少などから国内経済の成長が望めないから設備投資に消極的かというとそうでもなく、海外投資にも消極的である、と批判しています。ただ、海外投資に消極的なのは海外人材の不足も上げています。これは企業だけではなく、大学でもそうです。私は大学院教育は受けていませんし、大足の単なる学士であって収支や博士の学位は持っていませんが、海外経験が豊富だということから大学教員に採用されているような気がします。おそらく、私の直感では、大学にせよ企業にせよ、東京や首都圏であればまだ海外要員はいなくもないのでしょうが、いっぱしの都会である関西圏ですら海外人材は不足しています。おそらく、もっと地方部に行けば海外人材はもっと足りないのだろうと想像しています。ついでながら、同様に大きく不足しているのはデジタル人材であると本書では指摘しています。これは、ハッキリいって、教育機関たる大学の問題でもあります。リスク回避の強い経営に立ち戻ると、本書では「メインバンク」という言葉は使っていませんが、要するに、銀行に頼れなくなったからである、と指摘しています。かつては、メインバンクならずとも資金提供してくれる銀行が、同時に経営のチェック機能も果たしていたのですが、そういったいわゆる間接金融から直接金融に移行し、そのために株主に対する配当が膨らんでいる、という結論です。ただし、こういった過大な配当や設備投資の軽視は大企業だけに見られる現象と本書では考えていて、中小企業にはこういった動きは少ないとも結論しています。どうしてかというと、大企業のほとんどは株式を公開しており、官製のコ^ポレートガバナンス改革とか、海外投資家のうちのアクティビストへの対応などが必要になるというわけです。ですから、設備投資を抑制し、私も同意するところで、設備投資が不足するので労働生産性も高まらず、したがって、賃金が上がらない、という結論です。本書では明示していませんが、おそらく、企業の利益を投資だけでなく、賃金に分配することについても抑制的な経営がなされてきた結果であろうと私は考えています。ついでに、それをサポートするように政治や行政が暗に労働組合を弱体化させてきたことも寄与している可能性があります。そして、著者の古い著書である『人本主義企業』に立ち返って、注目企業のキーエンスを取り上げています。その詳細は本書を読んでいただくしかありませんが、1点だけ指摘しておくと、配当を増やすのではなく、株価を上げることで株主に還元している姿勢を指摘しています。最後に、私のようなマクロエコノミストの目から見て理解できなかった点なのですが、設備投資をすれば労働者の資本装備率が上がって生産性を向上させるだけではなく、特に大規模な設備投資であれば企画段階から大きな人材へのインパクトがあると主張します。企画段階における人的能力の向上や形成はいうに及ばず、心理的エネルギーが高揚し、意識や視野が広がる、との指摘です。ここは経済学ではなく経営学独自の視点で、私も勉強になった気がします。

