2019年9月14日 (土)

今週の読書は経済学史のテキストからラノベまで含めて計9冊!!!

今週は大量に10冊近くを読みました。ただ、ややゴマカシがあって、うち3冊はラノベの文庫本だったりします。大学の経済学史の授業のテキストから始まって、以下の計9冊です。なお、小説の池井戸潤『ノーサイド・ゲーム』だけは買った本で、ほかは図書案で借りています。早大生協で5冊ほど小説ばかり買い求めたんですが、先週取り上げた道尾秀介『いけない』と、今日の池井戸潤『ノーサイド・ゲーム』のほか、残る3冊は宮部みゆき『さよならの儀式』、伊坂幸太郎『クジラアタマの王様』、東野圭吾『希望の糸』です。順次取り上げるつもりですが、あるいは、一気に読み切るかもしれません。

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まず、野原慎司・沖公祐・高見典和『経済学史』(日本評論社) です。著者たちは、いうまでもなく、経済学史の研究者であり、本書は大学の学部生くらいを対象にしたテキストを意図されているようです。ですから、基本的には学術書なんでしょうが、世間で身近な経済分野を分析する経済学の歴史ですので、一般のビジネスパーソンでも十分に読みこなせて、職場でも話題にできるような気がします。おそらく、どのような学問分野にも、xx学史の研究テーマがあり、例えば、数学史や天文学史などが有名ではないかと思います。後者の天文学史では、天動説から地動説に大転換があったりするわけです。その意味で、経済学の歴史である経済学史は、本書で指摘されている通り、そもそも成立がメチャクチャ遅いわけです。通常、古典的なレベルでは、典型的には古典古代のギリシア・ローマやエジプトなどに発祥する学問分野が少なくないんですが、経済学は、どこまで古くさかのぼっても、せいぜい、スミス直前の重農主義や重商主義でしかなく、むしろ、スミスの『国富論』なんぞは、ほかの学問分野では近代と呼ばれそうな気もします。その後の歴史的な経済学の現代までの流れが、極めてコンパクトに取りまとめられています。ただ、惜しむらくは、ものすごく大量の経済学の歴史を詰め込もうとしているだけに、とても大量の人名と理論が登場します。役所の官庁エコノミストをしていたころは、ほとんど何の関係もなかったマルクス主義経済学まで本書ではカバーしていたりします。とても例えが悪いので申し訳ないんですが、まるで、その昔の高校の世界史や日本史みたいな気すらします。中国の諸王朝の名称とそれぞれの皇帝の名を暗記するような勉強に、私のようなこの分野の初学者は陥るような気もします。経済学史の先生方は、このように多くの経済学者の名前を記憶し、それぞれの理論や業績をしっかりと把握しているのでしょうか。とても驚きです。私の記憶が正しければ、日銀の若田部副総裁のご専門が経済学史だったような気がするんですが、確かに、経済学の分野における博覧強記を地で行くような先生であるとのウワサを聞いたことがあります。私自身は、名前だけはよく似ている経済史を学生のころは勉強していました。経済学史がその名の通りに経済学の歴史であるのに対して、経済史もその名の通りに経済の歴史です。途上国や新興国が経済の発展段階を進める際の開発経済学の分野への応用の方が主だという気もします。

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次に、ジョセフ・ヘンリック『文化がヒトを進化させた』(白揚社) です。著者は、米国ハーバード大学の人類進化生物学の研究者です。英語の原題は The Secret of Our Success であり、2017年の出版です。本書で著者は、生物学的な、というか、ダーウィン的な進化だけでなく、ヒトについては文化が進化に大きな役割を果たして点を強調し、文化が人間を進化させ、そうして進化した人が文化を高度化し、高度な文化がさらに人を進化させる、という文化と進化の相乗効果で、ほかの動物に見られない極めて高度な文化・文明を身につけた、ということを実証しようと試みています。確かに、ヒトは個体としては決して強力ではなく、スポーツのようなルールなく素手で対決すれば軽く負けてしまいそうな自然界の動物はいっぱいいます。本書の冒頭で、コスタリカのオマキザル50匹とヒト50人がサバイバルゲームをすれば、おそらく、ヒトが負けるといった事実を突きつけています。その上で、「習慣、技術、経験則、道具、動機、価値観、信念など、成長過程で他者から学ぶなどして後天的に獲得されるあらゆるものが含まれる」と指摘している文化が、火や道具や衣類や言語や、といった文化的進化の産物をもたらし、さらに、これらがヒトの脳や身体に遺伝的な変化をもたらすという意味で、「文化-遺伝子共進化」culture-gene interactions を考えて、これこそがヒトをヒトたらしめている、と強調しています。加えて、文化が社会的な思考や行動を要請し、ある社会集団の構成員が共有している知識の総体としての文化が、食物をどのように獲得するか、個人間の争いをどのようにして仲裁するか、死後の世界はどんなものだと想定するか、何をしてはいけないか、どんな服装をするべきか、などなどを決定しているというわけです。ですから、文化を異にするヨソモノが別の社会的な集団に加わることは、それほど容易ではない、ということになります。また、別の観点から、当然のように、なぜヒトだけがこんな文化を持つことができるのだろう、という疑問が生じます。そして、文化を持つために必要な能力とは何かを考え、文化を形成し、改訂を加え、さらに次世代に伝達していくために必要なヒト固有の生物学的本能にも視点が及びます。人類という意味での集団についても、個別の子供の育て方についても、決定的な影響を及ぼすのは、親から受け継ぐ遺伝子かそれとも環境下、という不毛な論争が続いて来ましたが、集団としての人類の優秀さのもとを解明するためには、どのように他者と知識を共有し、他者から学ぶのかの詳細を解明することを通じて、この論争を終結させる可能性があるような気がします。

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次に、トム・ニコルズ『専門知は、もういらないのか』(みすず書房) です。著者は、米国海軍大学教校授であり、ロシア情勢や国家安全保障の研究者です。英語の原題は The Death of Expertise であり、2018年の出版です。基本的に、米国言論界の現状について、かなり上から目線ながら、専門知が尊重されず、議論が不毛のものとなって疲労感ばかりをもたらす現状について警告を発しています。もちろん、米国だけでなく、我が国を含むほかの先進各国にも、いくぶんなりとも共通するところが見出せるような気がします。すなわち、100年ほど前までは、政治経済や言論などの知的活動への参加は一部のエリート階級に限られていたが、現在に続く大きな社会変化でラジオやテレビ、さらにインターネットが普及して門戸は一般大衆に大きく開かれ、こういった方向は多くの人のリテラシーを高め、新たな啓蒙の時代の到来が期待された一方で、実際には、極めて多くの人が極めて大量な情報にアクセスが可能となり、かつ、知的活動に携わりながら、実は情報や知識を吸収しようとはせず、自らのやや方向違いの信念に固執して、各分野で専門家が蓄積してきた専門知を尊重しない時代を迎えている、ということを憂慮してます。確かに、我が国のテレビのワイドショーなんぞを見ていると、単なるタレント活動をしている芸能人が政治経済に関するコメンテータの役割を果たしているケースも決して少なくなく、私も従来から疑問に思っていたところです。例えば、政府の進める働き方改革でその昔に議論されたホワイトカラー・エグゼンプションについて、プロスポーツを引退したばかりで母児雌マンをしたこともないような元スター選手にコメントを求めても私はムダではないか、と思った記憶があります。これは、いわゆるポストトゥルースやポピュリズムの時代に、自分の意見と合致する情報だけを選び取る確証バイアス、その極端なものとしてのエコーチェンバーやフィルターバブルなどの結果といえます。ですから、健全で熟慮・熟考に基づく議論が成立しません。ただし、逆の面から見て、本書の第6章でも指摘していますが、専門家が常に正しいわけでもなく、本書では取り上げていませんが、鉛を加えたハイオクガソリンやフロンガスを社会生活に導入したトマス・ミジリーの実例などもあります。何が正しくて、何が間違っているのか、私は決して民主主義的な多数意見が常に正しいと考えるわけではありませんが、おうおうにして「みんなの意見は案外正しい」こともあるわけで、健全な常識に基づいて相手に対する敬意を持った議論を重ねて、決して真実ではないかもしれませんが、何らかの一致点に達したいと希望しています。

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次に、ヤクブ・グリギエル/A. ウェス・ミッチェル『不穏なフロンティアの大戦略』(中央公論新社) です。著者は2人とも安全保障に関する研究者ですが、ともに国務省の勤務経験もあり、単なる研究者にとどまらず実務家としての経験もあるようです。英語の原題は The Unquiet Frontier であり、邦訳タイトルはそのまま直訳したようです。2016年2月の出版です。どうして月まで言及するかといえば、本書が出版された時点では、現在のトランプ米国大統領はまだ共和党の中でも決して有力とみなされていなかったからです。ということで、監訳者あとがきにもありますが、本書の結論を一言でいえば「同盟は大切」ということになります。現在、東アジアで日韓関係がギクシャクして、そこに米国が仲介すらできずに、半ば静観していて、逆に、軍事的な負担金の増額を我が国に求めるがごとき政府高官の発言が報道されたりしていて、米国の安全保障面での求心力の低下を私は実感しています。もちろん、マルクス主義的な上部構造と下部構造に言及する必要もないくら位に明白な事実として、米国経済が全般的にその地位を低下させるとともに、軍事的なプレゼンスはもとより安全保障上の発言力も大きく低下し、その上で、現在の米国トランプ政権のような同盟軽視で自国中心主義的な安全保障観が登場したのはいうまでもありません。そういった当然のような最近数十年の安全保障上の動向につき、本書では「探り」probimg という言葉をキーワードに、現在の覇権国であり現状を変更するインセンティブを持たない米国とその同盟国に対し、ロシア・中国・シリアなどの現状変更を目指す勢力が「探り」を入れて来ていると著者たちは感じているわけです。私の感覚からすれば、「探り」とは低レベルの圧力であり、言論を持ってするものもあれば、破壊力の弱い武力行使も含まれるというくらいの意味に取りました。要するに、現状変更を目指す3石は米国と直接の武力対決を目指すのではなく、日韓両国がまさにこれに含まれるフロンティア=周辺に位置する米国の同盟国を切り崩しにかかっていて、韓国はまんまとこれに翻弄されているように見えます。いずれにせよ、私の専門外でありながら、興味の範囲内である安全保障に関する本書は、同盟という観点から米国サイドの安全保障を分析しており、それなりの新味があった気がします。実は、私自身は対米従属から脱却するために日米同盟は廃棄することが望ましいと考えていますが、米国の方から同盟に対する否定的な意見が飛び出す政権が登場したのに、やや戸惑っているのも事実です。

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次に、池井戸潤『ノーサイド・ゲーム』(ダイヤモンド社) です。作者はご存じ売れっ子の大衆小説作家であり、本書はTBSドラマの原作となっており、明日の日曜日が最終回の放映ではなかったかと記憶しています。名門ラグビーチームを抱える大手自動車会社の経営戦略室のエリート社員が、横浜工場の総務部長に左遷されて、自動的にラグビーチームのゼネラルマネージャー(GM)を兼務する、というか、本来の総務部長としてのお仕事よりもラグビーチームのGMとしてのご活躍がほぼほぼすべてとなります。辞任した監督の後任探しから始まって、地域密着型のチーム作り、さらに、ラグビー協会の改革、もちろん、チームの1部リーグの優勝まで、余すところなく目いっぱいの展開です。しかも、この作者らしく、社内政治も目まぐるしく変化し、今までになかったどんでん返しも見られたりします。というのは、この作者の作品の特徴として、半沢直樹シリーズが典型なんですが、白黒はっきりと別れて、主人公のサイドにいて味方するいい人たちと、それに対抗する悪い人たちが明確に分類される傾向があり所、この作品では白だと思っていたひとが黒だった、という展開もあったりします。そして、長らく定年まで役所に勤めた私なんかには想像もできないんですが、大きな会社ではここまでコンプライアンスに問題ある行為を実行する役員がいたりするものか、と感じさせられました。ラグビーですから、大学レベルでは関東の早大、明大、慶大、社会人レベルでもいくつかラグビーチームを持つ会社が実名で言及されたりして、また、監督についても実名で登場したりするんですが、実際に登場するチーム名や選手名は、もちろん、すべてが実在しないんだろうと思います。その点で、やや混乱する読者もいるかも知れません。それから、同じ作者で社会人のノンプロ野球をテーマにした『ルーズベルト・ゲーム』というのも私は読んでいるんですが、競技としてのルールや戦術などについてはラグビーの方が馴染みないんですが、それでも、作品としてはこの『ノーサイド・ゲーム』の方がよく出来ている気がします。私はドラマの方はまったく見ていませんが、明日の最終回を楽しみにしているファンの方も決して期待は裏切られないと思います。

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次に、ブレイディみかこ『女たちのテロル』(岩波書店) です。著者は英国ブライトン在住の保育士・著述家というカンジではないでしょうか。本書は出版社のサイトでは、評論・エッセイに分類されており、確かに、実在の人物や事件を基にしているわけですが、私の目から見て、あくまで私の目から見て、なんですが、真実は計り知れないながらも、かなり脚色もあって、むしろ、事実や実在の人物に取材した小説ではないか、という気がしています。まあ、赤穂浪士の討ち入りを題材にした時代小説のようなもんではないでしょうか、という気がします。したがって、私の読書感想文では小説に分類しておきます。ということで、女たちですから3人の約100年前の女性にスポットが当てられています。すなわち、皇太子爆殺未遂の金子文子、武闘派サフラジェットのエミリー・デイヴィソン、そして、アイルランドにおけるイースター蜂起のスナイパーであるマーガレット・スキニダーです。さすがに、私が知っていたのは金子文子だけで、本書でも言及されている朴烈の膝に寝そべった金子文子の写真も見た記憶があります。残念ながら、特に印象には残っていません。サフラジェットというのはたぶん、suffrage から派生していて、過激な女性参政権論者、アクティビストのようです。最後に、アイルランドのイースター蜂起は事件として知っているだけで、マーガレット・スキニダーについては皆目知りませんでした。いずれ3人とも恵まれない境遇から国家に反旗を翻した100年前の女性たちです。金子文子については、皇太子爆殺未遂の容疑なんですが、爆弾も用意せずに頭の中で計画を巡らせただけで、おそらくは、朝鮮人とともにという偏見もあって、それだけで有罪になったんですから、現在からは考えられもしません。でも、これら3人の女性が国家や権力と対決しつつも、前を向いて時代を生き抜く力の尊さについての温かい眼差しを感じることができました。ただ、金子文子の部分はともかく、先ほどのサフラジェットもそうなんですが、外国語をそのままカタカナにした文章表現は、やや読みにくく流暢な文章というカテゴリーからかなり遠いような気がしました。私はそれほどでもありませんが、それだけで嫌になる読者もいそうな気がします。着目した内容とアンリ・ルソーの雰囲気をたたえた表紙がよかっただけにやや残念です。

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最後に、望月麻衣『京都寺町三条のホームズ 10』、『京都寺町三条のホームズ 11』、『京都寺町三条のホームズ 12』(双葉文庫) です。個の私のブログでは、昨年2018年5月半ばに8巻と9巻の読書感想文をアップしています。その続きの10巻、11巻、12巻を読みました。10巻ではとうとう主人公の葵が5月3日ゴールデンウィーク真っ最中に20歳の誕生日を迎え、清貴と九州を走るJR九州のななつ星、だか、その架空バージョンに乗って婚前旅行、だか、婚約旅行をするストーリーです。そして、11巻は少し小休止で過去を振り返ったりします。このシリーズには第6.5巻というのがあったりしましたから、11巻というよりも10.5巻なのかもしれません。そして、12巻は清貴の修行シリーズに戻って、探偵事務所編です。どこまで続くんでしょうか。あるいは、私はどこまで付き合うんでしょうか?

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2019年9月 8日 (日)

先週の読書は経済書『グローバル・バリューチェーン』や教養書から小説までよく読んで計7冊!!!

昨日に米国雇用統計が入ってしまって、いつも土曜日の読書感想文が今日の日曜日にズレ込んでしまいました。『グローバル・バリューチェーン』や東京大学出版会の学術書といった経済書、さらに、教養書に加えて、道尾秀介の話題の小説まで、幅広く以下の通りの計7冊です。また、いつもの自転車に乗っての図書館回りもすでに終えており、今週の読書も数冊に上りそうな予感です。

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まず、荒巻健二『日本経済長期低迷の構造』(東京大学出版会) です。著者は、その昔の大蔵省ご出身で東大教授に転出した研究者です。本来のご専門は国際金融らしいのですが、本書ではバブル経済崩壊以降の日本経済の低迷について分析を加えています。出版社から考えても、ほぼほぼ学術書と受け止めていますが、それほど難しい内容ではないかもしれません。というのは、著者はが冒頭に宣言しているように、特定のモデルを念頭にした分析ではなく、したがって、モデルを数式で記述する意図がサラサラなく、マクロ統計データを基にしたグラフでもって分析を進めようとしているからです。ですから、各ページの平均的な面積で計測したボリュームの⅓から半分近くが文字ではなくグラフのような気が、直感的にします。あくまで直感ですから、もちろん、それほどの正確性はありません。ということで、まったくエコノミスト的ではない方法論ながら、バブル崩壊後の日本経済の低迷について、国内要因と海外要因、あるいは、供給サイドと需要サイド、財政政策と金融政策、家計部門と企業部門、などなど、いくつかの切り口から原因と対応策を考えた上で、企業部門の過剰ストック、という、エコノミスト的な用語を用いればストック調整が極めて遅かった、ないし、うまく行かなかった、という結論に達しています。いくつかに期間を区切って分析を進めていますが、特に、停滞が激しくなったのは1997年の山一證券、三洋証券、拓銀などが破綻した金融危機からの時期であるとするのは、衆目の一致するところでしょう。しかし、結局、「マインドセット」という耳慣れない原因にたどり着きます。それまでの統計を並べた分析とは何の関係もなく、企業部門の行動パターンの停留にある毎度セットに原因を求める結論が導かれた印象です。あえて弁護するとすれば、あらゆる可能性を統計的には叙すれば「マインドセット」が残る、といいたいのかもしれません。でも、わけの判らない結論だけに制作的なインプリケーションがまったく出てきません。あえてムリにこじつけて、本書ではデフレ対策の意味も兼ねて、ストック調整を無理やりに進めて供給サイドのキャパを削減することを指摘しています。かつての nortorious MITI のように各社に設備廃棄を行政指導したりすることが念頭にあるとも思えず、苦笑してしまいました。確かに、私もかつてのリフレ派のように「金融政策一本槍でデフレ脱却」というのは、ここまで黒田日銀が異次元緩和を続けてもダメだったんですから、そろそろ考え直す時期に来ているというのは理解します。しかし、本書がその意味で役立つとはとても思えず、「やっぱり、現代貨幣理論(MMT)ですかね」という気分になってしまいました。ちゃんと勉強したいと思います。

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次に、猪俣哲史『グローバル・バリューチェーン』(日本経済新聞出版社) です。著者はJETROアジア経済研究所のエコノミストです。途上国経済の分析や開発経済学の専門家が集まっているシンクタンクですが、実は、本書の副題も「新・南北問題へのまなざし」とされていて、単純にサプライチェーンを新たな呼び方で分析し直しているわけではありません。ただ、本書はほぼ学術書と考えるべきで、一般的なビジネスパーソンにも十分読みこなせるように配慮されていますが、それなりにリファレンスにも当たって読みこなす努力があれば、各段に理解が深まるように思います。もちろん、モデルを説明するのにはビジュアルな図表を用いて数式はほぼ現れない、という配慮はなされています。ということで、本書のタイトルではなく、一般名詞としてのグローバル・バリュー・チェーン(GVC)については、本書でも参照されているように、PwCのリポートでデジタル経済におけるサプライチェーンの特徴づけがなされていて、従来のような直線的な調達・生産・流通といったルートから顧客に届けるんではなく、それぞれの段階に応じてサプライチェーンを管理する必要性が指摘されています。ただ、本書はそういったマネジメントや経営学的なサプライチェーンではなく、もっと純粋経済学的な理論と実証の面からGVCを分析しています。その観点はいくつかありますが、第1に、産業連関表というマクロ経済の鳥観図の観点からの分析です。付加価値ベースで、どの国でどの産業の製品をアウトプットとして製造しているか、そのためにどの産業の製品をインプットとして用いているか、関連して雇用なども把握できる分析ツールが産業連関表であり、本書では世界経済レベルの連結した国際産業連関表をベースにした議論がなされています。第2に、最新の貿易理論の視点です。古典的ないし新古典派的な経済学では、リカードの比較生産費説に始まって、サムエルソン教授らが精緻化を図りましたが、本書でも指摘されているように、モデルのいくつかの前提を緩めて現実に近づけていく中で、クルーグマン教授らの新貿易理論、さらに、メリッツ教授らの新・新貿易理論に到達し、さらに、GVCの分析から新・新・新貿易理論まで展望しています。第3に、途上国や新興国の経済開発に関する視点です。従来は、直接投資などで外資を受け入れ、垂直的な向上生産を丸ごと途上国や新興国に資本や技術を移転するという観点でしたが、GVCでは生産の部分的な貢献により先進国から技術やマネジメントの導入が可能となり、比較優位がさらに細かくなった印象を私は持ちました。その昔、リカードは英国とポルトガルで綿織物とブドウ酒の例で比較優位に基づく生産の特化をモデル化しましたが、すでに、1990年代には半導体の前工程と後工程の分割など、生産の細分化により世界中で幅広く生産を分散化するという例が見られています。本書冒頭では、アップルのiPhpneが米国カリフォルニアでデザインされ、中国で生産された、という、それはそれで、少しややこしい生産ラインについて言及していますが、いろんなパーツを持ち寄ってアッセンブルするという生産が決して例外ではなくなっています。そして、最後に、そういった生産工程の一部なりとも自国に取り込むことにより、工学的なテクノロジーや経営的なマネジメントなどの導入を通じて途上国や新興国の経済開発に寄与する道が開かれたわけです。こういった幅広い観点からGVCの理論的・定量的な分析が本書では進められています。ただ、その前提として自由で公正な貿易システムが不可欠です。現状の米中間の貿易摩擦はいうに及ばず、世界的に自国ファーストで政治的・経済的な分断が進む方向はエコノミストとして、特に、私のように自国の経済はもとより、途上国や新興国の経済発展にも目を配る必要を感じているエコノミストには、とても疑問が大きいと考えています。

