2017年11月18日 (土)

今週の読書は経済関連の本も多く計9冊!

今週の読書は経済や経営関係も多く、また、正面切っては健康問題を取り上げながらも、実は経済社会的な不平等とか貧困が健康の背景に存在する、といった指摘の鋭い本を含めて計9冊です。私の読書のベースは少し離れた図書館に、スポーツサイクリングの趣旨も含めて、週末に自転車で乗り付けて本を借りる、というスタイルですので、先週末のように3連休がいいお天気だったりすると、こんなに数を読むハメになったりします。逆に、今日のように土曜日が雨がちだと、来週の読書はショボいものになりかねません。

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まず、白井さゆり『東京五輪後の日本経済』(小学館) です。著者はエコノミストであり、1年半ほど前まで日銀政策委員を務めていたんですが、白川総裁のころの政策委員でしたので黒田総裁になってから金融緩和策に賛成票を投じないケースもあったりして、再任はされませんでした。もともとは国際通貨基金(IMF)のエコノミストなどをしていて、私の専門分野である開発経済学や政府開発援助の分野にも詳しく、私も何度かお話した記憶があるんですが、今はすっかり金融専門家のような立場で日銀政策議員経験者としての価値をフルに活かそうという姿勢をお持ちのようで、それはそれでいいことではないかと思います。ということで、ほぼ1年前にこのブログでも取り上げた前著の『超金融緩和からの脱却』が、その読書感想文でもお示ししましたが、日銀事務局から提示された日銀公式文書をきれいにエディットすれば、前著のような仕上がりになる、という意味で、黒田総裁の指揮下にある現在の日銀金融政策についての適確な解説書になっていた一方で、本書については、よくも悪くもエコノミストとしてのご自分の見方が示されているような気がします。例えば、本書の冒頭、黒田総裁の下での日銀の異次元緩和で景気がよくなった点については、不動産はアパート建設などでバブルっぽい雰囲気を感じつつも、株価についてはピーク時に遠く及ばないのでバブルではない、と直感的な判断を下しています。そうかな、という気もします。そして、これも根拠をお示しになることなく、東京オリンピック・パラリンピックの開催前に金融正常化が始まる、と予言しています。これもそうかもしれません。少なくとも、テイパリングは始まるような気もします。他の論点もいくつか拾おうと試みましたが、どうも雑駁な内容に終止している気がして、前著との差を感じずにはいられませんでした。まあ、その昔の日曜早朝のテレビ番組の「時事放談」くらいの内容であると、期待値を高くせずに読み始めるにはいいかもしれません。

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次に、八代尚宏『働き方改革の経済学』(日本評論社) です。著者は、私の先輩筋に当たる官庁出身の経済学者なんですが、何と申しましょうかで、今ごろこんなネオリベラリズム=新自由主義的な労働市場観を露わにした経済書はお目にかかれないような気がします。私はマルクス主義に見切りをつけて長いんですが、それにしても、ここまでむき出しで企業の論理に従った労働観もあり得ないような気がします。基本的に、労働市場改革は雇用の流動性をさらに増進させるものであるというのは判っていますが、本書ではもっぱらそれは資本の論理で企業の利益を高めるためのもののようです。例えば、女性雇用の促進や女性の管理職への登用にしても、女性の能力を活かし女性の生産性を高め幸福感の増進を図るのではなく、本書の著者の考えでは、企業の意思決定に偏りの内容にするためらしく、まあ、男性経営陣に彩りを添えるための方策のような位置づけなのかもしれません。何よりも、景気変動に対する雇用の調整という企業の論理が丸出しにされており、景気変動の際に雇用を守って労働者のスキルの低下を防止するという観点は本書にはまるでありません。特に私が懸念するのは、単なる景気循環における景気後退の期間だけでなく、何らかのショックの際に雇用をどうするかです。本書の著者のように企業の論理を振り回せば、雇用者を簡単に解雇できる制度がよくて、再雇用の際は政府の失業対策や職業訓練でもう一度スキルアップを図ってから企業に雇用されることを想定しているんではないかとすら思えてしまいます。いわゆる長期雇用の下でOJTによる企業スペシフィックなスキルの向上はもう多くを望めないにしても、企業は労働者のスキルアップにはコストをかけずに即戦力の労働者を雇用し、そして、景気が悪化すると、これまた、できるだけコスト小さく解雇できる、という点が本書の力点だろうと思います。そういった企業の論理むき出しの雇用観に対して、労働者のスキルを守り企業とともに労働者が共存共栄できる雇用制度改革の必要が求められているんだと私は思います。それにしても、繰り返しになりますが、企業の論理丸出しのレベルの低い経済学の本を読んでしまった後味の悪さだけが残りました。その昔に、消費者金融の有用性を論じたエコノミストもいましたが、決して消費者金融会社の利益を全面に押し出した論理ではなく、借りる方の流動性制約の緩和などの観点も含まれていて、一見するとそれらしく見えたものですが、本書については労働サイドの利益については、まったく省みることもなく、すべての労働市場改革を企業の利益に向けようとする意図があまりに明らかで、私にはうす気味悪くすら見えます。

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次に、テオ・コレイア『気まぐれ消費者』(日経BP社) です。著者はコンサルタント会社であるアクセンチュアの消費財・サービス業部門の取締役であり、30年超のキャリアがあるそうです。英語のタイトルは The Fluid Consumer であり、邦訳タイトルはかなり意訳しつつもよく意味を捉えているような気もします。なお、タイトルでは "Fluid" を「気まぐれ」と訳し、本文中では「液状」の語を当てています。2017年にドイツで出版されています。ということで、デジタル時代の消費者へのマーケティングについて論じていて、その特徴として、ブランドに対する忠誠が低い点を強調し、何かあれば、すぐにブランドを乗り換える、と主張しています。その原因を精査せずに論を進めていて、それはそれで怖い気もするんですが、インターネットが発達したデジタル時代に、ブランド・ロイヤルティの低い消費者となった大きな原因は情報の過多であろうと私は考えています。すなわち、消費の選択肢が多くなり過ぎているわけです。でも、この消費の選択肢の多さについては個別の企業ではどうすることも出来ませんから、まあ、何か政府の産業政策で強引にブランドの集約が出来ないわけでもないんでしょうが、取りあえず、企業に対する経営コンサルタントとして、ブランドン・ロイヤルティの低い消費者への対策を考えているんだろうという気がします。ただ、デジタル時代の消費者については、リアルな店舗での買い物からネット通販へのシフトを考えると、選択肢の大幅な増加に加えて、ロジスティックへの過度の依存も観察されると私は考えています。すなわち、消費者の選択肢が広がり、今までになかった消費生活が楽しめる一方で、運輸会社の負担が高まり、運輸会社はそれを運転手個人個人に転嫁している気がします。それが、アマゾンが大儲けをして、ヤマト運輸が価格改定に熱心で、運転手への未払い給与がかさんでいる原因のひとつではないでしょうか。そして、もうひとつの問題は、消費のための所得が不十分な水準に低下して行く可能性です。リアルな店舗で在庫を維持するコストよりも、大規模な倉庫で在庫を集中管理してロジスティック会社に輸送を請け負わせる方がコストが安いゆえにネット通販が繁盛しているわけですが、逆から見て、コストが低いということは賃金支払いが小さく消費者の所得が低くなってしまう可能性があるわけで、コストを切り詰めて消費の原資を小さくするという形で、現在の日本で見られるような合成の誤謬がネット時代には大きくなる恐れがあります。

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次に、ダニエル・コーエン『経済成長という呪い』(東洋経済) です。著者はフランスのパリ高等師範学校経済学部長であり、『ル・モンド』論説委員も務めていますが、エコノミストとしての基本はマルクス主義経済学者であり、私は何冊か読んでブログの読書感想文にもアップした記憶があります。フランス語の原題は Le Monde Est Clos et le Désir Infini であり、2015年の出版です。直訳すれば「世界は閉じており、欲望は無限」ということになります。邦訳タイトルは私にはややムリがあるような気もします。今まで私が読んだこの著者の本は作品社から出ているケースが多かった気がしますが、この本は東洋経済という経済のシーンではかなりメジャーな出版社からの発行です。ということで、マルキストにしてはかなり観念的な叙述が多い気もしますが、第1部と第2部と第3部に分かれており、第1部で大雑把な経済史をおさらいした後、第2部では理論的な側面も含めて経済学的な概括を行いつつ、最後に結論に至らず悲観的な結末が提示される、という構成になっているように私には見受けられました。テーマはポスト工業社会の進歩の方向であり、ケインズが予言したような1日3時間労働の社会がやって来そうもない中で、先進国では成長が大きく鈍化し、これから先の生活がどこに向かうのか、という点が関心の中心になります。私も同意しますが、本書ではいわゆるデジタル革命がポスト工業社会の画期的な生産性向上や高成長をもたらさなかったのは、どうやら事実ですし、先進国の多くのエコノミストが長期停滞 secular stagnation を話題にしているのも確かです。私にはよく判らないんですが、成長を諦めて何らかの別の価値観を基にした生活に「大転換」すべき、ということなんでしょうか。本書の著者は、定住と農業の開始といわゆる産業革命を2つのカギカッコ付きの「大転換」と考えているようですし、次の3番目の「大転換」はマルクス主義的な社会主義革命だったりするんでしょうか。それとも、デジタル革命ですらなしえなかった「大転換」が、とうとう、AIやロボットによるシンギュラリティで実現されるんでしょうか。そこまで本書の著者は踏み込んでいませんが、本書のような観念的で結論を明示することなく、悲観的っぽい方向性だけを示す本は日本人が大好きな気もします。

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次に、マイケル・マーモット『健康格差』(日本評論社) です。今週の読書ナンバーワンです。著者は英国生まれの研究者であり、世界医師会長を務めたり、女王から叙爵されたりしているエスタブリッシュメントの医師です。英語の原題は The Health Gap であり、邦訳タイトルはほぼほぼ直訳です。2015年の出版です。一応、医学博士が書いた健康格差に関する論考ながら、ほとんど経済書と考えてもよさそうな気がします。すなわち、本書でも強調されているように、決して病原菌やウィルスへの対処も健康維持に必要であり、銃刀などの規制を強化すれば死者やけが人が減る、といった事実を否定するつもりは毛頭ありませんが、健康に関しては経済社会的なバックグラウンドが重要である点をもっと我々は知るべきだと強く強く実感しました。開発経済学を専門分野とするエコノミストとして、大いに共感する部分がある本でした。喫煙はもちろん、過度の飲酒や運動不足などは健康を損ねるという認識は、かなり一般に広まっていることと思いますが、じつは、禁煙し飲酒を適度な範囲でおさめ、栄養バランスのよい食生活とストレスの少ない職業生活・家庭生活を送り、適度な運動を定期的に行うためには、それが途上国の国民ではなく、先進国においてであっても、それなりの所得の裏付けもしくは何らかの補助がなければ不可能だという事実から目を背けるべきではありません。その意味で、健康格差のバックグラウンドには所得の格差が存在し、あるいは、不健康の裏側には貧困が潜んでいると考えるべきです。もちろん、本書の著者は所得の格差を許容しないとは主張しませんが、所得が不平等であっても健康状態に関しては格差のない政策を探るべきであると強調しています。そして、本書の表紙見開きにあるように、世界中を巡り回っていろいろな健康に関する実例を収集し、判りやすく本書でひも解いています。エコノミストとしては、健康と富の因果関係について、p.111 で展開されている議論、すなわち、健康は富への投資である方が、その逆よりも方程式でモデル化しやすい、というあまり高尚ではないイデオロギーを少し恥ずかしく思わないでもないんですが、グレート・ギャッツビー曲線による貧困の世代間の継承、失業の健康への悪影響などなど、経済学を本書では後半に応用している点も忘れるべきではないと考えています。最後に、気になる点をひとつ。著者のグループは英国ロンドンのホワイトホール研究で、数多くの公務員を対象にした健康調査を実施しており、やはり裁量が大きい上級公務員は健康になりやすいバイアスがあると確認していますが、逆に、私のように出世できなかった公務員は裁量が小さい分、もっと出世した上級公務員よりも寿命が少し短かったりするんでしょうか?

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次に、スヴェン・スタインモ『政治経済の生態学』(岩波書店) です。著者は米国の政治学者なんですが、かなり経済学の分野でも有名で、その際は、公共経済学ということになるのかもしれません。実は、私が2008-10年に地方国立大学の経済学部教授として出向していた折に同僚だった財政学の先生との共著がこの著者には何本かあります。何と申しましょうかで、その同僚財政学の先生が准教授から教授に昇格なさる際の資格審査委員を、誠に僭越ながら、私が末席を占めていたものですから、その先生から提出された、か、あるいは、私か誰かが独自にネットで調べたか、の業績リストにあったような気がします。官界から学界に出向の形で経済学部の教授ポストに就いて、准教授の先生の教授昇格の資格審査をするなんて、今から考えると、誠に僭越極まりなく恥ずかしい限りです。本題に戻って、本書の英語の原題は The Evolution of Modern State であり、2010年の出版です。ということで、大きく脱線してしまいましたが、本書は英語の原タイトル通り、進化生物学をスウェーデン、日本、米国の3国に応用し、制度歴史学派の立場から政府や公共経済などを解き明かそうとの試みです。どちらかといえば、私はその試みは成功しているとも思えないんですが、少なくとも、学術初夏ならとても平易で判りやすい内容です。大雑把に、スウェーデンは北欧の高福祉国であり、その財源の必要性から高負担でもあると考えられています。そして、米国はその逆で、政府が社会保障により格差是正や最低限の国民生活を保証するのではなく、自己責任で生活するように求めるワイルドな国であり、日本はその中間という考えは必ずしも成立しませんが、税金を社会福祉ではなく土木と建設で国民に還元する土建国家、と本書ではみなされています。日本の高度成長期から続く二重経済とその解消に関する見方は秀逸であり、バブル経済崩壊後の1990年台の「失われた10年」についても的確に分析されており、まさに、進化生物学的な解明が判りやすくなされています。ただし、私の核心なんですが、本書でも、米国はもちろん、日本もスウェーデンにはなれない、という点は忘れるべきではありません。進化論的に日本とスウェーデンはもう分岐してしまったんですから、日本は独自に経済危機からの脱却や政府債務の解消などの問題解決の道を探らねばなりません。スウェーデンがどこまで参考になるかについては、大いにポジティブに考えるエコノミストもいますし、私も何人か知っていますが、私自身は疑問であると受け止めています。最後に、学術書なんですから、出版社のwebサイトに索引とともにpdfで置いてあるとはいえ、本文や注にある参考文献のリストは欲しかった気がします。

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次に、ウェンディ・ブラウン『いかにして民主主義は失われていくのか』(みすず書房) です。著者は米国カリフォルニア大学の旗艦校であるバークレイ校の研究者であり、政治学者です。英語の原題は Undoing the Demos であり、2015年の出版です。なお、訳者あとがきで Demos とは「『市民』『人民』あるいは『民衆』」とされているんですが、私の不確かな知識によれば、むしろ、家族よりは大きくて部族くらいの自治単位ではなかったかと記憶しています。違っているかもしれません。ということで、経済のひとつの考え方だと思われてきた新自由主義=ネオリベラリズムが民主主義を破壊するか、という論考です。その中心論点は、要するに、すべてを経済に還元する、というのが著者の結論のように見受けましたが、基本となるのがフーコーの考え方ですので、まあ、何と申しましょうかで、フランス的なポスト構造主義の影響なども残っており、非常に難解な部分がいくつか見受けられ、政治学という私の専門外の領域でもあり、必ずしも正しく解釈したかの自信はありません。マルクス主義の考えも色濃く反映されています。私のような開発経済学をひとつの専門とするエコノミストには、新自由主義といえば、ワシントン・コンセンサスが思い浮かびますし、一般的な経済学にとっても、規制緩和などで政府の市場介入を縮減するという意味で、あるいは、まったく逆に見えるものの、知的財産権の強烈な保護という別の経済政策も含めて、リバタリアンに近いような経済政策を、というか、経済政策の欠落を主張する考え方です。本書の例をいくつか引けば、教育投資で教養教育=リベラル・アーツから職業的な実務教育を重視してリターンを考えたり、人的資本として人間を稼ぎの元と考えたりするわけです。私はかなりの程度に本書の考えを理解するんですが、ひとつだけ大きな疑問があり、本書では新自由主義がいかに民主主義を破壊するかという点はいいとして、どのようなルートで破壊するかについて、ガバナンスと法の秩序と人的資本及び教育の3点を柱と考えているようなんですが、私は新自由主義的な経済政策の帰結としての格差の拡大が民主主義を破壊する点も考慮に入れるべきだと考えています。この点がスッポリと抜け落ちているのが不思議でなりません。

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次に、川端基夫『消費大陸アジア』(ちくま新書) です。著者は関西学院大学の研究者であり、アジア市場論などの専門家です。経済学というよりは経営学なのかもしれません。アジアでの工場立地などの生産活動ではなく、日本企業をはじめとするアジア市場での消費財やサービスの提供をテーマとしています。マクドナルドのようなマニュアルに基づいた世界中すべての国や地域での同一の消費財やサービスを提供する標準化戦略=グローバル戦略とともに、世界各国の実情に適合させた適応化戦略ローカル戦略を提唱しています。ですから、インドネシアでは日本市場におけるスポーツ時の喉の渇きを癒やす飲料としてのポカリスエットの販売戦略ではなく、デング熱に罹患した際などに準医療的な目的での渇きを緩和する飲料としての販売戦略での成功などの実例が本書には集められています。私も倅どもが小さいころに一家そろってインドネシアはジャカルタに3年間住まいし、ジャカルタに限らず、シンガポールやタイやマレーシアやと、東南アジア一帯を見て回った記憶がありますので、とても共感しつつ読み進むことが出来ました。マクドナルドの例を敷衍すると、年齢がバレてしまうものの、マクドナルドが京都に出来た、というか、京都で流行り出したのは、私が大学生になってからくらいだと記憶しており、同志社大学の斜向かいの今出川通り沿いのマクドナルドによくいったことを覚えていて、今では日本はマクドナルドは中高生が気軽に入れて食欲を満たすことのできる場でしかありませんが、たしかに、所得水準の違うインドネシアではマクドナルドに行くというのは、記念日とまではいわないにしても、ちょっと気取った出来事だと受け止められていた気がします。また、本書にもありますが、サンティアゴで外交官をしていた折にランチで行った日本食のお店で、ラーメンは明らかにスープの一種と現地人に認識されていたのも記憶しています。ですから、日本とは明らかに異なる意味付けを持って、日本と同じ消費財やサービスが受け入れられている、という実感があります。また、発展途上国から新興国に進化したアジア諸国で、中間層の拡大が広範に観察され、それに伴う消費活動の変化も実感できるのも事実です。私は経営には疎くて、どうすれば現地で受け入れられて売れるのかは判りかねますが、本書で指摘するように、確かに、日本とはビミョーに異なる意味づけでローカライズすれば、それにより受け入れられる余地は大いに広がるのだろうという点は理解できます。

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最後に、秋吉理香子ほか『共犯関係』(角川春樹事務所) です。5編の短編、もちろん、「共犯」をキーワードにした短編が収録されています。すなわち、秋吉理香子「Partners in Crime」、友井羊「Forever Friends」、似鳥鶏「美しき余命」、乾くるみ「カフカ的」、芦沢央「代償」です。なかなかの人気作家の競作です。中でも、3番目の似鳥鶏「美しき余命」が出色です。両親と妹を交通事故で亡くし、自身もその交通事故で余命のハッキリした障害、というか、病気に罹患した中学生の少年を主人公に、その中学生を引き取った親戚一家を舞台にしています。余命がハッキリしていた時には、とても親切で優しかった親戚一家なんですが、少年が奇跡にあって病気から回復したら、徐々に熱狂が覚めた、というか、最後は手のひらを返したようになってしまい、ラストはよほど鈍感でない限り読者にも想像できるものの、なかなか衝撃の締めくくりです。ほかの作品も、粗削りだったり、ミステリというよりはホラーだったりしますが、なかなか楽しめます。すなわち、W不倫が思いがけないラストで終る「Partners in Crime」、夏祭りの重要な役目をほっぽり出して少女が少年とともに街を出てしまう「Forever Friends」、高校時代の友人と再会した挙句に交換殺人を持ちかけられるホラー仕立ての「カフカ的」、自信作を書き上げたミステリ作家が妻に読んでもらうと意外な事実が判明する「代償」、といったラインナップです。

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2017年11月11日 (土)

今週の読書も経済書は少ないながらも教養書や小説をがんばって計8冊!

