2026年6月 6日 (土)

今週の読書は経済書からミステリまで計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、宮川努『社会的共通資本の経済学』(東京大学出版会)では、宇沢弘文教授が提唱した社会的共通資本の議論を基礎に議論を展開させて、後半第6章では格差を取り上げ、ナイーブな逆U字仮説を批判し、やや物足りないながら、最低賃金制やベーシックインカムなどに関して議論しています。中林真幸『経済史で学ぶ社会・経済のしくみ』(日本評論社)は、タイトル通りに、経済史から現在の経済社会について学ぶ、という目的らしいのですが、それほどバランスのいい記述になっているとは言い難く、初学者にオススメするのは少し厳しいかも、と感じました。丹羽宇一郎『Z世代は戦後初めて銃をとる世代になるかもしれない』(東洋経済)では、戦争に進む原因のひとつとして、テゥキュディデスの罠を上げ、同時に、簡単に国民意志は戦争に向かってしまう恐ろしさも指摘しつつ、メディアが政府や権力者のプロパガンダ機関と化している現実を憂慮しています。大山悠輔『常に前へ』(ベースボール・マガジン社)では、阪神タイガースのクリンナップの一角を担うスラッガーである著者が、アマチュア時代の大学まで、さらに、阪神タイガースにドラフト1位で指名されて入団し、現在までの野球歴を語るとともに、野球や人生に対しての考えを綴っています。市塔承『女王陛下に捧ぐ、王家の宝の在処』(講談社)は、メフィスト賞受賞作品であり、非常に複雑なメタ構造を取り、いくつもの作中作品を作中の登場人物が読む、という構成の長い序の後、化学を専攻する大学院生の主人公エリメが意識と記憶を失って郷里で療養を必要とした原因を明らかにします。フリーダ・マクファデン『ハウスメイド』(ハヤカワ・ミステリ文庫)では、前科持ちのハウスメイドであるミリーが雇われたウィンチェスター家は、ハンサムで完璧な亭主と奇妙な言動・行動の女主人とわがまま放題の娘の家族で、一家の裏側にある真実を感じ取っているエンツォから忠告を受けます。
今年2026年の新刊書読書は、1~5月に合わせて126冊、6月に入ってから今週の6冊を加えて合計132冊となります。たぶん、今年2026年も250冊から300冊くらいレビューするのではないかと思います。これらの読書感想文については、できる限り、FacebookやX(昔のtwitter)、あるいは、mixi、mixi2などのSNSでシェアしたいと予定しています。

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まず、宮川努『社会的共通資本の経済学』(東京大学出版会)を読みました。著者は、学習院大学経済学部教授です。本書は、タイトルから容易に想像されるように、宇沢弘文教授が提唱した社会的共通資本について論じています。2部構成であり、前半で社会的共通資本の基本的構成、広範で社会的共通資本の展開を考えています。前半ではまず、ヴェブレンから説き起こしています。その上で、宇沢教授の示した社会的共通資本の構成として、自然資本、社会インフラ、制度資本を上げ(p.2)、サステイナビリティや気候変動問題にも着目しつつ、さらに、社会インフラについても、いわゆるハコモノではなく無形のインフラを考えています。ひとつの例として、全国総合開発計画(全総)が資源再配分機能を持った可能性が示唆されています。私が役所で公務員をしていたころに "Japan's High-Growth Postwar Period: The Role of Economic Plans" という論文を役所の同僚とともに取りまとめましたが、高度成長期には経済企画庁の長期経済計画についても同様の役割が期待されていたような気がします。後半の社会的共通資本の展開では、まず、人的資本がどうして宇沢教授のスコープに入っていないかについて議論し、シカゴ大学のベッカー教授のような人的資本に関する議論を嫌ったためではないか、と示唆しています。私もその昔に長崎大学に在籍していたころ、「九州7県における人的資本の推計」と題する論文で人的資本に関する推計を試みたことがありますが、まさに、宇沢教授の目指す市場原理主義的な経済学からの脱却からはほど遠いものであったと反省しています。資本ストックなどと同じように生産を拡大し付加価値を生み出す観点からの人的資本論については、社会的共通資本とは方向性が違う、というのは明らかです。後半第6章では格差を取り上げています。とてもナイーブなクズネッツ的な逆U字仮説はピケティ教授らも批判していますし、本書でも宇沢教授の観点から同様の見方を示しています。格差是正の観点からの最低賃金制やベーシックインカムに関する本書の議論については、私は少し物足りなく感じました。最後に、本書のキーワードはもちろん、タイトル通りに社会的共通資本なのですが、もうひとつ隠れたキーワードとして「ゆたかさ」というのを指摘することができると思います。通常の経済学ではきわめて単純に1人当たりGDPをゆたかさの代理変数にする場合が多いのですが、本書ではどのように「ゆたかさ」を捉えているのかが少し気になりました。例えば、ガルブレイス教授の著書に『ゆたかな社会』というのがあり、市場で供給される私的財への消費が肥大化している中、教育や医療をはじめとする公共サービスがむしろ貧困化しているアンバランスを鋭く批判しています。宇沢教授の社会的共通資本とも視点を同じくする部分が少なくありませんが、その『ゆたかな社会』の英語の原題は The Affluent Society です。ゆたかな=affluent であり、形容詞なのですが名詞で考えると、おそらく、経済学的には scarcity=希少性の対極をなす言葉ではないかと私は考えています。加えて、斎藤幸平准教授なんかが批判の対象としている左派的な進歩主義を私はまだ信じており、何度か指摘したように、生産力が増大して商品の希少性が低下して、最終的に希少性が失われた先が共産主義経済に近いのではないか、と考えていたりします。

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次に、中林真幸『経済史で学ぶ社会・経済のしくみ』(日本評論社)を読みました。著者は、東大社研教授です。本書では、タイトル通りに、経済史から現在の経済社会について学ぶ、というのが目的らしいのですが、序章と終章を除いた全5章を読んで、経済史を題材にしているのは前半3章だけで、第4章と第5章は経済史とはそれほど関係深くありません。序章で比較制度史的な視点を示した後、第1章では経済の思想を知るという、それほど経済学のメインストリームにはないテーマに挑戦しており、資本主義や共産主義について考えています。ただ、社会主義や共産主義について、生産関係からではなく制度史的に残余制御権と残余請求権で説明しようとするのは、ムリがあるような気がします。分配の制度だけではなく、経済学的な視点であれば生産を念頭に置きたいところです。第2章と第3章が本書の中核となる部分ではないかと私は考えていて、経済社会の変化と現在の経済社会の成立ちを経済史からひも解こうと試みています。ただ、かなり記述が一面的で、例えば、貨幣に関する考え方なんかは諸説あるところ、かなりご自分の見方だけを披露しているように見えます。すなわち、貨幣としての受容性だけを考えていて、負債の側面をまったく無視しているような気がします。ですので、この第2章と第3章の中核部分はもちろん、他の部分でも、それほどバランスのいい記述になっているとは言い難く、初学者にオススメするのは少し厳しいと私は受け止めました。むしろ、基礎的な経済学を学んだ後に、ややバランスに欠ける部分を含んでいる可能性を考えつつ本書を読むのがいいような気もします。江戸幕府と現在の令和の時代の政府の財政を比べるのは、決して不可能ではないかもしれませんが、どこまで意味があるか、あるいは、意味がないかを理解できるレベルがあればともかく、そういった点を明示するような初学者への配慮も欲しいところです。最後に、繰返しになりますが、第4章と第5章は経済史の題材が尽きたのか、歴史とはそれほど関係なく議論を進めています。日本経済の成長には生産性向上一本足打法なのですが、賃金引上げにはサービスの価格付けも引合いに出しています。こういったいろんな見方が示されている部分は参考にすべきかもしれませんが、一本足打法で決め打ちしている部分は、「読者によって」とはいいつつも、少し眉に唾つけて読んだ方がいい可能性もあります。

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次に、丹羽宇一郎『Z世代は戦後初めて銃をとる世代になるかもしれない』(東洋経済)を読みました。著者は、伊藤忠商事社長、政府の経済財政諮問会議の民間委員、在中国大使などを歴任しています。タイトル通りの本です。2年半ほど前の2023年暮れに「新しい戦前」というバズワードが出て、その後、昨年に現在の高市内閣が成立して、どんどんと右傾化が進んで「戦争ができる国」の準備が進んでいると感じているのは、たぶん、私だけではないと思います。そして、戦争に進む方向については、あくまで私の想像ながら、賛成しているのはごく一部であり、大多数の国民が反対していることと思います。戦争に進む原因のひとつとして、本書ではテゥキュディデスの罠を上げていますが、同時に、国民の反戦の意見は熱狂によってかき消され、簡単に国民意志は戦争に向かってしまう恐ろしさも過去の経験から明らかにしています。そして、安倍内閣による集団的自衛権の閣議決定などから始まって、岸田内閣の敵基地攻撃能力の整備、さらに現在の高市内閣のいくつかの安全保障政策はもちろん、昨今の方向を突き詰めれば戦争に行き着きます。したがって、第3章のタイトルは本書のタイトルと同じで、Z世代が銃を取って戦争に参加させられる可能性を論じています。村上春樹『1Q84』ではチェーホフを引いて、小説に銃が出てくれば発射されねばならないと登場人物に言わしめています。同様に、戦争準備が整えば戦争を始める可能性が高くなるのは当然です。引用元を明示できませんが、核兵器をこれだけ積み上げておいて、核兵器を戦争で使わなかったのは歴史的に見てきわめて異例である、といった主張も見かけたことがあります。本書の主張で、もっとも私が注目した点のひとつは、第5章のメディアとの関係です。現在、さまざまな要因・原因があるのでしょうが、テレビや新聞といった伝統的なメディアがことごとく政府や権力者のプロパガンダ機関と化している現実に、私はとても大きな危惧を持っています。もっともはなはだしいのが、いうまでもなく、NHKであり、政府の広報機関となっています。今でも「大本営発表」といえば、真実からかけ離れた政府や権威筋の公式見解、という意味で使われますし、メディアが「大本営発表」を垂れ流すのではなく、政府や権力との適切な緊張関係にあることを願う意見は無視できないと私は考えています。ただ、最後に、本書の見方を2点批判しておきたいと思います。第1に、戦争が始まるのはさまざまな要因があるとはいえ、突き詰めて考えれば、戦争で何らかの利益を上げる集団が権力を握るからです。おそらく、国民主権の見方からすれば、圧倒的多数の国民は戦争からネガな影響を受けるのですが、ごく一部といえどもポジな結果を受け取る集団があるわけで、それが決定権を握る可能性を排除できなければ戦争に向かいかねません。第2に、反戦を貫くためには、本書では「戦争に近づかない」と表現していますが、受け身でその方向も重要かもしれませんが、数は少なくても一定規模の集団が積極的に反戦を訴える必要があり、そういった勢力への国民の支持が不可欠です。

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次に、大山悠輔『常に前へ』(ベースボール・マガジン社)を読みました。著者は、たぶん、口述筆記か何かで録音してAIか誰かが文章に起こしたんだとは思いますが、大山悠輔であり、私が熱烈に応援する阪神タイガースのクリンナップの一角を担うスラッガーです。2023年にタイガースがリーグ優勝と日本一を成し遂げた際には、レギュラーシーズンすべての試合でスターティングメンバーの4番打者を務めています。リーグ優勝を決めたゲーム後に大泣きしていた姿は今でも目に浮かぶようです。その作者が、小学校1年生で野球を始めてから、アマチュア時代の高校や大学まで、さらに、阪神タイガースにドラフト1位で指名されて入団し、現在までの野球歴を語るとともに、野球や人生に対しての考えを綴っています。10年前のドラフトで阪神タイガースから1位指名された際の阪神ファンのブーイングや失望感をバネに、さまざまな監督やコーチらとともに自分を鍛え上げ、2023年のリーグ優勝と日本一、さらに、2024年オフのFA宣言の末に阪神タイガースに残留した経緯などを明らかにしています。FA宣言と残留については、私のような情報に疎い者が接した以上の特ダネ的な情報はありませんが、人柄がよく出ている気がしました。著者については、もちろん、立派なスラッガーである点はいうまでもありませんが、著者自身では言いにくいところで、野球の技術や体力やといった面もさることながら、阪神タイガースのファンである私がいくつかの報道などに接する限り、人格的な面、すなわち、人柄の良さというものが強調されているように見受けます。もちろん、プロスポーツの選手なのですから、人柄に少々難あっても、技量や体力に優れて良好な結果を残し、プロ野球であればチームの勝利に貢献する選手が尊ばれるのはいうまでもありません。でも、超トップクラスではないとしても、大山選手は十分チームのクリンナップを務め、優勝や日本一に貢献できる上に人柄が良い、ということで多くのファンに愛されているのだろうと私は感じています。そして、本書でも明らかにされているように、いうまでもなく阪神タイガースはプロ野球球団の中でもトップの人気球団であり、注目度は高いことこの上ありません。ですから、私がチラチラと見ている限りの推測ですが、実力ありながら、例えば、ドラフトで上位指名されながら、それほど活躍できずに去っていく選手は、チームの人気に溺れているケースが少なからずあるのではないか、という気がしています。ちょっと活躍すると周囲からチヤホヤされ自分を見失う選手も、ひょっとしたら、いそうな気がしてなりません。著者の大山選手は人柄だけでなく、そういったメンタルも良好であったのだろうと想像しています。

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次に、市塔承『女王陛下に捧ぐ、王家の宝の在処』(講談社)を読みました。著者は、ミステリ作家なのでしょうが、本作品が第66回メフィスト賞を受賞してデビューしています。さらに、本書の巻末に第2長編を執筆中で、冬にも出版予定のような宣伝文句があります。ということで、一見したところ、ややいびつな構成で、470ページくらいのボリュームのうち、序が4部に分かれていて300ページ余りを占めます。その序の後に、第1章と第2章と最終章が置かれていて、序を除いて本編といえる部分は150ページに満たないボリュームです。というのも、非常に複雑なメタ構造になっていて、序だけで5話くらいからなる作中作品を作中の登場人物が読む、という構成になっているからです。まず、舞台は神聖ニアニ共和国、でも、200年ほど前までは君主をいただく神聖ニアニ王国でした。時代は、たぶん、現代に近い印象です。主人公は、おそらく、エリメであり、首都ルッリにある大学の大学院生でしたが、意識と記憶を失って郷里で療養しています。というか、療養して、意識を取り戻したところから序が始まります。そして、長々としたボリュームの序は、主人公のエリメが弟のキーとともに首都ルッリに戻る車中で作中作のズバリ「女王陛下に捧ぐ、王家の宝の在処」を読みます。そして、この作中作の「女王陛下に捧ぐ、王家の宝の在処」もさらに作中作があって、私は記憶力に難があるので順不同ながら、『ヒアニビレの業績録』、『砂漠に残された真実』、『本泥棒と少女』、『水神叙事詩』であろうと思いますが、見逃しているのがるかもしれません。そして、序を終えて、というか、何というか、エリメが首都ルッリに帰り着きます。エリメの専攻は化学なのですが、ルームメイトは3人いて、ギルロウが物理学、モアドレが生物学、とりわけ遺伝学、そして、イアポーレが電磁気学のそれぞれ専攻です。序を終えたという意味で、わずか150ページほどながら本編でエリメが郷里の両親のもとでの療養を必要とし、一部なりとも記憶を失った理由が明らかにされます。そこは読んでみてのお楽しみとしかいいようがありません。驚愕の事実、といえるかもしれません。ボリュームある序は読みこなすのに苦労する可能性がありますが、実は、序の中の第3部なんかは第1部と第2部のサマリを提供してくれていたりしますし、それほど難解であるわけではありません。ただ、日本人が必ずしも得意ではない宗教が国の大きな礎になっていますので、そのあたりは覚悟しておく必要がある、という気がします。最後に、私は第2長編は読まないかもしれません。ビミョーなところです。

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次に、フリーダ・マクファデン『ハウスメイド』(ハヤカワ・ミステリ文庫)を読みました。著者は、ミステリ作家なのですが、別に脳外科医という顔も持っています。私は、田舎の図書館の新刊書コーナーに無造作に置かれていた本書の続編『ハウスメイド2』を借りて先に読んでしまいましたので、本書に立ち戻って読んでみた次第です。英語の原題は The Housemaid であり、2022年の出版です。主人公はミリー・キャロウェイ、バーをクビになってハウスメイドをしています。大金持ちのウィンチェスター家に住み込んでいます。雇い主の女主人はニーナ、亭主はアンドリュー、子どもはセシリア(シシー)です。ウィンチェスター家の3人以外には、地域の庭仕事を請け負っているエンツォというイタリア人がいます。表紙裏の登場人物一覧にはエンツォはウィンチェスター家の庭師、とありますが、ウィンチェスター家だけではなく周囲十数軒の庭仕事を請け負っているようです。ある意味で、キーパーソンの1人です。ミリーは殺人による前科があり、当然に、勤め先を見つけるのが難しいのですが、何とか職にありついたわけです。しかし、完璧にハンサムで紳士に見えるアンドリューのほかには、その仕事場であるウィンチェスター家にはいろいろ問題があり、女主人であるミリーの奇妙な言動や行動、わがまま放題のセシリア、などなど、ミリーは料理や家事に悩まされます。エンツォはそれほど英語を理解できるようには見えませんので、ついつい、ミリーはスペイン語で会話しようとしたりします。そして、ハンサムで完璧な亭主と奇妙な言動・行動の女主人とわがまま放題の娘のウィンチェスター家の裏側にある真実をエンツォは感じ取っていたりします。はい、謎解きばかりではないのですが、3部構成のうちの第1部だけながら、ミステリですのであらすじはこれくらいにしておきます。米国の超がつくくらいの大金持ちって、これくらいの奇妙な家族がいたりするんでしょうか。一般ピープルの私にはまったく不明です。まあ、私はドラマの「家政婦は見た」シリーズは視聴していませんでしたが、日本でも家政婦を雇えるクラスのご家庭はそうなのかもしれません。続編のシリーズ3作目があるのかどうか知りませんが、3作目があった場合、私が読むかどうかはビミョーなところです。

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2026年5月30日 (土)

今週の読書は経済史の専門書をはじめとして計5冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、バリー・アイケングリーン『世界大恐慌とリーマンショック』(勁草書房)は、1929-33年の大恐慌と2008-09年のリーマンショック、などを経済史の観点から統計データを用いつつ解き明かそうと試みており、リーマン・ショックでは政策当局により最悪の事態を回避したと評価しています。宮田珠己『そして少女は加速する』(幻冬舎)では、東京都多摩地区の私立高校の陸上部に所属するショート・スプリントの女子部員数名を主人公に、2年に渡るインターハイ出場を目指した青春小説です。高校生らしく恋愛や勉学・進学の話題もありますが、緊張感あふれるラストは読みどころたっぷりです。脇田滋『いまどうするか日本経済』(ちくま新書)では、主流派エコノミストの分析により、利益剰余金を通した企業の貯蓄主体化が日本経済の長期停滞の主因との視点から、「家計軽視・企業重視の政策がマクロ経済の基礎体力を弱めてしまった」(p.302)と結論しています。齊藤誠『日本経済を診る』(ちくま新書)では、2018年末から2020年半ばの円安は金利平価説から逸脱していて、「明解に説明することができない」と率直に結論していたりしますが、貯蓄投資バランスを考える際に貯蓄過剰主体化した企業部門を抜きに、政府だけの財政規律を求めるにはムリがあると感じました。まさきとしか『大好きな人、死んでくれてありがとう』(新潮文庫)は、男性アイドルグループの元メンバーだった30代後半男性が、引退後に暮らしていた北海道で刺殺された事件をめぐって、関係者が章ごとに視点を提供する意味での主人公となり、最後に驚くべき真犯人が明らかにされるイヤミスです。
今年2026年の新刊書読書は、1~4月に合わせて97冊、5月に入ってから先週までの24冊に今週の5冊を加えて合計126冊となります。これらの読書感想文については、別途読んだ学術論文などとともに、できる限り、FacebookやX(昔のtwitter)、あるいは、mixi、mixi2などのSNSでシェアしたいと予定しています。

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まず、バリー・アイケングリーン『世界大恐慌とリーマンショック』(勁草書房)を読みました。著者は、米国カリフォルニア大学の旗艦校であるバークレイ校の経済学特別教授・政治学教授です。経済史学会会長の経験もあり、ご専門は経済史だと思います。本書の英語の原題は Hall of Mirrors であり、2015年の出版です。原書の出版から10年余りを経過していますが、決して賞味期限は切れていないと私は感じました。参考文献リストや注などを含めると、軽く500ページを超える力作です。邦訳タイトル通り、1929-33年の大恐慌と2008-09年のリーマンショック、さらに、いくつかの金融危機を経済史の観点から統計データを用いつつ解き明かそうと試みています。さすがに、世界大恐慌ではなく、リーマンショックについて焦点を当てて私は読みました。リーマンショックの政策的失敗の最大の原因のひとつは、いわゆるノンバンクに対する行政権限が財務省にも連邦準備制度にも、どちらにもなかった点を上げています。もちろん、政策当局がモラルハザードを懸念してリーマン・ブラザーズの救済に躊躇した、というのも原因のひとつです。それでも、約100年前の世界大恐慌とリーマンショックやその後の金融危機の大きな違いは、政策当局により最悪の事態を回避した点にある、と評価しています。リーマンショックもひどかったという見方はあるにせよ、統計データから見て、世界大恐慌ほどの事態が回避できたことは疑うべくもありません。もちろん、それでも大きなショックだったし、さらに回避可能な部分があり得る点は私も理解していますし、本書でも、p.229以下で政策対応について議論しています。特に、欧州についてはギリシアの財政危機の発生など、危機脱却後の緊縮財政への転換が早すぎた点を上げています。本書のスコープ外ながら、日本でも、2014年の消費税率引上げがアベノミクスのデフレ脱却の成功を阻害した可能性があるのと同様かもしれません。いずれにせよ、そのあたりの詳細は読んでいただくしかありません。加えて、英国の当時のエリザベス女王のように、なぜ予測できなかったのか、という疑問はありえます。その点について、本書ではそれほど深く掘り下げてはいませんが、歴史学に基づく議論が必要、というよりは経済学の科学としての限界なのだろうと私は考えています。最後に、戦前日本の金融恐慌からの脱却については、第17章で「高橋是清のリベンジ」と題して歴史の観点から分析されています。

