2025年3月22日 (土)

今週の読書は経済書のほか計6冊

今週の読書感想文は以下の通り、経済書のほか計6冊です。
まず、ウィリアム・ラゾニック & ヤン-ソプ・シン『略奪される企業価値』(東洋経済)では、イノベーションなどによって創造された企業価値が自社株買いなどの略奪的な手法により価値抽出されており、労働者も安定的な終身雇用の機会を奪われてしまった、と株主資本市議を批判しています。大豆生田稔『戦前期外米輸入の展開』(清文堂)は、戦前期の1900年ころから需要が生産を上回り、輸入が常態化するようになったコメについて、特に、東南アジアの英領ビルマ・仏印・タイで生産されるインディカ種の外米の輸入について歴史的に後付けています。上條一輝『深淵のテレパス』(東京創元社)では、30代半ばにして営業部長をしているバリキャリの女性が部下に誘われて、大学のオカルト研究会のイベントで怪談を聞いた日を境に怪現象に襲われ、あしや超常現象調査に調査を依頼して、怪異現象の調査が始まります。高野真吾『カジノ列島ニッポン』(集英社新書)は、2030年に開業予定の大阪カジノ構想にとどまらず、日本における統合型リゾート(IR)のあり方を考えるため、海外のカジノを含めて、幅広い見地から取材した結果のレポとなっています。永嶋恵美『檜垣澤家の炎上』(新潮文庫)は、ミステリとしての謎解きも鮮やかですが、むしろ、大正期の横浜を舞台にした上流社会における女性の一代記として楽しめます。C.S. ルイス『ナルニア国物語3 夜明けのぼうけん号の航海』(新潮文庫)は、ペベンシー家の4きょうだいのうちの2人、エドマンドとルーシーがいとこのユースティスとともに、カスピアンの夜明けのぼうけん号でナルニアの東の海に追放された7人の貴族の消息を追います。
今年の新刊書読書は先週までに63冊を読んでレビューし、本日の6冊も合わせて69冊となります。これらの読書感想文については、Facebookやmixi、mixi2でシェアし、また、経済書はAmazonのブックレビューにポストするかもしれません。

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まず、ウィリアム・ラゾニック & ヤン-ソプ・シン『略奪される企業価値』(東洋経済)を読みました。著者は、米国マサチューセッツ大学ローウェル校経済学名誉教授とシンガポール国立大学経済学部教授です。英語の原題は Predatory Value Extraction であり、2020年にオックスフォード大学出版局から出版されています。なお、巻末に日本語解説が置かれています。本書のエッセンスは中野剛志『入門 シュンペーター』(PHP新書)でも紹介されていますが、一言でいえば、現在の特に米国における株主資本主義を強く批判しています。すなわち、そもそも戦後1950年代から60年代における米国の企業システムは、日本の高度成長期と極めて類似しており、「内部留保と再投資」(retain-and-reinvest)の資源配分体制と「終身雇用」(career-with-one-company)の慣行に根ざしたものであったと指摘しています。それが、1980年代からビジネススクールや企業の役員室においては「株主価値最大化」(maximizing shareholder value=MSV)のイデオロギーが支配的となり、「内部留保と再投資」の体制が放棄され、有期雇用の拡大を特徴とする「削減と分配」(downsize-and-deistribute)の資源配分体制に移行し、労働生産性と実質賃金がデカップリングするとともに、持続的な経済的繁栄の社会的基盤を弱体化させ、終身雇用を失った労働者の雇用を不安定化させ、所得の不平等や労働生産性の伸び悩みをもたらしている元凶である、ということです。えっ、それって日本のことじゃないのか、という気がするのは私だけではないと思います。この日本に関する点は最後にもう一度言及します。本書に戻って、企業価値はイノベーションによって創造され、その後、というか、何というか、略奪的に価値抽出されてしまう、という点も強調されています。例えば、株価を動かす要因はイノベーション、投機、株価操作であり、インーベーションによって企業価値が創造されても、自社株買いによって価値抽出される、と米国企業活動の現状を見ています。すなわち、創造された企業価値を抽出するのに大きな役割を果たしているのが自社株買いである、と分析していて、最後の政策提言のトップは米国証券取引委員会(SEC)規則に関するものだったりします。詳細な分析は読んでいただくしかありませんが、日本について私の感想を最後に書いておきたいと思います。はい、本書の分析結果はほぼほぼすべて日本に当てはまります。私は典型例を堤ファミリーの西武グループに見ています。堤ファミリーはいわゆる近江商人の家系であり、私の通勤に使っている近江鉄道バスには、西武ライオンズで広く知られた白いライオンを掲げて走っています。しかし、米国投資ファンドのサーベラスほかによりグループ企業、西武鉄道、西武百貨店、スーパー西友、ロフト、セゾンカード、プリンスホテル、国土計画、などなどはバラバラに解体されてしまいました。私が役所に就職した当時は西武鉄道沿線に住んでいて、スーパー西友もいっぱいあったので、今でもセゾンカードを持っているのですが、つい数年前までスーパー西友の買い物をセゾンカードで支払うと、いくばくかの割引がありましたが、今ではなくなって、とうとうスーパー西友は楽天グループのポイントを採用するに至っています。私はかなり前に楽天では派遣社員が社員食堂を使わせてもらえないというウワサを聞いて、ウワサが真実はどうかはともかく、決して楽天グループにいい印象を持っていませんでした。ですので、このあたりは、個人的な感想なのですが、今は買収される側で話題に上っているセブン&アイ・ホールディングスが、1年半前の2023年9月に、米国投資ファンドのフォートレス・インベストメント・グループに対して、そごう・西武の株式を売却した際、そごう・西武の企業価値がたったの8500万円だったと報じられました。この買収に関して、超久しぶりに百貨店、すなわち、西武百貨店池袋店で短時間ながらストライキが実施されたのは広く報じられた通りです。まさに、こういった企業活動の価値の毀損について鋭く本書では分析を加えています。繰り返しになりますが、そごう・西武の企業価値がたったの8500万円にまで落ちたわけです。一部に学術書っぽい難解な部分はありますが、多くの学生や研究者やビジネスパーソンなどにオススメです。

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次に、大豆生田稔『戦前期外米輸入の展開』(清文堂)を読みました。著者は、東洋大学文学部教授です。本書はタイトル通りに戦前期日本の外米輸入の歴史を取り上げています。ただ、ご注意までなのですが、本書でいう外米というのは、広く輸入米を指しているわけではなく、戦前期の英領ビルマ・仏印・タイで生産されたインディカ種のコメの呼称として使われています。本書でいう外米以外の外国産米として、朝鮮米や中国米や台湾米がある点は指摘しておきたいと思います。この「外米」の用法が日本史や歴史学で通常そうなっているのか、本書だけの独特な用法なのかは、私は歴史学にそれほど詳しくないので不明です。ということで、本書では、戦前期の3つの時期に着目しています。すなわち、19世紀の1890年前後および1897年から1998年、米騒動直後の1918年と1919年、そして戦時期の1940年から1943年です。戦時期に入るまでは外務省の在外公館との連絡公文を調査し、戦時期については米国戦略情報局(OSS)、すなわち、現在の中央情報局(CIA)の分析も含めて、詳細に歴史的に後付けています。本書でいう外米はインディカ種で、日本国内で食用に供されるジャポニカ種とは食味が異なります。通常、コメはブレンドしますから少量であれば、本書では20%くらいまでと考えているようですが、それほど食味への影響は大きくありません。でも、国内産米が不足すれば、インディカ種だけでなく大麦などの雑穀もブレンドすることになり、食味の点からは評価が低下します。でも、量的な不足を補うためには輸入せざるを得ませんし、何よりも、現時点でも痛感されているようにコメの量的不足は価格高騰につながります。コメの価格弾力性が低いからといえます。そういったコメの海外からの輸入について考えるうえでとても参考になりました。最後に、3点ほど私から指摘しておきたいと思います。第1に、私の知る限りの歴史上の常識としても、コメについては、我が国の主食でありながら、1900年ころから需要が生産を上回ることが常態化し、したがって、本書で定義する外米だけでなくコメ輸入が戦時期まで継続することとなります。はい。私が大学で日本経済について教える際、日本の貿易構造について、極めて単純にいえば、戦前期は生糸を輸出してコメを輸入し、戦後、というか、高度成長期を終えたあたりからは自動車を輸出して石油を輸入する、と教えています。ですから、コメ余りで減反政策を実施した、なんてのは戦後のつい最近の短期間ことである点は忘れるべきではありません。昨秋来のコメ不足についても歴史的にもっとよく考えるべきです。第2に、本書は歴史学的には詳細なドキュメントに当たって分析されているのですが、経済学的にもう少し背景の分析も合わせて行う必要があると感じました。すなわち、輸出入については決済方法として金本位制が採用された日清戦争の後、そして、関税自主権が回復された日露戦争の後、1910年ころ以降で、それぞれ明らかな構造変化があります。第3に、コメのような食糧については量的な生産や輸出入だけでなく流通についても考慮する必要があります。本書では米国戦略情報局の報告書で、終戦時の1945年時点で日本には2年分のコメ備蓄があった、という分析結果を過大評価としています。私は戦後ヤミ市での流通などを考え合わせると、さすがに2年分の在庫は過大評価かもしれませんが、一定のコメ在庫はあったと判断しています。現在の足元のコメ不足も、生産不足は決して否定しないとしても、流通の目詰まりや業者の売り惜しみといった面も忘れるべきではないと考えます。

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次に、上條一輝『深淵のテレパス』(東京創元社)を読みました。著者は、webメディアでライターをしつつ、本書により創元ホラー長編賞を受賞してデビューしています。あわせて、本書は、朝宮運河氏主催の読者投票企画「ベストホラー2024 国内部門」でも1位に選ばれています。主人公は、あしや超常現象調査の動画サイトを運営する2人、芦屋晴子とその助手の越野草太です。2人はサラリーマン勤めの傍ら、超常現象を解明するために大学の研究室ともタイアップして動画を撮っています。ストーリーは、PR会社のバリキャリであり30代半ばにして営業部長をしている高山カレンが部下に誘われて、その部下の弟が所属する大隈大学のオカルト研究会のイベントで、怪談を聞いた日を境に怪現象に襲われることから始まります。すなわち、不気味な異音がしたり、汚水が現れたりといった怪異現象が現れるのですが、光があるとこういった超常現象は起こらず、暗闇が生じるとそこから怪異現象となります。あしや超常現象調査の2人は協力者も含めて、こういった怪奇現象の解明に当たります。ということで、いくつか、私からの感想です。まず、大隈大学、すなわち、福沢大学ではなく大隈大学であるのは地理的な必然性があります。なお、大隈大学の周辺には私が3年近く勤務した総務省統計局があります。ですので、あのあたりの土地勘を私は十分持っています。続いて、本書はホラーなのですが、明らかにホラー小説なのですが、それほど怖くありません。少なくとも、怖くて読み進むことが出来ない、という読者はほとんどいないものと私は考えます。最後に、本書の出来のいいところは、超常現象を中心に置いて謎解きをすることができる一方で、まったく超常現象に関係なく近代物理学の想定するスコープでも、十分解決できることを主要な登場人物の1人、あしや超常現象調査の協力者の1人がラストで謎解きしています。ミステリでいえば多重解決になるのかもしれませんが、若手作家のデビュー作という点を考えれば、この超常現象のオカルトと近代物理学に立脚するミステリの両方か謎解きができる、というのは優れた構成だと感じました。最後の最後に、読後、「火星鉛筆」をwebサーチする読者がいそうな気がしますが、はい、私もしましたがヒットしません。

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次に、高野真吾『カジノ列島ニッポン』(集英社新書)を読みました。著者は、ジャーナリストであり、20代のころからマカオ、韓国、ベトナムなどの海外でカジノを経験してきている、と紹介されています。本書では、2030年に大阪で開業予定の万博跡地のカジノを含む統合型リゾート(IR)だけでなく、いまだに消滅しているわけではない東京カジノ構想、さらに、主としてアジア各国における海外カジノ事情、不認定の結果を受けた長崎カジノ計画とどうも消えたっぽい和歌山と横浜のカジノ計画、もちろん、ギャンブル依存症についてと、幅広く取り上げています。実は、私は30代前半に南米チリの大使館に経済アタッシェとして赴任し、3年間の勤務を経験していますが、チリの首都サンティアゴから車で1時間余の太平洋岸のビーニャ・デル・マールというところに地方自治体が経営するカジノがあり、年間2-3回、3年間の勤務で10回ほど行ったことがあります。私はその前から合理的極まりないエコノミストであり、確率的に非合理で、損するギャンプルはやりません。でも、外交官で海外に赴任しているわけで、社交上カジノに行くことはありました。また、シンガポールのカジノが本書でも言及されていて、最近ではそれなりにアジアではマカオなんかとともに有名になっています。我が家は今世紀初めに3年間ジャカルタで暮らしていて、メディカルチェックなどで半年おきくらいに一家4人でシンガポールに行っていたのですが、シンガポールでカジノが開業したのは2010年ころであり、私はシンガポールのカジノは経験ありません。そもそも、子供たちが小さかったのでナイトサファリにすら行きませんでしたので、開業していたとしても行ったかどうかは不明です。本書はジャーナリストの手になる詳細なレポとなっていますが、カジノ経験ある私の見方から、3点だけつけ加えておきたいと思います。第1に、来月から開幕する万博はカジノとシームレスにつながっているという事実をもう一度確認する必要があります。メディアなどでは、ある意味で、無邪気に万博を取り上げていますが、万博の後には膨大な公費を投入したカジノの開業が控えています。この点は忘れるべきではありません。第2に、本書でも言及されていますが、横浜は明確に「カジノ反対」を掲げた市長が当選し、市民のリテラシーの高さを見せつけられました。やや記憶が不確かなのですが、マルクスの主著である『資本論』で、トイレに課税しようとして諌められた王様が、「貨幣は匂わない」と反論したというエピソードを読んだ記憶があります。いまだに社会主義ならざる資本主義の世の中ですから、所得を得ることは生存のために必要性が高いのですが、どのように所得を得るか、加えて、稼得した購買力を何に対して使うか、という点は、個人や地方自治体や企業などのいずれの経済主体であっても、キチンと考えるべき課題のひとつだと私は考えます。第3に、維新の大阪府政・大阪市政ほかを見ている限り、私は維新という政党をそれほど信用できません。今からでも可能であれば、大阪カジノ構想は万博とともに中止すべきだと考えています。

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次に、永嶋恵美『檜垣澤家の炎上』(新潮文庫)を読みました。著者は、エンタメ作家であり、2004年の『転落』が注目されたそうですが、私は不勉強にして本書が初読です。本書は昨年2024年の各種ミステリのランキング上位に入っている話題作です。例えば、宝島社「このミステリーがすごい! 2025年版」国内編第3位、とか、「週刊文春ミステリーベスト10 2024」国内篇第4位、とかです。時代背景は明治末年から大正を中心に昭和初期までをカバーしています。でも、事実上は関東大震災で終わっているといってもいいかもしれません。場所は横浜ならぬ本書の表記では横濱であり、タイトルの檜垣澤家は横濱で知らぬ者なき富豪一族、上州出身の創業者が「糸偏」と呼ばれた繊維産業、特に養蚕業を皮切りに事業を拡大した貿易商です。一家の者が自らを「成金」と自覚していたりします。その創業者である檜垣澤要吉が妾に産ませた娘である高木かな子が主人公です。明治末期に8歳で母を亡くして檜垣澤家に引き取られますが、ほどなくして創業者の父親も卒中で寝込んだ末に亡くなります。一家の事業は創業者である檜垣澤要吉の正妻のスヱと長女の花が取り仕切ります。スヱは大奥様、花は奥様と呼ばれています。花の婿養子の辰市は外向けのお飾りで、事業の実権も一家の奥向もすべて女系で治めています。スヱの孫、というか、花の子も3人とも娘であり、花の長女の郁乃が婿養子を取っています。一応、ミステリとしては、花の婿養子の辰市が蔵の小火で焼け死んだりした事件を最後の方で謎解きがなされたりするのですが、ミステリとしての色彩は希薄と私は考えます。むしろ、高木かな子、長じては花の養子となって檜垣澤かな子となった女性の一代記ではなかろうかと思います。檜垣澤に引き取られた直後は、使用人以上家族未満として扱われ、女中部屋の一角で寝泊まりして、小学校に通う以外は卒中で倒れた父親の介護に明け暮れます。父親という後ろ盾を亡くしてからのかな子の生き様が読ませどころです。めちゃくちゃに聡いのです。大人の話盗み聞きしては情報を蓄積し、その情報を裏の裏まで考えて分析し、権力者の大奥様スヱの意に沿うように発言・行動しつつも、自分の意向も通し、着々と一家の中での地位の向上を成し遂げます。ものすごくタフで、かつ、策士なわけです。NHK朝ドラ「虎に翼」で、花江が寅子に「欲しいものがあるならば、したたかに生きなさい」という場面がありましたが、まさに、かな子はしたたかに生きます。このかな子の下剋上的な生き様と主として大正期横浜におけるブルジョワ的上流階級の生活が印象的な小説です。繰り返しになりますが、ミステリの謎解きは鮮やかで、それはそれなりに楽しめますが、作品としてミステリの色彩は希薄であり、大正期上流社会を舞台にした女性の一代記の色彩の方が強い、と私は思います。

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次に、C.S. ルイス『ナルニア国物語3 夜明けのぼうけん号の航海』(新潮文庫)を読みました。著者は、1963年に没していますが、碩学の英文学者であり、英国のケンブリッジ大学教授を務めています。その作品である「ナルニア国物語」のシリーズが、今般、小澤身和子さんの訳しおろしにより全7巻とも新訳で新潮文庫から順次出版される運びとなっています。私はすでに『ナルニア国物語1 ライオンと魔女』と『ナルニア国物語2 カスピアン王子と魔法の角笛』を読了して、レビューもブログやSNSなどで明らかにしているところで、今週は『ナルニア国物語3 夜明けのぼうけん号の航海』を読みました。ストーリーは、ナルニア国を冒険したペベンシー家の4きょうだい、すなわち、ピーター、スーザン、エドマンド、ルーシーのうち、スーザンが両親の米国旅行に同行し、ピーターは試験勉強のために衣装箪笥のあるカーク教授のところに行ったため、年下のエドマンドとルーシーは夏休みにいとこであるユースティス・クラランスの家に来ています。ユースティスは行動や言動がちょっぴり嫌なやつだったりします。そして、エドマンドとルーシーはユースティスとともに、壁の絵に引き込まれてナルニア国に来てしまいます。人間界では1年だけでしたが、ナルニアでは3年が経っていました。王位を継いだカスピアンの「夜明けのぼうけん号」という船に3人は同乗して、かつてカスピアンの父親から王位を簒奪したミラーズによってナルニアから追放された7人の貴族を探しに東の海を航行します。騎士道精神あふれるネズミのリーピチープも同行しています。向かうは、竜島、死水島、くらやみ島、星の島などふしぎな力を発揮する島々です。果たして、夜明けのぼうけん号の航海やいかに。

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2025年3月15日 (土)

今週の読書はピケティ教授とサンデル教授の対談本をはじめ計10冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、トマ・ピケティ & マイケル・サンデル『平等について、いま話したいこと』(早川書房)は、不平等に関してフランスのエコノミストであるピケティ教授と米国の政治哲学者であるサンデル教授が、お互いをリスペクトした穏やかな口調ながら、火の出るようなディスカッションをしています。ややピケティ教授の言い分に分がありそうに読みました。松井暁『社会民主主義と社会主義』(専修大学出版局)は、マルクス主義の観点から、経済成長や生産力、生存のための非自発的ないし強制的な労働、国家の役割、グローバル化の4点を考え、社会民主主義と社会主義について考察しています。荻原浩『笑う森』(新潮社)は、5歳のADS児が広大な樹海で行方不明となったものの、1週間後に無事に健康で救助されます。その1週間の間に、何があったか、また、母親をネットで激しくバッシングした誹謗中傷の真実を明らかにします。逸木裕『彼女が探偵でなければ』(角川書店)では、高校時代に探偵の真似ごとをして以来、人の本性を暴くことに執着して生きてきて、父親の経営するサカキ・エージェンシーという探偵社で働く主人公が、さまざまな人間の本性を明らかにします。小川哲ほか『これが最後の仕事になる』(講談社)は、24人のミステリ作家などが、ショート・ショートの冒頭をタイトルと同じ文句で書き出す短編集です。ラストの方に佳作が置かれています。荻原博子『65歳からは、お金の心配をやめなさい』(PHP新書)は、「老後資金は2000万円必要」ではない、という事実を明らかにし、プロでない限り「貯蓄から投資へ」という政府の甘言に乗ってはいけないと経済ジャーナリストが主張しています。上橋菜穂子『香君』1・2・3・4巻(文春文庫)は、嗅覚に人並み外れた能力を持つ主人公が稲と肥料による帝国の繁栄を危うくする虫害の克服に挑みます。
今年の新刊書読書は先週までに53冊を読んでレビューし、本日の10冊も合わせて63冊となります。上橋菜穂子『香君』については、単行本では上下巻の2冊だったのですが、文庫本で4分冊とされたので、ここでは4冊とカウントしています。なお、Facebookやmixi、mixi2、あるいは、経済書についてはAmazonのブックレビューなどでシェアするかもしれません。

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まず、トマ・ピケティ & マイケル・サンデル『平等について、いま話したいこと』(早川書房)を読みました。著者は、フランスのエコノミスト、パリ経済学校教授と米国の政治哲学者、ハーバード大学教授です。はい、火の出るようなディスカッションです。ていねいな口調でお互いをリスペクトしてはいますが、極めて鋭く批判的な論調で相手の論調に対する反論を繰り出しています。でも、私の目からはピケティ教授の方が道理を踏まえていて、まあ、何と申しましょうかで、議論は優勢であったような気がします。冒頭章でサンデル教授の問いに答えて、ピケティ教授が不平等の弊害について、経済的な財の取得の不平等の弊害、政治的権利行使の不平等の弊害とともに、人間としての尊厳の問題を上げています。私はサンデル教授と同様にまったく賛成です。特に経済的な財の取得に関しては、本書では食料などの生存に必要な財はもちろん、不平等の是正に大いに役立つ医療や教育も重視しています。私は加えて、住宅も注目して欲しいと願っています。それ以降、両教授の対談ですから、現状の不平等がどうなっているかについての記述的な分析ではなく、むしろ、不平等についてどう考えるか、先行きどのように修正を図るか、についての議論が主になっています。火の出るようなディスカッションというのは、特に、「課税、連帯、コミュニティ」と題した第7章がハイライトとなっています。ピケティ教授は不平等の是正のために累進課税の果たす役割を強調しています。そして、サンデル教授が左派ポピュリストという用語を用いている点をやんわりと批判しています。はい、私もそう思います。その昔にソ連型の共産主義がまだ一定の影響力を持っていた時代に、「左右の全体主義」という表現がありました。私は決して好きな表現ではありませんでしたが、サンデル教授は未邦訳の Democracy's Discontent の第2版で、左右のポピュリズムといった表現を用いているらしいです。ピケティ教授は「左派ポピュリスト」と呼ばれることを嫌っているような印象でした。私の感想ですが、スペインのPodemos、ギリシアのSYRIZA、あるいは、ΣYPIZA、はたまた、ドイツのBSWとか、日本のれいわ新選組なんかは、自らを左派ポピュリストであると自称しているような気がしないでもないんですが、ピケティ教授はお嫌いなようでした。経済面のみならず、人間としての尊厳の問題も含めて、不平等について考えさせられる読書でした。ひょっとしたら、今年の経済書のベストかもしれません。

