2024年9月 7日 (土)

今週の読書は経済書をはじめとして小説なしで計5冊

今週の読書感想文は以下の通り経済書をはじめとして5冊です。小説はありません。
今年の新刊書読書は1~8月に215冊を読んでレビューし、9月に入って本日5冊をポストし、合わせて220冊となります。Facebookやmixi、あるいは、経済書についてはAmazonのブックレビューなどでシェアする予定です。また、池井戸潤『不祥事』(講談社文庫)と『花咲舞が黙ってない』(中公文庫)を読みました。すでに、mixiとFacebookでシェアしています。

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まず、ギャレット・ジョーンズ『移民は世界をどう変えてきたか』(慶應義塾大学出版会)を読みました。著者は、米国ジョージ・メイソン大学の研究者です。英語の原題は The Culture Transplant であり、2023年の出版です。サブタイトルは「文化移植の経済学」となっています。将来に向かっての労働力不足を解消するための移民の導入に対して、私は大いに懐疑的であり、少なくとも日本の地理的な条件として世界でも有数の人口大国を隣国に持っていることから、ハードルの低い移民受け入れは国家としてのアイデンティティの崩壊につながりかねない、と感じています。本書は、この私の問題意識と共通する部分があり、少なくtも、多くの左派リベラルのエコノミストように移民をア・プリオリに認めて、多様性や包摂性=インクルージョンを求める論調ではありません。いくつか論点がありますが、まず、本書では移民が受入国に同化するかどうかについては懐疑的です。むしろ、経済面では移民受入れ国の地理よりも移民そのものの民族性の方がより大きな影響力を持つと指摘しています。世界経済を考える場合、よく「グローバルサウス」ということをいい、その昔は南北問題を話題にしていましたが、そういった地理的な条件ではなく民族性のほうが経済発展に対して大きな影響力を持つ、という議論です。経済的繁栄の要因として、設備投資率、貿易開放の年数、儒教的背景を持つ人口比率の3点を本書では冒頭に上げています(p.5)。そして、投資に対しては貯蓄の裏付けが必要なのですが、移民の民族性として「倹約」の傾向は明らかに移民により輸入される、との分析結果を示しています。その上で、国家史=S、農業史=A、技術史=Tの頭文字を取ったSATスコアにより経済的繁栄=1人当たり所得が決まる、との結論です。少なくとも、このうちの技術を考える場合、場所を基準とした尺度よりも人を基準とする方が説得力あるのは当然です。また、移民については多様性が持ち出されますが、本書ではこれもやや懐疑的です。すなわち、経済学、というか、生産に関してはスキルの多様性が分業の深化において有利に働くとしても、経営的あるいは文化的には多様性は決してプラスにならない、と指摘しています。また、エリート集団に所属していれば多様性は受け入れやすいが、そうでなければ多様性の必要性はそれほど感じない、との分析結果も示しています。東アジアの経済的成功例である日本や韓国を観察すれば、多様性に関する認識は変わる、とも述べています。米国や欧州における右派ナショナリスト・ポピュリストの主張などを考え合わせると、よく理解できそうですし、決してポピュリストではない私もかなりの程度に合意します。最後に、東南アジア、タイ、マレーシア、インドネシア、それにシンガポールの例を見て、「家人ディアスポラを拡大すること」(p.197)が経済的繁栄につながる、と結論しています。はい、数百年の世界の経済史を考えれば、結論としては間違っていない可能性のほうが高い、と私は受け止めています。ただ、最後の最後に、経済的な凋落の崖っぷちに立っている日本のエコノミストとして、やや自嘲的ながら経済的な繁栄がすべてなのか、という疑問は残ります。

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次に、西野倫世『現代アメリカにみる「教師の効果」測定』(学文社)を読みました。著者は、神戸大学の研究者です。本書の観点は、教師の効果=teacher effectiveness、すなわち、教師が教育においてどのくらいの重要性を持っているか、というテーマであり、本書でも取り上げている米国スタンフォード大学のハヌシェク教授やハーバード大学のヘックマン教授などのように、米国ではエコノミストが分析しているテーマだと私は考えています。ですから、私が勤務校の大学院の経済政策の授業を担当していた時には、『フィナンシャル・レビュー』2019年第6号で特集されていた教育政策の実証研究の論文を読ませたりしていました。ほかにも、例えば、小塩隆士ほか「教育の生産関数の推計」といった経済学的な研究成果もあり、ここでは首都圏や関西圏の中高一貫の進学校、まあ、開成高校や灘高校などが思い浮かびますが、そういった進学校では、身も蓋もなく、トップ大学の入学試験合格という成果は学校の成果ではなく、その学校に入学する生徒たちの平均的な学力によって決定される、という結論を示しています。有り体にいえば、賢い子が入学して、特に学校で強烈な学力の伸びを見せるわけでもなく、そのまま、東大や京大に進学する、というわけです。同じ考えがその昔は米国にもあって、1970年代初頭くらいまで、学業成績を決定するのは、家庭環境=family backgroundと学友の影響=peer effectsが大きく、学校資源=schoolinputsの影響はほぼないか、あってもごくわずか、という研究成果が主流でした。しかし、こういった見方は学力の計測について進歩が見られ、データがそろうにつれて否定されます。すなわち、学力の測定は4つの方法があり、素点型=status models、群間変化型=cohort-to-cohort models、成長度型=growth models、伸長度型=value-added modelsがあり、まさに、開成高校や灘高校ではありませんが、賢い子が入学して賢いまま難関校に合格する、という素点型に基づく評価ではなく、伸長度型の評価に移行しています。要するに、学校において教師がどれだけ生徒の学力を伸ばせたか、を評価するわけです。その上で、米国ではそれを教師自身の人事評価に直結させるシステムに発展しています。どうでもいいことながら、"value-added"は経済学では「付加価値」という訳語を当てていますが、教育学では「伸長度」なのかもしれません。こういった考えが普及する前には、教師の効果の計測は生徒の学力伸長度ではなく、経験年数や学位、すなわち、修士学位を持っているかどうか、などで計測されていました。ただ、私は少し疑問を持っていて、単純に教育といってもいくつかの段階があり、初等教育、特に義務教育レベルでは到達度、素点型が重要なのではないか、という気がしています。読み書き計算という生活上や就業する際の基礎を十分に身につけることが充填とすべきです。その上で、中等教育については高等教育への進学を目指すのであれば、それ相応の学力伸長が必要ですので、本書で指摘しているような伸長度モデルに基づく教師の評価が効果的である可能性が高まります。そして、最終的な高等教育においては、また別の評価の尺度があり得るような気がします。ただ、私の方でも指摘しておきたいのは、本書でも指摘しているように、何が、あるいは、どういった要因が高い伸長度をもたらしたのか、という点の分析はまったく出来ていません。当たり前です。どういった教育方法が高い伸長度をもたらすのか、という点が解明されていれば、行政の方でマニュアルめいたものを作成・配布して、多くの教師がベスト・プラクティスを実践できますが、まったくそうはなっていません。ですから、「教師の効果」は測定という前半部分は実践され始めている一方で、その分析結果を教育現場にフィードバックする後半部分はまったく手つかずで放置されています。この部分を解明する努力がこれから必要となりますが、前半部分は経済学の知見が大いに活用できますが、後半部分はまさに教育学の正念場と考えるべきです。最後の最後に、日本における「全国学力・学習状況調査」、いわゆる学力テストは現状では計測対象が極めて不明確であり、何を計測しようとしているのかが不明と私は考えています。加えて、繰り返しになりますが、教育現場における実践も進んでいないのですから、本書で展開されているような教師の評価に用いるのであれば、かなり慎重な扱いが必要と考えますので、付け加えておきたいと思います。

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次に、モーガン・フィリップス『大適応の始めかた』(みすず書房)を読みました。著者は、気候危機対策のために活動する英国の環境慈善団体の役員です。本書執筆時にはグレイシャー・トラストに所属していて、この団体は本書でも何度か登場します。英語の原題は The Great Adaptations であり、2021年の出版です。ということで、本書の適応の対象は、当然ながら、気候変動です。本書では「気候崩壊」という用語も使われています。さまざま機会に言及される産業革命から+1.5℃目標とか、あるいは少し緩めに+2.0℃目標とかの目標はかなり怪しくなってきた、と考える人は少なくないと思います。また、今年の『エネルギー白書2024』第1部第3章では、2050年のカーボン・ニュートラルに関して「温室効果ガスの削減が着実に進んでいる状況(オントラック)」(p.60)との分析結果を示していますが、たとえ2050年カーボン・ニュートラルが達成可能だとしても、それは+1.5℃目標が達成可能だという意味であって、実は、現状で昨年だと思うのですが、すでに+1.3℃の上昇を記録しています。現時点での+1.3℃の上昇でも、これだけの異常な猛暑や台風被害などが発生しているわけです。ですから、ここからさらに+0.2℃上昇して+1.5℃目標が達成されたとしても、現時点での異常気象よりさらに気象が異常度を増すことは明らかです。加えて、炭素回収・貯留(CCS)については、実用化されるとしても、メチャメチャ大きなキャパを必要とすると試算しています。ですから、本書では2012年10月のハリケーン・サンディの後のニューヨークスタテン島では、再建を諦めて州政府に土地を買い上げてもらって撤退=retreatの選択肢を選ぶ住民が少なくなかった事実から始めています。どうでもいいことながら、原因は気候変動ではありませんが、我が国のお正月の能登半島地震でも、政府は撤退を促して放置しているのか、という見方もあるかもしれません。まあ、違うと思います。世界における気候変動に対する適応例、あるいは、適応アイデアを本書ではいくつか上げています。モロッコの霧収集、ネパールのアグロ・フォレストリーなどで、詳しくは読んでいただくしかありませんが、アイデアとしては、海面上昇への対応として英国東岸からバルト海を守るため、英国スコットランド北東端とノルウェイ西岸の間、さらに、英国イングランド南西端のコーンウォールからフランス北西端ノブルターニュの2基にダムを建設する、というNEED計画があるそうです。途方もないプランのような気もしますが、技術的にも予算的にも可能で、海面上昇による沿岸部からの撤退よりも安いと主張しています。真偽の程は私にはまったく想像もつきません。ただ、他方で誤適応の可能性も排除できません。本書では、海面上昇に対してコンクリート堤防よりも砂丘の方が効果的である可能性を指摘していますが、行政にも一般国民にもなかなか理解が進まないのではないか、と私は恐れています。本書でも指摘していますが、経済的な誤適応を防止する方策のひとつとして、経済社会の不平等の軽減を促す必要は特筆すべきと考えるべきです。加えて、自然界ですでに適応が始まっている可能性についても本書では指摘しています。自然界の適応には3種類あって、種の移動、種の小型化、生物気候学の変化を上げています。最初の2つは理解しやすい一方で、最後の生物気候学の変化とは、開花や巣作りの時期の変更などの生物学的事象のタイミングの変化を指します。人類はホモ・サピエンスとしてアフリカに発生してから移動を繰り返しているわけで、大移動もひとつの選択肢ということになります。そういった対応をするとしても、現在の文明が生き残れるかどうか、私には何とも予測できません。気候変動対策に失敗し、さらに本書でいう適応にも失敗すると、現在の文明社会が崩壊する可能性が決して無視できません。

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次に、赤川学[編]『猫社会学、はじめます』(筑摩書房)を読みました。編者は、東京大学の社会学研究者です。本書で指摘されているように、2017年のペットフード協会による「全国犬猫飼育実態調査」において飼育頭数ベースで猫が犬を上回りました。2023年調査では、犬が6,844千頭、猫が9,069千頭と差が広がっています。そして、編者や各章の著者は、いうまでもなく、大の猫好きだったりします。ペットロスの体験談も含まれていたりします。まず、猫が犬よりもペットとして飼われる頭数が多くなったのは、当然ながら、お手軽だからです。大きさとしては、犬種は色々あるものの、大雑把に犬よりも猫の方が小さく、それだけに餌代なども負担が小さそうな気がします。猫は犬と違って散歩に連れ出す必要はありませんし、狂犬病の予防接種も不要です。日本ではもう狂犬病というのはほとんど身近なイメージがなくなりましたが、アジアではまだまだ撲滅されたわけではありません。我が家は20年以上も前に子供たちが幼稚園に入るかどうかというタイミングでインドネシアの首都ジャカルタに3年間住んでいましたが、ご当地ではまだ狂犬病は残っており、狂犬病というのは噛まれたら直ちにワクチン接種しないと、病気を発症してからでは致死率100%ですから、とてもリスクの高い病気です。我が家はノホホンとしていましたが、一戸建ての社宅住まいのご家族なんかでは狂犬病のワクチンがどの病院で接種できるか、なんてリストを冷蔵庫に貼っている知り合いがいたりしました。それはともかく、そのうえ、本書で示されているように、犬と猫では出会い方も大きく異なります。犬の場合はペットショップでの購入が50%を超えるのに対して、猫は20%には達せず、野良猫を拾った32%や友人/知人からもらった26%の方が多かったりします。何といっても、猫の魅力は決して人に媚びることなく、一定の距離をおいて人に接する孤高の存在せある点だと私は考えています。加えて、本書でも指摘しているように、姿形が美しい、というか、可愛いのも大きな魅力です。本書ではこういった猫の魅力に加えて、さらに、社会学的な分析も提供しています。すなわち、猫カフェ、猫島、また、マンガの「サザエさん」における猫の役割、などなどです。最後に、私も京都の親元に住んでいたころ、およそものごころついたころから、大学を卒業して東京に働きに出るまで、ほぼほぼ常に猫が我が家にいました。ですから、私は猫のノミ取りが出来たりするのですが、今は外には出さない家飼いでノミなんかいないし、また、特に雌猫の場合は去勢されているケースも少なくありません。私は猫については野生というわけではないものの、自由に振る舞うことが大きな魅力のひとつになっているので、こういった家飼いで外に出さない、あるいは、生殖能力を処理するのが、ホントに猫のためになっているのかどうかについては、やや疑問に感じています。我が国の住宅事情をはじめとする猫の飼育事情を考えると、こういった飼い方も十分考えられるのですが、私には何が猫のためなのかよく判りません。ミルは『自由論』でトピアリーとして刈り込まれた庭木についてとても否定的な見方を示していますが、猫を外に出さずに家飼いする現在の飼い方については、それと同じような見方をする人もいそうな気がします。

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次に、石川九楊『ひらがなの世界』(岩波新書)を読みました。著者は、私よりも一回りくらい年長なのですが、京都大学OBという意味で先輩であり、もちろん、書家としても有名です。ただ、私はこの著者の書道作品、本書各章の扉にいくつか示されているような著者の書道作品については、それほど好きではありません。というのも、私が学んだ先生によれば書道作品は字として読めなければならない、というのが持論でした。例えば、「大」と「犬」と「太」は天のあるなし、あるいは、どこに点を打つかで字としては異なる字を表します。その違いが読み取れなければ書道作品ではない、という主張でした。でも、私は悲しくもそれほど上達せず、基本、楷書ばかりを練習して、行書を少しやっただけでした。草書やかなに手が届くまでの力量はまったくありません。ということで、本書ではひらがな=女手の世界を解説しています。万葉文字から始まって、ひらがなが成立・普及し、1字1字独立して書く楷書と違って、ひらがなは続けて書く連綿という手法が主になります。そして、本書で指摘されているように、一般にはそれほど知られていませんが、掛詞の前に掛筆や掛字があり、字が抜けていたりします。ですので、ひらがなについては書く前にまず読む訓練をする場合も少なくありません。私は、200ページあまりのこれくらいのボリュームの新書であれば、それほど時間をかけずに読み飛ばすことも少なくないのですが、本書の第2章からはとても時間をかけました。悲しくも、書くことはおろか、ひらがなを読む訓練すら受けておらず、著者のご指摘通りにひらがなを読むことから始めましたので、そのために普段と違ってとても時間をかけた読書になりました。逆に、ひらがなをはじめとする図版をとてもたくさん収録しており、それを著者の解説とともに鑑賞するだけでも、私のような人間は幸福を感じたりします。ボリューム、というか、ページ数から考えても、本書の場合は第2章がメインと考えるべきです。そして、その第2章以降の第3章と第4章の歴史的なひらがな作品を鑑賞できるのは、本書の大きなオススメのポイントといえます。書道、特に、ひらがなに興味ある多くの方にオススメします。

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2024年8月31日 (土)

今週の読書は経済書のほかホラーもあって計7冊

今週の読書感想文は以下の通り、久しぶりに読んだ経済書をはじめ計7冊です。
今年の新刊書読書は1~7月に186冊を読んでレビューし、8月に入って先週までに計22冊、そして、8月最後に今週7冊をポストし、合わせて215冊となります。目標にしているわけでも何でもありませんが、年間300冊に達する勢いかもしれません。なお、Facebookやmixi、あるいは、経済書についてはAmazonのブックレビューなどでシェアする予定です。また、染井為人『悪い夏』も読んでいて、すでにFacebookとmixiでシェアしていますが、新刊書ではないと思いますので、本日の読書感想文には含めていません。

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まず、松尾匡『反緊縮社会主義論』(あけび書房)を読みました。著者は、私の同僚、すなわち、立命館大学経済学部の研究者です。本書は、基本的に、著者の主張に対する批判への再反論という形を取っており、はしがきにもある通り、書き下ろされている第7章と第8章を別にすれば、何らかの形で公表されたものを収録しています。ただし、私のように職場の同僚として著者のnoteのサイトをメーリングリストにしたがってプッシュ型配信を受けていたり、あるいは、学術雑誌をていねいに読んでいたりする人は極めて例外的でしょうから、まあ、初めて接する読者が多いのだろうと想像しています。私は官庁エコノミスト出身ですし、まさに、主流派の政府公認の経済学をもってお仕事してきたキャリアがほとんどですので、本書で展開されている経済学や経済学以外の部分をどこまで理解できたかはいささか自信がありません。というか、少なくとも、出版社のサイトに示されている目次でいって、第5章とその先はほぼチンプンカンプンです。まず、ワルラスの定義によれば、経済学は純粋経済学・応用経済学・社会経済学に分かれて、本書で展開されている経済学は社会経済学といえます。所有や税・財政、また富の分配に関する経済学です。同時に、正確ではないかもしれませんが、社会経済学とはかなりマルクス主義経済学に近い、あるいは、ほぼ同一の経済学を指す場合もあります。ということで、はなはだ不十分ながら、50年ほど前に大学で接したマルクス主義経済学に基づいて、私なりに少し考えたいと思います。すなわち、全体として私自身も支持できる経済学だと思うのですが、2点だけ指摘しておきます。まず、歴史観については、本書のタイトル通りにポスト資本主義を展望し、その上で、本書が標榜する社会主義を考えるのであれば、唯物史観が中心に据えられなければなりません。私自身は主流派エコノミストの端くれながら、素朴な理解として唯物史観的に生産力、すなわち、生産性ではなく、生産物の量は歴史的に一貫して増加していく、と考えています。そして、主流派経済学と折合いをつければ、生産力の増大とともに商品が希少性を減じて、いきなり最終形になだれ込むと、商品価格が限界的にゼロになって、各個人がフリーに商品を得ることが出来るのが共産主義社会だと考えています。その段階で「国家が死滅する」かどうかは私には難しくて判りません。もちろん、「晩期マルクス」の研究により脱成長論が地球環境との関係で注目されているのは理解していますが、私は疑問を感じています。その点からして、本書は長期の唯物史観ではなく、やや短期の視点に偏重しているきらいがあるような気がしないでもありません。ただ、景気循環の中で需要がより重要な要因であり、構造改革のように供給を重視するのは決して望ましい結果をもたらさない、という点は大いに賛同します。もうひとつは、民主的な参加と選択にもっと重点を置いてほしい気がします。冒頭の何章かで「リスク・決定・責任」のリンケージが強調されています。その通りだと思います。私は公務員だったころには、とても素直に、というか、半ば建前として、最後に国民は正しい選択をする、と信じていました。あるいは、信じているフリをしていました。でも、最近の自民党総裁選の報道を見ても、大きな失望しか感じません。たぶん、国民はまた正しい選択から目をそらされている、あるいは、そう仕向けられているような気がします。少し前までは、メディアと野党、加えて、ナショナルセンターとしての連合をはじめとする労働組合の劣化が原因だと考えていましたが、ひょっとしたら、国民のレベルそのものがそんなものかもしれないと感じ始めています。ただ、民主的な選択をする基礎として格差や不平等の是正は絶対に必要ですし、それも含めて、極めてラディカルな民主的な改革、情報操作などに惑わされることなく、ホントに国民が正しい選択を出来るような基礎が必要です。民主主義の大改革とは、学生によく説明する時には、「花咲舞のように考えて行動すること」だと私はいっています。すなわち、例の「忖度」をしたり、組織の論理とかに惑わされることなく、自分の信ずるところ、正義、あるいは、良心にのみ従って参加し、議論し、決定する、ということです。こういった民主主義の徹底というのは、おそらく、社会主義に先立つ資本主義の枠内での大改革であり、それがなければ、国民は社会主義を選択しないのではないか、という気がします。そして、教育の大きな目的のひとつは、特に高等教育は、そういった民主的な参加・議論・選択・決定のできる学生を社会人として輩出することなのだと思っています。

