今週の読書は芥川賞受賞作を含めて計7冊かな?
今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、軽部健介『人事と権力』(岩波書店)では、内閣が日銀の総裁・副総裁や政策委員の任命という人事をテコとして、中央銀行の独立を無意味にしたり、金融政策を歪めたりといった可能性について、ジャーナリストの視点からの考察しています。ただ、国民主権の観点から私は疑問を感じました。鳥山まこと『時の家』(講談社)は、第174回芥川賞受賞作品であり、30代半ばの男性が『売物件』と掲示された家に忍び込んで、その家を中心に人々の暮らしや何やを描写しています。ストーリー全体としてタイムスパンは長いのですが、各センテンスはとても短くテンポよくなっています。畠山丑雄『叫び』(新潮社)は、第174回芥川賞受賞作品であり、30歳を過ぎた地方公務員の主人公が結婚を考えていたお相手に振られて、自暴自棄になって金遣いが荒くなったところで、銅鐸作りの先生に出会い銅鐸にのめり込みます。関西言葉の会話のテンポがいい作品です。山口二郎『現代ファシズム論』(朝日新書)では、戦後民主主義の危機の時代にあって、21世紀の現代型のファシズムをフェイク=虚偽をフルに活用した「フェイクファシズム」として捉え、米国トランプ政権がファシズムであるかどうかを運動、思想、体制の3つの観点から分析しています。橋本努・金澤悠介『新しいリベラル』(ちくま新書)では、従来型のリベラルが弱者救済型の福祉政策や高齢者への支援を重視するのに対して、新しいリベラルは成長支援型の福祉政策を支持し、子育てや世代や次世代への支援を重視するのではないか、との仮説から、その特徴を把握しようと試みています。エルモア・レナード『ビッグ・バウンス』(新潮文庫)は、1960年代の米国5大湖周辺を舞台に、流れ者=季節労働者として農園で働く主人公が、その農園の社長の愛人である10代の若くて奔放な女性と出会って引かれて行き、農園労働者の給料を盗む計画を持ちかけられる、というノワールな小説です。葉室麟『螢草』(文春文庫)では、16歳の主人公の菜々が風早家に女中奉公に上がり、身分の分け隔てなく接してくれる主人、優しい奥方様や2人の可愛い子供たちに囲まれますが、奥方様は結核で亡くなり、藩政改革派の主人も卑劣な謀略に嵌められます。菜々は周囲に助けられながら風早家の2人の子どもを守って孤軍奮闘します。
今年2026年の新刊書読書は、1月中に24冊、2月に25冊、今週の7冊を加えて合計56冊となります。また、本日取り上げた新刊書読書のほかに、井上真偽『ぎんなみ商店街の事件簿』Sister編とBrother編(小学館)も読んでいます。ただ、新刊書ではないので、本日のレビューには含めず、すでにいくつかのSNSにポストしてあります。残る読書感想文についても、できる限り、FacebookやX(昔のツイッタ)、あるいは、mixi、mixi2などでシェアしたいと予定しています。
まず、軽部健介『人事と権力』(岩波書店)を読みました。著者は、帝京大学経済学部教授なのですが、時事通信社に長らくお勤めのジャーナリストです。本書のタイトルは大きく出ていますが、実は、日銀総裁の任命をめぐる問題点を議論しています。時期的には、1998年の新しい日銀法の制定の直前、すなわち、新日銀法の企画立案のころから始まっています。新日銀法により、日銀は中央銀行として世界標準の独立を果たしたものの、人事で日銀の金融政策が歪められた可能性はないのか、すなわち、総裁や政策委員の任命は国会の同意のもとに内閣によって行われることから、内閣が、あるいは、首相が総裁・副総裁や政策委員の任命という人事を通じて日銀の独立を実体的に無意味にするような支配力を行使しているのではないか、という問題意識からファクトを積み重ねています。特に、アベノミクス期の安倍首相がリフレ派のエコノミストを日銀に送り込んで、金融政策に対する大きな影響力を持っていたのではないか、という疑問を解明しようと試みています。