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次に、松井暁『社会民主主義と社会主義』(専修大学出版局)を読みました。著者は、専修大学経済学部教授であり、ご専門は社会経済学、経済哲学です。はなはだ専門外ながら、私は以前に同じ著者の『ここにある社会主義』を読んだことがあります。本書はマルクス主義の観点から、経済成長や生産力、生存のために必要な非自発的ないし強制的な労働、国家の役割、グローバル化を考え、社会民主主義と社会主義について考察し、私をはじめとするリベラルなエコノミストがとても受け入れやすい結論を導いています。まず、生産力については、従来からのマルクス主義的な永遠に生産力が拡大するという私のようなシロートの考えを排して、マルクス主義は定常状態を志向する、と結論しています。斎藤幸平の脱成長と同じと考えてよさそうです。私の理解ははかどりませんでした。成長ゼロの定常状態、そんなんで、「必要に応じて受け取る」ことのできる共産主義まで行き着くんでしょうか。疑問です。そして、非自発的ないし強制的な労働と国家は廃止されると考えますが、国家には2段階の廃止を予定し、いかにもマルクス主義的な階級支配の機構としての国家が先に廃止され、さらに、労働の分業に起因し、特殊な利益と共通の利益の疎外を調整する疎外国家はもう少し残る可能性を示唆しています。そして、福祉と労働をデカップリングするベーシックインカムの導入に労働の廃止、非自発的ないし強制的労働の廃止の未来を見ています。はい。この部分には全面的に私も同意します。そして、ソ連型の社会主義が崩壊し、グローバル化が進んだ現在においては、先進諸国で福祉国家を推進してきた社会民主主義が、もっとも期待できる社会主義の潮流であって、当たり前ですが、旧来型の暴力革命は否定され、1980年ころからの新自由主義によって縮小ないし破壊されてきた福祉国家を再建し、押し進めることが社会主義実現のための課題である、と結論しています。この部分、というか、結論も私は大いに同意します。最後にお断りですが、マルクス主義について、まったく詳しくもない主流派経済学に立脚するエコノミストである私の読書感想ですので、間違って解釈している部分がありそうな気がします。大いにします。

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次に、荻原浩『笑う森』(新潮社)を読みました。著者は、小説家であり、私は『ワンダーランド急行』ほかを読んでいます。「ほか」とは、アンソロジーに収録されたいくつかの短編です。あらすじは、5歳の男児である山崎真人、ADS=自閉症スペクトラム障害を持つ5歳児が富士山の樹海に匹敵するような神森の樹海で行方不明となります。山崎真人の母の山崎岬はシングルマザーで夫と死別しています。SNSでは母親の山崎岬をバッシングする誹謗中傷の書込みであふれます。幸いなことに、1週間後に山崎真人が無事に地元消防団員により発見されます。しかし、小学校に通う前の5歳のADS児である山崎真人は、「クマさんが助けてくれた」と語るのみで、樹海で何があったのかは不明のままとなります。そして、山崎真人発見後もネットでのバッシングは続きます。山崎岬の死んだ夫の弟で山崎真人の叔父に当たる山崎冬也は保育士をしていますが、姉の山崎岬に協力して、樹海で何があったのかの真相解明とネットの誹謗中傷の書込みをしている人物の特定などに挑みます。真相解明は驚愕の事実、特に、山崎真人を助けた最後の関係者が明らかにされるラストはびっくりします。小説ですから、現実にはありえない展開ですが、5歳男児が森をさまよって1週間後に救助される、そして、事実関係が明らかにされるとともに、ネットの誹謗中傷者も突き止められて、適切なペナルティを受ける、という極めて小説らしいハッピーエンドですので、安心して読めます。ただ、最後に1点だけ指摘しておくと、私は詳しくないのでややバイアスあるかもしれませんが、ADS=自閉症スペクトラム障害について少しネガな書き振りが気にかかります。すなわち、コミュニケーション能力に難があって、森で何があったかを語ることが出来ないとか、自分の殻に閉じこもってしまう、とかの面がやけに強調されていて、サヴァンではないとしても、通常の5歳時にはない特殊な能力、というか、特別な何かが森での1週間のサバイバルに役立った、という面も何かあった方が、さらに、いかにも非現実的な小説っぽくなりますが、読者には受け入れられやすい気がしました。まあ、最後の第5番目の関係者の存在がそうなのかもしれませんが、もう少しサヴァン的に盛ってもいいような気がします。

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次に、逸木裕『彼女が探偵でなければ』(角川書店)を読みました。著者は、ミステリを中心とする小説家なのですが、多分、もっとも有名な作品は『電気じかけのクジラは歌う』ではないかと思います。私も読もう、読もうと考えつつ、まだ読めていません。また、本書は同じ主人公の活躍するミステリ『五つの季節に探偵は』の続編となるらしいです。私は詳細を知らなかったりします。したがって、というか、なぜならば、というか、何というか、本書が私のこの作家の初読となります。主人公は、森田みどりです。タイトル通りに探偵なのですが、高校時代に探偵の真似ごとをして以来、人の本性を暴くことに執着して生きてきて、今では2児の母となっています。父親の経営するサカキ・エージェンシーという探偵社で働き、もう部下を育てる立場になっています。本書は5話からなる短編集であり、各話は特に連作というわけではなく比較的独立しています。冒頭に書いたように、主人公は人間の本質を暴くことに執着していますので、バッドエンドの嫌な終わり方をする短編も少なくありません。順にあらすじを紹介すると、まず、「時の子」では、時計職人であった父親をなくした高校生男子から聞いて、親子2人で3年前に防空壕に閉じ込められた際の脱出劇の謎解きをします。「縞馬のコード」では、部下と行方不明人を探す仕事で議論しているところに、千里眼を自称する高校生に出会いますが、その実態を暴きます。「陸橋の向こう側」では、ショッピングモールのイートインスペースで父親を殺すとノートに書いていた男子中学生を森田みどりが尾行します。「太陽は引き裂かれて」では、トルコ料理店のシャッターに赤いXがマークされていた事件から、在日クルド人社会の謎に迫ります。「探偵の子」では、森田みどりは夫の司、長男の理、次男の望、それに、父親の榊原誠一郎の5人で、榊原誠一郎の出身地を休暇旅行します。そこで、母親が著名な陶芸家だった榊原誠一郎の友人の家に泊めてもらった際、長男の理が行方不明になります。最後の最後に、繰り返しになりますが、やや嫌な終わり方をするイヤミスの短編がかなりあります。

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次に、小川哲ほか『これが最後の仕事になる』(講談社)を読みました。編者は出版社となっていますが、著者は24人いて、たぶん、収録順に、小川哲、五十嵐律人、秋吉理香子、呉勝浩、宮内悠介、河村拓哉、桃野雑派、須藤古都離、方丈貴恵、白井智之、潮谷験、多崎礼、真下みこと、献鹿狸太朗、岸田奈美、夕木春央、柿原朋哉、真梨幸子、一穂ミチ、三上幸四郎、高田崇史、金子玲介、麻見和史、米澤穂信、となります。ショート・ショートの短編集です。前に読んだ『黒猫を飼い始めた』と同じで、最初の1センテンスが「これが最後の仕事になる」で始まっています。ミステリ作家が多いと直観的に感じましたが、ほとんど、何の統一感もないショート・ショートが並んでいて、レベルもさまざまです。ただ、最後の方の数話のレベルが高いと感じました。特に、ラストの2話、すなわち、麻見和史「あの人は誰」と米澤穂信「時効」はミステリとしていい出来だと感じました。そこは作家さんの実力なんだろうと思います。ほかは、私の好みで、方丈貴恵「ハイリスク・ハイリターン」はなかなか見事なパズルとなっていて、さすがに、京大ミス研ご出身と感心しました。また、呉勝浩「半分では足りない」も兄弟の会話をパラグラフごとに逆の順で読む、という趣向が素晴らしいと感じました。でも、お話の中身はそれほどでもありません。タイトル、というか、書き出しの「これが最後の仕事になる」から、闇バイトのお話がもっと多いかと予想していましたが、そのものズバリのタイトルの柿原朋哉「闇バイト」は、実は、闇バイトでもなんでもないという落ちでした。また、YouTuberの最後の配信、というのもいくつかありました。

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次に、荻原博子『65歳からは、お金の心配をやめなさい』(PHP新書)を読みました。著者は、老後資金などに詳しい経済ジャーナリストです。マイナ保険証に強く反対するなど、経済に向き合う姿勢が私には好感が持てると考えています。本書はタイトル通りなのですが、基本的に、先日亡くなった森永卓郎さんの『投資依存症』や『新NISAという名の洗脳』と同じラインであると考えてよさそうです。ついでながら、私はどちらも読んでレビューしています。ということは、よほどのプロでない限り、「老後資金は2000万円必要」とか、「いや、4000万円必要」とかの流言飛語に惑わされず、政府の「貯蓄から投資へ」という甘言にも乗らず、投資に手を出すことに対して強い警戒心を持つべきであると警告しています。その根拠として、老後資金はそれほど必要なく、したがって、通常の範囲の預貯金で十分であり、生活をつましくしつつ、しかし、豊かな老後を送るべし、という内容です。特に、最終章の子供に相続財産を残すよりも人生を豊かに生きる、という点は私は大賛成です。そもそも、何かの心配ごと、特に、金銭面の心配や懸念を持ち出して人の行動を誘導しようとするのは、私はその昔の統一協会の霊感商法のような危うさを感じます。本書第4章のタイトルに含まれている「足るを知る」というのは重要なポイントであり、果てしなく心配ごとを広げるのは、とくに、65歳以降の老後にあってはヤメにしておいた方がいいと思います。

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次に、上橋菜穂子『香君』1・2・3・4巻(文春文庫)を読みました。著者は、川村学園女子大学特任教授にして、『精霊の木』で作家デビューを果たし、『精霊の守り人』、『獣の奏者』、『鹿の王』などなど数多くの文学作品があります。本書は7年ぶりの最新小説だそうです。単行本としては上下巻だったのですが、文庫本としては4巻構成で出版されています。私はこの作者のファンタジーについても、読もう、読もうと考えつつ、ついつい無精をしていましたが、大学の図書館で文庫版を見つけてサッサと借りて読んでみました。したがって、この作者の作品は不勉強にして本書が初読でした。期待にたがわぬ素晴らしいファンタジーです。できれば、さかのぼって、いくつかの作品に手を伸ばそうと思います。ということで、この『香君』は、匂いや香りに対する人並み外れた感覚を持つアイシャを主人公に、遥か昔に神郷から降臨した初代「香君」がもたらした奇跡の稲「オアレ稲」によって繁栄を誇ったウマール帝国を舞台にしています。アイシャは、そもそも、ウマール帝国の属領である西カンタル藩王国の藩王の孫でしたが、祖父の藩王がオアレ稲の導入に強硬に反対し、飢饉の際にオアレ稲を導入しなかった責任を問われて藩王の地位を追われてしまい、弟とともに逃げ延びます。ウマール帝国はオアレ稲の種籾と肥料をテコに帝国直轄地や属領の藩王国を支配していましたが、害虫がつかぬはずのオアレ稲に虫害が次々と発生し、この稲に過度に依存していた帝国は凄まじい食糧危機に見舞われることになります。アイシャは当代の香君らとともに、オアレ稲と肥料の謎に挑み、帝国の人々を救おうと努力します。何とも壮大なスケールであり、独特の世界観に圧倒されました。

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2025年3月 8日 (土)

今週の読書はマクロ経済学の教科書のほか計8冊

今週の読書感想文は以下の通り、マクロ経済学の教科書のほか新書が多くて計8冊です。
まず、脇田成『マクロ経済学のナビゲーター[第4版]』(日本評論社)は、標準的でとても広い分野をカバーした教科書となっていますが、私は経済学部ではない他学部の新入生に教える授業が多く、ややレベルが高すぎるかという気がします。円城塔『コード・ブッダ』(文藝春秋)は、2021年に名もなきコードがブッダを名乗り、自らを生命体であると位置づけ、この世の苦しみとその原因を説き、苦しみを脱する方法を語りはじめたところから機械仏教の展開を後付けるSF小説です。河野龍太郎『日本経済の視角』(ちくま新書)を著者からご寄贈いただきました。大企業が生産性に見合った賃金を支払っていないために、消費や投資の拡大がもたらされず、日本経済は合成の誤謬に陥っていると分析しています。中野剛志『入門 シュンペーター』(PHP新書)は、シュンペーターのイノベーション理論を基にして、シュンペーター理論の反対をやり続けた日本が陥った30年の経済停滞を解明するとともに、教育のIT化については本末転倒の結果を招きかねない懸念があるなど、今後の方向性についても議論しています。佐久間亜紀『教員不足』(岩波新書)は、新自由主義的な経済政策や行政改革により、民間企業と歩調を合わせる形で教員の抑制が図られるとともに非正規化が進んだ現状を分析し、今後の教育や学校について考えています。田中優子『蔦屋重三郎 江戸を編集した男』(文春新書)は、NHK大河ドラマ主人公の蔦屋重三郎がいかに江戸文化を発展させていったかを歴史的に後付けています。M.W. クレイヴン『ボタニストの殺人』上下(ハヤカワ・ミステリ文庫)は、刑事ワシントン・ポーを主人公とし、その相棒のブラッドショー分析官らの活躍を綴るシリーズ第5弾で、病理医のドイル教授が父親殺しの犯人として逮捕されてしまうところからストーリーが始まります。
今年の新刊書読書は先週までに45冊を読んでレビューし、本日の8冊も合わせて53冊となります。なお、Facebookやmixi、mixi2、あるいは、経済書についてはAmazonのブックレビューなどでシェアするかもしれません。

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まず、脇田成『マクロ経済学のナビゲーター[第4版]』(日本評論社)を読みました。著者は、首都大学東京だか、東京都立大学だかの教授です。マクロ経済学を専門とするエコノミストだと思います。本書は3部構成となっていて、第1部でケインズ経済学と新古典派経済学のマクロ経済学を概観し、第2部で家計、企業、政府や中央銀行といった個別の需要項目を取り上げ、最後の第3部で新たなマクロ経済学の発展的分野について議論しています。とても標準的で広範な分野をカバーする教科書といえます。教科書ですので、ややトピックが飛び飛びになっているのは致し方ないと私は受け止めています。個人や家計、あるいは、企業といった経済主体が市場における選択をどのようにするか、一定の制約下における選択の問題を考えるマイクロな経済学と違って、マクロ経済学では一定の範囲における集計量や平均値を分析対象とし、それらの相互の関係を明らかにしようと試み、加えて、マイクロな選択の際の制約条件を緩和したり、分配の改善や経済変動の抑制をテーマとします。本書では、例えば、ケインズ経済学としていわゆる45度線分析からIS-LM分析に進むなどのていねいなマクロ経済学の解説を試みています。ただ、ややレベルが高い気がします。私個人のケースを考えると、すでに定年を過ぎて特任教授となり、経済学部ではない他学部の新入生向けの講義が多くなっていて、本書はちと難しい内容が多いと受け止めています。加えて、教授と学生のダイアローグという特異な形式で議論を進めていて、ちょっと私の講義の教科書にするのは難しいと考えます。でも、講義のバックグラウンドの参考書としてはとても利用価値が高いと思います。

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次に、円城塔『コード・ブッダ』(文藝春秋)を読みました。著者は、SF作家であり、本書は第76回読売文学賞を受賞しています。本書のスタートは東京オリンピックの2021年であり、名もなきコードがブッダを名乗ります。自らを生命体であると位置づけ、この世の苦しみとその原因を説き、苦しみを脱する方法を語り始めます。そして、その後の機械仏教の展開を後付けます。本書で取り上げているのは、この機械式仏教の縁起なわけですが、広く知られたように、人間界の仏教は南進した上座部仏教が小乗仏教となり、北進してチベットから中国に入った仏教が大乗仏教として日本まで東進するわけです。そういった歴史的経緯の中で、禅宗が生まれたり、日本に来て他力本願の日蓮宗や浄土真宗ができたりするわけですが、本書における機械式仏教の縁起=歴史は人間界の仏教とどこまで同じで、どこまで違うか、というのが読ませどころとなります。そのあたりは読んでみてのお楽しみです。実は、ブッダを名乗ったコードはわずかに数週間で寂滅してしまうのですが、その教え、というか、人間界の仏教はブッダが寂滅した後もさまざまな歴史を経るわけで、機械式仏教もある意味で同様の進化を遂げます。そして、本書では人間界の仏教と機械式仏教のそれぞれの歴史が実に巧みに対比されています。私自身の宗教的基盤は浄土真宗なのですが、その基礎は法然の浄土宗であることはいうまでもなく、その人間界における法然の浄土宗がいかに偉大な仏教界のイノベーションであったかが、機械式仏教の縁起と対比させられる形で、本書を読み進むとよく理解できます。350ページほどのボリュームで、読者によっては冗長と受け止める向きがありそうな気がしますが、私は一気に読めました。

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次に、河野龍太郎『日本経済の視角』(ちくま新書)を読みました。著者は、BNPパリバ証券のチーフエコノミストです。3年ほど前の『成長の臨界』では、金融緩和の継続に対してゾンビ企業理論から反対していたのですが、本書では貯蓄過剰主体である家計への所得移転から、やっぱり、金利引上げを主張しています。ただ、前著になかった視点として生産性が向上しているにもかかわらず、企業から家計に賃上げとして結実していない、という実にまっとうな議論を展開しています。これは正しいと私は考えています。ただ、どうして生産性向上が賃上げに結実していないかというと、非正規雇用の拡大が原因、と私は考えているのですが、ひょっとしたら同じ帰結である可能性は否定しないものの、賃金を変動コストにした企業行動を本書では槍玉に上げています。なお、日経連の『新時代の「日本的経営」』については言及がありません。そして、家計も企業も貯蓄過剰主体になっているのですが、利上げによって投資過剰主体から家計への所得移転を主張しています。企業も貯蓄過剰主体なのですから、投資過剰主体として所得のロスを受けるのは政府と海外、ということになりますが、本書でそこまで議論は及んでいません。そうではなく、アセモルグ教授らのノーベル経済学賞受賞に乗っかる形で、「収奪」がいけなくて、「包摂的」がいいのだ、とホントに理解しているのかどうか疑わしいカテゴライズで結論を下そうとしています。大きな疑問点です。もうひとつは、金利引上げに関しては貯蓄過剰主体である家計への所得移転という新たな理論武装を試みているのはいいとして、私がこの著者に感じているもう1点の財政再建路線に関しては、本書ではほとんど言及がありません。新書という限定的なメディアですので仕方がないと考えますが、この財政に関する点についても今後ご意見が変わることを期待します。新たなご意見が組み入れられたご著書のご寄贈についても期待しています。

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次に、中野剛志『入門 シュンペーター』(PHP新書)を読みました。著者は、経済産業省の現役官僚だと思うのですが、現代貨幣理論(MMT)に立脚した経済書を何冊か出版しています。本書では、シュンペーター教授のイノベーション理論を基に、マッツカート教授のミッション・エコノミーやシュンペーター理論の継承者であるラゾニック教授『略奪される企業価値』を援用しつつ、シュンペーター理論を正しく日本経済に適用する議論を展開しています。まず、いくつかの前置き、というか、シュンペーター教授の『経済発展の理論』、『景気循環論』、『資本主義・社会主義・民主主義』、『経済分析の歴史』などを紹介し、イノベーションについての基礎を解説した後、1980年ころからの新自由主義的な経済政策を徹底的に批判しています。新自由主義経済理論に基づいて経営者資本主義から株主資本主義へと変化し、内部留保に基づく再投資や長期雇用による経済成長から「削減と分配」に基づく株主価値最大化へと企業行動の原理が転換し、米国でも開業率が大きく低下した、と指摘しています。でも、本書でも認識されているように、新自由主義経済政策は日本もさることながら、本場の米国で広く採用されているのではないか、という疑問は残ります。それに対して、マッツカート教授のミッション・エコノミーなど、インターネットに結実した米国政府のインフラ整備や知識・ノウハウの蓄積に資する政策を評価しています。これらを総合して、米国の産業政策と位置づけています。さらに、イノベーションはスタートアップの中小企業ではなく、先行き不確実性を減じることのできる大企業、あるいは、独占度の高い企業でこそ実行される、というシュンペーター理論を展開しています。そして、MMT理論も援用しつつ、緊縮財政を強く批判しています。私も大いに勉強となりました。ラゾニック教授ほかによる『略奪される企業価値』が昨年2024年暮れに出版されています。県立図書館で所蔵しています。本書の続きとして、なるべく早く読みたいと考えています。

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次に、佐久間亜紀『教員不足』(岩波新書)を読みました。著者は、慶應義塾大学教職過程センター教授です。タイトル通りに、教員不足について分析しています。この問題はすでに、昨夏、藤森毅『教師増員論』(新日本出版社)も読みましたが、大学でも教職課程は荷が重くて敬遠する学生が少なくない上に、教員という職業がブラックなものに成り果てて魅力がなくなっている、という現実があります。その上、民間企業と同じ土台に立って、教員の非正規雇用化が進んでいます。しかも、本書でも暗示的に指摘されていますが、正規雇用教員が忌避する仕事を非正規教員に押し付けようとする校長がいたりするものですから、人手不足が進んで大学生の就職が売り手市場になっている現状では、教員希望者が大きく減少するのは当然です。ということで、教員定員については、『教師増員論』でも指摘されていたように、1958年の義務標準法で法定された上で、新自由主義的な経済政策の採用とともに、民間企業に歩調を合わせる形で定員削減や非正規化が進められています。典型的な starve the beast 政策であって、ご予算不足につき教員は増やせません、という政策展開です。学校での業務量の増大と教員不足は、ほぼほぼ教員による自己犠牲でカバーされているというのが本書の見立てです。はい、私もそう思います。その上に、本書で初めて目にした観点として、授業において価値観の対立も見られる、という点を上げることが出来ます。米国の例が多いのですが、性教育、道徳教育、歴史教育などです。日本でも、『はだしのゲン』が図書館の所蔵から外された、という報道を見かけた方は少なくないものと思います。私は新入生の授業の冒頭で、経済学は科学であって価値観からは独立である、すなわち、一例として、高所得が常に望ましいわけではない、と教えていますが、実は、どのような教育であっても、一定の価値観を内包していることは事実です。それが、性教育や道徳教育などでは、特に強く意識されるのも事実です。ただ、本書の解決策には私は物足りない点を感じます。まず、教員の労働条件を考えて、教員の業務負担の適正化を議論していますが、私は違うと思います。すなわち、教員の業務とは、教員サイドから考えるべきかどうかについて私は疑問を持っており、子ども本位で考えるべきではないか、と思います。そのために、子どもサイドの必要に応じて教員を増員すべきと考えます。加えて、本書の最後でも指摘しているように、学校という組織は単なる教育の場だけではなく、地域の中核的な存在でもあり、例えば、災害時の避難場所になったりするわけですから、まずは、子ども本位の教育のため、また、地域の中核となる学校を維持するためにも、教員を増員することが必要です。教員不足だから教員の業務を削減するのが解決策の中心ではあり得ません。

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次に、田中優子『蔦屋重三郎 江戸を編集した男』(文春新書)を読みました。著者は、法政大学の前の総長であり法政大学社会学部名誉教授です。ご専門は日本近世文学、江戸文化などとなっています。3月に入ってもNHK大河ドラマのお勉強が続いているという情けない状態ですが、新書ベースで3冊目ともなれば、おおむね議論が出尽くした感があります。本書でも、江戸の文化の進歩や経済の発展とともに、蔦屋重三郎のホームグラウンドともいうべき吉原が単なる岡場所、売春宿の集積地だけではなく、琴、三味線、和歌、俳諧、香道、茶の湯、生け花、漢詩文、書、囲碁、双六などなどの文化の中心となり、遊女の頂点に立つ花魁が江戸のインフルエンサーとなった点が強調されています。ただ、本書で新たな視点としては、吉原や花魁やといった存在だけではなく、庶民の生活や文化がクローズアップされています。ただ、庶民は文化の消費者としてではなく、文化の中で取り上げられる題材として本書では着目されています。すなわち、浮世絵とはまさに読んで字のごとく、浮世を画材にしているわけで、花鳥風月や神仏を対象に描かれていた絵画が、庶民とまではいえないにしても、役者や相撲取りや美人を題材に描かれるようになったわけですし、文学、というか、小説でもそうです。狂歌も世の中の下世話な面、あるいは、下世話な解釈を歌にしていることは明らかです。ただ、本書では、こういった歴史的背景に熱心で、NHK大河ドラマの登場人物的な蔦屋重三郎のご活躍はそれほど注目されているわけではありません。その点は、まあまあ学術的な色彩といえますし、逆に、物足りないと感じる読者もいるかもしれません。

