2020年2月15日 (土)

今週の読書は忙しい中でやや毛色の変わった経済経営書から小説まで計7冊!!!

1年近く前に一線のキャリア公務員を定年退職したにもかかわらず、ここ数年来でトップクラスの多忙さを極めています。というのも、4月から雇ってもらう私学から人事関係の手続き書類の提出を求められるとともに、授業のシラバスについては経済学部から1月の入力を求められていたにもかかわらず、私のミスにより今週から来週にかけて、もう一度アップせねばなりません。そろそろ、不動産の売買も佳境に入りつつあり、他方で、その昔の私の研究成果を大学院で研究したいという知り合いからの要請にも応え、結局のところ、現在のパートお勤めのお仕事が手につかずに人任せになっているのが現状です。といいつつ、実は以下のように今週も7冊ほど読書が進んでいたりします。でも、レビューはごくごく短めに済ませておきたいと思います。

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まず、中山淳雄『オタク経済圏創世記』(日経BP社) です。著者はコンサルタント会社の役員のようです。経済よりは経営という観点かもしれません。ということで、オタク文化・経済ということながら、冒頭で、2019年4月に我が国プロレスが米国ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンの会場を満員にした、という事実から始まっています。でも、プロレスは米州大陸、米国やメキシコから日本に輸入された文化ではないのか、という疑問が芽生えました。でも、その後は基本的にアニメ、というか、マンガ・アニメ・ゲームの三位一体で売り込むオタク経済のお話です。ドラゴンボールやポケモンが典型でしょう。ただ、アニメだけながら、ジブリのように日本独自の文化や経済を形成している場合もあります。なかなかにまじめに読ませます。

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次に、パラグ・カンナ『アジアの世紀』上下(原書房) です。著者は、インド出身の国際政治や外交などの研究者です。ということで、アジアの世紀なんて、もう言い古されたフレーズだと思っていたんですが、今までは多くは中国の経済的な体等に触発されて、世界の経済的な重心が欧米からアジアや太平洋に移行してきている事実を指摘するにとどまっていましたが、本書では、少なくとも中国だけでない多様なアジアについて、しかも、経済中心ながら経済にとどまらずに幅広いトピックを取り上げています。ですから、経済的な生産力、特に、中国を中心とする製造業の生産力や資源、あるいは、人的なマンパワーだけでなく、宗教や文化、さらに、様々な終刊に至るまで膨大なファクトを積み重ねています。

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次に、大村大次郎『信長の経済戦略』(秀和システム) です。著者は表紙画像にある通り、元国税調査官ということのようです。決してマルクス主義的な経済学が背景にあるとも思えませんが、織田信長の経済的な基礎を考察し、信長が天下統一に向かったのは、交易による財政的な基盤が強く、兵農分離を果たして常備軍を整備したためである、と結論しています。史料の分析にははなはだ不安あるものの、その後の楽市楽座政策とか、経済的な基盤が兄弟であった比叡山をはじめとする宗門との対立を考えに入れれば、納得できる仮説のような気もします。ただ、そこから飛躍して、信長以外の戦国武将に天下統一の意志がなかったので、一国経営に専念したため信長が抜きん出て天下統一を果たした、という観念論に陥っているのは理解できません。

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次に、林香里[編]『足をどかしてくれませんか。』(亜紀書房) です。先週の読書感想文でも男女のジェンダー問題を取り上げた読書を紹介しましたが、とても小規模なものながら、ダイバーシティやフェミニズムはややマイブームになっている感があります。ただ、私自身はいわゆる「ハマる」ということのない人間だと自覚はしています。本書はジェンダーの問題を、かなり狭い範囲で、メディアに関係する女性からの発信の問題として取りまとめられています。メディア業界以外にも、もちろん、大いに発展させることのできるトピックなんですが、ここまでメディア業界に特化しては、TBSの女性記者が誹謗中傷されたように「売名行為」という非難も巻き起こしかねない危惧はあります。何といっても、女子アナは極めて限られた人々であって、私のような世間の一般ピープルはサラリーマンやOLが多いのではないでしょうか?

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最後に、ダヴィド・ラーゲルクランツ『ミレニアム6 死すべき女』上下(早川書房) です。スティーグ・ラーソンからダヴィド・ラーゲルクランツが書き継いで、とうとう全6部のシリーズが完結です。リスベットとミカエルの2人が、もちろん、最終的に勝利しますが、本書では、とうとうスウェーデンの大臣が主要登場人物の1人となり、エベレスト登頂や二重スパイなど、かなり複雑なストーリー展開になっています。どうしても、欧米系の人名に馴染みがなく、人的な相関図が頭に入り切らずに、やや散漫な読書になってしまいましたが、そのうちに、時間を作って一気に全6巻を読むような読書が必要なんだろうと気づかされました。でも、さすがに最後は圧巻でした。

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2020年2月 9日 (日)

先週の読書は話題の歴史書『スクエア・アンド・タワー』をはじめ計8冊!!!

先週は、図書館の予約本の巡りもあって、ついつい読み過ぎたようです。興味深い経済書や歴史書から、やや疑問符が大きい小説まで、以下の通りの計8冊です。

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まず、エリック A. ポズナー & E. グレン・ワイル『ラディカル・マーケット』(東洋経済) です。著者は、法学の研究者ながら経済学の学術書も少なくないポズナー教授とワイル氏はマイクロソフトの主席研究員です。英語の原題は Radical Market であり、2018年の出版です。副題に「脱・私有財産の世紀」とあるように、財貨の私有と契約自由を基礎とする現在の資本主義的な生産様式に変更を加えようとする試論を展開しています。もちろん、議論はかなり雑であり、右派的な市場原理主義やネオリベ論者からすれば突っ込みどころがいっぱいあるんでしょうが、かなり先進的な議論を提供していることも事実です。副題は第1章のみを対象としているように私には見えますが、第1章では私有財産、第2章では民主主義、第3章では移民、第4章では株式会社制度、第5章ではデータ、のそれぞれについて論じています。ある意味で、もっともアディカルな私有財産への制限については、共同所有自己申告税(common ownership self-assessed tax=COST)の導入を提案しています。すなわち、私有財産は本質的に独占的なものであることから、私有財産については一定の制限を加える、というか、共同所有に移行する都市、具体的には、財産を自己申告で評価し、その自己申告評価に基づいて課税しつつ、もしも、その評価額を支払う意志ある者に対しては譲渡する義務を課す、というものです。課税額を低く抑えようとして財産を低く評価すると、その評価額を支払う意志ある人に強制的に売却しなければなりませんから、それなりに高く評価する必要がありますが、たほうで、高く評価すれば納税額も高くなる、という仕組みです。また、現行の投票制度では、多数者が大きな影響力を持ち、少数者の利益は守られないおそれがある一方で、イシューによって関心の強さは人それぞれでまちまちだが、その関心の強さを票に反映することは不可能になっているため、その投票権を関心の高い分野に集中して使えるようにする投票西土、ただし、平方根で減衰する投票権として2次の投票(Quadratic Vote=QV)を導入して、関心薄い分野の投票行動を回避して投票権を貯めておき、関心高い分野でその貯めておいた投票権を一気に使う、ただし、貯めておいた投票権はリニアで使えるのではなく平方根で減衰させる、という投票制度の導入を現行民主主義の修正として提案しています。これは、副題ではなく主タイトルの「ラディカル」を民主主義に当てはめたといえます。そして、第3章以下では、移民や移住者へのVISAの割当、機関投資家による株式会社のガバナンスの独占、巨大なプラットフォーム企業による個人情報の収集といったテーマを各章で取り上げています。そして、それらの解決策、というか、著者たちの提案の基礎となっているのがオークション理論です。おそらく、巻末の日本語版解説を寄せている安田准教授は、このオークション理論の観点から選ばれたんではないか、と私は想像するんですが、解説者ご本人の意向か、あるいは、依頼した編集者がすっかり忘れたのか、オークション理論についてはまったく取り上げられていません。最後に、繰り返しになりますが、反対の立場を取るエコノミストから見れば、穴だらけの議論だろうとは思うものの、私のような左派で格差是正も重視すべきと考えるエコノミストからすれば、議論の取っかかりとしては、まずまず評価できる内容を含んでいると考えています。

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次に、伊藤真利子『郵政民営化の政治経済学』(名古屋大学出版会) です。著者は、平成国際大学の研究者であり、ご専門は歴史ないし経済史のように私は受け止めました。出版社からしても、かなりの程度に学術書の色彩が強いとの覚悟の上に読み進むべきです。本書は著者の博士論文をリライトしたようですが、タイトルはやや誇大な表現となっており、本書がフォーカスするのは郵政民営化の中でも、郵便貯金に的を絞っています。ということで、戦後の郵便貯金の歴史を解き起こすところから始まって、田中角栄元総理という極めて特異な政治家の庇護により拡大した後、記憶に新しい小泉政権で民営化の大きな節目を迎えた、という歴史を跡付けています。何よりも特徴的な郵便貯金の歴史として、本書の著者は「銀行の支店展開が行政指導により制限を受ける中で、郵便事業の展開とともに貯金も扱う郵便局が銀行支店を上回るペースで拡大し、しかも、金利が自由化される前の段階で金利先高観とともに郵便貯金に資金が流れ込む仕組みを「郵貯増強メカニズム」と名付け、郵貯に集めた資金をもって当時の大蔵省の資金運用部資金を通じて公庫公団の財政投融資制度などから先進国に遅れを取っていた社会インフラの整備へ充当され、国土開発や国民生活の環境整備などをサポートした歴史が明らかにされる前段を受けて、後段では、当然ながら小泉政権における郵政民営化がメインになりますが、その前の橋本政権下での行財政改革のパーツとしての郵政公社化や資金運用部への預託義務の廃止から始まって、2005年の郵政解散がピークとなります。その意味で、タイトルからすれば、やや前段が長すぎる気もしますが、第6章が本書の読ませどころと考えるべきです。もちろん、そのバックグラウンドとして、政府財政が均衡主義を放棄し国債市場がそれなりの厚みをもって形成されたことも忘れるべきではありません。最後に、私が国家公務員として政府に奉職していたこととは必ずしも関係なく、本書の著者は優勢に対する田中角栄元総理の並々ならぬ貢献については、とてもよく目が行き届いている気がするんですが、国政選挙などにおける郵便局ネットワークの果たした役割については、少し目配りが足りておらず、さらに、小泉政権の「古い自民党をぶっ壊す」というスローガンについては、「古い自民党」=旧田中派という事実に関しては、まったく見落としているように見受けられます。学術的な分析の対象にはなりにくい気もしますが、郵政民営化が自民党内の旧田中派への強力な弱体化攻勢であった点は、どこかで何らかの視点からか取り上げて欲しかったと思わないでもありません。ただ、学術書としては難しい面があるのも、判らないでもありません。

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次に、松岡真宏『時間資本主義の時代』(日本経済新聞出版社) です。著者は、野村総研ご出身で、今は共同代表を務めるコンサルタント会社を立ち上げた経営者です。本書では、時間の使い方を切り口に、時間の希少性をいかに使うかを問うています。といえば、聞こえはいいのかもしれませんが、私には何を訴えたいのかがイマイチ理解できませんでした。本書冒頭で、すきま時間を効率的に活用しよう=スマホを電車でいじろう、という内容と早合点したんですが、そうではなく、すきま時間の効率化を手段として、効率化により節約された時間をかたまり時間としてうまく活用しよう、という主張だと理解して読み進みましたが、これはこれでその通りのいい主張ではあるものの、途中から大きくよれてしまいます。時間を基礎にして本書第2章のタイトルである時間の経済学を展開すれば、著者も気づいているように、経済学的には労働価値説になります。ただ、これは供給サイド、というか、時間をひとつの生産要素と考える場合です。他方で、本書ではすっかりスコープの外に置かれていますが、時間をうまく消費するビジネスも展開されていますし、本書でも、著者が明示的には気づいていないうちに取り上げたりもしてます。例えば、本書では、時間の効率化と時間の快適化を2つの軸に据えていますが、前者の時間の効率化は機会費用の高い人が、その生産を高めるために生産以外の時間を節約しようとするものである一方で、後者の時間の快適化は多少コストをかけても快適な時間を過ごすわけですから、時間消費型のビジネスということも出来ます。そして、p.179 の時間とお金と人材のマトリクスが典型なんですが、やっぱり、機会費用が高い高収入層が何らかの時間節約も可能となるという意味で、時間とお金はおそらく賦存条件において正の相関にあるんではないか、と私は想像します。でも、そうなら、このようなマトリクスを分析する意味はありません。時間価値という言葉も、生産性に近い印象なんですが、著者は否定しています。で、結局のところ、時間価値とは稼ぐ力の機会費用、としか私には見えません。そうであれば、特に目新しさもなく、1日24時間、1年365日がすべての人に平等に行き渡っている以上、何らかの経済的な格差が生じるのは、主として、時間単価の違いに依存します。もちろん、私のように短時間で切り上げたいタイプと、長時間働く人との違いがあって、時間単価ではなく労働時間の差が格差を生み出すともいえますが、労働時間の差はせいぜい2~3倍までであり、それ以上の格差が観察される現状は時間単価の差でしかあり得ません。ですから、時間を節約するよりも、時間価値、というか、伝統的な経済学でいうところの時間単価を高める必要があるんですが、本書ではこういった価格で測った質的な時間単価ではなく、量的な時間の方に目が行っているようです。ただ、1点だけ、スマホの普及により公私混同が激しくなった、という分析には目から鱗が落ちた気がします。私自身については、職務専念義務ある国家公務員を定年退職するまでスマホは持ったことがなかったので、こういった公私混同は経験ありませんが、今はひょっとしたらそうなのかもしれません。

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次に、ニーアル・ファーガソン『スクエア・アンド・タワー』上下(東洋経済) です。著者は、英国出身で現在は米国のスタンフォード大学やハーヴァード大学の研究者であり、テレビなどでも人気の歴史家です。英語の原題は The Square and the Tower であり、2017年の出版です。どうでもいいことながら、いつものクセで、表紙画像を縦に並べてしまいましたが、デザイン的には横に並べた方がいいのかもしれません。ということで、最後の著者によるあとがきや訳者あとがきでは、英語の原題は「広場と塔」と訳されています。前者の広場は横に広がるネットワークの象徴であり、後者の塔は縦に構成される階層制組織の象徴とされているようです。階層制組織は、比喩的に日本語では「ピラミッド型」と呼ばれることがあるヒエラルキーであり、今でも、政府、特に、軍隊などで幅広く見られる組織原理である一方で、特に情報通信技術、ITCの発達によりフラットなネットワークの重要性も認識されていることはその通りです。特に、本書ではネットワークを人的なつながりで、また、階層制については組織原理として、それぞれ歴史を通じてどのように作用してきたかを概観しようと試みています。歴史的なスコープとしては、あくまでヒストリアンの著作ですので、中世末期、というか、いわゆるルネサンス期からネットワーク形成に際する活版印刷の果たした役割あたりから始まって、宗教改革、科学革命、産業革命、ロシア革命、ダヴォス会議、アメリカ同時多発テロからリーマン・ショックまで、幅広いトピックが取り上げられますし、人的ネットワークという観点では、本書の書き出しはイルミナティだったりします。もちろん、フリーメイソンについても詳述されています。私も大学時代は経済史を選考していたりしたんですが、通常、歴史家というのは階層制の組織の変遷を跡づける場合が多く、人的なネットワークについては軽視してきたような気がします。まあ、どうしても、歴史研究は階層制組織の最たるものである国家が残したドキュメントに多くを依存しますし、こういったドキュメントを作成するのは、ウェーバー的な広い意味での官僚制の得意とするところです。例えば、中国でいえば、漢や唐や、あるいは、モンゴルによる元、漢民族の明から満州族の清、といった王朝の変遷を追う歴史研究が多いわけです。他方で、劉備・関羽・張飛の3人が桃園の誓いにて義兄弟となる人的ネットワークについては、どちらかといえば、天下国家の歴史の大きな要素ながら、大衆的な小説や演劇の世界になってしまうわけです。ただ、これは私の勝手な例示であり、本書の著者によれば、近代的なネットワークは先述の通り活版印刷によりもたらされた、ということのようです。もちろん、階層とネットワークは明確に分類できるとも思えませんし、時に混ざり合ったりもするような気がしますが、歴史家の常として、著者は膨大な事実関係を提示し、それらを基に、著者自身で理論的な組み立てをするとともに、それなりの教養ある読者を想定したのか、かなり読者の読み方次第、という部分も少なくないような気がします。例えば、現代に近づくに従って、情報の重要性が高まってきていることが行間に織り込まれていて、しかも、その情報伝達の速度の重要性が高まっている点は、おそらく、現代人が強く感じているところでしょうが、それを肌で感じることが出来る人がより本書について深い理解が得られるような気がします。ただし、従来の階層制組織から解き明かす歴史に対して、ネットワークから解明を試みる歴史観というのは、いわゆるグローバル・ヒストリーですでに着手されており、本書が何も初めて、というわけでもなければ、本書が大きな画期的な歴史書、というわけでもない、ということは忘れるべきではありません。著者が著者だけに、本書を過大評価する向きもあるかもしれませんが、私は本書を高く評価しつつも過大評価は慎みたいと思います。