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次に、本川裕『なぜ、男子は突然、草食化したのか』(日本経済新聞出版社) です。著者は、統計の専門家で「統計探偵」を自称し、財団だか社団だかのご勤務の傍ら、ネット上の統計グラフ・サイト「社会実情データ図録」を主宰しているんですが、私の記憶が正しければ、役所からはアクセスできなかったです。理由はよく判りません。その昔は、マンキュー教授の Greg Mankiw's Blog にもアクセスできませんでしたから、私が文句をいって見られるようになったこともありました。どうでもいいことながら、私が役所に入った際に上司の局長さんは「景気探偵」を自称し、シャーロッキアンだったりしました。今年亡くなられたところだったりします。ということで、前置きが長くなったのは、本書の中身にやや疑問がないわけではないためで、特に、タイトルにひかれて社会生態学的な若者論を期待した向きには残念な結果となりそうで、本書はひたすら統計をグラフにして楽しんでいる本です。ただ、統計のグラフからその原因を探ろうとしているところが「探偵」を自称するゆえんなんだろうと思いますが、因果関係にはほとんど無頓着なようで、タイトルになった「草食化」についてはいくつか統計的なグラフを示した後、その原因は統計やグラフとは何の関係もなく世間のうわさ話や著者ご自身の思い込みから類推していたりします。しかも、著者の主張する「草食化」の原因たるや、原因か結果かが極めて怪しいものだったりします。2つのグラフを書いて見て時期が一致いているから、というのが理由のようです。もちろん、経済学の分野ではグレンジャー因果という概念があって、先行する事象をもって原因と見なす計量分析手法が一定の地保を占めていて、実は私の査読論文もこれを使ったりしているんですが、それならそれで明記すべきですし、時系列の単位根検定などもあった方がいいような気もします。また、エンゲル係数の動きの解釈なんか、私から見ればムリがあるような気がしないでもありません。加えて、統計以外のトピックから持って来るとすれば、高齢者就業率なんかはいわゆる団塊の世代の特異な動向にも言及する必要があるような気がするんですが、そのあたりはスコープにないのかもしれません。ですから、何かの経済社会的な現象についての原因を探るよりは、その経済社会的な現象そのものが世間の見方とは少し違う、という点を強調するしかないようで、世間一般の見方、すなわち、常識と少し違うという主張が本書の主たる内容であると考えるべきです。半年ほど前の今年2019年3月30日付けの読書感想文で、ゲアリー・スミス『データは騙る』を取り上げましたが、本書で解説されているうちのいくつかが該当しそうな気すらします。マーク・トウェインの有名な言葉に、「ウソには3種類ある。ウソ、真っ赤なウソ、そして、統計である」という趣旨の格言がありますが、ひょっとしたら、ホントかもしれない、と思わせるものがありました。少なくとも、今はポストトゥルースの時代ですし、平気で情報操作がなされるわけですから、世間一般に解釈されている内容と別の事実が統計から浮かび上がってくるのであれば、まず、それを健全なる常識に照らし合わせて疑ってみるべきです。もう少し、通説とか、一般教養とか、健全なる常識というものをしっかりと持った上で、統計的あるいは計量的にそれを裏付ける努力をすべきであり、悪質な改ざんや意図的なごまかしとは違う次元で、本書はそれなりに問題を含んでいる可能性があることを指摘しておきたいと思います。私の学生時代にブルーバックスから出た古い古い本で『統計でウソをつく法』というのをしっかり勉強する必要があるのかもしれません。少なくとも、統計から得られる事実を、自分の思い込みや世間のうわさ話で解釈するのはムリがあるような気がします。その典型が「草食化」なのかもしれません。

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次に、ジャスティン・ゲスト『新たなマイノリティの誕生』(弘文堂) です。著者は米国ジョージ・メイソン大学の研究者であり、米英における白人労働者階級の研究が専門のようです。英語の原題は The New Minority であり、2016年の出版です。邦訳書のタイトルはかなり直訳に近い印象です。ということで、訳者あとがきにもあるように、原書が出版された2016年とは英米で2つの国民投票におけるポピュリズム的な結果が世界を驚かせた年でした。英国のEU離脱、いわゆるBREXITと米国の大統領選挙でのトランプ候補の勝利です。これらの投票結果を支えたのが、本書でいうところの白人労働者階級であり、民族的にも人種的にも、かつては英米で多数を占めていたにもかかわらず、現在では新しい少数派になっている一方で、少なくとも2016年の英米における国民投票では大きな影響力を発揮した、ということになります。その英米両国における白人労働者階級について、英国の首都ロンドン東部と米国のオハイオ州においてフィールドワークを行い、計120人、うち約3割の35人はエリート層から選ばれた対象にインタビューを実施するとともに、定量的な分析も実施しつつ、いろんな面からの英米両国における白人労働者階級の実態を明らかにしようと試みています。ですから、というわけでもありませんが、本書はほぼほぼ完全な学術書です。第2章ではかなり広範囲な既存研究のサーベイがなされていて私もびっくりしましたし、フィールドワークのインタビューでも、定量分析でもバックグラウンドにあるモデルがよく理解できます。というか、少なくとも私には理解できました。そして、これらの白人労働者階級をアンタッチャブルで剥奪感大きなクラスとして見事に描き出しています。ポピュリズムの分析で、特に、英米の白人労働者階級にスポットを当てたものとして、この私のブログの読書感想文でも数多くの文献を取り上げていますし、訳者あとがきにも取り上げられていますが、本書は遅れて邦訳されたとはいえ、第一級の内容を含んでいて、通俗的ともいえるナラティブで一般読者を納得させる上に、きちんとモデルを背景に持った学術的な分析も十分に含んでいます。最後に、本書からやや離れるかもしれないものの、私が従来から強く思うに、こういった白人労働者階級は、かつてミドルクラスであり、特に英米両国に限らず欧米各国では広くマジョリティであったわけですが、その階層分解の過程で、20世紀初頭のロシアにおける農民層分解と同じように、何らかの左派のリベラル勢力がスポットを当てて、白人労働者階級の利益を代表して政策を打ち出すことが出来ていれば、ひょっとしたら、右派的なポピュリズムとは逆の目が出ていた可能性があるんではないか、という気がします。繰り返しになりますが、強くします。現在の英国労働党におけるコービン党首の打ち出している方向とか、米国民主党のサンダース上院議員の政策が、それを示唆しているように私は受け止めています。金融政策では為替動向を見据えつつ緩和を推進するとともに、財政政策では反緊縮でしょうし、企業の法人税を引き下げるのではなく、国民の雇用を確保して所得増を目指す方向です。

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次に、マーティン・プフナー『物語創世』(早川書房) です。著者は、米国ハーバード大学の演劇学や文学の研究者です。英語の原題は The Written World であり、2017年の出版です。地政学という言葉は人口に膾炙していますが、最近では経済地理学というのもありますし、本書はそういう意味では地理文学ないし地文学、ともいえる新しいジャンルを切り開こうとするものかもしれません。というのは、著者が著名な文学、ないし、英語の現タイトルのように書かれた記録に関する場所を訪れた経験を基に、その書かれた記録がひも解かれているからです。取り上げる対象は、聖書から始まって、「ハリー・ポッター」まで、本とか書物と呼ばれるモノなんですが、中身によって宗教書のようなものから、もちろん、小説がボリューム的には多くの部分を占めるんでしょうが、新聞やパンフレット、あるいは、宣言=マニフェストまで幅広く対象としています。それらの対象となる書物の中から、著者は「基盤テキスト」というものを主張し、これこそが世界に幅広くかつ強い影響力を及ぼす、と考えているようです。その典型例はいうまでもなく「聖書」であり、キリスト教政界にとどまらず、幅広い影響力を有しています。影響力が強すぎて、さすがに、地動説こそ広く受け入れられましたが、例えば、宇宙や世界の始まりに関するビッグバン、あるいは、ダーウィン的な進化論を否定するような非科学的な考え方すら一部に見受けられる場合もあったりします。これらの基盤テキストとして、本書では聖書に加えて、古典古代の『イリアス』や『オデュッセイア』。『ギルガメッシュ叙事詩』、さらに、やや宗教色を帯びたものも含めて、ブッダ、孔子、ソクラテス、『千夜一夜物語』、中世的な騎士道を体現しようとする『ドン・キホーテ』、などが解明され、我が国からは世界初の小説のひとつとして『源氏物語』が取り上げられています。異色な基盤テキストとしては「共産党宣言」が上げられます。これらの基盤テキストの著者に本書の著者のプフナー教授がインタビューした本書唯一の例が、第15章のポストコロニアル文学に登場するデレク・ウォルコットです。セントルシア出身の詩人であり、1992年にノーベル文学賞を授賞されています。ちょうど、私が在チリ日本大使館の経済アタッシェをしていて、ラテン・アメリカに在住していた時期であり、しかも、1992年とはコロンブスの新大陸発見からまさに500年を経た記念すべき年でしたので、私もよく記憶しています。当時、チリ人とついついノーベル文学賞の話題になった折り、「日本人でノーベル文学賞受賞者は何人いるか」という話題になり、1995年の大江健三郎の受賞前でしたから川端康成たった1人で悔しい思いをした記憶があります。というのは、その時点でチリ人のノーベル文学賞受賞者は2人いたからです。情熱的な女流詩人のガブリエラ・ミストラルと革命詩人のパブロ・ネルーダです。ウォルコットもそうですが、日本で的な短歌や俳句を別にすれば、我が国の詩人の詩が世界的に評価されることは少ないように私は感じています。詩に限らず小説も含めて、スペイン語や英語といった世界的に広く普及している国際言語を操るラテン・アメリカ人と違って、日本人や日本語のやや不利なところかもしれないと感じたりします。やや脱線しましたが、本題に戻って、小説や詩といった文学に限定せず、世界的に影響力大きい基盤テキストについて、地理的な要素を加味しつつ、それらが「書いたもの」として記録された意味を考える本書はなかなかに興味深い読書でした。今週一番です。

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次に、須田慎太郎『金ピカ時代の日本人』(バジリコ) です。著者は報道写真家であり、本書の期間的なスコープである1981年から1991年の約10年間は、主として、我が国における写真週刊誌第1号として新潮社から1981年に発効された「フォーカス」の専属に近い写真家であったような印象を私は持ちました。我が国では、写真家の先達として、賞にもなっている木村伊兵衛と土門拳があまりにも有名ですが、本書の著者は報道写真ということですから、後者の流れをくんでいるのかもしれません。というのは、木村伊兵衛はどちらかといえば、ということなんですが、人物や風景などのポートレイトが多いような印象を私は持っているからです。現在では、写真の木村賞といえば、小説の芥川賞になぞらえられるように、写真家の登竜門として新人写真家に対して授与され、他方、土門賞といえば、小説の直木賞のように、報道も含めてベテランで大衆的な写真家に授与されるような傾向あるものと私は理解しています。なお、「フォーカス」のような写真雑誌としては、海外では Life などが有名ですし、我が国では考えられないんですが、社交誌のような雑誌も発行されていたりします。実は、私が1990年代前半に在チリ日本大使館に勤務していた折、当地の Cosas という社交誌にチリの上院議員とともに収まった写真が掲載されました。今でも記念に持っていたりします。さらに、著者は定年退職したばかりの私の1年年長であり、本書の時期的なスコープがほぼほぼ私の社会人スタートと重なっています。しかも、タイトルに「金ピカ時代」、たぶん、英語では Gilded Age と呼ばれ、特に米国では南北戦争終了後の1870~80年代の急速な発展期と目されていますし、本書でも1981~91年はバブル経済の直前とバブル経済の最盛期と見なしているようです。まあ、いろんな視点はあるわけで、日銀的に、その後のバブル崩壊のショックまで視野に入れて、バブル期を評価しようとする場合もあるんでしょうが、私のようにその時代を実体験として記憶している向きには、華やかでそれなりに思い出深い時期、と見る人も少なくないような気もします。その後、我が国のバブルは崩壊して、私も海外の大使館勤務で日本を離れたりします。しかも、本書では写真家が著者ですので、著述家や作家と違って、被写体がいるその場に臨場する必要があるわけですから、とても迫力があります。もちろん、バブル経済直前とその最盛期の日本ですから、本書でも言及されているロバート・キャパ、あるいは、マン・レイのように戦場の写真はまったくありません。日本人でも沢田教一のように戦場の写真を撮り、戦場で死んだ写真家もいましたが、まあ例外なのかという気はします。架空の写真家としては吉田修一の小説の主人公である横道世之介がいますが、写真家としての活躍はまだ小説にはなっていません。本書では、上の表紙画像に採用されているようなAV女優に囲まれる村西とおる監督とか、あるいは、当時のトップレス・ノーパン喫茶の取材などの際の写真、といったくだけたものから、政治家や財界人などの写真、あるいは、山口組3代目組長の妻や4代目組長の写真などなど、歴史的な背景の記述とともに写真も幅広く収録されています。ただ、私の目から見て、なんですが、経済は人が出て来ませんので写真になりにくい恨みはありますが、スポーツの写真がかなり少ない印象でした。報道写真としてはスポーツも必要で、特に本書のスコープの中には1985年の阪神タイガース日本一が含まれますので、やや残念な気はします。

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最後に、道尾秀介『いけない』(文藝春秋) です。著者は、なかなか流行しているミステリ作家であり、私も大好きな作家の1人です。作品の8割方は読んでいると自負しています。この作品は、私の目から見て、「xxしてはいけない」という各賞タイトルが付いた3章の中編ないし短編集と考えています。連作短編集です。ただ、最後のエピローグも含めて4章構成の連作短編集とか、あるいは、全部ひっくるめて長編と考える向きがあるかもしれません。全体を通じて、この作家特有の、何ともいえない不気味さが漂い、ややホラー仕立てのミステリに仕上がっています。特に、第1章は倒叙ミステリではないかもしれませんが、実に巧みに読者をミスリードしています。そして、この第1章だけは蝦蟇倉市のシリーズとして、アンソロジーに収録されていて、私も読んだような記憶がかすかになくもなかったんですが、なにぶん、記憶容量のキャパが小さいもので、実に新鮮に読めたりしました。ただ、第2章以降も含めて、十王還命会なる宗教団体を中心に据えたミステリに仕上げた点については、疑問に思わないでもありません。もちろん、ホックの短編「サイモン・アーク」のシリーズと同じように、いかにも、近代科学では説明できない超常現象のように見えても、近代科学の枠を決して超えることはなく、その近代科学と論理の範囲内で謎が解ける、という点については高く評価するものの、宗教団体、特に、新興宗教というだけで、何やら胡散臭いものを感じる私のような読者もいることは忘れて欲しくない気もします。特に、本書の殺人事件は警察レベルではすべてが未解決に終わるんですが、その背後に宗教団体がいては興醒めではないでしょうか。ただ、読後感は決して悪くなく、上手く騙された、というか、何というか、各章最後の10ページほどで真実が明らかにされ、大きなどんでん返しが体験できます。私自身は、どちらかというと、ディヴァー的なものも含めて、ラストのどんでん返しよりも、タマネギの皮をむくように、徐々に真実が読者の前に明らかにされるようなミステリ、例えば、最近の作風では有栖川有栖の作品などが好きなんですが、こういったどんでん返しも、本書のように読後感よくて上手く騙された感がありますので、いいんではないかという気がします。実は、オフィスから帰宅の電車で読み始め、家に帰りついてから夕食も忘れて一気読みしました。250ページほどの分量というのも適当なボリュームだった気がします。なお、先週の読書のうち、本書だけは買い求めました。借りようとしても待ち行列があまりに長かったからで、加えて、来月から消費税率が引き上げられますので、小説ばかり何冊か買い求めたうちの1冊でした。本書を含めて5冊ほど早大生協で買い求めましたので、少しずつ読んでいこうと考えています。

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2019年8月31日 (土)

今週の読書は経済書や教養書・専門書から話題の小説まで計6冊!!!

今週も、経済書2冊をはじめとして、中国史などに関する教養書・専門書から流行作家の小説まで、以下のとおり6冊ほどの読書なんですが、決して読書感想文で明らかにできない本も読んだりしています。なお、すでに自転車で図書館回りを終えており、来週の読書も数冊に上る予定ですが、「読書の秋」を終えたくらいの段階で、そろそろペースダウンも考えないでもありません。

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まず、ジョセフ F. カフリン『人生100年時代の経済』(NTT出版) です。著者は、米国マサチューセッツ工科大学(MIT)の研究者であり、エイジラボ(高齢化研究所)の所長を務めています。英語の原題は The Longevity Economy であり、2017年の出版です。邦訳タイトルは長寿ないし高齢を意味する longevity を人生100年時代としていますが、かなりの程度に直訳に近い雰囲気です。ということで、タイトルから理解できるように、あくまで「経済」であって「経済学」ではありませんから、製品開発なども含めた広い意味での高齢化社会への対応を解説しようと試みています。どちらかといえば、マーケティング的な視点を感じ取る読者が多そうな気もします。もちろん、その前提として、高齢化社会、ないし、人生100年時代の経済社会の特徴を明らかにしています。ただし、米国の研究者らしく、政府による政策や制度的な対応はほぼほぼ抜け落ちています。日本でしたら、医療・年金・介護などの政府に頼り切った議論が展開されそうなところですが、そういった視点はほぼほぼありません。まず、高齢者とは従来のイメージでは、働けなくなった、ないし、引退した世代の人々であり、従って、収入が乏しいという意味で経済的には貧しく、もちろん、肉体的にも不健康であり、これらが相まって、不機嫌な傾向も大いにある、ということになります。本書ではもちろん登場しませんが、その昔の我が国のテレビ番組で「意地悪ばあさん」というのがあり、私はそれを思い出してしまいました。しかし、本書で著者が主張するのは、従来の意味での高齢者像は人生100年時代に大きく変化している、という点です。ただ、統計的な評価ではなく、アクネドータルにトピックを紹介している部分が多いんですが、うまくいった商品、ダメだった商品の例などは単なるケーススタディにとどまらず、大きな経済社会的な方向感をつかむことができるかと思います。なお、注釈にもありますが、著者は「商品」という言葉ではなく、「プロダクト」を独特の用法で多用します。本論に戻ると、単に高齢者のニーズが従来から変化した、というだけでなく、年齢を重ねても元気で生活や消費だけでなく、あるいは、労働の継続まで含めて、高齢者の生活の中身そのものが従来とは異なる、という点が重要なのではないかと私は考えています。

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次に、タイラー・コーエン『大分断』(NTT出版) です。著者は米国ジョージ・メイソン大学の経済学の研究者であり、マルカタス・センターの所長を務めています。「マルカタスト」とはマーケット=市場という意味らしく、市場原理主義者ではありませんが、リバタリアンと解説されています。英語の原題は The Complacent Class であり、2017年の出版です。同じ著者の出版で『大停滞』と『大格差』も話題を呼んだと記憶しています。ということで、著者のいう「現状満足階級」とは、著者自身は NIMBY = Not in My Backyard と解説していますが、同じことかもしれないものの、私が理解した限りで、いわゆる総論賛成各論反対の典型であり、経済社会の改革や変革を望みながら、自分自身の生活や仕事の変化は望まない、という人たちであり、これも私が本書を読んだ限りでは、著者は、大きな変革が生じにくくなっていることは強調している一方で、これが「現状満足階級」に起因している、ことはそれほどキチンとした証明とまでいわないまでも、あまり言及すらしていないような気がしました。まあ、私が読み逃しているだけかもしれません。他方で、デジタル経済の下で格差が広がっている点については、いわゆる「スーパースター経済」が進んでいるわけですから、これについては、いろんな論点がほぼ出尽くしている気がします。経済については、開発経済学の見方を援用すれば、要するに、先進各国ともルイス転換点を越えたわけですから、大きな変革は生じようがありません。他方で、新興国途上国やはルイス転換点に向かっていますから、かつての日本のような高成長が可能になっています。ただし、そのためには、いわゆる「中所得国の罠」に陥ることなく成長を続ける必要があり、中国やかつてのマレーシアなどが、私の目から見てかなりの程度に「中所得国の罠」に陥ったのは、あるいは、本書で指摘するような「現状満足階級」が何らかの影響を及ぼしている可能性はあります。でも、先進国ではそういったことはないような気がします。ですから、私は本書の主張が先進国の中の先進国である米国に当てはまるとは考えないんですが、逆の方向から見て、第8章の政治や民主主義の点が典型的なんですが、政治や社会的な動向への影響については考えさせられるものがありました。「現状満足階級」が、カギカッコ付きの「社会的安定」に寄与している一方で、最終章で著者が主張するように、「現状満足階級」が崩壊するとすれば、新しいタイプのアヘンであるSNSが廃れて、再び米国で暴動が発生するようになったりするんでしょうか。著者は何ら気にかけていなさそうですが、背景には直線的な歴史観と循環的な歴史観の相克があるような気がします。