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次に、M.W. クレイヴン『ボタニストの殺人』上下(ハヤカワ・ミステリ文庫)を読みました。著者は、英国のミステリ作家です。本書は、この作者の刑事ワシントン・ポーのシリーズ第5作であり、前4作の『ストーンサークルの殺人』、『ブラックサマーの殺人』、『キュレーターの殺人』、『グレイラットの殺人』は、私はすべて読んでいます。繰り返しになりそうですが、主人公はワシントン・ポー刑事であり、相棒は分析官のマティルダ・"ティリー"・ブラッドショー、上司は出産を終えたばかりのステファニー・フリン警部です。そして、警察から検死を依頼している病理医のエステル・ドイル教授が頼もしい役割を果たしているのですが、この作品ではドイル教授が父親であるエルシッド・ドイルを殺した殺人犯として逮捕されてしまいます。そして、英国国内では、偽善者ぶったヤな奴が殺人予告代わりの押し花のレターを受け取って殺されるという事件が連続で発生します。しかも、というか、何というか、ドイル(父)殺しは日本でいうところの雪密室で犯人の足跡がなく、また、押し花を受け取って殺されたヤな奴も完全な密室での殺人、それも毒殺です。このドイル(父)殺しと押し花を受け取ったヤな奴の予告殺人とは何の関係があるのでしょうか、そして、犯人は英国メディアで「ボタニスト」と呼ばれ、自分でもそう自称するようになります。ポー刑事の謎解きやいかに、いうまでもなく、このミステリの読ませどころとなります。また、日本の読者にとって意外なことに、本書は冒頭で西表島のシーンから始まります。毒殺に用いられる毒がフグ毒だったりするのも、やや日本的な趣きを感じるのは私だけではないと思います。ラストのポー刑事とドイル教授の関係の発展には目を見張るものがあります。最後の最後に、このシリーズはボリューム的にページ数がどんどん長くなっていて、シリーズ中で本書がもっとも分厚いと思うのですが、少なくとも、本書はとても完成度が高くて読みやすく、長さを感じさせません。シリーズが段々と進化していっていることを感じさせます。

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2025年3月 1日 (土)

今週の読書は不確実性に関する経済書のほか小説ばかりで計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、森川正之『不確実性と日本経済』(日本経済新聞出版)は、企業や家計、あるいは、労働の不確実性の影響を論じ、いかにして不確実性の負の影響を回避できるかを分析しています。東野圭吾『クスノキの女神』(実業之日本社)は、クスノキのある月郷神社に詩集を置いてくれと頼みに来た女子高生と脳腫瘍で記憶障害がある男子中学生の交流を軸に、神社近くの強盗傷害事件の真相解明を盛り込んでいます。恩田陸『spring』(筑摩書房)では、天才バレエダンサーであり、振付家である萬春を主人公に、彼が15歳で世界に飛び出して活躍を繰り広げるバレエ小説です。安堂ホセ『DTOPIA』(河出書房新社)は、ボラボラ島の恋愛リアリティショーから始まって、そのショーにモブとして参加したモモの視点から10年ほどさかのぼった東京での出来事を追います。鈴木結生『ゲーテはすべてを言った』(朝日新聞出版)は、日本でもトップクラスのゲーテ研究者である主人公がレストランでゲーテの名言と出会い、その原典を探求する軌跡を後付けます。なお、この『DTOPIA』と『ゲーテはすべてを言った』は第172回芥川賞受賞作品であり、単行本で読んだわけではなく、2月発売の『文藝春秋』3月号で読んでいます。原田ひ香『財布は踊る』(新潮文庫)は、ルイ・ヴィトンの財布がたどる持ち主の遍歴をたどり、お金にまつわるややブラックで怖い連作短編集です。
今年の新刊書読書は2月中に39冊を読んでレビューし、本日の6冊も合わせて45冊となります。なお、Facebookやmixi、あるいは、経済書についてはAmazonのブックレビューなどでシェアするかもしれません。

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まず、森川正之『不確実性と日本経済』(日本経済新聞出版)を読みました。著者は、経済産業省ご出身の官庁エコノミストですが、私とほぼ同世代の60代半ばであり、一橋大学経済研究所、経済産業研究所、機械振興協会経済研究所などで研究活動をしています。タイトルにあるように、不確実性の影響について分析していますが、冒頭に、100年以上も前の米国シカゴ大学のナイト教授のリスクと不確実性の峻別について、最近時点では幅広く不確実性でいいんではないか、として議論を始めています。すなわち、ナイト教授の議論では事前に確率分布が判っているものをリスクと呼び、そうでないものが不確実性、としていますが、大数の法則によってある程度の計算ができる交通事故や火災などの損害保険的なものは例外であり、ハッキリと確率分布が判るリスクなんてものは少ないでしょうから、私も幅広く不確実性という用語でいいと思います。もう5年近くも前ながら、宮川公男『不確かさの時代の資本主義』(東京大学出版会)を2021年に読んだ記憶がありますが、統計などのデータで不確実性を明らかにするわけではなく、時代を画するような名著をサーベイした上で1970年から2020年までの50年間の歴史の流れを明らかにしようと試みていたものであり、本書はもっと統計的・計量的な分析を紹介しています。冒頭でコロナや地政学的な不透明性、あるいは、経済安全保障などにおける不確実性への関心が高まっている現状を示した後、マクロ経済予想の不確実性、政策の不確実性、さらに、経済主体の企業や家計の直面する不確実性、労働市場の不確実性、世界経済の不確実性などを分析した後、不確実性への対応を論じています。本書でもさまざま紹介されているように米国のVIX指数をはじめとして、ボラティリティに関する統計など、多くの不確実性指標が明らかにされていて、それらが蓄積された現時点では定量的な分析の可能性が広がっています。あまりにも当たり前ですが、不確実性の高まりは成長率の抑制要因となり、経済活動を不活発化させます。では、どこまで不確実性を除去することが必要か、というか、政府として不確実性を低下させることが出来るかといえば、不確実性をゼロにすることは不可能であり、さらに、不確実性やリスクの許容度はマイクロな経済主体によって異なりますから、マクロの最適性の確保が難しいのはいうまでもありません。政策的な不確実性は政府の責任でミニマイズする必要があります。ですから、できるだけ裁量的な政策対応を少なくして、ルールに基づいた政策を私は志向していて、例えば、失業保険や社会保障をもっと手厚くして裁量的な公共事業の比率を低下させ、ビルト・イン・スタビライザーの役割を高める、などの財政政策が重要だと考えています。これは、そのまま、企業への財政リソースの配分を減じて、家計への配分を増やすことにもつながります。ですから、本書のような、というか、最近の経済産業省の講じようとしている政策のように、経済安全保障を企業に手厚くしたり、特定産業への補助金を増やす政策には大きな疑問をもっています。

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次に、東野圭吾『クスノキの女神』(実業之日本社)を読みました。著者は、ミステリ作家であり、日本国内でも有数の知名度ではないかと思います。本書は、念を預けたり取り出したりできるクスノキのある月郷神社を管理する直井玲斗を主人公にしています。その月郷神社に、詩集を置かせてくれと女子高校生の早川佑紀奈が弟と妹ともに3人で訪れます。そして、直井玲斗の叔母である柳澤千舟が通う認知症カフェで知り合った中学生の針生元哉と早川佑紀奈の交流が始まります。針生元哉は脳腫瘍により、夜寝ついて翌朝起きると前日の記憶をなくしているという記憶障害を持っています。同時に、月郷神社近くの資産家宅で起こった強盗傷害事件の犯人が月郷神社に立ち寄ったことが明らかとなり、この事件の解明とともにストーリーが進みます。ラストは何ともいえない終わり方です。ただ、ストーリー展開を読めてしまう読者がいっぱいいそうな気がします。私もややそういう傾向がありました。伊坂幸太郎なんかと違って、この作者は違法性について厳しいですから、強盗傷害事件の犯人をウヤムヤにして終わらせることはしないし、明確に犯人や事実を明らかにした方が読者が喜ぶと思っているフシがあります。何だかんだで、私はそれほど本書は評価しません。ミステリ的には中途半端ですし、いかにもシリーズを終わらせたがっている雰囲気が読み取れます。ラストもやや暗くて、完結編のような色彩を感じ取る読者も少なくないと思います。

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次に、恩田陸『spring』(筑摩書房)を読みました。著者は、作家であり、本書は本屋大賞にもノミネートされています。どうでもいいことながら、本屋大賞ノミネート作10冊のうち、私はわずかに『アルプス席の母』と『死んだ山田と教室』と『成瀬は信じた道を行く』と本書の4冊しか読んでいません。かつては過半のノミネート作を読んでいた気がしますが、小説の読書量がやや落ちているかもしれません。それはそうと、本書に関しては出版社も力を入れていて、特設サイトが開設されています。ということで、まず、本書は何よりもバレエ小説です。主人公は天才的なバレエのダンサーであり、振付家でもある萬春です。春の方は「2001年宇宙の旅」よろしく、Halと綴っていたりします。4章構成であり、第1章は萬春のライバルでもあり同僚でもある深津純の視点から、第2章は萬春の教養担当といわれた叔父の稔、この方の姓は不明、の視点から、第3章は振付家である萬春の舞踏に曲を提供する作曲家の滝澤七瀬の視点から、そして、最終第4章は萬春自身の視点から語られています。特に第3章については、少しばかりバレエや音楽の素養がないと読みこなすのに苦労する読者がいそうな気もします。萬春は長野出身で15歳まで地元のバレエ教室に通った後、世界へ飛び立ち欧州のバレエ学校で学んで、欧州を拠点に活躍します。その後も、振付家としても世界的なレベルでバレエを極めます。ギフテッドチャイルドってこんなカンジなのだろうか、と思って読んでいました。本書に関する感想の最後に、春の振付家としての師であるジャン・ジャメは、当然、本書の作り出した架空の人物なのですが、フランス人っぽい名前であるとはいえ、バレエにそれほど素養のない私の知る限り、ジョン・ノイマイヤー以外には思い浮かびませんでした。ハンブルク・バレエ団で芸術監督をしている、あるいは、していた、と思います。本書で登場するバレエのダンサーの名前のうち、私が実際に見たことがあるのは、DVDの画像であって生ではありませんが、ニジンスキーだけでした。さらに、感想を終えて、その昔、たぶん、高校卒業のころか大学の初めに読んだ岩波新書のランガー女史による『芸術とは何か』では、芸術のとっかかりとして舞踏を取り上げた後、絵画や彫刻を含む美術、オペラを含む音楽、詩をはじめとする文学の4ジャンルをもって「芸術」と定義していた記憶があります。たった4冊ながら、私が読んだ本屋大賞ノミネート作のうちではピカイチといえます。その意味で、バレエにほとんど素養ない私でも十分楽しめたことは特筆すべきかもしれません。ただし、1点だけ残念に思ったのは、初版限定本では巻末に2次元QRコードがあり、スピンオフのパートを読むことが期間限定で出来たようなのですが、なにぶん、図書館で時期遅れに借りているもので、スピンオフを読める有効期間を過ぎていました。ちょっとケチくさい気がしないでもなかったです。

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次に、安堂ホセ『DTOPIA』(河出書房新社)を読みました。著者は、小説家ですが、芥川賞を受賞したことに示されているように、キャリアが浅くて私はまだよく知りません。もちろん、初読の作家さんでした。一応、念のため、私は表紙画像にある単行本で読んだのではなく、2月発売の『文藝春秋』3月号で読んでいます。本書のタイトルである「DTOPIA」とは、ミスユニバースの女性に対して、主として先進国から集められた多様な10人の男性がこの女性を奪い合うという恋愛リアリティショーです。2024年にボラボラ島で開催されているという設定です。ここで男性は出身地で呼ばれ、日本人男性はMr.Tokyoなわけです。この冒頭シーンのショーの性描写はかなり強烈です。そして、Mr.Tokyoを「おまえ」と呼ぶモモが主人公になってから、舞台はショーの以前の東京に戻ります。モモは現地のモブ=その他大勢の群衆(?)の役目であって、日本人の父とポリネシア系フランス人の母を持つミックスルーツという設定です。そして、モモが「おまえ」と呼ぶ男性は本名が井矢汽水であり、通称キースと呼ばれ、そのキースの東京での、おそらく、ボラボラ島の冒頭シーンから10年ほど前の諸活動が語られます。はい、諸活動です。諸活動の詳細は読んでみてのお楽しみながら、ここでも、性描写は強烈であり、それ以上に事実描写も強烈です。ただし、ボラボラ島の冒頭シーンから文体、というか、ストーリー進行は極めて軽快であり、物語はテンポよく進みます。しかも、時折、というか、冒頭シーンでは特に視点を提供する人物がコロコロと交代し、私のような粗雑な読者には少し理解が進まなかった面があります。うまく表現するのが難しいのですが、テンポよくスラスラと読み進める割には、何が語られてストーリーがどう進んでいるのかの理解が進まない、という困った状況なわけです。初期の川上未映子の作品、『乳と卵』以前くらいがこんな感じではなかったかと記憶しています。しっかりとストーリーやプロットを把握するのではなく、軽快な文章を楽しむという目的での読書には適した小説です。ただし、その昔に芥川賞候補になった川上未映子の作品「わたくし率イン歯ー、または世界」について、当時まだご存命だった石原慎太郎がタイトルについて「いいかげんにしてもらいたい」と選評に記していたのを思い出します。タイチルだけでなく、そういう感想を持つ読者も決して少なくないように私は想像します。

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次に、鈴木結生『ゲーテはすべてを言った』(朝日新聞出版)を読みました。著者は、小説家ですが、芥川賞を受賞したことに示されているように、キャリアが浅くて私はまだよく知りません。もちろん、初読の作家さんでした。一応、念のため、私は表紙画像にある単行本で読んだのではなく、2月発売の『文藝春秋』3月号で読んでいます。この作品は、冒頭で、日本でもトップクラスのゲーテ研究者である博把統一がゲーテの言葉を巡り探求してきた軌跡を、娘婿である「私」が小説の形態としてまとめていく、と明らかにしています。しかしながら、冒頭から視点を提供するのは、この博把統一の娘婿ではありません。はい、博把統一の娘である徳歌が結婚する前からストーリーが始まるからです。この冒頭にいう博把統一が探求してきたゲーテの言葉は、夫婦の銀婚式の記念にイタリア料理店での一家団欒の最後に提供された紅茶のティーバッグのタグに記されていました。娘の徳歌には英文学専攻の彼女にふさわしくミルトン、妻の義子にはプラトンで、博把統一ご本人には、これまた、ゲーテ研究者にふさわしくゲーテの言葉でした。しかし、ゲーテに関しては博覧強記なはずの博把統一ご本人がこのティーバッグのタグにあるゲーテの名言、英訳された "Love does not confuse everything, but mixes." について心当たりがなく、その原典を探求するわけです。なお、サイドインフォメーションながら、博把統一がドイツのイェーナ大学に留学していた際、同じ下宿の画学生ヨハンから、ドイツ人は何かを名言っぽく引用する際には「ゲーテ曰く」と称して誤魔化しておく、と教わっていたりします。そして、本書はなかなかにペダンティックな内容でもあります。ゲーテだけではなく、聖書はもちろん、カミュやドストエフスキーといった欧州の文豪の言葉、さらには、日本の漫画である手塚治虫作品、果ては、『マカロニほうれん荘』まで引用元になっていたりします。『マカロニほうれん荘』なんて、私の高校生のころの50年前にはやった漫画ですので、少なくとも作者は週刊漫画雑誌に掲載されていたころにリアルタイムで読んでいたわけではないと思います。それほど、多くの日本人が読んでいるような漫画でもないと思います。やや脱線しましたが、『マカロニほうれん荘』は別としても、アカデミックでペダンティックな視点を強く打ち出したキャンパスノベルの面も本書にはあります。

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次に、原田ひ香『財布は踊る』(新潮文庫)を読みました。著者は、小説家であり、私はアンソロジーに収録された短編はかなり読んでいますが、一番最近に読んだ長編は『一橋桐子(76)の犯罪日記』ではないかと思います。なかなかの人気作家だと聞き及んでいますが、いちばん有名な作品ではなかろうかと思っている『三千円の使いかた』すら私は読んでおらず、それほど手が伸ばせていません。なお、出版社により本書の特設サイトが開設されており、主要な登場人物のキャラが紹介されています。ということで、本書は、有吉佐和子『青い壺』と同じ趣向で、ルイ・ヴィトンの財布の遍歴、というか、その財布を入手した人にまつわる連作短編集です。各短編すべてに登場するわけではありませんが、マネー系のライターであり、そういったアドバイスもしている善財夏美です。そして、冒頭短編に登場する葉月みずほは生活を切り詰めてやりくりしている専業主婦であり、新品のルイ・ヴィトンの財布にイニシャルを入れて買います。でも、夫の借金のためにフリマアプリでこの財布を売らざるを得ないことになり、ここから財布の遍歴が始まります。繰り返しになりますが、フリマアプリで売られたり、盗まれたり、拾われたり、鉄道忘れ物市で買われたりします。そして、その財布の持ち主に関して、クレジットカードのリボ払い、FX商材を売りつけるマルチ商法、株投資に関する情報を元にしたセミナー商法、また、いつまでも終わらないように見える奨学金返済地獄、などなど、お金にまつわる暗いトピックが明らかにされます。ただし、たぶん、ごく一部ながら借家のオーナーとなって成功する女性も最後には取り上げられています。財布にまつわって悲惨でブラックなトピックとともに、成功者も描き出されており、ある意味で、格差社会ニッポンの現実も反映しているところがあります。ただし、こういった小説はともかく、決して、自己責任で終わらせる経済社会であってはいけない、と考える人も少なくないことを願っています。

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2025年2月22日 (土)

今週の読書は大学の授業の参考にする経済書4冊のほか計10冊

今週の読書感想文は以下の通り大学の講義の参考に読んだ経済書4冊をはじめとして計10冊です。
まず、浅子和美・飯塚信夫・篠原総一[編]『新 入門・日本経済』(有斐閣)は、私が来年度4月からの講義で教科書として使う予定で、昨年2024年11月に新しい版が出ましたので授業資料作成の必要も含めてチェックしておきました。大守隆・増島稔[編]『日本経済読本[第23版]』(東洋経済)も、来年度4月からの授業の参考のためにやや斜めに読んでおきました。私も顔見知りの官庁出身者が多数執筆しています。釣雅雄『レクチャー&エクササイズ 日本経済論』(新生社)は、日本経済を題材にしてデータを用いたミクロ経済学とマクロ経済学の分析について解説していて、GoogleスプレッドシートやPythonを使った計算や練習問題も豊富に収録されています。宮本弘曉『私たちの日本経済』(有斐閣)は、今まで何度も言い尽くされてきた内容で、結局は生産性向上に議論を収束させている印象であり、控えめにいって常識的、有り体にいって平凡、といえます。坂本慎一『西田哲学の仏教と科学』(春秋社)は、臨済禅との関係が深いと考えられてきた西田哲学について、曼荼羅などの真言宗の現代教学との関係を探っていたり、数学や物理学とも関連付けて西田哲学の広がりを論じています。増山実『今夜、喫茶マチカネで』(集英社)は、大阪大学豊中キャンパス最寄りの阪急の駅前の商店街についての逸話を語る「待兼山奇談倶楽部」のお話を収録した形を取ったファンタジー小説です。小塩真司『「性格が悪い」とはどういうことか』(ちくま新書)は、ダークな性格についてマキャベリアニズム、サイコパシー、ナルシシズム、サディズムの4大要素を上げ、社会的成功や恋愛あるいは家族関係における心理的特徴を分析しています。鈴木洋仁『京大思考』(宝島社新書)は、東京都知事選挙で小池知事に次ぐ2番目の得票を得た候補者を題材にして、「石丸伸二はなぜ嫌われてしまうのか」という副題で、その大きな理由として「京大思考」や「京大話法」を考えています。C. S. ルイス『ナルニア国物語1 ライオンと魔女』と『ナルニア国物語2 カスピアン王子と魔法の角笛』(新潮文庫)は、洋服ダンスからナルニア国に迷い込んだピーター、スーザン、エドマンド、ルーシーの4人きょうだいが、ナルニア国のために、アスランとともに白い魔女と戦い、また、人間界での1年後に、正当な王の血を引くカスピアンや協力してくれるドワーフらとともに、王位を簒奪したミラーズに戦いを挑みます。
今年の新刊書読書は年が明けて先週までに29冊を読んでレビューし、本日の10冊も合わせて39冊となります。Facebookやmixi、あるいは、経済書についてはAmazonのブックレビューなどでシェアする予定です。なお、2月10日発売の『文藝春秋』2025年3月号を買い込みました。芥川賞受賞作2作品「DTOPIA」と「ゲーテはすべてを言った」の全文が掲載されています。選評とともに楽しみたいと思います。

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まず、浅子和美・飯塚信夫・篠原総一[編]『新 入門・日本経済』(有斐閣)を読みました。編者は、それぞれ大学教授をお務めになったエコノミストです。実は、私は大学の授業では教科書を指定していて、この本の旧バージョンである同じ出版社と編者による『入門 日本経済[第6版]』を現在の大学に着任した2020年から使い続けてきましたが、昨年2024年11月になって新しいバージョンに改訂されたので、一応、来年度4月からの授業で教科書として使うべく目を通しておきました。どうでもいいことながら、10年以上も前に長崎大学に現役で出向していたころにも、この教科書の古い版を、たぶん、第3版か第4版を使っていた記憶があります。多分に意識されていることとは思いますが、大学のセメスターごと14-15回の授業で割り振りやすいような章構成になっています。前回の版は2020年3月という実にコロナ直前でしたので、今回はかなり大きく手を加えられています。ただ、日本経済の戦後の歩みが第Ⅱ部の発展編に回されてしまっていて、授業では章ごとに最初から追うのではなく、戦後の歴史を最初に持って来ようかとも考えていたりします。第Ⅰ部が企業、労働、社会保障、政府、金融、貿易と型通りに配置されていて、私には使いやすい教科書となっています。また、貿易に続く最後の方に以前の版では、農業、環境が置かれていたのですが、スッパリとなくなりました。はい。マクロエコノミストの私にはいい方向での改訂であると受け止めています。加えて、もう昔のお話ということなのだろうと思いますが、アベノミクスやその一端を担った黒田総裁当時の日銀の異次元緩和政策などもほぼ片隅に追いやられた印象です。いずれにせよ、私は授業では教科書を指定することにしています。その方が明らかに学習効果が上がって、コスパがいいからです。でも、私の周囲を見渡す限り、教科書を指定せずに、教員手作りのスライドやハンズアウトで授業を進める場合も少なくないように感じます。インターネット空間が発達して、役所の白書類なんかは手軽にpdfでダウンロードできるようになりましたし、「通商白書」なんぞは印刷版は出版すらされなくなって、ネットのpdfだけになりました。こういった流れは今後も進むものと思いますが、本棚に何冊か本が並んでいて、私のように60歳を大きく超えても大学のころの思い出を得られるのは悪くないと思います。とはいえ、教科書だけでは不足する部分もあるわけで、4月の春学期の開講までに大雑把な授業資料を作成しようと悪戦苦闘しているところです。今年の春休は忙しそうです。