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次に、実重重実『生物に世界はどう見えるか』(新曜社) です。著者は、農林水産省の官僚出身で、局長を務めていますので、私なんぞよりもよっぽど出世しています。回文になっていて、何ともいえないお名前なんですが、実名なんでしょうか。よく判りません。ということで、「どう見えるか」となっていますが、実は、視覚に限定せずに、世界をどう認知しているか、に幅広く対応しています。例えば、第1章で取り上げるのはゾウリムシですし、第2章に至っては大腸菌、第3章でも植物ですから、これらの生物に世界がどう認識されるか、に着目しています。単細胞生物であるゾウリムシには視覚をつかさどる目はないですし、視覚情報を伝達する神経も処理する脳もないわけですから、モノが見えるわけではないと常識的には考えられますが、それでも、栄養になるものがあれば近づき、逆に、点滴のシオカメウズムシからは逃げようとするそうです。ミミズは簡単な2次元の内的地図が理解できるようですし、鳥類は人間的な意味での視力がいいのは高速で飛翔するので当然としても、哺乳類の中でも犬は視覚よりも嗅覚に依存した世界認識を持つというのも理解できる気がします。そして、私は本書の読書に事前には期待していなかった成果として、意識というものについて、あるいは、本書では用語としては用いられていないものの、心の働きについて、単細胞製粒や植物から始まって、ある意味で、情報処理能力としては人間を超える人工知能(AI)にどこまで本書の議論が適用できるか、も興味深いところです。何らかの事故の外にある世界を認識し、それを伝達して情報処理し、何をどうすれば「意識がある」といえるのか、本書の用語に即していえば、本能とか先天的に獲得済みの能力は「意識的」な行動を促すのか、あるいは、「無意識」の行動というべきなのか、興味あるところです。当然ながら、本能に従っていても、一般に「無意識的」な反応と表現されても、少なくとも外界からの情報に対して、三時からの個体の中で、あるいは、群れの集団で、何らかの処理を加えて、それを個体や群れの行動に活かすというのは、本書では「意識」と表現されそうな気がします。そうであれば、AIにも本書的な「意識」がある、といえそうな気がします。でも、別の「意識」の定義により、AIには「意識」がない、とする論説も多く見かけます。例えば、AIに意識を持たせようとする人工意識(AC)の研究も盛んですし、実際に、ACをビジネスとして展開するベンチャーもあります。少なくとも、私は本書に近い立場であり、事故から見た外界から何らかの情報を得て、それに対応した行動を取る能力をもって「意識」を定義すれば、本書でも言及されている記憶の長さにもよりますが、AIには「意識」がある、と見なさざるを得ません。

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次に、グレイソン・ペリー『男らしさの終焉』(フィルムアート社) です。著者は英国人であり、本書の本意に即していえば男性であり、やや古い男性の特徴あるものの、女装趣味=トランスヴェスタイトがあったりします。現代社会を風刺した、陶芸やタペストリー、彫刻、版画といったメディアの現代アート作品で知られるアーティストであり、テレビ司会者、作家でもあります。英語の原題は The Descente of Man であり、2016/17年の出版です。上の表紙画像は、p.026 に解説があり、英国におけるデフォルトマン、すなわち、白人・ミドルクラス・中年・ヘテロセクシュアル(異性愛であり、同性愛ではない)男性、ということです。ということで、私はすでに60歳に達して定年退職して、ほぼ、本書でいうところの男性ではなくなった気がしますが、いわゆる社会的な男性、別の表現をすれば、ジェンダーとしての男性の役割はまだ持っているかもしれません。ただ、例えば、朝の通勤時にものすごく速く歩いたりはしませんし、本書の著者の紹介にあるように、坂で他のサイクリストを全員追い越したい、なんぞとは決して思いません。性的な面とともに社会的に規範とされている男性性、本書でいうマスキュリニティというのは、背が高くて力も強く、やや乱暴なところがある、といったものかという気はしますが、私はラテンアメリカのマッチョの国で外交官をしていましたので、欧米諸国などにおける「レディ・ファースト」というのは、か弱き女性を保護せんとするマッチョな男性の男女差別の裏返しだと受け止めました。かといって、男尊女卑の我が国の亭主関白がいいとも思いません。男女の別をハッキリさせようとする試みは、私から見れば、男女交際に対して厳格たろうとする願望ではないか、という気がします。男女をいっしょにしておくと、いちゃついたりして、生産性が上がらない可能性が高い、ということなんではないかと勝手に想像しています。ただ、男性を男性たらしめていて、その呪縛から解き放つ最大の難敵はやっぱり男性なんだろうという本書の著者の分析には大いに同意します。逆から見て、男性が男性である最大の犠牲者も男性なんだろうと思います。少なくとも、本書で解き明かそうと試みている男性のひとつの特徴である「無謬性」については、これはお役所でもそうなんですから、何としても解放されたい気がします。他に、本書の著者は、男性の権利として認めてほしいものとして、傷ついていい権利、弱くなる権利、間違える権利、直感で動く権利、わからないと言える権利、気まぐれでいい権利、柔軟でいる権利、などを上げ、締めくくりとして、これらを恥ずかしがらない権利にも言及しています。権力や単なる力と訳されるパワー=powerを女性より多く有していて、それを基にした思考や行動の原理に従った存在として男性があるように私は受け止めていますが、そういった特性や特徴を descent するのに、本書が役立って欲しい気がします。特に、男女平等やフェミニズムを主張するのに、男女間で性差があるような気がするんですが、こういったやや風刺がきついながら男性性に関して考えようとする本が著名人から出版されるのは意義あるように受け止めています。もっとも、男子の草食化進む我が国はこの面で世界トップを走っているのかもしれません。ただ、ひとつだけ気がかりなのは、p.055 にもあるように、ジェンダーの平等はいわゆるウィン・ウィンではなく、ルーズ・ルーズになる可能性が高い、という点です。回避する方策はないものでしょうか?

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最後に、額賀澪『競歩王』(光文社) です。誠に不勉強ながら、私はこの作者は知りませんでしたし、この作者の作品も読んだことはありません。ということで、この小説はメタな構造になっています。すなわち、主人公は小説家です。もっとも、天才高校生作家としてデビューしながら、その後はパッとせずに大学生をしていて、本書の最後の方では、モラトリアムの延長を目指して大学院に進んだりしています。そして、競歩の陸上選手を主人公に据えた、というか、大きくフィーチャーした小説を書こうとしています。そして、大きなポイントは、本書最後の献辞にもあるように、2017年ロンドン世界陸上50km競歩 銅メダリストの小林快選手をモデルとしていて、大学陸上部で長距離走者としては諦め、競歩に転向することを余儀なくされた経験からの成長を綴る青春小説となっています。小林選手ご自身は早稲田大学の出身ですが、もちろん、小説では架空の陸上競技部が名門である大学とされています。今年の東京オリンピック・パラリンピックを大いに意識した作品で、何かのテレビか新聞でチラリと見た記憶があり、ついつい、その気になって図書館で借りましたが、出来の方は期待はずれでした。私は『横道世之介』を始めとする青春小説は大好きで、それなりによく読んでいるつもりなんですが、本書はあまりにも平板で盛り上がりに欠け、主人公の達成感もやや規模が小さい気がします。少なくとも、キャラが立っているのが、大学新聞部の女子記者だけで、主人公の元天才高校生作家、主人公が小説の題材にしようと取材している競歩選手、国内トップクラスのほかの競歩選手、主人公と時折行動をともにする出版社の編集者、主人公とライバルあるいは仲間である若手小説家、少なくともキャラとしては、ほぼほぼすべてに決め手を欠きます。ややライバルに遅れを取っている作家と競歩選手が、何といっても青春小説ですから、それぞれ、成長していく、というのがストーリーなんですが、余りにも平板です。特に、長距離から競歩に転向するのは、目の前の起こったことではないのでいいとしても、20kmから50kmに変更する際の心の動きや人間関係などが描けていません。ただ、歴史書のようにひたすら事実関係が記述されているだけです。リオデジャネイロ・オリンピックから東京オリンピック直前のほぼほぼ4年間を対象としていますので、ここの事実関係が希薄化されるのは仕方ないとしても、ラストでなくてもいいので、盛り上がる場面は欲しい気がします。もちろん、スポーツにおいては結果の重視されるケースが少なくないことは理解しますが、それだけが盛り上げどころではないでしょうし、結果を取り上げるだけであれば、ジャーナリストの報道と何ら変わりありません。フィクションの小説として、時間を置いて出版するのであれば、単に事実関係をいっぱい加える量的な付加価値だけでなく、もっと質的な付加価値も欲しかった気がします。

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2020年2月 1日 (土)

今週の読書は経済書や大学改革の本まで読んで計7冊!!!

いろいろあって、読書だけは進みました。以下の通り、7冊読みました。

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まず、岩田一政・日本経済研究センター[編]『2060デジタル資本主義』(日本経済新聞出版社) です。著者は日銀副総裁を務め、現在は日本経済研究センターの理事長です。本書では、その著者はもちろん、定年退職して60歳を過ぎた私ですらも生き長らえていないような40年後の2060年のデジタル経済について、いくつか、あり得るシナリオ、冒頭に停滞、改革、悪夢の3つのシナリオを置いて始まります。ということで、従来の経済学的な生産関数の変数となる労働や資本は、特に、資本は物的な生産設備を意味する場合が多かったんですが、本書でいうところのデジタル資本主義では無形資産が中心となるような、実例でいえば、GAFAのような企業が生み出す価値を中止とする資本主義経済を念頭に置いています。さらに、その無形資産とは、情報通信(ICT)技術とそれにより収集したデータをいかに活用できるかの能力にかかっているわけです。その点で、いくつかのシナリオでは、特に、日本企業のマネジメント上の能力的な限界により生産性を高めることに失敗する可能性にも言及しています。他方で、人口の少子高齢化は目先ではとてつもなく進み、社会保障の改革なども待ったなしの状況、ということになります。その情報通信などのデジタル技術と、とても牽強付会ながら少子高齢化による社会保障給付の抑制、さらにCO2排出までを両天秤、というか、考えられる大きな現代日本の諸課題を分析の対象にしていて、やや強引な議論の運びと感じないでもないですが、はたまた、その解決策のひとつが雇用の流動化、といった、なかなかに多面的、というか、わずか200ページ少々のコンパクトなボリュームで思い切り詰め込んだ内容、それなりに強引あるいは無謀な議論を展開しているような気もします。ただ、コンパクトですので、あまり多くを期待せずに、手軽に短時間で方向性を把握するには適当な気もしますし、本書を足がかりにして、さらに詳細な情報を求めるきっかけにもなりそうにも思います。なお、雇用流動化については、あくまで雇用を守ろうとする労働組合的な左派と雇用者全員を非正規にしたいが如きネオリベな右派の議論の中間を行こうとするかのように、10年くらいの中期的に保障された雇用、という、何とも中途半端なプランを提示しています。どこまで本気なのか、アドバルーンを上げただけなのか、もう少し詰めた議論を待ちたいと思います。

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次に、若奈さとみ『巨大銀行のカルテ』(ディスカヴァー・トゥエンティワン) です。著者は、興銀を降り出しに、いくつかの金融機関や格付け機関での勤務経験があり、研究者というよりも金融業界の実務者なんだろうと思います。リーマンショックが2008年9月にあって、その後の約10年を振り返っているわけですが、特に目新しさがあるわけではありません。交換言い尽くされた金融機関、というか投資銀行を含めた外資の銀行に関する会社情報、というあ、まあ、『四季報』を詳しくしたもののように考えておけばいいような気がします。繰り返しになりますが、特段の目新しい情報もなければ、鋭い分析があるわけでもありません。各種の情報をコンパクトにコンパイルしたという入門書という受け止めです。大陸欧州から始まって、第1章でドイツのドイツ銀行、第2章でフランスのBNPパリバ、第3章では極めて浅く広くリーマンショックが米銀に与えた影響を概観した後、第4章で米国の4大金融機関であるJPモルガン・チェース、バンク・オブ・アメリカ、シティグループ、ウェルズ・ファーゴに着目し、第5章でゴールドマン・サックスとモルガン・スタンレーを取り上げています。最終章はコンクルージョンです。各金融機関の財務に関する簡単な紹介や創業者から最近の経営トップまでの経営陣の流れ、さらに、金融業界における評価や社風などなど、なかなかのリサーチ結果だという気はします。特に、ライバル関係にある競合同業者との対比はそこそこ面白く描き出されており、時々のマーケットの状況や各社のポジショニングなども調べ上げています。事実関係を事実として情報収集した結果であり、力技でマンパワーを投じれば出来る仕事のような気もしますが、そういった情報収集をしっかりマネージすることもお上手なんだろうとは思います。ただ、そのリサーチ結果を積み上げた上で示されても、「だから何なの?」という気はします。特に、私ががっかりしたのは第3章で、リーマンショックの影響、欧米銀行に及ぼした影響を事実関係を積み上げて分析しようと試みているんですが、ハッキリいって、失敗しています。モノになっていない気がします。広い四角い部屋の真ん中あたりを丸く掃くようなお掃除の結果で、取りこぼした内容が多すぎます。著者の力量からしてやや手に余る課題を取り上げてしまった気がします。でも、それがなければ、まったくモノにならないという事実を認識していることは立派だと思います。著者がそうなのか、編集者がそうなのかは私には判りません。

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次に、岡本哲史・小池洋一[編著]『経済学のパラレルワールド』(新評論) です。編著者をはじめ、各チャプターの執筆者は経済学の研究者です。タイトルからは判りにくいところですが、副題の方の「異端派総合アプローチ」が判りやすいと思います。というのは、本書では、主流派経済学に対抗して、「異端派」の経済学を各チャプターで取り上げているからです。ただ、その昔に、サムエルソン教授なんかが新古典派総合を提唱したのには、それなりに理由があるような気がするものの、非主流派ないし異端派を「総合」することはムリがあるような気がします。ということで、もちろん、いの一番の第1章はマルクス経済学です。どうでもいいことながら、私自身は「主義」を付けて、マルクス主義経済学と書くことが多いんですが、もちろん、同じです。マルクスの『資本論』を基にして発展してきた経済学です。ただ、本書では主流派経済学がスミス以来の古典派ないし新古典派のマイクロな経済学とされていて、その意味から、ケインズ経済学やシュンペタリアンもやや異端に近い位置づけがなされていたりします。本書冒頭 p.3 で経済学史とともに図で展開されているところですが、ちょっと注意が必要かもしれません。というのも、私の長い官庁エコノミストの経験からして、マクロなケインズ経済学やマネタリスト経済学は、多くの場合、十分、主流派経済学の範囲に入る、と考えられるからです。加えて、出版社のサイトなんかでは、「社会人・学生・初学者に向けて平易に説く最良の手引き」なんてうたい文句があったりするのですが、それ相応に内容は難しいと考えるべきです。冒頭のマルクス経済学では、置塩の定理、すなわち、企業が正の利潤を上げているならば、搾取が存在する、という基本定理をかなり正確に解説しているんですが、私も経済学部の学生時代に一応、理解したつもりになっていましたが、現在でははなはだ怪しい理解しか持っていないと告白せざるを得ません。しかし、マルクス経済学をはじめとして、本書でスポットが当てられている非主流派、というか、異端の経済学も、主流派経済学の暴走を食い止める、あるいは、特にマルクス経済学は資本制経済の暴走やその先の崩壊を阻止する、という重要な役割があり、例えば、ネオリベ的な格差拡大に対する抑止能力が問われている、という本書の立場はその通りだと思いつつ、それでも、主流派経済学に対する抑止力だけでなく、現実の経済政策への働きかけももっと欲しい気がするのは、私だけなのでしょうか。

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次に、ケント E. カルダー『スーパー大陸』(潮出版社) です。著者は、長らく米国プリンストン大学で研究者をした後、現在では、米国ジョンズ・ホプキンス大学の研究者であり、国際政治学分野でのビッグネームをといえます。英語の原題も Super Continent であり、2019年の出版です。上の表紙画像にも見えるように、スーパー大陸とはユーラシア大陸のことであり、日本の読者からすれば「当然」という受け止めがあるかもしれませんが、著者は本書の中で少し前までのスーパー大陸は米州大陸だったと考えているような示唆をしていたりします。そして、その議論を地政学ではなく、地経学的な観点から進めています。そのバックグラウンドは、もちろん、中国の経済的な巨大化にあります。ですから、圧倒的な人口と石油を始めとする巨大な天然資源の潜在的な賦存からして、ユーラシア大陸をスーパー大陸と考える意味は大いにあるわけです。その上で、著者の地経学的な観点から連結や統合といったキーワードを駆使して議論が進みます。いくつかの要素を本書でも取り上げており、途上国感のいわゆる南南貿易、中国の主導する一帯一路構想による経済的な結びつきの強化、エネルギー開発を通じた中国・ロシアの蜜月関係、などなどです。他方で、かつてのスーパー大陸だった米州謡力では、特に、米国のトランプ大統領による米国第一主義、というか、伝統的なかつてのモンロー主義的な孤立主義により、世界的なプレゼンスが低下しているのも事実であり、それが、逆にユーラシア大陸の「スーパー性」を高めているわけです。中国に加えて、インドの発展もユーラシアのど真ん中である国としてプレゼンスを高めており、決して無視できる存在ではありません。むしろ、ロシアの方の比重が石油価格の低迷ととともに下がっているような気がします。通常、派遣外交する場合には、いわゆるツキディディスの罠といわれて、大規模な戦争が生じる可能性もあったりするんですが、米国から中国への派遣の移行、あるいは、スーパー大陸が米州大陸ではなくユーラシア大陸となる際に置いては、ひょっとしたら、大規模な武力行使なしに終わる可能性もあると、私なんぞは楽観的に予想しており、従来とは様変わりのスーパー大陸の移行が生じる可能性もあるんではないかという気がします。ですから、本書では共同覇権はありえない、としていますが、ひょっとしたら、米中のG2の共同覇権も従来にない形でありえるような気もします。いずれにせよ、日本国内にいては把握できないような国際情勢の変化をより大きなスケールで感じ取ることが出来る読書でした。