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次に、岡田憲治『なぜリベラルは敗け続けるのか』(集英社インターナショナル) です。著者は、専修大学法学部の政治学の研究者であると同時に、学生運動から入った政治活動家であり、バリバリの左翼リベラルのようです。ただし、社会党系であって、共産党系ではないような印象を受けました。ということで、どうしてリベラルが敗け続けるかというと、p.28でいきなり回答が一言で与えられており、「ちゃんと政治をやってこなかった」ということのようです。この一言を本書の残り200ページあまりで延々と展開・議論しているわけです。私の歴史観は確信的なマルクス主義に則った唯物史観で、その他の経済学や政治的なものの見方まですべてがマルクス主義的というつもりはありませんが、基本的には、経済的な下部構造が政治や文化などの上部構造を規定して歴史が進む部分が大きいと考えています。そして、下部構造の経済とは生産構造と生産力です。生産構造は原始共産制から始まって、古典古代の奴隷制、中世の農奴制、そして近代資本主義、願わくは、社会主義・共産主義と進み、生産力は生産構造の桎梏を超えるかのように向上し続けます。脱線しましたが、著者は、どうもこの経済の下部構造に関して考えを及ばせることなく、反与党での野党統一しか頭にないように私には読めました。1930年代の反ファシズムの1点だけによる統一戦線戦略、まさに、スペインで成功するかと思われたコミンテルンのディミトロフ理論に基づく統一戦線の結成は、私も現在の日本でもあり得ることとは思いますが、その前に経済的な観点が左派やリベラルには必要です。ですから、第7章のように、「ゼニカネ」の話で政治を進めることが重要なのですが、実は、そこに目は行っていないようにカンジます。私も定年を超えて、かつてのような公務員としての強固な雇用保障もなく、パートタイム的な働き方をしているとよく判りますが、特に年齢の若い層では安定した仕事も収入もなく、ややブラックな職場で結婚もできず将来も見通せないような生活を余儀なくされて、憲法や自衛隊や、ましてや、北朝鮮のことなどには目が届かず、毎日の生活に追われている国民は決して少なくありません。特に若年層のこういった不安定な生活の克服こそ政治が目指すべきものではないんでしょうか。もちろん、自由と民主主義が確保されてこその生活の安定ですから、自由と民主主義が保証されなくなるともっとひどい収奪に遭遇する可能性があるわけですから、集団自衛権や特定秘密保護などはどうでもいいとは決して思いませんが、リベラルや左派が往々にして無視ないし軽視している経済や生活といったテーマを本書の第7章で取り上げておきながら、第8章以降ではまたまた国民目線を離れて、安定した職と収入あるエリートの見方に戻っています。3月末で定年退職する前は、私も公務員というお仕事柄、総理大臣官邸近くを通ることもありましたし、デモや何らかの意思表示を国会や議員会館や総理官邸周辺で見かける機会は平均的な日本国民より多かったと考えていますが、左派リベラルの主張は、引退した年金世代が担っているという印象を持っています。安定した収入ある年齢層の人たちかもしれません。逆に、現在の安倍政権は世界標準からすれば、とても左派的でリベラルな経済政策を採用し、若年層の支持を集めている気がします。もちろん、本書で指摘しているような政治的な、あるいは、制度的なカラクリがバックグラウンドにあって政権を維持しているのは否定のしようもありませんが、リベラルが敗け続けるのは経済を軽視しているからであると私は声を大にして主張したいと思います。途中で田中角栄元総理のお話が出てきますが、かなり示唆に富んでいると私は受け止めました。最後に、AERAか週刊朝日か忘れましたが、「憲法や安保などに固執し、ゼニカネの問題を忘れたオールド左翼を叱る本」といった趣旨の書評がありました。ホントにそうであればいいと私は思います。強く思います。

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次に、岡本隆司『世界史とつなげて学ぶ中国全史』(東洋経済) です。著者は京都府立大学の研究者であり、もちろん、専門は中国史です。本書では、いわゆるグローバル・ヒストリーのフレームワークで中国史を捉え、黄河文明の発生から中華思想の成立も含めて中国をしひも解き、現代中国理解の上でも大いに参考になるかもしれません。特に私の目を引いたのは、気候の変動が中国に及ぼした影響です。その昔のフランスのアナール派なんぞは病気や病原菌が歴史に及ぼした影響を探っていたような気がしますが、インカ帝国滅亡と天然痘のほかには、それほど適当な例を私は見いだせない一方で、本書では、地球規模での寒冷化が進んでゲルマン人がローマ帝国に侵入したり、遊牧民が中国のいっわゆる中元に南下したり、といった事象を説明しています。加えて、モンゴルの世界帝国は温暖化による産物、すなわち、気温の上昇によりいろいろな活動が盛んになり、移動などが容易になった結果であるとも指摘しています。そして、現在の共産党にすら受け継がれている中華思想については、明の時代に成立したと指摘しています。私もそうだろうと思います。というのは、実は、中国における漢民族の王朝はそれほど多くないからです。中国の古典古代に当たる秦ないし漢の後、隋と唐は漢民族国家であったかどうかやや疑わしく、むしろ、やや北方系ではなかったかと私は想像しています。ただ、北魏から隋・唐にかけて、本書では何の指摘もありませんが漢字の楷書が成立しています。本書の立場と少し異なるかもしれませんが、私自身のマルクス主義史観からすれば、原始共産制の下で生存ギリギリの生産力から脱して、特に農耕を開始した人類が余剰生産が可能となった段階で、その余剰物資の記録のために文字が誕生します。典型的には肥沃な三日月地帯であるメソポタミアにおける楔文字が上げられます。中国の亀甲文字も同じです。亀甲文字が草書・行書や隷書を経て楷書に至り王朝の正式文字として記録文書に用いられるようになったのが北魏ないし隋や唐の時代です。その後の短期の王朝は別として、宋は本書でも指摘している通り本格的な官僚制を採用した漢民族の王朝であり、その後、モンゴル人の征服王朝の元、そして再び漢民族の明が来て、またまた女真族の征服王朝の清が続き、孫文の中華民国から現在の共産党支配の中国へとつながるわけですので、漢民族の王朝は半分といえます。その中で、明王朝が鎖国的な朝貢貿易を用いつつ中華思想を確立したというのは、とても納得できます。高校生くらいなら読みこなせると思わないでもありませんし、あらゆる意味で、オススメできる中国史だった気がします。

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次に、西平直『稽古の思想』(春秋社) です。著者は京都大学教育学部の研究者です。私はこの著者は、ライフサイクルの心理学で何か読んだ記憶があるんですが、本書の読後の感想では、宗教学か哲学の専門家ではないかという気もします。どうでもいいことながら、京都大学は私の母校なわけですが、私の在学のころ、いわゆる文系学部の1学年当たりの学生の定員は、法学部が300人余り、経済学部と文学部が200人で、教育学部が50~60人ではなかったかと記憶していて、文系学部の中では突出して希少価値があった気がします。ですから、在学していた当時の友人は別にして、京都大学教育学部の卒業生で私が知っている有名人も多くなく、ニッセイ基礎研の日本経済担当エコノミストと推理作家の綾辻行人くらいだったりします。ということで、本書は、やや言葉遊び的な面もあるものの、練習とは少し違った捉え方をされがちな稽古についてその思想的な背景とともに考察を加えています。同じような言葉で、修行や修練・鍛錬にもチラリと触れています。また、当然ながら、東洋的なのか、日本的なのか、道というものについても考えを巡らせています。すべてではありませんが、世阿弥の能の稽古と舞台の本番をひとつの典型として頭に置いているようです。私の目から見て、とても弁証法的なんですが、そうは明記されておらず、わざを習い、そして、わざから離れる、という形で、何かを得て、また離れて、といったプロセスを基本に考えています。わざというか、何かを得ながら、それに囚われることを嫌って、それを手放す、しかし、そのわざが身について自然と出来るようになるところまで稽古を進める、というのが根本思想と私は読み解きました。違っているかもしれませんが、本書では芸道と武道を基本としているようで、出来上がったモノがある茶道や華道と違って、そのプロセスにおける型の考察もなされていますし、英語の unlearn の邦訳としての「脱学習」という言葉でもって、わざを習い、それから離れ、最後に、自然と出来るようになるという意味で、わざが身につくプロセスを稽古の本道と見なしているようです。どうでもいいことながら、先に取り上げた『なぜリベラルは敗け続けるのか』でも unlearn が出て来ました。流行りなのか、偶然なのか、よく判りません。本題に戻って、確かに、本番の舞台ある能は典型でしょうし、武道では試合があります。その意味で、茶道や華道では稽古と本番の差が大きくないような気もします。茶道で考えると、日々のお教室は稽古で初釜が本番、というわけではないでしょう。稼働でも、何らかの展覧会だけが本番ではないような気がします。最後に、本書は大学での授業が上手く行ったかどうかを書き出しに置いています。私も短期間ながら大学教員の経験を持っていて少なからず事前準備はしましたが、大学での授業が道に達するとは思ったことはありません。修行が足りないのかもしれません。

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最後に、伊坂幸太郎『シーソーモンスター』(中央公論新社) です。作者は私なんぞから解説の必要ないくらいの流行ミステリ作家です。実は、本書は、今月初めの8月3日に読書感想文で取り上げた小説3冊、すなわち、澤田瞳子『月人壮士』、薬丸岳『蒼色の大地』、乾ルカ『コイコワレ』と同じで、中央公論新社が創業130年を記念して2016年に創刊し、2018年に10号でもって終刊した『小説BOC』において、複数の作家が同じ世界観の中で複数の作家が同じ世界観の中で長編競作を行う大型企画「螺旋」プロジェクトの一環として出版されています。本書はほぼ長編といってもいいくらいの長さの小説2編から成っており、出版タイトルと同じ1部めの「シーソーモンスター」はバブル経済華やかなりし昭和末期を、また、本書の後半をなす2部めの「スピンモンスター」は近未来を、それぞれ舞台にしています。ただ、後者の近未来とはいっても、自動車の自動運転とかAIのさらなる進歩、さらに、情報操作などの現時点からの継続的な社会の特徴だけでなく、そこはさすがの伊坂幸太郎ですから、「新東北新幹線」や「新仙台駅」などの固有名詞がさりげなく登場し、「ジュロク」という新音楽ジャンルが成立していたり、さらに、デジタル社会を超えてデジタルとアナログを融合した経済社会が誕生していたりと、私のような平凡な年寄りからは想像もできない社会を舞台にしています。もちろん、「螺旋」プロジェクトの一環ですから、青い瞳の海族と尖った大きい耳の山族の緊張関係やぶつかり合いがメインテーマとなっています。バブル期の「シーソーモンスター」では、嫁姑という非常に判りやすい対立が現れますし、それでも、主人公の亭主というか、倅を協力して救ったりもします。第2部の「スピンモンスター」はもっと複雑で重いストーリーになっています。すなわち、交通事故で家族を失った水戸と&6a9c;山が主人公であり、海族と山族になります。同じ著者の『ゴールデンスランバー』よろしく、前者が容疑者になって逃げて、後者が警官として追いかけます。もちろん、「シーソーモンスター」とつながっており、前編の嫁が絵本作家として登場し、水戸の逃亡を手助けしたりします。おそらく、伊坂幸太郎ファンからすれば前編の「シーソーモンスター」の方がいかにも伊坂幸太郎的な軽やかさもあって、その意味で楽しめるという気がしますが、後編の「スピンモンスター」については、とても重いストーリーな一方で、近未来、おそらく2050年くらいのイメージで、カーツワイル的なシンギュラリティの2045年を少し越えているあたりと私は想像していて、そのSF的な世界観に圧倒されます。決して、シンギュラリティを越えた時点のテクノロジーではなく、そういったテクノロジーが普通にある社会の世界観です。こういった世界観を小説で書ける作者は、そういないような気がします。その意味で両編ともにとてもオススメです。最後に、「螺旋」プロジェクトの作品はこれで終わりかな、という気がしますが、ひょっとしたら、朝井リョウ『死にがいを求めて生きているの』は読むかもしれません。

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2019年8月24日 (土)

今週の読書は話題の現代貨幣理論(MMT)の経済書など計8冊!!!

今週は、やや異端的ながら注目されつつある現代貨幣理論(MMT)を平易に解説した経済書をはじめ、ポストトゥルースに関する教養書も含め、以下の通りの計8冊です。本日はいいお天気の土曜日でしたので自転車にうってつけですでに図書館回りを終え、来週も数冊の読書を予定しています。

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まず、中野剛志『目からウロコが落ちる奇跡の経済教室【基礎知識編】』(KKベストセラーズ) です。著者は評論家となっていますが、まだ、経済産業省にお勤めではなかったかと私は記憶しています。本書の続編で、『全国民が読んだら歴史が変わる 奇跡の経済教室【戦略編】』もすでに同じ出版社から上梓されており、今日の段階では間に合いませんでしたが、近く借りられることと期待しています。本書は基礎編として、現代貨幣理論(MMT)に基づくマクロ経済学を展開しています。そして、その基礎となっているのは信用貨幣論です。すなわち、その昔の金本位制などの商品貨幣論ではなく、現代的な銀行が信用創造をして貨幣を作り出す、というMMTの基礎となる理論です。まだ読んでいないのであくまで私の想像ですが、続編の『【戦略編】』はこのMMT理論を普及させるために戦略が展開されているんではないかと思っています。現代貨幣理論(MMT)ですから、自国通貨建てで発行される国債で財政破綻に陥ることはなく、デフレ解消のためには金融政策ではなく財政政策により需要を拡大する必要がある、というのが肝になっています。私は直感的にはMMTは正しいんだろうと理解していますが、そう考えるエコノミストはとても少ないのも体験的に理解しているつもりです。そして、MMTにしたところで、財政破綻がまったくあり得ないわけではなく、インフレが高進すれば財政破綻のサインですから、財政を引き締めるべきであるとされています。繰り返しになりますが、本書では、信用貨幣論とそれに基づくMMTに関する議論を展開していますが、売り物として、「世界でもっともやさしい」といううたい文句がついています。ですから、逆から見て、私にはバックグラウンドとなっているモデルが判然としません。むしろ、数式を並べ立ててゴリゴリとモデルのプロパティを示してもらった方が、私には有り難かったような気すらします。ただ、おそらく、従来の伝統的経済学のモデルと比較して、かなりの程度に非線形かつ非対称な作りになっているような気がします。まあ、それはいいとしても、少なくとも、すでに破綻したリアル・ビジネス・サイクル(RBC)理論に基づき、いわゆるミクロ的な基礎付けあるDSBEモデルなどよりは、より現実に即しているような気がします。ただ、財政政策があまりに大きな役割を背負うだけに不安もあります。というのは、デフレを脱却してインフレになると財政赤字の削減に走らないといけないわけですが、出口論はまだまだ早いとはいいつつ、それだけに、ヘタな財政リソースの使い方ができません。例えば、津波対策の堤防などを作っていて、経済がデフレを脱却してインフレに入ったため、津波対策を急にヤメにする、というわけにはいかないような気がするからです。医療や年金や介護といった社会保障にも使いにくそうです。景気の動向に応じて増やしたり減らしたりがごく簡単にできる使い道ということになれば、どこまで財政政策で対応できるのかはやや疑問が残ります。ただ、直感的に理論的正しさを感じているだけに、とても魅力が大きくて、基礎的な勉強を進めつつ、何とか実践的に使える政策にならないものかと考えているところだったりします。

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次に、ミチコ・カクタニ『真実の終わり』(集英社) です。著者は、名前から理解できるように日系人であり、ながらくニューヨーク・タイムズの書評を担当するジャーナリストを務めて来ています。というか、今でも現役でそうなのかもしれません。英語の原題は The Death of Truth であり、日本語タイトルはほぼ直訳と私は受け止めています。2018年の出版です。ということで、言葉としては本書には登場しませんが、ポストトゥルースの時代にあって、米国にトランプ大統領が誕生して、フェイクニュースもまき散らされている現在、真実は終わった、死んだのかもしれません、という観点からのエッセイです。2010年代に入って、本日の読書感想文でも後に取り上げる安倍総理の本でも同じように取り上げられていますが、政治的な指導者が真実や事実をとても軽視し、まさに、ポストトゥルースの本義に近く、真実や事実に基づく考察を行うことなく、感情的に訴えるような、あるいは、その場の雰囲気に流されるような意見が政治的に重視されかねない状態が続いています。その結果として、ポピュリスト的な選挙結果が、特に、2016年に示され、BREXIT、すなわち、英国のUE離脱は現在のジョンソン首相の下で、何ら合意なく実行されそうな予感すらしますし、すでに次の大統領選挙モードに入った米国のトランプ大統領はツイッターでいろいろな情報を流したりしています。大陸欧州でも、過半数はまだ取れていないものの、ポピュリスト政党が支持を伸ばしていることは広く報じられている通りです。私が公務員だったころには、EBPMなる言葉が役所でも重視され始め、何らかの統計的あるいは定量的なエビデンスに基づく政策立案や執行が求められるようになって来つつありました。ポストトゥルースとはその真逆を行くものです。そして、事実や真実を重視することによってではなく、ホントのことに対しては斜に構えつつ、反対派との議論で熟議する民主主義のスタイルを放棄して、あくまで自派の意見を通すべく数を頼んで押し切る、あるいは、やや妙ちくりんな理論でも、適当に反対派を論破してしまう、という政治スタイルが増えたのは事実かもしれません。もちろん、民主主義では数は力であって、そのために選挙で各政党は自分たちの政策を訴えて支持を得ようとするわけですが、大くん国民がごく簡単に意見が一致するわけではありませんから、何らかの議論が必要とされるケースが多いわけですが、そこでの熟議を省略ないし無視して非論理的な論法や事実ではない感情的な見方などに基づいて数で押し切るわけです。そして、私が読みこなした範囲では、著者はその原因を、ハイデッガー的な表現を使えば、ポストモダニズムの「頽落」に求めているように私は読みました。まあ、ポストモダニストたちはマルクス主義的な一直線に進む歴史とか、普遍的でメタなナラティブとか、近代的と称する西欧中心的なものの見方、などなどをかなりシニカルに否定したわけですが、私はそこまでの見方が成り立つのかどうかは自信ありません。というか、特に、米国を例に取れば、黒人の大統領を選出するというかたちで、ある意味、究極的なポリティカル・コレクトネスを実現しきってしまった米国市民、あるいは、米国政治の振り子が揺り戻されているだけなのではないか、という気がするからです。もちろん、振り子がもう一度揺り戻されて、真実や普遍性や共感や常識といったものに価値を認める社会が半ば自動的に時間とともに取り戻される、と主張するつもりは私にはありません。こういった社会は闘い取らねばならないのかもしれません。

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次に、デービッド・サンガー『サイバー完全兵器』(朝日新聞出版) です。著者は、カクタニ女史と同じくニューヨーク・タイムズのジャーナリストであり、専門分野はAIなどのテクノロジーではなく、国家安全保障のようです。何度かピュリツァー賞も授賞されています。英語の原題は The Perfect Weapon であり、2018年の出版です。今週になって、AIの戦争利用に関する国際会議のニュースをいくつか見かけて、法的拘束力ないながら、AIに攻撃の判断をさせることを回避するような結論が出されそう、という方向に進んでいるような印象を私は受けています。ただ、これらの報道はリアルな武器を用いた伝統的な攻撃に関する判断項目であり、本書では物理的な、という表現は正しくないんですが、核爆発を含む通常兵器あるいは核兵器による攻撃ではなく、サイバー空間において電力の供給とか、カッコ付きながら「敵国」のシステムに侵入してダメージを与えることを指します。分野が安全保障でありかつサイバー攻撃という技術的な内容も私は専門外で、本書を読んだうえで、どこまで理解が進んでいるかははなはだ自信ないんですが、核兵器の相互確証破壊(MAD)による抑止力と違って、サイバー攻撃はすべて水面下で実施され、そういった攻撃があったかどうか、もちろん、誰からの攻撃か、などがまったく不明の場合も少なくないようで、その上に、核兵器のバランスと比べて、大きな非対称性が存在するわけですから、それはそれで恐怖のような気がします。もちろん、攻撃されているかどうかに確信ないわけですので、戦時か平時かの仕分けも判然としません。ですから、ジュネーブ条約による何らかの制限を課すことは、おそらくムリで、たとえ出来たとしても、技術的に日進月歩の世界ですので、アッという間に有効性が大きく低下することは想像できます。章別に取り上げられている国は、米国はもちろんとして、ロシア、中国、北朝鮮などなどで、サイバー攻撃の対象となったのはイランの核濃縮設備、ソニーピクチャーの例の風刺映画などです。IoTという言葉をまつまでもなく、あらゆるモノがインターネットに接続されており、防御サイドのセキュリティは攻撃サイドのレベルにはなかなか達しませんから、どこででも何が起こっても不思議ではありません。また、物理的に何かを破壊したり、システムをダウンさせたりするだけでなく、何らかの風説を流して世論を誘導する攻撃も含めれば、とても防ぎようがないような気が私はします。というか、防御のコストがやたらと高そうです。本書を半分も理解できた自信ないですが、一気に恐ろしい気分にさせられました。そべからく、ほとんどの技術は民生向けと軍事とデュアルユースが可能だと思いますが、なんでも軍事利用を進める志向が私には理解できませんでした。また、個別企業についてはiPhoneのロックを解除しなかったアップルの考え方は理解できるものの、ファーウェイの通信機器にバックドアがあって中国に通信内容が筒抜けではないかという米国などの疑問については、理解がはかどりませんでした。最後に、どうでもいいことながら、今週の読書で取り上げたうちで、本書はボリュームがあって中身が難しいことから、もっとも読了に時間がかかった本でした。