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次に、宮田珠己『そして少女は加速する』(幻冬舎)を読みました。著者は、作家なのですが、紀行エッセイを中心に、日常エッセイ、書評、小説なども執筆と紹介されています。本書はエッセイではなく小説であり、舞台は東京多摩地区、高幡不動のたぶん近くの設定であろうと推察される私立の高幡高校、その陸上部、それも女子部員が中心です。第1部で第1年目、また、第2部で第2年目の2年に渡っており、主人公は主として5人、第1部で2年生だった2人の女子陸上部員と1年生だった3名の女子陸上部員、第2部ではその5人が、そのまま学年が繰り上がります。主人公の女子陸上部員はショート・スプリントの選手たちであり、本書で「4継」と陸上競技用語で表現されている100m×4人のリレーのチームを組み、インターハイ出場を目指します。はい、高校生の主人公による青春小説です。高校生による青春小説ですから、恋愛や勉学・進学などもトピックとして扱われてはいますが、ほぼほぼ焦点は陸上に限定されます。その点をどう読みこなすかは、本書を評価する上でのひとつのポイントかもしれません。私は陸上競技には疎くて、その分、楽しめなかった気もします。ただ、陸上競技は超をつけてもいいくらいに個人競技なのですが、そこにリレーという団体競技の要素も加味し、少しでも幅広い読者層に受け入れられる可能性を広げている点は理解できます。スポーツだけにいまだに理不尽なやり方がまかり通っている部分も残っていますし、高校生くらいまでは1年の差が大きく、先輩と後輩の序列も明確です。もちろん、それぞれの女子陸上部員が置かれている家庭生活も千差万別です。加速する少女たちの目標はインターハイ出場なのですから、青春小説としてラストは判りきっているにもかかわらず、最後の数十ページは緊張感あふれる筆致でグイグイと読ませます。ただ、やっぱり、陸上競技に詳しくない読者には500ページ近いボリュームは少し骨かもしれません。

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次に、脇田滋『いまどうするか日本経済』(ちくま新書)を読みました。著者は、東京都立大学経済経営学部の教授です。私は何度か役所のセミナーなどでお会いしたことがあります。実に、主流派のエコノミストだと受け止めています。本書の結論は、p.302にあるように、「家計軽視・企業重視の政策がマクロ経済の基礎体力を弱めてしまった」という点につきます。はい、私もその通りだと思います。冒頭でも、本書の視点として、「利益剰余金を通した企業の貯蓄主体化が日本経済の長期停滞の主因」を上げています。マクロ経済政策、それも景気浮揚を目指す政策の主眼は、貯蓄過剰主体の貯蓄を低減して貯蓄投資バランスを投資に向かわせることです。その意味で、日本ではバブル崩壊からしばらくして企業が貯蓄過剰になって投資をしなくなったため、政府と海外が大赤字を出してバランスを取っている、取らざるを得ない形になっています。ただ、だからといって米国の標準モデルを日本に当てはめることを問題と考える本書の見方には、私は賛同できません。経済モデルを正しく日本的に修正すればいいだけで、バックグラウンドのモデルは決して誤っていないと私は見ています。そのモデルに従った本書のエコノミストのカテゴライズがおもしろいのですが、物価を重視するリフレ派、生産性を重視する構造改革派、そして、やや構造改革派に近いながら役所だけでなくアカデミアにも少なくない財政重視派に分類しています。そして、本書の見立てでは、日本の長期停滞の一因はメインバンク制の崩壊にあるということで、メインバンクを頼れなくなった企業がせっせと内部留保の積増しに走り、貯蓄過剰主体になったのがひとつの要因と指摘しています。そうかもしれませんが、逆に、金融市場の未成熟も忘れるべきではない、という気はします。メインバンクからオーバーボロウしていたのが、自己資本比率に関するBIS規制もあって、もちろん、バブルが崩壊して、さらに、国際化が進み銀行に頼れなくなった企業が合理的な行動として内部留保を積み増すというのはありえます。ただ、アベノミクスでそれを助長し、消費税率を引き下げては法人税率を引き下げるという本書や私から見れば逆向きの経済政策を取ったものですから、日本経済の停滞が長期化したのは事実であろうと考えます。アベノミクスが想定したトリクルダウンがまったく生じなかったのは歴史的事実ですし、企業収益から派生する株高など、高所得者層の収入が増加した一方で、低所得者層が本書で「奥田の一喝」(p.83)と指摘しているような賃金抑制があって、さらに、雇用の非正規化が進んで、経済的格差が拡大したのも新自由主義的なアベノミクスの大きな弊害のひとつでした。ほかに、労働生産性計測上の問題、海外M&Aの失敗、日経新聞について政府の「上意」のプロパガンダ機関化、などなど、読むべき主張が満載です。ただ、タイトルの問いには正面から回答できているとはいえません。診断はとっても正確でオススメですが、処方箋はどうなのでしょうか?

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次に、齊藤誠『日本経済を診る』(ちくま新書)を読みました。著者は、國學院大學経済学部教授です。本書では、タイトル通りに、日本経済についてマクロ経済の面からデータをていねいに読み解こうと試みています。その上で、意外性ある処方箋を出そうという意気込みではなく、割合と正直に判らないことは判らないと積み残している点は好感が持てます。典型的には、第5章にあるように、2018年末から2020年半ばの円安は金利平価説から逸脱していて、「明解に説明することができない」と結論しています。金利平価説より現実をよく説明できる適当なモデルを探している、といったところでしょうか。続く第6章では、現在の株高は企業収益に支えられたものであり、労働分配率を低下させて株高が実現している点を率直に診断しています。私も同じ結論です。ただ、労働分配率を上昇させるには賃上げだけでは不十分という診断であり、その理由は賃上げが価格に転嫁されるという前提です。今までは、賃金停滞をせっせと企業収益に注ぎ込んできたことを率直に認めつつも、賃上げは価格に転嫁されて分配率にはそれほど響かないという非対称性の根拠を私は読み取ることができませんでした。企業が収益を上げている事実を背景に株高が進行していて、逆に、労働者への還元がそれほどではなく、株高に関係薄い国民が取り残されている、という事実をどう考えるかはひとつの視点だと思うのですが、そういった議論はそれほど重要ではないと見なしているのかもしれません。もうひとつ、私が疑問に思ったのは、貯蓄投資バランスが政府と家計の間だけで議論されている点です。本書では企業が貯蓄過剰主体になった点についてはまったく無視されています。例えば、本書に限らず、なのですが、コロナショックの時期の政府の特定給付金は貯蓄に回って経済下支えにはつながらなかった、かのごとき議論を見受けますが、ホントに問題なのは企業が内部留保を溜め込んで、一定部分は株主に還元しているとしても、賃上げや設備投資という形で国民経済に広く還元してこなかったのが日本の長期停滞の一因と私は考えていますが、本書では円安について、円安で収益を上げやすくなる輸出企業と輸入品の価格上昇で苦しむ国民を対比させている一方で、企業行動については、ほとんど本書でいう「診断書を書く」ことがなされていません。やや不思議な気がしました。そして、最後の第11章では「健全な経済」のための政策処方箋として、章タイトルの副題になっている「財政規律の回復」を目指したプライマリバランスの黒字化の必要性を主張しています。結局、これが主たる眼目なのだろうか、と考え込んでしまいました。貯蓄過剰主体となった企業を抜きに、政府だけの財政規律を論ずる意味を私は理解できませんでした。

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次に、まさきとしか『大好きな人、死んでくれてありがとう』(新潮文庫)を読みました。著者は、ミステリ作家であり、本書も殺人事件から始まり、犯人が明らかにされる驚愕のラストが待ち受けています。ただ、世間的にいえばイヤミスということになるかもしれません。繰返しになりますが、ストーリーの始まりは30代男性の殺人事件です。殺害の現場は北海道Y市とされていて、夕張を強烈にイメージさせます。殺害された被害者は南田蒼太といって、かつて「ファンキーカラーズ」という7人組男性アイドルグループの一員でした。しかし、数年前に解散して、郷里の北海道に帰って親族の経営する菓子メーカーに勤務し、専務になっていました。それなのに、廃ホテルで刃物でメッタ刺しにされて殺害されたわけです。章ごとに、視点を提供するという意味での主人公が入れ替わり、さまざまな事実関係を浮かび上がらせます。章番号が付されていないのですが、第1話では事件当夜に蒼太と接触していた職場のパート女性、第2話では元はといえば同じアイドルグループの一員だった男性、第3話ではかつてアイドルだった被害者に異常な執着と狂信的な愛情を向ける熱狂的ファン、第4話ではアイドルデビューする前に孤児となった蒼太を引き取って育てた伯母、第5話ではアイドルグループだったころの敏腕マネージャー、第6話ではかつてのアイドルグループだったころの絶対的センターと恋愛関係にあって捨てられた女子アナ、がそれぞれ視点を提供します。そして、これも繰返しになりますが、驚愕のラストで真犯人が明らかにされます。ただ、証拠を基に名探偵が推理をめぐらせて真相を明らかにするというわけではありません。どのように真相が明らかにされるかは、真相そのものとともに読んでみてのお楽しみです。ただ、タイトル通りに、被害者が殺害されて、むしろ、喜んでいる人が少なくない、という意味でイヤミスといえます。

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2026年5月23日 (土)

今週の読書はケインジアンの経済書をはじめとして計5冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、小平武史『ケインジアンが見失ったケインズの財政政策』(昭和堂)では、ケインズの展開したマクロ経済分析を受け継いだ形のいわゆるケインジアン経済学のうちの財政政策について、ケインズ本人による大元の議論と比較して経済学説史的に議論を進めています。ダーシーニ・デイヴィッド『グリーンエコノミー』(かんき出版)では、国民生活の観点から、朝起きて灯りをつけてコーヒーを飲み、着る服を選ぶ段階から、日々の生活実践を追って、それらがどのように地球環境に負荷をかけ、カーボン・フットプリントに影響を及ぼしているかを明らかにしようと試みています。法月綸太郎『法月綸太郎の不覚』(講談社)は、3話の短編と1話の中編から編まれており、ミステリとしての謎解きは十分楽しめるレベルなのですが、本家クイーンの時代には考えられなかったコンプライアンスとか、ネット界隈への接し方で少し混乱を来たしているような気がします。やや、お気の毒かも。加山竜司『「推し」という病』(文春新書)では、世間一般で「推し活」という言葉が流行する中で、インタビューなどに基づいて7章に渡って、アイドル、ホスト、アニメ、VTuber、AV女優アイドル、地下アイドルなどに対するファン、というか、本書でいうところのオタクの熱狂ぶりを収録しています。ジョー・キャラハン『瞬きすら許さない』(創元推理文庫)は、刑事の直感を重視するキャット・フランク警視正が確率を重視する人工知能捜査体であるロックとともに、2件の失踪事件の再捜査を行い、最後は首尾よく解決されます。
今年2026年の新刊書読書は、1~4月に合わせて97冊、5月に入ってから先週までの19冊に今週の5冊を加えて合計121冊となります。これらの読書感想文については、別途読んでいる学術論文などとともに、できる限り、FacebookやX(昔のtwitter)、あるいは、mixi、mixi2などのSNSでシェアしたいと予定しています。

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まず、小平武史『ケインジアンが見失ったケインズの財政政策』(昭和堂)を読みました。著者は、よく判らないのですが、出版社のサイトでは「中央官庁において経済政策の企画立案に携わるかたわら、並行して学術研究をこころざし東京大学大学院経済学研究科博士課程修了」とされています。本書では、タイトル通りに、ケインズの展開したマクロ経済分析を受け継いだ形のいわゆるケインジアン経済学のうちの財政政策について、ケインズ本人による大元の議論と比較して経済学説史的に議論を進めています。よく、マルクス主義経済学ではマルクスの直接の著作やメモに当たっての研究がなされている印象を私は専門外ながら持っていて、ケインズについてもスキデルスキー教授の一連の研究はそうなのだろうと思っていましたし、本書もそういったものかと考えることが出来ます。3部構成となっていて、第Ⅰ部でタイトル通りの財政政策、第Ⅱ部で弾力性ペシミズム、第Ⅲ部で国債利子率やリプロダクションといった個別テーマをそれぞれ取り上げています。第Ⅰ部では、私の見方からすれば、第4章のラーナーの機能的財政政策がもっとも興味深いところでした。機能的財政政策は現代貨幣理論(MMT)の主要な柱のひとつであり、私自身はケインズとは切り離しても財政政策運営の重要な方針のひとつになりえるものであると考えています。ただ、本書ではケインズ自身が批判的であったことを根拠に、ケインズが機能的財政論を支持していたとは考えにくいと結論しています。それはそうなのでしょうが、現代的な経済学史観からしてラーナーの機能的財政論がケインジアン的であるかどうかの分析も欲しかったところです。すなわち、ラーナーの機能的財政論は、かなりの程度に、ケインジアン財政政策の理論的な展開の先に位置すると私は考えています。単に、「ご本人がこういっているから、こうなんだ」、ということでは、それは歴史学の領域であって、経済学史としてそれでいいのか、という批判はあり得る可能性を指摘しておきたいと思います。第Ⅱ部で弾力性ペシミズムについては、ケインズが生きていた時代背景としては、本書の指摘がよく当てはまる気がします。ただ、財政政策とも深く関係して、貯蓄投資バランスの観点からの弾力性ペシミズムの議論も合わせて展開してほしかった気もします。私自身は、1980年代後半にプラザ合意後の円高局面で日本の経常収支黒字が一向に減少しないパズルを考えさせられた世代ですので、時代背景とともに経済理論が進化する局面もいっしょに考えることが重要だろうと思っています。すなわち、マルクスにせよ、ケインズにせよ、その主導者がどう言って、何を考えていたのかは、もちろん、それなりの重要性があるのは否定しませんが、おそらく、本書のスコープ外ながら、さまざまな制度要因も変化している中で、例えば、金本位制下の理論がフィアットマネーではどのように考えるべきか、なども含めて、ケインジアン経済学も進化している可能性は考慮する必要があります。

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次に、ダーシーニ・デイヴィッド『グリーンエコノミー』(かんき出版)を読みました。著者は、エコノミスト・キャスターで、現在はBBCニュースのチーフエコノミスト・コレスポンデンスだそうです。チーフエコノミストは何人も知り合いがいるのですが、「コレスポンデンス」がつく役職は初めてでした。本書の英語の原題は Environomics であり、2024年の出版です。ですので、ドバイのCOP28がlatestのCOPということになります。本書では、冒頭に明記しているように、生活のひとつひとつから環境問題を考え直すことを目的としています。私がよく大学の授業でいうように、個人レベルで解決しようとする試みと社会や国家のレベルで解決すべき問題という分類をすれば、本書が志向しているのは前者に相当するのであろうと考えます。もちろん、その前提として、二酸化炭素排出がどれくらいに上っており、それだけでなく、本書では水資源ほかにも幅広く目配りしていて、現状の地球環境問題を概観できるようになっています。ただし、本書ではサステイナビリティ向上のための国民生活に対するハウツー本ではありません。むしろ、朝起きて灯りをつけてコーヒーを飲み、着る服を選ぶ段階から、日々の生活実践を追って、それらがどのように地球環境に負荷をかけ、カーボン・フットプリントに影響を及ぼしているかを明らかにしています。加えて、いわゆる「なんちゃってグリーン」のようなグリーンウォッシュ、あるいは、原子力が電力の供給源として決して適当ではない理由なども考え合わせ、地球環境を守る上で国民生活の方向性について議論を深めようと試みています。本書が特にターゲットとしている二酸化炭素排出については、英国や欧州だけでなく日本でも、家庭からの直接の二酸化炭素排出は15-20%を占めるに過ぎませんが、電力消費などの間接的なものを含めると家庭は産業を大きく上回って60%ほどに達します。そのため、「デコ活」といった言葉もありますし、国民生活を見直す観点は絶対に必要です。その際、私から2点指摘しておきたいと思います。第1に、今までは省エネとかで、電気代の負担が減少しつつ地球環境への負荷が軽減される、というwin-winの関係が強調されてきましたが、これからは、個人レベルでは生活の利便性が低下しても、企業レベルでは売上げが減少したり、利益が上がらなかったりしても、そういったコストを負担しつつ、地球環境の負荷軽減を進める覚悟があるか、ということです。本書ではそこまで強調しているわけではありませんが、国民生活のゆたかさが一定犠牲になっても地球環境の負荷軽減を進める必要が示唆されていると私は感じています。第2に、地球環境の負荷を軽減する上で、市場における価格に従った資源配分は決定的に失敗している、という点です。ですから、市場における価格付けを補完するような資源配分方法をアカデミアもしくは政府公務員は考える必要があります。少なくとも、炭素税のようにうまく市場に組み込むことを志向すべき、と私は考えています。そうでなく、市場の資源配分を絶対視するような市場原理主義では、最悪、地球における人類の文明が滅亡するおそれすらあります。

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次に、法月綸太郎『法月綸太郎の不覚』(講談社)を読みました。著者は、新本格派と呼ばれるミステリ作家であり、我が母校の京都大学のミス研ご出身です。本書は、作者と同じ氏名の法月綸太郎が父親の法月警視からの情報を下に真相解明に挑むというシリーズの最新作です。短編を3話ともう少し長い中編くらいを1話収録しています。ただ、短編と中編だけながらすべて殺人事件を扱っています。収録順に、まず、「心理的瑕疵あり」では、よろずジャーナリストの飯田から綸太郎に持ち込まれた案件で、ライター仲間の松岡が、首吊り自殺があったと噂の戸越銀座近くの格安アパートに入居したところ、首を吊って死んでいるところを発見されます。東京創元社のアンソロジー『あなたも名探偵』に収録されていましたので、私は既読でした。「被疑者死亡により」では、保険のファイナンシャルプランナーから、養父の交換殺人の疑いをかけられたと綸太郎が相談を受け、別の交換殺人、また、殺人計画が明らかとなります。これも、講談社のアンソロジー『推理の時間です』に収録されていましたので、私は既読でした。「次はあんたの番だよ」では、杉並区善福寺の資産家老女殺しの事件があった2日前に、多摩川河川敷でジョギング中のランナーが殺された老女とそっくりな幽霊のようなものを目撃していました。これも、何かのアンソロジーに収録されていたようなのですが、私は未読でした。最後の中編「平行線は交わらない」は書き下ろしで、これはなかなかいい出来だと思います。事件の発端は、三鷹にある和菓子店の店主である橘迪夫の殺人事件です。そして、その前年の同じ日に経営コンサルタントの松島興賢も殺されていました。和菓子店主の橘迪夫は、本郷にある老舗和菓子店の職長から独立しており、その老舗和菓子店では跡目をめぐって、先妻の子である長男の谷沢宗一郎と後妻の子である次男の谷沢基次郎が対立し、結局、老舗の方は基次郎が継いで、宗一郎はスカイツリー近くの向島に洋菓子の要素を取り入れたスイーツ店を開業しています。宗一郎の妻である美雪はスイーツの開発センス豊かで、叔父の経営コンサルタントの松島興賢の助けもあって宗一郎の店もそれなりに繁盛しています。タイトルにあるのは「平行線」なのですが、実は、殺された橘迪夫はそもそも谷沢基次郎の母親である後妻と仲が悪く、しかも、長男の谷沢宗一郎が妻の美雪の意見に従って洋菓子の要素を盛り込んでいることにも反感を覚えています。谷沢宗一郎と谷沢基次郎はもともとが跡目争いで対立厳しく、要するに、長男次男と元職長の三者で互いに反目し合っていたわけです。とても複雑な事件を法月綸太郎が真相解明に挑みます。ということで、いかにも、新本格派らしい論理的な謎解きが楽しめます。最後に、ミステリとしての謎解きは十分楽しめるレベルなのですが、本家クイーンの時代には考えられなかった問題で少し困難をきたしているような気がします。すなわち、コンプライアンスとネット界隈への接し方です。まず第1に、コンプライアンスで、警察の捜査情報を家族とはいえ部外者に漏洩することについて、いろいろと著者なりに考えているようですが、やや混迷している印象です。同様の点は有栖川有栖作品にも当てはまりそうな気がしますが、火村准教授にはあくまで警察サイドから事件解決を期待して情報を流す、という形を取っている点は違うかもしれません。次に第2に、ネット界隈への接し方については、YouTubeへの配信について、少しスベっています。この点については正解はないのかもしれません。