ただし、私の考えでは、中央銀行とて民主主義国家では民主主義的な統治の下にあります。当然です。他方、本書で1回も登場しない国民主権が民主主義の大きな原則です。ですから、中央銀行は政府から独立しているとしても、国民主権を離れて経済社会や国民生活から独立しているわけではありません。その国民主権によるチェック・アンド・バランスとして、国会の同意と内閣の任命という行為があるのだろうと私は考えています。本書が、中央銀行の独立というのは、あくまで、政府からの独立である点を認識しているのかどうか、読んでいて、私は少し疑問を感じました。まさか、中央銀行が国民主権からも独立して、あくまで専門家として行動すべき、と考えているとは思わないのですが、中央銀行というインナーサークルが主権者たる国民からのチェックを受けずに、あまりに国民生活を考慮することなくデフレに陥ったために国民生活が犠牲になった、というのが一面の真理ではないだろうかと私は考えています。本書で言及されている「オーソドックスな人事」の基礎の下に、金融政策は国民生活からも独立して、日銀エリートだけが関与する、というのは明らかに民主主義国家の中央銀行として誤った道だと私は考えます。例えば、かつては日銀エリートは「岩石理論」を振り回してリフレ派理論を否定していたのですが、今では「岩石理論」なんて恥ずかしくて、誰も口にしないと思います。はい、本書でいう中央銀行の独立のもとで日銀エリートが政策判断を間違った、という観点は本書ではとても希薄に感じます。米国の連邦準備制度理事会はいわゆるデュアル・マンデートで物価と雇用の両睨みですが、日銀は他の中央銀行と同じで物価安定がもっとも重要な金融政策目標です。そこに、1990年代初頭のバブル崩壊から「羹に懲りて膾を吹く」教訓を得て、バブルを回避すればバブル崩壊は起こらない、という誤った使命感からデフレに陥った面があると私は考えています。ですので、デフレに陥ることがなければ、それほどリフレ派に頼った政策変更を必要としなかったように感じています。逆から見て、アベノミクス前の日銀が金融政策運営を失敗してデフレになったので、その反動も含めてアベノミクスで強引なリフレ政策が持ち込まれた、というのが私の理解です。そのあたりは、どちらの面を見るかで違ってくるのだろうと思いますが、本書の視点は逆に反リフレ派的な印象を持つのは私だけではないと感じます。最後に、私が本書を読もうと考えた内幕を明かすと、本書は2年前の出版であり、それほど新刊という気はしないのですが、先月2月に高市内閣が日銀政策委員の新規候補者2人を国会に提示した、しかも、2人ともリフレ派エコノミストである、というニュースに接して、読み逃していた本書を手に取った次第です。
次に、鳥山まこと『時の家』(講談社)を読みました。著者は、小説家であり、京都府立大学から九州大学大学院を終えており、ご専門は建築のようです。本作品は第174回芥川賞受賞作品です。一応、お断りですが、表紙画像は単行本のバージョンを引用していますが、私は『文藝春秋』2026年3月特別号にて、選評や受賞者インタビューとともに読んでいます。ですので、単行本の読者よりは、ある意味で、情報は豊富かと考えています。ということで、まず、主人公はタイトル通りに家なんだろうと思います。冒頭、30代半ばの男性が『売物件』と掲示された家に忍び込んで、その家を中心に人々の暮らしや何やを描写しています。ストーリー全体としてはタイムスパンも長くて、決して短文ではないのですが、各センテンスはとても短くしてあります。テンポがよくなっています。私なんかが大学や大学院で論文指導をする場合に、「一文一義」という原則を最初に教えます。そういった短いセンテンスの文章が続きます。ただ、取壊しの際の描写にはセンテンスが長くなり、取壊しが終わるとまた短いセンテンスに戻ります。このあたりは意識して書いたのであれば素晴らしい技巧ですし、無意識にそうなったというのであっても素晴らしい文章センスだと感じました。ただ、短いセンテンスにしては前半はモッチャリした描写が続きます。吉田修一の選評によれば、立ち上がりが遅い、暖房器具だったら風邪をひく、と表現されています。ただし、逆にそのペースに慣れれば段々とストーリーにのめり込む読者もいそうです。