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次に、アンドリュー・フェイガン『人権の世界地図』(丸善出版) です。著者は、英国エセックス大学人権センターの副所長であり、人権に関する refereed encyclopaedia の編集者です。英語の原題は The Atlas of Human Rights であり、邦訳タイトルはほぼほぼ直訳のようで、2010年の出版です。150ページ足らずのボリュームなんですが、8部構成となっており、第1部 国家、アイデンティティ、市民権 では、政治的権利や市民権とともに、経済的な富と不平等さらに生活の質や健康も取り上げています。第2部 司法侵害と法規制 では、拷問や死刑制度などに焦点を当て、第3部 表現の自由と検閲 では、表現や言論の自由だけでなく集会や結社の自由も忘れてはいません。第4部 紛争と移住 では、戦争や戦争に関連するジェノサイド(集団殺害)とともに、難民にもフォーカスしています。第5部 差別 では、少数民族と人種差別さらに障害と精神保健にハイライトしています。第6部 女性の権利 では、家庭内暴力も取り上げており、第7部 子どもの権利 では、児童労働や教育にもスポットを当てています。最後に、第8部 国のプロフィールと世界のデータで締めくくっています。私もすべてのページを通してじっくりと読んだわけではないので、出版社のサイトにある画像を例示としてお示ししておきたいと思います。本書が、人権を尊重して自由を守るリファレンスであることがよく理解できると思います。

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次に、望月衣塑子 & 特別取材班『「安倍晋三」大研究』(KKベストセラーズ) です。著者は、東京新聞のジャーナリストであり、本書では現在の安倍内閣に対する強い批判を展開しています。その批判については、私は少し疑問があるんですが、政策の内容に及ぶ部分がかなり少ないような印象を受けました。現在の選挙制度に基づく我が国の民主主義では、多くの場合、政策を展開したマニフェストなどを参考に投票し、その選挙結果に基づいて総理大臣が選出され内閣を構成し政府として政策を実行するというシステムになっています。ですから、決して内閣の首班たる総理大臣の人格を軽視するつもりはないんですが、本書のように、家系までさかのぼって総理の人格を執拗に批判するのは、やや現時点での我が国民主主義にとってどこまで有益かは考える必要があるかもしれません。しかしながら、何かの折に触れてこのブログでも申し上げている通り、内閣の最高責任者としての総理大臣はいうまでもなく公人そのものであり、本書のような批判はアリだと私は思っています。前言をいきなりひっくり返すようなんですが、総理大臣たる人物は人格的にももちろん問題なく、表現は自信ないものの、その「人格力」も動員して選挙で示された政策を実行すべき存在ですし、ジャーナリストとは選挙の結果だけを尊重するという観点からは少し違った角度から、民意の反映や政策の検証ができる存在ではないかと私は考えています。ついでながら、森友事件の報道に接して考えると、総理夫人も役所から秘書役をつけるほどの公人であり、総理本人と同じレベルとは思いませんが、公人としてこういった批判はあり得るものと私は考えています。まあ、冒頭100ページ余りがマンガで始まり、しかも、まんがの最後の部分に「フィクション」である旨を明記するのは、確かに、本書の著者が安倍総理を批判するようなタイプの嘘ではないんですが、ややミスリーディングであると受け止める向きがなきにしもあらず、という気がしないでもありません。本書でも感じたのは、先にカクタニ女史の『真実の終わり』で取り上げたポストトゥルースの問題は同じことであり、必ずしも真実・事実である点が重要なのではなく、感情に訴えたり、その場の議論の雰囲気に流されるような意見が支持されかねない、あるいは、決して熟議されるのではなく、数を頼んで押し切る、といったような風潮が世界的に広がっているのも事実であり、我が国だけが例外ではあり得ないということです。ただ、ポストトゥルースの時代であるからこそ、「フィクション」と断りを入れないといけないようなマンガでポストトゥルース的な政治を批判するのではなく、「フィクション」でない事実と真実に基づいた批判を展開してほしいと願う人は決して少なくないと思います。ポストトゥルース的に、というか、何というか、事実に基づく議論より感情的な意見を大きな声で押し通そうとする複数のグループが正面切ってぶつかり合うことは、ある意味で、避けるべきというような気がしないでもありません。その意味で、第3章の内田樹氏へのインタビューが普遍的な真理や社会的な常識に裏打ちされた見解のような印象満点で、とても読み応えありました。最後に、何度でも繰り返しますが、内閣総理大臣やそれなりの最高権力に近い公人に対しては、どのようなものであれ、とは決していいませんが、相当に激しい批判も十分アリだと私は思います。

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次に、トム・フィリップス『とてつもない失敗の世界史』(河出書房新社) です。著者は、英国のジャーナリスト・ユーモア作家です。英語の原題は Humans であり、2018年の出版です。全国学校図書館協議会選定図書に指定されているようで、私の目を引きましたので借りて読んでみました。読んでいて、私は元来明るくて笑い上戸だったりするんですが、電車の中の読書で笑い出したりして、ややバツの悪い思いをしたりしました。ということで、第1章 人類の脳はあんぽんたんにできている から始まって、環境や生態系に対する無用の干渉がとても不都合な結果を招いた例、専制君主でも民主主義でも、あるいは、そういった政治の延長上にある戦争でも大きくしくじって来た例、自国を離れた慣れない植民地経営や外交での失敗の例、また、科学の発見がとんでもない勘違いだった例などなど、面白おかしくリポートしています。ただ、語り口はユーモアたっぷりであっても、その失敗の中身や内容が決して笑って島せられることではない例がいっぱいあります。典型例は、第5章で民主主義からアッという間に独裁体制を構築してしまったナチス、というか、ヒトラーのやり口ではないでしょうか。やり方とともに、その後のナチスの蛮行まで含めて、人類史におけるもっとも大きな悲劇のひとつであったと考えるべきです。また、テクノロジーを取り上げた第9章でも、X線に対抗して見えないものが見えるといい張ったN線の「発見」については、単に「バカだね」で済むのかもしれませんが、アンチノッキングのために自動車のガソリンに人体に有害な鉛を混入させて広めたのと、冷媒のフロンを工業的に広めたのが同一人物とは、専門外とはいえ私はまったく知りませんでした。その昔に『沈黙の春』を読んだ際にも感じたことですが、科学の分野では、特に化学や生物学では長い長いラグをもって何らかの影響がジワジワと現れることがあります。まあ、経済学でもそうです。そういった長いラグを経て現れる好ましくない影響について、どのように評価して回避するか、それほどお手軽に解決策があるわけではありませんが、科学がここまで進歩した現代であるからこそ考慮すべき課題ではないかと思います。本書に盛り込まれた多くの失敗談は、それだけでユーモアたっぷりな語り口でリポートされると、読んで楽しくもありますが、そういった失敗談の背景には、決して笑って済ませられない重大な影響が隠されている場合も少なくなさそうな気がします。最後に、本書冒頭で考察されていた確証バイアスとか、何らかのバイアスによる失敗の原因追及がもう少し欲しかった気もします。

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次に、玉木俊明『逆転のイギリス史』(日本経済新聞出版社) です。著者は、京都産業大学の研究者であり、専門は経済史です。実は、私も大学の学生だったころは経済史を専攻していたんですが、著者は、経済学部ではなく文学部の歴史学から経済史に入ったような経歴となっています。ということで、本書は100年と少し前まで世界の覇権国であった英国につき、その歴史を振り返って覇権国となった歴史を分析し、従来の通説である産業革命による工業生産力ではなく、海運をはじめとするロジスティックやその海運を支える保険業などが覇権の基礎であった、とする逆転史観を展開しようと試みています。でも、経済史というよりは、著者も明記しているように、政治史を中心に\展開しているから、という理由だけでなく、私の目から見て逆転史観が成功しているとはとても思えません。本書では、当然ながら、英国が覇権国となる前の段階、すなわち、オランダが覇権を握っていたころから歴史を解き明かします。オランダはスペイン王政の下にあって独立国ではありませんでしたから、細かい点ですが、ここで「覇権国」という表現は使えません。でも、スペインの支配下にあったからこそ、大航海時代に、スペイン+ポルトガルの植民地であった米州大陸からの貴金属をはじめとする物資、あるいは、アジアからの香辛料などをアントウェルペンやアントワープが欧州の海運のハブとなって、商業的な成功をもたらして覇権を確立した、という本書の分析はある意味で私は正しいと受け止めています。ただ、本書の著者はご専門が輸送史のように私は記憶しており、輸送中心史観でもって判断するのは疑問が残ります。前資本主義時代に商業的、というか、問屋制家内工業が欧州で広く普及して、プロト工業化と呼ばれたのは広く知られているところであり、そこに、新大陸から大量の貴金属が欧州に流入して、いわゆる「価格革命」とともに、流動性の過剰供給でそれなりに需要もジワジワと拡大し、製造業=工業の生産性向上の素地が出来上がっていたのも事実です。そして、新大陸やアジアを欧州勢力が支配したのは、本書でも指摘しているように、基礎的な生産力に基づく武力ですが、前近代的かつ前資本主義的な経済段階では、市場取引ではなく単に武力で略奪することも交易のひとつの形態であったかもしれませんが、少なくとも中国を視野に入れた国際化が進んだ段階では、何らかの売り物が交易には必要となり、その矛盾を解決する方法のひとつがアヘン戦争であったことは明らかです。もうひとつ、著者が製造業ではなく海運や保険をもって英国覇権の基礎とする根拠は、財の貿易赤字とサービス収支の黒字でもって、英国製造業には国際競争力なく、むしろ、海運や保険といったサービス業に競争力があって、これが覇権国となる基礎だった、という点なんですが、製造業から生み出される製品が国内で需要されただけのことであり、根拠に乏しいという気がします。私が考える英国覇権の基礎は、内外収支の差額ではなく付加価値の総額であり、その意味で、「世界の工場」と称された英国製造業である点は揺るぎありません。あわせて、現在21世紀において米国の覇権に挑戦する中国国力の基礎も製造業であることは誰の目にも明らかではないでしょうか。

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最後に、有栖川有栖・磯田和一『有栖川有栖の密室大図鑑』(東京創元社) です。著者の有栖川有栖はご存じ関西系の本格ミステリ作家で、磯田和一は本書で挿絵、というか、イラストを担当しています。本書は、上の表紙画像の帯に見えるように、1999年に単行本として発行されたものを、一度新潮文庫で文庫本化され、さらに、上の表紙画像の帯に見られるように、今年の著者デビュー30周年を記念して創元推理文庫から復刊されたのを借りて読みました。ひょっとしたら、以前に読んでいたのかもしれませんが、私の短期記憶はすっかり忘却していて、まったく新刊読書のような印象でした。ということで、本格ミステリのうちから密室モノを内外合わせて40本ほど選出し、海外蒸す手織りから国内ミステリの順でイラストを付して解説を加えています。ただ、よくも悪くも、ミステリの伝統的な形式にのっとっており、すなわち、結末には言及していません。まあ、未読のミステリであれば、結末を知らされるのを回避したい読者もいるでしょうし、逆に、すでに読んでいれば結末を書かない論評にも理解が進む可能性はありますので、それはそれで理解できる方針ではあるんですが、やっぱり、私は違和感を覚えました。文庫本の解説で「結末に触れています」という警告付きの解説をたまに見かけますが、本書でも、結末を明らかにした方が論評としての値打ちが上がったような気もします。私の読書の傾向からして、海外ミステリよりも国内ミステリの方に既読が多かったんですが、やっぱり、海外ミステリで未読のものには親近感がわかなかったような気がします。イラストも結末を悟られないようにするという制約は、少しキツかったんではないか、と勝手に想像しています。まあ、密室とアリバイはミステリのお楽しみの重要な要素ですから、本書を読むことにより原典に当たろうという読者も少なくないでしょうから、判らなくもない方針なんですが、私という個人においては少し物足りない、ということなんだろうと思います。

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2019年8月17日 (土)

全国的にお盆休みの今週の読書は経済書をよく読んでラノベも合わせて計9冊!

今週は全国的にお盆休みながら、週後半は西日本を大型台風が縦断したりして天候は不順でした。私はまとまったお休みは来月9月に取る予定で、特に今秋に休みを取ったわけではないんですが、それなりのよく読書が進んで経済書など以下の通りの計9冊です。もっとも、9冊のうちの3冊は文庫本のラノベであり、1冊当たり1時間もかからずに読み切ったりしましたので、それほど読書に時間を割いたという実感はありません。午後からの35度超えを前に、自転車での図書館回りをすでに終え、来週の読書もいつも通り数冊に上りそうな予感です。

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まず、平山賢一『戦前・戦時期の金融市場』(日本経済新聞出版社) です。著者は、バイサイドの機関投資家であり、本書は著者の博士論文です。本書の時期的なスコープは戦前期から戦中期であり、特に、1936年の5.15事件から経済社会への統制色が強まる中で、金融市場のデータ、株式や国債価格や利回りとともに収益率を細かく算出している点が特徴です。ただし、本論ではデータの算出に終止しており、データを用いた定量的な分析までは手が届いていません。そこは限界として認識すべきで、私のように物足りないと受け止める向きもあれば、それはそれで判りやすい点を評価する向きもあろうかという気がします。ということで、本書のファクトファインディングのひとつは、戦前期においては国債がローリスク・ローリターンである一方で、株式はハイリスクながらローリターンであった、という従来の「常識」をデータをもって覆し、株式はハイリスクだったかもしれないが、国債に比較してもそれなりにハイリターンであった点を実証しています。戦前期のリスクとリターンの関係について、経済学的な通常の常識から離れた自体を示しているのは、ひとえに「統制経済」でもって経済が歪めらたためである、と理解されてきたわけですが、決してそうではなく、統制はあっても経済的な合理性が貫徹していたことを実証した価値は小さくないと思います。基本的に、バブル経済崩壊から「制度疲労」という言葉などで批判されてきた昭和的な経済的慣行、労働では新卒一括採用に基づく終身雇用・年功賃金・企業内組合の3点セット、あるいは、金融的には株式や社債による直接的な資金調達ではなく、メインバンク制に基づく銀行貸出に依存した間接金融、あるいは、もっと大きな視点での系列取引にも依存した長期的な支店に基づく取引、などなどは1950年代からのいわゆる高度成長期に確立された慣行であり、大正から昭和初期の日本経済は現在のアングロ・サクソン的な市場原理主義的経済慣行が支配的であった、という点は忘れるべきではありません。本書でも指摘されている通り、資金調達はかなり直接金融であり、株式や社債発行に基づいています。しかし、金融市場としてはそれほどの深みや厚みはありませんでした。逆に、それは統制経済への移行を容易にした面もあります。財政の悪化により、特に、地方公務員はかんたんに解雇されたりしました。かなりの程度にマルサス的な貧困が残存していて、まだルイス転換点に達していなかった日本経済では、「タコ部屋」という言葉に残っているように、民主的な人権や個人の尊重の視点を無視した労働慣行があり、「奉公」の名の下に、現在から見れば強制労働といえるような職場もあり、しかも、それが決して近代民主的な資本主義ではなく、封建的な残滓の広範に見られる資本主義であったことは講座派的な日本資本主義分析が示している通りです。最後は本書のスコープからはやや脱線してしまいました。悪しからず。

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次に、ノミ・プリンス『中央銀行の罪』(早川書房) です。著者は、ゴールドマン・サックスなどの投資銀行勤務の経験あるジャーナリストという触れ込みです。私はこの作者の『大統領を操るバンカーたち』を読んでいて、上下巻のボリュームだけは大作だったと記憶しています。本書のテーマとなっているのは、2008年のサブプライム・バブルの崩壊とその後の大銀行の救済や金融政策、さらに、中央銀行と民間銀行の「共謀」となっています。ですから、というか、何というか、英語の原題は Collusion であり、2018年の出版です。ということで、今さら10年前の2008年のサブプライム・バブル崩壊かね、という気もしますが、それはともかく、その後の金融政策当局=中央銀行や、中央銀行による大銀行の救済と両者の共謀を極めて詳細に渡って、事実関係を積み上げています。こういった事実のコンピレーションから何が浮かび上がるか、というと、おそらく著者は、中央銀行は大銀行を救済する一方で、国民生活を犠牲にしている、とか、バブル崩壊の後始末をもうひとつのバブルにより埋め合わせをしようとしている、とかではないかと思いますし、それはそれで、従来のナオミ・クラインのリポートなどが大銀行経営者の糾弾にやや偏重しているのに比べて、政府から独立している中央銀行も批判の対象にするのは、それなりに意味あることと思いますが、いつもの私の疑問なんですが、バブル崩壊後の金融危機に対処して、いきなりのマイナス金利はともかく、金利を引き下げるとか、量的緩和を実行するとか、いわゆる金融緩和を進める以外に、タカ派的に逆に金融引き締めを行うという選択肢はありえないのではないでしょうか。同時に、too big to fail も常に批判にさらされますが、リーマン・ブラザーズの破綻という、かなり大胆かつ実験的なイベントを実際に観察して、どこまで否定できるかは疑問が残ります。リーマン・ブラザーズの破綻については、私もいくつかノンフィクションの作品を読んで、潰そうと思って潰したわけではなく、万策尽き果てて破綻させるしかなかった可能性があると理解していますが、それでも、破綻させないという選択肢が可能であれば破綻させなかった方がよかったのではないかと考えています。サブプライム・バブル崩壊後の金融危機の中で、大銀行が救済されながらも責任の所在があいまいにされ、あまつさえ、AIGのように高額のボーナス支給がなされた例もあり、私も決してベストの解決でなかったことは理解しますが、大銀行経営者や中央銀行の金融政策当局者などの責任をあげつらうのはともかくとして、金融緩和の必要性を否定するがごとき論調でタカ派的な政策志向をあらわにするのは、私は同意できません。

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次に、大前研一『稼ぐ力をつける「リカレント教育」』(プレジデント社) です。著者は、ご存じ、マッキンゼーのコンサルタントを経て経済や経営分野の評論家というんだろうと思います。本書ではリカレント教育について、著者ご自身の設立したビジネス・ブレークスルー(BBT)大学の例なども引きつつ、デジタル経済社会における必要性や重要性などについて議論しています。リカレント教育については、私も昨年の「経済財政白書」で取り上げられたことなどもあり、それなりに注目しているんですが、基本はデジタル経済とはそれほど大きな関係なく、日本企業の体力が低下して来たために、OJTによる企業特殊的なスキルの向上に振り向けるリソースがなくなって、雇用者個人のリソースでにスキルアップを強制している結果だと受け止めています。すなわち、このブログで何度か強調していたように、戦後のルイス転換点を越えた高度成長期の我が国経済では、古典的なマルサス的な貧困を克服し、逆に、先進各国と同様に需要が極めて旺盛な経済社会を実現し、資本蓄積に比較して一時的ながら労働力不足に陥ったことから、雇用慣行が戦前・戦中のアングロサクソン的スキームから大きく転換し、新卒一括採用の下でいわゆる終身雇用・年功賃金・企業内組合で特徴つけられる日本的雇用慣行を確立し、ヘッド・ハンティングとまで大げさに表現しないまでも、引き抜きを防止するために企業特殊的なスキルを主としてOJTによって向上させる方法を取りました。それはそれとして、高度成長期には合理的だったわけです。しかし、その後、ルイス転換点を越えるような要素移動を望むことができなくなり、さらに、私は主として為替調整が主因と考えていますが、日本企業が競争力を低下させる中で、OJTへのリソースが細り、現在では賃金上昇すらリソースを枯渇させ、賃金抑制のために低賃金国への海外展開を図るとともに、ルイス転換点を越えるかのような要素移動を促すべく、雇用の流動化を模索して、「岩盤規制」などと名付けた高度成長期にルーツある雇用スキームの大転換を図ろうと試みているわけです。ついでながら、やや脱線すると、この要素移動の点で日本企業は合成の誤謬に陥っていると私は考えています。すなわち、雇用の流動化が図れれば、他企業の高生産性雇用者を自企業に取り込むことが可能になるとともに、自企業の低生産性雇用者を他企業に押し付けることができる、という期待があるわけですが、企業が求めるスキルと雇用者が有するスキルのミスマッチがそれほど広範に生じているとは私にはとても思えず、こういった自企業のみに都合いい要素移動が起こるとは考えられません。本題に戻って、現在では、スキルアップは第1に企業特殊的なものから、より幅広く市場で受け入れられ、一般的に通用するスキルの重視に変化しました。典型は英会話とか、経済経営分野の簿記会計をはじめとする資格の取得などです。第2に一般的なスキルの重視と企業の体力の低下が相まって、スキルアップは企業のリソースだけではなく、雇用者個人の責任とコスト負担の割合が高まりました。このような企業活動と雇用者のスキルアップの歴史的な展開の中で、現在のリカレント教育を考える必要も指摘しておきたいと思います。その意味で、欧州諸国が我が国よりも先進的なリカレント教育のシステムを整備していることは、もちろん、政府の責任もあるでしょうが、歴史的な段階としてはあり得ることではないでしょうか。私のように、公務員として定年まで勤務し、長期雇用の中で突然天下りが廃止されて、定年後の収入の道が極めて狭くなってしまった例もあるわけですし、リカレント教育という手法が適当かどうかは別ながらひとつの選択肢として、スキルアップはもう少し若いころにやっておけばよかったと悔やむことのないように、それなりの定年準備は模索すべきかもしれません。