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次に、加山竜司『「推し」という病』(文春新書)を読みました。著者は、漫画ジャーナリスト、ライター、編集者と紹介されています。本書では、インタビューなどに基づいて7章に渡って、アイドル、ホスト、アニメ、VTuber、AV女優アイドル、地下アイドルなどに対するファン、というか、本書でいうところのオタクの熱狂ぶりを収録するとともに、最後の第8章で全体を総括しています。世間的に「推し活」という言葉が流行し、また、宇佐見りんの『推し、燃ゆ』が芥川賞を受賞し、中には、時代は「萌え」から「推し」だと言わんばかりの本も私は読んだりしましたが、だんだんとファンの行動が激しくなっていくのを感じます。『推し、燃ゆ』で私が印象的だったのは「推しは命にかかわる」といった趣旨でしたが、まさに、それに近くなってきている危険性を感じます。私自身を振り返ると、いわゆる全共闘世代と重なる「白け世代」の影響を受けているのかどうか、それほど物事に熱中する方ではありません。したがって、本書で取り上げているような危険なまでの熱中ぶりで表現されている推しとは無関係だと思います。今の立命館大学か、現役公務員だったころに出向した長崎大学だったか、すっかり忘れましたが、最初の授業で「先生への10の質問」を受けて、「ハマっていること」の質問に対して、「何かにハマる性格ではない」と回答したことを覚えています。ただ1点だけ強く指摘しておきたいのは、p.279から展開されている推しの宗教性です。従来から、私は新興宗教と反社会的団体の共通点があって、それは強い金銭への執着だと感じています。有り体に言うと「すべてはカネ」ということです。そして、本書を読んで、同じように「推し」も金次第と結論せざるを得ないと感じています。さらに、近い将来に大阪あたりにIRができれば、ギャンブルも私の頭の中では仲間入りしそうな気がします。これは、究極的には、すべての生産物が商品として市場に供給され、価格をつけられてその価格にしたがって配分されるという意味での資本主義経済の大きな特徴のひとつである、と考えるべきです。もっとも、本書の用語を借りて表現すれば、推しという病にかかっていない人も決して少なくない、というか、むしろ大多数の国民は推しの病にかかっていないわけですので、個人レベルで対応すべき部分が少なくないのも事実だろうと私は考えています。もっとも、さらに進めて、脱商品化、コモンの拡大の方向を目指すべきであることはいうまでもありません。最後の最後に、どうでもいいことながら、表紙画像の帯の女性は高橋七瀬だと聞き及んでいます。

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次に、ジョー・キャラハン『瞬きすら許さない』(創元推理文庫)を読みました。著者は、英国ミッドランド地方在住のミステリ作家であり、デビュー作である本書により、2024年度の英国推理協会賞最優秀新人賞受賞を受賞しています。日本でいえば、江戸川乱歩賞受賞でデビュー、といったところかもしれません。本書の英語の原題は In the Blink of an Eye であり、2023年の出版です。英語の原題にある eye は、人間であれば複数形の eyes で使うケースが多いと思うのですが、まあ、何と申しましょうかで AI なら単数の方がふさわしいのかもしれません。本書の舞台は英国イングランド中部のウォーリックシャー警察であり、主人公は2人います。1人はキャット・フランク警視正(DCS)であり、刑事としての直感を重視しています。もう1人はAIDE=Artificially Intelligent Detective Entity、すなわち、日本語で言えば人工知能捜査体であるロックです。当然に、確率を重視した捜査を進めようとします。いずれにせよ、警察を舞台とした警察ミステリです。ストーリーは、新しく就任した内務大臣がITに関連するバックグラウンドを持つことから、人工知能捜査体=AIDEを警察業務に導入し、警察業務の時間とコストの削減を目論みます。ウォーリックシャー警察本部長のマクリーシュはその内務大臣の命に従って、キャット・フランク警視正に失踪事例の再捜査を命じます。ただ、AIDEの活用に対しては否定的な結果を導くように示唆します。失踪事例の再捜査チームは、フランク警視正のほか、南アジア系のハッサン警部補、女性刑事のブラウン部長刑事、そして、もちろん、AIDEのロックと開発者のオコネド国立AI研究所教授で構成されます。オコネド教授は若い黒人女性です。なお、ロックは身長180センチのスリムな黒人のホログラムで現れることがありますが、ピカチュウのホログラムも用意されているようです。どの失踪事件を取り上げるかについては、当然のようにフランク警視正とロックの間で意見が分かれ、フランク警視正は失踪者の家族に寄り添った観点から選び、ロックは解決される確率の高い事案を持ち出します。その両方の事件を再捜査することになり、改めて関係者の事情聴取が行われたりもします。その幕間に、いかにも失踪者が拉致されていることを示唆するようなパートがいくつも挟まれます。そして、捜査は驚くべき展開を見せて、最後は首尾よく解決されるわけです。そのあたりはミステリですし、読んでみてのお楽しみです。最後に、私から3点指摘しておきたいと思います。まず、第1に、すでに本書のシリーズは英国では Kat and Lock のシリーズとして、第3弾まで出版されていると、巻末の解説で明らかにされています。なお、第4弾が完結編となり、近く出版されるという情報もあります。邦訳が出れば、できる限り読みたいと私は考えています。第2に、私の好きなタイプのミステリであり、最後に大きなどんでん返し、あるいは、アツと驚く結末が待っているのではなく、真犯人の意外性はともかく、徐々に情報が明らかにされるとともに事件の真相も明らかになります。第3に、刑事の直感とAIの確率の相違、というか、対立をそれほど期待すべき小説ではありません。ひとつには、英語の原書が2023年1月の出版ですから、3年余り前の技術の到達点に基づいている、という理由も考えられます。ただ、もうひとつの理由は、刑事の直感とAIが重視する統計的な確率の間にはそれほど大きな違いがない可能性を指摘しておきたいと思います。すなわち、刑事の直感だけでなく、多くの人々の直感、あるいは、世間知や集合知と呼ばれているものは、それまでの人類の経験が凝縮されているわけであり、かなりの程度に確率分布に従っている可能性が高い、と私は考えています。その意味で、学術的な専門性は重要ではあるものの、世間知や集合知をバカにするかのような見下した議論は慎むべきであると、一応、大学教授として考えています。ただ、もちろん、大きな技術的あるいは歴史的な転換点では、そういった世間知や集合知が役立たないケースもありえますから、注意すべきであることは当然です。最後の最後に、英国警察に対する批判が盛り込まれています。ホリー・ジャクソンの『自由研究には向かない殺人』から始まる一連のシリーズでは、英国警察に対するきわめて強い批判や不信感が底流にありましたが、そこまでではないとしても、英国警察の闇の部分が盛り込まれていることは事実です。

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2026年5月16日 (土)

今週の読書は日本経済に関する経済書をはじめ計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、星岳雄・松島斉[編著]『日本経済 信頼からの再生』(日本経済新聞出版)では、故宇沢弘文教授による『社会的共通資本』や『自動車の社会的費用』(いずれも岩波新書)などから議論を展開・拡張させていて、自然環境、社会インフラ、制度などのテーマの研究成果を取りまとめています。マーセル・ディルサス『独裁者の倒し方』(東洋経済)の特徴は、独裁者個人に着目するのではなく、システムの中で機能する独裁者を理解しようとしている点であり、冒頭で、独裁システムを走り続ける必要のあるランニングマシンに例えています。膨大な独裁政権やクーデタに関するデータに基づく議論です。栗林文夫『廃仏毀釈はなぜ起きたのか』(山川出版社)では、明治維新期の廃仏毀釈について、特に徹底的にすべての寺院が廃寺され、すべての僧侶が還俗させられた鹿児島の例を歴史学の観点から、『市来四郎日記』などの史料に基づいて解明しようと試みています。平石さなぎ『ギアを上げて、風を鳴らして』(集英社)では、宗教団体「荻堂創流会」の近畿支部で創父=開祖の生まれ変わりである「降り子」として信徒から崇拝の対象となっている吉沢癒知と転勤族の父親について何度も転校を繰り返してきた渡来クミの2人の小学4年生女子を主人公にしています。前田安正『AIに書けない文章を書く』(ちくまプリマー新書)は、生成AIが急速な発展を見せて、生成AIの助けを借りた文章もいっぱい目にするようになった現在、人間の思考や感情に立ち入ることも、表現することもできない生成AIには不可能な文章を書くという作業について考えています。林真理子『マリコ、アニバーサリー』(文春文庫)では、大雑把に2023年中の「週刊文春」に連載されているコラムを取りまとめていて、連載40周年と著者の古希のダブルアニバーサリーだそうです。セレブな著者ながら、決して嫌味にならない上品なトピックでエッセイを盛り上げています。
今年2026年の新刊書読書は、1~4月に合わせて97冊、5月に入ってから先週までの13冊と今週の6冊を加えて合計116冊となります。これらの読書感想文については、別途読んだ学術論文などとともに、できる限り、FacebookやX(昔のtwitter)、あるいは、mixi、mixi2などのSNSでシェアしたいと予定しています。

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まず、星岳雄・松島斉[編著]『日本経済 信頼からの再生』(日本経済新聞出版)を読みました。編著者は、2人とも東京大学経済学部教授です。本書は、三井住友信託銀行の委託研究「社会的共通資本と信託」の成果を取りまとめているようです。委託研究のタイトルから想像される通り、故宇沢弘文教授による『社会的共通資本』や『自動車の社会的費用』(いずれも岩波新書)などから議論を展開・拡張させています。序章と終章を別にして3部構成となっており、第1部で自然環境に着目して気候変動や森林などを取り上げ、第2部では社会インフラとして都市や暗号資産を取り上げ、第3部で制度として医療、教育、金融に焦点を当てています。詳細は読んでみてのお楽しみなのですが、第3部に着目したいと思います。いつもの私の主張ですが、市場に商品として供給され、価格による効率的に配分される通常財だけで世界が成り立っているわけではありませんから、医療をはじめとする社会保障あるいは教育については、一定のコントロールを受けた価格により、何らかの社会的必要に応じて供給されることが重要です。典型的には、医療では保険制度が日本では導入され、医療費全額を患者が負担することなく、保険や公費で賄われている部分があります。高額医療だけでなく一般医療も価格に対する制限があり、薬についても保険調剤であれば、需給に基づく自由な価格設定という形にはなっていません。教育についても同様であり、高い購買力を持つ者に高度な教育が提供されるわけではなく、義務教育は憲法の定めにより無償で、義務教育でなくても中等教育の範囲の高校もかなり無償に近いような形で提供され、高等教育である大学については、一定、教育を受ける準備が整っていると試験などで判断された学生に対して提供されています。国公立大学は言うに及ばず、私が勤務する私大に対しても、以前からものすごく減少したとはいえ、一定程度の公費負担がなされています。こういった形の市場における価格付けに基づかない財やサービスの提供を、ピケティ教授が脱商品化と呼んでいるのだろうと私は解釈しています。そして、こういった市場の価格付けに基づかない供給の増加はコモンの拡大と称されるものなのであろうと私は考えています。ただ、本書では、第6章p.195で日本の医療について、「世界でも類を見ない自由放任主義的な体制」と評価している点は付け加えておきたいと思います。さらなる脱商品化の余地が大きいという主張です。他方で、教育については、本書では第7章p.219以下でコモンズとしての公教育の可能性を議論していたりもします。最後に、本書は当然に日本を前提にしていますから、「信託」はtrustであり、custodianではありません。custodianは枯渇性資源、典型的には石油や鉱物資源といったいわゆる天然資源の管理、特に、途上国での経済発展にどのように天然資源を用いるべきか、といった視点を提供します。英国オックスフォード大学のコリアー教授などが提唱しています。私のような開発経済学にも興味あるエコノミストとしては、本書のスコープ外とはいえ、そういったcustodianの信託という視点もどこかで言及してほしかった気がしています。

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次に、マーセル・ディルサス『独裁者の倒し方』(東洋経済)を読みました。著者は、ドイツ人のようで、ドイツのキール大学安全保障政策研究所の客員研究員だそうです。ただし、本書は英国で英語の出版が最初のようで、英語の原題は How Tyrants Fall であり、2024年の出版です。本書のひとつの特徴は、独裁者個人に着目するのではなく、システムの中で機能する独裁者を理解しようとしている点です。その昔の「天皇機関説」になぞらえれば、「独裁者機関説」とも言えるかもしれません。まず、独裁システムをランニングマシン(普通は、トレッドミルだと思うのですが、ダメなんでしょうか)に例えています。走り続けないとかえって危険、周囲の政権エリートや軍人が反旗を翻しその座を奪いに来る、というわけです。トレッドミルから下りて、首尾よく亡命できたとしても送還・処刑されるおそれがあります。ただ、独裁者1人では独裁体制が維持できるはずもありません。当然です。ですから、本書では独裁者が必要とする3グループを明らかにしています。第1に、理論上大切な人々、あるいは、名目上の選挙母体、第2に、真の選挙母体、第3に、勝利連合、すなわち、真の選挙母体の中から選ばれる少数者、例えば、キャスティングボードを握る人たち、と指摘しています。そして、側近からの支持や忠誠が独裁者には必要であって、金品や何らかの利益を分与するわけですが、その側近が強力に台頭して独裁者の地位を脅かすことは避けねばなりません。ここにジレンマがあるという指摘です。加えて、軍隊からの支持も必要なのですが、クーデタを防止することにも配慮する必要があります。そして、本書のもうひとつの特徴は、かなり膨大な独裁政権やクーデタに関するデータベースを構築し、構造的あるいはシステム的な分析にとどまらず、他の研究成果からの引用も含めて、それなりのデータに基づく分析をしている点です。例えば、私が選挙とともに重視しているチェノウェス教授が提唱する3.5%ルールについては、失敗の例外を2件指摘していたりしますし、暗殺の確率について1910年代に1%あったが、21世紀の現在では0.3%を下回る、といった指摘もしています。最後に、独裁者の政権交代の難しさを取り上げています。私自身の1990年代前半における在チリ大使館の勤務の直前のピノチェット将軍からの民政移管は大きな例外と感じています。第8章では、外国による政権交代が失敗する理由をいくつか上げています。ただ、私自身の感想としては、たとえ独裁者であろうとも外国の武力介入による政権交代については、疑問を持つべきではないか、と考えています。最後の最後に、本書のテーマはいうまでもなく独裁、ないし、独裁者なのですが、第1に、民主化への道筋を探るという観点も忘れてはいません。第2に、現在の日本の高市内閣や米国のトランプ政権なども含めて、権力というものの本質が本書の分析からいくつか垣間見えます。私は専門外ですし、そういった読み方はしませんでしたが、こういった観点からの読書も十分できる良書だと思います。

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次に、栗林文夫『廃仏毀釈はなぜ起きたのか』(山川出版社)を読みました。著者は、鹿児島県歴史・美術センター黎明館調査史料室長です。本書は、明治維新期の廃仏毀釈について、特に、すべての寺院が廃寺され、すべての僧侶が還俗させられた鹿児島の例を歴史学の観点から解明しようと試みています。タイトルはwhyの理由に焦点を当てていて、その回答は、p.195以下に取りまとめてあって、いわゆる「熱しやすく冷めやすい県民性」をはじめとして4点上げられています。ここは、レビューですべてを明らかにしてしまうことは不適当ですので、読んでみてのお楽しみです。本書が典拠としているのは、もちろん、多くの歴史書や史料が上げられていますが、私の目から見て、『市来四郎日記』と木脇啓四郎による『万留』が興味深いところでした。調べてみると、前者は、まさにご著者が勤務する鹿児島県歴史・美術センター黎明館で所蔵されているようです。実は、本書を読んでみようと思い立ったのは個人的な事情があります。すなわち、浄土真宗との関連です。本書では軽く言及されているだけで、まったく重視されていないながら、廃仏毀釈の揺り戻しとして、仏教空白地帯となった鹿児島に対して明治10年1877年の西南の役が終結した後に仏教各宗派の布教団が大挙して押し寄せています。その結果、これは本書でも言及ありますが、一向宗=浄土真宗の信者が大きく増加しています。これまた本書で言及されているところで、そもそも、江戸期から島津藩ではキリスト教はもちろん一向宗=浄土真宗もご禁制でした。ですので、藩主が帰依したり、祈願していたりした臨済宗をはじめとする禅宗や真言宗をはじめとする密教系の仏教が鹿児島では中心的な地位を占めていましたが、「隠れ念仏」は少なくなかった、と本書でも指摘していますので、浄土真宗信者が増える素地はあったといえるかもしれません。そして、実は、その鹿児島に派遣された中の1人が与謝野鉄幹の父でした。鉄幹自身も短期間ながら父親とともに幼少期に鹿児島に滞在しているようです。なお、与謝野鉄幹は西本願寺で得度していますが、私のばあさんもご同様に西本願寺で得度して法名をいただいていましたので、この得度がどの程度のものかは、私には不明です。私のひいばあさん、当然ながら、私の父から見たばあさん、もしくは、私のばあさんの義母は与謝野晶子と交流があり、その縁は浄土真宗だったと私の父は推測していました。そのあたりの興味もあって本書を読んでみた次第です。まあ、個人的な興味範囲でしたので、廃仏毀釈についてはそれほど理解が進んだわけではありません。悪しからず。

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次に、平石さなぎ『ギアを上げて、風を鳴らして』(集英社)を読みました。著者は、作家なのでしょうが、この作品で第38回小説すばる新人賞を受賞しています。主人公は、いずれも小学4年生女子の吉沢癒知と渡来クミの2人です。それぞれの視点からのストーリーが交互に進みます。2人は、当然、同じ小学校に通っていますが、クミが普通のクラスであるのに対して、癒知は支援学級であるわかごま学級に通学しています。どうしてかというと、癒知は全国に20万人の信者を有する新興宗教団体「荻堂創流会」の近畿支部において、「降り子」と呼ばれる創父=開祖の生まれ変わりとして信徒たちから崇拝の対象となっている存在であり、頭はいいもののコミュニケーション能力に難があって、他の児童と問題を起こしがちなもので、わかごま学級に通っています。世話役の森田はもちろん、近畿支部長や支部幹部の母親の加奈からでさえ「癒知さま」と呼ばれ、定期的に「浄器の儀」という儀式を司り、教戒に従って食べ物にも制限があり、普通の小学生女子がスイーツを食べて「う~ん、しあわせ」という感覚は理解できません。儀式の折を別にして母親とすら肌を接することを禁じられていて、そういった教戒を破る破戒行為は創父の怒りをかって地獄に落ちるといわれています。宗教団体「荻堂創流会」は全国に20万人の信者を有し、在家のほかに、家族や親族と離れて教団の支部に住まいする信者も少なくありません。「浄器の儀」の儀式では、いかにも多額の玉串料が払われているようです。他方、父親の頻繁な転勤により、クミが関西の片田舎の梢が丘に引っ越してきて、教団近畿支部の癒知を見かけ興味を抱き、学校で接触を試みるところからストーリーは始まります。小学校を離れても、古い山城の隙間の空間を見つけて、まあ、男子小学生でいえば「秘密基地」のようにして2人いっしょに遊んだり、その近くの公園で癒知がクミの助けを得て自転車の練習をしたりするのが前半ストーリーとなります。4月の学年始まりから1年もしない晩秋になって、転勤族である父親の転勤で、クミも転校するのと同じタイミングから、後半ストーリーが大きく展開します。タイトルと表紙画像はリンクしていて、主人公である吉沢癒知と渡来クミが自転車で逃げているところです。なぜ、逃げているか、また、後半ストーリーの展開などは読んでみてのお楽しみです。何分、新興宗教が根底にある小説ですから、好み、というか、好き嫌いがあると思います。でも、しあわせとは何か、家族や親子の関係などなど、いろいろと深い意味も読み取れます。万人へのオススメは出来ませんが、読めば何かが得られる可能性のある小説です。

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次に、前田安正『AIに書けない文章を書く』(ちくまプリマー新書)を読みました。著者は、文章コンサルティングファーム「未來交創株式会社」代表取締役だそうですが、長らく朝日新聞社で校閲のお仕事に携わってこられたようです。本書のタイトルを見て、たいそう大上段に振りかぶって力みかえった印象を受けますが、まあ、半分は売上げを意識した編集者の意向を反映しているんではないか、と私は想像しています。よく読めば、「現在の技術水準では」といった趣旨の但し書きが見つかると思います。はい、そのうちに、というか、ここ2-3年でAIの文章能力は多くの人間を凌駕するんだろうと思いますから、本書の賞味期限は短い可能性があります。ということで、生成AIが急速な発展を見せて、人間が自ら考えて文や文章を書くだけでなく、生成AIの助けを借りた文章もいっぱい目にするようになった現在、人間の思考や感情に立ち入ることも、もちろん、表現することもできない生成AIには不可能な文章を書くという作業について考えさせられる奥の深い本だといえます。加えて、私のように、大学生には卒論を、大学院生には修士論文を指導することが多い教師の身としてはとても参考になる部分があります。もちろん、本書で考えている対象は学術論文というよりは、事実関係だけでなく感情的なものも含めたリポート的な文章、それも、それほど長くない文章、という感じだと思います。私独特の本書の読み方かもしれませんが、やや学術論文やリポートの書き方に引きつけてレビューしたいと思います。まず、文章を構成する文は短く、というのはすべてに共通していることと思います。学術論文やリポートでも「一文一義」を大学では教えています。本書でもシンプルな文をオススメしているように見受けます。そして、少し学術論文やリポートとは異なりますが、本書では、よく言及されている5W1Hについては、往々にしてwhyが抜けている、と指摘しています。でも、少なくとも学術論文では、論文で取り上げたテーマについてのwhy=理由は必須です。私は授業の際にジョークとして、どうして卒業論文を書くのかといえば、卒業の必修単位だからというのがホントのところだけれど、そのように書くわけには行かない、と教えています。当然です。そして、本書でも同じですが、かなり曖昧な概念的な用語については注意して、場合によっては定義を明確にするように、あるいは、比較級の形にして、「AはBよりxx的」と書くように、私は注意を促す場合があります。例えば、効率的、多様性、合理的、近代化などです。そういったものを含めて、文や文章を書く上で、とても参考になる良い本だとオススメできます。ただ、私が本書と違う見方をしているのは、良い文章を書くためには、良い文章を読むことが良いトレーニングになるという点です。本書はこの点は必ずしも重視していないようです。ほかに、文章の定義が、冒頭第1章で「大辞林」から引いている定義と第3章の「日本大百科全書」で大きく異なっている点も気にならないわけではありませんし、最初に書いたように、AIはそのうちに軽く人間の文章能力を超えるでしょうし、本書と逆の視点でAIにしか書けない文章もあるでしょうし、いろいろと指摘しておきたいポイントはありますが、文や文章を書く人は読んでおいて損はないと思います。