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次に、櫻井宏二郎『日本経済論 [第2版]』(日本評論社)を読みました。著者は、日本政策投資銀行ご出身のエコノミストであり、現在は専修大学の研究者です。本書では、冒頭の第1章で日本に限定せずに経済を見る目や経済学の基礎や景気循環などについて解説をした後、日本経済をかなり長期に渡って歴史的に後付けています。すなわち、江戸時代の遺産と明治維新から始まって、殖産興業や戦時経済、敗戦後の戦後改革と高度成長、石油危機を転機とする高度成長の終焉と1980年代後半のバブル経済、バブル崩壊後の日本経済の低迷やアベノミクスの展開、そして、コロナのショックと最後は人口減長や高齢化などを論じています。長々と書き連ねてしまいましたが、私は大学で本書のタイトルと同じ「日本経済論」の授業を学部生向けと大学院生向けに担当していて、前の長崎大学でもやっぱり同じことでした。ただ、3月末で定年退職して特任教授になってからは大学院の方の日本経済論は担当から外れてました。ですので、こういった日本経済を論じた経済書はなるだけ読むようにしています。本書の特著は、繰り返しになりますが、歴史的に日本経済を解説していることです。ですので、学生はもとより一般的なビジネスパーソンにも取り組みやすい気がします。私が授業で教科書に指定しているのは有斐閣の『入門・日本経済[第6版]』で、前任の長崎大学のころに第3版を教科書に指定して以来、長々と使っています。冒頭の3章ほどで戦後の日本経済を振り返った後、制度部門別に、企業、労働、社会保障、財政、金融、貿易、農業などにおける日本経済の特徴について解説しています。私が授業をするのはこういった制度部門別の教科書のほうが使いやすい、というか、学生の学習には適していると考えています。ただ、本として、読み物として考えると、本書のように歴史を後付けるのも私はいい方法だと評価しています。ただ、現在の大学生は、10年余り前に私が長崎大学で教え始めたころと違って、ほぼほぼ今世紀の生まれ育ちですから、ハッキリいって、バブル経済の実感はまったくありません。今の大学生が生まれた時から、ずっと日本経済は低迷を続けているわけです。私自身はさすがに高度成長期の記憶はほぼ持っていませんが、今の大学生は高度成長期は完全に歴史の中の出来事であり、バブル経済もそうなりつつあります。ですので、逆に、高度成長期やバブル経済期の日本経済の姿を客観的に把握することができるような気すらします。もはら、高度成長期やバブル経済期の日本経済というのは、自国のことではなくて世界のどこかヨソの国の経済のような感覚だと思います。ですので、本書の弱点は日本経済の教訓を別の国で活かす方向性に乏しい点です。アジア諸国の経済開発の観点からすれば、江戸時代までさかのぼってしまうとどうしようもない点がいっぱいあり、戦後日本経済をより詳しく見た方が有益ではないかと考えています。というのも、日本経済の大きなひとつの特徴は、欧米以外のアジアの国で唯一の近代的かつ欧米的な経済発展を遂げて先進国を果たした点にあると考えられます。例えば、1人当たり所得で見て、日本よりもシンガポールの方が豊かなわけですが、日本は欧米的な農業国から工業国へ、そして、サービス経済化、という西欧的な経済発展の流れに乗っていますが、シンガポールは少し違います。ひょっとしたら、唯一の国というよりも韓国や台湾を考えれば、アジア最初の国という方が正確かもしれませんが、いずれにせよ、西欧的な経済発展の観点からは、韓国や台湾を含めてアジアの先頭を切ってきたわけで、これらの国に続くASEAN諸国や、あるいは、南アジアや中央アジアも含めて、今後の経済発展のロールモデルになる観点から日本経済を見ることもひとつの視点だと考えています。その意味で、日本経済を学ぶには開発経済的な視点も欠かせません。

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次に、森見登美彦『シャーロック・ホームズの凱旋』(中央公論新社)を読みました。著者は、エンタメ小説の作家です。この作品は、タイトル通りに、シャーロック・ホームズの探偵譚を相棒のワトソン医師が書き記しているというパスティーシュなのですが、ノッケから、ホームズやワトソンがいるのはヴィクトリア朝京都で、ワトソンはすでに結婚してメアリー・モースタンと新婚家庭を構えている一方で、ホームズはベイカー街ならぬ寺町通221Bのハドソン夫人のフラットに住んでいます。ただ、ヴィクトリア朝京都のホームズは決して名探偵ではありません。「赤毛連盟事件」で大失敗をしてスランプに陥って、鬱々と日々を過ごしているので、ワトソンが何とか元気づけて元の名探偵に復帰できるように、いろいろと気を使って、そのあげくにワトソン家の結婚生活が危機にさらされていたりします。ついでながら、「京都警視庁」に「スコットランドヤード」のルビが振ってあり、そのスコットランドヤードのレストレード警部も、難事件はホームズに解決してもらっていたわけですから、ホームズにシンクロする形でスランプだったりします。また、本来のホームズ物語ではロンドンの悪の巨頭であり、ホームズの宿敵であるモリアーティ教授は、寺町通221Bのホームズの部屋の上階に住んでいて、これまたスランプで研究も進んでいません。ほかに、「ボヘミアの醜聞」に登場するアイリーン・アドラーがヴィクトリア朝京都では名探偵の役割を果たして、ホームズに代わって難事件を解決します。ほかに、原典に基づいて登場するのはマスグレーヴ家の当主だったりしますし、ヴァイオレット・スミスはまったく原典から異なる役割を与えられていて、「ストランド・マガジン」の編集者を務めていたりします。原典には見当たらない霊媒師リッチボロウ夫人がヴィクトリア朝京都では重要な役割を果たします。まあ、ホームズの物語ですから、ネタバレを避けてあらすじはここまでとしますが。おそらく、本書を読むと作者の『有頂天家族』などといったファンタジーを連想して、本書もファンタジーではないか、と考える読者がいそうな気がしますが、そのようにファンタジーにも読めることを私も認めはしますが、ひょっとしたら、メタ構造になっているのではないか、そのようにも読めるのではないか、という気がします。あまりに突っ込んだレビューをするのはネタバレにつながりかねないので、ここまでとしますが、既読の方がおられれば、本書は『有頂天家族』などのようなファンタジーなのか、いやそうではなく、近代物理学や生物学に矛盾する部分は決してなくて、ファンタジーのように感じられるのはメタ構造の内部構造として読むべき、なのか、ご意見をお聞きしたく思います。