今週は少し仕事の方に余裕があり、夜はせっせと読書に励んでしまいました。経済書らしい経済書は読まなかった気がしますが、地政学をはじめとして教養書・専門書の方はそれなりに読みましたし、小説と新書も2冊ずつ借りて読みました。計8冊、以下の通りです。

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まず、山田謙次『社会保障クライシス』(東洋経済) です。著者は野村総研で社会保障や医療・介護関係のコンサルタントを務めています。まあ、社会保障については、もっとも大口で所得に直接に影響を及ぼす年金ばかりが注目を集めていますが、本書では医療や介護に目を配り、2025年にはいわゆる団塊の世代がすべて75歳超になって後期高齢者になることから、現在の歳入構造のままでは政府財政が破たんするリスクがある、と警告を発しています。本書の冒頭で、そもそも、として、現在の政府の歳入と歳出の総額を上げていて、要するに、歳入、というか、国民の側から見た税負担はかなり低く抑えられている一方で、歳出は社会保障を中心に北欧などの高福祉国並みの規模になっている点を明らかにしています。一時、政府財政について「ワニの口」と称されていましたが、現在でも歳入と歳出のギャップは縮小しておらず、さらに、2025年には団塊の世代がすべて75歳超となり、医療と介護を中心に大きな公的負担の増加が見込まれる、と結論しています。200ページ余りの短い論考ですから、要約していえばそれだけです。本書の特徴のひとつとして、かなり判りやすく数字をキチンと上げている点があり、例えば、75歳超の後期高齢者になると、医療・介護費用がこれまでとは段違いに多くなる点については、医療費は全国民の平均は年間30万円程度である一方で、70歳で80万円、80歳になると90万円に上昇したり、加えて、介護が必要になる人の比率は、65歳では3%程度だが、75歳を過ぎると15%に上がり、80歳で30%、90歳で70%となる、などと解説を加えています。そして、恐ろしいのは、バブル崩壊後の就職氷河期・超氷河期に大学卒業がブチ当たり、正規の職を得られずに不本意非正規職員にとどまっている世代に、この大きな負担がシワ寄せされることです。そして、その上で、本書の著者はいくつかの解決策を提示しており、最大の解決策として国民負担率上昇の容認を上げています。明示的に、国民負担率をGDP比で60%まで許容すべきであると主張しているわけです。この負担サイドの解決策に加えて、給付サイドでは、現在のように自由に医療機関を選んで受診することを止めて、かかりつけ医の指示で受診する医療機関を指定するなど、医療提供体制の縮小を受忍する必要がある、としています。私の従来からの指摘として、マイクロな意思決定の歪みがマクロの不均衡につながっている点があり、それを付け加えておきたいと思います。本書とは直接の関係ありませんが、例えば、日本人は勤勉でよく働いて、統計には表れない生産性の高さを持っている一方で、企業サイドの資本の論理から非正規雇用を拡大して、個人及びマクロの労働力のデスキリングが進んでいるのは明白なんですが、少子高齢化についても、かなり近い減少を感じ取ることができます。すなわち、少子化の一員として、子どもや家族に対してはとても政府は厳しくて、社会保障の分け前もほとんど及ばないという事実がある一方で、高齢者にはとても手厚い社会保障が給付され、高齢者にオトクな経済社会体系ができ上がっています。子どもを出産して子育てするのに不利な社会経済である一方で、高齢者には優しい社会経済であるわけですから、少子高齢化がゆっくりと進むのは当然です。統計などでエビデンスを求めるのはムリなんですが、若者が東京に集まるのと同じ原理で、国民が子どもを産まなくなって高齢者に突き進む現象が観察されるわけですから、シルバー・デモクラシーに抗して社会保障のリソースを高齢者から子どもや家族に振り向ける政策が求められていると私は考えています。

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次に、高橋真理子『重力波発見!』(新潮選書) です。著者は東大理学部を卒業した朝日新聞の科学ジャーナリスト、なんですが、定年近い私よりもさらに年長そうなので、かなりのベテランなんだろうと思います。タイトル通りの内容で、約100年前にアインシュタインの一般相対性理論から予想された波である重力波についての解説です。そして、その前提として、ニュートンから始まる古典物理学や天文学、もちろん、アインシュタインの相対性理論から時間や暦の理論まで、一通りの基礎的な知識も前半部分で展開され、私のような専門外のシロートにも判りやすく工夫されている気がします。科学ジャーナリストとして、一般読者の受けがいいのは宇宙論と進化論であるとズバリといい切り、私もそうかという気がしてしまいます。重力波がどんなものかが分かれば、宇宙の成り立ちが理解できるといわれている点は理解した気になっていますが、誠に残念ながら、私には重力波の観測がどこまで重要な科学的事業であるかは判断できず、せいぜい、ノーベル賞に値する事業なんだと受け止めるくらいです。でも、重力波の基となる時空の歪み、そして、その時空とは何かについて、少しは理解が進んだ気がします。時間については、本書にもあるように、その昔は世界中で不定時だったわけで、日本の例なら、夜明けとともに日付が変わり、日暮れまでを等分していたわけです。もちろん、夜は夜で等分されていましたから、日の長い夏と逆の冬では時間の長さが違っていたわけですが、それは相対論的な違いではありません。それから、暦については、まさに権力の賜物であり、『天地明察』にある通りで、ユリウス暦とはローマ皇帝の権力の象徴でしょうし、グレゴリオ暦からは欧州中世における教会の知性と権力をうかがい知ることができます。なお、どうでもいいことながら、何かで読んだ不正確な記憶ながら、その昔は、というか、ローマ時代の前は月は1年に10か月だったところ、ひと月30日くらいにそろえるために、無理やりに1年12か月にしたらしいといわれています。2か月不足するので、7月にはジュリアス・シーザーの名が、8月にはアウグストス・オクタビアヌスが入れ込まれています。英語にも名残りがありますが、9月のSeptemberは明らかに「7」ですし、10月のOctoberも「8」です。タコをオクトパスと英語でいうのは足が8本だからです。さらにどうでもいいことながら、日本の数字の数え方は中国の影響で10進法ですが、英語は12進法で13からは10+3、というか、3+10のように表現しますが、ラテン語では15進法です。16から10+6で表現します。1年の月数を12としたのはひと月の日数が30日という区切りなんでしょうが、それをローマ時代に決めた後、その当時としては後進地域だった英語圏で数字の数え方が固まったような気がしないでもありません。たぶん、それまで英語圏では数字の数え方はとてもいい加減だったのではないかと勝手に想像しています。最後の最後に、私が知る限り、世界のかなり多くの言語圏で日本語でいう「新月」が誕生の意味、まさに「新しい」という意味で捉えられています。英語ではNew Moonといいますし、ラテン語でもご同様です。私はこの年になってもまだ知りませんが、満月を「新しい」と受け取る民族がどこかにいるような気もします。最後に、本書の書評に立ち戻って、なかなか私のようなシロートにも判りやすい良書だと思います。何かの折に触れた著名な物理学者、典型はニュートンとアインシュタインですが、も頻出して親しみを覚えるのは私だけではないような気がします。

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次に、ジェイムズ・スタヴリディス『海の地政学』(早川書房) です。著者は米国海軍の提督であり、NATO最高司令官も務めた海軍軍人出身です。もう一線を引退していますが、さすがに国際機関でも活躍しただけあって該博な地政学的センスは引けを取りません。どこまでホントか私は知りませんが、ヒラリー・クリントン上院議員が大統領候補となる際の副大統領候補最終6人にまで残り、また、トランプ新米国政権からは、国務長官ないしは国家情報長官のポストをと打診されたが断った、とのウワサもあったりするようです。ということで、本書は、まず、太平洋と大西洋から始まって、いくつかの地政学的に重要な海洋について歴史をたどっています。すなわち、地中海の覇権をめぐる古典古代におけるトルコとギリシア、あるいは、ギリシア諸国間、また、ローマとカルタゴなどの海戦、コロンブスやマゼランらに代表される大航海による新大陸などの発見、前世紀における太平洋を舞台にした日米の艦隊戦、台頭する中国や核・ミサイル開発を進める北朝鮮の動向などなど、古今東西の海事史に照らして地政学の観点から現下の国際情勢を見定め、安全保障にとどまらず、通商、資源・エネルギー、環境面にも目を配りつつ、海洋がいかに人類史を動かし、今後も重要であり続けるかを説き明かそうと試みています。地政学的な観点からは、いわゆるシーパワーとランドパワーがあり、日本はほぼほぼ後者になろうかと思うんですが、私なんぞも知らないことに、本書の著者によれば、日本は陸上自衛隊の支出を減らし、海上自衛隊の支出を増やしているそうです。また、専門外の私には及びもつかなかった視点として北極海の地政学的な重要性、特に、単純にこのまま地球温暖化が進むとすれば、2040-50年ころのは北極海がオープンな海になる可能性も否定できず、その地政学的な位置づけも論じています。そして、最後はシーパワーの重要性を強調するわけですが、「海を制するものは世界を制する」という安全保障の観点一点張りな論調ではなく、海を「世界公共財 (グローバル・コモンズ)」と捉えて、世界全体のネットワーク協力を勧めて締めくくっていたりします。基本的に、老人の回顧録的なエッセイなんですが、語っている内容は豊富です。ただ、最後に、基本的に米国の相対的な国力が低下し、平和維持活動などの「世界公共財 (グローバル・コモンズ)」を提供することが難しくなった現状を踏まえているんでしょうが、米国が関与したベトナム戦争は「世界公共財 (グローバル・コモンズ)」の提供だったのかどうかの視点はありません。当然ですが。

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次に、日本安全保障戦略研究所[編著]『中国の海洋侵出を抑え込む』(国書刊行会) です。著者は何人かいますが、防衛相や自衛隊関係の人ではないかと思います。タイトル通りに、いかにして中国の海洋進出を抑えるか、がテーマなんですが、決して日本単独ではなく、安保条約を結んでいる同盟国の米国はもちろん、自由と民主主義や法による統治などの価値観を同じくするオーストラリアやインド、さらには、ASEAN諸国も含めて、東アジアないしアジア広域の問題として取り上げています。そして、結論を先取りすれば、要するに、米国や世界の国連軍などの介入を待てる短期間は持ちこたえられるように軍備を拡大するとともに、有利な地政学的状況を作り出しておく、ということで、当然といえば当然の肩すかし回答なんですが、それに至る事実関係がそれなりに参考になるような気もします。例えば、世界とアジア・太平洋・インド地域の軍事バランス、中国周辺主要国の対中関係の現状、米国の対中軍事戦略および 作戦構想、さらに、中国の東シナ海と南シナ海における軍事力と戦略などに関して、私のような専門外のエコノミストには初出の気がします。お恥ずかしい話ですが、米国のリバランスとピボットが同じ意味で、欧州からアジアに戦略的リソースをシフトすることだとは私は知りませんでした。ただ、単に中国のことを考えればいいというものでもなく、自由と民主主義のサイドにいないロシアと、何といっても北朝鮮がかく乱要因として存在しており、なかなか先を読み切れないのも困りものです。最後に、現象面としては、尖閣諸島の例なんかを目の当たりにして、中国の海洋進出はとても判りやすいんですが、さらに突っ込んだ分析として、予防のためもあって、どうして中国が海洋進出するのか、という謎にも取り組んで欲しい気がします。本書では、中華帝国の再興くらいの誠に心許ない観念論で乗り切ろうとしているんですが、唯物論的に何の必要があって中国が海洋進出を試みているのか、エネルギーをはじめとする資源なのか、あるいは、他に経済外要因も含めて何かあるのか、私は興味があります。それにしても、専門外の私にの能力・理解力不足から、とても難しげな本だった気がします。

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次に、長岡弘樹『血縁』(集英社) です。著者は警察を舞台にしたミステリが人気の売れっ子作家です。私はこの作者の代表作のひとつである『傍聞き』や『教場』などを読んだことがあります。ということで、この作品は血縁や家族に関する短編ミステリ7編、すなわち、「文字盤」、「苦いカクテル」、「32-2」、「オンブタイ」、表題作の「血縁」、「ラストストロー」、「黄色い風船」が収録された短編集です。3作目の「オンブタイ」は何かのアンソロジーに収録されているのを読んだ記憶がありますので、今回はパスしました。冒頭作のタイトルである「文字盤」とは、言語障害者が意思表示のために使うコミュニケーション支援道具だそうで、コンビニ強盗の解決に役立ったりもします。次の「苦いカクテル」と「32-2」は、どちらも法律問題を題材にしており、前者はかつて読んだことのある三沢陽一の『致死量未満の殺人』とおなじようなストーリーで、後者は相続に絡んで推定死亡時刻を定めた民法の条文です。「オンブタイ」を飛ばして、「血縁」はミステリというよりホラーに近く、交換殺人を取り上げています。でも、姉が妹を亡きものとしようとする動機が私にはイマイチ理解不能でした。最後の2作「ラストストロー」と「黄色い風船」はいずれも刑務官、ないし、刑務官退職者が主人公で、なかなか含蓄鋭いストーリーです。「32-2」、「オンブタイ」、「血縁」をはじめとして、どうもイヤ味な人物が続々と登場し、読後感はそれほどよくなかった気がしますし、いつものことながら、いわゆる本格ミステリではなく、状況証拠の積み上げで確率的に犯人を指し示すのがこの作者の作品の特徴のひとつですから、やや物足りない読後感も同時にあったりします。殺人事件については、現実社会で観察される殺人は、この作品にあるように、血縁、というか、家族内での事件がもっとも、かつ、飛び抜けて多いといいます。まあ、座間の事件のようなのはレアケースなわけですので、この作品はかなり現実に即した、とはいわないまでも、現実的なプロットなのかもしれませんが、家族で殺し合う作品がいくつか含まれている分、読後感は悪いのかもしれません。

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次に、相場英雄『トップリーグ』(角川春樹事務所) です。著者は売れっ子のエンタメ作家です。そして、この作品では、役所の名前以外はすべて仮名、というか、架空の名前なんですが、テレビのニュースや新聞の報道にそれなりに接していれば、読めば自然と理解できるようになっています。三田電気という仮名で東芝の経理操作事件を取り上げた『不発弾』と題された前作から続いて、総理大臣は芦田首相ということなので、まあ、何と申しましょうかで、同じシリーズといえなくもありませんが、この作品では、戦後最大の疑獄のひとつであるロッキード事件が題材に取られています。田中元総理が渦中の人となり、商社のルートや右翼のルートなどの3ルートがあり、米国発の汚職事件で我が国の内閣が吹っ飛んだ事件でした。そのロッキード事件を背景に、2人のジャーナリストを主人公に、そして、現在の安倍内閣の官房長官を政界の要の人物に据え、物語は進みます。軽く想像される通り、ロッキード事件で解明され切らなかった右翼のルートが現在の政府首脳まで連綿と連なっている、という設定です。そして、タイトルのトップリーグとは、決して、ラグビーのリーグ戦ではなく、政治家に食い込んでいくジャーナリストの中でも、特に便宜を図ってもらえるインナーサークルの構成者と考えておけばよさそうですが、ラストでそのトップリーグにも、政界らしくというか何というか、表と裏があることが理解されます。命の危険まで感じながら取材と裏付けを続けるジャーナリストとアメとムチで迫る政界トップ、さらに、癒着といわれつつも情報を取るために政治家に密着するジャーナリスト、どこまでホントでどこからフィクションなのか、私ごときにはまったく判りません。まあ、キャリアの国家公務員でありながら、いわゆる高級官僚まで出世も出来ず、霞が関や永田町の上っ面だけしか私は知りませんのでムリもありません。そして、この作品の最大の特徴のひとつは、作者がラストをリドル・ストーリーに仕上げていることです。ストックトンの「女か虎か?」で有名な終わり方なんですが、取材と裏付けを進めた主人公のジャーナリストがアメとムチで迫る政府首脳に対して、報道するのか、あるいは、握り潰すのか、ラストが明らかにされていません。まあ、報道する道が選ばれれば、現実性に対する疑問が生じますし、逆に、握り潰す道が選ばれれば、ジャーナリストとしての矜持の問題が浮上します。いずれにせよ、どちらの結末にしようとも、一定割合の読者から疑問が呈されることになる可能性があり、その意味で無難な終わり方なのかもしれませんが、小説の作者として、何らかの結末を提示する勇気も欲しかった気もします。評価の分かれる終わり方と見なされるかもしれません。