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次に、林真理子『マリコ、アニバーサリー』(文春文庫)を読みました。著者は、エッセイスト、直木賞作家であるとともに、日本大学の理事長職も務めています。本書は、「週刊文春」に連載されているコラムを取りまとめて、単行本として2024年に出版され、そして、今年2026年に文庫本として出版されています。タイトルに見られるように、何でも、コラムの連載開始40年で著者も古希を迎えたダブルアニバーサリーだそうです。なお、大雑把に2023年の「週刊文春」に収録されたコラムですが、2023年5月からの感染法上の分類変更がなされたコロナについては、それほど注目されていない印象でした。著者は、そもそも、文句なしにセレブでしょうし、年齢的にも自慢話が多くなるお年ごろなのだと思いますが、決して嫌味にならない上品なトピックでエッセイを盛り上げています。ですので、私なんぞがうかがいしれないセレブの世界を気軽に垣間見ることが出来ます。例えば、会食には手土産を持っていることが習慣になりつつある、なんてのは、気の置けない仲間との飲み会くらいしか参加しない田舎教師には初めてのお話でした。最後の方の「謦咳に接する」というタイトルのエッセイでは、私くらいの年配者から見ても神様クラスの作家がズラリと登場します。こういった神様クラスの作家の「謦咳」に本書のご著者は接しているんだ、と実感させられました。また、「週刊文春」収録のコラムといいつつ、「週間朝日」や「AERA」や「週刊新潮」やといった同業他誌に堂々と言及しているのも、いいのか、という気がしましたが、私も立命館大学に勤務してお給料をもらいつつ、同業他大学の同志社大学や龍谷大学などにもいっぱい話題にしているので、まあこんなものか、と受け止めています。巻末に収録されているコラム外の皇室モノについては、私はこのご著者の『李王家の縁談』は読んだものの、ちょっと嫌味ではないか、と感じる読者がいそうな一方で、逆に、心から感激する読者もいそうな気がします。いずれにせよ、週刊誌コラムを取りまとめていますので、ちょっとしたスキマ時間のお供に最適です。

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2026年5月 9日 (土)

今週の読書は経済書・歴史書、それに現代小説や時代小説にミステリまで計7冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、野村総合研究所コンサルティング事業本部『日本の差別化戦略』(東洋経済)では、人口減少とそれに伴う人手不足、加えて、生産性の低さなどに起因する経済成長の停滞といった日本の弱点に対して、国や地方、企業、また、個人がどのように対応すべきかを議論しています。ダリン M. マクマホン『<平等>人類史』(作品社)では、原始共産制のような段階から説き起こして、搾取に伴う奴隷制が始まった一方で、キリスト教が神の愛の平等を説き、啓蒙主義的な近代的な平等思想から、20世紀初頭のロシアにおける共産主義革命における平等の追求など、平等の歴史を概観しています。綿矢りさ『グレタ・ニンプ』(小学館)では、4年続けた不妊治療や妊活を諦めた途端、自然妊娠した妻が、見た目も、言葉使いも、行動も大きく変化し、最初は驚きばっかりだった夫も段々と受け入れるようになっていく変化がとても、何というか、綿矢ワールド全開で描写されています。ブリアン・クリスナ『どうせ死ぬなら、最後にミーアヤム』(春秋社)では、巨漢で色黒、見た目が悪い上に、体臭もきつく、お付き合っていた女性から振られたアレが、37歳の誕生日に24時間後に自殺を決意し、翌朝に屋台のミーアヤムを食べようとするのですが、それからさまざまなことが起こります。中村隆之『今こそ経済学を問い直す』(講談社現代新書)では、市場における金銭の支払い意思で示される購買欲求に応じたリソースの配分ではなく、社会的な必要に応じた配分という経済学を志向しています。とてもいい経済書です。広くオススメできます。貴戸湊太『有能助手は名探偵を操る』(ハーパーBOOKS+)では、ビジュアルはいいものの推理はへっぽこな名探偵とその名探偵を操る有能な助手のコンビが主人公で、ただし、そういった逆転をコミカルに描き出すだけではなく、しっかりと本格的な謎解きが展開されているところが魅力です。砂原浩太朗『藩邸差配役日日控』(文春文庫)では、徳川期の神宮寺藩7万石の江戸藩邸の差配役を務める里村五郎兵衛が、今でいえば総務部総務課長のような役どころで、藩邸内の「なんでも屋」と揶揄されるように、さまざまな出来事に対処します。さまざまな伏線が最後に回収されます。
今年2026年の新刊書読書は、1~4月に合わせて97冊、5月に入って先週の6冊と今週の7冊を加えて合計110冊となります。これらの読書感想文については、できる限り、FacebookやX(昔のtwitter)、あるいは、mixi、mixi2などのSNSでシェアしたいと予定しています。

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まず、野村総合研究所コンサルティング事業本部『日本の差別化戦略』(東洋経済)を読みました。著者であるコンサルティング事業本部が所属する野村総合研究所(NRI)は、1965年に日本初の本格的な民間総合シンクタンクとして設立され、2025年で創立60周年を迎えたそうです。本書の最大の問題意識は人口減少とそれに伴う人手不足です。それらに加えて、生産性の低さが経済成長の足を引っ張っているという事実も忘れるべきではありません。こういった日本の弱点に対して、国や地方、企業、また、個人がどのように対応すべきかを本書では議論しています。ですので、冒頭章で人口減少や人手不足をデータで概観した後、続く3章で国だけでなく地方の戦略の重要性を指摘し、企業の成長シナリオを論じ、最後に個人の働き方やその基礎となるキャリア形成について分析しています。まず、何と言っても、国と地方の戦略でもっとも重荷になるのが医療や介護をはじめとする社会保障経費です。また、ここでは、私の所属する高等教育の役割も議論されています。留学生対応だけではなく、大学での英語授業の拡大をひとつの解決策として考えています。私は留学生向けの修士論文指導を英語でやっていますが、それほど簡単ではないのは容易に理解できると思います。労働力不足についても、いくつか興味深い試算を提供しています。第1章の最後のpp.34-35では、人口減少を前提とした豊かな社会実現について、3つの視点を提供しています。このあたりは、読んでみてのお楽しみです。第2章の国や地方向けの差別化戦略では、東京はいいとしても、地方の企画人材やグローバル人材の偏在を分析し、国内外の経験を収録しています。ただ、コンサルらしく失敗例は見受けられません。第3章の企業向けの成長戦略では、単に規模別だけでなく、グローバル大企業、グローバルニッチ企業、地域の大企業、地域のニッチ企業、フォロワーやスタートアップの中小規模企業の5つのカテゴリーから分析を進めています。最終章の個人向けの視点では、企業スペシフィックなスキルアップではなく、キャリア自律を目指す社会情動的スキル(SES)を提唱し、北欧諸国の例などに言及しています。最後の最後に、いつもこういったコンサルの事例紹介を含めた分析結果を見るにつけ、私なりに考えるのですが、成功例の紹介の裏には失敗例もいっぱいあるんだろうな、という気がします。加えて、この成功例が実践できないからこそ、現在の日本があるのではないか、と考える読者もいっぱいいそうです。

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次に、ダリン M. マクマホン『<平等>の人類史』(作品社)を読みました。著者は、米国ダートマス大学の歴史学教授だそうです。英語の原題は Equality: The History of an Elusive Idea であり、2023年の出版です。本書はタイトル通りに、不平等ではない平等の歴史を概観しています。昨年2025年の今ごろの5月に、私は田中将人『平等とは何か』(中公新書)を読んでいます。そこでは、ロールズやスキャンロンの平等観を発展させて、実証研究ではなく規範研究の方法を取って平等について考えていました。本書では、まず冒頭の序文で、平等の歴史であって、不平等の歴史ではない点が強調されています。しかも、生物学的に、というか、何というか、チンパンジーやボノボの世界は決して平等ではない、という点も強調されています。ついでながら、マルクス-エンゲルスも平等と平等主義の政策には批判的だった、とも言及されています。その上で、太古の昔のいわゆる原始共産制のころから始めて、平等について歴史的な見方を示しています。注を含めて500ページを超える力作であり、3部構成となっています。マルクス主義的な歴史区分で示せば、第Ⅰ部で原始共産制から奴隷制くらいまで、第Ⅱ部で古典古代のギリシア-ローマ時代から近代初頭のフランス革命くらいまで、第Ⅲ部でそれ以降の近代から現代に焦点を当てています。私の勝手な読み方かもしれませんが、生産拡大とともに剰余生産物を獲得するため、初期国家に神々が創造されて、その片方で奴隷も誕生し、搾取が始まって平等は失われます。古典古代のギリシアやローマでは奴隷が生産に従事し、平等とは市民、とくに、男性の市民の間での関係性となります。女性、奴隷、外国人は公共の場での活動から除外されます。そして、キリスト教が広まります。神のもとでの平等が導入され、神の愛により自由民と奴隷は平等と考えられるようになります。さらに、ストア派は人間の潜在能力の同等性を主張しはじめ、これは人々の解放の可能性を秘めていた、と本書では主張しています。このあたりは、キリスト教の教義には詳しくないので、私には微妙に理解が進まない点だったりします。そして、暗黒の中世をすっ飛ばして、人類の平等の近代的な起源は啓蒙主義との指摘があります。これは大方のコンセンサスかと私は考えています。ルソーの『人間不平等起源説』や米国独立革命についても言及されています。ただ、この両者の平等観に大きな違いがあるのは周知の事実かと思います。また、私の専門分野に関連して、経済学の父であるアダム・スミスの平等観がp.199にあり、各人の生まれつきの才能の違いは実際には小さい、との指摘が『国富論』から引用されています。フランス革命を経て、さらに、20世紀初頭のロシアにおける共産主義革命から、平等の追求が大きく前進した、との指摘は、まあ、そうなのだろうと私も考えます。ただ、同時に、プルードンからの引用ながら、共産主義とは不平等なものであり、弱者が強者を搾取する、という観点も言及しています。そして、再度、マルクスが共産主義について平等・公平と考えていた根拠は何らない、と指摘されています。ファシズムにおける平等観は少し難解であり、国連の設立により国家間の平等は制度上は担保されたように見える一方で、安全保障理事会での拒否権などにより、国家間での平等はほとんどないに等しいという現状の指摘も、その通りかと私は考えています。最終章の平等を達成する導き手や結論性については、やや難解ながら読んでみてのお楽しみです。

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次に、綿矢りさ『グレタ・ニンプ』(小学館)を読みました。著者は、芥川賞作家です。本書の主人公は、呉田俊貴であり、舞台は武蔵小杉です。主人公はオフィスが同じビルにあることから、控えめで笑顔が可愛い由依と知り合って結婚します。夫婦で妊活や不妊治療を4年続けた末、結局、子どもを諦めて夫婦2人で生きていくと決めた矢先に、俊貴が仕事から帰宅すると、由依がまるで『八つ墓村』のように、妊娠検査薬を角のように頭に刺して、さらに髪の毛も短くした珍妙な格好で踊っていました。要するに、妊活を諦めた途端、自然妊娠したわけです。妊娠した喜びなのか、何なのか、由依は内面外見ともに豹変してしまいます。髪型はデニス・ロッドマンのようにベリーショートかつパープルに染め上げられていて、喋り方は『ドラゴンボール』の孫悟空のようなべらんめえ調になっています。最初は驚きばっかりだった夫の俊貴も段々と受け入れるようになっていく変化がとても、何というか、綿矢ワールド全開で描写されます。産婦人科での受診、出産時期と重なった転勤・転居、もちろん、出産と夫婦の両親がすべて集合したお宮参り、などなど、繰返しになりますが、綿矢ワールド全開です。そのあたりの詳細は読んでみてのお楽しみですが、綿矢りさのファンであればぜひとも読んでおくべき作品です。したがって、私は読みました。最後に収録されている短編「深夜のスパチュラ」は、文春文庫のアンソロジー『二周目の恋』に収録されていましたので、私は既読でした。最後の最後に、まったくどうでもいいことながら、その昔、「マル金」と「マルビ」の流行語を生み出した『金魂巻』を思い出させるように、フォントが所々で大きくなったり、太字にされたりで、強調されているところがあります。『グレタ・ニンプ』だけでなく、「深夜のスパチュラ」もそうなっています。アンソロジーで読んだ際にはそうではなかったような気がします。

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次に、ブリアン・クリスナ『どうせ死ぬなら、最後にミーアヤム』(春秋社)を読みました。著者は、インドネシアの作家です。たぶん、本書が本邦初訳ではないかと思います。インドネシア語の原題は Seporsi Mie Ayam Sebelum Mati であり、2025年の出版です。私は家族とともに3年間ジャカルタで暮らしていた経験がありますが、インドネシア語はほぼほぼ理解できません。主人公はジャカルタのダウンタウンにあるスディルマン地区のオフィスに勤める男性のアレです。巨漢で色黒、見た目が悪い上に、体臭もきついらしく、お付き合いしていた女性からも振られて独身です。オフィスの同僚などからは、からかい、ないし、いじめの対象になっています。こうしたことから、37歳の誕生日に、24時間後に自殺することを決意します。でも、これがタイトルなのですが、死ぬ前にいつも行きつけの屋台のミーアヤムを食べることにします。で、翌朝、その屋台を訪れると、何と、屋台の店主が亡くなっていて、アレは店主の自宅での葬式に出席し、棺を持つうちの1人になったりします。そうこうするうちに、身に覚えのない冤罪で留置所に入れられ、ギャングのボスと知り合って気に入られてしまいます。冤罪はすぐに晴れて留置所から出ますが、同時に出所したギャングのボスの手下になって働く羽目になります。それから、いろいろあって、ラストはハッピーエンドで終わりますが、そのあたりの詳細は読んでみてのお楽しみです。最後に、ジャカルタ生活3年の経験者として、ひとくさり書きとめておきます。まず第1に、本書ではイスラム教的な要素はほとんど見られません。お祈りの時刻を知らせるアザーンが聞こえる、といった下りはいくつか見ました。まあ、日本の小説でも神道や仏教の宗教的な要素はほぼほぼ含まれませんので、そういったものか、という気はします。第2に、ミーアヤムとは、本書を読めば判りますが、鶏肉のヤキソバです。「ミー」は、たぶん、現地では「ミエ」と発音されるような気もしますが、麺を指します。アヤムが鶏肉です。なお、コメはナシですから、ナシアヤムというのもあるんだろうと思います。ナシゴレンは焼き飯です。ただ、日本人的な感覚では、ミーアヤムを朝食に食べるというのは少し違和感があります。現地の人だけかもしれません、第3に、移動手段にも注目です。主人公はオフィス勤務ですから、それなりのお給料を取っていてバイクも買えるようですが、平均的なジャカルタ市民は、少なくとも私が住んでいた20年余り前には、バイクには手が届かなかったような気がします。20年以上経過していますので所得も向上していることと想像しています。また、本書では1箇所だけ「三輪タクシー」として登場していますが、バイクの後ろにオレンジ色のホロを被せた席を設けているバジャイ bajaj という交通手段が20年余り前にはいっぱいありました。これも時代の経過とともに少なくなっている可能性があります。最後に第4に、やたらと喫煙シーンが登場します。主人公もタバコを吸います。これは、20年前から所得が向上したとはいえ、まだ、喫煙習慣は大いに残っている、ということなのかもしれません。

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次に、中村隆之『今こそ経済学を問い直す』(講談社現代新書)を読みました。著者は、青山学院大学経済学部教授であり、ご専門は経済史、経済思想史だそうです。京都大学経済学部の八木先生の門下生だったようですから、マルクス主義経済学がご専門かもしれません。結論として、とてもいい経済書です。ひょっとしたら、少し前に取り上げた私の同僚である松尾匡先生の『「上」vs.「下」の経済学』より良質の経済書かもしれません。すなわち、私が普段から感じている点について、それなりの正しい方向性を示している気がします。冒頭で、経済成長の限界を2点から説き起こします。第1に、自然環境の制約です。第2に、経済の成熟化に伴う変化であり、金銭の支払い意思で示される購買欲求と必要性の乖離です。まず、マイクロな経済では、伝統的な経済学は、売り手と買い手がともに市場で交換すれば、本書でいうところのwin-winの関係になることを示しています。しかし、実際には、本当に社会的必要性を満たしているかは疑問であると本書では指摘しています。そして、マクロ経済のフィールドでは、ケインズ卿が指摘するように、市場は雇用の自動調整機能を持たない、と指摘しています。ほぼほぼ、私は本書の指摘や結論に賛成していますが、私なりの言葉で言い換えれば、経済学では労働サービスも含めて市場に商品として供給される財やサービスに価格をつけて、その価格を支払える購入者にそういったリソースを配分する機能を有していることは事実です。そして、そういった価格に応じた資源配分がもっとも効率的であることも証明されています。ただし、購買力たる貨幣は持たないが必要性の高い企業や家計に財やサービスを供給する機能はありません。ですから、日本をはじめとする先進各国で典型的に市場における供給と購買力に基づいた配分を部分的なリとも回避する仕組みがあるのが、現時点では、医療をはじめとする社会保障と教育です。私が活動している教育、大学教育に引き付ければ、高いレベルの教育を提供する大学の教育サービスは市場における価格に従って、すなわち、高い値段でオークションのように競り落とされるわけではなく、入学試験を通して、教育を受ける準備が整っている学生に対して提供されます。医療はもっと必要に応じて、社会的に標準とされる価格で提供されます。私はこういった社会的な必要に応じた供給というものが広がる必要を感じています。社会的な必要に応じた供給という本書の大きなテーマのひとつは、ピケティ教授のいうところの脱商品であり、斉藤准教授のいうコモンの拡大にほかなりません。現在の日本では、まだ医療をはじめとする社会保障や教育にとどまっている社会的な必要に応じた供給、市場を通じない脱商品としての供給を、さらに拡大して、まずは住宅、さらに、交通や通信、もっと拡大するべき分野も少なくないと思っています。そういった方向性を指し示し、かなりの程度に理論的な展開も本書では見せています。多くのひとにオススメです。

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次に、貴戸湊太『有能助手は名探偵を操る』(ハーパーBOOKS+)を読みました。著者は、ミステリ作家です。私は、本書の著者の作品の中では、『その塾講師、正体不明』や『図書館に火をつけたら』といったミステリを読んでいます。タイトルから軽く想像されるように、探偵がへっぽこで、実は有能な探偵助手が謎解きをしている、というパターンです。それほどめずらしいものではなく、いくつかあると思います。本書は、そういった探偵と助手の逆転をコミカルに描き出すとともに、それでも、コミカルに終わるだけではなく、しっかりと本格的な謎解きが展開されているところが魅力です。ということで、実はへっぽこながら、ビジュアルがよい名探偵が志谷禄郎、ウラで謎解きをしているのが助手の和戸村丈となります。標準的なボリュームの中で5年前の過去編と現在編に別れ、さらに、オマケでもないでしょうが、名探偵と助手の2人の出会いの大学時代編もあったりします。プロローグの事件で軽く名探偵と助手が登場した後、本編の現在編に入り、都内のバーでアルコール度数の高い酒をかけられて焼死させられるという事件が発生し、名探偵の叔父の警視副総監である福田宗寛から呼出しを受けて名探偵と助手が事件現場に臨みます。現在のこの事件が、5年前の菜の花山荘の事件と深く関係していることから過去編に飛び、5年前の事件の真相が謎解きされます。そして、現在に戻って、冒頭の事件の謎解きが展開され、最後に、名探偵と助手の出会いの大学時代を振り返ることになります。ミステリですので、詳細は読んでみてのお楽しみです。私自身の推理の謎解きのレベルは、本書のへっぽこ名探偵である志谷禄郎並みかそれ以下ですので、有能助手の和戸村丈が名探偵の志谷禄郎に出すヒントがとても有り難くて、その意味でスラスラと読み進めます。失礼ながら、そういったレベルの読者にも楽しめるミステリに仕上がっています。また、ついでながら、有能助手の和戸村丈は、謎解きに実際に取り組む探偵として有能なだけではなく、キチンと解決への伏線を文中にバラまいておく記述者のワトソン役としても有能だと私は感じました。ただ、そのヒントも含めて、推理のまっ最中に、へっぽこ名探偵と有能助手の両者の間のやり取りが冗長だと感じる読者もいるかもしれません。