次に、畠山丑雄『叫び』(新潮社)を読みました。著者は、小説家であり、京都大学文学部のご出身です。本作品は第174回芥川賞受賞作品です。一応、お断りですが、表紙画像は単行本のバージョンを引用していますが、私は『文藝春秋』2026年3月特別号にて、選評や受賞者インタビューとともに読んでいます。ですので、単行本の読者よりは、ある意味で、情報は豊富かと考えています。ということで、まず、舞台は大阪府茨木市です。我が立命館大学は茨木にもキャンパスがあって、私は何度も授業に通ったことがあります。でも、それほど土地勘はありません。それはともかく、主人公は30歳を過ぎた地方公務員らしいのですが、結婚を考えたお相手がいて、両者の中間地点の茨城に引越してまでしたのですが、そのお相手に振られて、自暴自棄になって金遣いが荒くなったところで、銅鐸作りの先生に出会い銅鐸にのめり込みます。ストーリーもさることながら、関西言葉での会話のテンポがいいです。かつての川上未映子の芥川賞受賞作「乳と卵」のようでした。ただ、それは私が関西出身だからという面がある可能性は否定しません。ですから、島田雅彦の選評では、読者の東西の出身によって評価が分かれる可能性が指摘されています。すなわち、関西出身者には高く評価されそうだ、という指摘です。もうひとつ、小説の重要な要素に「聖」があります。社会福祉によって「聖」を支える必要性については、私自身も「聖」のスコープをもう少し芸術くらいまで広げて賛成です。最後の最後に、山田詠美の選評に私が激しく同意するのは、最後のエピローグがまったく不要、という点です。
次に、山口二郎『現代ファシズム論』(朝日新書)を読みました。著者は、長らく北海道大学の教授だと私は思っていたのですが、今は法政大学法学部の教授だそうです。前世紀ながら社会党の村山内閣のブレーンだったり、今世紀初頭には政権交代した後の民主党の鳩山内閣などのブレーンであったと私は認識しています。本書では、タイトル通り、約100年前の戦間期のイタリアやドイツのファシズムではなく、現在の21世紀における民主主義の危機を現代型のファシズムという観点から分析しようと試みています。ただ、その前提として、戦間期ファシズムの成立の3条件を上げています。すなわち、第1に、民主主義の宿命ですが、民主主義を否定する勢力の拡張です。ロシアで成立した共産党政権とか、イタリア・ドイツのファシズム政党などを上げています。第2に、オルテガ・イ・ガセットの論点で、普通選挙制による民主主義を担う市民層の拡大により、それまで所得や資産の裏付けのある教養や公共的な精神を持った市民だけではなく、自己の利益を追求するグループも参加を拡大した点です。第3に、1929年から始まる世界恐慌と経済危機により、合理的に判断できる基盤を失った市民が少なくありませんでした。加えて、ウンベルト・エーコ『永遠のファシズム』からファシズムを構成する14の要素をpp.15-16に列挙しています。その上で、戦後から1970年代くらいまでは安定した経済成長とともに民主主義が機能していた一方で、1980年代から新自由主義的な経済政策運営とともに民主主義が怪しくなり、21世紀に入り、特に、2016年の英国のいわゆるBREGXITや米国でのトランプ大統領を選出した大統領選挙あたりに象徴されるように、民主主義が危機に陥った、と指摘しています。そして、その21世紀の民主主義の危機の背景としてグローバル化への反発、SNSをはじめとする情報やコミュニケーションの変化を上げています。経済面では、新自由主義的経済政策とともに、まるで営利企業を経営するような国家運営が始まり、国家が政権権力者の家産国家化した、との結論を導いています。要するに、トランプ大統領に対して "No King" とのプラカードを持ったデモがあったように私は記憶していますが、国家が権力者の私物になって、権力さえあれば、嘘をついても不法行為をしても、何でも許されるという日本でも安倍内閣から菅内閣のころに見られた国家観が示されています。