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次に、大守隆・増島稔[編]『日本経済読本[第23版]』(東洋経済)を読みました。編者は、いずれも経済企画庁・内閣府のエコノミスト経験者であり、各チャプターごとの著者もそういった人が並んでいる印象です。本書は出版社からご寄贈で送っていただき、今年2025年春学期からの授業準備で目を通しています。さすがに、というか、何というか、役所出身者らしく、理論的な詳しい解説というよりも、いろんな事実関係をいっぱい集めてきて、資料集的に使う分にはとても有益そうな気がします。15章構成ですので、いくぶんなりとも、大学での授業を意識していることは確かなのでしょうが、私にとってはこの本に即した授業というのは、やや荷が重い気がします。トピックが系統立って並んでいるわけではなく、それぞれのチャプターごとの著者がさまざまな事実関係や資料を集めてきているという印象です。編者は単純に集めただけで、本としての統一性というと大げさながら、何か芯を通しているわけではないような気がします。ただ、いろんな事実関係を集大成していますので、悪い表現ながら、つまみ食いをして、いくつかのパーツをもらってくる分には、とてもいろんなコンテンツを集めているだけに、助かる部分が大きいと感じています。私自身もそうなのですが、狭い分野での専門性が高いというよりも、幅広い分野におけるオールラウンドな経済学を幅広くこなすのが、官庁エコノミスト出身者のひとつの特徴であろうと思います。本書も情報量ではさすがのレベルに達しており、とても有益な読書でした。しっかりと、他の本も勉強して、4月からの授業に備えておきたいと思います。また、読むだけでなく、こういった本にインスパイアされて、授業資料の方もできるだけ情報量豊富に学生諸君に提供したいと思います。。

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次に、釣雅雄『レクチャー&エクササイズ 日本経済論』(新生社)を読みました。著者は、武蔵大学経済学部教授です。本書は2023年の出版なのですが、今年2025年春学期からの授業準備で目を通しています。タイトル通り、かなり理論的な分析にも力が入っているようで、冒頭に現状分析、理論分析、数量分析から分析結果の発表に至る分析プロセスが示されています。また、物価指数の計算式や成長会計の微分による寄与度分解なども示されていて、理論を数式で持って表すことも回避しようとはしていません。時折、一般読者向けに「平易に」語ろうとして、かなりムリに数式を回避して、かえって話をややこしくしている本がありますが、本書は数式で書くべき部分はそれを回避せず数式で示している、という点で、少なくとも私には好感が持てました。こういった理論的な展開をキチンと示しておくと、予算規模がxx兆円で、雇用者のうちのxx%が製造業、などといった高校社会科的な経済学から距離をおいて新鮮に見える学生も少なくない気がします。本書は日本経済を初めて学ぶ初学者向けという見方もありますし、各テーマごとに練習問題も章末においてあり、ゼミなどでの補助教材という出版社のうたい文句ではありますが、むしろ公務員試験や資格試験向けの自習書としても意識されているのかもしれません。というのは、シラバス作成の補助的な解説も含まれているものの、7章構成となっていて、大学の大規模講義などの授業向けにはどうかという気がしますし、時折、Googleスプレッドシートの利用やPythonによるプログラミングも解説されていますので、補助教材もしくは自習者向けという印象を強く持ちます。一応、日本経済というよりも、日本経済を題材にしたマクロ経済の実践的な分析を行うための参考図書として位置づけられているのかもしれません。ですから、日本の物価についてマクロ経済学的な解説や分析はなされていますが、デフレについてはほとんど言及がありませんし、雇用や労働についても、日本的な雇用慣行、すなわち、長期雇用や年功賃金についてもほとんど無視されていて、日本の労働データを用いた分析が主となっています。でも、それはそれで、単に日本経済の特徴を暗記するという勉強とは違う目的で書かれているようですので、その点を承知の上で読み進む必要があります。

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次に、宮本弘曉『私たちの日本経済』(有斐閣)を読みました。著者は、財務省研究所の研究官です。本書は2部構成であり、第Ⅰ部では問題編として現状分析が展開され、第Ⅱ部ではそういった問題をいかに解決するかが提案されています。要するに、スラッと日本経済を分析するのではなく、今までの日本経済、というか、バブル経済崩壊以降の長期低迷を続ける日本経済の問題点を分析し、それらをいかの解決するのか、という実に大上段に振りかぶった意図を持っています。ただ、結論としては労働生産性の向上というところに収束させている気がして、まあ、本書で示された解決策らしきものは、控えめにいって常識的、有り体にいえば従来説をなぞっただけで平凡そのもの、としか私の目には移りませんでした。こういった内容で満足する学生がそれほどいるとは思えませんが、1年生くらいであれば何とかなるのかもしれません。繰り返しになりますが、常識的といえば常識的な気がします。判り切っている日本経済の課題に対して、東大や京大や何やの大学教授が束になって取り組んで、もちろん、財務省や経済産業省や日銀などのエリート集団がさまざまな解決策を提示しても、まったく30年間、何も動かなかったわけですから、本書で示された常識的な解決策が、どこまで効果が期待できるかは私には不明です。私は中年男性を相手にする時なんかによくゴルフに例えるのですが、「ティーアップしてドライバーを振って、フェアウェイ真ん中に250ヤードくらい飛ばしましょう」では、何の解決にもならないわけです。それが出来ないからみんな困っていることを理解すべきです。特に、雇用や生産性については、このブログでも何度か書いてきましたが、本書でも生産性の向上を第Ⅱ部の第10章で眼目のひとつにしていて、そのためには雇用の流動化が必要という結論です。しかし、現在の日本経済での雇用の流動化は雇用主の方が雇用者を解雇するハードルを下げたいというだけであり、まったく何の解決にもなっていないという点を理解すべきです。雇用の流動化は高圧経済下で職を離れた労働者が希望する雇用条件にあった職を容易に見つけられる環境下でなければ、おそらく、縮小均衡に近い景気悪化を招くだけであり、現時点での労働分配率の低下と消費の停滞という悪しきスパイラルをさらに悪化させる可能性が高い、と気づいて欲しいと思います。ただ、最終章で教育について着目している点は私は高く評価したいと思います。もっとも、従来から日本では初等中等教育についてはOECDによるPISAの結果などを見ても十分な成果が上がっている一方で、おそらく、大学以降の高等教育のレベルで劣後している点は十分な焦点が当たっていない気がします。

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次に、坂本慎一『西田哲学の仏教と科学』(春秋社)を読みました。著者は、PHP研究所の研究者です。本書は、タイトル通りに、西田哲学における仏教と科学という、一見して混じり合わない2つの要素について論じています。なお、後者の科学については、主として物理学と数学を念頭に置いているようです。私も京都大学の卒業生ですが、現在までの京都大学における代表的な知性としては、西田教授の哲学と湯川教授の物理学を上げることが出来ます。私はさすがに西田教授の方は年代的に重なるところがありませんでしたが、湯川教授は大阪万博の1970年に京都大学を退官していますので、私は小学校高学年のころに湯川先生の講演会を聞きに行った記憶があります。お話の内容はサッパリ思い出せません。話を戻して、西田教授の哲学は、論文「場所」で明らかにされた西田哲学と呼ばれ、私のような専門外の者からすれば臨済禅との関係性が示唆されていると考えていました。しかし、本書では、場所の論理は曼荼羅の影響が強く、三昧境の即身成仏という真言密教との関係を主張しています。智山大学で教鞭をとっていた西田教授の教え子の何人かから、そういった結果を引き出しています。そして、臨済禅との関係を主張する京都学派と近代真言教学に立つ智山大学に連なる智山学派を比較して、そういった結論を後づけているわけです。私はエコノミストであって、哲学は専門外ですので、西田哲学については、ありきたりな一般的理解があるだけで、仏教についても密教はまったく不案内で禅についても詳しくないので、何とも判りかねる部分は残りますが、本書の主張の一貫性は認められます。後半の数学ないし物理学との西田哲学の関係についてもよく似た理解で、湯川先生の理論の背景には西田哲学の場所の論理があるという可能性は十分認めことができます。当然、ヒトの意識を持って作り上げたものではない自然界の現象を解き明かそうとする試みですから、何らかの哲学的なバックグラウンドを感じるのは、ある意味で、自然なことではないかと思います。特に、西洋近代と接触を開始した時点で、経済学のようにまったく日本国内で発達していなかった学問体系に対して、和算は西洋数学と比較してもすでにかなりの水準に達しており、西田哲学と同じく、問題を立てて解いていくスタイルが和算から導かれるとする見方も出来ることは事実かと受け止めています。ただ、PHP研究所らしく、そこに松下幸之助の経営哲学まで持ち込むと、少し怪しいと感じる向きもあろうかと思います。西田哲学の大きな広がりを感じることが出来た読書でした。

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次に、増山実『今夜、喫茶マチカネで』(集英社)を読みました。著者は、小説家なのですが、最近では第10回京都本大賞を受賞した『ジュリーの世界』の書名を聞いたことがあるだけで、誠に不勉強にして、私には初読の作家さんだと思います。舞台は阪急沿線で大阪大学豊中キャンパスの最寄り駅である待兼山の駅前商店街となっています。昭和29年1954年に両親が始めた1階の書店を兄が、2階の喫茶店を弟が継いでいましたが、阪急の駅名を変更して「待兼山」の名が消えるタイミングで閉店することとなります。残された数か月の間、月に1回毎月11日に喫茶店閉店後の夜9時から「待兼山奇談倶楽部」として、商店街にゆかりの人々が話をする企画が生まれます。その数回のお話をテーマとした連作短編集です。収録順にあらすじを取り上げると、まず、「待兼山ヘンジ」では、英国のストーンヘンジよろしく、待兼山の電車から年に1回だけ駅西口からまっすぐに延びる道路に夕陽が沈む日があり、待兼山ヘンジと呼ばれ、恋が叶うといいます。「ロッキー・ラクーン」では、商店街のカレー店のマスターが店名に取った競走馬のロッキーラクーンにまつわる話、特に、中央競馬を引退して地方競馬に移ってからの活躍を話します。「銭湯のピアニスト」では、阪大生だった女性が、ピアノを弾くクラブのアルバイトがだめになって経済的に困窮し、銭湯の待兼山温泉で住込みのアルバイトとして雇われ、夜遅くにピアノを弾かせてもらっていたところ、ストリッパーが大阪公園の1か月だけ泊まらせて欲しいといいだします。「ジェイクとあんかけうどん」では、能登屋食堂を息子夫婦と切り盛りする女将さんが、10年ほどの間いっしょに住んでいて帰国したフィリピン人のジェイクと亡くなったご主人の思い出話をします。「恋するマチカネワニ」では、書店・喫茶店の向かいのビルでバーを経営するゲイの男性が、小中学生のころに化石の発掘に連れて行ってもらっていた年上の兄貴分との話をします。「風をあつめて」では、米国のイラク空爆に対して駅前で抵抗の歌を歌っていた阪大の女子学生に対して、古老が終戦直後の労働争議の逸話を語るお話です。最後に、「青い橋」では、阪急電車の運転手を定年退職した常連が橋の袂にあるポストの色の違いに気づき、待兼山と石橋の違いを知るというファンタジーです。というか、最後のお話だけでなく、すべてがファンタジーなのですが、すべてについていいお話を集めてあります。世紀の変わり目のお話も少なくありませんが、昭和の話に感激するのは私のような年配者だけかもしれません。

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次に、小塩真司『「性格が悪い」とはどういうことか』(ちくま新書)を読みました。著者は、早稲田大学文学学術院教授であり、ご専門はパーソナリティ心理学、発達心理学だそうです。タイトルにある「性格が悪い」というのは、スラッと理解すれば「意地悪」ということなのだろうと思って読み始めましたが、副題にあるようにダークな性格ということのようです。そして、そのダークな性格の3大要素がマキャベリアニズム、サイコパシー、ナルシシズムであり、Dark Triadと呼ばれています。さらに、サディズムを加えた Dark Quad、さらにさらにで、自爆的性格のスパイトを加えて Dark Pentadなども紹介されています。そして、4要素のクアッドの特徴については、pp.32-33のテーブルに取りまとめてあります。私は怖いので自分自身に関してチェックはしていません。スパイトは少し聞き慣れませんが、クアッドの4要素についてはほのかに理解できるものと思います。こういったダークな性格というものを心理学的な観点から明らかにした後、ダークな性格とリーダーシップの関係、例えば、会社などで社会的成功者となるかどうかについて考え、さらに、恋愛や性的関係におけるダークな性格の人について取り上げています。例えば、マッチングアプリで荒らし行為をするとか、です。そして、ダークな性格の心理特性をHEXACO分析などで明らかにし、最後の2章では、ダークな性格が遺伝するのか、また、ダークな性格とは何なのか、あるいは、逆に「良い性格」とはどういったものか、についていくつかの考えを解き明かしています。本書で取り上げているダークな性格では、その趣旨から外在的な外に向かって現れるものが中心で、反社会的な行動につながる可能性が高いものが主となっています。でも、逆に、内在的な、いわゆる気分が落ち込む、というのもそれはそれで重要な気もします。私は、いわゆる心理学のビッグファイブについては、少しくらいの知識や情報がありましたが、ダークな性格に関するこういった分析は初めて接しました。また、本書ではダークな性格のネガな面を強調するだけではなく、ダークな性格とは反対のグリット=やり抜く力についても解説してくれています。幅広く性格の良し悪しについて考えさせられる読書でした。

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次に、鈴木洋仁『京大思考』(宝島社新書)を読みました。著者は、神戸学院大学の准教授で、ご専門は歴史社会学だそうです。表紙画像に見える「石丸伸二」という個人名は東京都知事選挙で、現職の小池知事に次ぐ2番目の得票を上げ、蓮舫候補よりも得票したことで注目された候補者です。そして本書は「石丸伸二はなぜ嫌われてしまうのか」という副題で、その理由のひとつ、というか、大きな理由にタイトルの「京大思考」や「京大話法」を上げようとしています。でも、東京都知事選挙の結果を見る限り、それほど嫌われてもいない気もします。といったように、京大生が大好きな「そもそも論」をもって嫌われる理由を探ろうと試みています。はい。私は違うと思います。嫌われるのは、思考や話法ではなく、行政や政治的な思考そのものではないのでしょうか。という観点は本書では希薄であり、もっぱら話法や思考に特化した議論が続けられています。実は、私も本書の著者などと同じ京都大学の卒業生ですが、もっと合理的で、そもそも論ではコミュニケーションが成り立たない、少なくとも効率的なコミュニケーションは成り立たない、と考えています。小さい子どもの「どうして」と同じという受け止めです。しかし、私でも会話、というよりも問答のコミュニケーションが成り立たず、問いがおかしい、あるいは、問いに対する答えが意味をなしていない、と感じる場合がいくつかあります。数年前、ミスター・ドーナツでドーナツを買おうとすると「お召し上がりですか」と聞かれたことがあります。マニュアルでそうなっているのでしょう。私は目を白黒させて、ドーナツを食べずに鉢植えの肥料にでもするケースがあるのだろうかと考えてしまいました。でも、どうやら質問の趣旨は店内で食べるか、あるいは、持ち帰るか、という質問だったようです。その後、私は聞かれる前に先駆けてイートインかテイクアウトかを意思表示するようにしています。その後、マニュアルは改善されたのかどうか気にかかるところです。また、役所にいたころ、隣の部署の人に缶切りを借りに行ったところ、「この頃の缶詰は全部パッカンだから」といわれてしまいました。パッカンだから缶切りは必要ない、ということなのでしょうが、y/nで回答できることを理由を回答して済ませるというのは、効率悪いという気がします。その昔に、ご存命だった糸川博士がクイズ番組に出演して、問の趣旨をじっくりと確認していたことを記憶しています。言葉の定義次第で回答が異なる、ということなのでしょう。私は効率のいいコミュニケーションを求めがちで、その意味で、京大話法や京大思考は効率悪いと感じるのですが、効率悪くても正確なコミュニケーションが必要になることは十分ありえる点はいうまでもありません。

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次に、C. S. ルイス『ナルニア国物語1 ライオンと魔女』と『ナルニア国物語2 カスピアン王子と魔法の角笛』(新潮文庫)を読みました。著者は1963年に没していますが、碩学の英文学者であり、英国のケンブリッジ大学教授を務めています。「ナルニア国物語」のシリーズが、今般、小澤身和子さんの訳しおろしにより全7巻とも新訳で新潮文庫から順次出版される運びのようです。ということで、今さら、多くを付け加えることはありません。第1巻である『ライオンと魔女』は、私は前にフルタイトルの「ライオンと魔女と洋服ダンス」のタイトルの本を読んだ記憶がありますが、ピーター、スーザン、エドマンド、ルーシーの4人きょうだいが疎開先の教授の家にある洋服ダンスからナルニア国に迷い込みます。ナルニア国は白い魔女が支配して、クリスマスも来ない冬が続いています。ライオンのアスランとともにきょうだい4人が、白い魔女からナルニア国を取り戻すべく戦いを挑みます。『カスピアン王子と魔法の角笛』は、アスランとともに白い魔女と戦った1年後、きょうだい4人はまたしてもナルニア国に不思議な角笛の力によって呼び寄せられます。人間界では1年でも、ナルニア国では何と1300年が経過しており、テルマールから侵略を受け王宮は廃墟となっていました。しかも、先の王の弟ミラーズが王を殺して、ナルニア国の王位を簒奪していました。きょうだい4人は、先の王の子で正当な王の血を引くカスピアンや協力してくれるドワーフらとともに、ミラーズに戦いを挑みます。

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2025年2月15日 (土)

今週の読書はミクロ経済学の学術書をはじめ計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、安達貴教『21世紀の市場と競争』(勁草書房)では、20世紀までの伝統的な経済学における競争だけではなく、というか、それを基礎にしつつも、21世紀の競争、デジタル経済やプラットフォームに関する競争理論を展開しています。ジェイコブ・ソール『<自由市場>の世界史』(作品社)では、冒頭で、自由市場、というか、自由市場思想とはフリードマン教授から引いて政府による介入か皆無であること、としてます。そして、歴史的にはキケロから説き起こして、欧州中世から近代の市場を考えています。自由市場とともに自由市場の思想の歴史も重要なポイントとなっています。櫻田智也『六色の蛹』(東京創元社)は、出版社の宣伝文句によれば、チェスタトンのブラウン神父や泡坂妻夫の亜愛一郎などのように、一種とぼけた雰囲気を持つ探偵役の魞沢泉を主人公とするミステリのシリーズ第3作の連作短編集です。前田裕之『景気はどうして実感しにくいのか』(ちくま新書)は、エコノミストの思考と国民の実感とのズレを考えていますが、経済学にも出来ることと出来ないことがあり、かなり的外れな印象を持ちました。林真理子『李王家の縁談』(中公文庫)は、皇族や朝鮮の李王家の縁談や結婚をテーマにしています。主人公、というか、視点を提供するのは美貌と聡明さで知られる梨本宮伊都子妃です。旧佐賀藩鍋島家の出身で、皇族の梨本宮守正王に嫁いでいます。有栖川有栖『砂男』(中公文庫)は、前口上とあとがきを別にすれば、単行本未収録の短編が6話収録されていて、学生アリスのシリーズ2話、作家アリスのシリーズ2話、そして、ノンシリーズも2話、となっています。
今年の新刊書読書は年が明けて先週までに23冊を読んでレビューし、本日の6冊も合わせて29冊となります。Facebookやmixi、あるいは、経済書についてはAmazonのブックレビューなどでシェアする予定です。

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まず、安達貴教『21世紀の市場と競争』(勁草書房)を読みました。著者は、京都大学経済学部の教授であり、ご専門は産業組織・競争政策などのマイクロな経済学ではないかと思います。本書は、冒頭で高校の社会科の教科書を引いたりていますが、完全な学術書ですので、その点は理解しておくべきです。ということで、本書では20世紀までの伝統的な経済学における競争だけではなく、というか、それを基礎にしつつも、21世紀の競争、上の表紙画像の副題にあるようなデジタル経済やプラットフォームに関する競争理論を展開しています。なお、知っている人は知っていると思いますが、昨年2024年10月ころから今年1月にかけて慶應義塾大学出版会から、慶應義塾大学グローバルリサーチインスティテュート(KGRI)の研究成果として、「怪獣化するプラットフォーム権力と法」の4巻シリーズが刊行されています。経済学ではなく政治学などが中心になった学際分野の研究成果だと思いますが、私はまだ手を伸ばせていません。取りあえず、本書でマイクロな競争政策について基礎的な勉強をしているところです。というのも、私はそもそも経済学においても深い専門的な学識があるわけではなく、基本的に、オールラウンダーなのですが、それでも本来の専門はマクロ経済学であり、マイクロな経済学はやや苦手としています。ですので、本書を読んで、もっとも感銘を受けたのは「競争市場」についての本書の見方です。すなわち、競争とは勝ち負けの競争とか、優劣的な印象を持たせた競争力とかではなく、市場支配力、もっといえば、市場価格への支配力を持たないくらいのスケールの経済主体がウジャウジャ存在している状態、と私は授業で教えており、本書も第1章で同じことを書いています。その上で、21世紀の市場、プラットフォを介した市場とは、日本的には楽天を思い起こせばいいのですが、楽天は基本的に自ら売買をしているわけではなく、いろんな業者にECサイトを提供し、そういった業者が楽天の会員となっている消費者に販売する場、すなわちこれがプラットフォームなわけで、その場を提供しているに過ぎません。楽天の場合はモノが多い気がしますが、もちろん、音楽配信サービスのApple MusicやSpotifyも同じだろうと思います。「思う」というのは、私はこれらのサービスを実は利用していないからです。楽天でも買い物をしたことがありません。それはさておき、こういったプラットフォームでは、業者と消費者の両面で競争を分析するというRochet and TiroleらのTwo-Sided Marketsの競争理論がすでに確立されていて、本書では、基本的にこれらをなぞりつつも、消費の外部性を取り入れた分析が展開されています。消費の外部性とは、他人の消費や社会的な消費に自分の消費が影響されることです。ですから、ECサイトで高評価の商品がさらに販売を伸ばす、なんてのは消費の外部性に基づいて分析可能なわけです。加えて、消費サイドでの規模の経済も分析しています。私自身はデフレ経済における価格の硬直性について少しだけ聞きかじったベッカー教授の逆需要曲線の理論、すなわち、超過需要があるにもかかわらず供給サイドが価格を引き上げようとしない理由が本来のマイクロな競争理論で活用されていて、プラットフォームやデジタル経済への活用が考えられている点が印象的でした。こういったプラットフォーム市場における競争政策に関して、私なんかは競争とともに消費者保護の観点から規制強化を念頭に考えるのですが、本書で展開されている議論はやや違っているように感じました。市場における自由意志による交換行為について、私なんかよりはやや過剰に重視している気がします。逆に、行動科学に基づいて企業が消費者に購買行動を誘導する可能性がやや軽視されている可能性があります。その意味で、政府の競争政策を考える上で少し気にかかります。私自身はは本書でいう「新ブラダイス派」のエコノミストなのかもしれません。最後に、繰り返しになりますが、本書は完全に学術書です。大学教員とはいえ、私ごときでは理解が及ばない部分もありました。高校の社会科教科書からお話を始めているからといって、決して軽く考えるべき読書対象ではありません。