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次に、吉田右子・小泉公乃・坂田ヘントネン亜希『フィンランド公共図書館』(新評論) です。著者は、図書館学の研究者ないし本書のタイトル通りにフィンランドの図書館勤務者となっています。全編、ほぼほぼフィンランドの公共図書館の事実関係などの紹介にとどまっており、私は図書館学というのはどういう学問分野なのか、よく知りませんが、図書館運営に関する学術的な分析とは見えません。学術的というよりも、謝名リスト的に事実関係を幅広く情報提供している、というカンジです。私も地球の裏側のチリという小国に経済アタッシェとして3年間駐在し、日本国内にチリの経済情報がほとんど注目されたりしていない中で、経済統計をそのままローデータとして外務省本省におくるだけで、それだけで十分な役割を果たすことが出来た時代があり、フィンランドの公共図書館についても、ある意味で、日本国内ではそういった位置づけなのか、と思わずにはいられませんでした。従って、おそらく、実際の国内図書館運営には何の示唆にもならないような気がしてなりません。単に、「うらやましい」で終わりそうな気すらします。どこかの低所得国に国民に対して、我が国の国民生活や経済社会を伝えるようなものです。電気や水道が行き渡り、舗装された道路を自動車が走り、ビジネスマンはパソコンを相手にデスクワークにつき、高校生はスマホでゲームする、という事実を、片道数キロを水汲みに行く子供がめずらしくないどこかの低所得国の国民に伝える、それが経済学の役割だとは私は思いません。開発経済学ばかりがすべてではありませんが、低開発国経済の経済発展に寄与するような経済学が求められるわけです。その意味で、本書については、完全に踏み込み不足であり、我が国の図書館、特に私が利用している東京都内の公共図書館は、かなりの程度に民間企業に運営委託し、その結果として、おそらくご予算削減には役立ったのでしょうが、専門性低く意識はもっと低い図書館員の割合が増え、従って、図書の管理も利用者の利便性も落ちている可能性が高い、という現状をどのように打破するかを、フィンランド公共図書館をお手本にしつつ、幅広く議論して欲しい気がします。例えば、本書でも、フィンランドのいくつかの図書館では、フローティング・コレクションがなされているとの記述がありますが、日本でフローティング・コレクションが採用されていないのはなぜなのか、あるいは、日本でフローティング・コレクションを行えば、どのようなメリットやデメリットが図書館サイドと利用者サイドにあるのか、などなど、ご予算増額を別にしても、議論すべきトピックは尽きないように思う私なんぞにとってはやや残念な読書でした。

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次に、ジル・ルポール『ワンダーウーマンの秘密の歴史』(青土社) です。著者は、ハーヴァード大学の歴史学研究者であり、専門はアメリカ合衆国史で、雑誌『ニューヨーカー』のスタッフライターも務めています。本書の英語の原題は The Secret History of Wonder Woman であり、ハードカバーが2014年、ペーパーバックが2015年の出版で、邦訳書は2015年のペーパーバックを底本としています。ということで、著者は、ワンダーウーマンをフェミニズム運動の観点から説き起こそうと試みて、主として原作者である心理学研究者のパーソナル・ヒストリーから解明を試みています。すなわち、現在の21世紀では単なるフェミニズムではなく、移民を主たる論点としつつ、性別だけでなくエスニックな多様性が議論されていますが、20世紀には男女の性差別の観点から20世紀初頭のファーストウェーブのフェミニズムと1970年代のセカンドウェーブのフェミニズムがあり、前者は女性参政権運動やそのやや過激な形のサフラジェットなどがあった一方で、校舎は米国におけるベトナム反戦運動の盛り上がりとも呼応しつつ進められたわけですが、その間のミッシング・リンクを埋めるアイコンとしてワンダーウーマンがどこまで重要化、といった観点です。出版社の宣伝文句には、第2時大戦期にワンダーウーマンが枢軸国のアチスドイツや日本をやっつける、なんて謳い文句もあったようですが、アッサリと、そのあたりは無視してよさそうです。さらに、戦後の黄金期ないし我が国で言えば高度成長期になりますが、この時期は同時に米ソの冷戦期でもあり、戦後期のアカデミズムないしハイカルチャーとポップカルチャーないし、我が国でいうところのサブカルチャーとの間の架け橋として、ワンダーウーマンがどこまで位置づけられるのか、も考察の対象となっています。それを、原作者であり、嘘発見器の開発者でもある心理学研究者のマーストン教授とその家族の歴史もあわせてひも解こうと試みています。ファーストウェーブのフェミニズム期における産児制限の展開もあわせて、それなりに貴重な歴史的考察なんですが、本書でも取り上げられているように、DCコミックの中で、少なくとも我が国においてはスーパーマンやスパイダーマンほどの人気がワンダーウーマンにあるとも思えず、どこまでフェミニズムとあわせて興味を引きこすことが出来るかは、私はやや疑問に感じています。ただ、極めて大量の史料と資料に当たって、さらに、関係者へのインタビューも含め、貴重な歴史的事実を引き出している点は、極めてニッチな米国現代史のトピックながら、さすがに学識を感じないでいられません。

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最後に、佐藤郁哉『大学改革の迷走』(ちくま新書) です。著者は、一橋大学などを経て、現在は同志社大学の研究者です。タイトルはとても正確で、今年に入って、1月4日付けで広田照幸『大学論を組み替える』を取り上げ、4月から教員として大学に復帰するに際しての準備の読書を進めているところだったりするんですが、本書もその一環だったりします。ただ、前の『大学論を組み替える』より数段落ちる内容です。単に、現在の大学改革の進行を批判するだけで終わっています。そもそもの大学改革の必要性が論じられた背景などに目が行くわけでもなく、現在の日本の大学に何らかの改革が必要かどうかに対しても、著者には十分な見識ないように見受けられますし、さらに踏み込んで、大学改革がどうあるべきかについても定見あるようには見えません。確かに、本書で議論されているように、文科省という役所の無謬主義がネックになって大学改革が迷走しているのは事実ですし、文科省の思惑とはズレを生じつつも一部の大学が予算獲得に走っているのも事実です。かつての国会論戦における万年野党のように、ひたすら反対を繰り返すだけで、積極的な対案も持たず、大学の現状に対しても、あるべき大学論や必要な大学改革も、何も論ずることなく、現在の大学改革の動きを批判するだけなら誰にでも出来ますし、本書の場合は、単に著者の「気に入らない」で済ませるような論調も気がかりです。日本の将来がどうあるべきか、あるいは、どうしたいか、の大きな議論から初めて、それに貢献する大学の教育と研究とはどういうものかを考えた上で、現状の大学を分析し、あるべき大学像を明らかにし、それに向けた改革の方向を探る、というのが大学論の目指すべき方向だと私は考えます。まるで民主党政権時のように、ひたすら、文科省と財務省などの役所を敵役にし、逆に、著者サイドの大学を免責にしている印象です。やや期待はずれ、というよりも、まったく的外れの議論を展開している新書でした。

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2020年1月25日 (土)

今週の読書はかなりたくさん読んで文庫本まで含めて計8冊!!!

今週は、データ経済におけるプライバシー保護や英国における階級分析の社会学をはじめとして、文庫本のシリーズ3巻まで含めると、以下の計8冊の読書でした。そろそろ、ペースを落とそうと思いつつ、なかなか巡り合わせがそうなりません。

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まず、日本経済新聞データエコノミー取材班[編]『データの世紀』(日本経済新聞出版社) です。データをいかにビジネスに生かして収益を上げるか、その際のプライバシーの扱いはどうなるのか、こういった疑問に関して、かなり否定的な見方を提供しています。日経新聞のジャーナリストのリポートらしくない気もします。本書の謳い文句なんですが、20世紀は石油の世紀であって、でも、産油国が我が世を謳歌したわけではなく、むしろ、石油をうまく利用した製品を生み出した先進各国の世紀だった一方で、21世紀のデータの世紀もデータを生み出した国が中心になるわけではなく、そのデータを上手く利用する国が国民に豊かな生活を提供するわけです。ということで、急遽設えられた雰囲気のある第0章のリクナビによる内定辞退率の提供問題から始まって、米国のGAFAが個人情報を収集・利用したビジネスで大きな収益を上げている事実を基に、経済学的な用語としてはまったく用いられていませんが、データ利用の外部性について、個人データを提供させられているサイドと、それを利用して実に効率的なビジネスを構築したサイドを対比させて、このままでいいのか、あるいは、個人情報や付随するデータをどのような利用に供するのが個人と情報企業の最適化につながるのか、考えさせられる部分が大きいです。それにしても、先週の読書感想文で取り上げた『デジタル・ミニマリスト』でも書いたんですが、FacebookやInstagramなどのSNSで嬉々としてアテンションと個人情報を提供している人達を見るにつけ、それはそれで幸福度が上がるのであればいいんではないか、ある意味で、データに関する前近代性をさらけ出しているような気がして、もはや意味のある個人データ保護がどこまで可能なのかに疑問すら生じます。例えば、リクナビ問題でも、就活学生サイドからすれば、個人情報を提供することなく採用に関する企業情報だけを得たいわけでしょうし、逆に、採用する企業サイドからすれば、企業サイドの採用に関する情報を開示することなく、就活学生の情報だけを得たいわけです。ただ、注意すべきは、情報企業だけでなく、自動車だって、電機だって、製品に関する情報は企業の方が消費者よりも圧倒的に持っているのは変わりありません。ですから、製造物責任のような制度を情報産業に対しても適用できるか、あるいは、外部経済の大きな産業に特有な独占の形成をいかに規制するか、その際、スティグラー的な「規制の虜」をいかに政府は克服するか、こういった問題を新たな産業でいかに国民本位に運営するかの問題と考えるべきです。すなわち、決して、本書のように、利便性と個人方法提供の間のトレードオフというわけではない、と私は考えています。

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次に、マイク・サヴィジ『7つの階級』(東洋経済) です。今日の日経新聞の書評欄で取り上げられていました。著者は、英国ロンドンスクール・オブ・エコノミクスの社会学の研究者です。明示的にクレジットとして上げられているこの著者の他にも、社会学や教育学の研究者が何人かで共著しています。ただ、エコノミストはいなかったように見受けられました。英語の原題は、上の表紙画像に見られるように、Social Class in the 21st Century であり、2015年の出版です。栄子くんBBCが2011年に調査した結果を2013年に取りまとめて公表し、それらを学術的な出版物として取りまとめた成果であると私は認識しています。結論からすれば、邦訳タイトルのように、英国には7つの階級が存在し、上流から順に、(1) エリート7%、(2) 確立した中級25%、(3) 技術系中流6%、(4) 新富裕労働者15%、(5) 伝統的労働者14%、(6) 新興サービス労働者19%、(7) プレカリアート15%、となっています。そして、超えらの階級における3つの資本の賦存、すなわち、第1に、フローの所得やストックの金融資産や不動産といった経済資本、第2に、オペラ鑑賞や美術館での美術鑑賞、ほかに読書などのハイカルなどの文化資本、第3に、学歴や人脈やクラブの所属などの社会関係資本、の3つの資本で階級を可視化しようと試みています。(1) エリートは3つすべての資本を多く持ち、(2) 確立した中流はエリートについで3つの資本を持ち、(3) 技術系中流は比較的裕福で社会関係資本がやや少なく、(4) 新富裕労働者は比較的裕福で文化資本が少なく、伝統的労働者は3つの資本すべてがやや少ないものの、バランスがよく、(6) 新興サービス労働者は年齢的に若いこともあって、経済資本が少ないながら、文化資本と社会関係資本は持っていて、(7) プレカリアートはすべての資本に恵まれない、ということになります。また、それぞれの個人の人生は登山に例えられて、山を登るように3つの資本を蓄積して、従って、階級を上昇させる、と考えられていますが、もちろん、同じ地点から登山を始めるわけではなく、前の世代から受け継ぐものに大きな違いがあり、登山を始めるベースキャンプの標高には大きな差があるのは当然です。マルクス主義的な階級観では、生産要素の所有もしくは雌雄が基礎にあり、その経済的な下部構造が上部構造の文化や意識を決定する、と大雑把に考えられています。土地を所有する貴族、資本を所有するブルジョワジー、自分の労働力以外の生産手段を保有しない労働者階級、ということになり、それぞれの下部構造が上部の文化や社会関係を規定します。本書の社会学的な分析では、経済資本は他の2つと並列のひとつの要素に過ぎません。この3つの資本を本書のように分けて理解するか、マルクス主義的な階級観のように、経済資本が他の2つの資本を規定すると考えるか、議論は決定していない気がします。少なくとも、マルクス主義のように経済資本から文化資本や社会関係資本への一方的な決定論も、本書のように3つの資本相互間のインタラクティブな関係を考慮の外に置いて各資本を独立に扱うのも、どちらも片手落ち、というか、やや深みに欠けるな気がします。

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次に、保阪正康『昭和史7つの裏側』(PHP研究所) です。著者は、編集者や在野の歴史研究家となっています。本書の「昭和史」というのはやや広すぎる表現なんですが、昭和20年くらいまでの戦争に関する歴史に焦点を絞っていると考えるべきです。その中で、タイトルにあるように、章立ての順に従って、(1)「機密戦争日誌」はいかに保存されたか、(2)「昭和天皇独白録」の正体、(3) 学徒出陣壮行会で宣誓した学生代表の戦場(江橋慎四郎へのインタビュー)、(4) 逆さまに押した判子と上司・東条英機(赤松貞雄へのインタビュー)、(5)「日本はすごい」と思っていなかった石原莞爾(高木清寿へのインタビュー)、(6) 本当のところが知られていない東条英機暗殺計画(牛嶋辰熊へのインタビュー)、(7) 陸軍省軍務局で見た開戦経緯(石井秋穂へのインタビュー)という構成になっています。なんだか、ほとんど第2章から第7章までのが取材対象者、というか、歴史の実体験者からの証言、的に構成されているんですが、私には疑問に思える部分も少なくありませんでした。当然ながら、いろんな歴史上のイベントが生じてから、まず、終戦という大きな不連続点を通過し、さらに、それなりの年月を経過した後のインタビューです。しかも、インタビューの対象が、東条英機の秘書だった赤松貞雄、あるいは、石原莞爾の秘書だった高木清寿など、傍で見ていた観察者ではなく、実際の当事者に近い存在ですから、どこまで脚色されているのかが判りかねます。その上、同じ帝国陸軍軍人ながら、開戦から本土決戦まで主戦派だった東条英機と、いわゆる「最終戦争」まで隠忍自重を主張した石原莞爾では、まったく方向性が異なるわけですし、陸軍関係者ばかりのインタビューで、海軍サイドの見方は欠けており、例えば、ホントに海軍が開戦に反対だったら太平洋戦争は始まらなかった、とか、中国で陸軍が華々しい戦績を上げているのを海軍は羨んでいた、などと主張されると、ますます信頼性が低下するような気がします。たしかに、組織的な隠滅工作が実施されて、戦争に関する史料が極端に少ないのは理解しますが、それをインタビューで埋めようとするのは、やや疑問です。主として、誘拐事件などで論じられるストックホルム症候群のような現象が取材者と取材先で生じるようなリスクも感じられます。細かな人間関係などのマイクロな開戦や終戦の理由ではなく、もっと歴史的な必然性を炙り出すような大きな流れを解明する歴史観が必要ではないでしょうか。もちろん、開戦や終戦のバックグラウンドとなる経済社会的な実情についても考えを巡らせるべきであろうと思います。

