2020年3月20日 (金)

東京最後の読書感想文!!!

3月第1週で読書は終わりと考えていましたが、いろいろな分野の予約してあった本が次々と利用可能となり、先週も今週も割合とまとまった数の本を読んでしまいました。おそらく、来週に京都に引越しすれば、公共図書館サービスは東京都区部と比較してものすごく貧弱になることが容易に想像されますので、私の読書もかなり影響を受けることと思います。ということで、今週こそ最後の読書感想文になるかもしれません。かなり話題を集めた経済書を中心に以下の4冊です。

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まず、ジョナサン・ハスケル + スティアン・ウェストレイク『無形資産が経済を支配する』(東洋経済) です。著者は、英国インペリアル・カレッジの研究者と英国イノベーション財団ネスタのやっぱり研究者なんだろうと思います。英語の原題は Capitalism without Capital であり、2018年の出版です。タイトル通りに、有形の資本、典型的には工場の建屋や機械設備、あるいは、政府が整備する道路や港湾などのインフラから、無形の資本の重要性が高まって来ていて、まあ、邦訳タイトルをそのまま引用すると「経済を支配する」ということを論証しようと試みています。そして、そういった無形資産が支配する無形経済になれば、格差の拡大などを招いたり、長期停滞につながったり、経営や政策運営の変更が必要となる可能性を議論しています。確かに、本書で展開しているのは極めてごもっともなところですが、逆に、かなりありきたりな印象です。特に新しい視点が提示されているようには見えません。おそらく、1970年代における2度の石油危機を経て、1980年代から指摘されていたような点をなぞっているだけで、4つのSとして、スケーラビリティ、サンク性、スピルオーバー、相互のシナジーを上げていますが、本書でまったく用いられていない用語でいえば、無形資産はたとえ私的財であっても公共財の性格を併せ持つ、ということで一気に説明がつきます。この点について、とても最新の研究成果とも思えない「スーパースター経済」などを援用しつつ議論しているだけで、もちろん、それなりに新しい研究成果も取り入れているんですが、特に新しい視点が入っているようには見受けられません。今までの無形資産に関する議論を整理するという点では、とても有益な読書でしたが、それだけ、という気もします。

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次に、ダロン・アセモグル & ジェイムズ A. ロビンソン『自由の命運』上下(早川書房) です。著者は、マサチューセッツ工科大学とシカゴ大学の研究者で、というよりも、前著の『国家はなぜ衰退するのか』のコンビです。英語の原題は The Narrow Corridor: State, Societies, and the Fate of Liberty であり、邦訳タイトルは原著のサブタイトルの3つめを取っているようです。2019年の出版です。冒頭で、ソ連東欧の共産諸国が崩壊した後、すべての国の政治経済体制が米国のような自由と民主主義に収れんするという意味のフランシス・フクヤマの「歴史の終わり」と、その5年後のロバート・カプランの「迫りくるアナーキー」を対比させ、実は現在の世界はアナーキーに満ちているのではないか、という視点から本書は始まります。そして、著者の結論を先取りすれば、自由を実現し国民が自由を享受するためには法律とそれを強制する権力を持った国家が必要である、というものです。

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そして、上の画像のように、縦軸に国家の力、横軸に社会の力のカーテシアン座標に、その両者のバランスの取れた回廊がある、ということになっています。そこは国家が専横に陥ることなく、逆に、国家の力がなさ過ぎてアナーキーに陥ることもない、という意味で、ホントの自由が実現される回廊である、ということを議論しています。国家というリヴァイアサンに足かせを付ける、という表現も多用されていますし、国家が強力になったら同時に社会もパワーアップする必要がある、という意味での赤の女王の法則もしばしば言及されます。ただし、私は本書には2点ほど誤解があるように思います。第1に、自由と民主主義の混同、というか、取り違えです。本書では「自由」に力点を置いていますが私は「民主主義」ではなかろうかという気がしています。第2に、社会ではなく市民の力だと思います。まず、アナーキーと対比すべきで、本書で論じているのは、自由ではなく民主主義です。すなわち、アナーキーというのはある意味ではカギカッコ付きの「自由」であり、個々人が異なるウェイトを持った弱肉強食の世界といえます。資本主義下の株主総会の世界であり、単純に貨幣といってもいいのかもしれませんが、購買力によってウェイト付けされた社会です。格差を認めた上での不平等であり、民主的な1人1票の世界とは異なります。私はむしろウェイト付けのない民主主義の実現こそが本書で目指している世界ではないか、という気がします。そして、そういった社会における市民あるいは国民の資質を問うべきです。俗な表現に「民度」という言葉があり、少し保留が必要かもしれませんが、かなり近い概念です。例えば、識字率がある程度高まらないと民主的な投票行動も自由にできない、という側面は見逃すべきではありません。ですから、社会のパワーを考える基礎として市民の問題も考えないと、社会が市民なくしてポッカリと空中に浮かんでいるわけではありません。その意味で、もう少し教育の重視を指摘して欲しかった気がします。いずれにせよ、読めば判るんだろうと思いますが、前著の『国家はなぜ衰退するのか』に比べると、かなり見劣りします。その点は覚悟の上で読み始めた方がいいと私は考えます。

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次に、というか、最後に、デヴィッド・ウォルシュ『ポール・ローマーと経済成長の謎』(日経BP社) です。著者は、米国のジャーナリストであり、ボストン・グローブ紙の経済学コラムを担当しています。念のためですが、経済学コラムであって、経済コラムではないようです。英語の原題は Knowledge and the Wealth of Nations であり、邦訳タイトルに含まれているローマー教授だけではなく、むしろ、スミスの『国富論』になぞらえており、2019年の出版です。ということで、650ページを超える大著で、邦訳タイトルのローマー教授だけでなく、ノーベル経済学賞受賞者クラスのキラ星のような経済学者がいっぱい登場します。そして、誠に申し訳ないながら、この読書感想文をアップする現時点で、実は、まだ読み終えていません。これは15年近くのこのブログの歴史で初めてかもしれません。60歳を過ぎて、極めて異例な状況に置かれており、ご寛恕を乞う次第です。また、読み終えましたら、然るべき読書感想文をアップしたいと思いますが、これまた誠に申し訳ないながら、しばらくの間、このブログの更新は途絶えるかもしれません。

ということで、この3連休は引越し準備の荷造りに明け暮れる予定です。連休明けの3月25日に東京から荷物を搬出して、その翌26日に京都の新しい住まいで荷物を受け取る予定となっています。ただ、かなり早くから手配したつもりなんですが、インターネット回線の開通は3月31日です。それまで、新しい勤務先である私大の研究室に行って勤務を始めるつもりですが、3月31日ないし4月1日までブログの更新がストップしますので、悪しからずご了承下さい。

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2020年3月14日 (土)

今週の読書も経済書などをついつい読んで計4冊!!!

本格的な読書は先週までと考えていたんですが、今週もついつい読み過ぎたような気がします。おかげで引越し作業がなかなかはかどりません。来週も、実は、話題のアセモグル & ロビンソン『自由の命運』がすでに図書館に届いており、また、ユヴァル・ノア・ハラリの『21 Lessons』やウォルシュの『ポール・ローマーと経済成長の謎』なども予約順位が迫っており、ひょっとしたら、それなりの読書になるかもしれません。なお、本日の朝日新聞の書評欄を見ると、2月1日の読書感想文で取り上げた『ワンダーウーマンの秘密の歴史』とその次の週の2月9日に取り上げた『男らしさの終焉』の書評が掲載されていました。1か月以上も新聞に先んじるのはそれなりに気分がいいものかもしれません。

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まず、ハロルド・ウィンター『やりすぎの経済学』(大阪大学出版会) です。著者は、米国オハイオ大学の経済学研究者です。英語の原題は The Economics of Excess であり、2011年の出版です。副題が、上の表紙画像に見られるように「中毒・不摂生と社会政策」とされており、古くは、ベッカー教授とマーフィー教授による "A Theory of Rational Addiction" なんて、画期的な論文もありましたが、もちろん、今どきのことですから、行動経済学の知見も取り入れて、非合理的な選択の問題にも手を伸ばしています。ただ、大阪大学出版会から出ているとはいえ、各章の最後に置かれている文献案内を別にすれば、決して学術書ではありません。一般ビジネスマンなどにも判りやすく平易に書かれていて、その肝は時間整合性に的を絞っている点だろうと私は理解しています。本書冒頭では、時間整合的でその点を自覚している人物、時間非整合でありながらそれを自覚していない人物、時間非整合でそれを自覚している人物、の3人の登場人物を軸にして、時間割引率に基づく時間整合性のほかの非合理性には目をつぶって、もちろん、誤解や認識上の誤りは排除して、さらに、喫煙、肥満、飲酒の3つのポイントだけを取り上げて議論を進めています。その上で、温情的=パターナリスティックな政策の効果などについても視点を展開し、価値判断ギリギリの見方を提供しています。薬物に関する議論を書いているのはやや物足りないと感じる向きがあるかもしれませんが、私は基本は喫煙の先に薬物中毒があると受け止めていますので、特に本書の大きな欠陥とは思えません。ただ、何せ10年近く前の出版ですので、セイラー教授がノーベル経済学賞を受賞する前であり、最近の行動経済学の展開がどこまで反映されているかに不安を覚える向きがありそうな気もしますが、かなりの程度に一般向けですので、そこまで気にする必要はないように思います。

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次に、ウルリケ・ヘルマン『スミス・マルクス・ケインズ』(みすず書房) です。著者は、ドイツの経済ジャーナリストです。本書のドイツ語の原題は Kein Kapitalismus Ist Auch Keine Lösung であり、巻末の訳者解説に従えば、日本語に直訳すると「資本主義を取り除いても解決にならない」という意味だそうです。2016年の出版です。ということで、かなりリベラルな立場から主流派経済学、というか、ネオリベ的な経済学を批判しており、その際の論点として、邦訳タイトルにある経済学の3人の巨匠に根拠を求めています。実は、すでに定年退職してしまった私なんですが、大学を卒業して経済官庁に、今でいうところの就活をしていた際に、「大学時代に何をやったか」との問いに対して、「経済学の古典をよく読んだ」と回答し、スミスの『国富論』、マルクスの『資本論』、ケインズの『雇用、利子および貨幣の一般理論』を、リカードの『経済学および課税の原理』とともに上げた記憶があります。当然のリアクションとして、「マルクス『資本論』を読んだというのはめずらしい」といわれてしまいましたが、無事に採用されて定年まで勤め上げています。まあ、私の勤務した役所の当時の雰囲気がマルクス『資本論』くらいは十分に許容できる、というスタンスだったと記憶しています。でも、さすがに、私は役所の官庁エコノミストの中では最左派だったのは確実です。周囲もそう見なしていたと思います。本書の書評に立ち返ると、自由放任とか見えざる手で有名なスミスについても、著者の間隔からすれば十分に社会民主主義者であったであろうし、マルクスが実生活はともかく共産主義者であった点は疑いのないところですし、ケインズは逆に自分自身では保守派と位置付けていたにもかかわらず、ネオリベ的なコンテキストで考えると十分左派であるのもそうなんだろうと思います。本書では、格差の問題などの現代的な経済課題を取り上げ、副題にあるような危機の問題も含めて、資本主義経済の問題点をいくつかピックアップした上で、決して、資本主義が社会主義に移行することが歴史の流れではないし、資本主義経済の諸問題の解決にもならない、としつつ、ネオリベ的な市場に任せた処方箋を明確に否定し、3人の古典的なエコノミストにも依りつつ、解決策を探ろうと試みています。ただ、シュンペーター的な技術革新や独占化の進展、さらに、デリバティブ取引の拡大などを指して経済の金融化の進展、などなど、かなりいいセン行っているんですが、最後の結論は少し私には違っているように見受けました。

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次に、デイヴィッド・スローン・ウィルソン『社会はどう進化するのか』(亜紀書房) です。著者は、米国ニューヨーク州立大学ビンガムトン校の進化生物学の研究者であり、いわゆるマルチレベル選択説の提唱者です。英語の原題は This View of Life であり、2019年の出版です。がん細胞、免疫系、ミツバチのコロニーから、「多細胞社会」としての人間まで議論を進め、進化生物学の最前線から人間の経済社会活動のメカニズムを解剖しようと試みています。がん細胞はマルチレベル選択の実証的ですぐれた例を提供するとしています。経済学との関係では、特に、ノーベル経済学賞を受賞したエレノア・オストロム教授が提唱した失敗と成功を分かつ8つの中核設計原理(CDP)をベースにした解説はそれなりに説得力あります。8つのCDPとは、CDP1: 強いグループアイデンティティと目的の理解、CDP2: 利益とコストの比例的公正、CDP3: 全員による公正な意思決定、CDP4: 合意された行動の監視、CDP5: 段階的な制裁、CDP6: もめごとの迅速で公正な解決、CDP7: 局所的な自立性、CDP8: 多中心性ガバナンス、です。その上で、自由放任=レッセ・フェールとテクノクラートによる中央計画はどちらも機能しないといい切り、変異と選択の管理プロセスを機能する方法のひとつと位置付けています。典型的なマルチレベル選択説であり、社会的な協調が文化的な進化を進める原動力、ということなのだろうと私は受け止めています。ですから、望ましい経済社会を形成して維持し続けるための政策を立案するに当たっては、進化生物学の視点が不可欠、ということなんでしょうが、本書でも指摘しているように、進化と進歩は同一ではありませんし、進化とは望ましい方向という面はあるにせよ、実は、何らかの変化に対する適応のひとつの形式なんではないか、と私は思っています。がん細胞が正常な細胞を阻害するわけですから、進化生物学がよき社会のために、あるいは、安定した経済のために決定的に重要、とまでは断定する自信はありません。

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最後に、アンソニー・ホロヴィッツ『メインテーマは殺人』(創元推理文庫) です。著者は、2018年の『カササギ殺人事件』で邦訳ミステリでミステリのランキングを全制覇し、一躍著名作家に躍り出ましたが、何と、本書で2年連続の邦訳ミステリのランキング全制覇だそうです。英語の原題は The Word Is Murder であり、2017年の出版です。『カササギ殺人事件』では、瀕死の名探偵アティカス・ピュントが謎解きを見せましたが、本書では刑事を退職したダニエル・ホーソーンが事件解決に挑み、何と、著者ホロヴィッツ自身が小説に実名かつ現実の作家や脚本家として、探偵のホームズ役のホーソーンに対して、記録者としてワトソン役を務めます。ということで、財産家の女性が、自分自身の葬儀の手配のために葬儀社を訪れた当日に絞殺されるという殺人事件から始まり、被害者の女性が約10年前に起こした自動車事故との関連が調査されるうち、被害者の女性の息子で有名な俳優も殺される、という連続殺人事件の謎解きが始まります。巻末の解説にあるように、すでにホーソーン探偵を主人公に据えた第2作の原作がすでに出版されていて、ピュントのシリーズも今後出版される予定だそうです。ミステリとしては実に本格的かつフェアな作品に仕上がっており、ノックスの十戒にも則って、犯人は実にストーリーの冒頭から登場します。いろんな伏線がばらまかれた上に、キチンと回収されます。我が国の新本格派も同じで、殺人まで進むにはやや動機に弱い点があったり、探偵役のホーソーンのキャラがイマイチですし、著者自身がワトソン役を務めるという意外性などは私自身は評価しませんが、ミステリとしてはとても上質です。ミステリファンであれば読んでおいて損はないと思います。

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2020年3月 8日 (日)

先週の読書は東京でのまとまった最終の読書か?