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まず、田中琢二『経済危機の100年』(東洋経済)を読みました。著者は、財務省ご出身で2019-2022年に国際通貨基金(IMF)日本代表理事を務めています。ですので、本書は、少なくとも戦後についてはIMF公式の歴史をなぞる形になっています。もちろん、1944年以前は、そもそも、国際通貨基金(IMF)が設立されていませんから、公式の歴史というのはありません。ということで、第1次世界大戦終了後の1920年くらいから直近コロナ禍くらいまでの世界経済の危機の歴史を概観しています。歴史の概観は8章までとなっていて、第9章と第10章で結論部分を構成している印象です。時代しては、第1章が第1次世界大戦から世界恐慌、第2章が第2次世界大戦終了の歳のブレトン・ウッズ体制の成立と1970年代における終焉、第3章はやや重複感あるも、1970年代の石油危機とスタグフレーション、第4章が980年代の中南米を中心とする累積債務問題、第5章がG7サミットなどを国際協調の進展と1985年のプラザ合意、第6章もメキシコのテキーラ危機とアジア通貨危機、第7章で21世紀初頭のドットコム・バブルからリーマン・ショックまで、第8章で新型コロナウィルス感染症(COVID-19)パンデミックとウクライナ戦争、となっています。それほど新しい視点を提供する本ではなく、今までの常識的な経済史をなぞっているだけなのですが、それはそれで歴史書として重宝しそうな気がします。おそらく、読者に想定しているのは一般ビジネスパーソンや学生であり、私のような研究者は含まれていない気がしますし、少なくとも学術書ではありません。一般向けに判りやすいとはいえ、学術書のような厳密さはなく、少なくともタイトルにある「危機」くらいは、何を持って危機としているのかの定義くらいは欲しかった気がします。少なくとも短期の景気循環ではなく、中長期の構造的なショックを想定しているのだろうと思いますが、ショックと危機は違う気もしますし、加えて、経済の中の内生的な要因も経済外の外生的な要因もゴッチャにして議論している印象があります。もうひとつは、IMFの公式の歴史に基づいているので仕方ないのかもしれませんが、ほぼほぼ金融に関する危機で終始しています。例外は1970年代の2度に渡る石油危機くらいのもので、COVID-19パンデミックも需要ショックなのか、供給ショックなのか、十分な分析はありません。従って、金融以外の実物経済の側面はほぼほぼスコープに入っていません。ドットコム・バブルはインターネットを含むITC技術に基づいている側面も無視できないのですが、そういったITC技術の活用による生産性の向上なんかはまったく無視されています。そして、金融ショックについても重要な観点が抜け落ちています。すなわち、不良債権の問題に著者は気づいていないようです。ドットコム・バブルやCOVID-19ショックでは、それほど不良債権が発生しませんでした。他方で、我が国の1990年代初頭のバブル経済崩壊では、そもそも、不良債権についての経験も乏しく、ましてや政策対応の難しさも理解できておらず、長々とバブル崩壊後の不況局面が継続しましたし、リーマン・ショック後のGreat Recessionでは長期不況=secular stagnation論まで飛び出して話題になったのは記憶に新しいところです。私は本書は経済書としてははなはだ不満が残る内容だといわざるを得ませんが、それでも、歴史書としてはそれなりの有益性があると感じています。その意味で、手元に置いておきたい本であり、学生諸君やビジネスパーソンにはオススメです。

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次に、藤森毅『教師増員論』(新日本出版社)を読みました。著者は、日本共産党文教委員会の責任者です。本書は、教員の重労働と人員不足の原因を探り、その対応策について議論しています。というか、その解決策・対応策は本書のタイトルそのままであり、教師を増員することでしかありえません。本書ではまず、歴史的にもっとも重要である1958年の「義務標準法」に関して、当時の雑誌に掲載された文部省職員の解説文から説き起こし、小学校では1日4コマを標準としていた事実を突き止めます。それが、なし崩し的に事実上1日6コマになって行く経緯が解き明かされています。実は、個人的な事情ながら、私が役所の定年退職後に採用された現在の勤務校では、大学の教員の持ちコマは週5コマを標準とする、という点が公募文書に明記されていました。はい、ハッキリいって、まったく守られていません。今年2023年3月の定年退職の後で特任教員としてお仕事を継続していますが、特任教員は週4コマが標準となっているものの、私はこの春学期は6コマ持っていました。10月からの秋学期でも5コマあります。初等中等教育の学校だけでなく、高等教育の大学でも教員は過剰な授業負担に苦しんでいるわけです。本書でも指摘しているように、ほかの行政分野であれば予算がなければ仕事にならないケースが少なくないのは明らかです。例えば、道路を敷設するとすれば工事費が必要なわけで、予算措置なければ道路はできません。しかし、教育現場はそういうムリが通りかねない素地がある点は理解すべきです。デジタル教育でタブレットを使う、ということになれば、タブレットを購入する予算は必要ですが、それ以外は現場の教員の努力以外の何物でもありません。生徒や学生のために理数系の教育の充実を図る、なんてのは、予算措置が皆無でも現場の教員の負担により達成すべき目標になってしまいかねないわけです。その上、現状でも教師の負担が限界に達していることは明らかです。では、どうするかというと、業務を減らすか、教師を増やすかどちらかしかないのは誰もが理解していると思います。現在の行政では、例えば、部活を外部委託するなどの業務負担の軽減を眼目として、あくまで教師の増員は認めないような姿勢と私は受け止めていますが、本書では、まさにタイトル通りに教師を増員すべきと指摘しています。例えば、部活については、単なるレクリエーション活動であって、生徒の気晴らしでしかないのであれば、外部委託もあり得るかもしれません。しかし、教育の一環である限りは教師が責任を持って進めるべきです。私が見ても、日本は教師はもとより、公務員も少なく、そのため、外部委託で大儲けしている企業がいっぱいあります。東京五輪なんかでも電通やパソナといった企業に丸投げしてカギカッコ付きの「ビジネスチャンス」を創出し、賄賂の可能性まで開拓しているのは広く報じられているところです。ですから、私も本書の指摘には大賛成であり、学校業務を減らす方向の解決策を志向するのではなく、教師を増員すべきだと考えます。外部委託で大儲けする機会を一部企業にもたらし、しかも、そこから政治献金やパーティー券の販売へといった還流を期待するのではなく、学生や生徒・児童の身になって考えれば、教育の質を維持するためにも、本書が指摘するように、教師の増員という結論が得られて当然だと思います。

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次に、楠谷佑『案山子の村の殺人』(東京創元社)を読みました。著者は、ミステリ作家であり、クイーンや法月綸太郎・有栖川有栖よろしく、本作の中にも名前が出現します。しかも、これまた、クイーンや岡嶋二人などと同じで執筆担当とプロット担当の2人による分業体制を取っています。いとこの同い年で、しかも、同じ大学の同級生という執筆担当の宇月理久とプロット担当の篠倉真舟が主人公となります。特に、前者が本作のワトソン役で視点を提供します。この大学生作家のペンネームが楠谷佑なわけです。田舎の村を舞台にした執筆の取材のために、この2人のもうひとりの大学の同級生である秀島旅路に誘われて、奥秩父の宵待村、というか、秩父市宵待地区に出かけます。秀島旅路の実家がそこで地区唯一の旅館を経営しています。時期としては、大学の後期試験を終えた冬の終わりです。そこで殺人事件が起こるわけです。なお、タイトルにある案山子については、この宵待地区が専業の案山子製作者もいるほどの案山子で有名な地区であり、アチコチに案山子がいるとともに、特に、1件目の殺人事件で一定の役割を果たすことに由来します。1件目の殺人事件は、ボウガンから放たれた矢による殺人です。豪雪地帯ではないものの、雪が降って宵待地区は秩父警察の到着が大幅に遅れ、一時的にクローズド・サークルとなります。ただ、次の2件目の殺人事件のあたりで警察が到着します。加えて、1件目の殺人事件の現場はいわゆる雪密室となっていて、足跡から犯人を特定するどころか、殺害犯人が現場にどのように接近・離脱したのかも謎となります。続いて、2件目の殺人事件では、お忍びでやって来ていた秩父出身の有名シンガーソングライターが刺殺されます。この2件の殺人事件を大学生2人のミステリ作家、というか、ハッキリいえば、プロット担当の篠倉真舟が解明する、というわけです。そして、この作品が奮っているのは、いわゆる「読者への挑戦状」があることです。しかも、何と2回に渡って「読者への挑戦状」があったりします。もちろん、誰が犯人なのかの whodunnit に加えて、雪密室の howdunnit、さらに、動機の解明という意味での whydunnit などなど、いくつかの謎の解明が必要となります。はい。頭の回転の鈍い私にはサッパリ謎は解けませんでした。でも、実に実に、王道ミステリといえます。「読者への挑戦状」だけでなく、謎解きもとても論理的でていねいです。ただ、難をいえば、連続殺人事件とはいいつつも、たった2件だけで終わってしまう点です。3件目、4件目の殺人事件があった方が大がかりで読者受けはしそうな気もしますが、それは今後に期待するべきなのかもしれません。いずれにせよ、ミステリファンであれば押さえておきたいところで、かなりオススメです。

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次に、獅子吼れお『Q eND A』(角川ホラー文庫)を読みました。著者は、詳細不明でよく私には判らないのですが、取りあえず、小説家なのだろうと思います。本書はデスゲームが展開されるホラー小説であり、主としてゲームは早押しのクイズだったりします。高校生のAこと芦田叡は、気づくとデスゲームに巻き込まれていました。それが早押しのクイズであり、主催者はオラクルです。オラクルの正体はよく判らないのですが、地球外生命体で地球人よりもいっぱいいろんな能力がある、ということのようですから、まあ、ウルトラマンみたいな存在です。そのオラクルによって二十数人が集められて、無理やりデスゲームの早押しクイズに参加させられるわけです。参加者は、もともとのクイズ解答能力のほかに、オラクルにより異能が与えられます。例えば、A=Answerはクイズの答えがわかる; B=BANは指定した参加者の能力を一定時間無効にする; C=Counterは他の参加者がボタンを押す行動を予知し、その前にボタンを押すことができる; などです。そして、デスゲームですのでクイズの敗者は死にます。クイズの敗者だけでなく、異能を指摘されても死にますし、逆に、異能を指摘することに失敗しても死にます。主人公の芦田叡とその友人のほかに、クイズ王のQも参加しています。そして、極めて特殊な設定として、こういったオラクルのデスゲームから一般市民を守るために警察官が何人か参加しています。そして、警察官は人狼ゲームになぞらえて、クイズ王のQか、あるいは、A=Answerか、あるいは、その両方がオラクルによって仕込まれた「人狼」なのではないかと考えて、排除しようと試みます。まあ、ほかは村人なわけなのかもしれません。こういったルールに基づいてゲームが進められ、果たしてラストはどうなるのか、それは読んでいただくしかありません。私の頭の回転が鈍いせいか、あるいは、感性に問題があるのか、それほどの恐怖は感じませんでしたが、不可解なるものに対する違和感は大きかったです。ただ、その不可解なるもの正体がオラクルなわけで、しかも、このデスゲームのフィールドにおいてはオラクルが神の如き絶対者なわけですから、私のような根性なしは絶対者に従う羊のようなもので、抵抗する姿勢を示すような精神的に強い人なら、逆に恐怖をより強く感じるかもしれません。何かを論理的に解き明かそうと試みるのではなく、夏の夜に読むホラーとしてオススメです。

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次に、宮部みゆきほか『堕ちる』澤村伊智ほか『潰える』(角川ホラー文庫)を読みました。角川ホラー文庫30周年を記念して、サブタイトルとして「最恐の書き下ろしアンソロジー」ということで編まれています。出版社によればシリーズでもう1冊あって、『慄く』というタイトルらしいのですが、なぜか、12月出版とされています。たぶん、誰か原稿が間に合わない作者がいたのではないか、と私は想像しています。間違っているかもしれません。ということで、著者と合わせて、収録されている短編を順に取り上げると次の通りです。
まず、『堕ちる』です。宮部みゆき「あなたを連れてゆく」は15年前の房総が舞台となります。小学校3年生男子である主人公が夏休みに1人で房総にある親戚の家に預けられます。そこの子であるアキラはすごい美少女で、とんでもないものが見えたりします。新名智「竜狩人に祝福を」では、物語はまるでゲームのように場合分けがなされて進行します。人間を支配する竜=ドラゴンに対抗する竜殺し=dragon slayerの活動を中心に進みますが、実は最後は実社会に戻って大事件が起こります。芦花公園「月は空洞地球は平面惑星ニビルのアヌンナキ」では、小学生が河童に出会って願いを叶えてもらうところから始まりますが、実は、地球は宇宙人の高度生命体に支配されていたりします。内藤了「函」では、一等地にありながら幽霊屋敷の建つ不動産を相続した主人公が、相続のために必要な手数料を捻出するのに、アパートを退去して敷金の返却で充当したため、その幽霊屋敷に移り住むハメになります。もちろん、幽霊屋敷の祟りはタップリあって、なかなか不動産は換金できません。三津田信三「湯の中の顔」では、作家が湯治場にやってきて、近在の農民とは明らかに異なる年配男性から怪談のような小説の基になりそうな民話のたぐいを聞き、男性の小屋を訪れると、怪異に追いかけられます。しかし、この怪異は越えられないものがありました。小池真理子「オンリー・ユー - かけがえのないあなた」では、故人の資産処分で別荘地のマンションを訪れた司法書士事務所の女性がマンション管理人室にいた管理人の後妻と連れ子に歓待されます。その後、管理人が自殺して再びそのマンションを訪れた際に、管理人家族に関してとんでもない真実を知ります。
次に、『潰える』です。澤村伊智「ココノエ南新町店の真実」では、東京多摩地区郊外にある心霊スーパーにオカルト雑誌の取材が入ります。9時の閉店後に店内を取材したところ、はい、人に害なす者がいました。阿泉来堂「ニンゲン柱」は、主人公が市役所を辞めて専業作家になったもののスランプで筆が進まず、北海道に取材に出かけたところ、有名ホラー作家といっしょに地方の行事に遭遇し、とてもサスペンスフルな展開となります。特に、ラストが怖かったです。鈴木光司「魂の飛翔」は、この著者の代表作であり、日本でもっとも有名なホラー小説のひとつである「リング」のシリーズの前日譚となります。山村貞子の腹違いの妹に当たる佐々木芳枝は光明教団の開祖となります。しかし、実験で貞子のビデオにつながる念写をしようとすると、さまざまな妨害が入ったりします。大正時代と「リング」の1990年前後を行ったり来たりします。原浩「828の1」では、主人公の母親が老人ホームで、特に意味もなく「828の1」とつぶやくようになり、その謎の解明のために菩提寺の住職などに当たりますが、強烈に死の予感がします。一穂ミチ「にえたかどうだか」では、5歳の女の子と母親が主人公なのですが、引越し先にはホームレスすれすれの格好の女性が同じ階の住人としていたり、また、親子ともに友人もできなかったのですが、たまたま、同じマンションの住民で同じ年齢の女の子と母親と親しくなります。しかし、スピーカーのような情報通の高齢女性から真実を知らされます。小野不由美「風来たりて」は、石碑のあった丘というか、塚に一戸建て5戸の住宅開発がなされます。しかし、その場所は過去には刑場があったりして祟りが感じられます。
いずれの短編ホラーも力作そろいです。この季節、私はホラーを読むことも多いのですが、海外のキングやクーンツを別にして、また、「四谷怪談」や「番町皿屋敷」や「牡丹灯籠」に小泉八雲くらいまでの前近代の怪談も除いて、本邦に限定してのモダンホラー小説の中では、短編では小松左京「くだんのはは」や小林泰三「玩具修理者」、長編では小池真理子『墓地を見下ろす家』や鈴木光司『リング』とそのリリーズ、あるいは、貴志祐介『悪の教典』といったところを個人的に評価しています。幽霊や妖怪をはじめとする怪異な存在、あるいは、近代科学では解明できない超常現象、といったところも怖いのですが、私が一番怖いのは人間、それも頭のいい人間が残忍な行為に走ることです。その意味で、『悪の教典』はホントに怖いと思います。

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2024年8月24日 (土)

今週の読書はまたまは経済書なしで計6冊

今週の読書感想文は以下の通り経済書なしで教養書や小説など計6冊です。
今年の新刊書読書は1~7月に186冊を読んでレビューし、8月に入って先週までに計16冊をポストし、今週の6冊を合わせて計208冊となります。今後、Facebookやmixiなどでシェアする予定です。また、小松左京『霧が晴れた時 自選恐怖小説集』(角川ホラー文庫)も読んでいて、すでにFacebookとmixiでシェアしていますが、新刊書ではないと思いますので、本日の読書感想文には含めていません。

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次に、養老孟司『時間をかけて考える』(毎日新聞出版)を読みました。著者は、解剖学者であるとともに、『バカの壁』などのベストセラーも書いていたりします。ということで、本書は上の表紙画像に見られるように、サブタイトルが「養老先生の読書術」となっていますが、実は、2007年から昨年2023年までに著者が毎日新聞の書評欄に書いていた書評を収録しています。まえがきにあるように、文学、というか、フィクションはほとんど取り上げられていません。大きな例外のひとつはスティーヴン・キング『悪霊の島』です。構成は3部構成となっていて、最初に意識の問題を中心に心と身体に着目し、続いてヒトを問題の中心に据えて自然と環境を論じ、最後に日常の視点から歴史と社会を取り上げています。繰り返しになりますが、2007年から2023年までですのでほぼ15年に渡る書評を収録しています。その意味も含めて、さすがに私にも大いに参考になりました。大いに参考になったひとつの要因は、ほぼほぼ私の読書と重なっていないからです。要するに、私が読まなかった本をたくさん取り上げてくれている、ということです。「フィクション」と切って捨てた文学がほとんど含まれていないのも一因かもしれません。主要なところでは、環境に関するアル・ゴア『不都合な真実』や鵜飼秀徳『無葬社会』、宮沢孝幸『京都大学おどろきのウイルス学講義』などが私の既読書だったくらいで、ほんとに重複が少なかった気がします。タイトルとなっている「時間をかけて考える」というのは、いかにも、カーネマン『ファスト&スロー』を思い起こさせますが、ヒューリスティックではなく熟慮の必要性を強調しているわけでもなく、要するに、読書で時間をかけて考えるということなのだろう、と私は受け止めています。ただ、読書についての本をレビューするのは私は最近少し困っていて、高い確率で「最近の若者は本を読まない」というご感想をいただきます。学校図書館協議会などが毎年行っている「学校読書調査」によれば、30年以上に渡って平均読書冊数は増加を続けていますし、逆に、不読者の割合は減少し続けています。そして、こういった明白なエビデンスを示しても、特に年輩の方なのかもしれませんが、その昔の表現を借りれば「壊れたレコード」のように「最近の若者は本を読まない」を繰り返します。インターネットが普及し、ゲームをはじめとして読書以外の余暇活動が選択肢としていっぱいある中で、今の小中高校生はホントに読書に熱心に取り組んでいます。本書に収録されているような新聞その他のメディアによる書評が大きな役割を果たしている可能性を指摘するとともに、私のこのブログやSNSなどにおけるブックレビューも少しくらいは役立っていると思いたい、という希望的観測を添えておきます。

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まず、マウンティングポリス『人生が整うマウンティング大全』(技術評論社)を読みました。著者は、マウンティング研究の分野における世界的第一人者だということです。不勉強にして、私は存じ上げませんでした。本書は4章構成であり、第1章でさまざまなマウンティングを解説しています。私自身の本書の読書はこの章が眼目だったといえます。ページ数的にも半分を超えます。その後の3章で、武器として人と組織を動かすマウンティング術、ビジネスに活かしイノヴェーションをもたらすマウンティング術、最後に、マウントフルネス、すなわち、マウンティングを活用した人生戦略、となります。私の眼目であったさまざまなマウンティングについてを中心にレビューすると、まず、マウンティングとは、要するに「自慢」のことだといえます。ですから、本書のp.168にあるように、学歴、年収、社会的地位、居住地、婚姻歴、教養、海外経験、子供の有無などについて、自分の優位性を相手に理解させることを目的とした情報提供、あるいは、おしゃべり、となります。しかし、第1章で、私が大いに驚いたのは、達観マウンティングなんてものがあったり、第2章では自虐マウンティングが出てきたりします。私自身は、周囲にいうのに、「飲み食いと着るものは特段のこだわりはない。マクドナルドと吉野家とユニクロで十分」というのがありますが、ひょとしたら、達観マウンティングなのかもしれません。しかし、私自身はマウンティングを取る意図はまったくありません。ほかもそうであり、たとえば、p.168にある最初の項目である学歴なんぞは、私ごとき京都大学経済学部ではお話にならないような職業に身を置いてきたわけです。京都大学がエライと思っているのは私の両親くらいのものでしたが、もう2人とも亡くなりました。恥ずかしながら、キャリアの国家公務員の半分以上は東大卒であることは、現在はともかく、私の就職した1980年代初めころは常識でした。公務員を定年退職してからも大学教員ですから、私のような4年生学部卒の学士号しか学位ないのは超低学歴と考えるべきです。少なくない大学教員が博士号を持っているのは広く知られている通りです。年収も、公務員や教員はそれほどの高給取りというわけではありません。ただ、私の場合、少なくとも公務員を定年退職して関西に移り住んだ時点から、居住地、特に海外勤務については自慢しようと思えば自慢できるような気がします。大学教員でも関西の大学教員は、海外はおろか、東京で働いた経験のある人すら決して多くありません。しかし、誠に残念ながら、周囲の大学教員がそれほど東京に関する地理的な情報を持たないためにマウンティングすらできない、というのが実情です。私は公務員のころに参事官の職階に上がって資格を得て、千葉の松戸から南青山に引越したのですが、松戸と南青山の違いを理解できる関西方面の大学教員はそれほど多くありません。たとえば、私の母は晩年に茅ヶ崎の妹の住まいからほど近い施設に入っていたのですが、関西人からすれば茅ヶ崎は東京の地理的な範疇に入ります。ですので、東京に住んでいた、という事実は重要かもしれませんが、その詳細は問われなかったりします。ついでながら、私はマウンティングのほかに、縄張りというものもほとんど意識しないので、生物学的なオスとして何か欠陥があるのかもしれません。でも、もうそれほど残された人生が長いわけでもないのでオッケーだと思っています。