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次に、エドワード・スノーデン『スノーデン独白』(河出書房新社) です。6年前の2013年の衝撃的な情報漏洩事件の首謀者の自伝です。CIAとNSAという世界最強の米国諜報業界(IC=たぶん Intelligence Circle)を敵に回して、結局、ロシアから出られなくなった人物です。情報漏洩、あるいは、リークという意味では、いわゆる「パナマ文書」によるモサック・フォンセカからの流出と、本書のスノーデンからのリークが今世紀前半では「大事件」といえるんでしょうが、モサック・フォンセカが単なる民間の一会計事務所であるのに対して、スノーデン文書の方は米国諜報機関の赤裸々な活動実態を明らかにしているだけに、より興味をそそられる、というのも事実でしょう。スノーデン本人の生まれ育ちから、リークに至るまでとさらにリーク直後の事実関係を、おそらく、かなり正確に描写している気もします。ただ、スノーデン本人、すなわち、リークした側からすれば、「やった、やった」というカンジで過大に評価するバイアスがかかる一方で、CIAやNSAのようにリークされた側では「たいしたことではない、情報の価値は低い」などと過小評価するバイアスがかかるでしょうから、本書については、それなりに、眉に唾してハッタリをかまされないように気を付けながら読み進む必要があるかもしれません。私自身は昨年3月に定年退職するまで長らく国家公務員として政府に勤務しており、国家公務員でなければできない職業として、スパイと外交官と軍人がある、なんぞとうそぶいていた人間ですので、本書の情報リークに関しては、それなりにリークされた側にシンパシーを感じかねないバイアスがあるような気もします。例えば、007ジェームス・ボンドは、小説上の設定ながら、MI7に勤務する海軍将校であり、当然、国家公務員なんだろうと思います。ですから、私はスノーデン個人がどれだけの知性を持った人物か、加えて、どれだけの覚悟をもってリークしたのか、を読み取ろうとしましたが、なかなかに難しい課題だった気がします。リーク事件直後の直感的な受け止めで、スノーデンの知性は高くない、という印象は本書を読んでも否定されませんでした。ただ、覚悟については、それなりに理解が進んだ気がします。ルービック・キューブのシールにマイクロSDを隠して情報を持ち出すシーンや、リーク後の香港出発やロシアの空港でのやり取りなど、それなりにサスペンスフルな場面もありましたが、私にはそれほど印象的ではありませんでした。ただ、映画化されれば見に行くような気もします。

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次に、米澤穂信『Iの悲劇 』(文藝春秋) です。著者は、古典部シリーズなどで人気のミステリ作家です。この作品は、小市民シリーズのように、ある意味で、ユーモア・ミステリ、というか、ややブラックなユーモア・ミステリで、殺人などの深刻な犯罪行為は出て来ませんし、でも、かなり論理的で本格的な解決が示されるミステリ長編、ないし、連作短編集といえます。舞台と主たる登場人物は、市町村合併で巨大な市が形成された中で、とうとう、数年前に無人になった集落にIターンとして人を呼び戻すため、まだ使える家屋などを低廉な家賃で貸し出して、移住者を集めて定住化を促進しようとする市役所の支所で働く3人の公務員です。定時で帰宅してそれほど仕事熱心とも見えない課長と、やや社会人というには幼い新人女性にはさまれた男性が主人公に据えられています。別サイドには無人化した集落に移住を希望する人々が据えられ、でも結局、すべての移住希望者が去ってしまい、有名なミステリのタイトルよろしく「そして誰もいなくなった」で終わります。最初の方は、公務員3人のキャラがよく出ていて、それでも、仕事熱心と思えない課長の謎解き能力に驚かされたりもしますが、だんだんと読み進む上でタマネギの皮をむくように真実が明らかになっていきます。最終章に至るまでに、この作品の作者のファンであれば、ほぼほぼ全員が真相にたどり着くことと思います。また、各章で問題を起こしたり、あるいは、去っていく維持遺希望者も立派なキャラが立っていて、読み進んでも混乱をきたすことはありません。というか、私自身は、こういった限界集落のような田舎に移住したいとは思いませんから、この作品に登場するような移住希望者は、やっぱり、少し変わったところがあるんだろうと楽しく読めます。ただし、第5章だけは、ヤル気なし課長の守護神、火消し役としての面が明らかにされるほかは、後半は主人公と弟の間で延々と電話の会話がIターンの意味について考えさせられる、という意味で、この連作短編集の中で、それなりの重要性はあるものの、章として独立させる意味があるのかはやや疑問です。作者の力量からすれば、こういった課長の守護神=火消し役としての能力やIターンの意義に貸しては、個別にところどころに溶け込ませることも十分可能ではないかという気がします。まあ、こういった個別の章建てで論じてもらえば、私のような頭の回転の鈍い読者にも結論が見えてくる、という意味では意味あるかもしれませんが、やや冗長な章立てだっという気もしました。でも、この1点を別にすれば、とても秀逸なミステリだと思います。ここまで素晴らしいミステリは久々です。出来のいいミステリが多い作家であることはいうまでもありませんが、ひょっとしたら、本作が代表作といえるかもしれません。でも、やっぱり、クローズド・サークルの『インシテミル』かなという気もします。

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最後に、ハーラン・エリスン[編]『危険なヴィジョン 完全版』123(ハヤカワ文庫SF) です。編者は、米国のSF作家であり、よく「奇才」と称されたりしているんではないかと思います。本書では、SFをScience Fictionではなく、Speculative Fictionnと称していたりします。全3冊に渡る30編余りの短編で編まれており、アシモフやスタージョンをはじめ、キラ星のようなSF作家が作品を寄せています。第1巻巻末の解説にあるように、作家協会の会員が選ぶネビュラ賞やファン投票で決まるヒューゴー賞を受賞あるいは最終候補に残った作品もいくつか含まれています。全編書下ろしといううたい文句です。米国で原書が出版されたのは50年以上も前の1967年なんですが、さすがに、やや古いと感じさせる短編もある一方で、まだまだ輝きを失っていない作品も少なくありません。もちろん、米ソの冷戦の環境下で、また、そもそも海外SF小説ということで、ソ連の技術的な脅威を過大評価していたり、あるいは、やや残虐な場面が少なくないような気もします。短編作品ごとに付された編者の序文や著者のあとがきがウザい気もしますし、もちろん、短編ごとの統一感ないのは承知の上で読み始める必要があります。ただ、古さを感じさせる作品も含めて、ある意味で、いくつかある米国SF小説の黄金時代のうちのひとつの雰囲気を感じることが出来ると思います。読みようによっては、各巻1時間ほどで読み切ることも可能ですし、逆に、じっくりと時間をかけるだけの読み応えもあります。

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2020年1月18日 (土)

今週の読書は経済書をはじめとして文庫本まで含めて計7冊!!!

先週の読書は巡り合わせにより経済書がなかったりしたんですが、今週の読書は、明々白々たる経済書が2冊あり、経済活動にも十分配慮した進化心理学の専門書、モバイル機器を通じたアテンション経済に対する批判など、以下の計7冊の読書だったんですが、うち3冊は文庫本だったりします。この先、しばらく、読書のペースは落ちそうな気がします。

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まず、鶴光太郎・前田佐恵子・村田啓子『日本経済のマクロ分析』(日本経済新聞出版社) です。著者3人は、経済企画庁ないし内閣府において「経済白書」または「経済財政白書」の担当部局の課長補佐や参事官補佐を経験したエコノミストです。ただし、なぜか、というか、何というか、課長や参事官を経験したわけではないようです。いずれにせよ、私自身が従来から考えているように、本流の官庁エコノミストはこういった白書などのリポートを、政府全体や個別の役所の公式見解として取りまとめることを担当する人たちなんだろうと思います。私も、とある白書を1回だけ執筆担当したことがありますが、「経済白書」や「経済財政白書」といった役所を代表する白書ではありませんでしたし、それもたった1回のことです。他方、私の場合は長らく研究所に在籍して、「役所の公式見解ではなく、研究者個人の見解」という決まり文句をつけた学術論文を取りまとめることが多かったような気がします。まあ、私は傍流の官庁エコノミストなのだと改めて実感しました。ただ、どうでもいいことながら、最近知ったんですが、私が白書を担当したころとは違って、「経済財政白書」なんぞは執筆担当者の個人名が明記されるようになったりしています。少しびっくりしました。というおとで、本書は我が国のバブル経済が崩壊した1990年ころ以降から現在まで約30年間の日本経済を概観し、いくつかのパズルを設定して解き明かそうと試みています。第1章で成長の鈍化をほぼほぼすべて生産性と要素投入という供給サイドで説明しようと試みていて、私なんぞの傍流と違って、本流の官庁エコノミスト諸氏はやっぱり供給サイド重視で、見方によればかなり右派的な思考をするんだと感心してしまいます。ただ、3章の景気循環あたりから需要サイドにも目が向くようです。全体として、大きなテーマに対して索引まで含めても250ページ足らずのボリュームの本に仕上げようとしていますので、よく表現すれば、とてもコンパクトに日本経済を概観して諸問題を提起している、といえますし、他方で、やや辛口に表現すれば、もう少していねいに掘り下げた分析も欲しいところ、という気もします。これは私自身でもまったく実践できていないんですが、エコノミスト的に問題に対する診断を下すことは出来ても、コンサルタント的に問題に対処する実践的な処方箋を提示することは難しい、と常々感じます。その昔に、よくゴルフをプレーしていたころの判りやすい例として、エコノミスト的には「ボールをティーアップしてドライバーを振って、250ヤード先のフェアウェー中央に飛ばす」というのがアドバイスとしてどこまで適当なのかどうか、もっと実践的に、ヘッドアップしないとか、脇を締めるとか、そういったアドバイスが必要なのではないかと思わないでもありません。繰り返しになるものの、私自身も実践できていませんが、本書におけるパズルへの回答は、その意味で、エコノミスト的なようにも見えます。

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次に、井上智洋『MMT 現代貨幣理論とは何か』(講談社選書メチエ) です。著者は、駒澤大学の研究者です。従来から、AI導入経済におけるベーシックインカム、左派的な財政拡張論などで、私は注目しています。ということで、本書はコンパクトに現代貨幣理論(MMT)について取りまとめた入門書となっています。ただ、著者もまだ完全にMMT論者として、MMTのすべての理論に納得しているわけではないことは明記しています。貨幣の成り立ちについても、その昔の宋銭の導入などの商品貨幣の例を見ても、「万人が受け取る」という主流派経済学の考え方は捨てがたく、MMTの根源的な貨幣論への部分的な反論も持ち合わせています。私は貨幣論の方はともかく、いまだに、MMTの財政によるインフレのコントロールについては疑問を持っています。すなわち、本書では取り上げていませんが、財政政策は基本的に法定主義であって、認知ラグと波及ラグはともかく、決定ラグが金融政策よりもかなり長い可能性が高くなっている上に、本書でもやや批判的に紹介している雇用保障プログラム(Job Guarantee Program=JGP)の運用については、財政支出の柔軟性がどこまで確保されるかはもっとも疑問大きいところです。すなわち、デフレであれば財政赤字を増やして、インフレであれば財政赤字を削減するわけですが、そもそも、それほどの機動性を確保できるかが疑問な上に、どのような歳入や歳出が柔軟に増減できるかは未知数といわざるを得ません。現在の日本のようにデフレだから何らかの財政支出を増加させるとしても、インフレに転じた時に簡単にその財政支出をカットできるかどうか、その点が疑問であるとともに、そんなに簡単にカットできるような歳出をして雇用を維持すべきかどうかも疑問です。私の基本的な経済に対する見方として、財政よりも雇用の方がとても重要性が高いのは十分に認識していて、おそらく、日本のエコノミストの中でも財政と雇用の重要性の開きがもっとも大きなグループに属しているのではないか、とすら思っているんですが、インフレ時に簡単にカットできるような歳出によって維持すべき雇用の質については、国民のモチベーションをどこまで引き出せるかは否定的な思いを持ってしまいます。加えて、本書の著者が指摘しているように、10年やそこらの期間であれば現在の日本クラスの財政赤字のサステイナビリティは問題ないとしても、30年とか50年の期間を考えれば、JGBを取り扱う金融市場がどのように動くかは、何とも、経済学のレベルでは予測がつきません。ただ、逆にいえば、5年とか10年くらいで集中的にデフレ脱却を目指す政策としてはMMTはかなり可能性あるんではないか、という気もします。いずれにせよ、昨年2019年11月9日の読書感想文で取り上げたレイ教授の『MMT 現代貨幣理論』では、立命館大学の松尾教授が「MMTの命題は『異端』ではなく、常識である」と題した巻末解説を寄せていましたが、数年間でのデフレ脱却を目指す政策の観点からは、その通りだと私も考えます。ただし、本書の著者はユニバーサルなベーシックインカムの推進論者なんだと私は理解していますが、MMT理論に基づくとベーシックインカムの財源は財政赤字ではなく、キチンとした財源が必要、という点は忘れるべきではありません。インフレに転じたからといって、ベーシックインカムを削減したり、取り止めたりすることはできないからです。

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次に、ウィリアム・フォン・ヒッペル『われわれはなぜ嘘つきで自信過剰でお人好しなのか』(ハーパーコリンズ・ジャパン) です。著者は米国出身で、現在はオーストラリアのクイーンズ大学の研究者をしています。英語の原題は The Social Leap であり、2018年の出版です。ということで、上の表紙画像に見られるように、「進化心理学で読み解く、人類の驚くべき戦略」ということですので、やや読み始める前には懸念があり、進化心理学ですから、すべてを種の保存、あるいは、狭義にはセックスに結び付けているんではないか、とおもっていたところ、さすがにそうではありませんでした。3部故末井となっており、第1部はわれわれはどのようにヒトになったのか、第2部は過去に隠された進化の手がかり、第3部は過去から未来への跳躍、と題されていて、最後の第3部の「跳躍」が英語の原題のLEAPに当たりますし、第1部でも、熱帯雨林の樹上生活からサバンナへの移動も「社会的跳躍」と位置付けられています。その第1部は、その昔に読んですっかり内容は忘れたものの、エンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』を進化心理学から解き明かしたような中身になっていて、人類史をかなり唯物史観で見ている気すらしました。本書第1部は、チンパンジーとアウストラロピテクスなど人類の祖先との比較から始まります。チンパンジーは集団で狩りをしたり敵の群れを攻撃したりする時のみ、少しだけ協力するものの、彼らは怠け者と協力者をほとんど、あるいはまったく区別しようとせず、怠け者のフリーラーダーも同じ獲物にありつける一方で、類人猿のアウストラロピテクスは集団的な石投げで狩りを行い、協力しない者を集団から追放、あるいは、処罰したと推測しています。そして、当時の生活状況からすれば、類人猿の集団から追放されれば生き残れる確率が格段に低下しただろうとも推測しています。第2部では、経済学の分野のイノベーションも考察の俎上に上ります。偉大なイノベーションを起こした人はそれほど実生活が充実しているわけではない、と指摘していたりしますし、その他、極めて多くの進化心理学の研究成果が紹介されており、出版社のサイトに目白押しで取り上げられています。たとえば、最近の経済活動の上で「モノ消費」から「コト消費」、すなわち、耐久消費財などを買うよりも旅行などの体験を重視する消費へのシフトも進化心理学の研究成果から、その正しさが裏付けられていたりします。加えて、60歳を超えた私なんぞが少し注目したのは、高齢者の孤独は喫煙などよりもよっぽど危険であり、年を取れば、むしろタバコを吸いながら仲間と談笑する方がリスクが小さいと指摘されていました。ひょっとしたら、そうなのかもしれません。今週の読書の中では、350ページ超ともっともボリュームがありましたが、トピックも楽しく邦訳も上質で一気に読めます。

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次に、カル・ニューポート『デジタル・ミニマリスト』(早川書房) です。著者は、米国ジョージ・タウン大学の研究者であり、専門分野はコンピュータ科学だそうです。英語の原題は Degital Minimalist であり、2019年の出版です。タイトルのデジタル・ミニマリストとは、トートロジーですが、デジタル・ミニマリズムを実践している、あるいは、実践しようとしている人のことであり、著者は、実際に、何人か集めてデジタル・ミニマリズムを実践することまでやっているようです。ただ、私としては、本書で使っている他の用語「アテンション・レジスタンス」の方が、より適当な気がしています。ということで、本書が指摘するように、いろんなところで、口を開けてスマホの操作に熱中している人を見かけると、私もモバイル機器の操作、おそらくは、スマートフォンを使ってのゲームとSNSには中毒性があるんではないか、と疑ってしまいます。本書では、30日間のスマートフォン断食などを提唱する一方で、スマートフォン操作に代わって、人生をもっと豊かにする趣味の充実などを提唱しています。ただ、読んでいて、私もようやく今月になってスマートフォンに切り替えましたが、私自身はミニマリズムではないとしても、少なくとも合理的な範囲でのオプティマイズは出来ている気がします。TwitterやInstagramは使っていませんが、さすがの私もFacebookは使っていて、おそらく、毎日30分くらいは使っていそうな気がします。でも、ほぼほぼ機械的に「いいね」のボタンを押しているだけで、その対象は半分以上が趣味の世界、特に阪神タイガースに関する記事だったりします。メールはスマートフォンでチェックこそすれ、実際に読む価値あるメールはスマートフォンではなく、パソコンで読んでいます。スマートフォンでそのまま削除するメールも決して少なくありません。ですから、繰り返しになりますが、パソコンも含むデジタルではなく、スマートフォンなどのモバイルに特化したタイトルにした方が判りやすかった気がします。著者は、スマートフォンをヤメにしてフィーチャーフォンに切り替え、SNSなどはパソコンからのアクセスを推奨しています。私も、ご同様に、スマートフォンなどのモバイル・デバイスからSNSにアクセスするのと、パソコンからのアクセスはかなり違うと感じていて、パソコンを多用しているのが実態です。その上で、私は私自身の「アテンション」にそれなりの価値があると自負していて、スマートフォンからのSNSへのアクセスに限らず、私のアテンションを向ける先は合理的に厳選しているつもりです。中毒性ある行為に対してはもちろん、期待値がマイナスになるに決まっているギャンブル、喫煙や過度の飲酒などなど、非合理的なアテンションの向け方、あるいは、時間の使い方は決して賢明ではないと考えていて、それなりに、主流派経済学が前提とするような合理的なホモ・エコノミカスとして考えて行動したい、と願っています。もっとも、どこまで実践できているかは不明です。

