2017年5月20日 (土)

今週の読書は経済書中心に計7冊!

今週は話題の経済書『人手不足なのになぜ賃金が上がらないのか』をはじめ、経済書中心に小説まで含めて計7冊、以下の通りです。

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まず、玄田有史[編]『人手不足なのになぜ賃金が上がらないのか』(慶應義塾大学出版会) です。編者は東大社研で進めている希望学のプロジェクトなどで著名なんですが、本書は本来の専門分野である労働経済学に戻って、タイトル出て維持されているパズルの解明に当たっています。22人の精鋭エコノミストを中心に16本の論文を集めた論文集であり、従来のように、非正規雇用の増加、労働分配率の低下、生産性の低下についてはトートロジーの部分もあるとして排し、ミクロ経済学、マクロ経済学、行動経済学に基づく理論分析、実証分析、ケース・スタディなどのアプローチから議論を進めており、出版社からも明らかな通り、一般教養書ではなく学術書であると理解すべきです。でも、16章もあるんですから、それなりに一般向けの論文もあります。私は労働経済、特にマイクロな労働経済は専門がいながら、一昨年2015年5月にミンサー型の賃金関数を賃金センサスの個票から推計した論文を発表すた折に、それなりに賃金や労働経済について勉強しましたので、何となく読み進みましたが、それなりの基礎的な理解は必要かもしれません。各論文には、7つの観点からのマーカ、すなわち、需給、行動、制度、規制、正規、能開、年齢の7つのポイントのどれに相当するかを明記しています。労働・雇用の賃金を含めて、価格の伸縮性により需給が調整されるとする古典派経済学はもとより、不況期の賃金の下方硬直性を論じたケインズ経済学でも、現在の日本における好況期の賃金の情報硬直性、なんて考えもしなかったと思いますが、この難題に回答を試みています。基本的に、トートロジーの部分も少なくありませんが、本書の結論として有力な仮説は、バブル経済崩壊後の日本経済の停滞に中で企業が体力を消耗し、内部労働市場で雇用者をOJTにより育成することが出来なくなり、外部労働市場で派遣労働者などを受け入れていくうちに、非正規職員の比率を高める結果となり、本書では構造バイアスと称しているシンプソン効果により、正規も非正規もともに賃金が上昇しつつも、非正規のウェイトが高まるためにマクロの賃金は低下を続ける、ということのようです。ただ、本書では触れられていない続きがあって、おそらく低賃金の非正規を雇用するうちにマクロでデスキリングが生じている可能性が高いと考えるべきです。そして、安価な労働力が熟練を崩壊して生産性を低下させ、さらに悪い方向でのスパイラルが起こる瀬戸際なのかもしれません。私は半分くらいしか同意できません。おそらく、開発経済学のルイス転換点について論じた第7章の議論が私にはもっともしっくり来ていて、要するに、まだ完全雇用に達しておらず、労働のスラックは残っている、というのが正解なんだろうと考えています。また、第15章で論じているように、我が国では女性のパート労働者などの非正規雇用はそもそも低賃金労働と位置づけられてきた社会的な背景も見逃せないんだろうという気がします。現在までのところ、今年読んだ経済書の中ではマイベストかもしれません。

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次に、寺田知太・上田恵陶奈・岸浩稔・森井愛子『誰が日本の労働力を支えるのか?』(東洋経済) です。著者は野村総研のグループであり、テーマは労働力不足への対応、さらには人工知能(AI)の活用による人的労働力の代替まで視野に入れています。特に、後者については英国オックスフォード大学のオズボーン准教授らの研究成果も取り入れて、日本におけるAIによる代替確率が49%との試算結果を明らかにsており、2016年1月7日付けでこのブログでも取り上げています。ということで、本書では人手不足の日本経済にあって、海外からの移民、というか、「移民」という言葉は本書では慎重に避けているんですが、外国人労働力の受入れについては、日本の労働・雇用事情が必ずしも外国人労働者に魅力的ではない、と指摘して少しネガティブな見方を示しています。すなわち、長時間労働と賃金の低さがネックになるとの見方です。そうかもしれませんが、途上国からの単純労働の受入れに経済界が意欲を見せているのは不気味な気もします。ですから、外国人労働力ではなくデジタル労働力の活用に目が向くということになります。しかし、本書ではAIに主眼を置いており、いわゆるロボットについては、それほど注目していません。ドローンと自動運転くらいのものです。その上で、第5章で確実な5つのメガトレンドを指摘し、最初のメガトレンドとして、日本人アルバイトを大量に雇用するビジネス・モデルが困難になる点を取り上げます。本書では明示的ではありませんが、まさに、デフレ期に適したビジネス・モデルといえます。さらに、小売・物流・ヘルスケアでは雇用の経済条件の悪さから若年層の選別に遭遇して人手の確保が難しくなる可能性も第2のメガトレンドとして主張しています。そして、第5章ではこれら3業種の今後のビジネス・モデルについて、いくつかのシナリオを提示するとともに、最後の第6章ではAIに仕事を代替されるタイプとそうでないタイプの職業をいくつか上げて、人材育成の今後の方向などについて論じています。かなり先の時代に関する議論であり、どこまで本書の議論が該当するかどうか、私には何ともいえませんが、ある程度の方向は当たらないまでも、かすっているような気がします。最後に、どうでもいいことながら、巻末の職業別の代替可能性の推計結果の表を見ると、エコノミストの代替確率は0.4%でした。私はもうすぐ定年を迎えますからほとんど関係はないと受け止めているものの、何となく目が行ってしまいました。

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次に、イェスパー・コール『本当は世界がうらやむ最強の日本経済』(プレジデント社) です。著者はドイツ出身ながら、日本在住30年で在京の外資系証券会社などのエコノミストを務めた後、現在では、世界で運用資産残高630億ドルを超えるウィズダムツリーの日本における最高経営責任者(CEO)をしています。ということで、エコノミスト・アナリスト系の分析を本書では展開しています。本書はタイトルから明らかな通り、日本経済の現状を強く肯定するものであり、巷に広がる悲観的な見方を強烈に排しています。5章構成から成り、日本経済について、日本企業について、政府財政について、米国のトランプ政権成立による日本への影響、東京オリンピック。パラリンピックを含めた近未来の日本像について、をそれぞれ取り上げており、タイトルに見られる論調を展開しています。基本的なラインとして、私も同意する部分が多いんですが、順不同で3点だけ特徴的な議論を取り上げておきたいと思います。第1に、日本の財政が破たんする確率がとても低いのはもはやエコノミストの間で広く認識が共有されているような気がします。本書でも同じ論調です。逆に、財政破綻について議論したがるのは、もはやためにする議論としか思えません。第2に、本書ではデフレについて、現状を受け入れるとの論調を展開しているように見えます。しかし、第1章p.34では「賃金以上に物価が急上昇しているアメリカと比べたら、ずっとハッピー」というように、あくまで賃上げとの見合いで考えるべきという視点は私なんかと共通しています。第3に、第2章では日本企業の内部留保について、かなり強硬な意見を展開していて、すなわち、カギカッコの意味が不明ながら「規制強化」によって内部留保を無理やり使わせる政策を提唱しています。私の見方と大いに共通するものを感じます。こういったタイトルですから、眉に唾つけて読む読者が多そうな気もしますが、虚心坦懐にメディアの批判論調を念頭に、というか、座右に置きつつ、本書を読み比べて対応させつつ日本経済や日本企業の現状について自分なりに考えを巡らせるのもいいんではないでしょうか。いずれにせよ、こういった非主流派的な経済の見方を声高に主張する著者、というか、書籍もあっていいような気がします。すべてを鵜呑みにするにはややリスキーですが、メディアや主流派的な経済の見方を頭に置きつつ、セカンド・オピニオン的に読む本かもしれません。

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次に、李智雄『故事成語で読み解く中国経済』(日経BP社) です。著者は在京の外資系金融機関に勤務するエコノミストであり、韓国生まれです。その上で、この中国経済に関する本を書いているわけですから、東アジア限定ながら、かなりの国際人ということも出来るかもしれません。まあ、タイトルに見られる通り、中国の、というか、漢字圏の故事成語を各章の冒頭に置いて、それに関連する形で中国経済の解説を進めている点を別にしても、とても興味深いのは、中国経済に関して開発経済学的な見方をしている点です。本書の最初の何章かでは、吉川教授の『高度成長 日本を変えた6000日』を盛んに引用し、中国経済とルイス転換点についての言及もあり、私の専門分野に近い見方をしていると感じました。私が役所の同僚と昨年取りまとめたペーパーは、日本の高度成長期に関する研究だったんですが、単に日本経済の発展過程を明らかにするだけでなく、新興国や途上国の政府当局や民間企業のビジネスパーソンに対しても利益をもたらし、先進国を目指すキャッチアップに資するものを目指していました。まったく同じ観点といえます。いくつか、中国経済の解説の中で著者の見方も示されており、2020年ころまでには中国の成長率は大いに鈍化し4%くらいに落ち込む、という見方も私はその通りだろうという気がしています。本書でも引用されている米国ピッツバーグ大学のロースキー教授の論文の指摘をまつまでもなく、中国の統計の不正確さは定評のあるところですが、本書ではそれらの統計をひとつひとつ解説しています。特に、最終の第17章は著者のいう通り、通して読むより辞書的に読んだ方が適当なのかもしれません。それから、どうでもいいことながら、中国経済統計の季節調整が不十分なのは、本書で指摘するように、データ系列のサンプル数が足りない、というよりも、旧暦に従った春節がまったく不規則だからだと私は認識しています。クリスマスはいつでも12月ですが、中華圏の春節は1月になったり、2月に来たりします。この不規則性により、日本経済もかなりの影響を受けているわけで、何とかして欲しい気もしますが、どうにもならないんでしょうね。

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次に、ドン・タプスコット&アレックス・タプスコット『ブロックチェーン・レボリューション』(ダイヤモンド社) です。著者は新しいテクノロジー関連の専門家、というか、企業家らしく、あとがきや謝辞を見ている限り、親子ではなかろうかという印象を持っています。英語の原題は Blockchain Revolution であり、2016年の出版です。邦訳のタイトルはそのままで、どちらが先かは私には判りませんが、野口教授の『ブロックチェーン革命』が今年になって出版されており、このブログでは先月4月15日付けの読書感想文で取り上げています。ということで、要するにブロックチェーンに関する解説書なんですが、技術的な側面の解説はほとんどなく、経済社会、企業経営から始まって、民主主義や芸術まで幅広い分野での活用による大きな影響力を論じています。私はブロックチェーンとはデジタルな記録台帳であり、典型的には金融、特に、ビットコインに応用されていて、それなりにいわゆるフィンテックに活用されうる技術である、としか認識していませんでしたが、ここまで大きな風呂敷を広げている議論も新鮮な気がします。本書の読後に私がパッと思いつくだけでも、順不同に、交通、インフラ、エネルギー、水資源、農業、災害予測、医療・ヘルスケア、保険、土地台帳などの書類管理、ビル管理、製造・メンテナンス、小売業、スマートホーム、などなど、幅広い活用が期待されているようです。ただ、悲しいかな、私の知識は本書には遠く及ばず、理解がはかどりませんでした。以下、私の理解の限りで、インターネットが幅広い応用可能性を示し、センサー技術の進歩とともに、いわゆるIoTが進行して、あらゆるモノがネットに接続するようになった中で、かつては匿名の世界と考えられていたインターネットも、ほぼほぼプライバシーのない世界となっています。例えば、どこかの建物の写真をSNSにアップしたりしたら、アッという間に特定されかねません。そういった中で、インターネットに欠けているのがセキュリティであり、信頼できるプロトコルを提供するのがブロックチェーンといえます。分散処理されているために特定のサーバに依存することなく、パブリックに公開されていながら高度なセキュリティで保護されている、という一見背反する存在のデータベースといえます。高度なセキュリティ、というか、プルーフ・オブ・ワークの壁があって、とてつもなく大きなコストをかけないと偽造が出来ない、という方が正しいかもしれません。こういったデータベースがあって金融に応用されたりすると、銀行などの金融仲介機能が不要になって、従来の銀行利用者同士、すなわち、資金の提供者と利用者が直接に結びつくことが可能になり、ビットコインのような仮想通貨が広範に流通するようになれば、中央銀行の業務が空洞化する可能性もある、という意味で、現在の国家体制に対する大きなチャレンジになる可能性まで秘めているわけです。テクノロジー的には私の理解を超えていますが、金融をはじめとして経済社会に広く応用されれば、ある意味で、世界がひっくり返る可能性もありますので、エコノミストとしても目が離せません。

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次に、ジュリオ・アレーニ『大航海時代の地球見聞録』(原書房) です。著者は17世紀初頭に中国に赴任してきたキリスト教の宣教師です。イエズス会ですから、当然、カトリックなんですが、中国の方は明から清に政権交代する時期でもあります。本書はその著者による『職方外紀』の邦訳書です。約400年ほど昔の地球見聞録ですから、荒唐無稽な伝聞記も含めて、あるいは、ウンベルト・エーコの『バウドリーノ』ばりのホラ吹きというか、嘘八百も含めて、いろいろと奇怪な事実譚がつづられています。5巻まであって、アジア、ヨーロッパ、リビア(=アフリカ北部)、アメリカ、海洋の5巻構成です。当時の知識水準としては、さすがにコロンブス以降でアメリカも収録されていることから、地球が平板であるとは考えられておらず、地球は球形という認識は今と同じです。さらに、序文を寄せている中国人高級官僚、科挙に合格しているのでタイヘンな文化人と目される人物も、「世に伝わる胸に穴のあいた人や、踵が前についている人や、竜王・小人などについては、デタラメであるからのせない」と断っており、それなりの信憑性を持たせようと努力しているのは理解できますが、まあ、限界はあります。ですから、北海の浜に小人国があって、背の高さは2尺を超えないとか、100回顔を洗うと老いた顔が若返る泉とか、手がカモの足のような海人など、とても現在では信じられないような見聞録があったりします。アフリカがほとんど未知の大陸で、北アフリカをリビアとして取り出しているだけであり、また、アメリカは15世紀末に発見されてから100年ほどの段階の記述ですので、とても怪しげに受け止められていて、南米大陸最南端を「チカ」と称して、身長3メートルを超える巨人がいると記述したりしています。我が国では江戸初期の鎖国が完成したころの時代背景ですから、中国から輸入されて知識人は読んでいたらしいんですが、当時の人々もどこまで信用していたんでしょうか、あるいは、単なる面白い読み物、少なくとも現在では、当時の知的水準から見ても単なる面白い読み物、と我々は受け止めていますが、そういった扱いだったんでしょうか、とても興味があります。

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最後に、江國香織『なかなか暮れない夏の夕暮れ』(角川春樹事務所) です。作者はなかなか人気の女性作家なんですが、私は不勉強にして短編集の『つめたいよるに』しか読んだことがありません。この作品は、海外のサスペンス小説にのめり込んでいて、女の出入りが激しいながら独身中年の男性を主人公とし、ドイツ在住の写真家で日本にも家を持ってよく帰国する姉、認知していて同居はしていないが読書好きという共通点がある娘とその母親とその結婚相手の男性、さらに、親戚で友人の顧問税理士などが登場します。主人公がサスペンス小説にのめり込んでいるのは、働かなくても親の遺産で生活ができるからで、姉の写真が章を取った記念で、ほとんど道楽で開いたソフトクリーム屋の従業員なども登場します。それから、「なかなか暮れない」というタトルは寿命の延びた日本人の人生にも引っかけていて、主人公が認知した娘などのごく例外を別にすれば、主人公をはじめとして中年の登場人物ばかりです。そして、主人公に生活感がまったくない分、顧問税理士が生活感をすべて背負って登場し、再婚後の結婚生活を破綻させたりする一方で、主人公とその姉などは親の遺産に支えられつつも、のんびりと暮れて行く夏の夕暮れのように、とてもゆったりとした生活を送っています。高校教師の女性が別荘を探し出したりするのも、生活感という観点からは飛び抜けている気がします。とても興味深いのは、主人公と3人のシングルマザーとの関係性です。1人目は、子どもは認知したものの、籍を入れずに別れた女性、2人目はソフトクリーム店の元従業員で、主人公は何の関係もないのに、この女性が不倫の末に産んだ男の子を認知しています。3人目は高校時代の同級生で、最近男女の仲になったファッションエディターで、大きな男の子がいたりします。主人公はそれぞれに対して、関係ない子供の認知をして生活費を渡したりして、必要がない責任まで果たそうとするが、3人の女性は主人公のその根拠ない優しさ、というか、お人好しな行動のために、逆に、理不尽、というか、淋しげな思いをしているように見えます。途中で、テレビを見るのはやさしさの表れで、周囲の人とテレビ画面を共有できるのに対して、読書は共有できない、という観点がある女性から示されますが、これらの女性たちが人生を共有して、ともに生きて行く誰かを望むのに対して、主人公はあくまで読者の態度を貫いているように見えます。しかも、それが50歳という立派な中年男性を主人公に回っているわけですので、ダラダラ続く、というか、なかなか暮れないんだろうと思います。

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2017年5月13日 (土)

今週の読書は経済書や専門書に小説と新書まで合わせて計8冊!