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次に、砂原浩太朗『藩邸差配役日日控』(文春文庫)を読みました。著者は、時代小説作家であり、私は『高瀬庄左衛門御留書』と『黛家の兄弟』を読みました。でも、葉室麟作品のような華やかさ、というか、エンタメ性に欠けた作品で、最近は読んでいませんでした。本書は単行本からすでに文庫本化されており、私はその文庫本を読みました。すでにシリーズ第2弾の『星月夜』も単行本で出版されています。本書は連作短編が5話収録されています。まず、本書の舞台は徳川期の江戸であり、主人公の里村五郎兵衛は、代々、神宮寺藩7万石の江戸藩邸の差配役を務めています。タイトル通りなわけです。主人公が常駐する上屋敷は本郷にあります。今の本郷にある東大キャンパスは、赤門が残っているように、その昔の加賀前田藩の上屋敷でしたので、場所柄は同じようなものです。ただし、主人公は常駐している上屋敷だけでなく、中屋敷や下屋敷にも出向くことがあります。差配役とは、今でいえば総務部総務課長のような役どころとされていて、藩邸内の「なんでも屋」と揶揄される時もあったりします。どういった働きをするかといえば、最初の短編「拐し」では、藩主の世子である亀千代ぎみがお忍びで上野の花見に出かけたところ、行方不明になってしまいます。江戸家老の大久保重右衛門からは「むりに見つけずともよいぞ」と言われてしまいますが、もちろん、里村五郎兵衛は副役の野田弥左衛門や下役の安西主税らとともに必死で探します。続いて、「黒い札」では、皿や椀などの奥向きの調度を納入する商人を選ぶ入札で不審があり、入札をやり直したりします。続いて、「滝夜叉」では、里村五郎兵衛が不在の折に副役の野田弥左衛門が口入屋から雇い入れた女中の滝夜叉こと、お滝をめぐる騒動が持ち上がります。続いて、「猫不知」では、藩主の正室であるお熙の方の愛猫の万寿丸が姿を消したため、差配役の里村五郎兵衛以下で屋敷の内外を探し回ります。このあたりから、江戸家老の大久保重右衛門と留守居役である岩本甚内の2人による藩内の派閥争いが激化し、お世継ぎを誰にするかを含めて、いかにも時代小説らしいお家騒動が始まります。最後の短編「秋江賦」は短編中でもっともボリュームがあり、病気で上府がかなわなかった藩主の和泉守正親が江戸にやって来て、お家騒動が決着します。5話の短編が強くリンクし、それぞれにさまざまな伏線がばらまかれていて、最後にそれらが回収されます。とてもよい構成の時代小説でした。でも、繰返しになりますが、葉室作品のようなエンタメ性には欠けます。エンタメ性には欠けると言っているものの、私は本シリーズの次作も読みたがるような気がします。強くします。

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2026年5月 2日 (土)

今週の読書はいろいろ読んで計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、アンガス・ディートン『格差の国の経済学』(みすず書房)では、主流派である米国の経済学や経済学者=エコノミストについて、英国出身の著者なりの見方を示していて、効用ないし幸福度を考える際に、金銭へ固執してきた点を批判し、不平等の問題についても教育や健康まで幅広く考えています。情報処理演習教材作成委員会[編]『経済系のデータサイエンス』(学術図書出版社)では、立命館大学経済学部の教授陣が、Excel操作から始まって、データ分析の基礎として時系列データと横断面データを学び、さらに寄与度分析などを大学新入生向けに解説しています。読売新聞大阪本社取材班『絶望の凶弾』(中央公論新社)は、2022年7月8日の参議院選挙のさなかに、安倍晋三元総理が奈良で暗殺された事件から、その銃撃犯である山上徹也に対して奈良地裁が求刑通りの無期懲役の判決を下すまでの1294日の取材結果を取りまとめています。藤崎翔『お梅は魔法少女ごと呪いたい』(祥伝社文庫)は、戦国時代の呪いの人形であるお梅のシリーズ第3作であり、「ハッピー魔法少女イライザ」なる昭和45年に作られた西洋人っぽい外観の人形と出会いますが、相変わらず、人を不幸にするのではなく幸福をもたらしています。葉室麟『峠しぐれ』(文春文庫)は、徳川期の藩境にある峠の茶屋を部隊に、武芸の達人である半平と峠の弁天様と称される志乃の夫婦を軸に、さまざまな人間模様が描かれ、最後に、夫婦2人の謎が明らかにされます。個性的かつ魅力あふれるキャラクターが多数登場しエンタメ性に富んでいます。織守きょうや『キスに煙』(文春文庫)は、フィギュアスケート界を舞台に、ややBL小説的な展開を見せています。ミステリではありませんし、ラストにサプライズがあるかどうかは、読んでみてのお楽しみです。ただ、ちょっと拍子抜けかも。
今年2026年の新刊書読書は、1~4月に合わせて97冊、5月に入って今週の6冊を加えて合計103冊となります。これらの読書感想文については、できる限り、FacebookやX(昔のtwitter)、あるいは、mixi、mixi2などのSNSでシェアしたいと予定しています。また、学術論文や国際機関のリポートなどもSNSで適宜取り上げたいと予定しています。

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まず、アンガス・ディートン『格差の国の経済学』(みすず書房)を読みました。著者は、英国生まれで、米国プリンストン大学公共・国際問題大学院シニア・スカラー、同大経済学・国際問題名誉教授であり、2015年にノーベル経済学賞を受賞してます。ご専門は、貧困、不平等、医療、経済開発となっています。もっとも最近のご著書では、奥様のアン・ケース教授との共著で『絶望死のアメリカ』を私は読みました。なお、本書の英語の原題は Economics in America であり、2023年の出版です。本書は、英語の原題の通り、米国の経済学について、英国生まれの著者なりに概観しています。すなわち、大雑把に言って、シカゴ学派に代表されるミクロ経済学については、効率性を重視する余り不平等を許容し、いわゆる経済力を持つ経済主体、個人や企業に有利な見方を提供しかねない点を強調しています。他方で、ケインズ卿に由来するマクロ経済学については期待感が示されている気がします。まあ、私自身がマクロエコノミストですので、勝手な見方かもしれません。本書は経済学や経済学者=エコノミスト、特に主流派中の主流派である米国の経済学や経済学者=エコノミストについて、英国出身の著者なりの見方を示していますが、いくつかのメッセージを読み取ることが出来ます。まず、主流派の経済学ないしエコノミストが、効用ないし幸福度を考える際に、金銭へ固執してきた点を批判しています。現在では経済学だけでなく、すべての基準が金銭換算されかねないわけで、例えば、何らかの損害賠償は金銭支払いで済ませる場合が少なくないですし、何らかの代替基準の必要はあるかもしれません。さらに、経済発展や狭い経済学の範囲にはこだわらず医療や健康問題への言及も豊富に収録されています。不平等の問題についても、金銭的な不平等だけでなく、教育や健康まで幅広い問題を考え、特に、サンデル教授が『実力も運のうち』で指摘している大卒者の持つ大きな特権も、サンデル教授と同じように批判しています。最後の方の8章から11章は経済学者の実態に焦点を当てています。さすがに、ノーベル賞受賞のエコノミストですので、私なんぞとはまったく違う世界を垣間見ることが出来ました。ノーベル賞の授賞式に孫まで含めて一家旅行できるなんて、また、時の大統領にホワイトハウスに招待されるなんて、ごくごく限られたエコノミストだけに与えられる特権なのだと思います。

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次に、情報処理演習教材作成委員会[編]『経済系のデータサイエンス 第2版』(学術図書出版社)を読みました。著者は、聞き慣れない委員会に見えるのですが、本の奥付けや出版社のサイトを見れば担当章別の執筆者が4名上げられており、すべて立命館大学経済学部の教授となっています。はい。私の同僚です。私自身は授業を見ていないのでわからないのですが、たぶん、新入生に対する情報処理演習の授業のテキストなのではないか、と想像しています。5章構成であり、最初に第1章でExcelの基本操作などを習得した後、第2章でデータ分析の基礎として時系列データと横断面データを学び、第3章で寄与度分析、第4章でグラフや統計量でデータの特徴を捉え、最後の第5章で回帰分析を取り上げています。大学新入生向けのテキストですから、私が熱心に読む必要あるレベル感ではありませんが、それほどExcelに習熟していない向きには、大学新入生でなくても有益ではなかろうかと思います。ただし、私は新入生から1年を経過した2年生向けの授業で第3章までを復習させることにしています。本書に書いてある内容を「習っていない」と主張する2回生は少なくないのが実情です。たぶん、「習っていない」のではなく、「覚えていない」が正しいのではないかと私は想像しています。

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次に、読売新聞大阪本社取材班『絶望の凶弾』(中央公論新社)を読みました。著者は、新聞社の取材班です。表紙を見ての通りで、2022年7月8日の参議院選挙のさなかに、安倍晋三元総理が奈良で暗殺された事件から、その銃撃犯である山上徹也に対して奈良地裁が求刑通りの無期懲役の判決を下すまでの1294日の取材結果を取りまとめています。山上徹也だけを追っていますが、管見の限り、この事件に関するもっとも信頼性の高いルポルタージュだと思います。旧統一協会の妄信的な信者出会った母親、自殺した父と兄、もっとも熱心な援助を寄せていた父の兄である伯父、などなど、山上徹也を取り巻く親族との関係を明らかにし、親族や働いていた会社の関係者などへの取材を通じて明らかになった山上徹也の実像が、決して十分とは言えないながらも、明らかにしようと試みています。ただ、まだ判決が確定したわけではないという意味で裁判が終わったわけではありませんし、旧統一協会の解散問題も決着していません。戦後初めての総理大臣経験者の暗殺という事件の全貌、特に、旧統一協会の闇の部分の真相解明はまったく不十分です。政界との関係も明らかにされていません。最後に、本筋から離れて事実関係ながら3点だけ示すと、まず第1に、銃撃された安倍元総理に最初に駆けつけた、というか、呼ばれたのは、私の高校の同級生です。薄々漏れ聞いてはいました。そして第2に、本書もそうですが、旧統一教会と表記されています。私は旧統一協会と表記するのが正しいと考えています。本書p.32でも言及されている通り、文鮮明によって1954年に設立されたのは世界基督教統一神霊協会でした。第3に、本書では、旧統一協会の政治部隊である勝共連合にまったく言及がありません。こういった点を含めて、本書の取材記録もそのまま鵜呑みにするのではなく、それなりに批判的な目でもって読まれるべき本である可能性を指摘しておきたいと思います。

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次に、藤崎翔『お梅は魔法少女ごと呪いたい』(祥伝社文庫)を読みました。著者は、元芸人にして現在ではもっとも売れている小説家の1人ではないかと思います。本書は、お梅シリーズの第3弾です。かつては戦国大名の一族を滅亡させたほどの呪いの人形なのに、約500年ぶりの令和に復活してからはまったく呪いの人形らしくもなく、人々を幸せにしてばかりいるお梅が主人公のコメディです。この第3作目では「ハッピー魔法少女イライザ」なる昭和45年に作られた西洋人っぽい外観の人形と出会います。イライザはそれほど流行らなかったアニメに由来し、お梅と反対で、人に幸せをもたらすという設定なのですが、失敗続きでそれほど人の幸せには役立っていません。でも、お梅が羨むような瞬間移動=ワープなどの特殊能力を持っています。イライザと出会う「ぷろろをぐ」と意外な展開の「ゑぴろをぐ」を別にして、5話の連作短編から構成されており、いつも通り、実に緻密で素晴らしい出来のコメディに仕上がっています。収録順にあらすじは以下の通りです。まず、「孝行息子を呪いたい」では認知症で記憶が怪しくなった老婆、そして、老婆を世話する中年男性ごと呪おうとします。続いて、「さっかあ少年を呪いたい」では、弱小チームの補欠をしているサッカー少年の試合の場で、両チームの不和を増幅しようとします。続いて、「修学旅行を呪いたい」では、田舎の高校の修学旅行のタクシー研修の4人の友人なし高校生の不仲を拡大しようと試みます。続いて、「とっぷすたあを呪いたい」では、シンガーソングライターにして俳優としても超トップクラスの男性一家を呪おうとします。最後に、「理解不能男女を呪いたい」では、ホストに貢ぐために風俗嬢になった女性と相手のホストの不幸を願います。「修学旅行を呪いたい」を例外として、ほかの短編では完全な勧善懲悪のストーリーとなっています。冒頭で、「人々を幸せにしてばかりいる」と書きましたが、正確には悪人はこってりと罰せられます。イライザとのかけ合いはおもしろいのですが、まあ、お梅単独でもいいかな、という気はします。「ゑぴろをぐ」の最後の最後に、本シリーズの今後の方向性に言及されていますが、実現するかどうかは、というか、作者に実現させようという意欲があるかどうかは不明です。

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次に、葉室麟『峠しぐれ』(文春文庫)を読みました。著者は、時代小説家であり、2017年に亡くなっています。少し前に読んだ『蛍草』もそうでしたが、この作品も個性的かつ魅力あふれるキャラクターが多数登場しエンタメ性に富んでいます。本書は、双葉社から単行本で出版され、双葉文庫で1次文庫化された後、2024年に文春文庫で再文庫化されていて、私は文春文庫で読みました。時代は徳川期であり、岡野藩と結城藩の藩の境あたりの岡野藩側にある峠の茶屋が部隊となります。主人公は半平と志乃の夫婦です。半平は40過ぎで、峠の茶屋で町人に身をやつしながら、時代小説のチートスキルである武芸の達人です。志乃は30代半ばで峠の弁天様と称される美人です。その峠の茶屋に隣国の結城藩から味噌問屋がうまくいかずに夜逃げしてきた吉兵衛一家をはじめ、殺人も厭わぬ女盗賊が首領となっている盗賊団、半平に倅の剣の指南を乞う役人、そしてもちろん、時代小説の最大のテーマであるお家騒動などなど、最後に、半平と志乃の夫婦の深い闇のような秘密が解き明かされます。正義とはなにか、親子の情の重要性、そういった葉室流の時代小説の真髄が楽しめます。

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次に、織守きょうや『キスに煙』(文春文庫)を読みました。著者は、エンタメ作家で、私は何冊かこの作家のミステリ作品を読んでいます。読んだうちで一番いい出来だったのは明らかに『花束は毒』で、本書の宣伝文句でも『花束は毒』と同じ作者である点が強調されている気がします。でも、本作品はミステリではありません。どちらかといえばBL小説と見なす読者が多そうな気がします。はい、深入りはしません。本作品の主人公は、たぶん、塩澤と志藤の2人の男性フィギュアスケート選手だろうと思います。ただ、塩澤はすでに引退し服飾デザイナーとして活躍しています。志藤もこの作品の進行中にフィギュアからアイスダンスに転向します。ペアの女性は実の姉だったりします。そういった折に、2人の先輩フィギュアスケート選手で、今は引退して日本でコーチをしていたミラーが自宅のバルコニーから転落死します。4部構成なのですが、基本、神の視点、というか、主人公ではない第3者の視点から描写されます。ただ、視点を提供するわけではないものの、最初が塩澤、2部が志藤、3部がもう一度塩澤、そして、4部がミラーを中心としたストーリー展開です。ただし、プロの小説家にしては文章がそれほどうまくなくて、読者によっては混乱する部分もあります。まあ、私の読み方が悪いだけかもしれません。それから、この作者のことですから、ラストに大きなサプライズがあるかという気がして読み進んだのですが、まあ、そのあたりは読んでみてのお楽しみです。読んでみてのお楽しみなのですが、全体的に、本書の出来は『花束は毒』よりは大きく落ちます。それほど期待すべきではありません。ただ、繰返しになりますが、BLファンであれば平均的な読者よりも高く評価する可能性はあります。

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2026年4月25日 (土)

今週の読書は経済書と新書を中心に計7冊

今週の読書感想文は以下の通りです。新学年が始まって、新入生などにオススメする目的もあって新書を多く読んでいる気がします。
まず、宮川努[編]『日本経済の未来と生産性』(東京大学出版会)は、日本経済研究所の特別研究「社会の未来を考える」の一環として企画された「豊かさの基盤としての生産性を考える」シリーズの研究成果を取りまとめ、生産性を技術革新、グローバル化、非市場経済などの観点から考えています。宇南山卓『経済統計』(新世社)は、国民経済計算=SNA統計を中心に経済統計に焦点を当てて、幅広く各種統計を取り上げており、通して読むのもいいのですが、座右に置いて経済統計の辞書のような活用もあり得るかもしれません。山田祐樹『変な心理学』(ちくま新書)では、ものすごい「上から目線」で、アカデミック心理学ならざる大衆心理学にダメ出ししています。ですので、大衆心理学のうちで、アカデミック心理学でも支持されているようなものは、まったく無視されています。長崎励朗『大大阪という神話』(中公新書)では、戦前期の大阪について、「均質化の欲望」(p.ⅲ)という聞き慣れないキーワードで、大阪放送局の開局や小林一三による職業野球や宝塚歌劇などを題材にして、大阪が中央の東京に対抗する過程で独自性を喪失していく、という歴史を追っています。藤井薫『定年前後のキャリア戦略』(中公新書ラクレ)では、初任給の爆上がりなど新卒をはじめとする若手社員の待遇が上がっている中で、十分な活躍の場を与えられずモチベーションが下がり、ずっと会社員でずっと正社員だった中高年サラリーマンの処遇をデータに基づき明らかにしています。後藤宗明『中高年リスキリング』(朝日新書)では、AIなどの技術革新が大きく進み、グローバル化などの環境変化も激しい中で、労働寿命や雇用寿命を伸ばすリスキリングについて、アンラーニングを進めて言葉遣いを改める、などの実践的な方向を指南しています。瀬尾まいこ『私たちの世代は』(文春文庫)は、小学生のころにコロナ禍が始まった2人の女子を主人公に、大きく異なる境遇を明らかにしつつ、主人公2人を支える人物とともに、その後の2人の人生を大学生も終わりに近づいた就活期までカバーしています。
今年2026年の新刊書読書は、1~3月に合わせて73冊、4月に入ってから今週の7冊を加えて合計97冊となります。これらの読書感想文については、できる限り、FacebookやX(昔のtwitter)、あるいは、mixi、mixi2などのSNSでシェアしたいと予定しています。また、学術論文や政府のリポートなどもSNSで適宜取り上げたいと予定しています。

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まず、宮川努[編]『日本経済の未来と生産性』(東京大学出版会)を読みました。編者は、学習院大学経済学部教授です。ご専門はマクロ経済学や日本経済論です。本書は、日本経済研究所の特別研究「社会の未来を考える」の一環として企画された「豊かさの基盤としての生産性を考える」シリーズの研究成果を取りまとめています。3部構成となっており、第1部が技術革新の生産性向上効果は持続可能か、第2部がグローバル化に伴う生産性向上の課題、第3部が非市場経済における生産性を考える、とそれぞれ題されています。フォーマルな定量分析を行っているチャプターも多いんですが、かなり、印象論を展開しているものもあり、精粗まちまちという気もします。第1部では特許や研究開発活動の生産性向上効果を計測しており、第2部ではグローバルな生産性格差がコンバージェンスするかどうかや生産性の国際比較を試みています。第3部では、人的資本や社会資本とともに、終章では市場を離れて豊かさを実現できる生産性向上について考えています。第1部の特許や研究開発については、国内的にも国際的にも研究すでにかなり進んでいる分野ですので、いまさら、という気もします。第2部のグローバル化に伴う生産性向上については、いわゆるサプライチェーンの拡大版であるGVC=Global Value Chainに参加する、それも、より中心性が高い産業分野に参加できると生産性に好影響を及ぼす、というのは当たり前といえばあたりまえなのですが、同時に、経済安全保障も考えているのは、今どきの世界経済情勢によくマッチしている気もします。第3部の最終章のゆたかさと生産性について分析しているのは、生産性向上とは、特に、労働生産性向上とは単位マンパワー当たりのアウトプットを増加させることにほかならず、例えば、労働組合のサイドからすれば「労働強化」という見方も成り立ちうるからです。また、その前の人的資本による生産性貢献については、6つの要因、すなわち、(1) イノベーション、(2) 教育・人材、(3) IT・デジタル化、(4) 環境、(5) 所得分配、(6) サプライチェーン、の中で、(2) の教育・人材のスコアが各国と比較して日本では高い、という点が強調されています。はい、大学教育もがんばっているのかもしれません。ただ、出来れば、さらに、教育や人材といった日本の強みをさらに向上させるためにも大学進学率を引き上げる必要があるのではないか、と私は考えています。

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次に、宇南山卓『経済統計』(新世社)を読みました。著者は、京都大学経済研究所教授であり、京都大学の前の一橋大学ご勤務の折り、だったと思うのですが、私が総務省統計局に勤務していたころ、いろいろとお世話になった記憶があります。したがって、というか、何というか、統計や経済統計の専門家といえます。本書はライブラリ「今日の経済学」のシリーズ7巻目として発刊されています。私の役所の後輩だった堀雅博教授の『読んでわかる推測統計学の考え方』(日本評論社)を取り上げた際に軽く言及しましたが、統計と経済統計は少し色合いが異なります。本書は後者の経済統計に関する解説書なわけです。経済統計の大きな特徴は、時系列データであるという点です。フローデータにせよ、ストックデータにせよ、過去の時点と比較できる時系列データである場合が圧倒的に多くなっています。加えて、本書で取り上げているような経済指標と呼ばれる経済統計は、多くの場合、マクロ経済に関する統計です。本書でいえば、いくぶんなりとも、大学のセメスターを意識した15章構成のうち、第2章から第8章まで、ほぼ半分のボリュームを国民経済計算=SNA統計に当てていて、経済統計の中心的な存在といえます。SNA統計とは、大雑把に、GDP統計とその関連統計と考えればOKです。第9章から11章までがミクロ統計というタイトルが入っていますが、第10章の家計関連のミクロ統計、とはいっても、国勢調査や労働指標などは集計=aggregateされていますから、ほぼほぼマクロ統計の扱いでOKだと思います。第11章の企業関連のミクロ統計も同じです。私が少し「オヤ」と思ったのは、第13章で賃金と金利を同じ章で取り上げている点です。生産要素という意味で、労働への報酬である賃金と資本ストックへの報酬から派生する金利を同じ章で扱っています。それはそれで合理的か、という気もしました。本書の活用については、私のように通して読むのがひとつの方法ですが、本書冒頭で著者が指摘しているように、経済統計の辞書のような活用もあり得るかもしれません。最後に、パネルデータの説明の直前に、時系列データと横断面データのイメージ図が本書p.131にありますが、これだけは、堀雅博『読んでわかる推測統計学の考え方』(日本評論社)のp.22の方が圧倒的に直感的理解に資すると思います。でも逆に、本書p.131のような概念図が書ける、というのは本書のご著者が頭いい、ということなのだろうと私は受け止めています。