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次に、古谷経衡『「意識高い系」の研究』(文春新書) です。著者は論評活動をしているライターのようで、多数の著書があるらしいですが、私は初めて読みました。なかなか、簡潔かつ的確に要点を把握しており、それを、実例に即して展開していることから、私のような意識の低い読者にもよく理解できた気がします。ただ、私は「系」という感じ、というか、言葉は、英語でいうシステムであって、太陽に対する太陽系のように理解しており、本書のように何かの接尾辞として「もどき」を表現するのは慣れていなかったので、最初は少し戸惑った気がします。本書では「意識高い系」の生態や考え方を批判的に分析していますが、まず、その特徴として、いわゆるリア充との対比を試みていて、リア充がスクール・カースト上で支配階級に属し、それゆえに、土地を離れる必要もなく、地元密着の土着系(この「系」はシステムであって、もどきではない)であるのに対して、意識高い系はスクール・カーストでは中途階級であったのが最大の特徴で、それゆえに、リセットのために上京したり、あるいは、もともと東京であっても大学入学を機にリセットする下剋上的な姿勢がある、というもので、さらに加えて、意識高い系は具体的なものを忌避して抽象的なイメージに逃げ込み、泥臭く努力する姿勢を嫌う、という点を上げています。そして、当然のことながら、事故に対する主観的な評価が、周囲からの客観的な評価に比較してべらぼうに高い、という点は忘れるわけにはいきません。もともとは、2008年のリーマン・ショック後の2009年の就職戦線に出て来た一部大学生のグループらしいんですが、私の周囲の中年に達したビジネスマンにも同じような傾向を持つ人物は決していないわけではないような気もします。私自身は世代的にSNSで自分のキャリアを盛るようなことを、SNSがなかったという意味でそもそも出来なかったわけですし、一応、小さな進学校の弱小とはいえ運動部の主将を務め、成績は冴えませんでしたが、スクール・カーストの中途階級ではなかったように思います。かといって、生まれ育った京都の地から上京して就職して、そろそろ定年を迎えようというわけですから、リア充でもありません。ただ、泥臭く努力することはもう出来ない年齢に達した気もします。たぶん、我が家の本家筋で、私と同じ世代の従弟が京大医学部を出て医者をやっているんですが、彼なんぞが本書でいう土着リア充の典型ではないかという気もします。それにしても、ハイカルの文学やエッセイだけでなく、サブカルのマンガや映画、もちろん、SNSをはじめとするネット情報など、とてもたんねんに渉猟して情報を集めた上での、なかなか鋭い指摘をいくつか含む分析を展開した本だった気がします。私は新書は中途半端な気がして、あまり読まないんですが、こういった本はとても興味深く読めました。

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最後に、旦部幸博『珈琲の世界史』(講談社現代新書) です。著者はバイオ系の研究者であり、この私のブログの昨年2016年5月14日付けの読書感想文で取り上げたブルーバックスの『コーヒーの科学』の著者でもあります。ということで、タイトル通りに、コーヒーの歴史をひも解いています。何となくのイメージながら、緑茶や紅茶などのお茶、あるいは、お酒という名称で一括りにしたアルコール飲料などに比べて、コーヒーはかなり歴史が浅い印象があります。本書でも起源はともかく、歴史としてはせいぜい数百年、アフリカのエチオピアを起源に、欧州からインドネシアや米州大陸をはじめとして世界各地に広まっています。Out of Africa というタイトルの映画がありましたが、ホモ・サピエンスの我々現生人類と同じでアフリカから世界に広まった飲み物です。タイトルは世界史なんですが、高校の社会かよろしく、1章を割いて日本史も語られています。著者によれば、日本におけるコーヒーはガラパゴスのように独自の進化を遂げているようです。そして、前世紀終わりから21世紀にかけてはスターバックスなどのスペシャルティ・コーヒーの時代に入ります。私はコーヒーはかなり好きで、京都出身ですのでウィンナ・コーヒーで有名なイノダがコーヒーショップとして馴染みがあるんですが、いわゆるチェーンの喫茶店としては、ドメなチェーンとして古くはUCC上島珈琲、今ではコメダ珈琲や星乃珈琲など、我が家の周囲にもいくつか喫茶店があります。もちろん、海外資本としてはスターバックスが有名で、青山在住のころには徒歩圏内に3-4軒もあったりしました。こういった喫茶店、カフェに入ってひたすら読書したりしています。また、子供達がジャカルタ育ちなもので、温かい飲み物を飲むのは我が家では女房だけで、よく見かけるタワー型の魔法瓶すらなく、子供達や私は冷たい飲み物限定だったりするんですが、少なくとも私はオフィスではホットのコーヒーを飲みます。1日2~3杯は飲むような気がします。本書の著者も冒頭に書いていますが、歴史だけでなく、好きなコーヒーのうんちく話を少し知っていれば、プラセボ効果よろしくコーヒーがさらにおいしくなるような気がします。

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2017年11月 4日 (土)

今週の読書はなぜか大量に8冊を読み切る!

台風が来なかった週末に、久し振りに自転車で図書館を回りました。今週の読書はなぜか大量に8冊に上っています。以下の通りです。

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まず、ポール・メイソン『ポストキャピタリズム』(東洋経済) です。著者は英国のジャーナリストです。かなりの年輩ではないかと読んでいて感じました。英語の原題は POSTCAPITALISM であり、邦訳タイトルはそのまんまです。原書は2015年の出版です。ということで、当然ながら、資本主義を生産様式として捉え、単なる市場における資源配分という経済学的な側面だけではなく、生産を中心とする社会的なシステムとして考えれば、資本主義の後釜はすでに250年ほど前にマルクスが提唱したごとく社会主義であり、さらのその先には共産主義が控えている、と考えられなくもありませんが、1990年代に入ってソ連が崩壊し、中国は社会主義なのか、という疑問がある中で、もはや、マルクス的な社会主義、というか、その移行過程についてはかなりの程度に否定されたと考えるべきです。ただし、本書では、古典派経済学のスミスやリカード、あるいは、マルクス的な労働価値説を援用しつつ、最終第10章で提唱されているように、「プロジェクト・ゼロ」=資本主義以後の世界として、限界費用ゼロに基づく新しいポスト資本主義の経済を描き出しています。すなわち、機械や製品の製造コストは限界的にゼロであり、労働時間も限りなくゼロに近づくことから、生活必需品や公共サービスも無料にし、民営化をやめ、国有化へ移行した上で、公共インフラを低コストで提供し、単なる賃金上昇よりも公平な財の再分配を重視し、さらに、ベーシック・インカムで最低限の生活を保障するとともに、劣悪な仕事を駆逐し、並行通貨や時間銀行、協同組合、自己管理型のオンライン空間などを促しつつ、経済活動に信用貸しや貨幣そのものが占める役割がずっと小さくなる社会の実現を目指す、としています。資本論全3巻をその昔に読破し、その他のマルクス主義文献もいくつかはひも解いた私から見て、かなりユートピアンな内容だという気もします。少し前に流行った単なるインセンティブによって、このような経済社会が資本主義に続いて自然発生的に実現するハズもなく、だから、マルクスは暴力革命とその後のプロレタリアート独裁を主張したわけで、要は、移行の問題ではなかろうかという気もします。私の歴史観からしても、歴史は円環的ではなく一直線に進み、生産力の向上の結果、かなり多数の財・サービスの価格がゼロになる経済社会は、確かに、近い将来に見通せる段階まで来ています。マルクス的な世界に近い気もします。ただ、それをどのように実現し、資本主義からポスト資本主義にどう移行するか、私はまだ決定打を持っていません。

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次に、朱寧『中国バブルはなぜつぶれないのか』(日本経済新聞出版社) です。著者は、中国の上海交通大学の研究者であり、行動ファイナンス、投資論、コーポレートファイナンス、アジア金融市場論を専門としているようです。原典は中国語で書かれており、邦訳書は英語版からの翻訳だそうです。中国語の原題は『剛性泡沫』であり、2016年の出版です。シラー教授が序文を寄稿しています。ということで、現在の中国経済のバブルについて、株式市場、土地神話に始まって、その他の金融資産市場及び実物資産市場における通常の価格決定メカニズムでは合理的な説明の出来な異様な資産価格形成について、そして、その広がりについて概観しつつ、そのバブルの原因について分析を加えています。すなわち、共産党が指導する中央政府が主導し、地方政府、国有銀行、国有企業、民間経済界も加わって、合成の誤謬を含みつつも各地方政府における経済成長を最大の目標とし、たとえ資産市場でバブルが発生していたとしても、それを政府が暗黙に保証し、しかも、「大きすぎてつぶせない」仕組みまで動員して、バブルがどんどん膨らんで行く様子が活写されています。特に、私の印象に残ったのは、事業や組織を生産することは「悪」であり、倒産・破産したり、債務支払いをデフォルトするのは大きな恥であり、メンツが潰れる、と捉える前近代的な経済観がまだ中国で主流となっている点です。西欧でも実際に存在したとはいえ、前近代的な債務奴隷の世界を思い起こさせます。事業や企業の健全な発展のための破産法制、チャプター11がもっとも整っている米国などとは大きく異なります。実は、今世紀はじめに私がジャカルタに駐在してODA事業に携わっていた折にも、インドネシアに破産法制を導入しようとしているJICA専門家がいました。私は専門外ですので、横からチラチラと眺めていただけですが、途上国では破産法制はまだまだ未整備であることは事実ですし、中国もその例から漏れないんだろうと思います。著者の見方では、経済成長最大化のために、バブルが崩壊しないように政府が暗黙の保証でサポートしていて、本来破裂するはずのバブルがなかなか崩壊しないのが現在の中国バブルの特徴、ということなんですが、それでも、その強靭なバブル、本書の中国語タイトルである「剛性泡沫」であっても、決して永遠にサステイナブルであるわけはなく、いつかはバブルが崩壊せざるを得ず、それは時間の問題である、と警告するのが本書、というか、著者の主張なんだろうと受け止めています。結論は平凡ながら、中国経済のバブルの現状について把握するのに適当な本ではないかと思います。

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次に、アンドリュー・キーン『インターネットは自由を奪う』(早川書房) です。邦訳者のあとがきによれば、著者は英国生まれのIT系企業家、著述家、コメンテータだそうで、現在は米国在住です。英語の原題は The Internet Is Not the Answer であり、ハードバック版が2014年の出版なんですが、邦訳は2015年出版のペーパーバック版を底本としています。ということで、やや邦訳タイトルは本書の全貌を網羅しているとはいえず、かなり狭い分野に限定しているようなきらいがあるんですが、要するに、インターネットに対するアンチな本です。もともと、インターネットについては民主的な幅広い参加が望めるメディアとして注目され、格差解消などに役立つ可能性が指摘され、本書では何の注目もされていませんが、私の専門分野である開発経済学などでは、世銀が「世界開発報告」2016年版で「デジタル化がもたらす恩恵」を取り上げたりもしています。しかし、同時に、勝者総取りのスーパースター経済学により格差が逆に拡大したり、プライバシーをはじめとして個人情報を含めた巨大なデータベースがかつての冷戦下での東独の秘密警察にたとえられたりと、逆に経済社会にマイナスの影響を及ぼしていると本書の著者は主張しています。そして、それらのマイナスの影響の解消のため、私が今まで接したことのない解決策が提示されており、歴史を待って人類の側でデータ量を積み上げる、という主張です。私が今まで何かにつけて接してきた中で、金融経済の弊害やインターネットをはじめとする情報化社会のマイナスの面などについて、それをさらなる技術進歩で乗り越えようという考えは、今までなかったような気がするだけに、かなり新鮮でした。ただ、それがホントに解決策になるかどうかは歴史が進まないと判りません。メディアの例を引くと、新聞などの印刷物に対して、音声で伝えるラジオ、さらに動画で伝えるテレビなどが技術進歩の結果として現れましたが、それが何らかのソルーションになったかどうかは評価の分かれるところかもしれません。まあ、本書でも指摘されているように、地道に反トラスト法なんぞをテコに、かつてのAT&Tに対峙したように巨大企業の分割、というのもアジェンダに上るのかもしれません。

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次に、スディール・ヴェンカテッシュ『社会学者がニューヨークの地下経済に潜入してみた』(東洋経済) です。著者はコロンビア大学の社会学教授であり、本書に従えば、潜入中に終身在職権=テニュアを取得しています。アーバン・ジャスティス・センター(UJC)におけるセックス・ワーカー・プロジェクトの一環でのフィールドワークです。著者はコロンビア大学に移る前のシカゴにおいて、全米一の規模の公営団地であるロバート・テイラー・ホームズでの麻薬密売人に密着したフィールドワークで一躍有名になっています。邦訳書は『ヤバい社会学』として、同じ出版社から2009年に出ています。本書は、タイトルから明らかな通り、舞台をニューヨークに移し、ターゲットも売春婦としたフィールドワークの結果に基づくノンフィクションのリポートであり、学術書ではありません。英語の原題は Floating City であり、2013年の出版です。なお、英語の原題の "floating" は本書では「たゆたう」と邦訳されています。ということで、私はこの著者の前著は読んでいませんが、ホンワカと認識していた社会学のフィールドワークの結果を興味深く拝読しました。おそらく、前著の麻薬の密売人と違って、売春婦はかなりグローバルな存在であり、世界中のほぼすべての国や地域で少なくとも同じような性風俗産業は観察されるのではないかと思います。売春婦の中でも、下層の立ちん坊からデートクラブのコールガールまで、社会階層、というか、少なくとも所得においては決して下層とはいえず、中流以上の稼ぎのある売春婦も含めて、その実態を社会学の見地から明らかにしようと試みたフィールドワークの記録です。私自身はエコノミストですから、社会学と経済学の違いもわずかながら理解しているつもりですが、本書では pp.282-83 にかけて展開されています。いかにしてマイクロな人が階級、特に所得階級を決定するかについて、学歴とか、経験とか、何らかの知識やノウハウなんかを特定すべく、出来ることであれば統計的な検定に耐えられるサンプル、本書で「n」と称されている人数を確保し、特定化を試みることでしょう。著者は本書で社会学の2大派閥について同じような視点から触れており、エコノミストのやり方は著者の命名によれば科学派、ということになります。それに対して、著者のようなフィールドワークが配置されているわけです。そして、著者が明らかにしているように、経済学の中でも私の専門とする開発経済学の対象である発展途上国ではフィールドワークも大いに有効であろうと思います。誠に残念な点は、私自身が開発経済学の専門でありながら科学派に属していることです。比較的最近、というか、今年になってから読んだ中で、割合と同じような傾向のある本としては、1月28日付けの読書感想文で取り上げた『経済学者 日本の最貧困地域に挑む』があるんですが、上から目線で、救ってやる、助けてやるといったエラそうな手柄話もなく、ニューヨークの売春婦に寄り添う、とまではいいませんが、同じ目線で何らかの出口を探る学究的なまなざしが好感持てます。

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次に、フランス・ドゥ・ヴァール『動物の賢さがわかるほど人間は賢いのか』(紀伊國屋書店) です。著者はオランダ生まれで、博士号の学位取得の後に米国に移った進化認知学の専門家です。英語の原題は Are We Smart Enough to Know How Smart Animals Are? であり、邦訳タイトルはほぼ直訳気味です。冒頭に、二派物語と題する章が置かれており、行動学派のように、動物には人間のような感情・認知・情動といったものはなく、ひたすら本能に従って生きている、と考える一派がある一方で、著者のように認知学派的に、霊長類はいうに及ばず、動物や、無脊椎銅動物、さらに、昆虫にすら何らかの認知行動や情動があると考える一派があるようです。そして、著者は p.351 において、エコノミストにもおなじみのヒュームの言葉を借りて「動物の内面も私たちの内面と似ていると判断する」として、多くの動物には認知や情動があるものとして、その例をしつこいくらいに上げています。同時に、我が母校の京都大学霊長類研究所の今西教授他の研究成果も数多く肯定的に引用されています。シロートながら私の考えるに、キリスト教的な魂の救済という宗教的バックボーンと、東洋的というか、日本でいうところの山川草木悉皆成仏のようなアニミズムに近い宗教観の差ではないかという気がします。すなわり、キリスト教的には魂を持って行動している生き物は人間だけであり、それゆえに、最後の審判では魂が救われるわけですが、日本では人間に限らず、妖怪のような存在まで含めて、生き物はすべて何らかの意義ある存在であり、決して人間を澄天とするヒエラルキーで世界が構成されているわけではない、と考えます。ですから、そして、現在の科学界の見立てでは、東洋的な人間を特別視しない世界観、宗教観がむしろキリスト教よりも科学的である、ということなんだろうという気がします。日本人には何をいまさら、という感がありますが、論旨が明快で判りやすく好感を持てる教養書です。専門外の読者にも一読の価値があります。ただ、神経系を含めて、そもそも人間にどうして認知や情動があるのかが完全には解明されていない現状で、どこまで動物の認知や情動を認めることに意味がるのか、という疑問は残ります。

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次に、佐々木彈『統計は暴走する』(中公新書ラクレ) です。著者は東大社研教授であり、専門は経済学だと思うんですが、やや期待外れの悪書でした。とてつもない上から目線で、要するに、統計を基礎にして論じている、あるいは、説得しようとしている内容について、それが著者の気に入らない主張であれば、論難する、という著書であり、著者が論難している議論よりさらにムリのある主張がツッコミどころ満載で取り上げられています。要するに、著者がこの本でいいたいことは、世論調査や統計の裏付けがあろうとなかろうと、著者の気に入った常識であればOKである一方で、どんな統計処理をシていても著者が気に入らなければNG、ということに尽きるような気がします。それ以外の論点はありえません。およそ、雑でガサツで特段の根拠ない議論が堂々巡りで展開されています。いくつか例を上げておくと、第4章で展開されているような二酸化炭素と地球温暖化の関係、喫煙と発がんの関係などは、どの等な統計を持ってどちらからどちらの方向の相関ないし因果を論証しても、著者が気に入る唯一のルート、すなわち、二酸化炭素は地球温暖化を促進し、喫煙は発がん確率を高める、という因果関係意外はすべて否定されるべきもののようです。そして、その著者の考えるカギカッコ付きの「正しい因果関係」は本書では何ら論証されていません。どうも、著者の考えはアプリオリに正しいと前提されているようです。私が本書を読んだ限り、「暴走」しているのは統計ではなくて、本書の著者のような気がします。よくこんな内容を東大社研の連続セミナーで取り上げたもんだと感心しています。十分批判的な目で読書できる自身がない場合はパスするのが賢明のような気がしますが、怖いもの見たさの読書を否定するつもりはありません。

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次に、日本再建イニシアティブ『現代日本の地政学』(中公新書) です。見ての通りの地政学と地経学に基づき、13章に渡って日本が直面するリスクについて、各専門分野の著者が解説を加えています。すなわち、第1部では安全保障について、米国のアジア太平洋戦略、中国の海洋進出、不安定な朝鮮半島のリスク、中国外交、ロシア、トランプ政権下の米国、そして第2部では地球規模のリスク要因として、エネルギー、サイバー攻撃、気候変動、トランポ政権の経済政策、中国の一帯一路戦略とAIIBの展開、ポストTPPの通称戦略、地政学と地経学などなど、興味あるテーマが並んでいます。現時点での日本のリスクは、何といっても、安全保障面では、いわゆる核の傘を含めて、全面的に米国に依存しつつ、経済学的には中国への依存をじわじわと強めている点です。米国の安全保障政策・戦略についても、オバマ政権期にピボットとか、リバランスと称して、アジア太平洋の重視に戦略を転換しましたが、トランプ政権における安全保障についてはまだ不明な点が多く残されています。安倍総理との首脳間の信頼関係は強いように見受けられますが、政府としての組織の間での協力関係はどうなんでしょうか。この方面の知識は私には皆無に近く、まったくのシロートなのがお恥ずかしい限りなんですが、北朝鮮は本書では「すぐ崩壊しそうにない」(第3章冒頭のp.47) なんでしょうか。私はすでに末期症状に入っているような気になっていたんですが、謎が深まる限りです。TPPについては、私はまったく先行きの見通しをもてません。ただ、本書ではTPPにまだご執心で、日EUの経済連携協定については無視されていたりします。どうしてもこういったテーマになると、米中に加えて朝鮮半島には注目するものの、なぜか、欧州は軽視されがちになるような気がします。

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最後に、若竹七海『静かな炎天』(文春文庫) です。この作者の葉村晶シリーズの最新刊の短編集です。10年余振りのシリーズだと思ったんですが、2014年に『さよならの手口』と題する長編が出版されていたらしく、大慌てで併せて読みました。いずれも文春文庫からの出版です。なお、本作『静かな炎天』の前に出版されている同じシリーズについては、『さよならの手口』も含めて、『プレゼント』、『依頼人は死んだ』、『悪いうさぎ』はすべて私は読んでいます。主人公の葉村晶は女性探偵なんですが、シリーズ物としてとてもめずらしいことに、ほぼほぼ実際の出版と整合的に年令を重ねて行きます。最初の短編集は『プレゼント』であり、小林刑事シリーズの短編と交互に並んでいた記憶があるんですが、葉村晶のデビューは20歳代半ばか後半でした。そして、読み逃していて大慌てで読んだ『さよならの手口』では40代に入っており、この作品では40代も半ばの設定で、40肩で苦しんでいたりします。この短編集では5話目の「血の凶作」が私は一番おもしろかったです。そして、改めて、このシリーズの場合は、長編ではなく短編がいいと強く感じました。長編最新作の『さよならの手口』の文庫版解説にも明記されていたんですが、長編だとついついややこしい、というか、いくつか複数の謎を織り込まれてしまい、通常のミステリなら3-4作品くらいの謎が『さよならの手口』には詰め込まれています。それを評価する読書子もいるんでしょうが、少なくともミステリの場合は「オッカムの剃刀」よろしく、単純な謎解きの方が私は好きです。単なる好き嫌いのお話なんですが、複雑な謎を長々と解き明かされて喜ぶんではなく、シンプルな謎解きを、まさにカミソリのようにスパッと提示される方がミステリの醍醐味だと思います。最後に、このシリーズの主人公の女性探偵である葉村晶は、出版社の謳い文句によれば「不運な探偵」ということになっており、特のこの作品の最終話の「聖夜プラス1」が典型なんですが、私はこういうのを不運とはいわずに、単なるお人好しではないか、と受け止めています。ご参考まで。

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2017年10月28日 (土)

今週の読書は話題の小説を含めて計6冊!