今週の読書はやや先週よりも増えて、学術書である経済書に加えて、ノンフィクションの専門書に小説と新書まで合わせて計8冊でした。以下の通りです。

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まず、鍋島直樹『ポスト・ケインズ派経済学』(名古屋大学出版会) です。著者は名古屋大学の研究者であり、出版社と考え併せても、学術書であることは明らかですので、それなりの覚悟で読み進む必要があると思います。いくつか書き下ろしの章があるとはいえ、ほとんどの章は既発表の論文で構成されています。ただ、本書でも指摘している通り、「ポスト・ケインズ派経済学」という一派があるのかどうかは疑わしく、そこはマルクス主義経済学とは一線を画します。もっとも、ケインズによってマクロ経済学が創始されたわけでしょうから、私のような開発経済学を専門とするエコノミストも含めて、成長や物価、開発などをマクロの立場から研究・分析する一派は広い意味でのポスト・ケインジアンと読んでも差し支えないような気もします。ということで、本書ではケインズ経済学あるいはポスト・ケインズ経済学の主要な特徴として、有効需要の理論を上げています。私なんぞは価格の硬直性と考えないでもないんですが、まあ、いいとします。その上で、ニュー・コンセンサス・モデルにおける余りに実物的な均衡理論を批判し、需要の増加が物価を引き上げるだけに終わって、産出水準を引き上げない点を疑問視するとともに、マクロ経済における投資の役割と、それゆえの公共投資委員会の設立をもくろんだケインズの意図などを解説してくれています。また、古典派的な貨幣ベール論を廃し、金融政策の基礎を与えたケインズ経済学の評価を確立します。最後の第4部では、カレツキがケインズとは独立に同じ結論に足していた可能性を議論しています。また、最近のことですので、サブプライム・バブル崩壊に関連して、独自にケインズ経済学をひも解いたミンスキーの金融不安定仮説についても触れています。全体として、右派的・保守的な新自由主義経済理論に代わって、左派的かつリベラルなケインズ経済学・ポスト・ケインズ経済学の確立に向けた議論が展開されています。ただ、少し不満だったのは、もっと不平等や格差に関する議論が欲しかった気がします。最終的には成長に収斂する可能性は高いものの、経済学や経済政策を評価する軸として、格差是正がどのような位置を占めるか、不平等の是正をどう進めるべきか、などなどの議論につなげる観点が少し稀薄ではないか、と私は受け止めてしまいました。

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次に、加藤創太・小林慶一郎[編]『財政と民主主義』(日本経済新聞出版社) です。編者・著者は官庁出身の研究者が多く並んでいた気がします。日銀出身者もいたりします。人材豊富なのかもしれません。本書は東京財団の研究活動の成果とされています。ということで、本書では財政政策が民主主義下における決定による何らかの歪み、特に、財政の膨張や財政収支の赤字化のバイアスを持つ可能性を議論し、可能な範囲でその是正策を展開しています。すなわち、経済政策の代表格として金融政策が政府から独立した中央銀行によって運営されている一方で、本書が対象とする財政政策は歳入・歳出が予算として議会で議決される必要があり、その意味では、強い民主主義下での決定ともいえます。本書の何人かの論者は、暗示的ながら、欧州などにおける財政に関する独立組織を例示して、財政政策についても金融政策と同じように、専門家による運営を示唆している場合もありますが、私はまったく逆の主張であり、金融政策も民主主義下では国民の意思を無視しえないと考えていますので、ノッケから本書とは逆の立場に近いことを実感しました。しかし、第2章ではシルバー民主主義のバイアスが実証的に確認されており、その意味では私の主張に近いチャプターもあったりします。財政赤字を問題視し、アプリオリに財政収支均衡を政策目標とするのであれば、本書のような議論もあり得ることとは思いますが、財政政策の目標というそもそも論を開始した議論を本書では展開しているので、かなり空回りした印象があります。すなわち、財政政策の主要な機能としては通常の教科書的には3点上げられており、第1に資源配分の改善、すなわち、公共財の供給、第2に所得の再分配、すなわち、格差の是正、第3にマクロ経済の安定、となります。その中で、財政政策が民主主義下で赤字化しやすいバイアスを持つ可能性は、ブキャナン・タロックも論じている通りであり、私も否定しないものの、こういった財政政策の機能を無視する形で財政規模の縮小や収支均衡を論じても仕方ないんではないか、というのが私の感想です。財政赤字を回避したければ、いろんな方法があり得ますが、その際の財政政策の国民生活への影響や上に上げた財政政策の機能に対する何らかのトレードオフがあるのかどうか、そういった視点なしに単なる財政の収支均衡だけを論じても何の意味もないんではないかと危惧します。

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次に、八代充史『日本的雇用制度はどこへ向かうのか』(中央経済社) です。著者は慶応大学の研究者であり、本書ではホワイトカラーの人事管理、特に、同一産業・同一市場で競争している企業の人的資源管理は、日系、米系等の資本国籍間の人材獲得競争を通じて一定方向に収斂するのか、あるいは異なったままなのか、という、雇用制度間競争の視点から日本的雇用制度にアプローチを試みています。産業としては投資銀行を取り上げており、市場としては英国のロンドンと東京に着目しています。なお、最終章は自動車産業を取り上げているんですが、投資銀行と対比させて、我が国の得意分野、というか、比較優位のある産業の代表として概観していると考えた方がよさそうで、本格的に自動車産業のホワイトカラーの人事管理を分析しているわけでもなさそうな気がします。ということで、本書の分析の対象として中心となるのは投資銀行なんですが、典型的な産業と呼びうるかどうかには私は疑問を持っています。すなわち、マクラガンのサーベイに代表されるように、賃金調査が行き届いており、業界の平均的な賃金水準が一目で明らかになっており、しかも、歩合制セールスマンよろしく、ホワイトカラー労働者各個人の売上げや収益への貢献がかなりの程度に明確だからです。本書が対象とするホワイトカラーの人事管理は、あくまで、企業のフロントとなる営業部門であり、もっとも人事管理の分析で難しいそうな間接部門、典型的には総務や人事や経理などのホワイトカラーの生産性分析や、それに基づく人事管理賃金設定などに関する分析ではありません。ただ、資本基準で収斂するのか、市場基準で収斂するのか、とくに、日系投資銀行の人事管理について、統計分析ではなく、ヒアリングという代表制に疑問の残る手法ながら、ある程度の傾向を明らかにしたのは、それなりに評価すべきかもしれません。ただ、限界の方を強く感じるのは私だけではなかろうという気がします。

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次に、山口敬之『暗闘』(幻冬舎) です。今年4月1日付けの読書感想文で取り上げた『総理』と同じ著者により、同じ出版社から出されていて、続編といえます。著者はTBSの政治部の記者であり本書も基本的に取材に基づくノンフィクションと考えられます。本書では第2次安倍内閣以降の現内閣の外交政策に焦点を当てています。基本的に、従来からの職業外交官、すなわち、外務省のお膳立てによる外交について、特に対中国外交については、ほぼ相手国の言いなりになった主体性のない外交として廃され、国益を重視した主体性があって官邸主導の外交を進めようとする意気込みに満ちています。その昔であれば、諸外国のことについては政治家には情報が少なく、在外公館のネットワークを持つ職業外交官の方に比較優位があったのかもしれませんが、情報については政治家でも遜色なく入手できるようになり、しかも、組織的な外交というよりは首脳間の人間的な信頼関係に基づく外交が目指されるようになった結果として、政治主導・官邸主導の外交の現在があるといえるんですが、著者はそこまでの目配りは行き届いていません。ページ数で数えたボリュームとしては、当然ながら、ほぼ半分が対米外交に割かれていて、残りを中国とロシアが占めています。本書も示唆されている通り、ロシアと中国では世界経済に占めるウェイトが桁違いなんですが、我が国の場合は北方領土問題が残されており、まだ平和条約が未締結となっているわけで、欧米外交に占めるロシアの比重よりは重いものがあるのは理解すべきです。さいごに、時期的な関係で仕方ないんでしょうが、やはり、北朝鮮の瀬戸際外交と挑発については十分な紙幅が割かれていません。次の課題なのかもしれません。

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次に、塩田武士『罪の声』(講談社) です。2017年本屋大賞にて第3位にして、第7回山田風太郎賞受賞作品ですから、とても話題の小説です。作者は関西系の新聞社のジャーナリスト出身だったと思うんですが、私はデビュー作の『盤上のアルファ』と『女神のタクト』ほか何冊か読んだ記憶があります。この作品は、グリコ森永事件を下敷きにして、ノンフィクションっぽく仕上げた小説だと私は受け止めています。どこまで真実に基づいていて、どこからが著者の創作なのかは、もちろん、明らかではありません。江戸期のナントカ草紙みたいなものではないかと思います。グリコ森永事件はギンガ萬堂事件と表記され、かい人21面相はくら魔天狗と変えられています。犯人一味の家族が追うラインとジャーナリストが追うラインの2ラインありますが、真実に近づくにつれて2つのラインは交わっていっしょになります。当然です。プロローグとエピローグが別にあるものの全7章構成となっていて、第6章の後半で事件のほぼほぼ全貌が犯人一味のひとりからジャーナリストに語られる一方で、犯人一味のうちのある家族のその後について第7章で明らかにされます。まあ、常識的なセンですが、犯人一味は経済ヤクザ、警官崩れ、裏社会のフィクサー、過激派学生のなれの果て、また、在日やエセ同和などからなり、事件の前面に押し出された身代金まがいの金銭目的ではなく、株式の仕手戦での利益を少なくとも目的のひとつとしている点が明らかにされます。第3章や第4章くらいまでの前半は、個人が追いかけるラインはともかく、ジャーナリストが追いかけるラインは英国まで取材に行ったりして、緻密に構成されて緊張感も高く、それなりに読者をワクワクさせるものがあるんですが、後半に入って、特に第6章で英国にいる犯人一味のひとりがQ&Aで事件の全貌を明らかにするところは、いかにも「アッサリと自供した」という感じで、物語が進むに従って、作者の筆の疲れもあったのかもしれませんが、ストーリーの進み方が荒っぽくなった印象があります。特に、真実を追いかけるジャーナリストが何の妨害工作や危険にも出会わずに、割と一直線に真実に近づいて行くのが、何やら物足りないと感じる人も少なくなさそうな気がします。とても面白い着想なんですが、筆力や表現力ではなく、ストーリーの構成にもう一工夫あったら、さらに出来がよくなるような気がします。でも、ノンフィクションというか、真実に近い内容を含んでいると想像させるに足る小説です。

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次に、中山七理『翼がなくても』(双葉社) です。オリンピックを視野に入れた女子アスリート、陸上短距離200メートルの実業団選手が、隣家で引きこもりになっている幼馴染みの運転する自動車にひかれて陸上選手の生命である足を切断してしまうところからストーリーが始まります。そして、その加害者の幼馴染みが自宅で刃物により殺害されます。他方、オリンピックからパラリンピックに目標を切り替えて、高価な義足を購入して専任のスタッフ体制を充実させて、ひたすら邁進する主人公の女性アスリートの姿に共感を覚えるものの、殺人事件の謎解きミステリとしては凡庸といわざるを得ません。私自身は、この作者の岬洋介シリーズとヒポクラテスのシリーズは何冊か読んでいる一方で、悪徳弁護士を主人公とする御子柴礼司シリーズと刑事を主人公とする刑事犬養隼人シリーズはほとんど読んでいないんですが、この作品は謎解きのミステリが凡庸であることを作者自身も理解しているためか、キャストは豪華な布陣となっていて、シリーズ主人公の御子柴礼司と犬養隼人がダブルキャストで登場します。主人公の女性アスリートが次々と高額の資金を必要とする障害者スポーツ向けの用具やスタッフを準備するのと殺人事件の謎解きが表裏をなしているわけですが、ミステリとしても、障害者スポーツ小説としても、凡庸極まりなく、かなり物足りない、というよりも、むしろ、ガッカリさせられた気がします。

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次に、森永卓郎『消費税は下げられる!』(角川新書) です。著者はテレビなどでもおなじみのJT出身のエコノミストです。財務省の宣伝工作で「常識」とすらなっている感がありますが、日本の財政は先進国の中では最も不健全で借金頼みになっている、という事実について反論し、よくあるパターンながら、債権債務のネットで見るとか、いろいろと数字を示した後で、本筋の日本の財政が日銀のQQEにより超健全になり、サステイナビリティに何ら問題がない、という結論が示されます。ここまでなら、今までに出版されたいくつかの書籍と同じ主張です。この先が本書の特徴であり、日本の財政は決して悪くないのだから、消費税は下げられるし、消費税を下げれば現在の消費の停滞は打破できる、と主張します。まあ、その通りです。単に、消費税は下げられる、というだけではタイトルを見ただけでも得られる情報なんですが、消費税以外にも、かなり具体的な政策提言が含まれており、特に、第4章の税・財政改革の諸提案だけでも読むに値すると思います。いかに現行の制度が富裕層に有利で格差を助長するものとなっているか、についても理解が深まるような気がします。全体として、かなりリフレ派の発想に近い、すなわち、正統派の経済学に基づいている、と私は受け止めています。

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最後に、常見陽平『なぜ、残業はなくならないのか』(祥伝社新書) です。著者はリクルート出身の研究者らしいんですが、私はよく知りません。問いがタイトルになっていて、その回答は私には明らかなんですが、どうしても、質的な回答にならなければ得心が行かないということなんだろうと受け止めています。すなわち、私の目から見て、非正規の季節雇用がこれだけ増加しても残業があるのは、業務に対して雇用者が不足していて、量的に業務量とそれを実行すべき雇用者がアンバランスだからです。それを何とか生産性やカギカッコ付きの「質的な改善」で乗り切ろうということなんですが、ある程度までは出来るとは考えられるものの、業務を減らすか雇用を増やすかしか根本的な解決がないのに、なぜかその周辺をグルグルと回って、本質的な解決を提示せずに済むように取り計らっているようです。政府の働き方改革の中で、本書にも取り上げられている電通の過労自死事件があり、上辺だけ夜の10次で仕事を終えても、業務量としてせねばならない仕事がある限り、お持ち帰りのサービス残業をせざるを得ません。ですから、雇用を増加させるのがもっとも根本的な解決なんですが、そうすると雇用コストが上昇しますから、そこで初めて業務の削減に目が行く、ということなんだろうと思います。ヤマト運輸の現在のやり方ですし、本書でも最後の方は業務を厳選するという方向性も示されています。いずれにせよ、このタイトルの本書がこの内容ですから、ワーク・ライフ・バランスの取れた日本の未来はいつになればやって来るのか、とても不安な気がします。

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2017年5月 6日 (土)

今週の読書はゴールデンウィークでサボって計6冊!

今週はゴールデンウィークということもあり、ボケボケと過ごしています。読書は以下の通りで、計6冊です。

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まず、エステル・デュフロ『貧困と闘う知』(みすず書房) です。著者はこのブログの読書感想文でも2012年7月13日付けで取り上げた『貧乏人の経済学』の共著者であり、米国マサチューセッツ工科大学の開発経済学を専門とする研究者であり、同時にフランス開発庁の資金供与による「貧困と闘う知」講座の初代教授でもあります。本書はその講義録であり、フランス語の原題は LE DÉVELOPMENT HUMAINLA POLITIQUE DE L'AUTONOMIE となっていて、副題がともに Lutter contre la pauvreté のⅠとⅡです。原書は2010年の出版です。副題を邦訳書のタイトルとし、第1部が人間開発、第2部が自立政策と題されていますから、メインとサブのタイトルを逆転させつつも、ほぼ直訳といえます。邦訳された本書の第Ⅰ部では教育と健康が、第Ⅱ部ではマイクロファイナンスとガバナンス・汚職がそれぞれ取り上げられています。『貧乏人の経済学』でも注目されたランダム化比較実験(RCT)を駆使して、低開発国における経済発展の方策を探っています。第Ⅰ部の教育と健康については、まあハッキリいって、常識的な結論が得られています。いずれも外部性のある分野であり、政府の援助プログラムの有効性を検証しています。メキシコのPROGRESAの成功などを取り上げ、イースタリー教授らの政府援助を廃してインセンティブに基づく制度設計ではなく、サックス教授のようなビッグプッシュに至る前に政府開発援助が有効であることを確認した結果となっています。常識的というか、今さら感すらあって、特に目新しくもない一方で、興味深いのは第Ⅱ部です。特に、第3章はマイクロファイナンスを問い直す、と題され、金融へのアクセスについて分析が進められていて、元祖ともいうべきグラミン銀行の連帯責任の下での女性に原則特化した融資制度について検証を行い、取りあえず、現在のところ、男性と女性にランダムに融資した実験というものはなく、逆から見て、女性への融資が特に効果的であるというエビデンスはないと主張しています(p.117)。ただ、本書の著者に表現では「信頼できる評価を利用することができない」ということであり、本書でも認知されているように、女性に対する教育の充実が経済発展のゴールデンルートであることは多くの開発経済学者で共有されており、何らかの性差はあるのかもしれない、と私は考えないでもありません。当然ながら、マイクロファイナンスは開発経済学の実験材料を提供するために実施されているわけではありません。加えて、元祖のグラミン銀行とともにメキシコのコンパルタモスの例を引きつつ、逆選択、モラル・ハザード、情報の非対称性などの金融サービスにつきものの問題点についても考察を進めており、さらに、金融に限らないテーマとしてソーシャル・キャピタルの形成や取引費用についても論じていますが、結論はそうクリアではありません。

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次に、J.D.ヴァンス『ヒルビリー・エレジー』(光文社) です。米国のいわゆるラスト・ベルト=錆びついた工業地帯に生まれ育ち、高校卒業後に海兵隊からオハイオ州立大学とイェール大学ロースクールを出て弁護士となり、現在はシリコンバレーで起業した会社の社長を務めるいかにもアメリカン・ドリームの立志伝中の人物が自伝的に自分自身の生涯、イェール大学のロースクールを出るあたりまでを綴っています。ヒルビリーとか、レッドネックなどと呼ばれる米国の白人貧困層の赤裸々な生活実態が明らかにされています。作者は自分自身について、白人にはちがいないが、ニュー・イングランドなどのアメリカ北東部のいわゆるワスプ=WASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)に属する人間ではなく、スコッツ=アイリッシュの家系に属し、大学などの高等教育を受けることのない労働者階層の一員として働く白人アメリカ人の家系で出であると位置づけています。そして、何がヒルビリーをヒルビリーたらしめているかという点については、経済社会的な雇用の質の低下などではなく、本書の著者はヒルビリーたち自身の思考パターンや行動原理を問題視しています。見栄っ張りで自分たちが上流階級にいるかのような金の使い方、あるいは、我慢ができずにすぐに暴力に訴えるやり方、また、社会的な秩序を軽視ないし無視し力による支配を目指したり、教育の価値を理解せずに女々しいことと捉えたり、などなどといた個人レベルの問題点をいくつか本書の中で指摘しています。もちろん、成功したアメリカン・ドリームの体現者が上から目線で評論家のように指摘しているという嫌いはありますが、ひとつの見識かもしれません。昨年の米国大統領選挙のトランプ大統領誕生の背景となる米国経済の一面を垣間見ることができるかもしれません。

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次に、小木津武樹『「自動運転」革命』(日本評論社) です。著者は慶応大学出身で群馬大学の工学研究者です。ですから、ソフトウェアかハードウェアか知りませんが、自動運転に関する工学的な専門家といえます。ただ、本書では社会経済的な影響についても考察しています。工学的なソフトとハードの解明については、私は専門外でどこまで理解できたのかは自信がないんですが、第3章の自動車産業への影響、最終章第7章の自動運転の未来像については、私でもとても興味深く読めました。自動車産業については、コストカットの低価格路線かニッチな市場の探索か、という二極化の方向が示されていますが、少し物足りません。というのは、自動車産業に限らず、製造業や付加価値の低いサービス産業など、かなり多くの産業セグメントが、少なくとも日本においては、この両極化の方向をたどる可能性が高いからです。自動運転の専門家としては、工学の専門外かもしれませんが、こういった一般論ではなく、もう少し突っ込んだ議論を展開して欲しかったところです。最終章については、あくまで工学的な可能性に基づく推論としても、とても興味深かったです。すでに公務員の定年の60歳に手が届こうかという私にとっては、およそ平均寿命の先の未来も含まれていたりしますが、確かにこういった方向かもしれないと思わせるものがあります。ただ、2点だけ異論をさしはさむと、ユーザの年齢層を考えると、本書の著者が主張するように、運転技能の低下を自覚した高齢者層から自動運転車が普及するのではなく、自動車を単なる移動手段としか考えないミレニアル世代から普及しそうな気がします。というのは、高齢者はあくまで運転技能の低下を自覚しなさそうだからです、最後まで手動運転にこだわって事故を頻発させるのは、現状でもそうですが、高齢者ではなかろうかという気がします。もう1点は、手動運転を喫煙に例えていますが、高齢者が自分の運転技能に対する誤った評価に基づく手動運転にこだわる例を別にすれば、私は逆だろうと思っています。すなわち、洋服に対する着物のような位置を占める可能性が高いと私は想像しています。例えば、いつの時点かは忘れましたが、ポルシェのCEOがポルシェのオーナーなら自分で運転したいだろう、と発言して、自動運転の技術開発に消極的な姿勢を示したことがあります。こういったカンジではないでしょうか。いずれにせよ、ここ何週間かで自動運転に関する本を何冊か読みましたが、いよいよ時代の流れがそうなっていることを実感させられました。