昨日の記事に米国雇用統計が割り込んで、先週の読書感想文が今日になってしまいました。かなり無理のある戦争や戦闘をマネジメントの視点から取り上げた経営書、啓蒙書などに加えて、大御所作家によるミステリ短編集まで、以下の通りの計5冊です。この先も、パラパラと読書は進めますが、週数冊のペースの読書は、当面、今日の読書感想文で最後になります。3月中に京都に引越してから、大学の研究費を使っての書籍購入の読書、また、京都をはじめとする公立図書館から借りての読書のいずれも、現時点ではどうなるものやら、まだ何ともいえません。

 

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まず、野中郁次郎ほか『知略の本質』(日本経済新聞出版社) です。著者の1人である野中教授は一橋大学の研究者であり、経営学の泰斗なんですが、この本では戦略論などの観点から、モロに戦争や戦闘を取り上げています。その昔に『失敗の本質』を出版した際のメンバーによく似通っています。兵制や武器に関する知識は、私にはからっきしありませんが、それを差し引いても戦略に関して判りにくさは残りました。日本経済新聞出版社から上梓されている意味が私には理解できませんでした。でも、ビジネス書としてトップテンにランキングされていた時期もあります。私は戦争や戦闘に詳しくないのに加えて、経営にもセンスないのかもしれません。ということで、取り上げているのは、第2次世界大戦以降の戦争や戦闘であり、第2次大戦における独ソ戦、同じく英国の空戦と、海戦、ベトナムがフランスと米国を相手にしたインドシナ戦争、そして最後に、イラク戦争と4章に渡って議論が展開されています。第2章の英国の戦略というか、時の首相だったチャーチルのゆるぎない信念と国民の一致団結した方向性などは経営にも通ずるものがある一方で、第1章のロジスティックス、というか、兵站や補給の重要性については、経営的にどこまで意味あるかは私には不明です。ただ、クラウゼビッツ的に政治や外交の手段としての先頭や戦争については、その通りだと思います。唯物論者の私にとって、圧倒的な後方支援体制、というか、物的生産力を有する米国がベトナムに敗れたのは、大きな謎のひとつなんですが、英国のチャーチルと同じで、ホーチミンもまた民族の独立という大義を全面に押し出し国民感情に訴えることで、広く共感を呼び起こし、国民の団結をもたらし、武力に勝る何らかのパワーを引き出した、といことなのだろうと思いますが、それをどのように経営に応用するんでしょうか?

 

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次に、スティーブン・ピンカー『21世紀の啓蒙』上下(草思社) です。著者は、米国ハーバード大学の認知科学の研究者です。学識経験者や有識者の世界的な代表者のひとりといえます。英語の原題は Enlightenment Now であり、ハードカバー版は2018年の出版です。ということで、啓蒙についての定義とまではいえないかもしれませんが、世界に関する正しく科学的な認識が生活の豊かさをもたらす、という観点を強調しています。ポストトゥルースやフェイクニュースなんぞはもってのほか、ということです。その意味で、強烈な米国トランプ政権批判の要素を秘めている点は忘れるべきではありません。啓蒙主義の理念は、理性、科学、ヒューマニズム、進歩などであり、私がよく言及するように、保守とは歴史の進歩を否定したり、進歩を押しとどめようとする一方で、左派リベラルは歴史の進歩に信頼を寄せ、パングロシアン的といわれようとも、人類の歴史は正しい方向に進んでいる、と考えています。歴史の流れを押しとどめるのが保守であり、ついでながら、この歴史の流れを逆回しにしようとしているのが反動といえます。本書第2部では、延々と人類の歴史の進歩が正しく実り大きい方向にあった点を跡付けています。その意味で、特に、2016年の米国大統領選挙や英国のEU離脱を決めたレファレンダムあたりから、世界の進む方向が変調をきたした、との論調を強く否定しています。その意味で、「世界は決して、暗黒に向かってなどいない。」との分析結果を示していますし、私はそれに成功していると受け止めています。とてもボリューム豊かな上下2冊であり、中身もそれなりに難解な内容を含んでいますので、読み始めるにはそれなりの覚悟が必要ですが、読み切れば大きな充実感が得られると思います。私は不動産契約のために京都を新幹線で往復した日ともう半日くらいで読み切りましたが、じっくりと時間をかけて読むのもいいような気がします。その意味で、図書館で借りるよりも書店で買い求めるべきなのかもしれません。

 

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次に、スー・マケミッシュほか[編]『アーカイブズ論』(明石書店) です。著者たちは、もナッシュ大学を中心とするオーストラリアの研究者が多くを占めています。英語の原題は Archives: Recordkeeping in Society であり、2005年の出版です。さらに、原書は12章から構成されていますが、なぜか邦訳書はそのうち半分の6章だけの抄訳書となっています。ということで、私の受け止めながら、集合名詞である「アーカイブズ」とは、何らかの決定に至る過程や論理を後に参照できる形でとどめる広い意味での公文書、ということになります。もちろん、その背景には説明責任=アカウンタビリティの保証があることは当然です。さらに、プリントアウトされたドキュメントだけでなく、マイクロフィルムや電磁媒体はいうまでもなく、アナログ・デジタルを問わず録画や録音も含まれると解されますし、役所のいわゆる公文書だけでなく、企業における経営判断をはじめとして何らかの決定過程を跡付ける資料も含まれます。ですから、オーストラリアには企業公文書施設が存在するそうです。まだ記憶に新しい森友事件における財務省の公文書改ざんなどにかんがみて、こういったアーカイブズに関する学術書が公刊されたんだろうと私は受け止めていますが、出版物を受け入れる図書館だけでなく、アーカイブズを整理して保存する組織や施設の必要性がよく理解できると思います。ただ、繰り返しになりますが、原書の抄訳であり、すっ飛ばされた部分がとても気にかかります。本書のテーマからして、どうしてそのような意思決定がなされたのか、説明責任を果たすべく、何らかのアーカイブズは残すことになるんでしょうか。それとも本書の邦訳者にして、アーカイブズの保存という実行は別問題なんでしょうか。

 

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最後に、有栖川有栖『カナダ金貨の謎』(講談社ノベルス) です。作者は、ご存じの通り、本格ミステリの大御所作家です。本家クイーンの向こうを張った国名シリーズ第10弾の記念作品です。綾辻行人の館シリーズ第10作がなかなか出て来ませんが、スタートは館シリーズに遅れたものの、コチラの方が第10作目の出版が早かったのは少し驚きました。ということで、作家アリスのシリーズですので、英都大学の火村准教授が謎解きに挑みます。短編ないし中編を5編収録したミステリ短編集で、収録順に、「船長が死んだ夜」、「エア・キャット」、表題作の「カナダ金貨の謎」、「あるトリックの蹉跌」、「トロッコの行方」となっていて、私は冒頭の2編は読んだ記憶があります。表題作は、この作者にしてはややめずらしい倒叙ミステリとなっています。男性の絞殺死体からメイプルリーフのカナダ金貨が持ち去られていたミステリです。最後の「トロッコの行方」は米国ハーバード大学のサンデル教授が取り上げて注目されたトロッコ問題をモチーフにしています。ただし、表題作も含めて、中編の「船長が死んだ夜」、「カナダ金貨の謎」、「トロッコの行方」はいずれもノックスの十戒に従って、すべて殺人事件なんですが、新本格派のミステリらしく少し動機が弱い気がします。これくらいのことで人を殺すかね、というのは私だけの感想ではなかろうと思います。それを別にすれば、極めて論理的な謎解きが展開されます。国名シリーズの10作目として、期待通りの出来といえます。

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2020年2月29日 (土)

今週の読書はペースダウンしつつも、スティグリッツ教授の経済書をはじめ計4冊!!!

今日までの2月いっぱいで、ほぼほぼ住宅の契約関係、すなわち、現住居の売却と新居の購入の契約などは終えました。もちろん、実際の引越しなどは3月の下旬になるわけですが、契約関係は私が全面に出るとしても、引越しなどの実務は女房が指揮を執ることになります。そして、東京都民最後の1ト月となり、読書の方も少しずつペースダウンしています。今週はスティグリッツ教授の印象的な資本主義論をはじめとして以下の計5冊です。

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まず、ジョセフ E. スティグリッツ『スティグリッツ・プログレッシブ・キャピタリズム』(東洋経済) です。著者は、リベラルなエコノミストであり、ノーベル経済学賞受賞者です。英語の原題は People, Power, and Profits であり、2019年の出版です。ということで、先々週2月9日付けの読書感想文で取り上げたエリック A. ポズナー & E. グレン・ワイル『ラディカル・マーケット』と同じ出版社から、同じ趣旨の資本主義の修正を迫る内容となっています。市場における資源配分を基礎とする資本主義が、もはや、効率的な経済や、ましてや、公平で公正な分配をもたらすことはあり得ない、と多くのエコノミストが認識し、今や、ごく限られた一部の富裕層や大企業にのみ奉仕するシステムになり果てていることは、エコノミストならずとも、多くの一般国民が実感しているところではないでしょうか。特に、米国の場合、トランプ政権成立後は国内的な分断が激しく、格差問題をはじめとする経済だけでなく、フェイク・ニュースをはじめとして、政治的に民主主義が危機に瀕しているとの見立てすらあります。日本と違って、米国の場合は宗教的なものも含めて迫害から逃れて移民して来た人々が建国した国ですので、少数者を多数者の専横から保護するシステムも発達していますが、そういった米国本来の民主主義が歪められていると見る有識者も少なくありません。本書でも、主眼は経済なのかもしれませんが、第2部冒頭の第8章をはじめとして、民主主義の重要性を主張している論調も少なくありません。累進課税の復活や教育をはじめとする機会均等の実現などなど、米国独自の課題は少なくありませんが、日本と共通する部分もかなり私には見受けられました。一般読者を対象にした啓蒙的な内容を主とする経済書ですが、専門的な原虫が100ページを超えており、私はそれなりにていねいに読んだつもりですが、この原虫を含めてしっかり読めば、かなり理解が深まるような気がします。冒頭に言及した『ラディカル・マーケット』やバルファキス教授の『父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』などとともに、経済を民主化して国民生活をより豊かで実り多いものにすることを目指しているのであれば必読です。

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次に、ジェームズ C. スコット『反穀物の人類史』(みすず書房) とルイス・ダートネル『世界の起源』(河出書房新社) です。国家や世界の起源に関する2冊を強引かつ無理やりにいっしょに論じようとしています。ズボラで申し訳ありません。まず、『反穀物の人類史』の著者は米国イェール大学の政治学の研究者で、英語の原題は Against the Grain であり、2019年の出版です。『世界の起源』の著者は、英国レスター大学の英国宇宙局に在籍する宇宙生物学を専門とする研究者で、英語の原題は Origins であり、2018年の出版です。この著者の本としては、同じ出版社から邦訳が出ている『この世界が消えたあとの科学文明のつくりかた』を数年前に私は読んだ記憶があります。ということで、まあ、理解できるところですが、『反穀物の人類史』は経済社会的な視点から国家の成立を論じ、ティグリス=ユーフラテス川の流域に国家が生まれたころから、せいぜいがギリシア・ローマの古典古代の奴隷制経済までをスコープとしているのに対して、『世界の起源』は宇宙物理学や宇宙生物学の視点から世界の成り立ちを追っていますから、ホモ・サピエンス登場以前から産業革命後までも含めて、さらに壮大な長期を対象にしています。私が注目している現代貨幣理論(MMT)では、貨幣の起源を国家による徴税への強制的な支払いに求めていますが、『反穀物の人類史』では穀物が国家の税金として採用されたのは、熟する時期が限定されており、同じように保存のきく豆類との違いを上げています。ただ、生産力の成長とそれに合わせた奴隷制の成立については、少し私には違和感あります。やっぱり、著者も言及しているエンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』ほどには私の直感に響きませんでした。『世界の起源』では、人類の物語を本当に理解するには、地球そのものの経歴を調べなければならないと説き、地表だけでなく地下の構造、大気の循環、気候地域、プレートテクトニクス、大昔の気候変動などを対象として分析し、環境が人類に残した痕跡を探ろうと試みています。

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次に、松山秀明『テレビ越しの東京史』(青土社) です。著者は、建築学の学生から都市の映像学に転じた研究者であり、本書は著者の博士論文をベースにしています。ということで、タイトル通りに、戦後の東京を大雑把に20年ごとに区切って、テレビと東京との関係、すなわち、著者のいうところの首都としての東京論と東京の空間論について、p.29の三角形、テレビによる東京という放送制度論、テレビに描かれた東京、東京の中のテレビという東京空間におけるテレビの3つの視覚から歴史的に考察を加えています。もちろん、その背景にはテレビというハードウェアとそのハードウェアの普及を促すソフトウェアの提供があるはずなんですが、1959年の皇太子ご成婚と1964年の東京オリンピックをそれに当てています。ただ、ハードウェアとソフトウェアという用語は本書では用いられていません。ちなみに、私の記憶する限り、力道山をはじめとするプロレスもテレビの普及に貢献したと考えているんですが、これも著者はほぼほぼ無視しています。ハイカルでもなければ、サブカルでもないし、やや偏った印象を私は受けました。そして、もうひとつ、奇っ怪だったのはテレビドラマの見方です。TBSの「岸辺のアルバム」はいいとしても、お台場に移転したフジテレビのいわゆる月9枠のテレビドラマ、典型は「東京ラブストーリー」を、お台場というイントラ東京の地域性だけ論じようと試みています。これはいくら何でもムリがあります。バブル経済という経済的な時代背景を視野に入れずして語ることは大きな片手落ちというべきです。本書でも指摘している通り、大宅壮一の「一億総白痴化という批判を前に、お堅いドキュメンタリーやノンフィクションの報道から始まったテレビのひとつの到達点なんですがら、ここはチキンと抑えて欲しかった気がします。あと、せっかくオリンピックから始まったテレビですので、スポーツをもっとていねいに取り上げて欲しかった気がします。堺屋太一のいう「巨人、大鵬、卵焼き」にも登場するプロ野球と大相撲を無視したのは私には理解できません。ということで、これから大学教員になる私の目から見て、かなりレベルの低い博士論文だという気がします。私が主任教員であれば決して通さなかったでしょう。

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最後に、今週の読書唯一の小説で、道尾秀介『カエルの小指』(講談社) です。著者は、直木賞作家の小説家です。この作品は『カラスの親指』の続編、十数年後という位置づけです。ですから、武沢竹夫が主人公で、まひろ、やひろ、貫太郎らも登場します。繰り返しになりますが、十数年後という設定ですから、まひろがアラサー、やひろも40歳近い年齢に達しており、やひろと貫太郎の夫婦にはテツという小学生の子供も生まれています。前作の『カラスの親指』と同じように、大規模なペテンを仕掛けたように見えつつも、実は、…、という設定です。ということで、主人公の武沢竹夫は詐欺師から足を洗い、口の上手さを武器に実演販売士として真っ当に生きる道を選んだんですが、謎めいた中学生のキョウがその実演販売に水を差し、未公開株式詐欺にあって呉服屋を倒産させられた祖父母や母のかたき討ちを持ち込まれて、再び派手なペテンを仕掛けようと試みます。前作と違って、そこの詐欺を糾弾するフリをしたテレビ番組も巻き込んで、大規模なペテンが始まりますが、最後の最後に、やっぱり、大きなどんでん返しが待っています。私は前作の『カラスの親指』は原作も読みましたし、石原さとみと能年玲奈が出演した映画も見て、それなりに満足しましたが、この作品は前作ほど面白くもなければ、ミステリとして出来もよくありません。何となく、国民がそのまま高齢化した日本社会の「つまらなさ」を体現しているような小説です。でも、私のような道尾秀介ファンは読んでおくべき作品といえます。

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2020年2月22日 (土)

今週の読書はややペースダウンしつつも計5冊!!!