今週は経済書を含めて、計6冊でした。それなりのボリューム感だったんですが、先週末に台風21号の関東接近で自転車で図書館を回れなかったため、予約しておきながら引き取りに行けずにキャンセルされてしまった本が何冊かありました。

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まず、ジョセフ E. スティグリッツ/ブルース C. グリーンウォルド『スティグリッツのラーニング・ソサイエティ 生産性を上昇させる社会』(東洋経済) です。著者の1人とタイトルに冠されたスティグリッツ教授はノーベル経済学賞受賞のリベラル派の経済学者です。英語の原題は Creating a Learning Society であり、2015年の出版です。完全版と縮約版があるような書き振りですが、邦訳は後者のようです。というのは、完全版にあるハズのパートがいくつか見受けられないからです。ということで、本書にいう「ラーニング」というのは、日本では馴染みのない用語かもしれませんし、私も戸惑っているんですが、まあ、正規の学校教育ではなく、むしろ、企業内におけるOJT、あるいは、イノベーションの基となるようなR&Dも含めた幅広い概念のような気がします。そして、読み始めは先進国における経済成長の底上げに関する議論かと思っていましたら、最後の方では、著者自身も「すべての国にあてはまるが、おそらく特に関係するのは発展途上国」(p.426)であろうと認めていて、ほぼ、私の専門分野である開発経済学とも重なります。すなわち、新自由主義のようなトリクルダウン経済学を否定し、かつてのワシントン・コンセンサスが機能しなかったと結論し、包括的(たぶん、inclusive)な経済発展・成長を目指すものとなっています。その対象は工業(あるいは、製造業?)であり、農業ではないとし、現在の自由貿易への過度の信頼、過重な知的財産権保護、金融の自由化をはじめとする行き過ぎた規制緩和、などなどを構成要素とする市場による経済問題の解決への期待をかなりの程度に否定して、より積極的な政府の市場への介入を求めています。その上で、ラーニングという動学的な比較優位の理論を再定義し、スピルオーバー(外部性)を十分考慮しつつ、開発戦略や成長戦略の練り直しを議論しています。例えば、かつての日本のもあった幼稚産業論ではなく、より動学的な意味でスピルオーバーの大きな幼稚産業保護論を展開し、為替政策や産業政策の導入を正当化し、また、景気変動を安定化させることによるラーニングの強化とイノベーションの促進の重要性などを論じています。そこに、独占の功罪の再考察も含まれます。それらの考察の結果として、米国型の競争的市場経済ではなく、北欧型の政府が大きな役割を担い、競争ではなく社会的な保護を提供し、その結果として格差が小さく寛大な経済モデルの優れた点を強調しています。500ページ近いボリュームがあり、しかも、かなりレベルの高い内容を含む質・量ともに上級のテキストですので、なかなか、短い読書感想文では書き切れませんが、pp.419-21の箇条書きされたサマリーを立ち読みして、買うか、借りるか、諦めるか、を決めればいいんではないでしょうか?

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次に、板坂則子『江戸時代 恋愛事情』(朝日新聞出版) です。著者はややご年配の専修大学の研究者であり、専門分野は江戸後期小説や浮世絵、江戸期のジェンダー論だそうです。ということで、タイトル通りの本なんですが、上の表紙画像を見てもある程度は理解できるように、カラーを含めてかなり図版、おそらくは半分近くが浮世絵、が挿入されており、かなり豪華本の印象を受けます。しかし、中には、電車などの不特定多数から覗き込まれる可能性ある場合には、やや気まずさを覚えるものも含まれていたりするので注意が必要です。というのは、著者が冒頭に書いている通り、江戸期の恋愛とは、いわゆる「惚れた腫れた」ばかりではなく、ほとんどが肉欲に基づく性愛、すなわち、セックスだからです。しかも、ヘテロの男女間だけでなく、ほぼ同等に近いスペースを割いてホモセクシュアルの男色についても本書では取り上げています。著者は明記していませんが、おそらく、江戸期のしかも将軍のおひざ元である江戸という当時の世界でもまれな大都会における恋愛事情ですしょうから、どこまで日本全国に拡張できるのかは不明、というか、疑問なんですが、私のような極めて無粋な田舎者には理解できない世界が展開されていたようです。私は関西人ながら、浅草近くの下町に住んでいた経験もあって、やむなく、それなりの江戸趣味、すなわち、相撲や歌舞伎などのたしなみを身につけているつもりだったんですが、とうていかなわないと感じました。単なる興味本位では読み解けない謎かもしれません。でも、私のような一般人には決して表芸にはならないような気もします。むしろ、BLに興味を示す「腐女子」向けかもしれません。

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次に、宮部みゆき『この世の春』上下(新潮社) です。著者はご存じの売れっ子作家であり、我が国でも五指はともかく、十指には入りそうな気がします。出版広告に「作家生活30周年記念作品」と銘打たれており、それなりのボリューム、重厚な内容であることはいうまでもありません。現代を舞台にしたミステリからゲームの原作、あるいは、時代小説なども含めて、幅広い作品を執筆していますが、まず、表紙画像でも理解できる通り、この作品は時代小説です。しかも、非現実的な要素を含むという意味でファンタジーに近く、その意味では、『孤宿の人』が同じ作者の作品の中で、というか、私が読んだ宮部作品の中では最も近い気もします。なお、出版社では「ファンタジー」ではなく、サイコ&ミステリーと称しています。でも、最近の作品の中では、『荒神』のように、非科学的な要素がそれほど大きな役割を果たしているわけではありません。ということで、舞台は江戸時代の比較的初期であり、八代将軍吉宗のかなり前で、北関東の小藩を舞台に、若い藩主の押し込め、すなわち、家臣・重臣による藩主の強制的な隠居、代替わりに始まり、その前藩主の闇の部分の究明、すなわち、ネタバレですが、隠居させられた藩主の多重人格の原因探しとなります。御霊繰と呼ばれる死者の霊との交信を司る一族の皆殺し、10歳を超えたあたりの少年のかどわかし、英明な名君主とされている押し込められた前藩主の父親に対する疑念、そして、藩内に暗躍する忍者、というか、闇の集団の存在とその悪意、そして、それらを利用するつもりで逆に祟られ呪われていた藩主一族、などなど、この作者の作品に特徴的なストーリーの運び、すなわち、1枚1枚の薄皮をむいていくように、決してどんでん返しなどなく、ほぼ一直線に一歩一歩謎の解明に向かいます。ですから、謎解きという点では途中でほぼほぼ明らかになりますので、その点では物足りないと感じる読者もいるかもしれませんが、このような謎の解明プロセスはこの作者の作品の特徴のひとつと私は受け止めています。それにしても、ボリュームにふさわしい複雑怪奇なプロットを易々と書き上げている作者の筆力、力量には相変わらず敬服しかありません。素晴らしい作家としての能力だという気がします。売れっ子作家の安定した作品ですし、私を含めたこの作者のファンは買って読む読書子が多そうな気がしますが、時代小説という点を加味しても、私はこの作者の最高傑作は『模倣犯』であるという信念は揺らぎませんでした。

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次に、伊坂幸太郎『AX アックス』(角川書店) です。同じ著者の『ホワイトラビット』も新潮社から出版されたばかりですが、出版順従って、コレから読んでみました。たぶん、『ホワイトラビット』も読むんではないかと思います。ということで、著者の人気シリーズのひとつの殺し屋シリーズの流れの作品です。すなわち、『グラスホッパー』や『マリアビートル』に連なる作品です。ただし、以前の殺し屋シリーズで登場した殺し屋の中で、この作品にも登場するのは槿だけで、そういえば、私のような記憶力に難のある読者にはやや複雑すぎるストーリーなのですが、最初に登場した蝉や鯨はもう死んでしまっているのかもしれません。なお、この作品の主人公は兜といい、子煩悩な恐妻家だったりします。これも、同でもいいことなのかもしれませんが、シリーズ前作の『マリアビートル』では槿が最強の殺し屋、と宣伝されたいたように記憶している一方で、この作品では新登場の兜が最強と宣伝されています。まあ、どうでもいいことです。それから、内科の医者が黒幕、というか、ストーリーに登場しないホント黒幕からの連絡者の役割を果たしており、兜は殺し屋の業界から引退したがっている、という設定です。アルファベットのAからFで始まる6章から成る連作短編のような仕上がりで、繰り返しになりますが、主人公の殺し屋である兜は引退したいんですが、他方、引退するにはもう少し義理を果たして、引退に必要な金を稼ぐため、仕方なく仕事を続けねばならないという、まるで、芸能プロダクションの移籍問題のような展開があり、兜は仕方なくいくつかの仕事を請け負い、同時に、別の殺し屋からターゲットにされたりして、お話は進みます。同時に、ひとり息子を愛する子煩悩な父親であり、かつ、恐妻家である家庭人としての顔も余すところなく作品に盛り込まれており、それはそれで興味深く、殺し屋と恐妻家の2つの人格を使い分けている主人公のキャラの立て方には感心すると同時に、さすがの作者の力量をうかがわせます。ただ、主人公が殺し屋ですので仕方ないんでしょうが、一介の公務員である私から見て、世の中にはやたらと殺し屋がいるんだという誤解をしてしまいそうな密度で殺し屋が登場します。兜の家族以外の一般人の登場も望みます。ラストはさすがに伊坂流の心温まる(?)終わり方をします。

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最後に、天野郁夫『帝国大学』(中公新書) です。著者は東京大学教育学部をホームグラウンドとする研究者の大先生で名誉教授だったと記憶しています。2009年に同じ中公新書で『大学の誕生』上下を出版しています。そして、この本ではタイトル通りに戦前を中心に少しだけ戦後も含めて帝国大学を取り上げています。もちろん、帝国大学以外の大学や大学予備門としての旧制高等学校にも触れています。東京、京都に続いて、各地域の事情に応じて設立・拡充される歴史、帝大学生の学生生活や卒業後の就職先、教授たちの研究と組織の体制、大学入学準備の予科教育の実情、太平洋戦争へ向かう中での帝大の変容など、「学生生徒生活調査」などの豊富なデータに基づき活写しています。明治期から昭和戦前期にかけての建学から戦後、「帝国」の名称を外して国立総合大学に生まれ変わるまでの70年間を追い、大正期の大学令で確立し現在まで続くエリート7大学の全貌を描いています。はばかりながら、私もその7大学のうちのひとつの卒業生ですし、それなりの興味はあります。私の学生時代まで明らかに東大は官僚養成の一翼を担っていましたし、官界だけでなく、政財界、教育・文化界に多くの卒業生を送り出し、「近代日本のエリート育成機関」だった戦前期の帝国大学を明らかにしています。米国東海岸にはハーバード大学やイェール大学をはじめとして、いわゆるアイビーリーグと呼ばれる一群の大学があり、集合的な大学の存在とみなされていますが、日本でも「早慶」という呼称があったり、入試の偏差値のくくりでMARCHと呼ばれる一群の大学がありますが、現在の日本の大学で集合的に取り扱われるのは東京6大学とこの本で取り上げられている旧制帝国大学7大学くらいではないかと思います。前者は地域的な集合体、後者は学術レベルも含めたエリート排出機関としての集合体、という特徴があります。卒業生のひとりとしては、先輩方のご活躍を含めて興味深く読めました。

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2017年10月21日 (土)

今週の読書は経済書のほかに話題の新刊ミステリなど計7冊!

今週は、経済書は大したことのないのを1冊だけで、売れっ子作家によるミステリの新刊書を2冊ほど読みました。新書も入れて計7冊、以下の通りです。

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まず、ジョン・ケイ『金融に未来はあるか』(ダイヤモンド社) です。著者は英国のエコノミストであり、金融関係で政府のレビューなども執筆したこともあるそうですが、私はよく知りませんでした。英語の原題は Other People's Money であり、直訳すれば「他人のおカネ」ということになるのかもしれません。2015年の出版です。2008年から始まる金融危機とそれに伴う景気後退(Great Recession)について論じており、今さらながらの金融本なんですが、ハッキリいって、期待外れです。金融に限らず複雑に絡まり合った需要供給構造は経済の発展に即した現状の歴史的経緯を反映しており、もちろん、いわゆるグローバル化が複雑怪奇さを一層促進したのはいうまでもないとして、かつての小さな地理的商圏を発想の原点として、いわゆる「顔の見える範囲」での大昔の金融取引に戻れ、的な志向はややうんざりします。歴史認識の違いとしかいいようがないんですが、私は西洋人的に一直線に進む歴史を念頭に置いており、グルッと回って元に戻る円環的な歴史観を持っているのであれば、あるいは、ビッグデータの活用などから個人や企業に関する詳細情報をかつての「顔が見える」に代替して活用することも可能かもしれません。人工知能(AI)が現状のように金融スコアを機械的に弾き出すだけでなく、より詳細な個別情報を分析できるようになれば、あるいは可能かもしれないと思いつつも、本書で著者自身が防衛線を張っているように、かなりナロー・バンクに近いような銀行業務の縮小とか、フィクスト・インカムなどの債券に特化したカストディアンに近い決済専業に近い業務体系とか、時計の針を逆回しにするような処方箋であるとしか思えません。それほど指摘される点ではありませんが、少なくとも、too big to fail というのは、同時に、too complexed to be regulated であり、複雑すぎて規制できない、というのも単純化し過ぎている点を別にすれば、ほぼほぼ真実に近いような気もします。その上で、金融正常化の主体となるのが政府から企業へのラインであるというのは、余りにも発想が古いというか、従来通りであり、ムリがあります。注目したがるのは規制当局の金融庁くらいのものだという気がします。せめて、政府から消費者に情報が伸びて、消費者自らが市場で選択が出来るような情報の流れを想定するくらいの発想は出来ないものでしょうか?

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次に、ジョーン C. ウィリアムズ『アメリカを動かす「ホワイト・ワーキング・クラス」という人々』(集英社) です。著者は米国の大学の法律の研究者なんですが、長らく女性の地位向上に携わって来たらしいです。英語の原題は White Working Class であり、今年2017年の出版です。ということで、昨年2016年の米国大統領選挙でトランプ政権誕生の原動力のひとつと見なされている白人労働者階級について論じています。出版社のサイトなどで章別の構成を見れば明らかなんですが、白人労働者階級の特徴を章別に解説しています。14章から成る構成のうち、10章超を白人労働者階級の特徴の解説に当てています。そして、その前提として、米国をザックリと3つの階層に分類しています。すなわち、エリート、労働者階級、貧困層です。そして、エリートはさらに専門職と富裕層に大雑把に分けています。白人の労働者階級はエリートの中でも専門職には反感を持っている一方で、富裕層にはそれなりの敬意を払っているという特徴も指摘されています。続いて、仕事のある場所に引っ越さない、大学に行こうとしないし子供の教育には熱心ではない、人種差別や性差別の傾向がある、製造業の仕事が増加しないことを理解していない可能性がある、看護師などの女性向のピンクカラーの仕事に就こうとしない、政府の福祉政策に対して極めて無理解であ利自身が恩恵を受けていることを知らない、などと行った白人労働者階級の特徴を論じつつ、その要因についても分析を行っています。英語の原題も class ですし、邦訳でも階級と明確に訳しているように、日本以外の国ではそれなりの階級らしき構造があることは明白であり、それは貴族や王族のいない米国でも同様です。私が米国連邦準備制度理事会(FED)のリサーチ・アシスタントをしていたころも、おそらく本書では専門職のひとつに分類されるんでしょうが、ビールは日本でも有名なバドワイザーは労働者階級のビールであり、エコノミストはクアーズを飲む、といった違いがありました。そして、酒を飲んだ席のジョークながら、その昔のニクソン大統領の最大の功績のひとつは、クアーズをロッキー山脈を越えさせたことである、などといい合っていたモノです。日本ではクアーズよりもバドワイザーの方が圧倒的に知名度が高いので、私は少しびっくりした記憶があります。本書でも、p.50あたりから記述しており、買い物をするスーパーマーケット、視聴するテレビ番組などなど、目には見えにくいながら明確な階級的な特徴があります。こういった階級の特徴を、とてもステレオ・タイプながら、本書ではなかなかよく捉えていそうな気がします。ただ、私には実態をどこまで自分自身で理解しているかが不明ですので、本書の記述についてもどこまで正確なのかは十分な把握ができません。ただ、少し前に『ヒルビリー・エレジー』や『われらの息子』などを読みつつ感じたのは、ポピュリズムの交流は、確かに、米国トランプ政権誕生がもっとも画期的だったかもしれませんが、英国のBREXITや大陸欧州のいくつかの選挙でも実際に観察されることですし、こういった欧米諸国の現状を総合的に分析する必要があるような気がします。強くします。米国が典型的でドミノの倒れ始めかもしれませんが、さらに、国別ではなく世界的なポピュリズムの台頭を分析するべきではないでしょうか。かつて、ドイツのナチズム、イタリアのファシズム、日本の国粋主義など一連の思想的な流れの中で戦争に行きついてしまって、こういった流れを止められなかっただけに、世界的な分析の必要を強く感じます。