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次に、ジェイコブ・ソール『<自由市場>の世界史』(作品社)を読みました。著者は、米国の南カリフォルニア大学の教授です。ただし、博士号は英国のケンブリッジ大学で取得しています。本書の英語の原題は Free Market であり、2022年の出版です。邦訳タイトルは本書の歴史分析の観点を入れていtるのだと思います。ですので、冒頭で、自由市場、というか、自由市場思想とはフリードマン教授から引いて政府による介入か皆無であること、としてます。そして、歴史的にはキケロから説き起こして、欧州中世から近代の市場を考えています。典型的にはオランダ、英国あるいはイングランド、そしてフランスです。ただ、自由市場とともに自由市場の思想の歴史も重要なポイントであり、本書でも思想史的な側面を取り上げている部分が少なくありません。その意味で、本書の目的のひとつとして、古代の自然や農耕に対する信念が、近代的な自由市場の理論にどのように発展したのかを後付けようと試みています。私自身は経済や市場を分析する際、まあ、そこまでさかのぼる必要はないと考えています。資本主義の大きな特徴として市場における交換、価格に基づく自由な市場における交換による資源配分の効率性を重視する場合が往々にしてありますが、私は単に価格に基づく市場における資源配分だけではなく、資本蓄積の進行による生産面も重視すべきだと考えています。ですから、その意味では、資本主義の出発点は産業革命である、と私は考えています。でもまあ、そうはいいつつも、本書のように西欧近代の幕開けとなったオランダの勃興、イングランドにおける産業革命の開始、そして、フランスにおける産業資本経済を基盤とした市民革命、などなどの歴史は重要です。オランダ、イングランド、フランスにおいて政府によりいかにして市場が整備され、資本主義経済が発展したのかは、それなりに読み応えがあります。ただ、私には本書第13章のアダム・スミスの登場により、道徳によって交換が支えられる市場という考えが、近代以降現在までの市場観を形成していると考えます。本書では、ハイエクとの対比においてスミス的な市場を「紳士的なプロセスの産物」(p.260)とも表現していて、私にはとても受け入れやすい市場観に見えます。最後に、本書では国家が市場に組み込まれている(たぶん、embedded)としていますが、市場を適切にマーケット・デザインするのは政府です。そう考えるのは、21世紀になってポストトゥルースの見方が現れているからで、市場とは情報であり、不適正な情報が出回るのを監視するのは政府の重要な役割のひとつだと私は考えています。

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次に、櫻田智也『六色の蛹』(東京創元社)を読みました。著者は、「サーチライトと誘蛾灯」で第10回ミステリーズ!新人賞を受賞し、受賞作を表題作にした連作短編集でデビューしており、本書は、出版社の宣伝文句によれば、チェスタトンのブラウン神父や泡坂妻夫の亜愛一郎などのように、一種とぼけた雰囲気を持つ探偵役の魞沢泉を主人公とするミステリのシリーズ第3作となります。私は3冊すべて読んでいたりします。主人公の謎解き探偵役の魞沢泉は昆虫好きで正体不明の青年です。本書もシリーズ前2作と同じように連作短編集で6話を収録しています。収録順にあらすじは以下の通りです。「白が揺れた」では、へぼ獲り名人について魞沢が寒那町の山中でへぼと呼ばれるクロスズメバチを追っていたところ、ハンターの串路と遭遇し、緊急事態を知らせるホイッスルを聞いて2人で駆けつけます。ホイッスルを吹いた三木本が見つけたのは、ライフルで撃たれたベテランハンターの梶川の死体でした。ちょうど、前日に梶川は誤射事件の講義を行っていたところでした。「赤の追憶」では、翠里が営むフラワーショップ「フルール・ドゥ・ヴェール」に季節外れのポインセチアがあるのを40代半ばの女性客が見つけます。しかし、それは1年前の予約の品であり、売れないと翠里は断ります。その後、「ミヤマクワガタ入荷しました」という張り紙を見てやって来た魞沢に対して、翠里が1年前に季節外れのポインセチアを探していた女子高生の話をします。「黒いレプリカ」では、函館市の工事現場で土器らしきものと人骨らしきものが発掘され、噴火湾歴史センター職員の甘内がアルバイトの魞沢とともに現地に赴きます。しかし、甘内が警察に通報したにもかかわらず、上司の作間部長が現場を荒らすようなマネまでします。「青い音」では、古林が文具店で懐かしいインク瓶を見つけたにもかかわらず、先に誰かに取られてしまいます。それがきっかけで魞沢と立ち話が始まり、偶然にも、2人とも同じコンサートに行くことを知り、近くのカフェでお茶しながら、古林が自分の生立ちや半生について語ります。「黄色い山」では、へぼ獲り名人が亡くなり、魞沢が三木本から連絡を受けて通夜と葬式にやって来ます。名人の希望により棺に名人自身が彫った木製の仏像を入れることになり、通夜の夜は魞沢と三木本と役所の錦課長の3人で名人の家で夜を過ごします。「白が揺れた」の続編です。「緑の再会」は、「赤の追憶」の後日譚であり、謎解きのミステリではありません。魞沢がフラワーショップ「フルール・ドゥ・ヴェール」を訪れますが、店主は前回訪れた時の店主から娘に交代していました。ということで、最後に、繰り返しになりますが、本書は魞沢泉を主人公とするミステリのシリーズ第3作となりますが、謎解きとしてもストーリーとしても段々とよくなっている気がします。相変わらず、短編にもかかわらず「人死に」が多くて、それほど「日常の謎」ではないのですが、読者をミスリードする作者のテクニックが向上しているのか、私の読み方が雑になっているのか、そのあたりは定かではないものの、私の評価は段々と上がってきています。ただし、難点とまではいえないのですが、昆虫や虫との関係が薄くなってきている気がします。私はそれでもOKなのですが、ビミョーに評価基準が異なる読者はいる可能性はあります。

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次に、前田裕之『景気はどうして実感しにくいのか』(ちくま新書)を読みました。著者は、日経新聞のジャーナリストから退職して経済関係の研究をされているようです。本書では、タイトルからして、私が末席に連なっているエコノミストや経済学者と呼ばれる専門家の考えと国民の実感の間にズレがあり、国民の幸福度とまではいわないにしても、満足度を高めることにエコノミストは失敗しているのではないか、という問題意識を基にしているのではないかと思います。はい、そういう部分は少なくないでしょうし、経済学というのはその意味で未成熟な学問分野であることは当然ですが、ただ、経済学にも出来ることと出来ないことがあります。景気循環を完全に安定化させることはムリ、というか、ひょっとしたら出来そうな気もしますが、コストが高すぎるでしょうし、「夢よ再び」で高度成長期のような10%成長を現在の日本経済がサステイナブルに継続できると考える人は少ないと思います。そもそも、経済学とは何らかの制約条件下で、あるいは、トレードオフある条件の下で、最適化を図るにはどうすればいいか、というミクロ経済学と、加えて、そういった制約条件を可能な範囲で緩和したり、最適化を図るための安定的な条件を整備したりするマクロ経済学から成っていて、自然科学が課された条件とそれほど変わりない制約がかかります。例えば、1日24時間という制約はどうしようもない場合がほとんどです。私はこの著者のご著書を何冊か読んだ記憶があり、最近では、3年前の2022年に『経済学の壁』(白水社)、そして、一昨年2023年に『データにのまれる経済学』(日本評論社)などをレビューしていて、何か、経済学に対する思い込み、私にはなかなか理解しにくい思い込みを持っている方だと感じてきましたが、本書も同じ印象です。経済学は経験科学であると同時に政策科学であって、後者の視点からは国民生活を豊かにすることができる学問分野です。ほかの自然科学も、基本的には同じなのですが、物理学や何やよりも経済学はもっと直接的に国民生活に安定や豊かさをもたらすものと期待できます。しかし、宇宙物理学がどれほど発達しても、ガンダムに登場するシャアではありませんが、小惑星が地球と衝突軌道にあっても、それを回避する方策は物理学ではなく、工学とか別の分野に求める必要がある点は理解すべきです。経済学は経済の現状を分析するとともに、経済をより国民のためによくなる方向に仕向けることが出来ます。しかし、制約条件はありますし、サステイナビリティも考慮せねばなりません。場合によっては、エコノミストの考えと採用される政策の間にもズレがある可能性は否定できません。エコノミストの思考を国民実感に近づけようとする試みはとても有益なものであるとともに必要であることは理解しますが、本書の指摘はかなり的外れです。

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次に、林真理子『李王家の縁談』(中公文庫)を読みました。著者は、マルチな才能を発揮している作家なのですが、現時点ではご出身の日大理事長としてお忙しいのかもしれないと勝手に想像しています。本書は、タイトル通りに、皇族や朝鮮の李王家の縁談や結婚をテーマにしています。主人公、というか、視点を提供するのは美貌と聡明さで知られる梨本宮伊都子妃です。旧佐賀藩鍋島家の出身で、まあ、いうまでもないですが、皇族の梨本宮守正王に嫁いでいます。そして、学習院女学院に通う長女の方子は、皇太子のお妃候補に上がっているのですが、皇太子妃には梨本宮の兄である久邇宮の長女の良子に決まります。後の昭和天皇皇后、香淳皇后なわけです。伊都子妃は方子の嫁ぎ先を大急ぎで探します。というのも、方子の結婚を皇太子と良子よりも先に整えなければ、方子が皇太子のお妃に選ばれなかった皇女というレッテルが張られてしまうからです。ですので、梨本宮伊都子妃は李王家の王世子である李垠との縁談を進めます。最初は渋った方子なのですが、周囲の説得もあって縁談に前向きになります。そして、結婚に至り、さらに、世間一般としては戦争が始まって終戦を迎えるわけです。ということで、私のような一般庶民には想像もできないような高貴な方々の日常生活や結婚について、小説とはいえ、垣間見ることが出来ます。「政略結婚」といえそうな気がしますが、戦国時代や武士の世の中であった当時の敵と味方に分かれて争ったり、あるいは、人質のような扱いを受けたりという意味での政略結婚ではありません。当時の朝鮮の李王家は皇族に次ぐ格を保持し、宮廷費も莫大なものであったとされています。本書に登場する紀尾井町にあった李王家の邸宅は、私が知る限り、赤坂プリンスの旧舘ではなかったかと記憶していますが、お屋敷の中でスキーが出来たと本書にあります。最後に、梨本宮伊都子妃は1976年に没するまで90歳超の長命ですので、戦後の皇室や李王家の様子もそれなりに取り上げられています。宮廷費の支給がかなり細ったのはいうまでもありませんし、昭和天皇の皇太子であった現在の上皇のご成婚についても、当然ながら皇族としての見方が提供されています。なお、昨年2024年12月に出版された『皇后は闘うことにした』が本書の続編のような位置づけで、やはり皇室に取材した小説、というか、短編集となっています。そのうちに、気が向いたら読みたいと考えています。ご参考まで。

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次に、有栖川有栖『砂男』(中公文庫)を読みました。著者は、本格ミステリ作家であり、大学の推理研部長である江神が謎解きをする学生アリスのシリーズと火村が事件解決に当たる作家アリスのシリーズが有名です。本書には、前口上とあとがきを別にすれば、単行本未収録の短編が6話収録されていて、学生アリスのシリーズ2話、作家アリスのシリーズ2話、そして、ノンシリーズも2話、となっています。順にあらすじを紹介すると、「女か猫か」は学生アリスのシリーズであり、したがって、江神が謎解きの探偵役となります。女子大生3人のガールズバンドの作詞を担当する男性が、バンドの1人の家で3人の女性陣とは別に離れ一晩過ごした際に、密室状態の離れで頬にネコの引っかき傷を作ってしまう謎を推理します。「推理研VSパズル研」も学生アリスのシリーズであり、同じ大学のパズル研から出題された論理的な思考で解けるパズル問題に、江神たち推理研のメンバーが面目をかけて挑み、正解を得るのはもちろん、単なる正解を超えてストーリーを完成させようと試みます。「ミステリ作家とその弟子」はノンシリーズであり、出版社の編集者の女性が作家の家を訪れ、作家と住み込みの弟子との間に交わされる会話、というか、問答、特に『ウサギとカメ』の謎について聞いたりしますが、最後に大きな事件が待っています。「海より深い川」は作家アリスのシリーズであり、したがって、火村が謎解きの探偵役となります。タイトルは海に身投げして死んだ男性が残した言葉であり、これに込められた男性の思いや男性の死から展開される謎を火村が解き明かします。それほどボリュームはありませんが、深くて切ない社会性を含んでいます。私はこの作品にもっとも感銘を受けました。表題作の「砂男」は、口裂け女の次に広まった砂男の都市伝説のようにして社会学の大学教授が殺害されます。都市伝説通りに、死体には砂がかけられていて、さらに、後日、殺害された自宅の周囲にも砂がまかれました。火村がこの殺人事件を解決します。「小さな謎、解きます」は、祖母が占いを廃業したスペースで街角探偵社という名で探偵業を始めた青年が、小学4年生の甥っ子とともに、大学生が持ち込んだ引っかけに満ちた推理小説同好会の問題に取り組んだり、名曲テネシー・ワルツを怖いと感じる女性の謎を考えたりします。

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2025年2月 8日 (土)

今週の読書はピケティ教授の平等に関する経済書をはじめ計8冊

今週の読書感想文は以下の通り計8冊です。
まず、トマ・ピケティ『平等についての小さな歴史』(みすず書房)では、10年ほど前の『21世紀の資本』で世界を席巻したエコノミストが、人類の進歩における平等の役割を論じ、続いて、平等へと進む歴史を概観し、最後のに平等の達成に向けた政策や目標を取り上げています。妹尾麻美『就活の社会学』(晃洋書房)では、聞き手への忖度に基づいて、企業やメディアが求める学生像に合わせて「やりたいこと」をいかにも自発的に語らされる就活を社会学的に分析しています。ブライアン・クラース『なぜ悪人が上に立つのか』(東洋経済)では、権力と指導者について論じていて、サイコパスのような独裁者が権力を握るのを防止し、模範的な指導者が権力に就くようにするための方策が10点に渡って提案されています。スティーヴン・キング『ビリー・サマーズ』上下(文藝春秋)では、主人公のビリーが40代半ばにして引退を決意し、自叙伝ともいえる小説を書き始める一方で、とても報酬のいい最後の仕事を請け負うところから物語がスタートします。朝日新聞「国立大の悲鳴」取材班『限界の国立大学』(朝日新書)では、取材班が2004年に導入されて20年を迎える国立大学法人化の首尾につき、アンケートやインタビューを駆使した取材結果に照らし合わせて結論を得ようと試みています。竹中亨『大学改革』(中公新書)では、法人化されて20年を経過した国立大学を主たる対象として日本とドイツの大学改革について基本となる理念や理論的背景を含めて解釈と解説を試みています。鈴木俊幸『蔦屋重三郎』(平凡社新書)は、やっぱり、NHK大河ドラマのお勉強として読んでいまして、話題となっている蔦屋重三郎についての教養書です。特に、文化史の背景が詳しいです。
今年の新刊書読書は年が明けて先週までに16冊を読んでレビューし、本日の7冊も合わせて23冊となります。Facebookやmixi、あるいは、経済書についてはAmazonのブックレビューなどでシェアする予定です。なお、櫻田智也『蝉かえる』も読んだのですが、2020年出版で新刊書読書ではないと考えられますから今週のレビューには含めず、すでにFacebook、Twitter、mixi、mixi2で取り上げておきました。

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まず、トマ・ピケティ『平等についての小さな歴史』(みすず書房)を読みました。著者は、10年ほど前の『21世紀の資本』で世界を席巻したフランス人エコノミストです。本書のフランス語の原題は Une Brève Histoire De L'Égalité であり、2021年の出版です。本書は10章から成っており、冒頭の2章で人類の進歩における平等の役割を論じ、その後、タイトル通りに平等へと進む歴史を概観し、最後に平等の達成に向けた政策や目標を取り上げています。まず、分析の視角として、平等に関する、というか、不平等を形成してきた歴史の中で果たした闘争とパワーバランスの重要性に着眼しつつ、闘争とパワーバランスだけに不平等の是正や平等の達成を委ねる両極端な見方を排しています。かつて土地持ちといわれた不動産所有を基盤とする不平等から、マルクス主義的な生産手段所有を基盤とする不平等、そして、最近では金融資産所有を基盤とする不平等までを視野に入れ、もちろん、その上で不平等をもたらす要因として、所得、そして、その所得の基礎となる学歴、年齢、職業、性別、出身地あるいは出身国、などなどの要素をあげています。個人ではなく、国レベルの不平等については、当然、産業革命が起源となります。ポメランツ『大分岐』などを引いています。そして、経済社会基盤としては個人間では奴隷制、国レベルでは植民地主義などが不平等をもたらす歴史を概観しています。もちろん、歴史的に一直線に不平等が拡大してきたわけではなく、米国のリンカーン大統領による奴隷解放、その前の歴史的イベントとしてのフランス革命による身分制の廃止などがあります。しかしながら、現在の民主主義も、元はといえば、納税額などにより不平等を容認した選挙制度から始まっています。女性まで参政権を拡大したのはそう昔のことではありません。そして、本書では、第1次世界大戦が始まった1914年から欧米で新自由主義政権が相次いで樹立される1980年までを「大再分配」と名付けて第6章で分析しています。その主要な政策手段は、課税前所得の格差を縮小させる累進課税と社会国家を上げています。私はやや不案内なのですが、本書でいう「社会国家」というのは、福祉国家に近い概念と受け止めました。もっとも、それほど自信があるわけではありません。加えて、歴史的な事実として、累進課税が普及してもイノベーションや生産性向上が阻害されることはなかった、との分析結果を示しています。ただ、1980年ころから格差が拡大し始めます。基本的には、明記していませんが、新自由主義的な方向への政策転換が大きいと私は受け止めています。米国では、激しい反労働組合政策と最低賃金の下落を本書では上げています。加えて、教育の機会均等が事実上失われていて、高所得者の子弟が大学進学で極めて有利になっている事実を指摘しています。そして、それに対する対抗軸として、ベーシックインカムとグリーン・ニューディールに基盤を置く雇用政策を上げています。最後に、1点だけ指摘しておきたいと思います。すなわち、日本以外の欧米先進国では1980年以降に高所得者がさらに所得を増やす形で不平等化が進みました。他方、日本では低所得者がさらに所得を減らす形で不平等化が進んでいます。この点は忘れるべきではありません。ですから、日本ではピケティ教授が考える以上に、というか、欧米諸国以上にベーシックインカムとグリーン・ニューディールのための雇用政策が、特に低所得者層に有効である可能性が高い、と私は考えています。

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次に、妹尾麻美『就活の社会学』(晃洋書房)を読みました。著者は、追手門学院大学社会学部准教授です。タイトル通りに、社会学的な分析がなされており、統計的な、というか、数量分析よりも、インタビューによるケーススタディが中心です。本書では、自由応募による就職活動を対象にしています。ですから、教授が就職先を割り振るような形の就職活動は含まれていません。学生サイドの就職活動としては、ネット上でエントリーシートを提出し、面接に進む、という形が多いのだろうと想像しています。そして、いわゆる「ガクチカ」といわれる学生時代に力を入れた活動とともに、サブタイトルにあるように、就職してから「やりたいこと」も学生は語る必要があります。というか、学生は聞き手への忖度に基づいて、企業やメディアが求める学生像に合わせて「やりたいこと」をいかにも自発的に語らされる就活を社会学的に分析しています。ただ、日本では広くメンバーシップ型の就職であり、本書でも、学生の就職とは企業を選ぶことであって、企業の中で何の仕事をするかは学生ではなく企業が決める、というのも一面の真理があるのではないかと思います。別の見方で、その昔にいわれたことで、「やりたいこと」を永遠に探すのがフリーターである、という考え方も成り立つ余地があります。「やりたいこと」を語らされた上に、実際にやらされることは企業の方で決める、というのは大きな矛盾かもしれません。そういった中で、大学のキャリア教育についても目を向けられており、インタビューの対象にもなっています。ただし、キャリア教育政策が労働市場におけるキャリアの曖昧さを過度に想定している、という批判も明らかにしています。はい、私もそう思います。私自身は、キャリア教育を担当しているわけではありませんが、キャリア教育にどこまで意味があるのかは不明ながら、大学では必須とされている不思議を感じます。そして、本書では、最初から最後まで底流を流れているのは、ライフコースという見方です。かつては、大学を卒業するところにもかかわらず、ほとんど「白紙状態」で就職し、終身雇用とさえ呼ばれた長期雇用システムの下で、男性基幹社員は定年まで無限定に長時間働き、それには、家事や育児に加えて介護まで家庭を仕切ってくれる専業主婦の存在が不可欠でした。逆に、女性は限界的な役割を担う労働者として結婚や出産までの短期間だけ働き、結婚・出産後は夫を家庭から支える役割を期待されていました。そして、子育てや介護から開放されればパートタイムに出るわけです。しかし、グローバル化が進んで世界的な競争が激化し、日本企業の体力が低下している中で、こういった役割分担的な家庭は少数派となり、共働き世帯が専業主婦世帯の3倍に上るという現実もあります。加えて、そういった就業や家庭が変化し、就職活動が変容するのであれば、教育と就労の接点である大学教育も何らかの変化が避けられません。その意味で、とても参考になった読書でした。

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次に、ブライアン・クラース『なぜ悪人が上に立つのか』(東洋経済)を読みました。著者は、米国生まれで英国オックスフォード大学で博士号を取得し、現在はユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの国際政治学の准教授です。冒頭に難破船から助かって無人島にたどり着いた人々の同じようなグループに着目して、独裁的なリーダーが出現しておぞましい結果を招いた例と、階層なくフラットな関係で友好的な関係を維持して救助された例の2つを示し、実は、難破船から無人島にたどり着くグループではなく、実際の現実的な社会においては前者のケースが少なくない点が強調されます。その上で、3つの問と1グループの解答を示そうと試みています。問は、サイコパスのような人物が権力を握るのか、そうではなく、権力に就くとサイコパスのような独裁者になるのか、はたまた、市民がサイコパスのような人物を指導者に選んでしまうのか、という3点であり、当然ながら、サイコパスのような独裁者が権力を握るのを防止し、模範的な指導者が権力に就くようにするための方策が10点に渡って提案されています。はい。極めて示唆に富む多数の事例が引かれています。アフリカや中南米の独裁者、あるいは、米国の住宅管理組合=Home Owners Associationの管理者、そして、明示はされませんが、企業のCEOや管理職の中にも決して少なくなく存在すると示唆しています。私は私立大学の教員ですので、同業者の中には私立大学の理事長を上げる人がいそうな気がします。広く報じられたところでは、日大の理事長がそうでしたし、東京女子医大の理事長経験者も最近逮捕されたことはニュースになっていたりしました。そして、本書で上げられている防止策については、読んでみてのお楽しみなのですが、1点だけ私の考えを明らかにすれば、くじ引きに基づく民主主義がひとつの選択肢になる可能性があるのではないかと考えています。かつて西洋の古典古代でも実践されていたことがありますし、現在の投票による民主主義が、先の兵庫県知事選挙なんかを念頭に置いて、ホントに、本書の観点からして、好ましい結果をもたらしているかどうかは小さからぬ疑問があります。もちろん、SNSの悪影響もあ否定できません。でも、そうでなくても、日本の国会議員や総理大臣に世襲が極めて多いのは、国民の多くが感じているところではないでしょうか。民主的な投票で選ばれているから世襲もOK、という点は強調されて然るべきですが、どこまでホントに自由な投票かは疑問です。単に投票で選ばれているという形式的な点だけに着目すれば、中国だって、北朝鮮だって投票で選ばれているのではないか、という気がします。ですので、私自身は投票に100%の信頼を置いたり、投票以外の指導者選出方法を否定するのはひょっとしたら危険なのではないか、と考え始めています。マルクス主義的な暴力革命はまったく可能性がない上に、百害あって一利なし、といわざるを得ませんが、くじ引きにより指導者を選出する、あるいは、チェノウェス教授の『市民的抵抗』で示唆されているような直接的な行動、などなどを指導者選出のひとつの方策とする可能性も決して無条件に排除することができない、と考え始めています。ただ、本書の指摘通り、基本はチェック・アンド・バランスによる市民による指導者の監視がもっとも重要です。それだけに、監視される側の指導者とともに、監視する側の市民の教養やバランス感覚、常識的な判断能力などのリテラシーが問われるところではないか、と考えます。こういった基礎的なリテラシーの涵養のためにも大学が果たすべき役割は決して小さくないと思います。