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次に、貴志祐介『兎は薄氷に駆ける』(毎日新聞出版)を読みました。著者は、ホラーやSF小説などを中止とするエンタメ系の小説家です。私の京都大学経済学部の後輩なのですが、当然ながら、まったく面識はありません。なお、上の表紙画像には、ホラーやSFといった作者の作風を考慮してか、「リアルホラー」という謳い文句が帯にありますが、本書は少なくともホラーではありません。おそらく、私のつたない読書経験から考えれば法廷ミステリと考えるべきです。私の感想では、E.S.ガードナーによるペリー・メイスンのシリーズを思い起こさせるものがあります。なお、毎日新聞に連載されていたものを単行本に取りまとめていて、500ページ近い大作です。ということで、あらすじは、嵐の夜に資産家の独身男性が亡くなります。レストラン経営で得た資産の一部を注ぎ込んだクラッシクカーのマニアでしたが、キャブレターでガソリンをエンジンに送り込むクラシックカーのエンジンの不完全燃焼、ランオンと呼ばれる現象によりガレージ真上にあった寝室で一酸化中毒で亡くなります。事件か事故か、そこから始まり、警察は死亡した男性の唯一の遺産相続人である甥を逮捕し、長時間に及ぶ極めて厳しい取調べから自供を引き出して起訴し裁判となるわけです。亡くなった男性の兄がこの裁判における被告の父親なわけですが、この父親には交通事故に起因する軽い知的障害があり、15年前に資産家老女の殺人事件の犯人として逮捕され厳しい取調べにより自供しており、冤罪と疑わしい裁判の判決が確定した後に獄死しています。亡くなった資産家男性の甥で逮捕され裁判の被告となるのが日高英之で、15年前の日高英之の父親の事件の際と同じ本郷弁護士が弁護します。そして、本郷弁護士に調査のためアルバイトとして雇われた垂水謙介の視点でストーリーが進みます。日高英之の恋人の大政千春も垂水謙介の調査を手伝ったり、法廷で証言に立ったりします。まず、目を引くのは、警察の強引な取調べです。自白偏重の捜査が明らかです。これを逆手に取ったのが東野圭吾『沈黙のパレード』といえます。本書では200ページ過ぎあたりから裁判の法廷となり、警察と検察の黒星が積み重なってゆきます。また、陪席の女性判事補が少し被告寄りとも見える姿勢を示したりします。繰り返しになりますが、ペリー・メイスンのシリーズを彷彿とさせる法廷シーンです。たぶん、法廷ミステリですので、あらすじはここまでとしますが、これをミステリと考えるのであれば、いわゆる名探偵もので、名探偵がラストに関係者を集めて「アッ」と驚く結末を示すタイプのミステリではなく、私の好きなタイプ、すなわち、玉ねぎの皮をむくように徐々に真実が明らかにされていくタイプのミステリです。従って、ラストは決して驚愕のラストではないのですが、続編がある可能性を残して本書は終わります。実は、というか、何というか、この著者の代表作のひとつである『悪の教典』についても私はネットで蓮見の独白を見かけたことがあり、続編がある可能性が残されているものと認識しています。でも、本書はさらに強く続編の可能性が示唆されていると私は考えています。最後に、タイトルなのですが、薄氷を駆ける兎は日高英之です。そして、それを追う猟犬が警察や検察の法執行機関であり、ある意味で、冤罪の源です。そして、薄氷が割れて冷水に落ちるのは兎か、あるいは、猟犬か、もしも続編があれば明らかにされるのかもしれません。

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次に、染井為人『芸能界』(光文社)を読みました。著者は、2017年に『悪い夏』で第37回横溝正史ミステリ大賞優秀賞を受賞して作家デビューしています。北海道新聞のインタビューによれば、「ジュニアモデルのマネジャーなどとして芸能界に身を置いてきた」ということですので、芸能界のご経験があるようです。私は本書の前作の『黒い糸』に感激して、本書も読んでみました。ただ、『悪い夏』は未読です。本書は短編集であり、7話が収録されています。収録順にあらすじを紹介します。まず、「クランクアップ」では、25年在籍した事務所を落ちぶれて退所する俳優が中心となります。すなわち、相原恭二は売れっ子だった俳優なのですが、ファンを名乗る反社の男性からお酒を奢ってもらい、週刊誌にすっぱ抜かれて落ちぶれて事務所から独立しようとしますが、大きな罠が待ち構えています。「ファン」では、人気タレントを10年かけて育て上げた辣腕マネージャーが主人公です。すなわち、坂田純一は有名になった若手女優を育てた敏腕マネージャーなのですが、現在は新たに芸人と売り出し中のアイドルグループを担当しています。しかし、担当するタレントが次々に活動休止に追い込まれ、その背景にとんでもない事情が見え隠れします。「いいね」では、50歳にしてインスタにハマったベテラン女優が主人公です。すなわち、元アイドルの石川恵子は50歳を過ぎてインスタに目覚め、修正しまくった写真をポストして、いいねを集めることに熱中し、やがて暴走します。「終幕」では、若い男子が集うミュージカルを仕切る女性プロデューサーが主人公です。すなわち、叶野花江はイケメン男子たちをキャストにミュージカルを運営する女性プロデューサーなのですが、キャストたちをホストのように扱った上、自分に色目を使うキャストを特別扱いするようになり、結局、大きく転落します。「相方」では、容姿をイジるネタで30年笑いを取ってきた漫才コンビが主役となります。すなわち、容姿で笑いをとっていたコンビ「ミチノリ」なのですが、今ではルッキズムが批判され、コンプラ的にも容姿ネタはNGになり、かつてのように笑いを取れなくなったことに悩みます。かなりベタな展開です。「ほんの気の迷い」では、誹謗中傷に悩まされ孤独とたたかうアイドル俳優が主人公です。すなわち、栗原翔真は若手ナンバーワンの売れっ子俳優です。しかし、一部のアンチからナルシスト扱いされ誹謗中傷を受けています。また、家族にも問題があり、母親はカルト宗教に熱中し、弟は地元で俳優である兄の名前を使って女性たちと問題を起こしています。その中で、SNSでエゴサーチをした時、突然体調が悪くなってしまいタイヘンな事態に立ち至ります。「娘は女優」は、震災の町からデビューした中学生女子の父親が主人公となります。すなわち、村田幹一は福島の自転車屋を営んでいますが、大事な一人娘の皆愛が修学旅行先の東京で芸能事務所からスカウトされてしまいます。レッスンや何やで東京に行く機会が多くなり、勝手に芸名をつけたり、グラビアに出たりする娘に父親は猛反対、反発しますが、なぜ彼女がこんなふうに突き進むのかの理由がとてもよかったりします。本書も、『黒い糸』ほどではないものの、ややどす黒いものを感じる短編が多く収録されていますが、最後の「娘は女優」がとっても爽やかなラストなので読後感はよかったりします。近く、『悪い夏』の文庫本を借りる予定なので楽しみです。

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次に、米澤穂信『冬季限定ボンボンショコラ事件』(創元推理文庫)を読みました。著者は、ミステリ作家です。本書は著者による小市民シリーズの作品であり、私は本書がシリーズ完結編である可能性を示唆する出版社の宣伝文句を見たような記憶があります。私のことですから、記憶は不確かです。なお、小市民シリーズはTVアニメになって、すでに7月から放送されているのではないかと思います。ということで、小市民シリーズですので小鳩常悟朗と小山内ゆきが主人公です、互恵関係にあるものの、恋愛関係にはない高校3年生の同級生です。そして、本書では3年前に2人が中学3年生だったころにさかのぼります。要するに、馴れ初め、というか、2人が知り合ったきっかけを明らかにするわけです。両方のストーリーが交互に語られますので、「現在編」と「3年前編」と名付けてレビューを進めます。ついでながら、現在編と3年前編のどちらも交通事故が大いに関係します。というのは、現在編ではクリスマス直前に小鳩常悟朗が交通事故にあい、年明けの大学受験を諦めざるを得ないほどの大ケガを負って入院します。他方、3年前編では中学校でも小鳩常悟朗と小山内ゆきの2人は同じ学校の生徒でした。そして、2人が通う中学校のバドミントン部員である日坂が交通事故にあいます。3年前編の交通事故は轢き逃げ犯が捕まっているのですが、被害者である日坂が事故時の同行者について隠し事をしていて、小鳩常悟朗が事故の真相を追いかけることになります。現在編の交通事故では轢き逃げ犯は捕まっておらず、小鳩常悟朗が入院していますので、小山内ゆきが調査を進めているのだろうと思いますが、ストーリーが基本的に小鳩常悟朗の視点で進みますので、それほど明確ではありません。なかなかに、驚愕のラストでした。3年前の事故と現在の事件を同時に調査し、当然ながらボリュームからしても大作ですし、以前の小市民シリーズでは日常の謎を扱っていて、ここまでの交通事故による大ケガという被害はなかった気がしますので、その意味でも完結編にふさわしい終わり方だったかもしれません。

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次に、エラリー・クイーン『境界の扉 日本カシドリの秘密』(角川文庫)を読みました。著者は、私なんぞが何かいうまでもない超有名なミステリ作家です。本書の舞台は主人公エラリーや父リチャードのホームグラウンドである米国ニューヨークです。ストーリーは、日本育ちの人気女流作家カレン・リースが文学賞受賞パーティーの直後、ニューヨーク中心部にある日本風邸宅で死体となって見つかります。カレンは癌研究の第一人者であるジョン・マクルーア博士と婚約中であり、文学賞受賞とも合わせて、作家としても個人としても幸福の絶頂にあると思われていました。カレンの死亡当時、マクルーア博士は大西洋を船で横断中であり、たまたま、エラリーと乗り合わせていました。カレンが亡くなった時、マクルーア博士の娘である20歳のエヴァがカレンの邸宅を訪れており、エヴァのいた部屋を通らなければカレンの部屋には行けない密室状態だったことから、唯一犯行が可能だったのはエヴァであることが推定されます。そして、なぜか、私立探偵のテリー・リングがリース邸に現れます。もちろん、エヴァ自身は無実を主張しますし、リングはエヴァの側に立って警察との対応をエヴァに教唆したりします。警察もエヴァを逮捕するには至りません。エラリーは、父親であるリチャード・クイーン警視をはじめとするニューヨーク市警と異なる見方を示し、さまざまな局面で対立しながら、事件の謎に挑みます。もちろん、事件の真相解明のためにカレン・リースの日本滞在時のいろいろな事実が解き明かされ、マクルーア博士やカレンとともに、その当時日本に滞在していたカレンの姉エスターやマクルーア博士の弟などの日本における動向についても明らかにされます。私立探偵のリングのほか、カレンが日本から連れてきたメイドのキヌメがエキゾチックな雰囲気を持って登場したりします。もちろん、最後にはエラリーが密室殺人の謎を解き明かします。驚愕のラストでした。なお、本書は越前敏弥さんの新訳により今年2024年年央に、他の国名シリーズなどと同じ角川文庫で出版されています。不勉強にして旧訳を読んでいないので比較はできませんが、とてもよくこなれた邦訳に仕上がっていると、私は受け止めています。

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2024年8月17日 (土)

今週の読書も経済書なしで小説に絵本を加えて計5冊

今週の読書感想文は以下の通り、経済書なしで小説と絵本で計5冊です。
今年の新刊書読書は1~7月に186冊を読んでレビューし、8月に入って先週と先々週で計11冊をポストし、今週の5冊を合わせて計202冊となります。200冊を超えました。目標にしているわけでも何でもありませんが、年間300冊に達する勢いかもしれません。今後、Facebookやmixiなどでシェアする予定です。また、エラリー・クイーン『靴に棲む老婆』(ハヤカワ・ミステリ文庫)とサキ『けだものと超けだもの』(白水Uブックス)を読んで、Facebookとmixiでシェアしていますが、新刊書ではないと思いますので、本日の読書感想文には含めていません。

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まず、青崎有吾『地雷グリコ』(角川書店)を読みました。著者は、ミステリ作家です。ですので、本書はミステリに分類していいのだろうと私は解釈しています。もっとも、本書はゲームを中心に据えた連作短編集となっていて、タイトルを列挙すると、表題作の「地雷グリコ」に始まって、「坊主衰弱」、「自由律ジャンケン」、「だるまさんがかぞえた」、「フォールーム・ポーカー」となります。短編タイトルからある程度は想像できると思いますが、「地雷グリコ」はジャンケンをして勝った手に従って階段を登るグリコの変形で、特定の段の地雷があるわけです。「坊主衰弱」は百人一首かるたを使った坊主めくりの変形、「自由律ジャンケン」はグー/チョキ/パーにプレイヤーが違う手を加えたジャンケン、「だるまさんがかぞえた」はだるまさんが転んだの変形、「フォールーム・ポーカー」は3枚の手札を元にスートごとの部屋に入ってカード交換をするポーカーです。まあ、レビューで詳細に説明できるとも思えませんから、このあたりは読んでいただくしかありません。主要登場人物を敬称略で、主人公は都立頬白高校1年生のJK射守矢真兎です。勝負事やゲームにやたらと強いです。射守矢真兎の友人で同じ1年生の鉱田の視点でストーリーが進みます。ホームズ譚でいえば、ワトソン役です。頬白高校の生徒会から、最初の表題作「地雷グリコ」で射守矢真兎の相手プレイヤーとなり、その後、ゲームの審判を務めたりする3年生の椚迅人と会長の佐分利錵子もいます。そして、ラクロス部の塗辺はゲームをプレーするわけではありませんが、最初の「地雷グリコ」で審判を、最後の「フォールーム・ポーカー」でゲーム考案と審判をします。頬白高校以外では、第2話で主人公の射守矢真兎と勝負するかるたカフェのオーナーもいますが、もっとも重要なのは、射守矢真兎や鉱田と中学校の同級生で、首都圏屈指の名門校である星越高校に進んだ雨季田絵空です。ストーリーは、要するに、射守矢真兎がゲームに勝っていくということで、それはそれで単純です。各ゲームの設定については、おそらく、私よりも適切な解説者がネットにいっぱいいるのだろうと思いますので、ここでは省略します。私が本書のレビューでもっとも強調したいのは、第171回直木賞に関して一穂ミチ『ツミデミック』との対比です。私は、一穂ミチ『ツミデミック』が直木賞のレベルに達しているかどうか疑問だと考えていて、それは今も変わりありません。ただ、第171回直木賞の候補作の中で、私が聞き及んだ範囲での下馬評からすれば、本書の青崎有吾『地雷グリコ』が最有力、と考えていましたが、それはやや過大評価であったかもしれません。すなわち、本書で主人公の射守矢真兎がゲームに勝っていくのは、必ずしも論理的に、ロジカルな解決で勝っていくわけではなく、多分に心理戦を勝ち抜いた、ということなのだろうと思います。その上、ゲームが余りにマニアックです。ですから、こういったマニアックな作品が好きな読者は、メチャクチャ高く評価する気がします。ただ、一般的な読者はそうではないかもしれません。その意味で、本書が直木賞の選外となった可能性に思い至りました。繰り返しになりますが、だからといって、『ツミデミック』が直木賞のレベルに達していると考えるわけではありません。文学賞選考の難しいところかもしれません。ということで、文学賞を離れてゲームや勝負事の方に戻って、経済学にはゲーム理論というものがあります。そして最後に心理戦とは何の関係もなく、ジャンケンの必勝法、というか、ジャンケンにもっとも確率高く勝つための方法がゲーム理論から明らかにされています。さて、その意味で、すなわち、もっとも確率高くジャンケンに勝つための戦略とはいかに?

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次に、白川尚史『ファラオの密室』(宝島社)を読みました。著者は、マネックスグループ取締役兼執行役と本書で紹介されていますが、本書は第22回『このミステリーがすごい!』大賞における大賞受賞作です。ですので、というか、何というか、出版社では特設サイトを開設したりしています。ミステリなのですが、タイトルから容易に想像できるように、舞台は古代エジプトであり、いわゆる特殊設定ミステリです。何が特殊設定かというと、主人公の死者が蘇って謎解きをするわけです。ということで、あらすじは、主人公である神官書記であるセティの死後審判から始まります。すなわち、紀元前1300年代後半の古代エジプトにおいて、ピラミッドの崩落によりセティが亡くなるのですが、セティの死体にはナイフが胸に突き刺さっていました。そして、心臓に欠けがあるため冥界に入る審判を受けられない、といいわたされます。セティは自分自身で欠けた心臓を取り戻すために地上に舞い戻るのですが、当然ながら、生命力が十分ではないため、期限は3日しかありません。セティが調査を進める中で、もうひとつの大きな謎に直面します。というのは、棺に収められた先王のミイラが、密室状態であるピラミッドの玄室から消失し、外の大神殿で発見されます。これは、先王が唯一神アテン以外の信仰を禁じたため、その葬儀が否定したことを意味するのか、あるいは、アテン神の進行が間違っているのか、王宮でも、巷でも、信仰に基づく大混乱が生じます。タイムリミットが刻々と迫るなか、セティはピラミッド作りに駆り出されている奴隷の異国人少女カリなどの助力を得つつ、エジプトを救うため奮励努力するわけです。そして、先王のミイラが玄室から消失して外部に現れた謎は、何と申しましょうかで、まあまあそれなりに解けるのですが、セティ自身がナイフを突き立てられて死んだ謎には大きなどんでん返しが待っています。ちょっと私もびっくりしました。繰り返しになりますが、特殊設定ミステリであり、そのために少しファンタジーっぽい仕上がりになっています。そして、古代エジプトが舞台ですし王宮を巻き込んだ壮大なドラマともいえます。そういった要素が好きなミステリファンに大いにオススメします。

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次に、津村記久子『水車小屋のネネ』(毎日新聞出版)を読みました。著者は、小説家であり、2009年に「ポトスライムの舟」で第140回芥川賞を受賞しています。もう15年も前ですが、「ポトスライムの舟」は私も読みました。この作品は毎日新聞丹連載されていたものを単行本に取りまとめています。ということで、物語は1981年に始まり、1991年、2001年、2011年、2021年と10年おきに40年間を追います。最初の1981年、山下理佐は高校を卒業したばかりで、その10歳年下の妹である山下律は小学2年生から3年生に進級するところ、この2人の姉妹が家を出て独立した生活を始めるところからストーリーが始まります。どうして2人が家を出たかというと、それまで姉妹は離婚した母親と3人で暮らしていたのですが、母親に婚約者が現れて、山下理佐の短大進学のための入学金をその婚約者の事業資金に充てて、理佐が進学できなくなってしまった上に、妹の律が母親の婚約者から虐待されるからです。そして、山奥のそば屋で理佐が働き、住居も斡旋されて引越すわけです。そば屋では挽きたてのそば粉を使ってそばを作っているという評判で、そのそば粉を石臼で挽いている水車小屋があり、貴重な石臼が空挽きにならないように、そばの実が尽きると「空っぽ!」と叫ぶ賢いヨウムが飼われていて、そのヨウムがタイトルのネネです。ヨウムは50年ほど生きるといわれているらしく、姉妹が引越した時に10歳くらい、そして、エピローグの2021年には、ほぼほぼヨウムの平均寿命である50歳くらいに達している、という設定です。ある意味、とても奇妙に見えかねない姉妹が田舎の方で地域に溶け込み、姉は結婚し、妹がいったん大学進学を諦めながらも、働いて大学進学に必要な金額を貯めて大学進学を果たして就職する、などなど、必要な場面はとてもていねいに表現し、逆に、不必要なシーンは適当にカットし、決してストーリーを追うだけでなく、表現の美しさも含めて、とても上質な小説に仕上がっています。特に、カギカッコを使った直接話法と間接話法の書分け、律が幼少時にはひらがなで表現し、長じては漢字にする話法、などなど、表現の巧みさには舌を巻きました。ストーリーとしては、決して恵まれた家庭環境にない姉妹、また、類似の境遇の登場人物に対して、周囲の心温かな人々がさまざまな面から支援し、家族のあるべき形、あるいは、まあペットというには少し違うのかもしれませんが、ネネも含めた家族や仲間の重要性、緩やかな時間の流れ、都会にない自然の美しさ、などなどとともに、大学教員の私からすれば、教育と学習の重要性を深く感じさせる作品で、繰り返しになりますが、とても上質の仕上がりです。最初に書いたように、10年おきのストーリーですが、一見して理解できるように、最後の方は2011年は東日本大震災、2021年はコロナ、とまだ記憶に新しい時代背景も盛り込まれています。この作者特有のやや皮肉の効いたところ、不自然あるいは不穏当なところが影を潜めているのは、私には少し残念ですが、それを逆に評価する読者もいるかも知れません。私にとっての最大の難点は、ネネの好きな音楽がいっぱい登場するのですが、モダンジャッズ一辺倒の私にはほとんど馴染みがなかった点です。でも、私の大したこともない読書経験ながら、今年の純文学のナンバーワンの作品でとってもオススメです。

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次に、藤崎翔『みんなのヒーロー』(幻冬舎文庫)を読みました。著者は、芸人さんから小説家に転じたミステリ作家です。あらすじは、かつては特撮ヒーローのテレビ番組で主役を演じた主人公の堂城駿真は、今ではすっかり落ちぶれた俳優となっています。ある日、大麻を吸わせる店でセフレの女優と大麻をキメた後、帰り路で泥酔して道路に寝ていた老人を轢いて逃げてしてしまいます。警察の追求におびえていましたが、彼の熱狂的なファンである山路鞠子がその現場の動画を撮影していて、それを基に結婚を迫られます。その熱狂的なファンの山路鞠子が、何とも、ルッキズムに否定的な世の中とはいえ、飛び切り見た目が悪いわけです。でも背に腹は変えられず、堂城駿真は山路鞠子と結婚します。その歳の結婚に至るストーリーを山路鞠子が創作するわけですが、それを世間が評価してしまって、カップルでテレビ番組に出演したりして、まあ、芸人と同じパターンで堂城駿真が山路鞠子とともに売れ出してしまいます。コマーシャルも含めて収入も激増したりします。当然、結婚したわけで子供が出来ることになります。そのころ、堂城駿真は芸人枠ではない俳優として売れ出します。しかし、それほど人生が甘いわけでもなく、いろんな紆余曲折を経て、この作者らしくストーリーが二転三転します。ミステリですので、あらすじはこのあたりまでとします。この作者らしく、ストーリーが「波乱万丈」するだけでなく、表現も軽妙でスンナリと耳に入ってきます。実は、図書館の予約の関係で、出版順では同じ作者の『お梅は呪いたい』の前に、この作品を読んでしまいましたが、まあ、読む順はそれほど関係なさそうな気がします。時間潰しの読書にはぴったりです。