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次に、古市憲寿『大田舎・東京』(文藝春秋) です。社会学者である著者が、東京の都バス100路線に乗ってエッセイを綴っています。著者の発見というわけでもないんでしょうが、都バスは東京23区の東部でよく走っており、新宿から西ではそれほど見かけません。もちろん、バスはそれなりに走っているんですが、都バスではなく私鉄会社などが走らせているバスが増える気がします。ですから、都バスに乗るということは、いわゆる下町やウォーター・フロントを回る確率が高くなります。著者の表現では、そこに「昭和」を見ることになります。世界に冠たる大都会の東京ではなく、高齢化が進み、場所によってはシャッター商店街と化しているところもありで、花の都東京というよりも地方の印象に近いのかもしれません。私が都バスを通勤に利用したのは、1990年から91年に在外公館に出向する前に外務研修所に通うのに都02の都バスを使っていました。外務研修所は現在では相模大野だか町田だかに移転しましたが、当時は茗荷谷にあり、私は大関横丁近くの荒川区と台東区の境目あたりに住んでいました。御徒町、というか、春日通りまで地下鉄で出て、そこから大塚車庫行の都02の都バスで半年近く通勤していました。通勤はそれだけですが、都バスで馴染みあるのはやっぱり都01です。なぜか、年末12月のベートーベン第9のコンサートに何年か続けて聞きに行くことがあり、なぜか、サントリー・ホールでしたのでこの都バスで行った記憶があります。後は、都バスとの連想ゲームで、私の場合は「統計局」という回答が飛び出したりします。その昔、副都心線や大江戸線の地下鉄が出来る前、霞が関から若松町の統計局に行くのには都バスを使っていました。そのころ、私自身が統計局勤務になるとは思っても見なかったんですが、統計局勤務になって驚いたのは、朝夕の通勤時に都バスが統計局のビルに横付けされることです。本書でも、いくつか片道180円で短距離の通勤・通学バスの紹介がありますが、私は乗ったことはないながら、たぶん、新宿と統計局の間の直通の都バスが平日の朝夕に運行されていました。通勤途上で追い抜かれたり、役所の建物に都バスがデンと駐車されているんですから、なかなか壮観だったと記憶しています。

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次に、東野圭吾『マスカレード・ナイト』(集英社) です。シリーズ第3作最新作です。日本橋のホテルコルテシア東京を舞台に、ホテルのコンシェルジュである山岸尚美と警視庁の刑事である新田浩介のコンビがホテルでの犯罪を未然に防止します。しかも、事件が起こる確率がもっとも高いのは大晦日から新年を迎えるカウントダウンパーティの会場であり、しかもしかもで、そのカウントダウンパーティが仮装で行われますので、まさにこの作品のタイトル通りのマスカレード・ナイトになってしまうわけです。関西弁をしゃべる若い夫婦に、金に糸目をつけずにサプライズでプロポーズをもくろむ米国在住の日本人男性、夫婦2人を装いつつも女性1人でしかも予約時と苗字の異なるクレジットカードを使おうとする女性、ネームプレートのないゴルフバッグを持ち込んだ暗い感じの男性、家族連れで宿泊した一家の亭主の浮気相手が突然鉢合わせ、などなど、怪しさ満点の宿泊客に加えて、ホテルのスタッフは山岸尚美と総支配人の藤木は前作からのお馴染みとしても、新田をサポートする氏家の頑迷固陋な融通の利かなさとホテルへの愛情から生じた警察への非協力的な態度もあり、時刻の経過とともに、いろんな事実が明らかになる一方で、同時に複雑怪奇な様相も混迷を深めて真犯人にはたどり着かない、という結果になります。もともと、大衆瀬包摂というか、エンタメ小説ではミステリの東野圭吾と企業小説の池井戸潤が、キャラ設定やストーリ・テリングの点で、読者に訴えかける筆力といったものが抜群の双璧と私は考えていたんですが、さすがに、ミステリですので、この作品についてはプロットがやや複雑怪奇に過ぎる気がします。黙秘を続けていた犯人が、最後に新田に対してだけ自白するわけですが、何と申しましょうかで、その犯罪に対する犯人の解説がやたらと長い気がします。犯行の動機や実行の経緯などについて、しっかり読めば判らないでもないんですが、冗長というよりは長々とした説明の必要なプロットなんだろうと思います。私はエコノミストとして経済の現象について説明する場合、「オッカムの剃刀」を念頭に置きますが、どうもその観点からは、この作品はどこまで評価できるか疑問です。ただ、シリーズ第2作の『マスカレード・イブ』はもちろん第1作の事前譚の短編集でしたし、第1作の『マスカレード・ホテル』も連作短編のような構成でしたので、第3作の本作品『マスカレード・ナイト』がシリーズ初めての本格長編である、という見方も出来ます。長編ファンにはいいんではないでしょうか。

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次に、道尾秀介『満月の泥枕』(毎日新聞出版) です。作者は『月と蟹』で直木賞を受賞した売れっ子、というか、私の注目のミステリ作家であり、この作品は1年に渡って毎日新聞夕刊に連載されていたものを単行本をして出版しています。ということで、幼い娘を亡くして離婚も経験した30代半ばの主人公の男性が、姪に当たる兄の娘の小学生が母親から捨てられた際に引き取り、とともに貧乏アパートに暮らすわけありの仲間とともに、よく実態の知れない冒険を繰り広げます。アパートの仲間はバイオリン趣味の老夫婦、物まね芸人、アパートの大家の倅、売れない画家などで、この小説でマドンナ役を演じる女性がアパートの外から参加します。どういう冒険家というと、町内の剣道場の小倅から行方不明の祖父について、実は殺害されて池に沈められている恐れがある、というか、その確率が高いとして、一計を案じて1年の準備期間を経て、夏祭りの時期に町内の人々を池を浚う役割に引き込みます。案の定、池からは頭蓋骨が発見されるんですが、その後、それを持って剣道場の師範親子孫とアパート住人の面々が岐阜県に行ったりと冒険が続きます。何となく、『透明カメレオン』に似たストーリーで、わけありで過去のやや暗い主人公に対して、同じ色彩を持ちつつ、じつはかなり嘘で固めた、とまではいわないまでも、決してすべての事実を明らかにすることなく、かなりの程度にうそや隠し事を持った周囲の人が主人公を巻き込んで、何らかの事件が展開して、でも、かなり際どいご都合主義によりハッピーエンドで終わる、というミステリです。この作者の場合、初期の作品はかなり本格的な謎解きミステリ、あるいは、ホラーやサスペンスの作品が多かったような気がしますが、受賞作品が増えるに従って、わけありの登場人物がうそを交えつつ事件を進行させ、人物や事件をていねいに描写する、という作品が多くなっている気がします。別の表現をすれば、だんだんと重松清の作品に近づいている気がしてなりません。その意味で、少し私の好みから外れつつあるのが残念です。

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次に、銀座百点[編]『おしゃべりな銀座』(扶桑社) です。銀座百店会が発行するタウン誌「銀座百点」に掲載されたエッセイ50篇を収録しています。最近、とはいうものの、2004年から2016年までの掲載です。見事に、執筆者の50音順で収録されており、どうしても、私の苗字である「やゆよ」の行とか、和田さんなどは日本語の50音順でも、アルファベット順でも最後の方になります。ということは別として、執筆者は作家やエッセイストなどのライターが多いんですが、それ以外にも映画や演劇、あるいは、建築家や画家・デザイナーなどの広い意味での文化人です。もちろん、銀座がお題ですので東京の人が中心になりますが、関西人をはじめとして地方在住者も何人か見受けられます。銀座ですので、どうしても、お酒を含む食べ物のエッセイとか、ファッション関係が目立った気がします。でも、なぜか、音楽関係はほとんど出て来ませんでした。山野楽器にヤマハもありますし、私自身はヤマハでスコアを買い求めた記憶もあります。それから、食べる方では竹葉亭を取り上げた執筆者が何人かいますが、やっぱり、竹葉亭はウナギではないだろうかと思います。銀座に興味ある方には何かしら参考情報になりそうな気がします。

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最後に、小山聡子『浄土真宗とは何か』(中公新書) です。著者は日本中世宗教史の研究者だそうで、タイトル通りに浄土真宗にフォーカスしていますが、あくまで著者ご専門の中世史からの視点であり、明治以降の清澤満之などの宗教論もなくはないですが、より近代的・現代的な浄土真宗についてはフォローし切れていないように見受けました。哲学、というか、宗教論からの解明ではありません。ということで、浄土真宗の信徒として少し不満の残る内容ではあるんですが、まずまず、よく取りまとめられています。ただ、本書では否定されていますが、キリスト教になぞらえて、浄土真宗や日蓮宗などの鎌倉新仏教を宗教改革以降のプロテスタント、それまでの南都北嶺の国家鎮護仏教をカトリックになぞらえるのは、もちろん、決して全面的ではあり得ないものの、部分的ながらかなりの程度に当たっていると考えていいと私は考えています。それと、法然の浄土宗と親鸞の浄土真宗の違いは、確かに本書で指摘されている通り、神道などの他宗教や仏教の他宗派に対する寛容性もありますし、それはそれでとても大衆的な理解ではあるんですが、実は、俗の部分ではなく聖の部分の違いが大きいと私は考えており、要するに、浄土宗では僧が受戒する必要があり、僧と信徒の区別が厳格であるのに対して、浄土真宗は戒がなく、従って、僧と信徒の差はかなりの程度にあいまいです。もちろん、他宗派との違いも浄土真宗の場合は大きく、死ぬことを往生というのは同じような気がしますが、戒名ではなく法名ですし、従って、仏壇に位牌は置きません。卒塔婆を立てないのは追善供養を否定するといいつつも、七回忌くらいまでは営んだりもします。でも、冥福という言葉を浄土真宗の信者に用いつことはかなりの程度に失礼に当たりますし、呪術はもちろん、霊という言葉も使用を避けます。ほぼほぼ一神教に近いのは同じながら、浄土真宗の方がその程度は強く、しかも、かなり天上天下唯我独尊で独善的というか、排他的な色彩が強いですから、織田信長ではありませんが、戦国武将にはそれなりの脅威だったのかもしれません。

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2017年10月14日 (土)

今週の読書は経済書から小説までいろいろ読んで計7冊!

今週の読書は、なかなかにして重厚な経済学及び国際政治学の古典的な名著をはじめとして、以下の通り計7冊です。がんばって読んでしまいました。

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まず、オリバー E. ウィリアムソン『ガバナンスの機構』(ミネルヴァ書房) です。著者はノーベル経済学賞を授与された世界でもトップクラスの経済学者であり、専門分野はコース教授らと同じ取引費用の経済学です。本書は、 『市場と企業組織』と『資本主義の経済制度』に続く3部作の3冊目の完結編であり、英語の原題は The Mechanism of Governance であり、邦訳書のタイトルはほぼ直訳です。原書は1998年の出版ですから、20年近くを経て邦訳されたことになります。本書の冒頭でも指摘されている通り、取引費用の経済学は広い意味での制度学派に属しており、その意味で、同じくノーベル経済学賞を受賞した経済史のノース教授らとも共通する部分があります。そして、いわゆる主流派の経済学の合理性では説明できないながら、広く経済活動で観察される事実を説明することを眼目としています。少なくとも、経済史における不均等な経済発展は主流派の超のつくような合理性を前提とすれば、まったく理解不能である点は明らかでしょう。その昔は、合理的な主流派経済学で説明できないような経済的活動については、独占とか、本書では指摘されていませんが、外部経済などに起因する例外的な現象であるとされていましたが、現在では、今年のノーベル経済学賞を受賞したセイラー教授の専門分野である行動経済学や実験経済学にも見られるように、個人の合理性には限界があり、この限定合理性の元での現象であるとか、ウィリアムソン教授やコース教授の取引費用の観点から、一見して非合理的な経済活動も合理性あるとする見方が広がって来ています。ということで、本書では取引費用から始まって、ガバナンスについて論じているのはタイトルから容易に理解されるところです。しかしながら、本書のレベルは相当に高く、おそらく、大学院レベルのテキストであり、大学院のレベルにもよりますが、大学院博士後期課程で取り上げられても不思議ではないレベルです。それなりのお値段でボリュームもあり、そう多くはありませんが、モデルの展開に数式を用いている部分もあります。書店で手に取って立ち読みした後で、買うか買わないかを決めるべきですが、読まなくても書棚に飾っておく、という考え方も成り立ちそうな気がします。だたし、最終第14章はそれほど必要とも思いませんでした。

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次に、フィリップ・コトラー/ヘルマワン・カルタジャヤ/イワン・セティアワン『コトラーのマーケティング 4.0』(朝日新聞出版) です。著者のうちのコトラー教授はノースウェスタン大学ケロッグ経営大学院の研究者であり、私でも知っているほどのマーケティング論の権威です。英語の原題は Marketing 4.0 であり、邦訳のタイトルはほぼそのままです。今年2017年の出版です。私は専門外なので知らなかったんですが、コトラー教授によれば、マーケティング1.0は製造者の生産主導のマーケティングであり、2.0は顧客中心、3.0は人間中心とマーケティングが進歩して来て、本書で論じられる4.0はデジタル経済におけるマーケティングです。ただし、本書でも明記されている通り、従来からの伝統的なマーケティングが消滅するわけではなく、併存するという考えのようです。もちろん、インターネットの発達とそれへのアクセスの拡大、さらに、情報を受け取るだけでなく発信する消費者の割合の飛躍的増大からマーケティング4.0への進歩が跡付けられています。といっても、私の想像ですが、おそらく、グーテンベルクの活版印刷が登場した際も、あるいは、ラジオやテレビが普及した際も、それをマーケティングと呼ぶかどうかはともかくとして、こういった新たなメディアの登場や普及によりマーケティングが大きく変化したんではないかという気がします。基本的に、経済学では市場とは情報に基づいて商品やサービスが取引される場であると理解されており、その意味で、市場で利用可能な情報が多ければ多いほど市場は効率的になるような気がします。ただ、それに関して2点だけ本書を離れて私の感想を書き留めれば、まず、本書では注目されていないフェイク・ニュースの問題があります。消費者のレビューにこれを当てはめれば、日本語でいうところの「やらせ」になり、いくつか問題が生じたことは記憶に新しいところです。こういったフェイクな情報とマーケティングの関係はどうなっているのでしょうか。フェイクな情報は市場の中で自然と淘汰されるのか、そうでないのか。私はとても気にかかります。こういったコトラー教授なんかの権威筋のマーケティング論の本を読むにつけ、今年のノーベル経済学賞を受賞したセイラー教授らの行動経済学や行動経済学における意思決定論は、おそらく、企業が市場でしのぎを削っているマーケティングにはかなわないような気がします。理論的な実験経済学や行動経済学よりも、理論化はされていないかもしれませんが、市場の場で鍛えられた実践的なマーケティングの方が、よっぽど的確に選択や意思決定を明らかにしているような気がします。いかがでしょうか。

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次に、フランソワ・シェネ『不当な債務』(作品社) です。著者はフランスのパリ第13大学の研究者であり、同時に、社会活動にも積極的に取り組み、近年では反資本主義新党NPAの活動に携わり、トービン税の実現を求める社会運動団体ATTACの学術顧問も務めているそうです。フランス語の原題は Les Dettes Illégitimes であり、邦訳のタイトルはほぼそのままです。2011年の出版です。ということで、私の目から見て、フランス国内で主流のマルクス主義経済学的な観点である蓄積論からの債務へのアプローチであり、同時に、ケインズ経済学的な観点も取り入れて、マイクロな経済主体の経済活動をマクロ経済への拡張ないしアグリゲートする際の合成の誤謬についても債務問題に適応しています。特に、この観点を日本経済に当てはめる場合、資本蓄積が先進諸国の中でももっともブルータル、というか、プリミティブに実行されており、かなりあからさまな賃金引き下げ、あるいは、よりソフィスティケートされた形である非正規雇用の拡大という形で、先進国の中でも特に労働分配率の低下が激しく、その分が実に合理的に資本蓄積に回されているわけです。最近時点での企業活動の活発さと家計部門の消費の落ち込みを対比させるまでもありません。その上で、かつての高度成長期から現在まで、債務構造が大きく変化してきているわけです。別の経済学的な用語を用いると貯蓄投資バランスということになりますが、高度成長期や、そこまでさかのぼらないまでも、バブル経済前で日本経済が健全だったころは、家計が貯蓄超過主体であり、家計の貯蓄を企業の投資の回していたわけですが、現在では、「無借金経営」の名の下に、企業はむしろ貯蓄超過主体となっており、一昔前でいえば月賦、現在ではローンを組んで、あるいは、クレジットカードによる支払いで、家計が債務を負った形での消費が進んでいるわけです。教育すら奨学金という過大な債務を学生に負わせる形になって、卒業後の雇用に歪みを生じていることは明らかです。加えて、政府債務についても、銀行やその他の金融機関、あるいは、民間企業を救済するための債務を生じている場合が多いのも事実です。こういった債務をいかにして解消するか、貯蓄と債務のあり方について、資本蓄積の過程から分析しています。かなり抽象度が高くて難しいです。私は一応、京都大学経済学部の学生だったころに『資本論』全3巻を読んでいますが、それでも、理解がはかどらない部分が少なくありませんでした。

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次に、秋元千明『戦略の地政学』(ウェッジ) です。著者は長らくNHKをホームグラウンドとして活動してきたジャーナリストです。アカデミックなバックグラウンドは明確ではありませんが、実際の外交や安全保障に関する情報には強いのかもしれません。本書では、最初の方で歴史的な戦略論、すなわち、マッキンダーのランドパワーとシーパワーの特徴やハートランドの重要性の強調、さらに、スパイクマンのリムランドからハートランドを取り囲む戦略論、マハンのシーパワー重視の戦略論、ナチスの戦略論を支えたハウスホファーなどなど、まったく専門外の私でも少しくらいなら聞いたことがあると感じさせるような導入を経て、最近の世界情勢を地政学的な観点から著者なりに解釈を試みようとしています。その基本的な考え方は、日本はシーパワーの国であり、その点から米英と連合を組み、特に、米国と同盟関係にあるのは安全保障の観点からは理由のあることである、ということについては、本書の著者以外も合意できる点かもしれません。その上で、第8章冒頭にあるように、著者は現在の安倍政権を安全保障に関する考え方が地政学に立脚しているとして大いに評価しています。吉田ドクトリンとして米国に安全保障政策を委ねて、日本は経済復興に重点を置く、という戦後の基本路線を敷いた吉田総理以来の地政学的な基本を共有していると指摘しています。その上で、やや外交辞令にようにも聞こえますが、米国をハブにしつつ、大昔のように日英同盟も模索するような視点も見られます。ただ、本書では明確に指摘していませんが、民主党政権下で米国との同盟重視から中国に方向を変更しようと模索した挙句、結局、虻蜂取らずというか、中国も袖にしてメチャクチャな反日暴動や日中対立の激化を招いた経験から、羹に懲りて膾を吹くような態度は判らないでもないものの、米国が世界の警察官を降りる現状では視点を大きく変えて、米国との同盟をチャラにする仮定での我が国の安全保障政策も、あるいは、そろそろ考える段階に達したのかもしれません。もちろん、その場合は、米国に指揮権を委ねている自衛隊の軍事行動の自律性というものも考慮する必要があります。私は専門外のシロートですので簡単にいってのけてしまうんですが、難しい問題なのかもしれません。