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次に、吉田修一『犯罪小説集』(角川書店) です。作者は我が国を代表する小説家の一人です。それにしても潔いタイトルです。『怒り』や『悪人』に連なる系譜の作品と私は受け止めています。すなわち、犯罪に関連する短編集であり、「青田Y字路」、「曼珠姫午睡」、「百家楽餓鬼」、「万屋善次郎」、「白球白蛇伝」の5篇が収録されています。何らかの意味で、実際にあった犯罪行為を作者なりにデフォルメしているんではなかろうかと思いますが、オモテの世界の公務員である私には、3話目の「百家楽餓鬼」が大王製紙のギャンブル事件であるとしか判りませんでした。少し違うかもしれませんが、最終話の「白球白蛇伝」は清原なんでしょうか。ただ、こういった実際の事件とは無関係に読む方が、自由にイメージを膨らませて読む楽しみがあるのかもしれません。簡単に5話を要約すると、女児が行方不明になったことで揺れる小さな村の夏、三角関係のもつれで店の客に内縁の夫殺しを依頼したスナックのママ、バカラ賭博で何億もの借金を重ねる大企業の御曹司、老人たちの集落で孤立した60代の「若者」が振るう凶刃、華やかな生活から抜け出せなかった元プロ野球選手の借金の末の凶行、と並びます。犯罪や罪の行為に関する作者の鋭い、鋭すぎる目線を通じて、犯罪を犯してしまう人間とその犯罪者を取り巻く周囲の人間たちが浮かび上がってきます。何ともいえない哀情あふれる哀しい行為とその犠牲となった人々のさらなる哀しみが胸を打ちます。

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次に、村山早紀『桜風堂ものがたり』(PHP研究所) です。著者は私はよく知りませんが、童話や児童文学やファンタジー小説などを出版しているようで、私はこの作品で初めて接しました。主人公の月原一整は地方都市にある老舗の百貨店のテナントである銀河堂書店に勤め文庫本を担当する物静かな青年であり、人づきあいが苦手なものの埋もれていた名作を見つけ出して光を当てるケースが多く、店長から「宝探しの月原」と呼ばれ信頼されていたんですが、ある日、店内で起こった万引き事件の犯人の中学生が百貨店を飛び出したところに自動車事故にあい、万引き犯とはいえ配慮を欠いた行動として銀河堂書店を辞めて、ネット上のSNSでのお付き合いから、この作品のタイトルとなっている桜風堂書店に勤務します。そして、銀河堂書店から桜風堂書店にかけても、テレビドラマなどのシナリオライターが初めて挑み、最初から文庫本で発行される小説の販促に力を入れる、というストーリーです。小説に登場する人物相関図が出版社の特設サイトにあるんですが、とてもキャラの作りが平板で、しかも、「小説は事実よりも奇なり」というカンジで、ご都合主義的に出来上がっていて、読んでいて感動がないというか、少なくとも、ビジネスを経験した大人の読者には感情移入が難しいような気がします。要するに、おままごとのような書店経営が透けて見えます。というか、経営者ではない書店員の受け止めはこんなものかもしれませんが、1か所だけアマゾンが登場して、登場人物もSNSなどで盛んに情報交換・交流したりする一方で、なぜか、書籍販売だけは出版社の営業も含めて超アナログだったりします。このあたりの矛盾に気づかずに書き進んだり読み進んだりする神経が私にはよく理解できません。しかも、本を売る側のセルサイドの主張がいっぱいある一方で、バイサイドの読者側の感想がなくはないものの乏しいような気がします。顧客のニーズを書店員が作り出すという昔懐かしい発想の営業活動なのかもしれません。いずれにせよ、ストーリーといい、登場人物のキャラといい、私の読みたい小説のレベルには達していなかった気がします。楽しく読めましたが、児童文学っぽい平板な印象でした。もっとも、中村文則のようなノワール小説も私には理解できませんが、その逆の児童小説っぽいこの作品も評価しません。

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最後に、深井智朗『プロテスタンティズム』(中公新書) です。著者は東洋英和女学院大学の研究者であり、専門分野はドイツのプロテスタンティズムのようです。ということで、今年2017年はルターが95か条の提題により宗教改革の幕を切って落とした1517年からちょうど500周年に当たります。その宗教改革によって発生したキリスト教の新派であるプロテスタンティズムについて本書は論じています。一般的に、カトリシズムがバチカンの法王や法王庁を頂点とするピラミッド型の宗教である一方で、プロテスタントについては聖書が何よりの拠り所ですから、その解釈によっていろんな派閥に別れるとされています。また、私のような仏教徒には理解し難いんですが、本書でも取り上げられている通り、アウクスブルクの宗教平和により領主の信ずる宗教がその領土・領民の宗教となります。その最も典型的な例が英国国教会であることは言うまでもありません。王権神授説もさることながら、ヒストリアンとしての私の解釈によれば、領主裁判権が神の名の下に実行される影響ではないか、と考えているんですが、日本の江戸期などの封建制よりも農奴としての土地への緊縛の度合いが高かった欧州における宗教的特徴のひとつといえます。本書の最後の2章は保守としてのプロテスタンティズムとリベラルとしてのプロテスタンティズムを論じていますが、当然ながら、後者の典型例がヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』となっています。二重の予定説として、神の祝福を受ける人は現世で成功しているから、しっかり働いて社会経済的に成功することが天国への近道、という見方です。そして、本書では、私もほのかに感じていますが、ルターの信仰義認と浄土真宗の他力本願がとても似ていると指摘しています(p.63)。

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2017年4月29日 (土)

今週の読書はやっぱり9冊!

今週の読書も経済書をはじめとして計9冊でした。3月後半の読書から、週に8~9冊というペースが多く、中には11冊読んだ週もありましたが、かなりオーバーペースです。来週のゴールデンウィークは時間的な余裕あるのでいいんですが、さ来週くらいから少しペースを落としたいと考えています。

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まず、ロバート D. パットナム『われらの子ども』(創元社) です。著者は米国ハーバード大学の研究者であり、前著の『孤独なボウリング』もベストセラーになっています。本書の英語の原題は Our Kids であり、邦訳のタイトルはほぼ直訳といえます。2015年の出版です。米国における子供の不平等や貧困をインタビューと統計分析によりクローズアップしています。1950-70年代くらいまでの米国における上昇志向のアメリカン・ドリームについて、パットナム教授の体験に即して描き出した後、第2章から家族、育児、学校教育、コミュニティ、のそれぞれについてインタビューに基づく実例の提示と統計分析を示し、最終章で解決方法を論じています。一方で、恵まれた家庭の出自を活かしてビジネス・スクールを出てウォール街の投資銀行で働いたり、あるいは、ロー・スクールを出て弁護士として成功したりして、いかにもアメリカン・ドリームの体現者のような人々がいたりするんですが、他方では、父親が強盗で収監されている時にも母親は不特定多数の男と付き合っていて、子供本人はドラッグの中毒で、生徒によって銃が持ち込まれるような高校に通っている、といったやや極端な例が示されたりもしますが、ひとつひとつの実例も、統計分析も、受け入れられるものだと感じました。パットナム教授が特に強調するのは、親が大学を出ているかどうかで、各章後半の統計分析では、これでもかこれでもかというほど、いろんなグラフについて大学卒業の親の場合とそうでない親の場合を比較しています。しかし、各種の統計分析は著者も認めるように強い相関関係は認められるものの、決して因果関係を明らかにしているわけではありません。米国における子供の機会格差の現状とその処方箋を明らかにしようと試みていますが、すでに、世代をまたいで機会格差が親から子に継承される段階に入った米国で、どこまで時間をかけて解決できるのかはまったく不明です。日本に応用するとすれば、第1に、米国に見られるように、親から子に継承されるほどの機会格差の拡大をまず防止する必要があります。そして第2に、「下流老人」や「老後破産」などの高齢者の不平等に目が行きがちな日本の現状を考えると、もっと子供の不平等や貧困についての関心を高める必要があります。私の持論ですが、高齢者に手を差し伸べても、10年後も高齢者は高齢者のままですが、子供を救うことができれば10年後15年後には立派に成人して納税者に転じている可能性が十分あります。シルバー・デモクラシーを超えて子供の格差や貧困の問題がもっとクローズアップされることを私は強く願っています。本書がそのきっかけになるんではないか、とも期待しないでもありません。

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次に、ホッド・リプソン&メルバ・カーマン『ドライバーレス革命』(日経BP社) です。著者はコロンビア大学機械工学教授でまさにドライバーレス・カーのテクノロジーの最先端を専門とする研究者とテクノロジー・ライターでありドライバーレス・カーや人工知能や3Dプリンティングといった革新的なテクノロジーに関する執筆・講演活動を行っている専門家です。英語の原題は であり、2015年の出版です。ということで、身近にある自動車が自律型のロボットとなり、AIを搭載してドライバー不要の輸送機関になる未来像に関して、工学的、というか、テクノロジーの観点から将来性や実現性や課題などを論じています。ですから、私の専門分野に近い経済社会的な視点からの議論ではありません。また、ドライバーレス・カーに特化した進歩を遂げたわけでもないんでしょうが、人工知能(AI)に関して一般的なディープ・ラーニングなどの解説も豊富です。特に、AIに関してはチェスやクイズ番組でのIBMのディープ・ブルーやワトソンの活躍が人口に膾炙していて、ロボトットに関しては自動車や電機などの生産現場でも多く見かけるなど、クローズな場での専門的な用途に特化したロボットやAIはそうでもないんでしょうが、自動運転というドライバーレスな自動車のロボット化やAI搭載については、オープンな場で、しかも、人命がかかわりかねないケースですので、それまでのテクノロジーと一律に論ずることはムリがあると私は考えていて、本書を読んだ段階でも、テクノロジー的な理解がはかどらないせいでもあるものの、まだ、どこまでドライバーレス・カーを社会が許容するか、という問題には結論を出せていません。本書では何らかの尺度での安全性が人間が運転する2倍になれば許容すべきという提案が示されていますが、例えば、薬のように専門家が判断する効果ではなく、事故や故障といった社会的な影響が広く及ぶ外部不経済については専門家が科学的な見地から判断すべきなのか、社会的な通念も含む許容度の問題なのかが、私の中では結論が出ていません。経済政策で例えれば、金融政策は専門家が政府から独立して判断・決定すべきであり、財政政策は主権の存する国民の代表である議会で決定すべきである、といった制度的な政策決定の方法論がかなりの程度に確立しているわけですが、革新的なテクノロジーであるドライバーレス・カーについては、そういった判断のポイントも含めた国民的な議論が必要なのかしれません。

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次に、カート・キャンベル『The Pivot アメリカのアジア・シフト』(日本経済新聞出版社) です。著者は民主党系の外交研究者であり、第1次オバマ政権の当時のヒラリー・クリントン長官の下で国務省の次官補を務めています。ですから、現在のトランプ米国政権の、特に、対アジアの外交政策とどこまで関連があるかははなはだ疑問なのですが、pivot 名づけられた旋回政策の考え方を軸に、アジアへの旋回政策の歴史的背景、外交・軍事・安全保障をはじめ、通商や経済開発などの各分野に渡り、米国が今後どのような考え方やアプローチで日本をはじめとするアジア諸国に関与していくのかを具体的に論じています。特に、歴史的背景は政権交代があっても不変ですから、それなりに参考にはなります。でも、古い歴史的事実かもしれませんが、アジア各国民に対する欧米からの偏見の歴史を持ち出しても、現状には参考にならない気もします。ただ、戦後のマッカシーズムの影響で対中国外交政策がかなり遅れたのは事実かもしれません。オバマ政権のころのリベラルでマルチラテラルな外交と違って、現在のトランプ政権はかなり内向きでユニラテラルな外交・安全保障政策を実行している印象が私にはあります。シリアのアサド政権に対する巡航ミサイルの発射などは、かつてのブッシュ政権下で多国籍軍を組織した方法論とはかなり隔たりがあるような気がします。ですから、本書の議論がどこまで現在のトランプ政権で共有されているかはまったく不明としかいいようがありません。その意味で、本書で展開されているのは「過去の議論」、あるいは、オバマ政権のころのレガシーなのかもしれません。最後に、私が理解できなかったのは、米国だけでなく欧州も含めてみんなで旋回する、という著者の主張です。すなわち、私の理解では、旋回するのは米国であって、旋回の元が欧州や中東で、旋回の先がアジア、というシフトだったんですが、「欧州も含めてみんなで旋回」といった趣旨が2度ばかり出て来たんですが、専門外で十分なリテラシーのない私の読み方が浅かったのかもしれません。

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次に、山田敏弘『ゼロデイ』(文藝春秋) です。著者はジャーナリスト、ノンフィクション作家と紹介されています。タイトルのゼロデイとはOSを含むソフトウェアのまだ発見されていない脆弱性を指す専門用語だそうで、本書にも登場しますが、ソフトウェアのゼロデイを発見することをビジネスにしている個人や集団もあったりします。ということで、本書の冒頭は、いかにもありそうなサイバー戦争のフィクションから始まり、2009年に世界で初めて実施されたサイバー攻撃、すなわち、イランの核燃料施設をマルウェアに感染させ、遠心分離機を破壊してしまった攻撃は、米国の発信だといわれていますが、これはゼロデイを用いたものであったことを明らかにしています。また、こういったサイバー攻撃の最大の特徴のひとつは、アトリビューション、つまり、攻撃者が誰かが極めて巧妙に隠蔽されている場合が多く、どこの誰に対して反撃すべきかが不明である点だと指摘しています。同時に、インターネットでさまざまなモノがつながるIoTについては、セキュリティ的にはばかげたシロモノであると喝破しています。そうかもしれません。また、私なんぞのシロートから見れば、いかにもサイバー空間でのスパイ合戦としか見えないんですが、いろんな情報に関するセキュリティとそのハッキングの現状が明らかにされます。例えば、スノーデンによって暴露されたNSA(米国家安全保障局)による世界規模での監視網、あるいは、不気味な動きを見せる北朝鮮やイラクなど、サイバー攻撃の歴史を紐解きながら今、世界で何が起こっているのかを解説しています。そして、最後には、昨年の米国大統領選挙では、いくつかの意味でのサイバー攻撃がトランプ大統領に有利に働いた可能性を指摘しています。すなわち、クリントン候補が国務省長官の際に私用メールを使った疑惑がありますし、ロシアによる民主党へのサイバー攻撃が仕かけられたことは事実らしいです。そして、日本もすでにサイバー戦争に巻き込まれている可能性も示唆されています。最後に、本書で指摘されている高度なサイバー戦ではなく、もっとローテクで原始的ななやり方ですが、ロシア発のフェイクニュースがフランス大統領選挙などにも一定の影響を及ぼしている可能性があり、以下のハフィントン・ポストでも報じられています。ご参考まで。

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次に、曽我謙悟『現代日本の官僚制』(東京大学出版会) です。著者は京都大学の行政学の研究者であり、出版社からも明らかな通り、かなり純粋に学術書であり、定量分析も行われていることから、本書を読み解くにはそれなりの水準の知性が必要そうな気もします。ということで、我が国の官僚制についての論考ですが、最も狭く官僚制を定義しています。すなわち、ウェーバー的な文書による業務の遂行やメリットシステムなどの特徴を備え、大企業などを含めて多くの組織に見られる官僚制ではなく、立法府などと並び称される三権のうちの行政府において業務を遂行する官僚の組織、しかも、地方政府ではなく中央政府の官僚組織による業務の遂行や組織形態などを本書では対象としています。その我が国の官僚制について、特徴や問題点、パフォーマンス、過去の歴史とともに将来の方向性などについて論じています。第4-5章では世界の他国の政府と比較した上で定量分析も試みていて、我が国の官僚制の特徴が明らかにされています。まず、一般的に行政については、いわゆるプリンシパルとエージェントの関係として捉えられるんですが、第1段階の立法府では、選挙民たる主権の存する国民がプリンシパルになって、国会議員がエージェントになる一方で、第2段階の行政府では、国会議員がプリンシパルになって、官僚がエージェントになるという形を取ります。そして、日本の官僚制については、従来から、当地の質は高いが代表制が低い、という特徴的な位置を占めると本書は指摘し、日本に限らず、アジアの主要国では官僚の能力が高くて、従って、政策の質が高く、経済発展に貢献している、とも指摘しています。その要因のひとつとして、一部ながら、我が国のような議院内閣・比例代表制の下では、議会と執政=内閣のある程度の距離が執政による官僚制への介入を抑制させつつ、官僚の技能投資を引き出すとの結果を第5章の定量分析から得ています。また、官僚人事に対する政治介入の不在については、特に財務省の例を引きつつ、事務次官人事の間隔を安定させて、それに局長級人事を連結させることにより、ほとんど制度化したためである、と分析しています。財務省では、主計局長から事務次官に昇進するのが通例となっており、次の次の次の事務次官まで決まっている、とも称されており、こういった制度的に決まりきった人事を行うことにより政治介入を防止している、という結論のようです。ただ、日本の官僚制の大きな弱点は代表制の欠如であるとし、他の事項とも併せて、今後の課題をいくつか提示しています。私の直感的な理解としては、本書で扱う狭義の官僚制については、おそらく、政策の企画立案や執行に関しては国民の信頼は厚いものの、かつては「でもしか教師」と同じレベルで「でもしか公務員」とも称されたにもかかわらず、「失われた20年」の中で、公務員の待遇が民間企業平均よりもとてつもなく優遇されたイメージを惹起し、質の高さと比較しても待遇が手厚過ぎる、との印象が広まったのが大きな蹉跌ではなかったかという気がしています。まあ、自分自身が本書でいう狭義の官僚の一員ですので、何とも客観的な見方は難しいような気がします。