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次に、天祢涼『少女が最後に見た蛍』(文藝春秋)を読みました。著者は、ミステリ作家であり、本書は社会派ミステリの仲田蛍シリーズ第4弾、初めての短編集です。このシリーズは神奈川県警生活安全課少年係の仲田蛍を主人公に、第1弾『希望が死んだ夜に』、第2弾『あの子の殺人計画』、第3弾『陽だまりに至る病』と、未成年による数々の事件を取り上げています。本書に収録された5話の短編を収録順に紹介すると、まず「17歳の目撃」では、決して豊かではない家庭環境ながら弁護士を目指す高校生が、地元の登戸で頻発しているひったくり事件を目撃します。高校のクラスメイトが犯人でしたが、波風を立たせないためにその目撃情報を警察には伝えず、ウヤムヤに終わらせようとします。仲田蛍がいつもの「想像」によって証言引き出します。「初恋の彼は、あの日あのとき」では、アラサーに達した仲田蛍が同窓生の女子会に出席し、小学校のころの思い出を4人で語り合います。物静かなイケメンスポーツマンとして人気がありながら、5年生の終業式の日に転校していった男子についてのお話が弾みます。でも、仲田蛍はその実態について鋭く考えます。「言の葉」では、元アイドルながら過激な発言でもってSNSを炎上させることでも有名な野党の女性議員の事務所のガラスにリンゴが投げつけられた事件で、防犯カメラの映像などから早くから犯人と特定されていた中学生男子に仲田蛍が相対します。こども食堂を助けるのがいいのか、それとも、こども食堂が不要になる社会を目指すべきなのか、社会派の真骨頂が伺えます。「生活安全課における仲田先輩の日常」では、同じ生活安全課の後輩である聖澤真澄が、あまりにも顔色の悪い先輩の仲田蛍の守護神として活躍します。有名進学校の防犯教室で仲田蛍に代わって説明役を引き受けたりします。最後の表題作「少女が最後に見た蛍」では、夜の男女トラブルで女性の事情聴取を行うことになった仲田蛍と聖澤真澄なのですが、その女性とは仲田蛍の中学校のクラスメートで仲田蛍の友人であった桐山蛍子を自殺に至らしめたいじめの張本人でした。仲田蛍は桐山蛍子をいじめから守りきれなかった、という後悔があります。このシリーズはミステリとしては少しずつクオリティが落ちてきて、特に第3作の『陽だまりに至る病』は謎解きとしては少し疑問があったのですが、本書に収録された短編はミステリとしてもいい出来だと思います。特に、仲田蛍の過去が語られる「初恋の彼は、あの日あのとき」と「少女が最後に見た蛍」は過去の出来事の謎解きですから、いわゆる安楽椅子探偵の役割を仲田蛍が果たし、本格的な謎解きに仕上がっています。もちろん、このシリーズの真髄である社会派として、単純な家庭の問題だけではなく学校におけるいじめについても取り上げられており、このシリーズ本来の姿である社会派ミステリを十分楽しめます。