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次に、山田祐樹『変な心理学』(ちくま新書)を読みました。著者は、九州大学基幹教育院准教授で、ご専門は心理学のようです。本書のタイトルについては、アカデミック心理学ならざる大衆心理学のことを指しているようです。要するに、医療における民間療法のようなものだと考えればいいかもしれません。第1章では、行動心理学なんてものはアカデミック心理学には存在しないと主張し、第2章以下でその「民間療法」的なアカデミックならざる大衆心理学を取り上げています。第2章ではカラーバス効果、第3章ではウィンザー効果、第4章では逆カラーバス効果、というか、その典型のサブリミナル効果、第5章では蛙化現象、そして、第6章は本書の結論部分であり、このような大衆心理学がバズっている原因について考えています。私はカラーバス効果は知らなかったのですが、色を浴びるという意味で、何らかのキーを指定して街を歩けば、自動的にアイデアが得られる、ということのようです。半分くらいは確証バイアスではないか、と思って読んでいたら、最終第6章p.256でそう出ていました。いずれにせよ、各章で取り上げている心理学的な装いをまとった効果や現象はアカデミックな心理学では研究されておらず、大衆心理学である、と指摘しています。性格診断や自己啓発本などでいっぱい見られるようですが、私はそういった本はそれほど読まないので、蛙化現象のほかはバズっている気がしませんでした。私の専門分野である経済や経済学に引きつけて考えると、典型的な大衆経済学で、為替相場を円高にすれば物価を沈静化することができる、というのがあります。詳細は展開しませんが、私はこの円高による物価抑制というのはかなり怪しくて、専門用語ですが、為替のパススルーはそれほど大きくない、と考えています。おそらく、エコノミストの間で緩やかなコンセンサスがあるのではないか、と思います。そして、経済学の隣接領域である経営学に関しては、特に、投資行動については、もっといっぱい「民間療法」的な経営学、特に、投資行動に対する示唆がありそうな気がします。例えば、株価チャートでこういった形が現れれば、株価が上昇する、あるいは、下落する前兆である、といったものです。最後に、本書における著者のご指摘はすべて正しいものと思いますし、とても面白い本だったのですが、批判をひとくさり指摘しておきたいと思います。とっても「上から目線」の本です。本書の中では何度か否定していますが、あくまでアカデミック心理学が上で、大衆心理学が下、という意識が丸見えです。ですから、本書のタイトルをそのまま借用して「変な心理学」あるいは大衆心理学のうちで、アカデミック心理学でも支持されているようなものは、まったく無視されています。もちろん、専門外の私には知りようがないところで、まったく存在すらしないのかもしれません。でも、例えば、地球物理学だか宇宙物理学だか、「夕焼けは明日晴れる」というのはたぶんアカデミックにも支持されている民間伝承だと思うのですが、そういった大衆心理学であるものの、アカデミックにも支持される、といったものは完全無視されています。そして、査読論文でないとアカデミックな支持を得る根拠にならないかのような「上から目線」記述も満載です。特に、蛙化現象の発端が学会のパネル発表だったとかで、軽んじている姿勢は鮮明です。私はそれほどでもありませんが、学会のパネル発表は大学院生に勧める先生も少なくなく、ご著者が研究者として優秀でも、教育者としてどうなのか、という疑問は感じました。まあ、学問分野や地域によっては、これくらい「エラそう」にする方が効果があるのかもしれません。

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次に、長崎励朗『大大阪という神話』(中公新書)を読みました。著者は、桃山学院大学社会学部准教授であり、生まれの育ちも大阪だということです。本書の中身は、タイトルから受ける印象とは少し違っています。すなわち、広く知られているように、戦前昭和期で日本経済のピークとされる昭和9-11年、西暦でいうと1934-36年ころまで、大阪の経済規模は東京を上回っており、いわば、日本最大の都市でした。本書でも、行政区画の変更で東京市が大阪市を上回ったり、下回ったりというのは軽く言及していますが、少なくとも、21世紀の現時点での大阪の凋落ぶりは微塵もありませんでした。ハッキリいって、徳川期は大坂の方が経済規模は江戸より遥かに大きかったわけですから、そのあたりで逆転したわけです。本書では、経済の視点から大阪が東京を下回るようになった経緯を議論しているのではなく、「均質化の欲望」(p.ⅲ)という聞き慣れないキーワードでもって、大阪が中央の東京に対抗する過程で独自性を喪失していく、という歴史を追っています。序章と終章を除いて4章構成であり、第1章では大阪放送局、NHKに吸収された今もJOBKの愛称が残るラジオ放送開始時の放送局開局の顛末に着目しています。すなわち、当時の大阪の資本家には2種類の人がいて、一方は本書で大阪原人と呼ぶ古くからの大阪商人であり、歴史と伝統がある凡凡、といえます。それに対して、他方で、新興資本家、というよりも、相場で一発当てた成り金の金持ちがいます。この2種類の大阪人が大阪放送局開局に当たってぶつかり合うわけです。前者の大阪原人はなあなあで放送局人事を決めようとする一方で、過去から蓄積した十分な経営スキルを有しています。ラジオ放送の公共性という点も理解しています。他方で、新興資本家たちは資金面では大阪原人に十分に対抗できるだけの余裕があり、多数決で放送局人事を握る一方で、ラジオ放送により儲けを出すことには熱心ですが、放送の公共性を理解せず、経営スキルがそれほどありません。そういった派閥抗争的な大阪放送局、あるいは、ついでながら、その前哨戦となった大阪電燈の買収を歴史的に追って、経営スキルに欠ける新興資本家が資金力や多数決で経営参加するものの、結局、スキル不足で経営に失敗して、最後は官僚の介入を招く、という結論を引き出しています。当然に、官僚が介入すると大阪独自の色彩よりも、全国一律の「均質化の欲望」が働くわけです。さらに、第2章以降では、放送における標準語でのコミュニケーション、吉本興業の漫才はホントに大阪的か、小林一三による職業野球と宝塚歌劇の展開などに着目して、同様の大阪論を展開しています。そのあたりは、読んでみてのお楽しみです。

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次に、藤井薫『定年前後のキャリア戦略』(中公新書ラクレ)を読みました。著者は、パーソル総合研究所シンクタンク本部の上席主任研究員だそうです。本書では、「ずっと正社員だった」あるいは「ずっと会社員だった」60代に対して、その就業やお給料のリアルをパーソル総研などのデータに基づいて解き明かそうと試みています。冒頭から明らかにしている通り、ここ数年、人手不足が声高に叫ばれ、新卒をはじめとする若手社員は引く手あまたで、初任給は爆上がりして30万円もめずらしくない世の中になった一方で、50-60代の中高年社員は十分な活躍の場を与えられているとは考えられていません。本書でも何度も同じいい回しが登場しますが、会社は中高年社員を持て余していて、それほど大きな期待は寄せられていません。そういった観点から、50-60代会社員、ずっと会社員でずっと正社員だったサラリーマンの処遇のリアルを明らかにしようとしています。まず、広く知れ渡っている事実ながら、雇用延長がなされて、60歳定年であっても65歳までは継続雇用、退職後の再雇用という形か、あるいは、定年延長かで、65歳まで働き続けることが普通になっています。しかし、他方で、50歳とか55歳とかで役職定年、あるいは、定年65歳であれば、例えば、60歳で役職定年というものがあります。当然、その段差でお給料は大きく下がるわけです。役職定年がなくても、60歳の定年後再雇用でお給料は半分近くに下がる場合すらあります。働く方からは、モチベーションの維持も難しくなりそうです。そういった事実をデータに基づいて明らかにしています。ただし、建前や制度上のお話ではそうなっていても、ホントのリアルは違っている場合があり、それをアンケート調査などで補っています。雇う方からの見方は、pp.156-7に渡って、60代社員に対する会社のステレオタイプなホンネがいくつか列挙されています。最初のは「企業が望んで雇用しているわけではない。昔ならもう引退している年齢だ」、次が「年功で役職についている人も多い。給料も高い」、そして、「給与もポストも若手に譲ってやってほしい」といったものです。まあ、そうなんでしょうね。ただ、私のキャリアは公務員から大学教員ですから、会社員とは大きく異なる可能性がありますので、何の参考にもなりません。最後に、employabilityという英語がありますが、労働は可能でも、雇用される可能性が低下している人材は少なくない印象です。それでも、平均余命は伸びて時間を持て余す中高年は多いわけで、何らかのスキルアップなしに望ましい形での会社や社会への貢献ができない時代に入りつつあるのかもしれません。

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次に、後藤宗明『中高年リスキリング』(朝日新書)を読みました。著者は、一般社団法人ジャパン・リスキリング・イニシアチブを設立した代表理事だそうです。本書では、中高年の労働継続や雇用継続の観点から、タイトル通りにリスキリングについて論じています。ほぼほぼ何の統計にも基づかずに、直感的な、あるいは、著者の体験や経験に基づく分析結果が披露されています。EBPMを重視する政府の政策決定ではまったく無視されるでしょうが、一般国民にはそれなりに支持されそうな要素、それも実践的な要素をいくつか含んでいます。本書は3章構成であり、第1章でAIをはじめとする大きな技術革新の中での労働や雇用について考え、第2章でリスキリングによる労働寿命の長期化を議論し、最後の第3章で実践的なリスキリングについて展開しています。詳細はお読みいただくのがベストですが、私の感想や実感を簡単に取りまとめたいと思います。まず、私の同年代の60代後半の知り合いで、会社を退職した後、スキルを活かして再就職にチャレンジしている、あるいは、まだ確認していませんが、すでに再就職に成功した人がいます。本書では、労働寿命と雇用寿命を判別しています。すなわち、employabilityという英語がありますが、労働寿命=雇用寿命ではなく、起業とまで大げさではないとしても、フリーランスで働くことも中高年のオプションと考えています。私も知り合いの求職活動に対して、雇われたいというのは理解できるものの、雇われるとなると、特に男性の場合は年齢的に、警備や清掃や介護、あるいは、せいぜいが軽作業などに限定される可能性が高いと思っています。そこで、本書ではリスキリング、ということをオススメしているわけです。労働を続けるとしてもスキルアップは必要ですし、雇用されたいと願うとすれば、もっと必要かもしれません。次に、スキルアップの分野としては、グローバル、デジタル、グリーン、宇宙を著者は上げています。私も中高年リスキリングどころか、大学生に対して、グローバル、デジタル、グリーンまでは同じですが、最後はデータサイエンスを上げています。たしかに、デジタルとデータサイエンスは重複する部分もあるとは思いますが、ちょっと宇宙はハードル高そうな気がします。それから、私なんかは大学生を相手にしていますので、まったく考慮にすら入れていないのですが、リスキリングを考える際にはまずアンラーニングして、過去の成功体験を手放す、あるいは、見直す必要を強調しています。ですので、中高年については言葉遣いから気をつけるべき、と本書では指摘しています。私はその昔に「官尊民卑」とまでいわれた日本で60歳の定年までキャリアの国家公務員をし、今は教師ですので、少なくとも挨拶なんかは「上から目線」の言葉遣いになっています。朝の挨拶は「ございます」なしの「おはよう」で済ませます。気をつけねばと再認識させられました。最後に、実に実践的な観点から、リスキリングを進めるとすれば、アルコールとカフェインはNG、というアドバイスもあったりします。アルコールはともかく、カフェインもダメなんでしょうか。

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次に、瀬尾まいこ『私たちの世代は』(文春文庫)を読みました。著者は、私も大好きな人気の小説家です。この作品はいわゆるコロナ文学です。すなわち、かなり長期に渡って、コロナ禍の開始時2020年に小学生だった2人の女子、何の接点もなかった2人が、中学生、高校生、そして、大学生活も卒業に近づいた就活の時期までをカバーしています。ですので、本書の単行本が出版された2023年はもちろん、私が読んだ文庫本が出版された今年2026年から見ても、この作品のラストは2030年より少し先の近未来、ということになります。主人公2人は、まず、シングルマザーながら明るく太っ腹な肝っ玉かあさんに育てられた岸間冴、そして、児童教育に造形深い母親に育てられた江崎心晴、となります。2人は大学生活の最終盤となる就活の場で出会うことになります。それまでは、まったく境遇の異なる主人公2人が別々・独立に描かれます。その叙述の切替えが、いかにも、という感じで、瀬尾作品らしく、とてもさりげないので、私のような表面だけ追うような薄っぺらな読み方では、最初は少し混乱したりしました。ただ、すぐに、2人の主人公の境遇や行動、考え方などが大きく異なりますので、間違えることはなかろうと思います。岸間冴の方は、中学生くらいから、母親が夜の商売であるため、いじめにあいますが、蒼葉という実に力強い味方を得て、というか、母親とともに「発掘」して、明るく強く生きてゆきます。でも、その母親は高校を卒業する前に亡くなったりします。他方、客観的に見て実に恵まれた境遇にあるハズの江崎心晴は、長らく引きこもりになりますが、同じ引きこもり仲間、というか、メッセージだけ交わす相手のカナカナとの交流に支えられて、もちろん、理解のある母親もいて、立派に通信制高校から大学も終えつつある段階で就活に励んでいます。この作者らしい、決して力みかえるわけではなく、ごく自然に人生を送り、決して人から大きな尊敬を集めるわけではないものの、心豊かな生活を送る人々を描き出しています。世間一般は決して平等でもなんでもなく、ひょっとしたら公平ですらなく、親ガチャもあれば、所得の大きさ、学歴や何やの格差が大きいわけですが、しっかり生きて幸せをつかんでいる人がいっぱいいることを実感できるいい小説でした。

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2026年4月18日 (土)

今週の読書は新書をよく読んで計5冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、松尾匡『「上」vs.「下」の経済学』(地平社)では、世の中を横に切って上下に分けて、下に味方するのが左翼、縦に切ってウチとソトに分けて、ウチに味方するのが右翼、との見方を示し、政権=権力者の好みで資源動員先を決め、農業や中小企業を切捨てる政策を批判しています。山口未桜『白魔の檻』(東京創元社)では、兵庫市民病院の城崎響介医師が謎解きをするミステリであり、研修医の春田芽衣とともにへき地医療協力で訪れた北海道の更冠病院が、地震による土砂崩れや硫化水素ガスにより孤立してクローズド・サークルと化した中で、殺人が起こります。岡田晃『経済で読み解く昭和史』(PHP新書)は、ジャーナリストである著者が昭和の歴史を経済で振り返っています。昭和2年1927年の金融恐慌から始まった戦前期から始まり、戦争中の歴史、終戦直後の戦後復興期、昭和の高度成長期、高度成長の終焉からバブル経済で締めくくっています。稲田豊史『本を読めなくなった人たち』(中公新書ラクレ)では、コスパやタイパの重視にしたがって長い文章を読まない人の割合が増加している現状が、統計ではなく直感的に確認されています。テキスト媒体が時間がかかるメディアとして敬遠されているのも事実かと私は受け止めました。坂爪真吾『モテない中年』(PHP新書)では、「モテない」とは恋愛が苦手というより、「恋愛や性に関する欲求をうまくマネジメントすることができず、(略)不全感と孤独感を抱えながら生きている状態」と定義し、後半では離婚した中年男性のインタビューから構成しています。
今年2026年の新刊書読書は、1~3月に合わせて73冊、4月に入ってから先週までの12冊と今週の5冊を加えて合計90冊となります。これらの読書感想文については、できる限り、FacebookやX(昔のtwitter)、あるいは、mixi、mixi2などのSNSでシェアしたいと予定しています。さらに、世界銀行のリポートや学術論文も少し読んでいますので、適宜取り上げてSNSにポストしたいと予定しています。

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まず、松尾匡『「上」vs.「下」の経済学』(地平社)を読みました。著者は、立命館大学経済学部教授であり、すなわち、私の同僚教員です。したがって、というわけでもないのでしょうが、本書をご寄贈いただいています。ただ、ご著者と違って、私は政治向きのお話は理解がはかどりませんし、第1章の総選挙結果の解説についても、何ともいえません。世の中が中道と左右のポピュリズムの3極に分かれるかどうかについても、そこまで単純化できるのだろうか、と疑問に思わないでもありません。したがって、経済や経済学に限定はしませんが、私が理解できる範囲のレビューになります。まず、タイトルについて、明快に第2章で、世の中を横に切って上下に分けて認識し、下に味方するのが左翼、世の中を縦に切ってウチとソトに分けて認識し、ウチに味方するのが右翼、という見方を示しています。p.57 図2-1で図解しています。はい、これは私もまったくその通りだと思います。私が理解できる範囲で、第4章の現在の高市政権の経済政策についても、その通りで、政権=権力者のお好みにしたがって資源動員先を決めて、農業や中小企業は切捨ての憂き目を見ていることも事実です。ただ、口実としている経済安全保障が、例えば、「通商白書」で見る限り、数年前の「通商白書」2022年版では、第Ⅱ-1-2-25表の重要品目等の依存度、国内代替可能度、あるいは、それに続く第Ⅱ-1-2-26図の輸入相手国・地域などで、国内生産比率がパソコンや携帯電話で低く、中国からの輸入依存度が高い、として、いかにも「中国への輸入依存がリスク」といわんばかりの見方だったのが、本書で指摘する地域帝国主義の観点から明らかにしているように、米国トランプ政権こそが我が国の経済安全保障を脅かす元凶、という現実を見るべきと私は考えています。私の記憶にあるのは、Financial Timesに掲載されたコラム "Trump, Putin, Xi and the new age of empire" にあった世界を3人で分割する風刺画です。ただし、いくつか指摘しておきたい点もあります。まず第1に、ウチとソトに分ける右翼の財政拡張路線と上と下に分ける左翼の反緊縮財政の違いが、たぶん、よく読めば頭のいい人には判るのかもしれませんが、私には判然としませんでした。要するに、歳出については、大企業や軍備につぎ込むのが右翼の財政拡張政策で、社会保障や教育などの国民生活に資源配分を手厚くするのが左翼の反緊縮財政、という結論なのだと思いますが、それだけなのでしょうか。確かに、歳入面での累進課税の強化は重要ですが、先進国で累進課税を取っていない国なんてないわけで、どの程度の累進度が必要なのでしょうか。労働配分の精緻な計算結果に比較すると、やや物足りない気もします。第2に、その労働配分=労働の割当てだけではなく、資本ストックも合わせてみた産出=アウトプットで考えるべきではないか、と私は考えています。例えば、将来的に需要が拡大することが明らかな介護サービスの供給を増やすには、確かに短期には労働配分を増やす必要が高いという点は理解しますが、より長期には資本ストックに体化される技術革新も含めて、労働だけに必要なアウトプットの増加を依存するのではなく、生産要素である労働と資本ストックの両方から手当てすべきではないか、と私は考えます。第3に最後に、私はこういった左派の経済政策を実現するには、それなりの自覚した勢力の行動が必要と考えています。もはや、かつてのソ連や中国のような暴力革命でプロレタリアート独裁、なんてのは絶対に出来っこありませんから、今では選挙による政権交代がもっとも現実的と考える国民が多いかもしれません。しかし、私は選挙に基づく政権交代ですら、日本においては、実現性が怪しいと思っています。ですので、3.5%ルールを提唱したチェノウェス教授の『市民的抵抗』で示されている市民運動が現時点では、ひょっとしたら、選挙よりも可能性が高い政権交代手段であるように私は見ています。ただし、それほど、自信はありません。批判者によっては、自覚した非暴力の3.5%の市民的抵抗が政権交代につながるなんて、1997-98年のインドネシアとか、2010-12年のアラブの春、といった途上国や新興国レベルのお話で、民主主義の進んだ先進国である日本ではありえない、という見方もありますが、日本の民主主義はホントに欧米先進国並みか、という疑問はないのでしょうか?