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次に、マーク・コラジョバンニ & ピーター・レイノルズ『挫折しそうなときは、左折しよう』(光村教育図書)を読みました。著者として上げておきましたが、文章をマーク・コラジョバンニが、絵をピーター・レイノルズが、それぞれ担当しているようです。そして、ついでながら、邦訳は米国イェール大学助教授の成田悠輔です。はい、お聞き及びの読者も少なくないと思いますが、昨年あたりに日本の少子高齢化問題をめぐって、「高齢者は老害化する前に集団自決、集団切腹みたいなことをすればいい」などの発言を繰り返し、ニューヨーク・タイムズなどの海外メディアも含めて、大いに批判されたのは記憶に残っている人も多いと思います。なお、英語の原題は When Things Aren't Going Right, Go Left であり、2023年の出版です。挫折と左折を組み合わせたタイトルですが、秀逸な邦訳だと思います。絵本の主人公、というか、たった1人の登場人物はやや年齢不詳ながら小学校高学年から中学生くらいの男の子です。うまくいかない時、その原因として心理的なものをいくつか上げています。すなわち、モヤモヤする悩み、オロオロする心配、ビクビク、イライラ、の4つです。それらを地面に置きてきたのですが、家への帰り道で左折し続けるとイライラが小さく、ビクビクは静かで、オロオロは落ち着いて、モヤモヤはいないも同じ、という状態になっていたので連れて帰ることにします。大きな教訓はタイトル通りであり、「挫折しそうになったら左折する」、あるいは、「電源オフ」という表現も使っていたりします。私が知る範囲では、昨年から今年にかけてそこそこはやった絵本だと思います。絵本ですから対象年齢層は低いのかもしれませんが、私のような60歳を大きく超えた大人でも十分楽しめ、また、タメになる絵本です。

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2024年8月10日 (土)

今週の読書は経済経営書のほか計4冊にとどまる

今週の読書感想文は以下の通り4冊です。
8月に入って、年1本の論文を書くために参考文献をかなり大量に読み始めました。全部を完読しているわけではなく、サマリと結論部分だけで勝負している論文も少なくないのですが、それでも40本近い論文をリストアップしていて、たぶん、全部で参考文献は100本を超えると思います。ほとんどが英文論文ですので、まあ、サマリと結論だけでもそれなりの時間がかかるわけです。
ということで、今年の新刊書読書は1~6月に160冊を読んでレビューし、7月に入って計20冊をポストし、合わせて180冊となります。目標にしているわけでも何でもありませんが、年間300冊に達する勢いかもしれません。なお、Facebookやmixi、あるいは、経済書についてはAmazonのブックレビューなどでシェアする予定です。それから、この読書感想文のほかに、クイーン『ダブル・ダブル』を読みました。というのは、新刊書の『境界の扉-日本カシドリの秘密』の予約が回ってきそうで、これに先立つ『フォックス家の殺人』と『10日間の不思議』はすでに読んでいるのですが、『ダブル・ダブル』と『靴に棲む老婆』を新訳で読んでおこうと考えています。Facebookやmixiでレビューする予定です。たぶん、来週は『靴に棲む老婆』を読むのだろうと思います。

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まず、デロイト・トーマツ・グループ『価値循環が日本を動かす』『価値循環の成長戦略』(日経BP)を読みました。著者は、会計に軸足を置く世界的なコンサルティング・ファームです。2冊とも、「価値循環」というキーワードを設定していますが、『価値循環が日本を動かす』の方は一般的なマクロ経済分析も含めた日本経済の概観を捉え、昨年2023年3月の出版です。そして、『価値循環の成長戦略』の方は、本来の、というか、何というか、企業向けの成長戦略のような指針を示そうと試みています。どちあも、キーワードの「価値循環」のほかに、お決まりのように「人口減少」を日本経済停滞の原因に据えています。まあ、私も反対はしません。企業経営者から見れば、ある意味で、私のようなエコノミストは気楽なもので、GDPの規模が人口減少に応じて縮小しても、国民の豊かさである1人当たりGDPが増えていればOKであろう、という考えが成り立ちます。すなわち、GDPが成長しなくても、例えば、ゼロ成長の横ばいであっても、人口が減れば自動的に1人当たりGDPは増加します。GDPが縮小するとしても、人口減少ほどの減少率でなければ、これまた、1人当たりGDPは増加します。しかし、企業経営者からすれば、従業員1人当たりの売上が伸びているというのは評価の対象にはならないそうです。というのは、企業の経営指標はあくまで資本金とか資産当たりの売上とか利益であって、人口減少と歩調を合わせて資本金や資産が減少するわけではありません。資本金は自社株買いにより減少させることが可能ですが、企業資産、あるいは、そのうちの資本ストックは増加する一方です。ですので、企業業績もそれに従って増加させないといけないわけです。ということで、まず、『価値循環の成長戦略』において、価値循環の基本的な枠組みとして、4つのリソース、すなわち、ヒト、モノ、データ、カネを効果的に循環させる必要があると説きます。代表例として、ヒトの循環として、交流型人材循環、回遊型人材循環、グローバル型人材循環の3つ、モノの循環として、リペア・リユース・アップサイクルと地域集中型資源循環の2つ、データの循環として、顧客志向マーケティング、デマンドチェーンの構築、地域コミュニティの構築の3つ、カネの循環として、社会課題解決型投資とスタートアップ投資の2つをそれぞれ上げています。詳細は読んでいただくしかありませんが、社会課題解決型投資の一例として、気候変動に対処し1.5℃目標を達成することによる経済効果は388兆円と試算していたりします。続いて、『価値循環の成長戦略』では、4つのリソースを循環させる壁を取り払う点にも重点が置かれます。組織間の壁や意識や思い込みの壁としての「新品崇拝」などです。また、高成長企業の分析から、売上を数量×単価に分解し、共通化による頻度向上に基づく数量効果を得るためのライフライン化、そして、差異化による高価格化を得るアイコン化、そして、その中間を行くコンシェルジェ化の3つの成長戦略の方向を示します。それを実際に適用する市場として、7つの成長アジェンダを掲げます。すなわち、モビリティ、ヘルスケア、エネルギー、サーキュラーエコノミー、観光、メディア・エンターテインメント、半導体、となります。これも詳しくは読んでいただくしかありません。最後に、私の方から2点だけ指摘しておきたいと思います。まず第1に、いつもの主張ですが、こういったコンサルティングについてはどこまで再現性があるのかが不明です。本書に書いてあることは、成功企業からの抽出例で、それはそれでいいのですが、すべてのリンゴは木から落ちる一方で、本書の成功企業の実践例を試みたすべての企業が成功するかどうかは不明です。第2に、本書でも何度か指摘されている人材についてですが、私が従来から指摘しているのは、全体的な人的資本のレベルアップもさることながら、特に重要な3分野の人材、すなわち、グローバル人材、デジタル人材、グリーン人材の重要性です。そして、これらの人材が首都圏、特に東京に偏在していることの良し悪しを考える必要があります。私は東京で国家公務員として60歳の定年まで勤務していて、これらのグローバル人材、デジタル人材、グリーン人材は日本にはいっぱいいると考えてきました。でも、関西も京阪神から外れる地で暮らすと、大学教員にすらこういった人材が十分ではない恐れを感じています。東京にこういった人材が集中していることをどう評価するかについては、私自身でも今後もっと考えますが、少なくとも、東京以外にはグローバル人材、デジタル人材、グリーン人材が大きく不足している点は忘れるべきではありません。

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次に、染井為人『黒い糸』(角川書店)を読みました。著者は、『悪い夏』で第37回横溝正史ミステリ大賞優秀賞を受賞して作家デビューしています。ですので、ミステリ作家であろうと思います。本書も基本的にミステリであるのですが、横溝ばりにとても怖いお話に仕上がっています。舞台は主として千葉県松戸市です。はい、私もジャカルタから帰国した直後に何年か住んでいたことがあり、それなりに土地勘はあるのですが、もちろん、地理に詳しい必要はまったくありません。ストーリーは交互に2人視点から進められます。すなわち、松戸の結婚相談所でアドバイザーとして働くシングルマザーの平山亜紀とその息子である小太郎が通う旭ヶ丘小学校の6年のクラス担任の長谷川祐介です。時期は、小学6年生が卒業を控えた年明けから卒業式のある3月くらいまでなのですが、実は、この小学校ではその前年にクラスメイトの小堺櫻子という女児が失踪するという事件が起きていて、事件後に休職してしまった担任に替わって長谷川祐介が小太郎のクラスの担任を引き継いでいます。当然ながら、失踪した女児の両親から小学校へのプレッシャーは大きいといえます。平山亜紀の方の結婚相談所などに関連する主要登場人物は、DVが理由で別れた元夫とともに、なかなか成婚に至らない女性会員がいて、強いプレッシャーを受けていたりします。職場の同僚には土生謙臣がいて、この女性会員の担当を引き継いでくれます。ただ、結婚相談所の所長はそれほど業務上で頼りになるわけではありません。長谷川祐介の周辺や小学校サイドの主要登場人物は、まず、小学6年生のクラスの倉持莉世で、母親が熱心な信者という宗教2世かつ父親は左翼という複雑な家庭に育ちながら、とても大人びた考えをするしっかりものでクラス委員です。それから、長谷川祐介と同居している兄はたぶんポスドクで遺伝に詳しいという設定です。小堺櫻子に続く被害者は倉持莉世で、殺害されるわけではなく襲撃されて意識不明の重体で入院することになります。そして、小堺櫻子が行方不明になった際も、倉持莉世が襲撃された際も、どちらも直前までいっしょに行動していたのはクラスメイトの佐藤日向なのですが、倉持莉世は新たに担任になった長谷川祐介に対して襲撃される前に「小堺櫻子の事件の犯人は佐藤日向の母親の聖子」といわれたりしていました。何とも、やりきれない驚愕の真相でした。まあ、こういう結末もアリなのかと思いますが、小説中でもそうですが、ワイドショーでいっぱい取り上げられるのは当然な結末という気もします。ただ、意外性という観点からはとってもいい小説でした。小説の舞台となっている季節は冬から春先なのですが、この酷暑の季節に読むにふさわしいホラー調のミステリであり、最後はサスペンスフルな展開が待っています。本書がよかっただけに、デビュー作の『悪い夏』を読んでみたいと思います。強く思います。

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次に、三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書)を読みました。著者は、文芸評論家だそうです。本書では、タイトル通りの問いに対して回答を試みています。ただ、歴史的にかなりさかのぼって、日本が近代化された明治維新からの読書について考察しています。すなわち、江戸期までは出自によって職業選択や立身出世が決まっていたのに対して、近代化が進んだ明治期から出自ではなく、教育、広い意味で職業訓練も含めた自己研鑽が職業選択や立身出世の大きな要因になり、その結果として、もともと日本では識字率が高かったわけですから、読書が盛んになった、と説き起こします。図書館が整備され、さらに、昭和期に入って改造社の円本「日本文学全集」が大いに売上げを伸ばしたりする経緯を解説します。そして、戦後になって、1950年代から教養ブームが始まり、文庫本や全集の普及、さらに、60年代に入って、源氏鶏太によるサラリーマン小説の流行、カッパ・ブックスなどの実用的な新書の登場などを概観し、ハウツー本や勉強術のベストセラーを紹介し、本が階級から開放され、広く読まれるようになった歴史的経緯を明らかにします。1970年代に入ると司馬遼太郎の本がブームになり、まさに代表作のひとつである『坂の上の雲』のように、国としての日本と自分自身の発展・成長のために読書も盛んとなります。ただ同時に、1970年代にはテレビ、特にカラーテレビも大いに普及し、読書の時間が削られるような気もするのですが、逆に、「テレビ売れ」の本もあったそうです。まあ、今もあるような気がします。さらに、首都圏や近畿圏では通勤時間が長くなり、電車で文庫本をよく習慣もできつつあったと指摘しています。1980年代には、ややピンボケ気味の解説ながら、カルチャーセンターに通う女性が増え、『サラダ記念日』や『キッチン』といった女性作家の作品が売れた、と解説しています。繰り返しになりますが、このあたりはややピンボケの印象で、私は少し疑問を感じないでもありません。1990年代はさくらももこと心理テストから概観し始め、私としてはピンボケ度がますます上がったようで心配したのですが、バブル経済の崩壊を経て、自己啓発書が売れたり、政治の時代から経済の時代へ入ったりといった経済社会的な背景を強調します。そして、読書は労働に対するノイズであると指摘し、ただ、自己啓発書はこのノイズを取り去る働きをすると主張しています。2000年代に入って、労働や仕事で自己実現、というのがキーワードになり、仕事がアイデンティティになる時代を迎えたと主張しています。私は、前からそうではなかったのか、という気もします。そして、本書の本題としては、インターネットの普及や仕事の上でのITCの活用などが急速に進んだ2000年代からインターネットは出来るが、読書はしないという流れが始まったということのようです。2010年代になり、1990年代から始まっていた新自由主義的な流れが強まって、ますます労働者に余裕がなくなった、という流れで本が止めなくなったと結論しています。このあたりは、長々とレビューしてしまいましたが、本書p.239にコンパクトなテーブルが掲載されています。終章では「半身社会」を推奨して、全身全霊をやめようと主張し、最後のあとがきで働きながら本を読むコツをいくつか上げています。私の感想ですが、読書という行為と日本の経済社会における勤労や立身出世を結びつけtなおは、当然としても、いい着眼だったと思います。ただ、インターネットがここまで普及した世の中で、読書が何のために必要なのかをもう少しじっくりと考えて欲しかった気がします。それだけに、やや上滑りの議論になってしまったかもしれません。

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2024年8月 3日 (土)

8月最初の今週の読書は小説ばかりで計7冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
何と、経済書や教養書はまったくなく、小説ばかりで計7冊です。新訳の『老人と海』や新版の『百年の孤独』も読みました。
今年の新刊書読書は1~7月に186冊を読んでレビューし、8月に入って今週は7冊を取り上げたので、合わせて193冊となります。目標にしているわけでも何でもありませんが、年間300冊に達する勢いかもしれません。なお、Facebookやmixiのブックレビューなどでシェアする予定です。

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まず、夕木春央『サロメの断頭台』(講談社)を読みました。著者は、ミステリ作家です。現代モノの『方舟』で注目され、続く『十戒』は、私にはピンと来ませんでしたが、本書は大正時代を舞台とし、蓮野と井口のコンビを主人公とするシリーズです。ハッキリいって、私が高く評価する方のシリーズといえます。知っている人は知っていると思いますが、蓮野がホームズの役回りで探偵として謎解きをこなし、井口がワトソン役でストーリーは主として井口の視点から記述されます。あらすじは、その昔に井口の祖父が購入した置き時計を買い戻す件で、来日していたオランダ生まれで米国在住の大富豪のロデウィック氏から、井口の未公表の作品とそっくりな絵画を米国で見たと知らされます。井口が所属する芸術家グループである白鷗会のメンバーによる組織的な贋作政策の疑いがかかる中で、その問題の井口の作品のモデルとなった舞台女優が演じたワイルドの戯曲「サロメ」に見立てた連続殺人事件が起こります。ミステリですので、あらすじはここまでとします。謎解きは2段階に設定されていて、まず、殺人者は誰なのかの whodunnit があり、そのバックグラウンドとなる動機 whydunnit も、ともに蓮野が解明します。私は頭の回転が鈍いので、whodunnit も whydunnit も考えもつきませんでしたが、おそらく、後者のほうが謎、というか謎やその背景となる闇が深そうな気がします。とても大がかりで複雑なプロットの連続殺人であると感じましたし、ラストは凄惨です。タイトル通りに断頭台=ギロチンも登場したりします。

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次に、東野圭吾『ブラック・ショーマンと覚醒する女たち』(光文社)を読みました。著者は、日本でも有数の売れっ子のミステリ作家であり、湯川教授を主人公とするガリレオのシリーズが有名なのですが、本書は米国でも活躍したという元マジシャンの神尾武史を主人公とするシリーズ第2弾です、ちなみに、第1弾は『ブラック・ショーマンと名もなき街の殺人』でした。コチラも私は読んでいます。前作が長編であったのに対して、本書は6話からなる短編集です。主人公の神尾武史は恵比寿の近くで「トラップハンド」というバーのマスターをしています。前作でも登場した姪の神尾真世も随所に登場しますが、ややソンな役回りをさせられています。収録順にあらすじを紹介します。まず、神尾武史がマスターを務めるバーの名と同じ「トラップハンド」では、第6話でも登場する陣内美菜は婚活サイトで知り合った男性の「査定」を神尾武史にしてもらうべく、その男性とトラップハンドに来たのですが、神尾武史の機転、というか、適確な査定のお陰でとんでもない出来事から逃れます。「リノベの女」では、後妻に入った後、莫大な遺産を相続した上松和美がリノベを建築士の神尾真世に依頼し、トラップハンドを打合せの場所とします。しかし、そのリノベ依頼者の兄が打合せに乱入し、とんでもない事実が明るみに出たりします。「マボロシの女」では、妻子ある歯科医でジャズのウッドベース奏者でもある高藤智也と不倫関係にあった火野柚希なのですが、高藤智也が交通事故で亡くなります。その後、不倫相手ロスに陥った火野柚希が訪れたトラップハンドで、神尾武史から智也の知られざる過去を聞かされることになります。「相続人を宿す女」では、老夫婦の冨永夫妻から神尾真世に対して、交通事故で亡くなった息子の富永遥人が住んでいたマンションのリノベの依頼があるのですが、富永遥人の元妻が妊娠していてお腹の子に相続権がある可能性が示唆されます。「続・リノベの女」では、老人ホームのスタッフである石崎直孝が、入居者の末永久子から自殺したと聞き及んでいる娘の奈々恵を見たという知人の連絡を基に、その娘をを探して欲しい、と依頼を受け、知人が目撃した近くのトラップハンドを訪れます。最後の「査定する女」では、IT起業家の栗塚正章からリノベの依頼を受けた神尾真世が高級家具のショールームを訪れると、婚活サイトで知り合った男性の査定を繰り返している陣内美菜がスタッフとして現れ、無事に神尾武史の査定でも高評価を得た栗塚正章が陣内美菜を誘って結婚までたどり着くかと思われましたが、大きなどんでん返しが待っていました。ということで、大がかりなトラップがお好きな読者には最後の「査定する女」がオススメです。他方、何ともいえない人間的な温かみのあるストーリーを愛する読者には「相続人を宿す女」がオススメです。東野圭吾作品のうちガリレオのシリーズも短編と長編が混在しますが、このブラックショーマンのシリーズも短編と長編があり、あくまで私の好みながら、どちらのシリーズも私自身は短編作品が好きです。

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次に、一穂ミチ『ツミデミック』(光文社)を読みました。著者は、ミステリもモノにする小説家です。この作品は、ご存じの通り、第171回直木賞受賞作です。全部で6話から編まれている短編集です。コロナの時期をカバーしていて、タイトル通りに、罪に関する短編が多いのですが、必ずしも違法行為や犯罪とは限りませんし、私から見て罪には当たらない、あるいは、罪というよりはファンタジーに近いと感じる作品もありました。モロの幽霊が主人公の作品も含まれています。ということで、収録順にあらすじは以下の通りです。まず、「違う羽の鳥」では、大阪出身で大学を中退して居酒屋の呼び込みバイトをしている20歳の及川優斗が主人公です。バイト中に派手な格好の女性から逆ナンされるのですが、その女性は死んだはずの中学校の同級生である井上なぎさを名乗ります。「ロマンス☆」では、4歳の子供さゆみを持つ母親のゆりが主人公です。さゆみを連れて歩いていると、自転車に乗ったフードデリバリーサービスのイケメンとすれ違います。フードデリバリリーを無駄遣いであるとして好意的でない夫に隠れて、百合はイケメンと再会しないかと心待ちにして、ゲームでガチャを引くようにフードデリバリーを頼み続けます。「憐光」では、15年前の豪雨による水害で死んだ当時の女子高校生である松本唯の幽霊が主人公です。白骨が発見されたことを期に、高校の同級生の友人と担任の先生が実家を訪れるのに、幽霊としてついて行きます。そして、自分の死に関する真実を知ることになります。「特別縁故者」では、コロナ禍で失業した料理人の卜部恭一が主人公です。息子の隼が近所の金持ちのおじいさんに世話になったきっかけで、そのじいさんの特別縁故者になり、大金を得ることを目論みます。「祝福の歌」では、17歳の高校生の娘である菜花が妊娠したことに心を悩ませる父親の達郎が主人公です。実家の母親からマンションのお隣さんについて相談されます。妊娠して大きなお腹で、近く子供を産む予定だった奥さんの様子がおかしくなっていきます。「さざなみドライブ」では、SNSで知り合って自殺を図るグループの一員となった「キュウリ大嫌い」なるハンドルネームの男性が主人公です。自殺決行予定の場所にグループが着くと、すでに自動車が駐車していてドアに目張りまでしていたりします。結局、自殺を思いとどまることになります。ということで、私の読解力が不足しているのかもしれませんが、ハッキリいって、直木賞の水準の達しているのかどうか、やや怪しい気がしました。ここ数年の直木賞の中では、私は『熱源』が出色の出来であったと考えていますが、本書はとうていそのレベルには達しません。しかも、この作者の小説の中にはもっといい出来の作品があるような気がします。