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次に、結城真一郎『#真相をお話しします』(新潮社)を読みました。著者は、『名もなき星の哀歌』で新潮ミステリー大賞を受賞してデビューしたミステリ作家です。本書は、5話の短編から編まれていますが、コミカライズされていてマンガ版も出版されています。私はマンガの方は見ていませんが、直感的には文章だけの小説よりもマンガの方が売れそうな気がします。それはともかく、収録順に各短編のあらすじを紹介すると、まず、「惨者面談」では、家庭教師派遣業者の営業のアルバイトをしている御三家卒東大生が主人公で、営業活動で訪れた家の母親と子どもと面談しますが、玄関先で長々と待たされた上にどうもチグハグでかみ合わない面談です。ウラで何かが起こっています。「ヤリモク」では、マッチングアプリで娘とよく似た女性をお持ち帰りする中年男性が主人公です。同時に娘がパパ活して高価なアクセなんかを買ってもらっていることも懸念しています。そして、いわゆ美人局に遭遇して大きく物語が展開し始めます。「パンドラ」では、高校生の娘がいるものの、以前に不妊で悩んだ経験から妻の同意を得て精子提供をしている男性が主人公です。そして、中学生の女子からホントの父親の自分に連絡がきてしまいます。「三角奸計」では、大学のころの仲間3人でリモート飲み会を楽しむ社会人が主人公です。ただ、3人のうち1人はテキストチャットだけでの参加です。3人お家の1人のフィアンセが浮気しているということから話が大きくなります。最後に、「#拡散希望」では、YouTuberになろうと憧れながら長崎県五島列島に住む男女4人の小学生が主人公です。もっとも、4人のうち島で生まれ育ったのは1人だけで、後の3人は家族ともに移住してきています。移住組はややキラキラネームだったりします。そして、島にやってきたYouTuberの田所という男性が子どもたちと接触するのですが、島から去った後に殺害されます。そしかも、小学生4人のうち、1人の女子が崖から転落死してしまいます。ということで、ミステリですので消化不良気味のあらすじ紹介ですが、いずれも最後の最後にちゃぶ台返しのどんでん返しが待っているミステリです。しかも、多くの短編で殺人事件が起こります。ただし、途中まで読んでいて、なんとなく真相も明らかになるくらいで、一部には底の浅いトリックも見られますが、それなりにグロいところがあって、決して一筋縄では行きません。5話のうち、圧倒的に最後の「#拡散希望」の出来がよく、最後に真相が語られる部分はかなりの緊張感があります。めずらしくも私はついつい最初に戻って2度読みしてしまいました。

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次に、田渕句美子『百人一首』(岩波新書)を読みました。著者は、早稲田大学の研究者であり、ご専門は日本中世文学・和歌文学・女房文学だそうです。本書では、タイトル通りに「百人一首」を題材に取り上げています。当然です。特に、私は書道をやっていた経験があって、大学の職を終えればもう一度習いたいと考えているので、色紙歌には興味があって、書道や美術品の観点からも「百人一首」は興味をそそられます。他方で、従来から、私のようなフツーの日本人は、「百人一首」あるいは「小倉百人一首」とは、勅撰和歌集ではないとしても、かなり著名な和歌の撰集であって、藤原定家が嵯峨野の小倉山荘の時雨亭で編んだものと考えられています、というか、伝えられています。しかし、著者の最近の研究成果でこういった一般日本人の「常識」が改めて考え直されていたりします。本書の考察のポイントは、「百人秀歌」と「百人一首」を比較衡量して、その異同から何が見えてくるかを考え、さらに、「百人一首」の配列を考え、当然ながら、権力史などの歴史をひも解き、和歌の解釈にまで考えを及ばせています。そして、考察における決定版としては、藤原定家の日記である「明月記」との比較衡量、日付の検討なども行っています。特に、「明月記」における文暦2年・嘉禎元年(1235年)5月27日の条の障子歌、色紙歌などを参照して、「百人一首」は藤原定家の撰になるものかどうかに、大きな疑問を呈しています。まず、配列については、勅撰和歌集にも見られるように、和歌は一首単独で考えられるべきものではなく、前後の配列の中、あるいは、巻の塊の中で鑑賞されるもの、という視点です。そして、歴史的な視点としては、いくつかの和歌に詠まれた「末の松山」というのは、津波ではないか、というものです。ほかにもいっぱいありますが、こういった歴史や文学の視点は、私のような専門外の読者にとっては目新しいものばかりで、それなりに勉強にはなりました。でも、だからどうした、という読者もいるように思わないでもありませんが、それが「教養」というものです。その意味で、ためになった読書でした、さすがは岩波新書、と感激しました。