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次に、佐藤究『Ank: a mirroring ape』(講談社) です。私はこの作者の作品読んだのは、前作の江戸川乱歩賞受賞作『QJKJQ』が初めてで、この作品が2作目なんですが、当然の進歩がうかがえて、この作品の方が面白く読めました。前作はデニス・ルヘインの『シャッター・アイランド』の焼き直しのような気がして、どうも、オリジナリティが感じられなかったものの、本作は、おそらく、パニック小説に分類されて、高嶋哲夫の作品などと並べて評価されるような気がしますが、作品の出来としてはともかく、オリジナリティにあふれていたような気がします。以下、ネタバレを含みます。未読の方は自己責任でお願いします。ということで、要するに、アフリカで保護されたチンパンジーが「京都ムーンウォッチャーズ・プロジェクト」、通称KMWPなる霊長類の研究所、これは我が母校の京大の霊長類研究所とは違って、天才的なAIの研究家で大富豪となったシンガポール人によって設立された民間の研究機関ですが、そのKMWPに収容され、ふとしたきっかけで警告音を発してしまい、その警告音がヒトを含む霊長類を同種の生物の殺戮へと向かわせる、というものです。ただ、主人公の霊長類研究者とキーパーソンの1人であるシャガという若者など、鏡像認識の特殊な要因により軽微な影響もしくはほとんど影響を受けないヒトもおり、主人公がそのチンパンジーを始末する、というものです。警告音に対する遺伝子的な対応の違い、鏡像認識と警告音によって引き起こされるパニック現象との関係、さらに、シンガポール人大富豪がAI研究を手終いして霊長類研究に乗り換えた理由、などなど、とてもプロットがよく考えられている上に、タイトルとなっているankと名付けられたチンパンジーの警告音が引き起こすパニックの描写がとても印象的かつリアルで、さすがに作者の筆力をうかがわせる作品です。舞台を京都に設定したのも、霊長類研究とパニックが生じた際の人口や街の規模、さらには、外国人観光客の存在などの観点から、とても適切だった気がします。ただ、難点をいえば、現在から約10年後の2026年10月に舞台が設定されているんですが、AIとか霊長類研究とかの、かなりの程度に最新の科学研究を盛り込みながら、ソマートフォンとか、SNSとか、動画のアップロードとか、現状の技術水準からまったく進歩していないような気もします。このあたりは作者の科学的な素養にもよりますし、限界かもしれませんが、ここまで進歩内なら現時点の2017年でいいんじゃないの、という気もします。でもいずれにせよ、この作者の次の作品が楽しみです。

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最後に、サミュエル・ハンチントン『文明の衝突』上下(集英社文庫) です。著者は米国を代表する国際政治学者だった研究者であり、2008年に亡くなっています。英語の原題は The Clash of Civilizations and the Remaking of World Order であり、邦訳タイトルは必ずしも正確ではなく、原題の前半部分だけを抜き出している印象です。英語の原点も邦訳もいずれも1998年の出版です。何を思ったか、集英社文庫から今年2017年8月に文庫版として出版されましたので、私は初めて読んでみました。よく知られた通り、第2章で文明を8つにカテゴライズしています。すなわち、中華文明、日本文明、ヒンドゥー文明、イスラム文明、西欧文明、東方正教会文明、ラテンアメリカ文明、アフリカ文明です。その上で、これらの文明と文明が接する断層線=フォルト・ラインでの紛争が激化しやすいと指摘しています。さらに、1998年の出版ですから冷戦はとっくに終わっており、以前は脅威とされていた共産主義勢力の次に出現した新たな世界秩序において、もっとも深刻な脅威は主要文明の相互作用によって引き起こされる文明の衝突である、と結論しています。このあたりまでは、あまりにも有名な本ですので、読まなくても知っている人も少なくないような気がします。もちろん、西欧文明=西洋文明中心の分析なんですが、エコノミストとしては西洋文明が覇権を握ったバックグラウンドとしての産業革命をまったく無視しているのが最大の難点のひとつだろうと感じています。専門外であるエコノミストの私ごときがこの個人ブログという貧弱なメディアで語るのはこれくらいにして、あとは、もっと著名な評論やサイトがいっぱいありますから、google ででも検索することをオススメします。何よりも、実際に読んでみるのが一番のような気もします。

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2017年10月 8日 (日)

先週の読書は経済書や人気の時代小説など計7冊!

米国雇用統計で1日ズレて日曜日になった先週の読書は、経済書をはじめとして計7冊です。かなりよく読んだ気がします。でも、先週の読書界の話題はカズオ・イシグロのノーベル文学賞受賞だったと思います。村上春樹はどうなるんでしょうか?

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まず、小川英治[編]『世界金融危機後の金融リスクと危機管理』(東京大学出版会) です。編者は一橋大学の国際金融論を専門とする研究者であり、編者以外の各チャプターの著者も一橋大学を中心に、学習院大学、中央大学、早稲田大学のそれぞれの研究者であり、出版社も考え合わせると明らかに学術書であると理解するべきです。ですから、読み進むのはそれなりにハードルが高くなっています。でも、マクロとマイクロの両方の観点から、タイトル通りの金融リスクや金融危機管理を論じており、2007-08年のリーマン・ショックをはさんだ金融危機から、ほぼ10年を経て、やや時が経ち過ぎて気が抜けた気もしますが、それなりの分析を披露しています。ただ、繰り返しになりますが、学術書ですので読み進むのはそれほど容易でもなく、特に、本書冒頭第1章の金融危機後のリスク分析の新しい流れの解説については、数式を中心とするモデル分析であり、モラル・ハザードという聞きなれた概念からモラル・ハザードに限定されない逆選択などの情報理論、あるいは、ネットワーク効果なども含めて、従来からの、というか、リーマン・ショック以前に主流であった金融リスク分析モデルである無裁定価格アプローチの限界を明らかにしつつ、決定論と確率論を比較する試みなどは、かなり理解が難しいといえます。第1章の結論として、モラル・ハザードの理論的な分析として、ブラウン運動に基づく正規分布からの乖離、下方へのジャンプ確立を服ネタ確率密度の変更可能性の考慮、それに、いわゆるファット・テールの問題など、そういった従来にない前提の変更などを行えば、シャープ比の引下げに伴うリスク資産価格の適切な評価、あるいは、リスク効用を投資者の限界効用と逆方向にヘッジさせるように動かす可能性など、極めて興味深い指摘がいくつも込められているだけに、今後の実証が楽しみながら、金融の専門家ならざる通常のビジネスマンには理解が難しそうな気もします。ほかに、私の目から見て興味深いテーマは危機時の流動性、とくに、世界経済レベルでの流動性の最終的な供給者、すなわち、Internationa Lender of Last Resort の議論なんですが、国際的な流動性が米ドルであるならば米国連邦準備制度理事会(FED)にならざるを得ないが、世界経済の必要性と米国経済の環境が必ずしも一致するとは限らない、という指摘も可能性は低いながらあり得ることだと受け止めました。2008年リーマン・ショック後の金融危機に際しては、世界経済の観点からも、米国経済の観点からも、FEDが大幅な金融緩和、量的緩和を含みレベルの金融緩和を行うべき経済情勢の一致が世界経済レベルと米国国内経済レベルで見られましたが、特に、物価上昇率の水準次第で、必ずしも世界経済の必要と米国国内経済の必要がFEDの金融政策レベルで同じになるかどうかは保証されていうわけではありません。そうなると、国際通貨基金(IMF)はどうなのか、私が3年間暮らしたインドネシアでは、少なくとも、IMFに対する信任が高かったとはいえないと思いますし、果たして、国際流動性の最終的な供給者はどの機関が担うべきか、まだまだ国際金融の問題が解決されるには時間がかかるのかもしれません。

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次に、西川祐子『古都の占領』(平凡社) です。著者は仏文の研究者から、女性史などの研究もしているようで、京都的には、私の記憶ではその昔に寿岳章子先生がいらっしゃいましたが、その後継かつ小型版といったところなんだろうかと受け止めています。ということで、本書は、読んだ私の目から見て、京都における戦後占領の歴史の研究書というよりも、ジャーナリスト的にトピックやキーパーソンをインタビューした結果を取りまとめたものであり、逆から見て、著者である取材者のバイアスは当然に反映されています。すなわち、占領軍の兵士に着目する場合でも、京都の地域住民の生活に貢献し、市民から感謝されるような兵士もいれば、占領軍の治外法権などの特権的優越的な地位を悪用して強盗強姦などの犯罪行為そのもので地域住民を苦しめた兵士もいたんでしょうし、統計的なマクロの把握と比較であればともかく、どちらに着目するかは取材者のバイアスです。その意味で、私は本書がどこまで意味ある労作なのかは判断しかねます。同時に、戦勝国から進駐してきた占領軍と敗戦国の地域住民ですから、俗に表現しても、仲良く協同して占領目的である非軍事化と民主化を進められれば、それに越したことはないものの、決して対等な関係であるハズもなく、もしも、仮にもしもですが、本書でいくつか取り上げているような交通事故や売買春などでは、加害者と被害者に分かれるとすれば、占領軍が加害者的な立場になり、京都の地域住民が被害者的な役回りになる、というのはある意味で自然かもしれません。そして、それは大昔の京都だけではなく、現在の沖縄でも生じている関係であることはいうまでもありません。もちろん、大昔の京都と現在の沖縄の重要性を論ずるつもりはありませんし、すでに戦後長らくの期間が経過し、記録や記憶が失われつつあり、あるいは、意識的か無意識的かは別にして、決して意図的に思い出したくもないと考える日本人が少なくない中で、こういった資料の歴史を何らかの形で残しておく作業は貴重なものといえます。

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次に、マイケル L. パワー/ジェイ・シュルキン『人はなぜ太りやすいのか』(みすず書房) です。著者2人は産婦人科の医師、というか、研究者であり、邦訳者も医学の研究者です。英語の原題は The Evolution of Obesity であり、直訳すれば、「進化する肥満」とでもするんでしょうか、2009年の出版です。ということで、タイトルから明らかなように、肥満をテーマにしており、肥満とはBMIで体重との関係を測ったりはしているものの、基本的に、脂肪の過剰と定義しています。そして、もちろん、肥満については健康への阻害要因として、好ましくないものと捉えられています。しかし、人類の長い長い歴史からして、肥満が問題となり始めたのはせいぜいが20世紀からの100年間であり、肥満がほぼほぼ存在しない前史時代や人類史の初期段階を別にしても、19世紀くらいまでは肥満が問題視されることはなかったと指摘しています。まあ、人類の寿命がそれほど長かったわけでもないことから、肥満が問題視されることもなかったんではないかと考えられます。でも、人類の寿命が長くなるに従って、肥満が死亡率の高さと相関していることが注目されたようです。そして、本書では肥満に対して進化生物学的アプローチを中心に迫っており、結論として、肥満の増加はヒトという種の適応的生物学的特性と現代という時代環境との間のミスマッチに起因する、というものです。すなわち、種としての誕生以来、人類は生命維持に必要な食物獲得のために身体を動かさねばならず、現在のようなあり余る食物に恵まれることが稀な環境で数十万年を生き延びて来たわけであり、生存のための適応は、当然、食物というエネルギー摂取の効率を高める方向に働いたんですが、20世紀以降のここ100年ほどの期間では、高カロリー食料が市場に溢れ、例えば、ピザが自宅の玄関まで宅配され、身体活動は余暇のスポーツという贅沢に変わった一方で、身体は過去の進化の刻印をとどめているため、食物摂取を通じたエネルギーの過剰蓄積への歯止めが弱いまま人類は飽食の時代を迎えた、その結果が肥満である、ということになります。加えて、進化の過程で大型化した脳を支えたのが脂肪だったこと、また、脳の発達のために赤子が脂肪を豊富に蓄えて生まれてくることも、太りやすさの背景にある、と指摘します。そして、最後の結論として、「肥満の回避も何かひとつによって達成できるわけではない」ということになりますので、とても学術的な内容ながら、当然、実践的ではないわけです。私のような専門外の者の読書としては、ともかく難しかったです。一定の前提を必要とする本のような気がしますので、決して、多くの方にはオススメできません。私自身も半分も理解できたとは思えません。でも、興味あるテーマを取り扱っていることは事実です。

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次に、三浦しをん『ぐるぐる♡博物館』(実業之日本社) です。著者はご存じの通りの直木賞作家です。ミステリ作家以外で、私のもっとも好きな作家のひとりです。ですから、余りにも当たり前ですが、文章はとっても達者です。訪れた、というか、本書の表現では、ぐるぐるした博物館は、東京の国立科学博物館をはじめとして、計10館です。本書で取り上げている、というか、同じことですが著者が訪れた順に、長野の茅野市尖石縄文考古館、東京の国立科学博物館、京都の龍谷ミュージアム、静岡の奇石博物館、福岡の大牟田市石炭産業科学館、長崎の雲仙岳災害記念館、宮城の石ノ森萬画館、東京の風俗資料館、福井のめがねミュージアム、大阪のボタンの博物館、となっており、番外編としてコラムで取り上げられているのが3か所あり、熱海秘宝館、日本製紙石巻工場、和紙手すきの人間国宝である岩野市兵衛さんの工房、となっています。だいたいにおいて、名は体を表していますので、何の博物館か明らかではないかと思いますが、石ノ森萬画館の「萬画」はマンガの意味ですし、京都の龍谷ミュージアムは龍谷大学という大学があり、浄土真宗のお寺が母体となっていますが、ご同様に龍谷ミュージアムも西本願寺が母体となっていて、でも、浄土真宗に限定されず幅広く仏教を中心にコレクションを行っているようです。私は三浦しをんのエッセイは何冊か読んでいて、やや年代は異なるものの、酒井順子のエッセイについては、調べがよく行き届いていて、お利口な大学生や大学院生が提出するリポートのような印象があるのに対して、三浦しをんのエッセイは、バクチクの追っかけをやっているとか、電車に乗っている際に耳をダンボのようにして聞き及んだ街の話題とか、かなりエッセイストの生活に密着した話題が多かったような気がしていたんですが、最近では、キチンとした取材に基づいてジャーナリストのような、というか、雑誌に連載されるに堪える調べの行き届いたエッセイになっているようです。本書の博物館訪問記のエッセイも、とてもよく取りまとめてあり、ページ数の関係か何か、ボリューム的にもう少し詳細な情報が欲しいと思わないでもありませんが、楽しく読める達者な文章のエッセイに仕上がっています。テーマも博物館ですから、目からウロコの知識も得られて一石二鳥ではないでしょうか。ただ、マンガに関する石ノ森萬画館訪問の際に、とても興奮した文章が見受けられますが、マンガに関しては10年ほど前に開館した京都国際マンガミュージアムを取り上げて欲しかった気がします。それだけが残念です。

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次に、畠中恵『とるとだす』(新潮社) です。昨年15周年を迎えた「しゃばけ」シリーズの最新第15話です。長崎屋の跡継ぎの若旦那である一太郎を主人公とし、次の「まんまこと」シリーズとは違い、妖がいっぱい出て来るファンタジーです。今年2017年1月号から5月号までの「小説新潮」に連載されていた5話を収録しています。すなわち、「とるとだす」、「しんのいみ」、「ばけねこつき」、「長崎屋の主が死んだ」、「ふろうふし」です。5話が続きものになっており、一太郎の父親である長崎屋藤兵衛が広徳寺での薬種問屋の寄合で倒れてしまいますが、その原因は他の薬種問屋さんたちに勧められるまま、沢山の薬を一度に飲んでしまったことで、昏睡状態になってしまいます。藤兵衛旦那の意識を回復させるべく一太郎は奔走することになります。それが「とるとだす」とそれに続く5話で語り尽くされます。「しんのいみ」では、一太郎は江戸の海に現れた蜃気楼の世界へと紛れ込んでしまいます。さらに、「ばけねこつき」では、一太郎は奇妙な縁談話を持ちかけられ、騒動に巻き込まれます。「長崎屋の主が死んだ」では、詳細不明ながら長崎屋に恨みを持って死んだ狂骨という骸骨の亡霊のような妖もどきが現れ、次々と人を襲い、中には死に至るものも出てしまいます。最後の「ふろうふし」では、神様の大黒天が現れて長崎屋藤兵衛の本復のためのヒントをくれて、一太郎が常世の国に渡ろうとしますが、結局、お江戸の中で騒動に巻き込まれてしまいます。でも、最後は、父親の藤兵衛が回復し、めでたし、めでたしで終わります。

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次に、畠中恵『ひとめぼれ』(文藝春秋) です。人気シリーズ「まんまこと」最新刊第6話です。町名主の跡取りであるお気楽者の麻の助とその友人を主人公にし、お江戸を舞台にするシリーズで、「しゃばけ」のシリーズと違って、妖が登場しません。普通の人間ばかりです。その上、時が流れます。子供は大きくなり、老人は死んだりもします。このシリーズ第6話は、『オール読物』に2015年から16年にかけて掲載された6話を収録しています。すなわち、札差の娘と揉めて上方へ追いやられた男の思わぬ反撃に端を発する「わかれみち」、盛り場で喧伝された祝言の約束が同心の一家に波紋を呼び起こす「昔の約束あり」、麻之助の亡き妻に似た女にもたらされた3つの縁談の相手が目論むホントの目的を探る「言祝ぎ」、火事現場で麻之助が助けた双子から垣間見える家族や大店の内情とそれを原因とする騒動に巻き込まれる「黒煙」、大店次男坊が東海道で行方不明となり店の内情が明らかとなる「心の底」、沽券が盗まれた料理屋に同心一家と雪見に行ったから麻の助がその料理屋の隠された暗部を明らかにする「ひとめぼれ」の6話です。町人の営む大店や料理屋などで、一見して外からはうかがい知れない何らかの暗い部分が、麻の助の巻き込まれる騒動により明らかとなって行く短編が多く収録されており、町人や武士の商売や一家の内情に深く切り込んだ内容となっています。もちろん、楽しいことばかりではなく、暗い部分の方が圧倒的に大きいんですが、それなりに明るく乗り越えようとする麻の助とその仲間たちを微笑ましく応援できる好編です。

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最後に、木俣冬『みんなの朝ドラ』(講談社現代新書) です。著者は、ドラマ、映画、演劇などエンタメ作品に関するルポ、インタビュー、レビューなどを得意とするライターです。この新書では、タイトル通り、NHKの朝ドラについて、特に2010年前後くらいからSNSなどで拡散し、再び大きな盛り上がりを見せていると分析しています。朝ドラが人口に膾炙し始めるのは、1966年の「おはなはん」からであるのは衆目の一致するところであり、1983年のバブルの走りのころの「おしん」がもっとも注目を集めたのもご同様です。しかし、年末大晦日の紅白歌合戦と同じで、朝ドラも長期低落傾向にあったんですが、2007-09年くらいにほぼ底を打ち、2010年度上半期の「ゲゲゲの女房」から再び上向きに転じています。最近では「あさが来た」や「とと姉ちゃん」などがヒットといえますが、かなり全体的にいい出来栄えではないかと思います。というのは、私は実はほとんどの朝ドラを毎日のように見ているからです。2003年の夏の人事異動でジャカルタから一家で帰国して、その2003年度後半は「てるてる家族」でした。本書の著者によれば、低迷期入りの第1陣を飾った作品だそうですが、石原さとみは決して悪くなかったと記憶しています。最近お作品で私が途中で見るのを止めてしまったくらいにひどかったのは「まれ」でした。本書でもややキツい評価になっています。「てるてる家族」の後は低迷期に入り、「ゲゲゲの女房」の後もいくつか駄作はありましたが、本書では2011年下半期の「カーネーション」が史上最強の朝ドラと評価されています。そうかもしれません。先週月曜日から下半期の「わろてんか」が始まりました。期待は膨らみます。

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2017年9月30日 (土)

今週の読書は経済書から京都本まで計6冊!