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次に、モーム、フォークナー他、小森収[編]『短編ミステリの二百年 1』(創元推理文庫) です。上の表紙画像にも見られるように、明確に第1回である旨が示されており、上中下を越えて4巻以上のシリーズになるものと私は予想していますが、詳細は明らかではありません。本書冒頭でも示されている通り、私も昨年の今ごろは江戸川乱歩[編]『世界推理短編傑作集』の第1巻から第5巻までを読んでいたりしましたが、本書が嚆矢となるシリーズについてはよく知りませんでした。江戸川乱歩編のシリーズは1844年から1951年が対象となっているらしい一方で、本書のシリーズは前後ともにさらに長いタイムスパンを持つ200年です。編者である小森収ご本人が、そういった詳細について、本書の後半部分で「短編ミステリの200年」として取りまとめていますが、序章と第1章の途中で終わっている印象で、続巻でさらに明らかにされるんではないかと私は受け止めています。出版社のサイト「Webミステリーズ」の情報でもよく判りかねます。ということで、、シリーズの全貌は不明な部分が多いんですが、取りあえず、この第1巻の収録作品は、リチャード・ハーディング・デイヴィス「霧の中」、ロバート・ルイス・スティーヴンスン「クリームタルトを持った若者の話」、サキ「セルノグラツの狼」及び「四角い卵」、アンブローズ・ビアス「スウィドラー氏のとんぼ返り」、サマセット・モーム「創作衝動」、イーヴリン・ウォー「アザニア島事件」、ウィリアム・フォークナー「エミリーへの薔薇」、コーネル・ウールリッチ「さらばニューヨーク」、リング・ラードナー「笑顔がいっぱい」、デイモン・ラニアン「ブッチの子守歌」、ジョン・コリア「ナツメグの味」、となっています。「さらばニューヨーク」の作者のウールリッチは別のペンネームはウィリアム・アイリッシュであり、アイリッシュ名義で書かれた『幻の女』はオールタイムベストのトップ10に必ず入るくらいのミステリの名作だったりしますが、サキの2作品など、あまりミステリとは考えられない短編の週録も少なくなく、どういった編集方針なのかは私にはよく理解できません。ただ、ミステリかどうかはともかく、短編の名作が収録されていることは確かですし、十分に読書を楽しめると考えてよさそうです。

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最後に、キャロル・ネルソン・ダグラス『ごきげんいかが、ワトスン博士』上下(創元推理文庫) です。シャーロック・ホームズを出し抜いたほぼほぼ唯一の女性であるアイリーン・アドラーを主人公にした「アイリーン・アドラーの冒険」シリーズの第3作です。アイリーン・アドラーが探偵役で、ホームズを出し抜いて事件を解決します。当然、シャーロック・ホームズのパスティーシュです。このシリーズで邦訳されたのはすべて同じ出版社からの文庫本で、第1作の『おやすみなさい、ホームズさん』では正典の「ボヘミアの醜聞」をアイリーン・アドラーの側から捉えた小説であり、第2作の『おめざめですか、アイリーン』ではパリの事件を解決します。これは、ホームズものの中の、いわゆる「書かれざる物語」で、ワトソン博士が言及しただけの事件なのかもしれませんが、私はそれほど熱心なシャーロッキアンではありませんから、よく知りません。第3作の本作品では、正典作者のドイル卿が混乱を示しているワトソン博士の銃創について作者なりの解釈を示しています。すなわち、ワトソン博士はアフガニスタンでの従軍により銃創を負ってロンドンに帰還するわけですが、その銃創が肩なのか、足なのかで正典に混乱が見られ、この作品では、ワトソン博士は肩に銃撃を受けた後、現地の熱病にかかって生死の境をさまよい、その際に足にも銃創を負った、という解決を示しています。ストーリーとしては、アフガニスタンの戦役でワトソン博士に命を助けられたという退役士官とアイリーン・アドラーがパリで遭遇し、ワトソン博士が命を狙われている事実を突き止め、もちろん、ホームズを出し抜いて鮮やかに解決に導く、ということになります。

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2020年1月12日 (日)

先週の読書は経済書なしで計6冊!!!

先週は、経済書なしで以下の通りの計6冊です。先週、定年退職する直前まで勤務していた役所の研究所の後輩とお話をしていたんですが、今の家を引き払って関西に引っ越しすることとなれば、私の読書ペースがかなり落ちるんではないか、と指摘されてしまいました。まさにその通りと思っています。私のことを読書家であると、善意の誤解をしている知り合いも何人かいたりするんですが、実は、私の読書量は東京都特別区の極めて潤沢な予算に裏付けられているわけで、おそらく、関西に引っ越せば読書量は半減以下に低下し、加えて、読書のタイミングも出版からかなり遅れる可能性があるような気もします。

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次に、高橋直樹・松尾秀哉・吉田徹[編]『現代政治のリーダーシップ』(岩波書店) です。著者・編者は、政治学などの研究者です。2部構成であり、副題が上の表紙画像に見られるように「危機を生き抜いた8人の政治家」となっていて、第1部と第2部に4人ずつ配置しています。第1部はリーダーの個性や資質を強調していて、英国のメージャー首相、ドイツのコール首相、ベルギーのフェルホフスタット首相、アイルランドのヴァラッカー首相であり、フェルホフスタット首相とヴァラッカー首相は執筆時に現役首相だったといいますから、それくらいの時点でどこまで評価できるのかはやや疑問です。第2部はリーダー個人の個性や資質に言及しつつも、リーダーを取り巻く制度や環境にも重点を置いていて、英国のブレア首相、フランスのミッテラン大統領、ロシアのエリツィン大統領、そして、メキシコのゴメス中央銀行総裁というラインナップです。本書のタイトルにもあるリーダーシップについては、私の認識では、バーンズのその名も『リーダーシップ』が本書でも古典的なテキストとされていて、もうすっかり大昔に読んだので私は忘れましたが、何種類かのリーダーシップが解説されています。ただ、編者のあとがきにもあるように、平時で status quo で昨日と同じ今日と明日を送っていればいい時期ならば、いわゆる前例踏襲の官僚で十分なのですが、何らかの危機においては微分不可能な下方への屈曲が起きていますので、従来通りの計画をそのまま実行しているのではなく、計画を大きく変更する必要に迫られるわけで、そこにリーダーシップが必要となります。ただし、本書では「英雄待望論」の立場は排されています。ただ、いくつか気になるところがあり、第1部のコール首相は東西ドイツ統一時の政治的トップでしたし、それなりの決断力と指導力は認めるものの、フェルホフスタット首相とヴァラッカー首相は、単に個性的というだけで選ばれているような気がします。第2部のブレア首相が後継のブラウン首相とのツートップ的な環境で議論されているとすれば、同じくミッテラン大統領についても、典型的なねじれ現象であったシラク首相との関係にも言及が欲しかった気がします。英国や日本のようなウェストミンスター議会でなく、大統領と首相の両方がいる場合、一般に、ドイツなどのように先進国では首相が優先し、途上国では韓国などのように大統領がトップを務める、というパターンが多いような気がしますが、フランスだけは並立し、しかも、社会党という左派のミッテラン大統領とコアピタシオンながらド・ゴール派の流れをくむ共和国連合のシラク首相が並立していた時期があります。わずかに2年ほどで、隣国ドイツ統一の少し前の時期であり、ドイツ統一時は大統領・首相ともに社会党だったんですが、政治的リーダーを取り巻く環境や制度を論じるのであれば、ミッテラン大統領とシラク首相はぜひとも分析対象に乗せるべきだと私は考えます。メキシコのゴメス中銀総裁について、金融政策の専門性や事務処理能力についてはともかく、人脈などのソーシャル・キャピタルに重点を当てるのであれば、もはや、リーダーシップではないような気もするんですが、いかがでしょうか。最後に、リーダーシップについて、私の考える我が日本の2点を確認しておくと、第1に、田中角栄総理が総理を辞任してからのリーダーシップはすごかったんではないかという気がします。もっとも、リーダーシップではなく、単なるパワー=政治力という気がすることも確かです。第2に、リーマン・ショック後に「政治主導」を掲げて政権交代に成功した民主党政権は、危機時のリーダーシップのあり方として、とても方向性は正しかった気がするんですが、結果的に大きくコケたのはどうしてなんでしょうか。さまざまな分析あるものの、私はまだコレといった決定打を発見していません。

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次に、池田太臣・木村至聖・小島伸之[編著]『巨大ロボットの社会学』(法律文化社) です。著者や編者は、大学の社会学の研究者です。ロボットについては、1963年にアニメ放送が開始された「鉄腕アトム」と「鉄人28号」が我が国での嚆矢となるわけですが、本書では、「巨大ロボット」ということで、鉄腕アトム的なサイズではなく、大きなロボットであって、でも、鉄人28号のように外部のリモコンで操作されるわけでもなく、かといって鉄腕アトムのようにAIよろしく自立的に行動するわけでもなく、ガンダム的にコクピットに人間が入って操作する巨大ロボット、のアニメの社会学を展開しています。「鉄腕アトム」と「鉄人28号」の放送開始の1963年は私は小学校に上がる直前であり、私個人は「鉄人28号」に熱狂した記憶があります。お絵描きでは常に題材は鉄人28号でした。今でも主題歌は歌えるのではないかと思います。また、本書で定義する「巨大ロボット」、すなわち、ドラえもんや鉄腕アトムのサイズではなく、見上げるような大きさのロボットであり、コックピットに人間が入って操縦するロボット、トランスフォーマーのような棒筒などではなくヒト型であり、しかも、それがアニメで放送されたものとなると、その典型である「ガンダム」が放送開始された1979年には20歳過ぎの大学生のころであり、それなりにアニメにも関心の高い年代であり、私としても親しみを覚えます。ただ、本書では「ガンダム」が放送開始された1970年代末はむしろ、巨大ロボットがマンネリ化していた時期であり、むしろ、「ガンダム」は例外的なヒットを飛ばした、ということなのかもしれません。また、1990年代半ばから放送された「エヴァンゲリヲン」も、基本的には「ガンダム」の路線を引き継いで社会的現象も引き起こしました。例えば、私の記憶が正しければ、日本酒の「獺祭」は、「エヴァンゲリヲン」の特務機関ネルフの将校であった葛城ミサトが愛飲していたことから流行に波に乗った、と私は考えているんですが、私と同世代ないし若い世代の酒飲みといっしょに「獺祭」を飲んでも、この葛城ミサトの事実は認識されていないようです。「エヴァンゲリヲン」を見ていないのだろうと思います。同じヒット商品ということで経済的な観点では、ガンダムについては1/144HGスケールをはじめとするガンプラが大きな影響力を持っていたと私は考えています。我が家の倅2人も小学生のころからガンプラ作成にいそしみ、上の倅なんぞは中学・高校・大学と模型クラブに所属して、中学・高校の文化祭はいうに及ばず、大学祭でもガンプラの作品を展示していた記憶があります。こういった経済的・社会的現象も引き起こした「巨大ロボット」について社会学的に解明した結果を、本書は興味深く取りまとめています。

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次に、伊岡瞬『不審者』(集英社) です。作者は、注目の小説家であり、私は初めて作品に接しました。この作品は、会社員の夫と5歳の息子、それに、夫の母親と都内は調布市に暮らす30代前半の主婦を主人公に設定しています。ストーリーのあらすじは、主人公は主婦業のかたわら、フリーの校閲者として仕事をこなす一方で、子供の幼稚園バスのママ友との通り一遍ながら交流もあり、平凡な日々を送っていましたが、ある日、夫がサプライズで客を招き、その人物は、何と、21年間音信不通だった夫の兄だといい出します。その義兄は現在では起業家で独身だと夫はいうものの、最初は自分の息子本人だと信用しない義母の態度もあり、主人公は不信感を募らせるのですが、夫の一存で1週間ほど義兄を同居・居候させることになってしまいます。それから、というか、その直前くらいから、主人公の周囲では不可解な出来事が多発するようになり、主人公は特に子供の安全について不安を募らせる、というカンジです。要するに、ネタバレの結論をいえば、私が読んだ中では、デニス・ルヘインの『シャッター・アイランド』のように正常と異常が反対な作品と同じだったりします。なお、さすがに、ネタバレ部分は透明フォントを使っており、カーソルなどで範囲指定して色を反転させても見ることはできませんが、それなりにhtmlの知識があり、あくまで見たいのであれば、見ることはできるでしょう。約300ページの出版物の中の最後の方の250ページ目くらいから謎解きが始まるんですが、ここに達するまでに、かなり多くの読者は謎が解けているくらいの割合と平凡なプロットで、ミステリとしては凡庸な仕上がりです。もっと、早くからタマネギの皮をむくように、徐々に真相に迫るような運びの方が望ましいのですが、まさか、そこまでの表現力ないとは思いませんから、作者があくまで意図的に最後に一気に真相を明らかにする手法を選んだのではないか、と私は受け止めています。ただ、もしそうだとすれば、やや疑問が残るところです。なお、私の知り合いでオススメしてくれた読書人からの受け売りながら、最後の最後に犯人の弁護をするために登場する白石法律事務所は、同じ作者の別の作品である『代償』や『悪寒』にも出ているそうです。私の読後感としては、謎解きこそ少し疑問あってミステリとしては物足りない気がしますし、かなり、「小説的」な異常なシチュエーションで展開されるストーリーではありますが、主人公の視点から見た平凡な日常が崩れていく、という意味では、それなりのスピード感あふれるサスペンスとしていい出来ですし、別に代表作があったりするんではないか、とも気にかかりますし、ということで、もう少しこの作家の作品を読んでみたい気もします。引っ越しで忙しくて、読まないかもしれませんが、それなりに読書意欲はあります。

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次に、いとうせいこう『「国境なき医師団」になろう!』(講談社現代新書) です。著者は小説家、ノンフィクション・ライターです。2017年だったと思うんですが、同じ著者が『「国境なき医師団」を見に行く』という本を同じ出版社から出していますので、その続編ということになり、本書でも、前著が「俺」を主語にして、やや興奮気味の内容だったのに対して、本書はもっとすそ野を広くと考えたと記しています。ということで、やや落ち着いて、1999年にノーベル平和賞を受賞した「国境なき医師団」MSF=Médecins Sans Frontières について、日本国内のスタッフとともに、海外の現に活動しているサイトのスタッフをインタビューした内容です。本書にもあるように、「国境なき医師団」とはいえ、もちろん、医師以外にも医療スタッフは必要なわけですし、本書でもロジスティックスに携わるスタッフが登場したりして、医療が半分、非医療も半分という構成が明らかにされています。ですから、医師でなくても「国境なき医師団」になれるわけです。私はエコノミストであって、もちろん、医師ではありませんし、医療関係のスキルも、ロジスティックスのスキルもなく、紛争地帯などにおける医療活動を支えることは出来そうもありませんが、本書でも、地震被害が大きかったハイチやアフリカの紛争地帯を想像させるウガンダ・南スーダンといったサイトでのインタビューもありますが、フィリピンについては「錨を下ろして活動する必要」という言葉があります。必ずしも本来業務ではないものの、私も開発経済に携わるエコノミストとして、ささやかながらインドネシアで3年間活動した経験があります。もちろん、公務員の活動の一部として辞令1枚で赴任した私なんぞと違って、"too motivated" という表現が本書にもありますが、過大とさえいえる意欲をもって「国境なき医師団」の活動を進めるスタッフには、その使命感のレベルの差は歴然としています。ただ、基本は、各個人の持っている能力や専門性を生かして、途上国の発展や途上国の人々の幸福のためにどれだけ役立てられるか、ということであると私は考えています。現在の資本主義の実態を見れば、その昔のスミス『国富論』的に個人の経済的利益の追求が見えざる手により経済全体の厚生を高める、という神話はほぼ崩壊したわけですし、自主的な利他的活動が求めらるのはいうまでもありません。本書では、個々のインタビュー結果の事実関係を通じて、個人的な小さな物語から大きな物語、すなわち、いかに、世界、特に、途上国で大きな困難を抱える人々の役に立つかの精神や使命感の高さを読み取って欲しいと私は期待します。もちろん、世界に目を向けつつも、国内で困難を抱える人も少なくないわけで、資本主義的な自己の利益追求から、国内外を通じて、より広い視野での活動の大切さを感じ取って欲しいと思います。


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最後に、マルティン・エスターダール『スターリンの息子』上下(ハヤカワ文庫) です。作者は、スウェーデンのミステリ作家であり、本書は初めての邦訳書だそうです。スウェーデン語のタイトルは BE INTE OM NÅD であり、解説によれば「慈悲を乞うなかれ」という意味だそうです。スウェーデン語の原書の出版は2016年ながら、邦訳書は2018年出版のドイツ語版から訳出されているそうです。3部作の第1作のようです。ということで、舞台は基本的に1996年2月から3月にかけてのストックホルムなんですが、時折、1944年1月のストックホルムも振り返られたりします。軍隊から恋人の勤務する通信コンサル会社に転職した主人公は、その恋人がロシアで消息を絶ったことで捜索を始めるところからストーリーが動き出します。もちろん、主人公はロシアに行くことになるんですが、ストックホルムとともに虚々実々のスパイもどき、というか、スパイそのものの駆け引きや、外国小説らしく拳銃がドンパチやったり、爆弾が炸裂したりと、かなり残虐な場面もあったりします。最後は、まあ、それなりに意外感あるのではないでしょうか。スウェーデンにはエリクソンなどの通信機器メーカーが有名ですし、小説の舞台となっている1996年の時点でも、かなり先行き有望観があったでしょうから、こういった北欧通信機器企業に旧ソ連のスターリン主義者、というか、スターリン信奉者が暗躍する一方で、第2次世界大戦終盤の1944年のソ連のよるストックホルム誤爆、というか、空爆の謎を絡めたサスペンスとしてストーリーが進みます。旧ソ連崩壊から数年を経たエリツィン政権下のロシア経済の混乱、特に、経済マフィア的なギャングの暗躍をスウェーデンの秘められた歴史とともにストーリーを進めるのは、私はそれなりに面白く感じないでもないんですが、体感的に理解できる読者とそうでない読者がいそうな気がします。出版の20年前の1996年を舞台に選んだのも、戦争終盤の1944年から50年、ということで、戦争の生き残りがまだいる可能性を残したかったんでしょうが、ややムリありますし、欧州にはまだまだネオナチ的なヒトラー信奉者がいそうな気がする一方で、ロシアにまだスターリン信奉者なんているのか、というシロート目線の疑問もあります。加えて、海外作品ですから仕方ありませんが、馴染みのない人物名がとても複雑な人間関係を構築してくれて、私のような人名記憶キャパの小さい読者はなかなか理解がはかどりません。私自身は、ラーソンからラーゲルクランツに書き継がれている「ミレニアム」のシリーズは大好きですし、スウェーデンをはじめとする北欧ミステリの作品のレベルの高さを知っているだけに、今後の作品に期待なのかもしれません。

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2020年1月 4日 (土)

年末年始休みの読書やいかに?