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次に、池田浩士『ボランティアとファシズム』(人文書院) です。著者は、我が母校である京都大学の名誉教授です。私は教養部の1年生のころにドイツ語を習った記憶があります。新左翼のトロツキストの支持者だったように記憶しています。ということはどうでもいいとして、本書は我が国では関東大震災で東京帝大のセツルメント活動で本格的に始まったといわれているボランティアについて、それがいかにして、我が国のファシズムやドイツのナチズムに、いかにも自発的な装いをもって、その実、ほぼほぼ実質的に強制的かつ強要されるようになったのか、について歴史的にひもといています。1933年にナチスが政権を奪取してから、ほぼほぼ完全にワイマール憲法に則った形で、カギカッコ付きの「民主的」に独裁性を確立したかも触れていますが、これはほかの専門書に当たった方がいいような気がしないでもありません。本書では、ボランティアという語でもってボランティア活動を行う人とボランティア活動そのものの両義を指していますが、自発的な善意に基づく行為がいかにして強制的な勤労奉仕や事実上の強制的な奴隷的労働に早変わりするかは、そこに民主的なチェックが働くか、それとも全体主義的な統制の基に行われるかの違いがあると私は考えます。でも、社会全体としては民主的なチェックが効くとしても、グループとしては統制的な色彩が強くなる場合も少なくないことは理解すべきです。典型的には職場のサービス残業であり、現在のワーク・ライフ・バランスに逆行するような長時間労働が、ホンの少し前までは勤労の美徳のように見られていたことも忘れるべきではりません。ですから、本書のような大上段に振りかぶった政治的かつ社会的なボランティアと強制労働を考えることも必要ですが、マイクロな職場や地域やそして学校において、いかにも「自発的」な装いをもって強制される行為については、個人か全体かという民主主義と全体主義の大きな分岐点を意識しつつ見分ける見識が必要です。最後に、自発的な活動として本書ではほかに、チラリとワンダーフォーゲルとボーイスカウトを上げています。前者はなぞらえるべきほかの団体を思いつかないので、ともかくとして、後者のボーイスカウトはソ連的なピオネールやナチスのヒトラー・ユーゲントとの相似性を指摘する向きもありますが、個人の尊厳という観点からまったく異なることは理解すべきです。我が家の下の倅はビーバー隊から、カブ・スカウト、ボーイ隊とスカウト活動を続けてきましたので、私もそれなりに親しみありますが、スカウト活動がヒトラー・ユーゲントに似通った団体活動であるなどとはまったく思いません。また、別の観点ながら、私が地方大学に日本経済論担当教授として出向していた時に、いかにも九州的な「地産地消」の議論に接したりしたんですが、本書でも指摘されている通り、ナチズムが強調するポイントのひとつは「血と土」です。ヒトラー・ユーゲントでも「大地に根ざした」という表現が好んで使われたりします。ふるさとや祖国というものはもちろん尊重され重視すべきですが、地域的あるいは血縁的な閉鎖性を主張するよりも、交易の利益を尊重するのが左派的なエコノミストの果たすべき役割であると私は考えています。

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次に、谷川建司・須藤遙子[訳]『対米従属の起源』(大月書店) です。何と申しましょうかで、著者名がなく、いきなり翻訳者なのは、本書のメインは米国公文書館で公開された「1959年米機密文書」となっているからです。別名は「メイ報告書」であり、上の表紙画像の左上に写真が見えるイェール大学のメイ教授によって取りまとめられています。報告書には、USIS=US Information Service の活動やフリー博士によるアンケート調査などが幅広く取り上げられています。報告書のほかにも邦訳者による解説なども加えられています。ということで、1959年、すなわち、日米安保条約改定前夜における米国情報機関の我が国における活動がかなり詳細にリポートされています。当時は米ソの東西冷戦だけでなく、我が国内でも学生運動をはじめとして安保条約に対する反対運動の盛り上がりが見られた時期でもあることはいうまでもありません。ただ、本書を読むと、かなり詳細に特定の個人名への言及があることは確かですが、それほどの意外感もなく、おおむね、常識的な内容ではないかという気もしますが、まあウワサ話や都市伝説的な内容について、米国機密文書で裏付けられた、という点が重要であろうと私は受け止めています。米国から見て、日本は東欧諸国のようにソ連の支配下に入り、共産主義化する恐れはほぼほぼなかったことが確認されており、むしろ、日本の共産主義化というよりも台湾政府の否認、というか、大陸の共産党政権化にある中国への接近や国家としての承認などがアジェンダとして考えられていたようです。結果として歴史的に明らかになった事実は、1970年代に、まさに、本書のタイトル通りに、対米従属する形で当時の米国のニクソン大統領による中国との国交樹立を待って、我が国の田中内閣が中国と国交樹立し、中国の国連加盟の道が開かれた、ということになります。もちろん、本書のスコープは外れています。本書のスコープに戻れば、現在のアメリカンセンターに当たり、日本国内に展開する文化的な広報活動の拠点の活動は思わしく進んでいない一方で、現在であれば「インフルエンサー」と呼ばれるであろう大学教授など、当時の表現でいえばオピニオンリーダーを米国に派遣して米国のシステムや生活水準などに対する理解を深めてもらう、という方法が有効であったようです。なお、私の専門分野であった経済学については、サムエルソン教授のテキスト『経済学』を取り寄せたい、という要望があったようです。私の記憶の限りでいえば、『サムエルソン 経済学』のテキストの邦訳は1966年に都留重人教授が原書第6版を基にして出版されたんではないかと思います。そのかなり前の1959年の段階の記録では、原書を手に入れたいというのももっともです。経済学を専門とするエコノミストにとっては、このサムエルソン教授のテキストのどの版を読んだかで大雑把な年齢が判明するんですが、私は原書第10版の邦訳を読んでいます。上下巻でハードカバーの、しかも、箱入りです。アダム・スミス『諸国民の富』Ⅰ及びⅡやケインズ『雇用・利子および貨幣の一般理論』などとともに、まだ、我が家の本棚に鎮座していたりします。

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次に、木内昇『化物蠟燭』(朝日新聞出版) です。著者は直木賞作家であり、時代小説を得意分野としているように私は認識しています。本書は短編集であり、『小説現代』と『小説トリッパー』に2010年から2018年にかけて掲載された短編、表題作を含めて、「隣の小平次」、「蛼橋」、「お柄杓」、「幼馴染み」、「化物蠟燭」、「むらさき」、「夜番」の7編を収録しています。時代背景はおおむね徳川後期と察せられます。明記されているものもあります。私はそれなりに時代小説を読むんですが、かなり時代考証はしっかりしているという印象を受けました。この季節にふさわしく、怪談集です。半分くらいは、この世のものではない存在、主として幽霊や妖怪や物の怪などの活動を扱っていますが、そういった非現実的な存在を必要とせず、キングばりのモダンホラーのような作品もあります。「幼馴染み」なんかはそうだという気がします。また、この世とあの世を行ったり来たりする短編もありますが、主たる舞台はこの世であり、次に取り上げる「京洛の森」のような不自然さは時代考証も含めて何らありません。加えて、表題作の「化物蠟燭」をはじめとして、それなりのハッピーエンドで終わる物語も含まれています。ただ、最大の特徴は、この作品には限られませんが、あの世の存在がこの世に何らかの形で残って、平たい表現をすれば成仏できずに苦しむ、という物語ではなく、あくまでこの世の普通の人間を中心にストーリーが回っている印象を受けました。しかも、私がよく読む時代小説は徳川期という点では本作品と同じながら、武士階級を主人公として、しかもそれなりの高位の侍も含まれ、封建時代の大名や領主が世襲で盤石の基盤を持つ中で、家老以下が精力争う意を繰り返す、そして、侍だけに何らかの剣術の達人が登場する、という『たそがれ清兵衛』や『三屋清左衛門残実録』のような私が慣れ親しんだ時代小説ではなく、場所的には江戸下町中心ながら、ほとんど侍は登場せず、同時に大都市の江戸が舞台ですので農民も主たる役割は果たさず、職人と商人のいわゆる町民・町人が主人公となっています。私の個人的かつ偏ったな印象ながら、この作者の作品は幕末を舞台にした重厚な物語がお得意であったような気がしますが、市井に住む町人の生活を基礎として、いかに安定や幸福などを求めるか、そこに、この世に未練を残したあの世の存在がどのように入り込むか、とても人情味あふれる短編集に仕上がっています。繰り返しになりますが、時代背景は徳川後期ながら、21世紀の現代にも通じる部分もあります。ただ、それほど応用範囲は広くありませんので、その点は、すべてを現代的に読み替えるべきではありません。

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最後に、望月麻衣『京洛の森のアリス』、『京洛の森のアリス Ⅱ』、『京洛の森のアリス Ⅲ』(文春文庫) です。作者は、京都在住のラノベ作家です。この作者の作品としては、京都を舞台にしたラノベしか私は読んだことがありません。また、本書を原作としてコミックも出版されています。3冊とも300ページないしそれ以下で、中身がライトですので、私は1冊当たり1時間弱で読み切ってしまいました。先週末の3連休にエアロバイクを1時間ほど漕ぐに当たっての暇潰しで図書館から借りた次第です。でも、実は、半分くらいはテレビで高校野球を見ていたりしました。ということで、両親を交通事故で亡くし、叔母の家に引き取られていた主人公が、15歳になっても高校に通わせてもらえず、老紳士に連れられて、小さいころに育った京都に移り住むところからストーリーが始まります。五条大橋を越えたあたりから様子が変わり、実は「京洛の森」なる異次元に入り込むわけです。このあたりは「千と千尋の神隠し」へのオマージュかと思います。そして、京洛の森では自分のやりたいことをやり、人に必要とされるという条件を満たさないとダメなんですが、何と無謀にも主人公は最初は舞妓修行を決意するものの、アッサリと本屋に宗旨替えします。人に必要とされるという条件も、ひょっとしたら、仕事をしなければならないという条件がある「千と千尋の神隠し」へのオマージュかもしれません。いずれにせよ、あとがきでジブリ作品への思い入れがあるようなことが書かれています。主人公の名前は白川ありすで、これは「不思議の国のアリス」へのオマージュでしょうから、いろんな既存作品のつぎはぎながら、ジブリ作品だけでなく、かなり思い込みが激しいように私は受け止めました。主人公の前に現れる兎のナツメと蛙のハチスが、実は人間で、当然のように言葉をしゃべります。ハチスが王族の蓮で、主人公の幼馴染にして、いつのまにか婚約者になっており、ナツメの方は主人公を京洛の森に連れて来た老人で、王族に仕える執事の棗だったりします。何といっても、エコノミストの目から見て、いろんなビジネスがありながら貨幣がない、というのは決定的な欠陥で、生活感がなく、いかにも架空の物語、という受け止めしかできません。「不思議の国のアリス」はともかく、ファンタジーでも「千と千尋の神隠し」では黄金がザクザクと出て来ますし、「ハリー・ポッター」のシリーズではゴブリンの銀行にハリーの預金口座があり、また、お金持ちで貴族のドラコ・マルフォイと貧乏人の子沢山のロン・ウィーズリーの格差と対立がひとつの見どころとなっていますので、その点で、我が国のラノベ界の、例えば、高校生ばかりが登場する人気ラノベ作家の作品などとともに、やや底が浅いと私が感じてしまう一因かもしれません。でも、世界観はダメとしても、地理的な舞台は京都らしき京洛の森ですから、私も馴染みありますし、手軽に読めて後に残らず、暇潰しにはピッタリです。実は、同じ作者の『京都寺町三条のホームズ』シリーズは8巻で読書が止まっていたところ、少し新たに借りようかと画策しています。でも、かなりの人気のようで、最新刊の12巻まではまだ借りられそうもありません。誠に残念。

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2019年8月10日 (土)

今週の読書はいろいろ読んで計5冊!

今週の読書は話題のAIに関する専門書など数冊を読んだんですが、岩波新書を別にすれば、ズバリの経済書はありませんでした。この週末は3連休で来週はお盆の週ですので、来週もそれなりに読書が進みそうな気がしますが、私自身の夏休みは9月に取得予定で、来週はカレンダー通りに近い出勤の予定ですので、通常通りの数冊の読書になりそうな予感です。

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まず、バイロン・リース『人類の歴史とAIの未来』(ディスカヴァー・トゥエンティワン) です。著者は、私は知りませんでしたが、技術調査会社ギガオムのCEOだそうです。これで判る人は、そもそも、この著者を知っている人なんではないかという気がします。まあ、いろんなハイテク企業の経営をしている起業家ということなんだろうと思いますが、それほど有名ではないんだろうと私は勝手に想像しています。ということで、英語の原題は The Fourth Age であり、2018年の出版です。本書は5部構成となっており、第1分は今までの人類の歴史を概観し、特に、火の使用と言語の獲得を文明化が始まった画期と見なし、さらに時代を下って、農業の開始を次の画期としています。ただ、英語の原題にあるように、4つの時代を著者は考えているようなんですが、第1部で2つの時代を概観するわけです。そして、その後の時代を画するのは、弱いAIと強いAI、すなわち、チェスや囲碁などの専門分野に特化したAIと汎用的なAGIであるとします。そして、AIがAGIという強い段階に達した際に何が起こるかを、著者は本書で思考実験しています。当然、軽く想像されるように、AGIが登場した第4の時代に何が起こるかについてのダイレクトな回答を与えようとしているわけではなく、読者がどのように考えるかの素材を提供しようと本書は試みています。ただ、その試みが成功しているかどうかは、私にははなはだ疑問です。というのは、知性と意識というものを混同しているように私にはみえるからです。著者は盛んに意識の問題として考えようとしていますが、私はむしろ知性ないし認知能力の問題だろうと思います。伊藤計劃の『ハーモニー』に意識を持たないヒトが登場しますが、法律家とエコノミストが決定的に違うのは、私の理解によれば、意図した行為とその結果であるかを法律家が重視するのに対し、エコノミストは結果だけを見ます。例えば、それほどよくない例かもしれませんが、法律家は殺人と過失致死を異なると考える傾向にありますが、エコノミストはその人が死んでいなくなるという点では同じと考える傾向にあります。死ぬ原因は交通事故でも、病気でも、経済的な帰結としては変わりないわけです。少し違う気もするものの、AIが意識を持つかどうかは私には大きな意味あるとは思えず、むしろ、人間と同じもしくは上回るレベルの汎用的な知性もしくは認知能力をAIが獲得すうるかどうか、が重要ではないかという気がします。もしも、AIがAGIとして汎用的な知性を獲得するならば、そのまま一直線にAIの知性、ないし、認知能力は人類を大きく上回るレベルに達し、さらに、向上を続ける可能性が高まります。そうなれば、現時点におけるヒトとイヌ・ネコの関係がそのまま、将来的にはAIとヒトの関係になぞらえることが出来ます。すなわち、ヒトはAIのペットになるんだろうと私は思います。それはちょうど、100~200年くらい前までは実用的な能力だった乗馬という行為が、現在では限られた区画で行うスポーツないし娯楽になっているようなものです。ですから、自動車の自動運転が一般化すれば、マニュアルで運転する自動車は、現在の乗馬と同じように限られた区画でスポーツないし娯楽として楽しむ行為になる可能性が高いと思いますし、AGIの実用化よりも先に、ひょっとしたら、私が生きている間にそうなる可能性すらあります。AIに論点を戻せば、ヒトがAGIのペットになりかねないという意味で、本書でも指摘しているように、スティーブン・ホーキング、ビル・ゲイツ、イーロン・マスクなどがAIに対する何らかの意味での懸念や恐怖を表明し、近い将来、人類の生存を脅かす存在になると警告しているのは、実に確固たる根拠があると私は考えています。

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次に、池内了『科学者は、なぜ軍事研究に手を染めてはいけないか』(みすず書房) です。著者は、名古屋大学や湘南にある総合研究大学院大学をホームグラウンドとする宇宙物理学の研究者です。本書の主張は、タイトル通りであって、特に何かを付け加える必要はないものと私は考えますし、左派エコノミストたる私からすれば、自然科学や工学分野の科学者および技術者が軍事研究に手を染め、戦争で人間を効率的に殺戮するための手段の開発研究には関与すべきではないことはいうまでもありません。逆に、これを声高に主張しなければならない点が不思議な気すらします。ただ、本書の著者は、これを科学者や技術者の倫理問題として処理しようとしており、この点は私は大きな疑問を感じます。というのは、最近でも、米国では銃の乱射事件が跡を絶ちませんが、我が日本では京アニのような実に残念極まりない大量の死者が出る事件こそありましたが、少なくとも銃の乱射による殺人事件は起こっていません。しかし、この差を、日本人と米国人の倫理問題であると考える識者は決して多くないだろうと私は受け止めています。当然に、銃規制の問題の側面が強いと考える人が多いでしょうし、私もそうです。これは、科学者・技術者の軍事研究とまったく同根であると考えるべきです。21世紀に入って、軍事研究に科学者や技術者が手を染めるようになったのは、国立大学が法人化されて研究費が不足するようになったからであり、その経済的な「下部構造」を無視して倫理的な問題を強調しても、一向に問題の解決にはならない、と私は考えます。もちろん、政府や行政のサイドから、自由に使える研究費を削減しておいて、軍事研究の方のご予算を潤沢に供給するという、実に、巧妙な研究のコントロールがなされている結果でもあるわけですが、「恒産恒心」という言葉もあるように、食べ物を得られずに餓死する倫理観と食べ物を盗む倫理観を比較することは、どこまで意味があるのか、私には疑問だらけです。私は、本書の著者の結論、すなわち、科学者や技術者は軍事研究をするべきではない、については100%の同意を示すつもりですが、その実行上の手立てとして、科学者や技術者の倫理観に訴えるというのは、エコノミストの目から見て、控えめにいっても非効率です。役所で官庁エコノミストをしていた当時の私のような社会科学の研究者も含めて、現在の研究者、もちろん、科学者や技術者も含めて、多くの研究者はアウトプットを求められるのに対して、あまりにもリソースが不足しているといわざるを得ません。かつて官庁エコノミストだった私は、国家公務員というお気楽でかつ身分保障も万全な立場でしたから、アウトプットを犠牲にするという方向も選択できましたが、多くの真面目な研究者はアウトプットを出し続けるために、何らかのリソースを必要としています。その点に目配りしていない本書は、かなりの程度に宗教的な倫理観を振り回すしかなかったのかもしれません。でも、倫理観の強調だけでは科学者の軍事研究従事という問題は解決されないことを理解すべきです。

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次に、武田康裕『日米同盟のコスト』(亜紀書房) です。著者は防衛大学校教授であり、専門は国際関係論だそうです。数年前の前著に共著の『コストを試算!』がありますが、これは日米同盟を解体すれば、どのくらいの防衛コストを日本が負担しなければならないか、と試算したもので、私が読んだ本書では日米同盟を維持したままで、どれくらいのコスト負担が生じているか、を試算しています。日米同盟などの同盟のコストではありませんが、10年余り前にスティグリッツ教授が共著にて『世界を不幸にするアメリカの戦争経済』を出版し、イラク戦争のコストを3兆ドルと試算した結果を明らかにしています。私は読んだ記憶があります。ということで、エコノミストや会計専門家が会計的なコストを試算したわけではなく、防衛や安全保障の専門家が現状の日米同盟のコストを試算しているわけですので、繰り返しになりますが、現状の防衛レベルを前提としています。要するに、「核の傘」を含んでいるわけです。また、コスタリカを例に出すのも気が引けますが、「核の傘」を外すことを含めて防衛レベルを下げることは想定されていません。それでも、現状の日米同盟のコスト負担を考慮すると、経済学的にいうところのリターンは10倍くらいに上る、という結果を示しています。あくまで、これは桁数、というか、オーダーの数字で、GDP比0.1%のコスト負担でGDP比1%くらいの防衛ベネフィットがある、という概算です。少し前の報道で、米国サイドから防衛費負担を5倍増という米国サイドの要求がある、という記事を見かけましたが、本書では10倍まではリーズナブル、 というメッセージなのかもしれません。まあ、そんなことはないと思いますが、私にはよく判りません。。加えて、序論では、本書の目的をコスト試算だけではなく、コスト分析を手がかりにして、我が国の安全、自主、自立からなる連立方程式を解くことにある、とも明記しています。ですから、日米同盟のコストとして、金銭的な負担はもとより、自立的な防衛を放棄して米軍の指揮命令下に入るコストも含んでいるような書きぶりを私は目にしました。もちろん、「自衛隊が米軍の指揮命令下に入る自立性の放棄」なんて露骨な表現はしていません。本書でも言及されている通り、米国とフィリピンの同盟を例に持ち出すまでもなく、例えば、米国とフィリピンは相互の防衛義務を課している一方で、日米同盟では日本は米国の防衛義務はありません。他方で、フィリピン国内の米軍基地は極めて限定的な場所でしか設営できませんが、日本国内であれば米軍基地はどこにでも展開できたりします。その意味で、防衛上のコストは小さい一方で、自立性を犠牲にしている、という著者の分析も一定の範囲で首肯できるものがあります。最後は蛇足ながら、その昔、大昔、私が京都から東京に就職で引っ越した少しびっくりしたのは、横田基地や横須賀軍港など、首都圏ではやや広域の生活圏に米軍基地がありますが、それでも、沖縄の稠密な米軍基地展開ほどではないという事実です。本書ではまったく言及ありませんが、我が国の日米同盟のコスト負担は地域的に圧倒的に沖縄を犠牲にしています。この点で、サンデル教授の『これからの「正義」の話をしよう』の議論でも取り上げられていましたが、ル=グウィンの『風の十二方位』に収録されたヒューゴー賞受賞作の短編「オメラスから歩み去る人々」を一読されることをオススメします。