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次に、スティーヴン・キング『ビリー・サマーズ』上下(文藝春秋)を読みました。著者は、ホラー小説の帝王とも呼ばれる小説家です。本書は、作家デビュー50周年記念の一環としての出版です。ホラーではなくて犯罪小説=クライム・ノベルと呼ぶべき作品で、近代物理学に反する現象や存在は出現しません。本書のタイトルは主人公の名前であり、ビリーは米軍の海兵隊を除隊してから殺し屋家業をしています。ただし、誰でも暗殺するというわけではなく、悪人しか標的にはしないというのがポリシーです。基本的に、ゴルゴ13と同じスナイパーと考えてよさそうです。そのビリーが40代半ばにして引退を決意し、自叙伝ともいえる小説を書き始める一方で、とても報酬のいい最後の仕事を請け負うところから物語がスタートします。そのため、小さな町に作家のフリをしながら潜伏して殺しの準備を進めることになりますが、この仕事にはなにかウラがあるような胡散臭さを嗅ぎつけて、ビリーは作家のフリに加えて、独自の逃走ルートのために、もうひとつの隠れ家的な潜伏先を設けて三重生活を送ることにします。すなわち、作家のフリをして原稿執筆するのは標的が護送されてくる裁判所の近くの依頼主が借りたオフィス、そして、ビリーの生活のために依頼主が借りた住宅、そして、依頼主から逃れる可能性も考えてビリーが別名で借りた別の住宅、ということになります。上巻の舞台はイリノイ州南部と示唆されます。すなわち、ミシシッピ川の東に位置して、北部と南部の分岐であるメイスン・ディクスン境界線のすぐ南にある小さな町で、標的となる人物が警察によって裁判所へ護送されてくる機会を待ちます。この際、ビリーはホントは極めて聡明であるにもかかわらず、「おバカなおいら」を演じます。依頼主が借りた住宅では、絵に書いたような米国的なご近所との交流がなされます。そして、依頼主のミッションを終えて、警察などの当局と依頼主の両方から逃亡を始めようとするビリーは、レイプされて死にそうな20歳そこそこのアリスを拾ってしまいます。そして、ビリーとアリスの2人組の逃亡劇が始まるわけです。この下巻の逃亡劇は怒涛のように展開します。そのあたりは読んでみてのお楽しみ、ということになります。ただ、出版社のうたい文句にあるように「キング史上最も美しいラストに涙せよ」というのは、出版社自身が宣伝文句にしているわけですので、ネタバレでも何でもないと思います。いや、さすがに圧巻の小説でした。上巻の緻密な構成と展開、下巻の一気に驀進するストーリー、上下巻とも300ページを超え、合わせて600ページ強あり、しかも、2段組でびっちり文字が各ページに埋め尽くされています。もともと、長くて詳細な記述の小説が得意な作者のキングではありますが、ボリュームに負けずに読み通すことは、この作品の場合は決して難しいことではないと思います。一気に読めます。

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次に、朝日新聞「国立大の悲鳴」取材班『限界の国立大学』(朝日新書)を読みました。著者は、朝日新聞紙上とデジタル版でこの問題に関する特集記事を展開した取材班です。テーマは、いうまでもなく、2004年に導入されて20年を迎える国立大学法人化の首尾です。アンケートやインタビューを駆使した取材結果に照らし合わせた判定は明らかに失敗だった、という結論かと思いますが、その失敗の原因についてはもう少し掘り下げて欲しい気がして、私には物足りない部分が残りました。ただ、日本の場合は大学のクオリティは圧倒的に国立大学に分があって、私立大学は国立大学トップには叶わないわけですので、教育についても、研究についても国立大学を対象に検証や分析を試みるのは意味があると考えるべきです。ということで、一応、私は国立大学と私立大学の教員をどちらも経験しています。キャリアの国家公務員からの現役出向として長崎大学に2年間単身赴任しましたし、国家公務員を定年退職した後に現在の立命館大学でほぼ5年間のongoingの教員経験があります。長崎大学での経験はもう15年も前のことで、国立大学法人化がなされた数年後であり、毎年1%ずつ削減される運営費交付金の削減額もまだそれほど深刻な影響を及ぼしていなかった気がします。ただし、私がいずれも経済学部の教員でしたので理工学系の大規模な実験設備に資金が必要というわけではなく、ソフトウェアと書籍や何やを買うくらいで、研究費がとんでもなく不足したという記憶はありません。とんでもなく不足しているわけではありませんが、常に研究費の不足には悩まされていました。長崎大学のころにはテレビ局からお呼びがかかったにもかかわらず、旅費が捻出できずにテレビ出演がボツになった経験もあります。ただ、研究を離れて教育に目を向ければ、国立大学と私立大学で圧倒的に違うのはST比です。私立大学は学生がいっぱいいて、多くの授業のコマ数を担当せねばなりません。長崎大学在籍当時は運営費交付金の削減が進んでいなかったこともあって、非常勤教員や任期付教員はそれほどいませんでしたが、現在、こういったいわば大学教員の非正規雇用が進んでいるのは、運営費交付金が削減されたためであると同時に、国立大学の評価のひとつの項目に常勤教員1人当たりの研究成果があるのも関係している可能性があります。分母の常勤教員を減らしておけば、この評価項目は高くなったりするわけです。ただ、何といっても、国立大学の研究力がここまで落ちたのは、政府の「選択と集中」による研究費の分配であることは明らかです。基礎研究はかえりみられることなく、製品化に近い研究ばかりが重視され、大学の研究が企業に下請けになっている感があります。政府の文教・研究政策だけでなく、ひとつには、本書で掘り下げられていない企業の能力低下が上げられます。これほど利益剰余金を積み上げながら、研究開発の能力が中国や欧米先進国に比べて相対的に低下した企業が多数に上るのは、多くのビジネスマンが実感しているところではないでしょうか。そして、その企業の能力低下のツケを交付金削減の憂き目にあっている国立大学にツケ回ししているように見えます。他方で、政府、というか、「財務省が押し切る」という表現もあるものの、その責任の重大性が見逃されている気もします。この点ももっと掘り下げて欲しく、大学教員として物足りませんでした。もちろん、私大についてはまったく無視されています。本書p.37でも指摘しているように、国立大学86校には1兆円余の運営費交付金が配布されている一方で、学生数で3.6倍に上る620校ほどの私大には3000億円しか助成金が割り当てられていません。この現状も何とかして欲しいと考えている私大教員は私だけではないと思います。

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次に、竹中亨『大学改革』(中公新書)を読みました。著者は、大学改革支援・学位授与機構教授です。本書は、法人化されて20年を経過した国立大学を主たる対象として日本とドイツの大学改革について基本となる理念や理論的背景を含めて解釈と解説を試みています。本書の記載順を離れて、私なりに本書を解釈すると、まず、大学改革が1990年代、特に1990年代後半に国際的に盛り上がった背景には、いわゆるニュー・パブリック・マネジメント(NPM)の影響があると本書では指摘しています。さらに、その背景には大学のオープン化/パブリック化があります。すなわち、長らくエリート層の特権っぽく見えていた大学進学が一般市民、という表現もヘンなのですが、大学が広く中等教育終了者に開放されて、学齢期市民の約半分ほどが大学に進学することになります。高校については、その前から日本では実質的に進学率が100%近くに達していたのは広く知られている通りです。学齢期の半分が大学に進学するだけでなく、同時に、学齢期以外の市民にも広く開放されることになります。たとえな、学び直し=リカレント教育で社会人が、会社に勤務しながら、あるいは、会社の休みである週末や夜間を使って大学院に通う、ということも広がり始めたからで、したがって、国立大学の法人化や運営費交付金の削減をヤメにして、昔の形に戻っても問題は解決しない、と本書では指摘しています。ですので、クラークの三角形と呼ばれる国家規制/市場メカニズム/教授自治の3要素でコントロールする、あるいは、クラークの三角形を拡張した5累計からなるイコライザーでコントロールする必要があると論じます。このあたりは、エスピン-アンデルセンによる福祉レジーム論と通ずるものがあると私は感じました。それはともかく、日本があたかもお手本にしているかのような米国の大学は、東海岸のアイビーリーグをはじめとして、市場メカニズムにより私立大学をコントロールするわけですので、同じく私立のオックス-ブリッジが飛び抜けた存在となっている英国とともに、日本の国立大学に適用するのは難がありそうだというのはよく理解できると思います。ですので、ここで州立大学が少なくないドイツが登場するわけです。ただ、この先で、ドイツの大学と日本の大学のそれぞれの改革についての本書の議論は、私にはよく理解できませんでした。要するに、結果として、ドイツはうまくいっていて、日本は失敗である、というのは明らかなのですが、その原因が何であるのかは本書では十分に分析しきれていないきらいがあります。少なくとも、ドイツの大学評価は日本と比べて大雑把でゆるやか、というのは理解しましたが、それがなぜ日本とドイツを分けているのか、そのあたりの分析は十分でないと私は受け止めました。誰が見ても日本のトップ校である東京大学とに対して、本書でしばしば登場する鹿屋体育大学を同じ土俵で同じ尺度で評価するのは、明らかに間違っているのは理解します。本書が指摘するように、法人としての大学をいっしょくたにして同じ基準で評価するのは、義務教育と高等教育を同列に見てい謬見に基づくものであり、確かに批判に耐えないことと思いますが、逆に、ドイツはどうしてうまくいっているのか、単に評価が緩やかなだけなら、本書で否定しているような「昔に戻す」で十分ではないか、と私は受け止めてしまいました。たぶん、私の読み方が不足している可能性が高いとは思いますが、少し物足りない読書でした。


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次に、鈴木俊幸『蔦屋重三郎』(平凡社新書)を読みました。著者は、中央大学文学部教授であり、ご専門は近世文学や書籍文化史だそうです。本書は、やっぱり、NHK大河ドラマのお勉強として読んでいまして、話題となっている蔦屋重三郎についての教養書です。特に、文化史の背景が詳しいです。すなわち、蔦屋重三郎が活躍した18世紀後半の江戸には、喜多川歌麿、東洲斎写楽、山東京伝、大田南畝といった江戸文化を彩る浮世絵や文学の花形スターが相次いで登場し、一大旋風を巻き起こしました。これらのスターたちの作品を巧みに売り出し、ご本人のホームグラウンドでもある吉原とともに江戸文化の最先端を演出したのが、版元の「蔦重」こと蔦屋重三郎です。それまでのお江戸の文化といえば、17世紀末から18世紀初頭の元禄文化があったとはいえ、まだまだ、京や大坂といった上方文化には太刀打ちできず、上方からの「下りもの」を有り難がっていたりしました。ですから、江戸の中や近在で取れた産物は「下らない」ものだったわけです。しかし、蔦重が活躍した18世紀末になると江戸の地場の文化が花開きます。江戸っ子の文化が成立したともいえます。本書ではその中心として蔦重を、現代的な表現をすれば、仕掛け人=プロデューザーとして取り上げています。本書では、特に、絵画としての浮世絵とは別に、文学としての狂歌に注目していて、狂歌はそれまで読み捨てられていたものであるにもかかわらず、蔦重が編集して書籍として出版した成果に着目しています。読み捨てで終わらず出版したからこそ、現在まで残されているのはその通りです。ですから、「世の中に蚊ほどうるさきものは無しぶんぶといふて夜も寝られず」といった寛政の改革を皮肉った狂歌が現在の社会科の教科書に掲載されていたりするわけです。本書では、この寛政の改革に先立つ田沼時代に対して一定の評価をしており、学校教育における「悪者」という位置づけに対して批判的な見方を示しています。また、寛政の改革についても、田沼時代の反動としての緊縮財政だけでなく、教育改革、すなわち、学問レベルの向上を目指すもの、という面も強調しています。ですから、これも皮肉なのですが、寛政の改革による学問振興により、無学な武士が質素・倹約・齟齬といった漢字を覚えて喜んでいる、といった事実も指摘しています。NHK大河ドラマはさておいても、私は独身のころに吉原にほど近い東京の下町に住んでいましたので、なかなか、勉強になる読書でした。

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2025年2月 1日 (土)

今週の読書は米国経済の学術書をはじめ計5冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、渋谷博史『アメリカ「小さな政府」のゆくえ』(勁草書房)では、米国の伝統的な「小さな政府」の観点からオバマ政権によるオバマ・ケアや世界の警察官からの撤退について財政政策とともに議論しています。レイ・カーツワイル『シンギュラリティはより近く』(NHK出版)では、冒頭の各章はAIの研究開発の現状について詳説し、続く章では生活面での大きな変化や雇用などの経済面へのAIの関わり、そして、最後にはリスクを考えています。村木嵐『まいまいつぶろ 御庭番耳目抄』(幻冬舎)は、前作『まいまいつぶろ』の続編であり、徳川家重と大岡忠光の主従から少し離れて、前作にも登場していた御庭番の万里こと青名半四郎が見聞きしたことについて取りまとめたという形式を取った5話の連作短編集となっています。水野和夫・島田裕巳『世界経済史講義』(ちくま新書)は、13世紀以降の経済の歴史を取りまとめていますが、経済活動をリターンを生む投資に限定しているようで、生産や流通、また、消費などの経済活動に視点が及んでいません。有栖川有栖『日本扇の謎』(講談社ノベルズ)では、京都府北部の舞鶴で中学校教師の藤枝未来が記憶喪失の武光颯一を見つけます。この青年は京都市内洛北の素封家一家、父親が著名な日本画家であるとの身元が判明し、実家に帰宅した後、出入りの女性画商である森沢幸恵が刺殺され住んでいた離れで発見され、武光颯一も失踪する、という謎を火村英生が解き明かします。
今年の新刊書読書は年が明けて先週までに10冊を読んでレビューし、本日の6冊も合わせて16冊となります。なお、Facebookやmixi、あるいは、経済書についてはAmazonのブックレビューなどでシェアする予定です。

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まず、渋谷博史『アメリカ「小さな政府」のゆくえ』(勁草書房)を読みました。著者は、東京大学教授なのですが、経済学部ではなく社会科学研究所をホームグラウンドとしたエコノミストであり、ご専門は福祉国家論やアメリカ財政論などです。本書は、出版社からして、ほぼほぼ完全に学術書と考えるべきです。ですので、専門外の私には少し難しかった点があるのは確かです。ということで、本書では、米国の伝統的な「小さな政府」の観点からオバマ政権によるオバマ・ケアや世界の警察官からの降板について財政政策とともに議論しています。すなわち、建国以来米国が構築し、維持してきた「小さな政府」が21世紀の現在、特に、明示的にはリーマン・ショック後の2009-17年のオバマ政権、2017-21年のトランプ政権、さらに、すでに終了した2021-25年のバイデン政権でどのように変容し、世界的な構造変化の中で対応してきたのか、について国家や政府を主として財政の観点から分析しようと試みています。いうまでもなく、「小さな政府」の基本にあるのは、国家や政府ではなく個人の自由を守るという米国建国以来の観点です。ただ、本書ではそれほど注目していませんが、連邦政府は小さくとも、州政府はそれなりのサイズを有する場合が少なくない、という連邦制国家についてももう少し言及が欲しかった気がします。そういった「小さな政府」の伝統の中で、本書で注目するのは、第1にオバマ政権期のいわゆるオバマ・ケア、すなわち、高齢者や障害者向けのメディケアと低所得者向けのメディケイドです。次いで、第2に、世界の警察官としての治安維持のための公共財の供給です。まず、第1の点に関して、現在のつい2週間ほど前に大統領に就任して開始された第2期トランプ政権では、議会の承認の必要なく大統領令で実行可能な政策が次々と矢継ぎ早に打ち出され、早々にバイデン前政権のリベラルな諸政策が否定されようとしていますし、新たな関税障壁などの導入も始まっています。ただ、決して忘れるべきでないのは、本書で注目しているオバマ・ケアについては、第1期トランプ政権で否定されなかったばかりではなく、現在まで寿命を長らえています。この理由として、本書ではオバマ・ケアは米国の自由の基盤に反するものではないとし、当時のオバマ大統領のスピーチから引用して「家族を養えるような仕事」に従事し、「病気になったからといって破産せずにすむ」制度の必要性をポイントに上げています。第2の点として、もはや「世界の警察官ではない」に関しては、もちろん、米国の相対的な国力の低下はあるとしても、オバマ政権期の国連常任理事国5か国間の平和的な外交に力点を置きつつ、そのバックグラウンドとして米国の軍事力を位置づける、という論理構成であると分析しています。ただ、この点については、現在の第2期トランプ政権では、報道ベースで私が知る限りでは「軍事費のGDP比5%」という主張もあるようですし、私にはまだよく整理がついていません。現在のトランプ政権では関税引上げを政策手段、というか、脅しや恫喝に近い取引材料として提示し、相手国からの譲歩を引き出す、という姿勢のように見えます。私は専門外ながら、関税引上げという政策手段は経済合理的な結果を得るためには、ひょっとしたら、一定の有効性ある可能性は否定しませんが、軍事行動については経済合理性の外にある可能性が高く、ロシアに対して関税引上げをテコにしてウクライナ侵略という目的を達成できるのかどうか、はなはだ疑問です。最後に、本書は現在の第2期トランプ政権はスコープに収めていませんが、今後の米国を考えるうえでとても参考になります。学術書としてハードル高いながら、それでもオススメです。

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次に、レイ・カーツワイル『シンギュラリティはより近く』(NHK出版)を読みました。著者は、Google者の主任研究員であり、AI研究開発の世界的権威だそうです。本書は、2005年に出版された Singularity Is Near の続編ともいうべきもので、英語の原題は Singularity Is Nearer であり、2024年の出版です。なお、Singularity Is Near の邦訳書タイトルは『ポスト・ヒューマン誕生』だそうです。勉強不足にして、私はこの前書は読んでいません。ということで、AI研究開発の世界的権威らしく、冒頭の各章はAIの研究開発の現状について詳説し、続く章では生活面での大きな変化や雇用などの経済面へのAIの関わり、そして、最後にはリスクを考えています。誠に不勉強ながら、特に本書の最初の方では専門外の私には理解が及ばないところが多かった気がします。そして、第4章の生活を取り上げたあたりから理解が進みます。以下、第5章は雇用や労働、第6章は健康と医療、そして、第7章と第8章では潜在的なリスクについて着目しています。繰り返しになりますが、本書冒頭の3章くらいまでは私の理解が及びませんでしたが、ほのかに、あくまで「ほのかに」ではありますが、「共創造」という用語を用いている点などから、埋込み型や接続型のAI活用が先行き想定されている、という点は理解したような気がします。ですので、埋込み型AIないしは接続型AIであれば、第6章の健康や医療は伊藤計劃の『ハーモニー』の世界に近くなるように想像しています。さかのぼって、第4章の生活に関しては、もはや大きな変化が生じていることは明らかです。それを現時点のGDPで計測しきれていないことも明白です。経済学的にいえば、ヘドニック型の測定ができていない、すなわち、性能の向上に見合った市場価値、というか、付加価値の計測に失敗している、ということになります。その昔のメインフレーム・コンピュータよりも格段に進歩した情報処理能力を持った携帯デバイスが、せいぜい数万円で買えるのですから、能力に比較して市場価値が大きく過小評価されているのは明らかであり、市場取引の価格に応じて積み上げられるGDPについても、それだけの生活の向上に見合った統計を弾き出していない点も認めざるを得ません。第5章の雇用については、基本的に英国オックスフォード大学のフレイ-オズボーンの研究成果に基づいた分析が展開されており、多くの雇用が失われる点は、これまた、明らかです。ただ、新たな雇用が生み出されたという歴史的な経験から、本書はそれほど悲観していません。新しい雇用が何かについては言及がありません。その昔に、馬車のタクシーで必要だったスキルと現在の自動車を運転するタクシーのスキルは、道路事情を把握するという限定的な一部は別にして、おそらく大きく異なりますし、将来的に自動運転が可能になった際のスキルはさらに大きく違ってくることは明らかで、現時点では想像できない、というのは理解すべきです。最後の第7-8章ではリスクについてリストアップしています。もっとも大きなリスクは、明らかに、グレイグー(英語ではgray goo)といえます。すなわち、本書で重視しているナノマシンのレベルのお話しながら、自己増殖するナノマシンがすべてのバイオマスを使ってメチャクチャに増殖して地上を覆い尽くす、というリスクです。私はどこまで現実性があるのかは判断できません。それよりも、人類よりも格段に知能が発達したAIが人間をペットにする、現在の人類とイヌ・ネコと同じような関係を個人的に想定しています。同じことながら、一昔前まで人類の役に立っていた輸送手段としてのウマと人類の関係です。ですので、想像力乏しい私にはイメージできないながら、AIの役に立つ人類の一部がAIに飼ってもらって生存のための食料ほかをAIから与えられる、という将来です。SNSで見る限り、私はいい飼い主のAIのペットになるのは悪くないと受け止めています。ただ、AIの役に立たなければ、野良イヌや野良ネコならぬ野良人間になって、保健所で殺処分される可能性は否定できません。AIは人類よりも慈悲深いとは思いませんが、殺処分なんかよりもずっと効率的な野良人間の処分を考えてくれることを期待するばかりです。

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次に、村木嵐『まいまいつぶろ 御庭番耳目抄』(光文社)を読みました。著者は、小説家であり、同じシリーズ前作の『まいまいつぶろ』でデビューしています。司馬遼太郎家の家事手伝い、とか、司馬遼太郎夫人である福田みどり氏の個人秘書を務めていたそうです。本書は、繰り返しになりますが、前作『まいまいつぶろ』の続編であり、徳川家重と大岡忠光の主従から少し離れて、前作にも登場していた御庭番の万里こと青名半四郎が見聞きしたことについて取りまとめたという形式を取った5話の連作短編集となっています。さすがに、前作と同じようなトピックも散見され、前作と比較すればかなり落ちると覚悟して読んだ方がいいと私は思います。第1話「将軍の母」では、タイトル通りに、8代将軍徳川吉宗の母である浄円院が主役となりなす。紀州から江戸に向かう浄円院に同行する青名半四郎は御庭番と見抜かれ、江戸到着後は孫の長福丸(後の徳川家重)を思う浄円院の心と行動が描かれます。第2話「背信の士」では、将軍徳川吉宗の享保の改革を推進した老中松平乗邑が主役となります。幕政改革には邁進した一方で、最後まで徳川家重廃嫡の立場を崩しませんでした。私はこの短編がもっとも評価高いと思います。第3話「次の将軍」は後の10代将軍、すなわち、徳川家重の嫡男竹千代、早くに元服した徳川家治が主人公となります。徳川家重の将軍就位にこの徳川家治の果たした役割は極めて大きく、この短編の眼目となります。8代将軍徳川吉宗は幼少の孫竹千代を可愛がり、その聡明さを見抜く一方で、徳川家重の実力にも気づいていて、その姿から学ぶように徳川家治を導きます。他方、徳川家重は徳川家治に対して祖父徳川吉宗から学ぶようにと申し渡します。第4話「寵臣の妻」では、タイトル通り、徳川家重の口となり通辞に専心してきた大岡忠光の妻の志乃が主人公となります。大岡忠光が禄高5000石に出世した翌年、志乃と13歳となった嫡男の大岡兵庫の母子2人が大岡越前守忠相の役宅に初めて招かれ、大岡忠光が江戸城内でどのような働きをしているのかを知ります。そして、紙1枚も受け取ってはならないという厳しい大岡忠光のいいつけを課された家の実情を明らかにしています。最後の第5話「勝手隠密」では、万里本人も主人公となります。やや複雑な短編ながら、後に大名や老中まで上り詰める田沼意次が登場し、その能力の高さが明らかにされ、大岡忠光が徳川家重の通辞役を辞する決意をした際、将来への伏線とした最後の行動、というか、訪問先も注目です。そして、タイトル通り、御庭番として徳川吉宗の死後にも、勝手隠密と自称して、さまざまなコトの成り行きを見つめてきた万里自身が浅草箕輪の寺社町の一隅に仕舞屋を借りて晩年の姿を明らかにして物語が終了します。当然ながら、本書だけを単独に評価するのは難しく、前作に続いて読むことは最低条件です。でも、これまた繰り返しになりますが、前作の裏話的な位置づけであり、前作からはやや落ちる、と覚悟して読むべき作品だと思います。