今週の読書は話題の現代貨幣理論(MMT)に関する経済書をはじめ、以下の計5冊です。既に、今日のうちに図書館回りを終えていて、そろそろ読書のペースはダウンさせつつあります。引っ越しまでそろそろ1か月くらいになりました。図書館環境が文句なしに日本一の東京から関西へ引っ越しますので、それなりにペースダウンする上に、10年近く前に経験あるとはいえ、大学教員に復帰するんですから、少なくとも1年目は大忙しだろうと思います。読書の時間は取らねばなりませんが、お仕事に必要な読書の割合が飛躍的に高まるのは当然だろうと予想しています。

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まず、藤井聡『MMTによる令和「新」経済論』(晶文社) です。著者は、京都大学の工学分野の研究者で、防災などの内閣官房参与を務めたこともあります。本書タイトルのMMTとは、もちろん、Modern Monetary Theory であり、現代貨幣理論についてレイ教授の入門書に即して平易に解説しています。要するに、MMTの肝は、インフレ率を目標関数にするのは財政政策の役割であって、世界のエコノミストの多くが思い描いているように、金融政策が物価水準を決める主要な政策ではない、という点に尽きます。MMTの理論に沿って、貨幣は国家=統合政府たる狭義の政府と中央銀行の統合体の債務であって、逆から見て民間部門の資産であり、貨幣が流通するのは国家が税金の支払いを貨幣でもって行う強制力を持っているためである、ということになります。そこから敷衍して、通貨発行権を独占する国家が債務超過に陥ったり、破綻することはあり得ない、ということになります。私はこの点までは、MMTの考えるモデルの説明であって、ここまではとても整合性あるモデルである点は認めるべきだと思います。理論的なモデルとしては十分なんですが、問題は操作性、というか、政策への応用だと私は受け止めています。すなわち、金融政策がインフレ率の決定要因となる場合、古典派的な貨幣数量説を応用すれば、極めて直感的かつ直接的な把握が可能である一方で、財政政策から物価への波及経路は極めて複雑です。基本は、需給ギャップを通じたルートなんでしょうが、波及ラグを考慮すれば、財政政策オペレーションは金融政策の公開市場操作に比べて決して単純ではありません。もっとも、私は需給ギャップだと思っていますが、本書では財政政策を通じた貨幣流通量を重視しているようです。財政赤字が大きいほどマネーストックも増加するというMMTモデルの基礎となる部分です。ただ、本書でも指摘されているように、金融政策が経済主体の経済合理的な行動を前提として、かなりの程度に間接的な政策であるのに対して、財政政策は国家としての強制力のある直接的な政策であることも確かです。ですから、ここから先は本書にはありませんが、金融政策では期待の役割を重視し、デフレマインドが払拭しきれないために、我が国でインフレ目標の達成ができない一方で、財政政策は強制力を持って税金として民間からマネーを徴収したり、逆に、国民のポケットにマネーを供給したり、といった直接的な政策手段を持ちます。特に、MMTでは歳出政策と歳入政策がほぼほぼ完全に切り離されますので、政策の自由度は大きくなりそうな気がします。いずれにせよ、MMTは本書で指摘するように、何ら理論的な裏付けない「トンデモ理論」では決してないことは、かなり多くのエコノミストに理解されて来たと思いますが、金融政策による貨幣数量説的な単純なモデルに比べて、財政政策による需給ギャップを通じた複雑な経路を経るように見えるモデルのどちらが物価への影響が大きいかは、理論的な帰結ではなく、大いに実証的な問題と私は考えます。本書で示されたMMT理論について、多くのエコノミストが理解を進めて、理論的なモデルの解説からさらに実証的な検証に進む段階に達したように私は感じています。かつてのような「非ケインズ効果」のように実証的なエビデンスが得られれば、それが、実際のデータであれ、モデルのシミュレーションであれ、その段階に達したらMMTはさらに説得力を増すと考えるべきです。

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次に、馬文彦『14億人のデジタル・エコノミー』(早川書房) です。著者は、世界最大級の中国政府系ファンド「中国投資有限責任公司(CIC)」で長らく投資を行ってきた実務家のようですが、私はよく知りません。副題は「中国AIビッグバン」となっているんですが、ほとんどAIのトピックは出て来なかったように記憶しています。まあ、私が読み飛ばしただけかもしれません。私の読書結果としては、要するに、米国のGAFAに対して中国でBATと称されるバイドゥ、アリババ、テンセント、あるいは、そのさらに先を走る次世代企業のTMD,すなわち、トウティアオ、メイトゥアン、ディディチューシンをはじめとして、企業活動を中心に据えつつ、中国のデジタル企業の現状を紹介したものです。逆に、利用者サイドの情報はそれほど充実しているとはいえません。まあ、投資活動が長かった著者のようですから、ある意味で、当然です。なお、最近私が目にしたところでは、先のBATにフアウェイを加えてBATHと語呂のいい4文字にしている例も見かけましたが、米国に制裁対象にされてやや陰りが見えるのかもしれません。ということで、、私は1年と少し前の2018年11月に国連統計委員会の会議で北京を訪問したのが中国メインランドに旅行した唯一の経験なんですが、その時点で、知り合いの大使館書記官から「タクシーは現金では乗れない」といわれたくらいに、キャッシュレス決済が普及していて、まあ、これは日本でもそうですが、あらゆる人がスマホをいじっている気がしました。私の見方からすれば、アテンション経済と称される奏、自分のデータを気軽にお安く売って、アテンションの値打ちが低い気がしないでもありません。ただ、それだけに、その裏側では、アテンションやデータを収集する企業の方は極めて高収益を上げているのは間違いありません。本書でも紹介されている通りです。GAFAと同じように、デジタル企業ではデータを収集して分析し、いろんな経済活動に活かしているわけですが、本書の明らかなスコープ外ながら、私がついつい思い浮かべてしまったのは、現在の新型コロナウィルスのデジタル経済への影響です。例えば、インターネット通販に関していえば、店舗での接触を避けられるという意味でOKそうな気もします。ただ、そもそも、「世界の工場」である中国で製造業の稼働率がかなり低下し、流通する財が品薄になれば小売りはどうしようもありません。もちろん、小売りに限らず、現在の中国はそれなりに世界の分業体制の中で、というか、流行りの用語でいえば、サプライチェーンの中で重要な位置を占め、小売りはもちろん川下産業への影響も大きくなっています。また、かえる跳びのリープフロッグ経済のデジタル分野における利点を並べていますが、逆に、別のリープフロッグに追い抜かれるリスクもあるわけで、そのあたりはイノベーション次第という気もします。最後に、第8章ではプライバシーを取り上げていて、フェイスブックのザッカーバーグCEOはプライバシー重視に路線転換を図っているようですが、中国でこそプライバシー意識が希薄、というか、プライバシーよりも天下国家の安寧秩序の方に大きな重点を置くんではないか、という気がしてなりませんでした。

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次に、青木理『暗黒のスキャンダル国家』(河出書房新社) です。著者は、共同通信ご出身のジャーナリストであり、特に、ジャーナリストとして権力の監視に熱心であり、その意味で、反権力的なバイアスを持っているように見られがちな気もします。私は、本書の著者が取りまとめたノンフィクションでは新書版の『日本会議の正体』を読んだ記憶があります。ということで、毎日新聞に著者が掲載している「理の目」と題するコラムなどから、著者のコメンタリーを収録しています。タイトルこそかなり激しい調子の印象を受けますが、中身の主張についてはかなり抑制のきいた文体で時論を展開しています。冒頭から、「ジャーナリストは反骨で当然」という趣旨の議論が展開され、権力に対するチェック・アンド・バランスという意味で、ジャーナリズムが権力を監視する意気込みを強く感じさせます。2012年年末の総選挙で政権交代があり、その後、現在の安倍政権が継続しているわけですが、その総選挙後だけでも、特定秘密保護法・安全保障法制・テロ等準備罪法の強行姿勢から始まって、本書のタイトルとなっているスキャンダルについては、森友・加計学園の問題を筆頭に沖縄県辺野古への米軍基地移設、東北地方などへのイージス・アショア配置問題、改元に伴う元号のあり方への疑問、現在の国会論戦で展開されている桜を見る会の招待客問題、あるいは、高検検事長の定年延長問題などなど、あれやこれやとにわかには信じられない政権の暴挙が一強政権下で連続しています。もちろん、現政権の目指すところは憲法改正であることは明確です。こういった流れの中で、私のようなエコノミストの目から見て、本書でも安倍政権が経済政策を全面に押し出して選挙で勝利したような表現が見受けられましたが、やっぱり、現政権の横暴を許さないためには選挙でのプレッシャーが必要ではないかという気がします。決して、本書が「上から目線」とは思いませんが、国民生活に密着してお給料が上がって豊かな消費が楽しめるような政策を打ち出せないと、左派リベラルは選挙で負け続けて、経済を全面に打ち出して選挙に強い現政権が、経済政策だけでなく安全保障などをひっくるめてすべての政策を支配しかねません。正面から言論で政権批判を展開するのも結構ですが、国民目線で豊かな生活につながって、それが現政権への監視に役立つような政策の提示も、同時に必要ではないでしょうか。本書では、現政権の究極の目標であろうと推察される憲法改正について何も取り上げていないに等しいのも気がかりですし、何を差し置いても、選挙で負け続けては改憲を防げないという点は強調しておきたいと思います。

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次に、ジョナサン・シルバータウン『美味しい進化』(インターシフト) です。著者は、英国エディンバラ大学の進化生態学の研究者です。本書の英語の原題は Dinner with Darwin であり、2017年の出版です。ヒトや動物の進化とともに、また、調理の発展とともに、ヒトと食べ物の関係がどのように変化して来たのかを歴史的にひも解こうと試みています。すなわち、150万年前に初めて料理したとされるヒトの進化の方向付けには食習慣が大きく作用していたことは明らかとしても、同時に、ヒトの食べ物になった品種も進化してきたわけで、身近な食べ物を材料に食べる方と食べられる方の両方の生物学的な進化を読み解こうと試みています。私にははなはだ専門外なんですが、進化や生物学の見方からすれば、わずかの数の遺伝子の並びがホンの少し違うだけで味覚が異なるのはあり得ることなのでしょうし、また、ヒトやほかの動物の味覚に合わせて、食べられる方の主として植物がその繁栄を目的として進化を遂げたりする様子が、とてもリアルかつ判りやすく活写されています。動物はともかく、ヒトは狩猟生活から、あるいは、生肉を食べる狩猟生活から熱を加えて調理する狩猟生活に移り、さらに、農耕生活に発展するわけですが、そのあたりの料理や調理とヒトの共進化が、私のような専門外のシロートでも「なるほど」と思わせるように描き出されています。私は関西の出身で、よく「何か食べられないものはあるか?」と問われて、辛いものが苦手である旨を伝えることがしばしばあるんですが、鳥は辛さを感じないなんて、まったく知りませんでした。ただ、やっぱり、というか、私なんぞから見てもっとも興味深かったのは、第10章 デザート から始まって、第11章 チーズ と第12章 ワインとビール だった気がします。やや順番を入れ替えて、チーズはマイクロバイオーム、すなわち、膨大な数の最近の塊であるといい切り、よく乳糖不耐症は人類の過半を占めるといわれますが、乳糖を分解できる酵素を持たなくても、牛乳の有益な成分を体内に取り込むことのできる食物と指摘しています。そして、何といっても醸造酒の代表であるビールとワインについては、アルコール中毒になる人、ならない人についての解説も詳しかったですし、人類がアルコール飲料からいかに多くの示唆を得てきたかが実感されます。でも、やっぱり、ある意味で最高のエネルギー源である糖類について、デザートを取り上げた10章も深みを感じさせました。エネルギー源としての魅力を増すため、別の表現をすれば、ヒトを引き付けるために甘くなったのか、それとも、エネルギー源として望ましい故に甘く感じつようにヒトの方が進化したのか、たぶん、後者だろうと思うんですが、甘いものを求めるヒトの欲求というのは、私にもよく理解できます。本書では現れませんが、ヒトの両性の中でも男性よりも女性の方が甘いものを好むのは、ひょっとしたら、子供を産むという役割にそれだけ重要性を置いているのかもしれない、と感じたりしました。

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最後に、田村秀『データ・リテラシーの鍛え方』(イースト新書) です。著者は、旧自治省の公務員から学界に転じた研究者のようです。ただし、データ分析、というか、統計や計量の専門家なのかどうかはやや疑問です。ネット・アンケートやランキングについて疑問を呈しつつ、さらに、データを用いた表現振りから真実を見抜く方法、最後に、データ・リテラシーの鍛錬まで、データや情報に関する幅広い話題を取り上げています。ただ、データの信憑性については、「無作為抽出ではない」という点に最大の力点が置かれており、無作為抽出ではないデータや情報を否定するばかりで、そういったバイアスのかかったデータをどう理解すべきか、という踏み込んだ論考はなされていません。もちろん、新書ですから、そのあたりは限界かという気もします。後半の投資案件の表現振りへの批判もご同様で、章タイトル通りに、「うまい話」には裏があるというのは、それなりの教養ある常識人には判っていることですから、さらに踏み込んで、そういったカラクリを見抜くだけでなく、どういったデータや情報が役立つのかを解き起こして欲しい気がします。データや情報の選択や解釈に関する書物は巷に溢れていますが、本書についてはややレベルが低い、という気がしました。逆に、入門編として手に取る向きにはいいのかもしれません。その意味で、高校生レベルにはオススメかもしれません。

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2020年2月15日 (土)

今週の読書は忙しい中でやや毛色の変わった経済経営書から小説まで計7冊!!!