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次に、ポール・レイバーン『父親の科学』(白揚社) です。著者はジャーナリストであり、AP通信科学担当デスクなどを経て、現在はサイエンス・ライターをしているようです。英語の原題は Do Fathers Matter? であり、2014年の出版です。英語の現タイトルに照らせば、従来の回答は子育てについては「重要ではない」、ということだったと思うんですが、少しずつながら科学的に解明されてきて、最近では子育てに父親の果たす役割というものが見直されつつあります。ただ、何かの書評で見かけたんですが、子供を産めるのは何といっても女性だけですし、「哺乳類」という生物学的な分類名からして、母乳を授乳できるのは母親だけであって父親はできませんから、子育てにおける重要性が格段に低い、ないしは、まったくゼロである、と見なされて来たのにも理由があるかもしれません。ということで、従来はほぼほぼ見過ごされて来た育児における男親の役割を、人間だけでなく霊長類だけでなく、マウスやラットのようなげっ歯類、あるいは、オシドリでも有名な鳥類まで、さまざまな動物を含めて、脳神経科学、心理学、人類学、動物学、遺伝学などなど、科学的な視点から徹底検証を加えています。ただ、本書を読んでいて感じたのは、第1に、やっぱり、父親の育児に対する影響力は、決して子供へのダイレクトな影響ではなく、母親を通じた影響の場合が少なくない点と、第2に、ほぼほぼ父親の子供への影響は相関関係に終始しており、決して因果関係や、薬学でいうところの作用機序はまったく解明されていない、という点は読み進むにあたって心しておくべきと考えます。特に、年老いた父親から子供に対する影響がかなりネガティブに言及されますが、根拠がそれほど確かではないんではないか、と思わせるものが多くあります。ということで、私、というか、我が家が子供をもうけたのは前世紀1990年代の後半ですし、2歳違いの男の子2人はすでに成人しています。そのころは今のような男性の育児休暇もなく、育児は20世紀的に女性の役割というジェンダー観がまだまだ支配的だったような気がします。その中で、本書には全く言及がないんですが、私の信念に近いもので、子供との関係は愛情をもって接するのはいうに及ばず、日本的な遠巻きにした遠慮がちな接し方ではなく、スキンシップが重要と考えていました。結婚前の1990年代前半に南米の大使館勤務でラテン的な考え方が身についてしまった結果かもしれません。例えば、人と会った際に、日本的に腰を折ってお辞儀をするのもいいんですが、欧米流に握手をする方がよりスキンシップを持てますし、さらに、ハグすればもっと親近感が高まる、といったことです。だから、というわけでもありませんが、育児の中でかなりの体力や腕力を要するという観点もあって、私は父親として子供の入浴を受け持っていました。まあ、小学校就学前の幼児期に南の島のジャカルタ暮らしで時間的な余裕があった点も忘れるべきではありません。男の子だったので、男親が裸の入浴を受け持った、というのもあります。動物と違って、人間の場合はおもちゃを買い求めるという親子の接し方がありますので、このスキンシップについてももう少し考えて欲しかった気がします。

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最後に、熊倉正修『日本のマクロ経済政策』(岩波新書) です。著者は、明治学院大学国際学部教授のエコノミストです。実は、私にはかなり勝手な思い込みがあって、朝日新聞や岩波書店は、私と同じとはいわないまでも、左派的な見方が示されていると考えがちだったんですが、先々月の6月22日付けの読書感想文で取り上げた朝日新聞ジャーナリストによる原真人『日本銀行「失敗の本質」』や本書は、びっくりするくらいの右派的な経済政策論を展開しています。すなわち、マクロ経済政策のうち、金融政策では量的緩和をヤメにして金利を引き上げるという意味での「金融正常化」を進め、財政政策では社会保障などを含めて歳出をカットし歳入を増やすにより財政再建を図る、という論調です。ジャーナリストをはじめとして、現在の政権の経済政策批判という観点からは、私は権力に対する批判という意味で許容すべきと考えますが、経済政策の本質を考えることなく、単なる党派的な視点から現政権の政策に対する反対論を展開するというだけでは、とても不満が残ります。緊縮財政で支出をカットし、社会保障を削減することにより、どういう利点が国民に感じられるのか、その点を明確にした上で、それなりの経済分析に基づいた議論を展開してほしい気がします。本書の著者は、日本経済はデフレであったことはないと主張して、英語の原著論文を示しているんですが、まあ、そこまでは研究成果としていいとはいえ、緊縮財政による財政再建を目指し、財政赤字を削減する点については、何の議論もありません。それよりも、格差の是正を目指した所得再配分政策などに目が向いていないのも悲しい気がします。財政赤字を削減するとしても、何の前提条件もなしで歳出削減と歳入増で突き進むのではなく、所得税の累進性の強化とか、大きく切り下げられて来た法人税の増徴とか、歳出カットにしても大企業向け補助金の整理とか、あるいは、防衛費の削減とか、ムダな公共事業の削減とか、すでに官庁を定年退職した私でも考えつくような論点はいっぱいあるんですが、本書ではパスしてしまっている気がします。加えて、景気拡張的なマクロ経済政策を求める国民の意見を、こともあろうに「民主主義の未成熟」で片づけて、直接の言及こそありませんが、ケインズ的な「ハーベイロード仮説」を無理にでも成り立たせようとする強引ささえうかがわせます。ひょっとしたら、左派的な経済論調を期待して図書館で岩波新書から出ている本書を借りた私が間違っていたのかもしれません。いずれにせよ、誠に残念です。

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2019年8月 3日 (土)

今週の読書は経済書をはじめとして計7冊!!!

今週の読書は、いつもの通りに、経済書をはじめとした計7冊です。ただ、中央公論新社が創業130年を記念して2016年に創刊し、2018年に10号でもって終刊した『小説BOC』において、複数の作家が同じ世界観の中で長編競作を行う大型企画「螺旋」プロジェクトの8作品のうちの3作を読みました。なお、本日すでに自転車で近隣図書館を回り終えており、来週も数冊の読書になる予定です。

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まず、丸山俊一・NHK「欲望の資本主義」制作班『欲望の資本主義 3』(東洋経済) です。NHK特集で放送された内容の書籍化で、タイトルから明白なように、第3巻となります。私は今までの2冊も読んだ記憶がありますが、2冊目がやや物足りなかったので、この3冊目を読むかどうか迷っていたんですが、のーねる経済学賞を授賞したティロル教授とか、『サピエンス全史』や『ホモ・デウス』で話題になったハラリ教授らの名前がありましたので、図書館で借りて読んでみました。5人の有識者へのインタビュー結果を中心に構成されているんですが、さすがに、3人目のティロル教授、4人目のハラリ教授、そして、5人目のガブリエル教授のパートは読みごたえがありました。最初の起業家ギャロウェイ氏のパートでは、インタビュアーが悪いんでしょうが、「GAFAの究極の目的は何か」という趣旨の質問があり、冒頭でガックリ来てしまいました。企業活動をする限りは、持てる経営資源を活用して利潤を最大化するのが企業の活動目的に決まっています。それとも、GAFAの目的は「世界征服」といった趣旨の回答を引き出せるとでもインタビュアーは思っていたんでしょうか。加えて、GAFAなどによるイノベーションが雇用の減少をもたらすというのは、必ずしも真実ではありません。コストダウンを目的にしたイノベーションしか念頭にないので、こういった珍問答になったんでしょうが、新商品の開発や新しい流通経路の開発など、生産を増加させ雇用も増えるようなイノベーションは歴史上いっぱいありました。また、第2章ではビットコインに続く仮想通貨の開発者ホスキンソン氏へのインタビューなんですが、資本主義は短期的な視野に陥りがち、といった発言が示されている一方で、第3章のティロル教授は市場が常に待機主義であるわけではないと主張して、まったく株主配当を行わないアマゾンのような例を出したりしています。ティロル教授は同時に仮想通貨について大いに否定的な論調を展開していたりもします。第4章のハラリ教授は、仕事を守るのではなく、人々に所得というか、収入を保証する、例えば、ベーシックインカムのような制度の重要性を指摘しています。最後の第5章のガブリエル教授は、人々を支配しているのはAIやロボットといったハードあるいはソフトな機械ではなく、そのバックに控えている人間だと喝破しています。などなど、決して、系統的な見方を得るのではないのかもしれませんが、ひとつひとつの見方や考え方に、私はとても強い刺激を得ることができました。NHKの放送はまったく見ていませんが、本書でもかなりの程度にその雰囲気は得られるのではないか、という気がします。

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次に、ウォルター・シャイデル『暴力と不平等の人類史』(東洋経済) です。著者はオーストリア生まれで、ウィーン大学で古代史のテーマで博士号を取得して、現在は米国スタンフォード大学の歴史学研究者です。本書は先週土曜日の日経新聞の書評欄で取り上げられていましたが、その時点で私はすでに新宿区立図書館から借りていたりしました。なお、英語の原題は The Great Leveler であり、2017年の出版です。ということで、本書では、一般に私のようなマルクス主義歴史学を知る者が原始共産制と呼ぶ石器時代から時代を下って、生産力の向上とともに剰余生産物ができるに従って不平等が生じた歴史をひも解く、というか、不平等が生じつつも解消された要因について分析を加えています。すなわち、7部構成の本書なんですが、第1部で不平等の概略史を跡付けた後、不平等を解消する社会現象を「騎士」と名付け、4つの騎士を、第2部で戦争、第3部で革命、第4部で崩壊、第5部で疫病、として取り上げ、最後の方の第6部と第7部では四騎士に代わる平等化の手立てを、最後の第7部で平等と不平等の未来について分析しています。本書で「騎士」と名付けている戦争、革命、崩壊、疫病については、直感的に、社会秩序を大きく揺るがせますので、いわゆる弱肉強食のパワー・ポリティクスの世界に入りそうな気がしないでもないんですが、確かに、考えてみると戦争で例に挙げられている我が日本の第2次世界対戦の記憶にしても、平等化が進んでいるのは歴史的事実のようです。本書でいうところの「総動員体制」に従って、人間としての生存に必要な部分を上回る余剰を戦争遂行のために国家が強権でもって召し上げるんですから、原始共産制に近づくのかもしれないと私は考えたりしました。ただ、他方で、本書でもソ連の共産革命に付随して、特に北欧各国で累進課税が導入された点を強調していますし、昔のソ連にしても現在の中国にしても、本来のマルクス主義的な社会主義や共産主義からはほど遠いんですが、理念としての平等の旗を下ろすことはありませんし、その影響を受けた改良主義的な社会民主主義でも平等化がひとつの政策目標として追求されていることは紛れもない事実です。また、本書では何箇所かで平等化のひとつの要因として労働組合を上げています。もちろん、マルクス主義的な労働者階級の前衛ではないんでしょうが、現代経済学でも、例えば、Galí, Jordi (2011) "The Return of the Wage Phillips Curve," Journal of the European Economic Association 9(3), June 2011, pp.436-61 などにおいても、賃金上昇圧力としての労働組織率を評価していますから、労働組合と平等化は何らかの正の相関があるともいえます。ただし、本書では農地改革については否定的な評価を下しているように見えます。我が国ではその昔に、「士農工商」なる身分性がありましたが、現代においても、工業・商業と農業で平等化の方法論に少し違いがあるようです。いずれにせよ、ピケティ教授から格差や不平等のトピックが経済学のひとつの重要なテーマとなっています。注釈や索引を含めると軽く700ページを超えるボリュームですが、私のようなエコノミスト兼ヒストリアンの目から見れば、一読しておく値打ちはありそうな気がします。

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次に、ローレンス・レビー『PIXAR』(文響社) です。著者は、かのスティーブ・ジョブズから招聘されてピクサーの最高財務責任者CFO兼社長室メンバーに就任してジョブズとともにピクサーで働き、後に取締役まで務めています。英語の原題は To PIXAR and Beyond であり、2016年の出版です。繰り返しになりますが、著者はアップルから追放されてピクサーのオーナーになっていた1990年代なかばのスティーブ・ジョブズから電話を受け面接に進み、スタジオを訪問して後に「トイ・ストーリー」として公開されるアニメを見て感激し、ピクサーに入社するところからお話が始まり、そのピクサーがディズニーに買収される2006年まで10年余りの期間に関するファイナンスの面からのピクサーの社史になっています。著者の転職当初は、全株式を所有し唯一の取締役であるスティーブ・ジョブズが招聘したということから、スティーブ派と目されて、クリエイターたちの一派から冷ややかな目で見られていたものの、IPOを控えてストック・オプションをクリエイターたちに配分する中で、徐々に企業としての一体感を形成し、同時に、カリスマ的な経営者であり、シリコンバレーでも抜きん出たビジョナリーのひとりであるスティーブ・ジョブズのかなり強引かつ得手勝手な要求には一切ノーといわずに、黙々とオーナーの指示に従い、財務責任者として業務を遂行していく姿を浮き彫りにしています。もちろん、著者の自伝的な要素もありますので、大きなバイアスがかかっていることとは思いますが、非公開企業の内部事情はうかがい知れません。もちろん、著者は財務からピクサーという企業を見ていますので、「トイ・ストーリー」から始まって、我が家も一家でよく見た一連の封切り映画、すなわち、「バグズ・ライフ」、「モンスターズ・インク」、「ファインディング・ニモ」などの世界的な大ヒット映画のメイキングの部分は期待すべきではありません。そして、最後はヒットを飛ばし過ぎて株価がとてつもなく高い水準まで上昇し、その高株価を維持するためにはディズニーのようにテーマパークやグッズなどの多角化を図るか、それとも、そういった多角化に成功した企業にM&Aで売却するか、の選択肢から後者の道を選んだわけです。スティーブ・ジョブズは広く知られた通り、今世紀に入ってアップルに復帰し、iPOD、iPHONE、iPADなどのヒットを飛ばし、そのままがんで亡くなっていますが、ジョブズがアップルを追放され、ネクストというコンピュータ会社を立ち上げながらもパッとせず、結局ピクサーのオーナーとしてIPOで復活してビリオネアになるという、著者以外のもうひとつのパーソナル・ヒストリーの一端にも触れることができます。本書を読んだ教訓として、やっぱり、カリスマ的な社内権力者には、すべからくイエスマンでいて、「ご無理、ごもっとも」で決して「ノー」ということなく接しなければならないということがよく判りました。そして、我と我が身を顧みて、役所には決してカリスマ的な権力者はいなくて集団で組織を運営していたのですが、私が出世できなかった原因も身に染みてよく判った気がします。

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次に、澤田瞳子『月人壮士』と、薬丸岳『蒼色の大地』と、そして、乾ルカ『コイコワレ』(中央公論新社) です。この3作品は、中央公論新社が創業130年を記念して2016年に創刊し、2018年に10号でもって終刊した『小説BOC』において、複数の作家が同じ世界観の中で長編競作を行う大型企画「螺旋」プロジェクトを構成しています。この3作品については、『月人壮士』が奈良時代、特に聖武天皇にスポットを当てており、時代が下って、『蒼色の大地』は明治期、『コイコワレ』は太平洋戦争末期、をそれぞれ舞台にしています。もちろん、この3作品だけでなく、私はまだ読んでいませんが、原始時代の大森兄弟「ウナノハテノガタ』、中世や戦国時代からの武士の時代の天野純希『もののふの国』、伊坂幸太郎『シーソーモンスター』に収録された昭和後期の「シーソーモンスター」と近未来の「スピンモンスター」、平成の朝井リョウ『死にがいを求めて生きているの』、未来の吉田篤弘『天使も怪物も眠る夜』と、1号から10号までに連載された8人の作家による作品がラインナップされています。まだ決めてはいませんが、私は伊坂幸太郎『シーソーモンスター』は読んでおきたいと考えています。この「螺旋」プロジェクトの特徴は、出版社のサイトにあるように、ルール1として「海族」と「山族」の2つの種族の対立構造を描き、ルール2としてすべての作品に同じ「隠れキャラクター」を登場させ、ルール3として任意で登場させられる共通アイテムが複数ある、ということのようで、ルール1は単純で読めば判ります。例えば、古典古代を舞台にした『月人壮士』では天皇家が「山族」であり、天皇を外戚として支える藤原氏が「海族」となります。明示的に何度も出て来ます。そして、3番目は複雑過ぎて8作のうちの3作品しか読んでいない現段階では私には不明ながら、カタツムリとラムネを念頭に置いています。ただ、奈良時代にラムネもないだろうとは思っています。そして、その中間のルール2の「隠れキャラ」については、オッドアイの人物なのではないか、と思い始めています。オッドアイ、すなわち、左右で目の色が違う、という意味です。少なくとも、『蒼色の大地』と『コイコワレ』には碧眼の青い目の日本人が登場するんですが、『月人壮士』については私が読み飛ばしたとも思えず、出て来ませんでした。というような読書の楽しみもアリではないかと思います。簡単にあらすじだけ紹介しておくと、『月人壮士』では聖武天皇、というか、上皇が亡くなった際の後継天皇に関する遺勅がったんではないか、とに命じられて継麻呂と道鏡がいろんな関係者にインタビューします。それがモノローグで展開され、聖武天皇の実像や「山」の天皇家と「海」の藤原氏の確執、もちろん、天皇後継に関する陰謀などが明らかにされます。『蒼色の大地』は明治期の海軍と海賊で、海軍には耳の大きい山族、そして、海賊には目の青い海族と別れます。『コイコワレ』は戦争末期に宮城県に集団疎開した小学6年生の碧眼の「海」の少女と、それを忌み嫌う現地の「山」の少女の確執、さらに、「海」の少女のお守りに関するストーリーです。読んだ3作の中では、『蒼色の大地』について、作者の薬丸岳については何作か読んでいたりしますので、もっとも期待していたんですが、逆に、期待外れに終わった気がします。

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最後に、今井良『内閣情報調査室』(幻冬舎新書) です。著者は、NHKから民放テレビ局に移籍したジャーナリストです。タイトル通りに、我が国のインテリジェンス組織である内閣情報調査室に関するルポです。さらに、内閣情報調査室とともに、というか、あるいは、三つ巴を形成している公安警察と公安調査庁も含めて、スパイたちのインテリジェンス活動を明らかにしようと試みています。よくいわれるように、我が国は「スパイ天国」であって、冷戦期などは各国スパイが暗躍していたらしいんですが、本書でも指摘されているように、特定秘密保護法によりスパイのインテリジェンスからは普通の国になったのかもしれません。でも、私も在外公館で経済情報の収集に当たっていましたが、わざわざスパイが暗躍して秘密裏に情報を収集することもなく、新聞や雑誌、可能な範囲でテレビも含めて、いわゆるマスメディアから一般に広く公表されている情報だけでも、少なくとも経済情報の場合は、チリという遠隔の地でそれほどの情報がなかったこともあり、公開情報でほとんど間に合っていたような気もします。経済情報であれば、マクロ経済の統計情報も豊富に公表されています。ただ、テロを含む安全保障や治安維持上の情報となれば、経済情報とは違うんだろうということも理解は出来ます。それから、情報公開上の考え方なんですが、報道の元ネタとなる政府からの情報に関しては、ジャーナリストのサイドでは公開の方に針が振れるのに対して、私も経験がありますが、政府に勤務する公務員のサイドからすれば秘匿の方向に意識が傾くのも、まあ、ポジショントークのようなもので、立場によって考え方にビミョーな差が出ることは、ある意味で、当然と考えるべきです。どうでもいいことながら、本書のタイトルである内閣情報調査室は略して「内調」というのが、本書でもしばしば出てくるんですが、私が若かりし官庁エコノミストだったころ、私からすれば「内調」とは当時の経済企画庁の内国調査課を意味していました。官庁再編前のことながら、その昔の「経済白書」の担当セクションです。私自身は研究所の所属が長く、「個人的見解」の但し書きをつけて自分の名前で研究成果を出していたりしたんですが、政府や個別の役所の名前でリポートを取りまとめる白書担当部局などが、官庁エコノミストのポジションだった時代かもしれません。繰り返しになりますが、本書とは何の関係もない思い出話でした。

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2019年7月27日 (土)

今週の読書は青春小説の金字塔『横道世之介』の続編をはじめ計6冊!