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次に、 岡本隆司『清朝の興亡と中華のゆくえ』(講談社) です。本書は叢書「東アジアの近現代史」の第1巻として配本されています。著者は学部は神戸大学卒で、大学院が京都大学と記憶していますが、京都大学宮崎市定教授門下なんでしょうか、いずれにせよ、宮崎教授と系譜の近い東洋史研究者であり、本書はタイトル通り、清朝の興亡を取り上げています。副題が「朝鮮出兵から日露戦争へ」となっており、まさに、日本と関連付けて豊臣秀吉による朝鮮出兵から、20世紀初頭の日露戦争までの期間を対象としています。なお、日露戦争とはまさに日本とロシアが戦火を交えたわけですが、ほとんどが当時の清の領土内で戦闘が行われていることは周知の通りでしょう。本書で私が着目したのは2点あり、ひとつは蒙古人の元と同じであって同じでない点ですが、著者のいうところの「入り婿」として、満洲人が漢人を支配するという形ではじまった清朝なんですが、基本的に直前の王朝だった明と同じで皇帝独裁体制であった、ということです。本書でも指摘されている通り、乾隆帝の時代に清朝は最盛期を迎え、その後の皇帝が暗愚であったわけでもないのに、時代の流れとともに凋落を始めます。いわゆる「内憂外患」なわけで、典型的には、内憂では白蓮教徒の乱と太平天国の乱、外患ではアヘン戦争とアロー戦争が上げられ、特に内憂に関しては、人口の増加とともに移民も増えて、そのために、いかにも中国的な秘密結社が内乱を生ぜしめた、という点です。もうひとつ私が注目したのは、明朝から清朝にかけては皇帝独裁体制の下で、いわゆる封建的な重層的支配体制となっていない点です。すなわち、我が国の江戸期などがそうですが、封建体制下では国王、日本では天皇というよりは将軍が天下人として君臨して大名が幕閣に参画する一方で、その大名も国元に帰れば家老などに支えられた政権があり、その家老や有力武士にも用人がいて、等々と重層的な権力体制が組まれています。でも、明朝や清朝の中国では皇帝が唯一の天下人となっていて、ただし、日本や西欧のような中央集権体制とはなっておらず、地方に有力な郷紳が存在する、という体制になっている点です。ですから、日本鳥がって中国が多民族から成っていることもあり、国民国家の形成が難しそうな気がします。まあ、いずれにせよ、現在の東アジアにおける日中韓に北朝鮮を加えた現在の地政学ないし力学的な現状を把握する上で、それなりの歴史的な認識は必要なわけでしょうから、特に、現在のように北朝鮮がほぼ末期的な状態を示す中で、こういった歴史書をひも解く必要があるような気がします。最後になりましたが、本書は決して学術書ではなく、一般向けの教養書と私は考えています。

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次に、山内マリコ『あのこは貴族』(集英社) です。作者は注目の小説家です。今週の読書で唯一の小説です。東京出身で恵まれた家庭に育った「貴族」のような華子と、田舎から上京して苦労して東京生活に対応し男性との付き合いはそれなりにうまくこなす美紀の2人の女性を軸に、幼稚舎から慶應でイケメン弁護士で国会議員も出した家計の男性がからんだコメディ、というか、恋愛小説です。この作者の小説は、私は『ここは退屈迎えに来て』と『アズミ・ハルコは行方不明』くらいしか読んだことがないんですが、この2冊を今までのパターンとすれば、2点違った点を上げることが出来ます。ひとつは主人公が田舎の女性ではなく東京生まれで東京育ちであり、ひと昔前の言葉でいえば、上流階級の出身だということです。もうひとつはセックスがそれほど出てこないことです。何だか忘れましたが、猫に関する短編を集めたアンソロジーでも山内マリコはセックスを取り上げるんだと呆れた記憶があります。取りあえず、アラサー女子の結婚や男女間の交際に関するストーリーです。場所は東京で、学校は慶應義塾を中心とする行動半径なんですが、私の場合は京都でキャリアの国家公務員ですから、かなり大きな違いがあります。でも、私はその昔のタイプの公務員ですから、同僚や職場の友人の中に、この作品に出てくるいい方に従えば、有名な建設会社と同じ名の名字を持つ女性を娶った人や国会議員の家柄の女性と結婚した人は、割といたりします。たぶん、外交官は私のような単なるキャリアの国家公務員よりも、もっとそうなんではないかと想像しています。外交官はいうに及ばず、公務員や会計士や弁護士は試験に合格する必要があり、それに、東京ではないとしても、京都出身というのは少なくとも田舎ではないと見なされる場合が多いので、私はス超すこの小説の作者とは立ち位置が違うと感じていたんですが、田舎の女性を主人公にする小説から脱皮して、山内マリコの新境地なのかもしれません。

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次に、竹信三恵子『正社員消滅』(朝日新書) です。著者は主として朝日新聞をホームグラウンドとするジャーナリスト出身の研究者です。非正規雇用が4割に達した現在、非正規雇用だけでなく、正規雇用のいわゆる正社員においても労働条件は過酷なものとなっています。名ばかり管理職とか、ブラック企業などがメディアにしばしば登場し、最近では名ばかり正社員ともいえる待遇の悪化が見られます。こういった雇用の現場をジャーナリストらしく、ていねいに取材した結果が本書に収録されています。基本的に、私は非正規雇用の拡大は形態を変えた絶対的剰余価値の生産であろうと受け止めているんですが、雇用だけでなく、ビジネスの本質としても、ヒット・エンド・ランというか、「焼畑農法」的なビジネスが広がっている印象を私は持っており、それが消費の場において耐久消費財の購入を躊躇させる要因のひとつとなっている気がします。さらに、過酷な労働条件の下で生産された製品が、価格以外の品質面で消費者に魅力的なわけもなく、所得面の低さも合わさって、消費を低迷させている大きな要因のひとつとなっている可能性があります。不安定な雇用を起源とする需要サイドの低所得、供給サイドの品質の低さ、そして、企業活動としての「焼畑農法」的なビジネス慣行の3つが消費低迷の大きな要因となっています。加えて、長期的なマクロ経済を考えると、このブログでも何度か主張したように、低賃金で長期間の熟練不要な作業に重視していると、本来は几帳面で勤勉な日本人でもデスキリング=熟練崩壊が生じる可能性が高まります。本書では、こういった憂慮すべき労働の実態をリポートしています。

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最後に、深沢真太郎『数学的コミュニケーション入門』(幻冬舎新書) です。著者はビジネス数学の専門家・教育コンサルタントだそうです。幻冬舎のサイトで連載されていた「数学的コミュニケーション入門」のコラムを取りまとめて出版したもののようです。ですから、幻冬舎のサイトをたんねんに見れば、本書を読書する必要はないのかもしれません。先週の『文系のための理数センス養成講座』の続き、というカンジで軽く読んでみました。いかにも、コンサルらしく先週の読書結果と同じで、上から目線の「教えてやる」スタイルの本ですので、好き嫌いはあるかもしれませんが、こういったスタイルに有り難味を感じる人も少なくないような気がします。本書の最初の指摘ですが、いかにも日本的な正確性にこだわるよりも、大雑把に概数で把握して伝えた方が判りやすい点については私も大いに同意します。私の勤務する役所なんぞは典型的なんですが、河上肇のように「言うべくんば真実を語るべし、言うを得ざれば黙するにしかず」といったように、外に対して何らかの表明をするのであれば正確でなければならず、正確な回答が不可能ならゼロ回答にする、というのは、世界的には通用しない気がしますし、概算や概数でも何らかの情報がある方がないより大きくマシだという点は理解すべきです。また、本書で著者が指摘する第2の点は相関関係についてであり、これも、最近読んだ本で相関関係ではなく因果関係こそ重要との指摘はあるものの、特にビッグデータの世界では因果関係を確定するよりも相関関係を見出すことの方が重要だと私も同意します。ほかに、スキマ時間をうまく過ごして数学的センスを磨く、とか、絶対にやってはいけないグラフのNG行為などは受け取り手により感想は異なることと思います。ただ、いくつかの点でグラフをうまく使ったプレゼントいうのは印象的であることについては私も異論はありません。むしろ、グラフの色使いなのかもしれません。

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2017年4月22日 (土)

今週の読書は経済書や専門書に加えて話題の小説など計9冊!

今週は経済書や専門書・教養書に加えて、直木賞受賞の小説や本屋大賞1位2位、というか、直木賞と本屋大賞1位は同じなんですが、そういった話題の小説も含めて計9冊でした。これから夕方にかけて図書館を自転車で周る予定ですが、ゴールデンウィーク直前の来週の読書やいかに?

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まず、橘木俊詔『家計の経済学』(岩波書店) です。著者は著名なエコノミストであり、私の母校である京都大学経済学部をホームグラウンドにしていました。本書は3部構成となっており、家計の歴史的変遷、家族の変化、格差・貧困をそれぞれで取り上げています。GDPのやく3分の2を占めるのは家計による消費であり、成長や景気を論じる際、マクロ経済学的に重要であるだけでなく、本書の第3部で着目している格差や貧困などのマイクロな経済学の観点からも、かつての1億総中流時代を終えて、最近時点で重要性が増しています。本書は日本の人口変動、家族形態の変遷から説き起こし、働き方や所得分配や消費・貯蓄動向を分析することによって、明治から現代まで日本人がどのような家計行動をしてきたかを示そうと試みています。家計に関する経済学限りませんが、戦前と戦後では大きな断絶があり、明治から戦前の日本経済においては女性の労働力率のM字カーブは見られず、終身雇用や年功賃金なども戦後の高度成長期の人手不足に整備された雇用慣行といえます。また、家計の経済学とは直接の関係がないことから本書では取り上げていませんが、企業の資金調達なども戦後のメインバンク制による間接金融ではなく、戦前は社債の発行などによる直接金融でした。戦前は格差が大きかった一方で、戦後は単騎に終わったとはいえ財産税の徴税もあって、格差縮小が一気に進んだという点は見逃されるべきではありません。ただ、最近時点では非正規雇用の拡大による格差の拡大が観察されるのは本書でも指摘する通りです。また、女性の就業についてもダグラス=有澤の法則が支配的になった時期もありましたが、最近では少し崩れつつあるようです。最後に、本書では、第12章で貧困について分析を加えており、貧困拡大の主因としてバブル経済崩壊後の深刻な不況による失業の増加と賃金の低下、また、そういった状況下での企業のリストラ策の一環としての非正規雇用の増加を、著者は第1と第2の原因として上げていますが、そのわりには、成長に対して消極的な考えを本書でも散りばめているのが私には理解できません。低成長下ですべての貧困対策を政府が担うべき、という意見なんでしょうか。それにしても、税込みなら5,000円を超えるお値段は買い求めるには、かなり高い気がします。

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次に、沢井実・谷本雅之『日本経済史』(有斐閣) です。著者2人はいずれも日本経済史の研究者であり、本書は16世紀終わりの織豊政権期から1970年代初頭くらいまでの高度成長期をカバーした日本経済史のテキストです。私は大学時代は西洋経済史のゼミでしたので、それなりに経済史は馴染みがあります。江戸期では小農経営主体の農村経済と大消費地たる京・大坂・江戸の都市経済を対比させつつ、明治維新期から戦間期、そして太平洋戦争前後の混乱期とそれに続く高度成長期を跡付けており、具体的な章別構成は、第1章 「近世社会」の成立と展開(1600~1800年)、第2章 移行期の日本経済(1800~1885年)、第3章 「産業革命」と「在来的経済発展」(1885~1914年)、第4章 戦間期の日本経済(1914~1936年)、第5章 日本経済の連続と断絶(1937~1954年)、第6章 高度経済成長(1955~1972年)、となっています。直観的な構造変化と統計、というほどのものではないにしても、何らかの定量的な史料で裏付けられた数量の分析を基に、我が国近世から近代・現代の経済史を解き明かしています。ただ、戦後の占領軍による改革が少し弱い気がします。特に、農地改革がスッポリと抜け落ちているのは不思議です。私の従来からの主張の通り、歴史の流れは基本的に微分方程式の系に沿って進んでおり、従って、初期値が決まればアカシックレコードのように未来永劫に渡る歴史が決まってしまうと考えていて、別の味方をすれば、量子物理学以前のニュートン的な決定論かもしれませんが、ラプラスの悪魔の見方とも言えます。しかし、実際には、アカシックレコードではなく、確率的にジャンプするシンギュラリティがあり、本書のスコープとなっている期間の日本経済史では明治維新と太平洋戦争がその特異点に当たると私は考えています。西洋経済史では産業革命です。そこをいかに説明できるかが経済史のテキストの値打ちを決めると私は考えていますが、本書は何とか合格点だという気がします。

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次に、ピーター・ナヴァロ『米中もし戦わば』(文藝春秋) です。著者は米国のカリフォルニア大学アーバイン校のビジネス・スクールの経済学の研究者であり、外交や安全保障の専門家ではないようです。ただし、トランプ米国大統領の政権移行チームで政策顧問を務め、経済、貿易、そしてアジア政策を担当していたらしいです。英語の原題は Crouching Tiger であり、まさに陸上競技のクラウチング・スタートのように伏せをした虎、という意味です。2015年の出版となっています。私はまったくの専門外ながら、本書では70%という具体的な確率を上げて米中の開戦の可能性が高いと指摘しつつ、どうすれば開戦を回避できるかを考察しています。9.11テロの後の当時の米国のブッシュ政権では国連決議を待たずに同盟国と組んだ多国籍軍という形での軍事行動を中東やアフガニスタンで行いましたが、現在のトランプ米国大統領は同盟国すら説得することなしの単独軍事行動を志向する可能性があります。現実にシリアのアサド政権の軍事基地に向けて巡航ミサイルを打ち込んだりしているわけです。北朝鮮に対しても中国の出方次第では日韓の頭越しに単独の軍事行動を取る可能性もゼロではありません。そのトランプ政権の懐刀として、本書の著者は米中開戦の確率をかなり高めに見積もり、しかも、「弱さは常に侵略への招待状」(p.354)として、同盟国を守りつつ米国が軍事的に中国の脅威に対処する重要性を強調しています。従って、というか、何というか、本書は中国の軍事力や戦略に関するバランスのとれた分析では決してないと私は思うんですが、現在のトランプ政権の下でのあり得る軍事的なシナリオを提示していることは間違いなく、その意味で、米中開戦はホントにあれば我が国経済なんかはぶっ飛ぶお話しですので、エコノミストととしても気にかかるところです。

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次に、竹中治堅[編]『二つの政権交代』(勁草書房) です。政治学の研究者による2009年と2012年の2回の政権交代に関する研究所です。具体的な政策テーマとしては、農業、電力、コーポレート・ガバナンス、子育て支援、消費増税、外交、防衛大綱の改定、集団的自衛権の8分野について、4つの分類、すなわち、政権交代に際して政策が大きく変更されたもの、2回の政権交代にもかかわらず政策の継続性が高いもの、2009年の政権交代で政策変更されたものの2012年の政権交代では継続性が高かったもの、逆に、200年の政権交代では継続的だったが2012年の政権交代では大きな変更を見たもの、の4カテゴリーを見出しています。最初のカテゴリーには農業や子育て支援が当てはまり、アジアを中心とする外交政策は2度の政権交代に渡って変更の少なかったものであり、第3のカテゴリーがもっとも多くて、電力、コーポレート・ガバナンス、消費増税、防衛大綱が含まれるとしています。しかし、私は外交については民主党政権下で米国一辺倒からの脱却と中国寄りの姿勢が見られ、それがために当時の米国オバマ政権から鳩山内閣が見放されたんではないかと見ていますので、少し疑問に感じます。でも、2009年の民主党政権による政策変更を2012年の安倍内閣が引き継いだケースが割合と多い、というのは実感としてもそうだという気がします。ただ、本書の視点そのものが私には疑問です。すなわち、政権交代があったから政策変更がなされたわけではなく、何らかの条件の変化、例えば、米国の地位の低下と中国の台頭とか、我が国の高齢化や少子化の進行とか、そういった条件の変化が政策の変更を要求し、それが結果として政権交代の必要を高めた、と私は逆の因果関係を見出すべきではないかと考えています。まあ、それにしても、まずまず興味深い政策動向の分析だっっという気がしますし、単に政策の内容だけでなく、ついつい結果を重視するエコノミストの視点からは抜けがちな政策の決定システムやプロセスがキチンと分析されており、勉強になった気がします。

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次に、畑中三応子『カリスマフード』(春秋社) です。著者は編集者、というか、ジャーナリストと考えてよさそうで、もちろん、専門分野は食品なんだろうと思います。前著が『ファッションフード、あります。』というタイトルらしく、私は読んでいませんが、要するに、流行りの食品という意味で「ファッションフード」と称していますから、本書のタイトルの「カリスマフード」はその比較級なしい最上級なんだろうと私は受け止めています。ということで、本書では上の表紙画像に見られる通り、肉・乳・米を取り上げて、明治期からの日本人の食生活を論じていますが、最初の2つの肉・乳と米では位置づけが異なり、肉と乳についてはまさに明治期から日本の食生活にファッションフード、カリスマフードとして導入された一方で、米についてはダイエットからお話が始まっています。明治維新とその直前の会告で外国人と接するようになって、日本人との体格差を歴然と認めざるを得ないようになり、また、帝国主義の時代背景から植民地化を回避するというより、むしろ積極的に植民地を求める富国強兵政策の下で、軍の将兵の体格差を食傷すべく食生活の改革が始まったのは歴史的にそうなんだろうと思います。それにしても、肉食はまだしも、牛乳の飲用については我が国の歴史開闢以来初めて大々的に開始されたわけであり、本書でも衛生観念の欠如から様々な事故があったことが取り上げられています。これを悪意を持って受け止めれば、ミルク排斥論にもつながるわけなんだろうと思います。私は実はミルクがいまだに好きで、ならして見れば、1週間で2.5ないし3リットルくらいの牛乳を飲んでいるような気がします。コーヒーも好きですが、明らかに、もっとも大量に飲用している液体は牛乳だろうと思います。私は世代的に小学校入学時はアノ脱脂粉乳を給食で飲まされて、途中でビン牛乳に変わった世代なので、いまだにミルクを嫌悪する人も少なくありませんが、決して牛乳は嫌いではありません。でも、身長は同世代の中で、それなりに高いは高かったんですが、びっくりするほど高かったわけではありません。最後に、明治期の米にまつわる脚気論争は何となく知ってはいましたし、森鴎外が軍医として誤った見解に固執したのは歴史的事実なんですが、海軍と陸軍を分けて見るなど、なかなか興味深い取り上げ方だったような気がします。最後に、鶏卵についても牛乳とともにいわゆるその昔の表現でいえば「完全食品」なわけで、コチラは江戸期から食用に供されていた点に違いはありますが、もう少しスポットを当ててもいいような気がしました。私のような食いしん坊には読んでいて楽しい本でした。