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次に、東川篤哉『もう誘拐なんてしない』(文春文庫)を読みました。著者は、「謎解きはディナーのあとで」のシリーズなどで売れているユーモアミステリの作家です。本書も基本的にユーモアミステリのカテゴリの作品といえます。単行本が2008年に文藝春秋から、2010年には文庫本は文春文庫から、それぞれ出版されていますが、本書はさらにエピローグを加えて今年2024年1月に出版されています。出版社の宣伝文句として「斬新なカバーデザイン」というのもあったりしますが、前の表紙は不勉強にして私は知りません。ということで、舞台は基本的に下関なのですが、関門海峡を渡って北九州は門司にも行ったりします。基本的な地図は壇ノ浦古戦場や巌流島などとともに、本書冒頭に示されています。主人公は夏休み中の大学生と門司を地場にする暴力団組長の娘です。それに、人物相関的にはほとんど関係しませんが、印刷会社での偽札もからんできたりします。主人公の垂井翔太郎は夏休みのアルバイトで大学の先輩の甲本一樹からたこ焼きの屋台の軽トラを借りて、門司でアルバイトを始めます。その門司で、ヤクザから逃げる花園絵里香を助けます。花園絵里香は、門司港から発祥したバナナの叩売りを起源とするテキ屋系の任侠一家である暴力団花園組の組長の娘、正確には次女だったりします。なお、花園組の実権は組長ではなく、組長の長女である花園皐月が握っていたりします。その花園皐月と花園絵里香の母親が組長の父と離婚した後にできた妹の手術費用をせしめるために、狂言誘拐を企んで花園絵里香の父親、というか、花園組の組長から身代金を脅し取ろうとします。その身代金受渡しの過程で、花園組ナンバーツーの若頭である高沢裕也が失踪した上に、死体となって発見される謎を花園組の実権を握る花園皐月が探偵役となって解き明かすわけです。ミステリですので、あらすじはここまでとしますが、まあ、このあたりの山口・広島・岡山の瀬戸内ご出身の作者らしく旅情あふれる、というか、ローカる情報を満載したユーモアミステリです。しかし、同時に、関門海峡で船を使うなどの身代金の受渡しや偽札との関係、さらに、身内の裏切りなどの要素がふんだんに盛り込まれている本格ミステリでもあります。ただ、私から2点だけ付け加えます。第1に、実は、殺人事件は若頭の高沢裕也が殺される前に、偽札を印刷していたと思われる印刷会社、というか、正確にはすでに倒産したハズの元印刷会社でも起こっていますが、ソチラの殺人事件はまったく謎解きがありません。私はヘーキなのですが、読者によっては少しモヤモヤするものを感じるケースがありそうな気がします。第2に、本書を原作としてフジテレビ系列でドラマ化されています。主演の樽井翔太郎役に嵐の大野智、花園絵里香役に新垣結衣の配役でした。これはご参考まで。

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2024年3月30日 (土)

今週の読書は経済書2冊をはじめとして計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、小峰隆夫『私が見てきた日本経済』(日本経済新聞出版)は、経済企画庁で「経済白書」の担当課長などを務めた官庁エコノミストが1970年代からの日本経済を概観しています。根井雅弘『経済学の学び方』(夕日書房)は、京都大学の経済学史の研究者が歴史的な視野を持って経済学をいかに学ぶかを説いています。宮内悠介『ラウリ・クースクを探して』(朝日新聞出版)は、ソ連崩壊の前後のエストニアでプログラミングに打ち込んだ主人公をジャーナリストが探す物語です。宮本昌孝『松籟邸の隣人 1』(PHP研究所)は、大磯の別荘である松籟邸の投手である少年時代の吉田茂が隣人とともに様々な事件に巻き込まれながらもそれらを解決します。船橋洋一『地政学時代のリテラシー』(文春新書)は、コロナ禍やウクライナ戦争などによる国際秩序の変容について論じています。岸宣仁『事務次官という謎』(中公新書ラクレ)は、官庁における事務次官の謎の役割を解明しようと試みています。
ということで、今年の新刊書読書は1~2月に46冊の後、3月に入って先週までに25冊、今週ポストする6冊を合わせて77冊となります。順次、Facebookなどでシェアする予定です。
それから、上の新刊書読書の外数ながら、2018年の日本SF短編の精華を収録した大森望・日下三蔵[編]『おうむの夢と操り人形』(創元SF文庫)を読みました。別途、Facebookでシェアする予定です。