相変わらず、今週の読書も経済書をはじめとして、小説まで含めて計6冊を読んでいます。私の好きな青春小説の中でも、おそらく、一番に評価している吉田修一の『横道世之介』の続編も読みました。来週の読書はほぼ手元に集め終わっており、何と、経済書よりも小説の方が多くなりますが、やっぱり数冊読む予定です。

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まず、井上智洋『純粋機械化経済』(日本経済新聞出版社) です。著者は駒澤大学のマクロ経済学の研究者で、本書は読み方にもよりますが、経済書と考えるよりも文明についての教養書や哲学書として読む読者も多そうな気がします。私のように経済書と考える読者は、第3章と第4章で論じられている人工知能(AI)により仕事が奪われるか、とか、労働のインプットを必要としない純粋機械化経済における格差、などに比重を置いた読み方になりそうな気がしますし、文明論とか哲学書と考える読者は最後の第7章と第8章あたりに興味を持ちそうです。まあ、出来はともかく、この最終章あたりは『サピエンス全史』や『ホモ・デウス』のような雰囲気が感じられます。AIがどういった仕事や職業を奪う、というか、代替するのかについては英国オックスフォード大学のフレイ-オズボーンの研究成果に言及されており、実は、AIによる純粋機械化経済は労働のインプットを必要としないことから、資本ストックの限界生産性の逓減が生じなくなり、経済成長が一気に加速する、と結論しています。ただ、私は疑問で、AIによる純粋機械化経済で成長が一気に加速するのは生産性、というか、供給サイドであって、需要サイドがこれに追いつかなければ、単なる過剰生産のデフレに陥りかねません。その中で、本書では言及されていませんが、「スーパースター経済」のような格差が一挙に拡大する可能性を示唆します。Average is over. というわけです。なお、AIによる経済成長の爆発的な加速を本書では「テイクオフ」と名付けていますが、もちろん、ロストウ的な比喩といえます。その上で、狩猟採集経済から農業経済への第1の分岐、さらに、いわゆる狭義の産業革命に伴う農業経済から工業経済への第2の分岐に続き、近い将来に、AI利用による爆発的な経済成長の加速が実現できるかどうかによる第3の分岐が生じると指摘します。そして、ユニバーサルなベーシックインカム(BI)の必要性などが解明されます。特に、私の印象が鮮明だったのは、主流派経済学で半ば自明な前提とされている長期均衡について著者が否定している点です。マンキュー教授のその昔のテキストなどでは短期の不均衡と長期の均衡から経済のお話が始まり、長期には伸縮的な価格調整により雇用も含めて市場均衡が実現されるとされていますが、実は、私自身も懐疑的なんですが、著者はこの長期の均衡を否定し、長期にも雇用をはじめとする不均衡が残る可能性を示唆します。おそらく、私の直感なのですが、この著者の長期の不均衡理論をキチンとモデル化して突き詰めれば、いわゆる現在貨幣理論(MMT)が成立する可能性が出てくるような気がします。ただし、これは人類がAIを使いこなせれば、という前提であり、場合によっては、人類ではなくAIが主人公になる経済も視野に入れる必要があると私のような悲観派は考えています。そのAIが主人公になる経済社会では、人類は現在のイヌ・ネコのようなAIのペットになるのかもしれません。

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次に、巣内尚子『奴隷労働』(花伝社) です。著者はフリーのジャーナリストであり、Yahoo! ニュースの連載を大幅に加筆し書籍化されています。副題が「ベトナム人技能実習生の実態」となっているように、ベトナム人を中心に技能実習制度の下での移住労働者の人権侵害の実態について取り上げています。低賃金の単純作業でありながら、技術協力や国際貢献の名の下に、外国人技能実習生がパワハラやセクハラにとどまらず、モロの暴力があったり、雇用の場だけでなく強制的に住まわせられる住居の家賃でも不当な高額を請求され、転職もままならず、徹底的に虐げられる現場を取材して明らかにしています。ただ、その背景に、ボージャス教授の『移民の政治経済学』にあったように、外国人労働者の受け入れによって膨大な利潤を企業が得ているという経済的な事実を本書では見落としています。ですから、あとがきの中で、、謝辞の前の事実上最後の技能実習制度の構造的問題の小見出しで「日本社会におけるモラルハザード」を原因に上げているのには、実にがっかりさせられました。企業の活動目的が利潤の極大化であり、人権擁護や、ましてや、国際協力ではないことは理解できないのでしょうか。本書の中でも、特に、ベトナム人技能実習生を中心に取り上げているわけですから、送り出す側のベトナムで、国策として「労働輸出」が奨励されている背景にマルサス的な貧困があるのかどうか、仲介するベトナム側の企業の業務のクオリティに関する情報が一党独裁政権下で何らかの不都合ないか、といった取材、さらに、受け入れ側の日本では、「モラルハザード」はまったく取材されていないようですし、ましてや、技能実習生を受け入れている企業の収益状況などは視野にないようです。少なくとも、送り出すベトナムでも、もちろん、受け入れる日本でも、企業が利潤極大化の行動の一環として技能実習生を送り出し、あるいは、受け入れている、という事実は忘れるべきではありません。そして、その基礎の上に、我が国の現状の労働市場でどれほど人手不足が実感されているのか、そして、その人手不足にもかかわらず賃金上昇が鈍い背景として女性や高齢者の労働市場参入とともに、本書でも指摘されているように、すでに30万人に上る外国人労働者がどのように作用しているのか、などなどの解明が望まれます。もちろん、今上げたポイントはジャーナリストの手に余る可能性もありますから、その場合は研究者を巻き込むことも必要でしょう。ただ、「モラルハザード」で済ませる程度の問題として著者が認識しているとすれば、本書の値打ちが大いに下がるような気もします。加えて、左派・リベラル派を標榜する私の基本的な姿勢を明らかにすると、ホントに人手不足であるなら、市場でその情報が非対称性を克服して十分に活用され、労働力の希少性に見合った賃金の価格付けができないと市場経済の意味はありませんし、その希少性に見合った賃金を支払えない企業は市場から退出すべきです。さらに、外国人の移住労働者については情報の非対称性が日本人よりも大きいでしょうから、政府の役割もそれだけ大きくなるべきと考えます。

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次に、岡山裕・西山隆行[編]『アメリカの政治』(弘文堂) です。著者・編者は米国政治の研究者と考えてよさそうです。基本的には、大学初学年などのテキストと私は受け止めていますが、米国政治に関心あるビジネスパーソンでも十分に読みこなせる内容です。2部構成となっており、第1部で総論として歴史、機構、選挙と政策過程などが概観された上で、第2部において人種とエスニシティや移民、ジェンダー、教育と格差などの政治学上の争点を解明しようと試みています。本書でも鋭く指摘しているように、我が国では考えられないような政治上の争点が米国にはいっぱいあります。典型的には銃規制であり、先日の我が国の参議院議員選挙などの国政選挙レベルで銃規制が争点となることはありえない、と私をはじめとして多くの国民は感じていますが、米国で銃規制がまったく進まないのは、これまた、多くの日本国民が感じているところではないでしょうか。移民による国家としての成立と先住民やアフリカ系米国人への人種差別なども我が国では実感ありません。ダーウィン的な進化論を否定し聖書の『創世記』の天地創造を初等・中等教育で教えることは、欧州のキリスト教国でも選択肢にならないのではないでしょうか。さらに、北欧とは真逆と考えられている自己責任を強調する社会福祉政策についても、なかなか理解しがたいと受け止める読者もいそうな気がします。私はいまだに理解できなかったのは、世界における米国の軍事力のあり方であり、すなわち、20世紀初頭の第1次世界大戦への参戦を躊躇し、モンロー主義という孤立主義を貫いていた米国が、第2次世界大戦後は当時のソ連との冷戦を考慮しても、突如として世界の警察官になり、そして、21世紀の現在はその地位から下りようと模索しているのは、専門外の私には理解できませんでした。こういったように、それぞれの分野の米国政治の専門家が、それぞれの分野において何がどのような文脈で争点化し、それらをめぐってどのような主体がいかなる立場で政治過程に関与し、どのような政策が作られ、執行されてきたのかを解説することに力点が置かれており、コンパクトで判りやすいテキストに仕上がっています。米国の政治についてはいまだにフランス人思想家であるトクヴィル『アメリカのデモクラシー』が金字塔として引用されますが、本書についても、外国人労働者の受け入れなどが進み国際化が進展する我が国の現状を考え合わせれば、大いに参考になると私は評価しています。

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次に、ホルヘ・カリオン『世界の書店を旅する』(白水社) です。著者は、スペインの文芸評論家であり、本書は著者が世界を旅行した際に訪れた書店についてのエッセイです。スペイン語の原題は Librerías であり、まさに、複数形ながら、書店、というか、本屋、そのものです。英訳書のタイトルは Bookshops となっており、基本は英訳書が邦訳の底本隣、必要に応じてスペイン語原書を参照したと邦訳者があとがきで書いています。スペイン語原書は2013年の出版、英訳書は2016年の出版です。まず、どうでもいいことながら、私は英国にいったのは国際会議で短期間だったので少し判りにくいんですが、米国では首都ワシントンDCで連邦準備制度理事会(FED)のリサーチ・アシスタントをしていたころ、bookshopは米国ではおかしい、bookstoreが正しい、と訂正された記憶があります。というのは、米国人にとって shop とは、何か作業をするところであり、典型的には workshop や散髪屋さんの barber's shop があります。それに対して、store は製品を置いておくだけ、というニュアンスです。もう30年前になりますが、私がFEDにいた1989年にワシントンDCにタワーレコードが出店したので、リサーチ・アシスタント仲間で繰り出そうと相談していたところ、私が record shop というと、record store と訂正された次第です。ちなみに、タワーレコードの後に、そのころ米国進出を果たしていたキリンイチバンをみんなで飲みに行った記憶があります。それはともかく、残念ながら、本書ではワシントンDCの本屋は出てきません。米国で一番注目されているのはストランド書店です。ニューヨークは4番街にあり、私も行ったことがあります。これもどうでもいいことながら、私はエコバッグはストランド書店のデニム地のものを使っています。それから、大使館の経済アタッシェとして3年間勤務したチリの首都サンティアゴではロリータ書店が何度か言及されています。誠に残念ながら、私は記憶がありません。でも、隣国アルゼンティンの首都ブエノスアイレスのノルテ書店については、ほのかに記憶があり、アレではないか、と思わないでもない建物が脳裏にあったりします。我が国の書店では、東京の丸善が黒澤明との関係で言及されています。しかし、京都出身の私は、丸善といえば、私の学生時代に河原町通蛸薬師にあった京都丸善です。そうです。梶井基次郎の「檸檬」に登場し、爆弾に見立てられた檸檬で木っ端みじんにされるのを主人公が想像する京都丸善です。

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次に、奈倉哲三『天皇が東京にやって来た!』(東京堂出版) です。著者は歴史の研究者です。副題、というか、実は「錦絵解析」というのがくっついていて、私はこれに大いにひかれて借りました。私は自分でも自覚していますが、天皇個人についてはともかく、天皇制に関しては日本人の中でもかなり少数派に属すると考えていて、天皇が東京に行くかどうかについてはまったく興味ありませんが、明治期初年の東京について、さらに、その当時の東京の人が天皇をどう受け止めていたのかについては興味あります。加えて、上の本書の表紙画像を見ても理解できるように、税抜き2,800円にもかかわらず、フルカラーのとても見ごたえある図版がふんだんに盛り込まれており、誠に失礼ながら、歴史研究者の文章を一切読まずに、フルカラーの図版をながめるだけでも値打ちがあるような気がします。ということで、明治天皇は2度江戸、というか、東京に行幸して、2度めの行幸でそのまま東京に居ついたわけですが、本書では第1回目の東京行幸、言葉を替えれば、はじめての東京行幸の際の錦絵を解析して、歴史的な知見を得ようと試みています。錦絵の一覧はpp.18-20に取りまとめられています。2度めの東京行幸については、京都の公家衆に明治天皇を取り込まれることを回避すべく、東京に行きっ切りになることが想定されていたんでしょうが、第1回目の東京行幸については、東京府民はすべてが新政府に完全に服したわけではなく、江戸城が無血開城したこともあって、反政府的な勢力も一掃されたわけではない中で、新政府、というか、天皇の朝威を示し恩恵を施すことを目的としていました。東京滞在中に、天皇は武蔵の国の一宮である氷川神社を訪れ、東京府民へ御酒下賜を敢行し、東京府民は2日間に渡って天盃頂戴を祝います。それらを錦絵に収めているわけですが、一瞬ですべてを記録する写真とは違いますから、隅々まで正確に描写できているわけもなく、それなりに版元や絵師の思い入れがある部分が散見されるわけです。ですから、記録や報道に徹して出来るだけ客観的な描写を試みた例の他に、新政府寄りの姿勢を示す例、逆に、反政府的な要素を入れようと試みた例があります。行列を描写した錦絵が多いんですが、御酒下賜と天盃頂戴の錦絵にも見るべきポイントはあります。酒樽に、やたらと、「天下泰平」が多く見受けられます。江戸城は無血開城したとはいえ、上野彰義隊などの市街戦はあったわけで、平和を願う一般市民の気持ちは今も昔も変わりないことを実感しました。

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最後に、吉田修一『続 横道世之介』(中央公論新社) です。タイトルから明らかなように、吉田修一御本人による青春小説の金字塔『横道世之介』の続編です。私はもともと青春小説が好きで、特に、『横道世之介』は愛読し、高良健吾と吉高由里子が主演した映画も見ました。ということで、この作品は、世之介が与謝野祥子と別れて、さらに、大学を卒業したものの、バブル最末期の売り手市場に乗り遅れて、パチプロ、というか、フリーターをしている1993年4月からの12か月が対象期間となっています。世之介と大学からの親友の小諸=コモロンのほか、パチンコ屋や理容室で顔見知りになった浜本=浜ちゃんという女性の鮨職人、小岩出身のシングルマザーの桜子と子供の亮太、また、その兄や父親などの日吉一家、などなどが登場します。そして、世之介は桜子に2度に渡ってプロポーズしながらも受け入れられず、さりとて、明確に別れるでもなし、といった、相変わらずのちゅつと半端な恋愛状態が続きます。このあたりは、前作の与謝野祥子との恋愛関係の方が濃厚だったと評価する読者もいるかもしれません。そして、最後は、東京オリンピック・パラリンピックで桜子の子供の日吉亮太の活躍と、亮太に向けた桜子の兄、というか、亮太の叔父からの手紙で終わります。前作は世之介の母の手紙で終わっていたような記憶がありますので、それを踏襲しているわけです。そして、何といっても、桜子の兄の日吉隼人が勝手に投稿した地方都市主催の写真コンテストで世之介の写真が佳作に入賞し、賞の審査委員長だった大御所的な存在のプロの写真家の事務所に出入りし、手伝いなどをしつつカメラマンに成長していく萌芽をにおわせます。そして、何よりも、この写真の師匠が世之介の作品を「善良」であると評価し、この「善良」というキーワードが世之介について回ることになります。もちろん、世之介が電車の事故で亡くなるという事実に変更はありません。ただ、世之介の運転が桁外れに安全運転であることとか、コモロンとの米国旅行とかの軽い話題に交じって、何ともさりげなく、桜子の兄の隼人の中学生のころの喧嘩の贖罪といった思い出来事をサラリと紛れ込ませ、それでも、全体として世之介の善良さを全面に押し出して、いろんな登場人物の前向きで現状を肯定して先に突き進む姿勢を明るく描き出し、とてもいい仕上がりになっています。ここまで書けば、続々編がありそうな気がしますが、世之介が電車事故で亡くなるという事実に変更はないわけですから、前作のお金持ちの令嬢だった与謝野祥子に対して、本作では元ヤンのシングルマザーである日吉桜子と、世之介の恋愛対象が大きくスイングしたわけですので、真ん中の中道を行く恋愛が次にあり得る続々編で見たい気もします。それから、おそらく、前作と同じ読後の感想なんですが、私自身は世之介のような善良な人間にはなれそうもありませんので、世之介のような善良な友人・隣人が欲しい気がします。

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2019年7月20日 (土)

今週の読書はパフォーマンス測定に否定的な『測りすぎ』をはじめ計6冊!!!

今週の読書は、経済書らしきものをはじめとして、小説まで含めて、以下の通りの計6冊です。ただ、最初の『世界統計年鑑』は通して読むようなものではなく、パラオラとページをめくっただけです。今日はすでに図書館回りを終えていて、来週の読書の分の本も借りてきたんですが、来週も数冊の充実した読書になりそうな予感です。

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まず、英エコノミスト誌『The Economist 世界統計年鑑 2019』(ディスカヴァー・トゥエンティワン) です。英国のエコノミスト誌の編集部による「世界統計年鑑」です。英語の原題は Pocket World in Figures 2019 であり、1991年度の初版発行以来27年間、毎年データのアップデートと収録項目の見直しを経て発行され続けているそうです。どうでもいいことですが、私は数年前に英語の原書を利用したことがあり、ハードカバーだったと記憶していますが、この2019年度版の邦訳書はペーパーバックでした。今は英語の原書もペーパーバックになっているのかもしれません。前半第1部が世界ランキングであり、国土面積や人口などの世界各国のランキングが示されており、後半第2部が国別の統計となっています。有人宇宙飛行の歴史とかのごく一部の例外を除いて、いわゆるクロスセクションの統計であり、タイムシリーズで示されているものはほとんどありません。まあ、私のように図書館で借りてパラパラとページをめくるよりは、購入して座右に置いて必要に応じて参照する、という使い方が正当なのかもしれない、と思わないでもありません。なお、邦訳の2019年度版は東京23区の区立図書館の中でも、千代田区立図書館と渋谷区立図書館と文京区立図書館と墨田区立図書館と世田谷区立図書館の5館しか蔵書しておらず、しかも、千代田区立図書館と渋谷区立図書館では禁帯出となっていますから、借り出せるのは極めてわずかとなっています。ある意味で、希少価値が高い、といえるかもしれません。

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次に、エイミー・ゴールドスタイン『ジェインズヴィルの悲劇』(創元社) です。400ページを超える大作であり、著者は、ワシントンポスト紙で30年のキャリアを持つジャーナリストです。英語の原題はズバリ Janeseville であり、2017年の出版です。タイトルの街は米国ウィスコンシン州の南部に位置しています。本書のpp.426-27に地図があります。本書にも紹介されている通り、GMの大きなプラントがあった企業城下町であり、パーカー万年筆の発祥の地でもあります。そして、サブプライム・バブル崩壊後の2008年12月にGMが工場を閉鎖した前後から物語が始まります。かつては、工場のブルーカラーとして三交代の勤務で時給28ドルを稼いでいた熟練工の正規雇用された労働者が、非正規で半分の時給の仕事しかなくなって、一方でGMの工場再開や別の企業の工場誘致に希望をかけて、町おこしや企業へのインセンティブ付与を進めようとするグループがあり、他方で、新しい雇用・労働市場に対応するべく職業訓練や能力開発のために地域のブラックホーク技術大学に通い始める人々、あるいは、家計を支えるためにアルバイトを始める高校生などなど、著者は現地インタビューはもちろん、かなり膨大な情報を収集した跡がうかがわれます。そのうち、統計情報が補遺1で「ロック郡における調査の説明および結果」と補遺2で「職業再訓練に対する分析の説明および結果」とそれぞれ題して巻末に収録されています。そして、著者も私も不思議なのが、ブrックホーク技術大学、2年制だそうですから、おそらく、米国的なコミュニティ・カレッジに近い教育機関だと思いますが、こういった大学での学び直しや職業訓練・能力開発を受けた場合、かえって、再就職率が低かったり、再就職できても時間当たり賃金が少なかったりする、という統計的に分析された事実です。通常の理解とは逆に見えます。サンプルがそう大きくもないでしょうから、きわめて大きなバイアスが母集団にかかっている可能性は否定できません、例えば、もともと再就職率が困難だったり、高賃金が望めなかったりするグループが、こういった大学での学び直しや能力開発を受けた可能性はあるものの、本書のこの結論、というか、分析結果については議論を呼びそうな気もします。左派は能力開発が中途半端で不足している可能性を指摘して、一層の施策の充実を提案しそうな一方で、右派は能力開発が効果的でない可能性を議論して、こういった施策の廃止ないし縮小を求めそうな気がします。でも、全体として、暗い雰囲気のリポートながらも、将来に向けた明るさも感じられる内容でした。

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次に、ジェリー Z. ミュラー『測りすぎ』(みすず書房) です。本書冒頭で著者自ら記しているように、著者は本来米国の歴史研究者です。ただ、資本主義に歴史や思想史についても研究しているようで、経済学とまったく関係ないともいえないようです。英語の原題は The Tyranny of Metrics であり、2018年の出版です。ここで経済学に関する小ネタですが、本書の英語の原書タイトルの元ネタがあるように私は感じています。というのも、ヤング教授による "The Tyranny of Numbers" という学術論文があり、1990年代前半までのアジア新興国・途上国の経済成長は資本や労働といった要素投入に支えられたものであり、全要素生産性(TFP)はそれほど伸びていない、という点を実証し、さらに、このヤング教授の論文を受けてクルーグマン教授が "The Myth of Asia's Miracle" を書いて、1997~98年のアジア通貨危機を「予言」した、とされています。何ら、ご参考まで。ということで、本書では定量的に把握、すなわち、計測できる点を重視した経営や政策運営などを鋭く批判しています。エコノミスト、特に右派のエコノミストにとっては、マイクロな市場における価格が絶対唯一の情報であって、価格に従った資源配分こそが効率性を保証する、と考えられており、この市場における価格に類似した指標をついつい求めてしまいがちな傾向を本書では戒めています。私が考えるに、何かを定量的に把握し、それを改善の指標とする場合、3つの間違いが生じる可能性があります。第1に本来のパフォーマンスの代理変数にならない指標を採用する間違いで、第2に計測のミス、第3に目的外の利用です。本書でも、第1のポイント、すなわち、学校や病院などのパフォーマンス指標として不適当な指標が取られている例が大量に指摘されています。例えば、患者の死亡率でもって病院のパフォーマンスを代理すれば、重篤な患者を受け入れない可能性が高まり、ホントにそれで病院の社会的使命が果たされるのか、という気がします。第2のポイントで、計測ミスはいっぱいあって、私の直感ながら、我が国のサービスの生産性は正しく計測されていない可能性があります。ここまで、「おもてなし」の精神でいっぱいの飲食店や宿泊の生産性が、他の先進国と比較して低いとはとても思えません。ほとんど事故なく正確極まりない運行を誇る新幹線の生産性が低いとはとても思えません。第3のポイントでは、学校の生徒のテスト結果を教師の評価と考えるのか、校長の評価と考えるのかでは、かなり受け止め方が異なるような気もします。最後に、第4の観点があり得るとすれば、評価すべきでないものを評価しようと試みている場合もありそうな気がします。総合的に、興味ある評価の計測に関する批判が本書には詰め込まれています。また、巻末のチェックリストも参考になりそうです。