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次に、水野和夫・島田裕巳『世界経済史講義』(ちくま新書)を読みました。著者は、エコノミストと宗教家です。本書は、朝日カルチャーセンター新宿教室のオンライン講義を取りまとめたものです。対談ですので、ボリュームありますが、それほどの中身はなく、経済史の専門家による教養講座でもありませんし、軽く世界史の講義を経済の観点から流している、という印象です。近代歴史学を開始したランガー的な歴史学ではなく、ここ何年かの流行のグローバル・ヒストリーで地理的な連関を重視しているわけでもなく、聴講生のいろんな関心に沿ったトピックについて通俗的な歴史が語られています。ですので、学問的な正確性には欠ける気がしますが、とても一般教養としてはいいのではないかと思います。ただし、本書では、13世紀以降の経済の歴史を取りまとめていますが、経済活動をリターンを生む投資に限定しているようで、生産や流通、また、消費などの経済活動に視点が及んでいません。私は、経済学部生ならざる他学部生に対して大学で経済学を教える機会が多々あります。その際には各セメスターのなるべく早い回の授業で、経済とは何か、経済学とは何か、について解説しておくことにしています。本書では、冒頭第1章で経済の始まりとして13世紀を想定し、なぜそうなのかの解説に、「投資という概念を意識した経済活動」として、利子がつく、という観点から、経済とは投資に対するリターンを得る活動であり、経済学とは投資に対するリターンを考える学問である、というふうに私は読んでしまいました。まあ、それでも一般向けにはいいのでしょうが、せめて、生産や流通、あるいはその先にある消費についても目を配って欲しかった気がします。私が考えるに、経済学とは制約条件下での最適化行動の分析、典型的には1000円の予算で1個100円のミカンと1個200円のリンゴをどういった組合せで買うのが効用最大化という最適化をもたらすか、というミクロ経済学を基本とします。アダム・スミスらの古典派経済学者以来の業績です。ですので、最適化行動という観点から、結婚する・しない、あるいは、誰と結婚する、いつ結婚する、といったベッカー的な分析も可能です。もちろん、2人の相手とは結婚できない、という制約条件が課されるわけです。その上で、マクロ経済学では、制約条件をいかにして緩めることができるか、先ほどの例でいうと、予算制約1000円ならば所得を増やして1200円とか1500円とかにして、その分、豊かな消費生活ができるようにする、あるいは、予算制約が時とともに大きく変動せずに安定的な消費生活が計画できるようにする、はたまた、ミカンやリンゴの単価が合理的な経済行動を考えるする際に混乱をもたらすほど大幅に上昇や下落しないように物価の安定を図る、などといった観点を持込みました。主として、マクロ経済学の観点を切り開いたのはケインズ卿の業績といえます。ですので、帝国と国民国家との関係にそれほど目を向ける必要はないように私は思います。生産・流通・消費、あるいは、生産能力の拡大という観点での投資といった経済活動の歴史をもう少していねいに見るべきであって、金融活動、そして、金融の観点からの投資とそれに対するリターンだけが経済ではありませんし、その歴史が経済史というわけでもありません。ただ、繰り返しになりますが、経済学や学問としての経済史ならざる一般教養、あるいは、時間つぶしの読書としてはいいセン行っていると思います。

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次に、有栖川有栖『日本扇の謎』(講談社ノベルズ)を読みました。著者は、本格推理作家であり、自身のペンネームを主人公とする学生アリスと作家アリスのシリーズが有名です。本書は後者の作家アリスの国名シリーズ最新作であり、謎解きの名探偵は英都大学准教授の火村英生となります。国名シリーズ第10作ということのようです。たぶん、私は国名シリーズはすべて読んでいると思います。忘れているのもいくつかありそうですが、一応、すべて読んでいるのだろうと思います。ということで、本書は、京都府北部の舞鶴で中学校教師の藤枝未来が記憶喪失の武光颯一を見つけます。この青年は京都市内洛北の素封家一家、父親が著名な日本画家であるとの身元が判明し、実家に帰宅した後、出入りの女性画商である森沢幸恵が刺殺され住んでいた離れで発見され、武光颯一も失踪する、という謎を火村英生が解き明かします。まず、藤枝未来が発見した際に、武光颯一の唯一の所持品が日本扇であり、亡くなった父親の富士山の絵があしらってあり、そこから身元が判明します。本書のタイトルの所以です。武光颯一は一浪した後の大学受験の直前に家出し、6年8か月に渡って行方不明となっていて、しかも、舞鶴で発見された時は記憶喪失状にありました。洛北の実家に戻って離れで生活していましたが、著名な日本画家であった父親の存命のころからの出入りの画商である森沢幸恵が刺殺されて、その離れで発見されます。しかも、その離れは密室状態でした。しかもしかもで、その上に、せっかく家出した失踪状態から実家に戻ったばかりの武光颯一が再び行方不明になってしまいます。しかも、またまた、日本扇もいっしょになくなっています。ほとんど、何の手がかりもないながら、武光颯一が家出していた6年半余りの間を知る関係者が現れ、後半は急展開でストーリーが進みます。もちろん、最後はすべての謎を火村英生が解き明かします。当然です。でも、ミステリ作品でもありますし、そのあたりは読んでみてのお楽しみです。最後に、この国名シリーズではないのですが、同じ火村英生の作家アリスのミステリ作品で、前作の『捜査線上の夕映え』あたりでも感じたことながら、論理的な決定性に欠けるミステリ作品のように思う読者がいそうです。私はエコノミストですから5%の統計的有意水準で帰無仮説が棄却されればOKなのですが、本格ミステリ作品のファンの中には物足りなさを感じる読者もいるかもしれません。本書では、特に、火村英生が一堂を集めて謎解きを開始するに当たって明示的に「つじつまを合わせる」という表現をしています。ですので、火村英生が提示するのは、逆から考えて、もっとも蓋然性が高い事件の真相であり、100%の論理性は犯人の自白などからしか得られない、ということになります。繰り返しになりますが、私はエコのミストですので、これでOKです。例えば、宇宙人の存在、というか、正確にはホモ・サピエンス誕生以降の宇宙人から地球や人類へのコンタクトはなかったと私は考えていますが、100%の確度での証明は事実上不可能です。存在や可能性をゼロとするのは、いわゆる「悪魔の証明」ですからムリがあり、確率的に5%とかで有意に帰無仮説が棄却されれば十分と考えます。その意味で、本書も私的にはOKなのですが、物足りないと感じる読者がいる可能性は否定できません。

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2025年1月25日 (土)

今週の読書はマクロ経済統計に関する経済書をはじめとして計6冊

今週の読書感想文は、マクロ経済統計に関する経済書をはじめとして計6冊、以下の通りです。
まず、佐々木浩二『マクロ経済学の統計[第2版]』(三恵社)は、SNA統計に大きな中心を置いて4部構成となっており、フロー統計、ストック統計、制度部門別統計、政策評価のための統計それぞれの解説を試みています。稲葉陽二『ソーシャル・キャピタル新論』(東京大学出版会)では、「日本社会の『理不尽』を分析する」ため、人脈に近い概念であるソーシャル・キャピタルに関して、著者なりの従来にない議論を展開しようと試みています。ナン・リン/カレン・クック/ロナルド S. バート[編]『ネットワークとしてのソーシャル・キャピタル』(ミネルヴァ書房)では、ソーシャル・キャピタルのひとつの側面として、バイラテラルな2人間の人間関係だけではなく、マルチラテラルなネットワークとして、信頼や規範に基づく人間関係を考えています。カート・ワグナー『TwitterからXへ 世界から青い鳥が消えた日』(翔泳社)は、タイトル通り、Twitterが現CEOのイーロン・マスクに買収されてXとなるまでのドキュメンタリー、あるいは、迷走の過程のリポートです。翁邦雄『金利を考える』(ちくま新書)では、金利の理論的な側面を深く掘り下げる、というよりは、新書というメディアの特徴も活かしつつ、金利の決まり方は金利が経済活動ほかに及ぼす影響力を考え、家計の身近なところで消費者金融や住宅ローンの金利について議論しています。最後に、安藤優一郎『蔦屋重三郎と田沼時代の謎』(PHP新書)は、NHK大河ドラマで話題の蔦屋重三郎とその時代背景を形成した幕府老中の田沼意次についての歴史書です。
今年の新刊書読書は年が明けて先週までに10冊を読んでレビューし、本日の6冊も合わせて16冊となります。本日のブログのブックレビューについては、可能な範囲で、Facebookやmixi、あるいは、経済書についてはAmazonのブックレビューなどでシェアする予定です。また、綾辻行人『殺人方程式』(講談社文庫)と櫻田智也『サーチライトと誘蛾灯』(東京創元社)も今週読んでいて、新刊書ではないので本日のブックレビューには含めていませんが、FacebookやmixiなどのSNSでレビューを明らかにしたいと予定しています。

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まず、佐々木浩二『マクロ経済学の統計[第2版]』(三恵社)を読みました。著者は、専修大学経営学部教授です。本書は、タイトルこそ「マクロ統計」と銘打っているのですが、ほぼほぼSNA統計=GDP統計限定です。ですから、他のマクロ経済学の統計である失業率などの雇用とか、インフレを計測する物価指数とか、鉱工業生産とか、輸出入の貿易とかは、最後の第Ⅳ部でGDPと関連付けてまとめて言及されています。繰り返しになりますが、本書はSNA統計に大きな中心を置いて4部構成となっており、フロー統計、ストック統計、制度部門別統計、政策評価のための統計それぞれの解説を試みています。第Ⅰ部フロー統計としては、SNA統計はいわゆる加工統計であり、調査票や政府の業務資料などに基づく1次統計ではありませんから、その点をていねいに解説しています。利用している統計が多数多岐に渡る点も特徴です。そして、フロートしての日本のGDPが1990年代後半からほとんど成長していない点もp.9図表1-9などから明らかにされています。もちろん、国際比較の観点から国連などによるSNA統計マニュアルに基づいて作成されているという事実や、よく知られた支出・生産・分配(所得)のGDPの三面等価に加えて、三面不等価、はたまた、統計的不突合まで幅広い解説をしています。私が役所を定年退職するころに進められていた使用供給表(SUT)の利用についても、その裏側の事情まで明らかにしています。第Ⅱ部ストック統計としては、国富と災害による損失の関係が明確にされています。国富とは、一部の金融資産と生産資産と非生産資産の合計であり、逆からいって、国民資産と負債の差額です。極めて単純化して海外との取引を無視した民間経済を仮定すれば、金融資産は同額の金融負債が発生しているはずですから、単純なモデルの世界では生産資産と非生産資産の合計である実物資産と考えられます。ただし、流通段階を含めた在庫は別です。また、民間経済だけのモデルから拡張して、政府部門、さらに海外部門を考えることになれば、国債や現金通貨、対外純資産なども考慮する必要があります。そのように拡張したモデルに基づき第Ⅲ部で制度部門を考えていて、家計、非金融法人企業、金融法人企業、一般政府、海外などの経済主体が、経常勘定と資本勘定と金融勘定をやり取りしていることになります。企業に法人を付したのは、個人企業がしばしば家計と同じグループにされることがあるからです。それから、SNA統計だけではなく、経済学では政府とは中央政府だけではなく、中央政府に地方政府と社会保障基金をグループにした概念を使います。最後の第Ⅳ部では、政策評価のため、SNA統計だけではなく、GDPと関連付けて物価、雇用・賃金などが取り上げられています。最後のコメントながら、私が勤務していた経済企画庁とその中央省庁再編後の内閣府では、このSNA統計を作成・発表していました。ですので、SNA統計だけではなく、その元となる1次統計の実務に詳しいエコノミストがいっぱいいて、その能力を持って研究機関や大学に再就職している人も少なくありません。私はそういった方面の能力がサッパリありませんので、こういった参考文献を手元において、今回こそ通読しましたが、コンパクトなボリュームでもあり、辞書的な使い方をするのが有益ではないかという気がしています。

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次に、稲葉陽二『ソーシャル・キャピタル新論』(東京大学出版会)を読みました。著者は、日本大学法学部政治経済学科教授を2020年に退職し、現在は日本大学の非常勤講師であり、日本社会関係学会の初代会長も務めています。ですので、出版社から考えても、本書は純粋に学術書と見なすべきです。本書のタイトルとなっている、ソーシャル・キャピタル=社会資本とは信頼や規範に基づく人的関係を指しており、あくまで学術用語と考えるべきながら、専門外の私は日本語であれば「人脈」という一般用語が近いんではないかと考えています。本書は、サブタイトルである「日本社会の『理不尽』を分析する」ため、人脈に近い概念であるソーシャル・キャピタルに関して、著者なりの従来にない議論を展開しようと試みています。ソーシャル・キャピタルに関しては、私はエコノミストですので詳しくもないながら、ハビトゥス理論のブルデューとか、『孤独なボウリング』のパットナムとか、本書にはそれほど登場しないグラノベッターなんかの名前を思い出します。というが付されています。1990年代初頭のバブル経済の崩壊から始まって、1990年代後半にはデフレに突入し、「失われた30年」とも称される長期の経済停滞の中で、企業不祥事や政治の腐敗といったレベルの社会的問題だけでなく、自己責任論が蔓延して日本社会全体の分断が強まっています。通常、ソーシャル・キャピタルは正の外部経済効果、すなわち、社会全体にプラスのよき効果をもたらすと考えられていますが、現在の日本では逆に負の外部効果を持って「理不尽」をもたらしているのが、著者の考えであるわけです。本書では「ダークサイド」と呼んでいます。私はエコノミストですので、取りあえずは、経済活動が上向けば下部構造から上部構造の社会問題の解決にもつながる、という点は理解しつつも、下部構造の経済からは独立した社会問題を社会関係資本=ソーシャル・キャピタルの観点から考えるべく、専門外で十分な理解が進んだとはいえませんが、一応、学術書として読んでみた次第です。まず、経済学の観点から、本書でも言及されているように、世銀リポート Social Capital: A Multifaceted Perspective の冒頭の Introduction において、いずれもノーベル賞経済学者であるアロー教授とソロー教授から、生産活動への寄与の観点からソーシャル・キャピタルは経済学的な「資本」と考えるべきではない、という趣旨の批判があります。批判の一部は定義のあいまいさや計測にも向けられています。したがって、本書では冒頭の1-3章くらいまで、いわゆるコールマンのボート(ダイアグラム)をp.31図2-2で示した上で、ミクロとマクロの間の関連や相互の因果関係などの議論を展開しています。すなわち、p.56表3-1において、ミクロとマクロの間のインタラクティブな関係に基づくコールマンの定義、マクロ中心のパットナムの定義、、ミクロからマクロにも拡張可能なオストロムの定義に加えて、ややオストロムに近いながらも本書の定義を示しています。そして、もうひとつの批判に関しては、少なくとも日本では滋賀大学と内閣府の共同研究の成果報告書「ソーシャル・キャピタルの豊かさを生かした地域活性化」において、いくつかの要素が示されています。でも、もっ最近の研究ではSNSなどのビッグデータからの計測を試みている例もあると本書では言及されています。最後に、本書冒頭のp.2からサブタイトル「違和感」の例がいくつか上げられており、私が興味を持ったものとして「なぜ賃金が目減りするのに経営者報酬だけ上がるのか」、「なぜ日本の経営者は内部留保を積み上げるのか」、「なぜ忖度した官僚は記憶を失うのか」といったものがあります。ソーシャル・キャピタルの観点だけで解明できる「なぜ」ではありませんが、日本の経済社会をよりよくする上で必要な問いかけであろうと私は受け止めています。

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次に、ナン・リン/カレン・クック/ロナルド S. バート[編]『ネットワークとしてのソーシャル・キャピタル』(ミネルヴァ書房)を読みました。編者は、順に、米国デューク大学トリニティ・カレッジ名誉教授、同じく米国スタンフォード大学教授、やっぱり米国シカゴ大学教授です。出版社からしても、明らかな学術書であり、専門外の私にはややハードルが高かった気がします。ということで、本書では、ソーシャル・キャピタルのひとつの側面として、バイラテラルな2人間の人間関係だけではなく、マルチラテラルなネットワークとして、信頼や規範に基づく人間関係を考えています。すなわち、マクロのソーシャル・キャピタルを主として考えているパットナム教授の Making Democracy Work では社会的信頼と互酬性の規範とネットワークの3つのコンポーネントを上げて社会的な効率性を高める人間関係や組織の特徴としています。繰り返しになりますが、本書ではタイトルから明らかなように、ネットワークとしてのソーシャル・キャピタルの分析を試みています。ソーシャル・キャピタル=社会資本とは信頼や規範に基づく人的関係を指しており、あくまで学術用語と考えるべきながら、平たくいえば「人脈」という一般用語が近いんではないかと考えています。そのうえで、ネットワークですから、単なる2人間のバイラテラルな直線的な人間関係だけではなく、マルチラテラルに人脈が平面的に、あるいは、立体的に広がっていくというイメージでよいかと思います。本書は3部構成であり、第Ⅰ部ではソーシャル・キャピタルの理論構築、構造的な空隙、地位想起法などの理論的な側面を明らかにした後、第Ⅱ部では労働市場におけるソーシャル・キャピタルを対象に分析を進めています。そして、第Ⅲ部では、組織やコミュニティにとどまらない制度的環境も含めたソーシャル・キャピタルまで拡張しています。ということで、私は主として第Ⅱ部の労働市場におけるソーシャル・キャピタルに注目しました。通常は労働市場では外部労働市場からの参入、すなわち、雇用される際の採用と雇用された直後の配属などに人的関係としてのソーシャル・キャピタルが作用すると考えられます。もちろん、いわゆる人事異動や配置転換といった内部労働市場においてもソーシャル・キャピタルは重要な役割を果たしますが、本書では採用と配置の段階を主として分析対象としています。日本では就職の際に「コネ」と呼ばれている人間関係です。例えば、家族内のメンバーとして親子や兄弟姉妹で同じ会社に勤める場合があるわけですし、ほかにも当然に、何らかのグループ属性を持ち、そういったソーシャル・キャピタルを活用できる人材、特定の資格を持ったメンバーを有するソーシャル・キャピタル、あるいは、シグナリング機能も果たす出身校の人的つながりのあるソーシャル・キャピタルなども労働市場で活用の可能性が十分あります。もちろん、本書ではそれほど重視していませんが、マイナスのソーシャル・キャピタルもある可能性が示唆されています。本書では、数量的なデータも含めて、コールセンターの対応職員、さらに、警備員についての紹介プログラムなどを分析しています。もちろん、日本的にいっても「コネ」による就職がやや否定的な印象を持っているように、逆に、公平性への圧力という点も重視される、という分析結果も示されています。すなわち、ネットワークとしてのソーシャル・キャピタルの場合、専門外ながら、私は弊害も指摘しておく必要があると考えます。例えば、典型的にはクラブ財の場合で、クラブのメンバーになっていない人が負の影響を受けることは明らかですし、クラブのメンバーは正の効用を得ますが、社会全体としてのソーシャル・キャピタルの符号は確定しません。第Ⅳ部では、日本でも「いっしょにメシを食う」とか、「同じ釜のメシを食う」といった表現があるように、会食=social eating、あるいは、宴会=banquetsなどといった食事に現れるソーシャル・キャピタル、それをかなり制度的に確立した中国の「関係」(guanxi)、また、セーフティネットとしても活用できるソーシャル・キャピタルの分析に興味を持ちました。本書では明示的に取り上げてはいませんが、災害発生時のソーシャル・キャピタル活用などについても可能性が広がる気がしました。

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次に、カート・ワグナー『TwitterからXへ 世界から青い鳥が消えた日』(翔泳社)を読みました。著者は、ビジネスおよびテクノロジー・ジャーナリストです。英語の原題は Battle for the Bird であり、2024年の出版です。本書は、タイトル通り、Twitterが現CEOのイーロン・マスクに買収されてXとなるまでのドキュメンタリー、あるいは、迷走の過程のリポートです。現CEOであるイーロン・マスクと比較対照されるのが表紙画像にもあるTwitter創業者の1人ジャック・ドーシーです。しかし、いずれにせよ、読後の感想としてはTwitterからXになったとしても、この運営体企業の迷走劇が中心となっている、というふうに私は読みました。すでに、トランプ大統領が米国の政権に返り咲いた現時点で、メディアとしてのTwitterないしXについては、ほかの米国テック企業、すなわち、GAFAMと一括して称されるGoogle、Apple、Facebook=META、Amazon、Microsoftの各社が、いっせいに政権への忠誠姿勢を示す前から、イーロン・マスクが経営権を握ったことに象徴されるように、トランプ政権成立とは独立に同じ動きが進められていたことは明らかです。というか、トランプ政権成立を一定の影響力で後押ししたとすらいえると考えるべきです。繰り返しになりますが、TwitterからXについてはの企業としての迷走が取り上げられています。登録者数はFacebookに大きく水を開けられ、GAFAMと並ぶようなビックテック企業にはなれず、メディアとして批判や場合によっては脅迫にすらさらされるという実態を明らかにしています。そのあたりが、延々と本書で記録として残されている、と覚悟して読んだ方がいいです。加えて、英語の原文のせいか、邦訳のせいなのか、はたまた、フォントが小さいせいなのか、ビッチリと各ページに字が埋まっていて文章が読み進みにくく、しかも400ページを超える本全体としてボリュームがありますので、読み通すのはかなり骨だと思います。最後に、TwitterやXをはじめとして、私の直観的なSNSメディアの感想を書き残しておくと、YouTubeがインフルエンサーから購読者へのややユニラテラルなメディアであるのに対して、FacebookとTwitter=XとInstagramは仲間内でのバイラテラルな情報の交換、ただし、Instagramがビジュアル中心に対して、文字情報中心のうち長文はFacebopokで、短文がTwitter=X、そして、私は馴染がなく詳しくないのですが、TikTokはインフルエンサーになりたい個人の情報発信の場、という極めて大雑把なカテゴライズをしています。まあ、私の独断と偏見でのカテゴライズですし、異見はありえます。ただし、こういったSNSが民主主義を歪めかねないリスクも認識されるべきです。特に、米国のトランプ政権成立とともにむき出しの自由、特にむき出しの表現の自由の方向に進みだしたおそれがあります。もっと行き着くところに行けば、表現だけでなく、上位者が下位者を奴隷のように使ったり、誹謗中傷したり、ひどい場合には事実上殺したり、そういった自由、特に表現の自由の時代が始まりかねない危うさを私は感じます。すでに、フェイク・ニュースや事実に基づかない誤った情報をSNSで流す「自由」が認められようとしています。そういった誤った情報を流す行為は、上位者や権力者に都合よければ何ら責任を問われることがない一方で、下位者や権力の地位にない者や団体に対しては認められない「自由」です。兵庫県やフジテレビで観察される事態がそういった将来の危うさを強く連想させると考えるのは私だけでしょうか?