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次に、石田祥『猫を処方いたします。』『猫を処方いたします。 2』(PHP文芸文庫)を読みました。著者は、小説家なのですが、この2冊は私は初読でした。しかも、遅読の私では当然なのですが、すでにシリーズ3作目も出版されていたりします。ちなみに、1冊目の『猫を処方いたします。』は2023年度の京都本大賞受賞作です。ですので、舞台は京都です。中京こころのびょういんにまつわる、実に不思議な物語、短編集です。シリーズ第1冊目には5話、シリーズ2作目には4話の短編が収録されています。中京こころのびょういんは、30前後の男性医師がニケ先生、20代半ばの女性看護師が千歳さん、ということになります。ニケ先生は心療内科ではないと否定していますが、心療内科に行くような、少し心を病み加減の人が行くびょういんです。そして、患者にはタイトル通りに猫が処方されます。猫を処方された患者はびっくりしますが、猫のあまりの可愛さに戸惑いながらもお世話をして癒やされ、少しずつ自分達も問題を解決できたり、場合によっては、周囲も巻き込んだ形でよい方へ変わっていく、という短編が収録されています。ただ、中京こころのびょういんが謎につつまれています。少しずつ明らかにされていくのですが、第2巻まででは全貌はまだ知れません。名前にヒントがあるようで、ニケというのは保護猫センターで働いている副センター長が飼っている猫の名前です。千歳というのは祇園の芸妓さんが飼っていて行方不明になった猫の名前です。未読はありますが、第3巻以降で謎解きがなされるのかも知れません。ということで、この小説にちなんで、猫の飼い方について少し考えました。すなわち、私は東京では集合住宅に住んでいたのですが、今では、東京だけでなく関西でも、そこそこのマンションでは小動物を飼うことは許容されているところが多いような気がします。ただ、本書にも見られるように、一戸建てでない集合住宅では、部屋飼いで外には出さない場合が多いような気がします。私は大学を卒業するまで暮らしていた両親の家では猫を飼っていた経験があります。一戸建てでしたので部屋飼いではなく、自由に外を行き来していました。私は、実は、猫を飼えるとすれば、こういった猫の自由に家の内外を行き来できるような環境の方が好ましいのではないか、と考えています。その根本はJ.S.ミルの『自由論』です。『自由論』では、あくまで、ナチュラルに生きることを重視していて、例えば、植物を剪定したトピアリーなどに対して大いに批判的です。私には、どうしても、現在の日本の特に集合住宅での猫の飼い方、外に出さない部屋飼いで、例えば、ノミなんかも完璧に駆除してあり、往々にしてメス猫については避妊手術すら済ませているような飼い方が、このトピアリー的でやや不自然な飼い方であるように思えてなりません。でも、現実問題として、そういったトピアリー的な飼い方の方が、猫の方も飼い主の方も幸福度が高いのだろうという点は理解していて、決して、こういう飼い方をしている飼い主さんを批判する気はありません。ただ、逆に、そういうトピアリー的な飼い方しか出来ないのであれば、私は諦らめた方がいいのだろうと受け止めています。本書を読んでいて、現代的な猫の飼い方についてまで考えが及んでしまいました。

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次に、ヘミングウェイ『老人と海』(角川文庫)を読みました。著者は、世界を代表する小説家です。英語の原題は The Old Man and the Sea であり、1952年の出版です。本書の功績により1953年にピュリツァー賞を受賞し、本書ほかの文学的な貢献により1953年にノーベル文学賞を受賞しています。本書は越前敏弥さんによる新訳であり、今年2024年1月に出版されています。登場人物はわずかに2人だけといえます。老漁師サンティアーゴと彼を慕う若者、マノーリンです。舞台は地上ではキューバのハバナですが、サンティアーゴが漁に出て多くの時間を過ごすのはカリブ海です。前半はマノーリンとサンティアーゴを中心とするハバナでの活動を追います。後半は、長らく、というか、84日間も魚が獲れなかったサンティアーゴが大物カジキと長時間に渡る格闘の末に釣り上げますが、漁港への帰路に次々とサメが襲撃し、銛やナイフも失い、カジキのほとんどを食い荒らされて帰港します。訳者あとがきで、今回の新訳では、ヘミングウェイの使った "boy" の訳に心を砕いたと表明しています。どう訳されているかは読んでみてのお楽しみですが、従来の邦訳本では「少年」とされていたようです。越前さんは年齢の想定とともに新訳語を充てています。私は邦訳者である越前さんの見方に賛成で、それは何かというと、ヘミングウェイのこの作品のバックグラウンドにはスペイン語の表現があるのだろう、という想定です。英語の "boy" をスペイン語に直訳すれば "muchacho" ということになりますが、少し年齢の想定を上げれば "joven" という可能性もあります。"joven" に当たる英語は私は不勉強にして知りません。あえていえば、"young man" かもしれませんが、そんな英語は聞いたことがありません。でも南米スペイン語圏では "muchacho" も "joven" もどちらもよく使います。ただ、絶対的な年齢のレンジで使うのではなく、相対的な年齢差でも使うような気がします。小中学生から高校生くらいまでであれば "muchacho" でしょうし、単純に絶対年齢を当てはめれば、20代なら "joven" となります。でも、私くらいの60歳をとうに過ぎたジーサンからすれば、30代やアラフォーに対しても "joven" でよさそうな気もします。難しいところです。でも、この越前訳の『老人と海』はオススメです。ぜひ、多くの方に手に取って読んでいただきたいと願っています。

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次に、ガブリエル・ガルシア=マルケス『百年の孤独』(新潮文庫)を読みました。著者は、コロンビア生まれの小説家であり、主として本書による文芸上の貢献により1982年のノーベル文学賞を受賞しています。原書はスペイン語、原題は Cíen Años de Soledad であり、1967年の出版です。邦訳書は最初に1972年に新潮社から出版されています。今年2024年6月に新潮文庫から新装版が出版されました。おそらく、古今東西オールタイムベストの100冊に入ると考えるべき古典的名作小説です。私はすでに、新潮社の邦訳版とスペイン語の原書を読んでいます。30年以上も前の1990年代初頭に、在チリ大使館書記官を拝命して、日本橋丸善で高価な洋書を買ってチリに持ち込みました。でも、現地では非常に廉価なペーパーバックが1ケタ違いの安価な価格で売られていてガッカリした記憶があります。ということで、コロンビアの、おそらく、架空の集落であるマコンドを舞台にするブエンディア一家の物語です。すなわち、ホセ・アルカディオ・ブエンディア大佐とウルスラ・イグアランを始祖とするブエンディア一族が、コロンビアであろうと想定される南米のある場所に蜃気楼の村マコンドを創設します。そして、マコンドはさまざまな紆余曲折がありながら、もちろん、一時は隆盛を迎えながらも、やがて滅亡に至ります。その100年間を鋭い筆致で描き出しています。宗主国であるスペインに、そして、本国政府に、そういった権威に対して反逆し、抵抗を続けながらも、繁栄する街を築き上げ、しかし、結局は、権威筋に滅亡させられるわけです。私は南米に3年間住んで外交官の仕事をしていましたが、私が勤務していた大使館のあるチリには、当時1990年代初頭までに2人のノーベル文学賞受賞者がいました。1945年戦後直後にノーベル賞が復活した際の最初の受賞者は、チリの情熱的な女性詩人であるガブリエラ・ミストラルです。まあ、日本でなぞらえれば与謝野晶子のような存在です。この女性は別としても、1971年にノーベル文学賞を受賞し、ピノチェト将軍によるクー・デタ直後の1973年に亡くなったパブロ・ネルーダは、アジェンデ大統領から駐仏大使に任命されており、明らかに左翼連立政権支持者でした。ネルーダの死因については、毒殺されたとも報じられています。本書の作者のガルシア=マルケスもそうです。バリバリの反逆者、反体制派の左翼といえます。そして、本書では、都市としてのマコンドの盛衰とともに、ある意味で反逆者のカテゴリーに入るホセ・アルカディオ・ブエンディア大佐の一族から、何と、法王を輩出するという夢の実現を目指す物語でもあります。私の勝手な解釈でよければ、現在のフランシスコ法王はこれを実現した、と考えるカトリック教徒がいても不思議ではありません。繰り返しになりますが、世界を代表する名作小説です。私のようなラテンアメリカでの勤務経験者ではない多くの日本人には難解な部分もありますが、ぜひ、多くの方に手に取って読んでいただきたいと願っています。

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2024年7月27日 (土)

今週の読書は経済書をはじめとして計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、森川正之[編]『コロナ危機後の日本経済と政策課題』(東京大学出版会)は、コロナ禍を経た日本経済の課題を考えていますが、ややタイミングを失したかという気がします。小野寺拓也・田野大輔『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』(岩波ブックレット)は、ナチスを評価しかねない最近の動向を強く批判し、ナチスの政策を広い観点から評価すると、決して「良いこと」をしたエビデンスは見い出せないと結論しています。村木嵐『まいまいつぶろ』(幻冬舎)は、江戸幕府の9大将軍徳川家重の言葉を唯一理解した大岡忠光との関係をやや過剰に美談として描き出しています。八重野統摩『同じ星の下に』(幻冬舎)は、家庭で虐待されている女子中学生が誘拐された事件について取り上げています。甚野博則『実録ルポ 介護の裏』(文春新書)は、破綻寸前の我が国介護制度を裏側から見ています。秋谷りんこ『ナースの卯月に視えるもの』(文春文庫)は前回が望めない病棟の看護師が「視える」物や人から物語が始まります。
ということで、今年の新刊書読書は1~6月に160冊を読んでレビューし、7月に入って先週までに計20冊、今週の6冊を合わせて、今年になってから合計186冊となります。目標にしているわけでも何でもありませんが、年間300冊に達する勢いかもしれません。なお、Facebookやmixi、あるいは、経済書についてはAmazonのブックレビューなどでシェアする予定です。また、今週は、若竹七海の『プレゼント』(中公文庫)と『依頼人は死んだ』(文春文庫)も読みました。新刊書ではないので、本日のブログでは取り上げませんが、別の媒体で、Facebookやmixiにポストしたいと予定しています。

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まず、森川正之[編]『コロナ危機後の日本経済と政策課題』(東京大学出版会)を読みました。編者は、経済産業省の官庁エコノミストご出身で、一橋大学の研究者であり、経済産業研究所の所長も務めています。本書は、出版社から考えても学術書なのですが、経済産業研究所(RIETI)における研究成果を取りまとめており、そのため、というか、何というか、新たな実証分析結果を提示していたり、あるいは、難解な理論モデルを数式で展開していたり、といった部分はなく、それだけに難易度は高くなさそうな気もします。ただ、既存研究のサーベイに近い研究成果ですし、テーマはタイトル通りに、ややコロナに偏った印象ですので、現在のインフレ=物価上昇、円安、金融引締めなどといったテーマはほとんど取り上げられていません。加えて、マイクロかつサプライサイドの面からの日本経済の課題の分析が中心で、マクロ経済や需要サイドやといった部分にはそれほどの注意が払われていないような気がします。第1章ではPCR検査の不足についても考えていますが、これなんかは現時点から将来に渡って参考になる部分は少なそうな気がします。第2章では、コロナを経た後のサプライチェーンの変容についての分析を試みていますが、ウクライナ戦争や大いにあり得る近い将来のトランプ米国大統領が通商政策に及ぼすショックなどのほうが気にかかるエコノミストの方が多そうに私は受け止めています。ただ、コロナ禍を経てオンライン就業が大いに普及し、働き方が変化した点は特筆すべきでしょうし、最後の第9章で議論されているようなEBPM研究についても、コロナとは関係薄いながら、今後の日本経済の大きな課題であろうという認識は多くのエコノミストが共有しているものと考えるべきです。私自身は、コロナ・ショックはサプライ・ショックであり、したがって、サプライサイドからのマイクロな分析が重要であると考えています。その意味で、本書はとても有益な分析を集積していると考えますが、いかんせん、コロナ禍の中ではあってもウクライナ戦争、そして、それに伴うエネルギーや食料の値上がりに起因するインフレの方の経済的インパクトが強かったのも事実です。コロナは産業別にインパクトの大きさが一様ではなく、例えば、宿泊業や飲食業などで大きなダメージを受けました。それだけに、単純なマクロ経済政策では対処することが難しかった面もあります。例えば、国民1人あたり一律の特定給付金というのも、緊急性が必要とされた場面では有効でしたが、マクロ政策での対応は雇用に限られていた印象すらあります。それに、コロナのずっと前から日本経済の大きな課題であったサステイナビリティやグリーン経済化、あるいは、デジタル経済への対応などがコロナ禍により浮き彫りにされたという側面もあります。その意味で、本書の分析も限定的ではありますが、将来過大に無得て役立つものもあるのではないか、と私は考えます。

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次に、小野寺拓也・田野大輔『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』(岩波ブックレット)を読みました。著者は、東京外国語大学と甲南大学の研究者であり、ともにご専門は現代ドイツ史です。昨年7月の出版で、ほぼほぼ1年を経過していますが、話題になった本です。私はナチスはほとんど「良いこと」はしていないと考えていますが、このタイトルからして、いわゆる「悪魔の証明」を要求されているような気がして、少し読書を躊躇していた面があります。すなわち、おばけなんてものはいない、宇宙人はいない、といった否定の「xxはない」というのは証明が極めて難しいわけです。ですので、ナチスがやったことをすべて網羅的に検討して「良いこと」が何ひとつなかった、と証明することは、ハッキリいってムリです。ですから、エコノミストは100%ではなく5%の棄却水準で勝負しているわけです。本書では、ナチスのすべての活動結果を精査するのではなく、ネトウヨなどの間で話題になった「ナチスの功績」を取り上げて、ていねいに分析した上で反論を加えています。特に、私はエコノミストですので、第4章の世界恐慌からの景気回復、第5章の雇用保護、第6章の家族支援などに注目していましたが、アウトバーン建設などの公共事業が米国のTVAに比較される場合もありますが、決して評価できる内容ではない、というのは私も同感です。ただ、これらの章における評価基準として、(1) 歴史的経緯として、ナチスのオリジナルかどうか、(2) 歴史的文脈としての目的、(3) 歴史的結果としての政策効果、の3点を強調していますが、エコノミストからすれば第3の点がもっとも重要であると私は考えています。本書では、ナチスのオリジナルではなく、イタリア・ファシストに由来するという批判が加えられている政策がいくつかありましたが、私自身はオリジナルを尊ぶ考えはなく、「良い政策」であれば取り入れることは評価すべきと考えます。日本人の経済活動が、戦後、モノマネならまだしも、「サルマネ」と評価されたことがありましたが、別にオリジナルではないマネであっても私は評価を落とすべきとは思いません。政策目的としては、何といっても、ナチスの場合は戦争目的であった政策が少なくなく、その点は評価を下げるのは私も同感です。ただし、プロパガンダのため、というのは現在の民主主義的な政党やグループでも投票により決定する部分があるわけですので、ある意味で、これを否定されては民主主義が成り立たないケースすら考えられます。戦争目的の否定にとどめておいて欲しかった気がします。いずれにせよ、私自身がナチスの政策のうちのいくつかを否定する理由は普遍的ではないからです。本書でも強調しているように、家族主義であるのはいいとしても、ユダヤ人はもちろん、非アーリア人が排除されている、あるいは、アーリア人でもナチスが好ましくないと考えたグループ、例えば共産主義者などが排除されているという側面は、決して忘れるべきではありません。政策は企業ではなく国民に向けて、ユニバーサル=普遍的である方がいい、というのが私の政策一般論です。

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次に、村木嵐『まいまいつぶろ』(幻冬舎)を読みました。ようやく図書館の予約の順番が回ってきたのですが、すでに続編=完結編の『まいまいつぶろ 御庭番耳目抄』も出版されている始末だったりします。著者は、もちろん、小説家なのですが、司馬遼太郎の最晩年の内弟子のような役回りをしていたと聞いたことがあります。ただ、私は不勉強にして、この作者の作品は初めてでした。ということで、この作品はそれなりに話題になった時代小説だと思います。紀州藩主から江戸幕府の8代目将軍となり、享保の改革を推し進め、幕府の中興の祖とも称される徳川吉宗の嫡男であり、吉宗の後を継いだ9代将軍である徳川家重と家重に使えた側近の大岡忠光の物語です。徳川家重は、吉宗の嫡男でありながら廃嫡を噂された人物です。というのも、口が回らず誰にも言葉を理解されず、しかも、半身不随で筆談も出来ないことから、周囲との意思疎通が困難であったからです。さらに、小便を我慢できずに漏らしてしまい、歩いた後には尿を引きずった跡が残ることから、「まいまいつぶろ」=カタツムリと呼ばれて暗愚と馬鹿にされ蔑まれます。しかし、そこに、唯一徳川家重の言葉を理解できる大岡忠光(幼名は兵庫)が見出され、側近として仕えることになります。ただ、幕府ではそのころ、側用人制度を廃止し、将軍が直接老中などとコミュニケーションを取りつつ政を行うようになっていたことから、大岡忠光が正しく徳川家重の言葉を伝えているのか、という疑念がついて回ります。大岡忠光は町奉行として名高い大岡忠相の親戚筋に当たり、大岡忠相からは徳川家重の口に徹して、目や耳になってはならないと厳命されます。すなわち、将軍の発する言葉を正確に通訳して老中などに伝えるだけであって、徳川家重は老中などの言葉を十分に理解でき、また、書類も読めるわけですから、決して、大岡忠光から将軍に対して情報を上げてはいけない、というわけです。その上、賂とみなされるため誰からも懐紙1枚も受け取ってはならない、とまで命じられます。ただ、耳目の代わりとして御庭番の青名半四郎こと万里が、父の徳川吉宗から、家重を助けるように差し向けられます。タイトルから考えて、この万里が次作の完結編で重要な役回りを担うことになるのだろうと想像しています。ということで、将軍就任からの徳川家重の公私に渡る活動、公の部分では、宝暦治水工事や田沼意次の抜擢など、また、私の部分では朝廷から輿入れした此宮との夫婦生活、また、此宮が出産により亡くなってからの生活も含めて、大岡忠光と陰ながら万里が徳川家重をサポートするわけです。とても評価の高い時代小説ながら、徳川家重と大岡忠光の関係をここまで美談にするのは、かえって盛っている部分が大きいのではないか、と私は疑わしく読みました。フィクションである小説とはいえ、あまりにも美談過ぎて疑わしさや怪しさまで出てしまっているように感じます。もう少し、真実に近い部分を盛り込んだ方がよかったのではないかとすら思えます。そのあたりは続編=完結編を楽しみにしたい、と考えています。続編=完結編では解決できないのが、徳川家重と此宮の侍女であり、結果として、10代将軍徳川家治の母となる幸との関係が余りに淡白に語られている点です。作者として重点を置くところではない、と判断されたのでしょうが、少し気にかかります。

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次に、八重野統摩『同じ星の下に』(幻冬舎)を読みました。著者は、北海道ご出身の小説家なのですが、私の勤務校の卒業生と聞き及んでいます。ただし、経済学部ではなく、経営学部だそうです。ということで、この作品の舞台は12月の北海道の札幌近郊であり、主人公は両親から虐待されている女子中学生の有乃沙耶です。作品中の記述は少し前後しますが、有乃沙耶は両親から夜釣りに誘われて、生命の危機を感じて児童相談所に電話し、近くカウンセリングを受けることを勧められますが、結局、カウンセリングには行きませんでした。そして、中学校からの帰り道で、その電話対応をしたという渡辺に声をかけられて、そのまま誘拐され監禁されてしまいます。監禁当初こそ猿轡や手足の拘束もあったのですが、すぐに片足を鎖でつながれるだけになり、しかも、両親の下の家庭生活よりも待遇が大きく改善されます。すなわち、広々とした部屋には暖房が快適に効いており、食事もレストラン顔負けのメニューが出てきたりするわけです。下着を含めて清潔な着替えが用意されており、家ではお湯のシャワーも使わせてもらえないにもかかわらず、入浴させてもらえたりもします。他方で、渡辺と名乗る誘拐犯は2000万円の身代金を、こともあろうに、手紙で警察に送りつけます。北海道警捜査1課特殊班捜査係の進藤係長と女性刑事の相良が有乃の家に駆けつけて、操作を開始します。しかし、有乃沙耶の両親は3日前の金曜日から沙耶が帰宅していないといいつつ、それほど心配もしておらず、逆に、最近入った生命保険が手に入るかもしれないと期待を示したりする始末です。その上、母親は最近DNA検査をして、夫が沙耶のDNA、上の父親ではないとの結果を知っていたりします。有乃沙耶の方は、すっかり渡辺の家での生活に慣れて、いわゆるストックホルム症候群ではなく、純粋に監禁生活を快適に過ごしていたりします。ただ、発熱して体調を崩したりはします。そして、本の帯にあるように、「この誘拐犯が、わたしの本当のお父さんだったらいいのに」と思い始めたりしますし、そう信じようとしたりもします。ミステリ小説ですので、あらすじはこのあたりまでとします。誘拐犯がどういった人物で、どういった目的で誘拐したのかについて、といった大筋の謎はそれほど難しくなく、意外性もありません。ただ、最後の最後に1点だけ、主人公の有乃沙耶と両親の間で生命の危機に関して、とてもびっくりすることがあります。それは、読んでみてのお楽しみ、ということになります。