1年近く前に一線のキャリア公務員を定年退職したにもかかわらず、ここ数年来でトップクラスの多忙さを極めています。というのも、4月から雇ってもらう私学から人事関係の手続き書類の提出を求められるとともに、授業のシラバスについては経済学部から1月の入力を求められていたにもかかわらず、私のミスにより今週から来週にかけて、もう一度アップせねばなりません。そろそろ、不動産の売買も佳境に入りつつあり、他方で、その昔の私の研究成果を大学院で研究したいという知り合いからの要請にも応え、結局のところ、現在のパートお勤めのお仕事が手につかずに人任せになっているのが現状です。といいつつ、実は以下のように今週も7冊ほど読書が進んでいたりします。でも、レビューはごくごく短めに済ませておきたいと思います。

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まず、中山淳雄『オタク経済圏創世記』(日経BP社) です。著者はコンサルタント会社の役員のようです。経済よりは経営という観点かもしれません。ということで、オタク文化・経済ということながら、冒頭で、2019年4月に我が国プロレスが米国ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンの会場を満員にした、という事実から始まっています。でも、プロレスは米州大陸、米国やメキシコから日本に輸入された文化ではないのか、という疑問が芽生えました。でも、その後は基本的にアニメ、というか、マンガ・アニメ・ゲームの三位一体で売り込むオタク経済のお話です。ドラゴンボールやポケモンが典型でしょう。ただ、アニメだけながら、ジブリのように日本独自の文化や経済を形成している場合もあります。なかなかにまじめに読ませます。

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次に、パラグ・カンナ『アジアの世紀』上下(原書房) です。著者は、インド出身の国際政治や外交などの研究者です。ということで、アジアの世紀なんて、もう言い古されたフレーズだと思っていたんですが、今までは多くは中国の経済的な体等に触発されて、世界の経済的な重心が欧米からアジアや太平洋に移行してきている事実を指摘するにとどまっていましたが、本書では、少なくとも中国だけでない多様なアジアについて、しかも、経済中心ながら経済にとどまらずに幅広いトピックを取り上げています。ですから、経済的な生産力、特に、中国を中心とする製造業の生産力や資源、あるいは、人的なマンパワーだけでなく、宗教や文化、さらに、様々な終刊に至るまで膨大なファクトを積み重ねています。

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次に、大村大次郎『信長の経済戦略』(秀和システム) です。著者は表紙画像にある通り、元国税調査官ということのようです。決してマルクス主義的な経済学が背景にあるとも思えませんが、織田信長の経済的な基礎を考察し、信長が天下統一に向かったのは、交易による財政的な基盤が強く、兵農分離を果たして常備軍を整備したためである、と結論しています。史料の分析にははなはだ不安あるものの、その後の楽市楽座政策とか、経済的な基盤が兄弟であった比叡山をはじめとする宗門との対立を考えに入れれば、納得できる仮説のような気もします。ただ、そこから飛躍して、信長以外の戦国武将に天下統一の意志がなかったので、一国経営に専念したため信長が抜きん出て天下統一を果たした、という観念論に陥っているのは理解できません。

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次に、林香里[編]『足をどかしてくれませんか。』(亜紀書房) です。先週の読書感想文でも男女のジェンダー問題を取り上げた読書を紹介しましたが、とても小規模なものながら、ダイバーシティやフェミニズムはややマイブームになっている感があります。ただ、私自身はいわゆる「ハマる」ということのない人間だと自覚はしています。本書はジェンダーの問題を、かなり狭い範囲で、メディアに関係する女性からの発信の問題として取りまとめられています。メディア業界以外にも、もちろん、大いに発展させることのできるトピックなんですが、ここまでメディア業界に特化しては、TBSの女性記者が誹謗中傷されたように「売名行為」という非難も巻き起こしかねない危惧はあります。何といっても、女子アナは極めて限られた人々であって、私のような世間の一般ピープルはサラリーマンやOLが多いのではないでしょうか?

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最後に、ダヴィド・ラーゲルクランツ『ミレニアム6 死すべき女』上下(早川書房) です。スティーグ・ラーソンからダヴィド・ラーゲルクランツが書き継いで、とうとう全6部のシリーズが完結です。リスベットとミカエルの2人が、もちろん、最終的に勝利しますが、本書では、とうとうスウェーデンの大臣が主要登場人物の1人となり、エベレスト登頂や二重スパイなど、かなり複雑なストーリー展開になっています。どうしても、欧米系の人名に馴染みがなく、人的な相関図が頭に入り切らずに、やや散漫な読書になってしまいましたが、そのうちに、時間を作って一気に全6巻を読むような読書が必要なんだろうと気づかされました。でも、さすがに最後は圧巻でした。

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2020年2月 9日 (日)

先週の読書は話題の歴史書『スクエア・アンド・タワー』をはじめ計8冊!!!

先週は、図書館の予約本の巡りもあって、ついつい読み過ぎたようです。興味深い経済書や歴史書から、やや疑問符が大きい小説まで、以下の通りの計8冊です。

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まず、エリック A. ポズナー & E. グレン・ワイル『ラディカル・マーケット』(東洋経済) です。著者は、法学の研究者ながら経済学の学術書も少なくないポズナー教授とワイル氏はマイクロソフトの主席研究員です。英語の原題は Radical Market であり、2018年の出版です。副題に「脱・私有財産の世紀」とあるように、財貨の私有と契約自由を基礎とする現在の資本主義的な生産様式に変更を加えようとする試論を展開しています。もちろん、議論はかなり雑であり、右派的な市場原理主義やネオリベ論者からすれば突っ込みどころがいっぱいあるんでしょうが、かなり先進的な議論を提供していることも事実です。副題は第1章のみを対象としているように私には見えますが、第1章では私有財産、第2章では民主主義、第3章では移民、第4章では株式会社制度、第5章ではデータ、のそれぞれについて論じています。ある意味で、もっともアディカルな私有財産への制限については、共同所有自己申告税(common ownership self-assessed tax=COST)の導入を提案しています。すなわち、私有財産は本質的に独占的なものであることから、私有財産については一定の制限を加える、というか、共同所有に移行する都市、具体的には、財産を自己申告で評価し、その自己申告評価に基づいて課税しつつ、もしも、その評価額を支払う意志ある者に対しては譲渡する義務を課す、というものです。課税額を低く抑えようとして財産を低く評価すると、その評価額を支払う意志ある人に強制的に売却しなければなりませんから、それなりに高く評価する必要がありますが、たほうで、高く評価すれば納税額も高くなる、という仕組みです。また、現行の投票制度では、多数者が大きな影響力を持ち、少数者の利益は守られないおそれがある一方で、イシューによって関心の強さは人それぞれでまちまちだが、その関心の強さを票に反映することは不可能になっているため、その投票権を関心の高い分野に集中して使えるようにする投票西土、ただし、平方根で減衰する投票権として2次の投票(Quadratic Vote=QV)を導入して、関心薄い分野の投票行動を回避して投票権を貯めておき、関心高い分野でその貯めておいた投票権を一気に使う、ただし、貯めておいた投票権はリニアで使えるのではなく平方根で減衰させる、という投票制度の導入を現行民主主義の修正として提案しています。これは、副題ではなく主タイトルの「ラディカル」を民主主義に当てはめたといえます。そして、第3章以下では、移民や移住者へのVISAの割当、機関投資家による株式会社のガバナンスの独占、巨大なプラットフォーム企業による個人情報の収集といったテーマを各章で取り上げています。そして、それらの解決策、というか、著者たちの提案の基礎となっているのがオークション理論です。おそらく、巻末の日本語版解説を寄せている安田准教授は、このオークション理論の観点から選ばれたんではないか、と私は想像するんですが、解説者ご本人の意向か、あるいは、依頼した編集者がすっかり忘れたのか、オークション理論についてはまったく取り上げられていません。最後に、繰り返しになりますが、反対の立場を取るエコノミストから見れば、穴だらけの議論だろうとは思うものの、私のような左派で格差是正も重視すべきと考えるエコノミストからすれば、議論の取っかかりとしては、まずまず評価できる内容を含んでいると考えています。

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次に、伊藤真利子『郵政民営化の政治経済学』(名古屋大学出版会) です。著者は、平成国際大学の研究者であり、ご専門は歴史ないし経済史のように私は受け止めました。出版社からしても、かなりの程度に学術書の色彩が強いとの覚悟の上に読み進むべきです。本書は著者の博士論文をリライトしたようですが、タイトルはやや誇大な表現となっており、本書がフォーカスするのは郵政民営化の中でも、郵便貯金に的を絞っています。ということで、戦後の郵便貯金の歴史を解き起こすところから始まって、田中角栄元総理という極めて特異な政治家の庇護により拡大した後、記憶に新しい小泉政権で民営化の大きな節目を迎えた、という歴史を跡付けています。何よりも特徴的な郵便貯金の歴史として、本書の著者は「銀行の支店展開が行政指導により制限を受ける中で、郵便事業の展開とともに貯金も扱う郵便局が銀行支店を上回るペースで拡大し、しかも、金利が自由化される前の段階で金利先高観とともに郵便貯金に資金が流れ込む仕組みを「郵貯増強メカニズム」と名付け、郵貯に集めた資金をもって当時の大蔵省の資金運用部資金を通じて公庫公団の財政投融資制度などから先進国に遅れを取っていた社会インフラの整備へ充当され、国土開発や国民生活の環境整備などをサポートした歴史が明らかにされる前段を受けて、後段では、当然ながら小泉政権における郵政民営化がメインになりますが、その前の橋本政権下での行財政改革のパーツとしての郵政公社化や資金運用部への預託義務の廃止から始まって、2005年の郵政解散がピークとなります。その意味で、タイトルからすれば、やや前段が長すぎる気もしますが、第6章が本書の読ませどころと考えるべきです。もちろん、そのバックグラウンドとして、政府財政が均衡主義を放棄し国債市場がそれなりの厚みをもって形成されたことも忘れるべきではありません。最後に、私が国家公務員として政府に奉職していたこととは必ずしも関係なく、本書の著者は優勢に対する田中角栄元総理の並々ならぬ貢献については、とてもよく目が行き届いている気がするんですが、国政選挙などにおける郵便局ネットワークの果たした役割については、少し目配りが足りておらず、さらに、小泉政権の「古い自民党をぶっ壊す」というスローガンについては、「古い自民党」=旧田中派という事実に関しては、まったく見落としているように見受けられます。学術的な分析の対象にはなりにくい気もしますが、郵政民営化が自民党内の旧田中派への強力な弱体化攻勢であった点は、どこかで何らかの視点からか取り上げて欲しかったと思わないでもありません。ただ、学術書としては難しい面があるのも、判らないでもありません。

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次に、松岡真宏『時間資本主義の時代』(日本経済新聞出版社) です。著者は、野村総研ご出身で、今は共同代表を務めるコンサルタント会社を立ち上げた経営者です。本書では、時間の使い方を切り口に、時間の希少性をいかに使うかを問うています。といえば、聞こえはいいのかもしれませんが、私には何を訴えたいのかがイマイチ理解できませんでした。本書冒頭で、すきま時間を効率的に活用しよう=スマホを電車でいじろう、という内容と早合点したんですが、そうではなく、すきま時間の効率化を手段として、効率化により節約された時間をかたまり時間としてうまく活用しよう、という主張だと理解して読み進みましたが、これはこれでその通りのいい主張ではあるものの、途中から大きくよれてしまいます。時間を基礎にして本書第2章のタイトルである時間の経済学を展開すれば、著者も気づいているように、経済学的には労働価値説になります。ただ、これは供給サイド、というか、時間をひとつの生産要素と考える場合です。他方で、本書ではすっかりスコープの外に置かれていますが、時間をうまく消費するビジネスも展開されていますし、本書でも、著者が明示的には気づいていないうちに取り上げたりもしてます。例えば、本書では、時間の効率化と時間の快適化を2つの軸に据えていますが、前者の時間の効率化は機会費用の高い人が、その生産を高めるために生産以外の時間を節約しようとするものである一方で、後者の時間の快適化は多少コストをかけても快適な時間を過ごすわけですから、時間消費型のビジネスということも出来ます。そして、p.179 の時間とお金と人材のマトリクスが典型なんですが、やっぱり、機会費用が高い高収入層が何らかの時間節約も可能となるという意味で、時間とお金はおそらく賦存条件において正の相関にあるんではないか、と私は想像します。でも、そうなら、このようなマトリクスを分析する意味はありません。時間価値という言葉も、生産性に近い印象なんですが、著者は否定しています。で、結局のところ、時間価値とは稼ぐ力の機会費用、としか私には見えません。そうであれば、特に目新しさもなく、1日24時間、1年365日がすべての人に平等に行き渡っている以上、何らかの経済的な格差が生じるのは、主として、時間単価の違いに依存します。もちろん、私のように短時間で切り上げたいタイプと、長時間働く人との違いがあって、時間単価ではなく労働時間の差が格差を生み出すともいえますが、労働時間の差はせいぜい2~3倍までであり、それ以上の格差が観察される現状は時間単価の差でしかあり得ません。ですから、時間を節約するよりも、時間価値、というか、伝統的な経済学でいうところの時間単価を高める必要があるんですが、本書ではこういった価格で測った質的な時間単価ではなく、量的な時間の方に目が行っているようです。ただ、1点だけ、スマホの普及により公私混同が激しくなった、という分析には目から鱗が落ちた気がします。私自身については、職務専念義務ある国家公務員を定年退職するまでスマホは持ったことがなかったので、こういった公私混同は経験ありませんが、今はひょっとしたらそうなのかもしれません。

