2018年2月17日 (土)

今週の読書は経済史や経済学の学術書を中心に計6冊!

今週はペースダウンできず、結局、経済書をはじめ6冊を読みました。実は、今日の土曜日に恒例の図書館回りをしたんですが、来週はもっと読むかもしれません。

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まず、ロバート C. アレン『世界史のなかの産業革命』(名古屋大学出版会) です。著者はオックスフォード大学の経済史研究者であり、オランダ生まれで米国ノースウェスタン大学のモキーア教授とともに、産業革命期の研究に関しては現時点における到達点の最高峰の1人といえます。本書の英語の原題は The British Industrial Revolution in Global Perspective であり、2009年の出版です。産業革命に関しては生活水準の低下や過酷な工場労働の現場などから悲観派の見方もありますが、本書の著者のアレン教授はアシュトンらとともに楽観派に属するものといえます。ということで、このブログの読書感想文ほかで何度か書きましたが、西洋と東洋の現段階までの経済発展の差については、英国で産業革命が開始され、それが米国を含む西欧諸国に伝播したことが西洋の東洋に対する覇権の大きな原因である、と私は考えていて、ただ、どうして英国で産業革命が始まったのかについての定説は存在しない、と考えていました。本書を読み終えてもこの考えは変わりないんですが、本書における見方としては、やや定説と異なり、プロト工業化を重視する一方で、農業生産性の向上による生活水準の上昇、ロンドンを中心とする高賃金、石炭などの安価なエネルギーの活用、そして、機械織機、蒸気機関、コークス熔工法による製鉄を3つの主軸とする技術革新などの複合的な要因により、英国で世界最初の産業革命が始まり進行した、と結論づけています。私はマルクス主義史観一辺倒ではないにしても、何かひとつの決定的な要因が欲しい気がしますし、また、産業革命の担い手となる産業資本家の資本蓄積に関する分析も弱いですし、さらに、機械化の進行については馬や家畜などによる動力源を代替する蒸気機関だけでなく、手工業時代における人間の手作業を代替する機械の使用をもっと重視すべきだと考えており、やや本書の分析や結論に不満を持たないでもないんですが、繰り返しになるものの、世界の経済史学界における現時点でのほぼ最高水準の産業革命の研究成果のひとつといえます。よく私が主張するように、産業革命期の研究に関しては、英国=イギリスとイングランドをキチンと区別する必要があるという見方にも、当然、適合しています。完全なる学術書ながら、テーマが一般的ですので、研究者だけでなくビジネスマンなどの研究者ならざる、という意味での一般読者も楽しめるんではないか、という気がします。

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次に、ジェフリー・ミラー『消費資本主義!』(勁草書房) です。著者は米国の進化心理学の研究者であり、本書は必ずしも経済書とはいえないと考える向きもあるかもしれませんが、ツベルスキー・カーネマンのプロスペクト理論のような例もありますし、かなり経済書に近いと考えるべきです。英語の原題は Spent であり、2009年の出版です。ということで、大昔のヴェブレンによる見せびらかしの消費やガルブレイスの依存効果など、決して使用価値的には有益な利用ができないにもかかわらず、事故の何らかの優越性を誇示するための消費について、心理学的な側面も含めて分析を加え、最後の方ではその解決策の提示も行っています。まず、もちろん、見せびらかしでなく使用価値に基づく利用が行われている消費も少なくなく、典型的には食料などが含まれると私は考えていますが、本書では一貫してある種の自動車をヤリ玉に上げています。私は自動車を持っていませんので、まったくその方面の知識がないんですが、ハマーH1アルファスポーツ車です。いろんな特徴ある中で、私の印象に残っているのは燃費がひどく悪い点です。こういった見せびらかしの消費を本書の著者は「コスト高シグナリング理論」と名付けて、要するに、生物界のオスの孔雀の尾羽と同じと見なしています。ある麺では、要するに、将来に向けてその人物のDNAを残すにふさわしいシグナリングであると解釈しているわけです。そうかもしれないと私も思います。その上で、こういったプライドを維持するに必要な中核となる6項目として、開放性、堅実性、同調性、安定性、外向性を上げています。そして、解決策として、第15章でいくつか示していて、買わずに済ませるとか、すでに持っているもので代替するとか、有償無償で借りて済ませるとか、新品でなく中古を買うとか、といったたぐいです。しかしながら、その前にマーケターによるこういった見せびらかしの消費の扇動について触れながら、情報操作による消費活動の歪みを是正するという考えには及んでおらず、少し不思議な気もします。いずれにせよ、私のような専門外のエコノミストから見ても、消費の際の意思決定において心理学要因がかなり影響力を持ち、しかも、その心理要因をマーケターが巧みについて消費を歪めている、というのは事実のような気がします。ですから、行動経済学や実験経済学のある種の権威はマーケターではなかろうか、と私は考えています。

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次に、井堀利宏『経済学部は理系である!?』(オーム社) です。著者は長らく東大教授を務めた経済学者であり、本書は冒頭で著者自身が「単なる経済数学の解説書ではない」と明記しているものの、否定されているのは「解説書」の部分ではなく、「単なる」の部分だと私は受け止めました。ですから、経済学で取り扱うさまざまなモデルを数式で解析的に表現し、微分方程式を解くことによりエレガントに解を求めようとする経済書です。しかも、ミクロ経済学にマクロ経済学、短期分析に長期分析、比較静学に動学、さらに、経済政策論として財政学や金融論まで、極めて幅広く網羅的に解説を加えています。最近の動向は必ずしも把握していないものの、私のころでしたら公務員試験対策にピッタリの本だよいう気がします。ですから、おそらく学部3#xFF5E;4年生向けのレベルであり、経済学部生であっても初学者向きではありません。一般のビジネスマン向けでもありません。実は、私は30年超の昔に経済職の上級公務員試験に合格しているだけでなく、20年ほど前には人事院に併任されて試験委員として、経済職のキャリア公務員試験問題を作成していた経験もあります。当時は、過去問だけを勉強するのでは不足だという意味で新しい傾向の問題を作成する試みがあり、私はトービンのQに基づく企業の設備投資決定に関する問題を作成した記憶があります。また、すでに役所を辞めて大学の教員になっている別の試験委員がゲーム理論のナッシュ均衡に関する問題を持ち寄ったのも覚えています。そして、本書ではナッシュ均衡についても解説がなされていたりしますから、さすがに、先見の明のあった試験問題だったのかもしれないと思い返しています。20年前にはほとんど影も形もなかった地球環境問題とか、さらに進んで排出権取引を数式でモデル化するといった試みも本書では取り上げられています。なお、本書の冒頭で偏微分記号の ∂ について「ラウンドディー」と読む旨の解説がなされていますが、これについては党派性があり、京都大学では「デル」と読ませていた記憶があります。大昔に、英語の planet を東大では「惑星」と訳した一方で、京大では「遊星」と訳し、現状を鑑みるに、東大派の「惑星」が勝利したように、偏微分記号の読み方でも京大派は敗北したのかもしれません。

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次に、中西聡[編]『経済社会の歴史』(名古屋大学出版会) です。本書は、同じ名古屋大学出版会から既刊の『世界経済の歴史』と『日本経済の歴史』を姉妹編とする3部作の最終巻という位置づけだそうですが、私は単独で読みました。20人近い歴史の研究者が集まって、各チャプターやコラムなどを分担執筆しています。副題が上の表紙画像に見られる通り、「生活からの経済史入門」ということで、4部構成の地域社会、自然環境、近代化、社会環境というように、やや強引な切り口から、災害、土地所有、エネルギー、健康と医薬、娯楽、教育、福祉、植民地などなど、ハッキリいってまとまりのない本に仕上がっています。アチコチで反省的に書かれている通り、経済史を考える場合は生産様式、というか、生産を供給面から追いかけるのが主流であり、生活面からの社会の変化は、まあ、服装の近代化とか、食生活の西洋化とか、住居の高層化とか、それなりに興味深いテーマはあるものの、誠に残念ながら、学問的な経済史の主流とはならない気がします。もっとも、私の読んでいない姉妹編の方で取り上げられているのかもしれませんが、それはそれで不親切な気もします。正面切ってグローバル・ヒストリーを押し出して、西洋中心史観から日本などの周辺諸国の歴史をより重視する見方も出来なくはありませんが、まあ、これだけの先生方がとりとめなく書き散らしているんですから、統一的な歴史の記述を読み取るのは困難であり、井戸端会議的な雑学知識を仕入れるのが、本書の主たる読書目的になるのかもしれません。その意味で、トピックとして雑学知識に寄与するのは、エネルギーのチャプターで、20世紀初頭に英国よりもむしろ日本で電化が進んだのは、実は、安全規制が疎かにされていたためである、とか、第2次世界大戦時の日本における戦時体制はかなりの程度に近代的・現代的かつ合理的であったと評価できる、とか、植民地経営の中で、安い朝鮮米を日本本土に飢餓輸出した朝鮮は満州から粟を輸入したとか、そういったパーツごとにある意味で興味深い歴史的な事実を発見する読書だった気がします。

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次に、平山雄一『明智小五郎回顧談』(ホーム社) です。著者は翻訳家であり、シャーロッキアンでもあり歯科医だそうです。本書は引退した明智小五郎を警視庁の箕浦刑事が「警視庁史」を取りまとめるために取材するという形で進行します。でも、最後に、この箕浦刑事の正体が明らかにされます。何といっても豪快に驚かされるのは、明智小五郎はシャーロック・ホームズの倅だった、という事実です。例のライヘンバッハの滝でホームズが死んだと思わせた後に日本に渡り、日本人女性、その名も紫とホームズの間に誕生したのが明智小五郎であり、結核で紫がなくなった後に明智小五郎に養育費を送付し、一高から帝大を卒業できるようにロンドンから仕送りをしたのがその兄のマイクロフト・ホームズです。もう何ともいえません。私は滂沱たる涙を禁じ得ませんでした。そして、明智小五郎が度々外地に赴くのはホームズと会うことも重要な目的のひとつであり、上海においては明智小五郎はホームズとともにフー・マンチュを追い詰めたりします。そして、もうひとつの驚愕の事実は怪人20面相は明智小五郎の親戚縁者であるという事実です。明智小五郎と怪人20面相は同じ師匠から変装を学んでいるのです。本名平井太郎こと江戸川乱歩は、当然ながら、明智小五郎の友人であり、明智小五郎が解決したさまざまな事件を記述しています。すなわち、「屋根裏の散歩者」であり、「D坂の殺人事件」であり、「二銭銅貨」であり、「心理試験」であり、「一枚の切符」などなどです。ただ、主たる事件は終戦までであり、戦後の小林少年を主人公のひとりとする少年探偵団の行動範囲までは本書では追い切れていません。これはやや残念な点です。そして、もっとも残念な点は、明智小五郎が戦時下で軍部の諜報戦に協力していることです。おそらく、江戸川乱歩も、横溝正史なんかも、言論の自由を封じ込め、伏せ字だらけの出版を余儀なくした軍事体制というものには反感を持っていたと、多くの識者が指摘しています。明智小五郎が軍部の戦争遂行に協力することは、当時の政治的な状況下で致し方ないのかもしれませんが、とても残念に感じるのは私だけではないでしょう。最後に、明智小五郎ファンにはかねてより明らかな事実なのですが、小林少年は3人います。本書冒頭で明らかにされています。こういった事実を整合的にフィクションとして記述しています。イラストは、集英社文庫で刊行された「明智小五郎事件簿」と同じ喜多木ノ実です。日本のミステリファンなら、是が非でも読んでおくべきです。

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最後に、玉木俊明『物流は世界史をどう変えたのか』(PHP新書) です。著者は京都産業大学の経済史の研究者なんですが、経済史ながら経済学ではなく、いわゆる文学部の一般的な史学科のご出身と記憶しています。本書では経済学帝国主義ならぬ物流帝国主義、物流中華思想、物流中心史観から、物流が世界史をどう形作って来たのかを分析しています。ローマとカルタゴ=フェニキア人との物流を巡る確執、7世紀からのイスラーム王朝の伸長、ヴァイキングはなぜハンザ同盟に敗れたか、ギリシア・ローマの古典古代における地中海中心の交易からオランダなどのバルト海・北海沿岸諸国が台頭したのはなぜか、英国の平和=パクス・ブリタニカの実現は軍事力ではなく海運力により達成された、英国の産業革命は物流がもたらした、などなど、極めて雑多で興味深いテーマを17章に渡って細かく分析記述しています。ひとつの注目されるテーマとして、ポメランツ的な大分岐の議論があり、要するに、明初期の鄭和の大航海をどうしてすぐにヤメにしてしまったのか、という疑問につき、本書の著者は、明帝国はほとんどアウタルキーのできる大帝国であって、外国との交易に依存する必要がなかった、との視点を提供しています。まあ、ありきたりの見方ではありますし、今までも主張されてきた点ではありますが、同意できる観点でもあります。ほかにも、学術のレベルではなく、井戸端会議の雑学のレベルではありますが、私のような歴史に大きな興味を持つ読者には、とてもタメになる本だという気がします。2時間足らずですぐ読めます。

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2018年2月10日 (土)

今週の読書は学術書2冊を含めて計6冊!