年末年始の読書は、すでに火曜日に取り上げたジャレド・ダイアモンド『危機と人類』を別にして、いろいろと取り混ぜて、以下の通りです。なお、今日の日経新聞に、昨年2019年12月28日の読書感想文で取り上げたアイザックソン『イノベータース』上下と11月30日付けの青山七恵『私の家』の書評が掲載されていました。大手新聞に先んじたのはとても久しぶりな気がします。なお、まだ正月休みが私の場合続いていて、夕方から缶ビールを開けている上に、全部で9冊もありますので、手短かにして手を抜きます。悪しからず。

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まず、ミレヤ・ソリース『貿易国家のジレンマ』(日本経済新聞出版社) です。著者は、メキシコ出身のエコノミストであり、現在は米国ブルッキングス研究所の東アジアセンター所長を務めており、中学生の頃に日本語を勉強していて当時の大平総理と会ったことがあるそうです。英語の原題は Dilemmas of a Trading Nation であり、2017年の出版です。ということで、タイトルにあるジレンマとは、本書では2つ指摘されていて、ひとつは既得権益に切り込む決断が求められる局面になるほど反対論が広がり、幅広い合意を得にくくなる点であり、もうひとつは自由化で不利になる部門に対する補助金の支出と、一部の産業に縮小や退出を求める改革の断行が出来にくくなる点、とされています。自由貿易の場合、一国全体ではお得なわけですが、あくまで得をするセクターと損をするセクターを比べて、前者から後者に補償がなされるとういう前提ですので、ジレンマと称するのは少し違う気もしますが、現実には、そういった補償は十分ではなく、確かに焦点を当てる値打ちはあるのかもしれません。本書でも指摘されている通り、損をするセクターはツベルスキー-カーネマンのプロスペクト理論からして主張する声が大きくなりますので、それなりの補償が自由貿易を公正な貿易にするために必要です。本書では、当然ながら、日本についても大きな注目を払っています。

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次に、石井光太『本当の貧困の話をしよう』(文藝春秋) です。著者は、ノンフィクション・ライターであり、貧困や格差に注目しているようですが、エコノミストではありませんから、本書ではかなりアバウトな議論が展開されていると覚悟して読み始めるべきです。例えば、冒頭から、世界の貧困と日本の貧困が並べられていますが、前者の世界レベルは絶対的貧困である一方で、後者の日本レベルは相対的貧困率ですので、著者が意図的にそれを狙っているとは思いたくありませんが、詳しくない読者は日本人の7人に1人が1日1.9ドル未満で暮らしていると勘違いすることと思います。ただ、若年者にスポットを当てた貧困論、あるいは、格差論を展開していますので、私は好感を持ちました。貧困を論ずる場合、どうしても、母子家庭、高齢者、疾病が3大要因となっている現実がありますので、高齢層に注目してしまう例もあるんですが、母子家庭を含めて若年者の貧困や家庭問題に着目しているのは評価できます。また、日本国内だけでなく、広く世界の貧困の実態にも目配りが行き届いています。

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次に、広田照幸『大学論を組み替える』(名古屋大学出版会) です。著者は、東京大学大学院教育学研究科教授などを経て、現在は日本大学文理学部教授、日本教育学会会長を務めています。出版社からしても、かなり学術書に近い印象です。何度か書きましたが、私は今年は生まれ故郷の関西に引っ越して、4月から私大経済学部の教員になる予定です。ただ、学生諸君への教育や自分自身の研究とともに、公務員出身ですので何らかの大学運営に携わることも期待されているのではないか、と勝手に想像して、大学改革論を1冊読んでみました。教育については、医療などとともに、いわゆる非対称性の大きい分野であり、市場経済では効率性が確保されません。その上、学問の自由や大学自治が絡むと、かなりヘビーなイシューとなります。今年の1年目からいきなり大学や学部の運営に関わることはないとは楽観していますが、これから、先々勉強することとしたいと考えています。

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次に、ニール・ドグラース・タイソン & エイヴィス・ラング『宇宙の地政学』上下(原書房) です。著者は、米国自然史博物館の天体物理学者と同じ博物館ん研究者・編集者です。英語の原題は Accessory to War であり、2018年の出版です。ノッケから、天体物理学がいかにも戦争のために利用可能な現状を宣言し、中世から天文学者が戦争において果たした役割の解説から始まったりします。でも、本書は純粋な天文物理学書でもないことは当然ながら、軍事的な武器の解説書といった内容でもなく、もっと散文的なコンテンツを想像していた私には、かなり詩的な表現ぶりに驚かされたことも事実です。中世から始まって、宇宙の軍事利用の歴史をかなり長期にさかのぼって振り返り、米ソの宇宙開発の戦争利用の可能性を広く主張し、私も含めてついつい人々が目を逸らしがちな現実を明らかにしてくれています。

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次に、加藤陽子『天皇と軍隊の近代史』(けいそうブックス) です。著者は東大の歴史研究者であり、近代史がご専門と認識しています。ということで、タイトル通りの内容なんですが、明治以降の近代で初めて譲位という形で天皇の交代があり、開眼した経験を経て、近代における天皇と軍隊の歴史を振り返ります。天皇から「股肱の臣」と呼ばれた軍隊に対して、軍人勅語が示され、統帥権の独立、というか、内閣からの不感症を確立して戦争に突き進む実態が歴史研究者によって明らかにされています。ただ、内容的には、掘り尽くされた分野ですので、特に新たな史的発見があるわけではありません。ただ、振り返っておく値打ちはありそうな気がする分野です。

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次に、諏訪勝則『明智光秀の生涯』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー) と外川淳『明智光秀の生涯』(三笠書房知的生きかた文庫) です。著者は、陸上自衛隊高等工科学校教官と歴史アナリスト・作家です。今年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の主役は明智光秀だったりしますので、私も少し勉強してみたく、2冊ほど借りて読みました。明智光秀といえば、当然ながら、織田信長を暗殺した本能寺の変なんですが、その要因としても、現代でいえばパワハラに反発した怨恨説から、天下奪取説、調停や室町幕府や果ては秀吉までが絡む黒幕説、などなど、いろいろと持ち出されているんですが、斉藤利三首謀説まで飛び出しています。ただ、斉藤利三が仕掛けたのだとすれば、春日局が取り立てられることはなかった気もします。それは別として、跡付けの歴史的な観点からすれば、天下統一後の政治的展開を考えれば、重厚な家臣団を擁する織田か徳川くらいしか治世展開を続けることが出来ず、成り上がりの豊臣秀吉とか、明智光秀も天下統一を維持して天下泰平まで実現することは難しかっただろうと私は考えています。明智光秀は確かに文化人だったのかもしれませんが、それだけで天下はどうにもなりません。

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最後に、グレン・サリバン『海を渡ったスキヤキ』(中央公論新社) です。著者は米国ハワイ生まれで、1984年に来日し、英会話学校教師として勤務後、雑誌『日本語ジャーナル』の英文監修者・翻訳家として活動した後、1992年に帰米してコーネル大学大学院でアジア文学を履修、とあり、邦訳者のクレジットがありませんから、著者が日本語で書いたものであろうと私は想像ています。基本的に、和食が米国でどのように受容されていったのかの歴史を展開しているんですが、その和食を持ち込んだ日本人が米国で受容されたのかの歴史にもなっています。もちろん、第2次世界対戦時の収容所についても言及があり、悲しい歴史にも目を背けていません。天ぷらは本書では注目されていませんが、スシや鉄板焼など、とても家庭の主婦が調理するとは思えない料理が、ついつい、米国をはじめとする諸外国では「日本食」として認識される中で、そういった誤解を助長しかねない本書なんですが、それはそれで、和食・日本食の海外展開での歴史を知ることが出来るような気がします。

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2019年12月30日 (月)

本年最後の読書感想文でジャレド・ダイアモンド『危機と人類』を読む!

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先週借りておいたジャレド・ダイアモンド『危機と人類』上下(日本経済新聞出版社) を読みました。隣国ソ連に侵攻された1930~40年代のフィンランド、江戸末期にペリー来航などで欧米列強から開国を迫られた日本、世界で初めて選挙によって社会主義アジェンデ政権が誕生した後に軍事クーデターとピノチェトの独裁政権に苦しんだチリ、クーデター失敗と大量虐殺を経験したインドネシア、東西分断とナチスの負の遺産に向き合ったドイツ、白豪主義の放棄とナショナル・アイデンティティの危機に直面したオーストラリア、の6カ国を題材にしたケーススタディです。先月は本書の出版宣伝なのかどうか知りませんが、来日公演会の開催などがあったようです。私の目から見て、かなり著者の専門分野から外れた問題意識を展開しているような気がして、どこまで信頼感を持って読み進めばいいのか不安だったんですが、さすがに、それなりの仕上がりにはなっています。米国まで含めても、せいぜいが200年間の7か国が対象ですし、著者の12項目のクライテリアをもってしても、結論を一般化するのはとても難しい気がしますが、さすがに、エピローグで著者ご自身がナラティブで定性的な議論の展開から、定量的な手法の導入をいわざるを得なくなっていたりします。評価項目の7番目に公正な自己評価というのがありますが、要するに、自分自身あるいは自国を客観的に評価するということだろうと私は理解していて、これがもっとも難しいのだろうと想像します。もうひとつ難しいのは、本書には現れませんが、評価関数の設定です。経済学では、トレードオフという概念があって、要するに、コチラを立てればアチラが立たず、という相反する2つの目標があったりします。そこまでいかなくても、リソースの不足から2つ以上の複数の目標達成は困難で、プライオリティに従ったリソース配分を必要とする場合も少なくありません。いずれにせよ、第3部第10章の日米が直面する高齢化や政治的分裂といった危機に加えて、最後のエピローグ前の第3部第11章に示された危機意識、すなわち、人類全体の危機として核、気候変動、エネルギー、格差が指摘されていて、本書の問題意識はそれなりに重要だと直感的には私なりに理解するんですが、失礼ながら、単なる無責任な問題意識の表明であればともかく、著者ご自身にどこまで解決策を示す能力があるのかどうか、言葉を変えれば、どこまで行っても著者には結論を出せない問題に入り込むような不安が残ります。

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2019年12月28日 (土)

今週の読書は資本主義について考えさせられる経済書をはじめとして計8冊!

今週の読書は、資本主義について深く考えを巡らせる経済書をはじめとして、以下の通りの計8冊でした。大雑把に、都内の区立図書館は今日までの営業のようですが、結局、ダイアモンド『危機と人類』は来週の年末年始休みに回すことにしました。

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まず、根井雅弘『資本主義はいかに衰退するのか』(NHKブックス) です。著者は、我が母校である京都大学経済学部の経済学史を専門とする研究者です。当然ながら、40年ほど昔の私の在学中にも経済学史の先生はいたわけですが、そのころの経済学史担当の先生は時代を先取りしていたというか、「研究室内禁煙」を明記していました。私の所属するゼミの先生なんて、自らパイプを燻らせているような時代でしたので、何となく違和感を覚えた記憶が残っていますが、今なら何ということもなく、私も来年私大の教員になる際には研究室は禁煙にする予定だったりします。それはそれとして、本書の具育大は「ミーゼス、ハイエク、そしてシュンペーター」となっており、20世紀前半から1970年代くらいのオーストリアン学派の中核をなしつつも、必ずしもナチスによるユダヤ人迫害ばかりでもなく、米国の大学に研究の場を求めたエコノミスト3人です。本書のタイトルからして、資本主義から社会主義への移行をテーマにしているわけですが、1990年代初頭に旧ソ連が崩壊して多くの東欧諸国とともに資本主義に移行し、中国・ベトナム・キューバなどの一部に社会主義と自称する国が残ってはいるものの、資本主義と社会主義の歴史的な役割についてはすでに決着がついた、と考えるエコノミストが多そうなところ、それを経済学史的にホントに振り返っています。ご本家のマルクスをはじめとして、マルクス主義のエコノミストの多くは、あくまで私の想像ですが、資本主義から社会主義への移行は歴史的必然であり、好ましいと考えていたわけですが、副題に上げられたオーストリア学派の3人については、少なくともシュンペーターは決して好ましいとは考えず渋々ながら資本主義から社会主義への移行はある程度の歴史的必然であると考えていた一方で、ミーゼスは今でいうところの市場原理主義的なエコノミストですし、ハイエクも社会主義を左派の全体主義、ファシストを右派の全体主義とひとくくりにして論じていたと私は認識していますので、シュンペーターとはかなり見方が異なると考えるべきです。ただ、1930年代にウォール街に端を発する世界大恐慌の中で、古典派的な完全競争を賛美する資本主義はむしろ好ましくなく、何らかの政府の市場介入が必要と考えるエコノミストが多かったことも事実です。ひとつの大きな流れがケインズであるのはいうまでもありません。古典派的なレッセ・フェールの資本主義をいかに安定的な気候に作り替えるかが当時のテーマであり、ミーゼスのように資本主義の不安定性を否定する議論は、当時は受け入れがたかった気がする一方で、気が進まないながら渋々社会主義への移行を見込んだシュンペーターの見方も理解できるところです。経済体制的には大きな意味ある議論とは考えられませんが、資本主義をいかに社会全体に、あるいは、国民に安心できるシステムに磨き上げていくか、という点でのエコノミストの努力を読み取るべきかもしれません。巻末の読書案内が迷惑なくらいに充実しています。私はかなり前に同じ著者の『経済学者はこう考えてきた』を読んで、その際、巻末の読書案内は適当だったような記憶があるんですが、本書のはやや重厚に過ぎる気がしました。もっとも、あくまで個人の感想です。

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次に、望月智之『2025年、人は「買い物」をしなくなる』(クロスメディア・パブリッシング) です。著者は、デジタルマーケティング支援を提供するコンサルタント会社の経営者です。今週号の「東洋経済」のアマゾンで「売れているビジネス書」ランキングで、先週の130位から29位にランクアップしたと注目されていたりしました。ということで、買い物についての将来像を提供してくれています。本書の終章で出て来るのを少し私なりにアレンジすると、その昔は、1日かけて百貨店で買い物をしていたところ、私の子供時代なんかはモータリゼーションの時代で一家そろって朝から自動車でショッピングモールに出かけてランチの後に帰宅するという半日がかりの買い物の時代を経て、自転車で1時間のスーパーの買い物、そして、最近では、リアルの店舗なら10~15分でコンビニ、あるいは、5分以内でインターネット通販で買い物を終える、といったカンジでしょうか。通販を別にすれば、お店に足を運んで、品定めをし、レジに並んでお支払いを済ませ帰宅する、ということで、「家に帰り着くまでが遠足」ではないですが、帰宅までを考えれば、確かに買い物はメンドウです。しかし、他方で、資本主義的な世界観からすれば、典型的にお金を払って買う方とお金をもらって売る方の、決して対等ではあり得ない関係が実現するのが買い物という現実です。例えば、我が家は子供が小さかったということもあって、買い物の荷物を運び込むのに便利な低層階、2~3階に住んでいたんですが、最近ではインターネット通販などで買ったものを運んでもらえば高層階の生活も快適、なんて時代であったりするわけで、お金持ちの国民がお金を払って運ばせる側とお金をもらって運ぶ側に分断されている感すらあります。他方で、本書のいうように、もはや消費の選択すらせずに、AIにお任せでいつものトイレットペーパーや日用品や化粧品などを定期的に購入するようなライフスタイルも可能にあっています。トイレットペーパーの在庫をAIが確認して自動的に発注するとかです。こうなれば、人類がAIの家畜ないしペットになる一歩手前、と感じるのは私だけでしょうか。ネコが飼い主にエサをねだって、トイレの砂を交換してもらうようなもんです。ペットのネコがペットフードに依存して狩りをしなくなるように、人間もAIのチョイスにお任せで買い物をしなくなるのかもしれません。「上級国民」はAIが必需品を発注して、「下級国民」がそれを運ぶ、ということになるのかもしれません。そうならないように、自覚的な民主勢力の行動が求められているのかもしれません。本書もある意味で資本主義について深く考えさせられる読書でした。