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次に、甚野博則『実録ルポ 介護の裏』(文春新書)を読みました。著者は、週刊文春の記者の経験もあるジャーナリストです。本書では、著者自らの経験も基にしつつ、介護については崩壊の危機にあると指摘しています。私自身の個人的事情を考えれば、私もカミさんもすでに親は亡くなっていて、次に死ぬのは日本人の平均寿命通りだとすると私になります。しかし、7月26日付けの朝日新聞の記事「介護事業者の倒産81件、上半期で過去最多 訪問介護が約半数占める」では、東京商工リサーチのリポート「2024年上半期(1-6月)『老人福祉・介護事業』の倒産調査」に基づいて、介護事業者の現状を報じていますが、今年上半期の倒産が過去最高に達した点から考えても、介護事業の先行きを危ぶむ見方が出そうです。本書でも視点は同じなのですが、高齢化がどんどん進む中で介護の先行きをどう考えるのかは重要です。その上、介護保険のシステムはとっても複雑です。親の介護があるとすれば、取りあえずは、地域包括支援センターに駆け込めばいい、というのはみんな知っているところだとおもいます。ただ、医療が自由診療であるのに対して、私も授業で教えていますが、介護保険は勝手なマネは許さず、ケアマネさんが介護について等級や必要なサービスを決めるわけです。そういった介護の表側、まさに、私が授業で極めて大雑把に教えているような介護の表はいいのでしょうが、問題は本書のタイトルにあるような介護の裏です。本書でも、介護施設やケアマネさんが介護対象者を囲い込んで、介護サービスの供給についてはすべて関連企業で調達するように仕向けたりするのは、ある意味で経済合理的とすらいえます。問題は、介護保険という制度により介護サービスのレンジが決められているがために、必要に応じてではなく、介護保険で許容される上限まで提供しようとする介護業者の姿勢です。要不要にかかわりなく、介護保険で決められている上限のサービス提供にしてしまうと、財政上の負担も去ることながら、そうでなくても人手不足の業界でさらに労働力が不足してしまう可能性すらあります。そういった介護保険の複雑かつ不合理な仕組みや私利私欲だらけの介護業界の実態などとともに、さらに裏の現実の介護の実態、老人への虐待、などなど、裏の情報が満載です。行政は見て見ぬふりをするんでしょうから、第4の権力としてのジャーナリズムの出番ではないでしょうか。

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次に、秋谷りんこ『ナースの卯月に視えるもの』(文春文庫)を読みました。著者は、作家ですが、本書あとがきでは実際に13年ほど看護師の経験があると記述しています。ただ、私はよく知りません、初読の作家さんでした。本書がデビュー作ではないかと思います。本書は6話の短編から編まれており、主人公は横浜郊外にある青葉総合病院に勤務する看護師の卯月咲笑です。完治の望めない人々が集う長期療養型病棟に勤めています。タイトル通りに、この主人公に「視えるもの」があるわけで、それは作品の中では「患者の思い残し」と呼ばれています。コトもヒトもどちらもありのような気がします。6話の短編のうち、最初の2話「深い眠りについたとしても」と「だれでもきっと1人じゃない」は患者の思い残しを主人公が視ることにより、極めて重大な事件が解決されます。その意味で、ミステリといえます。他の短編作品もそうなのですが、タイトルから想像されるようにホラーがかったストーリーはありませんし、すべての短編がミステリしたてというわけでもなく、主人公の年齢や性別といった属性から考えられるようなチャラチャラしたお話でもありません。看護師という職業倫理や病因という生死に深く関係する職場をしっかりと描写することによってストーリーが進められます。その意味で、とても骨太で深刻さいっぱいの考えさせられる連作短編集です。私のように表紙を見ただけで時間潰しのために手に取ると、失敗だったと思うかもしれません。

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2024年7月20日 (土)

今週の読書は経済書2冊のほか計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、脇田成『日本経済の故障箇所』(日本評論社)は、日本経済は企業部門が貯蓄主体になっているため、従来型の経済モデルを適用する前提が成り立っていないとして、賃上げなどにより企業部門から家計部門に所得を移転する必要性を強調しています。小野浩『人的資本の論理』(日本経済新聞出版)は、人的資本理論についてベッカー教授からの歴史を明らかにするとともに、理論的基礎、応用さまざまな理論と実証の展開を解説する入門書です。伊坂幸太郎『777』(角川書店)は、殺し屋シリーズの第4弾最新刊で、シティホテルを舞台に殺し屋が入り乱れて活躍します。萬代悠『三井大坂両替店』(中公新書)は、幕府公金の送金を担った三井大坂両替店のビジネスモデルについて歴史的に解説を加えています。藤崎翔『逆転美人』(双葉文庫)は、本編では美人に生まれついたばかりに幼少時から不幸を背負い込んだ主人公の人生がこれでもかとばかりに語られますが、「追記」部分で驚愕の真実が明らかにされます。芦沢央ほか『斬新 THE どんでん返し』(双葉文庫)は、この出版社の「THE どんでん返し」シリーズの第6弾最新刊であり、5人の豪華執筆陣がどんでん返しミステリを競演します。
ということで、今年の新刊書読書は1~6月に160冊を読んでレビューし、7月に入って計20冊をポストし、合わせて180冊となります。目標にしているわけでも何でもありませんが、年間300冊に達する勢いかもしれません。なお、Facebookやmixi、あるいは、経済書についてはAmazonのブックレビューなどでシェアする予定です。それから、新刊書ではないので本日の読書感想文ブログに入れませんでしたが、若竹七海『不穏な眠り』(文春文庫)も読みました。不運な女探偵・葉村晶シリーズのラストの発刊だと思います。Facebookやmixiでシェアする予定です。

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まず、脇田成『日本経済の故障箇所』(日本評論社)を読みました。著者は、東京都立大学の研究者です。私は60歳の定年まで長らく東京の役所で官庁エコノミストをしていたこともあって、経済学の研究者については関西方面よりも首都圏の方に知り合いが多い気がするのですが、本書のご著者もその1人です。役所が主催する共同研究に来ていただいた記憶があります。ということで、本書は現在の日本経済が陥っている長期の経済低迷について、従来の欧米起源の経済学のモデルで分析するのは限界がある、というか、モデルを適用する前提が成り立っていない、との分析結果を提示し、したがって、別の解決方法を適用することにより従来とは異なる政策インプリケーションを導き出そうと試みています。その結論を一言で簡単にいえば、貯蓄主体となってしまった企業部門から家計部門に所得を移転する必要性ということになります。要するに、賃上げが必要だと主張しているわけです。経営者サイドからは、賃金引上げのためには生産性の向上が必要、とか、日本の労働生産性は低い、とかの主張がなされていて、我々もよく耳にするところですが、本書はまっこうからこれを否定し、現在の日本の賃金は生産性を大きく下回っている、と強調しています。そして、貯蓄投資バランス、政府と企業と家計と海外の各部門のバランスを合計すれば、定義的にゼロとなる貯蓄投資バランスから説き起こし、企業の過剰貯蓄を家計に移転することを賃上げをもって実施すべき、との説なわけです。この観点からすれば、海外投資は家計も企業も貯蓄主体となった国内の余剰資金を海外で使うひとつの手段なのですが、実際にはほとんど収益を上げずに失敗している可能性が高い、とデータ分析の結果から結論しています。そして、伝統的なケインズ政策のひとつである財政拡張についても限界まで試みられたものの、結局効果は薄く、金融緩和も最後に資源価格の高騰からインフレを招いた、と批判しています。当時の黒田総裁による異次元緩和は「微益微害」だった可能性を示唆しています。国内では企業は貯蓄主体となって銀行借入をせず、貯蓄主体となった企業が内部留保を積み上げる中で、企業の持つ貯蓄は配当としては家計には流れません。家計の金融資産は銀行預金が大きな比率を占めていて、家計による株式保有が少ないからです。そして、ボーナスを通じた家計への企業貯蓄の配分も滞っています。これが3つの構造的なズレであると本書では指摘しています。すなわち、繰り返しになりますが、(1) 貯蓄主体となって銀行借入をせずに巨額の利益を積み上げる企業部門、(2) 銀行預金に偏重して株式保有が進まず企業貯蓄を配当で受け取れない家計、(3) ボーナスによる利益配分を行わない企業、その上、人口減少と急速な技術革新が事態を複雑にしていると主張します。まず、企業の銀行借入については本書でも望み薄としてます。それなら、ということで、家計の株式保有を進め、ボーナスによる企業利益の家計への配分を拡大する、ということなのですが、これらの処方箋は本書を待つまでもなく、今までにも何度か主張されてきたところであり、実現していないのは余りにも明らかです。本書では、最終章の第7章でいくつかの方策を提示していますが、実際の効果がどこまであるかはやや不明であるとしか、いいようがありません。最後に、本書では表現はともかく、モデルそのものはクリアなのですが、例示が極めて理解しにくい結果になっています。本書の主張は極めて明快で経済学的には正しい方向を向いていることは十分理解できるのですが、それをどう実現できるのか、政策レベルの議論がまだ不足しているように感じられてなりません。

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次に、小野浩『人的資本の論理』(日本経済新聞出版)を読みました。著者は、一橋大学の研究者です。本書では、シカゴ大学の研究者であり、ノーベル経済学賞も受賞したベッカー教授の人的資本論をベースに、最新の研究まで含めた人的資本理論を取り上げて解説している入門書という位置づけです。基本的に、学術書ではないかと思うのですが、興味のある学部学生や一般ビジネスパーソンでも十分に読みこなせる内容ではないかと思います。本書は3部構成であり、ページ数ベースで半分近くを費やす第Ⅰ部の理論・基礎編、第Ⅱでは理論から応用へ、そして、第Ⅲ部ではミクロからマクロへと、それぞれ拡張が試みられています。まず、人的資本理論は、ベッカー教授の理論的な貢献とともに、ミンサー教授の実証面での理論の確認が重要であった、と解説されます。私は頭の回転が鈍いので理論はサッパリですが、実証については、その昔に「ミンサー型賃金関数の推計とBlinder-Oaxaca分解による賃金格差の分析」と題する学術論文を書いたこともありますので、人的資本とか、その結果のアウトプットとして得られる賃金なんかのマクロ分析は経験あるところです。まず、理論編では人的資本理論に対置されるシグナリング理論との関係が興味深かったです。ただ、人的資本への投資の結果としてシグナルが得られる、例えば、勉強という投資をしたら東大卒のシグナルが得られると考えるわけですので、矛盾する理論ではなく人的資本が基本にあるシグナルですので、よく整理された議論が展開されていました。事例としても名前に基づく差別なんかの理解が進んだ気がします。応用編では何といっても高度成長期に完成した日本的人事制度、雇用慣行と人的資本の関係が重要です。高度成長期から今まで続く日本的雇用慣行として、その昔は終身雇用とすら呼ばれた長期雇用、年功賃金、企業内組合などがあります。その中でも、特に、長期雇用と年功賃金の相互補完制につき理解が進み、年功賃金のゆえに定年がある、というラジアー理論も説明力あったと思います。また、高齢化が日本的雇用システムにいかなる影響を与えるか、特に定年延長などについて取り上げられています。また、最近の話題としてバブル崩壊後の失われた30年におけるコア人材と非コア人材といった日経連の雇用ポートフォリオ論、あるいは、直近のコロナ・ショックにおける雇用の問題などが取り上げられています。物理的資本が減価償却という形で時の流れとともに減耗し続ける一方であるのに対して、人的資本は投資によるスキルアップにより生産性を向上させることが出来るといった特徴があります。入門書とはいえ、いい勉強になった気がします。

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次に、伊坂幸太郎『777』(角川書店)を読みました。著者は、我が国でも指折りの人気を誇るミステリ作家です。本書はその殺し屋シリーズ第4作最新刊です。舞台は架空のウィンストンパレスホテルというシティホテルです。同じシリーズの以前の『マリアビートル』も東北新幹線の車中という設定でしたが、本作品も東北新幹線並みのクローズド・サークルとまではいかないものの、ホテルから外に出ることはありません。そして、『マリアビートル』にも登場した不運な殺し屋七尾=天道虫が活躍しますし、タイトルにも取られた真莉亜への言及もあります。もっとも、真莉亜の登場は少ないです。ということで、簡単にストーリーを追うと、ツキに見放された不運な殺し屋の天道虫こと七尾はホテルに宿泊中の男を訊ねて、娘からの誕生日プレゼントを届ける安全かつ簡単な仕事を請け負いますが、部屋番号を間違えて間違えた先の部屋に宿泊していた男が事故で死んでしまい、その先にさまざまなトラブルに見舞われます。裏仕事の乾に雇われていて秘書をしていた紙野結花がその抜群の記憶力からか、元雇い主の乾に追われていて、逃がし屋のココを頼って同じホテルに滞在しています。乾は美男美女の6人組の殺し屋をホテルに差し向けます。なぜか、成り行きで七尾=天道虫が巻き込まれます。いろいろな経緯あって、七尾=天道虫は紙野結花とココの側に立って、乾の送り込んだ殺したと対峙することになります。加えて、政治家の蓬実篤が秘書の佐藤とともに同じホテルのレストランで記者のインタビューを受けています。ラストの場面で強烈にからみます。ほかの登場人物としては、何組かのペアが重要な役割を果たします。高校バスケ部の同級生だったモウフとマクラが清掃ほかで、ホテルの従業員っぽく登場し、もちろん、ベッドメイク以外にも死体処理なんかに関わります。さらに、奏田(ソーダ)と高良(コーラ)のコンビは爆発物を扱う殺し屋です。この殺し屋シリーズには以前に蜜柑と檸檬というコンビが登場していた記憶があり、どういった役回りかはすっかり忘れましたが、同じようなコンビの業者が本書でも登場します。なお、本書では、ほかの殺し屋シリーズの作品でも同じだと記憶していますが、「殺し屋」とは呼ばずに「業者」と表現しています。ですから、彼らの間では同業者、という表現も出てきたりします。ミステリですので詳細を紹介することは控えます。今までのシリーズでも殺し屋の業者以外に重要な役割を果たす登場人物がいましたが、今回は政治家の蓬ということになります。彼は国会議員をしていて、一部に人気も衰えていないのですが、現在は非議員の情報局長官という役回りで秘書を従えています。加えて、ホテルですのでフロアの移動も読ませどころです。6人組の美男美女業者がターゲットを追って移動するさまもかなり論理的です。ただし、登場人物が、私のこのレビューでも追い切れないくらい多人数に上りますし、それだけに登場人物の動きやストーリー展開も複雑で、同時に、この作者お得意の伏線の設定と回収も複雑になっています。それなりの読解力が必要かもしれませんが、この作者のファンであれば読んでおくべき作品だと思います。

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次に、萬代悠『三井大坂両替店』(中公新書)を読みました。著者は、公益財団法人三井文庫の研究員です。まさに、本書の著者としてピッタリと感じるのは私だけではないと思います。広く人口に膾炙しているように、三井の本家本元は呉服商の越後屋であり、大坂の両替店はひょっとしたら三井の本家本元となる活動ではないかもしれませんが、前近代の江戸期とはいえ、近代的な銀行や金融機関の先駆けとなる活動であったということは出来るかと思います。越後屋呉服店は、店先売り、現金払いの掛け値なし、という大きな特徴、というか、当時としてはビジネス上のイノベーションでもって新たなビジネスモデルを切り開いたわけですが、店先売りも、現金払いの掛け値なしも、どちらも越後屋呉服店の前に存在したと本書では指摘しています。その意味で、三井大坂両替店も新たなビジネスモデルを開拓した、というわけではなさそうな気もします。まず、三井大坂両替店は元禄4年=1691年に三井高利が開設しています。現在の銀行のように、一般国民から預金を集めるわけではなく、幕府が年貢で集めたコメを大坂で換金し、江戸に送金する業務を請け負っています。もちろん、金貨、というか、小判で東海道を運ぶわけではありません。御為替御用と当時呼ばれた為替という現代でも用いられる送金方法を使うわけですが、本書によれば、三井は預かった幕府の公金を融資に回して莫大な利益を上げています。すなわち、幕府公金は期日までに送金することが最優先であり、そこに90日程度のタイムラグがあったことから、このタイムラグの期間に三井は幕府公金を融資した、ということになります。ですから、本書ではあからさまに書いていませんが、一般庶民の預金ではなく幕府公金が元手ですので、融資が焦げ付いて回収不能になれば大問題です。現在では、私も授業で教えているように、ハイリスク・ハイリターンとローリスク・ローリターンといわれて、リスクとリターンが対を成しているわけですが、幕府公金を融資に回すとなれば、ハイリスク・ハイリターンの融資は回避される傾向が強かったのは明らかです。三井大坂両替店は、リスク・ミニマイズのために担保を取るとともに、借主の人柄を見るという手法を取っています。まあ、あり得る手だといういう気がします。担保となる家屋敷の不動産を適正に評価し、さらに、人物の人となりも評価することになります。それらを手代が評価するのですが、手代のレベルではダメ出しという拒否権行使は出来るものの、融資の承認はさらに上役の許可が必要であったと本書では指摘しています。こういった業務の進め方や、今でいうところの労働条件、もちろん、お給料まで詳細に歴史的にあとづけて分析を加えています。詳細については読んでいただくしかありませんが、身分制社会で武士が上位に位置する町人社会で、どのようなビジネスができるのか、あるいは、すべきなのか、よく考えられたシステムではなかろうかと思います。

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次に、藤崎翔『逆転美人』(双葉文庫)を読みました。著者は、最近話題のミステリ作家です。芸人さんご出身だと思います。私もこの著者の作品を何冊か読んだことがあります。本書はミステリであり、タイトル通り、超絶美人であるにもかかわらず、というか、美人であるがゆえに不幸や不運を背負い込んだ佐藤香織の物語で始まります。一般的には美男美女は得をするように思われているのですが、そういったルッキズムに挑戦するように、その反対の人生を送ってきた主人公の半生を振り返る形でストーリーが始まります。すなわち、就学以前や小学生の低学年の時は何回か幼児誘拐の危険な目に会い、小学校高学年では男子からの交際の告白を受けまくって、それを断ったことで親友から嫌われ、中学生では男子からチヤホヤされる妬みから激しいイジメにあい、暴力行為を受けて指を骨折させらることもあり、結果、不登校となってしました。高校には進学したものの、そこでも同じようなことが起きます。気にかけてくれる先生がいたものの、その先生も美人目当てに近寄ってきたに過ぎず、高校は中退します。その後、コンビニでのバイトを始めますが、いろいろあって、結局、キャバ嬢に落ち着きます。でも、やっぱり、マルチ商法の犠牲となり、キャバクラも辞めることになります。その後、知り合った中学校の教員と結婚し女の子を出産し、幸福な生活が続いたものの長続きはしませんでした。夫が火事で死亡した上、父親が交通事故で死亡し、同乗していた娘も下半身麻痺による車椅子生活を余儀なくされます。そして、娘の勉強のお世話をしてくれた高校の先生に襲われたりします。ここまでが本編です。ページ数として本書全体のほぼ2/3のボリュームです。そして、残り1/3ほどが「追記」とタイトルされて、それまでの本編をひっくり返すような内容となります。実に、この「追記」は詳細に渡って事実関係の詳細を明らかにしてくれています。ホントいうと、本編でもいくつかヒントが埋め込まれています。私もやや整合性を欠く部分があるような気がして不審に思わないでもなかったのですが、ガサツな読み方のために十分内容を把握することが出来ませんでした。それを称して、出版社では「ミステリー史上初の伝説級トリック」として帯に掲げているのだろうと思います。かなり手の込んだトリックであることは明らかです。最後に、私は国際機関のリポートなんかをpdfファイルで読む機会はいっぱいあるのですが、いわゆる電子図書というものはあまり経験がありません。電子図書が紙で印刷された本と同じようにページ割りされているかどうかも知りません。でも、本書については紙に印刷された図書で読むことを、取りあえずは、推奨しておきたいと思います。

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次に、芦沢央ほか『斬新 THE どんでん返し』(双葉文庫)を読みました。著者は、表記した以外の作家もいて計5人の著者の作品から編まれたアンソロジーです。この「THE どんでん返し」シリーズは、すでに何冊か出版されていて、私は少なくとも最初の方の『自薦 THE どんでん返し』と『自薦 THE どんでん返し 2』は読んでいます。同じ出版社では「自薦」は3まであり、ほかに、韻を踏むように「新鮮」と「特選」の「THE どんでん返し」もあるようです。そして、本書についてはビミョーに韻を外すように、「斬新」なわけです。ほかに、同じようなシリーズで、小学館文庫から出版されている『超短編!大どんでん返し』と『超短編!大どんでん返しSpecial』も私は読んでいたりします。ということで、本書で収録されている作品を順に紹介します。まず、芦沢央「踏み台」はアイドルグループのメンバーを主人公にして、かつて、麻雀好きというキャラを立てるために付き合ったことのあるプロ雀士からストーカーのように付きまとわれる、というストーリーで、どうしてこういうタイトルになっているのかは読んでみてのお楽しみです。伊吹亜門「遣唐使船は西へ」は、平安時代の遣唐使船を舞台に嵐の中で老僧が殺害された殺人事件の謎解きです。犯人探しの whodunnit はすぐに謎が解けるのですが、どうして、すなわち、いかなる動機で殺されたのかの whydunnit が読ませどころです。斜線堂有紀「雌雄七色」は手紙形式ミステリーとなっています。人気脚本家と離婚した母親がなくなり、倅が7色からなる7通の「虹の手紙」を父親である脚本家に憎悪を込めて送りつけ、脚本家がそれを読み進む、という構成になっています。なかなか大きな仕掛けがなされています。白井智之「人喰館の殺人」は、地震による土砂崩れで山道が閉ざされた登山家7人が廃屋の山荘へ避難するのですが、周囲には羆が出没して、実にアッサリと人間が殺されてしまいます。救助が来るまでのクローズド・サークルで元AV嬢らが巻き込まれた殺人事件が発生し、客の1人である元刑事の推理で真相が明らかにされたかに見えました。でも、別の真相にたどり着く多重推理が読ませどころ、というか、大きなどんでん返しになっています。ということで、「THE どんでん返し」のシリースを途中をすっ飛ばして読んでいます。ちゃんとした読書にしたいのであれば、シリーズを順を追って読むべきかもしれません。でも、本書も執筆陣が豪華ですので、シリーズ順にこだわらずに大いに楽しめると期待してよさそうです。