今週は、やっぱり、6冊読んだんですが、ロビン・ケリー『セロニアス・モンク』のボリュームがものすごくて、私が足かけ3日かけて読まねばならない分量の本というのは久し振りな気がします。ほかにも、重厚な学術書が2冊含まれていて、それなりに時間を取って読書した気がします。なお、最後のオーツ『とうもろこしの乙女、あるいは七つの悪夢』は数年前の単行本出版の際に読んだ記憶がありますが、とてもスンナリと借りられたので文庫本も読んでしまいました。

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まず、寺西重郎『歴史としての大衆消費社会』(慶應義塾大学出版会) です。著者は金融史がご専門で長らく一橋大学をホームグラウンドとしていた研究者、エコノミストです。出版社も考慮すれば、明らかに学術書と考えるべきであり、読み進むためのハードルはそれなりに高いと考えるべきです。本書で著者は、我が国戦後の高度成長期について、極めて旺盛な大衆消費によって支えられていた特異な時期であったとし、敗戦に際しての方向感覚の喪失と政府介入によって生じた一時的な現象であったとの結論を導いています。私は一昨年に高度成長期研究の成果として経済計画の果たした役割に関する論文を取りまとめましたし、開発経済学の視点ながら、それなりに高度成長期に関する見識は持っているつもりですが、この著者の結論は間違っています。まず、著者が結論に至る論点は3点あり、第1に、戦後日本での爆発的な消費拡大は、敗戦による環境の変化に対して、人々と政府が「さしあたって」消費と生活様式の西洋化を決意したことによって引き起こされ、第2に、大衆消費を支えた分厚い中間層は、金融と産業に対する政府規制が生み出すレントの分配によって支えられており、1970年代後半以降に規制緩和が進展した結果、そのレントが消滅して高度成長は終焉したとされ、第3に、1980年代以降の日本で観察された消費の差異化は、普遍的なポストモダンの動きの一環ではなく、伝統的な消費社会への回帰現象であろう、というものです。そして、相変わらず、英国をはじめとする欧米のキリスト教的な供給が牽引する経済と我が国の仏教的な需要が牽引する経済の差をチラチラと出しています。高度成長期に政府が一定の役割を果たしたのは事実ですし、ある意味で、レントを生じていたのも事実です。そして、そのレントは当時極めて希少性の高かった外貨の配分から生じており、それを天下りなどに使っていたわけです。しかし、一般に19世紀後半の1870年代とされるルイス的な転換点は、我が国の場合は高度成長期であった可能性が高く、まさに農業などの低生産性の生存部門から製造業などの近代的な資本家部門に労働が移動したことが高度成長の基本を支えていたわけであり、その時期に大衆消費社会が訪れたのは戦争の期間と終戦直後の混乱期に抑制されていた消費が、米国をはじめとする当時の先進国との技術的なギャップをキャッチアップする過程で、大きく盛り上がった、と考えるべきです。1970年代半ばに高度成長が終焉したのは、石油ショックによる資源制約に起因する成長の屈折ではなく、ましてや、本書で主張されているような規制緩和によるレントの消滅ではあり得ません。立派なエコノミストによる重厚な学術書なんですが、中身はやや「トンデモ」な歴史観を展開しているような気がします。

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次に、ハンナ・ピトキン『代表の概念』(名古屋大学出版会) です。著者はドイツ生まれでユダヤ人であるために米国に渡り、カリフォルニア大学の旗艦校であるバークレイ校の研究者の後、現在は名誉教授となっています。その代表作のひとつである本書に対してはリッピンコット賞が授賞されています。英語の原題は The Concept of Representation であり、50年前の1967年の出版です。どこからどう見ても完全な学術書であり、代表論の古典とすらいえますので、読み進むためのハードルは決して低くありませんが、欧米でポピュリズムの影響力が大きくなっている昨今の政治情勢の中で、決して雲の上の学術だけの課題ではないと私は考えています。ということなんですが、何分、原題にも含まれている英語の Representation は日本語にすると、代表と表現のやニュアンスの異なる2種類の邦訳が当てはめられ、必ずしもスッキリしない場合も見受けられます。ホッブズから始まって、バークなどの理論家や実践家、すなわち、民主主義下での代表的な政治家の考えを引用しつつ、古典古代のような直接民主主義から自由主義まで、思想の土台より政治的代表の意味を徹底的に検討を加えています。政治的な代表だけでなく、君主制の象徴 symbol、あるいは、代理 proxy など、代表に類似する概念と併せて素材とされています。そのあたりの代表と象徴や代理の違いは、それなりに、理解できる一方で、代表の中でももっとも大きなポイントとなるには、いうまでもなく、民主主義下において投票によって議会の構成員を国民の代表として選出する際の代表の考え方です。バークの議論ではありませんが、この代表が何らかのグループの利害関係を代表するのか、それとも集合名詞としての国民、あるいは、国家の利益を代表するのかの議論は分かれることと思います。地域なり、職能なり、階級なり、何らかの利害集団の利益を代表するだけであれば、議会の構成員としての見識や経験はまったく不要であり、まさに、ポピュリズムそのものですし、後者の国民全体あるいは国家の利益を代表するのであれば、極めて高い見識を必要とする一方で、選挙を実施する意味がありません。というか、マニフェストや公約で示すのは、利害調整の際のポジションではなく、見識の高さを競うのかもしれません。いずれにせよ、50年前のテキストながら、ポピュリズムが台頭しつつある21世紀でもまだまだ参考とすべき内容を含んでいる気がします。

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次に、伊東ひとみ『地名の謎を解く』(新潮選書) です。著者は奈良の地方紙のジャーナリストの出身で、私よりも年長ですのでリタイアしているんではないかと思わないでもありません。地名については在野の民俗学の権威のひとりであった柳田國男などにも同様の研究がありますし、ほかにもいろんな調査研究結果があるんでしょうが、本書では奈良ローカルらしく万葉仮名の表現まで引用して地名の起源や変遷について跡付けています。私が本書を読もうと思った本来の目的である雑学的な知識の詰め合わせは p.200 以降の最後の最後に取りまとめられています。本書の著者の前著がキラキラネームに関する雑学書でしたので、平仮名名の地名で外来語由来の地名などにやや嫌悪感、とまではいわないまでも、何らかの違和感を持って取り上げているような気がしますが、私はそれをいい出せばアイヌ語や沖縄由来の地名についても、何らかの色メガネを持って見られそうな気がして、もう少しオープンな視線で地名を見てみたい気がします。さらに、地名と姓名の入れ込み、というか、地名が姓になった利、逆に、姓が地名になったりした例も多いような気がします。例えば、我が家が引っ越し前に住まいしていた青山なんぞは、赤坂とともに、徳川時代に屋敷を置いていた旗本の姓に由来するんではないかと記憶しています。決して青山なる山があったり、赤坂なる坂があったりしたわけではありません。同様に、本書で縄文や弥生まで地名の起源をさかのぼるのが、どこまで意味があるのかどうかも私には不明です。地名の起源が古ければ有り難いというわけでもないでしょうし、実際に、本書に何度か出て来る表現を借りれば、ホントにフィールドワークをしたのであれば、歴史を経て大きな変更があった可能性もありますが、産物や景観なども含めた起源をフィールドワークして欲しかった気もします。ただ、東京になる前の江戸の起源がよどだったのは知りませんでした。あと、「谷」の漢字を「や」と読むのか、「たに」と読むのか、さらに、万葉仮名を持ち出すのであれば、決して漢字を音読みしない古今集タイプも同時に考え、音読み地名と訓読み地名についても、平仮名地名とともに、もう少し掘り下げて欲しかった気がします。まあ、私の期待値が高過ぎた気もしますし、努力賞なのかもしれません。

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次に、ロビン・ケリー『セロニアス・モンク』(シンコーミュージック・エンタテイメント) です。著者は2009年出版時点では南カリフォルニア大学の、そして、現在ではカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の米国史、黒人史などの研究者です。英語の原題はそのままに Thelonious Monk であり、繰り返しになりますが、2009年の出版です。歴史研究者が14年に渡って調べ上げたジャズ・ピアニスト、セロニアス・モンクの生涯をカバーするノンフィクションの伝記です。二段組みの本文だけで670ページを超え、索引と脚注で30ページあり、全体で700ページを超える極めて大きなボリュームの本であり、何と、大量の読書をこなす私が足かけ3日かけて読んだ本も、最近ではめずらしい気がします。一応、ていねいには書かれていますが、登場人物については、それなりのバックグラウンドを知っておいた方が読書がはかどります。当然ながら、モンクを知らないし、聞いたこともない人にはオススメできません。邦訳が出版された昨年2017年はモンク生誕100年ということで、1917年に生まれて、幼少のころからニューヨークで過ごし、1982年に64歳の生涯を閉じるまで、モダンジャズの歴史そのものの人生を送った偉大なるピアニストの生涯を極めて詳細に跡付けています。ビバップからモダンジャズの誕生については、チャーリー・パーカーとディジー・ガレスピーに果たした役割が大きいと評価されて来て、ピアニストとしてはモンクよりもバド・パウエルの存在を重視する見方が広がっている中で、モンクの再発見につながる本書は貴重な見方を提供しているといえます。単に音楽生活だけでなく、その基盤となったネリーとの結婚生活や、パノニカ・ド・コーニグズウォーター男爵夫人との交流や援助など、もちろん、音楽シーンでのほかのジャズ・プレーヤー、プロモーター、マイナーレーベルのオーナー、レコーディング・エンジニアなどなどとの人間関係も余すところなく描き出しています。化学的不均衡により、モンクの双極障害、統合失調症などによる特異な行動や言動などがどこまで説明できるのかは私には理解できませんが、ピアノの弾き方がとても独特なのは聞けば理解できます。決して、音楽の名声の点でも、もちろん、金銭的にも、恵まれた人生であったかどうかは疑問ですが、モダンジャズの開拓者、先導者としてのモンクの役割を知る上で、そして、音楽シーンを離れたモンクの人生を知る上で、十分な情報をもたらしてくれる本だといえます。ただし、かなりのボリュームですので、粘り強く読み進むことが出来る人にオススメです。

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次に、関満博『日本の中小企業』(中公新書) です。著者はご存じの製造業研究などで有名な一橋大学をホームグラウンドにしていた研究者であり、エコノミストというよりは経営学が専門なのかもしれません。繰り返しになりますが、中小企業というよりは、製造業がご専門のような気がしますが、本書では中小企業にスポットを当てています。特に、最近の中小企業経営を取り巻く環境変化として、国内要因の人口減少や高齢化、海外要因として中国をはじめとする新興国や途上国における人件費の安価な製造業の発展を上げています。その上で、第1章では統計的な中小企業の把握を試み、第2相と第3章では企業の観点から、また、第4章では継承の観点から、大量にケーススタディを積み上げ、繰り返しになりますが、第5章では中小企業経営の環境変化、すなわち人口減少・高齢化とグローバル化の進展について考察を進めています。なかなかに元気の出る中小企業のケーススタディであり、どうしても製造業の割合が高いながらも、高い技術に支えられた中小企業の存在意義を明らかにしています。ただ、こういったケーススタディによる研究成果、というか、本書のようなサクセス・ストーリーのご提供に関しては、2点だけ不安が残ります。第1に、これらの成功例のバックグラウンドに累々たる失敗例が存在するのではないか、という点です。我が国では米国などと比べると、起業件数とともに廃業件数も少なく、企業経営が米国ほど動学的ではない、とされていますが、他方で、その昔に「脱サラ」と称されたコンビニ経営などが、一定期間終了後に店仕舞いしている実態も、これまた目にして実感しているわけで、当然ながら、起業がすべて成功するわけもなく、成功例の裏側に失敗例が数多く存在し、単に成功例と失敗例は非対称的にしか扱われていない可能性があります。第2に、最近の中小企業経営の環境変化の中で、非製造業における人手不足について情報が不足しています。本書の著者の専門分野からして、製造業、特に、かなり高い技術水準を有している製造業に目が行きがちで、それだけで成功確率が高まるような気もしますが、建設や運輸、さらに、卸売・小売といった非製造業の中小企業もいっぱいあり、昨今の人手不足の影響はこれら非製造業の中小企業ではかなり大きいのではないか、少なくとも製造業よりもこういった非製造業への影響の方が大きそうな気もします。そういった、否定的な情報が、失敗例にせよ、人手不足の非製造業への影響にせよ、意図的に隠しているわけではないんでしょうが、ほとんど提供されておらないように見受けられなくもなく、技術力の高い製造業の成功例だけが取り上げられているおそれがあるのか、ないのか、やや気にかかるところです。

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最後に、ジョイス・キャロル・オーツ『とうもろこしの乙女、あるいは七つの悪夢』(河出文庫) です。文庫本で出版されたので借りて読んでみました。私は単行本も読んでいて、2013年5月24日付けの読書感想文で取り上げています。その際に、私の知り合いの表現を引いて、「オーツの入門編として最適な1冊」と書いています。詳細は省略します。

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2018年2月 4日 (日)

先週の読書は興味深い経済書など計6冊!

先週の読書は、もっとペースダウンしようと考えていたものの、それでも6冊を読み切ってしまいました。まあ、軽い本が多かった気がします。今週はすでにこの週末に図書館を回って、ハンナ・ピトキン『代表の概念』とか、寺西先生の『歴史としての大衆消費社会』といったボリュームある学術書を借りていますので、冊数としてはもっとペースダウンする必要がありそうな気がします。

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まず、トム・ウェインライト『ハッパノミクス』(みすず書房) です。著者は英国エコノミスト誌のジャーナリストであり、英語の原題は Narconomics となっていて、邦訳タイトルは忠実に訳されています。2016年の出版です。著者はジャーナリストらしく、中南米の原産地やメキシコや中米の輸送経由地、米国をはじめとする先進国の消費地などをていねいに取材しています。ものすごく危険な取材であったろうと勝手ながら想像しています。私は南米の日本大使館勤務の経験がありますので、そういったウワサ話も少しは理解できますし、少なくともスペイン語は一般的な日本人のレベルよりも格段に使えますが、ジャーナリストの取材でも現地語の理解は不可欠であったろうと想像します。ということで、ドラッグの生産・流通・消費、さらに、ドラッグを扱うギャング組織の経営実態までを経済経営学的な見地から跡付けた取材結果のリポートです。経営組織の連携や離合集散など、通常の企業体ではM&Aに属する経営判断、あるいはフランチャイズやアウトソーシングなどの活動、サプライ・チェーンの管理やマーケティングなどなど、通常のグローバルなビジネスの経営と同じように、ドラッグを扱うギャング組織も極めて経済学的かつ経営学的に合理的な活動をしている実態が明らかにされています。そして、それらのギャング組織によるドラッグ蔓延を阻止すべく活動を強化している政府の活動についても分析を加えています。現在のドラッグ阻止活動の中心は供給サイドの締め付けにより、経済学的な需要供給の関係からドラッグの価格上昇をもたらして、需要を抑え込もうという点が中心になっています。タバコの需要抑制のために価格引き上げを実施するようなものであろうと理解できます。しかし、それに対して麻薬カルテル側では買い手独占で負担を農家に負わることができるため、大きな影響は受けない、という実態も明らかにされています。そして、実は、これは私が勤務した当時の大使館の大使の主張のひとつでもあったんですが、ドラッグを合法化して流通の一部なりとも政府で押さえる、そして需要サイドの中毒者を把握し、必要に応じて、集中的に治療を加える、という方策が現実味を帯びるような気がします。私は決して経済学帝国主義者ではありませんし、経済学中華思想も持っていないつもりですが、本書を読んでいると、麻薬カルテルの活動に経済学や経営学を適用すれば、実にスッキリと理解がはかどるというのも、また事実のような気がします。