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次に、恩田陸『蜜蜂と遠雷』(幻冬舎) です。直木賞受賞作品にして、本屋大賞1位に輝いています。ピアノコンクールの物語です。架空のコンクールとして、3年ごとに開催される芳ヶ江国際ピアノコンクールを設定し、このコンクールを制した者は世界最高峰の国際ピアノコンクールで優勝するとのジンクスがあり、近年注目を集めていたりするという設定です。このコンクールに挑戦するのが、ハッキリいって、やや異様な顔ぶれで、これだけで少し私は読み進む興味をなくしたりしてしまいました。すなわち、養蜂家の父とともにフランス各地を転々とし自宅にピアノを持たない少年・風間塵15歳、かつて天才少女として国内外のジュニアコンクールを制覇しCDデビューもしながら13歳のときの母の突然の死去以来、長らくピアノが弾けなかった栄伝亜夜20歳、音大出身だが今は楽器店勤務のサラリーマンでコンクール年齢制限ギリギリの高島明石28歳、完璧な演奏技術と音楽性で優勝候補と目される名門ジュリアード音楽院のマサル・カルロス・レヴィ-アナトール19歳、の4人が主要なコンテスタントなんですが、ここまで極端にキャラを立てないと小説が進まないのは、やや失望感を味わってしまいました。実は、私もピアノレッスンを受けていた経験がないわけでもないんですが、何せ、それなりのレベルのピアノのコンクールですから、通常なら5歳より前にピアノを習い始め、音楽高校や音大に進んだミドルティーンから20歳前後までの、おそらく、良家の子女が参加するものであり、天才であったとしても練習の努力なしにオーディションを通過してコンクールに参加できるものではありません。逆に、そういった練習しない天才が残れるコンクールは底が浅い気もします。ですから、そういった細かな差しかないコンテスタントをていねいに書き分ける筆力が要求されるんですが、その書き分けをせずに、かなりムチャなキャラの設定でごまかそうとしているような気がします。たしかに、本書でも参照されている越境型のピアニストとしてグルダがいて、元々はベートーベンの曲を得意にしていたところ、ジャズの即興演奏に手を出したりした事実は私も知っていますが、まあ、この作者の筆力・表現力でもって音楽を文字で表そうとした時点で限界があったような気がします。本屋大賞や直木賞を受賞したにしては失望した作品でした。昨日金曜日の夜遅くの段階で、アマゾンのレビューで、5ツ星が94人に対して、1ツ星も15人いることが、何となくこの作品をよく評価しているような気がします。ただ、「ギフト」という言葉の本来の意味を正しく使っている点は評価します。ここでは、贈答という行為とか贈答品という意味に加えて、神から与えられた特別な才能、という意味でも使われています。

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次に、森絵都『みかづき』(集英社) です。コチラは本屋大賞の2位作品です。昭和から平成にかけての激動の学習塾業界を舞台に、千葉を舞台に3代にわたる50年余りの長期に渡る家族の奮闘を描いています。実は、『蜜蜂と遠雷』もそうだったんですが、本書も特定の主人公、というかストーリーテラーはいません。3人称で視点を変えながら書き綴っています。ただ、本書というか、この作品の作者のひとつの特徴として、個人や家族といった小さな物語だけでなく、天下国家の大きな物語をうまく組み合わせる点を忘れることが出来ません。実は、私はこの作者の作品は直木賞を受賞した短編集の『風に舞いあがるビニールシート』くらいしか読んだことがなくて、恩田陸の作品の方が『夜のピクニック』などたくさん読んでいるような気がするんですが、直木賞受賞作に収録されていた表題作の「風に舞いあがるビニールシート」は難民についても考えさせられる作品でした。ということで、本書は大きな物語として学習塾産業と文部省のせめぎあいも取り上げています。いわゆる学校、文部省が監督する公教育と称される小学校から中学校、高校、大学が太陽であるのに対して、学習塾や、本書では明示的に登場しませんが、予備校などは月という位置づけです。かつて、南海ホークスの野村が巨人のONをひまわりに、自分を月見草に、それぞれなぞらえたようなカンジでしょうか。かなり壮大な小説です。大きな物語に対する家族の中での小さな物語も見逃せません。狂気と紙一重の情熱を秘めた女性、それに対する男性の実務的でありながら、教育に対する熱意を感じさせる言動や行動、などなど、教育について考えさせられるとともに、家族についても考えさせられる作品でした。まあ、そんなに近い将来というわけではありませんが、NHKの大河ドラマになってもおかしくない傑作です。ただ、私も直木賞を受賞した『風に舞いあがるビニールシート』を読んで感じた点ですが、やや不自然であざとい展開が見られなくもありません。よくいえば作り込まれたストーリーなのかもしれませんが、不自然で作為的な印象を持つ読者もいるかもしれません。最後に、これまた、アマゾンのレビューなんですが、5ツ星が31人しかいませんが、1ツ星と2ツ星がいないのもめずらしい気がします。

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次に、 竹内薫『文系のための理数センス養成講座』(新潮新書) です。著者は科学ライターと称しているようですが、ちゃんと博士の学位もお持ちのようですし、それなりにサイエンスの見識があるんだろうと思います。ただし、タイトルに沿った展開をしているのはせいぜい前半だけで、後半は科学にまつわる四方山話に陥っています。前半では、文系よりも理系を上に置くという前提に立って、ダメな文系サラリーマンに対して理系の素晴らしい思考方法や考え方を教えてやる、という上から目線を遺憾なく発揮しています。ただ、プログラミングができる能力を重視する姿勢は私もかなり同意します。エコノミストも数量分析のためのプログラミングは必須の能力となっています。ちなみに、私もいくつかの計量ソフトを操りますし、汎用言語のBASICでもプログラムを組むことができます。ただ、本書の前半の前提となっている文系はダメで理系がいいんだというのは、どこにも理論立てていたり実証されていたりしませんから、本書の著者の勝手な思い込みかもしれません。一般的な傾向として、文系のほうが理系よりも英語ができる国際派が多いような気がするのは私だけでしょうか。また、これまた一般的に、理系学部の卒業生よりも文系学部である経済学部や法学部の卒業生の方が生涯賃金が高いのはどうしてか、もちゃんと頭においておく必要がありそうに思います。でも、こうった根拠なく理系の人が文系よりも理系のほうが優れていると考えがちで、やや視野が狭い傾向も一般論として理解できる点ではあります。

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最後に、原田國男『裁判の非情と人情』(岩波新書) です。著者は刑事畑の裁判官を長らく勤めて定年退官し、現在は法科大学院の教員と弁護士をしています。本書は岩波書店の月刊誌『世界』に掲載されていたコラムを取りまとめたものです。藤沢周平の『玄鳥』や池波正太郎の『鬼平犯科帳』などをこよなく愛し、こういった人情あふれる裁きを目指していたとの述懐があります。私もこれらの作品は大好きなんですが、同様に、エリス・ピータースの修道士カドフェルのシリーズも、必ずしも、報の定めに杓子定規に従うばかりではなく、人情味あふれる解決を探る姿勢は同じような気がします。また、刑事裁判官として、刑法の定めの精神は有罪か無罪かの判決とは白黒をハッキリさせるのではなく、明らかに有罪であるか、あるいは、明らかに有罪とはいえないか、を判決で明らかにすることであり、黒か黒でないかを判断し、疑わしきは被告の利益に、というのが本来のあるべき姿、というのには、なるほどと感心しました。また、私のような公務員もそうではないかと思いますが、裁判官のような実務家は時間に正確であるべきだが、学者などの研究者は時間にルーズである、といった観察結果も明らかにしていて、私は公務員でありながら研究職であり、実務家と研究者の中間的な存在ではなかろうか、と思わずにはいられませんでした。現在の日本では、裁判の判決、入学試験、あるいは、選挙結果などについては概ね公平性や中立性が担保されていて、国民からの信頼も篤いと私は受け止めていますが、こういったキチンと判断できる裁判官、あるいは、常識的な判断が可能な公務員や教員などが実務家としてこういった制度を支えていることを忘れるべきではないと感じました。

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2017年4月15日 (土)

今週の読書は途上国の開発に関する石油のネガティブな役割に関する専門書など計9冊!

今週の読書は、私の専門である途上国の開発関係、でも、開発経済学ではなく、何と、開発政治学関係の本をはじめ、量子物理学や生物学、小説も含めて、大いに飛ばし読みに励み、以下の9冊です。

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まず、マイケル L. ロス『石油の呪い』(吉田書店) です。著者は米国カリフォルニア大学UCLAの政治学の研究者です。本書の英語の原題は The Oil Curse であり、2012年の出版です。邦訳タイトルはほぼほぼ直訳だったりします。もともと、サックス教授らの論文もあって、私の専門分野である開発経済学には天然資源の呪い、というのがあります。天然資源があるために人的・物的資本の蓄積の必要性が低く、結局、工業化に失敗したり、オランダ病によって為替が増価して輸出が伸び悩んだりする現象です。本書では、天然資源の圧倒的な部分を占める石油に着目し、特に、計量分析手法を駆使して石油と民主化の遅れや権威主義国家の存続に石油が果たした役割などを分析しています。ひとつの観点は女性のエンパワーメントです。石油の産出と女性の地位の低さは確実に相関しているとの結果が示されています。私のような開発経済学の研究者が計量分析をする場合は、左辺の非説明変数に1人当りのGDPなどの豊かさの指標を置いて、右辺の説明変数に民主主義の成熟度や貿易の開放度、教育水準などを置いて回帰分析するんですが、開発政治学の場合は左辺の非説明変数が民主主義の成熟度、あるいは、民主主義か権威主義かのダミーで、逆に、右辺の説明変数に1人当りGDPを置いたりしているようです。どちらがどちらを説明し、原因と結果の方向性が経済的な豊かさなのか、民主主義に成熟度なのか、議論があるところですが、本書のような方法論もとても参考になりました。ただ、申し訳ないながら、開発経済学のほうが計量分析手法としては開発政治学よりは進んでいるんではないかと自負できたりもしました。

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次に、野口悠紀雄『ブロックチェーン革命』(日本経済新聞出版社) です。著者は財務省出身のエコノミストであり、本書の前の2014年には関連書として『仮想通貨革命』を出版しています。なお、類書として同じ出版社からタプスコット著の『ブロックチェーン・レボリューション』というのがあり、私は図書館に予約を入れていますがまだ読んでいません。ということで、サトシ・ナカモトの理論に基づき、話題のビットコインの技術的な基礎を支えている技術のひとつであるブロックチェーンに関する本です。このブロックチェーンに支えられたデジタル通貨・仮想通貨については、本書にもある通り、国際決済銀行(BIS)や国際通貨基金(IMF)などがリポートを出しており、決まり文句のように、現状での問題点を指摘するとともに、将来の可能性を評価しています。本書ではデジタル通貨とブロックチェーンをやや混同しているんではないかと見受けられる部分もあるものの、基本的に、両者に関する評価を下しています。すなわち、仮想通貨には3種類あるとし、リバタリアン的に管理者なしに流通するビットコインのような仮想通貨、三菱東京UFJ銀行のような大銀行が発行する仮想通貨、そして、中央銀行が発行・流通させる仮想通貨です。それぞれの特徴と問題点を明らかにしつつ、同時に、仮想通貨により、マイクロペイメントの小口送金と特に新興国などへの国際送金に利便性が大きい、と評価しています。何といっても、仮想通貨による決済は料金コストと時間のいずれも節約的です。また、ブロックチェーン技術の基づく新たなビジネス、すなわち、土地投機や予測市場の成立などを論じています。ただ、本書では将来的な雇用や労働のあり方、経営の方向性などについては、それほど詳しくは展開されていません。そこは少し残念な点かもしれません。私は技術的なブロックチェーンの構造や機能などについてはサッパリ理解できませんが、経済分野で大きな波及のある技術ですので、可能な範囲でフォローしておきたいと思います。

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次に、吉村慎吾『日本流イノベーション』(ダイヤモンド社) です。著者は公認会計士から経営コンサルタントをしているそうです。まず、本書の冒頭ではUberやAirBnBなど、いわゆるシェアリング・エコノミーの進展とか、あるいは、人工知能(AI)やロボットの利用可能性などの一般的なイノベーションの現状を、いかにもコンサルらしい上から目線で得々と取り上げ、さらに、モノ消費からコト消費へと消費のサービス化が進み、草食化した青年が自動車を欲しがらなくなった現時点の国民生活や消費の実態に関して議論を展開します。ハッキリいって、特に新味もなく、ありきたりな内容です。このあたりで勉強になるような読者は、ほとんど何も勉強していないのかもしれないと思うくらいです。第3章で日本企業でイノベーションを起こす実際の考え方がようやく展開され始めますが、いかんせん、公認会計士出身の財務から企業を見るコンサルタントですから、技術に関する知識が殆どないのではないか、と疑われて、ひたすら自慢話に終止しています。自慢話があるだけご同慶の至りなんですが、「強い使命感」に「イノベーティブなビジネスモデル」が備わると、イノベーションが進む、と言われてしまえば、トートロジー以外の何物でもなく、書籍として出版する値打ちがあるかどうかも疑わしくなります。完全な失敗読書であり、まったくの時間のムダでしかありませんでした。

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次に、ウィリアム・パウンドストーン『クラウド時代の思考術』(青土社) です。著者は物理学や情報工学を専門分野とするサイエンス・ライターであり、2015年2月には『科学で勝負の先を読む』の読書感想文をこのブログにアップしています。本書の英語の原題は Head in the Cloud であり、2015年の出版です。本書のキーワードはダニング=クルーガー効果であり、能力の低い人ほど自分を過大評価するという現象で、米国の心理学者が前世紀末に発見しているそうです。もうひとつがグーグル効果であり、コチラはオンラインでお手軽に検索できる知識は忘れられやすい、というものです。本書では大量のトリビア的なクイズのような質問に対する回答結果をもって、一般大衆がかなり無知である点を明らかにしていますが、これは情報というか、知識として持っていない、ということであって、例えば、ジェームズ・スロウィッキー『「みんなの意見」は案外正しい』にあるように、牛の体重とかのような平均的にカウントするタイプの質問には当てはまらないような気もします。私にとって興味深かったのは、米国の右派メディアを代表するFOXニュースの視聴者に無知のレベルが高い、というか、情報量が少ない、と本書の著者が指摘している点です。本書では、確証バイアスの可能性を指摘し、要するに、右派的な心情の持ち主がFOXニュースを見て安心する、という仮説を提示しています。そうかもしれません。我が国では朝日新聞と左派的な心情がそうなのかもしれないと感じてしまいました。なお、我が家では朝日新聞を購読しています。最後に、ダニング=クルーガー効果に関する原著論文へのリンクは以下の通りです。

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次に、ロバート P. クリース/アルフレッド・シャーフ・ゴールドハーバー『世界でもっとも美しい量子物理の物語』(日経BP社) です。著者は米国の研究者なんですが、科学哲学と物理学の専門家だそうです。英語の原題は The Quantum Moment であり、2015年の出版です。タイトルは量子物理学なんですが、やっぱり、近代物理学といえばニュートンから始まります。近代生物学、というか、進化論がダーウィンから始まるのと同じであり、経済学の場合はアダム・スミスということになるんだろうと思います。ということで、大雑把に物理学者で章立てしているんですが、プランク、ボーア、アインシュタイン、パウリ、シュレディンガーとハイゼンベルク、等々と並びます。私の理解する限り、ですから、不完全かつ間違っている可能性もあるんですが、量子物理学とはニュートン的な決定論ではなく、確率論的な世界を相手にしています。シュレディンガーのネコが半分死んでいて半分生きている、といったカンジです。これは経済学でも同じことで、政府統計こそ決定論的な成長率などの数字が示されますが、実は、データ生成過程(DGP)はすぐれて確率的です。ただ、量子物理学については、観察者も運動系の中から観察しているために、ハイゼンベルク的に運動量か位置かのどちらかしか決まらないことが決定しているのに対して、経済学ではエコノミストは神の目を持って見ていることが前提されていて、そのために観察バイアスが考慮されず、予測はことごとく間違います。まあ、経済学が量子物理学の域に近づくことはまだ先の話なんだろうという気がしました。

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次に、久坂部羊『テロリストの処方』(集英社) です。作者は医師の資格があるようで、医療にまつわる小説を何冊か出版しており、『無痛』と『第五番』の続き物の小説は私も読んだ記憶があります。他にも読んでいるかもしれません。この作品は、現在の国民皆保険の下でのフリー・アクセスの医療制度がほぼ崩壊して、医療の勝ち組と負け組が患者だけでなく医師にも及んだ近未来の日本を舞台にしています。医療負け組の患者は治療や投薬を受けられないわけですが、医師についても高額な医療で破格の収入を得る勝ち組と、経営難に陥る負け組とに二極化していきます。そんな中、勝ち組医師を狙ったテロが連続して発生し、現場には「豚ニ死ヲ」の言葉が残されていた一方で、若くして全日本医師機構の総裁となった可能の大学時代の同級生である医師かつ医療評論家の主人公がノンフィクション作家の女性とともにテロの実態解明に乗り出します。この作家の小説のひとつの特徴は、キャラはそれなりに作れているんですが、とても登場人物が少ない点で、ストーリーを追うのは向いているのかもしれませんが、小説に深みがありません。結末も特に意外性なく、「やっぱり」というカンジです。ですからミステリとしては面白みもないんですが、ただ、小説ですから当然にフィクションなんですが、近未来の日本でホントに起こりそうな状況を再現しているのが売りかもしれません。しかもトピックが医療ですから、教育とともにかなり関心高いかもしれません。

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次に、柴田悠『子育て支援と経済成長』(朝日新書) です。著者は京都大学の社会学の研究者であり、本書は昨年2016年8月13日の読書感想文のブログで取り上げた同じ著者の『子育て支援が日本を救う』の内容を少し一般向けに分かりやすくした新書版です。前半の1-3章は前著の数量分析で構成されています。この部分は、本格的な計量経済学を専門とすエコノミストの目から見れば、ひょっとしたら、やや強引で、特に、因果関係の推論に難がありそうな気がします。後半の3-6章はトピック的に、社会保障の歴史、子育て支援の経済効果、そして、子育て支援の財源について論じています。論旨は明快過ぎるくらいに明快で、子育て支援が女性の労働参加率を高めて経済成長率を引き上げる、というものです。逆に、数量分析からの結論として、高齢化が進むと労働生産性が低下する、労働力の女性比率が上昇すると生産性も向上する、労働時間が短縮されると生産性は向上する、といった、かなり自明に近い事実を定量的に結論しています。我が国における社会保障の高齢層への偏りをシルバー・デモクラシーによる結果と結論しつつも、シルバー・デモクラシーを乗り越える方策についてはさすがに論じられていません。私もこの点は不明です。それから、国際比較も豊富で、フランスの出生率上昇は認定保育ママ制度に追う部分が大きいと結論しています。数量分析からいくつかのそれらしい結果を導いていますが、フェルミ推定に近い方法論もあって、新書的な判りやすさで読むべき書であり、学術書と考えるのは少し難がありそうです。

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次に、本川達雄『ウニはすごい バッタもすごい』(中公新書) です。著者はその昔に『ゾウの時間 ネズミの時間』が、やっぱり中公新書でベストセラーになった動物生理学の研究者で、すでに東京工業大学の一線は退いた名誉教授です。なかなか注目の書で、図書館でも待ち行列が長くなっているようですし、私が見た範囲でも読売新聞と日経新聞で書評や著者インタビューなどが掲載されていました。ということで、本書は広く動物に関する進化を題材に生存戦略について論じています。特に、なぜこういう身体デザインを選んだか、という点を重視し、例えば、ヒトデがどうして五角形なのか、を論じたりしています。もちろん、ヒトデが五角形に進化した決定的な証拠はないものの、サクラ、ウメ、バラといった五弁の花を持つ植物との関連を指摘したりしています。私はまったくの専門外なのですが、サンゴ、昆虫、軟体動物などにテーマが次々と展開されて飽きが来ませんし、図版も豊富で読み進んでいても楽しく感じます。残念ながら、小中学生にはやや難解な内容と思いますが、決して読みにくいと感じさせることなく、生物の多様性についての目が開かれる思いです。

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最後に、西崎伸彦『巨人軍「闇」の深層』(文春新書) です。昨夏に出版されて、一度は借りた覚えがあるんですが、その後忘れていました。今回近くの区立図書館で見かけて借りて読みました。「センテンス・スプリング」こと、週刊文春の取材を基に、2015年クライマックス・シリーズに発覚した野球賭博事件、清原の覚醒剤事件、原監督の1億円恐喝事件、などなど、ジャイアンツの黒い闇の部分を暴いています。このジャイアンツの闇の体質は例の1978年の空白の1日を利用した江川事件から巨人軍の悪しき伝統となり、その背後には渡邉恒雄の存在があると本書の著者は指摘しています。プロ野球が興行である限り、反社会的組織との腐れ縁は巨人に限らず昔からあったのだろうという気がしますが、その後の対応や意識改革などで反社会的組織との絶縁を図った球団と、そうでない巨人のような球団があったのではなかろうかという気もします。高校野球の聖地たる甲子園をホームグラウンドにする阪神と、その昔は競輪が開催された後楽園、しかもその周辺には場外馬券売り場もあった後楽園を本拠地とした巨人との違いもあるように感じました。

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2017年4月 9日 (日)

先週の読書は大量に読んでとうとう11冊に!