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次に、ニーアル・ファーガソン『スクエア・アンド・タワー』上下(東洋経済) です。著者は、英国出身で現在は米国のスタンフォード大学やハーヴァード大学の研究者であり、テレビなどでも人気の歴史家です。英語の原題は The Square and the Tower であり、2017年の出版です。どうでもいいことながら、いつものクセで、表紙画像を縦に並べてしまいましたが、デザイン的には横に並べた方がいいのかもしれません。ということで、最後の著者によるあとがきや訳者あとがきでは、英語の原題は「広場と塔」と訳されています。前者の広場は横に広がるネットワークの象徴であり、後者の塔は縦に構成される階層制組織の象徴とされているようです。階層制組織は、比喩的に日本語では「ピラミッド型」と呼ばれることがあるヒエラルキーであり、今でも、政府、特に、軍隊などで幅広く見られる組織原理である一方で、特に情報通信技術、ITCの発達によりフラットなネットワークの重要性も認識されていることはその通りです。特に、本書ではネットワークを人的なつながりで、また、階層制については組織原理として、それぞれ歴史を通じてどのように作用してきたかを概観しようと試みています。歴史的なスコープとしては、あくまでヒストリアンの著作ですので、中世末期、というか、いわゆるルネサンス期からネットワーク形成に際する活版印刷の果たした役割あたりから始まって、宗教改革、科学革命、産業革命、ロシア革命、ダヴォス会議、アメリカ同時多発テロからリーマン・ショックまで、幅広いトピックが取り上げられますし、人的ネットワークという観点では、本書の書き出しはイルミナティだったりします。もちろん、フリーメイソンについても詳述されています。私も大学時代は経済史を選考していたりしたんですが、通常、歴史家というのは階層制の組織の変遷を跡づける場合が多く、人的なネットワークについては軽視してきたような気がします。まあ、どうしても、歴史研究は階層制組織の最たるものである国家が残したドキュメントに多くを依存しますし、こういったドキュメントを作成するのは、ウェーバー的な広い意味での官僚制の得意とするところです。例えば、中国でいえば、漢や唐や、あるいは、モンゴルによる元、漢民族の明から満州族の清、といった王朝の変遷を追う歴史研究が多いわけです。他方で、劉備・関羽・張飛の3人が桃園の誓いにて義兄弟となる人的ネットワークについては、どちらかといえば、天下国家の歴史の大きな要素ながら、大衆的な小説や演劇の世界になってしまうわけです。ただ、これは私の勝手な例示であり、本書の著者によれば、近代的なネットワークは先述の通り活版印刷によりもたらされた、ということのようです。もちろん、階層とネットワークは明確に分類できるとも思えませんし、時に混ざり合ったりもするような気がしますが、歴史家の常として、著者は膨大な事実関係を提示し、それらを基に、著者自身で理論的な組み立てをするとともに、それなりの教養ある読者を想定したのか、かなり読者の読み方次第、という部分も少なくないような気がします。例えば、現代に近づくに従って、情報の重要性が高まってきていることが行間に織り込まれていて、しかも、その情報伝達の速度の重要性が高まっている点は、おそらく、現代人が強く感じているところでしょうが、それを肌で感じることが出来る人がより本書について深い理解が得られるような気がします。ただし、従来の階層制組織から解き明かす歴史に対して、ネットワークから解明を試みる歴史観というのは、いわゆるグローバル・ヒストリーですでに着手されており、本書が何も初めて、というわけでもなければ、本書が大きな画期的な歴史書、というわけでもない、ということは忘れるべきではありません。著者が著者だけに、本書を過大評価する向きもあるかもしれませんが、私は本書を高く評価しつつも過大評価は慎みたいと思います。

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次に、実重重実『生物に世界はどう見えるか』(新曜社) です。著者は、農林水産省の官僚出身で、局長を務めていますので、私なんぞよりもよっぽど出世しています。回文になっていて、何ともいえないお名前なんですが、実名なんでしょうか。よく判りません。ということで、「どう見えるか」となっていますが、実は、視覚に限定せずに、世界をどう認知しているか、に幅広く対応しています。例えば、第1章で取り上げるのはゾウリムシですし、第2章に至っては大腸菌、第3章でも植物ですから、これらの生物に世界がどう認識されるか、に着目しています。単細胞生物であるゾウリムシには視覚をつかさどる目はないですし、視覚情報を伝達する神経も処理する脳もないわけですから、モノが見えるわけではないと常識的には考えられますが、それでも、栄養になるものがあれば近づき、逆に、点滴のシオカメウズムシからは逃げようとするそうです。ミミズは簡単な2次元の内的地図が理解できるようですし、鳥類は人間的な意味での視力がいいのは高速で飛翔するので当然としても、哺乳類の中でも犬は視覚よりも嗅覚に依存した世界認識を持つというのも理解できる気がします。そして、私は本書の読書に事前には期待していなかった成果として、意識というものについて、あるいは、本書では用語としては用いられていないものの、心の働きについて、単細胞製粒や植物から始まって、ある意味で、情報処理能力としては人間を超える人工知能(AI)にどこまで本書の議論が適用できるか、も興味深いところです。何らかの事故の外にある世界を認識し、それを伝達して情報処理し、何をどうすれば「意識がある」といえるのか、本書の用語に即していえば、本能とか先天的に獲得済みの能力は「意識的」な行動を促すのか、あるいは、「無意識」の行動というべきなのか、興味あるところです。当然ながら、本能に従っていても、一般に「無意識的」な反応と表現されても、少なくとも外界からの情報に対して、三時からの個体の中で、あるいは、群れの集団で、何らかの処理を加えて、それを個体や群れの行動に活かすというのは、本書では「意識」と表現されそうな気がします。そうであれば、AIにも本書的な「意識」がある、といえそうな気がします。でも、別の「意識」の定義により、AIには「意識」がない、とする論説も多く見かけます。例えば、AIに意識を持たせようとする人工意識(AC)の研究も盛んですし、実際に、ACをビジネスとして展開するベンチャーもあります。少なくとも、私は本書に近い立場であり、事故から見た外界から何らかの情報を得て、それに対応した行動を取る能力をもって「意識」を定義すれば、本書でも言及されている記憶の長さにもよりますが、AIには「意識」がある、と見なさざるを得ません。

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次に、グレイソン・ペリー『男らしさの終焉』(フィルムアート社) です。著者は英国人であり、本書の本意に即していえば男性であり、やや古い男性の特徴あるものの、女装趣味=トランスヴェスタイトがあったりします。現代社会を風刺した、陶芸やタペストリー、彫刻、版画といったメディアの現代アート作品で知られるアーティストであり、テレビ司会者、作家でもあります。英語の原題は The Descente of Man であり、2016/17年の出版です。上の表紙画像は、p.026 に解説があり、英国におけるデフォルトマン、すなわち、白人・ミドルクラス・中年・ヘテロセクシュアル(異性愛であり、同性愛ではない)男性、ということです。ということで、私はすでに60歳に達して定年退職して、ほぼ、本書でいうところの男性ではなくなった気がしますが、いわゆる社会的な男性、別の表現をすれば、ジェンダーとしての男性の役割はまだ持っているかもしれません。ただ、例えば、朝の通勤時にものすごく速く歩いたりはしませんし、本書の著者の紹介にあるように、坂で他のサイクリストを全員追い越したい、なんぞとは決して思いません。性的な面とともに社会的に規範とされている男性性、本書でいうマスキュリニティというのは、背が高くて力も強く、やや乱暴なところがある、といったものかという気はしますが、私はラテンアメリカのマッチョの国で外交官をしていましたので、欧米諸国などにおける「レディ・ファースト」というのは、か弱き女性を保護せんとするマッチョな男性の男女差別の裏返しだと受け止めました。かといって、男尊女卑の我が国の亭主関白がいいとも思いません。男女の別をハッキリさせようとする試みは、私から見れば、男女交際に対して厳格たろうとする願望ではないか、という気がします。男女をいっしょにしておくと、いちゃついたりして、生産性が上がらない可能性が高い、ということなんではないかと勝手に想像しています。ただ、男性を男性たらしめていて、その呪縛から解き放つ最大の難敵はやっぱり男性なんだろうという本書の著者の分析には大いに同意します。逆から見て、男性が男性である最大の犠牲者も男性なんだろうと思います。少なくとも、本書で解き明かそうと試みている男性のひとつの特徴である「無謬性」については、これはお役所でもそうなんですから、何としても解放されたい気がします。他に、本書の著者は、男性の権利として認めてほしいものとして、傷ついていい権利、弱くなる権利、間違える権利、直感で動く権利、わからないと言える権利、気まぐれでいい権利、柔軟でいる権利、などを上げ、締めくくりとして、これらを恥ずかしがらない権利にも言及しています。権力や単なる力と訳されるパワー=powerを女性より多く有していて、それを基にした思考や行動の原理に従った存在として男性があるように私は受け止めていますが、そういった特性や特徴を descent するのに、本書が役立って欲しい気がします。特に、男女平等やフェミニズムを主張するのに、男女間で性差があるような気がするんですが、こういったやや風刺がきついながら男性性に関して考えようとする本が著名人から出版されるのは意義あるように受け止めています。もっとも、男子の草食化進む我が国はこの面で世界トップを走っているのかもしれません。ただ、ひとつだけ気がかりなのは、p.055 にもあるように、ジェンダーの平等はいわゆるウィン・ウィンではなく、ルーズ・ルーズになる可能性が高い、という点です。回避する方策はないものでしょうか?

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最後に、額賀澪『競歩王』(光文社) です。誠に不勉強ながら、私はこの作者は知りませんでしたし、この作者の作品も読んだことはありません。ということで、この小説はメタな構造になっています。すなわち、主人公は小説家です。もっとも、天才高校生作家としてデビューしながら、その後はパッとせずに大学生をしていて、本書の最後の方では、モラトリアムの延長を目指して大学院に進んだりしています。そして、競歩の陸上選手を主人公に据えた、というか、大きくフィーチャーした小説を書こうとしています。そして、大きなポイントは、本書最後の献辞にもあるように、2017年ロンドン世界陸上50km競歩 銅メダリストの小林快選手をモデルとしていて、大学陸上部で長距離走者としては諦め、競歩に転向することを余儀なくされた経験からの成長を綴る青春小説となっています。小林選手ご自身は早稲田大学の出身ですが、もちろん、小説では架空の陸上競技部が名門である大学とされています。今年の東京オリンピック・パラリンピックを大いに意識した作品で、何かのテレビか新聞でチラリと見た記憶があり、ついつい、その気になって図書館で借りましたが、出来の方は期待はずれでした。私は『横道世之介』を始めとする青春小説は大好きで、それなりによく読んでいるつもりなんですが、本書はあまりにも平板で盛り上がりに欠け、主人公の達成感もやや規模が小さい気がします。少なくとも、キャラが立っているのが、大学新聞部の女子記者だけで、主人公の元天才高校生作家、主人公が小説の題材にしようと取材している競歩選手、国内トップクラスのほかの競歩選手、主人公と時折行動をともにする出版社の編集者、主人公とライバルあるいは仲間である若手小説家、少なくともキャラとしては、ほぼほぼすべてに決め手を欠きます。ややライバルに遅れを取っている作家と競歩選手が、何といっても青春小説ですから、それぞれ、成長していく、というのがストーリーなんですが、余りにも平板です。特に、長距離から競歩に転向するのは、目の前の起こったことではないのでいいとしても、20kmから50kmに変更する際の心の動きや人間関係などが描けていません。ただ、歴史書のようにひたすら事実関係が記述されているだけです。リオデジャネイロ・オリンピックから東京オリンピック直前のほぼほぼ4年間を対象としていますので、ここの事実関係が希薄化されるのは仕方ないとしても、ラストでなくてもいいので、盛り上がる場面は欲しい気がします。もちろん、スポーツにおいては結果の重視されるケースが少なくないことは理解しますが、それだけが盛り上げどころではないでしょうし、結果を取り上げるだけであれば、ジャーナリストの報道と何ら変わりありません。フィクションの小説として、時間を置いて出版するのであれば、単に事実関係をいっぱい加える量的な付加価値だけでなく、もっと質的な付加価値も欲しかった気がします。

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2020年2月 1日 (土)

今週の読書は経済書や大学改革の本まで読んで計7冊!!!

いろいろあって、読書だけは進みました。以下の通り、7冊読みました。

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まず、岩田一政・日本経済研究センター[編]『2060デジタル資本主義』(日本経済新聞出版社) です。著者は日銀副総裁を務め、現在は日本経済研究センターの理事長です。本書では、その著者はもちろん、定年退職して60歳を過ぎた私ですらも生き長らえていないような40年後の2060年のデジタル経済について、いくつか、あり得るシナリオ、冒頭に停滞、改革、悪夢の3つのシナリオを置いて始まります。ということで、従来の経済学的な生産関数の変数となる労働や資本は、特に、資本は物的な生産設備を意味する場合が多かったんですが、本書でいうところのデジタル資本主義では無形資産が中心となるような、実例でいえば、GAFAのような企業が生み出す価値を中止とする資本主義経済を念頭に置いています。さらに、その無形資産とは、情報通信(ICT)技術とそれにより収集したデータをいかに活用できるかの能力にかかっているわけです。その点で、いくつかのシナリオでは、特に、日本企業のマネジメント上の能力的な限界により生産性を高めることに失敗する可能性にも言及しています。他方で、人口の少子高齢化は目先ではとてつもなく進み、社会保障の改革なども待ったなしの状況、ということになります。その情報通信などのデジタル技術と、とても牽強付会ながら少子高齢化による社会保障給付の抑制、さらにCO2排出までを両天秤、というか、考えられる大きな現代日本の諸課題を分析の対象にしていて、やや強引な議論の運びと感じないでもないですが、はたまた、その解決策のひとつが雇用の流動化、といった、なかなかに多面的、というか、わずか200ページ少々のコンパクトなボリュームで思い切り詰め込んだ内容、それなりに強引あるいは無謀な議論を展開しているような気もします。ただ、コンパクトですので、あまり多くを期待せずに、手軽に短時間で方向性を把握するには適当な気もしますし、本書を足がかりにして、さらに詳細な情報を求めるきっかけにもなりそうにも思います。なお、雇用流動化については、あくまで雇用を守ろうとする労働組合的な左派と雇用者全員を非正規にしたいが如きネオリベな右派の議論の中間を行こうとするかのように、10年くらいの中期的に保障された雇用、という、何とも中途半端なプランを提示しています。どこまで本気なのか、アドバルーンを上げただけなのか、もう少し詰めた議論を待ちたいと思います。