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次に、『山を動かす』研究会[編]『ガバナンス改革』(日本経済新聞出版社) です。編者にはみさき投信の社長が含まれていて、そのあたりが中心か、という気もしますが、私はこの分野は詳しくありませんので、確たることは不明です。前著は『ROE最貧国 日本を変える』らしく、私は読んでいませんが、同じラインの本であり、我が国の資本生産性を上昇させることを目的にしているようです。そして、これまた私の専門外なんですが、アベノミクスの第3の矢であった成長政策のひとつの目玉が本書のタイトルとなっているガバナンス改革であったのも事実です。その中で、日本版スチュワードシップ・コードやコーポレートガバナンス・コードも制定され、投資家と企業の新しい関係も始まっています。ただ、ガバナンス改革については、かなり狭義に、株価上昇のための会計上の創意工夫、というややアブナい、というか、東芝なんかはそれで一線を超えてしまったようなラインで理解している向きもありそうで少し怖い気もしますので、本書のような本筋の知識を普及させることは大いに意味あることと私も理解しています。ただ、本書の中の第4章に収録されている対談にもある通り、ガバナンス改革は何らかの公的・自主的な規制やイベント、それこそ、日本版スチュワードシップ・コードやコーポレートガバナンス・コードの制定とか、会社法の改正による社外取締役の義務付けとかですすむのかといえば、必ずしもそうではないような気もします。すなわち、市場における投資家や情報提供に携わるエコノミストやアナリストも含めて、市場からの圧力により、「自然と」という表現は違うかもしれませんが、いつの間にか気が付いたら、「山が動いていた」、すなわち、ガバナンスが革命的に短期間で、あるいは政府や証取などの公的な機関の指導やインセンティブ付与などで、カギカッコ付きの「改革」されるものではなく、それぞれの市場の歴史的経緯の経路依存性や参加者の構成などの実情に応じて、グローバル・スタンダード的なガバナンスが各国市場に一律に適用されるのではなく、各国のその時点の市場に応じた形でガバナンスが向上する、そしてその背景では、資本の生産性が上昇している、というものではないかという気がします。その点では、労働の生産性向上と大きく違う点はないものと私は考えています。そして、これまら労働の生産性と資本の生産性のそれぞれの向上を考える際に共通して、我が国は先進国としては、いずれの生産要素の生産性も決して高いとはいえず、先進例へのキャッチアップにより要素生産性を向上させることが可能ではなかろうか、という気がします。製造業の生産性は別かもしれませんが、少なくともサービス産業の労働生産性は、資本の生産性と同じように、まだまだ我が国は遅れている面があり、同じようなことがいえるんではないかと私は考えています。

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次に、岩田正美『貧困の戦後史』(筑摩選書) です。著者は日本女子大学を代表する社会政策や社会学分野の研究者なんですが、すでに退職されて名誉教授となっているようです。本書では、上の表紙画像に見られる副題のように、貧困を量的に捉えるのではなく、かたちとして、すなわち、何らかの類型や生活実態に即して捉えようと試みています。そして、タイトル通りに、これはあとがきにもありますが、最近の貧困論や格差論はせいぜいが1990年台のバブル崩壊以降しか視野に入れていないのに対して、戦後を通じた時間的な視野を持って分析が進められています。繰り返しになりますが、著者はそれをあとがきで自慢しているんですが、そうなら、もっと時間的にさかのぼって、明治期からの近代日本をすべて視野に収めるのも一案ではないかとも思いますし、特に戦後、というか、終戦直後から分析を始めることに意味があるとは私は思いません。そして、本書の特徴は著者の専門分野からして、ある意味で当然なんですが、かなり極端な貧困、すなわち、生きるか死ぬかのボーダーラインにあるような貧困を対象にしています。終戦直後であれば、いわゆる浮浪者、現在であればホームレスといったところが対象となっており、OECD的な相対的貧困率も取り上げていたりはしますが、そんな生易しい貧困ではなく、もっと強烈な貧困に焦点を当てています。ただ、どうしても私の目から見て、本書のような社会学的な貧困分析は表面的な印象を拭えません。エコノミストの目から見て、表面的、すなわち、かなり具体的に社会的な問題となっている、というか、見つけやすい貧困を対象にしているような気がしてなりません。それは第1に、都市の中で、人としては失業者、地区としてはスラムであって、地方の農村の貧困は等閑視されがちになっています。第2に、どうしても声高な主張のできる高齢層に目が向きがちで、子どもの貧困には関心が薄いのではないかと心配になります。ですから、この点は著者が批判的な眼差しを向けている戦前的な貧困対策、すなわち、働ける医師や能力を持った失業者への対策が政策の中心をなしていて、ホームレスなどについては置き去りにされがちな傾向と、実は、軌を一にしている可能性があることを考慮するべきではないでしょうか。貧困の三大要因は、私が大学のころに習った疾病、高齢、母子家庭から40年を経て大きく変化しているわけではありません。働けない人々に対していかに社会的な生活を保証するかの観点が重要です。

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次に、芳賀徹『文明としての徳川日本』(筑摩選書) です。著者は東大名誉教授の比較文学者であり、本筋は仏文だと記憶しています。ですので、歴史学者ではありません。本書では、与謝野蕪村などを多く引用し、徳川期について西洋の中世的な暗黒時代や文化・文明の停滞期と考えるのではなく、多様な文化・文明の花咲いた完結した文明体として捉えようと試みています。ただし、私の考えるに、タイトルの「文明」はやっぱり大風呂敷を広げ過ぎであり、まあ、「文化」程度に止めておいた方がよかった気もします。そして、著者の専門分野からして、本書の冒頭でも絵画的、というか、美術的な文化・文明にも触れていますが、やっぱり、文学が本筋だという気がします。その意味で、我が国独特の短い表現形式である俳句の世界から与謝野蕪村、そして松尾芭蕉を多く取り上げているのは、なかなかいいセン行っていると思います。私が興味を持ったのは、オランダのカピタンをはじめとして、鎖国状態の中でも海外からの情報取得が活発であり、もちろん、支配階層だけのお話でしょうが、かなり熱心な情報収集を行っている点です。加えて、改めて、なんですが、文化・文明のそれなりの発展のためには平和が欠かせない、という点です。戦争状態であれば、国内の内戦であろうと、海外との戦争はいうまでもなく、文化・文明は戦争遂行、特に戦争の勝利に支配されるわけで、文化・文明の発展は大きく滞ります。その点で、天下泰平の徳川期に文化・文明は大きく発展し、識字率などの我が国国民の民度も向上し、明治期の近代化を準備したといえます。本書では、徳川期を他の日本史の時期から切り離して、単独での文化・文明を論じていますが、私は大きく我が国の近代化が進んだ明治期につながる準備期間としての徳川期の文化・文明というのも重要な観点ではないかと思います。

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次に、織田一朗『時計の科学』(講談社ブルーバックス) です。著者はセイコーの前身となる服部時計店の広報などを担当してきており、時の研究家と自称しているようです。本書では、その昔からの欧州や中国における時計の歴史、日時計や水時計、もちろん、機械時計そして、現在のクオーツ時計や電波時計などの最新技術を駆使した時計まで、その歴史をひもとき、時計と時に関して技術的な、あるいは、場合よっては哲学的な知識を明らかにしています。読ませどころは、第4章のセイコーによるクオーツ時計の開発ではないでしょうか。著者ご本人が勤務していたわけですので、それなりに詳細に渡って興味深く展開しています。時計に関しては、私は朝が弱いので目覚ましがないと起きられません。時計だったり、女房に起こしてもらったりします。腕時計は、いくつか持っているんですが、 ビジネス・ユースは2つあって、いずれもオメガです。亡き父親の形見の自動巻きのコンステレーションは50年以上前のものだと思います。もうひとつの手巻きのスピードマスターは結婚前の結納で女房からもらったものです。いずれも機械時計ですので3~5年に1回位の頻度でオーバーホールしています。一度に2つともオメガの正規店に持ち込むと平気で数万円かかりますので、半額くらいで済む街中の時計店にお願いしています。他に週末の普段使いとしてスウォッチをいくつか持って使い回しています。ですから、腕時計はすべてスイス時計だという気がします。オメガは機械時計ですが、スウォッチはクオーツです。それから、時計代わりにラジオやテレビの時報などを用いるというのもありますが、テレビに時刻が表示されることもあります。朝のニュースなどです。私が南米はチリの日本大使館の経済アタッシェをしていたのは1990年代前半で、まだ日本のテレビでも分単位の時刻表示しかしていなかったところ、何と、チリの首都サンティアゴのテレビは秒単位の時刻表示をしていて、少し驚いたことがあります。そして、もっとびっくりしたのは、テレビ局によってかなり表示時刻が違っていることです。曲によっては平気で2分くらい違います。日本では考えられないことだと思いました。また、南半球のクリスマスやお正月は真夏の季節なんですが、ラジオも曲によって時報がズレています。南半球の真夏の年越しカウントダウンに参加したことがあるんですが、あるラジオ局を聞いているグループは、我々よりも1分くらい早く新年を迎え、我々のグループはそこから1分あまり遅れて新年を迎えてクラッカーを鳴らしたことを記憶しています。ラジオ局やテレビ局によって独自の時報の設定がなされていたようです。ラテンの国らしく、とてもいい加減だと感じざるを得ませんでした。

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最後に、マリオ・リヴィオ『神は数学者か?』(ハヤカワ文庫NF) です。著者は米国の宇宙望遠鏡科学研空所に勤務する天体物理学の研究者です。名前を素直に読むとイタリア人っぽく聞こえるんではないでしょうか。英語の原題は Is God a Mathematician? であり、邦訳タイトルは忠実に訳されているようです。原書は2009年の出版であり、2011年出版の邦訳単行本が文庫本として出されたので読んでみました。著者の邦訳は3冊目らしく、第1作は『黄金比はすべてを美しくするか?』、第2作は『黄金比はすべてを美しくするか?』となっています。本書では、特に、「数学の不条理な有効性」と著者が呼ぶもの、すなわち「何故数学は自然界を説明するのにこれほどまで有効なのか?」について、ピタゴラス、プラトン、アルキメデスなどの古典古代から始まって、ガリレオ、デカルト、ニュートンなどの中世から近代にかけて、そして、もちろん、ユークリッド幾何学の否定から始まったリーマン幾何学を基礎としたアインシュタインの相対性理論、さらに、数学というよりも論理学に近い不完全性定理を証明したゲーデルなどなど、数学の発展の歴史をたどりながら論じています。本書でプラトンが重視されているのは、プラトンは本来は数学分野の功績はないものの、数学は発見されたのか、発明されたのか、という問いに関係しているからです。すなわち、プラトン的な見方からすれば自然の中にすべてが含まれているわけであり、数学も自然になかにあることから、人間が自然を記述するために発明したのではなく、もともと自然の中にある数学を発見した、ということになります。私はこういった哲学的な観点は興味ありませんが、エコノミストの目から見ても、少なくとも、自然科学だけでなく、経済的な現象、というか、モデルの記述には数学がとても適しています。南米駐在の折は経済アタッシェとはいえ、外交活動、というか、社交的な活動が中心だったんですが、ジャカルタではゴリゴリのエコノミストの活動で、いくつか英語で学術論文を書いたりしていましたので、数学の数式でモデルを提示するのは英語という外国語で記述するよりも格段に論理的かつ便利であることを実感しました。アムエルソン教授の何かの本の扉に「数学もまた言語なり」というのがあったのを思い出した次第です。

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2018年1月27日 (土)

なかなかペースダウンできずに今週の読書はやっぱり7冊!

先週の読書は明らかにオーバーペースでしたが、今週もやや読みすぎたきらいがあり、計7冊に上りました。やっぱり、睡眠時間を犠牲にして読書しているんでしょうね。来週はペースダウンしたいと思います。

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まず、キャス・サンスティーン『シンプルな政府』(NTT出版) です。著者はハーバード大学教授であり、本来の専門分野は憲法だと記憶しているんですが、私の専門分野との関係では行動経済学にも深い見識を有しています。そのため、第1期のオバマ米国政権において米国大統領府の行政管理予算局のひとつの組織である情報・規制問題室長を務めています。この組織は本書でOIRAとして頻出しますし、主として、本書の内容はこの政府における活動を中心に据えています。ですから、2013年に出版された英語の原書の原題は、上の表紙画像に見られる通り、Simpler とされています。ただ、邦訳タイトルのように政府の規制のあり方だけを論じているわけではありません。ということで、政府規制を中心に据えつつも、幅広く行動経済学を論じています。もっとも、政府の公職を離れた後で上梓した本ですので、ハッキリいって、そうたいした内容ではありません。このブログでは取り上げなかったと記憶していますが、日本で本書の直前のこの著者の出版に当たる『賢い組織は「みんな」で決める』が、同じ出版社から出ており、コチラの方がレビューの星が多そうなきがします。もっとも、アマゾンの例では、『賢い組織は「みんな」で決める』はまだレビューがなく、本書『シンプルな政府』は星3つです。まあ、可もなく不可もなく、といった内容だという気がします。政府内での規制の実践が中心をなしていますので、そんなに突飛な実験もできないわけで、それはそれで仕方ない気もする一方で、行動経済学の政府における実践編としては貴重な実証記録なのかもしれません。繰り返しになりますが、本書の特徴をまとめると、行動経済学の新しい理論面を開拓するのではなく、米国政府における実践結果として評価すべきかもしれません。

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次に、ダニエル・コーシャン/グラント・ウェルカー『奇跡のスーパーマーケット』(集英社インターナショナル) です。著者の2人はビジネス・スクールでCERを専門とする研究者とこの本野部隊となるん米国ニューイングランドの地方紙のジャーナリストです。英語の原題は We Are Market Basket であり、日本では、フジテレビの「奇跡体験アンビリーバボー!」で11月に放送された米国ニューイングランドのそこそこ大手のスーパーマーケットの物語です。要するに、スーパーマーケットのファミリー・ビジネスの継承で、一方が典型的な日本的浪花節の世界の経営者アーサーT.で、顧客を大切にし、取引先のサプライヤーも地元から選んでムリをいうこともなく、従業員にも十分な利益還元や就業条件で報いていた一方で、ファミリー・ビジネスのもう一方の大株主の従兄弟アーサーS.はビジネス・スクールを出たエリートで、会社は株主のためにあるというガバナンスを信条に、顧客には売れるだけ高く売りつけ、納入業者を締め上げ、従業員はこき使う、という経営をしたわけです。アーサーT.のいかにも日本的なCSRを重視する経営者からアーサーS.のエリート経営者に経営の実権が移り、従業員はもとより、顧客、納入業者までが一致団結してデモを繰り返し、最後には州議会議員や州知事まで介入して、CSR重視の経営者アーサーT.にアーサーS.から株式が売却され、経営の実権が戻されるように取り計らい、めでたくも抗議行動が集結した、というものです。ただ、本書の著者たちは冷静で、「めでたし、めでたし」で終わるのではなく、返り咲いた経営者アーサーT.が株式を購入するに当たっての借り入れの資金コスト負担、従業員を大切にする長期雇用下で、今回の抗議行動の立役者などの昇進を望む圧力など、今後の先行きの経営の不透明さも浮き彫りにしています。日本的経営を手放しで賞賛するだけでなく、そのコスト面も視野に入れた冷静な分析結果が提供されています。そういった意味で、なかなかの秀作です。