今週の読書は計6冊です。1週間単位で4-5冊で抑えたいところですが、今週は新書が2冊あり、冊数から判断されるほどのオーバーペースではありません。すなわち、私はついつい新書は読み飛ばしてしまう方なので、モノにもよりますが、2時間ほどで読み終える新書もめずらしくありません。今週読んだ新書のうちの1冊は京都本でしたので、特にスラスラ読んでしまった気がします。

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まず、ロバート・プリングル『マネー・トラップ』(一灯舎) です。著者は、私はよく知らないんですが、Central Banking という雑誌の創始者で、その発行会社の会長だそうです。同時に、金融評論家・経済記事編集者・企業家でもあるそうです。英語の原題は The Money Trap ですから、邦訳書のタイトルはそのまま直訳です。2011年にハードカバー版が、2014年にペーパーバック版が、それぞれ発行されています。ということで、いわゆるリーマン・ショック後に世界経済にあって、経済成長を回復し、金融危機が残した諸問題を解決することへ向けた各国の政府や中央銀行の努力が、極めて限定的な効果しかもたらさなかったのかについて、本書では、弾力的な信用供給・機能不全に陥っている銀行システムと未改革の国際通貨制度の相互作用に求め、これをマネー・トラップと呼んでいます。いずれも同じ経済や金融の解説書なんですが、本書でも、経済や金融の歴史をひも解き、リーマン・ショック後に行われた対応策、そして、いろいろと提案されている政策を広い範囲にわたって分析しています。要するに、アレが悪かった、コレが気に入らないと、いろいろと政府や中央銀行の失政を指摘し、銀行経営者などの行動を批判しているわけです。その意味で、極めてありきたりな経済・金融書といえます。加えて、2011年までの情報で執筆されていますから、サマーズ教授らの secular stagnation の議論は踏まえていません。しかし、とてもユニークなのはその解決策であり、ブキャナン的な意味で米ドルを憲法化することにより国際通貨制度を固定化させ、さらに、銀行をナロー・バンク化して、英国でいうところのユニット・トラスト、米国のミューチュアル・ファンドで運用する、逆にいえば、銀行の資産運用先を限定して勝手な資産運用を禁じる、というものです。国際通貨制度をカレンシー・ボード的に米ドルにペッグさせるというのは、東南アジアなどでもいくつも例がありますし、その昔は北欧の国の中には独マルクにペッグした金融政策運営をしていた国もありました。ようするに、トリフィンの国際金融のトリレンマのうち、固定為替相場と自由な資本移動を認めて、各国独立の金融政策を放棄する、ということです。しかしながら、本書では否定していますが、これは形を変えた金本位制にほかならず、おそらく失敗するものと私は予想していますし、何よりも、こういった金融政策の放棄に積極的に応ずる国は、ユーロ圏がかなりそれに近いとしても、そう多くはないものと認識しています。

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次に、樫原辰郎『帝都公園物語』(幻戯書房) です。著者は大阪ご出身の脚本家、映画監督、フリーライターだそうですが、少なくとも本書に関してはしっかり下調べが行き届いている気がします。冒頭の有栖川宮記念公園などから始まって、上野公園はそれほどではないとしても、本書の中心は日比谷公園と新宿御苑と明治神宮、というか、明治神宮を含む代々木公園となっています。明治期になって放棄されたお江戸の武家屋敷を新政府が接収して、その中から、霞が関の官庁街を設計し、銀座の煉瓦街を作り出し、練兵場や弾薬庫などの軍事施設を置き、それらとともに公園が計画されていった歴史的な経緯もなかなか興味深く読ませます。本書が指摘する通り、公園は建造物とは異なり、造園や園芸に時間がかかります。先々を見通して、小さな苗木を植えれば、開園当初は物足りなく感じる人々もいますし、当時の技術的水準では大きな樹木を移植するのは難しかったかもしれません。大きな樹木の移植ということでいえば、日比谷公園の首かけ銀杏の由来も明らかにされています。また、本書や類書で見強調されている通り、明治期は欧風文化を摂取したわけで、その中心はお雇い外国人と留学帰りの人々だったわけですが、当然に、我が国と欧米とでは違いがあるわけで、特に、公園作りの植生に関しては差が大きかったのかもしれません。東京都のシンボルになっている銀杏については、本書ではアジアでしか見られず、欧州では氷河期に絶滅したとされていますし、逆に、欧米では適した樹木でも我が国ではうまく根付かない、といった場合も少なくないような気がします。また、本書では公園を舞台にした社会現象や風俗などにも目配りされており、日露戦争の終結に反対して集会参加者が暴徒化した日比谷焼打ち事件が特に大きく取り上げられています。私のような公務員のホームグラウンドである霞が関からの地理的な距離の近さから、また、吉田修一の芥川賞受賞作である「パークライフ」を思い出しつつ、ついつい、日比谷公園に興味を持って読み進みましたが、新宿御苑も農業試験場として始まった歴史なども知りませんでしたし、なかなかオフィスやご近所の井戸端会議でお話しできるトピック満載、という気がします。

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次に、京樂真帆子『牛車で行こう!』(吉川弘文館) です。著者は滋賀県立大学教授であり、平安時代を中心とする中世史の研究者です。ということで、タイトル通りに、牛車についての解説書です。次の『荷車と立ちん坊』が幕末から明治期の東京を中心とする物流を取り上げているのに対して、本書は牛車ですから平安時代を中心とする中世の貴族などの人の乗り物にスポットを当てています。現在の自動車になぞらえれば、輸入高級車から大衆車まで、牛車のランクは当然にあり、上級貴族にしか許されなかった種類の牛車と、買い貴族が用いだ牛車は違います。女性が乗る牛車と男性向けも違うらしいです。私はまったく知らなかったんですが、牛車は後ろ乗りの前降りだそうで、それを間違えて都の物笑いになった田舎での木曽義仲がいたりします。ただ、当時から乗馬の習慣はあったわけで、スピードを必要とし、また、手軽に乗れる馬に対して、牛車は乗り手が一定以上の身分であることを示し、いわば、社会的なステータスを表現するひとつの手段でもあったと解説されています。ですから、より上位者の乗ったと思しき牛車とすれ違ったら、下位の牛車は道の脇に止めて、牛を車から離すことにより車全体で前傾姿勢を取って、お辞儀のような姿勢を示す必要があったとされています。ただ、畳が敷いてあるとはいえ、木製の車輪でサスペンションもあったとは思えず、乗り心地がさほどよかったとは考えられないと指摘されています。また、室町期にはすっかりすたれたものの、歴史上、著者が確認できた範囲で、最後の牛車は江戸時代終盤に降嫁された和宮ではなかろうか、とひも解かれています。本書はこういった牛車に関する歴史的な基礎知識を読者に示すだけでなく、それを基に、幅広く古典文学や資料に加えて、絵巻物なども動員しつつ、失敗談などのエピソード、ただし、『源氏物語』などのフィクションありなんですが、かなり実態に近いと見なせるエピソードをはじめ、牛車をめぐる悲喜劇をかなり大量に引用している点も魅力ではないでしょうか。

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次に、武田尚子『荷車と立ちん坊』(吉川弘文館) です。著者は早大教授であり、専門分野は歴史ではなく、社会学のようですから、出版社の特色として歴史書が多いものの、著者の専門分野の社会学の視点からの歴史書と考えておいた方がよさそうです。明治維新後の近代日本において、まだ荷車は人力で動かしており、それを助けるべく、上り坂などでたむろする立ちん坊と呼ばれるアシスト要員がいたりしたわけです。典型的には、「車夫馬丁」と蔑みの目で見られるなど、けしからぬ風潮がありますが、本書ではそれに疑問を呈しつつ、近代日本で激増した物流を支える人々の仕事と生活を明らかにします。とはいえ、こういった車引きの生活は苦しく、社会の下層をなしていたことも事実です。私は高校のころからしばらく読んでいた『ビッグコミックオリジナル』に連載されている「浮浪雲」を思い出してしまいました。「浮浪雲」は幕末期の品川の物流を支配する夢屋の頭を主人公にしたマンガであり、勝海舟、清水次郎長、坂本龍馬など歴史上実在する著名な人物も多数登場して、主人公と親交を持ったりしています。主人公は東海道の物流を支配し、その意味で、絶大な権力を持ちながら、ひょうひょうと遊び歩き、女性を見れば老若美醜を問わず、「おねえちゃん、あちきと遊ばない?」と決め台詞を向ける好人物です。このマンガの主人公である雲が絶大な権力を握るのは、要するに、私の考える物流、本書でスポットを当てている分野が、とてもネットワーク的な分野であり、いわゆる歯車的なパーツがびっしりと詰まっているからです。すなわち、世界はもとより、日本全国すべての物流をカバーしきれる組織はそれほどなく、何らかの意味でいわゆる荷物をリレーしなければなりませんから、どこかの歯車がうまく回らないと、すぐに物流全体がダメになりかねません。しかし、他方で、日本、というか、日本人の得意な分野でもあり、例えば、コンビニの品揃えなどは物流のバックアップがなければ、どうにもなりません。明治期の物流は移動手段が機械化される前の段階では人力に頼る部分が大きく、それなのに、決して実入りはよくなく社会的な地位も高くない、といった階層により支えられてきていました。本書では、そういった社会階層の仕事と生活を明らかにしつつ、私のような専門外のシロートにも判りやすく解説してくれています。

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次に、矢部宏治『知ってはいけない』(講談社現代新書) です。著者は、よく判らないんですが、博報堂勤務を経て、現在は著述業、といったところなんでしょうか。本書では、我が国の対米従属の基礎と実態を明らかにしようと試みています。どこまで評価されるかは読者にもよりますが、最近では、日本が米国のポチである事実はかなりの程度に理解が浸透しており、特に、本書でも指摘されている通り、2012年の孫埼享『戦後史の正体』からは、日本がホントの意味での独立国かどうかすら疑問視する向きも出始めたりしています。本書では、著者は、対米従属の対象は米国政府ではなく米軍であり、日米合同委員会が我が国権力構造の中心に据えられて、米軍が我が国の高級官僚に直接指示を下す体制になっている、と主張しています。私は公務員ながら高級官僚とされるエリートに出世できなかったわけで、どこまで本書の主張が真実かは請け負いかねますが、かなりの程度に否定できない部分が含まれているような気がすることも確かです。例えば、本書の主張にひとつに、自衛隊は米軍指揮下で軍事行動を行う、というのがありますが、これはかなり真実に近い、と私は考えています。ですから、その昔の『沈黙の艦隊』のように、米軍が自衛隊を攻撃することはあっても、その逆なないんだろうと考えています。p.94 にあるように、アメリカへの従属ではなく米軍への従属であり、精神的な従属ではなく、法的にガッチリ抑え込まれている、というのはかなりの程度に正しい可能性があると受け止めています。その意味で、本書が矛盾する主張、すなわち、日本は法治国家ではない、と主張しているのは間違っていますが、明確に間違っているのはこの1点だけかもしれません。最後に、9章構成の9点の主張の各章の扉に4コマ漫画を配しています。これもなかなかよく出来ています。

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最後に、大野裕之『京都のおねだん』(講談社現代新書) です。年に1-2冊読む京都本です。本書の著者はチャプリン研究科にして、脚本家、映画・演劇プロデューサーです。大阪出身で、京都大学入学とともに京都に引っ越し、現在でも京都在住だそうです。ということで、私の専門分野なんですが、タイトル通り、京都のおねだんについて調べています。第3章では絶滅危惧種のひとつとして京都大学が取り上げられています。それから、京都大阪の夏の風物詩として地蔵盆にスポットを当てています。地蔵盆が京都と大阪くらいしかないのは、何となく知っていましたが、お地蔵さんを貸し出すサービスがあるのは知りませんでした。それから、季節の風物詩ということで、団扇や扇子について論じられていますが、私の子供のころには、子供だったので詳細は知りませんが、毎年、福田平八郎先生の野菜や花の絵を団扇にして配っているお店がありました。我が家にはナスや朝顔を描いた福田平八郎先生の絵の団扇があった記憶があります。もちろん、コピーなんですが、それなりの値打ちモノだったように感じないでもありませんでした。また、名曲喫茶柳月堂のことが取り上げられていますが、私はクラシックではなくジャズをもっぱらに聞いていましたので、荒神口のしあんくれーるの方が記憶に残っています。どちらも会話を交わすことは出来ません。本書にもある通り、柳月堂はそもそも会話が禁止されており、しあんくれーるでは余りの大音響でジャズがかかっていて、人間の出す大声の限界を超えているような気がしました。それから、花街のお話がありますが、京都の西の方にある島原は忘れられているようです。私のが大学のころに属していたサークルではイベントの招待状の発送準備を島原の歌舞練場で作業する伝統がありました。冒頭で作者は本書が京都本であることを否定していますが、それなりに立派な京都本だという気がします。

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2017年9月23日 (土)

今週の読書は話題の経済書をはじめ計5冊!

今週は話題の経済書をはじめ、以下の計5冊とかなりペースダウンしました。これくらいが適当な読書量ではないかという気もしますが、さらにもう少し減らすのも一案ではないかと思わないでもありません。

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まず、 アンドレアス・ワイガンド『アマゾノミクス』(文藝春秋) です。著者は東独生まれで、アマゾンのチーフ・サイエンティストの経験もある人物です。科学者というか、起業家というか、そんな感じです。英語の原題は Data for the People であり、今年2017年の出版です。そして、英語の原題よりも興味あるのは上野表紙画像の右下に見える英語のサブタイトルであり、post-privacy economy をいかに消費者のために作り上げるのか、といった問題意識のようです。ということで、私は従来からプライバシーには2種類あって、片方が市場である消費生活で何を買ったとかのプライバシーは、もはや成立しない、と考えています。ただ、もうひとつのプライバシー、典型的にはベッドルームのプライバシーは守られるべきだと思います。タダ、ビミョーなのは片方が市場であって、市場でないような、政府による大きな規制のもとにある市場との取引、典型的には医療や教育などの場合は、個別に考えるべきだという気もします。ただ、本書の著者の見方は、私のべき論ではなく、事実として、ベッドルームのプライバシーすらも守られていない、という考えが第4章以下で強く主張されています。例えば、ベッソルームとはいわないまでも、在宅か不在かはスマート・メーターの電気の使用状況により判断できる、とか、町中の至る所に設置されている監視カメラとか、スマホのGPSにより個人の位置情報はほぼほぼ完璧に把握されている、とかです。その上で、英語表現的にいえば、get even だと思うんですが、一方的に消費者から企業に情報を提供するだけではなく、企業が収集し蓄積している自分に関する情報の開示を求める必要を論じています。あるいは、企業と対等な情報を収集するため、例えば、コールセンターへの電話は消費者サイドの承諾を得た上で録音されていますが、消費者には録音データは開示されませんから、同時に消費者の方でも企業サイドの承諾を得た上で録音するとか、といった消費者サイドでの対応も必要と論じられています。確かに本書を読むと、私のように2種類のプライバシーを分けて論じるのは、現実問題として、もはやその段階を超えているのかもしれないと感じさせられます。最後に、タイトルがよろしくありません。アベノミクスのように、アマゾンの経営上のポリシーとか、アマゾン的な新たな経済学を思い浮かばせるようなタイトルですが、中身はプライバシー情報に基づく企業と消費者の緊張関係を論じています。

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次に、坂野潤治『帝国と立憲』(筑摩書房) です。著者は東大社研の歴史学者であり、ご専門は日本近代政治史です。ですから、私はかなり楽しみに読み始めたんですが、読後は少し失望感もありました。すなわち、本書の主眼は帝国主義と立憲主義のせめぎあいの中で前者が優位を占めて、結局、日本が侵略戦争に突入してしまった、という反省から、戦争回避の可能性を歴史から探る、というものだったハズなんですが、サブタイトルにも見られる通り、日中戦争の開戦回避というかなり局所的な話題に終始したきらいがあります。実は、私も歴史の大きな流れには興味があり、例えば、地方大学に出向していた際に学生諸君に質問し、コロンブスが1492年の新大陸を発見しなかったら、現時点まで米大陸は発見されていなかったかどうか、を問うたところ、当然ながら、あのタイミングでコロンブスが米大陸を発見しなくても、誰かがいつかは発見していただろう、という見方が圧倒的でした。同じことは昭和初期の中国との開戦にも当てはまるような気がします。ですから、あおのタイミングで、あの場所で日本が中国に侵略戦争をしかけていなかったとしても、大きな歴史の流れとして日中戦争は起こっていた気がします。その根本的な歴史の流れの解明を私は期待していたんですが、1874年の台湾出兵に始まる日中戦争への大きな歴史の流れを解き明かす試みは、少なくとも本書ではそれほど明らかにはされなかったと受け止めています。私の専門分野ではないので、著者が別の学術書か何かで明快な解答を与えてくれているのかもしれませんが、残念ながら、本書ではクリアではありません。というか、私程度の読解力と歴史に対する素養ではクリアに出来なかったのかもしれません。圧倒的な大国、あるいは、歴史上の先進国として仰ぎ見ていた中国に対する侵略行動については、もっとさかのぼらなければ解明できない可能性がある、としか私には考えようがありません。侵略や植民地化で特徴つけられる帝国主義を防止するものとして立憲主義を対置した時点で、少し問題意識が違っていたのではないか、という気もします。また、立憲は立憲主義ではなく、帝国は帝国主義とは違う、とする著者の言葉遊びにもなぞらえられかねない主張も私の理解を超えていました。