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まず、小峰隆夫『私が見てきた日本経済』(日本経済新聞出版)を読みました。著者は、私も所属した経済企画庁から内閣府などで官庁エコノミストを務めた後、法政大学などに転じたエコノミストです。本書以外のご著書もいっぱいあります。本書は、日本経済研究センターのwebサイトで連載されていたエッセイのうち118回目までを取捨選択して編集されています。ですので、1969年の経済企画庁入庁から始まって、著者の半生をなぞる全10章で本書は構成されています。極めて大雑把に、前半は1969年から今世紀初頭くらいまでの経済を分析し、後半は著者の半生を後づけています。どうしても、これだけの年齢に達した方ですので自慢話が多くなるのはご愛嬌です。1970年代のニクソン・ショックに端を発した為替レートに固執した政策運営を批判し、2度に渡る石油危機を分析し、1980年代からのいわゆる貿易摩擦を解説しています。こういった経済分析に関しては、とてもオーソドックスですし、一般の学生やビジネスパーソンなどにも判りやすくなっています。その後の⅔は著者の半生を振り返りつつの自慢話なのですが、経済企画庁や内閣府における官庁エコノミストを極めて狭い範囲で定義し、「経済白書」や「経済財政白書」を担当する部局である内国調査課長の経験者、としているように見えます。私にはやや異論があるところです。ですので、日銀副総裁の経験もある日本経済研究センター(JCER)の理事長ですとか、「日本の実質経済成長率は、なぜ1970年代に屈折したのか」と題する私との共著論文があって、ご著書もいっぱいある上に、これまた日銀政策委員を務めた方とかが、ほぼほぼ無視されています。しかしながら、他方で、内国調査課長を経験していないにもかかわらず、香西泰教授と吉富勝博士については、特に別格扱いで官庁エコノミストのツートップのように取り上げています。もちろん、他省庁のエコノミストは入り込む余地はありません。まあ、こういった視点はともかく、やや内輪話的なところもいくぶんあり、私の面識あるエコノミストがいっぱい登場していますので、とても楽しく読めたのは事実です。

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次に、根井雅弘『経済学の学び方』(夕日書房)を読みました。著者は、京都大学の研究者であり、専門分野は経済学史です。本書は5章構成であり、順に、アルフレッド・マーシャル、アダム・スミス、ジョン・スチュアート・ミル、ジョン・メイナード・ケインズ、ユーゼフ・アロイス・シュンペーターを取り上げています。フツーであれば、経済学はスミスから始まるように思うのですが、マーシャルのあまりにも有名な需要曲線と供給曲線から始めています。私はこれはこれで見識ある見方だと思います。価格の決定に際して、労働価値説に立脚する古典派は供給サイドの理論であり、限界革命後の限界効用説は需要サイドの理論である、などときわめて判りやすい例えを引きながら経済学のいろんな学説を解説・紹介しています。ミルについては、経済や経済学の基礎となる『自由論』を取り上げて多数の専制に対する批判を解説しています。ケインズを取り上げた章では、ややマニアックに「合成の誤謬」に着目しています。最後の章のシュンペーターについては、もともとの本書の視点である正統と異端にあわせて、動学的な非連続性を論じています。私は歴史というのは、特に経済の歴史は微分方程式で表すことが出来ると考えています。でも、そうだとすると、初期値が決まってしまえば後の動学的なパスは自動的に決まります。すなわち、これがアカシック・レコードなわけですが、実は、淡々と微分方程式に従って進むだけではなく、特異点でジャンプする場合があります。すべての歴史が連続で微分可能なわけではありません。それを経済学的に表現したのがシュンペーターのイノベーションであろうと思いますし、本書でいう「正統と異端のせめぎ合いのなかからイノベーションが生まれる」ということなのかもしれません。いずれにせよ、経済学史を専門とする著者らしく、本書では歴史的な流れというものをそれなりに重視し、歴史的な視野を持って、現時点での正統派の経済学がその後も正統派であり続けるという「宗教的な信仰」を排し、外国語も学びつつ基礎を固めて、着実な経済学の学習を勧めています。ただ、副題が「将来の研究者のために」となっている点に現れているように、大学に入学したばかりの初学者を必ずしも対象にしているわけではありません。初学者にも有益な部分があるとはいえ、少し経済学の基礎を持った学生を対象にしているように私は感じました。