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次に、ウォルフガング・シュトレーク『資本主義はどう終わるのか』(河出書房新社) です。著者はドイツ人の社会学者であり、マックス・プランク研究所やケルン大学をホームグラウンドにしています。前作の『時間かせぎの資本主義』(みすず書房)は私も読んでいて、このブログの2016年7月30日付けの読書感想文で取り上げています。ハッキリいって、前著の方が出来がよく、1980年代の米国レーガン政権や英国サッチャー政権から本格的に始まった新自由主義的な経済政策が最終的に今世紀のリーマン・ショック、というか、本書の表現では世界的により広く流布している「グレート・リセッション」で世界経済の停滞がピークを迎えたと分析し、銀行危機・国家債務危機・実体経済危機という三重の危機を迎えたとの認識が示されていましたが、本書ではどうもつながりのよくない単発の論文を合本したような印象で、特に、第6章以降はまとまりのなさが露呈していると私は受け止めています。第5章までの議論では資本主義と民主主義が近代の初めから「できちゃった結婚」により、手を携えて発展して来たものの、21世紀の現在では市民社会に根差した民主主義が大きく後景に退き、それが資本主義の矛盾を大きくするとともに、格差の拡大や危機の深化などの資本主義の終焉に向かう動きを強めている、という主張ではないかと忖度するんですが、当然のことながら、資本主義の後の経済体制に関する考察を欠きます。その昔のマルクス主義では、さすがに先進国での暴力革命による政権転覆は非現実的としても、また同時に、成熟した先進国の民主主義を経た現状では、プロレタリアート独裁も考えられないとしても、これらの暴力革命やプロレタリアート独裁に代わる成熟した民主主義を代替案と出来るとしても、市場経済に基づく資本主義にとってかわる社会主義、すなわち、中央指令に基づく集産主義的な経済体制については、マルクス主義的な将来像に対する何らかの代替案が欲しかった気がします。格差の是正や民主主義の徹底などは、マルクス主義でなくても、社会民主主義的な改良主義でも、ある程度実現可能と考えられるわけですから、社会民主主義を超えるマルクス主義の主張を正当化するための議論も必要ではないでしょうか。実は、私も資本主義は終わる方向に向かっていると考えているんですが、どう終わるかも重要ですが、その先に何が待っているのかも不可欠の議論の対象だと思います。

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次に、若森章孝・植村邦彦『壊れゆく資本主義をどう生きるか』(唯学書房) です。著者はマルクス主義の研究者であり、本書もマルクス主義の観点から資本主義の終焉や最終段階説を取っています。というのは、約100年前のロシア革命によりソ連が成立してから、資本主義の最終段階説が登場し、今にも世界各国で社会主義革命が起こる、といわれ続けて100年を経て、その前にソ連的なコミンテルン型の社会主義が先に崩壊したわけです。本書ではウォーラーステインの歴史観に基づきつつ、資本主義の最後の世界、特に、1980年ころに成立した英国サッチャー政権や米国レーガン政権以降の新自由主義主義的な経済政策の下で、成長率が向上しない一方で企業部門が利潤を上げながらも労働者にその成果は分配されず、格差が拡大し資本主義の腐敗が進し、同時に民主主義が崩壊に向かって、市民社会も危機に瀕する、という歴史観を共有しています。ただ、完全な共産党員である英国のホブズボームと違って、米国のウォーラーステインはより社会民主主義的であり、改良主義的です。ですから、私が常々疑問に感じている暴力革命とプロレタリアート独裁は必要ではないという立場のように見受けられます。同時に本書では、どうも、後づけのような気もしますが、米国トランプ政権の成立や英国のBREXITなどのポピュリズムの台頭を念頭に置きつつ、深刻化する世界的な分断と排除の根源にはナショナリズム/レイシズム/階級問題があると指摘します。この三位一体構造が私には理解できないんですが、流行を捉えているということは、決して悪いことではありません。ただ、本書の場合、各章の後半部分の対談の収録はカンベンして欲しかった気がします。別の表現をすれば、キチンとした学術書、でなくても専門書か教養書に仕上げて欲しかったと思います。

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次に、スティーブン・ジョンソン『世界を変えた6つの「気晴らし」の物語』(朝日新聞出版) です。同じ著者による同じ出版社からの『世界をつくった6つの革命』に続く第2段といえ、英語の原題は上野表紙画像に見える通り、Wonderland であり、2016年の出版です。著者はよくわからないんですが、ジャーナリスト出身のノンフィクションライターではないかと思います。前著の6つの革命は、ガラス、冷たさ、音、清潔、時間、光、で、とても判りやすくてよかったんですが、本書の6つの気晴らしは、ファッションとショッピング、音楽、特にひとりでに鳴る楽器、コショウや味覚、イリュージョン、ゲーム、レジャーランドなどのパブリック・スペース、となっています。本のタイトルも、章のタイトルも、邦訳はかなり苦しく、少しムリをしている嫌いがあります。特に、最後の章のレジャーランドについては、むしろ、公園なども含めたパブリックなスペースの意味なんですが、日本語では「パブリック」はプライベート=私的の反対で公共の意味をもたせる場合が多く、少し邦訳に苦労している様子がうかがえます。本書での気晴らしについても、第3章の食生活なんて、衣食住の人類の生活に不可欠な要素であって、決して気晴らしではないと思いますし、中身としても、このブログでは取り上げていなかったような気もしますが、前著の『世界をつくった6つの革命』の方が出来がいいような気がします。少なくとも併せて読むべきではないかと思います。どちらか1冊だけ、ということであれば、本書ではなく前著の『世界をつくった6つの革命』の方を私はオススメします。

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次に、今村昌弘『屍人荘の殺人』(東京創元社) です。作者は新人ミステリ作家であり、この作品は第27回鮎川哲也賞受賞作です。小説のタイトルとなっている「屍人荘」は作品中では、どこかの大学の映画サークルが合宿をする「紫湛荘」であり、主人公は大学1年生で、多くの登場人物も大学生というてんでは、いわば、青春小説でもあったりします。しかし、他方で、クローズド・サークル内での殺人事件に対する本格的なミステリとなっています。そして、きわめて独創的なのがクローズド・サークルの発生であり、通常のような吹雪などの気象条件とか、がけ崩れなどの事故とかではなく、生物兵器的なテロによって一種の細菌がばらまかれ、特に伏字とするべきxxxが発生して、一部の登場人物の大学生などもこれに感染してxxx化した中で、その紫湛荘への襲撃を防止しつつ、クローズド・サークル内の殺人事件を解決する、という立てつけとなっています。しかもしかもで、伏字としているxxxも単にクローズド・サークルを形成しているだけでなく、もっと積極果敢な(謎?)役割を果たしたりしています。ホラーとミステリの要素を合体させた作品ですから、この両者の合体自体は江戸川乱歩にさかのぼるまでもなく、決してめずらしいわけではありませんが、xxxの発生によりクローズド・サークルを発生させるというのは、管見の限りなかったような気がします。xxxの駆除、というか、撲滅、というか、何というか、については詳細は明らかにされていませんが、クローズド・サークル内の殺人事件の謎解きは本格的なミステリ作品ですし、私から見ればなかなかのミステリに仕上がっている一方で、読み手によっては評価は分かれる可能性があります。特に、キャラの設定が工夫はしているものの、ややありきたりな印象です。アマゾンのレビューでは星5ツから1ツまで、大きく評価が分かれていますが、私はこの本を買って読みましたが、先々週の読書感想文で取り上げた辻村深月『かがみの孤城』と貴志祐介『ミステリークロック』に比べれば、新人作家ながら「買ってよかった感」を強く持ちます。

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最後に、ロナルド A. ノックス/アントニイ・バークリーほか『シャーロック・ホームズの栄冠』(創元推理文庫) です。論創社から2007年に出版されていた同名の単行本が創元推理文庫で昨年に出版されましたので読んでみました。なお、単行本が出版された折に、2007年はホームズ生誕120年であるとされていましたので、昨年2017年は生誕130年、というか、登場から130年なのかもしれません。本書は5部構成となっており、第1部王道篇、第2部もどき篇、第3部語られざる事件篇、第4部対決篇、第5部異色篇です。未訳の短編作品を中心に、まさに、ホームズのパスティーシュといえるものから、ジョークでしかないものまで、ホームズの物語が取り上げられています。必ずしもミステリだけではありません。第1部はジョークもないわけではないものの、文字通りの堂々たるパスティーシュが多く収録されており、第2部はホームズ・ワトソンのコンビになぞらえた推理探偵と語り部のコンビによるミステリが中心となり、第3部では、ドイル著のホームズ小説で事件名のみが取り上げられて、中身の不明な事件について明らかにされており、第4部ではホームズ以外の著名な探偵であるデュパンや007ジェームズ・ボンドとの対決があり、最後の第5部では雑多な短編が収録されています。

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2018年1月20日 (土)

今週の読書は専門の開発経済学をはじめ多岐に渡り大量に計8冊!

先週末に図書館からかなり大量に借りてしまい、今週の読書は開発経済学や日本経済などの高度成長期研究などの私の専門分野、さらに教育や医療といった経済に大きく関連する分野の専門書、さらに直木賞候補に上げられた小説まで含めて、以下の通りの計8冊です。来週はもっとペースダウンしたいと考えています。

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まず、デイビッド・ヒューム『貧しい人を助ける理由』(日本評論社) です。著者は英国マンチェスター大学の開発経済学の研究者であり、邦訳にはJETROアジ研のグループが当たっています。英語の原題は should Rich Nations Help the Poor? であり、著者や私を含む多くの読者は Yes の回答を持っているものと想像しています。原書は2016年の出版です。ということで、本書ではまったく触れられていませんが、英国マンチェスター大学といえば、唯一黒人でノーベル経済学賞を授賞されたアーサー・ルイス卿が米国のプリンストン大学に移る前に在籍し、かの有名な二重経済を論じた "Economic Development with Unlimited Supplies of Labor" はマンチェスター大学の紀要論文として取りまとめられていると私は記憶しています。開発経済学を専門とする私としても、印刷物の実物は見たことがありませんが、何度も論文で引用していたりします。その著者が本書で論ずるに、豊かな国が貧しい人々を助ける理由として2点上げており、第1点目は倫理的な理由です。本書では正義感と表現しているところもあります。いかなる観点からも文句のつけようのない理由です。第2点目が、少し議論が必要かもしれませんが、日本的な表現をすれば「情けは人の為ならず、回り回って自分の為」というような観点ながら、要するに自国ないし自国民のためという理由であり、広く自分のためといいつつも、より正しく表現すれば、共通利益の実現、ということになります。ですから、豊かな国が援助するとしても、いろんな手段があるわけで、無償のヒモ付きですらない援助、償還を前提とする借款、人的な技術援助、そして、市場外の政府間の援助ではなく市場ベースで行われる直接投資や何らかの資本流入、その他、いろいろな先進国や豊かな国からの開発援助や市場ベースの技術や資金の流入があります。その上で、先ほどの共通利益の実現として、典型的には地球環境の保護、不平等の是正などを目指した活動があります。私は、本書では過去のものと見なされている「ビッグ・プッシュ」による開発促進はまだ有効であると考えており、ほかにも、必ずしも「フェア・トレード」を促進することが開発につながるかどうかには疑問を持っていたりします。開発初期には、クズネッツの逆U字カーブを持ち出すまでもなく、また、我が国などの女工哀史のような歴史に言及せずとも、何らかの開発に伴う犠牲は考えられます。こういった私の見方も含めて、開発経済学にはいろんな考えがあるんですが、それらを包含して、幅広い開発への合意形成もこういった著作から目指すのもとても意味あることだと私は思います。


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次に、マイク・レヴィンソン『例外時代』(みすす書房) です。著者はドイツ生まれの英国「エコノミスト」誌の編集者であり、本書の英語の原題は An Extraordinary Time であり、2016年の出版です。本書では、戦後1950-60年代の世界的な高度成長期を例外時代と見なし、現在の低成長の時期こそがノーマル、というか、普通=ordinaryなのだと主張しています。まあ、当然です。戦後の高度成長期に関しては、私も開発経済学の観点から研究対象とし、一昨年に "Japan's High-Growth Postwar Period: The Role of Economic Plans" と題する学術論文を役所の同僚と共著で取りまとめ、昨年には所属学会である国債開発学会の年次大会にて学会発表しています。私の論文は高度成長期における経済計画の重要性に着目した内容ですが、本書でも、第1章の最後の方で経済計画の役割、特に、明記はしていませんが、我が国では通産省の産業政策と経済企画庁の経済計画の組み合わせによる行政指導を含む助言と指導が高度経済成長に大きな役割を果たした点を明らかにしています。ただ、本書では1973年の第1次石油危機により世界的に高度成長が終了したと示唆しており、私の理解とは少し違っています。すなわち、私はこれも役所の同僚、何と、今では日銀政策委員までご出世された先輩との共著で「日本の実質経済成長率は、なぜ1970年代に屈折したのか」 と題する学術論文を取りまとめており、この論文では、1970年代に高度成長を終了させ、その後の成長率を屈折させたものは、石油ショックや技術格差の縮小のような外的な要因ではなく、外的なショックに対して日本経済が反応する力の弱くなったことにある、と結論しています。そして、この論文では定量的な分析は提示できていないものの、アーサー・ルイス卿による二重経済の解消過程における労働力のシフトが高度成長をもたらした、と私は考えています。ですから、高度成長は戦後経済における1回限りの経済現象であったわけです。それは日本に限らず、欧米諸国でも同じことが当てはまります。同じことは本書の著者も理解しているようで、p.304 には、「戦後すぐに生産的な仕事へと移行していた未活用の膨大な労働力は、もうあてにできなかった。」と表現されています。おそらく、中国でも同じことでしょう。