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次に、山口未桜『白魔の檻』(東京創元社)を読みました。著者は、医師なのですが、前作『禁忌の子』が第34回鮎川哲也賞を受賞してミステリ作家としてデビューしています。本作品は、前作と同じ兵庫市民病院の城崎響介医師が謎解きをするミステリです。とはいうもの、主人公は春田芽衣です。前作の『禁忌の子』でも城崎と同じ病院に勤務する救急医の武田航が主人公でしたから、同じような構成といえます。その救急医の武田は第1章冒頭でチラリと登場します。春田は27歳の研修医なのですが、城崎といっしょにへき地医療協力で1か月北海道の更冠病院に派遣される、という舞台設定です。そこで、3人ほど死ぬわけです。第1に、春田が埼玉に住んで中学生のころまでやっていたバスケットボールのコーチだった病院事務職員の九条環が病院地下の浴室で倒れて、硫化水素中毒で亡くなっているのが発見されます。更冠病院に居合わせた更冠町長の村山幸蔵や病院長の八代大吾は事故であると主張しますが、城崎は殺人と見抜きます。第2に、病院長の八代が殺されます。首を切断されていますので、明らかに殺人です。第3に、更冠病院での分娩の際に娘と孫を亡くした老女の源佳代が拳銃でこめかみを撃ち抜かれて亡くなります。この3つの事故だか、事件だかを城崎が最終第6章冒頭で春田を相手に謎解きを繰り広げる、ということになります。しかも、更冠病院周辺で大きな地震があって外部と連絡が取れなくなった上に、土砂崩れや硫化水素ガスが溜まるなどにより病院が孤立してクローズド・サークルと化してしまいます。もちろん、ミステリですので詳細は読んでみてのお楽しみです。なのですが、謎解きそのものはかなり論理的で、少なくとも頭の回転の鈍い私には瑕疵はないように見受けられた一方で、ミステリとして、また、トリックとしては私の評価は決して高いものではありません。批判したくなるのは少なくとも3点あります。第1に、地震や硫化水素ガスなどの天然自然の外的かつ偶発的な要因が多すぎます。プロバビリティの犯罪というのもありますし、硫化水素ガスはそれなりに必要そうな気もしますが、ムリにクローズド・サークルにしているように感じてしまいました。第2に、医療行為があるのはいいのですが、医療用語が過剰に用いられています。医療関係だけではなく、説明が明らかに過剰です。ですので、読みにくく、かつ、原稿料目当ての文字数稼ぎか、との疑いまで引き起こしかねません。第3に、論理的な謎解きよりも、医療や過疎の問題などが前面に出過ぎで、それが殺人やほかの犯罪行為を免責しかねない読み方を許容するおそれすらあります。悪いやつなら殺してもいいのか、というのもありますし、私がもっとも不適切に感じたのは、主人公の春山の独白部分だと思うのですが、p.84で「人間はどうして、死に方を選べないんだろう。意思さえあやふやなまま横たわっている人たちが幸せだとは、どうしても思えない。」というくだりです。ちょうど10年前の2016年7月に起きた相模原市の津久井やまゆり園事件を思い出してしまいました。そして、作者の本職である医師をひたすら美化している部分も少なくありません。かつて、松本清張が社会派ミステリ作家として活躍していたのとは、この作者は大きく違うと感じるのは私だけなのでしょうか。最後の最後に、あくまでついでながら、病院が陥った客観的状況を患者に隠すというエリート・パニックな行動というのも、今どき現実的かどうか、という疑問もあります。

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次に、岡田晃『経済で読み解く昭和史』(PHP新書)を読みました。著者は、現在、大阪経済大学特別招聘教授なのですが、元来は日経新聞やテレビ東京のジャーナリストです。私は数年前に同じ出版社のPHP新書『徳川幕府の経済政策』を読んだことがあります。賄賂政治で評判の悪い田沼意次が老中をしていた時期の経済政策について、リフレ的な観点からの評価をしていたと記憶しています。本書はタイトル通りに、昭和の歴史を経済で振り返っています。ですから、昭和2年1927年の金融恐慌から始まった戦前期を第1章で、第2章は戦争中の歴史、第3章で終戦直後の戦後復興期、第4章が昭和の高度成長期、第4章でドルショックと石油ショックによる高度成長の終焉から安定成長への移行期、第5章でバブル経済を取り上げています。はい、バブル崩壊は平成に入ってからの出来事になります。私も大学の授業では戦後日本経済の歴史を軽く振り返ることをしています。ただ、本書のスコープとは少しズレがあり、さすがに授業では戦前戦中の経済は省いていますし、逆に、昭和末期のバブルで終わるのではなく、最近時点までの日本経済を追っています。本書では、戦前期に高橋蔵相によるリフレ政策で世界に先駆けて世界恐慌の影響から脱した点を高く評価しています。また、第2次大戦直前のブロック経済化による対立の深刻化なども、昨年以来の米国トランプ関税などと対比する形で、適切に取りまとめられている印象です。ただし、戦後経済の出発点となったGHQによる農地解放、財閥解体、労働民主化などはもう少していねいかつ詳細な歴史的な後付けが欲しかった気がします。これらは、戦後経済発展の基礎となった諸条件を生み出しています。その後の1970年代のドルショックや2度に渡る石油ショックについてはエピソード的によく取りまとめられています。私は、高度成長が1970年代に終わったのはこのドルショックや石油ショックが必ずしも原因ではない、とする学術論文「日本の実質経済成長率は、なぜ1970年代に屈折したのか」をもう20年余りも前に共著論文として書いているのですが、本書でも経済学的な因果関係というよりは、エピソードを幅広く取り上げている印象です。最後に、大昔、大学で日本経済論を講義するには、高度成長期の経験が必要といわれていたと聞き及んだことがあります。それほど大昔でなくても、バブル期の経験が必要、といわれた時期もありましたが、現在では、グッと時代を下がって、リーマン・ショックの時期の経験くらいはあった方がいい、というレベルまでトーンダウンしています。バブル経済期の実体験ある私なんぞもそろそろ退職時期に差しかかっており、昭和の時代の経済を振り返るのは実体験ではなくこういった教養書に頼ることになるのかもしれません。

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次に、稲田豊史『本を読めなくなった人たち』(中公新書ラクレ)を読みました。著者は、ライター・編集者だそうです。出版社は違いますが、私は前著の『映画を早送りで観る人たち』(光文社新書)を読んでいます。本書のレビューに入る前に、一応、読書に関する調査結果としては、最新データとして文部科学省文化庁国語課による「令和5年度 国語に関する世論調査」があり、「1か月に読む本の冊数」という問いに対して、「読まない」という回答が62.6%を占めています。調査対象は16歳以上の個人です。他方、学校図書館協議会による「第70回学校読書調査 (2025年)」でも似たような「5月1か月間の読書数」の問いがあり、ゼロという回答が高校生で55.7%に上ります。ですので、過半数の日本人は読書しないという事実は押さえておきべきと思います。また、単純に考えると、おそらく18歳以上の個人は18歳以下の高校生よりも読書をしない人の割合が高い、ということがうかがえようかと思います。ここまでは私が調べた範囲の読書に関する情報です。本書に入ると、まず、コスパやタイパの重視にしたがって長い文章を読まない人の割合が増加している現状が、統計ではなくいくつかのケーススタディめいた基準で直感的に確認されています。ただ、実利的な観点から、就活への利用のため日経電子版が意識の高い学生から支持されているという事実はある、との指摘もしています。しかし、本書で繰り返されているように、統計的に確認されていないとはいえ、大雑把な傾向として、テキスト媒体が時間がかかるメディアとして敬遠されているのも事実かと私は受け止めています。加えて、「楽だから」という理由で本ではなく映像メディアが支持されているという現実もあるのだろう、とも思います。また、本書で強調しているのは、本を読まないということは、本を読むことができるにもかかわらず読まない、というわけではなく、本を読むことができなくなっている、という意味でタイトル通りに、「本を読めなくなった」のだろうという点です。純文学のオープンエンドが許されず、大衆文学的なオチを必要とするとか、そういった背景もあるのは事実だろうと思います。ですから、その昔の「やればできる子」論は読書に関しては成り立たない、ということなのだろうと私は考えています。そして、本書のもうひとつ注目すべき指摘は、決して、スマホの影響で本を読まなくなったわけではない、ということです。すなわち、スマホの影響などなく、読書する子と、もともと読む能力のない子が決まっていて、その決定要因として親の本棚という文化資本を第2章では上げています。長い文章を読んで理解できるのはすべての人に備わっている能力ではなく特殊能力である、という主張です。ですので、表紙画像から受ける印象はミスリーディングであるといえます。ただ、本書のようなタイトルの本を買って読もうという年配の人を引きつけるにはいいのかもしれません。第3章以下では、ネット上の無料テキストの氾濫、本は富裕層向けの商品となりつつある現実、読者と消費者の違い、などの議論が展開されています。そのあたりは読んでみてのお楽しみです。いずれにせよ、義務教育と高校までの学校教育には大きな教育上の格差がないと仮定すれば、文章を読んで理解できる能力は、いくぶんなりとも、家庭における文化的環境に起因する可能性は否定できません。

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次に、坂爪真吾『モテない中年』(PHP新書)を読みました。著者は、社会起業家/合同会社ヨルミナ代表だそうです。これだけでは何のことだか判りませんが、これだけしか情報がありません。モテる/モテないについての本なのですが、第1章では、なぜ、モテる/モテないを重要と考えて踊らされるのか、を分析し、第2章では、日本の恋愛をめぐる150年史をひも解こうと試みています。ただ、第3章からは、突然、ケーススタディに移って、未婚ではなく結婚して離婚した男性に対するインタビューから、モテる/モテないだけではなく、性生活やインタビュー対象の男性の人生を考えることになってしまっています。はい、ハッキリいって、第3章以降ではモテる/モテないは余り関係ありません。結論として、年齢のせいでモテないという結果が示されていて、年齢はどうしようもなく、カネで解決するしかない、もっといえば、性欲を満たすのはカネを払う風俗である、という私の理解を超えた結論を導いているような気がします。その原因は、本書冒頭で「モテない」とは単に恋愛が苦手という意味ではなく、「恋愛や性に関する欲求をうまくマネジメントすることができず、日々モヤモヤとした不全感と孤独感を抱えながら生きている状態」と定義しているからだという気がします。いや、この定義は違うだろうと思いますが、せめて、離婚した中年代性ばかりではなく、未婚中年男性を対象にしたインタビューでもあれば、それなりの参考になった気もします。年齢が唯一のモテない原因という結論で、しかも、そのモテないことに対する解決方法はカネというのですから、いくぶんなりとも、経済学的な要素は含まれているような気がしますが、社会学や心理学といった学術的要素は微塵もありません。本書を離れて、年齢的な要因を考えると、本書ではまったく無視していますが、ウッダーソンの法則が中年男性がモテないひとつの原因となっている可能性を私は指摘しておきたいと思います。本書のインタビューでは明確ではありませんが、男女で恋愛対象となる年齢層が異なる可能性を指摘しているのがウッダーソンの法則です。すなわち、男性は年齢を経ても恋愛対象となる女性の年齢層がそれほど変化せず、20歳代前半を対象と考える傾向があるのに対して、女性はやや年上の男性を恋愛対象とするものの、自分の年齢とともに対象となる男性の年齢が上昇する傾向がある、さらに、30歳を越えるとやや年下の男性も対象となりやすい、という法則です。経験的に受け入れられているだけでなく、また、実証的にも米国のマッチングアプリの分析などから支持されています。ですので、この男女の恋愛対象と考える年齢がマッチする20代半ばの男性と20代前半の女性が、その昔は、結婚適齢期と考えられていたわけです。ただし、現在の日本ではほぼほぼ結婚適齢期という概念は崩壊しています。

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2026年4月11日 (土)

今週の読書は統計学の入門書のほか計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、堀雅博『読んでわかる推測統計学の考え方』(日本評論社)は、初学者向けの統計学の入門書であり、3部構成、第Ⅰ部記述統計編、第Ⅱ部確率編、第Ⅲ部推測統計編となっており、ていねいに数式を展開して直感的に理解できるように工夫されています。志位和夫『Q&A いま『資本論』がおもしろい』(新日本出版社)では、マルクス『資本論』第1部についての解説であり、マルクス主義経済学について専門外の私からは、剰余価値の生産や企業利潤との関係で、賃上げだけではなく労働時間の短縮もひとつの課題、との指摘が新鮮でした。北山猛邦『神の光』(東京創元社)は、すべて消失トリックを扱った5話の短編を収録しています。特に、表題作の短編「神の光」は、米国の砂漠にあったカジノが街ごと翌朝に消失する物理トリック、それも壮大な物理トリックであり、本書でもっともレベルの高い謎解きでした。犬丸幸平『最後の皇帝と謎解きを』(宝島社)では、1920年の北京紫禁城を舞台に、最後の清朝の皇帝であった愛新覚羅溥儀とともに、日本人絵師として雇われた一条剛が紫禁城の事件の謎解き、宦官=太監の1人が不審死をした謎、欠けていた龍の目が何者かによって描き入れられた謎、などの謎解きをします。遠藤正敬『戸籍の日本史』(インターナショナル新書)では、庚午年籍から始まる我が国戸籍の歴史を考え、戸籍の本質を「日本人であることの証明」とし、明治政府による壬申戸籍は、血統からひいては職業などを中世封建期に規定していた姓から、より実利的な家制度への転換と指摘しています。宮内悠介ほか『旅する小説』(講談社文庫)は、旅というよりもっと単純に、移動とか、あるいは、一定の文化圏を離れるという意味での越境による非日常まで含めた幅広い短編が収録されていて、単純な紀行小説ではなく、SFというか、ファンタジーな作品もいくつか収録されています。
今年2026年の新刊書読書は、1~3月に合わせて73冊、4月に入ってから先週の6冊と今週の6冊を加えて合計85冊となります。また、2023年の第27回日本ミステリー文学大賞新人賞に選ばれた斎堂琴湖『燃える氷華』(光文社)も読みましたが、新刊ではないので本日のレビューには含めていません。これらの読書感想文については、できる限り、FacebookやX(昔のtwitter)、あるいは、mixi、mixi2などのSNSでシェアしたいと予定しています。

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まず、堀雅博『読んでわかる推測統計学の考え方』(日本評論社)を読みました。著者は、東京経済大学経済学部の教授なのですが、ぶっちゃけ、私の役所の後輩です。ご著者が新入庁した当時の経済研究所の世界経済モデルグループの係長ポストに私がいました。ご寄贈いただきましたのでお礼のメールを送ると、「お時間を取って読んでいただけるような代物ではありません」との返信があり、要するに、初学者向けの統計学の入門書という位置づけです。3部構成であり、第Ⅰ部記述統計編、第Ⅱ部確率編、第Ⅲ部推測統計編となっており、ていねいに数式を展開して直感的に理解できるように工夫されています。大学に入学したばかりなどの初学者向けの入門書ですので、このレビューでも、本書を読んで勉強する初学者の読み方、というよりは、そういった初学者におすすめするポイントを中心に取り上げたいと思います。まず第1に、繰返しになりますが、統計学の入門書です。というのは、詳しくいえば、経済統計学の入門書ではない、ということであり、経済学部に限らず、幅広い大学1年生向けであるといえます。経済統計の大きな特徴のひとつは時系列データである、という点で、本書でも、横断面データ、時系列データ、パネルデータが第1章冒頭で取り上げられていて親切な作りになっています。ただ、第2に、かなり詳細に数式を展開しており、私自身はこういった形で議論を進めることが教育的、学習的に正しいと思っているのですが、少なくとも、我が立命館大学経済学部の新入生を見ていると不安を感じることも事実です。私は役所勤務のころは、東大数学科ご出身の同僚が何人かいましたので、そういった数学能力に秀でた人に数式の展開なんかを添削してもらった記憶があります。そういったサポートがなくなった長崎大学への出向時に書いた政府財政のサステイナビリティに関する論文の数式で、立命館大学の大学院生に誤りを指摘されたこともあります。それはともかく、私はこういった統計や計量経済学では数式を展開しつつ、直感的に理解させるのが重要だと考えています。その点で、本書ではサイコロのランダムな出目を取り上げているんですが、そのランダムな出目のサイコロでも数多くのサイコロを振れば正規分布に近づく、という直感的な中心極限定理の理解にも時折言及します。ただ、本書では数多くのサイコロの出目と中心極限定理はリンクさせていません。加えて、本書を離れますが、市場均衡の一意性に利用される不動点定理については、同じ地域を収録している縮尺の違う地図を重ねると、ただ1地点だけ重なる地点が存在する、というのは、とても直感的によく理解できた記憶があります。後者の不動点定理は統計学のスコープ外でしょうが、教える側からは重宝しています。最後に、統計学については社会人になってからの実務とも関連が深くなります。ですので、実務上で統計学、あるいは統計を用いる際に、こういった理論上の基礎があればとても助かると思います。本書では、統計作成上のランダムサンプリングについては「その方法自体でこの本よりも分厚い本が書けるくらいの大問題」(p.168)と流していますが、統計局で理論的基礎をどこまで教えているのかは知りませんが、実務的な研修では2-3時間でサラッと教えていたような気がします。

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次に、志位和夫『Q&A いま『資本論』がおもしろい』(新日本出版社)を読みました。著者は、奥付では日本共産党の中央委員会議長となっています。最近、委員長が交代したり、不破哲三さんが亡くなったりしていて、私はこの政党の人事はよく把握していません。本書は民生同盟のメンバーを対象にしたセミナーを収録しています。テーマはもちろんマルクスの『資本論』なのですが、その第1部だけを対象としています。広く知られている通り、『資本論』は第3部までありますが、マルクス自身が編集したのは第1部だけであり、第2部と第3部はエンゲルスの編集です。ですので、「エンゲルスの編集にして正しければ」といった限定、例えば、『資本論』第3部は3大階級で終わる、といった言及がなされたりすることもあると思います。それはともかく、私は学生のころに『資本論』を第3部まで読んだことは読んだのですが、マルクス主義経済学はまったくのシロートです。ですので、2点だけ着目したいと思います。まず、剰余価値の生産です。企業利潤の源泉、というか、企業利潤そのものです。その企業利潤との関係で、賃上げだけではなく労働時間の短縮もひとつの課題、との指摘は新鮮に感じました。ケインズの「わが孫たちの経済的可能性」で言及されている1日3時間労働や週15時間労働=Three-hour shifts or a fifteen-hour week に近い考え方だと感じるのは私だけではないと思います。第2に、社会変革のための客観的条件と主体的努力です。私は長らく政府で公務員として働いていて、もしも、その昔のソ連や中国であった社会主義革命なんてものが日本で起これば、ギロチンにかけられる確率も平均的日本人よりも高い可能性がある、と覚悟していますが、逆に、それだけに、労働者が武力蜂起して革命が起こって、プロレタリアート独裁なんてことにはならない、武力革命なんて微塵の可能性もない、ときわめて楽観的に考えています。しかし、『資本論』でいうところの生産力が拡大し、希少性がほぼすべての商品で低下し、あるいはゼロになれば、価格に応じて資源を配分する市場は無用の長物となり、「必要に応じて」という共産主義的な配分に移行する、あるいは別の表現で、革命がなくても、資源配分の場が市場でなくなる経済に移行する可能性はゼロではない、と考えています。革命が起こらないと、元公務員の私がギロチンにかけられることもないわけです。その場合、生産手段が国有・公有に移行しているかどうかは、資源配分の観点からはそれほど重要ではない可能性もあります。その意味で、私にはムリでしょうが、物理学のような経済学の大統一理論がそのうちに出来る可能性も否定できない、と私は考えています。まあ、とっても先の話かもしれません。最後に、同じ著者により同じ出版社から今年2026年1月に『自由な時間と『資本論』』と題する本が出版されています。私はこれも読みたいと希望しています。

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次に、北山猛邦『神の光』(東京創元社)を読みました。著者は、2002年『「クロック城」殺人事件』がメフィスト賞を受賞してデビューしたミステリ作家です。物理トリックと幻想的な世界観に定評があるということのようです。私はアンソロジーに収録された短編しか読んだことがなく、事実上、初読の作家さんでした。本書はすべて消失トリックを扱った5話の短編を収録しています。順に、「1941年のモーゼル」では独ソ戦のさなかにナチスに狙われた宝石部屋を擁する屋敷が丸ごと消失した昔話を主人公が聞きます。「神の光」では、ジイサンから聞いた話を孫がするのですが、米国の砂漠にあったカジノが街ごと翌朝に消失します。まさに作者が得意とする物理トリック、それも壮大な物理トリックであり、この本でもっともレベルの高い謎解きです。「未完成月光 Unfinished moonshine」では、ポオの未完の未発表原稿を手にした友人から相談された主人公が謎解きに挑戦します。その小説では、小屋から出てきた少女が突然死し、やがて小屋が消失します。「藤色の鶴」は、時代を将来までカバーするSFめいた雰囲気ある作品で、1055年の平安時代、1999年のほぼほぼ現代、2055年の将来の3時点で同じ家系の人物と見なせそうな人が消失します。合理的な謎解きではないと見なす読者もいるかもしれません。「シンクロニシティ・セレナーデ」は夢の中で館が消失するというもので、途中まではファンタジーかと思わせますが、何とか近代物理学に反しない謎解きがなされます。ということで、著者は物理トリックとともに幻想的な世界観に定評があると最初に紹介しましたが、その2点がグラデーションになって5話の作品に現れている気がします。物理学と幻想的文学とは、ちょっと見で相反するような気がしますし、読者によっては作品の好き嫌いが分かれる可能性もあります。ただ、私の感想としては、2番目に収録されている表題作の「神の光」のトリックがもっとも壮大で、謎解きとしても最後のオチとしても出来がいいように感じました。ただ、多くの収録短編が、いわゆる安楽椅子探偵が謎解きを行っており、ホントに正しい謎解きなのかどうかを確認するすべがありません。その意味で、読者によっては、納得感が得られない場合もありそうな気がします。