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次に、宮内悠介『ラウリ・クースクを探して』(朝日新聞出版)を読みました。第170回直木賞ノミネート作であり、著者は小説家です。本書は、ソ連崩壊前の時代背景から始まり、タイトル通りに、エストニアに生まれたラウリ・クースクを追って、ラウリを探すジャーナリストの物語です。ラウリは小さいころから数字が好きで、コンピュータのプログラミングの才能が豊かでした。まあ、主としてゲームなのですが、その昔の1970年代のインベーダーなどが流行った記憶のある人は少なくないと思います。ラウリは小学校ではいじめっ子に意地悪されながら、父親からコンピュータを与えられ、ロシア版BASICでゲームをプログラミングします。そして、中学校に入ってロシア人のイヴァンと親友になり、プログラミングの能力を伸ばしていきます。同時にイラスト能力の高い少女のカーテャとも仲良くなり、3人でプログラム能力を競い合います。しかし、ソ連崩壊の中でエストニア独立の機運が高まります。イヴァンはもともとがロシア人ですが、他方で、カーテャはエストニア独立に熱心だったりします。その間でラウリは新ロシア派に加わり、デモの際にカーテャは怪我をして車椅子生活となります。繰り返しになりますが、本書はジャーナリストがラウリを探してエストニアを旅するストーリーなのですが、その現代のパートとラウリの少年時代から青年時代が叙述的に語られるパートが交互に現れます。ミステリではないので決して時代をごっちゃにして読者をミスリードさせる意図はないものと考えるべきです。ただ、ジャーナリストの正体が第2部の最後に明らかにされて、読者は軽く衝撃を受けるかもしれません。幼少期からプログラミングに能力あった少年少女の強い絆を縦糸にして、そして、ソ連崩壊という歴史上の大きな出来事になすすべなく翻弄される少年少女の動向を横糸にして、実に巧みに紡ぎ上げた作品です。ただ、最後の最後に、国家はデータではありません。記憶媒体にバックアップしておけばレストアできる、というわけではないと私は考えています。確かに、国土や統治機構は不要かもしれませんが、国家とは国民の集合体であることは間違いありません。国民はデータとしてバックアップできるわけではありません。

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次に、宮本昌孝『松籟邸の隣人 1』(PHP研究所)を読みました。著者は、時代小説を中心に活躍しているベテラン作家です。本書のタイトルにある「松籟邸」とは神奈川県大磯にある別荘であり、後に日本の総理大臣を務める吉田茂が旧制中学校のころに住んでいました。吉田茂の養父である吉田健三が松籟邸と名付けていますが、この作品が始まる時点ではすでに亡くなっていますので、若き吉田茂が松籟邸の当主ということになります。作品中で、茂は養子であることを養母の士子から知らされ、養父の吉田健三の記念碑の除幕式があったりもします。養母の士子はこの松籟邸に住んでいますが、主人公の吉田茂は普段は横浜の本宅や中学校の寮に住んでいて、夏休みなどの休暇期間に大磯にきます。巻の1の青夏の章となっていて、何年かの夏休みを連続して描写しています。この後、3巻まで予定されているようです。なお、場所が大磯ですので、松籟邸の他にも海水浴などを目的として別荘開発が進められているという時代背景です。表紙画像の帯に見えるように、伊藤博文、陸奥宗光、渋沢栄一の他にも岩崎弥之助や大隈重信といった明治の元勲らへの言及があります。そして、タイトルにあり小説の肝となる隣人、実は、ある意味で謎の隣人なのですが、その人物と使用人一家にスポットが充てられます。天人という名で米国帰りのような雰囲気を持ち、別荘は洋館建てです。明治の元勲も関係して少年・吉田茂が事件に巻き込まれたり、あるいは、米国のピンカートン探偵社から天人のことを探りに剣客が送り込まれてきたり、ミステリ仕立てのストーリー展開です。ただ、明治の時代背景ですので、明治維新の勝者に対して強烈な報復意識を敗者の側で持っていたりする例も明らかにされています。繰り返しになりますが、本書の1巻の後、3巻まで出版が予定されているようで、それなりに主人公の吉田茂は成長するのだと思いますが、何分、私のようなジイサンですら吉田茂といえば大宰相であって、葉巻をくわえた写真を思い出すくらいですから、旧制中学校の少年というのはなかなか想像するのが難しかったのは事実です。でも、私自身はこの先の2巻や3巻も読みたいと期待しています。