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次に、高田創[編著]『異次元緩和脱出』(日本経済新聞出版社) です。編著者はみずほ総研に3人いるチーフエコノミストの1人であり、著者人はみずほ総研の研究者で固めているようです。本書では、現在の5年近く続いた黒田総裁の下での日銀の異次元緩和の出口について、テーパリングではなく金利引上げの観点から、いくつかのシナリオを考えた上でシミュレーションを行い、異次元緩和の出口戦略の考察を進めています。ということなんですが、出口に達する前に、まず、出口を判定する基準のようなものについて考えており、3つほどのケースを取り上げています。私はその中では、本書でいうところの「OKルール」なんだろうという気がします。すなわち、コアCPIの+2%上昇に達しないながらも、景気も含めて総合的に判断すればデフレを脱却した、という名目の下で出口戦略を開始する、というものです。ただ、本書で触れられていないのは為替に対する影響です。すなわち、私のような単純な頭で考えれば、物価上昇が+2%に達しなければ、もしも、米国や欧州が+2%の物価上昇を達成しているならば、購買力平価の観点から円高に振れかねない、という懸念があったんですが、どうも、米国もユーロ圏欧州も物価上昇率は必ずしも安定的に+2%に達しているわけでもなく、「まあいいか、OKか」という雰囲気が広がるのも理解できるところです。そして、この異次元緩和の出口に対応して、8つのシナリオを本書では用意しています。本書の p.125 に並べられています。債務超過に陥らないように日銀財務の収支を考慮するとともに、金利水準そのものに加えて、イールド・カーブの傾き、すなわち、長短金利差も含めた8つのシナリオです。その上で、日銀財務、政府債務残高と金融機関経営の三位一体の影響をシミュレーションしています。テーパリングではなく金利引上げを出口戦略の主たる対象としてますので、貯蓄投資バランス次第という気もしますが、伝統的な経済学では企業部門は投資超過、家計部門は貯蓄超過、政府と海外は適宜、と考えられている一方で、現時点では、事業会社を中心とする企業部門は、かなりの程度に投資超過を解消しており、貯蓄超過の企業も少なくなく、家計は伝統的に貯蓄超過となっていて、政府部門が大きく投資超過となっています。単純に考えると、金利が上昇すれば投資超過主体から貯蓄超過主体に所得が移転されます。ですから、金利上昇でもっとも大きなダメージを受けるのは、現時点の日本では政府です。そして、金利の絶対水準が上昇すれば、利ザヤを抜きやすくなるという意味で銀行をはじめとする金融機関の経営には朗報といえます。もちろん、本書で用意されたいくつかのシナリオで違いはありますが、基本ラインはこの通りではないかという気がします。そして、そこは金融機関から独立したシンクタンクらしく、というか、何というか、みずほFGのシンクタンクとして本書では金融機関の経営にも目配りし、少なくとも、私のような少数派のエコノミスト以外は多くの見方が一致する可能性のある「永遠のゼロ」は最もリスクが大きい、と結論しています。私は本書で指摘されている「悪い金利上昇」、すなわち、リスク・プレミアムによる金利上昇が最悪のケースではないかと考えていますので、半分とはいわないまでも、いくぶんなりとも金融機関のポジション・トークを本書は含んでいる気はしますが、現在の日銀の異次元緩和の出口戦略を考えるアタマの体操、ということで何らかの参考にはなりそうな気もします。

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次に、エリック・ホブズボーム『いかに世界を変革するか』(作品社) です。著者は著名な英国のマルクス主義歴史学者であり、数年前に亡くなっています。原書の英語タイ トルは "How to Change the World" であり、2010年の出版です。日本語版では解説のたぐいや編集後記などを含めて、ラクに600ページを超える大作に仕上がっています。単純な2部構成となっており、第1部ではマルクスとエンゲルスの人物像を明らかにし、第2部で彼らの思想というか、マルクス主義について考察を進め、最後の方ではマルクス主義の歴史、特に欧州での共産主義の歴史が焦点となっている、という印象です。特に、イタリア共産党のグラムシについて注目しており、その後の欧州におけるユーロコミュニズムの展開や、逆に、ソ連型社会主義の崩壊まで視野に入れて歴史を論じています。そして、ホブズボーム教授によれば20世紀は短いようですので、その対となる21世紀は長そうだ、という予感めいたもので締めくくられています。社会科学の分野におけるマルクス主義の影響については、もっとも影響力が大きかったのは歴史学であり、経済学はマルクス主義に対して「冷淡」と評価されています。私自身はその中間領域、というか、大学生のころは経済史を専攻していて、その後は経済発展の歴史を基に開発経済学を発展途上国や新興国に適用しようとしているわけですが、いずれにせよ、歴史をマルクス主義的に発展論として解釈すれば、本書でも何度か指摘されている通り、アジア的、古典的、封建的、そして近代ブルジョワ的な生産様式となり、その後に、マルクス主義では社会主義と共産主義がやって来る、という歴史観になっています。しかし、少なくとも、暴力革命とか、プロレタリア独裁とか、中央指令経済、とかはかなりの程度に、それこそ「冷淡」にエコノミストから見られていることは確かです。社会運動としてのマルクス主義の歴史としても、戦前期に反ファシズム、反ナチスとしてコミンテルンで統一戦線理論が発展し、戦後は、本書でも指摘されている通り、1970年代にユーロコミュニズムとして、この場合、ユーロコミュニズムには発達した先進国としての日本も含めて、特に大陸欧州で共産党が選挙の場を通じて躍進する時代もありましたが、1980年代の米国のレーガン政権と英国のサッチャー政権を経て、1990年代には大きく退潮していますし、21世紀に入っても飛躍的な復活がなされているとは、少なくとも私は考えていません。資本制生産様式が生産力の桎梏となりつつあるかに見え、いくつかの危機が先進国を襲う中で、かつてのソ連や中国のような暴力革命はもはや考えられませんし、マルクス主義的なプロレタリアート独裁や中央指令経済に代わる何かを提案できる段階にあるとも、私は考えていません。資本主義の次なる時代を残り少ない寿命で私は見ることができるのでしょうか?

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次に、ルーシー・クレハン『日本の15歳はなぜ学力が高いのか?』(早川書房) です。著者は英国の中学校の理科の教師であり、OECDのPISAの結果を受けて、その高スコア国5か国を巡る旅の資金をクラウド・ファンディングで集めて本書を仕上げています。英語の原題は Cleverlands であり、2016年の出版です。東大の苅谷剛彦教授が巻末に解説を寄せています。邦訳タイトルは、不正確であるともいえますが、出版不況の中で売上げを伸ばすための方便と受け止めておきます。ですから、PISA高スコア国5か国のうちに日本を含むのは当然ですが、英国は含まれておらず、日本以外の4国はフィンランド、シンガポール、上海、カナダとなっており、いわゆる西欧諸国は含まれていません。5歳児から学校教育を開始して教育課程の早い段階で分岐させる英国スタイルと違って、7歳児から学校教育を初めてかなり遅い時点まで高等教育と職業訓練の分岐点を設けずに包摂的な教育を特徴とするフィンランド、グループの集団責任や横並びの教育を重視し、フィンランドと同じように15歳時点まで高等教育=大学進学と職業訓練の分岐を設けない日本、12歳の小学校卒業時点でその名も小学校卒業試験(PSLE)という大きな分岐点を設けて競争の激しいシンガポール、しかも、シンガポールでは優生学的に優秀な遺伝子を持つ子供の誕生の促進までやっているそうです。加えて、中国では18歳時点で大学入試統一試験として実施される高考における競争の激しさが特筆され、カナダでは移民も含めた多様性な人口構成が高成績につながるシステムが紹介されます。各国3章が割かれており、計15章あって、冒頭の章に加えて、最後にもコンクルージョンの章を置き、そして、何よりも本書の特徴は最終章でPISAの高スコアの背景で犠牲になったものがあるかどうかを考察していることです。ただ、私がもっと知りたかった点が2点、残された課題があると考えています。すなわち、PISAというのは典型的に認知能力、平たくいえば学力を測定する目的で実施されていますが、非認知能力、例えば、途中で諦めずに粘り強くやり抜く能力、周囲と協調して何かを進める能力、マシュマロ・テストのような我慢強さなどなど、今までは認知能力に資する範囲でしか論じられてきませんでしたが、本書でも非認知能力はそれほど注目していません。そして、エコノミストの関心として教育が生産性に及ぼす影響、すなわち、教育と就業のリンケージです。この2点はもう少し掘り下げた分析が必要かという気がしますが、まあ、本書のスコープ外なんでしょうね。

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次に、武久洋三『こうすれば日本の医療費を半減できる』(中央公論新社) です。著者はリハビリ医であり、リハビリなどの慢性医療系の病院を多数経営する経営者でもあります。本書では一般病院たる急性期病院と慢性期病院を区別し、リハビリ医らしくリハビリにより早期の回復を目指すことにより、高齢化が進むわが国の医療費の軽減を図る方策について検討を加えています。冒頭章では寝たきり高齢者は病院における不適切な食生活や長過ぎる入院期間によって生じるとされ、その代替案として著者の専門領域であるリハビリの重視が提示されます。その後、厚生労働省などによる不適切なインセンティブ付与などにより病院経営が歪められ、入院期間の長期化や過剰な投薬、あるいは、ベッドでの安静の強要などが、かえって寝たきり高齢者の増加を招いている実態が明らかにされます。残りは、ご高齢のリハビリ医ですので、自慢話やリハビリ中華思想、あるいは、リハビリ帝国主義の開陳に終わっている部分も少なくないんですが、足腰が立たなくなって車椅子生活になっても、自己嚥下による食生活の充実と下の世話にならない排泄の自己処理の重要性については、高齢者の入り口である還暦を迎える身として大いに同意するところがありました。何か別の本で読んだ記憶がありますが、地下鉄や電車に乗っていると、「お客様ご案内中です」という、いかにも車椅子乗車の補助をしたことを自慢するかのようなアナウンスを聞く場合がありますが、車椅子の補助は駅員さんが喜んでやってくれる一方で、トイレに連れて行って下の世話をしてくれるかどうかは不安が残ります。ですから、とても共感できる部分がありました。また、自力か車椅子かは問わずに、出歩けるかどうかについて、私はこの2~3年位前から、特に自転車でできる限り出歩くようにしています。その昔のステレオ・タイプのテレビドラマなんぞで、年寄りが元気なころは自宅でゴロゴロしている一方で、車椅子生活になった途端に××に行きたいといい出した挙句に、車椅子を押してくれない家族に冷たく当たる、といったシーンが思い出されて、その逆をする、すなわち、出歩けるうちに自力で出歩いておいて、足腰が不自由になれば自宅でごろごろする、というのを実践すべく予定しています。もっとも、予定はあくまで予定なので、そのとおりに実行できるかどうかは不明だったりします。

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次に、柚木麻子『BUTTER』(新潮社) です。直木賞候補作に上げられましたが、惜しくも受賞は逃しました。実は、まったくの根拠ない直感で、この作品が直木賞を受賞するような気がしたので延々と待つのを覚悟の上で図書館に予約しましたが、読んでみて、『月の満ち欠け』のような完成度はないと実感させられました。結婚詐欺の末に男性3人を殺害したとされる容疑者、というか、すでに裁判になっていて地裁段階の一審判決は出ているので、被告、というべきかという気もしますが、この取材対象者に対して、30代女性の週刊誌記者が拘置所に通ってインタビューにこぎつけながら、取材を重ねるうちに欲望と快楽に忠実な被告の言動に翻弄されるようになって、結局、他社のアテ取材にされてしまって、記事が捏造に近い扱いを受けて、記者としての生命を絶たれ、友人との関係も一時的ながらマズくなる、というストーリーであり、題材は10年近く前の木嶋佳苗事件ではないかと思われます。その取材対象の被告の最大の結婚詐欺の武器だったものが料理であり、特に、フランス料理系のバターを多用する料理、しかも、取材対象者の新潟の郷里の近所に住む幼なじみが酪農を営み、濃厚な乳製品を小さいころから愛用していた、というのがタイトルになっているようです。『小説 新潮』の連載が単行本として出版されています。ということで、かなりしっかりした長編小説であって、女性心理を主人公と取材対象者はいうまでもなく、主人公周辺の母親、大学の同級生、職場の新入社員、などなどのさまざまに異なるキャラクターから描写し、もちろん、正常な女性心理とともに犯罪者の女性心理も余すところなく取り上げています。同時に、大学時代の友人夫婦の不妊治療などを題材にして、男女間の昔ながらの役割分担、特に、家庭内の専業主婦の役割観、若い女性の体型に対する厳しい見方、身長は努力でどうにかできる範囲が小さいのに対して、体重や体型は努力の余地が大きいことから、そういった努力不足に対する非難めいた見方など、特に、そういった見方が若い女性に集中する社会的な風潮などについても、決してそれが犯罪の情状材料になることはないとしても、そういった社会的な歪みをそれなりに違和感を持って描き出しています。ただ、れっきとした犯罪行為に対する倫理観というものが、私の見方からすればやや不満が残りました。同様に批判されるべき行為だとしても、犯罪とギリギリであっても犯罪でない行為には、もちろん、思想信条の自由から思考として持っている場合はいうに及ばず、社会的に許容する範囲は違う、と私は考えています。論評ではなく小説ですので、それはそれなりに解釈すべきですが、私の見方からすれば、やや得点を落とした気がします。逆に、なかなかのボリュームの長編でありながら、行きつくヒマもなく読み切らせる構成力と表現力は、小説家としての力量を感じさせます。

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最後に、滝田洋一『今そこにあるバブル』(日経プレミアシリーズ) です。著者は為替関連の著作も少なくない日経新聞のジャーナリストです。ということで、冒頭から1980年代終わりにバブル経済期を思わせる六本木でのタクシー乗車のシーンなどから始まり、日米欧の先進各国の金融当局による大規模な金融緩和に伴って、いわゆるカネ余りで資産価格の上昇が生じているように見えるいくつかのシーンをトピック的に紹介しています。その中心はREITであり、バブル経済期の土地神話を思い起こさせますが、本書の著者も認めているように不動産価格の高騰は今のところ生じている気配はありません。むしろ、すでに落ちてしまいましたが仮想通貨の高騰は、本書が出版された昨年2017年年央には見られていたかもしれません。本書では金融政策に対して、それなりにバブル警戒の視点を持ちつつも、同時に、翁教授を名指しで批判し、リーマン・ショック後の大きな景気後退期にイノベーションによる経済成長なんて非現実な対応を否定的に紹介しています。ただし、私のようなリフレ派の官庁エコノミストから見れば、なかなかにナローパスの経済政策運営を強いられている印象があり、現状の潜在成長率を少し超えたくらいの+1%少々の経済成長では物足りない感が広くメディアなどで表明され、同時に、不平等感の上昇もあって、国民の間で景気拡大の実感が乏しいとも聞き及ぶ一方で、本書のようにバブル警戒の意見もあるとすれば、一体全体、国民の経済政策運営のコンセンサスがどのあたりにあるのか、まったく視界不良に陥ってしまいます。もっと成長率を高くし、景気拡大の実感を強める方向の意見がある一方で、そろそろ引き締めを視野に入れた政策運営が求められるとすれば、方向感覚としては大きな矛盾を抱えることになります。中央銀行たる日銀は物価上昇をターゲットに、おそらく、景気循環の1循環くらいの時間軸で金融政策運営を行っているのに対して、政府の経済政策のスタンスはもっと長期の視野を持っています。教育なんぞで「国家100年の大計」とまではいいませんが、景気循環の秋季を超えたもう少し中長期的な経済政策のあり方を模索するわけですが、いろんなご意見を聞くうちに混乱しそうで少し怖い気がします。

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2018年1月14日 (日)

先週の読書は大量に読んで計7冊!