そして、慶応義塾大学の金子勝教授の著書のタイトルを借りて、フェイク=虚偽をフルに活用したファシズムという意味で、現代型のファシズムを『フェイクファシズム』と読んでいます。また、第6章では米国のトランプ政権を運動、思想、体制の3つの観点からファシズムであるかどうかについて短い考察を提供しています。トランプ政権の分析とそれに続く左派勢力のファシズムへの対抗などについては、読んでみてのお楽しみです。最後に、私自身はこの著者に対して、一定の親近感は持っているものの、それほど強い思い入れはありません。1980年代だったと思いますが、強烈に小選挙区制を推奨していましたし、かつ、村山内閣の成立時に当時の社会党に安保や自衛隊に関して、いわゆる「現実路線」を主導したりと、なし崩し的な左派勢力の右傾化を進めてきたような印象もあります。したがって、本書に関してもいわゆる「左からの批判」が出る可能性があると認識しています。はい、期待しているのではなく、予想しているだけです。
次に、橋本努・金澤悠介『新しいリベラル』(ちくま新書)を読みました。著者は順に、北海道大学大学院経済学研究科教授とシノドス国際社会動向研究所所長、および、立命館大学産業社会学部現代社会学科教授だそうです。まず、本書ではリベラル派の衰退について事実関係を示しています。はい、その通りだと思います。本書のスコープを超えて、先月2月の総選挙でも立憲民主党が公明党に取り込まれて新党を結成した上で選挙でも大敗した、という事実は隠しようがありません。そういったリベラルの衰退を考える際に、本書ではかつての保守vs革新、という構図からの変化を基に、実は、旧来リベラルではなく、本書のタイトルになっている新しいリベラルはそれほど衰退していない可能性がある、という主張を数千人規模の社会調査に基づいて検証しようと試みています。その新しいリベラルの特徴として、3点上げています。すなわち、(1) 旧来リベラルの弱者保護ではなく、成長支援型の社会福祉、(2) 従来の高齢世代支援ではなく、子育て世代や将来世代への支援、(3) 新しいリベラルは反戦護憲などの戦後民主主義的な論点には強くコミットしない、ということになります。そして、社会調査結果の分析に先立って、新しいリベラルの理論的背景をなす4つの潮流を考えます。第1に、1990年代の英国労働党のブレア政権の理論的基礎となったギデンズの『第3の道』、第2に、エスピン-アンデルセンの『福祉資本主義の三つの世界』、第3に、ベッラメンディの『先進的資本主義の政治』、そして、第4に、マッツカートの『ミッション・エコノミー』です。一応、私はエコノミストですので『ミッション・エコノミー』は読みましたし、『第3の道』と『福祉資本主義の三つの世界』の2冊は大雑把に内容を把握していますが、『先進的資本主義の政治』についてはよく知りませんでした。その理論的解明の上で、社会調査結果から日本における6グループを抽出しています。すなわち、新しいリベラルのほか、従来型リベラル、成長型中道、政治的無関心、福祉型保守、市場型保守、となります。それぞれが占めるシェアや特徴などはp.240表6-4に簡単に取りまとめられており、その後に詳細な分析結果が続きます。そのあたりは読んでみてのお楽しみです。最後に、私自身の政治経済的な傾向は、おそらく、新しいリベラルと従来型リベラルの間のどこかにあるような気がします。