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次に、若奈さとみ『巨大銀行のカルテ』(ディスカヴァー・トゥエンティワン) です。著者は、興銀を降り出しに、いくつかの金融機関や格付け機関での勤務経験があり、研究者というよりも金融業界の実務者なんだろうと思います。リーマンショックが2008年9月にあって、その後の約10年を振り返っているわけですが、特に目新しさがあるわけではありません。交換言い尽くされた金融機関、というか投資銀行を含めた外資の銀行に関する会社情報、というあ、まあ、『四季報』を詳しくしたもののように考えておけばいいような気がします。繰り返しになりますが、特段の目新しい情報もなければ、鋭い分析があるわけでもありません。各種の情報をコンパクトにコンパイルしたという入門書という受け止めです。大陸欧州から始まって、第1章でドイツのドイツ銀行、第2章でフランスのBNPパリバ、第3章では極めて浅く広くリーマンショックが米銀に与えた影響を概観した後、第4章で米国の4大金融機関であるJPモルガン・チェース、バンク・オブ・アメリカ、シティグループ、ウェルズ・ファーゴに着目し、第5章でゴールドマン・サックスとモルガン・スタンレーを取り上げています。最終章はコンクルージョンです。各金融機関の財務に関する簡単な紹介や創業者から最近の経営トップまでの経営陣の流れ、さらに、金融業界における評価や社風などなど、なかなかのリサーチ結果だという気はします。特に、ライバル関係にある競合同業者との対比はそこそこ面白く描き出されており、時々のマーケットの状況や各社のポジショニングなども調べ上げています。事実関係を事実として情報収集した結果であり、力技でマンパワーを投じれば出来る仕事のような気もしますが、そういった情報収集をしっかりマネージすることもお上手なんだろうとは思います。ただ、そのリサーチ結果を積み上げた上で示されても、「だから何なの?」という気はします。特に、私ががっかりしたのは第3章で、リーマンショックの影響、欧米銀行に及ぼした影響を事実関係を積み上げて分析しようと試みているんですが、ハッキリいって、失敗しています。モノになっていない気がします。広い四角い部屋の真ん中あたりを丸く掃くようなお掃除の結果で、取りこぼした内容が多すぎます。著者の力量からしてやや手に余る課題を取り上げてしまった気がします。でも、それがなければ、まったくモノにならないという事実を認識していることは立派だと思います。著者がそうなのか、編集者がそうなのかは私には判りません。

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次に、岡本哲史・小池洋一[編著]『経済学のパラレルワールド』(新評論) です。編著者をはじめ、各チャプターの執筆者は経済学の研究者です。タイトルからは判りにくいところですが、副題の方の「異端派総合アプローチ」が判りやすいと思います。というのは、本書では、主流派経済学に対抗して、「異端派」の経済学を各チャプターで取り上げているからです。ただ、その昔に、サムエルソン教授なんかが新古典派総合を提唱したのには、それなりに理由があるような気がするものの、非主流派ないし異端派を「総合」することはムリがあるような気がします。ということで、もちろん、いの一番の第1章はマルクス経済学です。どうでもいいことながら、私自身は「主義」を付けて、マルクス主義経済学と書くことが多いんですが、もちろん、同じです。マルクスの『資本論』を基にして発展してきた経済学です。ただ、本書では主流派経済学がスミス以来の古典派ないし新古典派のマイクロな経済学とされていて、その意味から、ケインズ経済学やシュンペタリアンもやや異端に近い位置づけがなされていたりします。本書冒頭 p.3 で経済学史とともに図で展開されているところですが、ちょっと注意が必要かもしれません。というのも、私の長い官庁エコノミストの経験からして、マクロなケインズ経済学やマネタリスト経済学は、多くの場合、十分、主流派経済学の範囲に入る、と考えられるからです。加えて、出版社のサイトなんかでは、「社会人・学生・初学者に向けて平易に説く最良の手引き」なんてうたい文句があったりするのですが、それ相応に内容は難しいと考えるべきです。冒頭のマルクス経済学では、置塩の定理、すなわち、企業が正の利潤を上げているならば、搾取が存在する、という基本定理をかなり正確に解説しているんですが、私も経済学部の学生時代に一応、理解したつもりになっていましたが、現在でははなはだ怪しい理解しか持っていないと告白せざるを得ません。しかし、マルクス経済学をはじめとして、本書でスポットが当てられている非主流派、というか、異端の経済学も、主流派経済学の暴走を食い止める、あるいは、特にマルクス経済学は資本制経済の暴走やその先の崩壊を阻止する、という重要な役割があり、例えば、ネオリベ的な格差拡大に対する抑止能力が問われている、という本書の立場はその通りだと思いつつ、それでも、主流派経済学に対する抑止力だけでなく、現実の経済政策への働きかけももっと欲しい気がするのは、私だけなのでしょうか。

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次に、ケント E. カルダー『スーパー大陸』(潮出版社) です。著者は、長らく米国プリンストン大学で研究者をした後、現在では、米国ジョンズ・ホプキンス大学の研究者であり、国際政治学分野でのビッグネームをといえます。英語の原題も Super Continent であり、2019年の出版です。上の表紙画像にも見えるように、スーパー大陸とはユーラシア大陸のことであり、日本の読者からすれば「当然」という受け止めがあるかもしれませんが、著者は本書の中で少し前までのスーパー大陸は米州大陸だったと考えているような示唆をしていたりします。そして、その議論を地政学ではなく、地経学的な観点から進めています。そのバックグラウンドは、もちろん、中国の経済的な巨大化にあります。ですから、圧倒的な人口と石油を始めとする巨大な天然資源の潜在的な賦存からして、ユーラシア大陸をスーパー大陸と考える意味は大いにあるわけです。その上で、著者の地経学的な観点から連結や統合といったキーワードを駆使して議論が進みます。いくつかの要素を本書でも取り上げており、途上国感のいわゆる南南貿易、中国の主導する一帯一路構想による経済的な結びつきの強化、エネルギー開発を通じた中国・ロシアの蜜月関係、などなどです。他方で、かつてのスーパー大陸だった米州謡力では、特に、米国のトランプ大統領による米国第一主義、というか、伝統的なかつてのモンロー主義的な孤立主義により、世界的なプレゼンスが低下しているのも事実であり、それが、逆にユーラシア大陸の「スーパー性」を高めているわけです。中国に加えて、インドの発展もユーラシアのど真ん中である国としてプレゼンスを高めており、決して無視できる存在ではありません。むしろ、ロシアの方の比重が石油価格の低迷ととともに下がっているような気がします。通常、派遣外交する場合には、いわゆるツキディディスの罠といわれて、大規模な戦争が生じる可能性もあったりするんですが、米国から中国への派遣の移行、あるいは、スーパー大陸が米州大陸ではなくユーラシア大陸となる際に置いては、ひょっとしたら、大規模な武力行使なしに終わる可能性もあると、私なんぞは楽観的に予想しており、従来とは様変わりのスーパー大陸の移行が生じる可能性もあるんではないかという気がします。ですから、本書では共同覇権はありえない、としていますが、ひょっとしたら、米中のG2の共同覇権も従来にない形でありえるような気もします。いずれにせよ、日本国内にいては把握できないような国際情勢の変化をより大きなスケールで感じ取ることが出来る読書でした。

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次に、吉田右子・小泉公乃・坂田ヘントネン亜希『フィンランド公共図書館』(新評論) です。著者は、図書館学の研究者ないし本書のタイトル通りにフィンランドの図書館勤務者となっています。全編、ほぼほぼフィンランドの公共図書館の事実関係などの紹介にとどまっており、私は図書館学というのはどういう学問分野なのか、よく知りませんが、図書館運営に関する学術的な分析とは見えません。学術的というよりも、謝名リスト的に事実関係を幅広く情報提供している、というカンジです。私も地球の裏側のチリという小国に経済アタッシェとして3年間駐在し、日本国内にチリの経済情報がほとんど注目されたりしていない中で、経済統計をそのままローデータとして外務省本省におくるだけで、それだけで十分な役割を果たすことが出来た時代があり、フィンランドの公共図書館についても、ある意味で、日本国内ではそういった位置づけなのか、と思わずにはいられませんでした。従って、おそらく、実際の国内図書館運営には何の示唆にもならないような気がしてなりません。単に、「うらやましい」で終わりそうな気すらします。どこかの低所得国に国民に対して、我が国の国民生活や経済社会を伝えるようなものです。電気や水道が行き渡り、舗装された道路を自動車が走り、ビジネスマンはパソコンを相手にデスクワークにつき、高校生はスマホでゲームする、という事実を、片道数キロを水汲みに行く子供がめずらしくないどこかの低所得国の国民に伝える、それが経済学の役割だとは私は思いません。開発経済学ばかりがすべてではありませんが、低開発国経済の経済発展に寄与するような経済学が求められるわけです。その意味で、本書については、完全に踏み込み不足であり、我が国の図書館、特に私が利用している東京都内の公共図書館は、かなりの程度に民間企業に運営委託し、その結果として、おそらくご予算削減には役立ったのでしょうが、専門性低く意識はもっと低い図書館員の割合が増え、従って、図書の管理も利用者の利便性も落ちている可能性が高い、という現状をどのように打破するかを、フィンランド公共図書館をお手本にしつつ、幅広く議論して欲しい気がします。例えば、本書でも、フィンランドのいくつかの図書館では、フローティング・コレクションがなされているとの記述がありますが、日本でフローティング・コレクションが採用されていないのはなぜなのか、あるいは、日本でフローティング・コレクションを行えば、どのようなメリットやデメリットが図書館サイドと利用者サイドにあるのか、などなど、ご予算増額を別にしても、議論すべきトピックは尽きないように思う私なんぞにとってはやや残念な読書でした。

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次に、ジル・ルポール『ワンダーウーマンの秘密の歴史』(青土社) です。著者は、ハーヴァード大学の歴史学研究者であり、専門はアメリカ合衆国史で、雑誌『ニューヨーカー』のスタッフライターも務めています。本書の英語の原題は The Secret History of Wonder Woman であり、ハードカバーが2014年、ペーパーバックが2015年の出版で、邦訳書は2015年のペーパーバックを底本としています。ということで、著者は、ワンダーウーマンをフェミニズム運動の観点から説き起こそうと試みて、主として原作者である心理学研究者のパーソナル・ヒストリーから解明を試みています。すなわち、現在の21世紀では単なるフェミニズムではなく、移民を主たる論点としつつ、性別だけでなくエスニックな多様性が議論されていますが、20世紀には男女の性差別の観点から20世紀初頭のファーストウェーブのフェミニズムと1970年代のセカンドウェーブのフェミニズムがあり、前者は女性参政権運動やそのやや過激な形のサフラジェットなどがあった一方で、校舎は米国におけるベトナム反戦運動の盛り上がりとも呼応しつつ進められたわけですが、その間のミッシング・リンクを埋めるアイコンとしてワンダーウーマンがどこまで重要化、といった観点です。出版社の宣伝文句には、第2時大戦期にワンダーウーマンが枢軸国のアチスドイツや日本をやっつける、なんて謳い文句もあったようですが、アッサリと、そのあたりは無視してよさそうです。さらに、戦後の黄金期ないし我が国で言えば高度成長期になりますが、この時期は同時に米ソの冷戦期でもあり、戦後期のアカデミズムないしハイカルチャーとポップカルチャーないし、我が国でいうところのサブカルチャーとの間の架け橋として、ワンダーウーマンがどこまで位置づけられるのか、も考察の対象となっています。それを、原作者であり、嘘発見器の開発者でもある心理学研究者のマーストン教授とその家族の歴史もあわせてひも解こうと試みています。ファーストウェーブのフェミニズム期における産児制限の展開もあわせて、それなりに貴重な歴史的考察なんですが、本書でも取り上げられているように、DCコミックの中で、少なくとも我が国においてはスーパーマンやスパイダーマンほどの人気がワンダーウーマンにあるとも思えず、どこまでフェミニズムとあわせて興味を引きこすことが出来るかは、私はやや疑問に感じています。ただ、極めて大量の史料と資料に当たって、さらに、関係者へのインタビューも含め、貴重な歴史的事実を引き出している点は、極めてニッチな米国現代史のトピックながら、さすがに学識を感じないでいられません。

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最後に、佐藤郁哉『大学改革の迷走』(ちくま新書) です。著者は、一橋大学などを経て、現在は同志社大学の研究者です。タイトルはとても正確で、今年に入って、1月4日付けで広田照幸『大学論を組み替える』を取り上げ、4月から教員として大学に復帰するに際しての準備の読書を進めているところだったりするんですが、本書もその一環だったりします。ただ、前の『大学論を組み替える』より数段落ちる内容です。単に、現在の大学改革の進行を批判するだけで終わっています。そもそもの大学改革の必要性が論じられた背景などに目が行くわけでもなく、現在の日本の大学に何らかの改革が必要かどうかに対しても、著者には十分な見識ないように見受けられますし、さらに踏み込んで、大学改革がどうあるべきかについても定見あるようには見えません。確かに、本書で議論されているように、文科省という役所の無謬主義がネックになって大学改革が迷走しているのは事実ですし、文科省の思惑とはズレを生じつつも一部の大学が予算獲得に走っているのも事実です。かつての国会論戦における万年野党のように、ひたすら反対を繰り返すだけで、積極的な対案も持たず、大学の現状に対しても、あるべき大学論や必要な大学改革も、何も論ずることなく、現在の大学改革の動きを批判するだけなら誰にでも出来ますし、本書の場合は、単に著者の「気に入らない」で済ませるような論調も気がかりです。日本の将来がどうあるべきか、あるいは、どうしたいか、の大きな議論から初めて、それに貢献する大学の教育と研究とはどういうものかを考えた上で、現状の大学を分析し、あるべき大学像を明らかにし、それに向けた改革の方向を探る、というのが大学論の目指すべき方向だと私は考えます。まるで民主党政権時のように、ひたすら、文科省と財務省などの役所を敵役にし、逆に、著者サイドの大学を免責にしている印象です。やや期待はずれ、というよりも、まったく的外れの議論を展開している新書でした。

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2020年1月25日 (土)

今週の読書はかなりたくさん読んで文庫本まで含めて計8冊!!!