先週の読書は私のとっても気にしている子供の問題に関する専門書をはじめ、京都本も含めて計7冊です。昨日、自転車で近隣の図書館を回って予約の本を回収に当たったんですが、今週の読書も1日1冊のペースくらいで、どうも大量になりそうな予感です。そのうちに、ペースダウンしたいと思います。

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まず、末冨芳[編著]『子どもの貧困対策と教育支援』(明石書店) です。編著者は日大勤務の研究者であり、京都大学教育学部の出身ですから、たぶん、教育関係がご専門だと受け止めています。本書は、研究者と実務者の合計十数名からなる執筆陣により、タイトルの通り、子どもの貧困に対する対応策としての教育支援をテーマに議論を展開しています。2部構成であり、第1部が教育支援の制度・政策分析をテーマとし、主として研究者の執筆によっており、第2部では当事者へのアプローチから考える教育支援をテーマとして取り上げ、主として実務者の視点から議論しています。どうしても第1部と第2部で差があって、第2部は物足りない、というか、やや視野の狭さを感じてしまうんですが、それはそれで、現場の実情を把握するという意味もあるような気がします。ということで、我が国に置いてはいっわゆるシルバー民主主義のために、社会福祉の財政リソースが大きく高齢者や引退世代に偏っており、家族や子供に対する社会福祉の政策がそのしわ寄せを受けているのは広く知られています。特に、子どもの貧困については親の責任のように主張されることも少なくなく、高齢世代への手厚い社会保障給付の言い訳にされたりしています。私の従来の主張ですが、平均余命を考えても考えなくても、貧困な高齢者は社会保障で支援されても10年後も貧困な高齢者のままである可能性が高いのに対して、貧困な子どもはしっかりと支援すれば10年後は納税者になることができます。本書では生活面というよりは、学習面、特に学校に子どもたちを包摂する先進的な事例や最新の取組みも紹介し、子どもの貧困に関する多角的な視点を提供してくれています。最後に、日経新聞に掲載された斯界の権威である阿部彩教授による本書の書評へのリンクを置いておきます。

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次に、デヴィッド・ハーヴェイ『資本主義の終焉』(作品社) です。著者は英国生まれで米英の大学で研究者をしていた地理学者なんですが、明確にマルクス主義に基づく研究を行っています。2008年には『資本論』の講義の動画がアップされ、世界中からアクセスが殺到したと記憶しています。なお、私は2012年のゴールデンウィークに同じ出版社から邦訳が出ている『資本の<謎>』を読んで、このブログに読書感想文らしきものをアップしています。ということで、かなりしっかりしたマルクス主義経済学による現在の資本主義の分析といえます。3部構成となっており、第1部が資本の基本的な矛盾、第2部が運動する資本の矛盾、第3部が資本にとって危険な矛盾、とそれぞれ題されています。見ても明らかな通り、「矛盾」がキーワードとなっており、本書の冒頭でマルクス主義的な矛盾や物心論に関する簡単な解説がなされています。そして、私にとって感激的であったのは、フランス的なポスト構造主義が階級構造の分析を避けているとして批判されている点です。ソーカル事件を持ち出すまでもないでしょう。ただ、矛盾をキーワードとし資本の運動をひも解こうとしているんですから、マルクス主義経済学の視点から何が最大の矛盾であるかについては指摘が欲しかった気がします。すなわち、マルクス主義的な唯物史観において最大の矛盾とは、生産様式が生産力の桎梏、ないし、制約条件となる、というのが最大の矛盾と私は考えています。奴隷制から農奴による封建制へ、さらに、資本制へと生産様式を進化させてきたのは、それぞれの生産様式が生産力を制約するようになったからであり、その意味で、さらに生産力を資本制の制約から解き放つのが次の段階と考えるべきです。そして、その段階は19世紀的には社会主義ないし共産主義であろうと想定されてきたんですが、ソ連型社会主義の崩壊から生産手段の国有化と市場ではない中央司令型の資源配分による計画経済は資本主義の次の段階としては想定されなくなりました。マルクスやレーニンなどの想定ではなく、何らかの新しい生産様式が必要とされ、その生産様式を下部構造とする上部構造のあり方が議論される必要があります。私ごときでは計り知れない未来が待っていると期待しています。

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次に、永江朗『ときどき、京都人。』(徳間書店) です。著者は編集者であり、東京と京都の両方にお住まいを持つお金持ちのようです。ただ、ご出身はどちらなのか、明記はされていませんが、何かで旭川出身との略歴を見た記憶があります。ということで、上の表紙画像に見える副題に「二都の生活」とありますが、本書の中身に東京はまったくといっていいほどかんけいしません。すべて京都だけの「一都物語」と考えるべきです。ただ淡々と京都の生活を追っているだけです。ですから、私が昨年12月に京都を訪れた際に気づいた東京の警視庁管内の自転車ナビマークと京都の府警管内のナビラインの違いについても、後者の写真が掲載されているにも関わらず、東京と京都の比較、というか、違いには一切触れられず、ひたすら京都事情だけに特化しています。それだけに、逆に、京都に関する記述は正確で豊富な内容を含んでいたりします。私も本書の著者とほど同様に今年還暦なんですが、人生の前半を京都で過ごし、後半は東京住まいです。ですから、35年以上も前の京都にしか住んだことがなく、本書絵及んで京都市動物園がリニューアルしたことを知ったりしています。年に何冊かは京都本を読んで京都に関する知識をアップデートしているつもりですが、なかなか追いつきません。昨年2017年は学会出席のついでと京大の恩師の偲ぶ会で2度上京しましたが、それくらいでは不足なんでしょう。最後に、本書を読んだ感想を2点だけ上げると、著者の京都通の度合いが本書執筆の間にも上昇しているのが手に取るように理解できます。例えば、前半では京都のお住いの近くらしいものの、「荒神口橋」なる珍妙な橋の名が出てきますが、終わり近くには正確に「荒神橋」と訂正されています。もう1点は京都の南が苦手そうだという点です。伏見こそ取り上げられていますが、天神さんの蚤の市は本書に収録されていても、東寺で開催されている弘法さんはご存じないようです。私自身は伏見で生まれて、宇治で育っていますので、鄙なる土地の洛外育ちで、中学高校と奈良の学校に通っていましたので南の方に親しみがあります。最後の最後に、本書でも触れられている井上先生の『京都ぎらい』には七条は「ひちじょう」である、と出て来ますが、本書では質屋の話題があり、京都人は「ひちや」と読みますし、少なくとも私の小学生くらいまでは質屋ののれんに平仮名で「ひちや」と書いてあるお店があったと記憶しています。何ら、ご参考まで。

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次に、辻村深月『かがみの孤城』(ポプラ社) です。何かのメディアで、『スロウハイツの神様』を超えた辻村深月の最高傑作、のように評価されていたので買ってみましたが、出版社の宣伝文句に踊らされただけなのか、やや物足りない思いをしました。私の感想としては、辻村作品をすべて読んでいるわけではありませんが、やっぱり『スロウハイツの神様』が現時点での最高傑作だと考えます。そして、それに次ぐのは『冷たい校舎の時は止まる』とか、『凍りのくじら』などの高校生から大学生にかけての青春小説だと思っています。もちろん、もっと小さい子が主人公ながら『ぼくのメジャースプーン』が捨てがたいのは理解しています。ということで、この作品では中学生が主人公です。そして、主人公の女子中学生と同じように、学校に行けない、というか、一般用語の不登校とは少し違うものの、要するに中学校に行けない子供達が鏡を通して移動して集まる、というストーリーです。私のような年齢に達した人間からすれば、不登校っぽく中学校に行っていない少年少女を主人公にしているだけで、少しばかり理解が届かなさそうな気もしますし、パラレル・ワールドでなくて、中学生たちの集められ方も不自然ですし、オオカミさまの正体や喜多嶋先生の実像などについても、なかなかよく考えられているとはいえ、ここまで作為的な構成やキャラの配置をしてしまうと、両極端の反応を生みそうな気がします。ものすごく感情移入が進んで感激して読むファンと、私のように辻村作品のファンでありながら物足りなさや違和感を覚える読者です。平たくいえば、当たり外れが大きい作品だと思いますし、それだけ何かを賭けているようにも感じなくもありません。デビュー作の『冷たい校舎の時は止まる』のように超常現象を盛り込んだファンタジーなんですが、不自然の度合いが大き過ぎるような気がします。この内容であれば、買うんではなくて順番待ちをしてでも借りておいた方がよかった気がします。期待が大きかっただけに、少し残念な読書でした。

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次に、貴志祐介『ミステリークロック』(角川書店) です。作者はなかなか売れているホラーやミステリの作家なんですが、我が母校の京都大学経済学部で私の後輩だったりします。それはさて置き、この作品は防犯探偵・榎本径のシリーズの最新中短篇集です。収録されているのは、「ゆるやかな自殺」、「鏡の国の殺人」、表題作の「ミステリークロック」、「コロッサスの鉤爪」の4作品であり、最初の短篇を除いて、残りの3作品は弁護士の青砥純子の視点からの記述となっています。すなわち、青砥弁護士がワトスン役を演じているわけです。ということで、まあまあの密室ミステリといえますが、実は、この作品も直前に取り上げた辻村深月『かがみの孤城』と同じく、借りたのではなく買いましたので、その意味では、少し物足りなかった気がします。特に、東野圭吾のガリレオのシリーズですっかり崩壊したノックスの十戒のうちの、一般にはそれほど理解されていない難解な科学的知識を要求する謎解きがいくつか含まれます。冒頭の短篇「ゆるやかな自殺」が飛び抜けて短いんですが、私は明らかに何かのアンソロジーで読んだ記憶があり、ミステリ作品の出来としては本書の中で最高です。この作品を読む限り、密室のトリックについては、この作家は限界という気がします。ですから、この榎本シリーズも最後に近づいているように思えてなりません。何だか、ミステリの謎解きというよりも、青砥弁護士のオチャメな仮説提示を笑い飛ばすコメディ小説のような気すらします。それなりに、榎本と青砥弁護士のかけ合いは小説としても楽しめるかもしれません。青砥弁護士はどんどんおバカになっていくような雰囲気で、私の記憶が正しければ、テレビドラマでは戸田恵梨香が配されていたわけですから、それはそれで合っているのかもしれませんが、弁護士なんですから、ペリー・メイスンのように、とまではいわないとしても、もう少し考えた方がいいように受け止めています。最後の最後に、どうでもいいことながら、一般の普通名詞のミステリー・クロックは、私はカルティエの時計しか見たことがないんですが、とても不思議なものです。ムーブメントなどの本体は下の土台部分に隠されているんでしょうが、どうやって針が、特に短針が動いているのか、文系の私にはまるで謎だったりします。

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次に、森博嗣『ダマシ×ダマシ』(講談社ノベルス) です。著者はご存じの新本格派のミステリ作家です。もっとも、新本格派は京都や大阪が拠点だと私は勝手に思っているんですが、この作品の作者は名古屋です。『イナイ×イナイ』、『キラレ×キラレ』、『タカイ×タカイ』、『ムカシ×ムカシ』、『サイタ×サイタ』と続いてきたXシリーズの第6話にして最終話になります。シリーズの主人公は本書でも小川令子という探偵社勤務の30代の女性探偵です。そして、この作品は結婚詐欺のお話です。で、今回のエピグラフがマインドコントロールについてみたいなことで、そこに書かれていることや作品に書かれていることから、人の心は難しいもので、どうしてもそうなっちゃうところはあるよね、とか、一般論ではなく結婚詐欺のお話に絞れば、他の人は騙されたけど、もちろん、私も騙されたけど、でもちょっぴり、あの人はまだ私を想ってくれていたかもしれない、みたいな話が書かれていて、私自身はバカなんじゃないの、と思ったりしつつも、女心の理解しがたさを思い浮かべたりしていました。シリーズ最終話ですから、いろいろとかっきてきなしんてんもあります、すなわち、椙田は小川に事務所を譲りますし、探偵社のアルバイトの留年大学生だった真鍋瞬市は大学を中退して、めでたくも就職し、そして、一足早く就職していた永田絵里子と結婚する予定です。オールスター・キャストで西之園萌絵も意味なく登場したりします。私はこの冊書の主要なミステリはすべて読んでいるつもりなんですが、こういったシリーズ最終話の終わり方は初めてではないかという気もします。もっとも、私のことですから忘れているだけかもしれません。


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最後に、伊藤公一朗『データ分析の力』(光文社新書) です。著者は米国シカゴ大学に勤務する研究者であり、副題は『因果関係に迫る思考法』となっています。本書はサントリー文藝賞を授賞されています。以前にこの読書感想文のブログでも取り上げた中室牧子・津川友介『「原因と結果」の経済学』と重複しますが、因果関係について今さら、という気もしつつ読み進みました。もちろん、因果関係を考える上でとてもよい入門書なんですが、本書の読者のレベルを考えてか、操作変数法が取り上げられていないのはまあいいとしても、2点だけ補足しておきたい事実があります。まず、ビッグデータの時代にあっては因果関係よりも相関関係が重視される可能性が高いという事実です。詳しくは、例えば、 ビクター・マイヤー=ショーンベルガー/ケネス・クキエによる『ビッグデータの正体』などに譲りますが、悉皆調査に近いビッグデータの分析では相関関係で十分、というのも考えられます。もちろん、そうでなく、やっぱり、因果関係が重要、という説が成り立つこともあり得て、例えば、薬効や医学治療では相関関係では許されない場合も考えられますが、政策分析やマーケティング調査くらいでは相関関係で十分な気もします。もうひとつは、対象者の独立性についてもう少し詳細に検討して欲しい気がします。最後の付録には少しだけ触れられているんですが、例えば、マーケティングのシーンでは、カスケード現象やバンドワゴン的な大流行を引き起こそうとしている場合もあるわけで、マーケティングでは消費者間の影響力も無視しえない、特に、SNSでの拡散を視野に入れると、対象者間の独立性がどこまで確保されるかは疑問ですし、独立でなくして大流行を狙う、というマーケティングもありだという気がします。

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2018年1月 6日 (土)

年末年始の読書は新本格派の二階堂黎人作品を読む!