いろいろあって、昨日の土曜日に米国雇用統計が割って入ったために、読書日が通常より1日多く、先週の読書はとうとう11冊に達してしまいました。以下の通りです。今週はさすがに11冊よりは減ると思いますが、それでも一定のボリュームには達しそうで怖いです。

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まず、デービッド・アトキンソン『新・所得倍増論』(東洋経済) です。英国人アナリストの日本経済シリーズ5部作の完結編だそうです。まず、著者が指摘するのは、日本経済のボリューム感ではなく、1人あたりの質感の重視です。ですから、我が国は欧州の先進国に比べて人口規模が大きいことから、例えば、GDP規模では米国と中国に次いで世界第3位といいつつも、国民1人当りのGDP、本書ではこれを生産性と呼んでいますが、1人当りの生産性では世界でも27位に沈む、といった指摘があります。もうひとつの指摘は、1990年のバブル経済の崩壊の時点で日本的経済システムは終焉したという点です。実は、これは戦後の秘\日本経済システムの終焉ということなんだろうと思います。すなわち、終身雇用、年功賃金などです。その上で、本書ではアベノミクスの政策方向を全面的に肯定し、問題は経営者にあると指摘します。国家財政の大赤字も、人口減少も、社会保障や特に年金のサステイナビリティも、企業経営には関係ないとうそぶき、生産性を上げるのは経営者の責任と指摘し、かつての外圧に代わって、政府や国家が企業経営者にどんどんプレッシャーをかけることを推奨します。ここまで来ると私にはやや疑問なんですが、言わんとするポイントは理解します。私がこのブログで、かねてより指摘している点と同じですが、我が国では企業家のアニマル・スピリットが不足しているんだろうという気がします。逆にいえば、そこまで貪欲に企業経営をしなくても、ホンワカとした経営で十分だった時代が終わったということだと思います。

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次に、リチャード・ドッブス/ジェームズ・マニーカ/ジョナサン・ウーツェル『マッキンゼーが予測する未来』(ダイヤモンド社) です。著者はそれぞれ在住地の異なるマッキンゼー研究所の研究者であり、英語の原題は No Ordinary Disruption となっていて、2015年の出版です。現在、世界で起きている大きなトレンドの変化を4つ指摘し、すなわち、都市化の進展に伴う経済活動の重心=中心地の移動、シンギュラリティも考えられ得る技術の発展がもたらす大きなインパクト、高齢化の進展という人口動態の変化、グローバル化の進展に伴い世界が相互に結合する度合いの深化です。これらを4つの破壊的な力と指摘し、近未来のビジネスを支配しつつあると結論しています。ですから、過去の経験に基づく直観をリセットしなければならないとの主張です。ということで、マッキンゼーの主張ですので、なかなかに説得力ありそうな気もするんですが、実は、事実認識といい、これらの4つの破壊的な力への対策、とういうか、対応などの提言といい、かなりの部分が、今まで見たことがあるものがほとんどで、決して新味はありません。少なくとも現在の世界のビジネスの展開についての第Ⅰ部の事実認識についてはほとんど新しい見解は見られません。第Ⅱ部の直観力をリセットするための戦略的思考に関しても、ハッキリいって、新味はありません。まあ、従来からの世間一般の主張を後追いしただけのような気もしますが、マッキンゼーが取りまとめた、というところにポイントがあるのかもしれません。かなりのボリュームの本ですが、邦訳がいいのかスラスラと読めて負担は大きくありません。

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まず、松島聡『UXの時代』(英治出版) です。作者は企業家であり、ロジスティック関係の企業の経営者です。「UX」というのがなにか不明だったんですが、User Experience なんだそうです。モノ・空間・仕事・輸送の4大リソースに関して、新しいビジネス・モデルを提案しようとチャレンジしているんですが、でも、中身はシェアリング・エコノミーとか、IoT、人工知能、ビッグデータ、センサー、ロボティクスなどなど、もはや言い古された感のある手垢の付いたビジネスについて、相も変わらない見方を示しているだけであり、特に新味はありません。ひとつの謳い文句として、「垂直統制から水平協働へ」というのが本書の特徴のひとつして打ち出そうとしているようですが、これに限らず、概念の曖昧な語句をさも斬新そうにいくつか内容なく並べているだけの感があります。でも、それだけにスラスラと淀みなく短時間で読み切ることができます。出張で2-3時間ほど新幹線に揺られる際の片道の読書量にピッタリの気がします。でも、ほとんど何も身につかなさそうな恐れもあります。すくなくとも、ユーザ・エクスペリエンスというのは、太古の昔から人間が協業に基づく分業を展開する上で必要だった概念であり、特に今になって気づく人も鈍いというか、少しどうかという気もします。

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次に、ジェイン・メイヤー『ダーク・マネー』(東洋経済) です。著者は「ニューヨーカー」誌のジャーナリストで、英語の原題はそのまま Dark Money であり、2015年の出版です。主としてコーク兄弟を中心に、右派リバタリアンの超大金持ちが金にあかせて民主主義を歪めるさまをルポしたノンフィクションです。1月28日に『大統領を操るバンカーたち』の読書感想文をあっぷしましたが、政府の権力者に直接的に影響力を行使するのもありなんでしょうが、本書では選挙民への影響力により民主主義を歪める、という方向で議論が進められています。私が読んだ範囲では、直接のインタビューを別にして、もっとも主要なソースはコーク一家の歴史を編纂したジョージ・メイソン大学のコピン准教授ではないかと想像しています。そして、以前なにかの本のレビューでオバマ政権を取り上げた際に、リベラルでとてもいい政策の方向だったが、米国大統領当選のすぐ後の2010年の中間選挙で、議会が共和党多数のねじれ状態になったため、大きな妥協を余儀なくされて政策の実行が不十分だった、という裏側には、本書のような事情があったんだろうと、これも想像しています。コーク兄弟などの右派リバタリアンがいかに悪辣な方法で利潤を上げ民主主義を歪めているかを、これでもかこれでもかと米国ジャーナリストらしく実例を上げています。また、いくつか気づきの点を上げると、米国のティーパーティー運動は指揮官ばかりだった米国の右派リバタリアンに実働部隊の人員を供給したと本書では分析しています。また、p.585 でホンの少ししか触れていませんが、2016年の米国大統領選前に出版された制約がありながら、現在のトランプ米国大統領は「コーク兄弟にたてついた」とし、めったにいないコーク兄弟を無視できる共和党候補者のひとりであると評価しています。なかなか、鋭い分析かもしれません。

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次に、佐藤愛子『九十歳。何がめでたい』(小学館) です。著者はご存じの通りの直木賞作家ですが、エッセイでも切れ味鋭いところを見せています。本書のもととなる連載エッセイが「女性セブン」に掲載され始めた2015年には90歳を超えていて、このタイトルに決まったらしいです。通常、日本に限らず、世界中で観察される事実なんですが、中年くらいでボトムを記録した後、年齢が上がるとともに幸福度がU字型に上昇すると言われていて、私なんかも定年まで指折り数えてあと何年、という段階で幸福度が上がったのを実感している一方で、本書の著者はタイトルの通り、また、本書の色んな所で怒ったり、あるいは、「憤怒」という普段では使わないような名詞が出て来たりして、怒りを爆発させています。その昔のTVドラマで「意地悪ばあさん」というのがありましたが、女性は年齢が上がって「憤怒」がわき起こりやすくなったりするんでしょうか。謎です。ただ、男女ともに、年齢を加えるに従って、進歩とか、成長とか、発展とか、前進とかに熱意を示さなくなるのは本書でも実証されているような気がします。私はまだまだ成長が必要と考えるエコノミストなんですが、定年に達し、もっと年齢が行くと、ゼロ成長でもいいんじゃないか、と考え出すようになるのかもしれません。これも謎です。ともかく、著者が隋書に怒りを爆発させるエッセイなんですが、イヤミはありませんし、決して上から目線ばかりでもありません。なかなか楽しくスラスラと読めます。

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次に、東野圭吾『素敵な日本人』(光文社) です。作者はいわずと知れた売れっ子のミステリ作家です。本書は必ずしも日本人に大きく関するというわけでもなく、また、いわゆる連作短編集ではなく、通常のミステリ短編集です。「正月の決意」、「十年目のバレンタインデー」、「今夜は一人で雛祭り」、「君の瞳に乾杯」、「レンタルベビー」、「壊れた時計」、「サファイアの奇跡」、「クリスマスミステリ」、「水晶の数珠」の9編の短編を収録しています。冒頭に収録されている「正月の決意」については、私は他のアンソロジーか何かで読んだ記憶があります。町長や教育長などのエラい人の醜態が面白く、主人公夫婦のリアクションが絶妙です。また、最後に収録されているからなのか、最後の「水晶の数珠」も印象的でした。一族に代々伝わる水晶の数珠の持つ不思議な力、でも、一生で1度しか使えないこの力の使いどころに作者の加賀恭一郎シリーズなどの人情話への傾倒が出ているような気がします。また、どの短編というわけでもなく、かなりどす黒いユーモア、まあ、ブラック・ユーモアに近いきわどさも満ちています。家族をテーマにした「レンタルベビー」や「今夜は一人で雛祭り」も面白かったですし、特に後者は格差問題も視野に入れているのか、と思わせる部分もあります。なお、先週の読書の中で本書だけは買い求めました。あとは図書館で借りています。

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次に、綾辻行人『人間じゃない』(講談社) です。作者はご存じ新本格派の旗手のひとりであるミステリ作家です。表紙画像に見られる通り、未収録作品集であり、短編から中編くらいのボリュームの作品を5編収録しています。収録されているのは「赤いマント」、「崩壊の前日」、「洗礼」、「蒼白い女」、「人間じゃない」です。最初の「赤いマント」は館シリーズの『人形館の殺人』の後日譚となっていて、扉にもある通り、もっともストレートな短編ミステリです。また、「崩壊の前日」は『眼球綺譚』に収められている「バースデー・プレゼント」の姉妹編、「洗礼」も『どんどん橋、落ちた』の番外編であり、ギターの5弦と6弦だけをつかんだダイイング・メッセージが示されており、犯人当てミステリの趣向で、読者への挑戦も挿入されています。「蒼白い女」は『深泥丘奇談・続々』に収録されている「減らない謎」の前に位置するエピソードであり、最後に、本書のタイトルをなす短編「人間じゃない」も精神病棟を舞台にした『フリークス』の番外編となっています。それにしても、私はこの作者の本はほとんど読んだつもりですが、記憶に残っている部分は少なく、改めて新鮮な気持ちで読むことが出来ました。記憶容量が少ないのは一般に人生を送るうえで不利になる場合が少なくありませんが、ミステイル小説を読む場合に限ってはそうではないことを実感します。まあ、ミステリばかりではなく、ややおどろおどろしいホラー作品も含めて、特に脈絡なく収録されているのは致し方ないところかもしれません。でも、私のような綾辻ファン、新本格ファンはちゃんと読んでおくべき作品であろうと受け止めています。さらに、この機会に元の作品も読んでおくべきなのかもしれませんが、そこまでは手が回りませんでした。

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次に、安生正『Tの衝撃』(実業之日本社) です。『生存者ゼロ』でデビューした作家の最新作です。実は、直前の『ゼロの激震』を昨年読んだんですが、要するに、地下深く掘って、ほぼ無尽蔵と考えられる地熱発電のプラントを作ったところ、マグマが北関東から首都圏に南下して来てとってもタイヘン、というプロットだったことは理解したものの、ほとんど技術的なテクノロジーも小説の筋立てのプロットも理解できずに、結局、読書感想文に取り上げるのを諦めた記憶があります。それに比べればかなりマシですが、それでも、判りにくい小説です。要するに、自衛隊の護衛がついて搬送されていたプルトニウムが、何者か、明らかに自衛隊と同程度か上回るくらいの戦闘能力を持つという意味で、ほぼほぼ軍隊により強奪され、その後、自衛隊と米軍と北朝鮮に加え、自衛隊内の別行動をする一派が加わり、わけの判らない入り乱れての戦闘行為やテロまがいの要人暗殺や拉致もありで、ハッキリいって、何のリアリティもありません。ドラえもんの4次元ポケット並みの荒唐無稽さだと思いますが、ただ、手に汗握るサスペンスだけは満載です。

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次に、齋藤純一『不平等を考える』(ちくま新書) です。著者は政治学の研究者であり、本書においては、不平等について経済学的な側面ではなく政治学から解き明かそうと試みています。その際の基本概念は包摂性と対等性であり、加えて、対等平等な個人としての連帯です。例えば、ロールズ的なアンダークラス、我が国の戦前の古い表現でいえば「二級市民」のような存在を認めるのは包摂ではなく排除を意味し、もちろん、対等ではないことから、個々人の間での連帯が成立しない、ということになります。とくに、本書で指摘している通り、政治的な側面を考えるとしても、最近の「失われた20年」で徐々に実質賃金が低下し、あるいは不安定な非正規雇用が広がり、かつてのような安定した国民生活を送ることが困難となった階層が存在することから、市民社会に不安と分断がもたらされているわけですから、平等とともに貧困の問題も併せて解決すべきであると私は考えています。特に、本書では著者が「包摂性」を引き合いに出す場合、雇用されている、もしくは、労働している点をかなり重視しているように私は考えており、高齢化が進み年金生活者の比率が高まる中で、少し疑問に思わないでもないんですが、著者も非正規雇用という語りで法殺されつつも分断ないし不平等な状態に置かれている現状に関する理解も示しています。ただ、労働と包摂の関係をここまで強く規定すると、繰り返しになりますが、非労働力化した高齢者の包摂をどう進めるのかが私は疑問です。ですから、p.161 以下でベーシック・インカムについて著者の考えが展開されていますが、労働を重視する立場から、ベーシック・インカムについてはかなり否定的な印象を持ちました。年金生活者も同様なのかもしれません。高齢化の進む我が国に適用する場合に、疑問が残ります。

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最後に、綾辻行人ほか『自薦 THE どんでん返し』乾くるみほか『自薦 THE どんでん返し 2』(双葉文庫) です。上の表紙画像を見ても明らかなんですが、なかなか豪華な執筆陣によるアンソロジーです。まず、収録作品は綾辻行人「再生」、有栖川有栖「書く機械」、西澤保彦「アリバイ・ジ・アンビバレンス」、貫井徳郎「蝶番の問題」、法月綸太郎「カニバリズム小論」、東川篤哉「藤枝邸の完全なる密室」、乾くるみ「同級生」、大崎梢「絵本の神様」、加納朋子「掌の中の小鳥」、近藤史恵「降霊会」、坂木司「勝負」、若竹七海「忘れじの信州味噌ピッツァ事件」の各6篇計12編です。いくつか、ほかのアンソロジーで読んだ記憶のある作品も含まれています。しかし、少なくとも私も考えるどんでん返しになっている作品は少なかった気がします。私が考えるどんでん返しとは、典型はジェフリー・ディーヴァーの作品なんですが、ラスト近くでほぼ解決された事件が、角度を変えてみるとまったく違う犯行や犯人が浮かび上がる、というのはどんでん返しのミステリであり、本書の多くの作品は単なる意外な結末、と称するべきなのではないかと思います。例えば、乾くるみの『イニシエーション・ラブ』をどんでん返しと考える読者は少なく、単なる意外な結末、と考える読者が多そうな気がします。すなわち、読者はそれなりにミスリードされるわけですが、ほぼ決まりと考えられていたひとつの解決を廃して、別の謎解きがホントの解決だった、というわけではありません。でもでもで、このアンソロジー2冊は、ジェフリー・ディーヴァー的な本格的「どんでん返し」を期待する読者には物足りないかもしれませんが、とても意外な結末で面白いミステリを求める向きには大いにオススメできると思います。

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2017年4月 1日 (土)

今週の読書は経済書やアナン前国連事務総長の回顧録『介入のとき』など計8冊!