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次に、船橋洋一『地政学時代のリテラシー』(文春新書)を読みました。著者は、朝日新聞の主筆まで務めたジャーナリストです。現在は独立系のシンクタンクの理事長だそうです。本書は、2023年12月号で終了した『文藝春秋』のコラム「新世界地政学」を編集して収録しています。5章構成であり、コロナ危機による国際秩序の崩壊、ウクライナ戦争、米中対立、インド・太平洋と日本、地経学と経済安全保障から構成されています。その上で、本書冒頭には地政学リテラシー7箇条、そして、最後に地経学リテラシー7箇条が配置されています。まず、コロナ危機とウクライナ戦争は国際秩序を大きく様変わりさせた点については、大方の意見が一致することと思います。それに加えて、習近平一強時代が続く中で中国の国際秩序への関わりも大きく変化しつつあるように見えます。終章の経済安全保障についても、中国との関係の深い日本では気にかかるところです。ただし、私はほとんど本書の議論から益するところはありませんでした。キッシンジャー教授よろしく、リアリズムで国際情勢を考えるべき、というのが本書の視点だと思うのですが、何やら、相対して当たり障りのないことを婉曲に書き連ねているだけのような気がしました。実は、この読書感想文を書くに当たってamazonのレビューも見てみたのですが、評価が大きく二分されています。5ツ星の評価もあれば、中間はいっさいなしで1ツ星というのもあります。その低評価のものは「期待外れ」とか、「星1もあげすぎなほど」といった言葉で表現しています。私も特に一貫性のない細切れの時事問題解説に過ぎない気がしました。ただ、地経学はともかく、地政学は私の専門分野からかなり遠いので、この低評価に必ずしも自信があるわけではありません。

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次に、岸宣仁『事務次官という謎』(中公新書ラクレ)を読みました。著者は、読売新聞のジャーナリストであり、財務省の記者クラブなどに所属していたけんけんがあります。本書のタイトルは、pp.140-41にあるウェーバーの指摘から取られているようで、そこには「官僚組織における長の存在は明確にされておらず、いまだ謎のままである」といったふうに考えられているからです。私も長らく60才の定年まで公務員をしていて、何人かの事務次官を見てきました。私が大学を卒業して入った当時の役所は総理府の外局でしたから、大臣はその役所の設置法で置くことが決められていた一方で、事務次官は役所の設置法の上位法である国家行政組織法で決められていました。やや逆転現象が起きている印象がありました。そして、当時の役所の役職というのは、厳密にいえば、事務官と事務次官と技官の3種類しかなかったことを覚えています。私は「総理府事務官」を拝命したわけです。事務時間以外は、課長であろうと、局長であろうと、もちろんヒラもすべて事務官か技官かのどちらかです。本書でも指摘しているように、局長や統括官などと違って国会の答弁に立つことはなく、記者会見も開きません。でも、総理大臣説明には同行したりします。35年余りも公務員として勤務していると何とも感じませんが、本書で指摘しているように、何とも不思議な役職であることは確かです。いずれにせよ、内閣人事局が出来てから、その俎上に乗るような高位高官に私は達しませんでしたから、やや不明な部分もあるのですが、事務次官とは役所のトップであるという認識は従来から変わりありません。私が公務員を始めたころは、本書でいえば、事務次官が社長で、大臣は社外の筆頭株主、くらいの位置づけであった記憶があります。ただ、本書で主としてフォーカスしている大蔵省・財務省に限らず、役所の人事は次の次くらいまでは、コースに乗っている事務次官が透けて見えるようになっているのも事実です。最後に、私はキャリアの国家公務員でしたが、先輩から事務次官候補と報道されるのは難しくない、というジョークを聞いたことがあります。すなわち、何か破廉恥罪で逮捕される、例えば電車で痴漢して逮捕されたりすると、メディアはいっせいに「将来の事務次官候補だった」と報ずるらしいです。私はそんな経験がありませんので、何ともいえません。

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