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すでに、昨年2017年12月29日付けの読書感想文のブログで明らかにしておいた通り、この年末年始の読書はポプラ文庫から出版されている江戸川乱歩の少年探偵団シリーズ全26巻を読もうと決めていたところ、11月ころから早めに読み始めてしまったために、年末年始休みを待たずに読み切ってしまい、結局、ギネス級で世界最長の推理小説とも称される二階堂黎人の『人狼城の恐怖』全4巻、文庫本で2700ページほどの大作を読むこととし、1日1~2冊の予定で12月30日から読み始めましたが、やっぱり、というか、何というか、12月31日の大晦日で読み切ってしまいました。仕方がないので、半ば予想して借りておいた二階堂黎人作品のうち、二階堂蘭子シリーズの続編である『悪魔のラビリンス』と『魔術王事件』も続けて読みました。さらに、その後に続く『双面獣事件』以降については手配がかなわず、図書館の方が年末年始休みに入ってしまいました。
ということで、『人狼城の恐怖』は、第1部ドイツ編、第2部フランス編、第3部探偵編、第4部完結編から成る超大作なんですが、当然のように大量の殺人事件が起こります。2ダースくらいの人が殺されます。そして、私はその殺人事件について細かくチェックはしていませんが、おそらく、新本格派らしく論理的に解決されます。たぶん、ノックスの十戒とか、ヴァン・ダインの20則に則ったミステリなんだろうと思いますが、最後の最後に、この作者の作品らしくオカルト落ちのようなパートがあったりします。そして、その後の作品である『悪魔のラビリンス』と『魔術王事件』は、実は、発表順はこの通りなんですが、作品中の時系列では『人狼城の恐怖』の前に起こった事件という位置づけです。そして、ホームズにたいするモリアティ教授のように、二階堂蘭子が相手にするのは魔王ラビリンスと名乗る怪人、ということになります。しかしながら、魔王ラビリンスとの対決シリーズに入る前の作品の方が、私は好感を持てた気がします。というのは、魔王ラビリンスが起こすのはものすごく残忍な殺人事件であり、犠牲者も大量に上るからです。でも、もう少し読み進もうと思います。

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2017年12月30日 (土)

今週の読書はいろいろ読んで計6冊!

恒例の土曜日の読書感想文のブログも、今回が今年の最終回です。経済書はあまり読まなかったんですが、以下の通りの計6冊です。今日から年末年始休みの読書として、修正後の予定通り、二階堂黎人の『人狼城の恐怖』を読み始めました。

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まず、アル・ラマダンほか『カテゴリーキング』(集英社) です。著者はコンサルタント会社の3人とジャーナリスト1人の計4人で、私のような単純な考えをもってすれば、コンサル会社の幹部3人がてんでバラバラにしゃべった内容をジャーナリストが上手に文章に取りまとめたんではないかという気がします。コンサル会社の名称が Play Bigger らしく、英語の原題はこの会社名の Play Bigger となっています。出版は2016年です。いろんな表現は自由ながら、経済学に根差した私の解釈によれば、シュンペーター的なイノベーションのうちの新製品のイノベーションをプレイアップし、そこから新たなカテゴリーを生ぜしめ、要するに独占利益を享受せよ、ということになります。イノベーションに関する経営学の指南書は大体そういったものだという気がします。フォードの言葉を借りれば、顧客の声を聞くと「もっと速い馬が欲しい」ということになって、better を追及することになる一方で、different である新たなカテゴリーを生み出すべく自動車を考案するのがイノベーション、ということになります。そして、私が常々不思議に思っているのは、本書で取り上げられているような Facebook や Google や Airbnb といった成功した企業の裏側に、どれくらいの失敗企業が存在するか、ということなんですが、本書では赤裸々に、2000年から2015年まで創業した数千のスタートアップを著者らのコンサル会社は分析した中で、そこから35のカテゴリーキングを見出したということのようです。0.5%とか、そんなもんでしょうか。そして、p.120 にある三角形のプロダクトデザイン、企業デザイン、カテゴリーデザインの3点の重要性を強調しています。私の下種の勘繰りですが、申し分なくこれら3点を重視しながら失敗したスタートアップが大量に存在する気がします。イノベーションを人為的に作り出すことが不可能とは思いませんが、本書のレベルで Facebook や Google や Airbnb といった成功企業がポンポンと飛び出すとは、私にはとても思えません。

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次に、宮本太郎[編著]『転げ落ちない社会』(勁草書房) です。編著者は格差や不平等、あるいは、貧困問題などについて発言の多い政治学の研究者です。本書はリベラルな立場から貧困や不平等の問題について論じていますが、論点はいくつかあって、貧困層に対する社会政策としての選別主義を取るか、国民一般に対する社会保障としての普遍主義を取るか、がまずあります。本書でも指摘している通り、最近の傾向としてアングロサクソン的な選別主義よりも北欧的な普遍主義が志向される場合が多いのは確かなんですが、その普遍主義の極みであるベーシック・インカムについては、本書では最後の鼎談で少し話題として出ているだけで、ほぼほぼ無視しているような気がします。人工知能(AI)やロボットの台頭と人間労働への大体がアジェンダに上ってきている段階ですので、ここはもう少し着眼点を考えて欲しかった気がします。また、日本的な社会保障政策については、もっと包括的な見方が必要です。すなわち、我が国では、4人家族の核家族をモデルケースとして考え、父親=夫が一家の大黒柱として正社員勤務で無限定に会社のために働いて一家4人を養う給料を得る一方で、子どもや往々にして別居している老親の介護などがインフォーマルに母親=妻に委ねられる、というかたちで社会保障と労働政策が相互に補完する政策体型を取ってきています。それが、最近時点では高度成長の終焉から続く日本的雇用慣行の崩壊の中で、非正規雇用の拡大が見られることから、父親=夫が一家を養うに足るお給料を得ることが難しくなり、さらに、労働力不足の現状もあって、母親=妻も働きに出たり、あるいは、そのために子供の保育や老親の介護についてはインフォーマルに家庭内で完結するのではなく、社会的に何らかの施設で行う必要が出たりするわけです。ですから、政府においても労働省と厚生省を一体化させて施策を検討したりしているわけで、研究者の側でも包括的な解決策の提示が求められるような気がします。加えて、コトは私のようなエコノミストの考える経済学の範囲でとどまるわけもなく、例えば、我が国の痛税感については徴収した税金を社会保障で普遍的に国民に還元するのではなく、選別主義的に還元したり、あるいは、公共事業で土建国家のように還元したりすることが要因との分析もありますが、こういった社会保障を取り巻く国民文化の問題も同時に解決すべき課題ではなかろうか、という気がします。

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次に、木下光生『貧困と自己責任の近世日本史』(人文書院) です。著者は日本近世史の研究者なんですが、本書のあとがきで論文査読者をジャッジと記すなど、大丈夫なのか、と心配になるレベルのような気もします。なお、私は査読論文は1本しかない不勉強なエコノミストですが、査読者は通常はレフェリーといわれるものと理解しています。ということで、おそらく学術書ながらやや不安含みで読み進みましたが、まずまずの貧困史の出来ではないかという気もします。でも、一部に史料の独断的な解釈もあって、私は同意しかねる点もありました。本書の特に冒頭部分は奈良県の片岡彦左衛門家文書を史料とし、かなり綿密に世帯ごとの所得と支出を推計しています。第2章の最後に置かれた作物の出来高を中心とする40ページほどの表は、読み飛ばす読者も多いものと私は想像しますが、しっかりと読むべき部分です。というか、本書の中心をなす部分であると考えるべきです。その結果として、本書の著者は、赤字世帯の原因は租税の重さなどではなく、主食食糧への支出と消費活動を営むための支出であり、それなりの水準の消費活動の必要があった背景を解き明かしています。ただ、本書本来の貧困研究としては、貧困ラインの設定、計測をいとも簡単に諦めたのは、研究者としての姿勢が疑われます。経済学的に、貧困指標は山ほど提唱されており、私も地方大学出向時に紀要論文として取りまとめた経験があります。学際的に経済学と歴史学の文献をキチンとサーベイすべきではないかという気がしました。単に、今までの歴史学研究で格差指標とされてきた石高や持高に対して否定的な見解を述べるにとどまっているのは残念としかいいようがありません。さらに、貧困救済に際して、その後の返済を必要とする貸付やそれなりの対価を要求される安値販売に対して、対価なしの施しについてはかなり厳しい制限が課される、というのは常識的に理解できるとしても、制限を課される救貧行為とそうでないものの線引を明らかにした上で、その差の原因や要因を何らかの方法で探ることも必要かと思います。違いがあれば、もちろん、その違いの存在自体が発見として意義あることは認めるものの、さらに、歴史的に発生とその後の消長を探るだけでなく、社会的なバックグラウンド、そして、その歴史的な意味を明らかにすることが求められる可能性は認識しておくべきです。貧困シ研究は我が国でも、イングランドやドイツなどの他の先進国などでもそれなりの研究の蓄積があることから、単に新発見の史料に基づく定量的な把握だけでなく、もう少し突っ込んだ分析的な視点も必要ではないかと思います。

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次に、クリストフ・ガルファール『138億年宇宙の旅』(早川書房) です。著者はフランス人のサイエンス・ライターであり、英国ケンブリッジ大学にてホーキング教授の指導により博士号の学位を取得しています。約100年前の1915年のアインシュタイン博士の相対性理論などから始まって、最新の重力波やマルチユニバース理論などまで、幅広く宇宙に関する物理学を解説しています。まあ、私のような専門外のエコノミストには判る部分と判らない部分があるのは当然としても、文語体ではなく口語体で平易な語り口により解説してもらうと、何とはなしに判ったつもりになるのは不思議なものです。読者がイメージしやすいような語り口というのは、書き手がホントの意味で十全な理解に達していないと難しい気がしますが、それだけ練達のライターなのだろうと思います。私のイメージではフランス人というのは、経済学の分野も典型的にそうなんですが、やたらと哲学的に考えようとするきらいがあり、私は苦手だと思っていたところ、本書ではそんなに、というか、まったく哲学的な志向はなく、よく訳の判った大人が子供の読者に語りかけるような内容で宇宙について論じています。もちろん、シュレディンガーの猫とか、得体の知れないダークマターやダークエネルギーなど、経済学と違って、なんとも解説のしがたいいろんな有象無象が物理学にはありそうな気がするんですが、割合とスンナリ受け入れられそうな論点を中心に、幅広い解説を心がけているような気がします。ガチガチに実利を追求するような錯覚を持たれている経済学に対して、ロマンを感じさせる宇宙物理学の中で、重力と時空の関係を実用的に利用しているのがGPSなんですが、本書でもGPSニツイテハ「チラリと触れている一方で、物理学の中でも特に最先端であるがゆえに理解不能な量子物理学を応用した量子コンピュータなんてのの解説も欲しかった気がします。ついでながら、本書の著者の指導教員であるホーキング教授のブラックホールの蒸発に関する『ネイチャー』の論文へのリンクは以下の通りです。

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次に、ティム・スペクター『ダイエットの科学』(白揚社) です。著者は英国の医師・医学研究者であり、双子の研究で有名です。英語の原題は The Diet Myth であり、2015年の出版です。私は今までダイエットらしいダイエットをしたこともなく、来年の還暦を前に何とかBMIで23を少し下回る体重をキープしています。本書では、そもそもダイエットに関する疑問を表明しつつ、科学の立場からダイエットにまつわるいくつかのテーマの真偽を著者なりに明らかにしています。そして、著者の結論は、というと、万人に適用可能なダイエット方法なんてものはありえない、という点に尽きます。すなわち、カロリーの収支すら体重への影響を否定しているに近い印象です。要するに人によって違うということです。でも、いくつか注意すべきポイントはあり、やっぱり、砂糖の取り過ぎはよくないようです。ジャンクフードは肥満や体重過多につながります。このあたりは常識なんですが、「判っちゃいるけど止められない」の世界なんだという気がします。他方、カロリー収支をはじめとして疑問を呈されたり、実証的なエビデンスはないとされたり、あるいは、ハッキリと否定されたりしたものの中で、私の印象に残っているのもいくつかあります。何よりも、朝食を抜くことはそれほど悪いわけではないという著者の主張には少し驚かされました。実は、私は今年に入って、というか、昨年くらいから仕事が忙しくなってしまった際には、昼食を抜くことが少なくなく、週に1回や2回はあります。朝食ではなく昼食だから、まあ、いいんだろうと思いつつ、1日3食をきちんと食べることの重要性も同時に頭をかすめますが、本書の著者は、適当に食事の間隔を開けることは決して悪くない、と主張しています。そして、「朝食は必須という定説もやはり、ダイエットの神話として葬り去るべきだということだ」との意見です。ほかは、まあ、そうだろうな、という常識的な結論だったような気がします。繰り返しになりますが、砂糖の摂取過多、あるいは、ジャンクフードが肥満につながりやすく健康によくないのは常識でしょうし、スーパーフードは「詐欺同然のマーケティング」と切り捨てています。ビタミンのサプリメントも効果は疑問、というか、ビタミンに限らず、チビチビと摂取していたものを、1日の必要量の半分くらいを一気にサプリメントのカプセルや錠剤で飲み込んだところで、体が適切に反応して吸収できるかどうかは、専門外の私でも疑問に思います。ですので、私も貧血でしたので鉄分のサプリメントを取っていた時期があるんですが、今は止めてしまいました。糖質を制限して肉食中心の食事にするパレオ・ダイエットについても、いかにも米国人が好きそうなんですが、怪しげであることは常識的に理解できます。最後に、痩せていて運動しない人と、太っていて定期的に運動する人とでは、後者の方が健康である、と結論しています。私も定期的な運動を心がけたいと思います。

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最後に、奥野修司・徳山大樹『怖い中国食品、不気味なアメリカ食品』(講談社文庫) です。著者はジャーナリストであり、週刊「文芸春秋」に2013-14年に掲載された記事を収録しています。特に、隣国の中国と対米従属のもとになっている食糧につき米国、ということで2国に的を絞って、食の安全について問うています。特に、中国については前近代的な衛生管理、食品製造に関する倫理観の欠如、果てしないインチキの系譜、などなど、とてもまともに輸入食品を作れる国ではないと実感しました。本書では明示的には取り上げていませんが、いわゆるサプライ・チェーンが長く複雑になり、我々が口にする食品がどこでどうして作られているのかが、必ずしも明確でなくなっています。実は、私自身はもう還暦を迎えることもあって、食の安全製に関してはかなり無頓着になって来つつあるんですが、本書でも指摘しているように、学校給食で中国由来の食品をコスト安であるという理由だけで用いるのは、とても不安です。私のように老い先短い人間は何を食べても、例えば、30年先にガンになるとしても、ほとんど影響ないんですが、小学生はそういうわけにはいきません。そうでなくても少子化が進む我が国で、子供達の食の安全について深く考えさせられる1冊でした。

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2017年12月29日 (金)

年末年始の読書の予定を修正する!