今週の読書は、以下の通り、経済書や話題のアナン前国連事務総長の回顧録『介入のとき』など計8冊です。単なる印象論ですが、岩波書店の本が多かったような気がします。8冊というのはややオーバーペースなんですが、今日の朝から自転車でいくつか図書館を回ったところ、来週はもっと読みそうな予感もありますし、今週の8冊については新書が3冊含まれていて、実際のボリュームとしてはそれほどでもなかった気がします。

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まず、中室牧子・津川友介『「原因と結果」の経済学』(ダイヤモンド社) です。著者は教育経済学と医療政策学のそれぞれの研究者です。本書では著者が位置付けている通り、教育と医療のそれぞれの政策効果を分析すべく因果推論に関する入門の入門となる議論を展開しています。なお、私の方でさらに付け加えると、因果推論とは相関関係と因果関係を見分けて区別する学問分野です。とても平易な語り口で判りやすく議論を展開しつつ、ランダム化比較試験、自然実験、差の差分析、操作変数法、回帰不連続デザイン、プロペンシティ・スコアなどのマッチング法、最後に、回帰分析、と、ひと通りの方法論を概観しています。確かに、経済学などでは因果推論が不十分な場合も少なくなく、そこは割り切って、グランジャー因果で時系列的な先行性でもって判断する場合すらあります。すなわち、時間的に先行していれば原因であり、後に起これば結果である、という単純な推論です。しかし、天気予報が実際の天気の原因ではあり得ないように、時間的な推移だけでは原因と結果を特定することはムリです。ただ、私も開発経済学などでランダム化比較実験などの論文を見たりもしますが、因果推論も万能ではないことは知っておくべきです。少なくとも、経済学的な用語でいえば、マイクロな部分均衡論ですから、マクロの一般均衡を単純化しており、回り回って因果関係が不定に終わる、あるいは、逆転する場合もあり得ることは忘れるべきではありません。また、本書の著者の専門分野は教育と医療という典型的に情報の非対称性により市場による資源配分が失敗する分野ですが、電力やガスなどの公益事業や交通についても自然独占という形で市場が失敗する場合もあり、いずれも政策的な介入が必要なケースであり、でも、果たして、「マネーボール」的な経済合理性、というか、採算性だけで政策を判断すべきかどうかという根本問題も考慮すべきです。採算は赤字だが必要な政策である可能性があり、赤字で採算が悪いことを理由に政策を切り捨てるべきかどうかは議論がある得るかもしれません。まあ、これだけ財政リソースが不足しているんですから、少なくとも優先順位付けには何らかの情報は必要である点は認めますが、採算性が政策評価の中心かどうか、私には疑問が残ります。最後に、直観的なみんなの意見は案外と正しい場合も少なくないことは、専門家を称していても謙虚に受け止めるべきです。

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次に、キャス・サンスティーン『選択しないという選択』(勁草書房) です。著者は米国ハーバード大学の法学研究者ですが、セイラー教授らと行動経済学・実験経済学の研究もしているようです。本書の英語の原題は Choosing Not to Choose であり、邦訳タイトルはほぼそのままです。2015年の出版です。ということで、セイラー教授らの提唱するナッジを中心とするリバタリアン・パターナリズムの行動経済学・実験経済学に関する本であり、特にデフォルト・ルールの重要性、その固着性を中心とした議論を展開しています。デフォルトの設定はもちろん重要であり、すべてを自由選択に任せるよりも、何らかの意味で道徳的というか、規範的な選択が可能になると私も同意します。しかし、批判的な見方も忘れるべきではありません。本書でも、冬季の暖房の設定温度を1度下げるだけだとそのデフォルトが受入れられる場合が多く、エネルギー消費を減少させることができるが、2度下げるとデフォルト設定から変更する場合が多くなって効果が大きく減ずる、との実験結果が示されている通り、デフォルト・ルールの設定そのものが重要となります。特に、臓器提供の意思の表明、貯蓄額の決定などはそうです。それから、タイトルの反証である選択の要求ですが、ここは法学者であってエコノミストではないのでいくつかの視点が抜けています。すなわち、逆選択により選択しないことを許さないという場合がありえます。我が国の国民皆保険・皆年金はまさにそういった思想で設計されています。まあ、それほどうまく運営されているとはいい難いんですが、そういった逆選択の考えから選択しないことが許されない場合があることは理解すべきです。ただ、著者がインプリシットに表明している通り、もはやニュートラルな選択というのはあり得ないのかもしれません。その点は私の頭にはなかったので勉強になりました。また、どこにあったのかはチェックしませんでしたが、プライバシーは個人レベルでは重要かもしれませんが、政府や国家のレベルでは有害無益である、といった趣旨の断定的な判断が記されていました。目から鱗が落ちた気がします。

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次に、山口敬之『総理』(幻冬舎) です。著者は本書の出版直前までTBSの報道記者をしていたジャーナリストです。同じ著者と同じ出版社で、本書の続編ともいえる『暗闘』もすでに出版されています。私はまだ読んでいません。本書は安倍総理についての取材結果を取りまとめたノンフィクションです。一部に、「政権の提灯持ち」とも受け止められているようですが、国家公務員である私の見方は差し控えますので、各個人が実際に読んで判断いただきたいと思います。ということで、本書は5章構成であり、最初で著者がTBS記者として第1次安倍内閣の総理辞任をスクープした自慢話から始まり、自民党の野党時代の総裁選への安倍現総理の出馬、総理大臣就任後の消費税率引き上げに関する財務省との確執、対米関係を中心とする外交への取組み、野田聖子議員の挑戦を受けそうになった自民党総裁選を振り返っての宰相論から成っています。まず、メディアの常として時の権力に対する距離感について、やや私の実感としては近い気もします。ただ、著者なりに権力に近いリスクと遠いリスクを勘案してのことなんでしょう。結果的に、権力に近いので提灯持ちになったり、権力から遠いところで批判を繰り返したりといった距離感と権力に対する態度の相関関係については、私も必ずしも関係ないという気はします。たっだ、最後の章で安倍総理に対して総裁選への立候補を目指した野田聖子議員や、彼女をバックアップしていた古賀議員に対する著者の見方がかなり偏っている印象は受けました。本書はあくまで政治記者のルポであり、私のような専門外のエコノミストには評価は難しいんですが、現在の安倍政権に対する支持の傾向はハッキリしていると受け止めました。私のようなランクの低い国家公務員からはうかがい知れないような政権トップの動向について、よく取りまとめられているような気がします。ただ、すべてがリポートされているわけではない、すなわち、書かれていないこともありそうな気がするのは私だけではないと思います。

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次に、コフィ・アナン『介入のとき』上下(岩波書店) です。ご存じの通り、著者は2007年から2期10年に渡って国連事務総長を務めています。初めて国連スタッフから登用された事務総長であり、アフリカ人の黒人としても最初の国連事務総長であり、2011年に国連がノーベル平和賞を授賞された際の事務総長でもあります。本書の英語の原題は Interventions であり、邦訳タイトルはほぼ直訳といえます。2012年の出版であり、邦訳まで5年のギャップがありますが、中身はそれほど賞味期限を過ぎている感じはありません。ということで、軽く自分自身の生い立ちや父親のパーソナル・ヒストリーから始めて、事務総長就任の直前の国連でのポストであったPKO局長としての活動から事務総長としての紛争解決や武力を持っての介入などについての回顧録です。上巻のソマリア、ルワンダ、旧ユーゴ、東ティモール(インドネシア)、ダルフール(南スーダン)などは専門外の私でも手に汗握る迫力を感じました。なお、下巻冒頭の国連ミレニアム開発目標(MDGs)がもっとも私の専門に近いんですが、人権尊重とともに温かみのある国連活動を感じることが出来ました。解説にもある通り、国連とは独立した意思を持たない集合的な政治体であり、一定の哲学的ともいえる理念に基づいた団体です。事務総長とはその極めてビミョーなバランスの上に成立した国連の舵取りを行う高度に政治的かつ軍事的な存在であると私は想像しています。本書を読んでいても、実力行使のできる暴力装置である軍隊とはキチンとした民主政にのもとで国民に支持された文民の統制に従わなければ厄災以外の何物でもないという事実を実感しました。その軍隊が暴走するのがもっとも懸念される自体であり、組織されていない民兵の暴走というのが私のジャカルタにいた経験から見た東チモールの悲劇だった気がします。最後に、本書の最大の魅力のひとつは、著者が極めて率直に書いている点です。「あけすけ」という言葉がありますが、本書のためにあるような気もします。ブッシュ政権下で米国の国連大使を務めたボルトン大使なんかはボロクソです。

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次に、菅野俊輔『江戸の長者番付』(青春新書インテリジェンス) です。著者は江戸研究家だそうです。いろんな史料や関連書籍を当たって、江戸の、すなわち、江戸時代ではなく、あくまで江戸の長者番付やそれに派生する情報を取りまとめています。もちろん、超大金持ちだけでなく、江戸庶民の生活も浮き彫りになるようになっています。ただ、繰り返しになりますが、あくまで対象は地理的に江戸であって、京・大坂の大金持は対象外となっているのが残念です。幕府の八代将軍徳川吉宗の年間収入が1294億円だったというのは驚くべき水準ですが、他方で支出もかなりの額に上った気もします。また、第4章の江戸っ子の生活については同もぬけていて不十分なところがあり、すなわち、商家などの奉公人=勤め人については、給金が少なかったのは事実としても、大番頭などのごく高位の奉公人を別に知れば、ほとんどが住み込みで食費がかからず、衣類もいわゆるお仕着せが支給されていた点はキチンと書くべきだという気がします。下級官僚たる武士の生活がもっとも苦しかった、という点については身につまされる部分があります。なお、本書冒頭の「新板大江戸持◯長者鑑」については、以下の都立図書館のサイトで弘化3年(1846)刊の加賀文庫版を見ることが出来ます。ご参考まで。

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次に、寺島実郎『シルバー・デモクラシー』(岩波新書) です。著者は三井物産の研究所の出身で、現在は多摩大学の学長のほか、コメンテータとしてテレビなどでも活躍しています。また、本書のひとつのテーマである団塊の世代の出身、1947年生まれです。しかし、なんだかとても物足りなかったのは、その昔々に著者が書いたらしい古い文章を使いまわしているだけでなく、とっても驚くくらいの上から目線の文章です。私自身はタイトルとなっているシルバー・デモクラシーによる民主主義的な決定のゆがみについて期待していたんですが、ほとんど何も触れられていません。そうではなく、団塊の世代が戦後史の中でどのような役割を果たして来たのかについて、著者のエラそうなお説が並んでいます。まあ、岩波新書から出版されるくらいですので、それなりの中身と考えるべきかもしれませんが、古い古い文章を引っ張り出してきているくらいですので、どこまで期待できるかは私には不明です。少し期待外れでした。

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最後に、井田茂『系外惑星と太陽系』(岩波新書) です。著者は京都大学出身で、現在は東京工業大学の研究者です。分野は古い表現なら天文学、ということになるのかもしれません。かつての天文学の「私の視線」から見た宇宙の見方、それは、「地球中心主義」や「太陽系中心主義」とも本書では称されていますが、を排して、「天空の視点」から見たより普遍的な宇宙の見方を提唱しています。本書ではほとんど触れられていませんが、NASAの地球外知的生命体探査プロジェクトもあり、いわゆるハビタブル・ゾーンに存在する地球に似た惑星が宇宙の星の中に20%くらいはあり、中には生命体が存在している可能性もある、という普遍的な宇宙観を展開しています。特に、太陽系の中ですら、水星、金星、火星と地球以外にもサイズの似たハビタブル・ゾーンにある惑星が3つもあるわけですから、広い宇宙の中には地球や地球より少し大きいスーパー・アースに生命体がいる可能性はあります。ただし、本書では生命体探査ではなく、あくまで、太陽系外に存在する地球と似た系外惑星について論じています。誠に残念ながら、私にはそれ以上の理解ははかどりませんでした。悪しからず。

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2017年3月25日 (土)

今週の読書はまたまた少しオーバーペースで経済書など計8冊!

今週はついつい借り過ぎて読み過ぎました。話題の働き方改革の中で、同一労働同一賃金を正面から取り上げた経済書、WBCで侍ジャパンが準決勝で敗退した一方で、プロ野球の開幕も近づき、背番号にまつわるノンフィクション、さらに、やや物足りなかったものの、話題の作家による小説などなど、以下の通りの計8冊です。

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まず、山田久『同一労働同一賃金の衝撃』(日本経済新聞出版社) です。著者は住友系の民間シンクタンクである日本総研のチーフエコノミストであり、雇用や労働分野に強いと見なされています。本書では、その昔からスローガンとなっている「同一労働同一賃金」に関して、その実現はそう簡単なことではなく、雇用や労働のさらにさかのぼること社会政策まで含めた対応が必要と論じています。まず、エコノミストとして、当然ながら、生産性に応じた賃金が支払われるのがもっとも合理的であり経済社会においても効率性を維持できるんですが、日本に限らず実はそうなっていません。私が大学で日本経済論を教えていた時でも、本書でいうところの我が国のコア労働力が服している終身雇用制では、ピッタリ半々ではないものの、前半期は生産性より低い賃金が、逆に、後半期では生産性より高い賃金が、それぞれ支払われる、ということになっていました。生涯パターンに応じた生活給的な側面があるからです。本書では明示的に指摘されていませんが、我が気宇に労働市場の最大の問題はこの終身雇用にあります。もちろん、ホントに死ぬまでの終身雇用ではありませんので、正しくは長期雇用ということになりますが、我が国労働市場でも戦前まではまったくこのような慣行はなく、戦後の高度成長期の人手不足の下で、企業の人材囲い込みが始まり、汎用的な生産性を高めるOffJTではなく、OJTを重視し退職金を高額にし転職コストを高騰させるようなシステムが徐々に出来上がったわけです。その中で、男性正社員が無限定に会社に奉仕して、エコノミック・アニマルとか、モーレツ社員と呼ばれて、先進国でもまれな長時間労働に従事する反面、過程では女性が専業主婦として家事や子育てに専念する、というシステムが出来上がってしまいました。それが現在では働く人のダイバーシティが進み、さらに、長期停滞の中でコストカットの対象に労賃が目の敵にされて非正規雇用が増加し、ここまで格差が広がった時点では正規と非正規のよく似た労働については同じ賃金を支払うという原則が再浮上したと考えるべきです。ですから、欧州のような公平の観点だけではなく、日本では転職がまだ長期雇用的な慣行の下でコストが大きいわけですので、単に賃金だけでなくキャリアパスも含めて、どのような人生設計の下で働くか、雇用されるか、という点こそ重視されるべきではないでしょうか。ですから、賃金だけを労働実態に応じて同一にするのは、キャリアパスの観点がが無視されている限りは、私には片手落ちとしか考えられません。私の目から見て、そういった観点からは、本書はとてもいい議論を展開していると思います。オススメです。

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次に、ジョン・プレンダー『金融危機はまた起こる』(白水社) です。著者はファイナンシャル・タイムズでよく見かけるコラムニスト、ジャーナリストです。英語の原題は Capitalism というある意味で壮大なタイトルであり、2015年に出版されています。内容としては、資本主義の本質に迫ろうと試みているのはそうなのかもしれませんが、わずかこの程度のボリュームではそんなことは不可能なわけで、基本的な題材は2007-09年くらいまでのサブプライム・バブルとその崩壊に端を発する金融危機に取っており、最終章では資本主義の本質は不均衡だと結論しています。ただし、本書でもよく引用されるシュンペーターの時代との違いは将来像として社会主義・共産主義という選択足がなくなった点です。他方、著者はあえて避けていますが、均衡からの乖離を含めて資本主義の不均衡が、正と負のどちらのフィードバックを持ったモメンタムなのかは考えておく必要があります。繰り返しになりますが、著者はこの観点に気づいていないか避けているかどちらかであり、もしも、均衡から乖離して正のフィードバックを持つのであれば資本主義は立ち行きませんが、負のフィードバックであれば政策対応は必要ないともいえます。いずれにせよ、邦訳版の編集者がタイトルに選び、著者も本書の中で論じているように、金融危機はまた起こるでしょうし、問題は起こるか起こらないかではなく、どの時点でどれくらいの規模で発生するか、なんでしょうね。私もそう思います。ただ、最後に、金融危機をカギカッコ付きで「言い当てた」エコノミストの著者などからいくつか引用していますが、とても疑わしいと私は受け止めています。サブプライム・バブルとその崩壊だけを予言するのは、どちらかといえば、必然や偶然の要素よりも平凡なエコノミストが一貫して同じ向きの発言をしていれば可能なわけで、上向きと下向きのどちらも的中できなければ、いつものバイアスで予言しているだけのオオカミ少年、と見なされる恐れもあることは考慮すべきです。ついでながら、古今の西洋向けばかりで「東西」ではありませんが、著名なエコノミストに限らず教養人の文献が引用されているのも本書の魅力に数える人がいるかもしれません。著者が博覧強記なのか、それとも、ネット検索がうまいのか、どちらかだという気がします。私の目から見ても、ケインズとマルクスが並んで引用されている本は決して多くなさそうな気もします。

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次に、大内伸哉『AI時代の働き方と法』(弘文堂) です。著者は神戸大学の労働法学者であり、一応、タイトルや本書の冒頭でも人工知能(AI)に関連する労働法の考察に並々ならぬ意欲を見せていて、AIそのものに関してはどこからか引き写してきた解説はあるんですが、AIに関する労働法の整備に関しては羊頭狗肉であって、何ら中身はありません。私はそれなりの関心があったので、その点は期待外れでしたが、まあ宣伝文句ですからこんなもんでしょう。そして、その中身は現在の労働法制は正規社員の身分保障が強すぎて時代遅れ、の一点張りでした。トホホというカンジで、ほとんど何の論証もなく「時代遅れ」の一点張りで押し通しています。確かに、終身雇用、年功賃金、企業内組合の日本的な雇用慣行は高度成長期に人手不足が深刻化し、人材を囲い込むために発達した制度であり、高度成長期の人手不足に適合的な制度であるという意味で「時代遅れ」というのは、ある意味で、その通りです。ただ、第5章の特に終わりあたりで著者も意識的にぼかしていますが、企業の経済合理的な選択と集中のためには、雇用者の流動化も有効なんですが、企業そのものも流動化するという極めて有効な手段があります。米国の雇用は日本に比べてと絵も流動的なんですが、企業そのものも連邦破産法11章、いわゆるチャプター11によりかなり柔軟な対応が可能となっています。著者は労働法学者であって会社法学者ではないようですから、企業はあくまで going-concern であって、経済合理性の追求のために労働者にしわ寄せが来るのをいかに労働法という次元でさばくか、に関心があるのでしょうが、エコノミストの目から見れば、生産要素の柔軟で流動的な配置転換という意味では、資本も労働も同じ生産要素です。極めて単純化した見方ながら、経済合理性の追求のためには、労働者は会社の言いなりになるしかない、だから、正社員の身分保障は緩和すべき、というのは一方のイデオローグであり、他方、労働者の経済的厚生水準の維持強化のために企業活動に制約を加えることも必要、特に金融活動の規制は金融危機回避のために必要性が高い、というのも別のイデオローグかもしれません。

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次に、ジュリア・ショウ『脳はなぜ都合よく記憶するのか』(講談社) です。著者はロンドンの大学をホームグラウンドとする記憶研究者、というか、過誤記憶の研究者です。精神科の医者なのか、心理学の専門家なのかは私には不明です。英語の原題は The Memory Illusion であり、2016年の出版です。過誤記憶の研究者として犯罪事件の事実解明に加わっているそうですから、過誤記憶研究者は人権派弁護士と並んでカギカッコ付きの「犯罪者の味方」と見なされる場合もありそうな気がします。どうして記憶が間違っているのかは、いくつかの原因があるようですが、そのひとつに優越感情による認知の歪みがあります。要するに、自分が他者よりエラいと思っているので、過誤記憶を持ってしまうわけです。ですから、犯罪に近い状況では交通事故の状況の見方が、関係者間で大きく異なることもあり得るわけです。ただし、さすがに、現役の総理大臣夫人から100万円の寄付があったかどうかは、記憶に間違えようがない気がするんですが、いかがなもんでしょうか。そして、記憶に間違いがあって、議院証言法上の証人として国会で事実と異なる自分の過誤記憶を披露してしまえば、まあ、偽証罪に問われたりするわけです。この2冊前の本の感想文で、博覧強記とネット検索の補完性というか、代替性というか、についてやや揶揄するようなことを書きましたが、実は、私自身は自分自身の脳に収納しておく記憶容量にまったく自信がありませんので、出来る限り外部記憶装置に収納しておくようにしています。この読書感想文もその一環です。決して自慢でも何でもなく、これだけの読書量があれば、すべてを記憶しておくことはまったく不可能です。外部のサーバに出来る限り読んだ後に感想文を残しておくことにしています。最後に、本書では、フロイトの精神医学や心理学はまったくのエセ科学と喝破したり、睡眠学習の非現実性を明らかにしたりと、とても私の考えに近い著者の見方に好感が持てます。もっとも、そうでない人はそうでないかもしれません。