今週は、データ経済におけるプライバシー保護や英国における階級分析の社会学をはじめとして、文庫本のシリーズ3巻まで含めると、以下の計8冊の読書でした。そろそろ、ペースを落とそうと思いつつ、なかなか巡り合わせがそうなりません。

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まず、日本経済新聞データエコノミー取材班[編]『データの世紀』(日本経済新聞出版社) です。データをいかにビジネスに生かして収益を上げるか、その際のプライバシーの扱いはどうなるのか、こういった疑問に関して、かなり否定的な見方を提供しています。日経新聞のジャーナリストのリポートらしくない気もします。本書の謳い文句なんですが、20世紀は石油の世紀であって、でも、産油国が我が世を謳歌したわけではなく、むしろ、石油をうまく利用した製品を生み出した先進各国の世紀だった一方で、21世紀のデータの世紀もデータを生み出した国が中心になるわけではなく、そのデータを上手く利用する国が国民に豊かな生活を提供するわけです。ということで、急遽設えられた雰囲気のある第0章のリクナビによる内定辞退率の提供問題から始まって、米国のGAFAが個人情報を収集・利用したビジネスで大きな収益を上げている事実を基に、経済学的な用語としてはまったく用いられていませんが、データ利用の外部性について、個人データを提供させられているサイドと、それを利用して実に効率的なビジネスを構築したサイドを対比させて、このままでいいのか、あるいは、個人情報や付随するデータをどのような利用に供するのが個人と情報企業の最適化につながるのか、考えさせられる部分が大きいです。それにしても、先週の読書感想文で取り上げた『デジタル・ミニマリスト』でも書いたんですが、FacebookやInstagramなどのSNSで嬉々としてアテンションと個人情報を提供している人達を見るにつけ、それはそれで幸福度が上がるのであればいいんではないか、ある意味で、データに関する前近代性をさらけ出しているような気がして、もはや意味のある個人データ保護がどこまで可能なのかに疑問すら生じます。例えば、リクナビ問題でも、就活学生サイドからすれば、個人情報を提供することなく採用に関する企業情報だけを得たいわけでしょうし、逆に、採用する企業サイドからすれば、企業サイドの採用に関する情報を開示することなく、就活学生の情報だけを得たいわけです。ただ、注意すべきは、情報企業だけでなく、自動車だって、電機だって、製品に関する情報は企業の方が消費者よりも圧倒的に持っているのは変わりありません。ですから、製造物責任のような制度を情報産業に対しても適用できるか、あるいは、外部経済の大きな産業に特有な独占の形成をいかに規制するか、その際、スティグラー的な「規制の虜」をいかに政府は克服するか、こういった問題を新たな産業でいかに国民本位に運営するかの問題と考えるべきです。すなわち、決して、本書のように、利便性と個人方法提供の間のトレードオフというわけではない、と私は考えています。

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次に、マイク・サヴィジ『7つの階級』(東洋経済) です。今日の日経新聞の書評欄で取り上げられていました。著者は、英国ロンドンスクール・オブ・エコノミクスの社会学の研究者です。明示的にクレジットとして上げられているこの著者の他にも、社会学や教育学の研究者が何人かで共著しています。ただ、エコノミストはいなかったように見受けられました。英語の原題は、上の表紙画像に見られるように、Social Class in the 21st Century であり、2015年の出版です。栄子くんBBCが2011年に調査した結果を2013年に取りまとめて公表し、それらを学術的な出版物として取りまとめた成果であると私は認識しています。結論からすれば、邦訳タイトルのように、英国には7つの階級が存在し、上流から順に、(1) エリート7%、(2) 確立した中級25%、(3) 技術系中流6%、(4) 新富裕労働者15%、(5) 伝統的労働者14%、(6) 新興サービス労働者19%、(7) プレカリアート15%、となっています。そして、超えらの階級における3つの資本の賦存、すなわち、第1に、フローの所得やストックの金融資産や不動産といった経済資本、第2に、オペラ鑑賞や美術館での美術鑑賞、ほかに読書などのハイカルなどの文化資本、第3に、学歴や人脈やクラブの所属などの社会関係資本、の3つの資本で階級を可視化しようと試みています。(1) エリートは3つすべての資本を多く持ち、(2) 確立した中流はエリートについで3つの資本を持ち、(3) 技術系中流は比較的裕福で社会関係資本がやや少なく、(4) 新富裕労働者は比較的裕福で文化資本が少なく、伝統的労働者は3つの資本すべてがやや少ないものの、バランスがよく、(6) 新興サービス労働者は年齢的に若いこともあって、経済資本が少ないながら、文化資本と社会関係資本は持っていて、(7) プレカリアートはすべての資本に恵まれない、ということになります。また、それぞれの個人の人生は登山に例えられて、山を登るように3つの資本を蓄積して、従って、階級を上昇させる、と考えられていますが、もちろん、同じ地点から登山を始めるわけではなく、前の世代から受け継ぐものに大きな違いがあり、登山を始めるベースキャンプの標高には大きな差があるのは当然です。マルクス主義的な階級観では、生産要素の所有もしくは雌雄が基礎にあり、その経済的な下部構造が上部構造の文化や意識を決定する、と大雑把に考えられています。土地を所有する貴族、資本を所有するブルジョワジー、自分の労働力以外の生産手段を保有しない労働者階級、ということになり、それぞれの下部構造が上部の文化や社会関係を規定します。本書の社会学的な分析では、経済資本は他の2つと並列のひとつの要素に過ぎません。この3つの資本を本書のように分けて理解するか、マルクス主義的な階級観のように、経済資本が他の2つの資本を規定すると考えるか、議論は決定していない気がします。少なくとも、マルクス主義のように経済資本から文化資本や社会関係資本への一方的な決定論も、本書のように3つの資本相互間のインタラクティブな関係を考慮の外に置いて各資本を独立に扱うのも、どちらも片手落ち、というか、やや深みに欠けるな気がします。

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次に、保阪正康『昭和史7つの裏側』(PHP研究所) です。著者は、編集者や在野の歴史研究家となっています。本書の「昭和史」というのはやや広すぎる表現なんですが、昭和20年くらいまでの戦争に関する歴史に焦点を絞っていると考えるべきです。その中で、タイトルにあるように、章立ての順に従って、(1)「機密戦争日誌」はいかに保存されたか、(2)「昭和天皇独白録」の正体、(3) 学徒出陣壮行会で宣誓した学生代表の戦場(江橋慎四郎へのインタビュー)、(4) 逆さまに押した判子と上司・東条英機(赤松貞雄へのインタビュー)、(5)「日本はすごい」と思っていなかった石原莞爾(高木清寿へのインタビュー)、(6) 本当のところが知られていない東条英機暗殺計画(牛嶋辰熊へのインタビュー)、(7) 陸軍省軍務局で見た開戦経緯(石井秋穂へのインタビュー)という構成になっています。なんだか、ほとんど第2章から第7章までのが取材対象者、というか、歴史の実体験者からの証言、的に構成されているんですが、私には疑問に思える部分も少なくありませんでした。当然ながら、いろんな歴史上のイベントが生じてから、まず、終戦という大きな不連続点を通過し、さらに、それなりの年月を経過した後のインタビューです。しかも、インタビューの対象が、東条英機の秘書だった赤松貞雄、あるいは、石原莞爾の秘書だった高木清寿など、傍で見ていた観察者ではなく、実際の当事者に近い存在ですから、どこまで脚色されているのかが判りかねます。その上、同じ帝国陸軍軍人ながら、開戦から本土決戦まで主戦派だった東条英機と、いわゆる「最終戦争」まで隠忍自重を主張した石原莞爾では、まったく方向性が異なるわけですし、陸軍関係者ばかりのインタビューで、海軍サイドの見方は欠けており、例えば、ホントに海軍が開戦に反対だったら太平洋戦争は始まらなかった、とか、中国で陸軍が華々しい戦績を上げているのを海軍は羨んでいた、などと主張されると、ますます信頼性が低下するような気がします。たしかに、組織的な隠滅工作が実施されて、戦争に関する史料が極端に少ないのは理解しますが、それをインタビューで埋めようとするのは、やや疑問です。主として、誘拐事件などで論じられるストックホルム症候群のような現象が取材者と取材先で生じるようなリスクも感じられます。細かな人間関係などのマイクロな開戦や終戦の理由ではなく、もっと歴史的な必然性を炙り出すような大きな流れを解明する歴史観が必要ではないでしょうか。もちろん、開戦や終戦のバックグラウンドとなる経済社会的な実情についても考えを巡らせるべきであろうと思います。

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次に、エドワード・スノーデン『スノーデン独白』(河出書房新社) です。6年前の2013年の衝撃的な情報漏洩事件の首謀者の自伝です。CIAとNSAという世界最強の米国諜報業界(IC=たぶん Intelligence Circle)を敵に回して、結局、ロシアから出られなくなった人物です。情報漏洩、あるいは、リークという意味では、いわゆる「パナマ文書」によるモサック・フォンセカからの流出と、本書のスノーデンからのリークが今世紀前半では「大事件」といえるんでしょうが、モサック・フォンセカが単なる民間の一会計事務所であるのに対して、スノーデン文書の方は米国諜報機関の赤裸々な活動実態を明らかにしているだけに、より興味をそそられる、というのも事実でしょう。スノーデン本人の生まれ育ちから、リークに至るまでとさらにリーク直後の事実関係を、おそらく、かなり正確に描写している気もします。ただ、スノーデン本人、すなわち、リークした側からすれば、「やった、やった」というカンジで過大に評価するバイアスがかかる一方で、CIAやNSAのようにリークされた側では「たいしたことではない、情報の価値は低い」などと過小評価するバイアスがかかるでしょうから、本書については、それなりに、眉に唾してハッタリをかまされないように気を付けながら読み進む必要があるかもしれません。私自身は昨年3月に定年退職するまで長らく国家公務員として政府に勤務しており、国家公務員でなければできない職業として、スパイと外交官と軍人がある、なんぞとうそぶいていた人間ですので、本書の情報リークに関しては、それなりにリークされた側にシンパシーを感じかねないバイアスがあるような気もします。例えば、007ジェームス・ボンドは、小説上の設定ながら、MI7に勤務する海軍将校であり、当然、国家公務員なんだろうと思います。ですから、私はスノーデン個人がどれだけの知性を持った人物か、加えて、どれだけの覚悟をもってリークしたのか、を読み取ろうとしましたが、なかなかに難しい課題だった気がします。リーク事件直後の直感的な受け止めで、スノーデンの知性は高くない、という印象は本書を読んでも否定されませんでした。ただ、覚悟については、それなりに理解が進んだ気がします。ルービック・キューブのシールにマイクロSDを隠して情報を持ち出すシーンや、リーク後の香港出発やロシアの空港でのやり取りなど、それなりにサスペンスフルな場面もありましたが、私にはそれほど印象的ではありませんでした。ただ、映画化されれば見に行くような気もします。

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次に、米澤穂信『Iの悲劇 』(文藝春秋) です。著者は、古典部シリーズなどで人気のミステリ作家です。この作品は、小市民シリーズのように、ある意味で、ユーモア・ミステリ、というか、ややブラックなユーモア・ミステリで、殺人などの深刻な犯罪行為は出て来ませんし、でも、かなり論理的で本格的な解決が示されるミステリ長編、ないし、連作短編集といえます。舞台と主たる登場人物は、市町村合併で巨大な市が形成された中で、とうとう、数年前に無人になった集落にIターンとして人を呼び戻すため、まだ使える家屋などを低廉な家賃で貸し出して、移住者を集めて定住化を促進しようとする市役所の支所で働く3人の公務員です。定時で帰宅してそれほど仕事熱心とも見えない課長と、やや社会人というには幼い新人女性にはさまれた男性が主人公に据えられています。別サイドには無人化した集落に移住を希望する人々が据えられ、でも結局、すべての移住希望者が去ってしまい、有名なミステリのタイトルよろしく「そして誰もいなくなった」で終わります。最初の方は、公務員3人のキャラがよく出ていて、それでも、仕事熱心と思えない課長の謎解き能力に驚かされたりもしますが、だんだんと読み進む上でタマネギの皮をむくように真実が明らかになっていきます。最終章に至るまでに、この作品の作者のファンであれば、ほぼほぼ全員が真相にたどり着くことと思います。また、各章で問題を起こしたり、あるいは、去っていく維持遺希望者も立派なキャラが立っていて、読み進んでも混乱をきたすことはありません。というか、私自身は、こういった限界集落のような田舎に移住したいとは思いませんから、この作品に登場するような移住希望者は、やっぱり、少し変わったところがあるんだろうと楽しく読めます。ただし、第5章だけは、ヤル気なし課長の守護神、火消し役としての面が明らかにされるほかは、後半は主人公と弟の間で延々と電話の会話がIターンの意味について考えさせられる、という意味で、この連作短編集の中で、それなりの重要性はあるものの、章として独立させる意味があるのかはやや疑問です。作者の力量からすれば、こういった課長の守護神=火消し役としての能力やIターンの意義に貸しては、個別にところどころに溶け込ませることも十分可能ではないかという気がします。まあ、こういった個別の章建てで論じてもらえば、私のような頭の回転の鈍い読者にも結論が見えてくる、という意味では意味あるかもしれませんが、やや冗長な章立てだっという気もしました。でも、この1点を別にすれば、とても秀逸なミステリだと思います。ここまで素晴らしいミステリは久々です。出来のいいミステリが多い作家であることはいうまでもありませんが、ひょっとしたら、本作が代表作といえるかもしれません。でも、やっぱり、クローズド・サークルの『インシテミル』かなという気もします。

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最後に、ハーラン・エリスン[編]『危険なヴィジョン 完全版』123(ハヤカワ文庫SF) です。編者は、米国のSF作家であり、よく「奇才」と称されたりしているんではないかと思います。本書では、SFをScience Fictionではなく、Speculative Fictionnと称していたりします。全3冊に渡る30編余りの短編で編まれており、アシモフやスタージョンをはじめ、キラ星のようなSF作家が作品を寄せています。第1巻巻末の解説にあるように、作家協会の会員が選ぶネビュラ賞やファン投票で決まるヒューゴー賞を受賞あるいは最終候補に残った作品もいくつか含まれています。全編書下ろしといううたい文句です。米国で原書が出版されたのは50年以上も前の1967年なんですが、さすがに、やや古いと感じさせる短編もある一方で、まだまだ輝きを失っていない作品も少なくありません。もちろん、米ソの冷戦の環境下で、また、そもそも海外SF小説ということで、ソ連の技術的な脅威を過大評価していたり、あるいは、やや残虐な場面が少なくないような気もします。短編作品ごとに付された編者の序文や著者のあとがきがウザい気もしますし、もちろん、短編ごとの統一感ないのは承知の上で読み始める必要があります。ただ、古さを感じさせる作品も含めて、ある意味で、いくつかある米国SF小説の黄金時代のうちのひとつの雰囲気を感じることが出来ると思います。読みようによっては、各巻1時間ほどで読み切ることも可能ですし、逆に、じっくりと時間をかけるだけの読み応えもあります。

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2020年1月18日 (土)

今週の読書は経済書をはじめとして文庫本まで含めて計7冊!!!