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2024年7月13日 (土)

今週の読書は経済書などのほか新書も合わせて計7冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、中村保ほか[編著]『マクロ経済学の課題と可能性』(勁草書房)は、格差や少子化といった課題についてマクロ経済学の観点から数式の展開による理論モデルの分析を試みています。小野圭司『戦争と経済』(日本経済新聞出版)は、財政や経済の観点から戦争を考え、エピソードを盛りだくさんに取り入れた歴史書に仕上がっています。河西朝雄『Pythonによる「プログラミング的思考」入門』(技術評論社)は、問題解決のためのアルゴリズムを考え、同時に、Pythonによるプログラミングの実例を豊富に取り上げています。佐藤主光『日本の財政』(中公新書)は、財政タカ派の観点から公的債務の安定化を目指して財政再建の方法についての提言を取りまとめています。小塩隆士『経済学の思考軸』(ちくま新書)は、経済学を用いた分析を進める上で重要な思考軸、例えば効率と公平などについて取り上げています。玉野和志『町内会』(ちくま新書)は、行政を補完し地域共同管理に当たる住民組織としての町内会について、歴史的な観点から成立ちや今後の方向などにつき考えています。成田奈緒子『中学受験の落とし穴』(ちくま新書)は、小学生の脳の発達の観点から中学受験について考えています。どうでもいいことながら、今週はちくま新書を3冊も、よく読んだものだという気がます。
ということで、今年の新刊書読書は1~6月に160冊を読んでレビューし、7月に入って先週・今週とも7冊をポストし、合わせて174冊となります。目標にしているわけでも何でもありませんが、年間300冊に達する勢いかもしれません。なお、Facebookやmixi、あるいは、経済書についてはAmazonのブックレビューなどでシェアする予定です。
それからご参考で、7月9日付けの週刊『エコノミスト』で私が酷評した『金利 「時間の価格」の物語』の書評が掲載されています。過度な低金利批判に疑問を呈するとともに、ホワイト/ボリオといったBISビューを代表するエコノミストの重視など、私がAmazonのレビューで2ツ星に評価したのと同じラインの書評だという気がしました。ただ、その後、Amazonでは4ツ星や5ツ星のレビューもあるようです。繰り返しになりますが、ご参考まで。

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まず、中村保ほか[編著]『マクロ経済学の課題と可能性』(勁草書房)を読みました。編著者は、神戸大学の研究者であり、本書は中京大学経済研究所研究叢書として中村教授の還暦記念として編まれています。序章の後、本書は4部から構成されており、第1部が現実とマクロ経済理論の対話、第2部が個人の選好とマクロ経済減少、第3部が分配・格差とマクロ経済学、第4部が少子化とマクロ経済政策、をそれぞれのテーマにしています。本書は完全に学術書であり、しかも、一部にシミュレーションを用いた数値計算を実施しているものの、ほぼほぼ数式の展開による理論モデルの分析で計量経済学的な実証研究はなく、一般的なビジネスパーソンには難しい内容であるように思いますし、私ごときでは4部13章のすべてを十分理解したとは思えません。ですので、第2部のマイクロな個人の選好に基づいたマクロ経済分析などから少しトピックを選んで取り上げておきたいと思います。すなわち、第6章では新型コロナウィルス感染症(COVID-19)パンデミックにおける消費行動を分析しています。この分析では、家計調査などのデータから「巣ごもり消費」とも呼ばれた自宅待機要請の際の消費が、家計内の労働時間を要する時間集約財にシフトしている点を発見しています。ただ、中所得層での所得弾力性の低下という意味で時間集約財の特徴を消滅させた可能性も指摘されています。これは、家計のタイムユースの観点からパンデミック期の巣ごもり消費の特徴とも合致すると私は受け止めています。また、第3部の第8章や第9章では労働分配率の低下についてモデル分析を行っています。規模の経済を有する情報財部門と収穫一定の最終財部門からなる2財モデルで労働分配率が低下することが示されます。しかし、同時にこういった情報化社会の進展がマクロ経済を不安定化せるリスクにも言及しています。また、オートメーションによって資本が労働を置き換えるタスクモデルによれば、未熟練労働から資本へのタスク転換により賃金格差の縮小と資本分配率の低下がもたらされる一方で、金融自由化などに起因する技術的に最先端のタスクが増加すれば賃金格差の縮小と労働分配率の低下が同時に起こることになります。少子化対策では、第11章で、家計が利己的か、あるいは、利他的かで政策のインプリケーションが異なるモデルが提示され、人的資本希釈効果もあって、利己的な経済では子育て支援は逆に子供の数を減少させてしまうという結果が導かれています。第12章では、世代重複モデルの分析から、内生的出生率と最低賃金による失業をモデルに導入すれば、資本所得税の引上げにより1人当たりの資本蓄積を促進し、雇用も出生率も改善する可能性が示唆されています。ということで、必ずしも統一性あるテーマに基づく論文集ではありませんが、マクロ経済モデルの理論分析という形で、従来から示されているマクロ経済現象を確認するうことに成功しています。

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次に、小野圭司『戦争と経済』(日本経済新聞出版)を読みました。著者は、防衛研究所の研究者ですが、私と同じ京都大学経済学部のご卒業ですので、軍事や地政学ではなく経済学がご専門なのだと思います。本書は決して学術書ではなく一般向けの読み物であり、エピソードを盛りだくさんに取り入れた歴史書といえます。歴史的には西洋の古典古代であるギリシア・ローマ時代から、我が国の戦国時代や江戸時代も含めた前近代の戦争も対象とし、もちろん、近代戦争であるいわゆる総力戦の第1次世界大戦や第2次世界大戦、その前の我が国でいえば日清戦争や日露戦争の特徴的なエピソード、経済的な見方からのエピソードを豊富に含んでいます。ただし、最新の武力紛争、というか、何というか、ロシアによるウクライナ侵攻や中東ガザにおけるイスラエルのジェノサイドなどについては特に強く着目されているわけではありません。特に、中東については言及すらされていません。圧倒的に主張されているのは、一言でいえば「戦争には金がかかる」という点です。合理的な経済学の考えを身につけているエコノミストであれば、決して戦争なんかは見向きもしないということが明らかです。経済合理性ない人が戦争を始めるのだということがよく理解できます。特に、産業革命以降の近代的な産業の確立を受けて、刀やサーベルなどから銃器、それも重火器の武器を調達することは、個人レベルではほとんど不可能となり、国家が戦費を負担することになります。ですので、戦争が終結した後、近代的な戦争で必要とされた経費はすべて敗戦国が負担する、という原則が確立されます。それが、第1次世界大戦後のドイツに対するベルサイユ条約の賠償につながったことは明らかで、ケインズ卿が「平和の経済的帰結」で強く批判した点でもあります。p.86の表3-4で主要戦争の賠償金比較がなされていますが、GDP比で見て第1次世界大戦後の賠償額が突出して大きいことが読み取れます。また、同じ戦費の別の観点で、前近代の戦争については、戦費をまかなうための国債発行といういうイノベーションを編み出したイングランド銀行の設立をはじめとして、戦争や武力衝突のリスク回避のための為替送金の一般化など、金融面において戦争という非常時においても、金融や生産などの平時の経済活動を円滑に行うためのイノベーションがなされたこともよく理解できます。今では、ウクライナは暗号資産で一部の継戦資金を受け取っている、と本書では指摘しています。これも送金リスクの低減のためなのでしょう。また、本書では経済学の視点ですから指摘はありませんが、武器の開発などで技術力についても戦争が一定の役割を果たした可能性も否定できません。医学なんかもそうです。でも、やっぱり、経済学的な見地からはまったく合理性ないと考えるべきです。最後に繰り返しになりますが、経済書というよりは歴史書に近い読み物の印象です。「戦争というものは、軍人たちに任せておくには重要すぎる」と喝破したのは第1次世界大戦をフランスの勝利に導いた時のクレマンソー首相の言葉と伝えられていますが、まさに、そういった面がよく感じられる読書でした。

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次に、河西朝雄『Pythonによる「プログラミング的思考」入門』(技術評論社)を読みました。著者は、長野県の工業高校の教諭などを経て、現在はカサイ.ソフトウェアラボの代表だそうです。タイトルにある「プログラミング的思考」とは、本書冒頭で、「問題を解決するための方法や手順をプログラミングの概念に基づいて考えること」としています。まあ、表現を換えただけで同じことだという気はしますが、そこまで突き詰めて考えなくても直感的に理解しておくべきなのかもしれません。私の理解では、プログラミング言語を理解するとともに、そのプログラミングを基にアルゴリズムを考えることだという気がします。プログラミングはまさにアルゴリズムに乗っかって動くわけです。本書ではプログラミング的思考の5本柱として、① 流れ制御構造(組み合わせ)、② データ化、③ 抽象化と一般化、④ 分解とモジュール化、⑤ データ構造とアルゴリズム、を示しています。経済学であれば、一言で「モデル」と表現してしまうような気もします。ということで、これまたタイトルにあるように、本書ではプログラミング言語はPythonということになります。このところ、因果推論とともにPythonについても探求を試みていたのですが、ややムリそうな気配が濃厚となっています。それはともかく、前半の冒頭3章でPythonの文法、書法・技法、グラフィックスを取り上げた後、先ほどのプログラミング的思考の5本柱を第4章で解説し、後半の第5章から第8章が実践編となっています。各章ではプログラミングの実例を豊富に取り上げていて、まあ、私のようなシロートから見てもレベルがまちまちなのですが、第5章でプログラミングの簡単な例示、第6章で再帰的思考、第7章でアルゴリズム、最後の第8章でデータサイエンスに焦点を当てています。簡単なプログラム例としてはフィボナッチ数列があります。まあ、フィボナッチでなくても数列であれば簡単なアルゴリズムに乗せてプログラムできるとは思います。ベルヌーイ数なんて巨大な桁数になりますが、プログラムで作り出すのは難しくもありません。再帰的な解法、というか、応用ではグラフィックスが持ち出されています。まあ、判りやすいような気がします。第7章のアルゴリズムがもっとも重要で、テイラー展開やハノイの塔、戦略性あるゲームの必勝法などが出てきます。いずれもすごく判りやすいのでオススメです。最後に、少し前まで、再帰的(recursive)な解法と反復法(iterative)による解法は、ほぼほぼ同じながら、ビミョーな違いがあることを理解し始めました。自分に返って来る部分があるのが再帰的(recursive)な解法で、少しずつ条件を変えるとはいえ単純に繰り返すのが反復法(iterative)なのだということのようです。まあ、差は大きくない気がします。どうでもいいことながら、PythonではDo While文がないらしいのですが、私はループさせる際はfor文を多用するクセがあったりします。

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次に、佐藤主光『日本の財政』(中公新書)を読みました。著者は、一橋大学の研究者です。私は財政学や公共経済学の分野にそれなりに専門性があり、したがって、この著者の従来からの主張も見知っています。すなわち、現在の日本の財政赤字や公的債務の累増を大きなリスクと考え、財政再建により公的債務の安定化を目指そうとする財政タカ派の財務省路線の代表的な論客の1人です。かたや、私は真逆の政策スタンスで財政赤字や公的債務にはかなり無頓着で財政ハト派だったりします。ですから、昨年の紀要論文 "An Essay on Public Debt Sustainability: Why Japanese Government Does Not Go Bankrupt?" でも、基礎的財政収支の改善と低金利により日本の財政は十分サステイナブルである、と結論したりしていました。でも、黒字と低金利の2つのサステイナビリティ条件のうち、3月に日銀が金融引締めを始めたことにより、崩れる可能性が出てきています。すなわち、金利が成長率よりも高くなる可能性が十分にあるわけです。その意味で、本書で改めて財政タカ派の主張を確認しておきたいと考えました。ただ、従来、というか、ここ30年ほど大きな主張の変化は見られません。要するに、財政収支の悪化を食い止めるのが主目的であって、その目的は一向にハッキリしません。つまり、財政収支を均衡させるのは唯一の目標であって、ほぼほぼ自己目的化しているといえます。少なくとも金融タカ派は不況になった際の金利引下げののりしろ論なんてのを考え出しただけマシな気がします。ただ、財政タカ派の場合は「痛みを伴う改革」について日本人のそれなりの思い入れがあるものですから、支持を得やすい可能性があります。ということで、本書では冒頭でいきなり財政再建の方策として5つの対策を上げています。すなわち、① ワイズスペンディング、② 企業・産業の新陳代謝の促進と雇用の流動化、③ 消費税の大幅増税という税制改革、④ セーフティネットの構築、⑤ Pay-As-You-Go などの財政ルールの設定、となります。②がとても異質に見えるのですが、税収を上げるために成長促進する必要があり、その成長促進のためにこういった政策が必要、という理由です。私は財政再建できるのであればした方がいいと考える一方で、そのコストは現時点では高すぎる可能性があるように見えます。この経済学的なコスト-ベネフィット分析をすることなく、財政再建を自明の目的として、ひたすら財政再建を目指しているように見えるので財政タカ派の議論は少し違和感を覚えます。

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次に、小塩隆士『経済学の思考軸』(ちくま新書)を読みました。著者は、官庁エコノミストから早い段階で学界に転じていて、現在は一橋大学の研究者です。本書のサブタイトルは「効率か公平かのジレンマ」となっていて、トレード・オフの関係にある効率性と公平性のバランスを考えながら、ひいては、市場と社会保障の関係、あるいは経済と幸福、将来世代の経済的厚生まで幅広く論じています。あまりに幅広く論じていて、まさに経済学の論点をいっぱい取り込んでいるので、ここではサブタイトルにしがたって、効率と公平のジレンマないしトレードオフについて考えたいと思います。というのは、経済学における「効率と公平」の問題は、本書ではまったく意識されていないようですが、ある程度の部分まで政治学とか社会学における「自由と民主主義」の問題に通ずるものがあるからです。すなわち、効率と自由に親和性がある一方で、公平と民主主義には相通ずるものがあると考えるべきです。ですから、効率のためには自由を重視し、公平の確保には民主主義で対応すべきと私は考えています。自由と民主主義は一括されて「自由民主主義」という表現もあり、そういった政党も日本のみならず存在するわけですが、経済学における効率と公平のように、ジレンマがある可能性を指摘しておきたいと思います。あくまで効率や自由を重視するのであれば、たとえ大きくとも個人差というものを肯定して、経済学であれば生産性の差に従った処遇、というか、出来る人はできるようにご活躍願う必要があるのに対して、公平や民主主義ではそういった差をならしたり、あるいは、1人1票で参加を促したりする必要があります。少なくとも、効率を重視しすぎると公平が阻害される可能性は本書でも十分認識されているようですし、一般にもご同様だと思います。当然です。経済学的な見方から、効率的で生産性の高い特定の人物ないしグループが、例えば、所得という意味での購買力を平均よりも過大に持つようになれば、たとえそれが経済学的に根拠ある理由に基づくものであっても、公平の観点からは好ましくない可能性があります。ある程度の公平が確保されないと効率が阻害される可能性がある点も忘れるべきではありません。ですから、自由と民主主義において、「殺す自由」とか、「盗む自由」がないのと同じで、経済においても過剰な効率の重視は好ましくないと私は考えています。その昔にサプライ・チェーンと呼んだ複雑な分業体制が、現在では、グローバル・バリュー・チェーンと称されていますが、この複雑極まりない分業体制の中で民主的な公平性が確保されないと、チャイルド・レイバーやスウェットショップのようなものが分業体制に中に紛れ込む可能性が排除できません。特に経済学的には低コストでもって高効率と考えられる場合が少なくなく、効率がサステイナビリティに欠ける生産や消費につながりかねません。それが、市場の弱点のひとつだと思いますし、市場を分析する経済学の弱点でもあります。

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次に、玉野和志『町内会』(ちくま新書)を読みました。著者は、放送大学の研究者であり、ご専門は都市社会学・地域社会学だそうです。本書では、町内会という強制加入に近い地域団体が、本来は行政がやるべき業務を住民の好意に依存してやってもらい、その結果として生じかねないトラブルも行政として責任を取るわけでもなく、住民間の解決に委ねるという、行政から見て何とも都合のいい仕組みがなぜできあがったのか、を解明しようと試みています。私は、徳川期の五人組とか、戦中の隣組ではないかと思っていたのですが、そんな軽い単純な考えを吹き飛ばすような歴史的かつ学術的な分析がなされています。ただ、本書でも指摘しているように、戦後にGHQが戦争翼賛の観点から町内会を解散させた上で、サンフランシスコ平和条約によって独立を回復した後に復活したのも事実です。なお、町内会の学術的な定義はp.27に既存研究から引用されていて、本書では「地域共同管理に当たる住民組織」が肝と考えています。そして、この歴史的な解明とともに、本書では、日本の町内会は西洋における労働組合が果たしてきた自立や自治や参加促進などの役割を担ってきたのではないか、との仮説も提示しています。これはかなり斬新というか、GHQの見方からすれば真逆に近い見方ではないかという気がします。ただ、同時に、本書では行政の役割に分担という観点もあって、労働組合が果たしてきた役割と町内会では、かなり違うんではないかと、私は考えています。もっとも、終戦直後においてすら労働者の半分近くが農林水産業の第1次産業に従事していたわけであり、漁業権の設定とか、典型的には農村における入会地の管理といったような、最近の流行の言葉を使えば、コモンに関する業務は、行政から委託されるのではなく、自律的にこなしていた可能性が高いと私は感じています。自律的に担っていたとはいえ、結果的には行政の役割の分担をこなしていたのは事実かもしれません。そういった行政を補完するような役割は、本書でも指摘しているように、いまだに清掃やごみ収集の補助、あるいは、街灯の設置などでなくなってはいないものの、都市化の進展とともに大きく変化してきていることは確かです。その上、原則全員加入といえば、マンションの管理組合がマンション内ではその昔の町内会に代替する組織になっていて、これは明らかに全戸加入であり、マンション内の自治を有料で、というか、企業活動に住民が助力しつつ一端を担っていることは明らかです。そういった町内会も、あまりに過重な負担から担い手が少なくなり、活動水準を大きく低下させています。本書の最後では、町内会・自治会と市民団体を対比させて「水と油」と表現していますが、この先も、町内会の衰退は免れないのかもしれません。

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次に、成田奈緒子『中学受験の落とし穴』(ちくま新書)を読みました。著者は、子育て支援事業「子育て科学アクシス」代表であり、文教大学教育学部の研究者です。本書では、タイトル通りに、中学受験について考えていて、中学受験ですから小学生が受験するわけで、高校生の大学受験と違って親の影響力の強さがひとつの考慮するポイントとなります。実は、私自身も中学受験をして6年間一貫制の中学・高校に通いましたし、したがって、というか、何というか、倅2人もご同様です。いうまでもなく日本では中学校は義務教育であり、小学校から進学する先の中学校は住んでいる地区に従ってほぼほぼ自動的に決まります。ですから、その自動的に決まる中学校に通うか、あるいは、中学受験して異なる中学校に通うかの選択肢になるわけです。繰り返しになりますが、受験するのは小学生であり、自律的な判断ができる子どもがいる一方で、親の影響力も決して無視はできません。我が家の子どもたちの場合、父親の私が中学受験をして私立中学・高校に通っていた経験がある、という点とともに、当時住んでいたのが南青山という全国でも、というか、おそらく、都内でも有数の中学受験に熱心な地区だったこともあります。私の聞き及ぶ範囲では1/4から1/3くらいの児童が中学受験をするそうです。本書では著者の専門領域である脳の働きから中学受験を考えていて、からだの脳とこころの脳からなる1階部分の上の2階部分におりこうさんの脳が育まれると指摘しています。そして、このこころの脳とからだの脳とおりこうさんの脳の発達の観点から中学受験、さらには、中学受験を超えた範囲での子どもの発達が考えられています。詳細は本書を読んでいただくしかないのですが、もっとも私が肝の部分だと感じたのは、学校や塾では出来ず家庭でしか出来ない脳育てがあるという点です。これも読んでいただくしかないのですが、巷間いわれている点で常識的な範囲で、早寝早起きで朝食を取る、ということがあります。私なんかの時代の大学受験は睡眠時間を削ってでも勉強時間を確保するという考えがなくはなかったのですが、本書でも中学受験と大学受験は違うと指摘していますし、そういった生活リズムの確立は脳の発達が十分ではない小学生には重要なポイントであるのは理解できるところです。本書全体を通じて、やや中学受験のいわゆるハウツー本的な要素はありますし、そういった需要にも対応しているのかもしれませんが、脳の発達という観点から重要な点が指摘されてもいます。その点は評価できると思います。

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2024年7月 6日 (土)

今週の読書は夏休みの論文準備のための専門書3冊をはじめ計7冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、北尾早霧・砂川武貴・山田知明『定量的マクロ経済学と数値計算』(日本評論社)は、EBPMに基づく政策分析に欠かせない数値計算による定量的な経済分析の理論と実践について解説しています。林岳彦『はじめての因果推論』(岩波書店)は、因果推論の基本的考え方や方法などを取り上げています。金本拓『因果推論』(オーム社)は、ビジネスシーンでの因果推論の実践的な活用を目指し、Pythonのプログラム・コードや分析結果のアウトプットなども豊富に収録しています。今野敏『一夜』(新潮社)は、竜崎と伊丹を主人公とする「隠蔽捜査」シリーズの第10弾です。神奈川県警管内の誘拐事件と警視庁管内の殺人事件の謎が解き明かされます。中山七里『有罪、とAIは告げた』(小学館)は、「静おばあちゃん」シリーズの主人公の孫が東京地裁判事として、中国から提供された「法神」と名付けられ、裁判官の役割を果たすAIの運用と評価を命じられます。清水功哉『マイナス金利解除でどう変わる』(日経プレミアシリーズ)は、日経新聞のジャーナリストが引締めに転じた日銀の金融政策の影響につき、住宅ローンなどの身近な話題を基に取材結果を明らかにしています。相場英雄『マンモスの抜け殻』(文春文庫)は、北新宿の巨大団地にある老人介護施設のオーナーが殺された事件の謎が解明されます。夏休みの研究論文のために因果推論の分厚な本を3冊も読んだのですが、実は、今もって読んでいるPythonの入門書も含めて、どうも、不発に終わってしまいました。この夏休みの研究はどうしようかとこれから考えます。
ということで、今年の新刊書読書は1▲6月に160冊を読んでレビューし、7月に入って今週ポストする7冊を合わせて167冊となります。目標にしているわけでも何でもありませんが、年間300冊に達する勢いかもしれません。なお、Facebookやmixi、あるいは、経済書についてはAmazonのブックレビューなどでシェアする予定です。