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次に、新藤透『図書館と江戸時代の人びと』(柏書房) です。著者は図書館情報学を基礎に、日本近世史を専門分野とする研究者です。著者のおかげなのか、編集者が優秀なのか、構成がとてもシンプルかつ明解で、読み進むに当たってヘンにつっかえたり戻ったりする必要もなく、とても助かります。我が国の古典古代である飛鳥時代の聖徳太子のころから説き起こして、近代的な西洋文化に基づく図書館が出来る大昔からのわが国特有の図書館的な機能を持った施設の歴史をひも解いています。さすがに、第1章の古代から中世にかけての図書館はそれほど史料もないのか、大雑把にしか概観できていませんが、第2章と第3章の江戸時代が本書のタイトル通りにメインとなる部分であり、第2章の幕府の図書館、第3章の地方の藩校などの図書館などなど、興味深いエピソードが満載です。特に、私のような東京都内各区立図書館のヘビーユーザとして、毎週最低でも3-4冊は借りるタイプの読書をする人間には、とりわけ身に染みる部分もあって興味深く読めました。私のようなヘビーユーザでなくても、図書館や読書に対する関心が高まるような気がします。特に、我が国の図書館や読書の歴史を考えると、欧州中世にキリスト教の教会が知識や情報を独占し、そのために庶民が理解できないラテン語を大いに活用した歴史があり、それをルターの宗教改革やグーテンベルクの活版印刷が大きな変革を準備したのとは違い、決して識字率などが高かったわけではなかったものの、それなりに地方でも教養ある教育が実施されており、しかも、漢字だけでなくかな文字の普及もあって、読書の普及も見られたような気がします。本書本来のスコープである江戸幕府期に紅葉山文庫が整備充実され、系統的な収集と管理が行われて、しかも、改革者たる8代将軍吉宗が大いに利用したくだりなど、やや吉宗が借り出した書籍のリストがウザい気もしますが、それなりに興味深いものがあります。加えて、江戸時代に小山田与清が商人として築いた財を投じて江戸の町で解説した私設図書館など、当時の文化水準の高さを象徴する新発見、というか、私にとっての新発見もありました。ただ、図書館についての本ですので、例えば、グーテンベルクの活版印刷に相当するような蔦屋の印刷出版業に関して少し情報が不足するような気もします。図書館は図書を収集・管理するわけですから、出版される本と借りる読書人から成立していることは忘れてはならないと思います。

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次に、岡本和明・辻堂真理『コックリさんの父』(新潮社) です。タイトルの人物は一世を風靡したスプーン曲げのユリ・ゲラーとともに、1979年代の我が国オカルト界を席巻した中岡俊哉という人物です。実は、私は1970年代のそのころに、いかにもオカルトに興味を持ちそうな中高生だったんですが、まったく記憶にありません。なお、著者のうち、最初の著者はこの中岡俊哉のご令息で、後の方の著者は放送作家だそうです。ということで、主人公の中岡俊哉は「オカルト」というよりは、ご本人は心霊科学の研究者などと称していたようなんですが、本書はその生い立ちから始まって、戦争期に渡満し、その後もしばらく中国大陸にとどまって、北京放送のアナウンサーをしたりした後、我が国に帰国し、中国大陸の怪奇物語などを少年誌に寄稿しつつ、次第に超常現象の第一人者の1人とされ、テレビ番組で活躍したり、といった人生を概観しています。2001年に亡くなったそうです。10代で満州に渡ったあたりもそうですが、かなり冒険的な人生観をお持ちだったのかもしれません。ユリ・ゲラーのスプーン曲げには終始懐疑的だったようですが、クロワゼットの透視力を信頼してテレビでも取り上げたりした後、本書のタイトルであるコックリさんの体系的な解明に努めたりしています。コックリさんについては、私の中高生のころに流行ったりしていましたが、私はまったく信じておらず、やったこともありませんし、親しい友人がやっているかどうかも知りませんでした。そして、中岡俊哉はコックリさんの後、心霊写真やハンドパワーの方に向かいます。心霊写真については、ちょっと違うかもしれませんが、例の「貞子」の元になった『リング』のビデオテープへの念写などがオカルト界では有名かもしれませんが、私は可能性あると考えているのは、限りなく医療行為に近くて胡散臭いんですが、ハンドパワーの方です。というのは、医学の世界では、経済学のような因果推論というものはほとんど重視されておらず、単なる統計的な有意性で病気やケガを治しているように私には見えるからです。例えば、統計的にはセックスと妊娠はほぼ無相関なのだそうですが、明らかに因果関係をなしているのは、高校を卒業したレベルの知性を持った日本人であれば理解していることと思います。同様の知性があれば、喫煙と発がんの間に一定の相関があることも情報として知っている可能性が高いと私は考えますが、不勉強にして、その因果関係はどこまで明らかになっているかは私は知りません。おそらく、単に統計的に有意な発がん率の差が喫煙者と非喫煙者の間にある、という事実だけではないかと想像しています。その昔は、ナイフでケガをしたら、傷口とともにナイフの方にも塗り薬を塗布していたらしいですから、このあたりはオカルトに近いのかもしれません。

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最後に、前野ウルド浩太郎『バッタを倒しにアフリカへ』(光文社新書) です。著者は紛れもなくバッタの研究者です。バッタの中でも、アフリカで数年に1度大発生し、農作物に大きな被害を与えるサバクトビバッタだそうです。エコノミストの私はもちろん専門外であり、相変異を示すものがバッタ(locust)、示さないものがイナゴ(grasshopper)というのも知りませんでした。当然に実感ありませんが、日本人研究者がサハラ砂漠のバッタを研究することもあるんだ、というくらいの感想です。そして、人工的な研究室で飼育実験ばかりで野生の姿を見たことがなかったバッタの研究のため、ポスドクで研究資金を獲得してモーリタニアの研究所に2年間の予定で滞在し、本書はその間の研究とともに生活などを中心に取りまとめられています。新書としては異例のぶ厚さなんですが、読んで驚いたのは、バッタという昆虫に対しても、アフリカ途上国に対しても、著者がまったく上から目線を示していない点です。同じ高さの目線で、というよりも、ひょっとしたら、著者の自虐趣味かもしれませんが、さらに低い視点からバッタやモーリタニアを詳しく描写しています。私も開発経済学の専門家として、途上国に入ることもありますし、「指導」と称する業務を担当したこともありますが、こういった現地事情や現地人はもとより、研究対象に対する真摯な姿勢は見習いたいものだと感じました。ただ、現地語に対する学習意欲が異様に低い点は気にかかりましたが、私もジャカルタ滞在の折にマレー・インドネシア語を勉強しようとも思わなかったですし、スペイン語圏の大使館勤務をしながら、せっせと英語を勉強していたクチですから、大きなことはいえません。バッタに関する研究については何の基礎知識なくとも、モーリタニアやバッタに関して、とても実態に迫ったノンフィクションが楽しめます。

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2017年9月16日 (土)

今週の読書もついつい読み過ぎて計7冊!

今週の読書はぶ厚な経済書をはじめとして、以下の7冊です。先週も『戦争がつくった現代の食卓』と『世界からバナナがなくなるまえに』の食べ物関係2冊を読んだんですが、なぜか、今週も歴メシと和菓子の2冊が入っています。食欲の秋なのかもしれません。

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まず、 エドワード P. ラジアー/マイケル・ギブス『人事と組織の経済学 実践編』(日本経済新聞出版社) です。著者は米国の労働経済学者であり、ラジアー教授なんぞはノーベル経済学賞に擬せられたりもしているような気がします。英語の原題は Personal Economics in Practice, 3rd Edition であり、2015年の出版です。そして、学術的な水準は大学院博士前期課程くらいに使えるテキストです。学部生ではやや難しいでしょう。ただし、1998年にラジアー教授は邦訳で同じ出版社から『人事と組織の経済学』を出版しており、やや英文タイトルに変更あったものの、中身は半分以上同じだという気がします。というのも、私は労働経済学とかのマイクロな分野はほとんど専門外なんですが、数年前に勤務上の都合で国際共同研究を担当し、まったく専門外ながら労働や雇用に関する研究のグループの研究取りまとめをせねばならなかったことがあり、その際に1998年出版の旧版を読みました。旧版の方がややページ数が多かった気はしますが、冒頭の採用に関するチャプターなんか、安定した生産性を示す労働者よりも、リスクある労働者を雇うべし、といった結論も旧版から同じだと思いだしてしまいました。すなわち、野球でいえばアベレージ・ヒッターではなく、ホームランか三振か、といったバッターを雇用すべきであるという結論で、安定性を重視する日本人としては不思議に思ったんですが、本書の結論のひとつとしては、リスクある労働者が結果を出せない場合、すなわち、野球でいえば三振ばかりしている場合、解雇すればいいじゃないか、という、いかにも米国流の考え方だったのを思い出してしまいました。米国的なCEOの超高給と一般労働者との給与格差については、職階による給与の差が大きいほどスキルアップのインセンティブが大きくなる、と旧版と同じ論理を展開している部分が多いんですが、IT化の進展により意思決定の中央集権化が進む可能性を指摘していたりと、当然のように版を重ねている部分もあります。第2版を見ていないので何ともいえませんが、適切にアップデートしている気もします。ただ、人事管理に関しては、合理的なホモ・エコノミカスを対象とするインセンティブの体系ですので、合理的といえば合理的なんですが、資本と異なるモビリティの問題とか、個々人による異質性の問題とか、まだまだ解明されていない点は多いと考えさせられます。加えて、現時点では実験経済学は消費の場などにおける選択の問題が中心に据えられていますが、労働経済学が分析対象とする雇用や業務遂行の際の選択を実験で明らかにできれば、さらに経済学は進歩しそうな気もします。もっとも、専門外の私が知らないだけで、すでにそういった研究は進められていそうな気もします。

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次に、淵田康之『キャッシュフリー経済』(日本経済新聞出版社) です。著者は野村総研のベテラン研究員であり、著者が野村総研から出している主要なリポートの一覧が野村総研のサイトに示されています。本書のテーマは、今年5月27日付けの読書感想文で取り上げたロゴフ教授の『現金の呪い』の理論的な面を背景に、日本の現状に合致するように取りまとめてあります。というのも、買い物の決済でキャッシュが占める比率は日本ではとても高く5割ほどに達します。銀行預金が大好きな点と併せて、日本人のひとつの嗜好を示しているような気がします。米国では買物のキャッシュ支払比率は2割に届かず、カード払いが半分ほどに上ります。また、1000ドル札のような超高額紙幣はないものの、日本で1万円札が市中で何の問題もなく流通するのもやや不思議です。名目値でほぼ等価の米国の100ドル札は、少なくとも私の経験では、首都ワシントンのスーパーマーケットでとても使い勝手が悪いです。もちろん、米国の100ドル札はいわゆる法貨ですから、受け取ってもらえないことはあり得ないんですが、ホンモノの100ドル札であることをチェックするのに、やたらと手間取り時間もかかります。ロゴフ教授の主張するキャッシュレス化の利点はマネー・ロンダリングなどの不正対策や金融政策の効率化だったんですが、本書では4点指摘しており、第1にそもそも紙幣やコインを製造するコストの削減、あるいは、偽札や盗難などのリスクの減少、第2に銀行ATMでの現金引き出しやスーパーの支払いの場での小銭の勘定などに費やす時間の短縮、第3にストレスない快適な買い物の実現、第4にマネー・ロンダリングや不正送金の防止などを上げています。さらに、日本の現状にかんがみて、例えば、インバウンド消費の支払いにおけるキャッシュフリー化などの利点も論じていますし、2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けた課題ともいえます。キャッシュ大国である、当然に、その逆から見て、キャッシュフリー後進国である日本の実情に即して、どのようにキャッシュフリー化を進めるかにつき、政府や日銀の政策面も批判的に紹介しつつ、現実的な対応を議論しています。

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次に、大島隆『アメリカは尖閣を守るか』(朝日新聞出版) です。著者は朝日新聞をホームグラウンドとするジャーナリストです。国際報道のキャリアが長く、米国駐在経験もあるようです。ということで、本書のタイトル通りの内容について、米国のサイドから公開されている公文書などを渉猟して明らかにしようと試みています。というのも、オバマ前政権も現在のトランプ政権も、尖閣諸島における我が国の施政権を認めていて、我が国の施政権の及ぶ範囲は米国の防衛義務が及ぶと明らかにしていますので、本書のタイトルに対する回答は yes でしかあり得ません。そして、その yes である根拠を時代をさかのぼって明らかにしようと試みているわけです。もちろん、その背景には米国ファーストで、同盟国に対して応分の負担を求める発言を繰り返すトランプ大統領の存在があります。さかのぼるのはサンフランシスコ平和条約と同時に署名された日米安保条約です。でも、沖縄返還時の交渉経緯も重要です。ただし、この沖縄返還までは日米のほかのもう1国の当事者である中国とは、台湾の中華民国政府を意味していたのに対し、現在では北京の中華人民共和国の共産党政権となっています。そして、忘れてはいけない点は、本書でも何度も繰り返されている通り、尖閣諸島の領有権については米国は態度を明らかにせず、関係国で話し合いをすべき、という原則であり、尖閣諸島についても領有権に対する態度があいまいです。ただ、尖閣諸島の施政権については日本が有していることを認めており、従って、日本の施政権の及ぶ範囲で日米安保条約に基づく防衛義務が発生する、という立場です。ですから、本書では明記していないものの、竹島については韓国が実効支配していることから、日本の施政権を米国が認めない可能性が大いにある点は留意しておかねばなりません。おそらく、バックグラウンドで大量のドキュメントを消化している割には、出て来た結論はありきたりな気もしますが、バックグラウンドの確認努力を評価すべきなのかもしれません。

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次に、遠藤雅司『歴メシ!』(柏書房) です。著者は歴史料理研究家だそうで、本書では、最古のパン、中世のシチュー、ルネサンスの健康食、ヴェルサイユ宮殿の晩餐会などなど、オリエントから欧州にあった8つの時代の歴史料理を検証し、現代人向けのレシピにまとめています。第1章 ギルガメシュの計らい では古代メソポタミアを、第2章 ソクラテスの腹ごしらえ ではいわゆる古典古代のギリシアを、第3章 カエサルの祝勝会 ではローマ帝政期を、第4章 リチャード3世の愉しみでは中世イングランドを、第5章 レオナルド・ダ・ヴィンチの厨房 では中世イタリアを、第6章 マリー・アントワネットの日常 と 第7章 ユーゴーのごちそう会 ではでは革命期のフランスを、第8章 ビスマルクの遺言 では統一期のドイツを、それぞれ取り上げています。フランス革命までは料理人といえば、我が国の「天然平価の料理人」ではないですが、王宮や貴族のお抱えで料理を作っていたものの、革命により貴族が没落し、その料理人がパリ市内でレストランを開いた、ということのようです。私は料理はまったくせず、しかも、つくるほうだけでなく食べる方でも、グルメでも何でもなく、食事とは栄養の補給くらいにしか考えていません。ですから、長崎大学経済学部の教員として単身赴任していた折にも、鍋釜はもちろん、コップや皿などの食器すら宿舎に持っておらず、朝食の際にパンをミルクで流し込むほかは、大学生協などでの外食か、そうでなければ、弁当を買い求めていました。不健康な食生活でしたので、よく体を壊していましたし、2009年にメキシコ発の豚インフルエンザが我が国でも流行した際には、しっかりとり患して長崎でも流行の最先端ではなかろうかといわれたくらいです。ですから、いろんな料理のレシピを見ても実感が湧かないこと甚だしいんですが、お料理の好きな人は実際に作ってみようかと考える向きも少なくないような気がします。次の『和菓子を愛した人たち』と同様に、フルカラーの写真が満載です。

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次に、虎屋文庫『和菓子を愛した人たち』(山川出版) です。虎屋のサイトで2000年から連載されてきた歴史上の人物と和菓子の内容を書籍化したものです。どうでもいいことながら、オールカラー300ページほどで税込み2000円弱というのは安いと思います。もっと、どうでもいいことながら、我が家の倅たちが幼稚園くらいのころに、絵本を買う場合、イラストだと安かったんですが、写真だととたんに高価になった記憶があります。上に見える表紙画像は川崎巨泉の饅頭食い人形なんですが、こういった写真がフルカラーで収録されています。ということで、もともとのサイトからの転載が中心ですから、タイトル通りに、原則2ページくらいの細切れながら、歴史上の著名人と和菓子の関係を明らかにしています。冒頭は紫式部から始まっています。フルカラーですから、和菓子の色彩上の利点なども手に取るように明らかで、谷崎潤一郎が引用している夏目漱石の言葉で、羊羹の色に対比して洋菓子のクリームの色は「あさはか」と表現されています。ただ、やや勘違いもあるような気もしますし、虎屋文庫がおおもとになっているので、虎屋で扱っていないタイプの和菓子が含まれていないという恨みもあります。上の表紙画像にしても、私は和菓子というよりは中国風の印象なんですが、どうでしょうか。また、本書冒頭の紫式部にしても、当時の文化を背景に考えれば、洋菓子のシュークリームがあるわけではなく、国風文化の下で中国の影響すら薄いわけですから、和菓子が好きだったというよりは、甘いもの、現在の言葉でいえばスイーツが好きだった、ということなんでしょう。鎖国下の江戸時代もチャプターひとつを占めていますが、同様だという気がします。また、唐菓子がよく取り上げられている気がして、和菓子との境界につきやや疑問が残ります。

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次に、本格ミステリ作家クラブ[選・編]『ベスト本格ミステリ 2017』(講談社ノベルス) です。本格ミステリ作家クラブの創設が2000年で、その翌年の2001年から編まれている短編集の2017年版です。収録作品は、天野暁月「何かが足りない方程式」、青崎有吾「早朝始発の殺風景」、西澤保彦「もう誰も使わない」、似鳥鶏「鼠でも天才でもなく」、井上真偽「言の葉の子ら」、葉真中顕「交換日記」、佐藤究「シヴィル・ライツ」、青柳碧人「琥珀の心臓を盗ったのは」、伊吹亜門「佐賀から来た男」、倉狩聡「もしかあんにゃのカブトエビ」の短編と評論が1編となっています。極めて論理的に謎が解き明かされる「早朝始発の殺風景」、また、なかなか上手に騙してくれる「交換日記」などが私の感性に合致した気がします。2段組みの小さな活字で、資料編も合わせれば500ページ近いボリュームなんですが、さすがの作家陣の短編作品ですので、私はとてもスラスラ読み進むことができました。

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最後に、米澤穂信ほか『短編学校』(集英社文庫) です。このブログでも読書感想文に取り上げた記憶がありますが、同じ集英社文庫から出版されている『短編少女』や『短編少年』といったシリーズの最新刊ではないかと思います。収録作品は、米澤穂信「913」、本多孝好「エースナンバー」、中村航「さよなら、ミネオ」、関口尚「カウンター・テコンダー」、井上荒野「骨」、西加奈子「ちょうどいい木切れ」、吉田修一「少年前夜」、辻村深月「サイリウム」、山本幸久「マニアの受難」、今野緒雪「ねむり姫の星」の10作品となっています。 短編集にもかかわらず、なかなか深い作品が多かったような気がします。でも、こういったアンソロジーの常として、10本もの収録作品があれば、2-3は既読である可能性があります。まあ、既読の作品数が多いということは、それだけ残念という意味ではなく、読書家の証なのかもしれません。

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