次に、エルモア・レナード『ビッグ・バウンス』(新潮文庫)を読みました。著者は、米国の小説家であり、カウボーイたちの西部小説から本作品で現代ノワール小説に転じています。舞台は米国の5大湖周辺のリゾート地ジェニーヴァ・ビーチで、主人公はジャック・ライアンです。かつてはマイナーリーグの野球選手をしていたこともありますが、現在は流れ者=季節労働者として、ピクルス向けのキュウリの摘み取りをしています。働き先の農園リッチー・フーズの社長であるレイ・リッチーの愛人のナンシー・ヘイズと出会います。ナンシーは奔放なハイティーンで、よその家の窓ガラスを割ったり、不法侵入などでスリルを求める生活を送っていたりします。ジャックは作業頭に大立ち回りを演じて裁判沙汰になり農園をクビになります。町から出て行けといわれますが、その裁判に関連した治安判事、ジェニーヴァ・ビーチでカバーニャ=コテージをいくつか所有している治安判事のミスター・マジェスティックのリゾートで雑用係として働き始めます。親しくなった仲で、ナンシーはリッチー・フーズの季節労働者への給料5万ドルの強奪をジャックに持ちかけます。ということで、出版が1960年代後半ですから、それほど荒唐無稽なお話ではありません。荒唐無稽ではない、という意味は、禁酒法下の大恐慌時代、1930年代の Bonnie and Clyde、すなわち、「俺たちに明日はない」と題して映画化された実在の2人のような物語を想像して読むことに比較して、という意味です。どうして、そういう発想になったかといえば、表紙画像の帯に「あんた、いったい、何発撃ったんだよ?」とありますので、発砲しまくって銀行強盗を繰り返す、というイメージを持ってしまったからです。ですので、Bonnie and Clyde の一行のようにド派手、というか、何というか、拳銃をぶっ放しまくる、というストーリー展開ではありません。その分、地味なお話と感じないでもありませんが、それでも、なかなかビミョーに面白いです。ナンシーの実に適当に振る舞う遊び心、奔放さに何ともいえず、本能的に引かれるジャックの心理や行動・言動が、実にたくみに微妙なラインで描写されています。
次に、葉室麟『螢草』(文春文庫)を読みました。著者は、時代小説作家なのですが、2017年に亡くなっています。本書は2012年に双葉社から単行本として出版され、2015年に双葉文庫で文庫化され、今年2026年1月に文春文庫で再文庫化されています。本書の舞台は江戸末期の小藩である鏑木藩です。主人公は女中として武家に仕える16歳の菜々です。菜々が仕える風早家は150石取りながら、鏑木藩は5万2千石の小藩ですので、中士ではなく上士の格となります。主人の風早市之進は藩内の改革派で、清廉な人物であり、病弱な妻の佐知とともに菜々にやさしく接してくれ、子どもの嫡男の正助ととよもよく菜々に懐いています。年配の家僕の甚兵衛が通いで主人に仕えています。菜々はもともと武士の娘でしたが、父親が城内で刃傷沙汰に及んで切腹を命じられお家は断絶し、母親の里の赤村の庄屋の家で育っています。母親の五月が亡くなり、菜々が赤村を離れて風早家に仕えるようになったわけです。しかし、病弱だった奥方様の佐知が亡くなり、主人の風早市之進が謀略にあって罪人として江戸に送られたあげく、他藩預かりという流罪に処せられます。もちろん、風早家のお子2人と菜々は屋敷から追い出されます。何と、菜々の父が刃傷沙汰に及んだ仇が、風早市之進を嵌める謀略を仕組んだ黒幕と知ります。そこから、菜々はがんばって自活し、質屋のお船、地廻りの親分である涌田の権蔵、鏑木藩の剣術指南役である壇浦五兵衛、塾を開いている儒学者の椎上節斎らの助けを得て、父親の仇を討ち、風早市之進の復権を目指す、というストーリーです。結末は見えているわけですが、あらすじはここまでとします。それほど重いお話ではありません。例えば、菜々に助力するお船を「おほね」と、涌田の親分を「駱駝の親分」と、壇浦五兵衛を「だんご兵衛」と、椎上節斎を「死神先生」と、それぞれ誤って呼びかけるというコミカルな要素もありますし、全体のお話のトーンがとても明るい時代小説です。最後に、菜々に助力する人々の設定がとてもご都合主義的に見えるかもしれません。でも、時代小説はしばしばこういった人柄のいい主人公に自然と加勢する人が集まる、そして、主人公は成功裏に目的を達成する、あるいは、勧善懲悪ハッピーエンドのお話が完成する、というものです。その点が、私が時代小説に感じる大きな魅力のひとつだといえます。



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