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次に、翁邦雄『金利を考える』(ちくま新書)を読みました。著者は、日銀エコノミストから現在は京都大学公共政策大学院名誉フェローを務めています。本書では、金利の理論的な側面を深く掘り下げる、というよりは、新書というメディアの特徴も活かしつつ、金利の決まり方は金利が経済活動ほかに及ぼす影響力を考え、家計の身近なところで消費者金融や住宅ローンの金利について議論しています。金利の決まり方に関する理論はいくつかあるのですが、極めてシンプルに、私も本書第2章で展開している借金のレンタル料、というのが判りやすいと考えています。実は、授業でも単純にそう教えています。すなわち、レンタカーとか貸衣装を借りると料金を支払う必要があるわけで、100万円を1年借りると、例えば、2万円のレンタル料が必要ということになれば、金利が2%と計算される、と教えるわけです。これが、中央銀行が操作する極超短期の金利、日本でいえば、銀行間で取引される無担保のオーバーナイトコールレートからタームと呼ばれる期間構造に従って、もちろん、借りる主体のリスクに従って、さまざまな金利が形成されることになります。そして、目下のところ、日本においては金利は為替を目標に操作されているように私には見えるのですが、第5章では金利が為替相場におよぼす影響を議論しています。私が授業で教えているような通常の判りやすいモデルでは、短期には金利の影響力が大きく、すなわち、高金利通貨が増価し、低金利通貨が減価する一方で、長期には購買力平価仮説が成り立ち、高インフレ国の通貨が減価し、低インフレ国の通貨が増価する、と考えられています。対米ドルの円通貨の為替相場で見ると、目先は日本は低金利であり円安が進んでいますが、長期的に最近20-30年を見れば低インフレ国日本の通貨である円は増価している、ということになります。興味深かったのは、第3章の消費者金融の金利です。ほぼほぼ、多くの消費者金融の金利が法令の上限である18%に張り付いているのですが、本書ではその点は無視しています。逆に、現行のデフォルトである18%の金利を払える消費者であれば、流動性制約緩和策である、という立場のように見えます。その昔の「サラ金」と呼ばれていた時代のムチャクチャな高金利への言及はありません。私は国際派のエコノミストでしたので海外勤務の経験もあり、その昔の「サラ金」からふんだんに研究費を受けて学生を海外旅行に連れて来ていた大学のセンセイについてのお話も聞き及んでおり、まあ、そういったセンセイが流動性制約の解消策としての「サラ金」の役割を高く評価し、高金利容認説を持ち上げていたんだろうと想像しています。住宅ローンについては、私は住居向けに3回に渡って不動産を取得し、うち2回ほど住宅ローンを組んだ経験がありますが、かつては固定金利がそれなりのシェアあったことは知りませんでした。勉強になりました。

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次に、安藤優一郎『蔦屋重三郎と田沼時代の謎』(PHP新書)を読みました。著者は、歴史家だそうです。本書は、軽く想像される通り、NHK大河ドラマで話題の蔦屋重三郎とその時代背景を形成した幕府老中の田沼意次についての教養書です。昨年の今ごろは紫式部に関する新書を何冊か読んでいたような気がします。大河ドラマはほとんど見ないので、こういった読書で世間について行こうと努力しているわけです。ということで、蔦屋重三郎が活躍した時代背景は、厳しい財政引締めや綱紀粛正などを行った享保の改革と寛政の改革の間に挟まれた田沼時代に当たり、割合と自由闊達な雰囲気で経済は発展し、華やかで享楽的な文化が花開きます。そして、蔦屋重三郎のホームグラウンドとでもいうべき吉原がそういった文化や流行の発信地となるわけです。出版としては、遊女の評判を集めた『一目千本』や『吉原細見』が典型的なものと考えられます。これらは、当然ながら、吉原の宣伝活動ともなりますので、出版と遊郭はいわゆるwin-winの関係となります。それらのほかに、吉原独自の行事である夏の玉菊灯籠、秋の俄などの情報発信の出版もありました。もちろん、吉原以外にも浄瑠璃のお稽古テキストとか、寺子屋の教科書である往来物などを手がけたということです。本書では、こういった出版は、その後の蔦屋重三郎の印象からは少し異なり、手堅く安定的な収益の見込めるローリスクな活動であったと評価しています。というのも、蔦屋重三郎が養子に入った家のいわゆる家業は吉原の茶屋であり、出版事業はそもそも新規開拓の事業展開であったので、ハイリスクな方向性は目指さなかった、と解説しています。そして、今に残る出版関係では、草双紙の一種である黄表紙にも手を伸ばします。要するに現代的にいえば小説なわけです。さらに、浮世絵にも進出し、東洲斎写楽と喜多川歌麿を世に出しています。こういった蔦屋重三郎の出版活動とも相まって、吉原は女郎屋が軒を並べる単なる遊興の場から、文化や流行の発信地という意味で、いわば文化サロン的な地位を獲得していくわけです。そして、それを支えた時代背景、特に、エコノミストの私から見れば経済活動が気にかかるところですが、老中田沼意次は典型的なリフレ政策を果敢に実行したわけです。現在ではリフレ政策とは、物価が下落するデフレに対してマイルドなインフレを目指す政策なのですが、物価上昇という意味でのインフレは、逆から見れば貨幣価値の低下に相当します。徳川期は貨幣価値を低下させるのはそれほど難しいことではなく、小判の金の含有量を落とせばいいわけです。ただ、本書ではそういった貨幣改鋳については深入りしておらず、コメの年貢への偏りから商業活動に着目して、株仲間結成を促進した上で冥加金を取り立てる、などの農業から商業を重視する政策変更に着目しています。そういったマブ仲間などの利権政治でしたので、賄賂にまみれて凋落していき、さらには、米価高騰から米騒動も頻発し、田沼政治が終了して寛政の改革につながるわけです。蔦屋重三郎だけではなく政治経済的なバックグラウンドの動向もよく考えられた解説書でした。

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2025年1月18日 (土)

今週の読書はいろいろ読んで計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、ヨハン・ノルベリ『資本主義が人類最高の発明である』(NewsPicksパブリッシング)は、ほぼ無条件に現時点の資本主義がベストであるというパングロシアンな見方を提供しています。今井むつみ『「何回説明しても伝わらない」はなぜ起こるのか?』(日経BP)では、主としてビジネスの場でのコミュニケーションを対象として、いかに相手に伝えるか、さらに進んで、いかに相手から自分に伝えさせるか、について考えています。万城目学『六月のぶりぶりぎっちょう』(文藝春秋)は、直木賞を受賞した『八月の御所グラウンド』と同じテイスト、シリーズの直木賞受賞後第1作であり、本能寺の変を現代に引き直した解釈を試みています。結城真一郎『難問の多い料理店』(集英社)では、六本木にあるビルの3階のゴースト・レストランが舞台で、そのオーナーが風変わりな注文を受けて配達員を使って調査して謎解きを試みます。小谷賢『教養としてのインテリジェンス』(日経ビジネス文庫)は、そもそもインテリジェンスとは何なのか、そして、世界各国のインテリジェンス活動を概観し、最後の章でインテリジェンスの歴史を後付けています。山本文緒『無人島のふたり』(新潮文庫)は、直木賞作家がステージ4bの膵臓がんによる余命告知を受けてから亡くなる直前までの日記です。
今年の新刊書読書は年が明けて先週までに10冊を読んでレビューし、本日の6冊も合わせて16冊となります。なお、Facebookやmixi、あるいは、経済書についてはAmazonのブックレビューなどでシェアする予定です。加えて、有栖川有栖『こうして誰もいなくなった』(角川書店)も読んでいて、Facebookなどでレビューしていますが、新刊書ではないので本日の読書感想文には含めていません。

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まず、ヨハン・ノルベリ『資本主義が人類最高の発明である』(NewsPicksパブリッシング)を読みました。著者は、スウェーデン生まれの歴史学者であり、米国のやや保守的なケイトー研究所のシニアフェローを務めています。本書は、まあ、単純化していえば資本主義礼賛の書なのですが、ほぼ無条件に現時点の資本主義がベストであるというパングロシアンな見方を提供しています。通常、左派リベラルは資本主義の欠陥を指摘し、資本主義に対して別の改良的な方向、例えば、社会主義や社会民主主義の色濃い福祉制度とか、を持ち込もうとするのに対して、本書は現時点での問題は逆に資本主義が徹底されていない点、特に、自由がまだ十分「足りていない」点に求めます。ですので、各章において、脱成長、トップ1%の富裕層への富と所得の集中、それに基づく格差の弊害、などなどを全面否定し、著者本人はそういった左派リベラルな議論を論破しているように感じているのだろうと思います。エコノミストとしての私の観点から、特に目を引いたのはマッツカート教授らの政府のプロジェクトベースの産業政策や経済成長に対する批判が強烈であるのの対して、縁故資本主義=クローニー・キャピタリズムに対する態度がイマイチ不明でした。日本でも安倍政権時のいわゆる「一強」時代に、お友達に有利に取り計らう縁故主義が広がりました。私なんぞから見たら、こういった縁故主義は自由をタップリ必要とする資本主義に大いに反しているように見えており、したがって、本書で称賛しているタイプの資本主義とは違うと考えるべきです。いずれにせよ、マイクロな経済では、市場における自由な価格形成に基づく資源配分がもっとも効率的であって、厚生経済学の定理を満たすわけですが、ケインズ卿が指摘したように、所得と富の配分には不十分な可能性があり、さらに、非自発的な失業を防ぐことが出来ません。ですので、所有権の確立とかの単なるルールの設定だけではなく、経済社会の厚生向上のための役割を政府が担う、そして、その政府の役割は時とともに拡大している、というのは歴史的に現実として観察される流れであろうかという気はします。加えて、資本主義における取引はすべての参加主体が平等であって、情報その他の格差ないことを前提にしていますが、世の中はそれほどモデル通りではありません。その意味で、やや現実離れした議論が展開されている、と感じた読者も決して少なくないと思います。最後に、私がとても強烈に疑問に感じたのは、歴史家が書いた本にしては、資本主義の先についてのビジョンが本書では欠けている点です。歴史的にいろんな発展段階を経て現在の資本主義が存在することは明らかなのですが、その資本主義の先に何があるかを考えようとしないのは知的な怠慢であろうという気がします。

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次に、今井むつみ『「何回説明しても伝わらない」はなぜ起こるのか?』(日経BP)を読みました。著者は、慶應義塾大学環境情報学部教授であり、ご専門は認知科学、言語心理学、発達心理学だそうです。本書では、主としてビジネスの場でのコミュニケーションを対象として、いかに相手に伝えるか、さらに進んで、いかに相手から自分に伝えさせるか、について考えています。冒頭にある「話せばわかる」というのは、5.15事件の際の犬養総理大臣の言葉として有名ですが、残念ながら本書ではそういった言及はありません。それはともかく、本書では、うまく伝わらない場合、伝え方を工夫したり、説明を換えたり、何度も繰り返したりしてもうまく伝わらない、と指摘します。どうしてかというと、それぞれの人が独自の「知識や思考の枠組み(スキーマ)」を持っているためであり、話した内容がそのまま脳にインプットされるわけではなく、このスキーマに沿った個々人の解釈がなされている可能性があるから、ということだそうです。加えて、インプットされた後でも人間の記憶とはあやふやなもので、忘れることはもちろんとしても、記憶が書き換えられることも少なくないといいます。人間の記憶容量はわずかに1GBというエピソードも本書に入っています。もちろん、インプットの際の認知バイアスはいっぱいあって、情報を受け取る際にすでにバイアスがかかっている上に、さらに記憶している間にますます情報が本来のものから離れていく可能性すらあるわけです。ですので、本書の後半の章、特に4章では、「コミュニケーションの達人」の特徴をいくつか上げて、伝える、あるいは知識を共有する方法について論じています。そのあたりは読んでみてのお楽しみですが、心の論理やメタ認知がキーワードとなります。また、コチラからアチラへ伝えるだけでなく、聞く耳を持つ、というのは重要な指摘だった気がします。ということで、最後に私の感想です。私は教師ですから学生諸君に知識や何やを伝えるのが職業です。役所に勤める公務員であった当時でも、エコノミストのひとつの重要な役割は伝えることです。総務省統計局の課長職にあったころには毎月の統計公表時に記者発表をしていたりしました。記者発表とか、大学の授業とかは、そもそも、聞く側で十分意識を高めて知識や情報を吸収する意欲に満ち溢れています。当然です。私は記者発表や授業で伝えるのが仕事ですが、他方で、聴衆の方も私の話を聞いて、記事にしたり、試験やリポートに備えるのが仕事なわけです。ですので、それほど伝えるのに苦労した覚えはありません。今の教師の職業では、ちゃんと授業を聞いて理解しないと学生が単位を落とすというシステムです。ただ、そう遠くもない将来に引退するわけで、いろいろと押さえておくべきポイントはあった気がします。

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次に、万城目学『六月のぶりぶりぎっちょう』(文藝春秋)を読みました。著者は、直木賞も受賞した小説家です。私の後輩筋に当たる京都大学の卒業生です。本書は直木賞を受賞した『八月の御所グラウンド』と同じテイスト、シリーズの直木賞受賞後第1作であり、本能寺の変を現代に引き直した解釈を試みています。収録されているのは、短編より少し長めの中編2話であり、第1話は「三月の局騒ぎ」、第2話がタイトル作の「六月のぶりぶりぎっちょう」となります。第1話の方にはこの作者らしいファンタジーの要素はありません。主人公は大学に進学して京都で下宿するようになり、北白川にある女子学生寮に入って、そこが舞台となります。なお、女子寮は特定の大学の寮ではなく、いくつかの大学の女学生が住んでいるという設定です。この寮のいくつかの名称が京都らしい雰囲気を出しています。すなわち、東西2棟の建物は中庭に植えられているの植物から「薔薇壺」と「棕櫚壺」と呼ばれ、部屋は「局」と名付けられ、最後に、寮生は「女御(にょご)」です。1年生で入学し、寮でも最初は3人部屋から始まって、2年生で2人部屋となり、そして上級生となって1人部屋となりますが、最後の4年生の時、留年していて主人公よりもさらに上級生のキヨと相部屋になります。このキヨが謎の存在で正体不明なのですが、相部屋になった期間はわずかで、3月末にはキヨは退寮してしまいます。大学を卒業して就職し、結婚して出産した主人公が、全国高校駅伝に出場する娘に付き添って京都に来ます。ここで、かすかながら『八月の御所グラウンド』に収録されていた「十二月の都大路上下ル」とリンクします。本書の後半の作品がタイトル作となります。テーマは壮大にも本能寺の変の謎を解き明かす、というか、本能寺の変は明智光長が織田信長に対して起こした謀反ですから、まあ、実行犯については明らかなのですが、誰が明智光秀を本能寺の変に走らせたか、あるいは、明智光秀の行動の動機の謎がテーマとなる小説です。といっても、謎解きのミステリではありません。主人公は女子校の歴史の女性教師である滝川先生です。実に、『鹿男あをによし』と同じ設定で、大阪女学館、京都女学館、奈良女学館の姉妹校3校による研究発表会の大和会に出席するために、同僚の外国人女性教師と大阪から京都にやってきます。『鹿男あをによし』では同じ姉妹校3校による剣道の試合の大和杯ではなかったかと記憶していますが、本書では研究発表の研修会の大和会となります。大和会の前日に京都観光を楽しむために、滝川先生たちが京都に着くと京都女学館のトーキチロー先生が迎えてくれます。大和会前日の観光を楽しんだ後、実に現代版にアレンジされた「本能寺の変」に滝川先生は巻き込まれてしまうわけです。そこからは、読んでみてのお楽しみです。独特の万城目ワールドによるファンタジーが展開します。なお、タイトルにある「ぶりぶりぎっちょう」とは平安時代の貴族の遊びで、蹴鞠をサッカーに例えることが許されるのであれば、ぶりぶりぎっちょうは馬に乗らないポロみたいなものです。ただ、私は「ぶりぶり」の付かない「ぎっちょう」と記憶していましたし、「毬杖」という漢字もあります。関西の方言かもしれませんが、左利きのことを「ぎっちょ」といいますが、その語源であると私は認識しています。最後に、直木賞受賞の前作と本作に収録された4話のタイトルを並べると、「十二月の都大路上下ル」、「八月の御所グラウンド」、「三月の局騒ぎ」、「六月のぶりぶりぎっちょう」となります。1~12月のうち、3月、6月、8月、12月はタイトルに入りました。残りの月もタイトルに入るような小説が継続して公刊されるんでしょうか。

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次に、結城真一郎『難問の多い料理店』(集英社)を読みました。著者は、小説家なのですが、私も読んだ前作の『#真相をお話しします』がよくはやったのが記憶に新しいところです。タイトルは宮沢賢治『注文の多い料理店』へのオマージュであることは明らかでしょう。一風変わった料理名のタイトルを持つ6話の短編からなる短編集です。各話は一見独立しているようで、実は密接にリンクしていたりします。東京の繁華街のひとつである六本木にあるビルの3階のゴースト・レストランが舞台で、そのオーナーが風変わりな注文を受けて配達員を使って調査して謎解きを試みます。ゴースト・レストランとは、客席を持たずデリバリーのみで料理を提供するレストランであり、オーナーは見惚れるほどの絶世の美女ならぬイケメンです。ここにデリバリーのためにウーバーイーツならぬビーバーイーツの配達員が出入りし、大学生だったり、会社が倒産した中年サラリーマンだったり、シングルマザーだったりしますが、このビーバーイーツの配達員が視点を提供して物語を語ります。各話の冒頭で、決まって、オーナーはビーバーイーツの配達員に高額のアルバイトをオファーします。客から頼まれた料理を届けるついでに、ある住所にUSBメモリを届けてほしいというもので、実に怪しいことに、それだけで即金1万円というオファーです。まあ、それを引き受けないとストーリーが始まらないので、お約束でビーバーイーツの配達員が引き受けると、追加ミッションが出るわけです。すなわち、極めて特徴的な組合せの注文が入ると、それは謎解き、あるいは、そのための調査の依頼であり、その特徴的な組合せの料理を届ける際に、ビーバーイーツの配達員が注文主から依頼の詳細を聞き取ってオーナーに報告し調査が始まります。6話の短編の調査は、第1話は、大学生の下宿アパートから出火し、その部屋から大学生の元カノの焼死体が発見され、大学生の父親から調査依頼を受けます。第2話では、交通事故で死んだ夫の指が2本欠損していた点に関して、妻から調査を依頼されます。第3話では、ひきこもり状態の妹のアパートの部屋に空き巣が入り、その真相につき空き巣被害者の兄から調査依頼を受けます。その兄は高給のエリート職にあります。第4話は、別のデリバリーで注文した配達の際に10回連続で別のものが入っていた謎、しかも、同じ配達員が10回連続で配達した謎解きの依頼です。第5話では、かつて孤独死があって今は空室になっている部屋に連続して置き配が届いたという謎の調査を同じ階の住人から受けます。最後の第6話では、マンションの一室から忽然と姿を消した住人の行方について、別のビーバーイーツ配達員から依頼を受けます。繰り返しになりますが、各短編はビミョーにリンクしています。そのリンクは謎解きの結果とともに読んでみてのお楽しみです。そして、謎解きとしてはタイトルのような「難問」ではなく、気の利いた読者であれば簡単に真相にたどり着けます。オーナーやビーバーイーツ配達員以外の別の情報源からオーナーが詳細な情報の提供を受けるのも、ミステリの観点からはやや反則気味だったりもします。ですので、ビーバーイーツの配達員の来歴とか、オーナーの調査結果の伝え方なんかが読ませどころではないか、という気がします。

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次に、小谷賢『教養としてのインテリジェンス』(日経ビジネス文庫)を読みました。著者は、日本大学危機管理学部教授です。本書は3章構成となっており、第1章でそもそもインテリジェンスとは何なのかを考え、第2章で世界各国のインテリジェンス活動を概観し、最後の第3章でインテリジェンスの歴史を後付けています。インテリジェンスというと、007のようなスパイ活動、情報収集と破壊工作などの活動を思い浮かべる場合が少なくありません。しかし、007のように警察や軍隊やといった広い意味での政府、あるいは、少なくとも公的部門だけがインテリジェンス活動を行っているわけではなく、当然、企業においてもライバル企業の動向や政府の政策方針などに関する情報収集を行っています。その昔に、銀行などでいわゆるMOF担が大蔵省・財務省の情報収集に当たっていたことは広く知られている通りです。でも、本書では政府の政策決定に必要な情報収集活動のみを取り上げています。冒頭に、本書ではインテリジェンスの4類型を示しています。すなわち、公開情報による Open Source Intelligence=オシント、人的接触による Human Intelligence=ヒューミントについては、従来からの手法とした上で、衛星画像や航空写真による Image Intelligence=イミント、そして、イミントと地理空間情報から作成される Geographical Intelligence=ジオイントです。私は外交官として在外公館で勤務していましたので、多少なりともインテリジェンス活動の経験ありといえるかもしれませんが、最後のジオイントは知りませんでした。そして、私が知る限りでは、イミントと似たインテリジェンスで Signal Intellijence=シギントというのもあったように思います。それはともかく、私はもともとがエコノミストであり、経済情報はほぼほぼすべて公開情報として入手できます。ちょうど、外交官として大使館に勤務していた時期はGATTウルグアイ・ラウンド交渉の最終盤に当たり、ドンケル事務局長が包括関税化を柱とする提案、いわゆるドンケル案を示した時期ですので、当然ながら、現地の新聞やテレビなどから公開情報をせっせと収集していた記憶があります。米国や西欧などのもっと国際的に影響力の大きい国であれば、公開情報に加えて非公開情報も日本の政策決定にとって必要であったのだろうと思いますが、私が赴任していたような南米の小国はそれほど重視されていなかったような気がしました。経済情報に関しては現地で収集したり、あるいは、日本から発信することが重要であり、007ジェームス・ボンドが映画で繰り広げているような派手派手しい破壊活動めいたことは関係ありません。少なくとも、私はやっていません。また、収集された情報は適切に分析される必要があり、収集と分析を含めてインテリジェンス活動と考えるべきです。収集された情報が不足していたり、間違っていたりすれば正しい政策判断ができないのはもちろんですが、情報を正しく分析しないとやっぱり判断を間違えます。その意味で、情報収集+分析というトータルのインテリジェンスが、国家の戦術や政策を策定する上で必要ですし、本書のスコープ外ながら、企業活動にも同じことがいえると思います。

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次に、山本文緒『無人島のふたり』(新潮文庫)を読みました。著者は、『プラナリア』により直木賞を受賞した小説家ですが、2021年に膵臓がんで亡くなっています。私はこの作者の作品では『自転しながら公転する』が一番好きだったりします。本書は、作者がステージ4bの膵臓がんによる余命告知を受けてから亡くなる直前までの日記です。もちろん、「ふたり」とはご夫婦を意味します。加えて、まるで大波にご夫婦がさらわれて無人島に流されたような心境をタイトルに込めています。第1章最初の5月24日の日記に先立つ扉で「2021年4月、私は突然膵臓がんと診断され、そのとき既にステージは4bだった。」と記されています。そして、抗がん剤によってがんの進行を遅らせる治療を早々に諦めて、緩和ケアに進んで作者が死を迎えたことは知られている通りです。読み始めから、私はかなり大きなショックを感じました。私自身はもう60歳代半ばですから、作者が死を迎えた年齢を上回っています。本書では、がんの進行に伴う痛みや発熱や倦怠感などの闘病記ならぬ、「逃病記」と作者は記していますが、そういった病気関係だけではなく、これまでの人生の道のりを振り返り、素直な心の動き、苦しい胸の内が、さすがの直木賞作家による文章表現で、実に切々と迫ってきます。特に、最初の方の「うまく死ねますように。」の言葉が私の心に響きました。おそらく、赤裸々に事実を丸ごと表現していたり、心情をそのままストレートに綴っているわけではないと思います。たぶん、時間がない、残された時間があまりにも少ない、というのがもっとも切実な実感なんだろうと思いますが、決して、誰かを、あるいは、何かを恨んだりする強い表現があるわけではなく、他方で、決して淡々と時間の経過を記しているだけではなく、時間がないながらも、よく考えられた表現が展開されています。あるいは、この作家さんクラスになると自然とそういった表現ができるのかもしれません。まったく別の観点で、実は、私の父親はいわゆる「ピンピン、コロリ」の死に方でした。今の今まで元気いっぱいだったにもかかわらず、突然死んだ、という感じだったそうです。ですので、私は父親の死に目には遭えませんでした。そういった死に方に比べて、ピンポイントではあり得ないにしても、本書のような一定の確率分布に従った余命宣告を受けて、徐々に病魔に侵されて衰弱してゆく死に方と、ついつい並べて考えてしまいました。どのような死に方であれ、死は悲しいことですが、「死と税金は避けられない」という表現もあります。本書を読んで、さすがの文章表現を味わいつつも、死について深く考えさせられる読書でした。

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