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次に、佐々木健一『神は背番号に宿る』(新潮社) です。著者はNHKの関連会社を振り出しに映像ジャーナリズムで活躍しており、本書はNHKの関連企画の取材を基にしているようです。なお、単に「背番号」というだけでは、多くの球技で採用されているシステムですが、上の表紙画像に見られる通り、野球、特にプロ野球に特化して背番号にまつわるエピソードを集めています。まず、何といっても、私が読もうと思ったきっかけは、最初に取り上げられている選手が江夏投手だからです。誌かもその次が村山投手です。江夏投手の背番号28については、本書でも触れらている通り、小川洋子『博士の愛した数式』で有名になった完全数です。約数を全部足し合わせると元の数になるという意味だそうです。江夏というのは、昨年逮捕された清原といっしょで、晩年に薬物で逮捕され有罪判決を受けましたので、その分、少年野球などからは距離を置いて見られていますが、本書でも指摘されている通り、すでに刑期を終えて出所し社会的な制裁を受けていますので、そろそろ過去のお話しにしてしまうのも一案でしょう。いくつかの名門球団で、いわゆる永久欠番とされた背番号の由来、あるいは、逆に、あれほど活躍したにもかかわらず永久欠番とならなかった背番号、例えば、今は2年連続トリプル・スリーの山田選手が引き継いでいるヤクルトの1番を背負っていた若松選手のケース、などを判りやすく興味深く展開しています。およそ、私なんぞのまったく知らない選手のエピソードまで含めて、いろんな背番号にまつわる話題を提供しています。プロ野球ファン、特に江夏投手を知る阪神ファンは必読かもしれません。

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次に、マリア・グッダヴェイジ『戦場に行く犬』(晶文社) です。著者は米国西海岸在住でジャーナリストの経験が長く、現在では愛犬家のブログ投稿サイトの運営などをしています。2012年の出版であり、英語の原題は Soldier Dogs です。私は本来こういった軍事関係は決して評価せず、逆に回避する傾向があり、例えば、小さいころからガンプラを与えてきた上の倅が中学に入って模型部に入って部活をする際も、プラモデルの中に頻出する軍艦や戦闘機や戦車などの兵器関係は「おとうさんは嫌いである」と宣言した記憶があります。ちなみに、倅が同じ趣旨の発言を部活でしたところ、「ガンダムって兵器じゃないの?」といわれたらしいですが、まあ別のお話しでしょう。ということで、兵器や軍事に否定的な感情しか持たない私がどうして本書を読んだのかというと、実は、歴史的に見て我が家では飼い犬だけが太平洋戦争の戦場に駆り出されているからです。すなわち、私の父親は昭和ヒトケタの1930年生まれで、終戦の1945年までに徴兵年齢に達せず、その私の父の父親である祖父は年齢が行っていて招集されず、結局、飼っていた犬だけが軍隊に引っ張られて「戦死」したらしいです。犬種について私はよく知りませんし、どこで何をしてどうして「戦死」したのかは、軍事作戦上の機密事項でもないんでしょうが、明らかではありません。さらに、このブログの読書感想文では取り上げませんでしたが、昨年、出版から2年近く遅れて『アメリカ最強の特殊戦闘部隊が「国家の敵」を倒すまで』を読み、それはウサマ・ビンラディンの追跡と奇襲を跡付けたノンフィクションで、本書にも何度も出て来ますが、カイロという軍用犬が登場します。米国ではとても有名な軍用犬で、当時のオバマ大統領がこの部隊をねぎらいに出向いた際に、"I want to meet that dog." 「あの犬に会わせてくれ」と言ったらしいです。軍用犬ではなく警察犬などでも同じようなストーリーは有り余るほど存在するんでしょう。さらに、私は軍事作戦についてはまったくシロートですし、一時流行した言い方をすれば、私自身は明らかにイヌ派ではなく、ネコ派なんですが、本書では人間と犬の絆について、そして、その昔には「犬畜生」という言葉もありましたが、犬という動物の評価について、考えさせられるものがありました。私は違いますが、愛犬家の中にはとても高く評価する人もいそうな本です。

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次に、真山仁『バラ色の未来』(光文社) です。作者は売れっ子のエンタメ作家であり、本書は、ズバリ、統合リゾート(IR)法案にからんで、利権渦巻く政治の世界を舞台にしています。すなわち、青森県の寒村の町長がホームレスとして東京で死を迎えるところから物語は始まり、その町長が誘致しようとしたマカオのカジノを経営する中国人女性、コンサルとして暗躍する広告代理店の男性、もちろん、総理大臣とそのファーストレディまでカジノに思惑を抱いて利権に漁ります。それを社会の木鐸として事実関係、特に、利権の構図とカジノの影の側面を明らかにしようとする名門新聞社の編集局次長まで上り詰めた女性記者と、同じ新聞社の幹部ながら時の政権のブレーンとして政権の暗部を報道するのを防止しようとする専務編集局長、などなど、羅列すれば複雑そうに見えますが、それはそれなりに単純な人間関係の中でストーリーは進みます。ただ、後半から失望する読者が多そうな気がします。第1に、カジノの負の側面を政治家の利権と国民のギャンブル依存症だけで済ませようとする作者のお手軽プロットです。反社会的組織の暗躍やその組織による薬物汚染をはじめ、いくらでもカジノ反対論の根拠はあるのに依存症だけで済ませようというのは手抜きに過ぎます。依存症であれば、本書で作者も何人かの登場人物に発言させているように、本人の問題とも言い逃れできます。第2に、ラストがお粗末です。メディアの記者が何を記事にして、社内政治の流れで何を記事に出来ないか、しかも、編集にはかかわらないはずの社主まで登場させた割りには、メディアの対応がお粗末としか言いようがありません。せっかく、話題のIRやカジノを題材にしながら、作者の力量不足、取材不足としか考えられません。この作品くらいの出来であれば、この作者は諦めて別の作者の手に委ねるのも文学界全体としてはよかった可能性すらあります。誠に、残念。

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最後に、赤川次郎『招待状』(光文社文庫) です。著者はよく知られた売れっ子のミステリ作家であり、三毛猫ホームズのシリーズなどは私も愛読しています。本書は通常の単行本と文庫本とで同時に発行されたんですが、私が読んだのは上の表紙画像の文庫本でした。中身は、ファンクラブ会誌「三毛猫ホームズの事件簿」で毎号書き下ろされているショートショートです。お題は読者から寄せられています。「再出発」から始まって、「シンデレラの誤算」、「父の日の時間割」、「封印された贈り物」、「幽霊の忘れ物」、「テレビの中の恋人」などなど、27のストーリーを収録しています。この作者本来のミステリーはもちろん、サスペンス、ファンタジー、ラブストーリーなどですが、さすがに、ショートショートの短い文章ですので、ひねりのある結末は少なく、基本的にストレートな内容に仕上がっています。この作者の作品らしく、ユーモアたっぷりで、表現は悪いかもしれませんが、時間潰しに最適です。

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2017年3月18日 (土)

今週の読書は充実した経済書中心に計5冊!

今週の読書は経済書、特に私の専門分野である開発経済学を含めて経済書中心に以下の5冊です。先週末に米国雇用統計が割り込んで営業日が1日少ないので、こんなもんかという気もします。特に、藤田先生ほかの『集積の経済学』をはじめとして、分厚くボリュームたっぷりの本が目白押しでしたので、冊数の割にはなかなかの読書量ではなかったかと自負しています。

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まず、外山健太郎『テクノロジーは貧困を救わない』(みすず書房) です。著者は、マイクロソフト、特に、マイクロソフト研インドでの研究歴が長く、本書では主としてインドでの体験を基に議論が進められています。本書でいうところのテクノロジーとは、狭く考えればパソコンやスマートフォン、あるいは、それらのハードで走らせるソフト、ということになり、いわば、我が国のODAが進めてきたような途上国援助のうちのハコモノ援助、道路や橋や空港やといったインフラ整備を中新とする援助のようなものであり、それはたしかに貧困を救わないかもしれないわけですが、テクノロジーについて人間が利便性を追い求めてきた仕組みややり方などすべてに対する総称として考えれば、それなりに貧困削減には役立ってきた気もします。ただし、本書で著者は貧困削減のためには、取り組む人々のヤル気や意識の高さなどをとても重視しているような気がします。そういった、いわば、エウダイモニア的な崇高な意識の下での貧困削減が重要であり、そういった崇高な見識をテクノロジーは増幅するが創造はしない、というのが本書の結論なんだろうという気がします。私はそこには疑問があります。もちろん、エウダイモニア的な崇高な意識の高さは重要かもしれませんが、」そういった意識の高さがなくても社会的な仕組みの中でジコチュー的な人間でも大きな貧困削減の成果が上げられる、といった方向にシステムや制度を設計することこそが重要ではないでしょうか。崇高な意識の下では、貧困削減だけでなく、ほかの何らかの政策目標、もっとも極めて専門的な技術を要するものを除きますが、そういった、一般的な政策目標は何だって達成されそうな気がします。その意味で、意識の高さだけを要件と考えるのはよろしくないと私は考えます。そうでない一般的な人々が、貧困削減に成功するような仕組みや制度を考えて実行するのが開発政策ではないんでしょうか。

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次に、藤田昌久 & ジャック F. ティス『集積の経済学』(東洋経済) です。本書の英語の原題は Economics of Agglomeration ですから、邦訳はそのまま直訳されています。初版は2002年に出版されていますが、本翻訳書の底本は2013年出版の第2版です。著者は2人とも経済学者であり、2008年にノーベル経済学賞を受賞したクルーグマン教授らとともに空間経済学のリーダーでもあります。ただ、少しだけアプローチが異なり、藤田教授は一般均衡論的なアプローチ、ティス教授は産業組織論的なアプローチとの特徴があります。いずれにせよ、本書は世界的な空間経済学の権威による専門学術書、ないし、大学院レベルのテキストとしても耐え得る著作です。まあ、ハッキリいって、私のようなシロートが通勤電車で読み飛ばすような内容では本来ありません。当然のように、数式も頻出して解析的にエレガントに結果が導かれたりします。私が「定量分析」と呼ぶような手法のごとく、再帰的に力ずくで漸近的な結果を求めようとするわけではなかったりします。空間経済学は都市の形成という観点で、実は都市以外は農村だったりするわけですが、2部門モデル的な要素が強くて、私の専門分野である開発経済学と通ずる部分も少なくなく、少なくとも、クルーグマン的な核周辺モデルにおいて、非常に単純化すれば、核=都市=製造業と商業に対する周辺=農村=農業の2部門モデルの分析はそれを歴史的な展開に置き換えれば開発経済学そのものです。ですから、空間経済学では本書にも登場する「首都の罠」、すなわち、首都以外の都市が形成されず製造業も育たない、といった望ましくない状況が開発経済学といっしょになって研究されていたりもします。第2版の本書では最終章をはじめとしてグローバル化に対応した部分に追加修正が加えられており、核となる国に戦略的な経営・研究開発・ファイナンスなどの本社機能が置かれ、周辺国に未熟練労働を相対的に多く使う工場が置かれたり、といった結果が導出されています。加えて、コミュニケーション費用が低下すれば、周辺国の工場の比重が増加、核となる国の熟練労働者の厚生が低下するという結果も得られています。ですから、トランプ米国大統領的に、国境に大きな壁を築いてコミュニケーション費用を高めれば、あるいは、逆のことが生じるのかもしれません。繰り返しになりますが、かなり高度な内容の専門学術書、ないし、大学院レベルのテキストです。税抜きで6000円というお値段も考え合わせて、買うのか借りるのか、読むのか読まないのか、について合理的な選択をするべきかもしれません。

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次に、野村直之『人工知能が変える仕事の未来』(日本経済新聞出版社) です。著者は労働や雇用ではなく、人工知能(AI)の方の専門家です。ですから、タイトルに魅力を感じて、私なんぞは読み始めたなですが、やっぱり、AIの解説の方に重きが置かれていて、少し肩透かしを食った恰好です。でも、2045年にAIの能力が人間を上回るという意味でのシンギュラリティを迎える、とかの宣伝文句先行型のAIの先行き見通しに本書は疑義を唱え、もっと落ち着いた先行き予想を展開しています。すなわち、AIについては人間の道具となる弱いAIと人間の脳機能を超えるようなスーパーな存在を目指す強いAIを区別し、後者が人間を超えるという意味でのシンギュラリティの近い将来での到来に疑問を呈しています。もちろん、前者の人間の道具としてのAIについては、単なる3メートルの棒でも人間の能力を超えるからこそ道具として有用なわけですから、特定の用途で人間の能力を超えるのは当然、という見方です。そして、最終章15章では例のオックスフォード大学によるAIに代替される労働について考察を加え、その昔のラダイト運動なども引きつつ、決して悲観一色の見方ではありません。その前提として、何回かベーシック・インカムの導入について前向きの記述を見かけます。AIを導入して人間労働を大幅に削減しつつ、働かなくてもベーシック・インカムで最低限の生活を保証する、というのが将来の政策の方向なのかもしれません。ただし、AIをはじめとする最先端技術における日本の貢献や政策動向についての本書の見方はとてもありきたり、というか、ハッキリいって、ほとんど何の見識もありません。2045年のしんgyラリティに少し不安を感じた向きに落ち着いた技術論を供給するのが本書の主たる貢献ではないかという気がします。雇用や労働のあり方まで著者に将来像の提示を求めるのは少し酷かもしれません。

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次に、翁邦雄『金利と経済』(ダイヤモンド社) です。著者は日銀金融研所長などを歴任していて、いわゆる旧来からの日銀理論家ですから、現在のアベノミクスや黒田総裁の下でのリフレ派の日銀金融政策に対してはとても批判的なバイアスを持っていることを前提に読み進む必要があります。非常に単純にいえば、本書では物価の動きの背景にある国際商品市況における石油価格についてはまったく考慮することなく、要するに、現在の黒田総裁の下での日銀金融政策が自ら掲げたインフレ目標の2%を達成できていない点を基本的には理論面から分析しています。まず、現在の米国のポリシー・ミックスが拡張的な財政政策と引締め的な金融政策になっていて、1960年代のケインジアン的な政策とは逆に、1980年代のレーガン政権下の政策と類似性あるとの見方を示し、その中で、1980年代前半においては為替の円安が進みつつ、それは持続性なかったためにプラザ合意から円高に反転したわけですが、我が国のアベノミクス、実は、本書でも指摘するように、安倍政権成立の少し前から円安が進んだ点との類似性を見ています。それはそうかもしれません。その上で、現状の長期停滞理論を持ち出し、自然利子率の低下の影響を日本経済にも写し出そうと試みています。ただ、結論で大きく異なる点が、要するに、自然利子率まで実際の金利を下げようとするリフレ派とちがって、国民に大きな負担を強いるカギカッコ付きの「構造改革」により自然利子率を引き上げようとする点です。どうして日銀理論家がここまで中長期的な視点で自然利子率を引き上げるような形の構造改革を提唱するのか、私にはまったく不明です。通常、中央銀行は短期循環を視野に入れた景気循環の平準化、というか、景気後退の回避を念頭に金融政策を運営し、政府はより長期の政策目標を設定して、まあ、いわゆる構造改革を含めて、例えとしてはよくないかもしれませんが、よく「国家100年の大計」と称される教育などの政策まで含めたグランド・デザインを描く、というのが役割分担だ、と私も官庁エコノミストの先輩から聞かされた記憶があります。私が考えるに、金融政策の庭先をきれいにしておいて、物価への政策の影響力がないとか何とかいって、裁量的な金政策を自由気ままに企画立案していた昔の姿が懐かしい、といっているように聞こえてしまうエコノミストもいるかもしれません。いないかもしれません。繰り返しになりますが、本書は現在のアベノミクスや黒田総裁の下でのリフレ派の日銀金融政策に対してはとても批判的なバイアスを持っている著者の手になるものである点を前提に読み進む必要があります。

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最後に、須賀しのぶ『また、桜の国で』(祥伝社) です。著者は、私は作品を読んだことはないんですが、それなりに売れている作家であろうと受け止めています。本書は今年上期の直木賞候補作となっています。戦間期のポーランドの首都ワルシャワを舞台に、外務書記生という在外公館の中でも書記官未満のやや低い職階をこなす青年を主人公にし、しかもこの青年の父親が白系ロシア人という設定のかなり大がかりな歴史小説です。少年時代のポーランド人孤児との邂逅は別にして、物語は1938年秋に主人公の青年がポーランドの日本大使館に赴任するところから始まります。誇り高いポーランド人を持ってしても、ロシア、ハプスブルク家のオーストリア、近代以降のプロシアや統一後のドイツなどの列強に囲まれて、なかなか独立を維持することさえ困難なポーランドにあって、第2次隊戦前夜の不穏な世界情勢を背景に、そして、独ソ不可侵条約に基づいて独ソに分割されるポーランド、頼りにならない英仏など、20世紀前半の欧州情勢を余すところなく盛り込みつつも、ポーランドの首都ワルシャワにおける主人公の日本人外交官として、あまりにもポーランドに肩入れした姿勢に不安を感じながら私は読み進みました。というのも、一応、私は外交官経験者ですし、戦争前夜の欧州の情報収集担当こそ経験がありませんが、似たような情報収集はどこの大使館でもやっています。大使館勤務の当時に私が外交官としてやったのはGATTウルグライ・ラウンドのドンケル事務局長提案に対する主要国の姿勢に関する情報収集でした。それはさて置き、本書のキモは米国人ジャーナリストだと思っていた人物の意外な正体なんですが、それも面白い趣向ながら、やっぱり、直木賞を逃した最大の要因は登場人物のキャラがあまりに似通っているからではないでしょうか。すべて正直で一途で思い込んだら命がけ、のような熱血漢ばかりです。日和見をして風見鶏のように態度を変える人物とか、味方だと思っていたのに実は敵のスパイだったとか、そういったヒネったキャラが見当たりません。その分、物語が平板で深みがなく、スラスラと進んでしまいます。いくつか、表現上の不一致も散見され、例えば、ドイツ側ではナチスの象徴としてのヒトラーは登場しますが、ソ連のスターリンに関する言及はどこにも出てきません。また、主人公が列車で出会ったカメラマンのヤンについても、生意気な発言を「である」調でしているかと思えば、急にへりくだって「です・ます」調でしゃべり始めたり、編集作業で訂正しきれていない部分も少なくありません。小説としての完成度はその分割り引かれそうな気がします。

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