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まず、北尾早霧・砂川武貴・山田知明『定量的マクロ経済学と数値計算』(日本評論社)を読みました。著者は、経済学の研究者であり、それぞれ所属は政策研究大学院大学、一橋大学、明治大学です。本書は、学部上級生レベルの経済学に関する基礎知識を前提に、おそらくは、修士論文に取り組む院生を対象にした学術書です。ですので、一般ビジネスパーソンは読みこなすのはハードルが高そうな気がします。ただ、プログラミングに興味ある向きは一読の価値あるかもしれません。巻末付録には本書で使用したプログラム・コードを収録したwebサイトが紹介されていて、MatLab、Python、Julia、R、Fortranのソースコードがダウンロードできます。本書ではマクロ経済分析だけでなく、EBPMに基づく政策分析に欠かせない数値計算による定量的な経済分析の理論と実践について明らかにしています。本書は2部から構成されていて、第Ⅰ部の基礎編では数値計算の基礎的な理論を展開し、動学的計画法や時間反復法について解説しています。第Ⅱ部の応用編ではより実践的な数値計算の方法を議論し、代表的個人ではなくビューリー・モデルに基づく異質な個人を導入した格差分析、世代重複(OLG)モデルによる世代間の異質性の導入、時間反復法を応用し金利のゼロ制約を考慮したニューケインジアン・モデルによる最適コミットメント政策の評価、また、ビューリー・モデルを拡張した数値計算のフロンティアなどを取り上げています。私の理解なので間違っているかもしれませんが、本書のテーマであるマクロ経済学の数値計算とは、基本的に、時系列に沿ったマクロ変数、GDPとか、物価とか、金利とかの変化を相互の関係を微分法適式で表した上で、シミュレーションにより分析・解析しようと試みる学問領域です。もっとも、本書では「シミュレーション」という用語は出てきません。ほぼほぼ同じような使い方で、再帰的(ricursive)あるいは反復的(itarative)な解法、ということになります。すなわち、経済学をはじめとして多くの科学におけるモデルは数学的な表現として、各変数の関係を微分方程式体系で表します。しかしながら、中学校の連立方程式とは違って、その微分方程式体系を解析的に、すなわち、式のままエレガントに解くことがほぼほぼ不可能なわけです。その昔の大学生だったころ、微分方程式を解こうと思えばベルヌーイ型に持ち込む、といったテクニックがありましたが、宇宙物理学の数々の天体の運行とか、マクロ経済学の経済成長と失業率と物価の変動とかは、式のままでは絶対といっていいほど解けないわけです。特に、経済学の場合は時系列変数で時間の流れとともにGDPや失業率や物価指数が変動します。ですから、再帰的に数値を当てはめてたり、繰返し法により反復的に解くことになります。厳密には違うのかもしれませんが、モデルをシミュレーションするわけです。経済学では、その昔の1940年代にクライン-ゴールドバーガー型のモデルがケインズ経済学的な基礎による計量経済モデルとして提唱され、ガウス-ザイデル法を用いて解いていたりしたわけです。そういったマクロ経済学における数値計算についての計量経済学の学術書です。最後に感想として、私は1980年代終わりのバブル経済期まっ盛りのころに米国の首都ワシントンDCで連邦準備制度理事会(FED)に派遣され、クライン-ゴールドバーガー型の計量経済モデルをTrollでシミュレーションしていたついでに、BASICを勉強した記憶があるのですが、本書の付録のプログラム・コードにはBASICのソース・コードはありません。Fortranがまだ生き残っている一方で、BASICのコードが提供されていないのは少しばかりショックでした。PythonとかRはフリーで提供されている上に、その昔にサブルーチンとよんでいたライブラリなんかが豊富にあって便利なのかもしれません。まあ、計量経済学の初歩的なアプリケーションであるEViewsやSTATAがないのは理解できるのですが...

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次に、林岳彦『はじめての因果推論』(岩波書店)を読みました。著者は、国立環境研究所の研究者です。タイトルから本書を初心者向けの入門書だと思いがちですが、私のレベルが低いだけかもしれないものの、あまり初心者向きともいえません。そもそも、因果推論そのものが学問的にそれほど容易に理解されているわけではありませんし、本書を読み進むには、それなりの科学的な素養を必要とします。また、バックグラウンドのお話であって、特に、明示はされていませんが、因果推論のためのプログラムはRでエンコードされているように私は感じました。本書は3部構成であり、第Ⅰ部では因果推論の基本的な考え方の理解を進めるべく工夫されています。DAG=Direct Acyclic Graphによって因果の方向を直感的に確認するとともに、処置変数と結果変数の両方に影響するような要因のないバックドア基準を満たす変数セットを取る必要性が強調されます。第Ⅱ部では因果効果の推定方法につき解説されています。共変量を用いた識別、傾向スコア法によるマッチング、さらに、共変量による調整ができない際に用いる差の差分析(DiD)や回帰不連続デザイン(RDD)、また、操作変数(IV)法や媒介変数法などが取り上げられています。そして、最後の第Ⅲ部では因果効果が何を意味して、逆に、何を意味していないのかについて解説を加えています。経済学の範囲でいえば、EBPMによる何らかの政策効果の実証のためには、本書p.233でもエビデンス・ヒエラルキーが示されていますが、最上位のもっとも強力な因果関係を確認するための方法はランダム化比較試験(RCT)のメタアナリシスです。それに続いて、少なくとも1回あるいはそれ以上のRCT、さらに、ランダム化されていない準試験、すなわち、本書の範囲内でいえば、自然実験や差の差分析、そして、観察研究としては回帰分析やコーホート研究があり、最後の方ではケーススタディなどの記述的研究となります。しかし、従来から十分自覚しているように、私は因果関係を重視するタイプのエコノミストではありません。経済データを用いた実証的な研究はもちろんやりますが、時系列分析に取り組む場合も少なくありません。GDPでも、失業率でも、物価でも、univariate=単変数で時の流れとともに確率的に変化・変動すると考えることも可能です。本書でも、因果関係と相関関係を識別することの重要性を強調していますが、因果関係とはそれほど単純なものではありません。少なくとも、一方向=unilateralな因果関係だけが存在するわけではなく、双方向=bilateralな因果関係もあれば、多角的=multilateralな因果関係すらあると考えるべきです。私がよく持ち出す例は、喫煙と肥満と低所得の3要因です。この3要因は複雑に絡み合って、お互いに因果関係を形成している気がしてなりません。もちろん、適切な分析目的に合致したモデルを構築して数量分析すれば、それなりの因果関係は抽出できる可能性が十分ありますが、そうなると、モデルの識別性にも立ち入った考察が必要になると私は考えます。もうそうなると、果てしない確認作業が必要です。そのあたりは、漠然と因果の連鎖、あるいは、ループで考えるのも一案ではないか、と私は考えています。また、論理的な因果関係があるにもかかわらず、無相関という稀なケースもあります。すなわち、人間の場合なら、統計的に、性行為と妊娠はほぼほぼ無相関です。しかし、性行為が原因となって妊娠という結果をもたらすことは中学生なら知っていることと思います。ビッグデータの時代には相関関係で十分であり、因果関係の必要性が薄れた、という議論も聞かれます。でも、エコノミストにとってはEBPMの要請は極めて強く、因果推論はこれからも必要になりそうな気がします。

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次に、金本拓『因果推論』(オーム社)を読みました。著者は、コンサルティング会社を経て現在は製薬会社にてご勤務だそうです。本書はかなり実践的な内容で、Pythonのプログラム・コードや分析結果のアウトプットなども豊富に収録しています。加えて、因果推論の中でも、ほぼほぼ経済や経営に関する分野に限定していて、純粋理論的な解説は数式の展開でなされている一方で、自然科学はほぼ含まれておらず、アルゴリズムの樹形図も数多く示されています。因果推論を経済・経営のex-anteな意思決定やex-postな評価に用いるという考えかもしれません。たただ、Pythonのプログラム・コードが示されているということは、本書冒頭でも明示しているように、基本的なPythonのコードの理解を有している必要があります。もっとも、私はBASICだけでPythonのプログラムを組んだ経験はありませんが、ある程度の理解は可能でした。逆にいえば、それほどPythonに関して深い理解を必要としているわけではありません。ということで、本書では冒頭第1章の次の第2章と第3章で因果推論の基礎理論や手法を展開しています。もちろん、第3章の手法の中には因果推論で多用される傾向スコア法、回帰不連続デザイン(RDD)、操作変数(IV)法、差の差分析(DiD)、といったところが網羅されています。そういった理論や手法の後、単なる因果推論だけではなく、さらに派生して機械学習を第4章で取り上げ、第5章では因果推論と機械学習の融合による因果的意思決定を議論しています。これも因果推論によく用いられるCausal Forestなんかはこの第5章で取り上げられています。機械学習まで範囲を広げるとは、私はちょっとびっくりしました。また、第6章ではセンシティビティ・アナリシス=感度分析を取り上げ、機械学習による感度分析の実行手順まで示しています。そして、私が特に興味を持ったのは第7章であり、因果推論のための時系列分析に焦点を当てています。因果推論では状態空間表現を用いることが少なくありませんが、本書第7章ではそこまで複雑な表現は多用されておらず、季節変動、トレンド、外因性変動、異なる時点での自己相関などの時系列解析の概要を説明した後、データの準備から始まって、検証から将来予測までを解説しています。最後の第8章では因果関係の構造をデータから推計する因果探索について取り上げています。時間整合的なものと時間に関する先行性を考慮した時系列モデルも解説されています。全体として、繰り返しになりますが、数式などで基礎理論の解説は十分なされている一方で、Pythonコードやアウトプットが幅広く示されていて実践的な印象です。感覚的に理解できる概念図やグラフも豊富に収録されていて、因果推論の各ステップが明示されているので理解がはかどります。特に、DAG=Direct Acyclic Graphをいちいちチェックするように各ステップが組み立てられており、関係性の確認が容易にできるように工夫されています。Pythonにはライブラリがいっぱい用意されていて、因果推論などには実践的に便利そうだという気がしました。私もBASICだけではなくPythonにもプログラミングを拡張しますかね、という気になってしまいました。

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次に、今野敏『一夜』(新潮社)を読みました。著者は、警察ものを得意とするミステリ作家であり、本書は幼なじみでともに警察庁キャリアの竜崎伸也と伊丹俊太郎です。竜崎は神奈川県警刑事部長、伊丹は警視庁刑事部長です。本書はこの2人を主人公、というか、主人公はたぶん竜崎ですが、この2人が登場する「隠蔽捜査」シリーズの第10弾と位置づけられています。ちなみに、出版社では特設サイトを解説しています。ということで、竜崎の管轄内である小田原で有名作家の北上輝記が行方不明との一報が舞い込みます。そこに、北上の友人で、同じく作家の梅林賢が面会を申し込み、誘拐とは断定されていない段階で誘拐ではないかと指摘します。なお、北上輝記は純文学作家、梅林賢はミステリを得意とするエンタメ作家で、神奈川県警の佐藤本部長は北上のファン、伊丹が梅林のファンだったりしますが、主人公の竜崎は小説を読まず、2人の作家を知りもしません。それはともかく、梅林は実に理論的に北上が単なる行方不明なのではなく、誘拐であると指摘します。そして、捜査への協力を示唆し、竜崎も参考意見としてミステリ作家の意見を聞くというオープンな態度を示します。他方、伊丹の警視庁管内では警備員が殺害されるという事件が発生していました。この誘拐事件の自動車の走行ルートが警備員殺害事件の現場に近接していることから、伊丹が神奈川に乗り込んできたりします。他方で、竜崎の家庭内でも問題が発生します。息子の邦彦が留学先のポーランドから帰国したのはいいのですが、せっかく入った東大を中退して、かねてからの希望であった映画製作の道に進むといい出します。ミステリですので、あらすじはここまでとします。まあ、小田原に端を発する有名作家の北上の誘拐と警視庁管内における警備員殺害が何らかのリンクを有していることは容易に想像される通りです。エンタメのミステリですので、詳細は言及しませんが、有名作家の誘拐事件の解決、警備員殺害事件の解明、さらに、邦彦の東大中退騒動の決着、と読みどころ、読ませどころが3点あるわけです。最後に、この「隠蔽捜査」シリーズはミステリとしての謎解きとともに、竜崎の非伝統的ながら合理的極まりないマネジメント能力の発揮も読ませどころなのですが、シリーズ第10弾の本作品にして、どちらもほぼほぼ最低レベルに落ちています。ミステリとしての謎解きは、別段、何の面白みも意外性もなく終わってしまいます。竜崎のマネジメントも、ミステリ作家の意見を聞くという非伝統的なやり方は目につく一方で、いつものキレはありません。ただ、さすがによく考えられた表現力、リーダブルな文章でスラスラと読み進めます。やっぱり、大森署のころのヒール役だった第2方面本部管理官の野間崎とか、大森署の刑事だった戸髙なんかの竜崎周辺にいるキャラの立った脇役がゴッソリと抜けると、こんな感じなのか、と受け止めています。脇役として、竜崎・伊丹の同期でハンモックナンバー1番の八島は本作品にも登場しますが、野間崎のようなヒール役としての登場ではありませんし、戸髙の役割を担う人物は私にはまだ見えません。

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次に、中山七里『有罪、とAIは告げた』(小学館)を読みました。著者は、多作なミステリ作家です。この作品もミステリであり、主人公は東京地裁の新人裁判官である高遠寺円です。姓から容易に想像される通り、同じ作家の「静おばあちゃん」シリーズの主人公で、日本で20人目の女性裁判官であった高遠寺静の孫に当たります。作品中では伝説となっている高遠寺静はすでに退官どころか、亡くなっています。当然です。高遠寺円は「静おばあちゃん」シリーズの初期の作品では、法律を学ぶ20歳前後の大学生であったと記憶していますが、司法試験に合格し判事任官しているようです。ということで、主人公は日々多忙な業務に追われていたところ、東京高裁総括判事の寺脇に呼び出され、AI先進国である中国から提供された「法神」と名付けられ、裁判官の役割を果たすAIの運用と評価を命じられます。地裁判事を高裁総括判事が呼び出して業務を指揮命令するのは、裁判官の世界だけに私はちょっと違和感を覚えるのですが、それはさておいて、「法神」を実際に運用すると、現場でとても重宝されます。実績としてすでに出されている過去の裁判記録をインプットすると、「法神」は一瞬にして判決文を作成してしまいます。それも、裁判官の持つ何らかのバイアスまで克明に再現した判決文を提供してくれます。そこに、主人公の高遠寺円は18歳の少年が父親を刺殺した事件を陪席裁判官として担当することになります。18歳という年齢、失業していた父親の行動などを勘案した犯行様態などから、裁判官として判断の難しい裁判が予想されます。しかも、東京地裁で裁判長を務めるベテラン判事は厳罰主義で臨む裁判官として知られています。裁判員裁判において、裁判長のベテラン判事は、自分の判決の傾向をインプットした「法神」の判断結果を裁判員に対して開示するというトリッキーなやり方で、裁判員にバイアスをかけようと試みます。といったあらすじでストーリーが進むのですが、繰り返しになりますが、この作品はミステリです。謎解きが含まれています、というか、重要な構成要素となります。ですので、あらすじはここまでとします。昨年2023年の東大の第96回五月祭では「AI法廷の模擬裁判」と題して、ChatGPT-4を裁判官役とする模擬裁判のイベントが開かれ、いくつかのメディアの注目を集めました。ですので、近い将来にこのような裁判が実行される可能性も否定できません。ただ、現時点では作者の取材が十分であったかどうかという点も含めて、やや消化不良の部分が残る作品と私は受け止めました。まず、AI裁判官たる「法神」を提供するのが中国というのがあざといです。その上、売込みに来る中国人も怪しげでうさんくさい人物です。ミステリとしての謎解きもありきたりで意外感はありません。AI裁判とか、AI裁判官、というものを一般国民が想像すれば、こんな感じ、という最大公約数的なストーリーやラストになっています。小説としてもいわゆる「生煮え」の部分が少なくなく、繰り返しになりますが、消化不良を起こしかねない作品です。まさか、読者のレベルを過小評価しているわけではないでしょうから、もう少し専門的な知識を調べて書いて欲しかった気がします。

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次に、清水功哉『マイナス金利解除でどう変わる』(日経プレミアシリーズ)を読みました。著者は、日本経済新聞のジャーナリストです。ですので、日銀による金融引締め、金利引上げ、あるいは、マイナス金利解除などは大賛成というメディアのジャーナリストで、タイトルのマイナス金利解除をはじめ、金利引上げなどの金融引締めを歓迎し、日銀に対する提灯本となっています。序章では私なんかがどうでもいいと考えている金融引締めへの転換を決めた時期について、どうして4月ではなく3月だったのかの解説から始まっています。私は本書の解説よりは、政府との関係であったのだろうと考えています。すなわち、その昔は予算案審議中の公定歩合操作は行わない、という不文律がありました。金利が変更されると予算の組替えが必要になる場合があるからです。しかし、1998年の日銀法改正から日銀の独立性が強化された一方で、今回の異次元緩和の終了、金融引締めへの転換などなどは政府の意向を大いに忖度した金融政策変更であったと考えるべきです。というか、そういった政府の意向を受けた総裁人事に基づく政策変更であったことは明らかです。政府の意向に基づく金融引締めという色彩を減じるための予算案審議中の金融政策変更ではなかったか、と私は勘ぐっています。その序章を受けて、第1章では、金融政策の引締めへの転換の内容をジャーナリストらしく解説しています。特に、ETF購入による株価の下支えを終了し、▲2%の株価下落に対応する「2%ルール」も終了するなどの株価への影響を詳述しているのが印象的です。この株式市場と対峙した日銀の金融政策については第4章でさらに詳しく掘り下げられています。今世紀に入ってからくらいの四半世紀の金融政策の歴史を振り返り、旧来の日銀理論に立脚して「金融政策の限界」を強調しています。第2章では、日銀による追加的な利上げについて、いつになるかの時点、判断要素、取りあえずは25ベーシスの引上げとしても、結局のところ、どの水準まで引き上げるのか、などなどを考えています。第3章では、一般国民の関心の高い住宅ローンへの対応を中心に、家計が取るべき対応に着目しています。このあたりは読んでいただくしかありません。第4章はすでに書いたように、日銀と株式市場との関係を考えており、第5章は、現在進行形のインフレの要因などを分析しようと試みていますが、むしろ、デフレからインフレへの転換で必要な対応策、というか、資産運用について考えています。つねに、資産運用に関するジャーナリストや専門家のアドバイスには眉に唾をつけて見る癖のある私にはそれほどのものとも思えませんでした。

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次に、相場英雄『マンモスの抜け殻』(文春文庫)を読みました。著者は、社会派ミステリ作家です。本書は2021年コロナまっ最中の作品でしたが、このほど文庫本で出ましたので読んでみました。ということで、主人公はこの巨大団地で少年時代を過ごした警視庁刑事の仲村勝也です。そして、この巨大団地で老人介護施設のオーナーで、ほど近い歌舞伎町の顔役でもある老人の藤原光輝が団地の上階から転落死します。防犯カメラの画像から、被害者に最後に接触したのは美人投資家で知られる松島環で、また、被害者の藤原光輝が経営する老人介護施設で働く石井尚人も捜査線上に浮かびます。そして、この松島環と石井尚人は、ともに、同じ団地で少年少女時代を過ごした仲村勝也の幼なじみであり、仲村勝也は彼らの無実を信じて操作を続けます。ということで、ミステリですのであらすじはここまでとします。タイトルにある「マンモス」というのは大規模な集合住宅、有り体にいえば団地のことであり、作中の「富丘団地」とは、明らかに新宿区の戸山団地です。私が3年近く勤務していた総務省統計局から大久保通りをはさんで斜向かいに広がっていました。その巨大団地が団塊の世代の高齢化をはじめ、団地内に老人介護施設が出来るほどの高齢化の時代を迎えています。ただ、こういった新宿近くの都心の団地だけでなく、多摩ニュータウンなどの戦後早い段階で開発された住宅地は一気に高齢化が進んでいることは事実です。そして、本書ではそういった老人介護施設の闇の部分が大きくクローズアップされています。老人介護施設ではなく障がい者施設ではありますが、「恵」が運営している障害者グループホームで食材費の過大請求などが発覚し、事業所としての指定取消しなどの処分が講じられたことは広く報じられ、情報に接した読者も多いと思います。でも、本書に登場する老人介護施設もものすごい闇の部分を持っています。その闇の部分に主人公の幼なじみであり、容疑者にも目されている石井尚人も巻き込まれていたりします。同時に、事件とは直接関係ないながら、主人公の仲村勝也の母親が独居していて、少し認知症の症状が出はじめ、主人公の妻が義理の母親の世話で精神的にも肉体的にも大きな疲労が蓄積している点も小説に盛り込まれています。本書は、ミステリというカテゴリーとしては、それほど凝った内容ではないかもしれませんが、高齢者介護の実態をフィクションとして描き出し、社会派ミステリとして読み応えある内容に仕上がっています。

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