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次に、 レイ・フィスマン & ミリアム A. ゴールデン 『コラプション』(慶應義塾大学出版会) です。著者2人は、米国の大学において行動経済学と政治学のそれぞれの研究者です。英語の原題は Corruption であり、2017年の出版です。一般名詞としての「コラプション」には、汚職と腐敗の2通りの邦訳がありますが、本書では前者の意味で用いており、さらに、公務員に対するものだけを対象としています。ですから、少し前に我が国でも話題になった建設業界の談合などは少し違う扱いかもしれません。ということで、本書で一貫して強調されているのは、汚職を含む資源配分ないし所得分配についてもひとつの均衡であるという点です。ですから、限定的とはいえ、経済合理性からいくぶんなりとも説明できるハズ、ということになります。例えば、どこかの駐車場に料金を支払って車を置くか、路上駐車で罰金を支払うか、はたまた、路上駐車で取り締まりの警官に賄賂を支払って罰金を逃れるか、の大雑把に3つの選択肢から、主観的な期待値と確率から最適解を選択するわけです。ただ、一般論ながら、公務員に賄賂を渡して不正な手段で利益を上げるのは、経済的な最適資源配分から歪みを生じて非効率を生み出す可能性が高くなり、これも一般論ながら、汚職は避けるべきであると見なされており、そのための方策についても本書では考えを巡らせています。個別具体的なケーススタディよりも豊富ですが、定量的な分析に重点が置かれているようです。例えば、民主主義と専制主義でどちらが汚職の割合が高いか、については、王政を例外として専制主義の方に汚職がはびこる可能性を指摘していますし、他方で、公務員のお給料を上げれば汚職が減少するケースとそうならないケースの分析など、いろんなケーススタディも示されています。日本に住んでいる我々にはそれほど目につきませんが、途上国では賄賂を贈る汚職は日常的にあり得るものです。実は、私はチリではともかく、インドネシアでも現地の免許証を取って自動車を運転していたんですが、ほとんど現地語を理解しない私がどうやって免許証を取得したかといえば、控えめにいっても、違法スレスレのわいろ性あるつけとどけが効き目あったとしか思えません。ただ、その昔には、本書で紹介されているようなレフの議論にもあるように、極論すれば、途上国の不可解で不合理な規制を回避するために賄賂を贈っての汚職がむしろ経済合理的だった可能性も比叡出来ないわけですが、今ではそんなこともないと考えるべきです。途上国援助や開発に絡んだ汚職は今もって決して例外的なものではなく、基本的にはカギカッコ付きの「文化」とすらいえる段階まで一般化した汚職が、みんながやっているから自分の汚職に対する認識とは別にして、自分もやる、ということにつながっています。前半のみんながやっている、という部分は期待ですから、我が国のデフレ対策と同じで、期待に働きかけて、誤った期待を払拭するのはとても時間がかかります。特効薬はありません。地道な活動が必要、という結論しか出て来ず、私のようなのんびりした田舎者が取り組むべき課題のような気がして、逆に、せっかちな都会人には不向きかもしれません。

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次に、岡奈津子『<賄賂>のある暮らし』(白水社) です。著者はアジア経済研究所の研究者であり、地域的な専門分野は中央アジアです。この読書感想文の直前に取り上げた『コラプション』がケーススタディよりも定量的な評価に重きを置いた学術書だったのに対して、本書も専門的な学術書の要素あるとはいえ、ほぼほぼケーススタディ、しかも、著者が自分で情報を収集した限りのカザフスタンのケーススタディとなっています。本書でも、基本的に公務員や何らかの有資格者に対する賄賂を取り上げており、交通警官をはじめとする警察官や役所への対応における賄賂、さらに、教育と医療の現場における賄賂に着目しています。カザフスタンは1990年代初頭に旧ソ連の社会主義経済から切り離されて独立し、いわゆる移行国として市場経済化が進められる中で、資源依存ながら今世紀初頭から経済成長が本格化し、現在では1人当たりGDPが1万ドルを超える高位中所得国となっています。その中で、本書で取り上げられているようなメチャクチャな賄賂がまかり通るようになっているようです。私はインドネシアの汚職の現状に関する情報もいくぶんかは接する機会がありましたし、そもそも、ビジネス上で賄賂とまでいわないまでも、営業が売り込む際の接待などは我が国でも日常的に見られるわけですし、医療についてもお金持ちほど高額で先進的な医療を受けられるのは、決して賄賂が常態化しているわけではない先進国でも、これまいくぶんなりとも、ご同様です。しかし、本書で取り上げられている教育における賄賂というのはややびっくりしました。いい学校に合格するのも賄賂が効いて、成績も博士号の学位も賄賂次第、というのはどうなんでしょうか。1人当たりGDPが平均的に1万ドルを超えるくらいの高位中所得国における教育の賄賂の相場を本書から見ても、かなり高額であることはいうまでもありません。少なくとも、我が日本においては、それなりに教育の場における公平性というのが確保されてきたことは特筆すべきです。ですからこそ、森友・加計問題が大きな注目を浴びたわけですし、医大入試の性差別もご同様です。もちろん、こういった例外を別にすれば、少なくとも入試の公平性については我が国では信頼感あるわけですし、だからこそ、この暮れの大学入試への民間英語試験導入や記述式問題の見送りなどが大きく報じられているわけです。我が国でのそれなりのブランド大学への信頼感はまだ残っていて、それが悪い方向に作用するケースも決して少なくありませんが、学界はいうまでもなく、政界や官界や実業界などでも大学のランクはそれなりの重みを持ち、単なるシグナリング効果だけにしても、有効なケースも少なくありません。こういった教育の場における賄賂については、カザフスタンの先行きを懸念させるに十分な気がするのは私だけではないと感じました。

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次に、ウォルター・アイザックソン『イノベーターズ』1&2 (講談社) です。英語の原題は Innovators であり、2014年の出版です。著者は、CNNのCEOを務めt顔ともあるジャーナリスト、また、歴史学者であり、本書の冒頭で自身を「伝記作家」と位置付けています。伝記作家としては、今までは個人を取り上げてきており、世界的なベストセラーとなった『スティーブ・ジョブズ』1&2のほか、『レオナルド・ダ・ヴィンチ』上下、『ベンジャミン・フランクリン伝』、『アインシュタイン伝』、『キッシンジャー伝』などがあります。ただ、本書では特定の個人を取り上げるのではなく、コンピュータやICTとも称される通信技術、もちろん、インターネットも含めてのテクノロジー全般を、発明者というものは存在しないものの、幅広く関連する人物像にスポットを当てています。私は英語版の原書の表紙を見た記憶があるんですが、ラブレス伯爵夫人エイダ、スティーブ・ジョブズ、ビル・ゲイツ、アラン・チューリングの4人が並んでいたりしました。まず、第1巻では、コンピュータの母といわれ英国の女性数学者でもある伯爵夫人エイダ・ラブレスの存在から、世界初のコンピュータENIACの誕生、プログラミングの歴史、トランジスタとマイクロチップの発明、そしてインターネットが生まれるまでを網羅し、第2巻では、比較的直近までのデジタルイノベーションのすべて、すなわち、パーソナルコンピュータ、ソフトウェア、ブログ、Google、ウィキなどが取り上げられた上で、終章でラブレス伯爵夫人エイダに立ち戻っています。邦訳のイノベーターはそのままイノベーションを行う人という意味ですし、コンピューターやインターネットなどのイノベーション、さらに、人工知能=AIに関する著書の考え方が色濃く示されています。例えば、イノベーションは突出した天才が1人で実行するのか、それとも、テクノクラート的なチームでの達成の成果なのか、という点については、やや残念なことに折衷的な見方が示されており、傑出した大天才がチームを組んでイノベーションを実行する、ということになっています。ただ、後者のAIに関する見方は明確であり、機械が思考することはありえないとのレディ・エイダの考えを示し、機械はあくまで人間のプログラミングに従って動くものと規定しています。ですから、AIが人類の支配者になることは想定していないようです。ということで、ジャーナリスト的な才能ある歴史研究者、というか、その逆の歴史研究者の資質あるジャーナリストでもいいんですが、テクノロジーの詳細な解説はほぼほぼなしに近い点に不満を持つ向きがあるような気がしないでもないものの、人物像を生い立ちから家庭的なバックグラウンドまで迫ってキャラを立て、技術が社会的ンどのような貢献をなしたかを明確に示した歴史書です。時系列的に順を追っているだけでなく、タイトル通りのイノベーターたちという人物を就寝に据えながら、技術を章別のテーマに立てて、かなり判りやすく史実を並べています。決してコンパクトではありませんし、英語版の原書は5年前の出版ながら、キチンと押さえるべきポイントは押さえられており、邦訳がいいのも相まって、私のように工学的な知識がなくても、スラスラと読み進むことが出来ます。

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次に、湊かなえ『落日』(角川春樹事務所) です。著者は、ご存じイヤミスと呼ばれる読後感の悪いミステリ作家です。本作品は直木賞候補作となっています。ということで、同年代30歳過ぎの2人の女性をメインとサブの主人公に配し、20年前の少年・少女時代の地方の一家殺人事件の真相に迫るミステリです。メインの主人公はアシスタント的な役割ながらシナリオライター、サブの主人公は世界を舞台に活躍する映画監督です。この2人は出身地が同じで、その地で起こった一家殺人事件、すでに裁判が終わって判決も確定している事件をテーマとするドキュメンタリー映画の製作に先立って、事件の真相解明に迫ります。その中で、児童虐待が大きなテーマとなり、事件で殺された虚言壁のある高校生、犯人でその兄の男性、その殺人事件のあった家族の隣家に小さいころ住んでいたサブの主人公の映画監督、同じ町でピアニストを目指す姉を交通事故で無くしつつも、まだ生存して世界で演奏活動を続けているフリをするメインの主人公のシナリオライター、それぞれが何らかの異常性とまでいわないとしても、心に闇を持っていて、真実を直視するところまでいかないようなケースが散見されるんですが、それをサブの主人公である映画監督が強力なパワーで切り開いていきます。出版社の宣伝文句では「救い」という言葉も強調されていますが、私が考えるキーワードは裁判と映画です。特に、前者の裁判については精神鑑定も含めての裁判です。映画はサブの主人公の映画監督だけでなく、映画好きの登場人物にも着目すべき、という趣旨です。何となく、イヤミスを連想させるキャラ、例えば、殺人事件の被害者となった虚言壁ある高校生をはじめとして、イヤなキャラクターの登場人物はいっぱいいるんですが、なぜか女性は美人が多くなっています。映画化を意識しているのかもしれません。映画化されたら、おそらく、私は見に行くような気がします。それはともかく、私は長らくこの作者のベストの代表作は、10年余り前のデビュー作『告白』だと感じて来ましたが、少し前の作品あたりからさすがに考えを変更しつつあり、本作品は新は代表作と見なしていいような気がします。

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最後に、秦野るり子『悩めるローマ法王 フランシスコの改革』(中公新書ラクレ) です。ちょっは私とほぼほぼ同年代で読売新聞のジャーナリストのご経験が長いようです。現在のフランシスコ教皇については、就任直後にはとても好意的な報道が多く、私もアルゼンティン出身、初めてのラテン余りか出身の教皇として大いに注目して来たんですが、最近では金銭スキャンダルや性的虐待の問題を背景に、教皇支持の主流派と反主流派の亀裂や混乱が生じているのも事実のようです。少し前に訪日を果たしたばかりでもあり、就任直後の「熱狂的」ともいえる高評価から少し時間を経て、現在のバチカンの真実を読んでみました。まず、私自身は仏教徒であり、浄土真宗の信者である門徒です。ただ、カトリックの南米チリで大使館勤務の経験があり、ムスリムが多数を占めるインドネシアの首都ジャカルタで一家4人で3年間生活した記憶もあります。それなりに多様な宗教に接してきたつもりです。ということで、私自身は今持って、フランシスコ教皇に関するノンフィクションの代表作はオースティン・アイヴァリー『教皇フランシスコ』(明石書店) であると考えており、2016年5月に私も読んでおり、このブログに読書感想文を残しています。本書では、その後の性的虐待問題、これも、ボストングローブ紙『スポットライト 世紀のスクープ』(竹書房) にとどめを刺しますが、何と、同じ2016年5月の『教皇フランシスコ』を取り上げた次の週に読書感想文を残した記憶があります。そういった読書から3年半を経過して、ちょっと新書判で取りまとめられているお手軽なノンフィクションを読んでみましたが、やっぱり、思わしくありませんでした。ほとんど何の収穫もなかった気がします。フランシスコ教皇ご出身のアルゼンティンのペロン政権について、かのポピュリストのペロンを「エビータの夫」的な紹介をするなんて、読者のレベルをどのように想定しているのか、なんとなく透けて見える気がしますし、会計ファーム・コンサルタント会社のPwCが Princewaterhouse というのも、タイプミスと見なすにはレベルが低すぎます。第8章のタイトル「中国市場を求めて」というのも、宗教活動を表現するにはいかがか、という気がしますし、全体的にかなりレベルが低いといわざるを得ません。

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2019年12月21日 (土)

今週の読書ややや失敗感ある経済書など計7冊!!!

今週の読書は、興味深いテーマながら、ややお手軽に書き上げてしまった感のある開発経済学の学術書やかなり特定の党派色強く市場原理主義かつ経済学帝国主義的な経済書、あるいは、経営書、さらに、歴史書などなど、いろいろと読んで以下の計7冊です。やや失敗感ある本が普段に比べて多かった気がします。いくつかすでに図書館を回り終えており、来週の読書も数冊に上りそうな勢いで、さらに、年末年始休みを視野に入れて、かなり大量に借りようとしています。ジャレド・ダイアモンドの『危機と人類』は借りたんですが、来週読むか、その先にするか未定ながら、たぶん、年末年始休みにじっくりと腰を据えて読む体制になりそうな気がします。他方、来週の読書はなぜかコラプション=汚職関係がテーマになった本や、来年のNHK大河ドラマに迎合して明智光秀関係の本も入ったりする予定です。

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まず、トラン・ヴァン・トウ & 苅込俊二『中所得国の罠と中国・ASEAN』(勁草書房) です。著者はベトナム出身の早大の経済学研究者とそのお弟子さん、となっています。本書タイトルにある「中所得国の罠」とは、とても最近の用語であり、 Gill and Kharas (2007) "An East Asian Renaissance: Ideas for Economic Growth" という世銀リポートで提唱された概念であり、その後の10年を考察した世銀のワーキングペーパーで同じ2人の著者による "The Middle-Income Trap Turns Ten" という学術論文も2015年に明らかにされています。本書では、何点かに渡って、「厳密な定義や合意ない」と繰り返されていますが、多くのエコノミストの間で緩やかなコンセンサスがあり、低開発状態から1人当たりGDPで見て3000ドルから数千ドルの中所得国の段階に達したものの、1万ドルを十分に超える先進国の段階に達するのに極めて長期の年数を要した、あるいは、まだそのレベルに到達していない、といった国々が陥っている状態を指しています。本書でのフォーカスはアジアですが、もちろん、東欧や中南米などでも見受けられるトラップです。例えば、ポーランドは1人当たりGDPが1万ドルを少し越えたあたりで伸び悩み始めたといわれています。その原因としては、資源国ではいわゆる「資源の呪い」に基づくオランダ病による通貨の増価、あるいは、その後の段階では、ルイス転換点を越えたあたりで低賃金のアドバンテージを失って、さらなる低賃金の低開発国から追い上げられるとともに、先進国の技術レベルには達しないという意味で、サンドイッチ論などが本書でも紹介されています。このサンドイッチ論は Gill and Kharas (2007) でも展開されています。そして、アジア地域において、歴史的に中所得国の罠を脱して先進国の段階に到達した日本と韓国のケーススタディを実施するとともに、どうも中所得国の罠に陥っている東南アジアASEAN各国、ただし、先進国の所得レベルに達したシンガポールは除き、高位中所得国のタイとマレーシア、低位中所得国のインドネシアとフィリピン、さらに、中国のケーススタディを進め、どうすれば中所得国の罠から脱することが出来るかの議論を展開しています。もちろん、本書くらいの学術書で昼食苦国の罠を脱する決定打が飛び出すはずもなく、それどころか、そのためのヒントすらなく、日本や韓国では資本は海外資本ではなく民族資本に依拠しつつ、技術は海外からの先進技術を導入してキャッチアップしたのに対して、ASEANや中国は資本ごと海外からの直接投資(FDI)に依存した、などという、やや的外れな議論もあったりします。ほとんど、実証らしい実証もなく、大学学部生レベルのデータとグラフで議論を展開していますので、判りやすいといえば判りやすいんですが、それほど学術的な深みも感じられません。議論をスタートさせる一つのきっかけになる本かも知れません。