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次に、松本佐保『バチカンと国際政治』(千倉書房) です。上の表紙画像からはピンと来ないかもしれませんが、A5のかなり大きな版でページ数も300ページを上回り、ボリューム感は十分あります。著者は、国際関係史の研究者であり、タイトル通りに、19世紀くらいから直近のフランシスコ教皇まで、バチカンが国際政治にかかわった歴史をひも解こうと試みています。ただ、私なんぞは、おそらくバチカンに親近感を持っているであろう著者が、どこまでバイアスをかけていえるのかが判断しにくく、直感的ながら、国際政治におけるバチカンの影響力を過大に評価しているリスクはありそうに感じてしまいました。ただ、本書ではスコープ外のようですが、15すぃきまつのコロンブスによる新大陸発見の後、スペインとポルトガルの間で西半球の米州大陸を西経に沿って分割したトルデシリャス条約は、当時の強硬アレクサンデル6世が仲介していますし、本書でも言及されている通り、チリとアルゼンティンの長い長い国境紛争はしばしばバチカンによって仲裁されています。私が在チリ大使館に勤務していた時にも経験しました。ということで、影響力の大きさにはやや眉に唾つけて読むとしても、本書で著者が指摘する通り、国際政治の中でバチカンが旗幟鮮明だったことは確かです。特に、第1次世界大戦の戦中から戦後にかけては一貫してドイツ寄りの立場を示して戦勝国からは煙たがられましたし、第2次大戦後の東西冷戦の中では、一貫して西側や米国寄りの反共の立場を堅持しました。そして、やはり、フランシスコ教皇の下でバチカンもかなり大きく変化しようという兆しや雰囲気は私のような部外者も感じ取っています。教皇専用の豪華専用車を廃してバスや列車のような公共交通機関を利用して移動したり、飛行機ではエコノミークラスの登場したり、と本書で指摘されている事実に加えて、私はフランシスコ教皇がカバンをもって飛行機のタラップを上る写真を見てびっくりした記憶があります。国際的なさまざまなテーマは、時代が進むにつれて広がりを見せ、通商問題などの経済関係はさすがにまだ手が伸びていないようですが、戦争と平和の問題はもちろん、地球規模での環境問題など、通常の国民国家やその集合体である国連などの国際機関に加えて、バチカンのようなトランスナショナルなパワーが活躍する場が増え、必要とされるようになったように私も感じています。そのためにも、ひいき目やバイアスなしでバチカンの力量を評価できる研究が必要です。

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次に、古澤拓郎『ホモ・サピエンスの15万年』(ミネルヴァ書房) です。著者は、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科の研究者であり、本書は、自然科学的な内容は豊富ながら、基本的には、私は歴史書だと受け止めています。まず、上の表紙画像に見られるように、副題は「連続体の人類生態史」となっています。「連続体」とは、英語でスペクトラム、フランス語でスペクトル、であり、文字通り、人類史を連続で捉えようと試みています。しかも、伝統的な歴史学の観点ばかりではなく、生物学や医学に加えて、地理学や社会学、もちろん、人口動態学まで、さまざまな学問領域を横断的に駆使しつつ、人類の異文化体験や多様化について解明を志向しています。特に、男女の性別まで含めて、もちろん、人種や文化の違いなどについて対立的、というか、何らかのグループの特徴を区別する要素として用いるのではなく、人類15万年の歴史を連続で捉えようとする試みは、私はそれなりに歴史分野に詳しいつもりでしたが、かなり新鮮な視点・分析方法だったような気がします。もちろん、白人の優位と有色人種の劣等性はすでに否定されて久しいものの、どこぞの超大国の現職大統領のように、人種差別的な発言を繰り返す輩も少なくないですし、まだまだ、分断的に世界を捉える感覚は広く残っています。エコノミスト的な視点から、本書で注目したのは、経済学的な視点も入れつつ、格差を論じている点です。例えば、生物的な身長に個人間で3倍の差があることはまれでしょうし、体重は身長よりもう少し差が出来そうに感じないでもありませんが、本書では、代謝量なども含めて個人間の格差はせいぜい3~4倍と結論しています。そして、狩猟採集社会における生まれながらの格差は3倍程度であるのに対し、農耕社会では11倍、牧畜社会では20倍と算出した上で、現代社会における2桁も3桁もの大きさに及ぶ経済的な格差、例えば、所得や消費の金額や居宅の広さなどが、生物的に必要かどうか、社会経済的に許容できるかどうかを鋭く問うています。確かに、我と我が身を振り返れば、実用的な範囲では、例えば、自動車は標準的な家族に3台もあれば十分ですし、いかな大食漢も人の5倍を毎日のように食べ続けるのは、かえって苦痛の方が大きいように感じます。ルソー的な自然状態では格差3~4倍という本書の議論は、受け入れられる素地が十分にありそうな気がします。

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最後に、今村昌弘『魔眼の匣の殺人』(東京創元社) です。著者は、2017年の前作『屍人荘の殺人』で第27回鮎川哲也賞を受賞しデビューした若手のミステリ作家です。前作はタイトルそのままに映画化され、主人公の剣崎比留子役は浜辺美波が務めるそうです。本作品が第2作になり、主人公というか、ワトソン役のストーリーテラーとホームズ役の謎解きに当たる探偵役は前作から共通しており、シリーズというか、前作の続編と考えるべきです。さらに、犯罪発生のシチュエーションも前作と同じで、ほぼほぼクローズド・サークルだったりします。超能力開発を目的とする斑目機関の謎に迫ろうと試みますが、一定の前進はあるものの、もちろん、解明には至りません。次回作に続きます。本作品では、デビュー作のようなゾンビ菌によるテロという非現実的な出来事ではなく、予言や予見といったオカルト的な要素はあるものの、あくまで現実の人間心理に基づく超常現象なしでの謎解きがなされます。そして、実に、論理的な犯人像の解明がなされますが、単独犯でなく協力者の存在がカギとなります。そして、最後に謎解きの本質には関係しませんが、大きなどんでん返しがあります。これはよく考えられたプロットだと感心してしまいました。ただ、このどんでん返しがあってもなくても殺人犯の解明には関係しないのは、少し残念な気がします。ミステリの謎解き、特に、長編ミステリの場合、好みにもよりますが、私はタマネギの皮を剥くように、少しずつ着実に謎が解明されていくようなプロセスが好きなんですが、この作品では、「名探偵、みなを集めて『さて』といい」のようなカンジで、最後の最後に一気に謎が解明されます。それはそれで、好きなミステリファンもいそうな気がします。相変わらず、地名や人名の固有名詞にセンスないんですが、それはそれとして、私は続編も読みたい気がします。

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2019年7月13日 (土)

今週の読書はバルファキス教授の素晴らしい経済書をはじめとして計7冊!!!

このところ、経済書はやや失敗読書が続いていたんですが、今週は一昨日に取り上げた『左派・リベラル派が勝つための経済政策作戦会議』もよかったですし、バルファキス教授の話題の本もよかったです。ということで、今週も経済書をはじめとして、計7冊の読書でした。今日、読書感想文でまとめて取り上げるのは6冊ですが、ご寄贈いただいた『左派・リベラル派が勝つための経済政策作戦会議』を一昨日に取り上げており、これを勘定に入れて計7冊という意味です。なお、梅雨の中休みをついて、本日のうちに、すでに自転車で図書館をいくつか回っており、来週も数冊の読書になりそうです。

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まず、ヤニス・バルファキス『父が娘に語る美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』(ダイヤモンド社) です。著者は、ギリシア出身の経済学の研究者にしてギリシアが債務危機に陥った際に政権を取った急進左派連合シリザのツィプラス政権で財務大臣に就任し、大胆な債務削減を主張しています。このブログの4月28日付けの読書感想文で取り上げたバルファキス『黒い匣』で詳細にレポされている通りです。本書も『黒い匣』以上に話題の書です。原書はギリシア語だそうですが、邦訳の底本となった英訳書の原題は Talking to My Daughter about the Economy であり、2013年の出版です。ということで、10代半ば、ハイスクールに通う娘にエコノミストの父親が経済について解説しています。ここで経済とは資本主義経済のことを指しています。ですから、まず、経済格差の解明のために経済史を振り返ります。すなわち、必要最低限の生産だったものが余剰が出ることにより、それを我が物にする階級が現れ、その根拠付けのために宗教などが動員されるわけです。明記はされていませんが、背景には生産力の増進があります。そして、この歴史の考えはマルクス主義的な唯物史観そのものです。その中で、産業革命がどうして英国で始まったのかについて、p.67で解説されています。3番目の観点は、いかにもノースらの制度学派的な見方で、私は目を引かれました。そして、産業経済から金融経済の勃興、さらに、産業経済の中でも製造業における機械化の進展、20世紀に入って世界恐慌からケインズ経済学による政府の経済への介入、最後は、ギリシア的にアリストテレスのエウダイモニアに行き着くんですが、その前に、すべてが商品化される資本主義経済に対して、著者は「すべてを民主化しろ」と叫びます。常々、このブログで私が主張しているところですが、資本主義経済と民主主義は矛盾します。民主主義は1人1票の制度ですが、資本主義経済では株主総会のような購買力による格差があります。この矛盾を背景に、著者は資本主義経済ではなく民主化の方向を志向します。この点はキチンと読み取るべきです。

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次に、飯田泰之『日本史に学ぶマネーの論理』(PHP研究所) です。著者は、明治大学の経済学の研究者であり、リフレ派に近いと私は認識しています。本書は、タイトル通りの内容を目指しているようなんですが、前半の「日本史に学ぶ」部分はともかく、タイトル後半の「マネーの論理」はどこまで迫れているのか、やや疑問です。本書の対象とする期間は、7世紀の律令制の時代、我が国では古典古代の時代から、19世紀の江戸期までで、近代は対象外となっています。そして、本書の冒頭は、白村江の戦いで倭が唐の水軍にボロ負けするところから始まり、唐に敗北した国家の再建、というか、国家とは広範囲における安定した統治の実現である、というところから貨幣の鋳造が志向された、と解説しています。まあ、本書のスコープからすればそうなんでしょうが、もちろん、貨幣鋳造以外にも、律令という名の法制度の整備、碁盤目状の街路を整備した首都、あるいは、宗教上のシンボルとしての大仏、などなど、少しは言及して欲しい気もします。そして、本書のスコープそのものであるマネーの論理、というか、貨幣論についても、かなりガサガサだというふうに私は受け止めました。貨幣とは、あくまで、他の人々も貨幣として受け取ってくれる、という同義反復的な定義が適用されるというのは、私もその通りだろうと思います。ただ、歴史を紐解いているわけですから、もう少し厳密に歴史に当たって欲しかったです。特に、史料の残っている江戸期については、私でも徳川幕府による三貨制の金貨・銀貨・銭だけでなく、いかにも封建的な領主による藩札の発行もあれば、堂島の米切手が貨幣と同じように、すなわち、みんなが貨幣として受け取ってくれるがゆえに貨幣の役割を果たしていた点も、中央政府の発行する貨幣でないから無視したのか、それともご存じないのか、私には判りかねますが、マネーの論理とともに、歴史についても、もう少し読み応えある展開が欲しかったです。決してブードゥー・エコノミクスではありませんし、右派的な経済論が展開されているわけでもないんですが、ピント外れというか、経済書にしてはとても物足りなかった読書でした。

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次に、リジー・コリンガム『大英帝国は大食らい』(河出書房新社) です。著者はイングランドの歴史研究者です。本書の英語の原題は The Hungry Empire となっており、直訳すれば「腹ペコの帝国」とでもなるんでしょうか。2018年の出版です。ということで、大英帝国における食の探求と大英帝国の形成そのものの密接な関係について、グローバルな視点から歴史的に解き明かそうと試みています。4部20章の構成となっています。各章のタイトルが中身のトピックをかなり詳細に表現しています。大英帝国とは、明らかに、海の帝国であり、世界各地からいろんな食材と調理方法を本国に持ち帰ります。ただ、基本は食べる方ですので、カリブ海のラム酒なども垣間見えますが、お酒をはじめとする飲み物はメインではありません。大英帝国の本国は欧州の西端に位置する島国であり、産業革命を経て工業や商業、とりわけ金融業については世界をリードしていた時期が長かったわけですが、農業や食料生産については決して恵まれた条件にはなく、世界各地、特に北米植民地や大洋州のオーストラリア・ニュージーランドなどの農業生産に適した植民地からかなり大量に食料を輸入して食卓が出来上がっているわけです。また、帝国主義時代には戦争や軍事衝突も少なくなく、保存食の研究なども世界に先駆けて行われています。大英帝国の前のポルトガルやスペインなどによる大航海時代には、アジアの胡椒を入手するのが大きな目標だった時代もあるんですが、大英帝国では食そのものの通商が盛んになります。インドの紅茶にカリブ海やブラジルの砂糖を入れ、カナダやオーストラリアの小麦で作ったパンを食べる、といった大英帝国の食生活が徐々に確立していく段階を歴史的に跡付けています。ただ、必ずしも記述の順が一貫性なく、少なくとも編年体では構成されていません。ですから、場合によっては、章を進むと時代がさかのぼる、といったことも起こります。ただ、さすがに歴史から敷く、イングランドとイギリスの区別はちゃんとされています。ユーラシア大陸の反対側の東端に位置する島国の日本はほとんど登場しませんが、世界的な食生活の歴史がとても分かりやすく展開されています。グローバル化の進展の中で、EUを離脱しようとしている英国の栄光の時代の記録かもしれません。最後に、注を入れれば400ページを超えるボリュームで、とても面白い本ながら、読むにはそれなりの覚悟を要します。

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次に、北岡伸一『世界地図を読み直す』(新潮選書) です。著者は、長らく東大の政治学の研究者だった後、国連代表部大使を務め、現在では国際協力機構(JICA)の理事長職にあります。実は、私の高校の先輩で、その昔には東京の同窓会会長だったりもしたと記憶しています。本書は、新潮社の『フォーサイト』に連載されていたコラムを単行本に取りまとめています。副題は「協力と均衡の地政学」となっていて、確かに地政学的な考察も盛り込まれていますが、まあ、基本はJICA理事長として訪問した世界各国の紀行文に近いと私は受け止めています。ですから、悪くいえば、世界各国の実情について国際協力の供与サイドから「四角い部屋を丸く掃く」ような紀行文と考えるべきです。しかも、国際協力=ODA実施機関の理事長の訪問先ですので、ほぼほぼすべてが途上国となっていて、欧米をはじめとする先進国は取り上げられていませんし、中国も対象外となっているのかもしれませんから、やや世界地図や地政学を銘打つにしては対象が狭い印象があります。ということで、著者の視線としては3つのポイントを据え、すなわち、第1に、先進国や中国が抜けているにもかかわらず、地政学の観点からのアプローチを取ろうと試みています。この点は、私は専門外ながらハッキリいって、失敗しているよな気がします。これは取り上げている国に偏りがあるからで、先進国や中国に加えて、アジアでもASEAN創設時のオリジナル加盟国5か国がスッポリと抜け落ちています。第2に、日本とのかかわりの中で途上国をとらえようと試みています。この点はまあいいんではないでしょうか。ただ、JICAの前身が海外移住事業団でしたから、ブラジルなどはしょうがないんでしょうが、やや現地移住者からの情報に偏りがあるような気がしないでもありません。かなりさかのぼって、歴史的に我が国との関係を把握しているのは心強い限りです。最後に第3に、著者のJICA理事長職としての機能的あるいは権能的な部分だけでなく、研究者や国連大使経験者としての幅広い観点からの人脈が生かされているように見えます。この点はさすがであると受け止めています。JICA理事長には、かつての緒方貞子女史のような個性豊かな国際派が就任したりしていましたが、政治学の研究経験者もいいんではないか、と思わせるものがありました。でも、開発経済学の専門家もJICA研だけでなく、JICA本体のトップにもいかがでしょうか?

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次に、横山秀夫『ノースライト』(新潮社) です。著者は、ファンも多いベテランのミステリ作家です。最近では、映画化もされた『64』の原作を私は読んだ記憶があります。本書は、建築家、というか一級建築士の青瀬稔という人物を主人公に、その建築士が設計して、「平成すまい200選」にも選ばれた家の施主が一家ごと集団で失踪した事件を、その建築士が自ら謎を解明すべく事実の確認に当たる、というものです。そこに、主人公の家族、子供のころも父母と少し前までの妻と子供、離婚してから思春期に差しかかった娘、そして、勤務する小規模な建築事務所の直面する危機などを織り交ぜながら、かなり時間軸として長い物語が展開します。なぞ解きのミステリとしてはともかく、家族や人生を長期に展開する大作といえます。ということで、主人公の青瀬の子供時代は、父親がダム建設に関する熟練工でありことから、経済的には恵まれた状態にありながら、高度成長期の日本各地を転々とする生活を送ります。大学は中退したものの一級建築士の資格を取得し、バブル経済期には豪勢な生活を送って結婚もし子供もできる一方で、バブル崩壊後は転落の人生の危機を迎え、結局、大学の同級生が所長をする建築事務所に勤務するものの、結婚生活は破綻し子供とは月に1度しか会えません。そして、青瀬の代表作となり「平成すまい200選」にも掲載されたY邸の施主と連絡が取れなくなり、信濃追分のY邸まで青瀬が出向いたところ、Y邸には施主一家が引っ越した後がなく、タウトの椅子が置いてあるだけでした。他方で、青瀬の勤務する建築事務所は著名芸術家の記念ミュージアム建設のコンペに参加する権利を獲得したものの、市政との癒着を全国紙で指摘され、コンペは辞退し建築事務所の所長は入院した病院から転落死してしまいます。最後が、かなり一気に終わる、というか、途中までタマネギの皮をむくようにジワジワと真実に迫った青瀬なんですが、なぞ解き部分が建築事務所の所長の葬儀あたりから一気に進んで、割合とあっけなく謎が解明されます。そうでなくても、かなりのボリュームを要した大作ですから、これ以上長くするのにはムリがあったのかもしれませんが、ここまで余剰を残した終わり方なのであれば、もう少しなぞ解きの部分もゆっくりと進めるわけにはいかなかったのか、と、やや残念に思わないでもありませんが、途中まで見事に読者をミスリードしながら、実に見事、というか、やや不自然ながらも予期せぬ終わり方には、それなりの感慨もなくはありません。なお、タイトルは北からの採光を意識した住まいのつくりのことで、北半球では柔らかな採光になるような気がしますが、何度かこのブログでお示ししたように、私の在チリ大使館勤務のころの経験として、ごく当然ではあるんですが、南半球では太陽は北を回りますから、北向きのベランダの採光がすぐれています。どうでもいいことながら、ご参考まで。

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最後に、朝倉かすみ『平場の月』(光文社) です。何となく、舞台が東武東上線沿線っぽくって、朝霞、新座、志木といったあたりの地域性が出ているような小説です。基本は長編小説ですが、各章を短編に見立てて読めば立派な連作の短編集といえるかもしれません。読み方次第だという気もします。作者は北海道出身の小説家であり、私は不勉強にして、この作品を初めて読みました。この作品で山本周五郎賞を受賞するとともに、直木賞候補に上げられています。私はこの作品は大衆小説とかエンタメ小説ではなく、純文学であると受け止めています。まあ、私の解釈からすれば、落ちはない、ということです。そして、ラブストーリーです。50歳に手が届く中学校の同級生だった中年男女のラブストーリーです。ということで、舞台は埼玉の中でも東京に近い地域であり、登場人物は主人公の男性、青砥のほか、中学の同級生が多く登場します。特に、青砥が中学のころに告白したこともある須藤が青砥とペアをなします。青砥は検査を受けた腫瘍が良性であった一方で、須藤の腫瘍の方はがんと宣告されたりもします。そして、第6章、あるいは、第6話から須藤はストーマ、すなわち、人工肛門を付けることになります。抗ガン剤治療で髪も抜けます。そして、最後には須藤は死にます。50歳でがんなんですから、常識的に死ぬんだろうと思います。そういう意味では、ラブストーリーの中でも悲恋の物語なのかもしれません。第2章のタイトルにもなっていますが、「ちょうどよくしあわせ」というのがひとつのキーワード、というか、本書のテーマになっています。でも、ラブストーリとしては物足りません。50歳だから、というのでもないのでしょうが、燃え上がるものがない一方で、生活感が充満しています。ただ、それを評価する読者も少なくなさそうな気がします。私は、まあ、もういいかな、というカンジです。ワクワクする読書ではありませんでした。ただ、何度も逆接でつなぎますが、それがいいという読者もいそうな気がします。

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