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昨日のご用納めの後、今日から年末年始休みに入りますが、何かのついでに、この年末年始は江戸川乱歩の少年探偵団シリーズを読みたいと書いた記憶があります。でも、ポプラ社のサイトから引用した上の画像に見られる通り、何と、26冊もありますので、ボチボチ11月くらいから読み始めていたところ、少し前に読み終わってしまいました。何といっても、面白いです。小学生くらいのころに読んだ記憶がかすかに残っているものもあり、しかも、200~300ページ位の文庫本ながら、まあ、私くらいの読書家なら1時間足らずで読み上げてしまいます。週末の土日に別の読書をしながらも、この少年探偵団のシリーズを4~5冊読んだ時もあり、年末年始休みに入る前に読み切ってしまいました。
なんとも計画的、というか、計画性がない、というか、でした。仕方がないので、この年末年始休みには、京都大学ミス研の綾辻行人や法月綸太郎などと同じカテゴリである新本格派の二階堂黎人作品のうち、二階堂蘭子が活躍する超長編の『人狼城の恐怖』を読むべく、近隣の図書館から手配しました。一部には、ギネス級の世界で最も長い推理小説とみなされている作品です。4部4分冊から成り、それぞれが文庫本ながら500ページを大きく超える超大作で、文庫本ベースで2500ページを大きく超えます。私は、二階堂蘭子シリーズのうち、この『人狼城の恐怖』の前の長編の4冊、すなわち、『地獄の奇術師』、第1回鮎川哲也賞受賞作品『吸血の家』、『聖アウスラ修道院の惨劇』、『悪霊の館』まではすでに読んでいます。たぶん、1日1冊か場合によっては1日2冊のペースで考えていますので、明日か明後日くらいから読み始めたいと予定しています。

どうでもいいことながら、ポプラ文庫の少年探偵団シリーズには懐かしくも挿絵がいっぱい入っているんですが、1巻目から始まって大部分は SHIGERU の署名があります。でも、途中から少し絵の印象が変わってきて、最後の26冊目の『黄金の怪獣』には YOSHIDA の署名が見られたりする上に、少年探偵団団長の小林少年がほぼ青年に見えるようになっている気がします。まあ、これだけシリーズで長く続くと仕方がないのかもしれません。
さらに、もっとどうでもいいことながら、先日、京都土産に河道屋の蕎麦ぼうろを買って帰ったんですが、いまだに「かわみちや~の、そばぼうろ」を節をつけて歌えるのは、年代的地域的に極めて限られた人なんだろうと感じてしまい、他方で、少年探偵団の主題歌の冒頭部分、すなわち「ぼ、ぼ、ぼくらは少年探偵団。勇気りんりん、るりの色」から始まって、通して1番や2番くらいを歌える人は、団塊の世代を中心に、まだまだいそうな気がしますし、Youtubeででも探せばあるんだろうと思います。

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2017年12月23日 (土)

今週の読書は経済書や小説を合わせて計6冊!

今週は経済経営関係の本に加えて、先週はなかった小説も少し読み始め、以下の通りの計6冊です。

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まず、斎藤史郎編著『逆説の日本経済論』(PHP研究所) です。著者は日本経済新聞をホームグラウンドとしていたジャーナリストです。本書では、タイトル通りに、通説もしくは俗説に近い経済学上の説について反論を加えているんですが、そこなジャーナリストらしく、学者さんを中心にインタビューした結果を収録しています。取り上げられているテーマは、「人口高齢化で日本は衰退の道を歩まざるを得ない」、「貿易黒字はプラスで貿易赤字はマイナス」、「株主主権は企業理論の基本である」、「超金融緩和は危機脱出の処方箋」、「円安下の株価上昇は企業業績の改善による」などであり、学者さんや経営者と対にして、いくつかテーマを例示的に並べれば、日本電産の永守重信社長は会社の所有者についての株主至上主義に反論し、マクロ経済学者の吉川洋教授は人口減少ペシズムは誤りと指摘し、財政学者の井堀利宏教授は社会保障給付抑制のための年齢階層別選挙区制の導入を主張し、会社法の専門家である上村達男教授は株主主権論を批判し、日銀副総裁だった武藤敏郎氏は中福祉・中負担は幻想であると喝破しています。私の勝手な読み方かもしれませんが、大雑把に真ん中くらいまで、具体的には、武藤氏のインタビューくらいまではそれなりに中身もあって、読み応えあるような気がしますが、後段になるに従って、やや「トンデモ」の色彩を帯び出し、インタビューそのものも短くなっていったような気がします。それぞれに主張があって、当然ながら、書物としては一貫性ないんですが、インタビューの結果を取りまとめただけですので仕方ない気がします。全体を通して読みつつ、それなりの取捨選択をする目は養っておきたいと思います。

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次に、水口剛『ESG投資』(日本経済新聞出版社) です。著者は高崎経済大学の研究者であり、本書のタイトルになっているESG投資は同時に責任投資とも称され、環境、社会、ガバナンスのヘッドレターを取っています。本書ではあまり出て来ませんが、国連が2015年に決定した持続可能な開発目標(SDGs)とも連携して、長期に渡る企業活動について、原始的な経済学の減速である利潤極大化を排除するわけではないものの、社会的な存在である企業活動について短期的な利潤極大化以外の活動を評価しようとする試みであり、本書のサブタイトルである「新しい資本主義のかたち」まで大風呂敷を広げるつもりはりませんが、その入り口にたどり着くためのひとつの要素かもしれないと私は考えています。従って、企業行動に対しては、単なる自社の雇用や調達だけでなく、いわゆるサプライ・チェーンの中に反社会的な要素、アジアでの調達における児童労働や奴隷労働、あるいは、アフリカにおける公害問題などなどのような例を抱えているかどうかについても自律的に目を光らせる必要があります。ただし、エコノミストとして2点注意しておきたいのは、ESG投資はおそらく企業だけでなく投資家も利する部分があって、決して企業利益とトレードオフの関係にはないと考えるべきですが、逆に、企業利益に余裕あるために、そして、その余裕はイノベーションなどの結果というよりも、独占や賃金圧縮などの決して好ましくない企業行動の結果として生み出されている可能性がある点は、投資家としても目を光らせておく必要があります。第2に、何らかのまやかし的なエセESG活動が横行して投資家の目を欺く可能性がある点です。ひと昔前にISO認証の取得が取引条件のようになったブームがありましたが、ESG活動についてはISO認証のようなサーティフケーションが不十分な気がします。その点を透明性高くESG活動に適用できるシステムが必要そうな気がします。

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次に、及川智早『日本神話はいかに描かれてきたか』(新潮選書) です。著者は古代文学ないし古代史の研究家であり、本書では文学的に文字で古代の神々がどのように表現されて来たか、ではなくむしろ、タイトル通りに、画像的にどのように描かれて来たかについて、雑誌の口絵や挿絵、絵葉書に双六、薬の包み紙などをはじめとする焦点の宣伝文句が記された引札などから絵画的、というか、画像的な描かれ方を研究した成果が収録されています。ですから、そんな紙の史料が残されているのは、せいぜいが明治期以降であり、主として20世紀初頭くらい、あるいは、昭和期以降くらいの画像資料をひも解いています。もちろん、浮世絵などの歴史的な江戸期、あるいはそれ以前の画像もないわけではありません。章別の構成として、イザナキとイザナミにカササギを加えた国作りの神話、ヤマタノヲロチ退治をいかに絵画的に表現するか、因幡の白ウサギの物語に出てくるのはワニかサメか、サルタヒコとアメノウズメによる夫婦和合のめでたい図像、みづらと呼ばれる髪形などを介した神武天皇の画像表現、朝鮮半島に攻め入った神功皇后の描かれ方、などなどです。特に、私が興味深かったのは、因幡の白ウサギに出てくるワニについては、ワニザメであって、日本には古代からワニは生息していなかったハズ、という論考ですが、実際に絵画的にワニの背中をウサギが飛び越える画像も同時に収録されていたりして、とても印象的でした。神話の軍国主義的な利用の話題もなくはないですが、別の面からの神話へのアプローチが中心です。

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次に、伊坂幸太郎『ホワイトラビット』(新潮社) です。著者はご存じ売れっ子のミステリ作家です。仙台在住であり、本書の舞台も仙台です。副業で探偵もやっている空き巣の黒澤の登場するシリーズです。時間的な流れが通常の通りに後に向かうだけでなく、前にさかのぼったりもしますし、また、語り手もパートごとに切り替わるとともに、第三者、というか、いわゆる神の声的な視点が入ったりもして、それなりに複雑で私の場合は読みこなすのがタイヘンだったです。それでも面白いですし、黒澤のシリーズらしく、どんでん返し、というのとは少し違う気もしますが、時間をさかのぼりつつ、ストーリーに関する今までの理解がひっくり返される、というか、作者がおそらく意図的に読者に対して目くらましを仕掛けているわけで、それがキチンと読みこなせれば、とても面白いですし、少なくとも私が読んだところでは、ストーリーや論理に破たんは見られず、仙台市北部の高級住宅街で生じたように見える立てこもり事件は、決して不自然な点がないとはいえないにしても、前後の整合性にほころびなく解決します。伊坂作品の大きな魅力であるシュールでおしゃれな会話、特徴ありつつも少しボケも含むキャラの設定、さらに、ばらまかれた前半部分の伏線の見事なまでの回収が、読んでいて快感を覚えます。しかも、星座のオリオン座の小説の『レ・ミゼラブル』に関するうんちくがアチコチにばらまかれ、今までに登場したことのない、というか、私は今野敏作品以外では読んだことのないSITを警察の中心に据えた伊坂ミステリです。私のようなファンであれば、あるいは、そうファンでなくても、必ず読んでおくべき作品だといえます。

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次に、久坂部羊『院長選挙』(幻冬舎) です。作者は、メジャーさの点では少しだけ海棠尊と仙川環に後れを取っているものの、医療ミステリ分野の売れっ子作家です。私も何冊か作品を拝読した経験があります。ということで、この作品は医療分野を舞台にしているものの、大きな大学病院の院長選挙をテーマにして、医者の人格についてコミカルに描き出しています。まずまず若い女性のノンフィクション・ライターを主人公にし、日本を代表し、医療レベルでは東大をも上回る、ということですから、慶応大学病院のような気もするんですが、まあ、小説ですので架空の大学病院を舞台に、変死した病院長のポストを巡って4人の副院長が選挙戦を繰り広げる、しかも、かなり誇張された医者の人格の歪みを選挙戦に持ち込んでネガティブ・キャンペーンなどを繰り返す、という作品です。院長候補の4人は、臓器のヒエラルキーをモットーとする心臓至上主義の循環器内科教授、手術の腕は天才的だが極端な内科嫌いで風呂好きの消化器外科教授、白内障患者を盛大に集めては手術し病院の収益の4割を上げる守銭奴の眼科教授、古い体制の改革を訴えいいにくいこともバンバン発言する若き整形外科教授、です。『神様のカルテ』などでも、医者は私のような平凡なサラリーマンなどよりも性格的にアクが強い、というか、悪く表現すれば人格的な歪みがある、かのようにコミカルに描き出されていますが、この作品ではさらに徹底して女好きや守銭奴的な性格をパワーアップして設定しています。看護師や検査師などのコメディカルもいっしょになって医者を手ひどく評価したりするんですが、中には高い評価を下す人もいたりします。とても現実とは思えず、それはそれで小説本来のデフォルメされた現実社会の投影なので、面白おかしく読める医療小説です。一応、ミステリになっているんですが、犯人探しは主眼ではありません。

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最後に、神永正博『現代暗号入門』(講談社ブルーバックス) です。著者は、もちろん、暗号の専門家なんですが、本書での表現によれば、日立製作所でのサラリーマン研究者からアカデミックな世界の研究者に転じています。現在の日常生活レベルでも暗号技術というのは重要な役割を果たしており、特に、ネット通販やネットバンキングはいうに及ばず、インターネットを通じた秘匿性ある通信では必要不可欠とすらいえます。その暗号技術について、本書の著者はもちろんディフェンダーのサイドにいるんですが、アタッカーのサイドの情報も含めて、その舞台裏を人名をキーワードにしつつ明らかにしています。本書は5章構成であり、その昔からある共通鍵方式、ハッシュ関数、公開鍵のうちでもRSA方式と楕円曲線方式に分割して解説し、最終章で暗号共通のトピックとしてサイドチャネルアタックについてハードウェアの脆弱性から暗号を解読する技術とその対策を解説しています。経済学部出身の私には、ハッキリいって、、難しかったです。半分も理解できた自信はありませんが、最新の暗号技術について、日々使っているものだけに、それなりの親しみを持つためにも、こういった情報を得ておくのも一案かもしれません。

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