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次に、井伊雅子・五十嵐中・中村良太『新医療経済学』(日本評論社) です。著者たちは、経済学ないし薬学の博士号を取得した医療経済学の研究者です。本書では、我が国財政が大赤字を出して財政リソースが先進国の中でも限られている中で、その最大の原因をなしている社会保障給付のうちの医療費に関して費用と効果を考える基礎的な経済学的視点を提供しようと試みています。まず、冒頭でベイズ的な確率計算をひも解き、検査結果で擬陽性が出ることによるムダの可能性を指摘することから始まって、基本的に、「最適化」のお題目の下に、財政支出の切りつめを図ろうという意図が明らかな気もします。確かに、その昔は日本の医療は「検査漬け」とか「薬漬け」といわれた時期もあり、ムダはそれなりにあって決して小さくはないと思いますが、命と健康を守るために必要なものは必要といえ勇気も持つべきです。本書でも引用されている通り、ワインシュタインの "A QUALY is a QUALY is a QUALY." といわれており、人々の健康や命にウェイトを付けることは極めて困難であり、本書でも、健康な1年と寝たきりの10年を等価と仮定したりしているんですが、極めて怪しいと私は考えざるを得ません。本書後半の第5章あたりでは、決して経済学的な知見だけで医療へのリソースを左右するものではないとか、いろいろといい訳が並べられているのも理解できる気がします。医療については、教育と同じく、情報の非対称性の問題が市場的、というか、経済学的な解決を困難にしているわけで、この点は本書でも認識しているようですが、決定的に欠けているのは、本書にはルーカス批判の視点がないことです。おそらく、医療政策ないし財政政策が変更されれば、少なくとも、医療提供者である医者や薬剤師ほかの対応は大きく変化を生じると私は考えますし、需要サイドの患者の方でも受診行動に影響が及ぶ可能性は小さくありません。それをナッジで何とかしようという意図が私には理解できません。加えて、医療の場合は少なくとも伝染性の病気の場合、外部性が極めて大きく、罹患した患者ご本人の意向に沿うよりも社会的な感染拡大防止の観点が優先する場合もあり得ます。教育における義務教育と同じで、医療についても憲法25条で定める生存権、すなわち、すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有するわけですから、義務教育を健康や医療政策に適応するような形で、必要最低限のレベルの検診を受ける権利があると考えるべきです。現在の医療が過剰かどうかは、私もやや過剰感をもって見ている1人ですが、基礎的な国民の権利とともに分析が進められるべきトピックと感じています。アマゾンにも本書の評価は3つ星と芳しくないレビューが掲載されていますが、その中で、レビュアーは経済学は医療費抑制の切り札になるか、という問いに対して否定的な見方を示していて、私はそのレビュアーの見方には反対で、経済学は医療費抑制の切り札になるものの、経済学にそういう役割をさせるのは誤りであり、エコノミストとして経済学にそういう役割を担ってほしくない、と考えています。ボリュームが違いますので私も強く主張することはしませんが、まあ、左派エコノミストの私なんかとは違って、こういう人たちは、国民生活に直結した医療費などの社会保障や教育費は槍玉に上げても、防衛費の効率性を分析して削減のターゲットにすることは思い浮かびもしないんでしょうね、という気がします。

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次に、平川均・町田一兵・真家陽一・石川幸一[編著]『一帯一路の政治経済学』(文眞堂) です。編著者は、私の直感では亜細亜大学系の地域研究者ではないかという気がします。習近平主席をはじめとする中国首脳部が推進する「一帯一路」=Belt and Road Initiative (BRI)政策に関して、そのファイナンス面を担当するアジアインフラ開発銀行(AIIB)も合わせて、いろんなファクトを集めるとともに、中国の意図や経済的な意味合い、さらに、アジア・アフリカをはじめとして、欧州や日米などの先進国の対応などに関する情報をコンパイルしたリポートです。特に、アナリティカルに定量分析をしているわけではなく、基本的に、ファクトを寄せ集めているだけながら、我が国は対米従属下で米国に追従して一帯一路にもAIIBにも距離を置いていますので、それなりに貴重な情報が本書では集積されています。基本的なラインについては、漠然と私も理解しているように、元安という価格面での対外競争力の維持のために、外為市場に為替介入しまくって元をドルを買っていますので、ドル資金を豊富に保有しており、それを原資にした中国から西に向かう海路=一帯と陸路=一路の整備なわけで、文字通りの物流のための交通インフラ整備とともに、政治外交的な意図もあると本書では指摘しています。すなわち、ひとつは、特にアフリカ圏で天然資源取得とともに、外交面で台湾支持派の切り崩し、というか、台湾から中国へへの転換を目指した動きです。もうひとつは、その昔は日米の加わったTPPに対抗して中国主導の経済研の構想です。ただ、後者についてはトランプ米国大統領というとんでもないジョーカーが出現し、事態は別の様相を呈し始めているのは周知の事実だろうと思います。ただ、これだけでは済まず、中国が鉄鋼などで大きな過剰生産能力を持っていることも周知の通りであり、外為市場介入した結果のドル資金をインフラ整備として一帯一路諸国にAIIBなどを通じて融資するとともに、中国製品の販売先として確保する、という戦略にもつながっています。ですから、本書でも指摘されている通り、返済を考慮しない過剰な貸し付けが実行されたり、あるいは、返済がデフォルトした上で港湾利権を分捕ったりしている例もあるようです。繰り返しになりますが、解析的に定量分析などをしているわけではなく、一帯一路のプロジェクトなどの情報をコンパクトに取りまとめている一方で、惜しむらくは、昨年2018年年央少し前くらいからの米中貿易摩擦から以降の情報は収録されていません。中国にとって他国は輸出先として、その限りで重要なだけで、世界的な自由貿易体制などはどうでもいいと考えているに違いない、その意味では、米国トランプ政権も同じ、と私は見なしているんですが、やっぱり、米国が中国製品の輸出先として重要であった、という事実を改めて突き付けられた現時点で、一帯一路やAIIBからの融資について、中国がどう考えているのか、やや謎です。

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次に、オマール・アボッシュ & ポール・ヌーンズ & ラリー・ダウンズに『ピボット・ストラテジー』(東洋経済) です。著者3人は、大手コンサルタント会社であるアクセンチュアの高級幹部です。英語の原題は Pivot to the Future であり、2019年の出版です。ということで、「ピボット」といえば、私なんぞの経営の門外漢には、むしろ、オバマ政権における外交の軸足設定、すなわち、大西洋から太平洋へ、同じことながら、欧州からアジアへの軸足設定の変更を思い出させるんですが、本書ではデジタル・トランスフォーメーション(DX)の時代において経営の中心を変更するという意味で使われています。何と、自社アクセンチュアをはじめ、ウォルマートやマイクロソフト、コムキャスト、ペプシコなど世界的な大企業におけるピボットの事例を豊富に紹介しています。当たり前ですが、ひとつの商品やサービスには、いわゆる、プロダクト・サイクルがあり、売れる時期もあれば盛りを過ぎることもあるわけで、多くの製品・サービスは時代とともに消え去ることも不思議ではありません。馬車が自動車に代替されるたり、メインフレームのコンピュータがサーバとPCに置き換わったりするわけで、長期に渡って同じ製品やサービスを供給し続けるのではなく、その軸足を変更する必要があります。それを第1部で「潜在的収益価値を解放する」と表現し、私のいつもの主張とは異なり、マネジメントの経営書にしてはめずらしく、失敗例をいっぱい並べたてています。第2部では「賢明なピボット」として、イノベーションのピボットを集中・制御・志向の3つのコンセプトから解き明かそうと試みています。そして、経済学的にいえば、全要素生産性であらわされるイノベーションのほかの2つの生産関数の生産要素、すなわち、資本=財務と労働=人材の観点からピボット、というか、ピボットのためのイノベーションをサポートする方策を探っています。第2部では第1部と違って、失敗例はほとんどなく、成功例のオンパレードですので、私のいつもの経営書に対する批判、すなわち、成功例の裏側に累々たる失敗例があるのではないか、という疑問がもう一度頭をもたげないでもないんですが、まあコンサルタントによる経営指南書とはこういうものだと考えるほかありません。最初に観点に戻りますが、製品・サービスの有限のプロダクト・サイクルに対して、それを生み出す企業というのは going-concern なわけですので、イノベーションあるいはイミテーションなどを基にした新たな製品・サービスの供給を始めないと継続性に欠けると判断されかねません。一部の公営企業などはそれでいいと私は考えないでもないんですが、民間部門では、当然ながら、大企業ほど経済社会的な影響が大きいわけですので、それなりの生き残り策を必要とするんだろうというくらいは理解します。ただ、理解できなかったのは、デジタル・トランスフォーメーション(DX)の時代における経営の軸足に関するピボット戦略なのかどうか、ありていにいえば、DXの時代でなくても有限のプロダクト・サイクルと going-concern の企業の関係はこうなんではないか、という気がしないでもありませんでした。

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次に、ペトリ・レッパネン & ラリ・サロマー『世界からコーヒーがなくなるまえに』(青土社) です。著者は、ノンフィクション・ライターとコーヒー業界に長いコンサルタントです。フィンランド語の原題は Kahvivallankumous であり、「コーヒー革命」という意味だそうで、2018年の出版です。ということで、私はコーヒーが好きです。オフィスにはコーヒーメーカーがあり、平日すべてではありませんが、お勤めのある日には2~3杯は飲んでいる気がします。しかし、本書の著者はコーヒーが世界からなくなる可能性も含めてコーヒーに関する「革命」あるいは大変革を議論しています。というのも、本書ではフィンランドが世界1のコーヒー消費国であるとされており、実は私の認識では1人当たりコーヒー消費量のトップはルクセンブルクだと思うんですが、確かに、フィンランドに限らず、ノルウェー、デンマーク、スウェーデン、などはトップ10に名を連ねているようにお記憶しています。そのコーヒー消費大国からコーヒーの将来を考える本であり、著者によれば、大量消費と気候変動のせいで、私たちが今までのようにコーヒーを飲める日は終わりを迎えつつある、ということになります。ですから、コーヒーを次世代にも残すために私たちは何をすべきなのか、あるいは、環境に配慮した良心的なコーヒーの生産と消費は可能なのか、といったテーマで議論を展開しています。まず、現在のおーひーの普及状況はサードウェーブとして、消費量拡大のファーストウェーブ、カフェラテなどのアレンジ・コーヒーが普及して多様なの見方が普及したセカンドウェーブから、原料としてのコーヒーに注目し、栽培された地域、コーヒー豆の収穫方法、そして焙煎のもたらす味への影響といった様々な点に注意を払う、という趣旨で、ワインなどと同じ飲み方に進化してきている点を指摘しています。しかし、30年後の2050年やあるいは2080年にはコーヒーは栽培・収穫されなくなっている可能性も指摘されています。サステイナビリティの観点から本書では、まず、栽培サイドのサステイナビリティ、我が国で今はやっている表現からすれば、コーヒー農園における働き方改革のようなものを考え、さらに、需要サイド、すなわち、我々のコーヒーの飲み方まで議論を展開しています。私が知る範囲でも、南米ではコーヒーに砂糖とミルクをたっぷりと入れて飲みます。実は私もそうです。しかし、本書の著者は、質の低いコーヒーに砂糖とミルクを加えてごまかすような飲み方は推奨しませんし、熱すぎるコーヒーも味をごまかそうとする意図がある可能性を指摘します。人間は体温と同じくらいのものがもっとも味を識別できると主張し、キンキンに冷えたビールも低品質のものをごまかしている可能性があるといいます。そういった、栽培サイドと飲用サイドの両方からコーヒーを大切に考え、サステイナビリティに配慮したコーヒーの栽培と飲用を本書では論じています。私は熱いコーヒーに砂糖とミルクを大量にぶち込んで飲む方であり、こういった分野に決して詳しくありませんが、コーヒーに限らず、多くの農産物やあるいは漁業などにも同じ議論が適用できる可能性があるんではないか、という気がします。

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次に、衣川仁『神仏と中世人』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー) です。著者は、徳島大学の歴史の研究者です。古典古代を過ぎて、平安後期から鎌倉期にかけての中世の宗教についての論考なんですが、この時期は古典古代の密教に加えて、いわゆる新興仏教、我が家が帰依している浄土真宗や日蓮宗などが起こり、さらに、禅宗が我が国にもたらされている時期となるものの、そういった新興仏教の観点は本書にはほとんどありません、浄土真宗信者の門徒としてやや不満の残るところです。といはいうものの、本書の冒頭では宗教に関して「富と寿」を求める中世日本人から説き起こし、かなり現世的な利益を求める人々の姿を描き出しています。まあ、現代から考えても、貴族や豪族などの当時の経済社会の頂点に近いところにいて、大きな格差社会の中で衣食住に困らない階層の人々は、現世的な利益よりも、むしろ、来世への望み、すなわち、輪廻転生を解脱して極楽浄土への生まれ変わりを願ったのかもしれませんが、明日をも知れぬ命のはかなさと背中合わせの一般大衆としては、来世のことよりも現世的な利益を求める心情は大いに理解できるところです。ただ、私なんぞは現世の利益は自分の努力である程度は何とかなる可能性がある一方で、来世の生まれ変わりだけは宗教に縋る必要あると考えるんですが、まあ、現代のように灯りもなくて暗い夜には魑魅魍魎が跋扈して、いろいろと怖い思いがあったんだろうというのは理解できます。ということで、繰り返しになりますが、現世的な利益のうち、本書で冒頭取り上げられるのは「富と寿」であり、前者の「富」は宗教とともにある程度努力や自己責任で何とかすることも視野に入ります。ただ、後者の「寿」は健康や生死観なんですが、コチラの方は宗教も大いに力ありそうな気がします。というのは、「病は気から」という言葉があるように、肉体的な条件とともに、精神的なパワーで病気を治癒させる可能性は決して小さくないからです。O. ヘンリーの「最後の一葉」なわけです。その点で、近代医学の観点から、その昔の加持祈祷なんて効果ないと見なされがちですが、私は決してそうでもなかろうと受け止めています。また、本書でも指摘されている通り、ホンネとタテマエがあって、農業社会の中で、農業生産が大きなアウトプットを占め、大部分の一般大衆が農民であったころ、天候に左右されがちな農業のため、雨乞いの儀式なんぞはそれなりに重要ながら、為政者も一般大衆も宗教が転校を左右できるとは常識的に考えないとはいえ、為政者としては農業振興のために何らかの宗教的な儀式を執り行うポーズを見せる必要あった、というのも理解できるところです。それにしても、私が子供のころには「バチが当たる」という宗教的表現はそれなりの重みあった一方で、今では耳にすることもないような気がします。

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最後に、山形浩生・安田洋祐[監修]『テクノロジー見るだけノート』(宝島社) です。監修者は、ご存じ、野村総研のコンサルタントで翻訳者と大阪大学の経済学の研究者です。最新テクノロジー、特にAIやIoTなどのICT分野の技術を中心にして、ゲノム解析などのバイオも含め、9つのカテゴリーに分けて、最近の流れを解説しています。その9分野とは、宇宙ビジネス、AIとビッグデータ、モビリティ、テクノロジーと暮らし、戦争とテクノロジー、フードテック、医療技術、人体拡張技術、小売りと製造業のテクノロジー、となっています。文章は平易で読みやすく、イラストもあっさりしているのでスラスラと読めて、各分野のテクノロジーの概要を知ることができます。まあ、テレビや新聞などのメディアでも広く報じられ、それなりの専門書も決して少なくない分野ばかりですから、それなりの教養あるビジネスパーソンであれば、すでに知っている部分も決して少なくないような気がしますが、私のようなテクノロジーが専門外のエコノミストにとっては、平易なイラストで技術をわかりやすく解説してくれるのは助かります。ただ、気を付けなければならないのは、テクノロジーに対して倫理中立的で、あくまで技術面の解説に徹している点です。すなわち、先ほどの9分野でも5番目には何気に「戦争とテクノロジー」が入っていますし、6番目の「フードテック」ではさすがに、遺伝子組み換え作物(GMO)に関する注意書きのような短文が見かけられますが、続く「医療技術」や「人体拡張技術」でのデザイナーベビーやほかの倫理的な議論については触れられてもいません。AIやビッグデータ、その他のICT技術に関してはテクノロジーの倫理中立性を仮定しても構わなさそうな気がしますが、人間はいうに及ばず、植物を含む生物の遺伝子レベルの操作に関するテクノロジーについては倫理的な側面についても、それなりの注意を払うべきではないか、と私は考えています。食品について、植物の天然モノはほぼなくなり、動物食材の天然モノも極めて少なくなって、栽培された植物、あるいは、飼育された動物の食材が多くを占めていますが、それだけに、天然モノの価値も忘れられるべきではありませんし、ヒトはいうまでもなく、植物を含めて生物を遺伝子レベルから操作することの危険性や倫理的な面の議論もバランスよく紹介すべき、と私は考えます。地球環境への配慮や生物多様性の議論も必要ですし、技術的に出来ることは、経済社会的に生産増につながり、人間の効用を増加させるのであれば、やるべき、もしくは、やって構わない、ということにはならないような気がするのは私だけでしょうか?

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