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次に、犬丸幸平『最後の皇帝と謎解きを』(宝島社)を読みました。著者は、第24回『このミステリーがすごい!』大賞を受賞した本作品でデビューしています。ただ、現在はパキスタンで絨毯の買付けなどをしている、と紹介されています。タイトルから容易に想像できる通り、舞台は中国の首都である北京、時代は1911年の辛亥革命からそれほど時を経過していない中華民国初期の1920年です。まだ、最後の清朝の皇帝であった愛新覚羅溥儀が廃帝としてながら紫禁城に住んでいます。当時、15歳です。本作品でも名前だけ登場するジョンストンが家庭教師として溥儀を教育しています。私は一応ジョンストンの『紫禁城の黄昏』も読んでいたりします。この作品では、日本人絵師の一条剛が主人公で、溥儀の水墨画の師として雇われるところから始まります。しかし、実際は、溥儀に水墨画を教えるわけではなく、紫禁城内に眠る水墨画を贋作にすり替えて真作を秘密裏に売り払ってしまい、清朝復興や溥儀の皇帝への復辟の資金調達とする目的がありました。このあたりまでは、出版社のサイトにもありますから、ネタバレではないと思います。そして、本書は4章構成であり、章の間に溥儀の日記が挟まれています。登場人物は、主人公の一条剛と皇帝の溥儀のほか、大部分が宮殿に仕える宦官=太監であり、同時期に宮殿入りした太監は排行といって、同じ字を持つ習慣があり、私のような頭の回転が鈍い読者は名前と地名が大混乱を来たしました。まあ、それはともかく、ストーリーの進行に従って、殺人を含む事件が起こり、謎解きがなされるわけです。第1章では宦官=太監の1人が不審死をし、第2章では「画龍点晴を欠く」龍の目が何者かによって描き入れられ、第3章ではひとりの宦官=太監がある時期を境に感情をなくした原因を究明し、第4章では新たに贋作作成に加わった若い宦官=太監の1人が殺害され、一条剛の正体が明らかになります。まあ、どうでもいいことかもしれませんが、巻末に作者の参考文献と選考委員の選評が収録されています。日本では、中国や朝鮮のような制度化された宦官はいなかった、というのが通説だと私は聞き及んでいますし、馴染みのない制度であることはその通りだろうと思います。そして、おそらく、清朝末期の印象から宦官の専横ぶりが私の印象にあるのですが、この作品では極貧家庭から宦官になるというルートが明示されていて、その部分などはエモいところがあります。また、時折、溥儀が「ジョンストンにきいてみよう」と発言する時があり、本書の主人公との位置づけの差もうかがい知ることが出来ます。最後に第4章で主人公の正体が明らかになった時、私は大いに驚かされたのですが、ストーリーとしては大きな変化を迎えるわけでもなく淡々と結末を迎えます。驚かされた割には、何だったんだ、という気がしました。まあ、私だけかもしれません。

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次に、遠藤正敬『戸籍の日本史』(インターナショナル新書)を読みました。著者は、政治学者で法律のプロではないようです。本書冒頭ではご自分のことを「さすらいの非常勤講師」と称しています。本書は、法制度も含めて、戸籍の歴史について概観しています。ですから、7世紀の庚午年籍や庚寅年籍から始まりますが、もちろん、中心は明治政府が編製を開始した壬申戸籍以降の近代的な戸籍制度になります。まず、本書では戸籍の本質について「日本人であることの証明」としています(p.20)。ですから、琉球や北海道のアイヌなどの戸籍作成に始まって、台湾や南樺太、さらには朝鮮半島などの植民地における戸籍についても広範に取り上げています。私はそのあたりはそれほど興味なかったので、自分の興味範囲で、まず、明治政府の壬申戸籍は、血統からひいては職業などを中世封建期に規定していた姓から、実利的な家制度への転換であると指摘しています。ですので、儒教的な倫理よりは、家制度という実利を守るのが主眼とも指摘しています。続いて、壬申戸籍までの日本の戸籍は夫婦別姓が伝統的であった、とも明らかにしています。ただ、明治期までは武士階級しか姓がなかったので、実例としては、源頼朝と北条政子、足利義政と日野富子を上げています。そして、明治政府の壬申戸籍では、まず、日本人の証明としては、血統主義ではなく、当初は居住地主義に基づき、日本に居住する華族、士族、神官、僧侶、平民などを「臣民一般」として登録した、ということのようです。ですから、皇族は戸籍には登録されておらず、戸籍を持たない、というのは現在まで続いています。血統主義ではありませんから、例えば、ロシアがウクライナ侵略の口実として用いた「ウクライナに居住するロシア系住民の保護」というのは、成り立たないわけです。この点は重要かと思います。さらに後半では、第9章では戸籍が差別の温床となった事実、第12章では第3国人説の誤り、などの差別や偏見についても、戸籍との関係で取り上げていますが、マンガ「サザエさん」に登場する磯野家の戸籍などの小ネタとともに、そのあたりは読んでみてのお楽しみとしておきます。

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次に、宮内悠介ほか『旅する小説』(講談社文庫)を読みました。著者は、6人の小説家であり、旅をテーマとする6話の短編が収録されています。ごく簡単にあらすじを追うと、まず、宮内悠介「国境の子」では、韓国人を父に、日本人を母に持ちながら、父なし子として、生まれた対馬で育てられた主人公が、韓国に帰国した父を訪ねます。藤井太洋「月の高さ」では、劇団の舞台美術スタッフが自動車に乗って、東京から講演先の弘前まで舞台装置を運びます。オリオン座などの星座について、ちょっとだけSFっぽい味付けがされています。小川哲「ちょっとした奇跡」は、完全なSFであり、宇宙から飛んできた偽月=ファイクムーンが地球の重力圏でとどまって地球の自転が止まり、昼と夜を行き来する2隻の宇宙船で、男女比を調整するために一部のクルーが宇宙船間で移動します。深緑野分「水星号は移動する」では、アテナイ市の高額な宿泊税を逃れる目的で、小説の舞台である宿・水星は移動式の宿泊施設となっています。そこでの人の交流、特に、スペースシャトルを目的としてやって来た旅人の交流を描いています。森晶麿「グレーテルの帰還」では、武漢で発見された新型ウィルスのニュースから始まり、家族旅行と称して小学生と中学生の兄妹が祖母の家に置き去りにされます。石川宗生「シャカシャカ」では、タイムスリップならぬスペーススリップが生じ、一定面積の地表が突然シャッフルを始め、アチコチの場所にランダムに飛ばされます。飛ばされた先では食料調達すら苦労する場合もあります。ということで、それぞれの短編が旅をテーマにしつつも、旅というよりももっと単純に、移動とか、あるいは、一定の文化圏を離れるという意味での越境による非日常まで含めた幅広い短編が収録されています。単純に、旅行に行くという紀行小説ではありません。SFというか、ファンタジーな作品もいくつか収録されています。収録作品の中では、小川哲「ちょっとした奇跡」を私は推します。何ともいえない世界観です。膨らませて長編SF小説にすることができそうな気がします。そうなれば、私はもう一度読みたいと思います。

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2026年4月 4日 (土)

今週の読書は経済書なしで計6冊

今週の読書感想文は以下の通りです。
まず、藤原辰史『食権力の現代史』(人文書院)では、飢餓を戦争の武器にしている食権力について、20世紀冒頭くらいからの歴史をひも解こうと試みています。日本はエネルギーとともに食料自給率がきわめて低く、飢餓を避けるため戦争をすべきではない、と私は強く感じます。我孫子武丸ほか『●●にいたる病』(講談社)は、我孫子武丸デビュー35周年を記念し6人のミステリ作家・ホラー作家が『殺戮にいたる病』にちなんだタイトルの短編を寄せているアンソロジーです。グロい作品やエモい作品から構成されており、なかなかオススメです。中島美鈴『なぜあの人は時間を守れないのか』(PHP新書)では、時間にルーズな人にイライラする周囲の人や時間管理に悩む当事者に向けて、時間を守れない背後にある問題を突き止め、どのように対処すればいいのか、また、時間にルーズな人の行動を治すことができるのか、などを考えています。M.W. クレイヴン『デスチェアの殺人』上下(ハヤカワ・ミステリ文庫)は、ワシントン・ポーのシリーズ第6作であり、同性愛や避妊を否定するキリスト教右派的なカルト教団のカリスマ指導者が、聖書の刑罰を模した奇妙な殺害方法、木に縛りつけられ石を打ちつけられて殺害されます。藤崎翔『オリエンド鈍行殺人事件』(ハーパーBOOKS+)では、オリエンド鈍行と呼ばれるローカル線で土砂崩れによって緊急停止した際、2両編成最後尾に座っていた男のシャツの胸が真っ赤な血で染まっており、何者かによって殺害されているのが発見される、という表題作などを収録しています。
今年2026年の新刊書読書は、1~3月に合わせて73冊、4月に入ってから今週の6冊を加えて合計79冊となります。これらの読書感想文については、できる限り、FacebookやX(昔のtwitter)、あるいは、mixi、mixi2などのSNSでシェアしたいと予定しています。

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まず、藤原辰史『食権力の現代史』(人文書院)を読みました。著者は、京都大学人文科学研究所の教授であり、ご専門は農と食の現代史だそうです。なお、タイトルにある「食権力」は著者の造語であると、何かで読んだ記憶があります。意味は、何らかに方法により意図的に食料の供給をコントロールし、飢餓を戦争の武器にしている、という意味だと思います。本書における食権力=food powerの正確な定義はp.28で与えられています。「食糧や食料生産に必須のものを一局に集中し、それらを根拠に人間や自然を統治したり、管理したりする諸力の束」ということになります。はい、明らかに、イスラエルがガザで行っている行為であると考えるべきです。そして、本書では、そういった食権力を戦争で行使することは国連決議2417号違反であると指摘しています。ただし、これも本書で指摘されているように、飢餓という状態は意図的に引き起こされたものであるか、それとも、自然現象として発生したものであるかの境界が曖昧ですので、戦争当事国やグループのパワー次第では、国連決議違反であるかどうかの判断も難しくなります。本書はタイトル通りに、その食権力の現代史ですので、大雑把に20世紀以降現在までの歴史をひも解こうと試みています。その中で、いわゆる穀物メジャーの成立、ユダヤ人などに対するナチスの飢餓政策、あるいは、ベトナム戦争における米国の枯葉剤の使用、などが取り上げられています。詳細は読んでいただくしかありませんが、私の方から3点だけ指摘しておきたいと思います。第1に、日本は食料自給率がきわめて低い国だという点は忘れるべきではありません。カロリーベースで40%を下回っています。先進国の中でも突出して食料自給率が低いのは明らかです。ですので、第2に、日本は戦争をしてはならないのは明らかです。食料とともにエネルギーの自給もほぼ出来ないわけですので、戦争をすれば多くの国民が苦しめられ、死ぬ場合も少なくないと考えるべきです。第3に、私は大学の授業なんかで学生諸君などに、個人として解決すべきレベルの問題と政府、地方政府あるいは中央政府のレベルで解決すべき問題を考えるべき、とお話しており、この食料の問題はエネルギーとともに政府で解決すべき問題と私は考えています。このところ、コメの価格が大きく上昇していますが、国民とほぼほぼ一致する消費者のレベルで節約や代替品の探求などの解決には限界があります。食料問題を考える際に政府の役割も同時に考えるべきです。

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次に、我孫子武丸ほか『●●にいたる病』(講談社)を読みました。著者が6人いるアンソロジーなのですが、一応、我孫子武丸デビュー35周年記念アンソロジー、という中途半端な周年企画のようです。ですので、我孫子武丸の代表作のひとつ『殺戮にいたる病』にヒントを得たタイトルとなっており、収録されている6短編のうち、最後のものを除いて「xxにいたる病」というタイトルがついています。その収録短編の作者とタイトル、あらすじは以下の通りです。まず、我孫子武丸「切断にいたる病」は、はい、グロテスクな猟奇殺人事件です。殺されたのは、AV俳優からAV制作会社の社長になった男性で、切断された体の部位は、多くの読者の想像通りです。神永学「欲動にいたる病」は、ある意味でエモいです。主人公の中西は現場に駆けつけた警察官なのですが、目の前でたった今行われたであろう殺人現場を見て、美しいと思ってしまいます。血まみれの中学生が同年代の少年を滅多刺しにし、ポニーテールの少女が、その刺された少年を、自身も血まみれになって抱きしめていました。姿背筋「怪談にいたる病」は、当然にホラーです。幽霊が見えるという35歳の女性は、なぜその幽霊が見えるようになったのか、その経緯を語り始めます。彼女は大学の映画研究部に所属して知り合った男性と結婚し、出来た子供の絵がきっかけでした。真梨幸子「コンコルドにいたる病」は、叙述トリックのミステリーをテーマにしています。売れない作家がせっかく書いた原稿を、編集者によって何度もボツにされて書き直しを要求されます。矢樹純「拡散にいたる病」もややホラーです。深夜ラジオ番組の構成作家が主人公で、ラジオで取り上げた投稿に関してのクレームが女性からあり、投稿の怪談話が女性の父親が以前に書いた小説の内容と酷似していて、和解の条件として、女性が父親と住む青森の自宅まで謝罪に来ることを要求されます。歌野晶午「しあわせにいたらぬ病」は、タイトルは外していますが、ミステリというよりホラーとして私は読みました。すなわち、介護施設に勤める女性の主人公が、休みに勤務している施設から介護先に様子見に行くよういわれて赴くと、そこにはには女性2人の遺体がありました。最後に、下敷きにされている我孫子武丸の代表作のひとつ『殺戮にいたる病』は、確かに倒叙ミステリであり、グロテスクでもありますので、その意味では、ご本人である我孫子武丸作品と真梨幸子作品がテーマに沿っているといえます。ただ、神永学作品や歌野晶午作品もミステリというよりホラーとしていい出来に仕上がっており、本家作品を超えるかといわれればビミョーですが、アンソロジーとしてなかなかオススメです。

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次に、中島美鈴『なぜあの人は時間を守れないのか』(PHP新書)を読みました。著者は、公認心理師、臨床心理士であり、心理学で博士号を取得しています。本書では、時間にルーズな人にイライラする周囲の人や時間管理に悩む当事者に向けて、時間を守れない背後にある問題を突き止め、どのように対処すればいいのか、また、時間にルーズな人の行動を治すことができるのか、さらに、時間にルーズな人に対してどのように接すればよいのか、を考えようと試みています。ですから、時間にルーズな人を対象にして、いかに時間管理をキチンとできるようにするか、というハウツー本ではありません。まず、冒頭第1章 pp.16-17 において、ADHDのほかに5つの要因を上げています。その上で、性格的なだらしなさに起因するものではなく、また、「しない」だけで「できないわけではない」とする好意的な受止めを否定して、出来ないのだから直さなければならない、あるいは、治さなければならない、と主張します。はい、私も実は時間にルーズですので、かなりの部分同意します。そして、第2章以下で主としてADHDの問題として議論を展開しています。詳細は読んでいただくしかないのですが、第2章では時間心理学の視点から、時間感覚の違いについて考え、第3章では実行機能の視点から「動けない」理由について探り、第4章では時間管理を阻む考え方や行動パターンについて分析し、最後の第5章では上司や管理職が部下に対してどのように時間管理を指導すべきかについて解説しています。繰返しになりますが、私のような時間にルーズな人間に対して時間管理ができるようになるハウツー本ではありません。時間にルーズな人間は時間管理ができない、というか、時間管理を任せてもダメ、期待すべきではない、という結論のようです。私自身について考えると、もともとがバブル期なんかに時間にルーズな生活を送っていたところに、バブルが終わって在チリ大使館に赴任して、時間に鷹揚なラテン世界に飛び込んだところで、時間に対するルーズさに磨きがかかった可能性があります。ただ、私は、時間にルーズとはいえ、大学の授業にそれほど大きく遅れることもありませんし、大きな迷惑はかけていないと自負しています。まあ、本書の著者にいわせれば、それがダメなんだ、ということになるかもしれません。ただ、時間管理を厳格にしすぎるのも私は考えものだと思っています。座席指定のチケットを買ってある新幹線の発車30分前に駅に着くのはやりすぎです。ギリギリ間に合えばいいというのが私の基本的な考えです。ですから、ギリギリ間に合わない場合が生じたりするわけです。まあ、もうすぐ隠居する身ですので、それほど深刻には考えていません。繰返しになりますが、だからダメなんだといわれそうな気はします。

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次に、M.W. クレイヴン『デスチェアの殺人』上下(ハヤカワ・ミステリ文庫)を読みました。著者は、英国カンブリア州在住のミステリ作家であり、本書は2018年に発表し英国推理作家協会賞最優秀長篇賞ゴールド・ダガーを受賞した『ストーンサークルの殺人』から始まるワシントン・ポーのシリーズ第6作です。私は全部発表順で読んでいます。全部読んでいますが、細かな点は忘れているのではないかと思います。それはともかく、本書の英語の原題は The Mercy Chair であり、2024年の出版です。下巻の解説にありますが、新刊が出るたびにシリーズ最高傑作を更新し続けているシリーズだそうです。確かに、シリーズすべてを読んでいるミステリファンとして、どんどん複雑怪奇になって、現実離れした作品になっているのはよく理解できます。同時に、それを最高傑作と呼ぶのも理解できます。エンタメ作品として現実にはありえないような小説を読むのが、私自身も楽しみですから、そのあたりはまさに小説を読む醍醐味です。ということで、前置きが長くなりましたが、本書ではカルト教団<ヨブの子どもたち>が疑惑の中心となります。まず、殺害されるのは、そのカルト教団の創設者であり、カリスマ指導者であった人物なのですが、いかにも、というカンジで、木に縛りつけられて状態で石を打ちつけられて殺害されています。聖書の刑罰を模した奇妙な殺害方法なわけです。そのカルト教団の教義は、キリスト教右派的なもので、同性愛や避妊を否定し、キリストはテニス選手だったボルグのような西欧系の金髪碧眼でありユダヤ人ではない、などなどです。そして、2種類の新たな味付けがなされています。まず、冒頭から、一連の殺人事件に関わってポーがトラウマになり、トラウマ療法士のカウンセリングを受けて、その事件を回顧する形でストーリーが進みます。もうひとつは、会計検査といいつつ、実は、MI5のスパイが捜査に常に同行します。そして、徐々に真相が明らかにされるとともに、最後には驚くべきどんでん返しも待っています。加えて、殺人事件が解決されるだけではなく、ポーにも別れが待っているようです。書店で立ち読みできるレベルのネタバレで、下巻背表紙の最後のセンテンスは「さらば、ワシントン・ポー」で終わっています。はい、後は読んでみてのお楽しみです。さらに、最後の解説ではシリーズ第7作 The Final Vow もすでに刊行されている旨が明らかにされています。最後の最後に、私自身のメモ代わりに4点上げておきます。具体的なページはロストしましたが、少なくとも1箇所でカルト教団の名称が<ヨブの子どもたち>でなく、<ユダの子どもたち>とミスっていました。英語の原文のミスか、邦訳のミスか、はたまた、著者による意図的なものか、気になるところです。第2に、私が授業で使ったことのあるラテン語 "post hoc ergo propter hoc" に言及されています。「前後即因果の誤謬」と正しく邦訳されています。何の意味かはweb検索をオススメします。第3に、第7作は The Final Vow なるタイトルだと聞き及びましたが、ドイルのホームズ・シリーズは His Final Vow です。何か関係があるのだろうと、ほのかに感じます。最後の第4に、ポーの相棒のブラッドショー分析官の役割は、かなりの程度にAIで代替できそうな気がします。この先、AIの進歩とともにどのような役割がブラッドショー分析官に付与されるのか、とても気になります。

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次に、藤崎翔『オリエンド鈍行殺人事件』(ハーパーBOOKS+)を読みました。著者は、元・芸人にして、現在は人気作家といえます。私は少し前からこの作者は、そのうちに直木賞を受賞するだろうと予想しています。本書は、特につながりのない短編集であり、短編5話とショートショート5話、合わせて10話を収録しています。収録順にタイトルだけ上げておくと、短編「タイムスリップ・リアリティ」、ショートショート「過保護」、短編「勇者たちのオフ」、ショートショート「猫じゃらしとマイクロチップ、短編「君のためなら死ねる」、ショートショート「流れ星」、短編「ファーブル昆虫記を読んで」、ショートショート「こっくりさん」、短編「オリエンド鈍行殺人事件」、ショートショート「崖」、となります。すべてのあらすじはパスすることにして、まず、冒頭の短編「タイムスリップ・リアリティ」では、主人公の男性が30歳の大人に成長した状態で、高校入学時の15歳の過去にタイムスリップするというストーリーです。そうすると、仲が良かったと思っていた友人がひどく嫌なヤツに見え、逆に、根暗で無視していた同級生と仲良くなってしまい、もちろん、主人公も新たに仲良くなった友人も、大いに人生が変わってしまいます。短編「勇者たちのオフ」では、RPGゲームの中の登場キャラが、ゲームがオフにされた瞬間から独自の動きをしはじめ、ゲームの中とまったく違った世界が広がります。この2編の短編は今までになかった世界観だという気がします。まあ、私が知らなかっただけかもしれませんが、たぶん、ありえない設定だと思います。短編「君のためなら死ねる」は超キモかったです。アイドルの推しの最悪のケースではないでしょうか。ショートショート「流れ星」は、本書の中でおそらくもっとも短いながら、私が本書の中でもっとも高く評価する作品です。流れ星に平和の願いを込めたにもかからわず、現実はまったく違った、という結末で、短い、というよりも、わずかに4行3パラで超短いながら、ちゃんとオチもあります。表題作の短編「オリエンド鈍行殺人事件」はもっともボリュームがあります。遠藤駅と折田駅を結ぶローカル線は各駅停車しかないところからオリエンド鈍行と呼ばれており、9月のある日、土砂崩れによって緊急停止した際、2両編成最後尾に座っていた男のシャツの胸が真っ赤な血で染まっており、何者かによって殺害されているのが発見されます。居合わせた乗客は犯人探しを開始するのですが、名探偵の運転手も不在の車内で犯人が見つかるはずもなく、なぜか事件と無関係な問題ばかり解決されてゆき、最後に、別の殺人事件も解決されてしまいます。いや、実に見事な小説でした。相変わらず、この作者の作品は私は高く評価しており、繰返しになりますが、ゆくゆくは直木賞を受賞することと想像しています。この著者の新刊の中では、図書館の予約で『お梅は魔法少女ごと呪いたい』を待っているところです。

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