先週の読書は巡り合わせにより経済書がなかったりしたんですが、今週の読書は、明々白々たる経済書が2冊あり、経済活動にも十分配慮した進化心理学の専門書、モバイル機器を通じたアテンション経済に対する批判など、以下の計7冊の読書だったんですが、うち3冊は文庫本だったりします。この先、しばらく、読書のペースは落ちそうな気がします。

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まず、鶴光太郎・前田佐恵子・村田啓子『日本経済のマクロ分析』(日本経済新聞出版社) です。著者3人は、経済企画庁ないし内閣府において「経済白書」または「経済財政白書」の担当部局の課長補佐や参事官補佐を経験したエコノミストです。ただし、なぜか、というか、何というか、課長や参事官を経験したわけではないようです。いずれにせよ、私自身が従来から考えているように、本流の官庁エコノミストはこういった白書などのリポートを、政府全体や個別の役所の公式見解として取りまとめることを担当する人たちなんだろうと思います。私も、とある白書を1回だけ執筆担当したことがありますが、「経済白書」や「経済財政白書」といった役所を代表する白書ではありませんでしたし、それもたった1回のことです。他方、私の場合は長らく研究所に在籍して、「役所の公式見解ではなく、研究者個人の見解」という決まり文句をつけた学術論文を取りまとめることが多かったような気がします。まあ、私は傍流の官庁エコノミストなのだと改めて実感しました。ただ、どうでもいいことながら、最近知ったんですが、私が白書を担当したころとは違って、「経済財政白書」なんぞは執筆担当者の個人名が明記されるようになったりしています。少しびっくりしました。というおとで、本書は我が国のバブル経済が崩壊した1990年ころ以降から現在まで約30年間の日本経済を概観し、いくつかのパズルを設定して解き明かそうと試みています。第1章で成長の鈍化をほぼほぼすべて生産性と要素投入という供給サイドで説明しようと試みていて、私なんぞの傍流と違って、本流の官庁エコノミスト諸氏はやっぱり供給サイド重視で、見方によればかなり右派的な思考をするんだと感心してしまいます。ただ、3章の景気循環あたりから需要サイドにも目が向くようです。全体として、大きなテーマに対して索引まで含めても250ページ足らずのボリュームの本に仕上げようとしていますので、よく表現すれば、とてもコンパクトに日本経済を概観して諸問題を提起している、といえますし、他方で、やや辛口に表現すれば、もう少していねいに掘り下げた分析も欲しいところ、という気もします。これは私自身でもまったく実践できていないんですが、エコノミスト的に問題に対する診断を下すことは出来ても、コンサルタント的に問題に対処する実践的な処方箋を提示することは難しい、と常々感じます。その昔に、よくゴルフをプレーしていたころの判りやすい例として、エコノミスト的には「ボールをティーアップしてドライバーを振って、250ヤード先のフェアウェー中央に飛ばす」というのがアドバイスとしてどこまで適当なのかどうか、もっと実践的に、ヘッドアップしないとか、脇を締めるとか、そういったアドバイスが必要なのではないかと思わないでもありません。繰り返しになるものの、私自身も実践できていませんが、本書におけるパズルへの回答は、その意味で、エコノミスト的なようにも見えます。

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次に、井上智洋『MMT 現代貨幣理論とは何か』(講談社選書メチエ) です。著者は、駒澤大学の研究者です。従来から、AI導入経済におけるベーシックインカム、左派的な財政拡張論などで、私は注目しています。ということで、本書はコンパクトに現代貨幣理論(MMT)について取りまとめた入門書となっています。ただ、著者もまだ完全にMMT論者として、MMTのすべての理論に納得しているわけではないことは明記しています。貨幣の成り立ちについても、その昔の宋銭の導入などの商品貨幣の例を見ても、「万人が受け取る」という主流派経済学の考え方は捨てがたく、MMTの根源的な貨幣論への部分的な反論も持ち合わせています。私は貨幣論の方はともかく、いまだに、MMTの財政によるインフレのコントロールについては疑問を持っています。すなわち、本書では取り上げていませんが、財政政策は基本的に法定主義であって、認知ラグと波及ラグはともかく、決定ラグが金融政策よりもかなり長い可能性が高くなっている上に、本書でもやや批判的に紹介している雇用保障プログラム(Job Guarantee Program=JGP)の運用については、財政支出の柔軟性がどこまで確保されるかはもっとも疑問大きいところです。すなわち、デフレであれば財政赤字を増やして、インフレであれば財政赤字を削減するわけですが、そもそも、それほどの機動性を確保できるかが疑問な上に、どのような歳入や歳出が柔軟に増減できるかは未知数といわざるを得ません。現在の日本のようにデフレだから何らかの財政支出を増加させるとしても、インフレに転じた時に簡単にその財政支出をカットできるかどうか、その点が疑問であるとともに、そんなに簡単にカットできるような歳出をして雇用を維持すべきかどうかも疑問です。私の基本的な経済に対する見方として、財政よりも雇用の方がとても重要性が高いのは十分に認識していて、おそらく、日本のエコノミストの中でも財政と雇用の重要性の開きがもっとも大きなグループに属しているのではないか、とすら思っているんですが、インフレ時に簡単にカットできるような歳出によって維持すべき雇用の質については、国民のモチベーションをどこまで引き出せるかは否定的な思いを持ってしまいます。加えて、本書の著者が指摘しているように、10年やそこらの期間であれば現在の日本クラスの財政赤字のサステイナビリティは問題ないとしても、30年とか50年の期間を考えれば、JGBを取り扱う金融市場がどのように動くかは、何とも、経済学のレベルでは予測がつきません。ただ、逆にいえば、5年とか10年くらいで集中的にデフレ脱却を目指す政策としてはMMTはかなり可能性あるんではないか、という気もします。いずれにせよ、昨年2019年11月9日の読書感想文で取り上げたレイ教授の『MMT 現代貨幣理論』では、立命館大学の松尾教授が「MMTの命題は『異端』ではなく、常識である」と題した巻末解説を寄せていましたが、数年間でのデフレ脱却を目指す政策の観点からは、その通りだと私も考えます。ただし、本書の著者はユニバーサルなベーシックインカムの推進論者なんだと私は理解していますが、MMT理論に基づくとベーシックインカムの財源は財政赤字ではなく、キチンとした財源が必要、という点は忘れるべきではありません。インフレに転じたからといって、ベーシックインカムを削減したり、取り止めたりすることはできないからです。

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次に、ウィリアム・フォン・ヒッペル『われわれはなぜ嘘つきで自信過剰でお人好しなのか』(ハーパーコリンズ・ジャパン) です。著者は米国出身で、現在はオーストラリアのクイーンズ大学の研究者をしています。英語の原題は The Social Leap であり、2018年の出版です。ということで、上の表紙画像に見られるように、「進化心理学で読み解く、人類の驚くべき戦略」ということですので、やや読み始める前には懸念があり、進化心理学ですから、すべてを種の保存、あるいは、狭義にはセックスに結び付けているんではないか、とおもっていたところ、さすがにそうではありませんでした。3部故末井となっており、第1部はわれわれはどのようにヒトになったのか、第2部は過去に隠された進化の手がかり、第3部は過去から未来への跳躍、と題されていて、最後の第3部の「跳躍」が英語の原題のLEAPに当たりますし、第1部でも、熱帯雨林の樹上生活からサバンナへの移動も「社会的跳躍」と位置付けられています。その第1部は、その昔に読んですっかり内容は忘れたものの、エンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』を進化心理学から解き明かしたような中身になっていて、人類史をかなり唯物史観で見ている気すらしました。本書第1部は、チンパンジーとアウストラロピテクスなど人類の祖先との比較から始まります。チンパンジーは集団で狩りをしたり敵の群れを攻撃したりする時のみ、少しだけ協力するものの、彼らは怠け者と協力者をほとんど、あるいはまったく区別しようとせず、怠け者のフリーラーダーも同じ獲物にありつける一方で、類人猿のアウストラロピテクスは集団的な石投げで狩りを行い、協力しない者を集団から追放、あるいは、処罰したと推測しています。そして、当時の生活状況からすれば、類人猿の集団から追放されれば生き残れる確率が格段に低下しただろうとも推測しています。第2部では、経済学の分野のイノベーションも考察の俎上に上ります。偉大なイノベーションを起こした人はそれほど実生活が充実しているわけではない、と指摘していたりしますし、その他、極めて多くの進化心理学の研究成果が紹介されており、出版社のサイトに目白押しで取り上げられています。たとえば、最近の経済活動の上で「モノ消費」から「コト消費」、すなわち、耐久消費財などを買うよりも旅行などの体験を重視する消費へのシフトも進化心理学の研究成果から、その正しさが裏付けられていたりします。加えて、60歳を超えた私なんぞが少し注目したのは、高齢者の孤独は喫煙などよりもよっぽど危険であり、年を取れば、むしろタバコを吸いながら仲間と談笑する方がリスクが小さいと指摘されていました。ひょっとしたら、そうなのかもしれません。今週の読書の中では、350ページ超ともっともボリュームがありましたが、トピックも楽しく邦訳も上質で一気に読めます。

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次に、カル・ニューポート『デジタル・ミニマリスト』(早川書房) です。著者は、米国ジョージ・タウン大学の研究者であり、専門分野はコンピュータ科学だそうです。英語の原題は Degital Minimalist であり、2019年の出版です。タイトルのデジタル・ミニマリストとは、トートロジーですが、デジタル・ミニマリズムを実践している、あるいは、実践しようとしている人のことであり、著者は、実際に、何人か集めてデジタル・ミニマリズムを実践することまでやっているようです。ただ、私としては、本書で使っている他の用語「アテンション・レジスタンス」の方が、より適当な気がしています。ということで、本書が指摘するように、いろんなところで、口を開けてスマホの操作に熱中している人を見かけると、私もモバイル機器の操作、おそらくは、スマートフォンを使ってのゲームとSNSには中毒性があるんではないか、と疑ってしまいます。本書では、30日間のスマートフォン断食などを提唱する一方で、スマートフォン操作に代わって、人生をもっと豊かにする趣味の充実などを提唱しています。ただ、読んでいて、私もようやく今月になってスマートフォンに切り替えましたが、私自身はミニマリズムではないとしても、少なくとも合理的な範囲でのオプティマイズは出来ている気がします。TwitterやInstagramは使っていませんが、さすがの私もFacebookは使っていて、おそらく、毎日30分くらいは使っていそうな気がします。でも、ほぼほぼ機械的に「いいね」のボタンを押しているだけで、その対象は半分以上が趣味の世界、特に阪神タイガースに関する記事だったりします。メールはスマートフォンでチェックこそすれ、実際に読む価値あるメールはスマートフォンではなく、パソコンで読んでいます。スマートフォンでそのまま削除するメールも決して少なくありません。ですから、繰り返しになりますが、パソコンも含むデジタルではなく、スマートフォンなどのモバイルに特化したタイトルにした方が判りやすかった気がします。著者は、スマートフォンをヤメにしてフィーチャーフォンに切り替え、SNSなどはパソコンからのアクセスを推奨しています。私も、ご同様に、スマートフォンなどのモバイル・デバイスからSNSにアクセスするのと、パソコンからのアクセスはかなり違うと感じていて、パソコンを多用しているのが実態です。その上で、私は私自身の「アテンション」にそれなりの価値があると自負していて、スマートフォンからのSNSへのアクセスに限らず、私のアテンションを向ける先は合理的に厳選しているつもりです。中毒性ある行為に対してはもちろん、期待値がマイナスになるに決まっているギャンブル、喫煙や過度の飲酒などなど、非合理的なアテンションの向け方、あるいは、時間の使い方は決して賢明ではないと考えていて、それなりに、主流派経済学が前提とするような合理的なホモ・エコノミカスとして考えて行動したい、と願っています。もっとも、どこまで実践できているかは不明です。

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次に、モーム、フォークナー他、小森収[編]『短編ミステリの二百年 1』(創元推理文庫) です。上の表紙画像にも見られるように、明確に第1回である旨が示されており、上中下を越えて4巻以上のシリーズになるものと私は予想していますが、詳細は明らかではありません。本書冒頭でも示されている通り、私も昨年の今ごろは江戸川乱歩[編]『世界推理短編傑作集』の第1巻から第5巻までを読んでいたりしましたが、本書が嚆矢となるシリーズについてはよく知りませんでした。江戸川乱歩編のシリーズは1844年から1951年が対象となっているらしい一方で、本書のシリーズは前後ともにさらに長いタイムスパンを持つ200年です。編者である小森収ご本人が、そういった詳細について、本書の後半部分で「短編ミステリの200年」として取りまとめていますが、序章と第1章の途中で終わっている印象で、続巻でさらに明らかにされるんではないかと私は受け止めています。出版社のサイト「Webミステリーズ」の情報でもよく判りかねます。ということで、、シリーズの全貌は不明な部分が多いんですが、取りあえず、この第1巻の収録作品は、リチャード・ハーディング・デイヴィス「霧の中」、ロバート・ルイス・スティーヴンスン「クリームタルトを持った若者の話」、サキ「セルノグラツの狼」及び「四角い卵」、アンブローズ・ビアス「スウィドラー氏のとんぼ返り」、サマセット・モーム「創作衝動」、イーヴリン・ウォー「アザニア島事件」、ウィリアム・フォークナー「エミリーへの薔薇」、コーネル・ウールリッチ「さらばニューヨーク」、リング・ラードナー「笑顔がいっぱい」、デイモン・ラニアン「ブッチの子守歌」、ジョン・コリア「ナツメグの味」、となっています。「さらばニューヨーク」の作者のウールリッチは別のペンネームはウィリアム・アイリッシュであり、アイリッシュ名義で書かれた『幻の女』はオールタイムベストのトップ10に必ず入るくらいのミステリの名作だったりしますが、サキの2作品など、あまりミステリとは考えられない短編の週録も少なくなく、どういった編集方針なのかは私にはよく理解できません。ただ、ミステリかどうかはともかく、短編の名作が収録されていることは確かですし、十分に読書を楽しめると考えてよさそうです。

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最後に、キャロル・ネルソン・ダグラス『ごきげんいかが、ワトスン博士』上下(創元推理文庫) です。シャーロック・ホームズを出し抜いたほぼほぼ唯一の女性であるアイリーン・アドラーを主人公にした「アイリーン・アドラーの冒険」シリーズの第3作です。アイリーン・アドラーが探偵役で、ホームズを出し抜いて事件を解決します。当然、シャーロック・ホームズのパスティーシュです。このシリーズで邦訳されたのはすべて同じ出版社からの文庫本で、第1作の『おやすみなさい、ホームズさん』では正典の「ボヘミアの醜聞」をアイリーン・アドラーの側から捉えた小説であり、第2作の『おめざめですか、アイリーン』ではパリの事件を解決します。これは、ホームズものの中の、いわゆる「書かれざる物語」で、ワトソン博士が言及しただけの事件なのかもしれませんが、私はそれほど熱心なシャーロッキアンではありませんから、よく知りません。第3作の本作品では、正典作者のドイル卿が混乱を示しているワトソン博士の銃創について作者なりの解釈を示しています。すなわち、ワトソン博士はアフガニスタンでの従軍により銃創を負ってロンドンに帰還するわけですが、その銃創が肩なのか、足なのかで正典に混乱が見られ、この作品では、ワトソン博士は肩に銃撃を受けた後、現地の熱病にかかって生死の境をさまよい、その際に足にも銃創を負った、という解決を示しています。ストーリーとしては、アフガニスタンの戦役でワトソン博士に命を助けられたという退役士官とアイリーン・アドラーがパリで遭遇し、ワトソン博士が命を狙われている事実を突き止め、もちろん、ホームズを出し抜いて鮮やかに解決に導く、ということになります。

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